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2018年6月11日月曜日

【読書感想】陳 浩基『13・67』


『13・67』

陳 浩基(著) 天野 健太郎(訳)

内容(Amazonより)
華文(中国語)ミステリーの到達点を示す記念碑的傑作が、ついに日本上陸!
現在(2013年)から1967年へ、1人の名刑事の警察人生を遡りながら、香港社会の変化(アイデンティティ、生活・風景、警察=権力)をたどる逆年代記(リバース・クロノロジー)形式の本格ミステリー。どの作品も結末に意外性があり、犯人との論戦やアクションもスピーディで迫力満点。
本格ミステリーとしても傑作だが、雨傘革命(14年)を経た今、67年の左派勢力(中国側)による反英暴動から中国返還など、香港社会の節目ごとに物語を配する構成により、市民と権力のあいだで揺れ動く香港警察のアイデェンティティを問う社会派ミステリーとしても読み応え十分。
2015年の台北国際ブックフェア賞など複数の文学賞を受賞。世界12カ国から翻訳オファーを受け、各国で刊行中。映画化件はウォン・カーウァイが取得した。著者は第2回島田荘司推理小説賞を受賞。本書は島田荘司賞受賞第1作でもある。

香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細な物語でおもしろかった。

ミステリには「本格」「社会派」というジャンルがある。ざっくりいうと謎解き自体を楽しむのが本格派、事件が起こった社会的背景を描きだすのが社会派だが(すごく雑な説明です)、短篇集である『13・67』はひとつひとつの作品は謎解きメイン、しかし六篇すべてを読むことで香港警察という組織がどのように社会と向き合ってきたかという歴史が見えてくる。短篇としては本格派、短篇集としてみると社会派ミステリになっているという変わった趣向だ。

変わった趣向といえば、第一話で「主人公が死を前にして言葉も発することもできずにベッドに横たわっている」という設定から入るのもおもしろい。主人公がスタートした状態で幕を開ける落語『らくだ』のような導入だ。
ここからどう続けていくのだろうと思っていたら、時系列を逆にして(リバースクロノロジーというらしい)、徐々に主人公クワンが若い時代の話が語られてゆく。
物語の舞台は、第一話は2013年、第二話は2003年、第三話は1997年、第四話は1989年、第五話は1977年、そして最終第六話は1967年である。この間、租借地であった香港ではイギリスや香港警察に対して暴動が起こり、少しずつ民主化が進み、イギリスから中華人民共和国へと変換され、そして再び政府や警察に対する不満が募る時代へと変わってきている。
こうした時代の変化が、『13・67』ではさりげなく、しかし丁寧に描かれている。


ちょうどこないだ読んだ『週間ニューズウィーク日本版<2018年3月13日号>』の『香港の民主化を率いる若き闘士』という記事に、こんな記述があった。
 1997年にイギリスが中国に香港を返還したとき、中国は本土と異なる政治・経済制度を今後7年間維持し、高度な自治を認めると約束した。いわゆる「1国2制度」である。
 このとき普通選挙の実施も約束されたが、3年たった今も香港の有権者は形ばかりの民主主義の下に置かれ、中国共産党のお墨付きを得た候補者の中から投票先を選ぶしかない。
「1国2制度というより、1国1.5制度だ」と、黄は言う。
「その0.5もどんどん縮小し、完全に中国の支配下に置かれようとしている」
 14年秋、何万もの人々が民主的な選挙の実施を求めて香港中心部の主要な道路に居座った。参加者の多くが警察の催涙スプレーを避けるために雨傘を持ったことから、この運動は雨傘革命と呼ばれるようになった。四日間続いた占拠は、同年12月11日、香港警察の暴力的な弾圧で幕を閉じた。

返還当初は「香港は香港がこれまでやってきたやりかたを維持していいよ」と約束していた中国だったが、少しずつその約束は反故にされ、イギリス統治下の香港に根付いていた民主主義は奪われていった。それを支持したのは中国共産党だったが、その手先となり実際に民衆を抑圧したのは香港警察だった。

民衆の味方ではなくイギリス(作中の言葉を借りるなら「白い豚」の手先であった香港警察が徐々に市民から信頼されるようになり、そして今度は中国共産党の手先となってまた信頼を失ってゆく姿がミステリを通してありありと描かれている。
描かれている事件はフィクションだが(事実を下敷きにしているものもあるらしいが)、まるでルポルタージュを読んでいるような気分になる。
イギリス、中国共産党、犯罪者、警察組織、そして市民。それぞれの間で葛藤する香港警察官の苦悩が伝わってくるようだ。

なるほど、これはたしかに読みごたえ十分のミステリだ。
このような骨太のミステリが日本でもアメリカでもなく、香港で生まれたということに時代の移り変わりを感じる。



ミステリとしてはやや粗も目立つ(第一話『黒と白のあいだの真実』などは都合よく展開しすぎだし、第六話『借りた時間に』ではそれまでの短篇と語り口が変わってしまうのでラストのどんでん返しを察してしまう)。しかしエネルギーがみなぎっているため細かい粗は吹きとばしてしまう。それぐらいパワフルな筆力だ。
訳もいい。訳者はミステリの訳には慣れていないらしいが、香港に関する知識の乏しい読者でも抵抗なく読めるようよく工夫されている。

主人公クワンの大きな正義のために小さな悪には目をつぶるというハードボイルドさが痛快だ(平気でおとり捜査や不法侵入もしてしまう)。
これが日本警察を題材にしていたら「こんなめちゃくちゃな捜査する刑事いねえよ。完全に違法捜査じゃねえか」と思うけど、香港というなじみの薄い舞台のおかげで細かい点も気にならない。
そんなまさか、と思いつつも、いや香港ならひょっとしたらありうるかもしれないという気になる。なにしろジャッキー・チェンが『ポリス・ストーリー/香港国際警察』をやってた街だからね。


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2018年6月8日金曜日

【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』


『人口減少社会の未来学』

内田 樹 池田 清彦 井上 智洋 小田嶋 隆
姜 尚中 隈 研吾 高橋 博之 平川 克美
平田 オリザ ブレイディ みかこ 藻谷 浩介

内容(Amazonより)
21世紀末、日本の人口は約半数に――。人口減少社会の「不都合な真実」をえぐり出し、文明史的スケールの問題に挑む〝生き残るため〟の論考集。各ジャンルを代表する第一級の知性が贈る、新しい処方箋がここに。

内田樹氏の呼びかけに応じて、幅広いジャンルの人たちが人口減少社会について論じた本。
人類の歴史、経済、建築、地方文化、イギリス、農業などさまざまな分野の専門家たちが各々の立場から語っている。
当然ながら「人口減少社会に向けてこうするのがいい!」なんて正解は出ないけれど(出たら大事件だ)、考えるヒントは与えてくれる。

大規模な移民の受け入れでもしないかぎりは今後も日本の人口が減るのはまちがいないわけで(これから一組のカップルが五、六人ずつ子どもを産んだら増えるらしいけど)その時代に生きるつもりでいるぼくも、いろんな知見に触れておきたい。

こういう本を読んだからって人口減少はストップできないけど(保健体育の教科書に書いてあったところによるとセックスってものをしないと子どもはできないらしい)、どう生きるかということにあらかじめ見当をつけておくのは大事だね。
ぼくも高橋博之氏の文章『都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する』を読んで、地方農業のために何かしようという気になり、とりあえず野菜を取り寄せてみた。まずはそこから。


目次は以下の通り。
・序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測 (内田 樹)

・ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略 (池田 清彦)

・頭脳資本主義の到来
 ――AI時代における少子化よりも深刻な問題 (井上 智洋)

・日本の“人口減少”の実相と、その先の希望
 ――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する (藻谷 浩介)

・人口減少がもたらすモラル大転換の時代 (平川 克美)

・縮小社会は楽しくなんかない (ブレイディ みかこ)

・武士よさらば
 ――あったかくてぐちゃぐちゃと、街をイジル (隈 研吾)

・若い女性に好まれない自治体は滅びる
 ――「文化による社会包摂」のすすめ (平田 オリザ)

・都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する (高橋 博之)

・少子化をめぐる世論の背景にある「経営者目線」 (小田嶋 隆)

・「斜陽の日本」の賢い安全保障のビジョン (姜 尚中)

立場も議論の方向性もばらばらで、だからこそ人口減少社会に対する知見が深まる。

小説だといろんな作家があるテーマについて書いた短編を集めたアンソロジーがよく出ているけど、ノンフィクションや評論だと少ない。科学や社会学の分野でもアンソロジー本がもっと出たらいいのにな。
ひとつのことについて考えようと思ったら、立場の異なる人の意見を読むのがいちばんいいからね。



内田樹氏の項より。

 そして、その反対の「根拠のない楽観」にすがりついて、あれこれと多幸症的な妄想を語ることは積極的に推奨されています。原発の再稼働も、兵器輸出も、リニア新幹線も、五輪や万博やカジノのような「パンとサーカス」的イベントも、日銀の「異次元緩和」も官製相場も、どれも失敗したら悲惨なことになりそうな無謀な作戦ですけれど、どれについても関係者たちは一人として「考え得る最悪の事態についてどう対処するか」については一秒も頭を使いません。すべてがうまくゆけば日本経済は再び活性化し、世界中から資本が集まり、株価は高騰し、人口もV字回復……というような話を(たぶんそんなことは絶対に起きないと知っていながら)している。思い通りにならなかった場合には、どのタイミングで、どの指標に基づいてプランBやプランCに切り替えて、被害を最小化するかという話は誰もしない。それは「うまくゆかなかった場合に備える」という態度は敗北主義であり、敗北主義こそが敗北を呼び込むという循環的なロジックに取り憑かれているからです。そして、この論法にしがみついている限り、将来的にどのようなリスクが予測されても何もしないでいることが許される。

これはつくづくそう思う。新聞やテレビを観ていても、「悪い未来を語るな」という同調圧力のようなものを感じる。
楽観的であることと悪い状況から目をそらすことは違う。みんなもっと悪い未来を語ろう。

東日本大震災の少し後、漫画『美味しんぼ』で福島県内で原発事故の影響による健康被害が出ているという話が描かれた。たちまち「風評被害を煽るな!」と炎上していた。
だがぼくは「いいじゃないか」と思っていた。警鐘を鳴らすのは悪いことではない。根も葉もないデマはだめだが、「もしかすると危険かもしれない」という警告を発することは重要だ。
「だからよくわからないけど福島県に行くのはやめよう」となるのは良くないかもしれないが、「だからしっかりとした調査をしよう」という発想に達するのであれば、警鐘を鳴らすことは無意味ではない。たとえ結果的にその警告が誤りだったとしても。
レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で環境破壊に対して警鐘を鳴らしたときも多くの批判があったという。「確かな根拠もないのに産業活動を邪魔するな」と。だが彼女が『沈黙の春』を書いていなければ、地球の状況は今よりずっと悪かっただろう。

少なくとも「偉い学者が福島は安全って言ってるから大丈夫に決まってるだろ!」という反応よりは「今の時点では判断がつかないから不要不急の用事がないかぎりは行かないようにしよう」という行動をとるほうがよほど賢明だ。
ビジネスなら「わかんないけど大丈夫」で突っ走ってもいいが、健康や教育など取返しのつかないことに関しては「わかんないから様子見しよう」でいたほうがいい。


オリンピックが失敗した場合はどうやって挽回しようとか、再びリーマンショック級の不況が襲ったときはどうなるとか、そんな「アンハッピーな未来」についてももっと語ろう。
そうじゃないと年金制度のように「誰もがもうだめだとわかっているのに誰も手をつけない」状態になる。
年金制度は三分の一まで浸水した船だ。しかも大きな穴が開いている。ここから船が持ちなおすことはない。冷静に考えれば、問題はいつ脱出するか、脱出した後にどの船に移るかだけなのだが、誰もその話をしない。
きっと誰も責任をとらないまま、ゆっくりと沈没してゆくのだろう。年金制度は日本の未来の縮図かもしれない。



井上智洋氏の章。

 世界では熾烈な頭脳獲得競争が起きており、それも頭脳資本主義の表れである。例えば、ディープマインド社は元々イギリスの会社だが、2014年にグーグル社に4億ドル以上で買収されている。ディープマインド社は、2016年3月に韓国人のチャンピオン李世を打ち負かして有名になった「アルファ碁」という囲碁AIを開発した会社である。
 2014年当時、ディープマインド社は社員が100人もおらず、工場や資産を有しているわけでもなかった。ただ、創業者デミス・ハサビス氏を初めとする社員の頭脳が4億ドル以上の価値を持ったのである。
 こうした頭脳獲得競争に日本の企業や大学は取り残されている。世界から頭脳を獲得できていないどころか、日本からの頭脳流出を防ぐこともできないでいる。

この本を読んでいるうちに気づいたんだけど、じつは人口現象自体が問題なのではなく、日本がいまだに「人口が増加することに依存したシステムに依拠している」ことのほうが問題なんじゃないだろうか。

どう考えたってAIは今後伸びる分野なのに、いまだに国を挙げて自動車とか銀行とか時代遅れになった業界を必死に保護している。イギリスやフランスは「2040年までにガソリン車の走行を禁止する」という指示を出しているのに、日本は今ある技術を守ろうとしている。どちらが将来の繁栄につながるか明らかなのに。

衰退してゆく産業を守っているうちに、日本全体が「かつて炭鉱で栄えた町」になってゆくんじゃないだろうか。


小田嶋隆氏の章でも書かれているが、「日本の人口が減る! たいへんだ!」と騒いでいるけど、よくよく考えたらぼくらの日常生活においては人口減少のメリットのほうが多そうだ。
通勤は楽になるし、働き手が不足すれば労働者の権利は強くなるし、土地も家も安くなる。
百年前と同じ人口に戻って、でも科学は発達しているので昔より少ない労働で大きなアウトプットが生まれる。多くの財を少ない人で分け与えることになるんだから、むしろハッピーなことのほうが多いんじゃない?

じゃあ誰が「人口が減る! 困る!」と思っているかというと、たくさん雇って使い捨てにするビジネスをやっている経営者が困る。石炭から石油にシフトしたときに炭鉱の所有者が困ったように。
時代の変化にあわせて切り替えられなかった人たちが困っていても「あらあらお気の毒やなぁ。考えが古いとたいへんどすなぁ」としか言いようがない。



福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』に「動的平衡」というキーワードが出てくる。
生物はずっと同じ細胞を保有しているわけではなく、発生、回復、代償、廃棄などの行為を頻繁におこなうことで平衡状態を保っている、ということを指す言葉だ。
人間ももちろん動的平衡状態にあるし、「日本人」という大きなくくりで見たときにもやはり動的平衡は保たれている。生まれたり、死んだり、出ていったリ、入ってきたりして、全体として見るとそれなりの調和が保たれている。

そう考えると、人口が減るのは決して異常なことではなく、むしろ増えつづけていた今までのほうが異常だったのだと思う。一個体でいうなれば体重が増えつづけていたようなものだ。
人口減少はむしろ正常な揺さぶりのひとつなのだ。体重が増えた後に走ってダイエットをするようなもので、当然その最中には苦しみをともなうけど決して悪いことではない。


今までのやりかたが通用しなくなったら(もうなっているが)政治家や経営者は困るだろうが、そんなことはぼくらが気にすることじゃない。それを考えるために政治家や経営者は高い給与もらってるんだから。
「たいへん! 少子化をなんとかしなきゃ!」という声に踊らされることはない。産みたきゃ産めばいいし、産みたくないなら産まなくていい。

案外、ぼくらは「人口が減ったら夏も涼しそうでよろしおすなあ」とのんびりお茶をすすっていればいいのかもしれない。


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2018年6月1日金曜日

【読書感想】トマス・ハリス『羊たちの沈黙』


『羊たちの沈黙』

トマス・ハリス(著) 菊池 光(訳)

内容(e-honより)
FBIアカデミイの訓練生スターリングは、9人の患者を殺害して収監されている精神科医レクター博士から〈バッファロゥ・ビル事件〉に関する示唆を与えられた。バッファロゥ・ビルとは、これまでに5人の若い女性を殺して皮膚を剥ぎ取った犯人のあだ名である。「こんどは頭皮を剥ぐだろう」レクター博士はそう予言した…。不気味な連続殺人事件を追う出色のハード・サスペンス。

有名サスペンス映画の原作。映画のほうは十年ほど前に観たが、ショッキングなシーンは印象に残ったが(スターリングとレクター博士のはじめての面会シーンとか、翌日の自殺の一件とか、脱走シーンとか)、細部についてはよく理解できなかった。
なぜレクター博士はスターリングに協力するのかとか、レクター博士の的確すぎる推理の理由とか。
で、原作を読んでみたのだけれど、レクター博士の行動原理についてはやっぱりよくわからない。でもこれはこれでいいのだろう。わからないから彼の異常性は際立つし、また彼の頭脳の明晰さも光る。

映画だとレクター博士は超人的なひらめきで犯人を突き止めているような印象を受けたけど、小説を読むとレクター博士が犯人にたどりついた経緯がしっかり書かれている。「理解できないぐらいの突飛な発想をする天才」ではなく「地に足のついた天才」であり、説得力が増している。
だが、総合的に見ると映画のほうがわかりやすいように個人的には思う。登場人物たちの心情は伝わってこないし、文章はかなり癖がある。ストーリーとほとんど関係のない会話やエピソードも多い。何も知らない状態でこの小説を手に取っていたら途中で投げだしていたかもしれない。




レクター博士は、残忍、紳士的、醜悪、慈悲深い、優秀、非人道的、冷徹、凶暴、知性的、快楽的。ありとあらゆる性質を兼ねそろえたキャラクターだ。一言でいうと「超やべえやつ」。
改めて読んでみるとレクター博士の登場シーンはそう多くない。だが主人公スターリングよりも圧倒的な存在感を残している。

大柄な女性の皮を剥ぐ連続殺人犯、死体の喉に詰まっていた蛾の繭、過去の記憶の中にある屠殺牧場、被害者女性が閉じこめられている地下室など不気味な小道具がそろっているが、どれもレクター博士の存在の前ではかすんでしまう。
「女性の皮を剥いで自分が着る服を作りたい」という願望を持った異常殺人犯ですら、レクター博士に比べればまだ理解できそうな気がしてしまう。なにしろレクター博士はその猟奇的殺人犯の内面をぴたりと言い当ててしまうのだ。

レクター博士の存在こそがこの本の魅力であり、また欠点でもある。読んでいても「バッファロゥ・ビルを追う」という本筋よりもレクター博士の動向のほうが気になってしかたがない。
読みながら「そういや映画でこんなシーンあったな」と思いだしながら読んでいたのだが、そのほとんどがレクター博士のシーンだった。レクター博士が脱走するシーンは強烈な印象に残っているのに、バッファロゥ・ビルの逮捕シーンなどはまったく覚えていなかった。

さまざまなフィクションにマッド・サイエンティストのキャラクターは出てくるが、そのマッドっぷりにおいて、そして存在感においてレクター博士の右に出るものはそういないだろうね。


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2018年5月25日金曜日

【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』


『「お金」で読み解く世界史』

関 眞興

内容(e-honより)
古代エジプトから近代が始まる前までをお金と経済で読み解くユニークな世界史。教科書が描かない、政治や戦争とは違った視点でつかむ世界史の本質。

「お金」で読み解く、という試みはおもしろいのだが、「世界史」というテーマは大きすぎたように思う。
誰もが世界史に対して十分な知識を持っているわけではないので、経済の話に至るまでには政治や宗教や地理や文化の話も避けて通れず、お金以外への説明に多くのページが使われている。で、結局「世界史の膨大な知識を猛スピードで説明する教科書」になってしまっている。

かなりのボリュームのあるマクニール『世界史』ですら「すごくあわただしいな」と感じだたので、切り口を絞ったとはいえ新書で文明の隆興~19世紀までの世界各国を説明するというのは無理がある。スペイン→オスマン帝国→ロシア→中国→オランダ→イギリス みたいにあっちこっちに話題が移るので、ぜんぜんついていけない。作者は元予備校講師らしいが、「とにかく重要ポイントだけ駆け足で説明」というのはいかにも予備校っぽい。

「お金で読み解くローマ帝国」ぐらいにテーマを絞っていれば読みごたえのある本になっていただろうに。



いろんな時代、いろんな国に共通して言えるのは、国家の力が衰えると貨幣も不安定になるし、貨幣が不安定になれば社会も不安定になるということ。
資本主義社会になったのは世界史の流れで見ればごく最近の話ではあるけれど、それ以前から政治や経済を支えているのはお金なんだね。



 ユダヤ教もキリスト教も、その両者の影響を受けたイスラム教でも同胞からの利子の取り立ては禁止している。中世の地中海世界においてユダヤ教は国家を持たない民族であったため、それぞれ世界をつくっていたキリスト教徒とイスラム教徒のどちらにも利子つきで金を貸すことができた。現実の問題として、キリスト教国家ではユダヤ教徒はキリスト教徒に金を貸して利子を取る以外に生活の術を持っておらず、金貸しは生きていくための生活手段であったといえる。逆にもしユダヤ教徒が大きな国家を持ち、キリスト教徒が国なき民族であったとしたら、キリスト教徒が高利貸しになっていたかもしれない。

ユダヤ人は金貸しが多かったから嫌われていたというのは聞いたことがあったが、なるほどこういう理由だったのね。
そういえば世界一有名な金貸しであるシャイロック(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)もユダヤ人だ。マイノリティとして生きていくために金貸しをしていたのに、それで嫌われるのはかわいそうな気がする。元はといえばわかってて借りたほうに原因があるわけだし。



十字軍の内情について。

 宗教的情熱が高まったとしても人間には日常的な生活がある。人が動くことは商人たちにとっては利益を得る機会になるが、諸侯・騎士たちにとっては国に残した自分の財産が気になるところである。教会は、そのような財産が保証されることを約束し、それを犯すものは破門に処することとし、参加者には罪が許されるという「贖宥」を与えた。
 さらに、十字軍への参加を呼び掛ける宣伝文句として紹介されるのが、戦いによる戦利品の多いこと、東方ビザンツ帝国の女性は魅力的であることだけでなく、不自由民には自由を与え、債務者には債務を取り消させることなどを約束していたことである。すべてこれらは世俗的な問題であるが、詳細な情報のない世界に向かう不安などを払拭するためには、このような現実的な目的が不可欠であったのであろう。

十字軍というとぼくにとってはかっこいいイメージだったけど(『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の「スターダスト・クルセイダース」のためだが)、実態はというと略奪を尽くしたり、女性をさらったり、とても気高い人たちとはいえなかったようだ。
なかには宗教的理想に燃えていた人だっていたんだろうが、大半は世俗的な動機でついていっていたらしい。

アメリカ新大陸への植民や日本人の満州移転を見てもそうだけど、うまくいっている人は「新天地で一旗あげてやろう!」なんて挑戦はしないわけで、なにかしら問題を抱えているから新しい土地に活路を求めるんだよね。
パイオニアっていうとかっこいいけど、開拓者なんて「たまたまうまくいったろくでもない人」ってケースが多いんやろねえ。



16世紀頃のオランダのニシン漁の話。

 ニシンの回遊経路が変わりドイツのニシン漁は低迷するが、この頃、ニシン漁を継承したのがオランダである。オランダ人は改良された船で沖合に乗り出し、漁獲したニシンを船上で処理し塩漬けにした。一方、ドイツにニシンを提供していたデンマーク人の漁法は海岸にきたニシンを捕まえるという素朴なもので、処理の方法は同じであったが、オランダの場合は規模が違っていた。これがオランダの重要な経済的基盤であった。

オランダはニシン漁によって富を蓄え、さらにこれが航海技術の向上や船舶数の増加につながり、世界の海へ乗りだすことができ、後の東インド会社設立につながったのだという。
このエピソードは以前読んだ『世界史を変えた50の動物』という本にも書いてあった。世界情勢が魚に左右されるなんておもしろいなあ、と思った記憶がある。
ちなみにその後オランダには各国からお金が集まり、あふれたお金がチューリップへの投機となって過熱し、チューリップバブル崩壊、経済の不安定化へとつながっている。
ニシンで集めたお金をチューリップで失った国、それがオランダ。



奴隷制がなくなったことについて。

 人間の歴史では「奴隷」の存在は何ら不思議なものではなかった。古代世界で戦争の敗者は基本的に殺される(特に男子)か、奴隷として売り払われるかが普通であった。ギリシア・ローマの時代も例外ではなかった。古代最大の哲学者アリストテレスも「奴隷的人間」の存在を肯定した。近代になり、人間の尊厳・権利・自由が自覚されるようになると、奴隷制は否定されるようになるが、これとて見方を変えれば資本主義の合理性が導き出した結論といえる。つまり、奴隷、すなわち自由のない労働者を使うより、普通の人間を必要なときだけ使った方が「安上がり」であることに資本家が気づいた結果である。そして、この原則が今日の社会にも維持されてきているのは言うまでもない。

会社員が自虐的に「サラリーマンなんて会社の奴隷だよ」なんていうことがあるが、じっさいはサラリーマンのほうが奴隷よりもっと安上がりで使える存在なのだ。
奴隷は主人の持ち物だから、逃げたり壊れたりしないように扱うだろうしね。資本家にとっては、必要なときだけ働いて、気に入らなくなったらクビにできて、他のやつと交換できる労働者のほうが都合がいいのかもしれないね。


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2018年5月24日木曜日

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』


『上方落語のネタ帳』

小佐田 定雄

内容(e-honより)
教養として知っておきたい落語の名作をあらすじと裏話で楽しむ傑作選。読めばあなたも“ハナシがわかる人”に。

上方落語の百八つの噺のあらすじとともに、噺家による演じ方の違い、時代による変遷、演者が留意している点などを解説。

内容紹介文に「教養として知っておきたい」なんて書かれているが、これを書いた人は落語をわかっていない。落語は娯楽だからいいのに。教養になったら落語は死ぬよ。

 原型は、明治維新によって失職した武士が自宅で汁粉屋を始める『御膳じるこ』という噺。武士の商法を笑いにした一席で、なんと三遊亭円朝の作だという。
 明治二十年から三十年代になると「改良」という言葉が流行する。そこで三代目桂文三という人が演じたのが『改良ぜんざい』。官員さんが威張り散らす噺だ。
 そして、時代が大正になると「文化」という言葉が流行る。「文化住宅」が登場したのもこのころだという。そこで、この落語も『文化しるこ』と装いを新たにした。
 さらに昭和になり、戦後、「専売公社」や「電電公社」などの半官半民の組織ができると『ぜんざい公社』となったわけである。「公社」にしたのは桂米朝であり、「甘い汁」という辛辣なサゲを付けたのは桂文紅だ。
 いわば時代とともに変遷した噺なのだ。民営化の声があがっている今日、いささか時代とズレているのではと思っていたが、お役人の融通のきかなさは永遠のテーマのようで、現在でも演じられている。

これは『ぜんざい公社』がたどった変遷。三遊亭円朝の新作落語だったが、百年以上も受け継がれているわけで、もう立派な古典落語だ。
 内容も変わっているとはいえ「お役所の融通の利かなさ」というテーマが明治初期から今までずっとウケているのがすごい。役人が四角四面なのは人類普遍の性質なんだろうな。たぶん海外に持っていっても通じるだろう(ぜんざいは通じないだろうが)。

「改良」とか「文化」とか、その時代を象徴する流行り言葉がくっついてるのもおもしろい。そういや酒の電気ブランも「電気」が流行っていたからなんとなくつけられた、と聞いたことがある。
今だったら「スマートぜんざい」とか「クールぜんざい」みたいなもんだろうね。



落語の強みはなんといっても著作権が希薄なところだ。多くの噺家の手によってどんどん噺の細部が変わっていくので、数百年も前の噺が今でもおもしろさを保っている。
また、つぎたしつぎたしで笑いを足せるのも落語の良さだ。

日本で漫画文化が発達したのは、オリジナリティを主張しなかったからだという話を聞いたことがある。手塚治虫は、積極的に他の漫画の技法をとりいれて、また他の漫画家が自身の技法を真似るのを許したと言われている。もちろんストーリーのアイデアをパクるのはいけないが、「コマ割りの方法」や「表現技法」についてはパクってもいいというのが暗黙の了解になった。それが業界の発展を促進させたというのだ。

落語に至っては、すべてがフリー素材だ。技法だけでなく、他の人が考えた噺を演じさせてもらってもいい(もちろん他人の新作落語を自分名義で発表してはいけないが)。さらに改変も許されている。自分がいいと思ったアイデアはどんどん加えていける。この懐の広さこそが落語の強みだ。
テレビドラマ『古畑任三郎』で「人気落語家が新作落語を盗むために兄弟子を殺す」という回があったが(『若旦那の犯罪』)、あの展開には違和感がある。弟弟子が「ぼくにちょうだいよ」というからだ。あれは「ぼくにも教えをつけてよ」と言うべきだろう。


漫才やコントの寿命は、落語に比べて圧倒的に短い。人気芸人であればあちこちでネタを披露するので一年もたたぬうちに「またこのネタか」となってしまう。
ほんとにおもしろいネタが飽きられて日の目を見なくなるのはもったいない。漫才やコントでも著作権は五年とかにして、それを過ぎたら他の漫才師が演じたり、アレンジしたりするのを許したらいいのに、と思う。


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2018年5月18日金曜日

【読書感想】伊坂 幸太郎『陽気なギャングは三つ数えろ』


『陽気なギャングは三つ数えろ』

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
陽気なギャング一味の天才スリ久遠は、消えたアイドル宝島沙耶を追う火尻を、暴漢から救う。だが彼は、事件被害者のプライバシーをもネタにするハイエナ記者だった。正体に気づかれたギャングたちの身辺で、当たり屋、痴漢冤罪などのトラブルが頻発。蛇蝎のごとき強敵の不気味な連続攻撃で、人間嘘発見器成瀬ら面々は断崖に追いつめられた!必死に火尻の急所を探る四人組に、やがて絶対絶命のカウントダウンが!人気シリーズ、9年ぶりの最新作!

陽気なギャングが地球を回す』は、伊坂幸太郎作品の中でぼくがいちばん好きな小説だ。
その続編である『陽気なギャングの日常と襲撃』は『地球を回す』ほどの疾走感はなかったものの、四人の魅力的なキャラクターが存分に発揮されていた。

で、三作目である『陽気なギャングは三つ数えろ』。
前作までに引き続き、嘘を必ず見破る公務員、シングルマザーの天才ドライバー、動物好きのスリ名人、そして何の役に立つのかわからない演説の達人(?)の銀行強盗四人組が活躍する。

なんといっても演説好きの響野という男が魅力的。
「いろんな特技を持った人たちが集まって大きなプロジェクトを成し遂げる話」は、『七人の侍』や『オーシャンズ11』など数あるが、『陽気なギャング』シリーズが一線を画すのは特に活躍しない響野という人物がいる点だ。
銀行強盗をするときにはおしゃべりで多少注意を惹きつける役をするが、他の三人の「嘘を見抜く」「スリ名人」「天才的なドライビングテクニック」という能力に比べれば圧倒的に見劣りがする。彼の役目だけは「他の人でも務まるのでは」と思えて仕方がない。
しかし小説として見たときにこの物語を支えているのはまちがいなく響野であり、彼が根拠のない自信と珍妙なへりくつをふりまわしているからこそ彼らは「陽気なギャング」となる。

「四分は短い、ですからこの四分を我慢すれば、あなたたちは無事に自分たちのスマートフォンを手にし、その後で友人たちにメッセージを送ることができるはずです。『銀行に行ったら銀行強盗が来たの!』と話せます。もしくはSNSを使って、銀行強盗を見た、と言うことができます。尾ひれや背びれをつけて、話を拡げてもらえると我々としては助かります。『銀行強盗は十人だった』『それぞれが派手な衣装を着ていた』『未来から来た』『明日の天気を予想した』『猛獣を連れていた』『それを猟師が鉄砲で撃った』『煮て焼いて食った』。警察には事実を、ネットには面白い脚色を」

銀行強盗中にくりひろげられるこのどうでもよいおしゃべりにこそ、『陽気なギャング』の愉しさが詰まっている。



小説には、リアリティが求められる小説と、嘘っぽさが求められる小説があるとぼくは思っている。
「さも本当にあったかのような話」であれば徹頭徹尾矛盾を感じさせない説得力が必要だし、「荒唐無稽なほら話」であればくだくだしい説明は省いて話のおもしろさを追求しなくてはならない。
これは小説のジャンルとはあまり関係がない。SFやファンタジーでもつじつまを合わせる必要はあるし、ミステリや私小説に大胆な虚構が混ざっていてもいい。

伊坂幸太郎の小説は、「荒唐無稽なほら話」のほうに属している。
カカシがしゃべったり死神が現れたり。そんなわかりやすい「嘘っぽさ」がある小説はもちろん、『フィッシュストーリー』や『アヒルと鴨のコインロッカー』あたりも「そんなにうまくいくわけあるかい」というばかばかしさを楽しむ小説だ。
落語と同じで「リアリティとかしゃらくさいこと言わずに楽しめばいいんだよ」というケレン味たっぷりなところが伊坂作品の魅力だとぼくは思っている(だから変にリアリティを求めて説明が冗長な『ゴールデンスランバー』は好きじゃない)。


『陽気なギャングは三つ数えろ』のストーリー展開も「んなあほな」要素が満載だ。荒唐無稽なばかばかしさがあふれ、その「ありえない設定」と「その割に妙に丁寧に作りこまれたストーリー」のギャップが楽しい。
しかし、散りばめられた洒脱な会話やドライブ感のあるストーリー、そして容赦なく襲いかかる「非現実的な展開」で、つっこませる隙を与えない。十個中一個が嘘くさかったら興醒めするけど、一から十まで嘘っぽかったらかえって説得力がある。そういうものだ。

シリーズ一作目、二作目も「おもしろかった」という記憶はあるけれどストーリーはまったく覚えていない。たぶんこの本も一ヶ月もすればどんな内容だったか思いだせないような気がする。
そういう軽さも含めて、『陽気なギャング』は読んでいて楽しい小説だ。


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2018年5月17日木曜日

【読書感想】高橋 和夫『中東から世界が崩れる』


『中東から世界が崩れる
イランの復活、サウジアラビアの変貌』

高橋 和夫

内容(e-honより)
かつて「悪の枢軸」と名指しされるも、急速にアメリカとの距離を縮めるイラン。それに強い焦りを覚え、新しいリーダーの下で強権的にふるまうサウジアラビア。両国はなぜ国交を断絶したのか?新たな戦争は起きるのか?ISやシリア内戦への影響は?情勢に通じる第一人者が、国際政治を揺るがす震源地の深層を鮮やかに読みとく!

中東。
多くの日本人と同じようにぼくも中東のことをよく知らない。砂漠があって石油が出てイスラム教徒がいてイスラエルとパレスチナがもめていてしょっちゅう内戦やクーデターが起こっていて……というイメージ。

ニュースではアラブの春だとかIS(イスラム国)だとかシリア内戦だとか耳にするから、「革命が起きたのか」とか「難民が増えてるんだな」とかぐらいはわかるけど、そもそもシリアがどこにあるのかすらわかっていない。

……という程度の人間が『中東から世界が崩れる』を読んでみたのだが、これはすごくわかりやすい。良書だ。
ここ二十年ぐらいの中東社会の動きがよくわかる。教科書にも載っていない、新聞でもいちから説明してくれない、そういうところが明快にまとめられていて痒い所に手が届くような一冊。

前提としてあるのが「宗教対立の話にしない」というスタンス。

 この複雑な問題を、時間の限られたテレビ解説などでは、どうしても説明し切れない。そこで日本のテレビでは、「二〇〇〇年続くユダヤとイスラムの対立」といった解説がまかり通る。しかし、宗教対立・宗派対立という図式は一見わかりやすいが、実は何も言っていないに等しい。
 現実の中東では、イスラム教徒同士でもケンカをするし、ユダヤ教徒同士でも争っている。ユダヤとイスラム、シーア派とスンニー派などと言うから本質が見えなくなるのであって、「平家と源氏の争い」と言えば、日本人でも腑に落ちるだろうか。土地をめぐる人間同士の紛争は、その人々の信じている宗教がイスラム教だろうがユダヤ教だろうが、仏教だろうが神道だろうが、どこででも起こっている普遍的な現象と言える。宗教にこだわるから、かえって難しくなってわからなくなる。
 そもそもイスラム教は、歴史的に見ても異教徒には寛容だ。統治者や支配層がイスラム教徒になった国では、国民が強制的にイスラム教に改宗を迫られたケースはほとんど見られない。

この姿勢がいい。じっさい、「宗教・宗派の対立」という概念から離れてみると中東で起こっていることはさほど難しくない。
「スンニー派とシーア派が……」とかいうからイスラムからほど遠い日本人には「ようわからんわ」となるんだけど、
「政府の要職についていた人たちがクーデターによって職を失ったから反政府勢力になった」
「異なる民族をむりやりひとつの国にまとめてしまったから対立が起こっている」
なんて説明されると、世界中どこにでもあるような話としてすんなり飲みこめる。

イスラエル・パレスチナ問題なんかは宗教の話を抜きには語れないかもしれないけど、その他ほとんどの問題は宗教はさほど関係ないんだよね。
中国だって東南アジアだってイスラム教徒は多いのにイスラム教とセットでは語られない。なのに中東だけはすべてがイスラム教と結びつけられた説明をされてしまう。だから余計にわかりづらくなるんだろうね。



イラク、イラン、サウジアラビア、アフガニスタン、シリア、イエメンなどのお国事情がそれぞれ語られているんだけど、「中東の諸問題って99%欧米が原因じゃねーか」と読んでいて思う。

アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国、トルコなど周辺国が
  • 民族や歴史を無視して勝手に国境を定めたり
  • 民主主義的に選ばれたイスラム系のリーダーを倒してしまったり
  • 石油ほしさからいろんなグループに武器を提供したり
こんな「いらんこと」ばかりやっているせいで戦争や内紛になっている。
欧米各国の思惑が交錯して中東問題をややこしくしているだけで、元々いた人たちだけならそこまで大きな争いにはなってなかっただろう。

 アメリカがイラクを抑えるためにイランを育てたが、イランに革命が起こり反米政権が樹立
  ↓
 こんどはイランを抑えるためにイラクのフセイン政権を支援
  ↓
 フセイン政権が暴走してクウェートに侵攻したため湾岸戦争
  ↓
 イランともイラクとも関係が悪化したのでサウジアラビアに力を入れるようになった

ほんと、アメリカが引っかきまわしてるだけじゃねーか。

中東にかぎらず、外国が支援しなければ争いなんてそんなに大規模化・長期化しないんじゃないかな。
力の差があれば早めに決着がつくし、差がない場合でも戦いが長引いていいことなんてないからどこかで手打ちになる。
ところがよその国が援助をしだすと、朝鮮戦争やベトナム戦争のように際限なく続いてしまう。
アメリカやヨーロッパは過激派組織撲滅だとかいってるけど、長い目で見たら中東和平のためにいちばんいいのは「何もせずに放っておく」なんじゃないかな。

でもそれができないのは、中東には「聖地メッカ」「石油」というみんなが欲しがるものがあるから。
石油は「何もしなくても金が入ってくる宝の山」であると同時に「争いの火種」でもあるわけで、持っている人には持っている人の苦労があるんだなあ。
「庭から石油が出たらいいな」なんて思うけど、じっさいに出たら平和に暮らせなくなっちゃうね。だからぼくは石油王にならなくていい。富だけほしい。

最近はアメリカが自国内でシェールガスを取りだせるようになったことで中東から手を引きはじめてる、ってのも皮肉な話だね。アメリカが手を出さなくなるのはいいけど石油のパワーが衰えるわけだから、産油国からしたら一長一短だ。



イランという国について。
イランのことなんてほとんど考えたことがなかった。ぼくがイランに関して持っている知識といえば「ダルビッシュ有は日本人とイラン人のハーフ」というものだけだった。
でもイランは日本の四倍以上の大きさの国土を持ち、人口はドイツとほぼ同じ。中東屈指の大国なのだ。

 しかし実際は、イランはもっと大きいはずだ。というのは、普通に目にするメルカトールの地図は、赤道に近ければ近いほど面積が小さく見え、赤道から離れれば離れるほど大きく描かれる。そもそも丸い地球を平面に表現するのだから無理が生じているのだ。
 つまりイランは、赤道に近いので比較的小さく描かれている。ところがヨーロッパは、赤道から遠いので大きく見える。この歪みを修正してイランのサイズを描いてヨーロッパにかぶせると、イランはもっと大きい。イギリスからギリシアまで届いてしまう。この図体の大きさだけからでも、イラン人が自分の国は大国だと思っても自然だろう。
 しかもイランはかつて、もっともっと途方もなく巨大だった。古代アケメネス朝ペルシア帝国(前五五〇~前三三〇年)の時代は、現在のパキスタンからトルコ、ギリシア、エジプト、中央アジアまで広がる途方もない帝国を建設し、維持していたのである。

著者は「イランは中国と似ている」と書いている。
かつては文明の中心であったにも関わらず、下に見ていた欧米列強に蹂躙されてしまったところも同じ。東アジアにおける中国のような「中華思想」を持っている。

イランはシーア派が主流で、民族もペルシア人が多数で、公用語もペルシア語。他のアラブ諸国(スンニー派が主流、アラブ人、アラビア語)とはまったく違う。
これがわかると周辺の理解がぐっと楽になった。「イランもイラクも同じようなもんでしょ」という感じだったけど、オーストラリアとオーストリアぐらい違うんだね。
中国抜きに東アジアを語れないように、アメリカ抜きに北中米を語れないように、イラン抜きには中東は理解できない。逆にイラン目線で周辺国を見ると中東のパワーバランスはわかりやすい。



「イラン≒中華」説もそうだし、「中東には国もどきはたくさんあるが帰属意識を持った国民を有する国家は少ない」「イスラム主義の先鋭化は尊王攘夷運動に似ている」など、中東を理解する上で大きな手助けとなる大胆な解釈が盛りこまれているので、読み物としても楽しい。

宗教を離れてみると、中東問題ってこんなにもわかりやすいのか。


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茂木 誠 『世界史で学べ! 地政学』



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2018年5月15日火曜日

【読書感想】ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』



『労働者階級の反乱
地べたから見た英国EU離脱』

ブレイディ みかこ

内容(Amazonより)
2016年の英国EU離脱派の勝利。海外では「下層に広がる排外主義の現れ」とされたが、英国国内では「1945年以来のピープル(労働者階級)の革命」との声も多かった。世界で最初に産業革命、労働運動が起きたイギリスでは労働者こそが民主主義を守ってきた。ブレグジットは、グローバル主義と緊縮財政でアウトサイダーにされた彼らが投じた怒りの礫だったのだ――。英国在住の注目の著者がど真ん中から現状と歴史を伝える。

ブレグジットとは、イギリスがEUから離脱すること。2016年6月におこなわれた国民投票で離脱派が残留派を上回ったのは世界中を驚かせ、同年のアメリカ大統領選で排他的な政策を掲げるトランプ氏が勝利したこととあわせて、世界中が右傾化・排他的になっていると語られた……。
が、イギリスのブレグジットはアメリカ大統領選とはまったく違う現象だったとこの本の著者は主張する。

著者のブレイディみかこ氏はロンドンに住んで保育士として勤務する。「移民」ではあるが、戦争から逃れてやってきたわけではないし、アイルランド人の夫もいるし、資格を持って専門職についているので、ヨーロッパ中で大きな問題になっている中東系の移民とは立場が異なる部分も多い(同じところも多いだろうが)。



まず前提として、著者はイギリスの政治や労働問題の専門家でもないし、研究者でもない。この本に書かれている「市井の人々の意見」も、個人的体験だったり、身近な友人へのインタビューだったりするので、データの偏りは信憑性に欠ける部分は免れないだろう。

それでも日本にいる研究者が新聞やテレビを見ているだけでは手に入らない「地べたの意見」には大きな価値がある。この人の解釈が正しいかどうかはわからないが、少なくともこう解釈をする人も現場にはいる、ということは間違いない。

 2016年のEU離脱投票の頃は、左派のインテリたちは、遠巻きに彼らを見て、「排外的だ」「冷静に物を考えていない愚かな人々だ」と批判し、眉をひそめていた。
 しかし、「我ら」対「彼ら」の構図で見ている限り、「彼ら」を「我ら」に取り込むことはできない。
 左派は、いまこそ労働者階級の人々と対話し、その価値観や不満や不安を理解しなければならない。その努力を放棄したら、英国にも経済政策に長けた右派勢力(UKIPはその点がお粗末だった)が登場し、彼らがそちらに流れる可能性は十分にある。
 もはや労働者階級を悪魔化し、離れた場所から批判していればすむ時代ではない。ブレグジットという「労働者階級のちゃぶ台返し」を経験した英国の左派は、ようやくそれに気づいた。コービン労働党の躍進とその戦略の進め方は、世界の左派にヒントを与えるはずだ。

ブレイディ氏の見解によると、多く語られていた「教育程度の低い労働者階級が移民を拒むためにブレグジットに賛同した」という解釈は誤りそうだ。
労働者階級の多くがブレグジットに賛成したのは事実だが、彼らのほうが中間層よりも移民と接する機会も多く、寛容であるという。ブレグジットに票を投じたのは、ブレグジットそのものに賛成というよりも金持ち優遇政策をとる政権にノーをつきつけるための手段であったというのだ。

たしかに、選挙の結果というのは必ずしも素直に主張が反映されるわけではないだろう。
2015年に大阪都構想の賛否を問う住民投票がおこなわれた。大阪市に住民票を持つぼくも投票に行き、反対に票を投じた。だがそれは都構想そのものに反対だからというより、都構想を主導している大阪維新の会のそれまでの政策に賛成できなかったからだ。
「都構想自体はどうでもいいが気に食わないあいつらに一泡ふかせたい」という理由で反対票を投じた人はぼくだけではなかっただろうし、「都構想はよくわかんないけど維新/橋下市長を支持する」という人も多かっただろう。選挙なんてそんなものだ。

だから「イギリス国民はEUからの離脱に票を入れたから排他的だ」とするのは、あまりに単略的すぎる解釈だ。




今イギリスで移民や外国人よりも不遇の扱いを受けているのは白人労働者階級だという指摘に驚かされた。

 白人労働者階級の人々の多くが、「自分たちは差別の対象にされている」という認識を抱いており、白人のミドルクラスだけでなく、移民からも差別されているという感覚を持っている。
 第Ⅲ部で紹介する歴史学者のセリーナ・トッドも指摘しているように、たとえば母親たちが育児の悩みを語り合っているネットの掲示板を覗くと、「白人労働者階級の子どもが多い学校は成績も悪いし荒れているので、自分の子どもを通わせたくない」と大っぴらに話し合っている英国人や移民たちの書き込みを見ることができる。
 また、BBCが放送した人気コメディ番組『リトル・ブリテン』などでは、白人労働者階級の若者は子だくさんで頭が悪いというようなステレオタイプのキャラクターを登場させて嘲笑の対象にしているし、タブロイド紙や一部高級紙でさえも、社会の足を引っ張っているグループとして彼らを蔑視することが正義だと思って叩いてきた節がある。
 労働者階級の人々は、このような偏見のせいで、雇用や福祉、公共サービスの現場で、自分たちが平等な扱いを受けられなくなっていると信じている。

移民や外国人は差別されがちなので固まって暮らし、集団として行動を起こすことができる。ところが白人でイギリス人で男性となるとマジョリティ・強者として認識されてきた歴史があるがゆえに保護の対象からはずれやすく、また当人たちも団結して行動を起こさない。結果として、政治や福祉の面でも周縁に置かれてしまうという。
外国人や女性が貧困にあえいでいると「社会的な問題だから手を差しのべてやらねば」となるのに対し、「強者」とされているイギリス人の白人男性が貧困に陥っても「自分の努力が足りないからでしょ」という目で見られてしまうのだ。

日本でも同じことだよね。高齢者や母親や子どもが苦しんでいるのは「社会が助けてやらねばならない」となるのに、若い男性が貧困生活に陥っても「自己責任だ」あるいは「若いときは苦労したほうがいい」みたいな言われ方をされてしまう。

結果として貧困層はべつの貧困層への攻撃に走ることになる。

 一方、米国の政治学者のゲイリー・フリーマンは、『The  Forum』に発表した論考「Immigration, Diversity,  and  Welfare  Chauvinism(移民、多様性、そして福祉排他主義)」の中で、「政府から生活保護を受けることに対して、白人労働者階級は〝福祉排他主義〟と呼ばれる現象に陥りやすい」と指摘している。「福祉排他主義」とは、一定のグループだけが国から福祉を受ける資格を与えられるべきだ、という考え方だ。顕著に見られるのは、「移民や外国人は排除されるべき」というスタンスだが、同様に、ある一定の社会的グループ(無職者や生活保護受給者)にターゲットが向けられる場合もある。
 こうした排他主義は、本来であれば福祉によって最も恩恵を受けるはずの層の人々が、なぜか再分配の政策を支持しないという皮肉な傾向に繋がってしまうという。「恩恵を受ける資格のない人々まで受けるから、再分配はよくない」という考え方である。
 本来は彼らの不満は再分配を求める声になって然るべきなのに、それが排外主義や生活保護バッシングなどに逸脱してしまい、自分たちを最も助けるはずの政策を支持しなくなる。白人の割合が高い労働者階級のコミュニティほど、この傾向が強いという。

これもわかる気がする。日本でも生活保護受給者をやたらとバッシングするのは、いわゆるワーキングプア層が多いように見受けられる(じっさいはどうだか知らんけど)。貧困を脱した経験のある人や、ちょっとしたきっかけで自分も生活保護を受給することになる危険性の高い層ほど、他人の需給に対して厳しい。「おれはこんなに苦労して生活しているのにあいつばっかり楽してずるい」と。
金持ち喧嘩せずというけど、金で苦労したことのないような人が他人の生活保護受給に対してごちゃごちゃ言ってるのを、少なくともぼくは聞いたことがない。


だが「低所得者層間の争い」は為政者にとっては思うつぼなのだろう。政治への不満から目を背けることができるから。
サッチャー政権下では失業率が高くなった際に「各種手当の不貞受給を知らせるホットライン」を設けて低所得者層の分断を促したそうだ。
「おれの生活がこんなにひどいのはズルをしているやつがいるせいだ」と思ってくれれば、政権にとってはこんなにありがたいことはない。サッチャーも「あいつらチョロいぜ」と舌を出していたにちがいない。鉄の女の鉄の舌を。




イギリスの状況はまったく知らず、ぼくも「イギリス人はプライドが高くて偏狭だったかったからEUでまとまるのが嫌だったのかな」ぐらいにしか思っていなかった。
しかし『労働者階級の反乱』を読むにつれ、ブレグジットは単なる移民受け入れ拒否ではなく、労働者たちの怒りの噴出だったのだ、と思うようになった。
イギリス労働者の置かれている状況は、日本とも重なる部分が多いことに気づく。

度重なる規制緩和や労働組合の弱体化などで労働者をとりまく状況は悪くなるばかり。しかし当人たちは団結して経営者、権力者と対抗するばかりか、生活保護受給者叩きや外国人バッシングに明け暮れ、社会は断絶。
弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響きわたれば「働き方改革」は加速してゆく……。

はたして反乱は起きるのだろうか。



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2018年5月14日月曜日

【読書感想】垣根 涼介『君たちに明日はない』


『君たちに明日はない』

垣根 涼介

内容(e-honより)
「私はもう用済みってことですか!?」リストラ請負会社に勤める村上真介の仕事はクビ切り面接官。どんなに恨まれ、なじられ、泣かれても、なぜかこの仕事にはやりがいを感じている。建材メーカーの課長代理、陽子の面接を担当した真介は、気の強い八つ年上の彼女に好意をおぼえるのだが…。恋に仕事に奮闘するすべての社会人に捧げる、勇気沸きたつ人間ドラマ。山本周五郎賞受賞作。

リストラ(本来の意味である「再構築」ではなく、いわゆる「首切り」)を代行する会社に勤める男が主人公。
この本が刊行されたのが2005年。デフレまっただなかで、もう「リストラ」という言葉にも目新しさはなくなっていた時代だが、それでも今読むと隔世の感がある。

なにしろリストラ時に会社側が提示するのが「二倍の退職金、最大半年間の完全有給休暇、再就職先の斡旋」なんて好条件なのだ。それを提示された社員が「ふざけんな」と怒っていたりする。
ぼくからすると「めちゃくちゃいい条件じゃん。乗らなきゃ損でしょ」と思うのだが、それでも社員たちは辞めるかしがみつくか悩んでいる。
2005年というのはまだまだ終身雇用意識の強かった時代なんだなあ。

ぼくなんかすでに今の会社が四社目だし(正確には関連会社出向もあるので五社目)、今のところに不満はないけどもっといい会社があれば移ってもいいと思っている人間なので、会社を辞めることにあまり抵抗がない。
まあこれは時代のせいというより業界のせいかもしれないけど。ぼくはウェブ広告の仕事をしているが、同じ会社で五年働いていたら長いほう、って業界だからね。業界自体の歴史が浅いし会社もどんどんできてはなくなってゆくし。
また人材紹介会社に身を置いていたこともあるので、転職はよくあるイベントのひとつだと感じている部分もある。


少し前に、学生時代の友人から相談をされた。彼は新卒で某メーカーに就職し、十年以上勤めている。つまり一社しか知らない。
しかし転勤で希望していない支社に行くことになってしまった。実家のある関西に戻りたいのだが、戻れるかどうかもわからない……。で悩んでいるとのことだった。

「転職活動したらいいやん。じっさいに転職するかどうかは別にして」
とぼくは云った。
転職エージェントに登録したり求人を見たりすれば、自分の市場価値がわかる。今までのスキルを活かしながらもっといい条件で働ける会社も見つかるかもしれない。「いつでも転職できる」と思えば今いる会社に対してももっと強気で給与や勤務地の交渉ができる。それでも希望が聞き入れられないなら転職すればいいじゃないか……と。

だが彼はあいまいな顔で「それもそうかな」とつぶやいただけで、どうも煮えきらない様子だった。半年ほどたってから「転職活動してる?」と訊くと案の定「いや何もしてない」とのことだったのでぼくも何も云わなかった。本人がそれでいいなら他人がそれ以上口をはさむことでもあるまい。

ぼくにとって会社は「働きに応じて金をくれるビジネスパートナー」だが、「自分が帰属するコミュニティそのもの」だと思っている人もまだまだ多いのだとそのとき知った。
後者の人にとっては転職活動をすること自体が(実際に出ていかなくても)コミュニティに対する裏切りのように感じてしまうのだろう。不倫が家族に対する裏切りであるのと同じように。
どっちが正しいというつもりはないが、後者の人にとって「会社を辞める」というのは、ぼくにとって離婚や帰化と同じくらい「極力避けなければならない災難」なのだろう。
特に大手企業にいる人は後者の考え方が今も多いようだ。

じっさいは、会社なんて辞めたってたいていなんとかなるんだけどね。
もちろんなんとかならないこともあるけど、それは会社に残ったって同じだ。転職で成功する確率より、リストラをしなくてはならない状況に陥った会社がV字回復をする可能性のほうがずっと低いだろう。



『君たちに明日はない』の話に戻るが、転職に対して抵抗のないぼくにとっては「そこまでじたばたしなくたっていいのに」としか思えないようなエピソードが多かった。
明日から来なくていいと言われたとか、五十歳過ぎてから退職を促されたとかならまだしも、三十歳前後の人が「半年以内に退職したら規定の倍の退職金をあげます。会社に来なくても給料払います」と云われたら「ラッキー!」ぐらいのもんだと思うんだけど。

そもそもリストラという言葉をあんまり聞かなくなったよね。不況を脱したっていうのもあるけど、そもそも正社員が減って派遣社員などの非正規雇用が増えたってのもあるよね。わざわざリストラ専門会社なんかに依頼しなくても、あっさり契約期間終了にしちゃえる世の中になっちゃったからね。
考えようによっちゃあ、リストラの嵐が吹き荒れていた時代よりももっと労働者にとって不幸な世の中になったのかもしれない。




あ、いかん。また話がそれた。小説の感想だ。

すぐれたエンタテインメントでした。リストラという重くなりそうなテーマを扱っていながら、前向きな未来が提示されているので湿っぽくならないしあくまで読後はさわやか。
登場人物も会話もステレオタイプではなく「ちょっと変わっているけど現実にいてもおかしくない」ぐらいの絶妙なリアリティを保っている。スーパーマンも超ラッキーもなく、地に足のついた登場人物たちができる範囲でちょっとだけ未来を切りひらいてゆく。エンタテインメント小説のお手本みたいだった。

読んだからといって特に何か得られるというわけではないが、そういうところも含めてエンタテインメントとしてよくできていた。


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正規雇用を禁止する



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2018年5月9日水曜日

【読書感想】小松 左京『日本沈没』


『日本沈没』

小松 左京

内容(Amazonより)
 日本各地で地震が続くなか、小笠原諸島近海にあった無人島が一晩で海中に沈んだ。
調査のため潜水艇に乗り込んだ地球物理学者の田所博士は、深海の異変を目の当たりにして、恐るべき予測を唱えた。
――早ければ二年以内に、日本列島の大部分は海面下に沈む!
 田所博士を中心に気鋭の学者たちが地質的大変動の調査に取り組むと同時に、政府も日本民族の生き残りをかけて、国民の海外移住と資産の移転計画を進めようとする。
しかし第二次関東大震災をはじめ、様ざまな災害が発生。想定外のスピードで事態は悪化していく。はたして日本民族は生き残ることができるのか。

日本SFを代表する超大作。
筒井康隆氏によるパロディ作品『日本以外全部沈没』のほうは読んだことがあるけど、こっちは読んだことなかった。

刊行は1973年だけど、その後に起こったいろんな地震・噴火とも重なるような部分もあり、街が、そして国がめちゃくちゃに破壊されていく様は読んでいて息苦しくなるほどだった。

 そして──これは、まったく前々から予測されていたように、江東区を筆頭に、台東区、中央区、品川区、大田区の海岸よりの人家密集地帯、文京、新宿、渋谷等の住宅地帯、江戸川、墨田区の中小工場地帯の一部に、まったく瞬時にして火の手があがった。大正十二年の関東大震災は昼食事、そして今回は夕食の支度にかかりはじめた時の、各家庭の火の気が原因だった。江東区では、いくつかの橋がおち、また地盤沈下のはげしい海抜マイナス地帯のため、堤防が各所でやぶれ、地盤変動でふくれ上がった水が道路にあふれ、それにつれて材木が流れこみ、たちまち人々の退路をふさいだ。火の手はここだけで数十個所で上がり、水の一部に油がのって流れ、それに火がついた。いたる所に使われたプラスチック、そしてこの地帯に密集している零細な化学樹脂加工工場が火事のため加熱されて吐き出す各種の毒ガス──塩素、青酸ガス、フォスゲン、一酸化炭素等が、火の中を逃げようとする人々をばたばたとたおした。のちの調査によれば、これらの地区だけで、約四十万人の人々が、ほとんど瞬時に死んだのだった。

こういう描写がひたすら続くと、小説だとわかっていても気が重くなった。東日本大震災の直後に感じた「なにかしないと。でも何もできない」という無力感をひさしぶりに思いだした。



『シン・ゴジラ』をもっともっとスケールアップした感じ、といったらいいだろうか。

荒唐無稽なほら話なんだけど、そう思わせない圧倒的な知識が詰め込まれている。プレートテクトニクスや潜水艦構造や政治や軍事やあれやこれやがものすごく細かく、そして深く書かれている。さすが「知の巨人」と呼ばれていた小松左京氏と感心するばかり。司馬遼太郎のように「特に書かなくてもいいけどせっかく調べたから書いたれ!」という感じではなく、ストーリー展開に説得力を持たせるために必要なことだけが書かれている。

巻末の解説で小松実盛氏(小松左京氏の息子)が「小松左京は『日本沈没』を書くために当時効果だった電卓を買い、それを駆使して書いた」と説明している。
小説の中には計算式はおろか数値すらほとんど出てこないが、作者の頭の中には根拠となる数字があったのだろう。表に出てこない圧倒的な量の資料がこの重厚な物語を支えている。「日本が沈没することになったら」という発想自体はさほど斬新ではないかもしれないが、その設定でこれだけ厚みを持った小説を書ける人は他にいないだろうね。

ぼくは中学生のころ、小松左京氏の『雑学おもしろ百科』というシリーズの本を集めていた。
今でこそこの手の本はたくさんあるが、そしてその九割が他の雑学の種本からの寄せ集めだが、小松左京版『雑学おもしろ百科』はいろんな学術書から拾ってきた内容が多く、独自性が高くておもしろかった(ただし内容には誤りも多かった)。

中学生のときに小松左京氏の小説を何冊か読んでいずれもあまりおもしろいと思えなかったけど、ぼくがそれらを読むのに適した知識を持っていなかったからかもしれないな。ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』のおもしろさを理解するにはある程度の教養が必要であるように。


『日本沈没』はただ「日本が沈没する」だけの話ではない。政府はどういう決断を下すか、経営者団体はどう動くか、アメリカやソ連をはじめとする各国の勢力図はどう変わるか、そして生まれ育った国土を離れた"日本人"のアイデンティティはどうなるのか……。細部にわたり執拗すぎるほどの思考実験がおこなわれている。
リアリティはあるが、しかしこの小説で描かれている日本人はやはり「1970年代の日本人」だな、と感じる。2018年の日本に住むぼくから見たら「みんな利他的で社会を大事にしすぎじゃない?」と思えてしまう。たぶん今ならもっとみんな我先にと逃げだすと思う。



『日本沈没』は日本列島が沈むところで終わっており、「第一部・完」と記されている。国土を離れた日本人たちの苦しみを描く第二部の構想もあったらしいが、結局書かれぬまま小松左京氏は2011年に逝去してしまった。
ぜひ読みたかったな。

「それにしたって、一億一千万人を、どうやって移住させるんだ?──世界の、どことどこが、こんな大人数をうけいれてくれるんだ?」首相は憮然としたように宙を見つめた。「君があの国の指導者、責任者になったとしてみたまえ。いったいどうやるんだ? ──船舶だけでどれだけいると思う?」
「半分以上……助からんかもしれませんね。むごい決意をしなきゃならんでしょう──」高官は酒をすすりながら、自分の胸にいいきかせるようにいった。「移住できた連中も、これから先、世界の厄介ものにされて──いろんな目にあうでしょう……迫害されたり……遺棄されたり……仲間同士殺しあったり……自分たちの国土というものが、この地上からなくなるんですからね。──私たちユダヤ人が、何千年来、全世界で味わいつくしてきた辛酸を、彼らはこれからなめつくすでしょう。あの東洋の、小さな、閉鎖的な島で、ぬくぬくとした歴史をたのしんできた民族が……」

小松氏の死後、谷甲州との共著という形で『日本沈没 第二部』が出版されたらしいが……。これにはあまり興味が持てないので今のところ読む気はない。


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2018年5月2日水曜日

【読書感想】米澤 穂信『ボトルネック』


『ボトルネック』

米澤 穂信

内容(e-honより)
亡くなった恋人を追悼するため東尋坊を訪れていたぼくは、何かに誘われるように断崖から墜落した…はずだった。ところが気がつくと見慣れた金沢の街にいる。不可解な思いで自宅へ戻ったぼくを迎えたのは、見知らぬ「姉」。もしやここでは、ぼくは「生まれなかった」人間なのか。世界のすべてと折り合えず、自分に対して臆病。そんな「若さ」の影を描き切る、青春ミステリの金字塔。

米澤穂信作品を読むのは『インシテミル』に続いて二作目なんだけど、『インシテミル』のときにも感じた不満を今回も抱いた。
「無茶な設定を受け入れるの、早すぎじゃね?」

「姉が生まれずぼくが生まれた世界」のぼくがどういうわけか「ぼくが生まれず姉が生まれた世界」というパラレルワールドに行ってしまう。そして姉と出会って五分ぐらい話して「どうやら君はべつの世界から来たみたいね」と受け入れられて……。

っておーい! どっちも順応性高すぎー!
まったく知らない人が家にやってきて「ここはぼくの家」って言いだしたのになんですんなり受け入れちゃうんだよ! どう考えたって不審者だろ。好意的に解釈したってキチガイだろ。いずれにせよ通報しろよ女子中学生。五分しゃべっただけで「君はわたしの弟みたいね」って状況理解すんじゃねーよ。家にあげんなよ。振り込め詐欺でももうちょっとうまくやるぞ。
……と導入が不自然すぎてずっと物語に入りこめなかった。「これは信じたふりをして様子を見てるだけなんじゃないか」と疑いながら読んでいたのだが、登場人物の中学生たちは「パラレルワールド説」を本気で信じてしまったらしい。中二病がすぎる。

『インシテミル』もそうだった。わけのわからん屋敷に招待されて「はい、じゃあ君たちで殺し合いをしてください」と言われて、みんなすぐに状況を受け入れて殺し合いが始まっちゃう。登場人物の順応性の高いこと外来種のごとし。池の水全部抜くぞ。




不自然すぎる導入、あまりに都合の良い聡明すぎる登場人物のせいでげんなりしてしまった。「自分が存在しなかったら世界はどう変わっていたか」という思考実験を試す舞台装置としての設定自体は悪くなかったんだけどな。

設定、キャラクター、セリフ。すべてがライトすぎるのが性に合わなかったみたい。
ぼくはアニメを見ないので、たまにアニメを見ると「なんでこんな無茶な設定がまかりとおるの」とついていけなくなってしまうんだけど、それと同じ感覚だった。

いや、「無茶な設定」自体はいいんだよ。小説にリアリティが必須だとは思わない。わけのわからん異世界に放り込まれて、あっさり受け入れるSFなんていくらでもあるし。でも、そうするんだったらもっと奇想天外な設定にしないといけないと思う。
「古代ローマ人が溺れて、気がついたら21世紀の日本でした」だったら、世の中が何から何まで違うわけだから「ただならぬことが起こったに違いない」ということはすんなり受け入れられるだろう。「理由はわからないけどどうやらべつの世界に行ってしまったらしい」と考えるしかないだろう。それならそれでありだ。
「ほんのわずかだけおかしな世界」を書くなら、北村薫『スキップ』『ターン』のように細かい証拠と繊細な描写の積み重ねが必要だ。

『ボトルネック』には大胆さも丁寧さも感じられなかった。要するに、嘘をつくのがへたなのだ。もっとうまく騙してくれ。


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2018年4月23日月曜日

【読書感想】瀧波 ユカリ『ありがとうって言えたなら』


『ありがとうって言えたなら』

瀧波 ユカリ

内容(文芸春秋BOOKSより)
決して仲のいい母娘じゃなかった。
だからこそ、今、お母さんに伝えたいことがある――。

余命宣告、実家の処分、お墓や遺影のこと、最後の旅行、そして緩和ケア病棟へ。
「母の死」を真正面から描いた、涙なしでは読めないコミックエッセイ。

『臨死!! 江古田ちゃん』で知られる瀧波ユカリさんのコミックエッセイ。「すい臓がんで余命一年」を宣告された母親の闘病と看取りを描いている。

紹介文にある「涙なしでは読めない」は真っ赤な嘘。でも嘘で良かった。べつにお涙ちょうだいのお話を読みたいわけじゃなかったので。
もうさあ、「人の死? じゃあ"感動"で"号泣必至"で"心あたたまる"だな!」みたいな超頭の悪い条件反射キャッチコピーのつけかたはやめましょうよ。涙を誘うことだけが本の価値だと思ってんじゃねえよバカ。この本まともに読んだのかよ、極力感情を抑えた描き方してんじゃねえかよ、そこが魅力なのに真逆の方向性のコピーつけてんじゃねえよ。

……と編集者への悪態はこれぐらいにしておくけど、漫画は良かった。感動的じゃないところが良かった。自分の親の死を感動のタネにしようとするやつなんて信用ならんからね。



この本でいちばん印象に残ったのは、古い服は捨てていいかと訊かれたお母さんが
「でも捨てろ捨てろと言われると悲しくなるわ。
 あんたにはわからないかもしれないけどね…」
とつぶやくシーン。
この気持ち、なんとなくわかる。
もう着ない服。合理的に考えたら捨てない理由はない。でも、生きているうちに自分のものを整理されるのは悲しい。

この発言をしたときのお母さんは、「あなたはもうすぐ死ぬ人なんだから」とまだまだ生きる人から線を引かれたように感じたんじゃないかな。
ぼくも自分の余命があとわずかになったとしても、身辺整理をしてすっと旅立つ、なんてできないと思う。きっと歯ブラシのストックを買いこんだり、寿命のある間に読みきれないほどの本を買ったりして、せいいっぱい現世を散らかしてから死んでゆくような気がしている。



この漫画で描かれているお母さんは、傍から見ているとあまり「いいお母さん」ではない。
攻撃的だし、過剰に自信家だし、素直じゃないし。個人的には付きあいたくないタイプだ。瀧波ユカリさんもたぶん同じように思ってる。母親だからつきあってるけど、そうじゃなかったら距離を置いているだろう。
幼少期のことはこの漫画にはほとんど描かれていないけど、それでも母親との接し方にずっと困ってきた様子がひしひしと伝わってくる。
このお母さんはひょっとしたら"毒親"に近いかもしれない。それでも瀧波ユカリさんは付きあっている。母親だから。

特に、瀧波ユカリさんのお姉さんへの接し方はひどい(ちなみにこのお姉さんは江古田ちゃんの"おねいちゃん"そのまんまの姿)。いちばん近くにいるから、というのがあるにしても「世話をしてもらっている相手をそこまで悪く言えるのか……」と、げんなりしてしまう。
お姉さんが看護師で、そういう人の相手に慣れているように見えるのが救いだけれど。


ぼくの祖母のことを書く。
祖父が亡くなり、ひとり暮らしになった祖母はまもなく認知症を発症し、身のまわりのことがまったくできなくなった。
長男(ぼくの伯父)が引き取って一緒に暮らすことになったのだが、祖母は娘(ぼくの母)に対して息子夫婦の愚痴ばかりこぼしていた。
介護をしてくれている長男夫婦については愚痴ばかりで、遠く離れて暮らしている娘のことは褒めちぎっていた。「あんたは優しいけど息子はちっとも優しくない、私に意地悪ばかりする」孫のぼくにすら言っていた。
認知症の人に言ってもしょうがないと思ったのでぼくも黙っていたけど、すごく不愉快だった。
家に引き取って世話をしている長男や、血のつながりもないのに介護をしてくれている長男の嫁がいちばんがんばっている。すごく優しい。そんなことは誰が見ても明らかだ。それなのに祖母は被害妄想に襲われて長男夫婦の悪態ばかり。

認知症を患うまでは、祖母は誰に対しても優しい人だった。いつもにこにこしていて、絵に描いたような「いいおばあちゃん」だった。そんな人が長男夫婦の悪口ばかり言うようになったので、余計に悲しかった。病気が悪いんだ、とわかっていても不快感は拭えるものではない。


ドラマや漫画だと「最期は仏のようになって死んでゆく」なんて描写があるが、あんなのは嘘だ。嘘じゃないかもしれないけどレアケースだ。
死にゆく人に他人を気づかう余裕なんてないし、攻撃しやすい人を攻撃する。

『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしてなお穏やかにならない、それどころか攻撃性を増している病人の姿が描かれている。
瀧波ユカリさんのお母さんは余命一年だったから周囲は困惑しながらもなんとか耐えられたけど、この状態があと何年も続いていたら、べつの人までダウンしていたかもしれない。仕事しながら、子どもの面倒みながら、感謝してくれるどころか恨みごとしか言わない親の世話をして……なんて不可能だよなあ。ぼくなんか仕事と育児だけでもうまくできてないのに。

医療現場で働いている人にしたらこういうのって日常の光景なんだろうけど、そうじゃない人間にとってはいたたまれない気持ちになる描写だ。
自分の親もこんなふうになるんだろうか。そのときうまく接することができるだろうか。自分も最期は周囲につらく当たって恨まれながら死んでゆくんだろうか。

家族にうっすらと「早く死ねばいいのに」と思われながら死んでいくのってつらいなあ。
今の法律って、自由に生きることはある程度保証してくれてるけど、自由に死ぬ権利はぜんぜん保証されてないよね。高齢先進国として、もっと死にやすい世の中になってほしいな。


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2018年4月18日水曜日

【読書感想】恒川 光太郎 『夜市』


『夜市』

恒川 光太郎 

内容(e-honより)
妖怪たちが様々な品物を売る不思議な市場「夜市」。ここでは望むものが何でも手に入る。小学生の時に夜市に迷い込んだ裕司は、自分の弟と引き換えに「野球の才能」を買った。野球部のヒーローとして成長した裕司だったが、弟を売ったことに罪悪感を抱き続けてきた。そして今夜、弟を買い戻すため、裕司は再び夜市を訪れた―。奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!魂を揺さぶる、日本ホラー小説大賞受賞作。

『夜市』『風の古道』の二篇を収録。
日本ホラー小説大賞受賞(『夜市』)で、レーベルは角川ホラー文庫。でもホラーではない。
二篇ともこの世のものではない存在がはびこる世界を描いているが、怖がらせるために書いているわけではなく、さらりと「こういう世界もあるんですよ」と提示しているだけ、というような筆致。

今市子『百鬼夜行抄』という漫画を思いだした。
あれも妖怪が出てくるが、ただ「いるだけ」だった。いくつかの条件が重なれば人間に害をなすこともあるが、それは彼らが邪悪だからではなく、それなりの理由があってやっていることだった。

人間と虫の付き合い方にも似ているかもしれない。人間には人間の世界があり、虫には虫の世界がある。基本的にはお互いに干渉しないが、人間がハチの巣に近づけばハチは攻撃してくるし、人間の家にゴキブリが侵入すれば人間はゴキブリを殺そうとする。ただしそれぞれの領域を侵さなければ特に何もしない。意識することすらない。

『夜市』や『百鬼夜行抄』で描かれる人間と物の怪たちの関係もそれと似ている。それぞれべつの世界を生きている存在。こちらが何もしなければ敵ではないし味方でもない。ふとした拍子にたまたますれちがうだけの隣人。



特に『夜市』は、短篇でありながら見事な怪異譚だった。
半醒半睡のような雰囲気、徐々に登場人物の過去が明らかになる構成、意外な展開、そして余韻の残るラストと、短い中に小説のおもしろさがぎゅっと詰まっていた。

 首を売っている店もあった。台の上に、ライオンや象、ムースやバッファロー、そして明らかに人間と思われる男と女の首が並んでいた。その店の主は葉巻カウボーイで、ライフルを分解して暇をつぶしていた。
「ねえ、あの人間の首は、つくりものよね」
 いずみが青ざめて裕司の袖をひいた。裕司はそれには答えなかった。
 鳥を売っている店があったが、鳥かごの中の鳥はどれも、足が三本あったり、鱗に覆われていたりして、図鑑や動物園も含めて、いずみが一度も見たことのない鳥ばかりだった。
 棺桶を売っている店があった。店の前には腐敗した死体が三つ立って、いずみにはわからない言葉を呟いていた。腐敗した死体たちからはひどいにおいがした。並んでいる棺桶の一つからうめき声が漏れたので、いずみは小さな悲鳴をあげた。

いきなりこんなわけのわからない世界に入るので、なるほど奇妙な味わいの幻想的な物語ね、と思っていたらストーリーもしっかりと組み立てられていたので思わずうなった。

ぼくはファンタジーというジャンルがあまり好きでないのだが、それは「ファンタジー世界をいかに精巧に構築するか」に重点が置かれていて、肝心の物語がおもしろくない作品が多々あるからだ。
世界感はすばらしいのに、お話は「少年がある日冒険の旅に出て、個性的な仲間と出会い、いろいろ苦労しながら悪いやつをやっつけてバンザイ」だったり。それだったら『オズの魔法使い』のほうがよっぽどおもしろいわ、と思っちゃうよね(いや『オズの魔法使い』は名作だけどね)。
宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』とかつまらなかったなあ。RPGゲームを文章化しただけみたいだった。「どんな本でも最後までは読んでみる」をモットーにしているぼくが途中で投げだした、数少ない本のひとつだ。いくらジュブナイルとはいえ……(『ブレイブ・ストーリー』の悪口を書きだすと長くなるので省略)。

ゲームのシナリオだったらある程度単純なほうがいいんだろうけど(複雑にしすぎるとゲームそのものの味わいを邪魔する)、小説でそんな単純なストーリーは読みたくない。
ファンタジーで終わらせない仕掛けのある小説が読みたいのだ。
貴志祐介『新世界より』や森見登美彦『四畳半神話体系』は、そのあたりに見事に成功していた。あれはおもしろいファンタジーだったけど、ファンタジーだったからおもしろかったわけではない。ファンタジーで、かつ、おもしろかった。

『夜市』も、まず蠱惑的な世界に目がいくが、物語はその世界観に頼りきりでない。めちゃくちゃな世界のようで、登場人物の行動には整合性がある。伏線の回収もじつにさりげないし、トリックの種明かしを物語のラストに持ってこない構成もいい。主題はそっちじゃないもんね。
すごく疲れているときなんかにやけに明確なストーリーのある夢を見ることがあるが、そんな感じの読書体験だった。まるで白昼夢。


「奇跡的な美しさに満ちた感動のエンディング!」というチープすぎる宣伝コピーをのぞけば、他に類のない、完成された小説だった。


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2018年4月17日火曜日

【読書感想】ジョージ・オーウェル『一九八四年』


『一九八四年』

ジョージ・オーウェル

内容(e-honより)
“ビッグ・ブラザー”率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

言わずと知れたディストピア(暗黒郷)小説の名作。
古典的名作にありがちなことなんだけど、前半は少し退屈。これは『一九八四年』が悪いわけではなく、『一九八四年』を下敷きにした作品が数多く生まれているために、設定自体が目新しいものではなくなっているから。
「はいはい、強大な権力を持った独裁者によって監視カメラが張りめぐらされた世界ね、それはもうわかっているからそこの説明にページを割かなくていいよ」
と思っちゃう。

組織に反抗的な思想を持つ主人公が、体制から自由闊達な美女と出会う。さらには革命組織が彼らに接触してくる。「なるほど、この二人が手を取り合って組織と闘って、最後に希望ある未来が示されるのね」と思っていたら……。
いい意味で裏切られた。いや、いい意味、なのかな? このとことん救いのない展開、ぼくは好きだけど。
清々しいまでに絶望しか残らなかった。ジョージ・オーウェルの『動物農場』を読んだときは「これは悲惨な社会だ」と思ったけど、『一九八四年』に比べたら動物農場なんて天国みたいなもんだね。


愛情省に舞台を移した後半以降の息詰まる展開は特に読みごたえがあった。

「一〇一号室だ」将校が言った。
 すでに蒼白になっていた男の顔が、ウィンストンにはとても信じられない色に変わった。はっきり、見間違えようもなく、緑色に変わったのだ。
「何をされても構いません!」男は喚いた。「何週間も食べ物を貰えないで、もうわたしは餓死寸前です。終わりにして、死なせてください。射殺してください。絞首刑にしてください。禁固二十五年の刑にも服します。他に秘密の正体を暴露すべき人間がいますか? 誰か言ってくだされば、何でもお望みのことを申し上げます。誰であろうと、その連中に何をなさろうと構いません。わたしには妻と三人の子どもがいます。一番上の子だってまだ六歳になっていません。でも妻と子全員を捕らえ、わたしの目の前で喉をかき切ってくれて結構です。黙って見ています。でも一〇一号室だけはどうか!」
「一〇一号室だ」将校が言った。

この短い文章を読むだけでぞくぞくする。「一〇一号室」の恐ろしさたるや。
ただ、終盤で「一〇一号室」で何をするのか判明するのだが、明らかになってしまうと「なーんだ」という感じだった(怖いけど)。何をされるかわからないほうが恐ろしかったな。

愛情省でのウィンストンの思考の変遷は、人間の意志や信念が暴力の前ではいかにもろいかを教えてくれる。平和な世の中ではどれだけかっこいいことを言っていても、いざ痛みを前にしたらかんたんに転んでしまうんだろうね。少なくともぼくはあっさり転ぶ自信がある。

だからこそ権力者は自身の力に対して抑制的でないといけないんだけど、権力者自身が権力を拡大させたいという欲求に逆らうのはほぼ不可能だろう。
そのために憲法があるんだけど、そのことの意味をよくわかっていない権力者も多いよねえ。



『一九八四年』の登場人物はそう多くないが、オリジナルの概念は多い。イングソック、永久戦争、真理省、二重思考、存在するかどうかわからないゴールドスタインなど、どれもよく考えられている。すべてビッグ・ブラザーが人民を統治するための仕組みだ。たしかにこれだけの武器を備えていたら完璧に支配することもできるかもしれない、と思わされる。

特に感心したのがニュースピークという概念。

「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭せばめることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙あげ句く、忘れられることになるだろう。すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しずつ縮まっていく。今だってもちろん、〈思考犯罪〉をおかす理由も口実もありはしない。それは単に自じ己こ鍛たん錬れん、〈現実コントロール〉の問題だからね。しかし最終的には、そうしたものも必要なくなるだろう。言語が完璧なものとなったときこそが〈革命〉の完成。ニュースピークは〈イングソック〉であり、〈イングソック〉がニュースピークなのだ」

さらに巻末にわざわざニュースピークの説明文まで設けている。

 上述したことから理解されようが、ニュースピークを使って非正統的な意見を表明することは、それがきわめて低級なものの場合は別として、ほぼ不可能であった。もちろん、正統に反する非常に粗雑な邪説、一種の涜とく神しんのことば、を口にすることが不可能であったわけではない。例えば、「ビッグ・ブラザーは非良い  ungood  」ということはできたであろう。しかしこのように発言したからといって、正統派の耳には自明すぎる愚の骨頂としか響かず、この発言を筋の通った議論で裏づけることなどとても無理だったろう。裏づけるのに必要な語が手に入らなかったからである。イングソックに有害な思想はことばを伴わない曖あい昧まいな形で心に抱くしかなくて、また、それを名指そうとすれば、様々の邪説全部を一ひと括くくりにし、それらを明確に定義づけないまま断罪だけする実に雑ざつ駁ぱくな用語を使うより他ないのだった。

すごく単純に言ってしまうと、ニュースピークでは単語の数を極力減らして(たとえば「cut」という動詞をなくして「knife」を名詞としても用いる)、不規則動詞やあらゆる例外をなくすことで、文法体系をできるかぎりシンプルにする。そうして人々に複雑、抽象的な思考をできなくするのだ。

監視カメラや盗聴器では行動は制御できても思考まではコントロールできない。だが言語を抑制すればおのずと思考も制限される。語彙の少ない人は思考も狭く浅くなってしまう。
だから、できるかぎり文法をシンプルにするというニュースピークは(人民の反逆を抑えるという観点では)きわめて有用な語法だ。
中学生のとき、「過去形なんて全部 -ed でいいだろ。複数形はすべて -s、比較級・最上級はすべて more ~、most ~ でいいだろ」と思っていたけど、多くの英語学習者を苦しめている不規則活用たちも思考に深みを持たせるためには必要なんだろうなあ。


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2018年4月16日月曜日

【読書感想】本多 孝好『正義のミカタ』


『正義のミカタ』

本多 孝好

内容(e-honより)
僕、蓮見亮太18歳。高校時代まで筋金入りのいじめられっ子。一念発起して大学を受験し、やっと通称スカ大に合格。晴れてキャンパスライフを満喫できるはずが、いじめの主犯まで入学していた。ひょんなことから「正義の味方研究部」に入部。僕は、元いじめられっ子のプライドに賭けて、事件に関わっていく。かっこ悪くたっていい、自分らしく生きたい。そう願う、すべての人に贈る傑作青春小説。

いじめられっ子である"ぼく"がある男に助けられ、連れていかれた先は「正義の味方研究部」。そして"ぼく"も正義の味方として活躍することに……。

舞台は大学なのになんと幼稚な展開……。これはハズレを引いたかなと思いながら前半を読み進めていた。
終始青くさいし、ご都合主義だし、正義といいつつ法ではなく暴力で解決しているし、こんなの今どき少年マンガでも支持されないでしょ、と思いながら。

中盤以降は意外なキャラクターが犯罪グループを組織していることがわかったり、正義も一筋縄ではいかないことに主人公が気づいたり、完全無欠に見えた登場人物が屈折を抱えていることがわかったりするんだけど、そもそも「正義の味方研究部」に対してずっと嘘くせえなという思いがぬぐえなかったから後半の落差もあまり効いてこなかった。


「正義」について語るのは難しい。どうしたって偽善っぽさはついてまわる。「悪」は誰にとってもよく似ているに対し、「正義」は立場ごとにはっきりと姿を変える。
マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読めばわかるように、ハーバード大学の賢い人たちが話し合っても一律に定義できない。定義できないことこそが正義の本質と言えるかもしれない。
『正義のミカタ』でも、貧困にあえいでいる家庭の子が(それほど被害者を生まない)犯罪に手を染めて金を稼ぐのは悪いことなのか、という問題が提示されている。犯罪は犯罪なんだからダメでしょ、とは思うけど、貧困家庭で生まれた子どもはずっと貧困のままで格差が再生産されつづいてゆくのが正しいのかというと、それもまた首をひねらざるをえない。


『正義のミカタ』は「正義」のあり方をテーマにしているんだけど、最後は「君なりの正義を考えてみましょう」みたいな感じで放りだしてしまったのが残念。正義の形が多様であることなんてわかってるんだよ。これだけ長々と書いて結論それかよ。
さんざん青くさいことを書いておいて、最後は「みなさんで考えてみましょう」みたいな国語の教科書的逃げ方ってのはちょっとずるくないか。どうせなら最後まで青くさくあってほしかった。
登場人物にもっと真正面から正義を語らせてほしかったな。ハーバード大学の講義とちがって間違っててもいいのが小説という表現手段の強みなんだから。


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2018年4月12日木曜日

【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』


『四畳半神話大系』

森見 登美彦

内容(e-honより)
私は冴えない大学3回生。バラ色のキャンパスライフを想像していたのに、現実はほど遠い。悪友の小津には振り回され、謎の自由人・樋口師匠には無理な要求をされ、孤高の乙女・明石さんとは、なかなかお近づきになれない。いっそのこと、ぴかぴかの1回生に戻って大学生活をやり直したい!さ迷い込んだ4つの並行世界で繰り広げられる、滅法おかしくて、ちょっぴりほろ苦い青春ストーリー。

八年ぶりぐらいに再読。
はじめて読んだときは衝撃だった。いくつかの並行世界が絶妙に絡みあう構成、さりげなく散りばめられていた伏線が最後に一気に回収される展開、そして何よりそれが森見登美彦氏によって書かれていたことに驚いた。
これが伊坂幸太郎さんの作品だったらべつに驚かなかったんだけどね。「伊坂作品だったらこれぐらいのことはやってくるよね」ってな感じで。
でも『太陽の塔』を読んで古めかしい文体と幻想的な世界感のイメージが強かったから、「森見登美彦はこんな緻密な構成の先鋭的な作品も書けるのか」と良い意味で裏切られた。

で、ひさしぶりに読み返してみての感想。
展開は知っているから驚きはないが、「並行世界」という仕掛けを彩るディティールが見事であることに改めて気づく。猫ラーメン、もちぐま、ラブドールの香織さん、コロッセオ、蛾の大群(読んだことない人には何が何やらわからないだろうな)。
本格派SFだったらこういう演出は最小限に抑えて「並行世界」を説明することにもっと時間をかけるだろうが、『四畳半神話大系』はあくまでも大学生の日常に起こるどうでもいいことに重きが置かれ、大きな仕掛けよりも小さなどうでもいい仕掛けが描かれている。
半径数メートルの私的な物語に終始することで、「もしあのときああしていたら……」をいくら試そうが狭い世界の中をうろうろするだけ、というメッセージを伝えようとしているのかもしれない。可能性は無限だが、そのどれもが四畳半のように狭い世界の中の話なのだ。

大学生時代はいちばん選択肢が多い時期に感じられる。できることは高校生までに比べて格段に増え、やろうと思えば何にだってチャレンジできるように思える。
ぼくも大学に入ったときは、『四畳半神話大系』の主人公のように希望に満ちあふれていた。英語の雑誌を購読してみたりした。勉強に遊びに恋にバイトに創作に大忙しだぜ! と思っていた。ああ、懐かしい。同じく京大で学生生活を送っていたので、賀茂大橋、デルタ、糺の森、下鴨神社、御影通りといった地名が出てくるたびにあの頃の感覚を思いだした。映画サークルに入ろうとして結局やめた経験もあった(「みそぎ」ではない)。

でも結局誇れるような学問もしてないし外国語も身についてないし、入学時と卒業時で何が変わったかというと四年歳をとっただけのようにも思う。得たものより失ったもののほうが大きかったかもしれない。
「もし大学入学時に戻ったら……」と考えたことがあるけど、戻っても大差はないんだろう。どうせソリティアとかやって時間を無駄にしてしまうのだ。


「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマー・タイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

かつて『四畳半神話大系』を読んだときは「どうせおまえはおまえだよ」と言われているようで残酷な物語だと感じたが、おじさんになって読むとこれは救いなのかもしれないと思えるようになった。後悔したって過去には戻れない以上、「どうせ同じような道をたどってたさ」と思って現在に居場所を見つけるほうが幸せだよね。


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【読書感想】森見 登美彦 ほか 訳『個人編集 日本文学全集 竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』



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2018年4月10日火曜日

【読書感想】毎日新聞取材班『枝野幸男の真価』

『枝野幸男の真価』

毎日新聞取材班

内容(e-honより)
野党の混迷に終止符を打ち、政権交代も視野に入れる代表・枝野幸男のビジョンとは?徹底取材によるドキュメント。

毎日新聞取材班ということで客観的なドキュメントを期待していたのだが、前半は枝野氏に肩入れしすぎ。ファンブックみたいだったのでもうちょっと引いたスタンスで書いてほしかった。
ただ第4章『離合集散の野党史』と第5章『立憲民主党を待つ試練』は読みごたえがあった。新進党や民主党の躍進と没落の原因を分析することで、立憲民主党がなぜ支持を集めたのか、そして今後何をしたら零落するのかが理解できた。歴史はくりかえしているんだねえ。



「権力は憲法によって制約される、これが立憲主義です。立法権、内閣総理大臣の権力は何によって与えられているか。選挙と言う人がいるかもしれません。でもそれは半分でしかない。選挙で勝った者に権限を預けると憲法で決められていると同時に、無条件で預けるのではない。こういう規制の中でしか権力を使っちゃいけない。この両方を憲法で決めてセットで私たちは委ねられている」
「立憲主義とセットになって初めて民主主義は正当化されます。多数の意見でものを決める考え方は、それだけでは決して正義ではありません。多数の暴力によってこそ、少数者の人権侵害が生じるからです」

昨年秋、この演説を聴いたとき、ぼくも「これだよ! このあたりまえのことを言う人を待ってたんだよ!」と思った。
立ち上がったばかりの立憲民主党はまたたくまに支持を拡大していったところを見ると、同様に感じる人が多かったのだろう。

いやほんと、至極当然のことなんだけどな。政治家、内閣の権力には憲法による制限があるなんて、あたりまえすぎて誰も言ってなかった。そして誰も言わないうちに、いつしかその重要性が忘れられ、権力者が立憲主義を軽視するようになった。

権力は憲法によって制約される、こんなあたりまえのことを言う政治家が大きな支持を集めるのだから、いかに現在民主主義が危機にさらされているか。



ぼくは立憲民主党のすべての政策に賛成なわけではないし、現政権の政策に賛同する部分もある。
けれど、ぼくが投票時にもっとも重視するのは「現行法を守ろうとしているか」だ。重視というかすべての根本だと思っている。
だから憲法を解釈でねじ曲げようとする政権は、その一点をもって打倒すべきだと思っている。たとえ他の政策がどんなにすばらしくても。
スポーツ選手がどれだけすばらしい成績を残してもドーピング使用が発覚したらすべての実績がゼロになるように、法律、特に憲法を守ろうとしない政権は何も信用することができない(憲法改正に反対しているわけではない。憲法に定められた正当な手続きに従って改正することには何の異論もない)。

まあここまで書いたから言わずもがなだとは思うが、ぼくは現政権に早く退陣してほしいと思っている。それは政権全体として法に対する誠実性が感じられないからだ。「結果さえ良ければ法の枠からはみだしてもいい」と考えているようにしか見えない。
「権力に対して抑制的であるかどうか」という問題に比べれば経済政策や外交なんて屁みたいなものだ。


ときどき現首相をアドルフ・ヒトラーのような独裁者と重ね合わせる意見が見られるが、ぼくはその意見には賛成しない。良くも悪くも、歴史に名を残した残虐な独裁者と肩を並べられるほどの資質は現首相にはない。
ただ、現政権は「いつか邪悪な独裁者が現れそうになったときにそれを阻止する制度」を破壊することにためらいがない。
もっと邪悪でもっと能力の高い人物が政権を握って「過去にも『解釈の違い』で乗り切ったことがあったから今回も少々法の枠からはみだしたっていいよね。一定数の民意さえ集めれば法で定められた手続きを少しぐらい省略したっていいよね」という論理をふりかざす日のことをまるで考えていない。



立憲民主党は広報戦略が非常にうまいと言われている。Twitterの使い方が実にうまい。

広報だけでなく、党執行部も「どう見られているか」「何が求められているか」を的確に把握している。

 市民団体の集会に野党の党首が参加する形式で、志位と社民党の吉田忠智党首は壇上で並んで演説した。しかし枝野は、直前までNHKの番組出演で2人と一緒だったにもかかわらず、あえて2人が立ち去った後に会場に到着するように時間を調整した。
「社民党さんも共産党さんもそれぞれ、決めている候補者を下ろすのがいかに大変か、私もよーく分かっています。それぞれの立場を超えて努力された両党の皆さんに、私は敬意と感謝を申し上げたい」と候補取り下げへの謝意を示したものの、自らとのスリーショットの写真は撮らせなかった。
 枝野自身は、希望の党という保守系野党と、共産党の「間」の政策を求める有権者のニーズを意識していた。その受け皿となるために、共産党と同一視されるリスクを徹底的に回避していた。

インターネットを見ていると先鋭化した右派と左派が活発に論争をくりひろげているけど、左右に分けるのであれば世の中の人の大半は「やや右」か「やや左」だと思うんだよね。かつては自民党と社会党がそれぞれの人の受け皿になってきたんだろうけど、55年体制崩壊後はそうかんたんにはいかなくなってしまった。
自民党には幅広い議員がいるけど最近は右派が多数を占めている(ように見える)。政権を握ったときの民主党も似たような状況だった。
そして2017年の衆院選挙時には民主党の中の右派が希望の党と合流し、中道左派、リベラル派の受け皿がなくなってしまった。
親しい人と話していても「安保法案や海外派兵には反対。だけど共産党は嫌」という人はすごく多い。感覚的にはいちばん多い層なんじゃないかとさえ思う。特に女性に多い。
ぼく自身もその考え方に近い。で、選挙のたびに「特にどこも支持したくないけど『たしかな野党』も一定数いたほうがいいから……」という消極的な理由で共産党や社民党に票を投じていた。

そういう層に立憲民主党はぴったりとはまった。そこを理解しているから、共産党や社民党とは選挙協力はするが近づきすぎないようにしている。希望の党や旧民進党と合流すると「結局政権を狙うための烏合の衆か」と思われて支持者が離れていくのを知っているから、距離を保っている。
こうした立ち位置のとりかたがすごくうまい。


ただ、政権交代を狙うと、政策の異なる政党とも協力関係を築かざるをえなくなる。ここの戦略を見誤ると有権者に愛想を尽かされることになる。

「少なくとも(下野後の)この5年間自分が思っていたことが、いかに間違いだったかを痛感する(選挙戦の)日々だった。こんなに政党の合従連衡が嫌われていた、こんなに『政権交代のために一つにまとまる』のが嫌われていたのか、と。1+1がせめて1.5なら(合併も)考えるけど、今は1+1が0.8になる状況だ」

一度政権をとると、ポジションを守ることが自己目的化して、当初の方針は二の次になってしまう。自民党、民主党、公明党、みんな同じ道をたどっている。

いつか立憲民主党が政権をとったとしても、同じことが起こるんじゃないかと思う。党が力を持てば持つほど、政権を狙えるという理由で様々な考え方の人が入ってくるから。そうなったら立憲民主党も終わりだろうね。民主党と同じ道をたどって見放されてしまうだろう。
ぼくは今は立憲民主党を応援しているが、第一党になってほしいとは思わない。少なくとも数年間は。「発言力のある野党」としての立ち位置を期待している。

つくづく二大政党制って良くない制度だと思う。小選挙区制も。これに関してはこのブログでも何度か書いているから詳しく書かないけど、たったふたつの政党に民意が拾えるとは到底思えないんだよね。



最後に、ほんまかいなと言ってしまったエピソード。

枝野氏と前原誠司氏はカラオケ友達なんだそうだ。

 それから半月が過ぎたころ、2人は知人を交えて久しぶりに歌おうと計画した。臨時国会の開会を10日後に控えた9月18日にセッティングされた。しかしその前日の17日、「月内に衆院解散」という情報が永田町を駆け巡る。前原は会合を欠席。枝野は「選挙前の歌い納め」のつもりで短時間参加した。歌ったのは欅坂46の「不協和音」である。

 ここで同調しなきゃ裏切り者か
 仲間からも撃たれると思わなかった

この直後に前原誠司氏は希望の党への合流を決め、枝野幸男氏は新党立ち上げを決意する。そして希望の党は立憲民主党の候補者に対して刺客候補者を擁立する……。

ちょっと話ができすぎじゃない?


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2018年4月5日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉 美味礼賛』



『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉
美味礼賛』

桂 米朝

内容(e-honより)
第八巻は、「美味礼賛」。落語を聞いて「アッ、うまそう!」と思わず口中に唾がたまった経験はありませんか。食べものがテーマ、もしくは食べるシーンが一つの魅力になっている話を集める。最終巻につき、著者ごあいさつあり。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第八巻。

シリーズ最終巻ということで、「美味礼賛」というテーマこそあるものの、実質はいろんな噺の寄せ集め。
『鴻池の犬』『馬の田楽』なんかは、食べ物が主題じゃないしね。『鍋墨大根』『焼き塩』なんか食べるシーンすら出てこないし。『テレスコ』にいたっては食べ物かどうかすらわからないからね。


『桂米朝コレクション』シリーズ全八巻を読んだけど、これはほんとに価値のある本だね。噺を正確に収録しているのはもちろん、時代を映したマクラや米朝さんがどんな点に注意しながら演じているかというメモも残されていて、百年経っても価値を減じない(それどころか時代が立つほど価値が増す)史料になるのはまちがいない。
時代の変化とともにわかりづらくなった点を補足してくれているのもありがたい。

今は記録メディアが発達したのでDVDやYouTubeで正確に落語を残せるようになった。でも「わかりづらいけど解説をすると野暮になるのであえてそのままやる」とか「こういうやりかたもあったが今はこうしている」といった"演じなかったもの" は記録されない。

『桂米朝コレクション』は、そういう「名人の心遣い」の片鱗が見える、すばらしいシリーズだ。



饅頭こわい


若い衆が集まって、好きなものや怖いものの話をしている。中にひとり「饅頭がこわい」という男がいて、他の連中はそいつを怖がらせてやろうと饅頭を買い集めてくる……。

とても有名な噺なので説明する必要もないだろう。
ぼくが小学校のときにはじめて買ってもらった落語のカセットテープが桂米朝さんの『饅頭こわい』で、この噺と『だくだく』でぼくは落語に魅せられた。
この噺の魅力は「饅頭こわい」のくだりではなく、前半のばか話にあるとぼくは思っている。「どんぶり鉢」「おぼろ月夜」もいいし、特に「狐の恩返し」と「おやっさんが体験した怪談話」は、緊迫感のある展開とくだらない結末の落差が大きくて大好きだ。落語入門には最高の噺だね。


鹿政談


奈良の鹿は神の使いとされ、うっかり殺してしまおうものなら死罪となった時代の噺。
奈良の三条で豆腐屋を営む六兵衛という年寄りが、犬がきらず(=おから)を食べていると思い木片を投げたところ、当たりどころが悪かったのか死んでしまう。さらによく見ると犬ではなく鹿だった。
奉行所に連れていかれた六兵衛。しかしお奉行である根岸肥前守の「これは鹿ではなく犬だ」という寛大な判決によって許される……。

善男善女しか出てこないめずらしい噺。だからだろう、笑いどころは少ない。やっぱり強欲なやつや小ずるいやつが出てきたほうがおもしろい。
心優しいお奉行様の名裁き……ということなんだけど、しかしいくら正直なじいさんを助けるためとはいえ、事実をねじまげて、しかも部下たちに圧力をかけて忖度をさせているわけで、これって裁判官としてあかんのちゃうの? と法治国家に住む人間としては疑問を持ってしまう。悪法もまた法だろ、と。
『帯久』のときも思ったけど、お奉行様やりすぎじゃないですかね。

今でも奈良の鹿は天然記念物に指定されているが、昔はもっと厳しく保護されていたらしく、鹿を殺すと斬首されたり、子どもであっても生き埋めにされたり(三作石子詰め)したと言われている。
しかし鹿って農作物は食い荒らすし、発情期はけっこう荒っぽいし、昔は角も伐ってなかっただろうし、あいつらが我が物顔で歩いていたと思うと住人はたいへんだっただろうな。いや今でも我が物顔で歩いてるんだけどね。奈良公園周辺はすごいよ。「鹿飛び出し注意」の道路標識がいっぱいあるからね。


田楽喰い


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がない。そこで酒瓶を割ってしまったことにして兄貴の家にある酒を呑ませてもらう作戦を立てる。なかなか計画通りにいかないもののなんとか酒を呑ませてもらえることに。兄貴が「"ん"のつく言葉を言ったやつは、"ん"の数だけ田楽を食っていい」というゲームを発案し……。

落語における「企み」というのはだいたい成功しないものだけど、これはめずらしく(多少つまづくものの)思いどおりにいく。あれ、うまくいっちゃうのか、と拍子抜け。兄貴にばれて怒られるけど呑ませてもらえる、という展開のほうが納得がいくな。
後半の『ん』まわしゲームは、古今東西のようなパーティーゲームの元祖という感じだね。


鴻池の犬


ある商家の前に捨てられていた三匹の犬。丁稚がかわいがって育てていると、そのうちの一匹をもらいたいという人がやってくる。聞けば、誰もが知る大金持ちである鴻池善右衛門の息子がかわいがっていた犬が死んでしまったので、そっくりな犬をもらいたいとのこと。
鴻池家にもらわれた犬は身体も大きくなり、あたり一帯の犬社会を牛耳るボスになる。そこに現れた病気でひょろひょろの犬。話を聞いてみると、鴻池の犬の弟だったということがわかる……。

前半は商家の人々のやりとりが丁寧に描かれるのだが、後半はうってかわって犬社会の話になり、犬同士の会話から成る落語になるというナンセンスな展開。
犬が出てくる落語には『犬の目』『元犬』などがあるが、それらは野良犬。ペットとしての犬が出てくるのはめずらしい。江戸時代には、犬を飼うという習慣は(少なくとも庶民には)ほとんどなかったんだろう。
後半は急に漫画的になるのであまり好きじゃないけど、犬をあげたお礼が大層すぎるという理由で番頭さんが小言をいうシーンは商人のプライドが感じられて好き。


鯉舟


磯七という髪結い(出張床屋)が若旦那のお供で鯉釣りに出かける。舟の上で大騒ぎする磯七だが、見事大きな鯉を釣りあげる。しかし鯉を裁こうとどたばたしているうちに鯉が逃げてしまい……。

髪結いが出てくるめずらしい落語。床屋兼幇間(太鼓持ち)みたいな存在だったのかな。逃げた鯉が戻ってきてしゃべる、というばかばかしいサゲはけっこう好き。落語って「え? 今ので終わり?」みたいな唐突な終わり方をすることがよくあるけど、この噺みたいに「はいこれがサゲ!」ってわかりやすいほうが好き。


京の茶漬


京都ではお客が帰るときには「せっかくですからお茶漬けでも……」と声を掛ける習慣がある。辞退するのが礼儀だが、ある物好きな男が一度「京の茶漬け」を食べてみたいと思い、そのためだけにわざわざ京都の知り合いの家を訪ねる。主人は留守で、嫁さんを相手に話しこむ。帰ろうとした男に「ちょっとお茶漬けでも」と声をかける嫁さん、「さよか、えらいすんまへんなあ」と座りなおす男。
ところがご飯がほとんど残っていない。なんとかして残りご飯をかき集めてお茶漬けを出した嫁さんだが、男はなんとかしてお代わりをもらおうとして……。

落語の京都人は嫌味でせこい人物として描かれることが多いが、この噺に出てくる京都人の嫁さんはぜんぜん嫌味なところもなく、たまたまご飯が残っていないところに妙な客人が来て困惑させられてかわいそう。
子どものときに『今日の茶漬け』を聞いてもいまひとつぴんと来なかったが、これは高度な心理戦だから子どもには理解しにくいよなあ。「なんとかして『お代わりでもどうですか』と言わせようとする客」と「その意図に気づいていながらわざと気づかないふりをする嫁さん」という、なんとも繊細なせめぎあい。
大笑いする類の噺ではないが、意地悪い視点ににやにやさせられる。


近眼の煮売屋(ちかめのにうりや)


ある男がごちそうを並べて酒を呑んでいる。やってきた友人がこんなごちそうどうしたんだと尋ねると、煮売屋の近眼の親父を突きとばして盗ってきたんだと冗談で返す。ところが友人はそれを真に受けてしまい、煮売屋に行って親父を突きとばして帰ってくる……。

ずいぶんひどい噺だ。いきなり突きとばされる煮売屋、かわいそう。
総菜屋兼居酒屋のような店だそうだ。『東の旅』の『煮売屋』にも出てくるね。
きずし、このわた、イカの木の芽和え、サワラの照り焼き、焼き豆腐……。ずいぶんうまそうなもの食ってるなあ。


鍋墨大根


振り売り(移動販売)の八百屋、長屋のおかみさんにうまく値切られて安く大根を買われてしまう。悔しいので指定されたのとは別の細い大根を持っていくと「これじゃない。さっき鍋の底の墨を大根につけておいたからわかる」と言われ、その手口に感心する。
八百屋が向いていないので駕籠屋に転身。すると、ちょっと目を離したすきに乗せた客が関取に入れ替わっており、「しもた。さいぜんの客に、鍋墨塗っといたらよかった」……。

小噺のような短い噺。
駕籠の中身が入れ替わっているというくだりは、『住吉駕籠』の後半によく似ている。でも『住吉駕籠』の「こっそり二人で乗っている」というシチュエーションのほうがビジュアル的におもしろいなあ。


焼き塩


商家の女中さんのところに故郷から手紙が届くが、文字が読めないので通りかかった侍に読んでもらう。すると侍が涙を流しはじめたので、「故郷の親の容態が悪いと以前から聞いていたのでこれは悪い便りにちがいない」と女中さんも涙を流す。侍と女中がいっしょに泣いているのを見た塩売りの親父、身分違いの恋がうまくいかなかったのだろうと勘違いしてもらい泣き。しかし侍は文字が読めずに人前で恥をかいたので悔し涙を流していただけだったとわかり……。

これも小噺のような短さ。
枕の「『司』という字を魚屋に訊いたら『同という字を二枚におろして、骨付きのほうや』という答えが返ってきた」とか、字が読めない父親が子どもに字を訊かれてへりくつをこねるところのほうが本編よりおもしろいな。


小咄・たけのこ


隣家の筍が、塀のこちら側に生えてきた。それを見た侍、使いを隣にやって「ご当家のたけのこが手前どもの庭へ入ってきたので召し捕って手討ちにいたす」と伝えさせる。すると隣家の主人は「お手討ちはやむをえませんが遺骸はこちらへお下げ渡しを」と返す……。

短い噺だが大仰な言い回しがおもしろい。落語に登場する侍はいばりくさっていたり、堅物だったりするけど、こういうユーモアを解する侍ってめずらしいな。
「塀を越えて生えてきたタケノコを取って食べてもいいか」ってよく法律の教科書に出てくるよね。たしかタケノコはオッケーで柿はだめだったはず。


馬の田楽


つながれている馬の前で子どもたちが遊んでいる。ひとりの子どもが度胸試しで馬の尾の毛をまとめて引っぱったところ、驚いた馬が走って逃げてしまった。
馬方が現れ、馬がいなくなっていることに気づいてあわてて追いかける。いろんな人に馬がどこに行ったか尋ねるが誰も協力的でなく……。

まだ馬が街中にいた時代の噺。子どもたちが「馬の腹の下をくぐれるか」「馬の尾の毛を抜けるか」と度胸試しをするシーンが出てくる。
そういやぼくも小学生のころ、「走っている車にどれぐらい近づけるか」「走っている車にさわれるか」という度胸試しをしていたのを思いだした。今考えるととんでもない遊びだけど、昔から男子のばかさは変わらないんだねえ。


ためし酒


尾張屋の旦那が、近江屋の旦那に一升入るという大きな杯を見せる。近江屋の旦那が「うちの下男の権助ならその杯で五杯の酒を呑める」と言いだし、尾張屋は「いくらなんでもそんなに呑めるわけがない」と言う。有馬旅行の旅費を賭けて五升の酒が飲めるか試すことに。
連れてこられた権助は「ちょっと考えさせとくなはれ」とどこかに行ってしまうが、しばらくして戻ってきて酒を呑みはじめる。つらそうにしながらも五升を飲み干した権助。尾張屋が「さっきおまえはどこかへ行っていたが酒を呑めるようになる薬でも飲みに行っていたのか」と尋ねると……。

なんと、元はイギリスのジョークらしい。初代快楽亭ブラック(イギリス人。『美味しんぼ』に出てくる落語家のモデル)がイギリスから持ちこんだ小噺を落語に仕立て直したのだとか。輸入品とは思えないほどどこをとっても見事な落語になっている。


寄合酒


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がないのでそれぞれ一品ずつ持ち寄ろうという話になる。酒屋を騙して入れさせた酒、犬から奪いとった鯛、乾物屋が気づかないうちに持ってきた棒鱈と数の子、子どもを脅かして持ってきた鰹節、丁稚から盗んできた味噌と根深(ネギ)など、ろくでもない方法ではあるがごちそうが集まる。
ところが慣れない男たちが料理をするものだから、鯛を犬にやってしまったり、火をつけるのに失敗したり、数の子を焚いてしまったり、酒をひとりで飲み干してしまったり、鰹節でとった出汁を捨ててしまったりと失敗ばかり……。

導入は『田楽喰い』とほぼ一緒だが(『寄合酒』→『田楽喰い』という流れでひとつの噺としてかけられることもあるという)、こちらのほうがわかりやすくておもしろい。
悪知恵をはたらかしていろんな食材を集めるところ、せっかく集めた食べ物をすべて台無しにしてしまうくだりなど、笑いが途絶えることがない。
ここまで笑いどころの多い落語もそう多くないね。


ひとり酒盛


引越してきた男、手伝いにきてくれた友人に「何もしなくていい」と言いながら、あれこれと仕事をさせる。ようやく落ち着いて酒でも飲もうかとなっても、なんだかんだと言いながら自分ひとりで飲んでばかり。ついに堪忍袋の緒が切れた友人が家を飛び出していく……。

この噺は、九割ほどはひとり語りで進んでいく。落語は基本的に会話の芸だが、これはほとんど「ひとり芝居」だ。それでもうまい人がやると他の人物の姿が見える。桂米朝さんの『ひとり酒盛』を聴いたことがあるが、ちゃんと友だちの存在が感じられた。
ここまでやるのならもうぜんぶひとりの台詞にしてしまったほうがおもしろいんじゃないかなと思う(容易にできるだろう)。


禍は下


網打ち(魚捕り)に行くと言って丁稚の定吉を連れて出かけた商家の旦那。向かった先はお妾さんの家。お妾さんの家に泊まることにした旦那は、定吉に「羽織と袴を持って帰って、途中の魚屋で買った魚をお土産として渡すように」と命じる。
ところが定吉が買って帰ったのはめざしとちりめんじゃことかまぼこ。お内儀さんに「こんな魚が捕れるわけがない」と言われるが、なんとかごまかす。ところが袴の畳み方がきれいだったためにお妾さんの家に行っていたことがばれ……。

「禍(わざわい)は下より起こる」ということわざがあるそうだ。わざわいは下々のことの過失から起きる、という意味だそうだ。あんまり納得のできないことわざだな。小さい過ちは現場のミスかもしれないけど、大きなわざわいはトップの方針の過ち、というケースが多いと思うんだけど。

めざしとちりめんじゃことかまぼこを買って「網にかかった魚です」というところはわかりやすくてよくできたギャグだ。
流れも自然でおもしろいし、知っている人に見つからないように提灯の家紋を隠す、魚捕りやお妾さんの家に行くのに羽織袴を着ている、なんて昔の風俗もちりばめられていて、いい噺だ。


テレスコ


肥前(長崎)で変わった魚が捕れた。めずらしい魚なので、誰もその名前を知らない。代官所が「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出すと、仁助という漁師が現れて「これはテレスコという魚です」と言うので十両を渡した。
後日、代官がその魚を天日干しにしたところ、元の姿とは似ても似つかぬ形になった。そこで「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出したところ、また仁助がやってきて「これはステレンキョウです」と言う。
同じ魚なのに違う名前で呼ぶとは代官所をだまして金をとるため、不届き千万ということであろうと仁助は捕まえられ、死罪を宣告される。最期に女房・子供に会いたいという仁助の願いが聞き入れられ、仁助が助かるように火物断ち(火の通った食べ物を断つこと)をして神仏にお祈りしているという女房がやってくる。そこで仁助は「子どもにイカの干したのをスルメと言わすな」と言い、それを聞いた代官が干せば名前が変わることもあると気づいて仁助は無罪放免……。

ずいぶん妙なタイトルだと思ったら、なるほどこういう噺ね。『ちりとてちん』と同じような趣向だね。
元は「イカの干したのをスルメと言わすな」でサゲていたのだが、それではわかりにくいということでこの形に変わったのだそうだ。「スルメと言わすな」のほうがスマートだけど、やっぱりその後の無罪放免となるところまでやったほうが断然いいね。「スルメと言わすな」で終わったら、仁助が打ち首になるかどうかわからなくてもやもやするから。


馬の尾


魚釣りにいこうとする男が、テグスにするために馬の尾の毛を抜く。それを見ていた友人が血相を変えて「馬の尾を抜くなんてなんてことをするんだ!」と騒ぎだした。不安になった男が「馬の尾を抜くとどうなるんだ」と尋ねるが、友人はとんでもないことをしたなと騒ぐばかり。酒や肴をごちそうしてなんとか聞きだそうとするが、友人はなかなか教えてくれず……。

特に何も起こらず、しかも聴いている人には早めに結末がわかってしまう。
個人的には、最後まで真相がわからず後味の悪さを残したほうがおもしろいと思う。落語っぽくはなくなるけど。


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2018年4月2日月曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉
芸道百般』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第七巻は、「芸道百般」。さまざまな芸能、芸事にかかわる落語集。いまや失われてしまった芸の中に、大道華やかなりし日本のいにしえを偲ぶことができる。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第七巻。

歌舞伎、浄瑠璃、講談などを扱った噺が多いが、芝居の台詞があたりまえのように引用されていたりするので昔の人にとっての一般教養だったんだな。今だと『となりのトトロ』や『STAR WARS』の台詞が特に説明なしで用いられてもだいたい通じるようなものかな。ま、ぼくは『STAR WARS』観たことないんだけど。


軒づけ


浄瑠璃の稽古に励む若者たち。自分たちの浄瑠璃を聴いてくれる人がいないので、軒づけをしようと考えた。ところがまともに三味線を弾けるものがおらず、どの家に行っても迷惑がられてばかり……。

「軒づけ」とは、一軒一軒家をまわって軒先で浄瑠璃を披露することだそうだ。今でいうストリートミュージシャンのようなものだね。でも駅前とかでやるストリートミュージシャンとちがって知らない人の家の前まで押しかけて浄瑠璃を聞かせるわけだから、昔の人は積極的だったんだなあ。今だったら警察呼ばれるな。

ありがたいことに「軒づけ」という迷惑千万な風習はもうなくなったけど、で、選挙カーはいつなくなるの?


花筏


大坂相撲の大関である花筏が病気で巡業に行けなくなった。そこで花筏に顔が似ており、身体も大きい提灯職人の徳さんが代役をすることになった。相撲はとらなくていいという条件で高砂巡業に行くことになった徳さん。はじめはばれないかとびくびくしていたが、徐々に気が大きくなり、さんざん飲み食いするわ、はては夜這いまでするわで、実は元気なのではないかと疑念を持たれるようになり、地元の力自慢である千鳥が浜との取り組みを組まされてしまった。
一方千鳥が浜は、花筏が自分を殺そうとしていると父親から聞かされてすっかり怖気づいてしまう。
わざと負けようとする花筏(徳さん)と、花筏に殺されると思いこんでいる千鳥が浜の対戦がいよいよ始まり……。

大正時代に消滅した大坂相撲にまつわる噺。昔の相撲は地方巡業に行くと、その土地の力自慢と対戦していたそうだ。地元の強いやつが大坂の強い力士を破ったりしたら盛り上がるだろうなあ。今もやったらおもしろいだろうけど、力士の大型化が進んでいる今では危険きわまりないだろうな。
徳さんにとって思いもよらぬ方向に転がる展開、徳さんと千鳥が浜それぞれの心中描写、ぐっと引きこまれ盛り上がるクライマックス、そして冒頭の提灯職人を活かしたサゲと、完成度の高い噺。


蔵丁稚


芝居好きの丁稚、仕事をサボって芝居を観にいっていたことが旦那にばれて、蔵に閉じこめられてしまう。腹が減った丁稚は気を紛らわすためにひとりで芝居をすることにし、切腹のシーンを再現する。蔵の中を覗いていた女中が丁稚が本当に切腹しようとしていると勘違いしてあわてて旦那に報告。旦那もあわてて蔵に駆けつける……。

娯楽の少なかった時代、芝居の魅力に憑りつかれる人は今よりずっと多かったのだろう。
なんか見たことあるようなエピソードだな、と思ったらあれだ。『ガラスの仮面』の1巻だ。ラーメンの配達に行った北島マヤが途中でお芝居ごっこにはまってしまい、帰るのが遅くなってめちゃくちゃ叱られるやつだ。あとマヤも少しドラマを観ただけで台詞を完璧に覚えられたしな。一緒だね。千の仮面を持つ丁稚。


七段目


芝居好きの若旦那、商売をほったらかして芝居見物ばかりに興じている。二階に閉じ込められてしまった若旦那は、やはり芝居好きの丁稚をつかまえて一緒に芝居ごっこをはじめる。夢中になるあまり丁稚が階段から転げ落ちてしまう……。

特にこれといったおもしろい展開もなく、ただ芝居ごっこをするだけ。芝居の元ネタを知らないと退屈な噺だ。


蛸芝居


とある商家、旦那はおろか番頭、丁稚、女中などみんなが芝居好きで、なにかというとすぐに芝居の真似事がはじまってしまう。やってきた魚屋も芝居に熱中してしまい、さらには買ってきたタコまでが芝居をはじめて……。

これも『蔵丁稚』や『七段目』と同じく「芝居好きの人物が芝居の真似事をしているうちに熱演してしまう」タイプの噺だが、ユニークなのは「一家そろって全員芝居好き」という点と「タコまでが芝居をはじめる」という後半のナンセンスさ。
どんな会話をしても芝居になってしまうという展開、ラーメンズのコント『映画好きの二人』を思いだした。


動物園


早起きはしなくてよく、重いものも持たず、責任もなく、人としゃべらず、ごろごろ昼寝をしているだけで金がもらえる仕事がしたいという男。持ちかけられたのは、死んだ虎の皮を着て移動動物園の檻の中にいるという仕事。
これは楽だと快適に過ごしていたら「ライオンと虎の対決ショー」が始まると聞いて大あわて……。

わりと有名なストーリーだが、それだけよくできた噺だからだろう。「死んだ虎の毛皮を着て人間が虎のふりをする」という実際にあってもおかしくなさそうな絶妙な設定や、ライオンと対決しなければならない緊張感、その緊張が一気にほぐれる秀逸なサゲまで、どこをとっても無駄がない。

「移動動物園」は今もあって家畜や小動物が中心だが、かつてはカバやゾウを連れて移動していたこともあったらしい。ゾウなんかトラックで運べたのかな。自分で歩かせていたのかもしれない。さすがにトラやライオンはないかな。


あくびの稽古


歌、踊り、浄瑠璃など何を習ってもうまくできず長続きしない男、「あくび」を教えてもらいにいくのでついてきてほしいと友人に頼みこむ。さまざまなシチュエーションでのあくびのしかたを教える先生、なかなかうまくできない男。付き添いで来た友人はすっかり退屈してしまいあくびをする……。

『あくび指南』とも。ロバートのコントってこういう設定が多いよね。変なスクールがあって、うさんくさい講師(秋山)が他のふたりに何の役にも立たないことを教える、っていう構成。


くしゃみ講釈


女と逢引きをしていたら講釈師に邪魔をされた男、仕返しをしてやろうと一計を案じる。胡椒をくすべてくしゃみをさせ、講釈をできないようにしてやろうというものだ。
ところが記憶力が悪いため「八百屋で胡椒を買う」ということが憶えられない。兄貴分は、のぞきからくりの演目『八百屋お七』に引っかけて憶えれば忘れないと説くが、男は八百屋まで行ったもののどうしても思いだすことができないため店先で『八百屋お七』を演じることになる。
胡椒が売り切れていたため、やはりくしゃみが出るという唐辛子を買ってきた男。講釈場に乗りこんでいって唐辛子を火鉢にふりかけると、はたして講釈師はくしゃみが止まらなくなる……。

逢引きを邪魔されるくだり、兄貴分から悪知恵を授かる会話シーン、八百屋に行ってくりひろげられるドタバタ、それぞれに笑いどころが多く、また『八百屋お七』や講釈の『難波戦記』を披露するシーンがあるなど、見どころの多い噺。これを演じるのはたいへんだろうなあ。
いかめしい講釈が続いた後にくしゃみの連発、という緊張と緩和も見事。よくできた噺なのだが、それだけにサゲがいまいち腑に落ちないのが残念。
サゲの直前で講釈師が「何か故障でもおありか?」と尋ねるのだが、これの意味が今ではまずわからない。「何かご不満でも?」という意味なのだそうだが、こんな用法他に聞いたことがない。かといって他の言い回しでは「故障」と「胡椒」を引っかけたサゲにつながらないしなあ……。
他のパターンもあるらしいが、どれもいまいち鮮やかに決まらないんだよね……。


蟇の油(がまのあぶら)


往来にて立て板に水の調子で演説を披露してがまの油を売っていた男、酒を飲んでべろべろになったところでもうひと稼ぎしようとするが、今度はろれつが回らずうまく話すことができない……。

まず見事なお手本を見せておいて、その後に失敗例を見せるという「オウム」パターン。
ただし『子ほめ』や『時うどん』のような「オウム」と違うのは、一回目と二回目を演じるのが同一人物という設定。
うーん、「いつもはうまい人が酔っているせいでうまくできない」だと「うっかり者が生半可な知識でやろうとしたせいでうまくできない」ほど笑いにつながりにくいな。「まあ酔ってるからしょうがないね」と思ってしまう。
かといって、この長くて流暢に並びたてる台詞を「一度聞いただけでやってみる」とするには無理があるしなあ。

本筋よりも、昔の大道芸について語ったマクラのほうがおもしろい。

 お客がぎーっちり立って、ここでおかしなこと言うてたら、折角ついた客が離れる。逃げるというときには、また足止めという手があって、客の足をピタッと釘づけにする方法がある。
「ちょっと言うとくけどな、懐中物気ィつけてや。ふところ、財布。こン中にスリが三人おるで。……うそやない、うそやない。長年ここで商売してんねん、わしのにらんだ眼に狂いはない。誰やちゅうことは言わんけど、スリが三人おる。手ェ組んで仕事してんねん。取られてから言うてきても知らんで、気ィつけや。スリが三人おるで、ええか。こういうて逃げた奴がそれや」
 ……ほな、皆動けんようになってしまう。もうボチボチあっちへ行こかいなあ思てても、今動いたらスリやと思われるさかい、しゃあないさかいほとぼりのさめるまで、阿呆みたいな顔してボーと、こう立ってんならんちゅうことになるんでっさかい。


軽業


伊勢参りの帰りにある村に立ち寄ったふたりの男。さまざまな出し物をやっていたので見物することに。「一間の大鼬(いたち)」や「天竺の孔雀」「目が三つ、歯が二本のタゲ」「取ったり見たり」といった見世物に金を払うが、どれもインチキばかり。
これなら騙されないだろうと軽業興行を見物。しかし軽業師が綱から墜落してしまう……。

軽業のくだりは視覚的に見せる部分なので、活字で読んでもさっぱりわからない。
前半の「ものものしい看板」と「ばかばかしい正体」の落差がおもしろい。詐欺なんだけどだまされたほうが思わず笑ってしまような商売も、昔はほんとにあったのかもしれないと思わせる魅力があるね。


看板の一(ぴん)


サイコロ賭博をしている若い衆が、金を持っているところからまきあげようと隠居の爺さんを連れてくる。爺さんが親をするが、サイコロが筒の外にこぼれ落ちていて一の目が丸見え。みんな一に張るが、爺さんは「これは看板の一だ」といってサイコロをふところにしまう。はたして出た目は五。「これに懲りたらしょうもないことを企むなよ」と言い残して立ち去る爺さん。
それを真似しようと考えた男、みんなを集めて同じ手で引っかけようとする。サイコロをこぼしたふりをして全員に一に賭けさせるところまではうまくいったが、筒をあけたら一が出てしまう……。

これは江戸落語を米朝さんが関西に輸入(?)した噺だそうだ。
前半で「ん? 看板の一を見せたところで当たる確率は六分の一のままでは?」と思ったのだが、やはり思ったとおりの展開に。
ということは爺さんは「看板の一」のほかにもうひとつトリックを使っていたんだろうな。むしろそっちのイカサマのほうがメインで、「看板の一」は本命のトリックから目をそらさせるためのミスリードだろう。
「だまされた!」と思ったら、まさかもうひとつもトリックがあるとは思わないもんな。じつに巧妙なやり口だ。どんな手を使ったかはわからないが。


抜け雀


流行らない宿屋にやってきた汚らしい身なりの客。毎日毎日酒を呑んでばかり。宿屋の主人が酒代の催促に行くと、実は金を持ってないことが判明。私は絵師なので代金の代わりに絵を描いてやろうといい、屏風に雀の絵を描いて立ち去ってしまう。
翌朝、屏風から雀が抜けでて飛んでいるところを見た宿屋の主人はびっくり。たちまち評判になり、この雀を見ようと大勢の客が押しかけるようになった。
しばらくして現れた老人が「このままだと雀はもうすぐ死ぬぞ」と言い、屏風に鳥籠を書きそえてやると雀たちは籠に入って休むようになった。
またしばらくして、雀の絵を描いた絵師が現れ……。

「名人の描いた絵から生き物が出てくる」というのは古今東西よくある怪異譚なんだけど(落語の『ぬの字鼠』もそうだね)、それだけで終わらせずに絵師が残した「ぜったいに売ってはいけない」という言葉やもうひとりの絵師による「この雀は死ぬぞ」という謎めいた言葉など、ミステリアスさを持続するアクセントが効いており、中盤以降は笑いどころがほとんどないのに聞き入ってしまう。

サゲの「親に籠(駕籠)を描かせた(舁かせた)」は『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』から来ているらしいが……、ま、今ではさっぱりわからんね。


一文笛


秀というスリが鮮やかな手口で財布を掏り、スリ仲間に自慢をする。足を洗って堅気になった兄貴に「わしは金を掏られて困るような相手を狙ったことはない。金に余裕のあるやつや悪人からしか掏ったことはない」とうそぶく。
ところが、兄貴から聞かされた話によると、秀が貧しい子どもに恵んでやるためにおもちゃの笛を掏ったことが原因で、その子が泥棒の疑いをかけられ、父親から厳しく責められたことを悲観して自ら井戸に飛びこみ、意識不明の重体だという。
自分のやったことが原因で子どもが危篤状態にあることを知った秀は、匕首で自分の右手の指を切り落とし、二度と盗みはやらないと誓う。
だが子どもを助けるためには高い金を払って入院させないといけないと知り、最後のスリだとして腕は確かだが強欲な医者から金を掏る……。

米朝さんがつくった落語。米朝さんといえば古典落語が多いので創作はめずらしいが、実によくできた噺だ。
意外性のある導入、鮮やかなスリの手口、スリでありながら魅力的な秀というキャラクター、子どもが危篤に陥りスリが自らの指を落とすというスリリングな展開、安易に悪事を讃えない倫理性、人情味のある終盤、そして全体の雰囲気を壊さないサゲ。落語の魅力がぜんぶ詰まったような噺だ。

「長屋の者が気がついてじきに引き上げた。息は吹き返したけど気がつかん、ずうと寝たきりや。おい、子供が可哀そうやと思うたら、たかだか五厘か一銭のおもちゃの笛、何で銭出して買うてやらんねん。それが盗人根性ちゅうのや。お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか。ええ、最前偉そうな事ぬかしたな。この金が無かったら困るような人の懐中はねらわん、それが何でお前にわかるねん。どんな恰好してようと、誰が持ってようと、その金がどんな事情のある金か、回りまわってどこの誰がどない迷惑するか、一ぺんでも考えたことあるのかい。生意気なほげた叩くな」

兄貴が秀にするこの説教、染みるなあ。特に「お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか」が。これ言われたら針のむしろだわ。これは歳を重ねてないとできない説教だ。

前半の「煙草入れを掏ることができなかったから売ってほしいと持ちかけてくるスリ」のくだりはめちゃくちゃ鮮やかだ。と思ったら講談の『仕立屋銀次』などから拝借したものらしい。
こういう、いいものはどんどん取り入れることができるのが落語の強みだよね。著作権の意識のない時代の芸能なので、いいものはどんどんパクる。

著作権がなければ文化の発展速度はめちゃくちゃ上がるだろうね。ある程度は保護したほうがいいけど、著作権は作者の死と同時に消滅するぐらいでいいんじゃないかな。


不動坊


長屋に住む利吉のもとに家主がやってきて、縁談を持ちかける。相手は講釈師・不動坊火焔の妻であるお滝。不動坊火焔が病気で死んでしまったので、葬式代などを立て替える代わりに嫁にもらうということで話がまとまった。
嫁がくるということで浮かれている利吉、銭湯に行って新婚生活の妄想にふけっているうちに、同じ長屋に住む独身男たちの悪口を言ってしまう。それを聞いていた独身男たち、利吉を脅かせてやろうといたずらを企てる。軽田道斎という講釈師をけしかけ、道斎に幽霊の恰好をさせて利吉の家の屋根に昇り、屋根の上からサラシで道斎を吊りおろす。
ところが利吉は幽霊に扮した道斎を見ても怖がらず、逆に道斎が金で買収されてしまう。さらにサラシが切れてしまい道斎が下に落ちて……。

前半は利吉の浮かれ具合が笑いを誘い、後半は独身男三人衆+軽田道斎のドタバタ劇が大笑いを生む。
嫁さんが来ることで舞いあがる利吉、嫉妬から嫌がらせをしようとする男たち、自分をふった女に仕返ししようとするも金に目がくらんでしまう講釈師、それぞれの人間くささが出ていて楽しい。


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2018年3月23日金曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』


『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉
事件発生』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第六巻は、「事件発生」。すわ事件発生!日常に波紋がおこったその時こそ、本当の人間の姿が現れるものだ。そこに起きるさまざまな人間模様。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第六巻。
かたき討ち、死体遺棄、喧嘩、事故死などショッキングな出来事を扱った噺を集めている。
ミステリやサスペンスの要素もあり、展開自体に引きこまれる噺が多い。その分笑いは少ないことが多いけど。

死を扱った噺は多いけど、殺人が描かれる噺は意外と少ない。
この巻に収録されているものでいうと、『らくだ』『ふたなり』は事故死、『宿屋仇』『阿弥陀池』は会話内で殺人事件が語られるが後に嘘だと判明、『百人坊主』で語られる死も嘘、『土橋萬歳』も殺人の夢……ということで殺人シーンがあるのは『算段の平兵衛』だけ(それも厳密には殺人じゃなくて傷害致死だけど)。
今よりもっとモラルがゆるかったであろう時代においても、やはり人殺しというテーマを笑いに変えるのは難しかったんだろうね。


らくだ


「らくだ」というあだ名の男が死んでいるのを友人の熊五郎が発見する。たまたま通りかかった紙屑屋をつかまえ、らくだの葬式の準備をするために奮闘させる。生前評判の悪かったらくだのために金を出すことを誰もが渋るが、熊五郎は「協力しないなら死体にかんかん踊りを踊らせる」と脅し、それでも拒む家には実際に死体を持っていってかんかん踊りを踊らせる。葬儀の準備は整ったが、酒を飲んでいるうちに紙屑屋の様子が豹変し……。

落語の数多ある噺の中でも『らくだ』は屈指の名作だとぼくは思っている。
なんといっても見事なのがオープニング。「主人公が死んでいる」というショッキングな幕開け。これで一気に引きこまれる。
『幽☆遊☆白書』の第一話で主人公が死ぬが、それよりもっと早い。死んだ状態で登場する。これだけセンセーショナルなオープニングの物語は古今東西そうないだろう。

らくだは一切口を聞かないが(死んでるからね)、それでも『らくだ』における主人公はやっぱりらくだだ。長屋の連中の口から語られるらくだの悪評を聞いているうちに、落語の聞き手の中にもありありとらくだのイメージができあがる。

「主人公らしき人物が一切姿を現さない」タイプの物語は他にもサミュエル・ベケットの戯曲『ゴドーを待ちながら』や、朝井リョウの小説『桐島、部活やめるってよ』などがあるが、『らくだ』ほど活き活きとしたキャラクターはそういないだろう。死んでるのに活き活きとしてるってのも変だけど。

また、もうひとりの主人公である紙屑屋も魅力的だ。はじめは熊五郎におびえておろおろしているだけだった紙屑屋が、徐々に度胸がついてきて、酒の勢いも手伝って熊五郎に指示を出すまでになる。さらには紙屑屋の家族のことや日頃抱えている思いも吐露されてゆく……という何とも情念たっぷりの噺になっている。

元のストーリーでは後半は展開が大きく変わる上に笑いどころが減るため最後まで演じられることは少ないらしい(この本でも途中までしか収録されていない)が、中盤まででも十分完成度の高い名作。


宿屋仇


侍が宿屋に泊まり、静かな部屋を用意してほしいと頼む。ところが隣の部屋に兵庫県から伊勢参りをしてきた帰りの三人がやってきてどんちゃん騒ぎ。注意をするといったんはおとなしくなるが、また相撲をとったり歌を唄ったり、すぐにやかましくなる。中のひとりが「かつて武士の妻と関係を持ち、その後女と義弟を殺して逃げた」という武勇伝を披露すると、それを隣室で聞いていた侍が「その男こそ私の妻と弟を殺した仇。明日、かたき討ちをしたい」と宿屋の主人に告げる……。

ほとんどの人にはオチはわかるだろうが、それでも最後まで聞かせるのは演者の腕。場面の入れ替わりも多いし、これを演じるのはむずかしそうだ。

落語は町人のものだから、武士が出てくる噺はあまり多くない。特に上方落語には。また、出てきても悪役が多い。
ところがこの噺の侍は隣の客に迷惑をかけられるかわいそうな存在であり、また茶目っ気も持ち合わせている。これは貴重な武士の活躍する噺。


どうらんの幸助


酒も芝居も一切たしなまず、喧嘩を仲裁して酒をごちそうすることだけが唯一の楽しみである「どうらんの幸助」。幸助を見かけた二人の男が狂言喧嘩をして酒をごちそうになろうと企て、幸助に酒をおごってもらう。
後日、浄瑠璃の嫁いじめのシーンを見た幸助、それが芝居だとは知らずに仲裁しようと飛びこむ。これは京都の話だと聞いた幸助は船に乗って、大阪から京都までやってくる……。

幸助が「大阪から京都まで鉄道が走っているが、鉄道は苦手なので船で行く」というくだりが、サゲへの伏線になっている。米朝さんはこう解説している。

 この噺は京阪間に汽車が開通したのが明治十年二月、それから以後も大分長い間三十石船が淀川を上り下りしてましたが、その両者を共存していた時の噺として、時代設定が非常に限られる噺です。三十石は次第に廃れて行っていつとはなしに無くなったものらしく、何年何月をもって廃止、と言えないのですが、明治二十年ごろまではあったようです。荷物専用としてはもっと後年まであったと思います。

解説を読むと、この噺に限らず米朝さんは時代考証をよく考えて話していることがわかる。駕籠が人力車に変わったのはいつか、とか、明治初期のお金の価値はいくらか、とか。
こういう細部の整合性の積み重ねが、大きなほらに説得力を持たせるんだろうなあ。


算段の平兵衛


ややこしい問題をうまく処理してくれる「算段の平兵衛」という男がいる。
村の庄屋がお妾さんの扱いに困り、算段の平兵衛の嫁として押しつける。平兵衛は嫁の持参金で酒を飲んだり博打をしたり。金に困った平兵衛は嫁と共謀してて美人局で庄屋から金を脅しとろうと企てるが、うっかり庄屋を殺してしまう。
庄屋の死体を家まで連れていき、自殺に見せかけて木に吊るす。夫が自殺したと思った妻は、自殺を隠すため平兵衛に金を渡して死体の処理を依頼する。
平兵衛は隣村へ庄屋の死体を連れていき、盆踊りの練習をしているところへ放置。隣村の連中は自分たちが庄屋を殺してしまったと思い、死体の処理を平兵衛に相談。平兵衛は隣村から金を受け取り、事故に見せかけて庄屋の死体を崖から突き落とす。
大金を手にした平兵衛は羽振りがよくなるが、そこに盲人の按摩師がやってきて、どうも何かを知っているらしい様子で金を貸してほしいとせまる……。

落語としては異色の、陰湿な悪党の噺。
美人局でゆすりを企て、人を殺し、自殺に偽装し、被害者の遺族から金をだましとり、隣村からもだましとり、あげく死体を崖から突き落とすという、数ある落語の噺の中でのトップクラスの悪党だろう。

だが陰湿な悪党であるにもかかわらず、算段の平兵衛はなんとも魅力的な人物として浮かんでくる。しゃべりが達者、頭が切れる、(金儲けのためとはいえ)他人のために尽くす。決して嫌な人物ではない。
また、死体をあちこち動かしてはいるが実際は殺したのはひとりだけだし、そのひとりも故意に殺したわけではない。罪状は殺人ではなく、傷害致死+死体遺棄だ(あと脅迫や詐欺もつくかも)。
魅力的な悪役、ということでピカレスクものとしても成功しているように思う。

最後に平兵衛が逆に脅迫されるくだりもおもしろいのだが、実際はそこまで演じることは少ないそうだ。ラストまでやると「盲蛇に怖じず」という差別的なことわざに引っかけたサゲがついてくるわけで、今の時代には厳しいだろうなあ。

ところで「死体の処理に困ってあちこちに動かす」というのは、ミステリの一ジャンルといってもいいぐらいの定番のパターンだが、「死体を抱えて右往左往する犯人」というのは妙におかしい。古畑任三郎でもよくあった。犯人にしたら真剣そのものなんだけど、傍から見ているとコメディそのものなんだよね。

ところで、「死体を抱えて右往左往」ものの最高傑作は星新一の短篇コメディ『死体ばんざい』だろう(『なりそこない王子』に収録)。
通常は死体の処分に困るのだが、『死体ばんざい』はその逆。いろんな人物がそれぞれの事情で死体を欲しがって奮闘するという話で、これを落語化したらすごくおもしろいんじゃないだろうか。


次の御用日


商家の丁稚である常吉が、家のお嬢さんであるお糸のお供で出かける。道中、天王寺屋藤吉という大男がすれちがい様に奇声を上げてお糸を驚かせ、お糸はショックのあまり気絶して記憶喪失になってしまう。
店の主人は御番所に届け出て、常吉や藤吉は奉行所に呼ばれる。奉行所は事実確認のために何度も奇声を発し……。

ということで、後半はただ「奇声を上げつづける」というだけのぼんちおさむのような落語。これは活字で読んでもぜんぜんおもしろくない。聴いても、はたしておもしろいのかどうか……。


佐々木裁き


西町奉行である佐々木信濃守が市中を歩いていると、子どもたちが奉行所ごっこをしているところに出くわす。
四郎吉という少年が佐々木信濃守を名乗り、鮮やかな裁きを披露しているのを見た佐々木信濃守は、四郎吉に奉行所に来るように命じる。今の奉行所や与力について問答をすると、四郎吉はずばずばと皮肉を込めて汚職が蔓延していることを批判する……。

『佐々木政談』とも。
四郎吉少年の設定にちょっと無理があるように感じる。あまりに利発すぎるというか、受け答えがうますぎる。そのくせお奉行様に対して少しも遠慮しない天真爛漫さも持っていて、キャラクター造詣が都合よすぎる。十三歳という設定だが、江戸時代の町人の家の十三歳といえばもうほとんど大人だろう。利発な子であればなおさら、もう少し遠慮があると思うのだが。
感心させる内容で、落語よりも講談のような噺。


百人坊主


毎年庄屋さんが村の若い衆を連れて伊勢参りに行っていたが、毎回喧嘩が起こるので今年はもうやめたという庄屋さん。若い衆は連れていってもらいたい一心で「腹を立てたら罰金を払った上に村を追放されても文句を言わない」という約束をする。
「腹立てん講」という旗を立てて伊勢参りに出かけた一同。道中、ふかの源太という男がみんなの分の酒を飲んでしまい、周囲から文句を言われると「腹を立てるのか。腹を立てたら追放だぞ」と居直る始末。
おもしろくない連中は源太が寝ているすきに源太の髪の毛を剃ってしまう。目を覚ました源太は髪を剃られたことに気づくが「腹を立てたら追放だぞ」と言われて何も言えない。
源太は「坊主が伊勢参りに行くとお伊勢さんが気を悪くするから」と言ってひとりだけ先に帰り、村人たちに「船が沈んで自分以外は全員死んでしまった。弔いのために髪を剃ったのだ」と説明する。源太の嘘を真に受けた女房連中は夫の死を悼み、尼になるといって自分たちも髪を剃ってしまう。
帰ってきた男たちは驚くが、それならいっそということで全員髪を剃って坊主にしてしまう。他の村人たちもみんな髪を剃り、坊主だらけの村になる……。

元は狂言の話だそうだ。子どもの頃、『日本わらい話』みたいな本で読んだことがある。「夫が死んだという嘘を真に受けた女房たちが尼になるために髪を剃る」の何がおもしろいんだという感じだが……。しゃれにならん嘘だろ。
江戸落語では女房衆が坊主頭になるところで終わるそうだが、それではあまりに後味が悪い。その後大笑いしてみんなで坊主になる上方版のほうがまだ収まりがいい。


ふたなり


村人たちから預かった十両で地引網を買いにいったふたりの男、遊郭で金を遣いこんでしまい、おやっさんのところに相談にくる。おやっさんはなんとかしてやろうと隣村に金策に行くが、その途中で若い女と出会う。聞くと、ある男と恋に落ちてお腹に子ができたので駆け落ちをしようとしたのだが、途中で男が逃げてしまったので首を吊って死のうとしているのだいう。はじめは止めようとしていたおやっさんだが、女が十両を持っていると聞くと態度を変え、やっぱり死んだほうがいいと言う。首の吊り方の手本を見せていると、うっかり自分が首を吊って死んでしまった。女は持っていた遺書をおやっさんのふところに入れて立ち去る。
翌朝、おやっさんの死体が発見されて息子が役人の取り調べを受けるが、おやっさんのふところから「懐妊したので死にます」と書いた遺書が見つかり……。

ふたなりとは両性具有のことだが、上にも書いたようにストーリーのほとんどはふたなりとは関係がない。若い衆の前では強がっているが実は怖がり、女の自殺を止めようとするものの大金を持っていることがわかったとたんに態度を変えるというおやっさんの多面性こそが「ふたなり」なのかもしれない(いやこじつけが過ぎるな)。

ところで1両というお金は現代の価値でいうと10~30万円ぐらいと言われているが、そう考えると『ふたなり』に出てくる十両(100~300万円)はすごくリアルな金額だ。
「ふたりの若い男が数日間遊郭で豪遊して使う金額」「遣いこんだら村から追いだされるかもしれない金額」「そこそこの家の女が駆け落ちしたときに持っている金額」「その金のために人を殺すほどではないけど自殺を止めるのを躊躇するぐらいの金額」として、ちょうどいい数字だなあ。


阿弥陀池


隠居が男に「おまえは新聞を読まないから世の中のことを知らない。新聞を読まないといけない」と説教をする。「こないだ新聞にこんなことが載っていた……」と話をするので男は真に受けるが、隠居の話はことごとく洒落につなげるための嘘ばかり。
だまされて悔しい男は同じ手で他の人をひっかけようとするが、説明が下手でしどろもどろに。しまいには嘘をつくなと怒られ……。

落語には「オウム」と呼ばれるパターンがある。ある人物が手本を見せ、間の抜けた人物がそれを真似しようとするがうまくいかない……というパターン。『子ほめ』『時うどん』など、入門的な落語に多い。
『阿弥陀池』もオウムパターンだが、少し異色なのは手本の部分がすでに笑いどころになっているところ。前半でそこそこ笑いが起き、後半はそれをベースにギャグが畳みかけられる、というなかなか見事な構成。


土橋萬歳


遊びが過ぎて謹慎を命じられた商家の若旦那。見張りの丁稚を買収してこっそり抜け出し、お座敷に出かける。
知り合いの葬式に出た後、若旦那が遊びに出かけたことを察した番頭は若旦那のいる料理屋に行って戻るように説得するが、居直った若旦那から「恥をかかせやがって」と階段から突き落とされてしまう。
しばらくして若旦那や芸者衆が出かけると、追いはぎが現れ、芸者や幇間は若旦那を置いて逃げてしまう。改心するよう説得する番頭だが、若旦那は聞き入れず、番頭を殴りつける。番頭はいよいよ覚悟を決め「若旦那を生かしていては店のためにならない。若旦那を殺して自分も死ぬ」と、持っていた短刀で若旦那を突き刺し……。
というところで目が覚める。すべては若旦那と番頭が同時に見た夢だったのだ。そこで若旦那はやっと番頭の気持ちを理解し、今後は商売に励むと誓う……。

米朝さんも書いているが、今聞くと理解に苦しむ噺。「店のことを思うあまり放蕩の若旦那を殺して自分も死ぬ」だなんて、現代人の感覚ではまったく理解できない。
また、夢オチ(オチではないが)を使っているなど都合の良い面もあるが、話の流れは不自然にならないようによく工夫されている。番頭があれこれ説得するが何を言っても響かない、若旦那に階段から突き落とされたり殴られたりする、うっかり刀に手を置いてしまったところを若旦那から「殺せるものなら殺してみろ」と挑発される、など忠義を持った番頭が殺人に至るまでの動機づけが丁寧に描かれている。
特に、帯刀が許されなかった時代の刃傷沙汰を描くために「葬式帰り」という設定を用意しているのは見事(当時の葬式には参列者が腰に短刀を差す「葬礼差し」という習慣があったそうだ)。


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