2019年2月28日木曜日

【読書感想文】宇宙時代なのにテープで録音 / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやりかた』

たったひとつの冴えたやりかた

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア (著)
浅倉 久志 (訳)

内容(e-honより)
やった!これでようやく宇宙に行ける!16歳の誕生日に両親からプレゼントされた小型スペースクーペを改造し、連邦基地のチェックもすり抜けて、そばかす娘コーティーはあこがれの星空へ飛びたった。だが冷凍睡眠から覚めた彼女を、意外な驚きが待っていた。頭の中に、イーアというエイリアンが住みついてしまったのだ!ふたりは意気投合して〈失われた植民地〉探険にのりだすが、この脳寄生体には恐ろしい秘密があった…。元気少女の愛と勇気と友情をえがいて読者をさわやかな感動にいざなう表題作ほか、星のきらめく大宇宙にくり広げられる壮大なドラマ全3篇を結集!

ほんとにしゃれたタイトルだね(原題は『The Only Neat Thing to Do』)。翻訳SFってかっちょいいタイトル多いよねえ。
『夏への扉』『世界の中心で愛を叫んだけもの』『星を継ぐもの』『あなたの人生の物語』とか。
その流れを受けているんだろう、星新一のショートショート集もしゃれたタイトルがついていた。『だれかさんの悪夢』『ちぐはぐな部品』『おのぞみの結末』『ありふれた手法』とか。スマートだよなあ。



『たったひとつの冴えたやりかた』

両親に内緒で宇宙探検に出かけた少女。だが、あることをきっかけに脳内にエイリアンに寄生されてしまう。とはいえそのエイリアンはとっても紳士的・友好的で、害をなすどころか体内の掃除までしてくれる。すっかり友だちになった少女とエイリアンだが思わぬ罠が……。

少年冒険小説のような明るい導入から、意外性のある展開、徐々に迫る不気味な予感、そしてさわやかな悲哀が漂うラスト……とめまぐるしくテイストが変わる小説。
うん、おもしろい。
ところどころに挟まれる「たったひとつの冴えたやりかた」という台詞が、最後の最後で重い意味を持つ。




『グッドナイト、スイートハーツ』

凶悪な敵に襲われた宇宙船を助けに向かった男。そこで出会ったのは、数十年前に別れた恋人(冷凍睡眠や美容手術のおかげで互いに老けていない)、さらに賊の人質になっていたのはかつての恋人のクローンだった……。

うーん……。
「宇宙が舞台なのにめちゃくちゃ世間せまいな!」という感想しか出てこない。
宇宙の果てで数十年前の知り合いとばったり。さらに知り合いが数十年前につくったクローンともばったり。
正月に田舎町に帰省したときぐらいの頻度で知り合いに出会うスペース・オペラ。



『衝突』

異星人とのコンタクトを、「万能翻訳機」みたいなものに頼らずに、基礎的な言語だけでおこなうもどかしさを描いていたのはおもしろかった。テッド・チャン『あなたの人生の物語』を思いだした。あちらのほうがずっと説得力があったが。



三篇すべてに言えることなんだけど、え? それだけ? という感じで終わってしまう。もうひと展開あるだろうな、と思って読んでいたら何もなし。

三十年以上前の小説だからしょうがないんだけど。
少年少女向けかも。まっすぐに前を向けなくなったおっさんにはちょっと単調すぎたよ。


小説の味わいとはあんまり関係ないけど、宇宙を縦横無尽に飛びまわる世の中が舞台なのに、録音をするときにテープを使っているのがおもしろい。長時間の録音をするときはテープ入れ替えたりしてんの。はっはっは。ダセぇ。
宇宙飛行とか冷凍睡眠とかエイリアンとのコンタクトとかに関しては自由自在に想像して書いているのに、録音はテープ。カセットテープしかなかった時代には、音をデータのまま保存しておくというのは想像できなかったんだろうなあ。

人間の想像力には制限がないようで、やっぱり制限がかかってしまうということがわかるおもしろい事例でした。

2019年2月27日水曜日

【読書感想文】話しかけてくるなり / 俵 万智『生まれてバンザイ』

生まれてバンザイ

俵 万智

内容(e-honより)
俵万智さんが、赤ちゃんを生んで、唄った母の歌。
妊娠中、出産後、子育ての間に詠んだ短歌を集めたオムニバス。

俵万智さんは好きなので『プーさんの鼻』は読んだことがあったはずだが、当時は子どもがいなかったのであまりぴんとこなかった。
五歳と〇歳の二児の父となった今では、同じ短歌を読んでもやはりいろいろ感じるものがあっておもしろい。
朝も昼も
夜も歌えり
子守歌
なべて眠れと
訴える歌
子どもが生まれる前は、子守歌ってほのぼのした優しい気持ちでうたう歌だとおもっていた。
でもじっさいはそうじゃない。
頼むから寝てくれ。おい早く寝ろよ。切迫した懇願であり脅迫であり祈りである。
子守歌をうたっている時間は、こちらの睡眠が削られている時間。戦いの時間なのだ。

ついてってやれるのは
その入り口まで
あとは一人でおやすみ
坊や
子どものとき、怖い夢を見るたびに母親のところに行っていた。「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてくれた。

今、娘が「こわいゆめをみた」とぼくをおこしにくる。眠いのに起こすなよ、と思う。めんどくせえな、と思う。でも「そうか、こわかったの。もうだいじょうぶだよ」となぐさめてあげる。

そうか。母親もこんな気持ちだったのか。

記憶には残らぬ今日を
生きている
子にふくませる
一匙の粥
子どもにいろんなことをしてあげながら、「どうせこいつはおぼえてないんだろうな」と思う。
〇歳児はとうぜんだし、五歳児だって今ぼくと遊んだことや行った場所をほとんどぜんぶ忘れてしまうかもしれない。
子どもを持つ前のぼくなら、だったら意味ないじゃんと思っていたかもしれない。でも今はそうは思わない。
ぜんぶ忘れられたっていいさ。だってこっちはずっとおぼえてるからな!

みどりごと散歩をすれば
人が
木が
光が
話しかけてくるなり
子どもと歩いていると、それまで気づかなかったことに気づく。
タンポポが咲いていることや、街路樹に鳥が巣をつくっていることや、小さい段差があること。
ひとりで歩いているときは目に入ってもまったく意識をしない。だけど、子どもに世界を教えるつもりで歩いていると、タンポポが鮮明に意識される。まるで自分も生まれてはじめてタンポポを見たかのように。

それを「話しかけてくるなり」と表現するのはさすが。



赤ちゃんの歌を集めたオムニバスのはずなのに、なぜか後半には恋の歌が集められている。しかも初期の『サラダ記念日』や『チョコレート革命』などから。
子どもとの関わりを詠んだ歌の後に「恋の歌」を読むと、ずいぶんうすっぺらく感じてしまう。
いやべつに子育てのほうが恋愛より崇高だとかいうつもりはないんだけど、やっぱり同じスタンスでは味わえないよね。なんでこれ収録したんだ。じゃまでしかない。

収録されている短歌は子どもが三歳ぐらいまでの歌ばかりなので、「恋の歌」を入れるぐらいなら幼児~少年期の歌ももっと入れてほしかった。

後半さえなければいい本だったのになあ。

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【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』



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2019年2月26日火曜日

不公平な姉弟


ぼくの姉には子どもがふたりいる。
八歳の姉と四歳の弟。きょうだいでありながら性格はぜんぜんちがう。一言でいうと、お姉ちゃんは神経質、弟はおおらか。

お姉ちゃんは弟に厳しい。自分と同じものを求める。
大人からすると八歳と四歳なんてまったく違うのだから、何をするにも弟はできなくて当然。だけどお姉ちゃんはそれが許せない。
「なんでわたしはできないと怒られるのに弟は許されるのよ!」という不満を抱えて生きている(ように見える)。

こないだその姉弟とすごろくをした。
やはりお姉ちゃんは弟に厳しい。
「待ってるんだから早くサイコロ振って!」「4が出たんだからそこじゃないでしょ!」と弟を叱責する。
さらに間の悪いことに、弟はいい目が出てお姉ちゃんは悪いマスにばかり止まる。
弟はトップ、お姉ちゃんはビリ。すごろくは運ですべてが決まるのでこればっかりはどうしようもない。

お姉ちゃん、だんだんイライラしてきて、露骨に弟に当たりちらしはじめた。
サイコロを弟に投げつけるように渡したり、弟のコマをわざと倒したり。
しかし弟のほうは、姉が自分に向けてくる悪意にまるで気づかない様子で、いつもと同じようににこにこしながら「やったー、6だー!」と喜んだり「お姉ちゃんがんばれー!」と応援したり(しかしそれがお姉ちゃんには煽っているように感じるのだが)。

もしこれが、悪意に気づきながら華麗にスルーしているのだとしたら相当な大物だ。


さてさて。
当然ながらその場にいる大人は、弟に気を遣う。
お姉ちゃんに「もっと優しくサイコロを渡しなよ」と注意をし、弟に「ゆっくりでいいからね」と声をかける。親も、おじいちゃんおばあちゃんも、叔父(ぼく)も、弟に気づかう。
その結果、お姉ちゃんはますます不機嫌になる。
きっとお姉ちゃんからしたら「弟がやるべきことをできてないから注意してやってんのに、周りの大人は弟ばかり甘やかす」というふうに映っているのだろう。

弟に厳しく当たる → 周囲の大人が弟に優しくする → ますますイライラして弟に厳しく接する

というスパイラルだ。
しかしお姉ちゃんは、自分の行動が「弟甘やかされすぎ」現象を生んでいるとも知らず、今日も弟に冷たくあたる。
つくづく損な性格してるなーと傍から見ていて思う。



子どもは、不公平であることに異常に敏感だ。
いつも周りと見比べて、自分が享受すべき利益が他人に渡っていないかを厳しくチェックしている。
「よそはよそ、うちはうち!」
と言われずに育った子どもはまずいないだろう。

世の中は不公平なものだが、それを認めるには時間がかかる。
世界は不公平だと学ばぬまま大人になってしまっている人も多い。
「おれをスピード違反で捕まえるんだったら他のやつも捕まえなきゃだめだろ!」
「私は努力してるのになんで大した努力もしてないあいつがいい目にあってるのよ!」
と考えてしまうタイプは一生幸せになれない。
完全に公平であってほしいという気持ちを満たそうと思うなら、誰もが不幸な国に行くしかないのだから。

かわいい姪にはそんな不幸な大人になってほしくないと思うので、
「弟に優しいお姉ちゃんって思われたら、みんなが優しくしてくれるよ」
と言ってみたのだが、はたしてどこまで伝わっているのやら。

2019年2月25日月曜日

【読書感想文】貧乏クジを引かされたのは読者だよ / 香山 リカ『貧乏クジ世代』

貧乏クジ世代

この時代に生まれて損をした!?

香山 リカ

内容(e-honより)
その数、なんと一九〇〇万人!「第二次ベビーブーマー」「団塊ジュニア」と称される一群を含む70年代生まれ。いま二十代後半から三十代前半の彼らは、ひそかに「貧乏クジ世代」とも揶揄される。物心ついたらバブル景気でお祭り騒ぎ。「私も頑張れば幸せになれる」と熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたが、世は平成不況で就職氷河期。内向き、悲観的、無気力…“自分探し”にこだわりながら、ありのままの自分を好きになれない。「下流社会」「希望格差社会」を不安に生きる彼らを待つのは、「幸運格差社会」なのか。

この本でとりあげられる「貧乏クジ世代」とは、いわゆる第二次ベビーブーマーであり、いわゆる団塊ジュニア世代であり、いわゆるロストジェネレーション世代である。
1970年代生まれ、だいたい中高生ぐらいにバブルを経験している時期。「大人たちがバブルに浮かれているのは見ていたけど、自分たちが社会に出たときにはバブルははじけていてその恩恵にあずかれなかった世代」だ。

その世代について分析した本……かと思いきや。

いやあ、ひどい本だった。
ぼくもいろんなひどい本を読んできたという自負があるけど(どんな自負だ)、この本は相当上位にランクインするな。

なにしろ「こんな話を聞いた」とか「私の周りにこんな人がいる」とか「私はこうだった」レベルの話がひたすら並び、それをもとに世代論を展開している。
 ところが貧乏クジ世代の場合、どうもその視線がいきなり現実の未来や社会を越えて、霊的世界や運命的世界にまで飛んでしまうことがあるようなのだ。「私がツイていないのは守護霊がよくないから」「今年は私みたいな水星人は最悪の運勢らしい」「オレはAB型だから対人関係がうまくいかないのはしたない」。こうやって、「うまくいかないのは家族や周りの人のせい」から、「社会のせい」を飛び越えて、いきなり「霊や宿命のせい」と結論づける。内向き志向と並んで、貧乏クジ世代の思考パターンにはこの“超越志向”もあるようだ。
 考えてみれば、彼らが生まれた一九七〇年代は、七三年のホラー映画『エクソシスト』の公開や『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)の出版、UFOや宇宙人の大ブームなど、オカルトや超常現象への人びとの関心が一気に高まった時代でもあった。
 しかし、このころは高度成長に支えられ、「私にも未知なる超能力があるかもしれない」「いつかUFOに乗れる日がくるかもしれない」と、人びとはそこに自分たちの新しい可能性や未来を見つけようとしていた感がある。そして貧乏クジ世代は、七九年に創刊されたオカルト雑誌『ムー』(学習研究社)を眺めたり、「口裂け女」のウワサを聞いたりしながら、子ども時代を過ごすことになったのである。
は?
言っておくが、この文章の前後のどこにも「70年代生まれはオカルトにはまりやすい」ことを示すデータはない。ないのはあたりまえだ。著者の頭の中にしかない思いつきなんだから。
だいたい70年代にオカルトへの関心が高まったんなら、オカルトにはまってたのは70年代生まれじゃなくてその上の世代じゃねえか。乳幼児がオカルトブームを牽引してたと思ってんのか?
著者の頭の中がいちばんの “超越志向” だよ。

 いまはどうなのだろう。国内にも世界にも、問題は山積み。むしろ私の時代以上に、大きな事件や戦争が次々に起きる。しかし、貧乏クジ世代の人たちは、内面化しがちなこの年齢特有の視線を、なかなか外向きに変えられずにいるように見える。
 書店に行っても、その世代向けに書かれた本の多くが、「社会をこう読む」ではなくて、「上司とはこう話す」「彼女にはこう接する」といった、あまりといえばあまりに等身大なマニュアル本。あるいは、いわゆる自分探し、自己啓発系の本。視線はさらに足下に、もしくは心のなかにと向きつつあるようだ。
 これはいったいどうしてなのか。私が三十歳だったころのように、彼らは「こうしちゃいられん!」などとそう単純には立ち上がらないということか。そうやって立ち上がっては結局、社会をよくすることができなかった”先輩“たちを、あまりにもたくさん見すぎたということか。いずれも理由の一つだとは思うが、もうちょっと別の原因もありそうだ。
これもひどい。ツッコミどころしかない。
私の時代」ってなんなんだよ。それ言っていいのは天皇だけだよ。
その世代向けに書かれた本」ってどうやって判断したんだよ。
ように見える」「あるようだ」「ありそうだ」って大学生が論文に書いてまず怒られるやつだよ。Wikipediaなら[要出典][未検証]とかタグつけられまくるやつだよ。
大きな事件や戦争が次々に起きる」「本の多くが~」も根拠ゼロ。「最近の若者はなっとらん」レベルの意見。

「自分の観測範囲内の人たち+根拠のない推測」と「私が三十歳だったころ+美化された思い出」を比較して、「この世代は~」と語っている。あきれて話にならない。

また、この「この根拠ゼロの分析」の後に、「精神科医からのアドバイス」みたいなのがくっついていて、余計に不愉快。
著者の妄想でしかない症状に対して、対策を教えられてもねえ。

この根拠ゼロ+クソつまらない話が延々続いて、この前置きはいつまで続くのかとおもっていたら、とうとう中盤までこの調子だった(半分ほどで読むのをやめたので最後がどうだったかは知らない)。
ぼくは「よほどのことがないかぎりは一度読みはじめた本は最後まで読む」ことを心がけているので途中で投げだすのは五百冊に一冊ぐらいなのだが、これはその貴重な本の一冊に見事光り輝いた。

エッセイとしてならまだしも、これを新書として出すなよ……とため息が出る。ここまでひどいと、もう著者に対しての怒りは湧いてこない。どうしようもない人なのだから。
これをノーチェックで出版した出版社に怒りが湧いてくる

この本の刊行は2005年。そういやその頃って新書ブームとか言われて質の低い新書が濫造されていた時期だったなあ……。新書貧乏クジ世代だ。

いやあ、ほんとひどい本だった。この人の本は二度と読まんぞ!

2019年2月22日金曜日

男子が死にかけたことと殺しかけたこと

死にかけたこと1


十歳のとき、同い年のいとこと川で遊んでいた。
ぼくは泳げたので「深いほうに行ってみようぜ」といとこを誘った。いとこは「よし行こう。おもしろそうだな」と言ってついてきたが、いきなり溺れた。
後で知ったのだが、泳げないくせに見栄を張ってついてきたらしい。

ぼくはいとこを助けようと腕をつかもうとしたが、パニックになったいとこはぼくの腰にしがみついてきた。
おいなにすんねんこいつ。助けようとしてやってんのに、腰をつかまれたらこっちも溺れるだろ。
溺れるならひとりで溺れろよ。勝手に人を巻きこむな。やばい、川底に引きずりこまれる。

一瞬死が脳裏によぎった。ぼくはいとこを蹴とばしてその手をふりほどき、浅瀬まで泳ぎついた。
ただならぬ様子に気づいた父と伯父が助けに向かい、いとこは無事救出された。

教訓:救助訓練を受けていないなら、溺れるやつは放っておけ



死にかけたこと2


小学六年生のとき。
近所の銀行の裏の壁にはしごがあった。はしごがあればのぼりたくなるのが男子。
はしごを伝って銀行の屋上にのぼって遊んでいた。
三階分くらいの高さがあったので、手をすべらせたりしたら軽いけがでは済まなかっただろう。

当時は大したこととおもっていなかった(びびっていると思われないようになんでもないふりをしていた)が、今考えるとぞっとする。

教訓:男子の手の届くところにはしごを置くな




殺しかけたこと


中学生のとき。
同じクラスのやんちゃ者、オオガキが窓枠に腰をかけていた。校舎の三階。もちろん落ちたらただではすまないが、彼は強がってわざと危険なことをしていたのだ。男子とはそういうものだ。

ぼくはそれを見て、くだらねえことしてるなと思いつつ、ちょっとびびらせてやれと思って「わっ」と言いながらオオガキを軽く押した。
するとぼくの想像していたよりもはるかにオオガキはバランスを崩し、「ヤバい」という顔をして必死に窓枠にしがみつき、すんでのところで体勢を立てなおした。

オオガキもあわてていたが、ぼくもめちゃくちゃびびった。その一瞬、世界がスローモーションになるのを感じた。

「……あ、あぶなかったなー!」
ぼくらは顔を見合わせて安堵のためいきをついた。あとほんのちょっとバランスを崩していたら、彼は死者、ぼくは殺人者になるところだった。
もう二度とこんな悪ふざけはやるまいと固く心に誓った。

今でもあの瞬間のことを思い返すとドキドキする。彼がバランスを立て直してくれてほんとによかった。あそこでオオガキが転落していたらぼくは今とはまったく違う人生を送っていただろう。

教訓:命にかかわる冗談はぜったいにやっちゃいかん


2019年2月21日木曜日

【読書感想文】米軍は獅子身中の虫 / 矢部 宏治『知ってはいけない』

知ってはいけない

矢部 宏治

内容(e-honより)
この国を動かす「本当のルール」とは?なぜ、日本は米国の意向を「拒否」できないのか?官邸とエリート官僚が国民に知られたくない、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?3分でわかる日本の深層!私たちの未来を危うくする「9つの掟」の正体。4コママンガでもわかりやすく解説。
『知ってはいけない』とはずいぶん陰謀論めいたタイトルだ。そして書かれている内容も陰謀論っぽい。

・米軍は日本の好きなところに基地をつくることができる
・在留米兵にとっては、日本全土が治外法権。米兵が日本でおこなった犯罪を日本の警察や裁判所は裁くことができない
・米軍が必要と判断したら、日本の軍(つまり自衛隊だね)は米軍の指揮の下で戦わなくてはならない

これが陰謀論ならいいんだけどね。
しかし孫崎享『戦後史の正体』など他の本の記述と照らしあわせると、この本に書かれていることはたいていが真実なんだろう。日本人としては残念ながら。
実際、戦後日本の動きを見ているかぎり、否定しようがないし。

『知ってはいけない』では、戦後(占領下にあった時期を戦後と呼んでいいのであれば)に日米間(というより日本政府と米軍間)でとりかわされた条約や密約をもとに、こうした事実を明らかにしていく。
 ところが日本だけは、米軍ヘリやオスプレイの墜落事故のケースを見てもわかるように、敗戦後七〇年以上たってもなお、事実上、国土全体が米軍に対して治外法権下にあるのです。
「何度もバカなことをいうな」
 と言われるかもしれません。
 しかしこれもまた、確かな根拠のある事実です。このあとご紹介する日米合同委員会という秘密会議で、左のような密約が日米間で合意されているからです。

「日本国の当局は、所在地のいかんを問わず米軍の財産について、捜索、差し押さえ、または検証をおこなう権利を行使しない」
(日米合同委員会の公式議事録 部分 一九五三年九月二九日)
 つまり、この会談でクラークは、
「戦争になったら日本の軍隊(当時は警察予備隊)は米軍の指揮下に入って戦うことを、はっきり了承してほしい」
 と吉田に申し入れているのです。そのことは、次の吉田の答えを見ても明らかです。

「吉田氏はすぐに、有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状ではその司令官は合衆国によって任命されるべきであるということに同意した。同氏は続けて、この合意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきであるとの考えを示し、マーフィー〔駐日大使〕と私はその意見に同意した」

 戦争になったら、誰かが最高司令官になるのは当然だから、現状ではその人物が米軍司令官であることに異論はない。そういう表現で、吉田は日本の軍隊に対する米軍の指揮権を認めたわけです。こうして独立から三ヵ月後の一九五二年七月二三日、口頭での「指揮権密約」が成立することになりました。
社会の教科書では憲法、その下にある法律にもとづいて国は動くと書かれているけど、本当は、戦後日本はそうなっていない。
日米間の条約や、あるいは公式な文書ですらない "密約" が法律、さらには憲法よりも高い地位を占めていて、その方針によって戦後日本の枠組みが作られているのだ。

どうして政治家がこんなに憲法を軽視するのか疑問だったのだけれど(特に現政権は)、戦後数十年にわたって憲法を無視した密約に従って動いてきたんだもんな。そりゃないがしろにされるわ。

よく自虐的に「日本はアメリカの植民地だ」なんて言うけれど、大げさでもなんでもなく、アメリカ軍が日本で好き勝手にしていいというルールが幅を利かせているわけだから、ほんとうに植民地なのだ。
アメリカ軍は日本の好きなところに基地をつくれるのだ。基地問題は沖縄だけの話ではない。



アメリカの植民地だった国は他にもたくさんあるが、独立後も「アメリカ軍が好きなときに好きなだけ飛行機を飛ばせる」なんて条件を受け入れているのは日本と韓国だけだそうだ。

それは、朝鮮戦争が大いに関係がある。
日本が占領下にあったときに朝鮮戦争が起こったため、アメリカ軍はぜったいに日本に基地を残しておきたかった。だから「基地を置いてもよい、軍用機を飛ばしてもよい、有事の際は日本軍がアメリカ軍の指揮下に入る、という条件を呑むのであれば日本を独立させてやってもよい」という取り決めがなされ、かくして日本は実質的な植民地となることを引き換えに独立を果たした(それを独立といっていいのかわからないが)。
そして朝鮮戦争はまだ終わっていない。「休戦」しているだけだ。だからアメリカ軍による実効支配は今も続いている。

矢部宏治さんはこれを戦後レジームならぬ「朝鮮戦争レジーム」と呼んでいるが、なるほど、そういう視点で見ると日米の関係がすっきりと見えてくる。



思想の左右に関係なく、こういった歴史背景は知っておかないといけないよね。
こういうことを知らずに憲法改正なんて議論できるわけがない。
 こうした大西洋憲章の理念を三年後、具体的な条文にしたのが、国連憲章の原案である「ダンバートン・オークス提案」でした。この段階で「戦争放棄」の理念も条文化され、世界の安全保障は国連軍を中心に行い、米英ソ中という四大国以外の一般国は、基本的に独自の交戦権は持たないという、戦後世界の大原則が定められました(第8章・12章)。
 これはまさしく日本国憲法9条そのものなんですね。ですから憲法9条とは、完全に国連軍の存在を前提として書かれたものなのです。
 日本ではさまざまな議論が錯綜する憲法9条2項についても、この段階の条文を読めば、あっけなくその本来の意味がわかります。要するに、日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです。

これすごく大事。
「日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです」

なるほどなー。「みんなが銃の代わりに花束を持てば世界中がハッピー!」なんて能天気なもんじゃないんだなー。
ということは国連軍が誕生しなかった以上(今後もたぶん創設されないでしょう)、憲法九条を維持しつづけるのはかなり苦しいものがある。
だったら憲法改正! というのも短絡的で、今の日米関係のまま自衛隊を正規軍にしたってアメリカ軍の下部組織になるだけ。

日米安保条約を破棄して、自衛隊なんていう嘘ではなく「軍」として憲法に明記。ただし侵略戦争は明確に否定、みたいなことができたらいいんだろうなー。
すごくむずかしいけど、でもそれって他の国がみんなやってるごくごくふつうのことなんだよな。ふつうの国がやってることを日本だけができてないってのが相当異常なんだとまずは理解することから始めなければ。


歴史を見ると、米軍が日本人を守る気なんてさらさらないことがよくわかる。
中国やロシアが脅威だと言ってるけど、アメリカもそれと同じくらいの脅威だ(国家元首の理性だけを見たらアメリカがいちばん危険だと思う)。
米軍基地だらけの日本は、獅子身中の虫を飼ってるようなものだ。
「憲法九条があるから日本は大丈夫!」もかなりおめでたい思考だけど、「アメリカ軍が守ってくれるから大丈夫!」はそれ以上におめでたい。


歴史の教科書の副読本にしてほしい一冊。
これを読むと戦後日本の歩んできた道がクリアに理解できるようになる。

【関連記事】

【読書感想文】 池上 彰 『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』



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2019年2月20日水曜日

第二次性徴の本のおもいで


中学生のとき、友人たちと図書室で遊んでいた。
友人のひとりが、「保健体育」コーナーから第二次性徴について書かれた本を持ってきて「うわ。なんだこれ」と言った。
彼が指したページにはしゃがみこんで手鏡を持って自分の股間をのぞきこんでいる少女のイラストが描かれており、「自分の性器を知ろう」みたいなキャプチャがついていた。
「なんじゃこりゃ。この女なにやってんねん」
とぼくらはげらげら笑った。
しかしぼくは、笑いながらすごく昂奮していた。

まじめな内容の本だった。扇情的な絵ではなかった。イラストの少女はかわいくもないし無表情。股間そのものは手鏡に隠されてまったく描かれていない。
昔、ぎょう虫検査キットにキューピーちゃんが尻に検査シールをあてがっているイラストが描かれていたが、それに似ていたような気がする。色気もへったくれもない。


だが、そのことがかえってぼくの想像力を刺激した。エロいマンガに出てくる美少女だと「しょせんこれはエロ本の世界よね」というどこか醒めた目で見てしまうが、平凡な少女が股間を覗きこんでいるイラストには、かえって「ということはクラスのあの子やあの子もこんなことを……」と想像させるリアリティがあった。

同時に「女ってこんなことしないと自分の性器を見られないのか!」ということも衝撃だった。
男は自分の性器をよく知っている。鏡を使わなくても見られるし、立っておしっこをするときにも必ず目に入る。毎日何度となく顔をあわせる。いたってよく知る顔なじみだ。
ところが女は手鏡を使ってしゃがみこまないと自分のものが見えないらしい。しかも本にわざわざ「自分の性器を見てみよう」なんて書かれているということは、一度も見たことのない女も多いのだろう。

自分ですら見たことのない秘密の場所……。
その情報は、中学生にとってたまらなく刺激的だった。
「女の子は自分の性器を自分で見れない」という話は「力士が自分の尻を自分で拭けない」という話とよく似ているが、ぼくを昂奮させる度合いはまったくちがっていた。



図書室で見た第二次性徴の本が気になってしかたがなかった。
まだ精通のなかったぼくは、発散することもできず、悶々とした気持ちを抱えたまま暮らしていた。
またあの本を見たい。
だがひとりで図書館に行って第二次性徴の本を見るには、ぼくの自意識は高すぎた。

ぼくが性教育の本を見ている間、いつなんどき誰がやってくるかわからない。
しかも「保健体育」コーナーは図書カウンターから見えるところにあった。図書室が開放されている時間帯は、カウンターには教師か図書委員がいる。
誰も他の生徒の動向なんて気にしていないとは思いつつも、万が一「あいつ図書室で性教育の本を見てたぞ」なんて思われたら生きてゆけない。エロ本を拾っているところを見られるより恥ずかしい。

図書室で見るなんてできないし、まして借りるなんてもってのほか。性教育の本の貸出履歴カードに一生ぼくの名前が残ってしまう。



ぼくは図書委員になった。すべてはあの本をもう一度見るために。

誰にも見られないようにあの本を見るためには、人のいない時間を狙わなければいけない。
それには図書室にずっといてチャンスをうかがう必要があるが、それまでほとんど図書室に行ったことのないぼくが突然入りびたるようになるのは不自然だ。
図書室にずっといても不自然ではない人物、それは図書委員。

図書委員は放課後に図書室に待機して貸し借り手続きをする必要があるので、ほとんどの生徒はやりたがらない。委員決めのために手を挙げると、すんなりと図書委員になることができた。
「立候補なんてまじめだなー」
なんて友人から言われたが、
「もっとめんどくさい文化祭実行委員とかをやりたくないからな」
と言い訳をして、「ほんとはやりたくないんだけどな」というスタンスをくずさなかった。

数日後、さっそく図書委員としての仕事がまわってきた。
ぼくはTくんという隣のクラスのおとなしい生徒といっしょに貸出カウンターに座ることになった。委員は二人一組で貸出業務にあたるのだ。これは誤算だった。ひとりっきりになるチャンスがない。

初日は様子見。
ぼくが知ったのは、放課後に図書室に来る生徒は意外に多いということだった。
自分の放課後生活は、部活をやるか友人と遊びにいくか家に帰るかだったので、図書室に滞在する生徒がこんなにいるとは思いもよらなかった。常に数人が本を読んだり勉強したりしている。

その後も何度か図書委員としてカウンターに座ってチャンスをうかがっていたのだが、図書館に誰もいなくなる時間はなかった。
Tくんは決してサボることなく委員の仕事をこなし、毎日のように図書室にやってきて勉強をする三年生もいる。おまけに図書室担当の国語教師が図書室にいることも多かった。放課後の図書室はわりと繁盛しているのだ。

「他に誰もいないときを見はからってこっそり性教育の本を見る」というぼくの作戦は実現不可能のように思えた。
べつの方法を考えるしかない。

ある日、ぼくは返却された本を棚に戻しにいくついでに、そっと例の性教育の本を手に取り「誰だよこんなところにこの本入れたのは」と小さくひとりごとをつぶやきながら図書室の奥へと移動した。
誰も見ていないのに、「あるべき場所でない棚にある本を見つけた図書委員」の芝居をしながら。
そして性教育の本を、いちばん奥の棚へと移した。郷土資料があるコーナー。誰も見ないような本の棚。
そしてその日はそのまま帰った。
ほんとはすぐにでも読みたいところだが、万が一誰かに見られて「あいつ性教育の本を手にして隅っこに長時間いたぞ」と思われないために。

十日ほどたって、またぼくの貸出カウンター当番の日がまわってきた。
どきどきしながら頃合いを待った。奥の棚から人が少なくなる時間。
本を棚に返却しにいこうとするTくんをぼくは押しとどめた。「後でまとめていくからいいよ」と。

そして時はきた。何人かの生徒はいるが、自習机で読書や勉強にふけっている。そこから郷土資料コーナーは視界に入らない。
返却棚には数十冊の本。ぼくは「けっこう溜まってるなー。じゃあカウンターよろしく」とTくんに向かってクサい芝居をしながら書架へと向かった。これで少しぐらいカウンターに戻ってくるのが遅くなっても不自然に思われずに済む、はず。

そしてぼくは、何冊かの本を棚に戻してから郷土史コーナーへと向かった。隠しておいた本が本来の位置に戻されているのではないかということだけが懸念点だったが、本は依然そこにあった。やはり郷土史の本など誰も見ないのだ。

足かけ半年。ついにこの日が来た。
ぼくは、自分の姿を視認できる位置に誰もいないことを確認してから、おもむろにページを開いた。



そこから先のことはあまりおぼえていない。
とにかく、がっかりしたことだけはおぼえている。
「あれ? こんなんだっけ?」
というのが正直な感想だった。

はじめて見たときは「なんてエロいイラストなんだ!」とおもった。
その後、幾度となくこのイラストのことを思いえがいていた。その結果、ぼくの中で例のイラストのエロさがどんどん肥大化していったのだろう。
半年ぶりに実物を見てみると、「なんかおもってたほどじゃないな」としかおもえなかった。この程度のもののために半年も周到に準備してきたのが急にばかばかしくなった。

だがこの経験はぼくに大切なことを教えてくれた。
真のエロとは自分の頭の中にあるのだ、と。

2019年2月19日火曜日

【読書感想文】福田 ますみ『モンスターマザー』

モンスターマザー

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」教師たちの闘い 

福田 ますみ

内容(e-honより)
不登校の男子高校生が久々の登校を目前にして自殺する事件が発生した。かねてから学校の責任を異常ともいえる執念で追及していた母親は、校長を殺人罪で刑事告訴する。弁護士、県会議員、マスコミも加わっての執拗な攻勢を前に、崩壊寸前まで追い込まれる高校側。だが教師たちは真実を求め、反撃に転じる。そして裁判で次々明らかになる驚愕の真実。恐怖の隣人を描いた戦慄のノンフィクション。

『でっちあげ』の作者による骨太のノンフィクション。
『でっちあげ』では、福岡「殺人教師」事件を取り扱っていた。小学校教師が児童をいじめていたとしてセンセーショナルに報道されたが、結局その"犯行"のほとんどが虚言癖のある母親によるでっちあげだった、というものだった。

『モンスターマザー』も構図は似ている。
男子高校生が家出をくりかえし、やがて自殺。母親は、男子高校生が所属していたバレー部内のいじめが原因だと主張し、メディアも大きく報じた。母親に味方する地方議員、弁護士、ルポライターも現れ、彼らは県や校長や先輩生徒を相手どって訴訟。

ところが事態は急展開。
学校内でいじめがなかったこと、母親の常軌を逸した言動に男子生徒が困惑していたことについての証拠や証人が次々に現れ、学校側のほぼ全面的な勝訴となった。それどころか母親は逆に民事訴訟を受けて敗訴。母親の言うことを真に受けてまともな調査をせずに校長を殺人罪で告訴した弁護士は懲戒処分となった。
(Wikipedia)「丸子実業高校バレーボール部員自殺事件」

裁判では学校、校長、先輩生徒が勝訴したものの、多くの犠牲を強いられた。裁判には長い期間を要し、傷つけられた名誉は快復していない。
母親は賠償金を一銭も払っておらず、懲戒処分になった弁護士は裁判で命じられた謝罪広告を出していない。なんとも気の滅入る話だ。



この本にはほぼ学校側一方だけの話しか載っていないので鵜呑みにするのは危険だが(母親や弁護士がろくに取材に応じないのでしかたないのだが)、多くの証人の発言、客観的な事実を鑑みると、他人に対して攻撃的で平気で嘘をつく、相当問題の多い母親だったのだろう。
 まず学校側がさおりに対し、心労をかけたこと、担任の出欠誤認について謝罪し、話し合いの場の設定が遅くなったことも詫びた。そして校長が、持参した謝罪文をさおりに手渡した。
(中略)
 しかしさおりは、文面に目を通すなり、それを突き返した。
「この内容では不十分です。これでは話し合いには応じられません」
 そして、立花担任が自分の非を認めていること、校長・教頭の謝罪、県教委の教学指導課が子供を捜すことを最優先にせよと指導をしているにもかかわらず実行しなか出ったこと、捜索について保護者からの要望を断ったことなどを新たに謝罪文に加えて、午後6時までにメールで送ってほしいと要求した。
 それだけではない。
「担任を代えていただきたい、子供もそう願っている。でも、子供には直接聞いてもらいたくない。私の許可を必ず取ってください。子供は信頼していた先生に裏切られ恐怖の心でいます」
この一件だけ見ても、「クレームをつけることに慣れている」と感じる。
そういえば少し前に子どもを虐待死させたとして大きくニュースになっていた父親も、学校に対して謝罪文を要求していたらしい。
こうしたクレーマーはトラブル慣れ・裁判慣れしている上に基本的に他人と信頼関係を築くことができないので、「あのときこういったじゃないか!」という言質を取りたいのだろうな。

だが「ひどい母親もいるね」で片付けてしまっては、何の解決にもならない。また同じようなことがくりかえされるだけだ。平気で嘘をつく親、他人を攻撃することに一切のためらいを感じない親は一定数存在するのだから。

長野・丸子実業「いじめ自殺事件」が大きな問題になった原因のひとつは、母親に多くの支援者が集まったことだ。
地方議員、弁護士、ルポライターが母親の言い分を信じて事を大きくしたために風評被害は拡大した(しかも彼らの多くは何の謝罪もしていない)。

学生が自殺したと聞くと、我々はほとんど反射的に「子どもが自殺? いじめだな! 学校が隠蔽しようとしているな!」と思いこんでしまう。テレビも新聞もこのシナリオに従って報道する。もちろんそういうケースもあるが、ほとんどはそんな単純な理由で人は死なない。親やきょうだいや交友関係や読んだ本や遺伝的気質や、いろんな影響を受けているはずだ。
けれどぼくらはわかりやすいストーリーが大好きだ。
「子どもを亡くしたかわいそうな母親 VS 事実をもみ消そうとする冷酷な学校」というわかりやすい筋書きを思いえがいてしまう。
 本書の事件が起きたのは2005年、『でっちあげ』の事件が起きたのは2003年である。当時も今も、学校現場でのいじめを苦にした青少年の痛ましい自殺は後を絶たず、深刻な社会問題になっている。マスコミが「いじめ自殺」を大きく取り上げるのは、いじめの卑劣さへの憤りが根底にあるにしても、一にも二にも、世間の耳目を引く恰好のネタであるがゆえだ。
 だからこそ、報道はヒートアップし、いじめ自殺に関する多くのレポートが生まれた。
 しかし、それらはいずれも、教師や学校、教育委員会を加害者として糾弾している。
 いじめ被害者の訴えを無視して適切な指導を行わず、結果的に被害者を自殺に追い込んだ教師。いじめをあくまで隠蔽しようとする、姑息で事なかれ主義の学校や教育委員会。
 要するに、子供や保護者は圧倒的に善であり弱者であり、それに対して学校は、明力な子供や保護者を抑圧する権力者として描かれている。
 きわめて単純な二項対立である。こんなにきれいに正と邪を色分けできる現実なんてあるのだろうかと首を傾げてしまう。
インターネットで、この事件について検索してみた。最近のものに関してはこの本の感想が多いが、十年ほど前のサイトやブログを見ると、ほとんどが「なんてひどい学校だ!」と憤る声ばかりだ(そして書きっぱなしで訂正も反省もない)。
先入観なしにものを見ることがいかにむずかしいか、教えてくれる。

母親を支援していた人も、学校側を中傷していた人も、学校を糾弾した議員も、きっと善意でやっていたのだろう。「かわいそうな被害者を支援するすてきなあたし」に酔っていたのだろう。だからこそ真相に気づきにくくなるし、気づいた後でも己の過ちを認められない。
たぶん、その人たちの大半は反省などしていないだろう。そしてまた同じようなことをくりかえすだろう。

自分も、タイミング次第ではそちら側にいっていただろう、という気もする。ぼくだって、高校生が自殺したというニュースを見たらまずはいじめじゃないか、学校に責任があるんじゃないか、と考えてしまう。ただぼくには行動力がないから何もしないだけで。

善意の人というのはおそろしい。
(ただし弁護士と医師の罪はきわめて重い。弁護士は少し調査すればわかることを調べずに思いこみだけで告訴しているし、医師は言われるがままに適当な診断書を書いている)



ところでこの本、読み物としてはすばらしい本なんだけど、ノンフィクションとしてみると危うさも感じてしまう。

学校側にしか取材できなかったというのもあるんだけど、あまりにも一方的な視点。おまけに学校側の人物に肩入れしすぎ。

全面的に学校側・教師の対応が正しかったかのように書いているが、ぼくから見ると学校の初期対応も最善のものではなかったように思う(学校側に自殺の責任があるとは思わないが、もっといい対応はあったんじゃないかな)。

教師たちの大きな問題にしたくない、警察沙汰にしたくないという思いのせいで(それは保身というより生徒のためだったかもしれないが)事が大きくなってしまった。

「学校の中のことは学校内で解決」というのは小さな問題ならうまくいくかもしれないが、悪質クレーマーのような悪意ある破壊者がやってきたときにまるで歯が立たない。
情報発信手段の向上などで、学校の問題を内部で閉じこめておくことはむずかしい時代になった。
早めに問題を外に出して専門家に介入してもらうことが、学校にとっても生徒や保護者にとってもいいはずだ。

『モンスターマザー』を読んでも「じゃあまたこういう親が現れたらどうしたらいいの」という問いには答えられない。
ひどい親とひどい弁護士がいたんですよ、だけではなく、どう対応すればよいかという視点もあればなおよかったように思う。



この本が特にノンフィクションとして惜しいと感じるのは、著者が学校側の正しさを伝えようとするあまり、「教育熱心な先生だった」とか「生徒の死に心から胸を痛めている」といったような、踏みこみすぎた描写をくりかえしているところだ。
そんなのは客観的に判断できるようなものじゃないのでなんとでも書ける。主観と事実がごちゃまぜになっているので、かえって嘘くさく感じてしまう。

ショッキングな事件だからこそ、事実だけを冷静に積みかさねてほしい。
他人の感情を勝手に推測しないでほしい。
どうしても気持ちを書きたいのであれば、作者の主観だということをはっきりさせてほしい。
学校側の人たちに感情移入してしまう気持ちはわかるけど、それは読者がやることであって、書き手はもっと突きはなした書き方をしないと。

事実に頼らず感情を揺さぶるような書き方をして同情を集めようとするって、それって『モンスターマザー』の母親がやってることと同じじゃないの?

せっかくいいノンフィクションなのに、変に説得力を持たせようとした結果かえって説得力がなくなってるの、もったいないなあ。

2019年2月18日月曜日

【読書感想文】時代小説=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』

あんちゃん

山本 周五郎

内容(e-honより)
妹に対して道ならぬ行為をはたらき、それを悔いてグレていった兄の心の軌跡と、思いがけぬ結末を描く『あんちゃん』。世継ぎのいない武家の習いとして、女であるにもかかわらず男だと偽って育てられた者の悲劇を追った『菊千代抄』。ほかに『思い違い物語』『七日七夜』『ひとでなし』など、人間をつき動かす最も奥深い心理と生理に分け入り、人間関係の不思議さを凝視した秀作八編を収録。
時代小説ってあんまり読んだことがなかったんだけど、そうか時代劇ってファンタジーなのか。
山本周五郎『あんちゃん』を読んでそう思った。

小説の名手と呼ばれる人の作品集だけあって、どの話もよくできている。人情味や心の機微が丁寧に描かれている。とはいえストーリー自体は無茶なものが多い。

ピンチを救ってくれた人が生き別れた父親で……とか、窮地で助けてくれたのはあのとき殺したはずの相手だった……とか、「ありえねえよ!」と言いたくなるような展開が続く。
まあフィクションに現実離れしてるとかツッコミを入れるのは野暮だけど、それにしたって話ができすぎじゃありませんか。

しかしそれでも小説として成立しているのは「よく知らない昔の話だから」だ。
これが現代日本を舞台としていたら「こんな都合よくいくかいな」「どんだけ狭い世界を生きとんねん」というツッコミの嵐だろう。

しかし江戸時代を舞台にすることで、「今ならありえないけど昔だったらこういうこともあったのかもしれないな」とか「当時は今よりずっと世間が狭かったのかもしれないな」とか思える。
わざわざ時代小説を書くのは、「読者がよく知らない世界」という舞台装置がほしいからなんだろう。

そういう点では、時代小説というのはファンタジー、もっというとライトノベルといっていいかもしれない。

官能小説は「ある日親が高校生の自分を置いて海外に行ってしまい大きな屋敷に一人ぼっち」「手違いで女子寮に入ることになってしまったぼくが……」みたいなありえない導入ではじまることが多い。ありえない設定だが、"エロ" という大目的があるためリアリティは無視される。
時代小説や時代劇もそれに近い。
「拙者剣の腕は立つが欲はないので人前ではひけらかさない。だがおなごを守るためなら……」とか「喧嘩が強くて庶民の感覚も持った正義感の強いお奉行様が街に出て……」みたいな中学生の妄想をそれなりの形に見せてくれるのが "江戸時代" という舞台なのだ。

ライトノベル作家になりたい人は、時代小説を書くといいかもしれないね。
一見正反対のようで、作者や読者の願望投影という点では実はすごく近いところにあるジャンルだから。
おまけに文芸界では高く評価してもらえるし。

妄想実現ファンタジーという点では『剣豪・島耕作』とか『町奉行・島耕作』とかもいいね。
うん、容易に想像できる!

2019年2月15日金曜日

洞口さんじゃがいもをむく


じゃあじゃがいもの皮をむく仕事でもすっかってことで応募即採用。世にじゃがいものむき手は足りていないらしい。

あたしのほかに七人のおばちゃんがいて、八人で理科実験室にあったような大机ひとつを囲んでじゃがいもをむく。
特にノルマとかはなくて、おしゃべりをしながら皮をむいてゆく。むいた皮をどんどん床に捨ててゆくのが愉しい。床にごみを落としちゃだめって言われて育ってきたから、ぽいぽいごみを投げていいってのが新鮮。
足もとが冷えることを除けばいい職場。こたつに入ってやったら最高なんだけどな。でもそうすると布団が汚れるから皮を放りなげるわけにいかないもんな。あと眠っちゃうし。

おばちゃん七人衆は圧倒的に速い。年の甲っていうと怒られそうだから経験年数の差っていっておくけど、巧みに包丁を使ってすらすらむいていく。バナナの皮をむくぐらいのスピード。あんなに鮮やかにむかれたら、むかれてる側のじゃがいもだって気持ちよかろうってなもんよ。

それに比べたらあたしはぜんぜん。おばちゃんが五個むいてるうちにやっと一個むくぐらい。
気のいいおばちゃんたちだから誰も責めるようなことは言わないけど、自分の皮むき偏差値三十五ぐらいなのは自分がいちばんよくわかるから、足引っぱって申し訳ない気持ちになる。
なんとかならんもんかねってワカさんに相談したらピーラー使えばいいじゃんってあっさり名回答。はっはーんこれができるホモサピエンスってやつか。ツールで解決。
あたしなんかピーラーって言葉すら知らなくて、皮むき器って言われてようやっと形状思いえがけたぐらいだからその差たるや。

ということで百均に行ってピーラー購入。
ピーラーだけ買うのもなんか恥ずかしかったからミルク味の飴ちゃんもいっしょに購入。七人のおばちゃんに貢ぐ用。

しかしまさかピーラーが職場の断絶を生むなんてね。
あたしが持ってきたピーラーを見ておっそれいいじゃんあたしも使おう派ともう慣れちゃったし包丁のほうが早いよ派にすっぱり分かれてたちまち勢力は四対四。
さらにピーラー使おう派も、百均のじゃものたりないからいいやつ買おう派と自腹切ってまで高いピーラー買うほどじゃないよ百均で十分よね派で二対二に分裂した(あたしは百均派)。
まだ分かれるのかなとおもったけど二対二になるとそれ以上は分裂しなかった。二人以上いないと派閥にはならないんだー。

べつに派閥ができたからっていがみあったり敵陣営に火矢を投げこんだりとかするわけじゃないんだけど、ツールが変わったことでなんとなく溝ができたような気がする。
あれ、なんかひび入ってない? 気のせいかとおもったけど、前は日によってばらばらだった座る場所も包丁派は包丁派、高級ピーラーは高級ピーラーで固まって座ることが多くなった。知らず知らずのうちに断絶が生じているのだ。

責任を感じた。
あたしが直接七人の中を切り裂いたわけじゃないけどあたしのピーラーが切り裂いたのだ。いや、ピーラーだから七人の仲をむいたというべきか。
なんておそろしいものを生みだしてしまったんだろう。原爆開発のマンハッタン計画に参加した科学者たちの気持ちが痛いほどわかる。

この状況を打破するアイテムはないかとリュックの中をほじくりかえしてみた。ツールにはツール。
ミルク飴が出てきた。おお。百均で買ったのを忘れていた。
ミルク飴をおばちゃん七人衆の口に押しこむとあらふしぎ。なんとなく顔が柔和になって以前のようにおばちゃん間の会話がはずみはじめたじゃないか。

やっぱりミルクよね。ミルク最強。マンハッタン計画、ミルクの前に敗れたり。

まあこのミルク飴のせいでその数週間後におばちゃんのトイレ立てこもり事件が起きるわけだけど、それはまたべつのお話。

2019年2月13日水曜日

【読書感想文】構想は壮大なんだけど / 北森 鴻『共犯マジック』

共犯マジック

北森 鴻

内容(e-honより)
人の不幸のみを予言する謎の占い書「フォーチュンブック」。偶然入手した七人の男女は、運命の黒い糸に絡めとられたかのように、それぞれの犯罪に手を染める。錯綜する物語は、やがて驚愕の最終話へ。連作ミステリーの到達点を示す傑作長篇。
(ネタバレあり)

学生闘争、ホテルニュージャパン火災、帝銀事件、三億円事件、グリコ・森永事件といった昭和を騒がせた事件を縦軸に、「フォーチュンブック」という人の不幸を予言する本を横軸に組み合わせた連作短篇ミステリ。

うーん……。
やりたかったことはわかるんだけど、壮大なスケールに作者自身がついていけなかったという感じがする。

たしかにスケールが大きい割に構成は緻密なんだけど、作者の自己満足感が強すぎる。


よくがんばったな、とは思うんだけどね。がんばって風呂敷広げたな。くちゃくちゃだけど一応畳んでるしな。よくやった。
だけどおもしろさとはまた別。
いろんな事件を放りこみすぎて無理だらけになっている。世間狭すぎるし。
三億円事件の犯人とグリコ・森永事件の犯人が同一人物とかね。嘘が過ぎる!

最後のほうに「なんとこれが三億円事件なんです! どやっ!」みたいな種明かしがあるんだけど、昭和の事件を扱っていってたら三億円事件が出てくるのは容易に想像がつくので「やっぱりね」としか思えない。意外性ゼロ。むしろ出てこないほうが驚く。

陳 浩基『13・67』は香港で実際にあった出来事をたくさん盛りこんでいるけど、それはあくまで舞台背景であって本題ではないしな。
実在の事件を複数盛りこむってのはとっちらかるだけでいいことないよ。ほら、三谷幸喜脚本ドラマ『わが家の歴史』もクソつまらなかったじゃない。



そして登場人物たちをつなぐ「フォーチュンブック」という本なんだけど……。これ、いる?
べつになくてもよかったんじゃないかね。
「あいつの死はフォーチュンブックに予言されてた」みたいな描写は多々あるけど、「フォーチュンブックがあったせいで〇〇が起きた」みたいなのはほとんどないし(一話目ぐらいかな)。
なくても十分成立したと思うんだけど。
この小道具がなかったら嘘っぽさもいくらか軽減されてたんじゃないかな。
そしてこのタイトル。『共犯マジック』って……。
は? どういうこと?
全部読んでもまったくぴんとこない。タイトルはわりとどうでもいいと思っている派だけど、それにしてもこれはあってなさすぎじゃない?



いろいろ辛辣なことを書いたけど、点数をつけるとしたら百点満点で六十点ぐらい。決して悪い作品ではなかった。
だからこそいろいろ言いたくなるんだよなあ。せっかくの大がかりな構想なんだから、もっとうまく料理できたんじゃないかって。

【関連記事】

【読書感想】陳 浩基『13・67』



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2019年2月12日火曜日

洞口さんとねずみの島


あれはあたしが船乗りのバイトをしてたとき。
時給の高さに釣られて応募してその場で採用されたものの海賊が着てるような派手なシマシマの服は自分で用意してくださいって時点でちょっとあやしいなーと思ってたら案の定メンテのゆきとどいてない船に乗せられて、たちまち沈没。

幸いにしておっぱい(推定Bカップ)みたいな島が見えたからみんなしてそこまで泳ぐことになった。
バイト初日にして知らない人といっしょに泳ぐのやだな、気まずいなーとおもいながら背泳ぎ。
なんで背泳ぎなんだよって声が聞こえたけど、しょうがないじゃんあたし息つぎできないんだから。本人に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言われるのがいちばん嫌なんだよなーと思いながらぐいぐい泳いでたら、あれこれけっこう気持ちいいかもって。
あたし意外と泳ぐのうまくない? 体育の授業のときは沈まないようにするので必死だったのになんで今はこんなにふかふか浮くんだろうっておもって、あそうか海水だからかって気づいた。塩水だから真水よりちょっと重くて、その分身体が浮きやすいんだ。なんかのマンガに描いてたわ。マンガ勉強になるなーって調子に乗ってたら、気づくと誰もいない。

わすれてた。
あたしの背泳ぎは左に左に傾くんだった。いっつもプールのときはレーンを仕切るロープにぶつかってたんだった。隣のレーンを泳ぐミキモトのどてっぱらにつっこんでいって猛禽類みたいな目で睨まれたこともあった。それをわすれてた。や、ミキモトの一件についてはわすれてしまったほうがいいんだけど。

まずいよバイト初日なのにはぐれ狼じゃんってあわてたけど、しかし「待ってください」とも言いづらいよな新人なのに、っておもってたらこっちのほうにもちっちゃな島があることに気づいた。
よし、とりあえずこっちに上陸しよう。そのあと先輩方のいるほうをめざそうってことでちっちゃい島に上陸。おもってたよりだいぶ左の海岸にたどりついた。

泳いでいる間は、あとでBカップ島をめざそうとおもってたのに、陸地に上がってみたら急速にめんどくささがMAX値に。
ずっと前に砂漠をさまよったときにオアシスにたどりついたとたんにもう二度とラクダに乗りたくないって気持ちになったことがあるんだけど、そのときと同じ気持ちっていえばわかってもらえるかな?
いっぺん陸に上がっちゃうとまた海に飛びこみたくなくなるんだよね。陸って偉大。やっぱりあたしって陸棲生物なんだなーってあらためて実感。大地を褒めよ讃えよ土を。

海岸であたしが大地讃頌(アルトパート)を熱唱してたらなんかちょろちょろ動いてる。ねずみだ。それも一匹二匹じゃない。百匹はいた。
ひっと声が出た。べつにこれまでねずみに悪い感情は持ってなかったしどっちかっていったら入浴剤と同じくらいの好き度でいたんだけどね。
かわいくないんだ、ねずみが。ねずみってかわいいかとおもってたらウォルト・ディズニーにだまされてただけか。

あたしが泳ぎついたのはねずみの島だった。ねずみが文明を営んでる原始共産主義国家。

はじめはあたしという巨大生物を遠巻きに見ていたねずみたちだったけど、すぐに食べ物を持ってきてくれるようになった。
ねずみの言葉はわからないから想像でしかないけど、神仏に対するお供えものみたいな行為だとおもう。
なんか知らないけどばかでかいやつが海の向こうからやってきた、なにをするでもないけど下手に刺激したらまずそうだ、ままここはひとつ穏便に。てなかんじで、いちごやブルーベリーやラズベリーを持ってきてくれる。ありがたいけどベリーばっかりじゃん。しかも天然種。口すっぱくなるわ。

ねずみの言葉はわからないといったけど、あたしのおもってることはねずみ側にはなんとなく伝わる。
腹へったとか眠いとかひとりにさせてくれとかそういった程度のことなら身ぶり手ぶりでなんとなく伝えられる。
ねずみ側もジェスチャーでなにやら伝えようとしてきてたけど、あたしのほうはねずみのいいたいことがちっともわからないのであきらめたようだ。
だってあたし目悪いし。背泳ぎしてるあいだにコンタクトが波に呑まれていったし。ねずみの表情なんかちっとも読みとれない。

ねずみたちの粋な計らいによって衣食住には困ることなく、あとは名声だけよねーとあぐらをかいていたら、反乱は突然やってきた。
起きたら大量のねずみにとり囲まれてた。眼の悪いあたしでもねずみたちの眼が怒りに満ちていることだけはわかる。なんでなんでとおもったけど、でもまあそうか。ねずみからしたら食糧をあたしにぶんどられてるような気分だったんだろうね。税の怒りはおそろしい。あたしも以前は納税者だったからその気持ちはわからんでもない。

クーデターってほどでもないけど、怒れる納税者たちに囲まれて居座るほどあたしの神経は図太くない。
っちゅーわけで(ネズミだけで)ねずみの島からあたしは逃げだした。もちろん背泳ぎで。

きっとこれから突然島に姿をあらわした怪物を撃退した話として『シン・ゴジラ』みたいにねずみの国に語りつがれるんだろうなーと思いながら。

この後あたしは芋を掘りすぎてえらい人の怒りを買うことになるんだけど、それはまた別のお話。

2019年2月10日日曜日

ものを独占する子にいちばん効果的な方法


五歳の娘のともだちにNちゃんという子がいる。
Nちゃん、ふだんは引っ込み思案な子なのだけれど、他の子と意見がぶつかったときにぜったいに引きさがらない。

たとえば公園のブランコを取り合いになったとき。
Nちゃんはぜったいに引かない。
周りの子どもや大人が
「先に〇〇ちゃんが使ってたから後でね」とか
「じゃあじゃんけんで決めよう」とか言っても、Nちゃんは耳を貸さない。
「Nちゃんが使う!」の一点張り。ブランコを握ったまま意地でも離さない(Nちゃんは身体も大きいので力も強い)。
たまにじゃんけんに応じることもあるが、じゃんけんに負けても泣いてブランコを離さない。

まあそういう子はめずらしくない。ぼくが子どものときにもいた。
きっと大事に育てられているのだろう。
困った子だとはおもうが、よその子のことなので放っておく。

問題は、うちの娘が真正面からぶつかることだ。


Nちゃんがブランコを力づくで独占すると、娘はNちゃんを説得しようとする。
「交代で使ったらいいでしょ」とか「じゃんけんで決めたらいいじゃない」とか。

はっきりいって、ルールを守れない子に対して「説得」はいいやり方じゃない。

二歳ぐらいならいざしらず、五歳なら「公園の遊具をひとりじめしてはいけない」ことぐらいわかっている。
わかっていて逸脱しているのだから、いくら正論でルールを説いたって無駄だ。泣いて抗議をするなんて、わがままな子を喜ばすだけだ。
痴漢に「痴漢、アカン!」というのと同じぐらい無意味だ。


ものを独占する子にいちばん効果的なのは放っておくことだ。
「あっそう。じゃあひとりでブランコ使ったらいいよ。その間にみんなであっちでおにごっこしよう!」
とするのが最適な方法だ。
ルールを守ろうとしない子の相手に時間を費やすなど、人生の浪費でしかない。

「ゆずりあわないと仲間はずれにされる」ということを経験しないとNちゃんのような子はゆずらない。
「我を通してばかりだと長期的にはかえって損をする」ことを学ぶのはNちゃんのためにもなるはず。

だからぼくは「もういいじゃない。あっちでブランコよりおもしろい遊びしよう」と言うのだが、娘も強情なので「いや、先にブランコ使う!」と泣きだしてそこから一歩も動こうとしない。

「困った人は放置がいちばん」ということを教えてあげたいのだが、どうもうまくいかない。
困ったものだ。



子どもの正義感に対して大人はどう対処するのか、いつも困ってしまう。

さっきのブランコの件に関しても、できることなら「Nちゃん、順番に使おうね」と言って、Nちゃんが他の子にゆずるのがいちばんいい。
えほんの中ならそれが「もっとも正しい」回答だろう。

だが残念ながら現実の世の中は「いちばん正しいやり方」と「いちばんうまくいくやり方」はイコールではない。

女の子に特に多いようにおもうが、うちの娘もいい子であろうとするあまり他人の不正が許せないことがよくある。

赤信号なのに横断歩道を渡る人やたばこのポイ捨てをする人を見て「だめなんでしょ?」とぼくに問いかける。
ぼくは答えに窮してしまう。
そう、だめなんだよ。だめなんだけどね……。世の中は、言って分かってくれる人ばかりじゃないんだよね……。

2019年2月9日土曜日

誰にでもできる仕事


テレビでやっていたのだが、「昔はボウリング場で人がピンを並べていた」のだそうだ。
テレビでは当時の映像が流れていたが、レーンの向こう側に人がいて、一投ごとに倒れたピンをセットしなおしていたそうだ。


高速道路に乗った。
料金所の様子は昔とすっかり様変わりしている。大半の車がETCカードを搭載しているので、ほとんどがETC専用レーンだ。
昔はいた「料金所のおじさん」は絶滅寸前になっている。



便利な世の中になることは、労働者の立場からすると苦しいことかもしれない。

こういっちゃ悪いが、ボウリング場でピンを並べるのも、料金所で通行料を受け取るのも、かんたんな仕事だ。たぶん。
いや、楽だという意味ではない。どんな仕事でもそれなりの苦労はあるだろう。レーンの奥の狭いところに身をひそめてボールが転がってくるのを待つのはたいへんそうだ。事故も多かったんじゃないかな。

でもボウリング場のピン並べに特別な技能は要しない。
たぶん新人が入ってきても
「向こうからボールが飛んでくるから。その間はじゃまにならないように気をつけて。で、ピンが全部倒れたらこうやって十本並べなおす。そしたらまた待機。それだけ。詰まったとかトラブルがあったらでかい声で呼んで」
ぐらいの説明で、あっという間に一人前の労働者になっていただろう。研修五分。

昔の小説や映画を見ていると、コピーをとるとか、電卓を叩いて合計を出すとか、造花にピンをつける内職とか、「かんたんそうな仕事」が出てくる。
今はそんな仕事はほとんど絶滅した。
単調で賃金の安い仕事を人間がしなくて済むようになったのだ。

でもそれって幸せなことなんだろうか。



世の中はすごく便利になったけど、人間はすごく優秀になったわけではない(劣化しているという人もいるがぼくはそうはおもわない)。

むずかしい作業が苦手な人はいつの時代も一定数存在する。
ものおぼえが悪い人、計算ができない人、ものを知らない人、一度にたくさんのことをできない人、人付き合いが苦手な人、不器用な人、身体の弱い人。

誰にでもできる仕事といったら言いすぎだけど、「世の中の八割ぐらいの人ができる仕事」がどんどんなくなっていっている。

よくわかってない人が「仕事なんて選ばなければコンビニでも介護の仕事でもやって食っていける」なんてしたり顔で言うが、コンビニ店員も介護職も技能職だ(どっちもやったことないけど)。
おぼえることが多かったり体力を必要としたり。少なくとも「誰にでもできる仕事」ではない。
「明日一日だけボウリングのピン並べる仕事やってください」と言われたらそれなりにこなせるだろうけど、未経験者が「一日コンビニバイト」になってもまったく戦力にならないどころか足手まといになるだけだろう。

かんたんな仕事は減り、技能や知識や体力を要する仕事の割合が増えた。
その分人々が仕事をしなくて済むようになっていたらよかったんだけど、残念ながら21世紀になってもほとんどの人は働かなければ食っていけない。

「バカでも不器用でも人付き合いが苦手でもまじめにこつこつ働いていればそれなりの暮らしができる」という時代は過去のものになり、むずかしい仕事をできない人の居場所がなくなってしまった。

誰が悪いというわけじゃないんだけど、どうも理不尽さを感じてしまう。

2019年2月8日金曜日

【読書感想文】同一労働同一条件 / 秋山 開『18時に帰る』

18時に帰る

「世界一子どもが幸せな国」オランダの家族から学ぶ幸せになる働き方

秋山 開

目次
Prologue 「幸せ」のためにオランダが選んだ働き方とは?
1 生産性を重視した仕事の基本
2 オランダ型ワークシェアリングの仕組み
3 「同一労働同一条件」が優秀な人材を集める理由
4 オランダ式テレワークがもたらした効果
5 ソフトワークを実現する「チーム主義」とは?
6 社員の「モチベーション」を重視すると企業は成長する
7 「世界一子どもが幸せな国」のソフトワーカーの生き方
Epilogue 「2人目の壁」を突破するために必要なこと

ぼくは大学で労働法を専攻していたんだけれど、ちょうどそのころ「オランダではワークシェアリングが導入されている。これを日本にも!」という話をよく聞いた。
日本は不況のまっただなかで終身雇用の崩壊だとか派遣切りだとかが話題になっていたころだったから、これぞ今後の働き方!と思ったものだ。

それから十数年。ワークシェアリングなんてとんと聞かなくなった。
その間、日本では高齢化がさらに進み、若手の数は減り、女性の社会進出は進んだ。ワークシェアリングを必要とする労働者は前よりも増えているはず。しかし働き方改革だなんだと呼び声の勇ましさとは対照的に、働き方はまったく多様化していない。
正社員で働くなら残業もセット。派遣社員だと二年で契約切れ。パートタイマーでは食っていけない。
たとえばシングルマザーの「保育園の送り迎えがあるから長くは働けないけど子どもを養えるぐらいは稼がないといけない」なんて要望は実現不可能というのが日本の現状だ。決して贅沢を言ってるわけではないのに。



だがオランダでは多種多様な働き方が認められているという。
 このようにオランダでは、30年以上もの間、働き方の改革が進められてきました。その結果、男性であろうと女性であろうと関係なく、「どういうふうに働きたいのか」「どれくらい働きたいのか」「どこで働きたいのか」を自ら決めることができるようになったのです(もちろん職業によって制限はありますが)。
 翻って今の日本はどうでしょうか。残念ながら、労働者が主体的に労働条件や環境を求めたり決めたりということは簡単ではありません。「子どもが生まれて間もないのに転勤を言い渡された」「仕事が終わっていても、上司が帰宅するまで家には帰れない」「毎年、有給休暇が余る。それどころか休日出勤の代休すら取れない」といったことは、日常茶飯事ではないでしょうか。
 こういった日本の現状に鑑みれば、働く個人が主体的に自分の働き方を決めることができるオランダというのは、まさに日本が参考にすべき事例なのではないかと感じます。
「夫は正社員として家計を支えて会社の命令なら残業でも転勤でもおこない、妻は専業主婦として家事と育児に専念」
なんてのは戦後数十年のごく短期的な”常識”だったのに(当時ですら幻想に近かったと思うが)、いまだにその例外的な”常識”に基づいた制度がまかりとおっている。

ぼくは以前どブラック企業に勤めていた。年間休日は約八十日。月に百時間を超えるサービス残業。インフルエンザでも休めない。
その会社は結婚を機に辞めた(そしてほどなくして潰れた)。「生活できない」と思ったからだ。

次の会社はいくぶんマシだったが、やはり月に八十時間ぐらいの残業があり、幼い子どもがいても飲み会や社員旅行は強制参加だった。

そして今は、残業は月に一時間程度(つまりほぼゼロ)。強制参加の飲み会もない。
子どもを保育園に送ってから出社し、帰ってから子どもといっしょに晩ごはんを食べ、子どもといっしょに風呂に入り、子どもといっしょに寝る。すごく幸せな暮らしだ。

これが誰にとってもあたりまえになればいい(仕事をしたい人はすればいいけど)。
「給料はそこそこでいいから残業ゼロがいい」という人は多いはずなのに、そんなごくごく控えめな希望ですらなかなか叶えられない。
そんなにむずかしいことじゃないはずなのに。


五人で食事をするのに椅子が四つしかない。どうすればいいか、答えはかんたんだ。
なのに「席が足りないからひとつの椅子にふたりで座ろう」とか「交代で立ちながら食事をしよう」とかやってるのが日本の企業だ。それを毎日くりかえしている。そして、食いづらいとか食うのが遅いとか文句を言ってる。

席が足りないなら椅子を増やせばいい。人手が足りないなら人を増やせばいい。
解決策はいたってシンプルだ。



『18時に帰る』には、さまざまな働き方のケースが紹介されている。
短時間勤務、週四日勤務、テレワークなど。

兼業主婦はもちろん、男性正社員、さらには管理職や経営者までもが家庭の事情にあわせて短時間勤務を選んでいる。
これを支えているのは、ただひとつのシンプルな原則だ。
 これは、今から約20年前の1996年に労働時間差別禁止法(Wet  onderscheid arbeidsduur)によって定められたもので、同法によってフルタイムワーカーとパートタイムワーカーの待遇格差が禁止されました。
 これにより、賃金や手当、福利厚生のみならず、企業が有する研修制度や職業訓練、年金制度などについても、同じ条件で雇うことが義務づけられたのです。働き方に大きく関わる産休・育休制度、介護休暇、有給休暇についても、同様の権利が与えられています。
日本では「同一労働同一賃金にしよう!」なんて叫ばれているけど、オランダはその先をいっていて、”同一労働同一条件”が実現されている。短時間勤務であっても時間あたりの賃金を同じにするのは当然で、雇用形態や福利厚生も同じ権利が認められるのだ。

この原則が徹底されているから、「出産のタイミングで休職する」「子どもが小さいうちは出勤時間を減らす」「親の介護があるから時短勤務する」といった選択が可能だし、なにより子育てが終わったら以前と同じ条件で復帰できるというのが大きい。

日本の働き方だと、「子どもが小さくてもフルタイムで働きつづける」か「パートにして、子育て期間だけでなくその先のキャリアも諦める」の二択しかない場合が多い。
”同一労働同一条件”を実現させないと、やれ働き改革だ一億総活躍社会だと声高に旗を振っても何の意味もない

国会でやるべきことはただひとつ、オランダと同じように労働時間差別禁止法を成立させること。政治家の旦那様連中である経団連の言うことなんか無視して。かんたんでしょ?



もちろんオランダにはオランダの問題があるのだろう。
この本には「オランダの働き方はこんなにすばらしい!」という話しか出てこないが、不満を抱えている人だって当然いるだろう。
(ちなみに”同一労働同一条件”を実現させた後のオランダの経済成長率は、世界的に見ても高い水準を維持している。多様な働き方を選べるようにすることは少なくとも経済的にマイナスにならないようだ)

とはいえ、選択肢を多くすることはまちがいなく労働者にとってよいことだ。
そしてそれは、企業にとってもプラスになる。
 ユトレヒト大学のプランテンガ教授の会話に、とても印象的な話がありました。それは次のような内容です。「働くことに幸せを感じている従業員を増やすことが、企業の生産性を高めるのです。
 なぜなら育成してきた人を失うのは、企業にとってとても大きな損失だからです。まして育児や出産で失うのは、本当にもったいないことです。
前述した、ぼくが勤めていたブラック企業ではどんどん人が辞めていっていた。
たくさん辞めてたくさん採る。求人サイトには常に求人が載っていて、人材紹介会社にも年間何千万という紹介料を払っていた。
社員が辞めるたびに引継ぎコストが発生するし、個人が持っていたノウハウは失われる。
なんて無駄なんだ、新規採用に使う金を、今いる社員を辞めさせないために使えよとずっと思っていた。

だがブラック企業の経営者というのは、合理的な考えが嫌いなのだ。どちらが本当にお得か、なんてことは気にしていない。とにかく「自分が苦労したのに自分のところの社員が苦労していないのが気に入らない」の一心でブラック化に磨きをかけているのだ。
だからどれだけ儲けようと社員には分配しない。待遇も良くしない。

こういう会社がのさばってきたのが日本社会だ。
しかし風向きは変わりつつある。労働者人口が増えつづけていた時代は終わった。若い人はどんどん減ってゆく。不況になったとしても、昔ほど若者が就職に困ることはない。
労働者の立場が相対的に強くなり、労働者が企業を選べるようになってゆく。

こうした流れについていけない会社はどれだけ利益率が高かろうが、人がいなくなってつぶれる。
これからは「社員が辞めない会社」だけが生き残っていく時代になるのだ。

ぼくは経営者ではないが、幸いなことにある程度なら社員の働き方を決められる立場にある。
オランダ式の自由な働き方を導入してみようと思う。



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2019年2月7日木曜日

【読書感想文】選挙にマイナス票を導入という思考実験 / 森下 辰男『ハイド氏は2票方式で落選させる』

ハイド氏は2票方式で落選させる

森下 辰男

内容(Amazonより)
選挙で棄権ばかりしている有権者でも、議員にしたい人物に投票するだけでなく、議員にしたくない人物を落選させる☓投票用紙があればきっと投票に行くでしょう。小著は議員にしたい候補者を〇票で選出する現行の1人1票の投票方式を憲法の精神に反する不完全で差別的な制度と断定して、議員にしたくない候補者に☓の票を入れて落選させる、有権者1人に2票〇☓方式の投票制度を披露しています。この制度の面白さはサッカーをラグビーの楕円球でしたり、ゴルフのコンペを卵型のボールでするようなスリリングな政治家の淘汰論です。

Amazon Kindleでのみ販売。たぶん自費出版なんでしょう。
個人が手軽に本を出せるようになったのはいいことだ。

とはいえいろいろ読みにくくて、「編集者の仕事って大事なんだなあ」と痛感する結果に。

中盤までは選挙制度改革の話だけど、ひたすら同じことのくりかえし。
そして後半は政権批判、自民党の改憲草稿批判、原発政策批判と、テーマとほぼ関係のないことを好き勝手書きつらねているだけ。
怒りに任せて書き散らしているので、反政権派のぼくですら読むに耐えない。

「2票方式」自体は悪くない制度なのに、この本では同意を集められないなあ。



このブログでもさんざん書いてるからここでは長々と書かないけど、ぼくは今の選挙制度に不満を持っている。特に小選挙区制には大反対だ(読みたい方は記事下のリンクよりどうぞ)。

国民の一割が支持する政党は、国会でも一割の議席を占めるべきだ。それが民主的な選挙というものだろう。
ところが今の選挙制度はまったくそうなっていない。小選挙区制では、一割に支持される政党は一議席も獲得できない。数百万、数千万もの票が死票になってしまう。
国民の三割にしか支持されていない政党が国会では圧倒的多数派を占め、独断専行ですべてを決めることができる。こんな制度はどう考えたっておかしい。

選挙制度が悪いから民意が政治に反映されないし、民意が政治に反映されないから投票率は下がるし、投票率が下がるからますます民意が政治に反映されなくなる。

……いかん、長々と書かないといいつつ書きだしたら止まらない。



『ハイド氏は2票方式で落選させる』で訴えていることはいたってシンプル。
ある候補者が立候補した場合、その候補者に好感、好意を持っている人が〇票を投じるのなら、その候補者の悪行、醜聞を知っていて悪感情を持っている有権者も☓票を投じることができなければ不公平で、有権者を差別することになります。 したがって公平で正しい選挙は、有権者が候補者を〇と☓の2票で審判して、〇と☓の差し引きの得票数で当落を決めることです。
ほぼこれだけ。これだけの内容を、手を変え品を変えあれこれ語っているだけ。
(本筋とは関係ないが、上にあるようにバツだけ半角で表記しているのがすごく読みにくい。「☓票」と書いてあるのをずっと「エックス票って何のことだ?」と思いながら読んでいた)

ぼくも以前、似たような制度(【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら)を考えついたことがあるので、すごく納得できる。
マイナス票を入れられるというのは政治に緊張感があっていいと思う。

現行の選挙制度だと
「7割から嫌われても3割から熱狂的に支持されれば当選する」
ということになり、そんな制度で選ばれた代表が国民の支持を得ているかとはとても言えないだろう。

とはいえ、「2票方式」が民主制を守るためにはいい制度だとしても、実現可能かと考えたらまあ無理だ。
なにしろ「良くも悪くも注目されやすい現職」が今よりずっと不利になる制度だからだ。

与党に不利、現職に不利。
そんな選挙制度改革が国会で通るわけがない。満場一致で否決されるかもしれない。

となれば「2票方式」を公約にする党をつくって支持を集めるしかないわけだが、仮にその党が第一党になったとしても、権力を手にしたとたんに撤回する可能性が高い。自分が不利になる制度なんて誰も導入したくないでしょ。

『ハイド氏は2票方式で落選させる』では「そのためにはSNSでみんなが声を上げればOK!」みたいに書いてるけど、いやいやSNSってそんな万能じゃないよ。ただの情報発信ツールだから。

ということで実際の選挙に導入するのはまず不可能だろうけど、こういう思考実験自体はおもしろい。

会社の役員会議とかで「2票方式」を取り入れてみてもいいかもしれないな。
会社や学校なんかであたりまえのように使われるようになれば「じゃあ国政もこっちのほうがいいよね」ってなるかもしれないね。
その前に「2票方式」のいろんな欠点も見えてくるだろうし。

2019年2月6日水曜日

【読書感想文】ゴキブリ出て騒いでるの大差ない / 貴志 祐介『雀蜂』

雀蜂

貴志 祐介

内容(Amazonより)
11月下旬の八ヶ岳。山荘で目醒めた小説家の安斎が見たものは、次々と襲ってくるスズメバチの大群だった。昔ハチに刺された安斎は、もう一度刺されると命の保証はない。逃げようにも外は吹雪。通信機器も使えず、一緒にいた妻は忽然と姿を消していた。これは妻が自分を殺すために仕組んだ罠なのか。安斎とハチとの壮絶な死闘が始まった―。最後明らかになる驚愕の真実。ラスト25ページのどんでん返しは、まさに予測不能!

「驚愕のラスト」という謳い文句の小説はまずつまらないという法則があるが、『雀蜂』もご多分に漏れずがっかりさせられる出来だった。
貴志祐介作品って当たり外れが大きいなあ。

スズメバチとの戦い、しかも過去に刺されたためこれ以上刺されたらアナフィラキシーショックで死ぬかもしれないという設定自体はスリリングで悪くない。
狂犬病のセントバーナードと戦うスティーブン・キング『クージョ』を思いだした。『クージョ』はシンプルな設定なのに長篇で読むに耐えうる出来だった。さすがはキング。

一方の『雀蜂』はというと……。
舞台は冬の雪山。主人公が目覚めると、家の中には大量のスズメバチ。どうやら妻が浮気相手と共謀して自分を殺すためにスズメバチを仕掛けたらしい。という話。

まず、主人公が命を賭けて戦う理由が理解できない。
『クージョ』の場合は、
「屋外の車の中に閉じこめられた」
「外に出ると狂犬病のセントバーナードが襲いかかってくる」
「このままだと車内の温度がぐんぐん上がって子どもの命が危ない」
という設定があるので、命賭けでセントバーナードと戦うことに説得力がある。

『雀蜂』のほうは
「家の中にスズメバチがいるが、全部の部屋にいるわけではない」
「電気は通じているし数日食いつなぐ食糧も十分にある」
「数日待てば人が来る」
「殺虫剤などハチと戦う武器も多少ある」
「雪山なので窓を開ければハチは活動できなくなる」
という条件なので、戦う必要がまったくない。
せめて、なぜ舞台を夏にしなかったのかと言いたい。殺人ではなく事故死に見せかけるとしても夏のほうが自然だろう。

根幹となる「命を賭けて戦わなければならない理由」に説得力がないので、どれだけ主人公が一生懸命戦っても「この人なにばかなことやってんの」としか思えない。
本人は必死でも、読んでいる側としては「キャー、ゴキブリ!」と騒いでるのと大差ないように思えちゃうんだよなあ。



「ラスト25ページのどんでん返し」については、むりやりオチをつけたという感じで、まあひどいものだった。(一応理由付けがあるとはいえ)語り手が読者に対して嘘をつくというのは小説のルール的には反則だし。

さらに「ラスト25ページ」のくだりでは、オオスズメバチが飛びまわってる中で平然とおしゃべりしてたり、のどに穴が空いて大量出血してる人を警察がほったらかしにしてたり、ツッコミどころしかない。

スズメバチの知識が得られること以外にはおもしろみは感じられなかったなあ……。


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2019年2月4日月曜日

【読書感想文】虐げる側の心をも蝕む奴隷制 / ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』

ある奴隷少女に起こった出来事

ハリエット・アン ジェイコブズ(著) 堀越 ゆき(訳)

内容(e-honより)
好色な医師フリントの奴隷となった美少女、リンダ。卑劣な虐待に苦しむ彼女は決意した。自由を掴むため、他の白人男性の子を身篭ることを―。奴隷制の真実を知的な文章で綴った本書は、小説と誤認され一度は忘れ去られる。しかし126年後、実話と証明されるやいなや米国でベストセラーに。人間の残虐性に不屈の精神で抗い続け、現代を遙かに凌ぐ“格差”の闇を打ち破った究極の魂の物語。

アメリカにあった奴隷制のことを、ぼくは知っていた。
奴隷貿易がおこなわれ、奴隷制の維持を訴える南部と奴隷解放の北部に分かれ、アメリカを二分する南北戦争がおこなわれ、リンカーンが奴隷解放宣言を出したと。
教科書に書いてあったし、リンカーンの伝記も読んだ。

しかし知識として知っていることと理解することはまったくの別物だと、『ある奴隷少女に起こった出来事』を読んでぼくは痛感した。

「黒人は奴隷として虐げられていた」
その一文がぼくの頭の中にあるだけで、その奥にどれだけ多くの人がどれだけ長い間苦しんでいたかということをまったく想像したことがなかった。

 多くの南部婦人の例にもれず、フリント夫人は完全に無気力な女だった。家事を取りしきる意欲はないが、気性だけは相当激しく、奴隷の女を鞭で打たせ、自分は安楽椅子に腰かけたまま、一打ちごとに血が流れ出るまで、平然とそれをながめていた。彼女は教会に通っていたが、聖餐のブドウ酒とパンを口に入れてもらっても、キリスト教徒らしい考え方は、なじまなかったらしい。教会から戻ったばかりの日曜日でも、指定した時間に夕食の用意が整わなければ、夫人は台所に陣取り、食事ができるのを待った。そして、料理が残らず皿に盛られるのを見とどけると、調理に使われたすべての深鍋や平鍋につばを吐いてまわった。こうすることで、鍋のふちに残った料理や肉汁の一さじが、料理女とその家族の口に入らないようにと気を配った。
 チャリティのまだ幼なかった息子のジェイムズは、感じの良さそうなご主人に売られたと思ったが、やがてご主人は借金を抱えるようになり、ジェイムズは、裕福だが残虐なことで知られる別の奴隷所有者に売られてしまった。この男のもとで、犬の扱いを受けながら、彼は大人になった。ひどい鞭打ちのあと、あとで続きを打ってやると脅かされ、その苦痛から逃れるために、ジェイムズは森の中に逃げこんだ。考えられる限り、最も悲惨な状態に彼はいた――牛革による鞭打ちで皮膚は裂け、半裸で、飢えに苦しみ、パンの耳すら口に入る手だてはなかった。
 数週間後、ジェイムズは捕まり、縛られて、主人の農場に連れ戻された。数百回の鞭打ちのあと、パンと水だけを与え牢に閉じ込めておくいつもの処罰は、この憐れな奴隷の不届きには軽すぎると主人はみなした。よって、奴隷監督の気の済むまで鞭で打たせたあと、森に逃亡した期間だけ、ジェイムズを綿繰り機の鉄のつめにはさんで放置することに決めた。この手負いの生き物は、頭からつま先まで鞭で切り裂かれたあと、肉が壊死せず治るようにと、濃い塩水で洗われた。そして綿繰り機の中に押し込められ、あおむけになれないときに横に向けるだけのわずかな隙間を残して、ギリギリと鉄のつめは締められた。毎朝、一片のパンと水を入れた椀を奴隷が運び、ジェイムズの手の届くところに置いた。奴隷は、そむくと厳罰に処すと脅されて、彼と口をきくなと命令されていた。
 四日が過ぎたが、奴隷はパンと水を運びつづけた。二日目の朝、パンはなくなっていたが、水は手つかずなことに奴隷は気がついた。ジェイムズが四日五晩締め上げられたあと、四日間水が飲まれておらず、ひどい悪臭が小屋からする、と奴隷は主人に報告した。奴隷監督が確認のためにやられた。圧縮機のねじを開けてみると、そこには、ねずみや小動物にあちこちを食べられた死体が転がっていた。ジェイムズのパンをむさぼり食べたねずみは、その命が消える前にも彼をかじったのかもしれない。
こういった描写を読むと、とても軽々しく「まるで奴隷のような生活だ」なんて言う気になれない。
人間扱いされないどころか、家畜よりもひどい扱いが黒人奴隷に対しておこなわれていたのだ。

それも、たった百数十年前に。
今では自由の国と呼ばれているアメリカで。



この本の作者であるリンダ(作者の偽名)は、アメリカ南部の奴隷の子として生まれている。
幼少期はいいご主人に恵まれたこともあり(奴隷としては)幸福な生活を送っていたが、ご主人がなくなり、ドクター・フリントという医師の家に売られた(正確にはドクター・フリントの幼い娘の所有物となった)ことから運命が暗転する。
母親は死に、奴隷としてさまざまな侮蔑的な扱いを受ける。さらには十代半ばにして性的な関係を迫られ、苦悩する。

リンダはドクター・フリントの束縛から離れ、ある白人と関係を持ち、子を産む。ドクターを怒らせ、売らせようとしたのだ。
しかしドクターはリンダを決して手放そうとしなかったため、自分ばかりか子どもまで不幸になると考えたリンダは脱走を決意する。

結果的に脱走は成功するが、立ちあがることすらできない屋根裏部屋に七年も隠れなければならなかったり(食事やトイレの描写が一切ないのだがどうしていたのだろう?)、子どもとは離れ離れになったり、自由州であるはずの北部に逃げてからも追手におびえながら暮らしたり、その脱走劇も決してハッピーなものではない。

何の罪も犯していない人間が、自由を手に入れるため、子どもを守るために多くのものを犠牲にしなければならなかったのだ。

ことわっておくが、リンダは奴隷の中では比較的恵まれた境遇にあった人だ。
幼い頃は教育を受けさせてもらっているし(それが逃亡生活にも役立っている)、おかげで仕事も他の奴隷よりよくできたようで奴隷保有者からも一目置かれている。また黒人・白人問わず言い寄ってくる男もいることから、容姿も優れていたのだろう。多くの支援者にも恵まれている。
なにより、彼女は運が良かった。だからこそ脱走にも逃亡にも成功している。
極悪非道の「ご主人」として描かれているドクター・フリントにしても、当時の奴隷保有者としてはまだマシな部類だったんじゃないかと思う。頭の中には差別意識が詰まっているとはいえ、リンダに対して暴力や性的暴行をくわえたという描写はほとんどない(書かなかっただけかもしれないが)。医師という職業についていたわけだし、きっと理性的な人物だったのだろう。

そんな(比較的)恵まれた環境にあったリンダですら、今の日本人からすると直視できないほどのひどい目に遭わされているのだ。
いわんや他の黒人奴隷たちのおかれた境遇は、想像するに余りある。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の原著が刊行されたのが1861年。『若草物語』の刊行されたのが1868年。どちらも自伝的作品なので、同じ時代の同じ国の少女の物語である。
しかし、かたやお父様の帰りを待ちながら仲良く助けあって暮らす姉妹であり、かたや逃げだせばねずみに食い殺されるまで折檻される環境で子孫の代まで永遠の奴隷として生きていかなければならない少女の物語。
北部と南部、白人と黒人というだけでこれほどのちがいがあると考えると、なおいっそう奴隷制の残酷さが浮き彫りになる。



特に印象に残ったのはこの文章。
 読者はわたしの言うことを信じても良いかもしれない。わたしはわたしの知っていることしか書かないから。いやらしい鳥ばかりが入った鳥かごで、二一年間も暮らしたのだから。わたしが経験し、この目で見たことから、わたしはこう証言できる。奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ。それは白人の父親を残酷で好色にし、その息子を乱暴でみだらにし、それは娘を汚染し、妻をみじめにする。黒人に関しては、彼らの極度の苦しみ、人格破壊の深さを表現するには、わたしのペンの力は弱すぎる。
 しかし、この邪な制度に起因し、蔓延する道徳の破壊に気づいている奴隷所有者は、ほとんどいない。葉枯れ病にかかった綿花の話はするが我が子の心を枯らすものについては話すことはない。

この本を読了した後では、「奴隷制は、黒人だけではなく、白人にとっても災いなのだ」この言葉がなおいっそう重くのしかかる。

黒人奴隷たちを虐待する白人も、そのほとんどは奴隷制がなければ、穏やかで礼儀正しい人たちでいられたはずだ。
奴隷制があり、生まれたときからその制度にどっぷり浸かっていたからこそ、彼らは冷酷で無慈悲で不節操な生き方をすることになった。それは彼ら自身にとってもすごく不幸なことだ。

『ある奴隷少女に起こった出来事』の中で最大の悪役として描かれるドクター・フリントも、奴隷制度がなければむしろ人徳のある医師として生きていたんじゃないかと思う。
人を人として扱わないことは、虐げられる側だけでなく、虐げる側の心をも蝕んでいく



この本、一度は自費出版で刊行されたものの大きな話題にはならず、人々からほぼ忘れられた。
しかし出版から126年後に歴史学者がこの本がノンフィクションであることを明らかにし、それをきっかけにアメリカでベストセラーになったそうだ。
そして、訳者はプロの翻訳者ではなく、翻訳とは無関係の会社員。たまたま原著に出会い、翻訳しようと思い立ったのだという。

たまたま無事に逃げることができた黒人女性が書いた本が、たまたま学者の目に留まって再販され、たまたま一人の日本人が出会ったことでこうして日本語で読むことがができる。
偶然のつなわたりのような経緯をたどってこの良書が文庫として読めることに心から感謝したい。

こういう世界を見せてくれるからこそ、本を読むのはやめられない。

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2019年2月2日土曜日

修学旅行の方法


ふと思ったんだけど、日本人って修学旅行によって旅行の方法を身につけてるんじゃないかな。

修学旅行ってめちゃくちゃ準備するじゃない。
たかだか二泊三日なのに、何ヶ月も前から綿密なスケジュール立てて、持ち物を用意して、何度も何度も忘れ物がないかチェックして、出発前日には結団式とかいうわけのわからん儀式までやって、やっと旅行に行く。

で、大人になって何度か旅行をしてみてやっと気づく。
ぜんぜんスケジュールなんて立てなくていいや。どうせ予定通りにならないし。予定通りにしすぎたらつまんないし。
持ち物も、わざわざ用意しなくてもふだん使っているものを鞄に詰めこめばいいや。何か忘れたって、お金とパスポートさえあれば後はどうとでもなるし。
修学旅行のときにかけられた呪いがようやくとける。


どっちのやりかたがいいというわけでもないんだけどさ。すべてをコントロール下に置きたい人だっているだろうけどさ。

でも修学旅行式の旅行ってダサいよね。

何週間も前から下準備していよいよ旅行当日です、ってよりもふらっと思いたってリュックひとつで旅に出ました、のほうがだんぜんかっこいい。
群ようこさんの本に『鞄に本だけつめこんで』ってのがあるけど(内容は旅行記ではなく読書エッセイ)、鞄に本だけつめこんで旅立つなんて理想の姿だ。

修学旅行の準備をガチガチにやるのもわかるんだけど。極力トラブルを起こさないようにしようというやりかた。教師の立場だったらそっちのほうがいいに決まってる。
でもあれは旅行の準備というより出兵の準備だよなあ。


2019年2月1日金曜日

国境に作るのは壁か溝かの考察


米大統領が国境に壁をつくるといってるけど、なぜ壁なんだろう?


素人考えだけど、不法移民の侵入を防ぐなら、壁より溝(または堀)のほうがいいんじゃないかと思うんだけど。
以下、その理由。

1.壁より溝のほうが建設コストが小さそう


壁を建てるより、穴を掘るほうがかんたんなんじゃないのかな。
掘った分の土を溝の両脇に固めれば、壁+溝+壁でより強固になるし。

2.溝を越えるほうがむずかしくない?


壁だったら、その近くに足場をつくって超えることができる。 でも溝から這いあがるためには、溝の中に足場を作らないといけない。こっちのほうがむずかしい。

3.不法入国者を捕まえやすい


溝の中に入ってしまえば、進むのも退くのも容易ではなくなる。溝の中にいるときに衛兵に見つかったらまず逃げられない。



……と、溝のほうがいいんじゃないか? と思ったんだけれど、よく考えると万里の長城やベルリンの壁など、人の行き来を制限するときに作られるのはまず壁だ。
日本の城は堀で囲まれていることが多いが、城は緊急時以外は出たり入ったりしないといけないものだから、国境に作られる壁とは性質がちがう。

先人たちが壁を選んでいるということは、やはり溝より壁のほうが侵入を防ぐのに向いてるんだろうな。なぜだろう。

以下、溝のデメリットを考えてみた。

1.壁のほうが建設コストが小さい?


ぼくは建築の素人なので溝を掘るほうがかんたんと思っているけど、実際は壁をつくるほうが穴を掘るより楽なのかもしれない。
壁は頑丈であればせいぜい一メートルぐらいの幅でいいけど、溝は最低数メートルの幅がないとかんたんに越えられるもんな。

2.向こう側が見える


溝は壁とちがって向こう側が見える。
刑務所が壁で囲っているのは、中が見えるとまずいからだろう。向こうが見えれば、あらかじめサインを決めておけば中と外で意思疎通もできるし。
また、弓矢や銃などの飛び道具を使えば溝を越えなくても攻撃をすることもできる。防衛上は壁のほうがはるかに強い。

しかしアメリカとメキシコを隔てる壁に関していえば、移民の侵入を防ぐのが目的なのだから、見えることは大した問題ではないと思うんだが。

3.橋をかけやすい


対岸に協力者がいた場合、溝のほうが壁より容易に向こう側に渡りやすい。ロープを渡して縄ばしごをつくるとかして。

4.埋まる


あっそうか。ここまで書いて気がついた。
溝は埋まるんだ。風などによって土砂が堆積して埋もれる。
それよりなにより、大雨が降ったら川になる。そしたら泳いだり船に乗ったりして渡れる。


そうかー。
やはり溝はだめだな。壁がいい。いや、国境に壁をつくるのがいいとは思わんけど。