毎年恒例、2025年に読んだ本の中からベスト10を選出。
なるべくいろんなジャンルから。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。
来年もおもしろい本に出会えますように……。
DNA分析を使って古生物の生態について調べる分子古生物学者の取り組みを紹介した本。
新書ではあるものの、専門用語もばんばん出てくるので、素人にとって決して読みやすい本ではない。たぶんこれでも平易に書いてくれてはいるんだろうけど……。
大昔の生物のことを調べるなら化石を調べるしかないだろう、とおもっていたけど、それは素人の考え。原生生物のDNAを調べることでもう絶滅した生物の遺伝子を突き止める。そんなことができるんだー(どうやってやるかは、正直読んでもよくわからんかった)。
新書にしてはずいぶん読みにくい本だとおもっていたら、あとがきを読んで著者の意図がわかった。
科学の本というより科学史の本だったんだよね。○○と考えた人がいたけどこの考えは間違いだった、かつては××と思われていたけどその後の研究で誤りだったことがわかった……という「失敗史」に多くのページが割かれている。
こういう「100回やって99回失敗」こそが研究者のリアルであり、それに耐えられる人しか成功しないんだろう。だから初学者に向けて「かんたんに世間をあっと言わせる研究結果が出るとおもうなよ」という戒めを込めてこの本を書いたんだろうけど……。
正直、ぼくのように研究の道に進みたいわけではなく、「ただおもしろい研究結果だけ知りたい」という人にとってはあんまりおもしろい本じゃなかったな。
環境問題について語る上で避けては通れない古典的作品。初出は1962年。今もって最も有名な環境問題の本といってもいい。
(学生時代に英語の問題集に載っていたのでごく一部だけは読んだことがあった気がするが)刊行から60年以上たって、今さらながら読んでみた。
今さら『沈黙の春』を手に取ったきっかけのひとつが、ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』に『沈黙の春』の引き起こした被害が書いてあったからだ。
『禍いの科学』によれば、『沈黙の春』が有機塩素系の農薬であるDDTの環境への悪影響を主張した結果、世界的にDDTの使用が禁止された。だがDDTはマラリアなどの疾病を抑えるためのきわめて効果的な薬だった。DDTが禁止された結果、ほぼ根絶できていたマラリアは再流行し、結果として5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは5才未満の子どもだった。
ことわっておくと、『沈黙の春』にはDDTなどの化学農薬や殺虫剤をすべて使用禁止にせよとは書いていない。ただ、環境に与える害を述べ、不適切な使用、過度の使用に対して警鐘を鳴らしただけだ。
だが、おそらくこの本は大きな反響を呼んでしまった。結果、カーソンが書いた以上に(カーソンはマラリア予防でのDDTの使用禁止は訴えていない)DDTは敵視され、過度に制限されてしまった。言ってみれば、科学肥料や殺虫剤のバカな使い方を批判したら、別のバカが過剰に反応してしまったというところだ。
「とにかく殺虫剤をばらまいて環境を破壊する人間」と「すべての農薬や殺虫剤を敵視してむやみに禁止させようとする環境保護主義者」は、主張こそ反対ではあるが思考はきわめて近いところにある。どちらも実験や観測を軽視して感情のために行動し、己の行動を顧みないという点が一緒だ。
環境問題にかぎらず、あらゆる問題がそうだよね。政治的極右と極左とか、エネルギー問題とか、両端にいる人たちって実はけっこう似た者同士なんだよね。バカ同士仲良くしなよ、と言いたくなる。
『沈黙の春』は(おそらく著者の想定以上に)大きな反響を引き起こした。ちょうど、虫を殺すためだけに殺虫剤を使ったのに、他の虫や鳥や魚や獣まで殺してしまったように。
『沈黙の春』が過剰な反応を引き起こしたのは、刊行されたタイミング(科学の進歩によるひずみが表面化してきたころ)が良かったのもあるだろうし、カーソン氏の文章がうますぎるのもあるとおもう。情景を想起させる力が強いし、よくできたストーリーは人間の感情に訴えかけてくる。
読んでいると「このままじゃだめだ。なんとかしないと」という気になってくる。60年後の日本人にすら強く訴えかけてくるのだから、当時の人々はより強い危機感を抱いたことだろう。
多くの客観的な数字やグラフを並びたてるよりも、一行の詩のほうがはるかに力強く人間の心を動かしてしまう。
『沈黙の春』はそこそこのページ数があるが書かれている内容はシンプルで、だいたい同じことのくりかえしだ。
害虫を殺すために殺虫剤を使っているが、その薬は他の生物も攻撃する。他の虫、魚、鳥、場合によっては獣やヒトも。直接害を及ぼすこともあるし、間接的に(殺虫剤を浴びた虫を食べることなどで)健康被害を受けることもある。
また、狙った害虫だけを殺せたとしても、それがさらなる悪い結果を生むこともある。害虫が激減 → その害虫を食べていた虫や魚や鳥がエサ不足で減る → 捕食者がいなくなったことで再び害虫が増える(しかも薬品に対する耐性をつけている)、ということも起こる。
生態系は無数の生物が複雑にからまりあって構成されているので、ピンポイントで「この生物だけを絶滅させる」「この生物だけを増やす」ということができない。何かが増減すれば、必ず他の生物も影響を受ける。
そのあたりは納得できる。殺虫剤の農薬の過剰な使用は良くない。その通りだとおもう。
ただ同意できないのは、終章『べつの道』で著者が提唱する化学薬品の代わりとなる手法。
要するに、ある種の虫を減らしたいのであれば、その虫の天敵となる菌、虫、鳥などを連れてきて、捕食(または病気に感染)させよ、というのが著者の主張だ。
いやあ……。それはそれでだめでしょ……。
外来種とかさんざん問題になってるし、沖縄でハブ退治のためにマングースを連れてきたらマングースがハブ以外の生物を食べて害獣化しちゃったなんて例もあるし、うまくターゲットとなる虫を減らせたとしてもどこにどんな影響が出るかわからない。
60年後の世界から批判するのはずるいけどさ。でも化学薬品はダメで外来種ならいいというのは、やっぱり近視眼的だ。生態系は複雑で影響を予想できないのとちゃうかったんかい。
環境問題ってつきつめていけば最後は「人間がすべての文明を捨てて原始的な生活をするしかない。子どもや働き盛りの人がばたばた死んでもそれはそれでしかたない」になっちゃうから、どこかで許容するしかないんだよね。農薬を使わないほうがいいといったって、農薬なしで今の人口を支えられないのもまた事実なわけで。
まるで環境問題に“正解”があって、その“正解”を著者が知っているような書き方がきになったな。研究者として誠実な態度ではない。ま、だからこそ大きな反響を呼んだんだろうけど。世間は「Aが正しそうだがBの可能性もあるしCも否定できない」という人よりも、「Aが正解! 絶対A! 他はだめ!」っていう単純な人に扇動されてしまうものだから。
様々な史料、そして著者自身の体験・記憶を元に、1980年代に「若者」の扱いがどう変わったのかを記録した本。
史料がかなり偏っているし記憶に頼っている部分もあるので信頼性はないが、それでも「時代の空気」みたいなものは十分に伝わってくる。なにより堀井さんの語り口がおもしろい。いろんな人の文章を読んできたが、その中でも好きな文章ランキング上位に入る。
ぼくは1980年代生まれなので、1980年代の空気というものをまったくといっていいほど知らない。新聞やテレビで自分の手の届かない“世間”を知るようになった頃にはもう1990年代だった。だから著者の語る「1980年代の前と後」の話はおもしろかった。なにしろぼくは“後”のほうしか体験していないのだから。
「若者」向けのマーケティングがなされるようになったのが1980年頃だと著者は語る。
それ以前は、社会人になれば「大人」のカテゴリだったと著者は主張する。
1980年代といえばだいたい団塊ジュニア世代が十代だった頃と一致する。つまり「若者」の数が多かった時代だ(それ以降ずっと減り続けている)。しかも日本は好景気。数多くいる「若者」にはそこそこ自由に使える金もあった。
「若者」は金になると気づいた大人たちが様々なメディアで「これが若者の理想の生活」「若者のカップルはこう行動する」「このアイテムを持っているのがナウい若者」とはやし立て、まんまと若者から収奪することに成功した……というのが著者の主張だ。
そんなものかもしれない。ちがうかもしれない。なにしろぼくは80年代以前を知らないので。
でも少なくとも90年代~00年代には「理想の若者像」がなんとなくあった気がする。こういう服を着て、こういう化粧をして、こういう所に行くのがイケてる若者ですよ、という像が。それは若者自身が抱いていたものというより、もっと上の世代が作って押しつけようとしていたものだったんだろうけど。
最近はどうなんだろう。なんとなくだけど、なくなりつつあるような気がする。新聞やテレビが力を失い、ネット上では趣味が細分化され、SNSでの流行はあれどすごいスピードで消化され、1週間前のトレンドをもう誰も話題にしなくなっている。
それに、若者の数がすごく少ない(今の10代は100万人ぐらいで全人口の9%ぐらい。1980年代にはこの倍ぐらいいた)ので「若者」市場が魅力的でなくなったのもあるだろうしね。しかも今の若者は金を持ってないし。
社会の動きが止まった、という話。
個人的に強く印象に残ったのがこの文章。
昔がどうだったかは知らないけど、たしかに90年代以降、ぼくが知るかぎりでは「若者の可能性に賭ける」だけの余力は日本の社会にはほとんどない。
上に引用したのはずいぶん抽象的な文章で、裏付けとなるようなデータもないけど、ぼくの実感としてはしっくりくる。わけのわからんやつだけど若さに賭けていっちょ任せてみよう、という余裕を持っている企業や組織がどれだけあるんだろうか。それだけ日本社会が成熟したということでもあるし、成熟しすぎて腐ってしまったのかもしれない。
今の日本を見てみると、多くのものが戦後に作られたシステムで動いている。
マイナーチェンジはくりかえしているが、大きなシステムは1960年頃とあんまり変わっていない。
たとえば軍事に関していえば、「アメリカの核の傘に入って、アメリカと仲良くしておけば大丈夫」という感じでずっとやってきた。戦後80年それでやってきた。だがこれが続くという保証はない。
経済に関しても「経済成長を続けていけば大丈夫。好不況の波はあれど長期的にはGDPが増えて国が豊かになる」という方針でやってきた。そのやりかたはもうとっくに破綻している。人口がどんどん減っていく社会で経済発展が続くはずがない。嘘だということにみんな気づいている。でも気づかないふりをして、80年間やってきたやり方を続けようとしている。その“嘘”のひずみが若者に押しつけられていても、年寄りを守るために見て見ぬふりをしている。
ある時期を境に、若者の未来が年寄りに収奪されるようになった。『若者殺しの時代』ではその転機となった時代の流れを書いている。
が、“若者殺しの時代”に抗う方法は書いていない。そんなものはないのだろう。年寄りだけが感染する致死性の高いウイルスでも流行しないかぎりは。
いよいよ国がぶっ壊れてしまうまでは年寄り優先のシステムを続けていくんだろうな、この国は。
ブータン探訪記。
正直、高野秀行さんの他の著作と比べると、わりとふつうの旅行記に収まっているかな。高野さんのノンフィクションは「ほんとにそんな民族いるのかよ!?」「21世紀によくこんな国が成り立ってるな!」と我々とはまったく異なる文化を紹介してくれるのでおもしろいのだが、『未来国家ブータン』を読んでいておもうのは「ブータンってけっこう日本に似ているところがあるな」とか「昔の日本もブータンみたいだったのかもなあ」といったことで、あまり驚きはない。
もしも明治維新が起きずに日本が鎖国を続けていたら、ひょっとしたらブータンみたいになっていたのではないか……。そんな想像もしてしまう。
企業の依頼で生物資源探査に向かう、という(高野さんにしては)まっとうな目的があるのも、ルポルタージュとしてものたりない理由のひとつだ。
ブータンは中国・インドという二大大国に挟まれる位置に存在している。人口は約87万人。世田谷区民より少ない。
なるほど。このあたりはちょっとイスラエルにも似ている。イスラエルは(宗教的に対立する)アラブ諸国に囲まれているので、アメリカとの結びつきを強くしたり、諜報活動に力を入れたりしているそうだ。
だがブータンは経済や軍事ではなく、「環境保護」「国民の幸福度」といった独自の路線で生き残る道を選んだ。これはいい戦略だとおもう。へたに軍備に力を入れたらかえって攻め込まれる口実を与えるだけだし、山ばかりの内陸国で経済発展はかなりむずかしいだろう。
そして先進国が「経済成長ばかりじゃだめだ。物質の豊かさだけでは幸福にはなれない」と気づいたとき、気づけばブータンという理想的(に見える)国があったのだ。周回遅れで走っていたらいつのまにか先頭になっていたようなものである。
ブータンがこの状況を完全に読んでいたわけではないだろうが、とにかく独自路線を貫いていたブータンは世界から注目される国になったのである。とりあえず今のところは作戦成功していると言ってよさそうだ。
ブータンでは、1970年代に国王が提唱した「国民総幸福量」を提唱した。国内総生産のような物質的豊かさではなく、精神面での豊かさを強調したのだ。
現にブータン国民は自身が幸福と感じている人が多く、結果、「世界一幸せな国」とも呼ばれるようになった(※ ただし2010年頃からはスマホの普及などで海外の情報が入ってきたこともあってブータン国民が感じる幸福度は低下してきている)。
ブータン国民の「幸福」の原因を高野さんがこう考察している。
なるほどねえ。自由が少ないから、悩まない。情報が少ないから、迷わない。
うーん。たしかに幸福なのかもしれないけど、なんかそれってディストピアみたいだよなー。知らないから幸せでいられる。大いなる存在が無知な人民を支配して、人々はぼんやりとした顔で幸福に暮らす、SFでよくある話だ。
でも「幸福」ってそんなもんなんだよね。たとえば今の女性って(昔に比べて)いろんな生き方を選べるけど、じゃあ「女の幸せは結婚して子どもを産んで育てることよ」と言われていた時代と比べてハッピーになったのかというと、うーん……。幸福って相対的なものだから、「自分は70点だけど隣の人は90点」よりも「みんなが50点で自分が60点」のほうが幸福なんだよな。昔はせいぜい「隣の花は赤い」ぐらいだったのが、今では「SNSで流れてくるどっかの誰かの花は赤い」だもんな。
人類は「便利になれば幸福になる」と信じて突き進んできたけど、実際は逆で、便利で自由になるほど不幸の種が増えていく。それでも便利への道を進むのを止められない。幸福立国ブータンですらも。
SFミステリ。
クラス全員で集まって積極的にイベントをやる「仲のいいクラス」で、相次いで自殺が起きた。主人公の幼なじみは、これは自殺ではなく他殺だ、次に狙われるのは自分かもしれないと語る。そして主人公はある“能力”を授かる。それは「他人の嘘を見破ることができる」という力。校内にはあと三人、能力の「受取人」がいるという。はたしてクラスメイトを自殺に追いやった「受取人」を見つけ、犯行を食い止めることはできるのか――。
おもしろかった。
正直、SFミステリに対してあんまりいい印象を持ってなかったんだよね。超能力や超常現象を扱ったSFミステリって一歩まちがえれば「何でもあり」になってしまいおもしろくない。かといってきちんと作りこみすぎても、他人がパズルを解いているところをただ見せられているような窮屈な小説になってしまう。
『教室が、ひとりになるまで』は、そのどちらでもない、謎解きのおもしろさを存分に与えてくれながら、登場人物たちの思考の広がりも感じさせてくれる優れた小説だった。
超能力を扱ってはいるが、その能力にいくつかの制約をつけている(発動には条件がある、能力と発動条件を他人に知られたら能力を失う、発動できるのは学校の敷地内だけ)。またミステリの肝である「誰が能力者なのか?」「どのような能力なのか?」についても十分なヒントが与えられていて、決してたどりつけない謎ではない。ミステリとしてきわめてフェアだ。
この「ミステリとしてフェア」という部分がSFミステリにとっては命だ。超能力という「どうとでもできる」題材を扱っているからこそ、ルールをきっちり定めてほしいし、そのルールを読者に明かしてほしい。「言ってなかったけど実はこんな能力もありましたー」と後出しをされると台無しだ。
『教室が、ひとりになるまで』は、とても誠実なSFミステリだった。4つの能力にもちゃんと意味があるのがすばらしい。
なによりすばらしいのが、傑作SFミステリでありながら、青春小説としてもしっかり読みごたえがある点だ。
クラスメイトたちを死に追いやった犯人を突き止めて、能力を暴き、めでたく事件解決……とならない。むしろそこからが本番だ。
「事件の謎を解いてさらなる悲劇を食い止める高校生探偵もの」で終わらせない。殺人事件が解決したことで、その裏にあったもうひとつの謎が明るみに出るという見事な仕掛けが用意されている(もちろんその仕掛けに対するヒントも十分に提示されている)。
SFミステリはともすれば登場人物たちがストーリーを展開させるためのコマになってしまい、パズル作品になってしまう。だが『教室が、ひとりになるまで』では各人が葛藤を抱えた人物として描かれている。また価値観の違う人物同士が最後までわかりあえない。ミステリを成立させるためのコマではなく、生身の人間が描かれている。
他にも、『そして誰もいなくなった』を想起させるタイトルの仕掛け、終盤で明らかになる主人公が「受取人」に選ばれた理由、決してハッピーではないが救いを残したエンディング、細部までよく練られた小説だった。傑作!
ショートショート集。
ほとんどの作品が現代的なアイテムを題材にしている。SNSでの拡散・炎上、ネット通販のレコメンド機能、アフィリエイトブログ、匿名掲示板、gif画像など。
時代性が強いので、刊行から8年たった今読むとすでにちょっと古くなっているネタも多い。アフィリエイトブログとか匿名掲示板とかかなり衰退しているもんなあ。
おもしろかったのは、
オンライン通販会社が趣味や異性との出会いまでレコメンド(推薦)してくるようになった時代を描いた『この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は』
他人の健康状態を視覚化できるようになったガジェットを開発した男が気づいた思わぬ副産物を書く『過程の医学』
なぜかただのサラリーマンが多くの人によって監視・実況されている『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』
中でも好きだったのは『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』。ごくごくふつうの会社員のありとあらゆる行動がなぜか多くの人に筒抜けになっており、匿名掲示板で実況中継されているという短篇だ。
「なんで一般人がこんなに監視されてるの?」という疑問(当然の疑問だ)を書き込む人もいるのだが、それに対して「嫌なら見なきゃいいだろ」「叩きたいならアンチスレ行け」みたいな書き込みが返されるのが妙にリアルだ(そしてそのせいで疑問に対する答えは返ってこない)。
ばかばかしいしナンセンスなんだけど、そもそも匿名掲示板ってそういうものだよね。テレビ番組とか漫画とかの実況をしていたりもしたけど、それだって別に意義があるわけじゃないし。ただの雑談なんだから、題材はサッカーの試合でも今週号のONE PIECEでも亀ヶ谷典久でもなんでもいいわけで。
時代性が強い作品集だからこそ、ひょっとしたら今から20年後とかに読んだ方がおもしろいかもしれない。「あの頃はこんなことをめずらしがってたんだなー」「これがSFだと思ってたんだ。今じゃすっかり現実だけど」って感じで。
動物に対して我々が感じる美醜、好悪、賢愚などのイメージに対して「いやいやほんとの動物の生態って一般的なイメージとちがうんですよ。っていうか動物に対して人間の尺度であれこれ言うことはナンセンスなんですよ」と説いた本。
たとえば「最強の動物は何か?」という議論でライオンやカバやゾウやシャチなどが挙げられることが多いけど、異なる種の動物同士が一対一で戦うことは多くない。一対一で戦ったとして、陸上ならライオンがワニに勝つだろうが水中なら文句なくワニが勝つ。また集団で行動する動物の場合は集団での強さを考慮する必要がない。また絶滅しかかっているサイと世界中で繫栄しているアリを比べたら、後者のほうがはるかに種として強いと言えるだろう。だがそれも現代の話であって、地球環境が大きく変化したらアリが絶滅してサイが繫栄する時代がくるかもしれない……。
……と考えると、「どの動物が最強か?」を論じるのはまったく無意味だろう。「どの人間がいちばんえらいか?」というのと同じぐらいナンセンスだ。
ヒトは、自分と近い動物に肩入れをする。環境保護を訴える人ですら。
最近読んだ別の本に、「毎日100種以上の生物が絶滅している」と書いてあった。大半は菌類や微生物だろう。
だがそいつらは話題にならない。数が減っているイルカやパンダやトキは大きなニュースになるのに。我々はイメージで保護するかどうかを決めているのだ。
クジャクのオスが長く美しい尾を持つのはメスにアピールするため……というのが定説であるが、これはすべてのクジャクにあてはまるわけではないそうだ。
まあ人間だって、文化や時代によって「どんな男/女がモテるか」は変わるもんね。クジャクだって世界中どこへ行っても同じ嗜好をしているわけではないんだね。
考えてみればあたりまえの話なんだけど、ついつい「動物には固有で不変の生態がある」と考えてしまう。
多くの日本人に愛されているツバメ。そんなツバメの「イメージ」が変わるかもしれない話。
軒下にツバメが巣を作って春が来たなあ、なんて人間がのんきなことを考えている間に、ツバメたちは子孫を残すために子どもを殺すか守るかの攻防をくりひろげているのだ。
これをもって「ツバメは残酷」と考えるのもそれはそれで単純な見方で、「他人の子を殺すのは重罪」というのはあくまで人間の価値観だからね。
有名なすりこみ(鳥のヒナなどがはじめて見たものを親とおもう習性)について。
なんと最初に見たものを親とおもうどころか、ある程度成長してからも、近くにいる大きな鳥を親とおもってしまうのだ。親のほうも気にせず、数十羽の雛を連れて歩いている親ガモもいるという(カモが一度に卵の数は十個ぐらい)。おおらかというかいいかげんというか……。
こういうことができるのは、雛のために親が餌を運んできてやらないといけないツバメのような種と違い、カモの雛は自分で餌場まで歩いて餌をとれるからなんだけど。
なんとなく「おや、やけに子どもの数が多いね。よく見たらうちの子じゃないのもいるね。まあいいや、腹へってるなら食っておいき!」という肝っ玉かあちゃんを想像してしまう。人間の勝手なイメージだけど。
ドングリでおなじみのブナの生存戦略について。
なるほどー。400年も寿命があれば、「数十年に一回子孫を残せればいっか」ぐらいの戦略をとることもできるのか。人間の思考スケールではとても考えつけないやりかただ。
どこをとってもおもしろい本だった。語り口もおもしろいし、エピソードや動物知識も興味深い。
そして何より、カラス研究者である著者のカラス愛が存分に伝わってくる本だった。いろんな動物のことを書いているのに、すぐにカラスの擁護になるんだもん。ホントカラスが好きなんだなあ。
昭和中期の大阪の下町を舞台にした短篇集。どの作品も超常現象の要素が含まれている。
近所の人たちから距離を置かれていた朝鮮人の少年が死んだ後に幽霊となって現れる『トカビの夜』、謎のおじさんから買った奇妙な生物を飼う『妖精生物』、幼い妹が自分の前世を事細かに語りだす『花まんま』、部落差別に苦しむ少年が墓地で出会った女性と奇妙な体験をする『凍蝶』など、どれも霊や超常現象が扱われている。
オカルト系の作品って好きじゃないんだよなあ。中でも後半に霊が出てくるやつ。「ふしぎなことが起こったのは霊が原因でしたー!」って言われても「はあそうですか」としかおもわない。だって霊の仕業ってことにしたら何でもアリじゃない。どんな無茶でもつじつまの合わないことでも「霊だからです」って言われたらこっちはそれを受け入れるしかない。ルール無用になっちゃう。
子どものとき、おにごっことかボール投げとかで遊んでいたらすぐ「バリアー!」とか「今は無敵!」とか言いだすやつがいて、それを言われたら急速に醒めたのを思いだす。「無敵」を導入したらルールが破綻しちゃうからつまらんのよね。
霊ってそれと同じ。言ってみれば全智全能の神と同義。
というわけで上記の作品はあまり好きじゃなかったのだが、『摩訶不思議』『送りん婆』はおもしろかった。
『摩訶不思議』は死んだ叔父さんの葬式中、霊柩車が火葬場に着く直前でぴくりとも動かなくなってしまう……という話。
叔父さんの未練のせいでふしぎなことが起こっているらしい、というオカルト話ではあるのだが、この話の主軸はオカルト部分ではなく残された人間たちの心模様にある。
叔父さんには内縁の妻がいて葬列にも参加していたのだが、どうやら叔父さんの霊は浮気相手の女性が葬列にいないことを不満におもって霊柩車を止めているらしい。それを察した甥の主人公が浮気相手を連れてくるのだが、そうするとおもしろくないのは内縁の妻。死んだ叔父さんをめぐって女たちの修羅場がくりひろげられる……というコメディタッチの作品だ。うん、ばかばかしくて楽しい。新喜劇のようだ。
そして『送りん婆』。こちらはうってかわってぞくぞくするような味わいの小説。
先祖代々「送りん婆」という役目を果たす一族に生まれ、後継者に指名された主人公。「送りん婆」の役割は、死を前にした病人の枕元である呪文をささやくこと。その呪文を聞いた病人は嘘のように身体が楽になるがほどなくして死んでしまう。心と身体をつなぐものを切る呪文なのだ。
行く先短い者を苦しみから救う仕事でありながら、ときには人殺しと忌み嫌われることもある「送りん婆」の悩みが描かれる。
「実は霊の仕業でしたー!」タイプの小説は嫌いだが、こんなふうに最初に設定を明かしてその中での行動や葛藤を書く小説は嫌いじゃない。オカルトを謎の答えとして使うのは許せないが、設定に使うのはアリだ。
「送りん婆」が使うのは呪文だが、やっていることは『ブラック・ジャック』のドクター・キリコと同じである。ここを考えることは尊厳死をめぐる議論にも通じる。
個人的には尊厳死に対して概ね賛成の立場だが、反対派の言うことも理解はできる。だが理解できないのは「尊厳死について議論をするなんて不謹慎だ!」というやつらだ。残念ながら現状この手の議論を避けようとするやつらが非常に多い。耳をふさいで「あーあーあー聞こえなーい!」というやつらだ。
現代日本においてすでに破綻している年金制度や医療費・介護費の問題をいくらか解決してくれるのが尊厳死制度の導入なのだが、現在その議論すらタブーになってしまっているのは残念だ。反対するにしても国会で議論して堂々と反対意見を述べればいいのに、「そんな話するなんて命の冒涜だ!」みたいなことを言う連中が多くてお話にならない。
議論から逃げたい人は、せめてフィクションを通して考えをめぐらせてもらいたいものだぜ。
ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。
この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。
ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。
ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。
たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。
歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。
人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。
ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。
生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。
おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。
そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。
もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。
『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。
行動経済学の本を何冊か読んだけど、ほとんどどれも実験結果やエピソードがおもしろい(引用の引用だらけの質の低い本もあるけど)。人間ってこんなバカなことをしちゃうんですよ、という話はどうしてこんなにおもしろいのか。
古典経済学では、常に合理的な選択をする存在として人間を想定していた。1円でも得なことをするほうを選ぶに決まっている、と。
だが実際の人間はそうではない。明らかに損をすること、自分でも良くないとわかっていることにお金や時間を使ってしまう。
その愚かな人間の話を読むのが楽しい。自分の中にも愚かな部分だからこそおもしろい。落語の粗忽物を笑うような感覚だ。
人は己の能力を高く見積もってしまう。ある分野に知識がない人ほど、自分はわかっていると思いこんでしまう。
たしかになあ。ちゃんとした政治学者や経済学者のほうが慎重な物言いをしていて、ろくに本も読んでいなさそうな芸人や俳優が強い口調で政治について断言している、なんてのをよく見る。まああれは「自分に自信があるバカのほうが言ってることがわかりやすいと思われるから」ってのもあるけど。
浅い知識しかなければ「与党はこうだ! 野党はああだ!」って言えるけど、しっかり勉強をして与野党それぞれにいろんな人がいてそれぞれいろんなことをやってきてそのそれぞれに功罪両方あって……ということを知っている人はうかつに「あの政党は○○だ!」って断言できないもんな。
賢い人ほど不明瞭な物言いをする。でもそれはウケない。人は単純な話が好きだ。
そう、人は単純な話が好きだ。
正確だけど長いメッセージは伝わらない。伝わるのは不正確だけど短い文章だ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟ですら長すぎる。みんな1秒たりとも頭を使いたくないのだ。
だからSNSで流れてくる情報の真偽を確かめようとしないのはもちろん、「嘘かもしれない」とすら考えない。そう思う1秒の労力すら惜しい。自分の考えに近ければ「これは真実」、反対の意見であれば「これは嘘に決まってる」。ゼロコンマ数秒しか思考しないSNSでまともな議論などできるはずがない。
「(勘違いによって)人を動かすテクニック」もふんだんに紹介されている。
「上限額まで」という選択肢にデフォルトでチェックを入れるだけで、上限額いっぱいまでローンを組む人が11%から68%まで増えるのだ。
いくら借金するかなんてその後十年以上にわたって人生に影響する重大事項なのに、それでもチェックマークひとつでかんたんに選択を曲げられてしまう。重大事項でなければなおさらだ。
これは学生に限った話ではない。専門家ですら重大な判断をする際に直前に目にした数字に影響されてしまう。
プロの裁判官の判断ですら動かされてしまうのだから、素人の判断なんかたやすく操作されてしまうだろう。
選挙なんて、どんなポスターを貼っていたかとか、投票用紙の何番目に政党名が書かれているかとか、直前にSNSで目にした投稿とかでけっこう決まってるんだろうな。選挙慣れしている人たちもそれをわかっているから、目立つポスターにするとか、名前をひらがな表記にするとか、選挙カーでとにかく名前を連呼するとかのアクションを起こすのだろう。「そんなのよりちゃんと政策を訴えろよ」と思ってしまうけど、残念ながら有権者はそんなに賢くないのだ。
こないだ読んだ松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 に、2000年頃に実施されたゆとり教育の話が載っていた。
詰め込み教育からの脱却を目指し、子どもたちが自ら考える力を養おうということでスタートしたゆとり教育。
ゆとり教育では学校での授業時間が減らされた。その結果何が起こったかというと、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせるようになった。授業時間の短い公立校が避けられ、私立校受験の競争が高まった。
「ゆとり」を目指した結果、余計に受験競争は白熱し、成績上位層はよりゆとりがなくなった。その一方で、元々勉強していなかった下位層はさらに勉強しなくなった。
ゆとり教育は大失敗に終わった(少なくとも「勉強しすぎな子どもたちにゆとりを与える」という目的の達成においては)。失敗に終わったのは、データではなくえらい人(ただし賢くはない)の思いつきで実施された結果、ルールの設定を誤ったからである。
世の中には、そんな「賢くないけど権力だけはある人」のいいかげんな思いつきでまともに機能していないルールがたくさんある。機能しないだけならまだしも、ゆとり教育のように逆の効果を生んでしまったり、適切でないルールのせいでとりかえしのつかない重大な事故を引き起こすこともある。
ルールの失敗はなぜ起こるのか、防ぐにはどうしたらいいかを数々の事例から説明した本。理論よりも実践向けです。
たとえば人に何かをさせるためにインセンティブ(動機づけ)ルールを設定することがある。
企業における成果報酬型給与なんかがわかりやすい例だ。「鼻先にニンジンちらつかせればやる気出すだろ」とはバカでもおもいつく発想だ。バカでもおもいつく発想なので、当然ながらうまくいかないことが多い。
そうなんだよねえ。ぼくが前いた会社でもインセンティブ制が導入されていたが、その査定基準が不透明で、身も蓋もない言い方をしてしまえば「上司に気に入られたら高い評価を受けて給与が上がる」というシステムだった。
これでやる気が上がるわけがない。かえって逆効果だ。みんながまったく同じ仕事をしていれば「こいつは同じ時間で平均より高い成果を上げたから高評価」と判断できるが、たいていの会社では人によってやる仕事がちがう。同じ仕事でも条件がちがう(担当エリアが違うなど)。誰もが納得する公平なジャッジなど不可能だ。
では査定基準を明確にすればいいのかというとそうともかぎらず、ルールが明確だとそれをハックするやつが現れる。たとえば「1ヶ月に500万円の売上を上げたら給与アップ」というルールがあれば、500万円の売上を達成した人はそれ以上売上を伸ばそうとせず、超過分は翌月に回したりする。
数十年前に「日本企業は年功序列制だからダメなんだ! 成果報酬型にすればうまくいく!」という言説が流行った。さすがに最近ではそんなことを言う人も減ってきた。成果報酬型給与はよほどうまく運用しないと機能しないということがわかってきたのだろう。失敗から学ぶのはいいことだが、その失敗が与えた傷は大きい。
ルールの作成手順について。
そう。今の中年以下って高齢者から搾取されてるわけだけど、そのルールって自分たちで決めたものじゃないんだよね。知らない間に決められたルールで知らない間に給与のうちのかなりの部分を高齢者へと回されている。
これを「ルールなんだから守れ」ってのはかなり横暴な話だよな。今の話を決めるのなら多数決で決めるのもまだ納得できる(多数決はぜんぜん公平な制度ではないが現実的には採用せざるをえない)が、数十年後の話を決めるのに「今いるメンバーでやりましょう」ってのはまったくもってフェアじゃない。
「投票の結果、あなたはクラスの学級委員に選ばれました」
「えっ、そんな投票いつやったの」
「始業時刻の十五分ぐらい前です」
「そんなの聞いてないよ」
「はい、あなたはまだ登校してきてませんでしたからね」
「そんなの仕方ないじゃん。うちは家が遠いんだから始発に乗ってもぎりぎりになっちゃうんだよ」
「とにかくこれはみんなで決めたルールですから守ってくださいね」
「その“みんな”の中に俺は入ってないんだけど。それなのに負担だけ押しつけられるのかよ……」
「嫌なら学級会で提案してもう一回投票するしかないですね。ただ早く来ていたおかげで面倒な委員から逃れられた過半数の生徒が賛同するとはおもえないですけど」
年金とか社会保険制度ってこれと同じぐらい無茶なルールだよね。
「話し合って決める」ことの弊害について。
学校で「みんなで話し合って決めましょう」と言われるせいで勘違いしている人が多いが、話し合いは往々にして間違える。個々人がそれぞれ考えるよりも劣った結論に至ることも多い。
「三人が別々に(お互いの意見を知ることなく)意見を出す」は一人で考えるよりも優れた結論を出せるが、「三人がお互いの意見を聞いて話し合う」だと、誤った考えに引っ張られてやすくなる。
後者を“集合知”だと勘違いしている人が多い。すぐに「その件は会議で話し合いましょう」と言ってみんなの時間を食いつぶすタイプの人だ。みんなで話し合えば正しい結論を導きだせる、なんてSNSでの議論を見ていたらどれだけアホな考えかすぐわかる。
必要なのは「会議で話し合いましょう」ではなく「各自の意見を出しあった後、会議で検討しましょう」だ。
ほとんどが失敗する会議。そんな会議で成果を出す方法。
ぼくはかつて裁判員をやったことがある(一生のうちに裁判員に選ばれるのは60人に1人だそうだ。強運の持ち主!)。
裁判官と裁判員が討議をするのだが、その討議の方法がまさにここに書かれているようなやり方だった。
おかげですごく話しやすかった。議論も深まった。裁判員制度ってよくできてるよ。
後半はAI時代におけるルールのありかたについて。
そうなのよね。ぼくも仕事でAIを利用しているけど、AIって過去から学習することは得意だけど、未来の変化を予測することはすごく苦手なんだよね。「これまでの傾向が今後も続くもの」として予測することしかできない。
たとえば人材採用をしようとしてWeb広告を出稿する。最近のWeb広告は機械学習が進んでいるので、AIがターゲットを設定して予算を配分してくれる。
でもそれだと、
高齢者が多く応募してくる(高齢者は採用されにくいので若い人より応募率が高い)
↓
AIが「高齢者は応募率が高い」と学習する
↓
高齢者に対して多く広告が出稿される
↓
ますます高齢者の応募が増え、AIがさらに「若い人より高齢者を狙ったほうがいい」と学習する
みたいなことが起こっちゃうんだよね。「応募しやすい人は採用されにくい人」ということが表面的な数字からはわからない。
応募後の採用率も学習させればいいんだけど、あらゆるパラメータを入力するのは不可能だし、人間なら「若い人を集めたい」の一言で済む話なのに、AIに対してそのニュアンスを伝えるのはかなり手間がかかる。
AIが犯罪捜査をすることもできるだろうが、それを進めると
ある属性(居住地や階層や家族構成)の人たちが犯罪率が高いことがわかる
↓
AIが、その属性に対して特に厳しくアラートを出すようになる
↓
その属性の検挙率が上がり、より犯罪率が上がる
↓
その属性の人たちが差別され、社会の中で不遇の扱いを受ける。そのため犯罪に手を染めやすくなる
……というループに陥ってしまう。犯罪率が高いことで差別され、差別されることでますます犯罪に近づいてしまうのだ。
「過去からの学習」を進めると、差別や格差がますます拡大してしまう。
このへんはまだまだこれから考えていかなくちゃならない問題なので興味深い。「AI時代のルール設計」についてはそれだけで一冊の本にしたほうがいいぐらいのテーマだな。
ギフテッドとは、生まれつき(または幼い頃から)卓越した能力を持った人のことを指すらしい。知能の高い人を指す場合が多いが、知能に限らず芸術的才能などに秀でた人にも使われるのだそうだ。
そんなギフテッドたちに取材してその生きづらさを紹介する本……なのだそうだが、あまりに内容がひどかった。
まず、“ギフテッド”をきちんと定義していない。医学界でも教育界でも正式に認められた言葉ではないのであたりまえなのだが、誰がギフテッドなのか、誰がギフテッドじゃないのかの明確な基準がない。「ギフテッドたちに取材」というこの本の前提からしてあやふやだ。
結局この本では「誰かに『ギフテッドです』と言われたことのある人」を“ギフテッド”としている。なんじゃそりゃ。
それって「生まれてから一度は『天才』って言われたことのある人」と同じくらい信頼性の低い基準じゃない? たぶんほとんどの人が該当するだろう(そしてそのほとんどは天才ではない)。
せめて「世界的に多く用いられている○○という知能テストでIQ120以上と診断された人をこの本の中ではギフテッドとして扱います」みたいな定義があればまだ信頼できるんだけど。
定義がないから「自称ギフテッドさんたちに話を聞いてみた」でしかないんだよね。
前提があいまいなので、もちろん内容もぼんやりしている。
こんな話が並ぶんだけど……。
もちろん「IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた」を裏付ける根拠はまったくない。IQが高い人たちを対象にした大規模な調査結果、みたいなものはまったくない。ただのうわさ話。
だいたいさあ。「IQが高い人が生きづらさを抱えている」自体がかなり怪しいんだよね。
日本においては全児童に共通でIQテストを受けさせたりしていない。IQテストを受けるのは、(学校になじめないなどの)問題があって専門医を受診する子ぐらいだろう。
であれば、IQが高いと診断された子が生きづらさを抱えている率が高いのはあたりまえだろう。だって周囲とうまくやっていける子は精神科に行ってIQテストを受けたりしないんだもの。
「精神科に連れていかれた結果IQが高いと診断された人」ばかり取材している。そりゃ「ずっと生きづらさを抱えていました」っていうエピソードが出てくるのはあたりまえだろう。
IQが高くて社会でうまくやっていける人はわざわざ病院に行って知能テストを受けたりしないし、テストを受けたとしても己のIQの高さを大っぴらに発信したりしない。自慢話は嫌われるだけだから。
この本で紹介されている「ギフテッドがもつ才能」もかなりいいかげんなんだよね。
「8歳で量子力学や相対性理論を理解」なんてのは(ほんとだとしたら)たしかに常人離れしたエピソードだけど、「4歳で九九を暗記、6歳で周期表を暗記」「2歳で歌を作り、4歳で絵本を作った。小5の現在はアプリを作成中」なんてのはぜんぜんふつうの子だ。 著者は子育てしたことないのかな。
電車の名前に詳しい子どもとか恐竜の名前をおぼえまくってる子なんてそのへんにごろごろいるよ。子どもは、親に褒められたら周期表ぐらいすぐおぼえるよ。「6歳にして一からほぼ正確な周期表をつくる」ぐらいじゃないと天才的なエピソードとは言えないだろ……。
ずっと進学校に通って苦労しなくても勉強ができたけど社会人になってから大変な思いをした人の話。
いやあ、こんなの誰もが経験する話でしょ……。百年前からサラリーマン小説のテーマになっていることだよ。
たぶんほとんどのサラリーマンは「おれは頭が良くて効率のいいやりかたができるのに周囲がバカばっかりで理解されない」と感じたことあるよ。
著者が第2章で書いている。
3~10%の子をギフテッドとしちゃうんだ。それだけいたら生きづらさを抱えている子もいっぱいいるだろう。そしてそれよりずっと多くの「さほど生きづらさを感じていないギフテッド」も。
この本のサブタイトルは「知能が高すぎて生きづらい人たち」だけど、ずいぶんな暴論だ。正しくは「知能が高くて、生きづらい人たち」だ。
似ているようでぜんぜんちがう。「絵がうまくて生きづらい人たち」がたくさんいるからと言って「絵がうますぎて生きづらい」とは言えませんよ。
永六輔さんがライフワークのようにしていた、「そのへんの人たちが発した言葉」を集めた本。
このシリーズはほんとおもしろい。
これは演出家の発した言葉だろうか。
そうそう。俳優とか声優っていらない芝居をするよね。演じる人が悪いのか演出が悪いのか知らないけど。
医者を演じる役者は医者っぽく演じる。でも現実の医者は医者っぽくない。“医者っぽい”しゃべりかたもしないし“医者っぽい”動きもしない。
ふつうの挙動でいいのにね。
わかる!
そうだよね。寄附とかおごるとかって、やる側の愉しみなんだよね。ぼくは毎月UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に寄附をしているけど、あれは自分のためだ。「いいことをしているぼくってえらい!」とおもうためだ。
あたりまえだけど、ぼくが寄附した金を受け取った難民はぼくにお礼を言ってこない。それでいい。だってぼくのためにやっていることなんだもん。
上司が部下に食事をおごる、みたいなのも、あれは上司のためにやっていることだもんね。「部下におごってやる俺すごい」という気持ちを金出して買ってるんだよ。部下は、おごらせてやることで上司の自尊心を満たしてあげているのだ。
あけすけだー。でもまあ本音だよね。
幸福って相対的なもんだもんね。現代日本で所得下位10%の人だって、100年前の上位10%の人よりもいい暮らししてるはず。100年前の金持ちよりも便利なものを所持していて、いいもの食って、いいもの着ている。でも金持ちにはなれない。自分の年収が2倍になったって、周囲の年収が3倍になっていたら不幸だ。
みんなおもっているけど大きな声では言えない。そんな言葉を書き残すことには意義がある。
いちばん印象に残ったのはこの言葉。
いやー。これは真実だよね。この人にとってはまぎれもない真実なんだろう。
でも世間一般的にはまちがっているということになってしまう。
「自分にとっては正しいけど他の人にとっては正しくない言葉」って、影響力のある人は口にできない。またSNSのような誰が見るかわからない場でも発しにくい。
友人同士で飲み屋でしゃべっているときは「こいつはどういうやつで今はどういう場でどんな文脈で何を伝えたくて言ったのか」がお互いわかっているから誤ったことや不謹慎なことや乱暴なことを言っても大丈夫。でもマスコミやSNSだと文脈を理解できないバカに見られることもあるから、“正しいこと”しか言えない。「東京ってとこは世界で一番おもしろい街ですよ!」なんてことを言ったらバカが「世界中の街を知っているわけでもないくせにいいかげんなことを言うな!」と言いに来る。
誰でも発信できて誰でもリアクションがとれる今だからこそ、こういう正しくない意見はすごく貴重だ!
最近(といっても十年以上前から)急激に増えたインドカレー屋。インドカレー屋とはいいつつも、経営者や従業員の多くがネパール人だという。
そのインネパ(インド・ネパール料理店)を切り口に、インドカレー屋の特徴・歴史から、日本の移民政策の変化、ネパール人労働者増加に伴う問題、働き手が流出しているネパールの現状までを探るノンフィクション。
前半はカレー店の歴史などにページが割かれていて退屈だったが、中盤以降は様々な社会問題にスポットを当てていておもしろい。
ひとつの視点であれこれ調べていくうちに芋づる式にいろんな問題が見えてくる本。これぞ学問! という感じがする。佐藤 大介『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』もそんな感じの本だった。調べれば調べるほどわからないことが増えていく。それが楽しい。勉強や読書を課題解決の手段としかおもっていない人には理解できない姿勢だろう。
日本にやってくるネパール人が増えたのは、今世紀のはじめに法改正があったことが大きいようだ。
500万円出せば日本に会社を作れる。日本に会社を作れば「投資・経営」ビザをとれるし親戚を雇って「技能」ビザで働いてもらうこともしやすくなる。そして「家族滞在」で妻や子どもを日本に呼び寄せて……という形でどんどん増えていったのだそうだ。
そうして日本で働く外国人が増えたが、その中でもネパール人の伸びは大きかった。
国の平均所得が少ない上に、国内に観光以外の産業も少ない。まとまったお金を稼ごうとおもったら国外に出るしかない状況なのだそうだ。なんとネパールの労働人口の4分の1ほどが国外に働きに出ているのだという。出稼ぎ国家なのだ。
そして日本に来るネパール人は高い教育を受けていないことも多い(高学歴だったり貴重な技能があったりしたら他の国を選ぶほうがいいだろうしね)。じゃあカレー屋やるしかないな、となるわけだ。
かつてはインド料理店で働くのはもちろんインド人が多かったが、インド人にとってもネパール人のほうが雇うのに都合がよかったのだそうだ。なぜならインド人はカースト制度のせいで決まった仕事しかしようとしない人がいる(コックならコックの仕事だけ。掃除や接客は別のカーストの仕事)のに対し、ネパール人はなんでもしてくれる。またネパール人のほうが宗教の戒律が厳しくないので日本で生活しやすい。そんな事情もあって、人口の多いインド人よりも、ネパール人の方がずっと多く日本にやってきているのだそうだ。
そして日本が身近な国になったことでネパールからの留学生も増大。彼らもまた「インネパ」へと流れこんでいった。
こうして日本で働くネパール人が増えるにつれ、在日ネパール人を相手に商売をするネパール人もいる。同郷の人を助けたい気持ちでやっている人もいるだろうが、日本のことをよく知らないネパール人をカモにして儲けようと考えるやつも出てくる。
法律すれすれの手段でネパールから人を呼ぶ。本来在留資格がないような人まで呼ぶのだから、追い返されるネパール人もいる。だが呼んだ方は困らない。もう金はもらっているのだから。だまされたほうとしては、在留資格がない弱みもあるし、日本社会のことも日本語もよくわからないのだから法的な手段に訴えられない。泣き寝入りするしかない。
ビザ申請が下りなければ不法滞在する人も増える。不法滞在ではまともな仕事に就けないから犯罪に走りやすくなる……。
と、様々な問題が起こるわけだ。厳しく取り締まろうにも、一件一件はチンケな詐欺だし、国をまたいだ犯罪だし、被害者はなかなか名乗り出てくれないだろうし、日本語ができない人も多いだろうし……ということで、出稼ぎ斡旋ビジネスをきちんと取り締まるのはむずかしそうだ。
さらに、日本で働く親にネパールから連れてこられた子どもも、日本語がわからず学校の勉強についていけず、日本のコミュニティにも入れず、ネパール人同士が徒党を組んで非行に走る……なんてこともあるという。
これらはネパール人移民にかぎらず、海外からの移住者が増える今後どんどん増えていく問題だろう。
だからといって移民を受け入れなければ労働力不足でもっと大きな問題が起こることも目に見えている。摩擦なく移住できるようになるほうが日本人にとっても外国人移住者にとってもいいに決まっている。ネパール移民が引き起こした問題から学ぶことは多い。
移民が引き起こす問題は日本国内の話だけではない。当のネパールでも出稼ぎ者(日本だけではない)の増大は深刻な問題を引き起こしているらしい。
働き手、親世代がいなくなり、老人や子どもだけが取り残される。出稼ぎにより収入は増えるが、それが必ずしも豊かさには結びついていない。
これは……。ネパールの問題でもあるけど、日本の地方の問題でもあるよな。都会に労働人口を吸い取られて地方では働き手が減っているわけで。ここ数年の話ではなく、百年前から都市部に出稼ぎに行く労働者はたくさんいた。
都市への人口集中は古今東西変わらず起こっている問題で、これを個人の意識や行動で変えるのは不可能だろう。政府が省庁をごっそり移動させるとかやれば多少は緩和するだろうが、それでも抜本的な解決にはならない(たとえば首都ではないニューヨークや上海にあれだけ人口集中しているのを見れば明らかだ)。
人口集中を防ごうとおもったら、ポル・ポト政権のように人権を制限して強制的に郊外へ移住させる、みたいな乱暴な方法しかないんだろうな。
ということで、日本に来てカレー屋で働いているネパール人の本かとおもいきや、移民が生み出す様々な社会問題、都市への人口集中問題など、広く深い問題へと切り込む壮大な本だった。
いいルポルタージュでした。
週刊誌に連載しているコラムをまとめた内容ということで、一篇あたりの内容は薄く、おまけに時事ネタを多く扱っているのでわかりづらいところもある。
おもしろかったのがPart0の『DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ』の章。Part0とあるから序文的な扱いかとおもったら、これがいちばん読みごたえがあるじゃないか。
日本の報道だと「ウクライナに対して一方的に武力行使をしたロシアが悪で、それに立ち向かうウクライナがんばれ!」という論調がほとんどだ。
ところがそう単純な話でもないと著者は書く。例えばクリミア半島がウクライナ領になったのは1954年のこと。
住民の96.8%がロシアに入りたいと望んでいるんだったら、もうロシアのものになったほうがいいんじゃないの、と思ってしまう。こういう事情を知ったらロシアのクリミア併合も悪とは言い切れない部分がある。
おまけにウクライナも平和で暮らしやすい国だったわけではなく、ロシア系住民の自治を求める市民たちが銃撃されるなど、ロシア系住民たちにとっては生きづらい国だったようだ。
ふーむ。ぼくも多くの日本人と同じように報道を見て「ロシアは悪い国だ。プーチンは悪いやつだ」とおもっていたけど、そんな単純な話でもないんだなあ。
また、日本人やヨーロッパの人々はウクライナの勝利(ロシアの撤退)を望んでいるが、それもむずかしいと著者は書く。
(ここに出てくる松里さんとは政治学者の松里公孝さん)
仮にウクライナが勝ったとしても、めでたしめでたし、これからは仲良くやっていきましょう、となるはずがない。両国に怨念は残り、そうすると「ウクライナ国内のロシア系住民」は安心して暮らせない。
結局、誰もが納得のいく結末なんてない。遠く離れた日本に住んでいる者からすると「あっちが悪でこっちが正義。がんばれ正義!」と単純に旗を振っていればいいだけなのだが。
そして、こんな泥沼的状況になった原因が、そんな部外者の正義感にあると著者は厳しく指摘する。
両者が100%満足する決着などない。「だったらお互い60%ぐらい納得できるところで手を打ちましょうか」と現実的な幕引きを図ることもできたはず。
だが、部外国の正義感がそれを許さない。「悪いのは100%ロシアなんだからウクライナ100%納得のいく形になるまで戦うべきだ!」と争いを煽る。
個人の喧嘩でもこういうのあるよね。喧嘩しているうちに部外者がどんどん争いに加わって勝手にセコンドにつき、当事者たちが「もういいや」とおもっても周りが許さない。
今年の高校野球である学校の生徒がいじめにあっていたという報道が出たが、あれも本来なら当事者だけの話でいいはず。生徒、保護者、学校で話せばいい。納得できないなら警察か裁判所に行けばいい。なのに関係のない野次馬がどんどん群がってきて、デマが飛び交い、個人情報がさらされ、無駄に大事になってしまった。野次馬たちは自分たちが被害者にも迷惑をかけたなんて少しもおもっちゃいない(というかもうそんな事件があったことも忘れているだろう)。
正義はおそろしい。
世代間格差について。
社会保障費を、80歳以上は払った分より平均して6499万円多くもらっており、40歳未満は逆にもらう分より平均5223万円多く払うことになる。
少なくともこういう数字はちゃんと出すべきだよね。政府も報道機関も。
数字を出した上で、「このまま若者の生活よりも老人の生活を優先させていくべきか」「老人の生活が今より苦しくなったとしても現役世代、将来世代に金をまわすべきか」という議論をするのが正しい政治だとおもうんだけど、今はその議論すらしちゃいけない空気になっている。新聞もテレビも「老人の権利をちょっとでも減らすなんてとんでもない! 若者が苦しんでいるらしいけど、まあそれはそれ」みたいな論調だ。
橘玲さんって極端な意見が多いので(たぶん意識的に過激なことを言っている)賛同できないことも多いんだけど、少なくともこういう「耳に痛いからみんなが言わないこと」をちゃんと書いてくれる点に関してはすごく信用できる人だとおもっている。
ある物事について「こうに決まっている」という先入観を捨てて冷静に判断するのってしんどいことだから、みんなやりたくないんだよね。「ロシアが悪いに決まってる」「高齢者福祉を削るなんてとんでもない」と思っていたらそれ以上何も考えなくてよくて楽だからね。
だからこそ、あえて水をぶっかけるようなことを書いてくれる橘玲さんのような人は貴重だ。
満洲で終戦を迎えた著者。夫はシベリアでの強制労働に連れていかれ、乳児を含む三人の子を連れて日本への帰国をめざす。その険しい道のりをつづった体験記(一部に創作も含まれるそうだ)。
ちなみに夫は作家の新田次郎氏で、連れて帰った次男の正彦は数学者の藤原正彦氏だそうだ。
ほとんどただの日記なので、そこが欠点(文章がうまくなくて読みづらい、説明不足、記憶に基づいて書いているのであやふや)でもあり、長所(生々しい、赤裸々)でもある。
ほんと、ぜんぜんわからないんだよね。著者は今何をしているのか、どこに向かっているのか、なんでこんなことをしているのか、突然出てきたこの人は誰なのか。「自分にだけわかればいい」という文章だ。
でもまあなまじっか技巧を凝らした文章を書かれるよりは、日記のような文章のほうが真に迫って感じられていいかもしれない。
満洲からソ連統治下の北朝鮮に入り、そこから南下し、38度線を越えてアメリカ統治下の南部朝鮮へと逃れる。ひたすら歩き、靴をなくしても歩き、山を越え、橋のない川を渡る。それだけでもたいへんなのに、7歳から0歳までの3人の子を連れて、である。
ばたばたと人が死んでいく中で(約100万人の引き揚げ者のうち約24万人以上が命を落としたそうだ)、4人とも日本に生きて還ってこられたのは奇跡に近いだろう。はっきりいって「0歳児を置いていく」選択をしても誰も責められない状況だとおもう。それでも3人とも連れていったのだからとんでもない根性だ。
興味深いのは、生きるか死ぬかの状況における人間関係だ。
「極限状態では他人のことなんかかまっていられない」でも「極限状態では助け合う」でもない。
自分もギリギリなのに他人を助ける人もいれば、余裕があっても他人を見捨てる人間もいる。別の日本人からものを盗む日本人もいる。
この後、“かっぱおやじ”たちは著者の団には教えずにこっそり出発する。その後も“かっぱおやじ”は何度も著者と遭遇してそのたびに著者に悪態をついたりするのだが、“かっぱおやじ”が悪人かというとそうでもなく同じ団のメンバーに対しては面倒見のいいおやじとして描かれている。
あたりまえのことなのかもしれないが、生きるか死ぬかの極限状態であっても人間の本質なんてそんなに変わらないのだろう。いい人もいれば悪い人もいる。ある人には冷酷な人が別の人には親切だったりもする。根っからの善人も生まれもっての悪人もいない。
それに著者自身、なかなか身勝手だしね。500円しか持っていない人に300円貸してくれとせがんで、断られたらあんたはひどい人だとなじるんだぜ。そういう人だから“かっぱおやじ”に冷たくされたんじゃねえの、という気もする。生きるのに必死だからというのもわかるけど、周囲だってみんな余裕ないわけだし。
まあでも、これぐらい身勝手じゃないと子ども三人抱えて生きて日本に帰ってくることはできなかっただろうね。