2023年2月28日火曜日

【読書感想文】加谷 珪一『貧乏国ニッポン ますます転落する国でどう生きるか』/ 米百俵をすぐ食う国

貧乏国ニッポン

ますます転落する国でどう生きるか

加谷 珪一

内容(e-honより)
新型コロナウイルスの感染拡大で危機に直面する日本経済。政府の経済対策は諸外国と比べて貧弱で、日本の国力の低下ぶりを露呈した。実は、欧米だけでなくアジア諸国と比較しても、日本は賃金も物価も低水準。訪日外国人が増えたのも安いもの目当て、日本が貧しくて「安い国」になっていたからだ。さらに近年は、企業の競争力ほか多方面で国際的な地位も低下していた。新型コロナショックの追い打ちで、いまや先進国としての地位も危うい日本。国は、個人は、何をすべきか?データで示す衝撃の現実と生き残りのための提言。

 よほどのじいさんばあさんを除けば、さすがにもう日本が世界の中でトップクラスの国力を持っていると信じている人はいないだろう。

 十数年前までは、一般の日本人にとってはまだまだ日本は「強い国」だった。さすがにバブル期ほどの勢いはなくなったが、それでもアメリカに次ぐ経済大国、という認識だった。

 だが日本はここ三十年まったくといっていいほど成長せず、はるか格下だとおもっていたアジアの国々にも抜かれ、いまや「先進国」の立場すら危うくなっている。

 福沢諭吉『学問のすすめ』にこんな言葉がある。

進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。

 進まない人間は後退する、つまり現状維持をしているだけだと進んでいる周囲から遅れをとってしまうということだ。

 『学問のすすめ』が書かれたのは明治初頭だが、この言葉はその150年後の日本の状況をよく言い表している。30年間でまるで成長しなかった日本経済は、いまや主要国の中でビリ争いをくりひろげている。

 そんな日本の過去の停滞っぷり、なぜ落ち目になったのか、そして貧乏国日本にこの先どんなことが待ち受けているの、を経済評論家が解説した本。

 うーん、読めば読むほど気がめいってくるぜ。ぼくにもそれなりの愛国心があるからね(ほんとの愛国者ってのは日本の置かれた厳しい現状を正しく認識した上で対策を講じるものだとおもうけど、なぜか臭い物に蓋をして見なかったことにするやつらが愛国者を名乗るんだから嫌になっちゃう)




 中国の発展を形容するときに「驚異的な成長」なんて言葉が使われるけど、それでいうと日本の状況は「驚異的な停滞」だ。なにしろ他に類がないぐらい成長していないのだから。

 グラフを見れば一目瞭然ですが、日本人の賃金は過去30年間ほとんど上昇していません。一方、日本以外の先進諸外国は同じ期間で賃金が1.3倍から1.5倍に増えています。繰り返しになりますが、これは実質賃金なので、物価も加味された数字です。賃金が高い代わりに物価も高いので暮らしにくいということではありません。
 もう少し分かりやすく、名目上の賃金で比較してみましょう。同じ期間で米国は賃金が2.4倍になっていますが、消費者物価は1.9倍にとどまっています。スウェーデンは賃金が2.7倍となりましたが、物価は1.7倍にとどまっています。一方、日本の賃金は横ばいですが、物価は1.1倍とむしろ上昇しています。
 日本以外の国は、いずれも賃金の伸びよりも物価上昇率の方が低いことが分かります。
 各国は物価も上がっているのですが、それ以上に賃金が上がっているので、労働者の可処分所得は増えています。一方、日本は同じ期間で、物価が少し上がったものの、賃金は横ばいなので逆に生活が苦しくなりました。
 一連の数字から、リアルな生活水準として、諸外国の労働者は過去30年で、日本人の1.3倍から1.5倍豊かになったと見て差し支えないでしょう。
 日本の国力が大幅に低下し、国際的な競争力を失っており、その結果が賃金にも反映されているのです。

 他の国の実質賃金(物価を加味した賃金)が1.3~1.5倍に増えている中、日本だけはマイナス。停滞どころか衰退である。


 少し前に、移民受け入れをするかどうかなんて話が巷間をにぎわしていたが、そんな時期はとっくに過ぎてしまった。なぜなら、貧乏国日本は稼ぎたい外国人にとって魅力的な国ではないから。わざわざ貧しい国に出稼ぎに来てくれるもの好きはそういない。

 逆に、日本人が大挙してアジアの国々に出稼ぎに行くようになる時代も近いと著者は言う。

 実は、アジアの賃金が大きく上昇したことから、高い賃金を求めて逆にアジアで働くことを検討する日本人が徐々に増えているのです。つまり外国人が日本に出稼ぎに来るのではなく、逆に日本人が外国に出稼ぎに行く可能性が出てきたわけです。
 この話は、ITエンジニアなど比較的賃金の高い職種ではかなり現実的になっていると見て差し支えないでしょう。
 経済産業省が行った調査によると、日本におけるIT人材の平均年収は598万円で、平均的な労働者より多少、年収が高いという結果になりました。一方、米国のITエンジニアの平均年収は1157万円と日本の2倍近くになっています。
(中略)
 韓国のIT人材の平均年収は498万円、インドは533万円ともはや日本と大差ありません。グローバルなビジネスの場合、場所による賃金格差は縮小しつつあるという話をしましたが、IT分野はそうした傾向が強いようです。さらに注目すべきなのは中国とタイです。中国のIT人材の平均年収は354万円とすでに日本の6割に達していますし、まだまだ新興国というイメージの強かったタイも192万円です。
 日本の場合、年功序列の人事制度ということもあり、年代によって年収がほとんど決まっていますが、諸外国は異なります。
 平均値でこそ日本を下回っていますが、インドにおける20代から30代のITエンジニアの中には6000万円台の年収を稼ぐ人がいます。同様に韓国では3000万円台、中国も3000万円台のエンジニアが存在しており、タイも高い人になると2000万円を突破します。ある程度の実力があれば、アジアで働いた方が高い年収を稼げる可能性が高まっていることが分かります。

 韓国やタイのITエンジニアは日本と変わらない給与をもらっている。しかもそれは平均の話であって、トップクラスのエンジニアであれば海外のほうが稼げる。となると、優秀な人からどんどん日本を出ていくわけで、優秀な人が抜けた日本の企業はますます没落してゆく……という悪循環。

 日本企業の特徴であった終身雇用はほぼ滅びたとはいえ、年功序列賃金はまだまだ生き残っている。このままだと日本企業から「若くて優秀な人」がいなくなり、「優秀でない年寄り」ばかりになる日も近い。というかもうなっているかも……。




 さて。日本は没落した。どうやって立て直すか。三十年成長していなかった国はどうやったら成長するのか。

 数年前まで「デフレだからだめなんだ」「円高だからだめなんだ」と言われていた。

 が、著者は「デフレは不況の結果であり原因ではない」「日本はとっくにモノを作って輸出する国ではなくなっているモノづくりの国ではなくなっている」と喝破する。この本が書かれたのが2020年。

 その後、円安になり物価高になった。しかしいっこうに景気は良くならない。ただただ生活が苦しくなっただけ。著者が正しかったことが証明された。

 学者も素人も「この政策を実行すれば景気が良くなる」「経済が成長しないのはこの政策を実行しないからだ」と声高に叫んでいる。が、日本の景気低迷は政策で解決できないと著者は指摘する。

 現代の経済学で想定されているほぼすべての景気対策を実施したにもかかわらず、日本の成長率にはほとんど変化がないのです。こうした事実を目の前にすると、各政権の経済政策について感情的になって議論することがいかに無意味であるかが分かります。
 日本経済には本質的な問題が存在していて、これが長期の景気低迷を引き起こしており、経済政策という側面支援だけではこの問題を解決することはできません。
 市場メカニズムに沿って自ら新陳代謝するという企業活動が阻害されており、それに伴って消費者の行動も抑制されていることが日本経済の根本的な問題です。最終的にこの状況を打破できるのは政府ではなく、企業の経営者であり、私たち消費者自身です。
 あえて政策という点に的を絞るなら、コーポレートガバナンス改革に代表されるような、有能な人物をトップに据えるためのメカニズムを強化する施策が重要です。消費者向けについては、個人消費の拡大を阻んでいる将来不安を一掃するための施策が必要となるでしょう。将来不安の最たるものは公的年金と考えられますから、年金制度の将来像について政府は明確な道筋を示す必要がありますし、これこそが最大の経済政策でもあるのです。

 うなずけるところも大きい。

 が、ぼくはそれでも日本の衰退は「政府に問題があるから」が最大の原因だとおもっている。

 といっても経済政策の話ではない。もっと根本的な話だ。

 端的にいうと「政府がちゃんとしないから経済もだめになってる」だとおもってる。


「ちゃんとする」というのは、なにも辣腕をふるって次々に有効な政策を実行して山積された問題を快刀乱麻を断つように解決してほしいといっているわけじゃない。

 現状を正しく認識する、嘘をつかない、数字をごまかさない、悪いやつを処罰して追放する、やるといったことはやる、やると言わなかったことはやらない、そういう〝あたりまえのこと〟だ。

 最近、こんなニュースがあった。

「入札を有名無実化し…」電通幹部出席の会議資料に明記 五輪談合

 東京五輪の運営入札をめぐって電通が談合をしていた事件で、電通の社内資料で「入札を有名無実化して電通の利益の最大化を図る」と記されていたことがわかった、というニュースだ。

 要するに「我々は法を無視して税金を不当にふところに入れるぜ」という宣言だ。これが巨悪でなくてなんだというのだ。個人的には責任者は死刑にしてもいいとおもう。だってこの悪党どもがくすねた税金があれば何人の命が救えるとおもう?

 最大の問題はこうやって法を無視して税金をくすねる悪党がいることではない。いちばんの問題は、「電通は軽めの罰を受けるだけで今後も政府とよろしくやって税金をチューチューしつづけること」だ。それこそが最大の問題だ。

 ここでさ「電通およびその子会社は未来永劫公的機関の入札案件にかかわってはいけない」ってことになったとするじゃない。そしたらどうなるとおもう? 電通にしかできない案件? そんなのあるわけないじゃん。仮にあったとしても、入札禁止になった電通からはどんどん人が出ていって他の会社に移るんだから、そこがやるようになるに決まってる。

 悪くて不当に利益を上げていた会社がつぶれる。有能な人は他の会社に行く。または自分で会社を作る。政府と癒着していないけど能力のある新しい会社にもどんどんチャンスが生まれる。生産性は高くなる。経済は成長する。いいことずくめじゃない。


 政府や司法が「ちゃんとする」だけでいいのよ。

 ちゃんとすれば、能力のある人が評価される。能力がないのに不当に利益をむさぼっていた人は追放される。「旧態依然としたやりかたをとっているけど政権と仲良しだから守ってもらえる会社」が退場すれば、高い価値を生み出す会社にチャンスがまわってくる。それで生産性はぐんぐん上がる。

 大企業だけを守って政権と仲の良い人を優遇するような、悪いやつを裁く。これだけでいい。おもいきった経済政策なんかしなくていい。価値のある財を提供する会社が報われるようになればいい商品が作られるし、いい商品は円高であっても海外で売れる。


 日本では消費増税が経済成長を阻害しているという話が、ごく当たり前のように議論されており、経済の専門家の中にも、そうした説明をする人がいます。筆者は政府の増税方針について積極的に支持する立場ではありませんが、消費増税が経済成長を阻害するというのは、経済学的に見た場合、正しい認識とはいえません。
 消費増税などで政府が増税を行った場合、政府は国民からお金を徴収することになりますが、徴収したお金は政府支出という形で最終的には国民の所得となります。したがって、増税を実施したことで国民の所得が減るということはあり得ませんから、原則として消費増税が経済成長を阻害するということにはならないのです。
 消費税は日本以外の先進諸外国ではかなり以前から実施されていますが、消費税の導入や税率の引き上げによって、経済成長が阻害されたというケースは見当たりません。日本で初めて消費税が導入されたのは1989年ですが、当時はバブル期ということもあり、消費増税の景気への影響はほぼゼロという状況でした。消費税が3%から5%に増税された1997年には増税後に景気が腰折れしましたが、これはアジア通貨危機など外部要因が大きく、すべてが消費税の影響とはいえない部分があります。
 基本的には消費税は景気に大きな影響を与えないものですが、実はこの話が成立するためには「経済の状態が健全であれば」という条件がつきます。経済の基礎体力が非常に弱い状況で増税を実施すると、消費が冷え込むという作用をもたらすことがあり、これが景気低迷の原因になる可能性は十分に考えられます。

 これも同じで、「消費増税などで政府が増税を行った場合、政府は国民からお金を徴収することになりますが、徴収したお金は政府支出という形で最終的には国民の所得となります」とおもえるのは、政府が信用されている場合だけだ。

 政府が増税分を国民の福祉のために使う、今の票田となる高齢者だけでなく若者や子どものためにも使う、お友だち優遇ではなく公正に使う。そう思われていれば、消費税増税だってもっと歓迎されていることだろう。

「経済の状態が健全であれば」だけでなく「政府の状態が健全であれば(正確に言えば健全だとおもわれていれば)」なんだよね。




 そして、貧乏国日本のいちばんダメなところがこれ。

 日本は急速な勢いで教育にお金をかけない国になっているのですが、これは日本政府の教育関係予算に端的に表れています。日本政府の予算(一般会計)に占める文教費の割合は、1960年代には12%近くありましたが、現在では4%近くに低下しています。子どもの数が減っている事情を考慮しても大きな減少幅といってよいでしょう。
 経済成長ができないため税収が伸びず、景気対策や年金、医療といった項目に優先的に予算が割り当てられた結果、文教費が後回しになっている現実が浮かび上がってきます。国力が低下した国というのは、緊急性の低い分野の予算を先に削っていく傾向が顕著ですが、これは経済成長に対してボディブローのように効いてきます。このままでは近い将来、日本の研究開発はかなり厳しい状況に追い込まれるでしょう。

 教育に金をかけない国で将来に希望が持てるはずがない。希望が持てないから投資をしない、投資をしないから景気が良くならない。

 教育にさえ金をかけていれば「今はダメでも将来は良くなるかも」とおもえる。子どもの数が増えれば将来の消費も増える。

 文教費はぜったいに削っちゃいけない分野だとおもう。医療費よりもずっと大切。

 某首相が引き合いに出したことですっかりダーティーなイメージになっちゃったけど「米百俵」の精神ですよ、ほんとに。


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2023年2月27日月曜日

【読書感想文】東野 圭吾『天使の耳』 / ドライバーの頭おかしいルール

天使の耳

東野 圭吾

内容(e-honより)
深夜の交差点で衝突事故が発生。信号を無視したのはどちらの車か。死んだドライバーの妹が同乗していたが、少女は目が不自由だった。しかし、彼女は交通警察官も経験したことがないような驚くべき方法で兄の正当性を証明した。日常起こりうる交通事故がもたらす人々の運命の急転を活写した連作ミステリー。


 交通事故を題材にしたミステリー。

 読みはじめて「あれ? これ知ってるぞ?」と以前にも読んだことをおもいだした。十五年ぐらい前かな。それでもだいたいの内容は覚えていたので、当時はけっこう印象に残ったのだろう。

 今改めて読んでみて、つくづくよくできた短篇集だとおもう。

 前方不注意、あおり運転、違法駐車、車からのポイ捨て、接触事故など、違反行為ではあるが道路上では毎日のように起こっているわりと一般的な出来事をミステリに仕立てあげる技術はさすが。

 特に表題作『天使の耳』は秀逸。事故の証人となったのは盲目の少女だった。はたして彼女の証言は信用に足る証拠として扱うことができるのか……。

 緊張感のある筆運びでストーリーを運び、あっと驚く鮮やかなクライマックス。いやあ、見事だった、とおもいきや最後にもうひと展開。おお、うまい。切れ味の鋭い短篇にしあがっている。




『分離帯』『危険な若葉』『通りゃんせ』に関しては、よくできてはいるけど「いくらなんでもそこまでするかなあ」という感じだ。復讐や嫌がらせ目的でそこまで時間と労力かけるかね、という印象。

 小説だから、リアルでなくてもいい。とはいえ「ふつうはしないけど日本にひとりぐらいはこれぐらいやる人いるかも」とおもわせてくれるぐらいのギリギリのラインを攻めてほしい。この三篇に関しては、ちょっとそのラインをはみ出しているように感じる。

『鏡の中で』は逆に、わりとありそうな話。こっちは意外性がなくてケレン味に欠ける。現実離れしててもダメ、現実的すぎてもダメ、自分でも贅沢なこといってるけど。


『捨てないで』は唯一殺人がからむ本格ミステリ。殺人事件そのものは目を惹くようなトリックではないが、その推理過程にうまく交通違反をからめている。何度も書くけど、小説の名手って感じだなあ。

 さすが東野圭吾作品だけあってどの短篇も平均以上の水準を保っている。が、一篇目の『天使の耳』がいちばんよかったので右肩下がりの印象。他が悪いんじゃなくて『天使の耳』が良すぎたんだけど。構成って大事だね。




 ぼくは車の運転をしない。十年ぐらい前には仕事で使っていたけど、転職を機にやめた。車を売ってしまってそれ以来一切運転していない。

 まあ、性に合わなかったんだよね。毎日乗っていたけど、とうとう慣れなかった。事故も起こしたし。趣味はドライブです、なんて人の気持ちがまったく理解できない。ずっと緊張するんだもん。「事故って死ぬかも、誰かひき殺しちゃうかも」って毎日のようにおもいながら運転してた。

 そして車を運転していて嫌だったのはもうひとつ、「倫理観が失われること」だった。


 車を運転する人って頭おかしくなってるじゃない。

 いや、ほんと。

 ほとんどのドライバーが多かれ少なかれ違反をしている。スピード違反、違法駐停車、黄信号でも交差点に進入、一時停止を守らない、横断歩道で渡ろうとしている歩行者がいるのに止まらない。一度もやったことのないドライバーなんてまあいないだろう。

 これ、頭がおかしくなってるとしかおもえない。だってそういう人だって、ふだんは善良な市民なんだよ。毎日犯罪をする人なんてめったにいない。むかついても殴りかかったりしない、会社の金を着服したりしない、同僚が机の上に財布を置きっぱなしにしていても盗まない、行列でちょっと隙間があいてても割りこまない。そんな人がハンドルを握ると、あたりまえのように制限速度を超過し、黄信号で交差点に進入し、駐車禁止区域に駐車する、ちょっとでも車間距離があいてたら車線変更して割り込む。完全に頭おかしくなっている。

 ぼくもそうだった。「みんなやってるから」って感覚で軽微な違反行為をくりかえしていた。

 車道の上って、一般社会とは別の法意識があるんだよね。「十キロぐらいの違反は違反じゃない」みたいな謎のルールが幅を利かせている。それって「五百円円までなら盗んでもいい」みたいなわけのわからないことなのに、なぜかドライバーたちはそのルールでやっている。逆に、法定速度を守っているドライバーのほうが迷惑なやつ扱いされたりする。運転するなら〝ドライバーたちの頭おかしいルール〟に従わないといけない。


 すっかり車の運転をやめた今、『天使の耳』を読むと、あらためてドライバーたちの頭のおかしさにぞっとする。

 捕まらなければ法を破ってもいい。そんな考えの連中が大きな鉄の塊を高スピードで動かしているのか。自分もそんな頭おかしい連中のひとりだったのか。

 やっぱり車の運転なんてするもんじゃないな。


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2023年2月24日金曜日

【読書感想文】SCRAP『すごいことが最後に起こる! イラスト謎解きパズル』 / 複数人推奨パズル

すごいことが最後に起こる!
イラスト謎解きパズル

SCRAP

内容(Amazonより)
ゆるーくかわいいイラストとは裏腹に、手強すぎるイラスト謎解きパズルの数々。解くには論理的思考だけでなく、ひらめき力も必要になります。1冊一通り解き終えたところで、前半戦終了。あっと驚く後半戦では、「最後のイラスト謎解きパズル」が待ち受けます。ヒントも大充実。パズルはリアル脱出ゲームのコンテンツディレクター荒浪祐太が制作。完成直後、「とんでもないものができてしまった」と彼は震えていました。途中であきらめず、この本の最後を見届けてください。


 イラストを使ったパズルを解いていくと、最後に「これまで解いたパズル」「途中にあった謎の記号」「本の表紙やカバー」などを使った大仕掛けのパズルが現れて最後には想像もしなかったことが起こる……という本一冊をめいっぱい使った趣向のパズル。

 タイトルに「すごいことが最後に起こる」と書かれているしAmazonの口コミでも「すごかったです!」といったコメントが並んでいたのである程度「すごいこと」を想像しながら解いていったのだけど、その想像を超えることが起こった。いい意味でまんまと予想を裏切られた。

 あんまりネタバレになるので詳しくは書けないけど、たしかにすごいことが起こる。2,200円とパズル本にしては高めだけど、これだけのことが起こるのならこの値段も納得、という感じだ。




 とはいえ。途中のパズルの質はさほど高くない。

 ぼくはパズル雑誌の最高峰『ニコリ』の三十年来の愛読者なので、ペンシルパズル(紙に書くタイプのパズル)には少々目が肥えている。そんなパズルファンからすると、この本のパズルは物足りない。

 つまらない難しさ、なのだ。どうしようもない難しさ、といったほうがいいかもしれない。

 この本に載っているのは基本的にイラストパズルで、描かれているイラストから「これは何の絵かを当てる」という作業が必要になる。これが、非常にかんたんなものもあれば、難解なものもある。「絵が伝わらない」問題だ。これはイラストパズルであれば必ず生じる問題なので、ここまではしかたない。

 良くないのは、この本に載っているパズルの場合、「絵が伝わらない」問題が起こるとそこで手詰まりになってしまうことだ。もう答えを見るしかなくなる。

 たとえばイラストクロスワードパズルであれば、「絵が伝わらない」問題がひとつふたつ起きても、他のイラストを読み解いているうちにヒントが増えてきてやがて解けるようになる。『ニコリ』のパズルにはたいていこういう配慮があるのだが。

 パズルが難しいことはいっこうにかまわない。時間をかけたり、一生懸命頭をひねったり、総当たりで解いていったり、あれこれ手を尽くして解けるような難しさであれば大歓迎だ。

 だが「この絵を描いた人は何を伝えたいでしょう?」という問題は、わからなければ永遠にわからない。どれだけ頭をひねってもわからない。「私は今何を考えているでしょう?」という世界一つまらない問題と同じだ。

 こういう〝世界一つまらない問題〟が散見されるのがマイナス点だ。




 とはいえ、どうしようもない問題はヒントや答えを見ればいいので、最後まで解けないということはまず起こらないだろう。

 途中のパズルの質は高くないが、それでも最後の〝すごいこと〟はほんとに圧巻なので、中盤のもやもやを吹き飛ばしてくれる。これ以上のネタバレは避けるけど、紙の本ならではの大仕掛け、とだけ言っておこう。


 ひとつ言っておくと、このパズルは絶対に誰かといっしょにやったほうが楽しいです。最後の感動を誰かと共有したくなるので。

 そして、たっぷり時間のあるときにやること。ぼくは娘とやったけど、ラストの一連の仕掛けを解くだけでも一時間かかったからね。


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2023年2月21日火曜日

ツイートまとめ 2022年9月

マイバラードあるある

フライング

国葬義

アナグラム

秘技

首相

パイナップル味≠パイナップルの味

課金システム

逃走中

アシ絵

一を聞いて

共生関係

プラモデル

小泉先生

捨てどき

永遠のライバル

のりものあつまれ

持続可能

プリンセスプリンセス

アンパンマン



2023年2月16日木曜日

ディベートにおいて必要な能力

 小学生のときにディベートの授業をした。

 そのとき、自分は「ディベートが得意な人間」だとおもっていた。口が立つし、切り返しも早い。相手の論の瑕疵を突いたり、比喩を用いてわかりやすく説明するのもうまい、と。


 数十年たった今、とんでもないおもいちがいだったとつくづくおもう。はっきりいって、そんな能力ぜんぜん役に立たない。むしろマイナスだ。

 小学生のときは、「ディベート能力」=「話す能力」だとおもっていた。だけど大人になってみて気づく。話す能力なんかより、話さない能力のほうがずっと大事だ。


 話を最後まで聞く、意見を否定されても人格の否定として受け取らない、意見の相違を認める、仮に自分が正しいとしても相手をこてんぱんに言い負かさずに言い逃れの余地を与えてやる……。

 「攻め方」よりもそういう「受け方」や「攻めない方法」のほうがずっと大事だ。


 たいていの場合、相手を言い負かしていいことなんかひとつもない。消耗して、恨みを買って、(一部の取り巻きをのぞく)周りの人からも嫌われて、得られるのは「勝ったぜ」という何の役にも立たない自己満足だけ。失うことのほうがずっと大きい。

 Twitterで喧嘩をしている人なんかを見ると「弁論で他人を変えることができるとおもってはるなんて、人間に対する信頼が深くてよろしおすなあ」としかおもえない。

 Twitterで喧嘩をすると、味方は離れていき、敵ばっかり寄ってくる。なんもいいことない。


 言い負かす能力よりも、負けたふりをしてやるスキルとか、うまくはぐらかすスキルとかのほうがずっと大事だ。いちばんいいのは、敵対しようとしてくる相手と距離を置くこと。

 だから学校の授業でディベートをやるときは「ムードが悪いとおもったらその部屋から自由に退出してもよい」というルールを作ってやったらいい。

 で、最後まで残ってたやつが負け。



2023年2月15日水曜日

チョコハラ

 今年はついにバレンタインデーのチョコレートの受け取りを拒否した。


 ぼくの勤める会社には、まだ「女性社員数十人から男性社員数十人にチョコレートを贈る」という昭和の蛮習が残っている(平成にできた会社なのに)。

 数年前から、もらうついでに「こういうの、もういいですよ」「お互い無駄なんでやめましょうよ」「みんなからみんなに贈りあうってあほらしいでしょ。来年からはくれなくていいですよ」と迷惑であることを伝えていた。

 自分ではけっこうはっきりと伝えていたつもりなのに、本気だと伝わっていなかったのか、今年も女性社員からお菓子の包みを渡されたので覚悟を決めて「いらないです」と受け取りを拒否した。それでも冗談だとおもわれたらしく「いやいや~」みたいな感じで再度渡そうとしてきたので「これは女性みなさんでめしあがってください」と突き返した。


 一応言っておくと、ぼくは甘いものが好きだ。会社でもお菓子を食べるし、近くの席の人からお菓子をもらったり、あげたりもする。お菓子をもらったときは素直にうれしいし「ありがとうございます」と言って受け取る。ちょっとしたもののやりとりは、サルの毛づくろいといっしょで「私はあなたに敵意を持っていませんよ」という意思表示になる。人間関係を円滑にする上で必要なものだとおもっている。

 ただ、バレンタインデーのチョコレートの押し付け(あえて言おう、押し付けだと)に関してはもはやコミュニケーションとしての意味はない。どれだけうぬぼれの強い男であっても、会社で「女性社員一同から男性社員一同へ」のチョコレートを渡されて「おれは女性社員から好かれてるんだ!」とはおもわないだろう。


 バレンタインデーの「女性みんなから男性みんなへのチョコレート」のは、ただただ全員に負担を強いるだけのシステムだ。女性も、お返しをする男性も、みんな。

 労力を割いてお菓子を買いに行き、お金を払い、得られるのは「自分が選んだわけでもないお菓子」だ。どう考えたって割に合わない。自分のためにお菓子を買う方がずっといい。

 払った分よりずっと少ない額しか受け取れない年金。それがバレンタインデーとホワイトデーだ。


 もういいかげんこの悪習を断ち切らないといけないとおもい、今年はついに受け取りを拒否したのだ。

 当然ながら、拒否したときはかなり気まずい雰囲気が流れた。相手だってたぶん善意でやっているのだから、拒絶するのは心が痛む。善意とはたちの悪いものだ。しかしプレッシャーに負けて受け取ってしまうと来年からもバレンタインで嫌なおもいをすることになるので、心を鬼にして断った。はあ、疲れた。なんでこっちが気を遣わなきゃいけないんだ。

 どう考えたって「いらないです」と言っている相手に贈りつける相手のほうが悪い。お返しがどうという問題ではない。

 逆で考えてみたらわかるだろう。女性社員が、会社で隣の男性から毎年毎年誕生日にバラの花束をプレゼントされる。「もういいです」と毎年言っても、ずっと贈られつづける。「お返しはいらないから」と言われるが、そういう問題じゃない。ただただ気持ち悪い。それといっしょだ。

 この「いらないと言っているのにバレンタインデーにチョコレートを贈られる」気持ちについて考えてみたのだが、そうか、セクハラをされる人ってこんな気持ちなんだろうなとおもった。


 セクハラにもいろいろあるが、「セクハラをする側はされる側に好意を持っている」ことが多いとおもう。上司が部下を執拗に口説くとか、上司が円満なコミュニケーションのつもりで性的な質問をぶつけるとか。

 そうすると、セクハラを受けた側はそれが好意にもとづいているがゆえに拒絶しにくい。「おい、一発なぐらせろ」は悪意から生じているから「嫌です」と断りやすいが、「今晩ふたりっきりで飲みに行かない?」は好意由来なので無下に断りづらい。たいていの人は断るにしても「嫌です」とは言わずに「今日は友だちと約束がありまして……」とか「明日早いので……」とかなんのかんのと理由をつけるだろう。

 それで引き下がってくれるならいいが、だったらいつならいいかと言われたり、毎週のように誘われたりすると、断るほうも神経をすり減らす。そういう相手にははっきり断らないと伝わらないが、その後も職場で顔を合わせることを考えると角が立つ断り方はしづらい。手ひどい断り方をして逆恨みされたり妙な評判を流されても困る。

 断りたい、けれど後々のことを考えると断りづらい……。セクハラはこうして生まれるわけだ。

 バレンタインデーも同じだ。おそらく「嫌だな」と感じながらも、断って人間関係にひびが入るのをおそれてしかたなく付き合っている男女も多いだろう。ぼくは「もらってもちっともうれしくないしお返しをするのは負担になるのでやめてほしい」と男性の立場から考えているが、「あげたくないけど周囲の圧力で半強制的に参加させられる」女性も多いようだ。

「チョコハラ」という言葉で検索してみたら、いくつもの記事が見つかった。同じように考えてる人がいっぱいいるのだ。

 セクハラで訴えられた人の多くは「よかれとおもってやった」「スキンシップのつもりだった」などと言うらしい。きっと本心だろう。よかれとおもってやっていることほど迷惑なものはない。バレンタインも同じだ。善意でやっているからこそたちが悪い。

 とある調査によれば半数以上の男女が職場のバレンタインデーの風習をやめたいと感じているらしい。


 ありがたいことに、世の中は少しずつ変わっている。無駄で、多くの人が嫌だと感じていることは徐々になくなってきている。

 昭和の会社員にとってはあたりまえだったお歳暮やお中元、年賀状も、今ではずいぶん滅びかけている。きっとバレンタインデーも同じような道をたどることだろう。


 まあやりたい人はやったらいいけど、半数以上が嫌がっているわけだから、せめて「やりたくない人が意思表示しなくちゃいけない」システムじゃなくて「やりたい人が意思表示する」システムになってほしいよね。

「チョコレートを贈りあう風習に参加したい人は二週間前からピンクのリボンをつけること」とかさ!




2023年2月14日火曜日

【読書感想文】岡崎 武志『読書の腕前』 / 精神がおじいちゃん

読書の腕前

岡崎 武志

内容(e-honより)
寝床で読む、喫茶店で読む、電車で読む、バスで読む、トイレで読む、風呂で読む、目が覚めている間ずっと読む…。ベストセラーの読み方から、「ツン読」の効用、古本屋との付き合い方まで。“空気のように本を吸う男”が書いた体験的読書論。

 書評家による読書エッセイ。

「本好きによる本好きのための読書エッセイ」ってのはエッセイの定番ジャンルで、いろんな人が書いている。正直どれも似たりよったりの内容だが(この本もそう)本を書く人や読む人は当然読書好きが多いので、それなりに共感を得られてそれなりにおもしろがってもらえるのだろう。




 読書の効用はいろいろ挙げられるが、結局のところ「読みたい欲を満たしてくれる」ことに尽きる。あとはすべて副産物だ。おもしろいこともあるし、つまらないこともある。勉強になることもあるし、ならないこともある。人生を豊かにしてくれることもあるし、してくれないこともある。

 本にそれ以上のものを求めるのは、決まって本好きでない人たちだ。

 しかし世の中には、お金と時間を費やすんだったら、その分だけの見返りがないと事をはじめる気にならない、という人も多いだろう。たとえば、英会話教室へ通うなら、時候のあいさつや店員とのやりとりを英語でできるようになるとか、スポーツジムに通うなら、筋肉がついたりダイエットにもなる、といった具合である。そのような目に見えるメリットは期待できない。じつは、そこにこそ読書のおもしろさがあるのだが、そのことがわかるまでには、かなりの数の本を読む必要がある。

 そうなのよね。「読みたい欲を満たしてくれる」以上の価値は期待できない。何が得られるかは読んでみるまでわからない。それこそが本のおもしろいところなのに、あまり本を読まない人は本に実利を求める。


 また永江は、「すでに知られている本ほど売れやすい」というベストセラーの法則を提示する。芸能人をはじめとする有名人が書いた本、テレビ関連の本はその顕著な例。「無名作家のすぐれた小説よりも有名作家の駄作のほうがたくさん売れる」のも同様で、「クズ本をつかまされて、カネと時間を無駄にする可能性もある。だったら名前を知っている作家の新作を選ぼうと考える。消費者はリスクを回避する」というのだ。
 二〇〇四年は七年連続して書籍の売上げが前年割れした年だった。二〇〇五年に少し上向きになるのは、先に挙げたメガヒットや「ハリー・ポッター」シリーズ(静山社)の新作邦訳が出たためだ(が、その後は二〇一三年まで順調に下がり続けている)。人々は本に割くお金を年々削るようになっている。趣味や娯楽、食事、あるいは携帯電話の使用料など、使うべき場所はほかにいっぱいある。本は、ごくたまに買うもの、失敗するのはイヤ。永江の表現で言えば、「消費者はリスクを回避する」。結果、「すでに知られている本」を買うわけだ。
 しかし、それは本を買うというより、「話題」を買うというほうが近い。ベストセラーはもともとそういうものだ、と言えばそれまでだが、『バカの壁』など最盛期は一日に二回増刷していたなどという話も聞く。売れ方も部数もいささか異常で、ちょっと無気味な気さえする。それを指して「底が抜けた」と言ったわけだ。

「みんなが読んでいる本ばかりが売れる」のも同じ現象だ。要するに、失敗を避けたいのだ。

 年間何百冊も読む人は、一冊や二冊の失敗なんて屁でもない。たくさん読めばたくさんハズレを引くことを知っている。でも、年に数冊しか読まない人は失敗をしたくない。

 毎日行く食堂で変わったメニューがあれば、興味本位で頼んでみるかもしれない。まずくてもいいや、と。でも自分の結婚式の料理は間違いのないものを選びたい。一生に一度だから。そんな感覚だ。

 ま、これは読書に限らず、どんな分野でもあることだけどね。

 ぼくも、読書に関しては「十冊やニ十冊のハズレがなんぼのもんじゃい」という感覚だが、旅行に行くのは年に一回ぐらいだから入念に下調べをして、口コミなんかも参考にして、多くの人がそこそこ高評価なものを選ぶ。「行ってみてダメだったらそのときだ」とはおもえない。




 前半はそこそこ読めたが、中盤からは自慢話が多くてうんざりした。99%の自慢話がそうであるように、当然ながらまったくおもしろくない。

 新聞社から児童書の書評を頼まれたので、「小学生の娘が書いた」という形をとってわざと拙い文章で書評を書いた、という昔の話を書いた後で。

  悪ふざけギリギリで、ひょっとしたら担当者からクレームがつくかとも思ったが、無事、そのまま掲載された。これはおもしろがってくれた人が多く、「手帳に貼って、何度も読みかえし、そのたびに笑っております」と、わざわざ手紙をくれた友人もいた。してやったり、という感じだ。

 こんな話が続く。

 ああ嫌だ嫌だ、なんで年寄りの自慢話をわざわざ読まなくちゃいけないんだよ。

 とおもっていたら、あとがきで著者がこの本を書いたのは四十代だったと知って驚く。

 おじいちゃんだとおもってたよ。精神が完全に年寄り。昔とった杵柄の自慢と、回顧録がひたすら続くんだもん。誰からも褒めてもらえなくなったおじいちゃんが過去の栄光(と自分ではおもっているもの)を自画自賛してるのかとおもったわ。

 こういう四十代にはならないようにしないとなあ。いい反面教師になりました。


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2023年2月10日金曜日

【読書感想文】『ズッコケ三人組の地底王国』『ズッコケ魔の異郷伝説』『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十六弾。

 今回は46・47・48作目の感想。いよいよ次がラスト。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ三人組の地底王国』(2002年)

 遠足で近所の山に登った際に迷子になってしまった三人。謎のストーンサークルに足を踏み入れたところ、なんと身体が小さくなってしまった。さらに地底にある小人族の国に連れていかれ、悪竜を退治してくれる伝説の勇者として扱われ……。


 ここにきて突然の正統派ファンタジー冒険もの。そういやこれが46作目だけど、ファンタジーはひさしぶり。初期は『時間漂流記』『宇宙大旅行』『驚異のズッコケ大時震』などSF作品もあったけど、中盤以降はほぼなくなった。『海底大陸の秘密』ぐらいか。

 突然伝説の勇者として悪竜退治を命じられる、強大な敵を知恵と勇気でやっつける、お姫様から感謝される……と、昔のRPGゲームやドラえもん大長編のようなシンプルなストーリー。ベタではあるが、それでもけっこうおもしろい。やはり王道は強い。

 ただ、ゲームならいいんだけど、小説としてはやっぱりストーリーの粗さが目立つ。

 最初から伝説の勇者として扱われる(なぜか三人の名前まで昔から小人の国に言い伝えられている。最後までその謎が明かされることはない)、警察官が迷子の捜索に拳銃を持ってくる、さらには警官が拳銃を放置する、小人になっているのに拳銃を撃っても無事(反動えげつないだろ)など、あまりにも都合が良すぎる。拳銃を使わずに知恵と勇気で解決してほしかった。せめて言い伝えの謎は解き明かしてくれよ。

 あと、ハチベエが父親を「とうちゃん」ではなく「おやじ」と呼んだり、モーちゃんが母親を「かあさん」ではなく「かあちゃん」と呼んだり、シリーズ全体との齟齬もちらほら。どうした? これを書いたときは体調でも悪かったのか? あと〝悪竜〟って呼んでるのに、表紙を見たら正体丸わかりじゃない?

 つまらなくはないけど、凡作って感じだな。小さくなると時間の経過が遅く感じる、って設定はおもしろかったけどね。




『ズッコケ魔の異郷伝説』(2003年)

 学校の行事で縄文時代の暮らしを体験することになった六年一組。古代人の暮らしを楽しんでいたが、突如荒井陽子が奇妙な言動をするようになる。そして合宿最後の夜、日本では絶滅したはずのオオカミたちが現れる。あわてて逃げた一行がたどり着いた先は、縄文時代の村だった……。


 ズッコケシリーズの中でもかなり異色な作品ではないだろうか。異世界に迷いこんでしまう作品はこれまでにもあった。だが『ズッコケ魔の異郷伝説』がとりわけ異色なのは、「最後までよくわからない」ことだ。縄文時代の暮らしをしていたらオオカミに襲われた、走って逃げたら縄文時代の村だった、そこで儀式に参加した、現代に戻ってこられた、戻ってきたのはオオカミに襲われる数時間前だった、オオカミはもう襲ってこなくなった。奇妙なことがいろいろ起こるのだが、はっきりとした説明はつけられない。一応ハカセが考察をしてそれっぽい説明をつけるが、ほとんど根拠のない、ただの妄想だ。

 奇妙な出来事が起こって、奇妙な世界に迷いこんで、奇妙な体験をして、奇妙なことに元の世界に戻ったら解決してた。なんなんだこれは。しかも「何かにとりつかれた荒井陽子に従って行動するだけ」で、知恵を働かせる場面も勇気を振りしぼる場面もない。ハチベエが縄文人といっしょに酒を呑むだけ。ただ巻きこまれただけ。

 ズッコケシリーズにはたまにこういう〝ただ巻きこまれただけ〟回があって、一様につまらないんだよね。『驚異のズッコケ大時震』『ズッコケ三人組のミステリーツアー』『ズッコケ三人組と死神人形』など。いずれも退屈だった。

 前半の縄文時代体験はけっこうおもしろかったから期待したんだけどなあ。自分も縄文体験やってみたい、とおもったし。ずっと縄文時代の生活でもよかったのになあ。著者が書きたいことを書いている、って感じが伝わってきて。

「三人組がただ事件に巻きこまれて傍観するだけ」「必然性もなくクラスの美少女三人組と行動を共にする」と、ズッコケ中期以降の悪いところが存分に出てしまった作品。



『ズッコケ怪奇館 幽霊の正体』(2003年)

 近くの山道が「暗闇坂」と呼ばれ、そこに幽霊が出るために交通事故が起こるという噂を耳にした三人。噂を確かめるために現地調査をして、幽霊の謎を解き明かしたかに見えた。が、隣のクラスの生徒が暗闇坂で交通事故に遭ったというニュースが入ってきた。はたして幽霊は存在するのか……?


 タイトルが「幽霊の正体」なので、「ああこれは『幽霊の正体見たり枯れ尾花』の話だな」とわかってしまう。で、あれこれ推理をめぐらして最後に幽霊の正体が判明するわけだが、その正体もさほど意外なものではない。

 つまらなくはないけど、とりたてて目新しいところもないな……とおもって読んでいたのだが、はたと気づいた。そうか、これは「インターネットを使って幽霊の謎を解く」というスタイルが(2003年当時としては)新しかったのか。

 幽霊の情報がインターネット上で広まっていることを知り、インターネットの掲示板で情報を仕入れる。幽霊とインターネットという異色なものが結びつくのが斬新だったのだろう、当時は。

 しかし今となってはインターネットで情報収集をするなんてのは(小学生にとっても)あたりまえすぎて、まるで新しさを感じない。そもそもホームページの開設者がたまたまモーちゃんの母さんの知り合いの娘さんだった……なんてあまりに展開に無理がありすぎる。だいたい「うちの娘が○○っていうホームページを開設しててね」なんて話しないだろう。

 このへんからも、那須正幹先生が時代についていけてなかったことがうかがえる。

 ズッコケシリーズも残り二作。まあ潮時だったんだろうね。


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【読書感想文】『それいけズッコケ三人組』『ぼくらはズッコケ探偵団』『ズッコケ㊙大作戦』



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2023年2月9日木曜日

ツイートまとめ 2022年8月



夏の甲子園

メンツ

比喩表現

小切手

アジア丼

チェ

メンコ

大喜利

蛮勇

第二子で長男

ミャクミャク

24時間テレビ

伊勢志摩

爆裂

二線級



2023年2月8日水曜日

ブラジャーはトイレットペーパー

 やっぱりエッチな写真や映像を見ると心躍る。

 何をエッチとおもうか、何に心ときめくかは人それぞれだとおもうが、まあたいていの男性は、女性の裸や下着姿に胸躍らせる。ぼくも同じだ。もっともぼくが好きなのは〝下着姿〟であって〝下着〟ではない。下着ドロボーの気持ちはまったくわからない。

 また、ぼくの場合、パンツ姿にはときめくがブラジャー姿にはまったく心ときめかない。


 自分でもなぜかはよくわからない。おっぱいは好きなのに。ブラジャー姿の女性を見ても「そのじゃまな布切れを早くどけてよ」とおもうだけだ。〝その後の展開〟を想像して昂奮はするが、ブラジャー姿自体にはまるで昂らない。

 だったらブラジャーがこの世からなくなったらいいかと願うかといえば、そんなことはない。もしドラゴンボールを七つ集めてシェンロンが出てきても、ブラジャー消滅は願わない。

 なぜならブラジャーは女性のおっぱいを美しい形に保つために必要なものだから。だから存続してほしい。でも、特に見たいとはおもわない。


 つまり、ぼくにとって女性のブラジャーはトイレットペーパーと同じものだ。どちらも、女性が美しくあるためには必要なものだ。だが、それ自体に美しさは感じない。

 美しい尻を保つためにトイレットペーパーは必要だけど、トイレットペーパーを鑑賞したいとはおもわない。そういうことだ。どういうことだ?


2023年2月7日火曜日

【読書感想文】広瀬 友紀『ちいさい言語学者の冒険 子どもに学ぶことばの秘密』 / エベレータ

ちいさい言語学者の冒険

子どもに学ぶことばの秘密

広瀬 友紀

内容(e-honより)
「これ食べたら死む?」どうして多くの子どもが同じような、大人だったらしない「間違い」をするのだろう?ことばを身につける最中の子どもが見せる数々の珍プレーは、私たちのアタマの中にあることばの秘密を知る絶好の手がかり。言語獲得の冒険に立ち向かう子どもは、ちいさい言語学者なのだ。かつてのあなたや私もそうだったように。


 子育て中の言語学者が、子どもの言語の発達を通して「我々はどのように日本語を習得していくのか」について書いた本。

 むずかしい用語は多くなく、身近なエピソードがふんだんに使われているので言語学への入門書としてはいいとおもう。単純におもしろかった。


 たとえばこんなの。

 「子ども語あるある」の同じく上位に、「とうもころし」(とうもろこし、『となりのトトロ』にも登場)、「さなか」(さかな)などがあります。シャワー機能のあるトイレに行くたびに「デビって何~?」(K太郎、至7歳現在)って連呼するのやめてほしい。そういえば弟が幼児のころ「あやめいけ(地名)」を「あめやいけ」と言っていたのも思い出します。
 これら「音が入れ替わる系」のエラー(「とうもろこし」の「ろ」と「こ」が入れ替わる、など)は音位転換と呼ばれています。入れ替わった結果、より発音しやすくなっているのだと解釈されています。

 あるある。「オジャマタクシ」が典型例だよね。うちの四歳児も、ずっと「おくすり(お薬)」のことを「おすくり」って言ってる。何度訂正しても直らない。あと「エベレータ(エレベーターのこと)」とか「テベリ(テレビのこと)」とか。

 これは子どもだけでなく、大人でもやってしまいがちだ。中には、音位転換されたほうが正しい表記になってしまったものもあるという。元々「あらたし」だったのが「あたらしい」になってしまったり、「したつづみ(舌鼓)」が「したづつみ」になってしまったり。「こづつみ(小包)」とかがあるからごっちゃになってしまったんだろうな。

 最近だとカタカナ語でよくあるよね。「シミュレーション」を「シュミレーション」と書いてしまったり、「コミュニケーション」を「コミニュケーション」としたり、「アニミズム」を「アミニズム」としたり。ちなみに「アニミズム」はめちゃくちゃ間違えられてて、検索すると「アミニズム」と同じぐらい使われてる。近い将来これも正解になるかもしれない。




 あと、子育てをしたことのある人ならかなりの割合が経験したことあるであろう「幼児、『死ぬ』を『死む』と言っちゃう問題」について。

 さて、マ行動詞であれナ行動詞であれ「飲んだ・読んだ・はさんだ・かんだ」あるいは「死んだ」というふうに、活用語尾が「ん」になることについては、たまたま形が共通しています。おそらく子どもは、「虫さん死んじゃったねえ」「あれ、死んでないよ」というようなやりとりを通して、「死んじゃった」は、「飲んじゃった・読んじゃった・はさんでない・かんでない」と同じ使い方をすることばなんだな、という類推を行っているのでしょう。そうして子どもは、ふだん多く触れている、いわば規則を熟知しているマ行動詞の活用形を「死ぬ」というナ行動詞にもあてはめているのだと推測できます。(「死む」でネット検索したら、同様の推理をされているママさんのブログもありました。大人の冒険仲間を発見した気分です。)

 以前にもこのブログで書いたことがあるけど、これはほんと幼児あるあるだとおもう。

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか




 濁音問題。

「か」に点々をつけたら? → 「が」

「さ」に点々をつけたら? → 「さ」

といった問いには答えられる幼児でも、「は」に点々をつけたら? という問いに答えるのはむずかしいそうだ。

 なぜなら、「『か』と『が』」「『さ』と『ざ』」「『た』と『だ』」は口内の形が同じでのどの震わせかた(無声音か有声音か)で音を出し分けているのに対し、「『は』と『ば』」は口内の形がまったく別物だから。

『ば』の口の形のまま無声音にした音は、『は』ではなく『ぱ』である。

 つまり、「たーだ」「さーざ」「かーが」の間に成立している対応関係が成り立っているのは、「ぱ(pa)」と「ば(ba)」の間のほうなんですね。日本語の音のシステムでは「は」「ぱ」「ば」が奇妙な三角関係をつくっているようですが、「ば(ba)」の本来のパートナーは「ぱ(pa)」と考えるべきです。じつは、大昔の日本語では、現在の「は」行音はpの音であったことがわかっています(ひよこが「ぴよぴよ」鳴くのも、ひかりが「ぴかり」と光るのもそれに関係ありそう)。その後、日本語のpの音は「ふぁ」みたいな音に変化していったらしく、室町時代に日本を訪れた宣教師による報告書では、現代の日本語なら「は」行で表されるべき音が、「ふぁ」の音に対応する文字で表記されています。そして最終的には今の「は」行音となり、現代日本語における三角関係に至るわけです。
 このように歴史的な音の変化により、ある言語の中にその言語特有の不規則な部分が生じてしまうことは珍しくありません。けれども、現代の日本語ではすでに「もともとそうなっている」わけなので、それをそのまま身につけて使えば何の不自由もありません。エンピツ(いっぽん、にほん、さんぼん)や子ぶた(いっぴき、にひき、さんびき)も自然に数えることができています。

 なるほどねえ。「『は』に点々をつけたら『ば』になる」というのはルールから逸脱した例外なのだ。大人は気づかないけど、日本語を学びはじめた幼児(あるいは外国人の日本語学習者)にとってはつまづきやすいポイントなんだね。




 ぼくにも子どもがふたりいるが、子どもの言語能力の発達スピードというのはものすごい。特に二~三歳児頃の成長はすさまじい。一年前まで「ごはん」「いや」みたいな単語しかしゃべれなかったのに、たった一年で「もうおなかいっぱいだからたべたくない。でもおやつはたべる」なんていっぱしの日本語を操れるようになるのだ。

 しかも、体系立てた学習をしているわけではなく、周囲の人たちが話すことばを聞いているだけなのに。

 もうひとつ例を見てみましょう。K太郎(6歳)がテレビで「去って行く」という表現を耳にして母親に聞きました。
 「ねえ、「さう」ってどういう意味?」
 彼は何を考えてこう言ったのでしょう?
 まず「去って行く」が「さって」と「いく」というふたつの動詞に分解できるという知識を動員。さらに「さって」ということばの意味を尋ねるために、終止形に直したほうがよいと判断。「買って―買う」「言って―言う」などから類推したのか、それが「さう」であると(過剰に)一般化。最後のところは大人から見れば間違っていますが(正解は「去う」じゃなくて「去る」)、それにしても、推論の過程を考えると、かなり高度なことをするようになったものです。

 もちろんこんなに順序立てて考えているわけではないが、意識下でこういう思考をくりひろげているのだ。ほんの数秒で。

 今、AIがどんどん進化していってすごいなあと感心するけど、ほとんどの子どもはそれよりも高精度で学習をしているわけだもんね。改めて、人間の脳ってすごいと感じる。


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2023年2月6日月曜日

【読書感想文】荻原 浩『海の見える理髪店』 / めちゃくちゃうまい人のビリヤードみたい

海の見える理髪店

荻原 浩

内容(e-honより)
店主の腕に惚れて、有名俳優や政財界の大物が通いつめたという伝説の理髪店。僕はある想いを胸に、予約をいれて海辺の店を訪れるが…「海の見える理髪店」。独自の美意識を押し付ける画家の母から逃れて十六年。弟に促され実家に戻った私が見た母は…「いつか来た道」。人生に訪れる喪失と向き合い、希望を見出す人々を描く全6編。父と息子、母と娘など、儚く愛おしい家族小説集。直木賞受賞作。


 自分の叶えられなかった夢を押しつけようとしてきたために喧嘩別れした母の病気を知る『いつか来た道』、夫婦喧嘩をして実家に帰った妻に謎のメールが届く『遠くから来た手紙』、父親の形見の時計を修理してもらううちに亡父の新たな一面を発見する『時のない時計』、娘を亡くした夫婦が代わりに成人式に出席しようとする『成人式』など、訳ありの家族の姿を描いた短篇集。

 読んだ感想は「お上手ですなあ(苦笑)」。

 感心するようなうまさではなく、はいはいうまいうまい、すごいね、という感じ。塾で習ってきた解法をこれみよがしに披露するクラスメイトを見たときの気持ちに似ている。「へえ、すごいねえ。よく予習してるねえ」


 狙いが透けて見えるというか。ああ、感動させようとしてるなあ、って感じなんだよね。戦死した祖父の手紙とか、亡父の形見の時計とか、死んだ子の思い出とか、出てくる小道具がいかにも。感動小説に「死んだ人の手紙」を出すって、もうほとんどコントでハリセンやタライを出すぐらいベタじゃない?




 表題作『海の見える理髪店』はわりとよかったけどね。特にラストの一文が決まっていて。

 ただ、これも決まりすぎていて、個人的には鼻についてしまった。そのシチュエーションでその一言はおしゃれすぎるやろ。

 贅沢なことをいうけど、小説って上手すぎるとおもしろくないんだよね。めちゃくちゃうまい人のビリヤードみたいでドキドキしない。

 ストーリーはいいけど、演出が不自然だったな。これを原作にして映画やドラマにしたらいい作品になりそうだけど。


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2023年2月3日金曜日

【読書感想文】奥田 英朗『ナオミとカナコ』 / 手に汗握るクライムサスペンス

ナオミとカナコ

奥田 英朗

内容(e-honより)
望まない職場で憂鬱な日々を送るOLの直美は、あるとき、親友の加奈子が夫・達郎から酷い暴力を受けていることを知った。その顔にドス黒い痣を見た直美は義憤に駆られ、達郎を排除する完全犯罪を夢想し始める。「いっそ、二人で殺そうか。あんたの旦那」。やがて計画は現実味を帯び、入念な準備とリハーサルの後、ついに決行の夜を迎えるが…。


この感想は一部ネタバレを含みます。


 百貨店勤務の直美は、学生時代からの親友・加奈子が夫からDVを受けていることを知る。自身の母親もDVを受けていた直美は、仕事で知り合った中国人社長、加奈子の夫に瓜二つの中国人不法滞在者、認知症の老婦人らを利用し、証拠を残さずに加奈子の夫を〝排除〟する計画を加奈子に持ちかける……。


 いやあ、手に汗握るクライムサスペンス小説だった。すばらしいエンタテインメント。

 犯罪小説としては、格別凝ったことはしていない。

 計画を思いつく → 殺す → 証拠が残らないように後始末をする → 追及をかわす → ばれそうになる → 逃げる

 あらすじを書いてしまうと、いたってシンプルだ。


 だが「はたしてうまく殺せるのか」「予期せぬ事態が起こって計画通りにいかないんじゃないか」「うまくごまかせるのか」「ばれそうになってからはうまく逃げられるのか」と、中盤以降はずっと緊張感が漂う。まるで、自分の犯罪がばれそうになるような気分だ。いやぼくには隠してる犯罪なんかないけどさ。マジでマジで。


 特に終盤の、徐々に捜査の手がせまってくるあたりや、追手から逃げるくだりは読むのをとめることができなかった。おかげで夜更かししちまったじゃないか!




 似た作品に、貴志祐介『青の炎』がある。

「自分の人生を守るためには殺すしかない」という状況に追い詰められた主人公が、綿密な計画を練り、殺人を決行する。

 うまくいったかに見えたが、些細なほろこびから疑いを持たれ、やがて捜査の手が伸びてくる……。

『青の炎』の結末がもの悲しくも「これしかない!」って感じだったので、『ナオミとカナコ』も同じような結末を迎えるのだとおもった。

 だが……。

 うーん、そうきたか。これはこれでアリだよなあ。倫理的には良くないのかもしれないけど、おもしろいもんなあ。こういう結末を許せない人もいるだろうけど、ぼくは嫌いじゃない。

 これはやっぱり男女の差かなあ。女主人公が『青の炎』の秀一くんみたいな結末を選ぶのは違和感をおぼえるし、男主人公が『ナオミとカナコ』みたいな道を選んだら読んでいてスッキリしない気がする。なんでだろうな。



 直美と加奈子は共謀して加奈子の夫を殺すのだが、「DV夫から逃れるため」という明確な目的があった加奈子とはちがい、直美のほうには殺人から得られるメリットがまるでない。

 直美をつき動かすのは、「親友がひどい目に遭っているのを許せない」という義憤だけだ。

 そんなことでほとんど会ったこともない人間を殺すかねえ、とおもうが、よくよく考えると案外そんなものなのかもしれない。いざとなったら損得よりも義憤のような感情のほうがずっと強いのかも。

 そういえば桐野夏生『OUT』でも、死体遺棄をおこなうのはまるで利害関係のない人物だった。

 意外と人間は、損得で動かない。



「殺されること」と「殺してしまうこと」はどっちがイヤだろうか?

 そうなってみないとわからないけど、もしかしたらぼくは「殺してしまうこと」のほうがイヤかもしれない。

「誰かに殺されそうになる悪夢」はまったく見たことがないが、「自分が何か悪いことをして捕まりそうになっておびえる悪夢」は何度も見たことがある。心のどこかに「殺してしまうこと」「逮捕されること」へのおびえがあるのだ。ずっと。

 殺されるのも怖いが、殺されたらそれでおしまいだ。その後はどうすることもできないし何も考えられない。でも殺すほうは、殺した後もずっと人生が続くのだ。悔やんだり、怯えたり、追われたり、糾弾されたりしながら。そっちのほうがおそろしい。



『OUT』を読んだときにもおもったが、完全犯罪(殺人)を成功させる上でいちばん大事なのは「死体が見つからないようにすること」だね。

 死体さえ見つからなければ、どんなに怪しくても殺人罪で起訴できない。そもそも大人が行方不明になっても警察はまともに捜査しない。

 そういえば推理小説でも「死体が見つからない事件」ってあんまりないよね。死体がなければ殺人事件にならないからね。アリバイだとかトリックとかより「死体を隠す」がいちばん大事なんだろうね。



 ものすごくおもしろい小説だった。おもしろくてページをスライドする手が止まらない(電子書籍で読んだので)という、近年あまりない読書体験だった。

 小説の登場人物に高い倫理観を求める人からしたら気にくわないだろうけど、そうじゃない人にはおすすめ。


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【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



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2023年2月2日木曜日

ツイートまとめ 2022年7月



適性検査

減税シンパ

カル中

服のセンス

誤解を招いた

ろくでもない

揚げ出し豆腐

言い方

政治と科学

デパート

できたて

鎮火

地獄

わんやんあぐだ

このボケ

ショートコント『アンパンマン』

自滅

国葬

2023年2月1日水曜日

【読書感想文】石神 賢介『57歳で婚活したらすごかった』 / ようやるわ

57歳で婚活したらすごかった

石神 賢介

内容(e-honより)
やっぱり結婚したい。57歳で強くそう思った著者は、婚活アプリ、結婚相談所、婚活パーティーを駆使した怒涛の婚活ライフに突入する。その目の前に現れたのは個性豊かな女性たちだった。「クソ老人」と罵倒してくる女性、セクシーな写真を次々送りつける女性、衝撃的な量の食事を奢らせる女性等々。リアルかつコミカルに中高年の婚活を徹底レポートする。切実な人のための超実用的「婚活次の一歩」攻略マニュアル付!


 三十代で離婚、その後婚活をするも成婚にはいたらなかった著者が、還暦手前にして再び結婚したい願望にとらわれ、再び婚活に挑戦したルポルタージュ。


 ぼくからすると「ようやるわ……」という気持ちだ。

 ぼくは十年ほど前に結婚したが、そのときは安堵感を味わった。「やれやれ、これでもう惚れたはれただのモテるモテないだのといった競争からおりることができる」と。

 世の中には恋愛が大好きな人もいるけど、ぼくはどちらかというと嫌いだ。そりゃあ楽しいこともあるけど、つらいことや恥ずかしいことやめんどくさいことのほうがずっと多い。さっさと一人のパートナーを見つけて、その人と長く付き合うほうがいい。そんなわけで、ぼくははじめてできた彼女と八年付き合い、その人と結婚した。そりゃあ目移りすることがないでもなかったけど、それより「めんどくさい」のほうが勝った。

 だから、57歳で婚活なんて聞くと「わざわざそんな試練に我が身を投じなくても……」と、極寒の山中で滝行をする修行僧を見るような目になってしまう。どう考えたって、得られるものより失うもののほうが大きそうだもん。




 婚活アプリで出会った女性の話。

 このメッセージを僕に送ってきたのは、婚活アプリで最初にマッチングしたマリナさんである。アプリに登録した夜に申し込んだ5人の女性のなかで一人だけレスポンスをくれた41歳の女性だ。銀行員で、離婚歴が一度ある。
 彼女にメッセージを送ったのは、顔が好みだったということ。そして、好きな映画が同じだった。(中略)映画の話題で3往復やり取りすると、「会いましょうよ」と言ってくれた。ビギナーズラックだと思った。
 待ち合わせは、表参道駅近く。青山通りから路地を一本入ったビルのカフェレストランだ。実物のマリナさんもきれいな女性だった。かつては地方のテレビ局でレポーターの仕事もしていたという。
 意気投合した、と僕は思った。というのも、LINEのIDを交換し、R&B系の来日アーティストのライヴを観る約束をして帰路に着いたからだ。しかし、僕の大きな勘違いだった。彼女は僕にいい印象を持たなかったのだ。
 約束したライヴの日程が近づき、LINEで連絡をしても、レスポンスがない。高価なチケットを用意していたこともあり、不安になった僕は2度、3度、連絡をした。すると、3度目でようやく、深夜に連絡が来た。
「しつこいです。もう連絡しないでください。無理です」
 しつこかったか? そうとも思えなかったけれど、嫌われたことは間違いない。小心者の僕は即撤退することにした。
「失礼しました。もう連絡はさしあげません」
 と送信して就寝した。
 翌朝起床すると「連絡すんなって書いてあんの読めないのかよ。老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」というメッセージが届いていたのだ。「失礼しました。もう連絡はさしあげません」というわびのLINEすら腹立たしかったらしい。ここまで言うということは、断りたいだけでなく、僕を痛めつけたいということだ。
 食事をしたときに、おそらく無意識のうちになにか僕に失言があったのだろうし、心当たりはない。気分を害するポイントは、世代によっても違いがあるものだ。

 LINEメッセージを一通送っただけで『クソ老人』……。

 まあ一方的な言い分しかわからないからね。ひょっとすると著者がめちゃくちゃ失礼なことを言ったのかもしれないけど。でも、それにしても「老眼鏡つけとけよ。てめーからLINEくるだけでゾッとして不眠になるわ。クソ老人!」ってなあ。

 もしかして、男性を罵ることで快楽を得るタイプの人なのかもしれない。だってほんとに嫌いな相手だったら、そんな長いメッセージを打つよりもブロックするんじゃないかなあ。そっちのほうがずっと早いもん。


 しかし、こんな目に遭っても(ほかにもいろいろひどい目に遭ってる)次々に相手を探せるなんて、著者はタフだ。ぼくだったら、意気投合したとおもった相手から「クソ老人!」と言われたら婚活を諦めて一年以上は落ち込んでしまうような気がする。

 就活でお断りメールを受け取るのですら全人格を否定されたようでけっこうな心的ダメージを食らったのだから、異性から「自分という人間」を次々にお断りされるのは、相当な心痛だろうな。でも、どんな痛みもそうであるように、やっぱり慣れていくんだろうな。慣れるというか麻痺するというか。




 結婚相談所のプロフィール写真について。

 女性の写真はみんな上品だ。しかし、目が慣れてくると、あれっ?と思った。なんとなく違和感を覚える。
 よく見ると、写真の多くは加工されていた。婚活アプリと同じ傾向が見られた。目鼻立ちがくっきり写るように陰影のあるメイクをしたり、しわが目立たないようにソフトフォーカスで撮影されていたり。おそらく画像上でも、頬をシャープにしたり、肌荒れをフラットにしたり、レタッチが施されているのだろう。
(中略)
「実際に会ったら、顔が違っていることもありますか?」
「七掛けくらいまではご容赦いただきたいと……」
 やはり写真は加工されているのだ。
 お見合いの場に別人のような女性が現れたら、チェンジはありですか?」
 またもや思ったことが口をついて出てしまう。
「いけません! 私どもはそういう種類のお店とは違いますので」
 電話の向こうは急に強い口調になった。
「そうですか……。ならば、写真をつくり込んでいるか、見破る方法はありますか?」
「それはご自身のスキルを磨いていただくしかないかと」
「スキルを磨く……」
「はい。あっ、一つポイントを申し上げましょう。モノクロ写真は加工されている前提で見てください」
 コジマさんはきっぱりと言った。


「いちばん写りのいい写真を選ぶ」ぐらいならわかるんだけど、レタッチソフトを使って加工する人の気持ちはわからんなあ。

 加工して実物よりよく見せた写真でお見合いにいたったとしても、どうせ顔を合わせるのだからばれてしまう。だったら会ったときにがっかりさせるより、素顔をさらしてそれでも申し込んでくれる人と出会ったほうがうまくいくんじゃないの? とおもってしまうんだけど。

 どうせすぐにばれるとわかっててもそれでもよく見せたいのが女性という生き物なのか、それともとにかく会うことまでこぎつけないと勝負にならないから五割増し加工でもしたほうが勝率が上がるのか。

 しかし美人局や営業職ならともかく、一生共に過ごしていこうというパートナーを見つけるための場なのに、だましあいから入るのは、なんかちがうんじゃないの? とおもってしまう。それで数十年つきあっていけるのかねえ。


 もうひとつ疑問におもうのが、「高級レストランじゃなきゃイヤ、男性のおごりでなきゃイヤ」って女性が多いらしいこと。

 この感覚、まったく理解できない。自分が食べるものに金かけないからってのもあるけど。

 そりゃあ一回こっきりの相手に食事をおごってもらうんなら高い飯のほうがいいけどさ。でも、結婚相手を選ぶわけでしょ? 贅沢な食事に惜しみなく金を使う男よりも、締めるとこはちゃんと締める経済観念のしっかりした男のほうがよくない? 浪費家と結婚しても苦労するのは自分だよ? 結婚相談所だったら会う前に相手の年収はわかってるわけだから、収入の割に高い店に連れていく男はやめといたほうがいいとおもうけどなあ。

 まあ今の中高年ってバブルを知ってる世代だったりするから「おごってもらってあたりまえ。安い食事に連れていく男は論外」って感覚が染みついちゃってるのかなあ。

 婚活をやってると、結婚後に円満な関係でいることよりも「婚活でちやほやされること」が目標になっちゃうのかもね。

 就活のときもいたよね。「いい会社に入って好ましい仕事をすること」じゃなくて「何社から内定をもらったか」がゴールになっちゃう人が。




 読んでいて感じたのは「この人たちほんとに結婚する気あんのかな?」ってこと。著者も、著者が会った女性たちも。

 この人もダメだった、あの人もダメだった、その人はそこが嫌だった、あの人とはあそこがあわなかった……。と、あれこれ理由をつけては見送っている(フラれてるケースもあるけど)。

 え? もししかして「世界のどこかにいるすべて私の理想通りの相手」を探してる?

 いねーよ! いたとしてもそいつはとっくに他の誰かと結婚してるよ!


 読んでいると、著者は結婚相手を探しているというより、なんとかして結婚しない理由を見つけようとしているようにしか見えない。

 理想通りじゃないのはあたりまえじゃない。まして「57歳で婚活する男」「57歳で婚活する男と会ってくれる女」なんだから、いろいろと問題があるのはあたりまえじゃない。容姿も良くて、高収入で、働き者で、性格が良い人がその市場にいるわけがない。そんなかんたんなこと、誰だってわかる。

 たぶん著者や、著者と会った女の人たちだってわかってる。他人になら「完璧な人なんていないんだからほどほどのところで手を打ったほうがいいよ」と言えるだろう。でも、こと自分のことになると、理想を追い求めてしまう。だから結婚できひんねんで。

 おもうに、婚活の仕組み自体が良くないんだろうね。何千人もの異性の写真やプロフィールを見て、何十人、何百人もの人に会って結婚を前提にした会話をする。そりゃあどうしたって目移りもするし、品定めする目になってしまう。「年収はあの人のほうが上だった」「顔は以前の人のほうが好みだった」「いちばん会話が弾んだのは彼だった」ってな感じで減点してしまうのだろう。


 つくづくおもうに、昔の「親が勧めてきた相手」や「上司の紹介」ってのはそれなりにいい制度だったんだろうな。それだと相手をあれこれ見比べることないから「わざわざ断るほどの理由もないし、まあいいか」ぐらいで手を打てる可能性も高かったのだろう。

『57歳で婚活したらすごかった』を読んでいると、婚活をすればするほど結婚から遠ざかっていくような気がする。だって〝過去の最高点〟がどんどん上がっていくんだもん。長く婚活していれば「もっといい人がいたのに、今さらこんなところで手を打ちたくない」って心境になるだろうし。

 仮に結婚したとしても、たくさんの人と結婚を前提にしたお付き合いをした後だと「やっぱりこの人じゃなくてあっちにしとけばよかったかなあ……」とおもうんじゃないかな。その点、ぼくなんかひとりの女性としかつきあったことないから、そんなふうに迷うこともない。あー、モテなくてよかった!(涙目でガッツポーズ)


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