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2024年3月19日火曜日

【読書感想文】佐々木 実『竹中平蔵 市場と権力  ~「改革」に憑かれた経済学者の肖像~』 / ホラーよりおそろしい

竹中平蔵 市場と権力

「改革」に憑かれた経済学者の肖像

佐々木 実

内容(e-honより)
この国を超格差社会に変えてしまったのはこの男だった!経済学者、国会議員、企業経営者の顔を使い分け、「日本の構造改革」を20年にわたり推し進めてきた“剛腕”竹中平蔵。猛烈な野心と虚実相半ばする人生を、徹底した取材で描き切る、大宅壮一ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞ダブル受賞の評伝。


 何者なんだかよくわからないけど、とにかくネット上ではめったらやったら嫌われている人・竹中平蔵。そのわりに一部の政治家や財界人からはものすごく重用されている(らしい)人。

 ぼくの中では二十数年前に小泉純一郎がやっていた行政改革の旗振り役、のイメージが強い。その後はパソナグループなどで要職をまかされて、ときどき経済系のメディアに出てきて何かしらの提言をしている。そしてそのたびに猛反発を受けている。なんなら「日本を悪くしたA級戦犯」ぐらいに語られることもめずらしくない。もはやヒットラーと並ぶぐらいに「この人の悪口を言っても擁護する人がいない」存在だ。

 でも、竹中平蔵という人が何をしたのか、ぼくはほとんど知らない。どんな人間なのかもまるでわからない。メディアで語っているところは何度か見たことあるが、常に余裕をたたえた笑みを浮かべていて、本心のところで何を考えているのか、何に怒りを感じるのか、何を目指しているのか、そういったところがまるで見えない。

 一言でいえば、得体が知れない人だ。




『竹中平蔵 市場と権力』は、そんな竹中平蔵氏の評伝だ。評伝といっても著者は竹中氏に批判的なスタンス。本人へのインタビューなどもない。過去の言動、著作、そして周囲の人の談話から竹中平蔵という人の姿を描きだす。


 読んでいてまずおもうのは、竹中平蔵という人はすごく優秀な人なんだということ。

 頭が良くて、勤勉で、時流を読むのがうまく、人に取り入るのもうまい。「部下にしたいタイプ」だ。だからこそ小泉政権や安倍政権で重用されたのだろうし、様々な企業でも重要なポストを与えられたのだろう。

 官僚経験のある香西は早くから竹中の資質を見抜いていた。竹中がエコノミスト賞を受賞した際に寄せた祝辞のなかで的確な竹中論を開陳している。
 「研究者としての才能にもう一つ付け加わるのが、『仕掛け人』『オルガナイザー』『エディター』としての腕前ではないだろうか。人のよい私など、氏の巧みな誘いに乗せられて、感心しているあいだに仕事は氏の方でさっさと処理していてくれたという経験が、何度かある。この才能は、あるいは大蔵省で長富現日銀政策委員(筆者注長富祐一郎の当時の役職)などの薫陶をえて、さらに磨きがかかったものかもしれない。これは学者、研究者、評論家には希少資源であり、しかも経済分析が現実との接触を保ちつづけていく上で、貴重な資源である」

 部下にはしたい。が、同僚や上司だったら嫌なタイプだろうなともおもう。

 打算的で、他人に厳しく、権力者にとりいるのはうまいが重要でないとみなした人間に対してはとことん冷酷。目的のためなら他人を貶めることも躊躇しない。そんな印象を受ける。

 コネも権力もないところから己の才覚と努力で成りあがった人で、典型的な新自由主義者タイプだ。

「おれは恵まれない境遇から努力して今の地位を築いた。だからどんな境遇でもやればできる。できないのはやらなかったからだ。今あなたが貧しいのは努力をしなかったからだから、悪い境遇に陥るのもしかたない」というタイプ。謙虚でない成功者に多いタイプだ。

 こういうクレバーな人はビジネスマンとしては優秀だが、弱者への共感が欠けている。「どんなにがんばっても成功できない人」もいるし、「成功した人は運に恵まれていた」ということを認めたがらない。この手の人には政治家にはなってほしくない。というか政治に関わらないでほしい。どうか政治とは距離を置いて、せいぜい金儲けに勤しんでほしい。でもこういう人ほど政治に近づきたくなるんだよね。そっちのほうが儲かるから。努力をするよりもルールをねじまげちゃうほうがずっと楽だから。




 竹中平蔵という人は、よく言えば目端が利く人、悪く言えば小ずるい人である。

 シンクタンクにかかわる以前から、資産形成に対する努力には並々ならぬものがあった。九〇年代前半、アメリカと日本を股にかけて生活していた四年間、竹中は住民税を支払っていなかった。
 地方自治体は市民税や都道府県税といった地方税を、一月一日時点で住民登録している住民から徴収する。したがって、一月一日時点でどこにも住民登録されていなければ、住民税は支払わなくて済む。
 竹中はここに目をつけ、住民登録を抹消しては再登録する操作を繰り返した。一月日時点で住民登録が抹消されていれば、住民税を払わなくて済むからである。小泉内閣の閣僚になってから、住民税不払いが脱税にあたるのではないかと国会でも追及された。アメリカでも生活していたから脱税とはいえないけれども、しかし、住民税回避のために住民登録の抹消と再登録を繰り返す手法はきわめて異例だ。

『竹中平蔵 市場と権力』ではこの手のエピソードが何度も紹介されている。

 法律では裁かれないけど、決して公正とは言えない行為。そういうことをためらいなくできちゃう人なのだ。

 ことわっておくが、こういう人は決してめずらしくない。世の中にはたくさんいる。

「無料でどうぞと書いてあったから使う分以上に持って帰った」
「デパートの試食コーナーをうろうろして買う気もないのにおなかをふくらます」
「国会議員に毎月100万円支給される文通費は領収書不要なので生活費に使う」
「官房機密費は使い道を明らかにしなくていいから票を買うのに使う」
みたいな小悪党のマインドだ。いわゆるフリーライダー。

 こういうあさましい気持ちは、おそらく誰の心の中にも多かれ少なかれ存在する。もちろんぼくだって「払わなくて済むなら払いたくない」という気持ちは持っている。ふるさと納税なんて制度自体がそういう制度だ。

 ただ、竹中平蔵という人はその気持ちが人より強く、さらにばれても「法的には(ぎりぎり)裁けないじゃないか」と開き直れる人なのだ。さらに発言をひっくりかえすことにもためらいがない。

 くりかえし書くが、こういう人はめずらしくない。どこの町にもどこの職場にもいる。近くにいたら「あの人ちょっと厚かましいよね」ぐらいの存在だ。


 問題は、その人がふつうの人よりずっと賢く、ずっと権力者にとりいるのがうまく、ずっと野心的で、大きな権力を手にしてしまったことだ。

「ちょっと厚かましいおじさん」に権力を渡してしまったら、国中の貧富の差が大きく拡大し、多くの人が首をくくるような社会になってしまった。そんな感じだ。つくづく政治というのはおそろしい。




 竹中さんという人は、ほれぼれするほど世渡りがうまい。スネ夫もかなわないほど。

 森政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる態勢を整えていた。小泉政権発足とともに入閣した竹中は、小泉の「サプライズ人事」で突然登場してきた「学者大臣」という受けとめ方をされたけれども、実態は違っていたのである。

 森喜朗が首相だったとき、森首相のブレーンでありながら、次期首相と名高い小泉純一郎に近づき、さらに政権交代した場合にそなえて民主党の鳩山由紀夫にも接近していた。すごい。誰が政権をとってもそこに食い込む計算になっていたわけだ。

 節操がないけど、この節操のなさこそが最大の武器なんだろうな。




 以前、橋下徹『政権奪取論 強い野党の作り方』という本を読んで、橋下徹という政治家の、思想のなさに驚いた。

 彼はその本でこう書いていた。

 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。

 思想や理念は二の次で、まずは組織を固めて政権をとることだと書いている。「こうしたい」「こんな世の中にはなってほしくない」というビジョンがあってそのために政治家を目指すものかとおもっていたが、彼は逆で、まず権力を手に入れてからそれをどう行使するかを考える。

 その空虚さに良くも悪くも空恐ろしさを感じたものだが、竹中平蔵という人は橋下徹とはまたべつのタイプのおそろしさがある。

 政治家としての思想は軽薄でも、橋下徹という人物には人間味がある。好き嫌いが激しいし、ユーモアもある。反論されてむきになりやすいのは弱点でもあるが、その欠点こそが彼の魅力でもある。言ってみれば子どもっぽい。だからこそテレビでも登用されるのだろう。ぼくも、政策的にはまったく賛同できないが、テレビタレントとしての橋下徹はけっこう好きだ。


 その点、竹中平蔵氏は橋下徹の子どもっぽさを取り除いたような成熟した恐ろしさがある(童顔だから余計にギャップが大きくて怖い)。

 もっと冷徹に、もっとしたたかに、どれだけ時間をかけてもじっくりチャンスを待つタイプ。

 行動の目的も、「金持ちになりたい」とか「名を残したい」とかのわかりやすいものではない気がする。もちろん「国や地域をよくしたい」ではない。何かもっと大きな目的のために動いてる、いや動かされてるんじゃないか、という気さえしてくる。権力は好きだけど、それ自体が目的というわけでもなさそうだし(大臣にまでなったのに政治家の道をあっさり捨ててしまうところとか)。

 ぜんぜん根拠はないけど、何かに対する恨みとか憎悪が根底にあるのかな……。とにかく、説明のしようのない恐ろしさが終始漂ってるんだよね。竹中平蔵氏の行動には。




 竹中平蔵という人物のことがわかるようになるかとおもってこの本を読んでみたけど、結局よくわからなかった。むしろ底知れなさは深まったかもしれない。ま、ぼくの経済の知識が乏しくて専門的な話がまるでわからなかったってのもあるけど。

 なんかへたなホラーよりこわかったな。じんわりと。


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2024年3月8日金曜日

【読書感想文】藤原 辰史『給食の歴史』 / 今も昔もとんちんかん議員はいる

給食の歴史

藤原 辰史

内容(e-honより)
学校で毎日のように口にしてきた給食。楽しかった人も、苦痛の時間だった人もいるはず。子どもの味覚に対する権力行使ともいえる側面と、未来へ命をつなぎ新しい教育を模索する側面。給食は、明暗が交錯する「舞台」である。貧困、災害、運動、教育、世界という五つの視覚から知られざる歴史に迫り、今後の可能性を探る。


 戦前から現在に至るまでの給食の歴史について書かれた本。

 以上の簡単な整理からも分かるとおり、給食とは実に多面的な分野を往来する魅力的かつ複雑な現象である。政治史、経済史、農業史、災害史、科学史、社会史、教育史、運動史。さまざまな歴史分野の統合によって初めて全体像が明らかになると言えるだろう。

 子どものころはあたりまえのように給食を食べていて「あって当然」のものだった。現在、公立小学校の給食実施率は99%だそうだ。残りの1%は生徒数数人の学校とかかな。

 だが、その歴史をたどると、給食は決してあたりまえのものではなかった。

 明治時代は「金がなくて弁当がないから学校に行かない」という子が多かったため、給食が導入されるようになった。就学率を上げるために給食が導入されたわけだ。当時は食うや食わずの子どもも多かっただろうから「学校に行けばごはんが食べられる」というのはだいぶ魅力的なご褒美だったことだろう。言ってみればログインボーナスだ。


 そんなふうにしてはじまった給食だが、何度も廃止の危機に瀕しているそうだ。戦中・戦後の物資不足、アメリカによる占領が解かれて援助がなくなったことによる資金不足などの経済的事情に加え、「みんなに同じものを食わせるなんて社会主義的だ」と反対する議員がいたり、「本来弁当をつくるはずの母親が楽をしたいからだ。給食は親子の愛情を阻害する」なんてピントはずれの批判をする議員がいたりしたらしい。昔も今も、何もわかっちゃいないじいさんが法律を作っていたのだ。




 給食は政治の影響も大きく受けた。

 占領後、MSA協定からPL480にいたるまでの日米外交は、給食の意味合いを大きく変えた。目の前の外貨獲得、経済復興、飢えからの解放という喫緊の課題の裏で、アメリカは日本を食糧輸出先として自国のお得意先にし、あわせて共産主義の防壁にしようとした。この意図を、サムスはしっかりと受け取っていた。アメリカは給食を一つの道具として、国防と食糧の二方面から日本人の「安全」を左右できる力を握ろうとしたのである。 
 この結果、日本国内で麦の市場開拓とともに米食批判の勢いが増す。すでに述べたようにサムスは日本の米食文化に疑問を抱いていた。「日本人は占領開始の七五年も前に、すでに彼らの栄養摂取のパターンを決めてしまっていたが(明治に入っても米穀中心のパターンを変えなかったこと)、これは誤っていた」(サムス『GHQサムス准将の改革』)と断言している。そして、自分の政策を「日本のような大人口を食べさせるのに必要な食糧の量を決定する伝統的方法をくつがえすこと」だと評価し、根拠を下記の調査に求めている。「調査の結果、日本人の食生活における栄養摂取パターンは炭水化物が多すぎ、タンパク質、カルシウム、ビタミンが不足」しており、「農村の人々は穀物の入手が容易であったため、穀物消費量が多かった」(同右)。
 厚生省の大礒も同じである。「当初よりのアメリカ側の陰謀で、余った小麦を売りつける手段に使ったのだとさも知ったような言辞を弄する者が現われたが、これは全くの​噓」​だと語気を強めている(大礒『混迷』)。彼は、「米飯と味汁」というサムスの最初の提案が崩れたことを強調して、サムスに市場開拓の意図がなかったと弁護している。
 大礒にとって、日本の食事の欠点は、あまりにも一時に大量の白米を食べすぎること、副食の入る余地がないこと、そして、栄養素が欠けやすいことであった。「日本人の体格が国際的にみて劣っており、体力の面でも到底彼らの比ではないとか、病気にも罹りやすく、寿命も短く、乳児・幼児の死亡率もかなり高いという悩み」がずっと彼を支配していたのである(同右)。

 アメリカは敗戦国である日本に対して支援をしながらも「自国の余剰食糧を買ってもらいたい」「小麦や乳製品などの輸出を増やすために日本の食文化を欧米化したい」といった政治的意図に基づいて、給食に対する要求を出している(もっと単純に、自分たちの食生活こそが最良だという思い込みもあっただろう)。

 今でこそ米飯給食が増えたらしいが、ぼくが子どものころなんて米飯は月一、二回で、ほとんどはまずいパンだった。牛乳も不人気だったし(体質的に飲めない子もいるのにあれを強制するのはひどいよなあ)。政治的な理由もあったんだろうなあ。




 給食のメリットは数あれど、昔も今もトップクラスに重要なのが貧困対策だ。

 現在でも、学校給食が唯一の良質な食事である家庭は少なくない。「小学校教諭の友人から、クラス内に六人、給食で飢えをしのぐ子がいると聞きました。夏休みが明けるとガリガリになっているそうです」と伝える京都の三〇代女性もいれば、「小学校で給食を作る仕事をしていました。朝ご飯を食べずに学校へ来て、夕飯は菓子パンを食べるだけ、給食だけが唯一きちんとした食事だという子どもがいました」と答えたのは、千葉県に住む四〇代女性の調理員である。

 世襲議員や、官僚や大企業出身の議員にはこういう事情はなかなか見えないだろうなあ。

 だから「給食は親子の愛情を阻害する」なんてとんちんかんなことを言ってしまうのだ。




 たぶん、給食制度に反対する人は今ではほとんどいないだろう。

 じっさい、給食はありがたい。経済的な理由や、「各家庭の親が弁当を作らなくていい」という時間的な理由はもちろん、プロの栄養士が考えたバランスのよい食事をすることができる、季節の食材や地元の食材にふれる食育ができる、家族以外の人と食事をすることにより食事マナーを身につけられる、給食当番をすることで配膳などを学べる……。そしてなにより、みんなで同じものを食べるのは楽しい。

 うちなんか共働きなので夏休みや冬休みでも給食だけは実施してほしいぐらいだ(倍の値段になってもいいからやってほしい。そうおもっている家庭は多いだろう)。


 2020年頃、コロナ禍で「給食のときはそれぞれ前を向いてだまって食べること」というお達しが下された。うちの子は「だまって食べないといけないからつまんない」と言っていた。そりゃあそうだろう。本来なら給食なんて日々の学校生活のなかでも一、二を争うほど楽しいイベントなのに、それが無味乾燥なものに変えられてしまったのだから(ついでにコロナ禍では休み時間の遊びなども制限されてて、ほんとに気の毒だった)。


 もちろん嫌いなものを強制されたり、食べきれない子が居残りさせられたりといった“苦い記憶”はあるだろうけど、それはおおむね制度運用側の問題(というか教師の問題)であって、制度自体が悪いわけではない。

 そんな給食制度も、決してあたりまえのものではなく、先人たちの努力、給食をなくそうとする連中に対する闘いの結果として今存在するのだということを改めて知った。


 そういえば。

『となりのトトロ』で、サツキが「今日から私、お弁当よ」と言うセリフがある。お弁当を作るのを忘れていたお父さんに代わって、サツキがお弁当を作っているのだ。
(それも残り物ではなく、朝から七輪で魚を焼いたりしている。さらに弁当とは別に味噌汁など朝食も作っている。とんでもない小学生だ)

 あれはサツキがとんでもなくしっかり者だったからなんとかなったけど、そうじゃなかったら「学校に遅れる(あるいは行かない)」か「弁当を持って行かずに他の子らが弁当を食べているときに我慢する」しかないわけだ。

 戦争で両親のいない子も多かっただろうし、貧しい家も多いし、今のようにコンビニも冷凍食品もお惣菜屋もない時代、お弁当を用意するというのはたいへんな苦労だったにちがいない。

 給食があればサツキの負担もだいぶ軽減されただろうになあ。


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国民給食

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2024年3月7日木曜日

【読書感想文】奥田 英朗『コロナと潜水服』 / 本だからこそかける偏見

コロナと潜水服

奥田 英朗

内容(e-honより)
早期退職を拒み、工場の警備員へと異動させられた家電メーカーの中高年社員たち。そこにはなぜかボクシング用品が揃っていた―。(「ファイトクラブ」)五歳の息子には、新型コロナウイルスを感知する能力があるらしい。我が子を信じ、奇妙な自主隔離生活を始めるパパの身に起こる顛末とは?(表題作)ほか“ささやかな奇跡”に、人生が愛おしくなる全5編を収録。

 短篇集。すべて超常現象が起こる話。といって幽霊というほどおどろおどろしいものではなく、なんか霊的なふしぎなことが起こる、という程度。

 取り壊し寸前の古い家を買ったら男の子の気配を感じる『海の家』、追い出し部屋に異動させられた社員の前に謎のボクシングコーチが現れる『ファイトクラブ』、占いというより呪いをかける『占い師』、息子が人を見て新型コロナウイルスに感染しているかどうかを言い当てるようになる『コロナと潜水服』、中古車を買ったら前の持ち主の思い出の地に連れていかれる『パンダに乗って』の五編。


 個人的にはちょっと期待外れ。そもそも超常現象を扱った話が好きじゃないんだよなあ。なんとでもアリになっちゃうからさ。小説をつくるほうからしたらこんなに楽なネタもないんじゃないだろうか(書いたことないから知らないけど)。どんな不条理なことが起きても超常現象のせいにしたら「そういうものですから」で済ませられちゃうもんね。

 オカルトならオカルトで、ちゃんとルールを設定してほしいな。




 わりと好きだったのは『占い師』。

 プロ野球選手を彼氏に持つ女性。自身もミスコン女王、コンパニオン、フリーアナウンサーなど華やかな道を歩んできた。

 ある年、彼氏の成績が急上昇。たちまち球界の人気選手となる。だがそれと同時に彼女への連絡回数は減り、態度もそっけないものに変わってゆく。彼の周りには虎視眈々と有力選手を狙っている(ように見える)女性アナウンサー。

 彼女が“占い師”に相談すると、翌日から彼は絶不調に。自信を失った彼は彼女に癒しを求めるようになる。会う回数が増えたのはうれしいが、このままでは成績不振でクビになる。プロ野球選手でなくなった彼には魅力がない。

 再び占い師に相談すると成績が上昇するが……。


 活躍しすぎてほしくないが、さりとてまったく活躍しないのも困る、という女性の身勝手な欲望をあからさまに書いた短編。悪意に満ちている。

 男が書いているので「ああいう女はこんなもんだろ」とばかにした感じがありありと伝わってくるが、その乱暴さがかえって楽しい。小説なんだから、偏見や悪意に満ちていてもいい。エンタテインメントの読者が求めているのは正しさじゃない。

 小説なら許される。昔は「本には書けないようなことでもネットになら書ける」だったけど、今じゃ「ネットで書いたら炎上するようなことでも本ならそこまで多くの人の目に留まらないから大丈夫」になってるからね。


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2024年3月6日水曜日

【読書感想文】松沢 裕作『生きづらい明治社会 不安と競争の時代』 / がんばったってダメだって

生きづらい明治社会

不安と競争の時代

松沢 裕作

内容(e-honより)
日本が近代化に向けて大きな一歩を踏み出した明治時代は実はとても厳しい社会でした。景気の急激な変動、出世競争、貧困…。さまざまな困難と向き合いながら、人々はこの時代をどう生きたのでしょうか?不安と競争をキーワードに、明治という社会を読み解きます。

 岩波ジュニア新書。

 最近、この手のジュニア向けの本がけっこうおもしろいことに気がついた。若かったころは「子ども向けに書いた本なんて」と手にも取らなかったけど、つくづく良書が多いんだよな。


 序盤に書いてあることは「明治時代って、江戸時代のような身分社会が崩れて、立身出世が実現できるようになった時代のように語られるけど、ほとんどの人々の暮らしはひどいものでしたよ」という内容で、まあそりゃそうだろうなとしかおもえなかった。

 以前に紀田 順一郎『東京の下層社会』という本を読んだことがあるが、明治時代の貧民層や娼婦の暮らしは、そりゃあひどいものだったようだ。『生きづらい明治社会』では木賃宿で暮らす人々をネットカフェ難民にたとえているけど、とても比べられるようなものじゃないだろう。たしかにネットカフェ難民も楽な暮らしではないが、明治の木賃宿暮らしに比べれば天国のような生活だろう。

 あたりまえだけど、明治時代は劣悪な環境で人がばたばたと死んでゆく、過酷な時代だった。




 この本でおもしろかったのは、中盤以降に出てくる「通俗道徳」で明治時代の貧困を語っている点。

 ここで「通俗道徳」という歴史学の用語を紹介しておきたいと思います。人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、日本の歴史学界では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。
 安丸さんは、勤勉に働くこと、倹約をすること、親孝行をすることといった、ごく普通に人びとが「良いおこない」として考える行為に注目します。これといった深い哲学的根拠に支えられるまでもなく、それらは「良いこと」と考えられています(だからそれは「通俗」道徳と呼ばれます)。
 それは確かに良い行為であると、私たちも普通に考えるだろうと思います。そこまでは大した問題ではありません。問題はその先です。勤勉に働けば豊かになる。倹約をして貯蓄をしておけばいざという時に困ることはない。親孝行をすれば家族は円満である……。しかしかならずそうなるという保証はどこにあるでしょうか。勤勉に働いていても病気で仕事ができなくなり貧乏になる、いくら倹約をしても貯蓄をするほどの収入がない。そういう場合はいくらでもあります。実際のところ、個人の人生に偶然はつきものだからです。
 ところが、人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人ががんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。

 おもしろかったのは、つい最近読んだマイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』にも似たような記述があったからだ。

 近年、アメリカでも特に「努力すれば成功する。成功しなかったのは努力が足りないからだ」という考えが強くなっているという。だから成功者は富を独占する権利がある、と。能力主義(メリトクラシー)という考え方だ。

 現代アメリカと明治日本で同じ兆候が見られる。こういう「おもわぬ本と本がつながる」のが読書の醍醐味だ。

 著者は、「通俗道徳」の考え方が強くなるのは明治に入ってからだと指摘する。

 人びとが、通俗道徳一本やりで、完全にわなにはまり切ってしまうのは、明治時代に入ってからです。第一章でみたように、地租改正によって村請制は廃止され、人びとを無理やり助け合わせる仕組みは消滅しました。いやいやながら豊かな人が貧しい人を助ける必要はもうなくなったのです。
 そして政府は、といえばこれまでのべてきたようにカネがありません。何らかの理由で貧困におちいった人を助けるのに割く予算はないのです。こうして、人びとが貧困から逃れるためには、通俗道徳にしたがって、必死で働くことが唯一の選択肢となりました。
 くり返しますが、通俗道徳を守って生きていればかならず成功するわけではありません。しかし、このように助け合いの仕組みも政府の援助も期待できない社会では、成功した人はたいていが通俗道徳の実践者です。こうした状況のなかでは通俗道徳のわなから逃れることはとても難しいことです。実際に、がんばって働き、倹約し貯蓄して、成功した実例が身近に珍しくないからです。
 こうして、明治時代の前半の小さな政府のもとで、人びとは通俗道徳の実践へと駆り立てられてゆき、その結果、貧困層や弱者に「怠け者」の烙印をおす社会ができあがっていったのです。

 生まれによって階級が決まっていた江戸時代と異なり、明治時代は(理論上は)貧富の差に関係なく誰でも成功できる時代になった。実際、貧しい家庭の出身で経済や学問の世界で名を上げた人物もいた。針の穴を通すような低い確率だけど。

 そのせいで、貧しい暮らしをしている人が「努力が足りなかったから自業自得だ」とみなされるようになってしまった。

 のしあがるチャンスが0%の社会より1%の社会のほうがしんどいかもしれない。




「やればできる」が幅を利かせる社会の何がまずいかというと、できなかった人が救済されなくなることだ。だって「できなかったのはやらなかったから」なんだから。

 それに加えて政治の問題もあった。

 なぜ、増えた税金を、貧困者を助けるためにつかうという流れができなかったのか。第三章の、窮民救助法案否決の部分でのべたのとおなじ理由をここでもあげることができます。この時期の衆議院議員選挙でも、選挙権には、依然として財産による制限があり、また女性に選挙権はありませんでした。貧困者に選挙権がない以上、貧困対策は、政党の支持拡大の手段にはなりません。それにひきかえ、交通網が整備されたり、学校が増設されたりすることは、富裕層には有利です。交通網整備によって、地方と都市のあいだの物流の便がよくなれば、地方の製造業者や地主には、製品や農産物を都市で販売するうえでメリットがあります。また、学校ができて学生が集まれば、それだけのお金がその地方に落ちることにもなります。家や土地をもつ人、商店主などには利益になります。そうした利益を地方にもたらしてくれる政党や議員を、有権者は支持することになるわけです。

 明治時代には普通選挙がおこなわれておらず、選挙権、被選挙権を有するのは高額納税者に限られていた(総人口の約1%)。金持ちが投票して金持ちを選ぶのだから、貧しい者のための法が整備されるはずがない。おまけに通俗道徳や能力主義が強い時代。カネやコネのないほとんどの人にはさぞ生きづらかったことだろう。


 日清戦争以前の「小さな政府」の時代に、人びとは、自分で努力する以外に生き延びる道のない、「通俗道徳のわな」に、はまってゆきました。このわなに一度はまってしまうと、そこから抜け出すのはとても難しいのです。「実際に成功している人は努力した人」という現実がそこにある以上、成功した人たちは、自分の地位を正当化するために、このわなにむしろしがみつこうとします。自分が成功したのは、たまたま運がよかったとか、親が金持ちだったとか、そういうことではなく、自分が努力した結果なのである、と。自分の富、自分の地位は道徳的に正しいおこないの結果なのである、と。努力したのに成功しなかった人たち、いくら努力しても、貯蓄の余裕もなく、生活が改善する見込みもなかった人たちのことは忘れ去られてゆきます。

 マイケル・サンデル氏が『実力も運のうち 能力主義は正義か?』でも指摘しているように、この「やればできる。できなかったのはやらなかったから」の考えは諸外国でどんどん強くなっている。もちろん日本でも。

 電気グルーヴの『スネークフィンガー』という曲に

 がんばったってダメだって 努力をするだけムダだって

という歌詞があって、 昔は「ひっでえこと言うな」と思って聴いてたけど、最近聴いたときは「これはこれでそんなにひどい歌詞でもないな」とおもうようになった。

 少なくとも「やればできる!」を連呼する人よりはよっぽど人情味があるとおもうな。


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2024年2月29日木曜日

【読書感想文】門倉 百合子『70歳のウィキペディアン 図書館の魅力を語る』 / (悪い意味で)さすがウィキペディアン

70歳のウィキペディアン

図書館の魅力を語る

門倉 百合子

内容(e-honより)
人生がどんどん面白くなる。ウィキペディアンにあなたもなりませんか!


 ウィキペディアン(Wikipediaの編集者)をやっている70歳女性のエッセイ。

 とはいえ、もともと司書や、会社員として資料整理の仕事などをしていたということで、これまでのスキルを十分に活かした上での活動。

 この人は「誰でもウィキペディアンになれるんですよ。やってみませんか」ってなことを書いているが、これを読むかぎりでは「ずぶの素人が手を出すのはなかなかむずかしそうだな……」という気がする。

 ぼくは毎日のようにブログに文章を書いている人間だが、それでも好き勝手にやっているから書けるのであって、「出典を明らかにするように」「出典は第三者が書いたものに限る」「事実と感想を切り分けて事実のみ書くこと」なんて制約をつけられたらちょっと気後れしてしまう。

 まあそれが仕事であればやってやれないことはないとおもうけど、Wikipediaの編集は無償。書いた人の名前が売れることもないし、資料の検索や整理が好きでないとなかなかできることじゃないよな。


 そういやずっと昔、ぼくがはじめてWikipediaなる存在を知ったころ(二十年近く前)、一度編集をしてみたことがある。

 自分ではちゃんと書いたつもりだったんだけど、「根拠不明瞭」とかのコメントをいっぱいつけられて、心が折れてしまった。なんで好き好んで卒論みたいなことをせにゃならんのかと。




 ただ自分で編集や執筆をやりたいとはおもわないけど、Wikipediaには常日頃お世話になっている。

 もちろん問題はあるけれど、他のWebサイトに比べればずっと信頼のおける情報が手に入るし、なにより誰でも無料でアクセスできるというのはほんとにありがたい。

 翌朝起きて記事を見てみると、既に別のウィキペディアンにより記事が手直しされ、「新しい記事」の候補になっていることもわかりました。そして翌29日には早くも「新しい記事」としてWikipediaメインページに掲載されたのです。ここに載るとたくさんのウィキペディアンの方が見てくださるので、実際に何人かのウィキペディアンによって記事にいくつも手が入り、書誌事項の書き方を整えてくださる方、インフォボックスや写真やカテゴリーを整えてくださる方などいらして、どんどん記事がグレードアップしていきました。Wikipediaは確かに成長する百科事典なのだ、としみじみ感じ、また「集合知」とはこのことか、と実感したものです。

 こういう人たちがいるおかげだよな。ひとりが書いているのではなく、複数の人たちが知識を結集して書いている、というのがWikipediaの最大の価値だとおもう。それによって中立が保たれやすいし、信頼性も増す。無償で知恵や労力を出しあうことをいとわない人たちが世界中にいっぱいいる、っておもうと、この世の中も案外悪いものではないなとおもえてくる。




 とはいえ。

 正直にいうと、この本、ぜんぜんおもしろくなかった。

 う~ん、さすがはウィキペディアン。書かれていることが事実の羅列で、心の動きだとかこぼれ話だとかがまったくといっていいほどないんだよなあ。まったく知らない人の堅苦しい日記を読んでいるだけ。とにかく退屈。

 これを読むんだったらWikipediaを読んでいるほうがずっとおもしろいな……。


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2024年2月28日水曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 / やればできるは呪いの言葉

実力も運のうち

能力主義は正義か?

マイケル・サンデル(著)  鬼澤 忍(訳)

内容(e-honより)
努力して高い能力を身につけた者が、社会的成功とその報酬を手にする。こうした「能力主義(メリトクラシー)」は一見、平等に思える。だが、本当にそうだろうか?ハーバード大学の学生の3分の2は、所得分布で上位5分の1にあたる家庭の出身だ―。「やればできる」という言葉に覆い隠される深刻な格差を明るみに出し、現代における「正義」と「人間の尊厳」を根本から問う、サンデル教授の新たなる主著。

 世界中で広まる「能力主義」の背景や問題点を問う本。

「能力主義」とは、かんたんにいうと、高い能力を持っているものが大きな報酬を手にすべきとする考え方だ。これだけなら「あたりまえじゃないの?」とおもう人も多いだろう。

 そう、たいていの人は能力主義の考え方を持っている。能力主義の反対にあるのは、(極端な)共産主義、年功序列主義、貴族制度など、一般に悪しきものとされている考え方だ。

 がんばってより高い能力を身につけた者が、それに見合った対価を獲得する。これだけならちっとも悪いこととはおもえないかもしれない。だからこそ能力主義の考え方はどんどん広がっている。疑問すら持たない人も多い。

 だが、能力主義は様々な弊害も生みだしていると著者は指摘する。




 能力主義の欠点のひとつは、それがはびこることによって、成功を収めた人が自分の成功はすべて能力と努力によるものだと考えてしまうことだ。

 競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人びとは、さまざまな恩恵を被っているにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵など目に入らなくなってしまう。こうして、不正も、贈収賄も、富裕層向けの特権もない公正な能力主義社会においてさえ、間違った印象が植え付けられることになる――われわれは自分一人の力で成功したのだと。名門大学の志願者に求められる数年に及ぶ多大な努力のせいで、彼らはほとんど否応なくこう信じ込むようになる。成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだと。
 これは、若者にとって重荷であるだけでなく、市民感情をむしばむものでもある。われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 あたりまえだが、成功はすべて努力によるものではない。経済的に恵まれた国に生まれたこと、健康に成長したこと、飢えずに大人になれたこと、戦争や天災や事故で命を落とさなかったこと、良い教育を受けられたこと、どれひとつとっても己の努力によるものではない。ひとことでいえば「運が良かった」ことに尽きる。

 また、現在の成功とは基本的に「たくさん金を儲けること」だ。ふつう「成功者」と言われて思い描くのはCEOだとか経営者だとかトッププロスポーツ選手とかのお金持ちだろう。貧しい国で多くの命を救った医師とか、人命救助のスペシャリストとかではなく。

 つまり能力主義のいう〝能力〟とはたまたま時代や環境のめぐりあわせがよくて株でもうけたり、他人を出し抜く力に長けていたり、別の金持ちに取り入るのが上手だったりとかの金儲けに直結する能力であって、掃除がうまいとか介護をがんばれるとかの能力ではない。とすると、はたして〝能力〟にめぐまれたからといって多くの富を一手に集める権利があるかというとはなはだ怪しい。


 少し前に〝親ガチャ〟という言葉が流行った。あの言葉自体はあまり好きではないのだが(広く使われすぎたせいで)、一片の真実も含んでいる。実際、どんな親のもとに生まれて育つかは運でしかない。そして親の経済状況や性格や教育方針によって、子どもの成功確率は大きく変わる。過酷な環境から成功する人もいるが、「やってできた人もいる」と「やればできる」はまったくちがう。それなのに「やればできる」「成功したのは努力したから」だと欺瞞を口にする人は後を絶たない。




 ま、おもう分には勝手にしたらいい。「自分が成功できたのは努力したからだ」「自分が成功できていないのは努力が足りないからだ。もっとがんばろう」と考えるのは自由だ。

 問題は、それを他人に押しつけて「やればできるはずだからもっとがんばれ!」「おまえの境遇が悲惨なのは努力が足りないからだ!」と言う輩が多いことだ。

 政治家が神聖な真理を飽き飽きするほど繰り返し語るとき、それはもはや真実ではないのではという疑いが生じるのはもっともなことだ。これは出世のレトリックについても言える。不平等が人のやる気を失わせるほど大きくなりつつあったときに、出世のレトリックがひどく鼻についたのは偶然ではない。最も裕福な一%の人びとが、人口の下位半分の合計を超える収入を得ているとき、所得の中央値が四〇年のあいだ停滞したままでいるとき、努力や勤勉によってずっと先まで行けるなどと言われても、空々しく聞こえるようになってくる。
 こうした空々しさは二種類の不満を生む。一つは、社会システムがその能力主義的約束を実現できないとき、つまり、懸命に働き、ルールに従って行動している人びとが前進できないときに生じる失望。もう一つは、能力主義の約束はすでに果たされているのに、自分たちは大損したと人びとが思っているときに生じる落胆だ。後者のほうがより自信を失わせるのは、取り残された人びとにとって、彼らの失敗は彼らの責任ということになるからである。

 著者は、ふたつの階層社会を例に挙げている。ひとつは身分制による階層社会。もうひとつは能力主義による階層社会。どちらも貧富の差は大きく、ひとにぎりの上層部が富を独占している。後者は今のアメリカのような国だ。

 前者は階層が出自によって決定するので、低い階層の人がどんなに努力しても上位階層に行くことはできない。後者の社会ではごくまれにではあるが、低い階層から上位階層に昇りつめることのできる者もいる。少ないとはいえ上昇のチャンスがある分、後者のほうがまだマシだとおもうかもしれない。

 自分が最下層にいたらどちらがつらいだろうか。もちろん前者はつらい。決して上昇のチャンスがないのだから。だが「自分の境遇が悪いのは自分のせいではない。また金持ちのやつらも、彼らがそれに見合う能力や実績を持っているから金持ちになっているのではない」とおもえる。

 一方、後者の階層社会では「おまえが貧しいのはおまえの努力が足りないからだ。見ろ、貧しい階級から努力して金持ちになった連中もいるではないか。おまえが貧しいのはおまえがダメだからだ」と言われるのだ。そんなことを言われる世の中で「貧しくたって楽しく生きられるさ」とおもえるだろうか。




 だが、その強い魅力にもかかわらず、能力主義が完全に実現しさえすれば、その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい。まず第一に、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではないことに注意すべきである。金持ちと貧乏人のあいだの大きな格差が悪いとは言っていないのだ。金持ちの子供と貧乏人の子供は、時を経るにつれ、各人の能力に基づいて立場を入れ替えることが可能でなければ―――つまり、努力と才能の帰結として出世したり没落したりしなければ―――おかしいと主張しているにすぎない。誰であれ、偏見や特権のせいで、底辺に留め置かれたり頂点に祭り上げられたりすべきではないのである。
 能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ」

 つまりはこういうことなんだよね。能力主義ってのはべつに公正な分配方法ではなく、(富を多く持つ者の側が)不平等を正当化するための理屈なんだよね。

 でも「やればできる!」「貧しい者でも努力によって成功を勝ち取れる!」ってのは耳当たりのいい言葉だから広まってしまい、持てる者からすれば「おれの成功はおれ自身のおかげ」と再分配を拒むための言い訳になり、持たざる者にとっては「自分が成功していないのは自分の努力が足りないから」という呪いの言葉になってしまった。


 著者は「機会の平等は、不正義を正すために道徳的で必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。」と書いている。

 まったくの同感だ。少なくとも経済競争の勝者の側がふりかざしていい理論ではないよね。




 これはぼくの勝手な想像だけど、能力主義の蔓延は世の中が平穏だから、ってのも要因のひとつなんじゃないだろうか。

 たとえば戦争や大震災なんかで周囲の人がたくさん亡くなっていたら「自分が成功したのはひとえに自分が努力したからだ」なんて考えには至りにくいんじゃなかろうか。

 まじめで誰からも愛されるいいやつだったけど、流れ弾に当たって死んでしまった。すごく頭が良くて何をやらせても上手にできるやつだったけど、地震で死んでしまった。すぐ近くにいた自分はたまたま居た場所がよかったおかげで助かった。

 そんな経験をしていたら、とても「おれの成功はおれの努力のおかげだから報酬を独占する権利がある」なんてならないのでは(なる人もいるだろうけど)。


 ぼくの場合も、幼なじみのSという男の死がその後の考え方に影響を与えた。Sはサッカーがうまくて、運動神経抜群で、勉強もできて、努力家で、さわやかで人当たりがよくて、女の子からとにかくモテて、でも男からも好かれていて、誰もが口をそろえて言う「いいやつ」だった。いい大学に行き、そこでも友だちに恵まれていた。誰もがSは順風満帆な人生を送るのだろうとおもっていた。

 しかしSは二十代半ばで病気で死んでしまった。「いいやつほど早く死ぬ」なんて言葉をぼくは信じてはいないけど、それでもそう言いたくなるほどあっけなく。

 それ以来、諦観というほどではないけど、「人生がうまくいくかなんて運次第」という考えがぼくの中で強くなった。能力に恵まれて努力家でいいやつだったSが早く死んだのだから。才能や努力は成功に貢献する一要素ではあるけれど、そんなに大きなものではない。


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2024年2月27日火曜日

【読書感想文】マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』 / 多様性だけあっても意味がない

多様性の科学

画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織

マシュー・サイド(著)  トランネット(翻訳協力)

内容(ディスカヴァー・トゥエンティワンHPより)
経営者からメディア、著名人までもが大絶賛!なぜグッチは成功しプラダは失敗したのか。なぜルート128はシリコンバレーになれなかったのか。オックスフォード大を主席で卒業した異才のジャーナリストが、C I A、グローバル企業、登山隊、ダイエットなど、あらゆる業界を横断し、多様性の必要性を解き明かす。自分とは異なる人々と接し、馴染みのない考え方や行動に触れる価値とは?

(↑出版社HPの文章。「主席で卒業」じゃなくて「首席で卒業」だよね。学長じゃないんだから)


 様々な研究結果をもとに、多様性がある組織がいかに強いかを解説した本。

 たとえばCIA(アメリカ中央情報局)。当然ながらそこで働く職員は、みんな優秀な人たちだ。だが彼らは2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を事前に見抜くことができなかった。実際にはテロリストの不穏な動きを示す様々なサインがあったので、多くの情報が集積するCIAなら事前に気づいてもおかしくなかった。

 にもかかわらず彼らがサインを見落としていたのは、CIAの職員が白人、男性、アングロサクソン系、プロテスタントという似たバックボーンの人たちばかりだからだと著者は指摘する。


 世の中には賢い人がいる。だが世界一賢い人でも、集団の力には適わない。

 たとえば同じテストを100人が受ける。1位の人は95点だった。この人とまったく同じ考えをするクローンを4人集める。平均点は95点だ。

 一方、テスト上位4人を集める。95点、94点、93点、92点の人たち。平均点は93.5点。

 平均点は前者のほうが高い。だが実際の成績は後者のほうが良くなる。違った人たちを集めれば、足りないものを補い合えるからだ。

 ここまでは納得しやすい話だろう。多様性は大事だ。最近SDGsだとかダイバーシティだとかよく聞くようになったけど、べつに道徳的正しさだけでなく、単純な損得のことを考えても、多様性は重要なのだ。


 だが。多様性が大事だと理解していても、実現するのはむずかしい。

 ほかにもこんな実験がある。米コロンビア・ビジネス・スクールのキャサリン・フィリップス教授は、被験者を特定のグループに分け、複数の殺人事件を解決するという課題を与えた。各グループには、証拠やアリバイ、目撃者の証言や容疑者のリストなどさまざまな資料が提示された。グループの半数は4人の友人で構成され、残りの半数は友人3人とまったくの他人――社会的背景も視点も異なる人物――が1人だ。本書をここまで読んだ方はもうおわかりだと思うが、結果は他人を含めたグループのほうが高い成績を上げた。彼らの正解率は75%。友人ばかりのグループは54%にとどまった。ちなみに個人で取り組んだ場合の正解率は44%だった。
 しかし特に興味深いのは次の点だ。多様性のあるグループと画一的なグループでは、メンバーがまったく異なる体験をしていた。前者はグループ内の話し合いについて「(認知的な面で)大変だった」と感じていた。多角的な視点でさまざまな議論がなされ、反対意見も多く出たからだ。しかも高い確率で正解を出したものの、それを知るまで自分たちの答えには強い自信を持っていなかった。
 一方、画一的なグループの体験は180度違っていた。彼らは気持ち良く話し合いができたと感じていた。みな似たような視点で、互いに同意し合うことがほとんどだったからだ。結局正解率は低かったが、自分たちの答えにかなりの自信を持っていた。つまり盲点を指摘されることはなく、それがあることに気づく機会もなかった。彼らは異なる視点を取り入れられないまま、自分たちが正しいと信じた。画一的な集団が犯しやすい危険はこれだ。重大な過ちを過剰な自信で見過ごし、そのまま判断を下してしまう。

 多様な人たちと同意するために話しあうのは大変なのだ。

 なかなか答えの出ない問題(たとえば安楽死に対する議論のような)に対して、「日本生まれ日本育ちの世襲政治家四人」で話しあうより、「障碍者の高齢男性、外国人専業主婦、フリーターの青年、女子中学生」で話しあうほうが、様々な立場から異なる意見が出る分、良い答えは出やすい。でも、後者のほうがずっと大変でストレスのかかる作業になるだろう。

 多様性が大事とわかっていても、それを実際の行動に落とし込むのは容易ではない。だから政治家でも企業でも「意思決定の場はおじさんばっかり」になっちゃうんだろうね。そしてちっとも賢明でない結論を導きだしてしまう。




 多様性の実現を妨げる要因のひとつが、ヒエラルキーだ。

 多様性が力を持つのは、それぞれの立場の人が臆することなく意見を言えるからこそ。だが人が集まるとヒエラルキー(上下関係)が生まれ、それが自由闊達な意見の交換を妨げる。

 ヒエラルキーは意図的に形成する場合もあるが、人間はそもそもこういう生き物なのだ。
 人の心の奥底にこれだけ浸透した順位制は、進化の過程で重要な役割を果たす。群れなり集団なりが選択に迫られたとき、それが単純な問題なら、リーダーが決定を下してほかの者が従うのが理にかなっている。そのほうが迅速に一体となって行動できる。進化の過程では、支配的なリーダーがいる集団のほうが勝ち残る確率が高い。
 しかし問題が複雑になると、支配的な環境が悪影響を及ぼす場合がある。ここまで見てきたように、集合知には多様な視点や意見――反逆者のアイデア――が欠かせない。ところが集団の支配者が、「異議」を自分の地位に対する脅威ととらえる環境(あるいは実際にそれを威圧するような環境)では、多様な意見が出にくくなる。ヒエラルキーが効果的なコミュニケーションの邪魔をするのだ。ヒエラルキーの中で生きることをプログラミングされた人間だからこそそうなる。これは一種のパラドックスと言っていいだろう。

 ヒエラルキーがあると、上司の意見に逆らえなくなる。結果的に「上司の言うことを復唱するだけのコピー」が量産されることになる。こうなるとメンバーに多様性があっても意味がない。

 ヒエラルキーが部下を萎縮させる力はすごい。

 173便の墜落事故後間もなく、フライトシミュレーターを使った研究調査で被験者の乗組員を観察した際も、同じ問題が起こった。「機長はあらかじめ間違った判断を下す(つまり能力が低い)フリをするように指示されていた。クルーが進言するまでの時間を計るためだ」とフィリンは解説する。「結果、クルーの反応を観察していたある心理学者はこう言った。『副操縦士らは機長に意見するより、死ぬことを選んだ』」
 この話をちょっと聞いただけでは、上司に意見するより死ぬほうを選ぶなどおかしなことに思えるだろう。自分ならそんなことはしないと考える。しかしこうした行動は無意識のうちに起こる。人は反射的にそうなる。どんな職場でも同じだ。部下はいつでも上司の機嫌をとろうと、意見やアイデアを持ち上げる。身振りや手振りを真似しさえする。多様性はそうやって排除される。決して最初から多様な意見がないのではなく、表明する場がないのだ。
 エラスムス・ロッテルダム大学経営大学院による研究では面白い結果が出ている。1972年以降に実施された300件超のビジネスプロジェクトを分析してみると、地位の高いリーダー(シニア・マネージャー)が率いるチームより、それほど高くないリーダー(ジュニア・マネージャー)が率いるチームのほうがプロジェクトの成功率が高かったのだ。これは一見すると驚くべき結果かもしれない。もっとも知識や経験のある人物が「いない」チームのほうが、いい結果を出せるとはどういうことか?

 なんと「上司に正しい意見を告げないと自らが命を落とす」ような場面ですら、人は意見を言うのをためらってしまう。実際、それが原因で多くの人が命を落とす登山事故や飛行機事故が起こっている。

 それは、いわゆる“えらい”リーダーがいるから。えらいリーダーがいると、
「こんなことを指摘したらリーダーが機嫌を損ねるから」
「悪いことが起こっているのに気付いたが、とっくに上司は気づいているにちがいないとおもった」
などの理由で、メンバーたちの自由な意見を封じることになってしまう。


 そこで、良い意見を集めて組織をブラッシュアップさせていきたいと考えるのなら、下からでもものを言いやすい“仕組み”が必要になる。「さあ忌憚のない意見を聞かせてくれ」でおもったことを自由に言えるなら苦労はしないわけで。

 心理的安全性が高い文化の構築に加えて、現代の最先端組織は、効果的なコミュニケーションを促す仕組みを取り入れ始めている。その1つは、Amazonが実践していることで有名な「黄金の沈黙」だ。10年以上前から、同社の会議は、PowerPointのプレゼンテーションやちょっとしたジョークではなく完全な沈黙で始めるようになった。出席者は最初の30分間、その日の議題をまとめた6ページのメモ(箇条書きではなく、いわばナレーションのように筋立てて文章化したもの)を黙読する。
 これにはいくつか効果がある。まず、議題を提案した人自身が、その議題について深く考えるようになる。CEOのジェフ・ベゾスはこう言う。「20ページのPowerPointプレゼンテーションを作るより、いい(中略)メモを書くほうが難しい。何がより重要かしっかりと考えて理解しておかないと、文章で説明することはできない」
 しかしこの黄金の沈黙にはもっと深い効果がある。ほかの人から意見を聞く前に、新たな視点に立って議題を見直すことができるのだ。文章に書き起こすことで、会議の前に、自身の提案の強みや弱みをそれまでとは別の角度から考えられるようになる。そして実際に会議が始まると、もっとも地位の高い者が最後に意見を述べる。このルールも、多様な意見を抑圧しない仕組みの1つだ。
 チームの効果的なコミュニケーションを促す仕組みの2つ目は、「ブレインライティング」だ。口頭で意見を出し合うブレインストーミングと要領は同じだが、こちらは各自のアイデアをカードなどの紙に書き出し、全員に見えるように壁に貼って投票を行う。「この方法なら、意見を出すチャンスが全員にあります」と米ケロッグ経営大学院のリー・トンプソン教授は言う。「1人や2人だけでなく、チーム全員の脳から生み出されるアイデアにアクセスできるので
 トンプソン教授は、ブレインライティングで守るべきルールはたった1つだという。「誰のアイデアか」を明らかにしないことだ。「これは極めて重要なルールです。意見やアイデアを匿名化すれば、発案者の地位は影響しません。つまり能力主義で投票が行われます。序列を気にせず、部下が上司に媚びることなく、アイデアの質そのものが判断されるのです。これでチームの力学が変わります」

 話す前に読む、地位の低い者から意見を言う、アイデアを匿名化する。なるほど、これならいろんな立場・性格の人から意見を集められそうだ。良いチームは良い仕組みを取り入れている。

 逆に上司が「おれは~とおもうんだけど君たちはどうおもう?」なんてやってる会議は無駄だからすぐにやめたほうがいい。劣悪上司の劣化コピーをつくっているだけなので。




 人間が集まると自然とヒエラルキーが生まれる。ただそのヒエラルキーには「支配型ヒエラルキー」と「尊敬型ヒエラルキー」の二種類があると筆者は書く。

 前者は「おれが上の立場だからおれに従え」と居丈高にふるまうリーダーのいるヒエラルキー。後者は、知恵や人徳で周囲からの尊敬を集め、自然にできるタイプのヒエラルキー。言うまでもなく、後者のほうが自由闊達な議論がなされ、正しい決定を導きだす可能性が高い。

 が、支配型ヒエラルキーにも(少ないながらも)いい面もあるという。それは、上意下達に向いていること。「法改正でこうなったから従うように!」のような、絶対に従わなきゃいけないルールを守らせるのは支配型ヒエラルキーのほうがスムーズだ。

 だから軍隊でも官僚組織でも、末端に関していえば支配型ヒエラルキーのほうがうまくいくかもしれない。問題は、その意識のまま意思決定権のあるトップにまで昇りつめてしまうこと。こうなるとよくない。

「おれが言ったことに黙って従え!」タイプは旅団程度の小さな組織のトップ(つまり中間管理職)には向いているかもしれないが、師団や軍団のような決断を強いられるポジションには向いていない。なぜなら「おれが言ったことに黙って従え!」タイプのもとには価値のある情報が集まってこないから。耳に痛いことを進言してくれるタイプがいなくなるので(いても冷遇されてしまうので)、「リーダーが聞きたい情報」しか入ってこなくなる。政治家なんかでもよく見るタイプだね。

 トップは黙って耳を傾けるだけ、みたいなのがあるべき姿なんだろうな。




「多様性」の恩恵を受けるには、必ずしも多様な人々を集めなくてもいい。なんとある実験によれば「外国に住んでいるところを想像する」だけで連想力が向上したという。

 研究分野を切り替える科学者がいい論文を書くとか、楽器や芸術活動にいそしむ科学者のほうがノーベル賞受賞者が多いとかのデータもあり、「自分が多様な人間になる」ことで思考の幅が広がるのだそうだ。




 イノベーションを生みだすのは、ひとりの天才ではなく、知恵が結集されたときだという話。

 こうした点について、ヘンリック教授は次のように考えてみるといいと言う。たとえば、2つの部族が弓矢を発明すると仮定する。一方は大きな脳を持つ頭のいい「天才族」。もう一方は社交的な「ネットワーク族」。さて、頭のいい天才族は、1人で個人的に努力をして、1人で想像力を働かせ、人生を10回送るごとに1回大きなイノベーションを起こすとしよう。一方ネットワーク族は、1000回に1回のみだ。とすると、単純計算では、天才族はネットワーク族より100倍賢いことになる。
 しかし、天才族は社交的ではない。自身のネットワークにはたった1人友人がいるだけだ。しかしネットワーク族は10人友人がいる。天才族より10倍社交的だ。ではここで、たとえば天才族もネットワーク族も全員が1人で弓矢を発明し、友人から意見を聞くとしよう。ただし友人1人につき、50%の確率で学びが得られるとする。その場合、どちらの部族がイノベーションを多く起こすだろう?
 実はこのシミュレーションの結果は我々の直観と相容れない。天才族の中でイノベーションを起こすのは、人口の1%のみにとどまるのだ。1人で発明にたどり着くのはその半数。一方ネットワーク族は、99%がイノベーションを起こす。1人で発明にたどり着くのは残りの0.1%のみ。しかしそのほかはみな友人から学び、改善のチャンスも得られ、さらにその知識をネットワークに還元できる。それがもたらす結果は明らかだ。これまでの実験データや歴史上の数々の実例を見てもわかる。次のヘンリック教授の言葉がその真実を突いている。「クールなテクノロジーを発明したいなら、頭が切れるより社交的になったほうがいい」

 よく言われるのは、ビートルズがあの時代のリバプールという小さな町で誕生した奇跡について。あれはべつに「世界的な音楽の才能にあふれる四人がたまたま同時期・近い場所にいた」のではなく、「そこそこ音楽の才能があった四人がいて相互に影響を与えたから世界的なバンドになった」のだろう。すごい人とすごい人がお互いに影響を与えあうことで、それぞれがもっとすごい人になる。

 若い頃は「すごい人間になりたい」とおもって孤高の存在にあこがれたけど、社交的になってすごい人間の近くにいくことのほうが大事だったんだなあ。中年になってから気づいたよ。もっと早く気づきたかった。


 互いに影響を与えあってイノベーションを生み出すのは個人だけでない。企業もまたそうだ。

 1960~1980年代には、ルート128と呼ばれるボストン周辺の企業が繁栄を極めていた。だが、やがてイノベーションの舞台はシリコンバレーへと移ってゆく。その原因は、ルート128は互いに孤立していたからだと著者は指摘する。

 こうした企業はほかから孤立するにつれ、極めて独占的になっていった。自社のアイデアや知的所有権を保護するため探偵を雇う企業もあった。人々の交流は社内の人間同士だけになっていった。各社のエンジニアが集うフォーラムやカンファレンスもほとんど開かれることはなかった。「秘密主義が顧客、仕入れ業者、競合企業などとの関係をすべて支配した」とサクセニアンは指摘する。またある識者も「壁はどんどん厚く、高くなるばかりだった」と言う。
 もちろん秘密主義そのものは理にかなっている。自社のアイデアを他企業に盗まれたくはない。しかしそれには代償を伴った。自社のエンジニアを幅広いネットワークから隔離した結果、多様な視点の交流や融合、それがもたらすアイデアの飛躍など、イノベーションを起こす土壌を図らずも塞いでしまったのである。そのためルート128周辺の企業は「縦割り」の力ばかりが働いたとネットワーク理論の専門家は言う。アイデアは階層的な組織の内部のみを流れ、外へ出ていくことはなかった。サクセニアンによれば、テクノロジーに関わる情報は各組織内に閉じ込められ、周辺の他企業など「横」への拡散はほぼ見られなかったという。

「成功の秘訣」だとおもっているものなんて、大した価値はない。ほんとに貴重なアイデアは特許をとるだろうし、人を囲い込もうとすればかえって有能な人ほど離れてゆく。


 そういえば。独創的なアイデアでもなんでもないけれど。

 高校生のとき、ぼくは数学がよくできた。ほとんどのテストで満点だった。だから数学の授業の前になると、友人や、そんなに親しくもない同級生がぼくのもとに集まってきた。「宿題教えてくれ」「これどうやって解いた?」と。ぼくはどんどん教えた。親切心というより、教えるのは優越感を味わえて楽しいから。結果、ますますぼくは数学ができるようになった。他人に教えることで自分の思考も整理されるし、他人の解法を見ることで新たな発見もある。陥りやすいミスにも気づける。

 自分の発見やアイデアなんてどうせたいしたことはない。どんどん他人に公開したほうが、結果的によいものが生まれる。




 一方。多様性は重要だが、単に多くの人が集まると、かえって多様性は損なわれるという話。

 しかし多様性豊かな環境は、矛盾した現象ももたらす。インターネット上でも実社会でも同じことが起きる。世界が広がるほど、人々の視野が狭まっていくのだ。多様な学生が集まる大規模なカンザス大学では、画一的なネットワークが生まれ、多様なビジネスマンが集まる交流イベントでは、顔見知りとばかり話す傾向が見られた。
 これは現代社会における特徴的な問題の1つ、「エコーチェンバー現象」「同じ意見の者同士でコミュニケーションを繰り返し、特定の信念が強化される現象」につながる。インターネットは、その多様性とは裏腹に、同じ思想を持つ画一的な集団が点々と存在する場となった。まるで狩猟採集時代に舞い戻ったかのようだ。情報は集団間より、むしろ集団「内」で共有される。

 大人数が集まる大学だと、自然と人種や階層ごとにコミュニティが生まれ、その中だけで過ごすことになる。反面、人数の少ない大学では、いやおうなくいろんな人種・階層の人が話す機会が増え、結果的に交流の多様性が高まるという。

 SNSも同じで、全世界のあらゆる人とつながれる……というのはあくまで理論上の話で、実際は自分と似た属性・思考の人たちばかりフォローするようになってしまう。そのため多様な考えに触れるどころか、自分がもともと持っていた考えを補強するような意見ばかり集めてしまう、余計に思想が先鋭化してしまうのだ。

 ぼくもいっとき旧Twitterで政治系のアカウントをあれこれフォローしていたからよくわかる。なるべく多方面の意見を見ようとおもっていても、やっぱり自分と真逆の考えに触れるのはストレスが溜まるから、どうしても近い思想の人ばっかりフォローしちゃうんだよね。それに気づいてもうSNSはほぼ見ていない。




 それまでの流れとはちょっとちがうけど、『平均値の落とし穴』の章もおもしろかった。

 被験者は食べたものをすべて、実験用に用意されたモバイルアプリに記録した。基本的に食べたいものを食べてよかったが、朝食だけは標準化されていた。具体的にはパンのみ、バターを塗ったパン、粉末状の果糖を水で溶いたもの、ブドウ糖を水で溶いたものを日替わりで摂取する。朝食の総数は5107食、その他の食事は4万6898食、総カロリーは1000万カロリーにのぼり、血糖値など健康状態を示すデータとともにすべて記録された。そして今回、エランは平均値を一切計算せず、共同研究者とともに一人ひとりの被験者の反応を詳細に分析した。
 結果は目を見張るものだった。被験者の中には、アイスクリームを食べて健康的な血糖値を示す人もいれば、すしを食べて乱高下する人もいた。これとはまったく逆の反応を示す人もいた。「医学的にも栄養学的にも、いわゆる平均とは異なる結果を示した人が大勢いました」とエランは言う。「まるで正反対の反応を示すケースも多々ありました」

「~は身体に良い」とか「~の食べすぎには要注意」なんていうが、あんまりあてにならないようだ。人間の身体というのは、我々がおもっているよりずっと多様で、それぞれ異なる性質を持っている。だからアイスクリームを食べると不健康になる人もいれば、アイスクリームで健康になる人もいる。

「~は身体に良い」というのはまったくの嘘ではないが、あくまで平均の話。そして身長・体重・その他あらゆる数値がすべて平均通りの人がいないように(すべて平均通りだとしたらその人はかなり異常だ)、みんな平均からそれぞれ離れている。

「~は身体に良い」の類は眉に唾をつけて聞いといたほうがいいね。

 最近では個人の血糖値データなどを測定して「この人にとっては~が血糖値を下げるらしい」といった診断もできるようになってきているらしい。それが一般化したら「同じ食事が誰に対しても同じ効果を上げるとおもっていたなんて21世紀初頭はなんて乱暴な時代だったんだ!」となるかもしれないね。




 ということで、ついつい引用が長くなってしまうぐらいおもしろい箇所だらけの本でした。ただ「多様性が大事!」だけじゃなくて、なぜ大事なのか、どうすれば多様性は損なわれるのか、それを防ぐためにはどうしたらいいか、などまで書いてくれているのがいいね。


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2024年2月14日水曜日

【読書感想文】杉井 光『世界でいちばん透きとおった物語』 / フォークだけすごいピッチャー

世界でいちばん透きとおった物語

杉井 光

内容(e-honより)
大御所ミステリ作家の宮内彰吾が死去した。宮内は妻帯者ながら多くの女性と交際し、そのうちの一人と子供までつくっていた。それが僕だ。「親父が『世界でいちばん透きとおった物語』という小説を死ぬ間際に書いていたらしい。何か知らないか」宮内の長男からの連絡をきっかけに始まった遺稿探し。編集者の霧子さんの助言をもとに調べるのだが―。予測不能の結末が待つ、衝撃の物語。

【核心のネタバレは避けるようにしますがネタバレにつながるヒントにはなってしまうとおもいます】


2024年2月7日水曜日

【読書感想文】鎌田 浩毅『武器としての教養』 / そうはいっても素人知識

武器としての教養

鎌田 浩毅

内容(e-honより)
超想定外を突破する真の教養とは何か。「京大人気No.1教授」が紙上講義。


 講談社現代新書みたいな装丁だったので講談社現代新書だとおもって読んでいたら、講談社現代新書にしては内容がスカスカだなとおもってよく見たら講談社現代新書じゃなかったごめんよ講談社現代新書、講談社現代新書って書きたいだけだね。


 いやあ、ほんと中身なかったなあ。

 火山学の教授らしいんだけど、この本に関しては火山のことよりも歴史や文学について語っている。博識ではあるんだけど、そうはいっても歴史や文学については素人の域を出ないから、どうも語っている内容が薄い。要約みたいな内容なので、それだったらオリジナル作品にあたったほうがいいやとおもってしまう。一応火山活動にからめて語ってはいるけど。


 たぶんここに書いてあることを聞いたらおもしろいんじゃないかな。ただ聞いておもしろいのと読んでおもしろいのはちがうからね。話が散漫だし、掘り下げは浅いし、読んでおもしろいもんじゃないな。編集が良くないんだろうな。講談社現代新書ならこうはならなかったはず。




 「浅間山の大噴火がフランス革命の原因になった説」という俗説について。

 この「天明三年の大噴火」については、一八世紀のフランス革命と関連するという巷説があります。この年に日本を覆った「天明の大飢饉」もそうですが、この時期は北半球全体を異常気象が襲いました。
 冷害がヨーロッパの農作物に大打撃を与えました。特に小麦が不作となり、パンの値段が高騰しました。そのためフランスでは、庶民の不満がちょうど”マグマ"が急速に上昇するように高まりました。やがてそれが社会にあふれ出し、ついに爆発したのが一七八九年のフランス革命だった――というわけです。
 たいへん魅力的な説です。しかし残念ながら、火山学的にはフランス革命は、浅間山が原因なのではありません。
 一七八三年の気候変動は、大西洋北部の氷の島アイスランドの火山爆発が原因だったと現在では考えられています。アイスランドの活火山ラカギガル火山が、大爆発を起こしたのです。確かに、浅間山の天明の大爆発とまさに同じ年という偶然はありました。
 地上にできた巨大な割れ目から噴出した溶岩流による直接の被害も甚大でした。しかし、もっとも深刻だったのは、飛散した細粒の火山灰による被害でした。農耕地や牧畜への弊害だけに留まらなかったのです。火口から空中に排出された二酸化硫黄が、人体にまで悪い影響を及ぼしました。
 こうした被害は、アイスランド国内や近隣のイギリスに留まりませんでした。火山灰と有毒な火山ガスは、偏西風にのって遠くヨーロッパ大陸にまで達したのです。すなわち、地に降りては人、動物、農地を直接襲いました。そして天に昇っては、分厚い靄を形成して気温の低下を招いたのです(拙著『地球の歴史』中公新書)。

 残念ながら「浅間山が原因説」は誤りらしく、「アイスランドの火山爆発が原因説」も完全に立証されているわけではないらしい。

 とはいえ、こういう話はおもしろい。歴史の話って「誰が何をした」でとらえてしまうけど、人が生きていた以上、気候とか天気とか食事とか体調とかも関係あったはずなんだよな。「あの日雨が降っていたからこうなった」「もしあのとき風邪気味じゃなかったら歴史はこうなっていた」みたいなこともあるんだろうな。あんまり記録に残っていないだけで。近ければ「桜田門外の変は雪が降っていたので成功した」みたいなのもあるけど。


 もっとこういう専門分野の話を読みたかったなあ。


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2024年2月5日月曜日

【読書感想文】奥田 英朗『オリンピックの身代金』 / 国民の命を軽んじる国家組織 VS テロリスト

オリンピックの身代金

奥田 英朗

内容(e-honより)
小生 東京オリンピックのカイサイをボウガイします―兄の死を契機に、社会の底辺ともいうべき過酷な労働現場を知った東大生・島崎国男。彼にとって、五輪開催に沸く東京は、富と繁栄を独占する諸悪の根源でしかなかった。爆破テロをほのめかし、国家に挑んだ青年の行き着く先は?吉川英治文学賞受賞作。

 舞台は昭和39年。アジア初のオリンピック開催を目前に控えた東京。

 警察幹部の自宅や警察学校で爆発事件が起き、警察宛てに、東京オリンピックの妨害を予告する手紙が届く。人質は東京オリンピック、要求された身代金は八千万円。警察は犯人を突き止めるが、彼は学生運動もしておらず、将来を嘱望された東大生エリートだった。なぜまじめな学生だった島崎国男が、日本中が待ち望んだオリンピック開催を妨害しようと考えたのか……。


 エリート学生が兄の死をきっかけに肉体労働の現場に身を投じて資本主義社会の矛盾に気づいてゆく様子、ダイナマイトやヒロポンを手に入れ社会の暗部へと足を踏み入れてゆく様、彼を追う同級生と刑事の奮闘、警察内での刑事部と公安部での対立、身代金をめぐる攻防、そして東京オリンピック開会式を舞台にした大捕物と、緊張感あふれるシーンの連続で長い小説なのに少しも退屈させない。つくづくうまい。

 ストーリー展開も見事だが、感心したのが、昭和39年の風俗を映す小説にもなっていること。流行や当時のファッションがちりばめられ、会話文はもちろん地の文にも当時の言葉遣いが用いられている。

 著者は昭和34年生まれらしいので、当時の世相はリアルタイムでは知らないはず。がんばって書いたなあ。




 この小説は2008年刊行。2020年東京オリンピック(2021年に延期)は開催どころか決定すらしていない状況で書かれた小説だが、驚くほど1964年東京五輪と2020年東京五輪には酷似しているところがある。

 それは、開催にあたって国民をまったく大事にしていないこと。

『オリンピックの身代金』には東京オリンピックを控えて浮かれる国民の様子が書かれるが、一方で、オリンピックのために犠牲を強いられる人々の姿も描写される。

 棚田の並ぶ坂道を上りながら、国男は村を見下ろした。舗装路は一本もない。瓦屋根の家がここでは珍しい。火の見やぐらは木造だ。堤防は土を盛り上げただけのもので、毎年洪水がある。病院も診療所もない。水道もなく、井戸水は女たちが汲み上げなくてはならない。電気は通っているが始終停電する。テレビのない家がたくさんある。電話は村長の家にしか自家用車は一台もない。平均世帯収入はおそらく年間十万円程度だろう。米どころと言っても平地が少ないので、大半が一反歩以下の超零細農家である。食べるにやっとの毎日だ。若者はいない。農閑期は女と老人ばかりになる。晴れていればいい景色だが、天気が悪いと墨汁を垂らしたような陰々滅々とした風景となる。夜は真っ暗だ。自殺者が多い。
 この村の貧しさと夢のなさはどういうことなのか。経済白書がうたった「もはや戦後ではない」とは東京だけの話なのか。この村は戦前から一貫して生活苦にあえいでいる。生活が苦しいと、なんのために生まれてきたのかわからない。まるで動物のようだ。

 東京ではオリンピックに備えて着々と新しくきれいな建物がつくられ「外国からのお客様」を迎える準備が整えられる。その一方で、主人公・国男の故郷である秋田はその開発から取り残されたままだ。

 この対比により、国民(東京以外の)の生活よりも外国からの体面を気にする国家の姿勢がありありと浮かび上がってくる。

 貧乏なのでご飯に漬物だけの食事をしながら、世間体を気にして高級外車を買うようなものだ。なんともあほらしい。


 また、テロの予告があり、現実に爆破事件が何度も起きているにもかかわらず、警察は徹底的に事件を隠す。マスコミには一切情報を流さず、爆破もただの火災と発表。開会式の爆破が予告されても一切公表しない。なぜなら「公表しないことによって一般市民が命を落とすことよりも、公表することで外国からの評判が落ちるのを防ぐことを優先したいから」。

 国男は自分の兄のことを思わずにはいられなかった。兄もまた、ヤマさんと同じように粗悪なヒロポンを摂取し、心臓が耐えられず、昏睡状態に陥ったのだ。そして救急車を呼ばれることもなく、担ぎ込まれた先の病院で息をひきとり、心臓麻痺と診断された。
 塩野に問いただすと、「仕方がね、仕方がね」を繰り返すばかりだった。
「飯場で起ごるごどは、全部内輪で処理するのが慣わしだ。元請けにヒロポンさ打ってるごどを知られたら、山新が罰を食らって、そうなりゃあおらたちの給料が下がる」
 国男はそれを聞き、兄はなんて浮かばれない死に方をしたのかと、三十九歳で人生を終えなくてはならなかった無学な一人の男を、たまらなく不憫に思った。労働者の命とは、なんと軽いものなのか。支配層にとっての人民は、十九年前、本土決戦を想定し、「一億総火の玉」と焚きつけた時分から少しも変わっていない。人民は一個の駒として扱われ、国体を維持するための生贄に過ぎない。かつてはそれが戦争であり、今は経済発展だ。東京オリンピックは、その錦の御旗だ。
 オリンピックの祝賀ムードの中、水をさすような事件事故はすべて楽屋裏に隠したいのだろうか。新聞もまた、本来の使命を忘れ、オリンピックに浮かれているのだ。
 いったいオリンピックの開催が決まってから、東京でどれだけの人夫が死んだのか。ビルの建設現場で、橋や道路の工事で、次々と犠牲者を出していった。新幹線の工事を入れれば数百人に上るだろう。それは東京を近代都市として取り繕うための、地方が差し出した生贄だ。
 国男の中で沈鬱な感情が、まるで何年も作物が実らない荒地のように、ただ寒々しく横たわっていた。もはや自分がどうしたいといった欲望はない。あるのは死んでいった兄や仲間への、弔いの思いだけだ。
 雨脚が強くなった。このまま開会式の日まで降ってくれと、国男は黒い雲を見上げて思った。

 著者は予想していなかっただろうが、この「国民の命よりも体面を気にする国家の体質」は2021年東京オリンピックでも変わらず発揮された。

 新型コロナウイルス感染者数が増加し、多くの専門家が中止か延期にすべきと主張したにもかかわらず、政府は開催にとって都合のよいデータだけを並べて強引に開催に踏み切った。開催か中止を議論した上で決めたのではなく「何が何でも開催する」という結論が先に決まっていて、そのための理屈を並べたことが明らかだった。

「東京オリンピックが開催されていなければ死なずに済んだ人」もいただろうに、政府も報道機関も「経済全体のためだからしょうがないよね」という空気をつくって強引に開催してしまった(結果的に期待していた経済効果は得られず、儲かったのは汚職でうまい汁を吸った人間ぐらいだったわけだが)。

 過去の東京オリンピックを書くと同時に、未来(2021年)の東京オリンピックの予言にもなっていたわけで、その慧眼に感心せざるをえない。




 職務に忠実ではあるが、国民の生命を軽視する警察組織(に代表される日本という国家)。「国民の命よりもオリンピックのほうが大事」とする警察の非人道っぷりにより、対比的にテロリストであるはずの国男のヒーロー性が増す。とんでもないテロリストのはずなのに、どんどん応援したくなるからふしぎだ。最後は「東京オリンピックに一泡吹かせてくれ!」と願いながら読んだ。(昭和の)東京オリンピックがつつがなくおこなわれたことは史実として知っているのに、それでも失敗を願わずにはいられなかった。


 社会派サスペンスとしても、単純にクライムノベルとしてもおもしろい圧巻の内容だった。重厚なのにスピーディー。すっきり終わらないところも個人的には好き。

 国民の命を軽んじる国家組織 VS それに抗うテロリスト、とどっちも悪という構図がいい。

 いやあ、すばらしい小説でした。


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2024年1月30日火曜日

【読書感想文】ヘレン・E・フィッシャー『愛はなぜ終わるのか 結婚・不倫・離婚の自然史』 / 愛は終わるもの

愛はなぜ終わるのか

結婚・不倫・離婚の自然史

ヘレン・E・フィッシャー(著) 吉田利子(訳)

内容(e-honより)
愛は4年で終わるのが自然であり、不倫も、離婚・再婚をくりかえすことも、生物学的には自然だと説く衝撃の書。男と女のゆくえを占う全米ベストセラー。

 1993年刊行(邦訳版)。

 居間において置いたら妻からいらぬ誤解を生みそうなタイトルだったので、カバンに入れておいて外出時にこそこそ読んだ。

「ヒトはなぜ愛しあった相手と別れるのか」を、生物学、人類史の観点から読み解いた本。すごくおもしろかった。




「愛はなぜ終わるのか」を考えるために、まずは「愛はなぜ終わらないのか」を考えなくてはならない。

 一夫一妻は自然なのか。
 そのとおり。
 もちろん、例外はある。機会さえあれば、男性は遺伝子を残すために複数の配偶者を得ようとしがちだ。一夫多妻もまた自然なのである。女性は不利益を資産がうわまわればハーレムに入る。一妻多夫もまた自然である。だが、複数の妻たちは争うし、複数の夫も角つきあわせるだろう。男も女も、よほどの財政的魅力がなければ、配偶者を共有しようとはしない。ゴリラ、ウマ、その他多くの動物はつねにハーレムをつくるのに、人間の場合だけ、一夫多妻も一妻多夫も例外的な選択でしかなく、一夫一妻がふつうなのだ。ひとは、強いてうながされなくても、ふたりずつペアになる。ごく自然な行動である。わたしたちは異性を誘い、情熱を感じ、恋におち、結婚する。そして大半が、一時にひとりの相手とだけ結婚する。
 一対一の絆は、ヒトという動物のトレードマークである。

 オスとメスが一対一で結びつく動物は多くない。一回限りの関係、乱婚、ハーレム、出会いと別れをくりかえす……。「決まった相手とペアになり一生過ごす」なんて動物は他にいない。

「おしどり夫婦」で知られるオシドリのように夫婦で子育てをする動物はいるが、これも繁殖期間だけの関係で、毎年相手を変えている。


 そう、相手を変えるのが自然で、一生連れそうほうが不自然なのだ。

 実際、人間社会でも何年かしたら相手を変える文化がある。

 ニサはわずかな言葉で、女性が性的多様性を求めることが、いかに適応に有利かを説明している。物質的な余剰だ。大昔、不倫をした女性は余分の品物やサービス、住み処食べ物が手に入った。これらは安全に守られて健康に過ごすための必要条件で、結局は余分の子孫を残すのに役立ったのだ。第二に、不倫は大昔の女性にとって、一種の保険の役割をしただろう。「夫」が死んだり、家庭を捨てたりしたら、親としての仕事をこなすにあたってほかの男性の助けを借りられる。
 第三に、大昔の女性が近視で臆病な、あるいは無責任でできの悪い「狩人」と結婚したら、ほかの優秀な遺伝子をもつ男性との子供をもうけることで、遺伝子の改良をはかれる。
 第四に、子供の父親がそれぞれちがっていたら、子供もまたさまざまだから、環境に予想外の変化が起こっても生きのびる確率がふえる。
 先史時代の女性は相手を選んで情事をするかぎり、余分の資源を手に入れ、保険をかけ、遺伝子を改良し、多様なDNAを生物学的未来に伝えることができた。だから、こっそりと恋人と藪のなかにしのびこむ女性が栄えた。そして、無意識のうちに、何世紀ものちの現代の女性のなかに浮気の性向を伝えたのであろう。

 ここに書いているのは女にとってもメリットだが、男にとっても同様のメリットがある。逆に、繁殖のパートナーを変えないことのメリットは特にない(パートナーが一途であることのメリットはある。いちばんいいのは自分だけ浮気をして、パートナーは浮気をしないことだ)。


 著者が様々な文化での「結婚から離婚にまで要した期間」を調べたところ、離婚を許されているほとんどの文化に共通して、「結婚してから四年ほど」で別れる割合が最も多かったという。

 この四年という期間は、妊娠・出産をして、子どもが乳離れする期間にあてはまる。子どもが乳離れすれば母親は自分で食べ物を捕りにいけるし、ということは父親なしでも子育てができるわけだ。

 だからヒトの異性に対する求愛が成功した場合、四年ほどで愛情は冷める。次の相手を探したほうが遺伝子を残す上でメリットがあるからだ。よく「男が浮気をするのは遺伝子で決まっている」なんてことを言うが、それは間違いだ。なぜなら女も浮気をしたほうが遺伝子を残す上で有利だから(上で引用した文章は女の浮気のメリットを書いている)。

 つまり、わたしの理論はこうだ。繁殖期間だけつがうキツネやロビンその他多くの種と同じように、ひとの一対一の絆も、もともと扶養を必要とする子供ひとりを育てる期間だけ、つまりつぎの子供をはらまないかぎり、最初の四年だけ続くように進化したのである。
 もちろん、さまざまな変形があっただろう。あるカップルは交配のあと数カ月あるいは数年妊娠しなかったかもしれない。子供が幼いうちに死んで、周期が再開されて関係が長期化することもあっただろう。子供が生まれなくても、好きあっているために、あるいはべつの配偶者が見つからないために、長くいっしょにいることもあったにちがいない。さまざまな要素が、太古の一対一の絆の長さに影響したはずだ。だが、季節が変わり、何十年か何世紀かがたってちくなかで、最初のホミニドのうち子供が乳離れするまで配偶関係を続け、逐次的一夫一妻を選んだ者たちが残る率が圧倒的に高かったのだろう。
 ひとの繁殖のサイクルによってできあがった、七年めの浮気ならぬ四年めの浮気は、生物学的現象のひとつなのかもしれない。

 パートナーを選び、セックスをし、子どもを産み、ある程度の大きさまで育て、パートナーとは四年で別れて新たなパートナーを見つける。それが遺伝子を残す上で最良(に近い)戦略であり、それこそが自然な生き方だ。だからこそ結婚後四年で離婚する夫婦が多いのだ。




 では、四年で別れるほうが遺伝子を残す上で有利なのに、多くの文化では夫婦が一生添い遂げるのが基本になっているのか。

 つまり考えるべきは「愛はなぜ終わるのか」ではなく「愛が終わってもなぜ別れないのか」だ

 その転換点になったのは、意外にも「鋤」の発明だと著者はいう。土を耕すのに使う、あの鋤だ。

 まず、これまでわかっていることを整理してみよう。鋤は重い。引くのに大きな動物がいるし、男の力を必要とする。狩人として、夫は日常の必需品の一部のほか、毎日の生活を活気づけるぜいたく品を供給していたが、耕作が始まると、生存のために不可欠の存在となった。いっぽう女性の採集者としての重要な役回りは、食物供給源が野生の植物から栽培作物に移るにつれて小さくなっていった。長いあいだ毎日の主たる食物の提供者だった女性が、今度は草とりや摘みとり、食事の支度といった二次的な仕事にたずさわるようになった。男性の農業労働が生存に不可欠になったとき、生活の第一の担い手が女性から男性に移ったという見かたで、人類学者は一致している。
 この生態学的要因———男女間のかたよった分業と、主要な生産資源の男性による支配だけでも、女性の社会権力からの脱落を説明するには充分だ。財布のひもを握っている者が、世界を支配する。だが、女性の凋落にはもうひとつの要因が働いていた。鋤を使用する農業の発展とともに、夫も妻も簡単に離婚できなくなり、力をあわせて土地を耕して働かなければならなくなった。パートナーのいずれも、土地の半分を掘りおこしてもっていくわけにはいかなかったからだ。夫も妻も共通の不動産にしばりつけられていた。恒久的な一夫一妻制である。
 鋤と恒久的な一夫一妻制が女性の地盤沈下にどんな役割を果たしたか、農業社会に特有なもうひとつの現象を考えるとさらにわかりやすい。階級である。太古の昔から、移動民のあいだにも狩猟や採集、交易の旅などのあいだに「ビッグ・マン」が生まれていたにちがいない。だが狩猟・採集民族には平等と分かちあいの強い伝統がある。人類の大きな遺産である公的な階級はまだ存在しなかった。だが、毎年収穫の計画をたて、穀物や飼料を貯蔵し、余った食物を分配し、長距離の組織的な交易を監督し、宗教的な集まりで共同体を代表して発言するために、長が登場してきた。

 農耕が広がり、女が独身で生きていくことがむずかしくなった。木の実や野草を集めてくるのは女だけでもできるが、鋤を引き、家畜を飼うのはひとりではむずかしい。また、夫婦が別れたときに財産を分割できなくなってしまった。集めた木の実を半分に分けることはできるが、耕作地や牛を分けることはできない。

 農耕の広がりにより、離婚がしづらくなり、男の立場が強くなった。

 つまり、男女の愛は四年ほどで終わるのが自然(ただし愛情は冷めるが愛着は強くなるので必ずしも別れたくなるわけではない)。農耕により離婚がをして生きていくことがむずかしくなり、離婚は悪であるという価値観が強くなった。

 ただし人類の歴史としては狩猟採集で生きていた時代のほうが圧倒的に長いので、パートナーへの愛情が覚める、浮気をしたくなる本能はなかなか抜けない。そのギャップのせいでいろんなトラブルが起きている。




 おもしろい本だった。人間に対する理解が深まった気がする。

 古い本なので最新の知見とはちがう部分もありそうだけど。


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2024年1月16日火曜日

【読書感想文】東野 圭吾『魔力の胎動』 / 超能力は添えるだけ

魔力の胎動

東野 圭吾

内容(e-honより)
成績不振に苦しむスポーツ選手、息子が植物状態になった水難事故から立ち直れない父親、同性愛者への偏見に悩むピアニスト。彼等の悩みを知る鍼灸師・工藤ナユタの前に、物理現象を予測する力を持つ不思議な娘・円華が現れる。挫けかけた人々は彼女の力と助言によって光を取り戻せるか?円華の献身に秘められた本当の目的と、切実な祈りとは。規格外の衝撃ミステリ『ラプラスの魔女』とつながる、あたたかな希望と共感の物語。

 最近、読むのに迷ったら東野圭吾の小説を手に取ることが多い。よりくわしく書くと、あんまりむずかしいものは読みたくない、かといって中身がなさすぎるのもイヤ、読んでから後悔したくない、もっといえば本を選ぶことにエネルギーを消費したくない、つまりあまり気力がないときに選ぶのが東野圭吾作品ということだ。

 東野圭吾なら大ハズレはないよね、だ。


 今作はその期待にちょうど応えてくれる作品だった。ほどほどにおもしろくてほどほどに骨があってほどほどに退屈。

 正直言って、最近の東野圭吾作品には昔ほどの鋭い切れ味はない。うなるようなトリックとか、ミステリ界に風穴を開けてやろうとするような実験的作品はあまり見られない。その代わり、技巧はぐんと増した。ちょっとしたアイデアでも、その洗練された技術で充分読み応えのある作品にしてみせる。丁寧に仕込んだ煮物みたいな味わい。びっくりするほどおいしいわけではないが、毎日食べても飽きが来ないような味。




『魔力の胎動』は、『ラプラスの魔女』の続篇にあたる短篇集だ。

 ある事故をきっかけに「物理的な動きを予見する能力」を身につけた少女がキーマンとなっている。

 個人的には『ラプラスの魔女』は、東野圭吾作品にはめずらしくハズレ作品だった。まず導入が冗長で、さらに設定もいいかげんで「物理的な動きを予見する能力」だったはずが他人将来の行動を予測したり、話術で他人の行動を操ったり、ずるずると最初の設定がくずれてゆく。SFはルールをきちんと守るから成り立つのに、何の説明もなくルール無用の万能能力者になってしまうのだからSFの体をなしていなかった。


 ということで『魔力の胎動』はちょっと警戒しながら読んだのだが、本作はさすがの東野圭吾クオリティ。ちゃんと「物理的な動きを予見する能力」のルールを守っていて、心を読んだり人を操ったりといった反則はしない。

 また「物理的な動きを予見する能力」が重要なカギではあるが、それはあくまで小道具のひとつ。登場人物たちの心情の揺れがメインである。能力頼りの荒唐無稽な小説ではない。

「記録を伸ばすために風の力を借りたいスキージャンプ選手」「ナックルボールを捕れなくなってしまったキャッチャー」「あのときああしていれば、と過去を悔やむ父親」「恋人が死んだのは自殺だったのではないかと自分を責めるピアニスト」などの悩みのために、前述の動きを予見する能力を活かす。

 とはいえ能力で快刀乱麻を断つようにずばっと解決、とはならず、あくまで問題解決のための一助である。最終的に事態を切り開くのは自分自身だ。

 このあたりの塩梅がちょうどいい。超能力で事件を解決してもつまんないもんね。




「そこそこおもしろいものを読みたい」という期待に応えてくれる連作短篇集だったが、最後の『魔力の胎動』 だけは期待外れだった。

『ラプラスの魔女』の前日譚のような話なのだが、はっきり言ってこれだけ読んでもつまらない。『ラプラスの魔女』を読んだのは何年か前なので細かいところはもう忘れちゃったしな。『ラプラスの魔女』とセットで読ませたいのならそっちに収録してくれ。


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2024年1月10日水曜日

【読書感想文】レイチェル・シモンズ『女の子どうしって、ややこしい!』 / 孤立よりもいじめられていることに気づかないふりをするほうがマシ

女の子どうしって、ややこしい!

レイチェル・シモンズ(著)  鈴木 淑美(訳)

内容(e-honより)
突然口をきかなくなる、うわさを流す、悪口を書いたメモをまわす、じろじろ見て笑う…。女の子のいじめは間接的で巧妙なので、外からはわかりにくい。だが、いじめられた経験が心の傷になっている女性は少なくない。なぜ女の子はこんなことをするのか?本書の著者は、女の子独特のいじめを「裏攻撃」と名づけ、その実態を初めて明らかにする。そして、いじめにあったとき、辛い日々をどう乗り越えていけばいいのか、親身にアドバイスしている。いじめられた経験のある女性、いままさにいじめで苦しんでいる女の子やその親、学校関係者必読の全米ベストセラー。

 小学四年生の娘が、人間関係のトラブルに巻き込まれた。

 同じクラスの女の子三人と仲良くなり、何をするにも四人一組だった。だがその中のSという子が「○○を無視しよう」などと言い出し、S以外の三人が順番に無視されるようになった。さらにSがある子の持ち物を隠してその子が泣いたことで、教師の知るところとなった。

 うちの子は積極的に加担していたわけではないようだが、Sに言われるまま無視に協力したりしていたので(娘が無視されることもあったようだ)、親が教師から学校に呼び出される事態となった。

 教師や娘からいろいろ話を聞くかぎり、Sはなかなかの問題児のようだ。他の子の持ち物を盗ったり、しょっちゅう嘘をついたり。さらにいじめが発覚して教師から怒られた後も、教師の前でだけ反省するふりをしているがまったく反省せず、懲りずにいじめていた相手にわざとぶつかったりしているらしい。

 さらにSの母親もなかなかアレな人で、いじめ発覚後に会って話す機会があったのだが、「なんか先生が言ってることおかしいとおもうんですよね。うちの子が嘘をついてると決めつけてて」などと言っていた。子どもなんて嘘をつく生き物だろう、自分の子の言うことを全面的に信じられるほうがおかしいだろ、とおもったのだが「はあ、そうですか」と適当に相づちを打っておいた。子が子なら親も親だ。


 ま、それはよくある話だ。どこにだっておかしなやつはいる。いじめがない学校なんてほとんどないだろう。

 ぼくが理解できないのが、そんなことがあっても娘がSとの付き合いを断ちたがらなかったことだった。聞くと、いじめ発覚後、いじめられた子はもちろん、他の子もSとは距離をとっているようだ。「親からSちゃんと遊ばないように言われたから」とはっきり宣言した子もいるという。

 そこまではしないにしても、ぼくも娘にはSと距離を置いてほしいとおもう。ものを盗んだり、いじめがばれてもすぐにくりかえすような子は、そう簡単に改心しないだろう。今後もトラブルを起こす可能性が高い。

 なのに娘は「みんなが離れていったらSちゃんがひとりになっちゃうから」などと変な優しさを見せていた。いじめや盗みをして孤立するのは自業自得じゃないか、そんなやつに優しくしてもつけあがることはあっても改心することはないぞ、とおもうのだけど。

 ぼくは昔から「嫌なやつがどんなにひどい目にあってもざまあみろとしかおもわない」薄情な人間なので、嫌な目に遭ってもつきあいを断とうとしない娘の気持ちが理解できない。




 ということで2002年にアメリカで刊行されて話題になったという『女の子どうしって、ややこしい!』を読んでみた。数々のインタビューをもとに、女の子同士のいじめのパターンを明らかにした本だ。

 掲載されているのはアメリカのケースばかりだけど、たぶん日本の場合も大きくは変わらないだろう。傾向として、女子のいじめは明らかに男子のそれとは異なる。


 男子のいじめが友だちの外のメンバーに対して向かうのに対し、女子のいじめは仲良しグループ内で起こる。

 男子のいじめは強者が弱者を虐げる構造なのに対し、女子はいじめる子といじめられる子が頻繁に入れ替わる。

 女子のいじめは教師や親の目につきにくく、暴力やはっきりとした暴言を伴わないことも多いので、なかなか明るみに出ない。

 かんたんにいえば、女子のいじめのほうが複雑で巧妙ということだ。ばれにくいし、誰が見ても悪い暴力や暴言ではなく「冷たくする」「仲間に入れない」「気づかなかったふりをする」「ときには優しくする」など、一筋縄ではいかない方法をとる。

 著者はこれらの行動を、男子がよくやるあからさまないじめに対して「裏攻撃」と呼ぶ。

 いまや、もうひとつの沈黙に終止符を打つべきときだ。女の子たちの攻撃という隠れた文化では、いじめは独特で伝染しやすく、人をとことんまで傷つける。男の子の場合とちがい、身体や言葉を使った直接行動はとられない。私たちの社会では、女の子が公然といさかいを起こしてはいけないことになっているので、女の子の攻撃は間接的なかたちをとり、表面に出ない。陰口をきき、のけものにし、噂を流し、中傷する。あらゆる策を弄して、ターゲットに心理的な苦痛を与えるのだ。男の子の場合、いじめの対象は、それほど親しくない知りあいか外部の人間であることが多いが、女の子のいじめは、結束のかたい仲よしグループの内部で起こりやすい。そのため、いじめが起こっていると外にはわかりにくく、犠牲者の傷もいっそう深まる。女の子たちは、攻撃に、拳やナイフでなく、しぐさや人間関係を用いる。ここでは友情が武器だ。相手に一日中沈黙されることにくらべれば、大声で怒鳴られることなどなんでもない。背を向けること以上に、人を打ちのめす反応があるだろうか。

 男子の暴力は、ある程度は許容されることが多い。「弱い者いじめはダメ」「無抵抗の相手を攻撃してはいけない」といったルールはあるが、「強くてまちがっている者に暴力で立ち向かう」「やられたからやりかえす」「誰かを守るために闘う」などはむしろ善しとされることも多い。「男の子はちょっとぐらいやんちゃなほうがいい」という価値観は今も根強く残っている。

 一方で女子の暴力や暴言は許されにくい。「女の子なんだからおしとやかにしなさい」と言う人は今では減ったが、それでも女子の暴力や暴言は男子のそれより厳しくとがめられる。

 その結果、抑圧された女子の攻撃は巧妙で間接的なものとなる。




 女の子のいじめ、親や教師が気づきにくいし、気づいたとしてもやめさせにくい。

 人間関係が武器になるなら、友情そのものも怒りをかきたてる道具となりうる。リッジウッドの六年生がこう説明する。「友だちがいたとしても、どこかに行ってほかの子と友だちになるんです。ただその二人にやきもちをやかせるためにね」。つきあいをやめたり、あるいはもうつきあわないわよと脅したりしなくても、ほのめかすだけでじゅうぶんだ。たとえばグループが一緒にいるとき、ひとりが、ある二人だけに、わざとらしく「ほんと、週末まで待ち遠しいわね!」という。あるいはグループからひとりをちょっと離れたところに連れだして、みなの目の前で内緒話をする。それから輪のなかに戻ってきて、「なんの話?」と訊かれると、決まって「べつに。あなたたちには関係ないことよ」。女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。

 こういういじめには、親や教師が介入しにくい。暴力をふるっていたら教師はすぐにやめさせるが、「あの子と仲良くしなさい!」と交友を強制することはできない(仮に強制したとしても仲間はずれにされていた子は救われないだろう)。友だちに対して秘密を持つな、とも言えない。


 ただ、こういう行動は男子もやる。ぼくもやったことがあるし、やられたこともある。友だちと、わざと別の子の前で「アレな」とか「ほら、例のやつ」などと言ったりするのだ。「教えてくれよ」などと言う子を見て楽しむのだ。底意地の悪い遊びだ。

 おそらく誰にでも経験があるだろう。大人でもやる。符丁をつくったり、自分たちの間だけに通じるあだ名をつけたりして、秘密を共有することで友情を深めることにもつながる。必ずしも悪いことではないのかもしれない。

 でも目の前でやられたほうはほんとに嫌な気になるんだよねえ。著者は「女の子を傷つけるには、これくらいでじゅうぶんだ。」と書いているが、男の子も傷つく。ただ男子はやられたら「答えてくれるまでしつこく『なんのこと?』と訊きつづける」か「そのグループから離れる」のどちらかを選ぶケースが多いとおもうな。「自分がのけものにされていることを感じながらそのグループにいつづける」はあんまり選ばない気がする。

「ひとりっきりになるぐらいなら、いじめっ子グループに入っていじめられていることに気づいていないフリをするほうがマシ」と考えるのは女子のほうが多そうだ。




 この本を読んでいると、女の子は幼い頃から高度なコミュニケーションをとりかわしているんだなとおもう。いい面もあり、悪い面もあるが。

 暗号のなかには、複数の意味をもつものもある。「私、太ってるの」というよく聞かれる嘆きは、少なくとも三通りに訳せる。ある研究によれば、「私は太っている」という女の子で本当に太っている子はめったにいないそうだ。
 第一に、「私、太ってる」という言葉は、相手を出しぬくための間接的な道具となる。「女子は、たがいに太っているかどうか確認しあいますが、これは一種の競争なんです」と、ある八年生が説明した。「もしやせてる子が自分は太ってるといったら、私はどうなります? それは、相手はやせていない、と遠まわしにいうやり方なんです」。先の研究によれば、やせている子は、そのことをまるで「欠点か何かのように」非難される、ともいう。
 また、「私、太ってる」は、仲間からの肯定的な励ましを求める遠まわしな方法でもある。十三歳のニコルによれば、「ほめてもらいたくて、いうんです」。研究者たちは、「女の子たちが『私は太っている」というのは、他人が自分についてどう思っているかを推しはかるためだ。彼女たちは非常に競争心が強いが、そう見えないようにする」と述べている。
 第三に、「私、太っているから」といえば、「カンペキな子」といわれないですむ。自分のことを「太っていると思っている」という意思表示をしないと、「自分はダイエットをする必要がない、自分に満足している」という意味になってしまう。「いい女の子」は自分を卑下するものだから、相手にいってほしいほめ言葉をからめ手から引きだすのである。

「私、太ってるの」が攻撃にも自慢にも謙遜にも防衛にもなる。それらをいっぺんにおこなう高度なコミュニケーションだ。

 当然ながら、「私、太ってるの」と言われたほうも、「めんどくせえな」とおもっていることはおくびにも出さずにさもびっくりしたような顔で「えっ、ぜんぜんそんなことないじゃん!」と言わなければならないのだ。たいへんだ。

 男が「おれ太ってるんだよね」と言ったら文字通りの意味か冗談かのどっちかしかないし、言われたほうもハッキリと「そやな」か「『そんなことないよ』って言ってほしいんか」と言うだけだ。シンプルというか単純というか。ヒトとサルぐらいの違いがある。ぼくはサルでよかった。




『女の子どうしって、ややこしい!』では、様々な例を挙げて女の子同士の“裏攻撃”が日常茶飯事であることを示した上で、親の対応についても書いている。

 ほかの親たちを怒らせることを恐れるあまり、彼女はホープをじゅうぶんに守ることができず、ホープの苦しみを正当化することになってしまった。私が話を聞いたほとんどの母親たちは、ほかの親の反応を恐れて、行動を起こすのを躊躇していた。子育ての不文律の第一は、育て方について他人にとやかくいわれたくない、ということであり、第二は、他人の子を批判するのは危険、ということだ。子どもの行動を批判されると、親は往々にして自分の育て方が暗に攻撃されたと解釈して、自己防衛に走る。ときには不合理なまでに。

 子どもがいじめられていると知ったとき、特に裏攻撃を受けているとき、親が子どものためにできることはそんなに多くない。

 子どもに「そんな子とは友だちでいるのをやめてください」とか「嫌なことははっきり嫌と言いなさい」なんて言うのは無駄だ。子どもが望んでいることは関係の修復であって決別ではない。いつかは「あの人と離れてよかった」とおもう日が来るがそれは今ではないし、親に言われて気づくものでもない。

 学校やいじめている子の親に言いにいくのも良い結果につながらないことが多い。言って関係が改善することはまずないし、いじめられている子自身がそれを望んでいないことが大半だ。親への信頼をなくすだけ。

 ではどうしたらいいのか。著者は、親が直接できることはほとんどないと主張する。子どもの話をじっくり聞く、自分の体験談を話す(ただし押し付けない)、何かやってほしいことはあれば言ってほしいと伝える、それぐらいだ。しかしそれが大事なのだと著者は説く。

 基本的には子ども自身で立ち向かわなくてはならない。いじめには明確な理由がないことも多いので「いじめている子らがいじめに飽きて他のことに興味を移す」「進級や進学で環境が変わる」ぐらいしか解決方法がなかったりもする。

 それでも、何も知識がなくこんなひどい目に遭っているのは世界中で自分だけとおもうよりも、世の中はこういうもので自分に原因があるわけではないと知っているほうが、ほんのちょっとは生きやすくなるだろう。

 ニュースなどで語られるいじめは暴力やあからさまな嫌がらせのような“わかりやすいいじめ”ばかりだからこそ、見えにくいけどよくある“裏攻撃”について多くの事例を挙げているこの本は力になる。


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2024年1月9日火曜日

【読書感想文】山崎 雅弘『未完の敗戦』 / 批判が許されない国

未完の敗戦

山崎 雅弘

内容(e-honより)
コロナ対策、東京五輪強行開催、ハラスメント、長時間労働、低賃金…。なぜ日本ではこんなにも人が粗末に扱われるのか?そんな状況と酷似するのが戦中の日本社会だ。本書では、大日本帝国時代の歴史を追いながら、その思考形態を明らかにし、今もなおその精神文化がはびこっていることを様々な事例を通して検証。敗戦で否定されたはずの当時の精神文化と決別しなければ、一人一人の命が尊重される社会は実現しない。仕方ない、という思い込みとあきらめの思考から脱却するための、ヒントと道筋を提示する書。


 日本は無謀な戦争につっこんでいった大日本帝国時代の総括をまだきちんとできていない。それどころか民主主義を否定し、戦前の時代に近づけようとする輩が跋扈している……と警鐘を鳴らす本。


 書いてる内容自体にはすこぶる共感できるんだけど、さして新しい主張ではないのと、著者の気持ちが強く出すぎていて、新書を読んでいるというより演説を聞いているような気分になる。

 演説って不愉快なんだよね。選挙の街頭演説なんて、主張に賛成だろうと反対だろうと、どっちにしろ気持ち悪い。人前で「おれはこうおもう!おれは正しい!」って唱えてる声が聞こえてくるだけで気分が悪くなる。

 クールな視点で淡々と書くからこそ届くものってあるとおもうんだけどね。




 二〇二一年五月十四日、菅首相は首相官邸での記者会見で、記者から「東京五輪を開催するメリットとデメリットは何か?」と問われて「五輪は世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものだ」という「メリットだけ」を答え、「デメリット」には一切触れませんでした。
 菅首相は、六月二日夜に首相官邸で応じた記者の「ぶら下がり」取材でも、記者からの「東京五輪を開催すべきだという理由をどのように考えるか?」との質問に対し、次のように答えました。
「まさに平和の祭典。一流のアスリートがこの東京に集まってですね、そしてスポーツの力で世界に発信をしていく。さらにさまざまな壁を乗り越える努力をしている。障害者も健常者も、これパラリンピックもやりますから。そういう中で、そうした努力というものをしっかりと世界に向けて発信をしていく。そのための安心安全の対策をしっかり講じた上で、そこはやっていきたい。こういう風に思います」
 まるで、オリンピックという商品を売るセールスマンのような、東京五輪の「良い面」だけを強調する言葉ばかりで、日本の首相として日本国民の命と健康と暮らしを優先順位の第一位にするという責任感は微塵も感じられません。

 首相が国民のことを考えないのは今にはじまったことでないからもう慣れっこになってしまったんだけど(ほんとはそれもよくないんだけど)、良くないのはそれをそのまま垂れ流す報道機関。

 首相が質問に真っ向から答えなかったときは「~と、首相はデメリットを隠した」と伝えなきゃいけないのに。


 戦争中、日本の大手新聞三紙(朝日、毎日、読売)とNHKラジオは、大本営すなわち政府と軍部の戦争指導部による発表の内容を無批判に社会へと伝達し、国民が「敗戦」を受け入れる心境にならないようにする心理的な誘導に加担しました。
 新型コロナ感染症が国内で大流行している最中でも、感染予防よりオリンピックの開催が大事であるかのような、戦争中の戦意高揚スローガンを彷彿とさせる薄気味の悪い政治的アピールの言葉が、日本の総理大臣の口から繰り返し語られ、NHKと大手新聞各紙、民放テレビ各局が、それらの言葉をほとんど無批判に報じて、政府広報のような役割を果たす図式は、戦争中の図式と瓜二つだったと言えます。
 本章で具体的な事例と共に紹介した、新型コロナ感染症流行下でも東京五輪の開催に固執し続けた菅首相と日本政府の姿勢に見られるのは、厳しい現状と「こうあって欲しいという願望」を混同する思考形態の危うさです。

 おかしな人はいつの世にもいるし、私利私欲に走るのは人間としてあたりまえの姿だ。だからこそ定められた手続きを踏まないといけないし、そのプロセスを公開して批判的な意見を集めるのが民主主義国家だ。

 ずるいやりかたでお金儲けをするのが大好きな人が「税金でオリンピック! 税金で万博&カジノ!」と叫ぶこと自体はあたりまえのことで、そいつらを根絶やしにするのは不可能だ(オリンピックや万博にだってメリットがないわけではないし)。

 必要なのは、オリンピックや万博で儲けようという政治家に対してきちんと批判の目を向けること。

 なのだが、本邦では新聞社やテレビ局がオリンピックのスポンサーになっているわけで……。




 先の戦争で、無謀な特攻により多くの兵士が戦死した。ぼくは“無駄死に”だとおもう。特攻兵は悪くない。特攻を考案して強引に推し進めたやつが悪い。

 鴻上尚史『不死身の特攻兵』によると、特攻は人道的でないだけでなく、戦術としても愚策だったそうだ。斜め上からの攻撃だと戦艦に大きなダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうが衝突時のエネルギーが小さい、引き返せないのでタイミングが悪くても無理して攻撃しなければいけない、そして操縦技術を習得した兵士や戦闘機を失うことになる……。どこをとってもダメダメな攻撃だ。ダメダメな攻撃で死んだので特攻死は犬死にだ。

 が、こういうことを書くと文句を言うやつがいる。「国を守るために命を落とした英霊を侮辱する気か!」などとずれたことを言う、論理性のかけらもない人間がいる。

 このように、靖国神社という特殊な施設は、戦前戦中の日本において、軍人が死ぬという「マイナスの出来事」を、「国難に殉じた崇高な犠牲者」という「プラスの価値」へと転化し、教育勅語に基づく教育によって国民に定着した「天皇のための自己犠牲を国民の模範とする風潮」をさらにエスカレートさせる役割を果たしていました。
 こうした精神が膨張すれば、日本軍人が戦争でいくら死んでも「失敗」や「悪いこと」とは見なされなくなります。当時の大日本帝国の戦争指導部は、どれほど多くの軍人を前線や後方で死なせても、靖国神社という施設が存在する限り、無制限に「免責」される。つまり指導部の道義的な責任を問われない仕組みが成立していました。
 死亡した日本軍人が、靖国神社で自動的に「英霊」として顕彰されるなら、その死を招いた原因は追及されません。なぜなら、彼らの死の原因が戦争指導部の「失敗」や「不手際」ということになれば、「英霊」の名誉も傷つく、との考えが成り立つからです。

 戦争の話だけではない。2021年の東京オリンピックのときもやってることは変わらない。

 感染症対策、莫大な費用、汚職にまみれた誘致、やらないほうがいい理由は山ほどあった。けれど「このために何年も努力してきたアスリートが……」「闘病から復帰した女性アスリートの夢が……」と美談らしきものを引っ張り出してきて、政府とマスコミが一丸となって「やるしかない」ムードを作り上げていた。

「ここで降伏したら国のために命を捧げてきた英霊たちの犠牲が無駄になる」の時代とやっていることは変わらない。




 この本で書かれているのは至極まっとうなことで、批判的精神を持ちましょう、批判を認めましょう、ということだ。

 でも批判を許さない風潮は今でも強い。

 たとえば政治について「もっといいやりかたがあるんじゃないか」「こうすればもっとよくなるんじゃないか」とおもうから政権批判するわけだけど、それだけで反射的に「なんでもかんでも反対するな! アカが!」と青筋立てる連中がいる。

「自民党がやるからすべて賛成!」の人と「もっといいやりかたがあるはず」の人ではどっちが真剣に考えているか明らかだとおもうんだけど、後者許すまじの人はすごく多い。

「盲目的に従わないやつは反抗的」って考えは強いんだよね。政治でも、企業でも、学校でも。




 著者が書いていることには概ね同意できるんだけど、読めば読むほど
「でも、こういう本を出しても、ほんとに届いてほしい人には届かないんだよなあ」
という虚しさをずっと感じてしまう。


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2023年12月21日木曜日

【読書感想文】矢部 嵩『保健室登校』 / 唯一無二の気持ち悪さ

保健室登校

矢部 嵩

内容(e-honより)
とある中学校に転入した少女。新しい級友たちは皆、間近に迫るクラス旅行に夢中で転入生には見向きもしない。女子グループが彼女も旅行に誘おうとすると、断固反対する者が現れて、クラスを二分する大議論に発展。だが、旅行当日の朝、転入生が目の当たりにした衝撃の光景とは―!19歳で作家デビューを果たした異能の新鋭が、ごく平凡な学校生活を次々に異世界へと変えていく。気持ち悪さが癖になる、問題作揃いの短編集。


 まず断っておくけど、ハッピーな小説を読みたい人、わかりやすいお話が好きな人、グロテスクな描写が苦手な人にはまったくもっておすすめしない。とにかく展開はグロいし、わけのわからないことが起こるし、文章は癖が強くて読みづらい。でも、慣れるとそれが病みつきになってくる。珍味。

 ぼくは『魔女の子供はやってこない』ですっかり矢部嵩氏の濃厚な味付けにハマってしまったので(といっても頻繁に読みたいわけではない。たまに無性に読みたくなる)、『保健室登校』も読んでみた。こっちのほうが古い作品集だけど。




 うん、おもっていたとおりの変な味付け。『魔女の子供はやってこない』もずいぶん癖の強い味だとおもったけど、『保健室登校』はもっと洗練されていない。

  特に会話文はすごい。

 口語文とか言文一致とかいっても、小説の会話文と現実の会話文はまったくちがう。小説の会話は文法的に正しいし、無駄も誤りもない。ドラマのセリフもたいていそう。でも現実の会話はそうではない。もっとむちゃくちゃだ。省略も多いし語順も時系列も変だし文法的にもぜんぜん正しくない。矢部嵩作品は、その実際の会話文を忠実に再現している。

「私廊下見てたの教室のドアが開いてて確か、風入って寒いから誰か閉めればいいのにと思ってずっと気にしてたんだけど、それもあいまって覚えてる」
「ちょっと待って」吞み込みながらもう一度、可絵子は念を押した。「本当だね、授業中ずっと気にしてたのね。一人二人見逃したりしないで、ずっと廊下見てたのね。あなたの席から見える廊下はどれくらい」
「多分ずっと見てたと思う、席は一番後ろの列で、ドア開いてるとちょうどそこの」そういってA子は廊下の奥を指差した。「トイレあるでしょ、あれが男女とも見える。私の机から。その横の階段は見えないけれど、トイレの前を誰か通ればきっと見える感じ」

 じつはすごくむずかしいことをやっている。「私廊下見てたの教室のドアが開いてて確か、風入って寒いから誰か閉めればいいのにと思ってずっと気にしてたんだけど、それもあいまって覚えてる」なんて、口では言うけど、書こうとおもっても書けない。義務教育を受けていたらぜったいに修正されるから。

 すごいよねえ。どういう人生を送ってたらこういう文章書けるんだろう。学校行ったことないのか? とおもってしまう。

 こういう文章が並んでいるのですごく読みづらいんだけど、慣れてくるとリアルな会話を聞いているようでわりとすんなり入ってくる。黙読だと気持ち悪いけど、音読するとけっこう理解できるんだよね。




 転校したばかりなのにクラス中からあからさまに嫌われる『クラス旅行』

 クラス対抗リレーで勝利するために足の遅い生徒が次々にけがを負わさればたばたと死んでゆく『血まみれ運動会』

 頭のイカれた教師がお気に入りの生徒の関心を引くために暴走する『期末試験』

 理科の実験中に宇宙人が盗まれてクラス内で犯人探しがはじまる『平日』

 合唱コンクールに向けて命を削った練習がおこなわれる『殺人合唱コン(練習)』

の五編を収録。

 どうよ、この異常なラインナップ。ちなみに上に書いたあらすじはこれでも抑えていて、本編はもっともっと異常だからね。作中で数十人は死ぬか重傷を負わされている。


 通っているときはなかなか気づかなかったけど、学校ってかなり異常なことがおこなわれていて、たかが遊びにすぎない部活のために他のあらゆることを犠牲にしたり、一イベントである文化祭や合唱コンクールのために遅くまで残ったり朝早く登校することを強いたり、なにかとおかしい。運動会とか文化祭とか合唱コンクールとかのためにがんばらないやつが悪いみたいな風潮とか。なぜ悪いかと訊かれても誰も説明できないだろう。
「そりゃあみんなががんばっているから……」
「みんなががんばっているときに自分だけがんばらないのがなぜ悪いんですか」
「……」
みたいに。

 でも学生にはその異常さがわからない。教師にもわからない。

『保健室登校』は、学校が抱える異常さを大げさに表現して教育問題に鋭いメスを入れる……というような大それた小説じゃないです、たぶん。ただただ気持ち悪い小説。




 ばったばった人が死ぬし、血は流れるし、脚はちぎれるし、のどは焼けるし、はらわたは飛び出る。

 グロテスクな話が続くが、それでもどこかユーモラス。

「あなたサブリミナル効果って知ってる」
「はいあのコーラですでもそれが何ですか」
「体育でビデオ見せられたでしょう走り方講座的なビデオを。あれがそうだったのよ」
「何ですって」
「あのビデオには知覚できないほどの短いコマ間隔でトラックを走る短距離走者の映像が挟み込まれていたのよ。おそらく実行委員は何度も見て個人の気持ちや事情に先立ちまずとにかく走らねばという観念にとらわれていたのよ。頭が」
「何てこと」駅子は戦慄した。「走っている人間の映像の間に走っている人間の映像が巧妙に挟み込んであったなんて」
「そう走っている人間の映像の間に走っている人間の映像をカットバックさせることで知覚出来ない人間の意識下に走っている人間の映像を刷り込んで秘密裏に脳に働きかけていたのよ。見ている人はただ自分は走っている人間の映像を見たと思うだけ、その裏に刻まれた走っている人間の映像の影響に気付くことはないというわけ」
「でっでもそんなことで本当にこんな事態に」
「のみでなくさらにこれよ」先生は包みを取り出した。
「それは差し入れの」
「お菓子なんかじゃないわこれ元気の出る薬よ」
「それじゃみんなは元気の出る薬と元気の出るテレビの影響でおかしくなってたというんですか」
「いえないでしょう」

 いろいろ書きたいことはある気がするけど、でもこの本の魅力は説明しようがない。だって類似の本がないんだもの。唯一無二の気持ち悪さ。

「変な本が好き」という人は読んでみてください。ハズレを引きたくない、という人にはまったくおすすめしません。


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2023年12月20日水曜日

【読書感想文】東野 圭吾『あの頃の誰か』 / 未収録には未収録の理由がある

あの頃の誰か

東野 圭吾

内容(e-honより)
メッシー、アッシー、ミツグ君、長方形の箱のような携帯電話、クリスマスイブのホテル争奪戦。あの頃、誰もが騒がしくも華やかな好景気に躍っていました。時が経ち、歳を取った今こそ振り返ってみませんか。東野圭吾が多彩な技巧を駆使して描く、あなただったかもしれれない誰かの物語。名作『秘密』の原型となった「さよなら『お父さん』」ほか全8篇収録。

 バブル期を舞台にしたミステリ短篇集……かとおもったけど、あれ?

 どうやら「バブル期を舞台にした」ではなく「著者がバブル期に書いたけど単行本未収録だった作品」を集めたものらしい。


『シャレードがいっぱい』

 シャレードとは、言葉あてゲームのことらしい。言葉が謎解きのカギになっているのは二つ。いっぱい……? どちらもそんなに質は高くない。

 女が男を所有している車で値踏みしていたり、クリスマスイブは高級ホテルの予約争奪戦をしていたり、設定はバブル丸出しでとにかくダサい。これをバブルまっただなかに書いていたというのがおもしろい。バブルの空気を茶化してるわけじゃなく、ほんとにこれがリアルだったんだなあ。


『玲子とレイコ』

 ある男性が殺された。近くで犯人の女性が見つかったが、彼女は二重人格で事件当時のことをまったくおぼえていない様子。おまけに犯人と被害者とは顔を会わせたこともなかった。彼女の“別人格”はなぜその男を殺したのか……。

 犯人が異常者なので、動機は理不尽、行動もかなりいきあたりばったり、その割に犯行後の行動だけはやたらと計画的。なんでなんだ?


『再生魔術の女』

 家族や科学技術を多く題材に扱う東野圭吾らしいテーマ。しかし話運びに無理があるし、そもそも「個人で養子縁組の斡旋をしている女」ってなんなんだよ。人身売買じゃねえか。


さよなら『お父さん』

 後の『秘密』の原型となった小説。事故により身体は娘だが心は妻になる、というSF設定。これは長篇に書き直して正解だったね。短篇だと「心が妻になった小学生の娘が大人になって結婚式」までの展開が急すぎてついていけない。


『名探偵退場』

 『名探偵の掟』シリーズの原型のような作品かな。年老いた名探偵が久しぶりのクローズド・サークルでの本格殺人事件に挑むが……という話。

 だが『名探偵の掟』が皮肉やユーモアがびしばし効いていたのに対し、こちらはどうもパワー不足。ギャグをやりたいのか、意外なオチをつけたいのか、どっちつかずという印象。


『虎も女も』

 あーこれおぼえてるなー。昔、講談社が『IN POCKET』という200円ぐらいの文庫サイズの雑誌を出していて、その中で『虎も女も』というタイトルでいろんな作家が競作をする、という企画があったんだよね(元ネタは19世紀の短篇『女か虎か?』)。その中の一作。

 誰が参加していたかはわからないけど、たいていの競作がそうであるように、ひどい出来の作品ばかりだった(そもそも広がりのあるお題じゃない)。その中でいちばんマシだったのが東野圭吾氏のこの作品。とはいえ地口オチで、ぎりぎり形にしたというレベル。これがいちばんマシだったんだからひどい企画だったんだなあ。


『眠りたい死にたくない』

 あこがれの先輩女性からデートに誘われた主人公。ところが女性に車で送ってもらっているうちに、不意に睡魔に襲われ、気づいたら……。

 十数ページの短い作品。これがいちばん完成度が高かったかな。ただ、犯人の動機やターゲットの選定に対して行動が大がかりすぎて、そこまで手の込んだことするか? とおもったけど。

 あとタイトルのせいで結末がだいたいわかってしまうのはよくないな。


『二十年目の約束』

 結婚するときから子どもはつくらないと宣言していた男と結婚した主人公。夫が何かを隠している様子なのでこっそり後をつけたところ……。

 いい話風。でもいろいろと雑。自分のせいで(とおもっている)幼なじみが死んだからその罪滅ぼしのために子どもをつくらない約束をした、というのも意味わからないし、子どもはつくらないけど結婚はするというのもますます意味不明。よほど結婚しなきゃいけない事情があったの? そのあたりが何も書かれていないけど。




 というわけで、未収録作品集の例に漏れず、出来のよろしくない作品だらけでした。これはむりやり本にまとめた出版社が悪い。出すべきじゃないから出してなかったのに。静かに眠らせてあげればよかったのに。

 ほんと、アーティストが死んだ後に出る未発表曲を収録したアルバムとか、遺稿集とか、出すのやめてあげてほしいなあ。作家だって望んでないだろうし、ファンもがっかりするし。尾崎豊なんて死後にコンピレーションアルバムを9枚も出されてるんだよ。生きてるときに出したアルバムよりも多い。死人を働かせすぎ。

 東野圭吾氏もあとがきで言い訳を並べている。本人的にも「人気あるからってこんな本出しちゃって申し訳ない」という後ろめたさがあったんだろうなあ。

 せめて未収録作品集なら未収録作品集とちゃんとうたって出してほしい。だまして買わせるようなことはやめてよね、光文社さん。


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2023年12月19日火曜日

2023年に読んだ本 マイ・ベスト12

 2023年に読んだ本の中からベスト12を選出。

 なるべくいろんなジャンルから。

 順位はつけずに、読んだ順に紹介。


中脇 初枝
『世界の果てのこどもたち』



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 小説。

 重厚な大河小説を三冊分読んだぐらいのボリューム感。戦中戦後がどういう時代だったのかを鮮明に伝えてくれる小説。



米本 和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』




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 ルポルタージュ。

 オウム、エホバ、統一教会、ヤマギシというカルトの2世信者にスポットをあてた本。長年カルトの取材をしているだけあって、深いところまで切り込んでいる。

 これを読むと、エホバや統一教会やヤマギシってオウムよりもえげつないことしてるんじゃないの? とおもってしまう。



奥田 英朗
『ナオミとカナコ』 



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 小説。

 ある男の殺害を決めたふたりの女性。「はたしてうまく殺せるのか」「予期せぬ事態が起こって計画通りにいかないんじゃないか」「うまくごまかせるのか」「ばれそうになってからはうまく逃げられるのか」と、中盤以降はずっと緊張感が漂って読む手が止まらなかった。まるで自分が追い詰められているような気分だった。




加谷 珪一
『貧乏国ニッポン ますます転落する国でどう生きるか』



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 ノンフィクション。

 ここ三十年の日本の没落っぷりを嫌というほどつきつけてくれる。

「まともな政治をする」「高齢者に金を使うより教育に金をかける」をすればいくらかマシにはなるのだろうが、それができそうにないのが今の惨状なわけで……。




澤村 伊智
『ぼぎわんが、来る』


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 ホラー小説。

 怪異系のホラーってぜんぜん好きじゃないんだけど(まったく怖いとおもえないので)、これは「恐ろしい怪物の話」かとおもわせておいて「生きている人間が静かに募らせる恨み」の話だった。おお、怖い。とくに妻帯者は怖く感じるんじゃないかな。



二宮 敦人
『最後の秘境 東京藝大 天才たちのカオスな日常』 




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 ノンフィクション。

 日本で最も入るのが難しい大学である東京藝大。謎に包まれた藝大生の生態を解き明かしていく一冊。超大金持ち、変人、奇人、天才が集う大学。自分とはまったく縁のない世界だからこそ、読んでいて世界が広がる気がして楽しい。



鴻上 尚史
『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』




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 ノンフィクション。

 太平洋戦争時、特攻を命じられるも9回出撃して生還した兵士の話。

 日本軍は組織としては大バカだったし参謀や司令官には大バカが多かったけど、特攻が戦術的にダメであることを見抜き、勝利をめざしてきちんと考えられる賢人たちもちゃんといたことを教えてくれる。



東野 圭吾
『レイクサイド』




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 ミステリ。

 前半は「そううまくいかんやろ」と言いたくなる展開だったが、その“うまくいきすぎ”にちゃんと理由があったことが後半で明らかになる。登場人物が身勝手な人物だらけで、後味も悪い。そういうのが好きな人にはおすすめ。



『くじ引きしませんか? デモクラシーからサバイバルまで』



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 ノンフィクション。

 今話題になっているくじ引き民主制について様々な立場からメリット・デメリットを語った本。職業政治家がぜんぜん有能でない(どうしようもないポンコツも多い)のは誰もが知るところ。

 読んだ感想としては、もちろんデメリットはあるけど、メリットのほうが大きいんじゃないかな。特に現行の投票制との併用はすぐにでも実施してみてほしい。



チャールズ・デュヒッグ
『習慣の力』




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 ノンフィクション。

 人間の意志はきわめて軟弱だから、何かを続けたかったら決心みたいな不確かなものに頼るのではなく、習慣を変えなければならない。習慣を変えるには行動を変えなければならない、行動を変えるには報酬(必ずしも金銭ではない)という内容。

 自分や他人の行動を変えたい人におすすめ。



リチャード・プレストン
『ホット・ゾーン ウイルス制圧に命を懸けた人々』



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 ノンフィクション。

 エボラウイルスとの闘いを描いた息詰まるレポート。エボラウイルスが新型コロナウイルスのように世界中に拡がらなかったのは、狂暴すぎて拡がる前に感染者が死んでしまうから。だが、今後より拡がりやすいウイルスに変異しないとも限らないという……。



デヴィッド・スタックラー サンジェイ・バス
『経済政策で人は死ぬか? 公衆衛生学から見た不況対策』



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 ノンフィクション。

 不況や経済危機に陥ったせいで多くの人が死ぬことがある。だが、そうならないこともある。恐慌なのに死亡率が死なない国もある。

 かんたんに言えば「国や大企業のために引き締めをおこなえば国民は多く死ぬし復興も遅れる。国民の健康、就業、福祉などに金を使えば死亡率は抑えられるし復興も早くなる」ことを数々のデータから明らかにしている。ところで、今の日本はというと……



 来年もおもしろい本に出会えますように……。