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2025年6月18日水曜日

【読書感想文】段 勲『鍵師の仕事 鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様』 / 脱税を逃さない正義のヒーロー

鍵師の仕事

鍵穴の向こうに見えた12人の人間模様

段 勲

内容(e-honより)
マルサの査察で開けた台所の金庫の中身は?ボッタクリバーの金庫の中身は? 広域暴力団の組長から依頼のあった大型耐火金庫の中身は?…鍵師・吉川守夫が見た鍵穴の向こうには、およそ想像もできない世界が広がっていた。人間の欲望がうずまく、鍵穴の向こう側…全12話のエピソードには、現代人の“業”の深さが浮かび上がる。

 凄腕の鍵師から聞いた話をまとめたルポルタージュ。

 本人から聞いた話、さらにそれを小説仕立てにしているので脚色が入っているのかもしれないが、縁遠い世界の話なのでおもしろい。



 この本に登場する吉川さん(仮名)という人はベテランの鍵師で、そのへんの家の鍵なら一分とかからずに開けてしまうらしい。

 こういう人の手にかかれば、鍵をかけていたってかけてないのとほとんど変わらない。おっそろしい話だ。この人はまっとうに働いているからいいけど、中にはこの技能を悪いことに使う輩もいるだろう。狙われたらひとたまりもない。


 吉川さんは日本有数の腕の持ち主なので、「自宅の鍵をなくしたので開けてください」といった依頼だけでなく、様々な依頼が舞い込むのだとか。

 国税局が某社の脱税容疑で強制査察に入り、隠し金庫を発見した。だが肝心の金庫が開かない。閉じた金庫ごと押収し、
「ちょっと開けてくれないか」
 という国税局からの解錠依頼が、知人を通して吉川に飛び込んできたのだ。吉川は当局に急行し、すぐに開けてやった。以来、国税局鍵開けのご用達とばかり、よく仕事の依頼が来るようになった。やがて、東京・豊島区内に鍵屋を開業。昭和五〇年代に入って、さらに、
「どんなカギでも開けられ、しかも信用のできる無口な男」
 との評判が立ち、国税庁に限らず、裁判所、検察庁等、お堅い役所からも解錠の依頼が殺到するようになる。こうした官庁ご用達の鍵師は、都内では推定でざっと二〇人。裁判所からの依頼だけでも吉川は、多いときには月に二〇件を数えたことがあった。裁判所の主な依頼は、執行官に同行し、マンションや金庫を解錠し、財産の差し押さえ等を手伝うもの。なお、国税局からの依頼は、もっぱら強制査察の摘発だった。

 国税査察部、いわゆるマルサの御用達の鍵師なのだそうだ。

 なるほど、よからぬ金を貯めこんでいる人は銀行には預けられないのでたいてい自宅に隠すだろう。そして多額の現金や貴金属を隠すとしたら、金庫の中。金庫が見つかった脱税犯は、「鍵をなくした」「暗証番号を忘れた」と最後の抵抗を試みる。そこで鍵師の出番となるわけだ。


 ぼくは脱税する人間を心から憎んでいる。よくワイドショーやネットニュースでは有名人の不倫や薬物使用が話題になるが、ぼくからしたらどうでもいい。だってどっちもぼくには関係のないことだもの。

 でも脱税はちがう。被害者は国であり、国民だ。つまりぼくも被害者のひとりだ。脱税がなければぼくの税負担はもうちょっと軽かったかもしれないのだ。

 だから脱税を決して逃さないマルサ御用達の鍵師は、正義のヒーローだ。がんばれ!




 鍵をかける場所には大事なものを入れるので、当然鍵師は人間の泥臭い欲望のすぐ近くにいることになる。

 ヤクザの親分の金庫を開けたらとんでもないものが入ってたとか、開かない金庫をめぐって家族間の醜いがくりひろげられるとか、野次馬根性を刺激される話が並ぶ。

 中でも強烈だったのがこの話。

「はい、分かりました。加藤さんですね。お昼ごろまでには行きますから。あ、それと、鍵を開けるのは金庫ですか? それとも車なの?」
「違います……………」
「じゃ、マンションの鍵かなんか?」
「それも違います。実は、ちょっと言いにくいのですが、貞操帯なんです、知ってますか、女がする貞操帯という革のバンド」

 たしかにあれも「大事なものを守るために、鍵をかけて守るもの」だよなあ……。


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2025年6月13日金曜日

【読書感想文】春木 豊『動きが心をつくる 身体心理学への招待』 / 脳はキャプテン

動きが心をつくる

身体心理学への招待

春木 豊

内容(e-honより)
赤ちゃんは周囲の人を自分にひきつけるための反応を生得的に備えて生まれてくる。ひよこの緊急時に発するピーという高い発声に対して、親鳥は敏感に反応する。人間でも赤ちゃんの独特の泣き声は、親を動かす。また大人からみて微笑と見える赤ちゃんの顔面筋肉の反応は、周りの大人にかわいいと思わせるためのものであると考えられている。脳科学ではわからない心と身体の動きとの深~い関係。心身統一のための実践的ボディワークも紹介。

 多くの人は「脳が指令を発して身体を動かしている」とおもっているが、実はそんな単純なものではなく、その逆に「身体の動きが脳を動かしているんですよ」ということを説明している本。

 正直、そのへんのことについては脳科学者の池谷裕二氏の本にも書いてあったので、あまり新鮮味はなかった。「脳が『手を動かそう』と考えはじめる前に既に手は動く準備をしている」とか。

 特に後半の、著者が考案した体操のくだりは蛇足だったな。


 こうした検証実験で気をつけなければならないのは、表情を作ってもらうために、顔面反応をしてもらうときに、この操作が感情の研究であるということを被験者に知られないようにすることである。
 このための工夫として、T・ストラックらが行った方法は、被験者に前歯でペンを噛んでもらうことであった。こうすると口角が横に広がるが、この顔面反応は笑顔のときのものとほぼ同じものとなる。比較のために被験者にペンを唇で押さえてくわえてもらった。このようにして漫画を見てもらったところ、前歯でペンを噛んだ被験者のほうが、唇でくわえた被験者よりもより面白さを感じるという結果が出た。つまり笑顔のときになる口角が横上に広がるという顔面反応が快感情を起こしたということである。
 福原政彦が行った研究も興味深い。この実験では道具を使わず、発音の研究であるということにして、被験者に「イー」(口が横に広がる)という発声と「ムー」(唇がとんがる)という発声をしてもらった。このようにして作られた顔面反応が気分に及ぼす効果を調べたのであるが、快不快の気分に関しては、「イー」のほうが「ムー」よりも快であるとの回答が多かった。緊張弛緩の気分については「イー」のほうが弛緩すると答えている。興奮―沈静については、「イー」のほうが、沈静の気分になるとの答えが多かった。

 はっきりと「笑顔を浮かべる」という意識がなくても、ペンを唇で噛むことで「笑顔と同じような表情になる」だけでも、楽しい気分になるのだ。

 ぼくはこのことを知ってから、自分で「イライラしてるな」とおもうときは、意識的に笑顔をつくるようにしている。イライラしてるからといって顔をしかめていると、余計に嫌な気分になる。だから無理やりにでも笑顔をつくる。


「笑う門には福来たる」ということわざがある。昔の人はえらいものだ。笑うことでハッピーな心持ちになることを知っていたのかもしれない。



 現代人は脳を重要視しすぎだ。

 人体において脳は絶対的な司令塔で、肉体は脳の奴隷だとおもっている。

 でも脳だって肉体の一部だ。独立した存在ではない。サッカーでいうと、脳は監督ではなくキャプテンぐらいのポジションだ。自分もフィールド上で活動しながら、手とか足とかの他のプレイヤーに指示を出している。指示がなくても他のプレイヤー(手足)は勝手に動く。歩くときにいちいち「右足を出そう。次は左膝を曲げて、左足に重心を移しながら左足を前に出して……」などと考えないでも歩けるように。

 また、心臓や胃のように脳からの指示を受け付けずにオートで動くプレイヤーもいる。

 脳はプレイングマネージャーなので、脳が他の部位に指示を出すこともあるし、逆に他の部位の挙動が脳に影響を与えることもある。

 ということで、あんまり脳ばっかりちやほやするのはやめましょう。


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2025年6月9日月曜日

【読書感想文】高野 和明『6時間後に君は死ぬ』 / 特別な人になれなかった私たちへ

6時間後に君は死ぬ

高野 和明

内容(e-honより)
6時間後の死を予言された美緒。他人の未来が見えるという青年・圭史の言葉は真実なのか。美緒は半信半疑のまま、殺人者を探し出そうとするが―刻一刻と迫る運命の瞬間。血も凍るサスペンスから心温まるファンタジーまで、稀代のストーリーテラーが卓抜したアイディアで描き出す、珠玉の連作ミステリー。

 連作ミステリ。

 表題作『6時間後に君は死ぬ』は正直イマイチだった。ミステリ初心者にはちょうどいいのかもしれないけど、ある程度の数を読んできた人には物足りない出来だった。

 未来予知ができるという青年から「6時間後に君は死ぬ」と告げられた女性。彼の予知はどうやら百発百中らしい。彼女のそばにいるのは“いかにも怪しい男”と“彼女を守ってくれそうな男”……。

 はたして、「こうなるだろうな」と予想した通りの展開。ミステリとしてはライトすぎるな……。



 表題作で期待を裏切られたが、その後の作品まで読むと納得のいく出来だった。

『6時間後に君は死ぬ』の他に、おもうような仕事ができずに悩む脚本家が幼い頃の自分に出会う『時の魔法使い』、「この日は恋をしてはいけない」と告げられた女性が恋に落ちた相手の素性を探る『恋をしてはいけない日』、ダンサーを目指す女性が人生の節目節目でデジャヴを感じる『ドールハウスのダンサー』、そして『6時間後に~』で命を救われた女性が再びピンチに陥る『3時間後に僕は死ぬ』。

 いずれも未来予知をテーマにした作品だが、それぞれ切り口が違っていておもしろい。


“百発百中の未来予知”って題材としてはおもしろいけど、物語の中心に据えるには難しいんじゃないだろうか。

 なぜなら、読者は先に結末を知ってしまうわけだから。ある意味先にネタばらしをしている状態だ。結末がわかっている状態でハラハラドキドキさせるには、予言の的中にいたる過程によほど工夫を施さないといけない。その難しいことを、きちんとやっている。

 特に『恋をしてはいけない日』は、予言を的中させつつも見事な“読者への騙し”を入れており、鮮やかな短篇だった。




 好きだったのは『ドールハウスのダンサー』のセリフ。
「ええ。叔母は、何も起こらないのが最高の幸せだと言ってました。長い間生きてきて、ようやくそれが分かったと」
 何も起こらないのが最高の幸せ。
 眉を寄せた美帆に、館長は続けた。「普通の人として生きた実感でしょう。普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。斯く言う私も、普通の人間ですが」
 年長者の言葉が、美帆にはよく分からなかった。ただ、いつかその意味が分かった時、自分の負った傷も癒やされるような気がした。

 ぼくも若い頃は「世界に名を轟かせる何者か」になりたかった。

 そんな淡い夢はかなわなかった。小説を書いたりしたこともあったけどものにならなかった。

 そして今は会社員としてそんなにめずらしくもない仕事をしており、結婚して二人の娘と暮らしている。お金持ちではないけれど生活に困っているわけでもない。人がおもしろがるような人生ではないけれど、大きな不満もない。そこそこ普通の人生と言ってもいいとおもう。よほど大きな犯罪でもしでかさないかぎり、きっとこの先も普通の人として生きてゆくのだろう。


 “特別な人”になりたくてもなれなかった言い訳になるけど、普通も悪くないとおもう。

 たとえばテレビに出ていっぱいお金を稼いでいる人を見てうらやましい気持ちがないわけじゃないけれど、今の生活を捨ててそんな人生を送りたいかと言われると、それは嫌だ。

 どこへ行っても好奇の目で見られたり、SNSで見ず知らずのやつらから中傷されたり、休みなく働いたりするような生活には耐えられないだろう。

 普通の人として生きることは、得られるものは大きくないが、失うものも少ないということなのだ。


「普通、というのは、多くの人がいいと思って選んだからこそ、普通になったんじゃないでしょうか。」という言葉は、そんな凡人に優しく寄り添ってくれる。

 そう、これがいいとおもって選び取ったからぼくは凡人になれたのだ……ということにしとこう。


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【読書感想文】高野 和明『ジェノサイド』

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2025年6月6日金曜日

【読書感想文】松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 / ゆとり教育は典型的な失敗例

教育格差

階層・地域・学歴

松岡 亮二

内容(e-honより)
出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。本書は、戦後から現在までの動向、就学前~高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上で、すべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する。

 教育格差がよく問題になる。家の裕福さによって受けられる教育のかなりの部分が決まってしまう、ひいてはその後の人生も変わってくる、と。親ガチャという言葉もすっかり定着した。

 様々な研究や調査をもとに、日本における家庭のSES(Socio-Economic Status:社会経済的背景) と教育レベルの関連をさぐった本。




 教育格差が広がっていると言われているが、実際そんなことはないそうだ。

 日本では昔から家庭によって教育格差があり、その差は長期的に見てほとんど拡大も縮小もしていないようだ。また、日本の教育格差は他の先進国と比べると標準的な水準であり、格差が大きいわけではないけれど小さいわけでもないという。


 生まれ育った家庭による教育格差というと、「親が金持ちだと高学歴になる」という相関をイメージするが、それだけでもないという。

 同じ日本の中でも、どの地域で育つかによっても格差が生じるという。

 まず、東京23区と政令指定都市は、その他すべての地域と比べて教育意識が高い。これは2010年に実施された調査の結果なので、不思議なことではないだろう。報道などから思い浮かべる「教育格差社会」の姿だ。ただ、この大都市における教育熱を説明するのは「大都市だから」ではなく、「近隣の大卒(者)割合」である。住民(ご近所さん)における大卒割合の高低が、教育意識の背景にあるのだ。これは地点間の結果なので、調査回答者本人が大卒かどうかとは別である。本人が大卒であれ非大卒であれ、大卒割合が高い地域に住んでいると、高い教育や塾の利用などに対して肯定的に回答しているといえるのだ。近所の大卒割合が規範となり、望ましい教育達成の基準値が変わると解釈できる。
 さらに2010年SSPよりも調査規模の大きい2015年SSPを用いた研究(Matsuoka 2019b)では、大卒割合と教育熱の関連を繫げるものが何かを検討した。その結果、近隣の大卒割合と教育意識を媒介するのは、近隣の「身体化された文化資本」だった。文化資本については第3章で解説するので、ここでは、「高い教育を得ることを無意識のうちに当然視する町の文化的規範」くらいの理解で構わない。高い大卒割合を土台とした教育を肯定する雰囲気があり、それが教育熱に繫がっている──高い教育という、この社会において「望ましいもの」と親和的な文化のある近隣とそうでない近隣が日本の中にある、ということを意味する。換言すると、大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。

 近隣の大人の学歴が、子どもの学歴に影響を及ぼすのだという。

 ぼくが育ったのは、兵庫県の中でも戦後に開発された住宅地だった。そこに住んでいるのはほとんどが「大阪や神戸に通勤しているサラリーマン家庭」であり、おそらく大卒率も高かった。子どものころ友だち「うちのお父さん、〇〇大学行ってたんだって」「うちは××大学って言ってたわ」みたいな会話をした記憶がある。

 そういう地域で育ったので、小学生の頃にはもう自分は大学に行くものとおもいこんでいた。「大学に行きなさい」などと言われるわけではない。ほとんどの人が「中学校を卒業したら高校に行く」とおもいこんでいるのと同様、「高校を卒業したら大学に行く」と考えているのだ。

 そこでは「どの大学に行くか」は話題になっても、「高校卒業後に大学に行くか、専門学校に行くか、就職するか」は話題にならない。

 高校のとき、卒業をしたら料理人として働くと言っていた同級生に「なんで大学行かないん?」と訊いてしまったことがある。今おもえばすごく傲慢で無神経な質問だ。でもそれぐらい、よほどの事情がないかぎりは大学に行くのが当然だとおもっていたんだよ当時は。


 また、教育格差とは単に成績だけの話でもないという。

 特に学校ランク・学校SESの両方と関連が強い「成功へのこだわり」を偏差値換算して図5‐9を作成した。(中略)高ランク校には「何でも一番になりたい」などの項目に肯定的な生徒が高い割合で在籍する。また、そのような学校の多くは学校SESが上位16%の学校だ。「生まれ」を背景にして高学力を獲得し受験を突破したという成功体験を持つ生徒たちが集まる進学校は成功への欲求が充満するサウナのようなものだ。
 一方、低ランクの学校は概ね低SESで、成功へのこだわりは平均的にだいぶ低い。そのような学校で業績主義的な成功である大学進学を煽っても、「生まれ」を背景に成功体験の積み重ねが少ない以上、生徒たちの反応は弱いだろう。

 親が高学歴・高収入であるほど、子どもの上昇志向も高いという。

 まあねえ、これが現実だよね。親が高学歴だと子どもにも自分と同等かそれ以上の学歴を期待するだろうし、そのためのサポートもする。結果的に子どもも高学歴を目指すようになる。

 かくして教育格差は再生産されていくことになる。




 最近、ぼくの住んでいる市では習い事・塾代助成金という制度が実施されている。小5~中3の子が塾や習い事の費用を、月1万円を上限として市が負担してくれるという制度だ。

 うちも恩恵は受けている。だが、これらの施策は教育格差の縮小に役立つかというと、たぶん役には立たないだろう(無駄とは言わないが)。

 まず、それなりにちゃんとした塾に行こうとおもったら月1万円では足りない。「塾代として毎月5万円払ってます」という家庭は、それが4万円になったら助かるだろう。だが「お金がないから子どもを塾に行かせられません」という家庭は、1万円補助してもらえたからといって「だったら月4万円出して塾に通わせよう」とはなりにくいだろう。

 また『教育格差』で書かれているように、世帯、地域によって親の意識、子どもの意識に格差がある。助成金で「子どもなんか放っておいても勝手に育つわ! 俺は塾なんか行ってなかったし!」という親の意識を変えるのはむずかしいだろう。

 習い事には、親の送迎や時間などの金銭以外のコストもかかるしね。




『教育格差』では、格差自体がいいとも悪いとも言っていない。世帯・地域間の教育格差があるという現実を指摘するにとどめている。

 ただ問題は、きちんとしたデータに基づかずに様々な政策が実施されていることだ。

 教育というのは、誰しも当事者であったから何かしらコメントしやすい分野だ。医療問題について語ってくださいとか、国家財政について意見をどうぞと言われても、知識がなければ何も語れない。でもみんな学校には行ってたし、その中で不満におもうこともひとつやふたつではなかっただろうから、専門知識がない人でもあれこれ言いやすい。結果、えらい人(ただしバカ)の思いつきで極端な方針転換がとられることが多い。

 例として、1990年前後に生まれた世代に施された“ゆとり教育”の失敗が挙げられる。

「思い込み」に基づいて授業時間数とカリキュラムが削減され、学習圧力が低下した結果、存在するデータでは授業内容の理解度に変化はなく、到達度はむしろ低下傾向で、学習意欲も改善しなかった(苅谷2002)。また、2002年度に実施された学習指導要領で土曜日が休みになったことで、SESによる学力格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。さらには、低SESの生徒には学習へのインセンティブ(勉強するといいことがあるよ! という誘因)が見えづらくなり、1979年と比べて1997年には学習時間の格差が拡大(苅谷2001)し、土曜日が休みになった2002年の後にもSESによる学習時間格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。
 そして「ゆとり」を忌避する親は、選択の「自由」を行使することになった。事実、首都圏の富裕層が近所の公立学校ではなく私立や小中一貫校などを選ぶ「リッチ・フライト」現象(Fujita 2010)が報告された。選択の「自由」を行使できるのは高SESの親なので(304)、市場デザインの工夫がないまま単に選択肢だけ増やすのでは、格差拡大の方向に進むことになるのは不思議な結果ではない。

「子どもが勉強しすぎらしい。授業時間を減らせば、勉強ばっかりしている子にゆとりが生まれ、学習意欲が増すはず!」という根拠のない思い込みによって導入されたゆとり教育。

 だが結果は狙いの逆だった。公立校での授業時間が減ったことで、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせ、私立校受験への指向が高まった。結果的に格差は拡大。

「ゆとりがなかった層の子はますます学習に駆り立てられ、既に十分ゆとりがあった層の子はさらに学習時間が減る」という、なんとも皮肉な結果になってしまったのだ。

 素人がデータに基づかずに方針を決めると大失敗するという、お手本のような事例だ。

 



 くりかえしになるが、著者は教育格差が悪いと書いているわけではない。差はあるとはいえ格差はどの国にもある。どの時代にもある。「生まれた家によって受けられる教育に差がなかった社会」なんてものは存在しない。

 完全に平等な社会なんてイスラエルのキブツとかヤマギシ村みたいに、「子どもは完全に親元から離れて社会全体で育てる」という極端な社会主義を導入しないと不可能だろうし、それらの試みがうまくいかなかったのは歴史を見ればすぐわかる。

 平等を実現しようとすれば自由が損なわれる。いちばん賢い子に全員をあわせることは不可能なので、平等のためには「できる子ができない子のレベルに合わせる」ことになる。それは社会全体にとっても大きな損失だろう。


 個人的な考えでは、教育格差はそんなに悪いことじゃないとおもうんだよね。全員に平等にチャンスがあるってのはいい面もあるけど悪い面もあるとおもう。勉強が苦手で、勉強嫌いで、親も「勉強なんてしなくていいよ」って考えの子に高いレベルの教育を与えるのがはたして本人のためなのか? という気もする。

 幸いぼくは学校の勉強は得意なほうだったから学校教育はあまり苦ではなかったけど、「すべての子が高いレベルの音楽教育を受けられるように」とか「生まれ育った家庭によって格闘技を学ぶ機会に差があるのはおかしい。公平な格闘技教育を!」とか言われる世の中だったら、音痴で格闘技嫌いのぼくはさぞかし生きづらかっただろう。

 勉強が得意な子、勉強を重んじる親から生まれた子、勉強に時間を使う経済的余裕のある家庭の子が優先的に高い教育を受けられるのはそんなに悪いことじゃないとおもう。


 問題は、学校を出た後の社会のほうにあるんじゃないかとおもう。どういうことかというと、勉強ができることが金を稼ぐ手段として大きなウェイトを占めすぎているんじゃないかってこと。

 勉強ができるだけじゃなくて、掃除が得意であるとか、木工が上手だとか、他人の話に耳を傾けるのが苦にならないとか、お年寄りの世話が好きとか、そういう様々なスキルが金に結びつく世の中だったらいいのにな。


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2025年6月3日火曜日

【読書感想文】知念 実希人『天久鷹央の推理カルテ』 / 頭のいい人は決めつけない

天久鷹央の推理カルテ

知念 実希人

内容(e-honより)
天久鷹央。天医会総合病院、統括診断部の部長を務める彼女は、明晰な頭脳と圧倒的な知識で、あらゆる疾患を看破する。そんな天才医師の元には各科で「診療困難」となった患者が集まり…。原因不明の意識障害。河童を目撃した少年。人魂に怯える看護師。その「謎」に秘められた「病」とは?現役医師が描く本格医療ミステリー、ここに開幕!書き下ろし掌編「蜜柑と真鶴」収録。


 小六の娘が「おもしろかったよ」と貸してくれたので読んでみた。

 このシリーズは本屋にたくさん積んであったので人気だということは知っていたが、 漫画っぽい表紙の小説は好きではないので手に取らなかった。たぶん娘に勧められなければ読まなかっただろう。

 食わず嫌いしていたが、読んでみたらちゃんとおもしろかった。こりゃあ人気になるわ。

 マンガ的なわかりやすいキャラクターは個人的には好きではないのだが、知念実希人さんの文体にはあってる。以前『ひとつむぎの手』を読んだときに「登場人物のキャラクターが平面的でマンガっぽいな」とおもったのだが、それだったらいっそティーン向け小説にしてしまったほうがいい。

 キャラの造形は漫画的でとっつきやすくしていながら、著者の医師という職業を活かした医療・病院の知識がふんだんに散りばめられ、医療ドラマ・ミステリとしてもちゃんとおもしろい。

 それぞれの短篇が、謎の提示→推理→解決という単純な種明かしでなく、謎の提示→推理→解決→新たな謎→解決という二段構えになっていて読みごたえがある。

 さらに感心したのは、一篇目の短篇がラストの事件の引き金になっていること。おお、うまい。短篇集でありながら長篇としても読める。ストーリーテリングの才能がすごい。



 気に入ったのは、メインキャラクターである天久鷹央の科学に対する姿勢。

「徹底した合理主義者」というキャラクターなのだが、これがほんとに合理主義者なのだ。

 あたりまえじゃないかとおもわれるかもしれないが、フィクションの世界では意外とそうでないキャラクターが多い。「ぼくは科学者だから妖怪の存在なんて信じないよ」「幽霊? どうせ見間違いだろ?」みたいなキャラ。

 それって合理主義でなくて、単なる偏狭な人間だからね。それって「地球は平らに決まってるだろ!」と考えていた人たちと一緒だからね。


 以前、「水に『ありがとう』と言いつづけるときれいな結晶をつくる。水は人の気持ちを理解できる」みたいな説が流行ったとき、SNSなどで「科学を理解してないやつがとんでもないことを言ってる」みたいな反応が多かった。

 ぼくはおもった。いやいや、おまえらの態度も科学的じゃないよ。だってそいつらが「水が人の気持ちを理解できるわけがない」と言う根拠って「とても信じられないから」とか「他の人がそう言ってるから」でしょ? 自分で何度も実験をして、水が人の気持ちを理解できないことを証明してみせたわけじゃないでしょ?

 ぼくだって「水が人の心を伝える」なんて話を信じてはいない。でも「ぜったいにちがう」と断定はできない。実験したわけじゃないし、現代科学では観測できない物質が伝えている可能性がゼロとは言えないからだ。

 だから宇宙人だろうと未来人だろうと幽霊だろうとテレパシーだろうと、「科学的にありえない!」という態度をとるのは科学的でない。


 で、やっと天久鷹央の話に戻るんだけど、この人は河童や幽霊の存在を否定しない。

「河童が出た」という話を聞いたら、とりあえず確かめに行く。もちろん信じてはいない。けれどはなから否定したりもしない。

 あらゆるものの可能性を否定しないし、同時にあらゆるものを疑う。常識も権威も自分自身をも疑う。

 天久鷹央は漫画チックなキャラクターではあるけど、でもほんとに頭のいい人の思考をするんだよね。先入観で「河童なんているはずない」と決めつけたりしない。己の知能に自信は持っているけど、過信はしない。自分がまちがえている可能性も常に持っている。己の過ちも認める。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、未来予測の正答率が高かったのは、思想信条に従ってものを考えず、常に自分がまちがっている可能性を考え、他者の意見を切り捨てたりしない人たちだったそうだ。つまり、メディアで自信たっぷりに発言している政治家やコメンテーターとは真逆の人間ということだ。

 頭の中で考えた「頭のいい人ってたぶんこんなんだろう」ではなく、著者が実際に見聞きした頭のいい人を参考にしているからこその造形だろうな。


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2025年5月29日木曜日

【読書感想文】竹田 ダニエル『ニューワードニューワールド 言葉をアップデートし、世界を再定義する』 / 自分が嫌いな選択は「不自由な選択」認定

ニューワードニューワールド

言葉をアップデートし、世界を再定義する

竹田 ダニエル

内容(Amazonより)
言語化できずに頭の中に存在している「モヤモヤ」が晴れない。
社会の中で空気のようにある“何か”に抱く疑問や違和感が、解消できない。
日々、そんな風に感じていませんか?
本書で、竹田ダニエルさんはアメリカの若い世代から生まれた言葉の社会的背景を読み解き、内包する価値観の変化を鋭く分析します。
その分析と同時に言語化され、可視化されるのは現代社会に蔓延する“モヤモヤ”。
―新しい言葉を知ることは、新しい価値観を知ることであり、それは新しい世界を知ることでもある――
自分が置かれている環境や感情が言語化されたとき、初めてそれについて学び、話し合うことができるようになります。
今、あなたの頭の中にあるモヤモヤを捨てに、本書を開いてみませんか?

 アメリカ出身のライターがアメリカの現代カルチャーを紹介する本。

 雑誌の連載をまとめた本ということで、ずいぶん散漫で読みにくい。

 これといったテーマがあるわけではなく、いろんなところで書いたコラムをごちゃごちゃに並べただけという感じ。 

 この人のファンなら楽しめるのでは、という本。


 どういう人かよく知らないのだが、読んでいるだけでアッパークラスの人だということがよく伝わってくる。多様性だとかフェミニズムだとか、“高級な悩み”についてあれこれ語っている。

“高級な悩み”というのは、明日の飯をどうするとか、仕事がなくて生きていけないとか、そういうのとは違う、生活に困っていない人の悩みだ。こういう人たちへのカウンターとしてトランプ大統領が誕生したと言われている。

 まあ気持ちはわかるよね。自分が明日のパンのことで悩んでいるときに、やれボディケアが大変だとか、やれLGBTQの生きやすさに目を向けましょうとか、やれ家父長制が女性に向ける加害性がどうのと言われたら、しゃらくせえ、おまえらと真逆なことを言ってる候補者に投票してやるからな! となる気持ちも。


“高級な悩み”を持つことが悪いわけじゃないんだよね。それを、求めていない人にまで押しつけようとしてこなければ。

「私はマイノリティの人が生きやすい社会にしていきたい」ならいいんだけど、「だからあなたの言動はまちがってる。意識をアップデートしなさい!」と言われたら「うるせえそんなことは俺におまえと同じだけの財産を持たせてから言え!」と言いたくなるだろう。




 自己主張について。

 アメリカでは幼い頃から自己主張することを求められます。なぜなら、人種的に多様な国だから。文化や宗教、価値観などバックグラウンドが異なる人々が大勢暮らしているので、自分の考えは口に出して相手に伝えないと理解してもらえない。そして競争も激しく、静かに「察してもらおう」と待っていては損をしてしまいます。そういう社会に生きていると、誰かに質問されたら〝深く考える前にとりあえず何かを言おうとする癖〟がつきやすいし、みんな幼少期から〝自分をよく見せる訓練〟を受けているので、口先だけでうまいことを言うのは得意です。

 前半部分はよく聞く話だ。アメリカは自己主張しないと話を聞いてもらえない。日本のように「察してくれるよね」というスタンスでは永遠に伝わらない。

 おもしろかったのは後半。あくまで著者の印象ではあるけれど、「とりあえず何か言う」「口先でうまいこと言う」になりがちというのは納得できる。就活の場とかそんな感じだよね。どっかで聞いたようなあたりさわりのない意見を、さも重大な意見であるかのように語る。

 ぼくは就活のみんながとりつくろっている感じ(そしてお互いウソだと気づいていながら指摘せずにさも他人の言葉を素直に信じているかのような振るまうところ)がイヤでイヤでしかたなかったんだけど、アメリカではずっとあれをやっていなきゃいけないのか(あくまで印象)。つらいなあ。




「チョイス・フェミニズム」について。

  チョイス・フェミニズムとは、女性が自分の人生において自由に選択を行う権利を尊重しようという考え方だそうだ。

 だが昨今ではチョイス・フェミニズムに対して批判的な目を向けられているという。

 例えば女性が自身の選択の結果として主婦になることを選んだとしても、その背景に社会的圧力や経済的な制約がなかったかについては考慮しなければなりませんし、その選択は男性中心的な価値観の社会の中で行われている以上、社会的な影響から完全には逃れられていないという可能性は無視できない。専業主婦になるという選択だけではなく、例えばAV女優になるとかパパ活をするなどといった選択についても考えなくてはいけない。お金を稼ぐ手段として自分の性を売りにすることは、一見すると性的自己決定権が女性の手にあり、そうした選択は尊重されるべきとも語られますが、現在の社会が男性中心的であり女性はその影響を必ず受けていること、そしてその女性の選択が結果的に男性にとって都合のいい社会構造につながっていることについては議論すべきです。それなのに「本人の選択だから」といって議論を封じてしまうことが問題だと言われています。
 選択は完全に「自由な意思」に基づいたものではなく、内面化されたミソジニーの影響や、社会に染みついた家父長制の影響を受けているのです。そういった社会からの影響を無視することができない限り、女性が選択したからといってそのすべてを手放しに肯定するべきではない、という問題提起こそが「チョイス・フェミニズム」への批判です。
 
 ――「チョイス・フェミニズム」の姿勢が、家父長制の風潮を強化することにつながりかねないんですね。
 
 整形や脱毛といったルッキズムにまつわる選択も同じです。“可愛くなりたい”“痩せたい”という願望は、特定の美の基準に当てはまらなければ、偏見や差別を受けてしまうかもしれない、という社会の圧力からく不安の影響などを少なからず受けています。どうして、見た目がよくないといけないのか、その美の基準は誰が決めたのか、という構造を考えるべきですよね。

 げえ。気持ち悪い考え方!

 選択は完全に「自由な意思」に基づいたものではなく社会の影響を受けている。そんなのあたりまえじゃん!

 社会や家庭の価値観を受けずに考えた選択なんかあるわけないじゃない。社会的規範から完全に自由な意思が存在していると信じているなんてどうかしてる。


 「専業主婦になる」という選択は家父長制の影響を受けているのかもしれない。そのとおり。でもそれと同様に「母になってもフルタイムで仕事を続ける」という選択はフェミニズムの影響を受けているかもしれない。

 社会からの影響を無視できないから選択を手放しに肯定するべきではないというのであれば、専業主婦になった女性だけでなく働きつづけることを選んだ女性の選択にも疑問を持たないといけないよね。でもこういう人はそれはしないんだよね。


 自分が気に入る選択は「女性の自由な選択だから尊重しよう!」で、自分が気に入らない選択は「それは家父長制の影響を受けてねじ曲げられた選択じゃないの?」って言いたいわけだ。きしょっ。

 まちがっても「自分の意思でAV女優になることを選ぶ女性もいる」なんてことは認めたくないのだ。

 この人が専業主婦やAV女優を嫌いなのはべつにいいけど、その選択を否定しちゃだめだよ。


 自分の好き嫌いを正しい/まちがっているだとおもっている。人間誰しもゆがんでいる者だけど、自分が歪んでいることに無自覚な人ってたちが悪いよね。


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【読書感想文】朝井 リヨウ『正欲』 / マイノリティへの理解なんていらない

正欲

朝井 リヨウ

内容(e-honより)
自分が想像できる“多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな―。息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づく女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり始める。だがその繋がりは、“多様性を尊重する時代”にとって、ひどく不都合なものだった。読む前の自分には戻れない、気迫の長編小説。第34回柴田錬三郎賞受賞!


 (一部ネタバレを含みます。)


 性的マイノリティを題材にした小説。

「性的マイノリティ」は最近よく耳にする言葉だ。小説、漫画、ニュースなどでホットなテーマといっていいだろう。

 うちの小学生の娘も「付き合うのは男と女とはかぎらないんだよね」なんて言ってる。学校でもしっかりとLGBTQなんて言葉を教える。

 が。『正欲』で描かれるのは、その“いわゆる性的マイノリティ”からもはずれた性指向の人たちだ。


 この小説に出てくるのは「水」に性的昂奮をおぼえる人たち。「水に濡れた人」ではない。水そのものが対象なのだそうだ。

 マイノリティの中でもさらにマイノリティ。ぼくはそんな指向の人たちがいることすら知らなかった。



 自分とはまったく異なる価値観を持つ人の話を読むのは好きだし、それこそが小説の醍醐味でもあるとおもうのだが、『正欲』はあまりにも遠い世界すぎて最後まで入りこめなかった。

 だって水だもん。ヤギに欲情するとかならギリ理解できないこともないけど、水だよ? 無生物だよ。それどころか決まった形すらないんだよ。

 それこそがぼくが「自分と異なる価値観の人を遠ざけている」証左なんだろうけど、べつにそれでいいとおもうんだよね。

 はっきり言って、他人を理解することなんて無理だよ。ぼくはリベラル派を気取ってるけど、本音のところを言えば同性愛者は気持ち悪いとおもってるよ。決して口には出さないけど。実害があるわけじゃないからわざわざ弾劾したりはしないけど、自分から近づきたいとはおもわない。

 でもそれでいいとおもってる。おたがいさまだし。たとえばぼくは四十代のおっさんだけど、二十代の女性をエロい目で見たりする。とても書けない妄想をくりひろげたりもする。行動にはうつさないけど。

 それを気持ち悪いとおもう人もいるだろう。べつにいい。頭の中でエロいことを考える権利があるように、誰かがぼくのことを気持ち悪いとおもう権利もある。

 ただそれを口に出して「おまえ気持ち悪いよ」と言われたり、「エロいこと考えることを禁止する」とか言われたら反発する。

 こっちは迷惑をかけないようにしてるんだから、おまえもおれに迷惑をかけるな。それだけだ。流星街の掟だ。




『正欲』にこんな文章が出てくる。

 多様性、という言葉が生んだものの一つに、おめでたさ、があると感じています。
 自分と違う存在を認めよう。他人と違う自分でも胸を張ろう。自分らしさに対して堂々としていよう。生まれ持ったものでジャッジされるなんておかしい。
 清々しいほどのおめでたさでキラキラしている言葉です。これらは結局、マイノリティの中のマジョリティにしか当てはまらない言葉であり、話者が想像しうる〝自分と違う〟にしか向けられていない言葉です。
 想像を絶するほど理解しがたい、直視できないほど嫌悪感を抱き距離を置きたいと感じるものには、しっかり蓋をする。そんな人たちがよく使う言葉たちです。

 これはわかる。当事者でもないくせに多様性の理解とか叫ぶ人には、ある種の傲慢さを感じる。


 以前、あるニュースを見た。イギリスの放送局が日本の人形工場について取材したニュースだ。そこでつくっている人形というのはいわゆるラブドールというやつで、それも幼い女の子の形をした人形を、愛好家に向けて作っているのだ。

 それをイギリスの放送局は「こんな気持ち悪いことをしているやつらがいます! こんなことが許されていいんですか!」みたいな感じで報じていた。


 ぼくは人形愛好家ではないけれど、そのニュースを見て腹が立った。何が悪いんだ、と。

 たしかに気持ち悪いよ。幼い女の子の姿をした人形を愛して抱いているおっさんは。

 でもそんなことは当人たちだってわかってるはずだ。だからみんなこっそりやっている。こっそり買って家でこっそり楽しんでいるのだ。実際の少女に手を出したらいかんけど人形なんだから誰にも迷惑をかけていない。

 それを、森の石をひっくりかえして「うわこんなところにゴキブリがいるぜ! 気持ち悪い!」と言うように、わざわざ工場まで訪れて取材して「こんな気持ち悪い人間がいるんだぜ! どうだみんな気持ち悪いだろう!」と白日の下にさらすことで誰が得するんだよ。気持ち悪いものを見に行ってるおまえのほうが気持ち悪いよ。

 家に出たゴキブリを殺すのはふつうでも、わざわざ森にゴキブリを殺しにいくやつは異常者だ。


 差別に遭っている当事者でもないくせに多様性が大事とか言ってるやつって、そのタイプに近い。

 別に他者を理解する必要なんてない。というか理解なんかできるわけないし。

 そもそもLGBTQってなんだよ。なんでぜんぜんちがうものをひとくくりにしてるんだよ(同じ不快さをSDGsにも感じる)。「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」みたいなことだよね、LGBTQって。勝手にくくるな。


 一緒にトラウマを乗り越えていきたい?
 笑わせないでほしい。自分が抱えているものはトラウマなんかではない。理由もきっかけも何もなく、そういう運命のもとに生まれた、ただそれだけのことだ。こうなってしまった自分には何かしらの原因があって、それを吐露する場があれば何かが癒され変化するような次元の話ではない。
 そもそも、お前みたいな人間にわかってもらおうなんてこっちは端から思ってない。お前にはお前のことしかわからない。お願いだからまずそのことをわかれ。他者を理解しようとするな。俺はこのまま生きさせてくれればそれでいいから。
 関わってくるな。

 ぼくは音痴だ。ぜんぜん音程がわからない。

 他人からしたらどうでもいいことかもしれないけど、学生のときは「他人があたりまえにできていることが自分にはできない」ことがかなりのコンプレックスだった。

 当時のぼくに必要なのは他者からの理解などではなかった。「とにかくほっとかれること」だ。もしも「音痴でもいいじゃない。ぼくたちは音痴を差別しないからカミングアウトしても大丈夫だよ。さあ、一緒に歌おう!」なんて言われてたら地獄だった。 「私たちは音痴とハゲと運動神経悪い人とブスと共にあります」なんて言われてたら最悪だった。

 別に他者のことなんてわからなくていいんだよ。危害さえ加えなければ。




 他の人があまり切り込まないテーマを扱っていて、その点ではいろいろ考えさせられるいい小説だった。

 ただ、物語としてはあんまりおもしろくなかった。

 登場人物が多いわりに、最後はわりと投げっぱなし。いやすべてきれいに決着しなくてもいいんだけど。でも、問題提起にすらなってないというか、書きかけで世に出しちゃったみたいな印象を受けた。

 そしてラスト直前の大也と夏月の口論。それまでずっと周囲に対して本心をひた隠しにしていた大也が、急に本音を赤裸々に吐露しはじめる。

 ここがそれまでの大也の言動と比べてずいぶんちぐはぐな印象。朝井リョウさんの小説にしては雑に感じたなあ。

 テーマの重さをストーリーが支えきれなかったような印象。




 いちばんぞっとしたくだり。
  採用率。その言葉は、YouTubeのコメント欄に書き込んだリクエストが採用される確率を表している。
 自分が属するフェチがマイナーであればあるほど、性的興奮に繫がるような素材は早く底を突く。何の努力もせずとも次々と〝オカズ〟が生成される同級生たちを横目に、血眼になって素材の自給自足を続けるほかなくなる。
 YouTubeのコメント欄にリクエストを書き込むという方法は、一体誰が始めたのだろうか。人間の承認欲求と特殊性癖者の性的欲求、その交点がまさか駆け出しの配信者のコメント欄であるなんて、一体誰が予見できただろうか。 『暑くなってきたら、夏らしく、水を使った企画はどうでしょうか。水風船を割れないまま何度投げ合えるか対決、ホースの水をどこまで飛ばせるか対決など、見てみたいです』
 今読み返してみれば、過去に大也が書き込んだ文面は観たい映像を引き出すためのリクエストとしてあまりに稚拙だ。もっと砕けた空気を醸し出すべきだし、そもそもこの文章の向こう側にポジティブな雰囲気の人間がいるとは想像しがたい。だけど、このコメントを読んだ小学生の配信者は、すぐにリクエストに応えてくれた。動画内で、「この企画、面白いのかなあ?」等と訝しみながらも、水を様々に操ってくれた。
 本人が気づいていないだけで、マイナーなフェチの需要に応える動画を投稿している配信者は、多い。
 息止め対決をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、窒息フェチがいる。早割り対決や膨らまし対決、セロテープ剝がし対決など、風船を使ったゲーム企画をリクエストしている文面の向こう側には、大抵、風船フェチがいる。罰ゲームを電気あんまに指定しているリクエストなんて、わかりやすすぎてこちらが恥ずかしくなるくらいだ。駆け出しの動画配信者の飢餓感は、自給自足ではすぐに限界が訪れるようなマイナーなフェチに属する人間にとって、とても都合が良かった。
 そして、そのようなリクエストの対象になっているのは、大抵が十代の子どもだ。
 中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで、実は持ちつ持たれつな関係性であることを認知し合っているようで、その緊張感はひどく居心地が悪かった。一方子どもたちは、自分たちの行動がその行動以上の意味を持つ可能性に全く気づいておらず、その無邪気さはこちらの後ろ暗さを誤魔化してくれるほどだった。

 おおお。

 YouTubeのコメント欄ってこんなふうに使われるたのか……(現在は13歳未満のチャンネルはコメント欄が使用できないらしい)。

「中には二十代、三十代のいい大人がその対象になっていることもあったが、その場合は自分たちにどんな視線が注がれているのかを自覚しているようで」と書いてあるけど、「もっと脱いでほしい」とかならともかく「水中息止めチャレンジ」や「風船ふくらまし対決」をリクエストされて、それがフェチズムを満たす要求だと気づけるだろうか。ぼくだったら気づかない。

 知りたくなかったな。知らなきゃなんともおもわなかったけど、知ってしまった今となっては水や風船を使ったゲームを見るたびに「これで昂奮してる人もいるのか……」と考えてしまう。


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2025年5月23日金曜日

【読書感想文】川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』 / スペシャリストたちが結集

無人島、研究と冒険、半分半分。

川上 和人

内容(e-honより)
鳥類学者(川上和人) VS 南硫黄島(本州から約1200kmの無人島)。闇から襲いくる海鳥!見知らぬ、斜面。血に飢えたウツボ!史上最強の冒険が、今はじまる。

 鳥類学者が南硫黄島と北硫黄島を研究調査のために訪れた記録。

 以前別の本(『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』)を読んだときもおもったけど、文章がいちいちおもしろい。

 そういう目で周囲を見回してみると、崖のほど近くには角張った石がたくさん落ちている。もちろん調査隊員たちは、熟睡しながら寝返りをうって偶然落石を避けるイメージトレーニングもしてきているが、おそらく役に立つまい。テントは、崖下から一定の距離をとって設置するのが無難である。
 さて、テントを張ったはいいが、薄いシートの下はゴロゴロの玉石である。しかも、玉石は昼間の灼熱の太陽でアッツアツに熱されている。こんなところで寝たら、遠赤外線でじっくり美味しくグリルされ、注文の多い料理店南硫黄島支店が初出店してしまう。
 「おーい、ミナミイオウえもーん。たすけてよー」
 てってれー。
 「おりたたみベッドー!」
 島の環境は事前に把握していたため、我々はキャンプ用の折り畳みベッドを島に持ち込んでいた。一つのテントに二つのベッドを入れ、即席ツインルームを作る。
 南側から登ってきた私たちは北側を知らない。南半球だけを訪れてコアラに満足して地球を知ったつもりになった火星人のようなものだ。
 北半球にパンダがいるとも知らずに一生を終えていくとは哀れな火星人である。彼らの二の舞になるわけにはいかない。


 こういうギャグってえてして読んでいるとうすら寒くなるんだけど、その点、研究者は得だ。

 ふざけた文章でも、読んでいて「そうはいってもこの人の本職は研究者だもんな。余技としてふざけてるけど、まじめに研究もしてるんだろ。おもしろい人だな」と軽く受け止められる。

 プロのエッセイストの文章だと「この人はおもしろおかしい文章を書くのが仕事だから、なんとかして笑わせようと必死にふざけてるんだな」という魂胆が見えてしまって笑えない。

 そのへんのおじさんがバナナの皮ですべって転んだらおもしろいけど、プロの芸人が舞台の上で同じことをやっても笑えないのと同じだ。

 ぼくが文章を読んでおもしろいとおもうのは、研究者や歌人や翻訳者など、プロの作家・エッセイストでない人ばかりだ。文筆業の人の文章に対しては知らず知らずのうちに身構えているのかもしれない。




 この本の前半は小笠原諸島にある無人島・南硫黄島を訪れた記録であり、中盤は、そのすぐ近くにある北硫黄島の探索記、そして後半は最初の訪問から10年後に再訪したルポである。

 南硫黄島も北硫黄島も近い場所にある小さな無人島だが、その二島には決定的なちがいがある。北硫黄島にはかつて人が住んでいた(最大でも人口200人ほど)のに対し、南硫黄島のほうは有史以来ほぼずっと無人島(漂着して一時的に滞在していた人がいる程度)だったことだ。

 なので、この二島人が住んだことのない島に住む動物を比較すれば、「人間が生態系に与える影響」がわかるわけだ。


 これがおもしろい。

 基本的に人間は、「人間の影響を受けた自然」しか観察することができない。人間が行けない場所は観察できないのだからあたりまえだ。

 南硫黄島は、ほとんど人間の影響を受けていない。人は住んでいないし、ふだんは立入禁止の区域である(著者たちは特別な許可を受けて入島している)。そうでなくても、本土から1,000km以上離れているのでわざわざ訪れる人はまずいないだろう。

 そして周囲を海に囲まれているので哺乳動物も渡ってこれない。

 環境に大きな影響を与えるのは、実はネズミらしい。かつて自然豊かな島だったイースター島の森林が消滅したのは、人間の活動と、人間についてきたネズミのせいだそうだ。天敵のいない島で爆発的に増えたネズミが木の実を食べ尽くしてしまったのだとか。

 南硫黄島とよく似た地形でありながらかつて人が住んでいた北硫黄島にはネズミがいる。船に乗りこんでついてきたからだ。本来島にいなかったネズミの活動により、植生が変わったり、観測できる鳥の分布も変わったのだそうだ。地面近くに巣をつくる鳥は、ネズミがいる島ではヒナを食べられてしまうので生息できないのだ。

 人間がやってきたことで動物が絶滅したなんて話を耳にするが、人間が捕獲しすぎたからという理由だけでなく、人間が(意図しようとしまいと)連れてきた動物によって滅ぼされたというケースもあるのだ。

 惑星探索をするときは、宇宙船の中にネズミがいないかよく調べないといけないね。宇宙人を滅ぼしてしまわないように。




 南硫黄島と北硫黄島を探索しているのは鳥類学者の著者だけでない。昆虫の研究者、植物の研究者、カタツムリの研究者などが集まり、プロの登山家やNHKの撮影班などが加わり、探索チームを結成しているのだ。

 かっこいい。

 こういうの、あこがれるなあ。各分野のスペシャリストたちが結集して、それぞれが強みを生かして活躍する。ときにはそれぞれの目的に向かい、ときには力をあわせ、チームを高みへと導く。

 しびれるなあ。『七人の侍』みたいだ(観たことないけど)。


 ふつうは夜飛ぶオオコウモリが南硫黄島では昼間に飛ぶ、という話。

「じゃぁ、なんでこんなに昼間によく飛ぶんだろね。父島でも北硫黄島でも、こんなに昼間に飛んでることはないよね」
 いろいろな島でオオコウモリを見てきたハジメがそう言うのだから間違いない。
「捕食者がいないからじゃないですかね。父島にはノスリがいるし、北硫黄島では絶滅しちゃったけど昔はシマハヤブサがいたじゃないですか。でも、南硫黄にはシマハヤブサの記録もないし、昼間にも安全だから夜行性の縛りから解き放たれたってことで」
 これは鳥の研究者としての私の意見だ。
 シマハヤブサはハヤブサの亜種で、火山列島に固有の鳥だ。過去には硫黄島と北硫黄島にいたが、人間が入植してから絶滅してしまった。一方で南硫黄ではシマハヤブサの記録はない。この島には人間が影響を与えていないので、もしいたとしたら生き残っているはずだ。しかし、前回調査でも今回調査でも確認されていないので、もともといなかったと考えるのが合理的だ。私は捕食者不在説を唱えたが、ハジメの意見は違った。
「それよりも、食べ物が少なくて夜だけじゃ十分に食べられてないんじゃないかな。だから昼にも食物を探してるんだよ、きっと。さっき歯がボロボロだったじゃない。あれは、よほど食べ物がなくて、父島じゃ食べないような硬いもの食べてるんだよ」
 確かにそうかもしれない。
 オオコウモリは果実を好む動物だ。しかし、この島ではオオタニワタリというシダの葉にまで彼らの噛み跡があった。もちろん葉っぱは果実より栄養価が低い。食物が十分にある父島では見られない光景だ。こんなものまで食べるということは、相当に食物が不足しているのだろう。
 ただし、捕食者不在と食物不足は互いに相容れないものではない。両方とも正解ということにしておこう。
 食事をしながら議論をするのは楽しい。そして議論は調査地でするに限る。なぜならば生物の進化や行動は、それぞれの環境の中で育まれてきたものだからだ。

 コウモリの研究者と鳥の研究者。専門分野はちがえど、それぞれが知見を出しあうことで活発な議論が生まれる。他分野の専門家と話すことで、おもいがけないひらめきが得られることもあるだろう。

 すばらしい環境だ。

 マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』によれば、シリコンバレーでハイテク分野のイノベーションが次々に生まれたのは、会社同士の横のつながりがあったからだという。別分野の専門家たちが接することで多様な視点からのアイデアが生まれ、イノベーションに結びついたのだそうだ。

 南硫黄島のような場から偉大な発見が生まれるのだろう。

「いかにもすぐ金になりそうな研究」じゃなくてこういうところに国の金を使ってくれ!


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2025年5月13日火曜日

【読書感想文】村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 / とりとめのない話をとりとめもないままに

回転木馬のデッド・ヒート

村上春樹

内容(e-honより)
現代の奇妙な空間―都会。そこで暮らす人々の人生をたとえるなら、それはメリー・ゴーラウンド。人はメリー・ゴーラウンドに乗って、日々デッド・ヒートを繰りひろげる。人生に疲れた人、何かに立ち向かっている人…、さまざまな人間群像を描いたスケッチ・ブックの中に、あなたに似た人はいませんか。

「著者が体験した、または知人から聞いた、小説にするほどでもないとりとめのない話」をつづった短篇集。

 うん、たしかに「とりとめのない」という言葉がしっくりくる。スリリングな展開も鮮やかなオチもストーリーから導かれる教訓もない。

 それでも読めるのは村上春樹氏ならではだよな。なんてことのない文章なのに、読んでいて退屈しない。というか村上春樹作品ってだいたいそんな感じだし。『回転木馬のデッド・ヒート』よりは起伏があるけど、山場というよりは丘といった程度。



 前書きがあまりに「村上春樹っぽい」文章で、おもわず笑っちゃった。

 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことであ我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考えている。

 うーん、村上春樹だなあ。いい意味でも悪い意味でも。

 このまどろっこしさよ。個人的には嫌いじゃないぜ。ビジネスの場で部下がこんな文章を書いてきたら「ふざけんな」と言うけど。




 八篇の「とりとめのない話」が収録されているが、ずっと退屈なわけではない。

 望遠レンズを使って好きな女の子の部屋をのぞいたり、毎日毎日嘔吐をくりかえしたり、両親が離婚したり、金をもらって行きずりの男と寝たり。

 めずらしい出来事が語られる。でも、ただそれだけなのだ。

「Aが起こったのはBが原因だったのです」とか「Aの結果、Cになってしまいました。Aをすべきではなかったのです」とかいったオチが用意されているわけではない。「Aが起こりました。おしまい」なのだ。

 起承転結の結がない。起・承・転・承みたいな感じでぬるっと終わる。


 これって逆にむずかしいんじゃないだろうか。

 人間って、物語が好きなんだよね。歴史的事実やスポーツニュースや政治を語るときでも、ついついそこに“物語”を求めてしまう。

 あの政治家がこんなことをしたのは〇年前に苦い思いをさせられたことの意趣返しだ、とか。苦節〇年のベテラン選手が期待のルーキー相手にプロの洗礼を浴びせた、とか。地震で誰かが命を落としたといったニュースにも、なぜ死ななきゃならなかったのかとか、死んだ人には幼い子どもがいて……みたいなストーリーを求める。「地震があった。死んだ」だけでは納得せず「〇〇だから死んだ」「〇〇なのに死んだ」といったお話を付与したがる。

 ストーリー仕立てにしたほうが記憶が定着しやすいとかのメリットもあるけど、物語は事実をゆがめてしまう原因にもなる。


『回転木馬のデッド・ヒート』は、見聞きしたとりとめのない話を、とりとめもないままに小説にしている。

 これって、かんたんなようで実はけっこうむずかしいことをやっているのかもしれない。

 

 ただ読んだ人の印象には残らないけどね。ぼくは数日前に読み終わったけど、もうどんな話だったか忘れかけてるもの。


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2025年5月8日木曜日

【読書感想文】エドワード・ブルック=ヒッチング『世界をまどわせた地図』 / 欲は地図をゆがませる

世界をまどわせた地図

エドワード・ブルック=ヒッチング(著) 関谷冬華(訳) 井田仁康(日本語版監修)

内容(e-honより)
本書で紹介する国、島、都市、山脈、川、大陸、種族などは、どれもまったくの絵空事だ。しかし、かつては実在すると信じられていたものである。なぜだろう?それらが地図に描かれていたからだ。神話や伝承として語り継がれていたものもあれば、探検家の間違いや誤解から生まれたものもある。なかには、名誉のため、あるいは金銭を集めるための完全な“でっち上げ”すらある。そのような幻の土地や国、島々は、20世紀の地図にもたびたび登場し、現代のグーグルマップにまで姿を現した。130点を超える美しい古地図と貴重な図版・写真とともに、人々を翻弄した幻の世界を読み解いていこう。

 小川哲『地図と拳』で参考文献に挙げられていておもしろそうだったので読んでみた。


 ほんとは存在していないのに地図に描かれていた国、島、都市、山脈、川、大陸、種族を紹介する本。

 といっても、ほとんどが島だ。ま、地続きだったら比較的行きやすいからすぐわかるもんね。海の上ならかんたんに行けないし、目印が少なく海流があるので思いもよらないところに行ってしまうので、誤認することも多いのだろう。


 存在しないものが地図に描かれる理由は勘違いやミス(地図を描くときの間違いや誤字)だけではない。

 名声欲しさに行ったことにするため、島を発見したことにして探検のスポンサーの名前をつけて次回探検の資金を集めるため、画家のちょっとしたいたずら(『地図と拳』で書かれていた“画家の妻の島”)など、故意に島がつけくわえられたケースも紹介されている。

 もしかすると、ほんとに存在していたけど地殻変動で消滅した島もあるかもしれない。島の消滅や誕生はときどき起こるらしいから。

「存在しない地形が地図に載ってしまった」は測量技術が未熟だった時代だけの話ではなく、21世紀になってからも「存在しない島がGoogleマップに載ってしまった」なんてことも起こっているのだとか。人工衛星で計測しててもミスは起こるんだな。


 大きな問題になったのが、メキシコ湾に存在するとされたベルメハという島。

 この島があるのとないのでは、メキシコの排他的経済水域が大きく変わってくる。そのため、どうやら存在しないらしいとわかってからも「あるはず!」という声が消えることはなかった。

 ベルメハの「消失」をめぐっては、気候変動に伴う海面上昇や海底地震など様々な説が浮上している。しかし、メキシコの上院議員のグループは2010年に、「誰にも気づかれることなく大きな自然の力が発生するとは考えられない。まして、220億バレル以上の石油が埋蔵されている地域で起こった大規模な自然現象に気づかないことはあり得ない」という声明を発表している。
 広く信じられているもう一つの説は、米国が油田の権利を手中に収めるために、米国の中央情報局(CIA)の手で島全体を破壊させたとするものだ。2000年11月には、メキシコの与党である国民行動党(PAN)の上院議員6人が、島が意図的に消滅させられた可能性について「濃厚な疑い」があると議場で発言した。1998年、PAN党の議長ホセ・アンヘル・コンチェロは、ベルメハ島が実在する可能性を追求するためにさらなる調査を要求した。その直後、車で連れ去られたうえに殺害され、犯人が捕まらなかったため、陰謀説はさらに広まった。コンチェロは、当時のセディージ政権が試掘権を米国企業に譲り渡そうと秘密の計画を立てているとも警告していた。
 結局、島はどうなったのだろうか。メキシコ国立自治大学のハイメ・ウルティアとメキシコ国立工科大学のサウル・ミランは、ベルメハほど大きい島を消し去るには水素爆弾が必要という結論を出した。ミランは、島が破壊されたのではなく、海の下に隠された可能性を指摘した。米国政府が何らかの方法でこっそりと海面下まで島を削ったのではないかというわけだ。
 メキシコ国立自治大学の地理学者イラセマ・アルカンタラは、ベルメハ島の存在を熱心に擁護し、取材陣にこう語った。「私たちはベルメハの存在について非常に正確な記述がある文書をいくつも見てきました。(中略)ですから、場所は違うかもしれませんが、私たちは島が存在することを固く信じています」

 アメリカが島を破壊した、あるいは削ったのではないかという説を信じる人も少なくなかったのだ。

 どれだけ科学技術が発達しても「信じたいものを信じる」という人間の習性はなかなか変えられないね。




 いちばんおもしろかったのは、スコットランドのペテン師グレガー・マグレガーの話。

 マグレガーは存在しない「ポヤイス」という国の話をし、そこに投資をする人たちを募集した。

しかも、彼の新たな母国の話ときたら! 天然資源が豊富な800万エーカー(320万ヘクタール)ほどのたいへん美しくよく肥えた土地があり、作物を育てれば豊作まちがいなし、海では魚も食用になるカメも豊富にとれる。町から少し離れれば狩りの獲物もどっさりいる。また、川は「純金の粒」でいっぱいだというのだ。さらに、この国を売り込むための案内書『モスキート・コーストの概要:ポヤイス国とはどんな場所か』(1822年)も出版され、理想郷の全貌や「巨額の利益を生む可能性がある、アルブラポイヤーなどの国内の非常に豊かな多数の金鉱」についてもくわしく紹介された。しかし何といってもきわめつけは、ささやかな金を出せばその楽園の一部が自分のものになるというところだった。
 たったの2シリング3ペンスでポヤイス国の土地1エーカー(0.4ヘクタール)があなたのものになります、とマグレガーは話に夢中になっている聴衆に語りかけた。ということは、11ポンドちょっとの金をかき集めれば、100エーカー(40ヘクタール)もの土地が手に入るわけだ。ポヤイス国は腕のいい働き手を必要としている。材木はたっぷりとあり、大きな商売ができる可能性がある。土地にしっかり手を入れれば、大地は豊かな恵みを与えてくれるだろう。イギリスで暮らす金額に比べればわずかな金で、王族並みの暮らしができるかもしれない。
 (中略)
 1822年9月10日、期待に胸をふくらませた70人の乗客と、十分な補給品と、スコットランド銀行の印刷機で刷られた(向こうで金や法定通貨と交換できるはずの)ポヤイスドルがいっぱいに入った金庫を乗せて、ホンジュラス・パケット号はポヤイス国に向けてロンドンの港を離れた。
 ポヤイス国行きの船を見送ったマグレガーは、その足でエディンバラとグラスゴーに行き、今度はスコットランド人を相手に同じ話をした。(中略)2度目の募集でもポヤイス国の土地は完売し、移住地に向かう船は今度も満員になった。1823年1月14日、200人を乗せたへンリー・クラウチ船長のケネルスレー・キャッスル号は、ホンジュラス・パケット号で一足先に新天地に向かった人々と合流すべく、スコットランドのリースの港を後にした。
 だが、目的地にたどり着いた移住者たちはひどく困惑した。彼らが目にしたのは、文明のかけらもない未開の密林と、マラリア病の発生源になりそうな沼地ばかりだった。ポヤイスという国も、豊かな土地も、文明化された都も存在しない。彼らは狡猾な夢想家に騙されたのだ。母国に帰るすべもなく、夢破れた移住者たちは補給品を船から降ろし、海岸で野営するほかなかった。4月になっても状況はまったく変わらなかった。町は1つとして見つからず、助けが来る様子はなく、野営地は絶望に包まれた。病気が広がり、1ヵ月のうちに8人の移住者の命が奪われた。「王女御用達」の座を約束された靴屋は再び家族に会う望みを絶たれ、銃で自らの頭を撃ち抜いた。

 存在しない「ポヤイス国」へと旅立った270人のうち、無事に帰ってくることができたのは50人にも満たなかったそうだ。

 ちなみにマグレガーはフランス→ベネズエラへと逃亡し、最期まで罰を受けることはなかったのこと。

 そのスケールの大きさに目を見張るが、やっていることは古典的な詐欺の手口だよね。「〇〇は確実に値上がりする。あなたにだけ特別に安くお売りします」と持ちかけて、二束三文の土地/物件/株券を売りつけ(あるいは売るふりをして)、お金を持って逃げる。

 何度も聞いたことのある、典型的な詐欺の手口だ。売るものは海の向こうの土地だったり造成予定地だったり火星の土地だったりするけど、基本的なやり口は変わらない。

 それでも人は騙されるんだなあ。欲はものの見方も地図もゆがませる。


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2025年5月1日木曜日

【読書感想文】吉田 修一『逃亡小説集』 / アクセルを踏んで逃亡したくなる気持ち

逃亡小説集

吉田 修一

内容(e-honより)
「もう、逮捕でもなんでもしてくれ」高校卒業後、地元の北九州を出て職を転々としてきた福地秀明。特に悪いことをした覚えもないのに不幸続きで、年老いた母親と出口のない日々を送る秀明は、一方通行違反で警察に捕まった時、ついに何かがあふれてしまった。そのまま逃走を始めた秀明は…(「逃げろ九州男児」)。職を失った男、教師と元教え子、転落した芸能人、失踪した郵便配達員―日常からの逸脱を描く4つの物語。


 恋愛関係に落ちてしまった女教師と男子高校生が沖縄への逃避行をする『逃げろ純愛』、覚醒剤使用が明るみに出て逃走する元アイドルとそれをかくまうファンの心理を描いた『逃げろお嬢さん』、網走のショーパブで働く男のもとに元妻の弟が郵便配達中に失踪したというニュースが飛び込む『逃げろミスター・ポストマン』など、「逃亡」を元にした短篇集。

 小説とはいえどれもモデルとなった実話があり、どれもいつかのニュースで耳にしたことがあるような気がする(覚醒剤使用で逃亡した元アイドルはかなり大きなニュースとなった)。


 強く印象に残ったのは『逃げろ九州男児』。

 些細な交通違反で警官に呼びとめられた男は、ふいに何もかもがどうでもよくなり警察官の制止をふりきって車で逃走してしまう。どんどん増える警察の追っ手をかわしながら、無茶ともいえる運転で暴走をする男。後部座席には母親を乗せたまま……。

 逃走しながら男は人生を回想する。高校卒業後に製鉄所に就職したがすぐにやめたこと、先輩の連帯保証人になって借金を背負ったこと、暴力団に入った友人から声をかけられたが助けを求めずまじめに働いて借金を返済したこと、体調を崩して仕事をやめたこと、転職したものの契約解除され住んでいるアパートも立ち退かねばならなくなったこと……。

 ほどほどに道を外れたものの、総じて見ればまっとうに生きてきたと言える男。だが様々なめぐりあわせて市役所に生活保護の申請をすることに。

 その帰り道に交通違反で捕まり、張り詰めていた糸が切れてしまったかのようにアクセルを踏みこんでしまう。逃げたところでどうなるものでもない、状況は悪くなるだけだとわかっているのに――。


 この心境、なんとなくわかる気がする。幸いにしてぼくは今のところ何もかも放り出して逃げだしてしまったことはないけれど。

 思いだすのは小学生のときのこと。書道の宿題が出た。作品展に飾るので、クラス全員提出すること。

 ぼくは提出していなかった。担任の教師が毎日催促する。提出してないのはあと六人だぞ。あと三人。そしてとうとう、あと一人になった。

 担任が言う。「一枚足りないぞー。出してないの誰だー」

 もちろんぼくにはわかっている。出していないのは自分だけだと。でも手を挙げることができなかった。わかっていた。作品には名前が書いてあるので、調べたら出していないが誰かなんてすぐにわかると。それでもぼくはすっとぼけた。このまま知らぬ顔をしていたらひょっとしてどうにかなるんじゃないかと。何かのまちがいで提出しなくてもよくなるんじゃないかと。

 もちろんそんな奇跡は起こらず、みんなの前で叱られた上に結局家で書道の作品を書いてくることになった。もしもあのとき自動車と運転技術があったなら、アクセルを踏んで逃亡していたことだろう。


 面倒なこと、やらなきゃいけないこと、嫌なことから逃げ出したくなることはよくある。

 突然バイトや仕事に来なくなる人を何人も見てきた。どう考えたって、何も言わずに行かなくなるより、おもいきって「辞めます」というほうが後々のことを考えればずっと楽だ。今は退職代行会社が流行っているが、よほどのブラック企業を除けば、ふつうに退職するほうが楽だ。代行会社を使ったってやらなきゃいけない手続きはどうせ一緒だもん。

 それでも多くの人が逃げ出してしまう。逃げない方が楽な場面でも。きっと誰の心にも逃避願望があるのだろう。




 しかし吉田修一さんって逃亡する小説が好きだよね。

『元職員』は横領した公社の職員がタイを訪れる話、『怒り』『悪人』でも殺人を犯して逃亡する男が書かれる。

 そしてぼくはこれらの小説が好きだ。逃げる、追われるという行為に何か惹きつけられるんだよね。

 ぼくはときどき追われる悪夢を見る。「悪いやつに追われる」夢ではない。「自分が悪いことをして追われる」夢だ。なんかずっと後ろめたさが脳内にこびりついてるんだよね。追われるほどの悪事はしてないはずなのに。

 吉田修一作品は、そんな「いつか逮捕されるかもしれない」と考えている人間にぐっと刺さるんだよね(くりかえすけどほんとに逮捕されるようなことはしてないんだよ、まだ)。


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2025年4月28日月曜日

【読書感想文】ジェイン・マクゴニガル『幸せな未来は「ゲーム」が創る』 / 「ゲームはいい。なぜならゲームはいいから!」

幸せな未来は「ゲーム」が創る

ジェイン・マクゴニガル(著) 妹尾堅一郎(監修)
藤本徹(訳) 藤井清美(訳)

内容(早川書房HPより)
近年、世界のオンラインゲーマーのコミュニティは数億人に達し、莫大な時間と労力がヴァーチャルな世界で費やされている。これは現実に不満を持つ人々による「大脱出」にほかならない。 なぜ人々は「ゲーム」に惹かれるのか? それは現実があまりに不完全なせいだ。現実においては、ルールやゴールがわかりづらく、成功への希望は膨らまず、人々のやる気はますますそがれていく。 そんな現実を修復すべく、ゲームデザイナーの著者は、「ゲーム」のポジティブな利用と最先端ゲームデザイン技術の現実への応用を説く。コミュニケーション、教育、政治、環境破壊、資源枯渇などの諸問題は、「ゲーム」の手法で解決できるのだ


 ゲーム(ビデオゲームだけでなくボードゲームなども含む)は楽しいだけでなく、生活の向上やビジネスや環境問題など様々なことにプラスに働くんだよ、と語った本。


 ぼくもゲームは嫌いじゃないけど、この本はいただけない。

 ゲームをすると、みずからの意志でハードな仕事に励めるので私たちは幸福になります。よい仕事に忙しく励むこと以上に、私たちを幸せにしてくれるものはほとんど存在しないことがわかります。
(中略)
 医学的な定義によれば、抑うつ状態になると、ふたつの兆候、自信のない悲観的な気持ちと、活気のない沈んだ気持ちに苦しめられます。このふたつの兆候をはね返すためには、自分の能力に対する楽観的な気持ちを高めて、活動への爽快な高揚感を得る何かを見つける必要があります。このような前向きな心的状態を示す臨床心理学用語はありません。ですがこの状態は、まさにゲームがもたらす感覚を完璧に表しています。ゲームは、しつこいほどに楽観的な気持ちで、自分が得意(または得意になろうとしている)で好きなことに活力を集中する機会を与えてくれます。つまり、ゲームプレイは絶望の対極にあると言えます。
 私たちが優れたゲームをプレイしているとき──越える必要のない壁に立ち向かっているとき──、前向きな感情を最大限まで高めるべく積極的に活動しています。私たちは、激しく没頭していて、精神的にも肉体的にもあらゆる前向きな感情や経験を生み出す望ましい状態に身を置いています。ゲームをプレイすることで、あらゆる幸福感の根底にある神経組織、生理的組織──注意力に関する組織、報酬を司る中枢、意欲に関する組織、感情や記憶の中枢まで──が完全に活性化されます。
 この極度な感情の活性化こそが、今日のもっとも成功したゲームで気持ちが中毒的に高揚する根本的な理由です。生物学的な観点から言っても、私たちは楽観的な気持ちで没頭しているとき、前向きなことを考えたり、社会とのつながりを持ったり、自分の長所を強めたりする可能性が突如として高まるのです。心と身体が幸福になるように、積極的に条件づけているのです。

 この文章が象徴的なんだけど、結論ありきで議論が進んでいて、論拠がぜんぜんないんだよね。


 まともな本ならこの文章の後に「それを裏付ける実験・調査がある。〇〇の条件下で□□をしたところ、有為に△△が多かった。だからゲームをすると幸福になれるのだ」と続くだろう。だがこの本にはそれがない。

「ゲームはいい。なぜならゲームはいいから!」みたいな文章が延々と続く。

 いろんなゲームの例を挙げてあれこれ語っているけど、ずっとこの調子。どこまでいっても「私がいいとおもうからいいの!」レベルだ。


 著者はゲームデザイナーだそうだ。そんな人がゲームを悪く書くはずがない。ゲームはいいという結論が先に決まっている。

 それ自体は悪くない。たいていの科学は仮説からスタートする。問題は、仮説を裏付けるデータや実験結果がまるでないことだ。

 なんの論拠もなく、「失敗しても楽観的でいられるのはゲームに身につく精神的強さです」とか「ゲームによって得られる達成感、高揚感はビジネスにも好影響をもたらす」みたいなことが垂れ流される。

 は?

 これを読んでいても「ゲームのことばっかり考えてると著者みたいに論理性がなくなってしまうのかな」としかおもえない。




 ゲームの話はまるで得られるものがなかったが、「からかいあう」ことに関するこの話はおもしろかった。

 近年の科学的な研究が示しているように、からかいあうことは、お互いの好意的な気持ちを高めるのにもっとも速効性があって効果的な方法のひとつとされています。カリフォルニア大学の向社会的感情に関する先駆的な研究者であるダチャー・ケルトナーは、からかうことの心理的な効用に関する実験を行った結果、からかい行為がポジティブな関係を築き維持していく上で重要な役割を担っていると考えています。
「からかうことは社交のワクチンのようなもので、受け手の感情システムを刺激する」とケルトナーは説明しています。からかい半分の他愛のないおしゃべりは、お互いのネガティブな感情をとても穏やかに引き出すことを許容し、ごく少量の怒りや痛みや恥ずかしさを生み出す刺激となります。この小さな挑発はふたつの強力な効果を持ちます。第一に、信頼を確かめあうことです。人がからかうのは、相手を傷つけることができることを示しながら、同時に傷つけるつもりはないということを示しています。これはちょうど犬が他の犬と友達になりたくて甘嚙みするようなもので、互いを傷つけることができても絶対に傷つけないことをわからせるために牙をむき出すようなものです。反対に、誰かにからかわれるのを許容することは、弱い立場に身を置く意思を示すものです。相手はこちらの感情的幸福に配慮してくれるはずだという信頼感を積極的に示しているのです。
 他の人にからかわれることで、からかう側に自分の強さを感じさせる手助けもしています。社会的関係性の中で、自分が高い地位にいる事実を享受するひとときを提供しています──そして人間は、社会的地位の変化にものすごく敏感です。他の誰かに高い地位を経験させることで、私たちはその人たちの好意的な感情を強めているのです。人には自分の社会的地位を高めてくれる人を好きになる性質があります。

 これは男同士のコミュニケーションで特によく見られるね。

 たまに、女性作家や女性漫画家が男同士の友情を描こうとして、登場人物に
「おまえはほんといいやつだよな」
「いや、おれこそおまえにいつも救われてるよ」
みたいなセリフを交わさせることがある。

 男ならまずそんな描写はしないだろう。親しくなるほどお互いのことを褒めないものだから。語らずとも分かりあうことこそが一般的な男の友情だ。もちろん例外もあるだろうが。

 なるほどね。信頼感を示すためにわざと甘噛みをするわけね。

 



 感心したのが、英国で政治家の不正をチェックするためにゲームの仕組みを使った例。

 議員たちに政治資金不正報告の疑いが持たれたが、証拠を探すには数十万枚の書類を一枚一枚チェックする必要がある。ジャーナリストでもとても調べられる量ではない。

 そこで、チェックをするためにゲームの機能を使った。

 一〇〇万枚の政府文書が手中にあるのに、どの文書がどの議員の不正の証拠になる可能性があるか見分けるすべがなかったのですから、多くの人から得られるかぎりの協力を得る必要があるのは明白でした。そこで、ガーディアンは、「群集の英知」を活用することにしたのです。ただし、同紙がそのために使ったのは、ウィキではなくゲームでした。
 ゲームの開発は、ロンドンを拠点に活躍している、若いながらも実績のあるソフトウェア開発者、サイモン・ウィルソンに依頼しました。ウィルソンの任務は、「スキャンされたすべての申請書とその裏付け書類を四五万八八三二件のオンライン文書に変換、圧縮し、不正の証拠を見つけるために誰でもこれらの公的記録を調べられるウェブサイトを設立すること」でした。開発チームのわずか一週間分の労働と文書をホスティングするテンポラリーサーバーのレンタル料五〇ポンドだけで、ガーディアンは世界初の大規模多人数参加型調査ジャーナリズムプロジェクト「地元選出議員の経費を調べよう(Investigate Your MP's Expenses)」を立ち上げたのです。

 このプロジェクトを立ち上げ、不正を見つけたらポイントゲットというゲーム感覚で誰でも参加できるようにしたことで、多くの市民が手分けして膨大な書類をチェックし、数々の不正申告を発見することができたという。

 いいなあ。日本でもやってほしい。

 でも日本政府の場合、まず書類を公開しないからな……。


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2025年4月24日木曜日

【読書感想文】三浦 しをん『星間商事株式会社社史編纂室』 / 絶妙に「あんまりおもしろくない」

星間商事株式会社社史編纂室

三浦 しをん

内容(e-honより)
川田幸代29歳は社史編纂室勤務。姿が見えない幽霊部長、遅刻常習犯の本間課長、ダイナマイトボディの後輩みっこちゃん、「ヤリチン先輩」矢田がそのメンバー。ゆるゆるの職場でそれなりに働き、幸代は仲間と趣味(同人誌製作・販売)に没頭するはずだった。しかし、彼らは社の秘密に気づいてしまった。仕事が風雲急を告げる一方、友情も恋愛も五里霧中に。決断の時が迫る。

 大手商社が舞台。閑職とされる社史編纂室に異動させられた主人公が会社の歴史を調べるうちに、昔を知る社員たちが口を閉ざして語ろうとしない「高度経済成長期の穴」があることに気づく。はたしてその時期に何があったのか……。


 うーん、はっきり言ってつまらなかったな……。

 ミステリを用意しているのだが、「高度経済成長期の穴」という謎に対する答えがしょぼすぎる。社内政治的には重要な事件化もしれないが、その会社に縁もゆかりもない人間(つまり読者全員)にとっては心底どうでもいい話だ。

 ヒマなひとたちがヒマにあかせてどうでもいいことを暴くためにどうでもいいことをしている……という、退屈きわまりないストーリー。


 そしてストーリー以上にひどかったのが文体。

 文章のそこかしこにちりばめられた“ユーモア”が読むに堪えなかった。

「顔から噴いた火で、おんぼろのスプリンクラーが作動するかと思われた」
「大昔のギャグのように盥が落ちてきた気がした」
「ムンクの『叫び』が、ポンポンポンッと三人ぐらい脳内で身をよじった」

 ……ふるい。

 八十年代の少女漫画みたいなセンス。おもしろくない人ががんばっておもしろくしようと書いたのが伝わってくる。四十年間アップデートされていない。「ゆうもあ」という表現がぴったりのセンスの古さだ。

 まあこのへんの表現は中盤以降おとなしくなったのでなんとか読みおえることができたのだが。ずっとこの「ゆうもあ」が続いてたら途中で投げだしてたよ。


 登場人物も作者の分身みたいな感じで、いや小説の登場人物なんだから分身なのはあたりまえだけど、みんな「一様にクセはあるけど根はいいやつ」だ。悪役は悪役で「私はイヤなことをするために生まれてきました」みたいなザ・悪役だ。思想信条も背景も守るべき人もなんにもない、平板な悪人。




 これはあれだな、BLとか同人誌とかの界隈を書きたかっただけの小説だな。

 三浦 しをんはいわゆる腐女子というやつで、BLだの同人だのが大好きらしい(解説によると)。で、この小説の主人公もBLを愛していて、年に二回コミケで同人誌の即売会を開いている。

 そんで作中作として、この人の書いたBL小説がちょいちょい刺しこまれるのだが……。

 これがまたちょうど「ちょっとだけファンのいる同人レベル」なんだよね。おもしろいわけではなく、かといってツッコミを入れて笑えるつまらないわけでもない。絶妙に「あんまりおもしろくない」小説。ある意味リアル。


 そして作中作だけでなく、『星間商事株式会社社史編纂室』自体もそういう小説だった。記憶に残るほどつまらないというほどでもない、といったところかな……。


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2025年4月22日火曜日

【読書感想文】『生きものは不思議 最前線に立つ研究者15人の白熱!講義』 / 魚は論理的思考をする

生きものは不思議

最前線に立つ研究者15人の白熱!講義

目次
・海底にミステリーサークルをつくるフグの謎……川瀬裕司(千葉県立中央博物館分館 海の博物館主任上席研究員)
・「骨」までしゃぶり尽くして紡がれる命……ロバート・ジェンキンズ(古生物学者/地球生物学者)
・西之島の不毛の大地に、いつか花咲き鳥が舞う……川上和人(鳥類学者/森林総合研究所)
・奇妙な泳ぎ方には意味がある……渡辺佑基(海洋生物学者)
・イカ・タコ・アドベンチャー……池田 譲(琉球大学教授)
・小さな植物プランクトンの大いなる可能性……遠藤 寿(京都大学准教授)
・チンパンジーに音楽の起源を探る……服部裕子(京都大学ヒト行動進化研究センター)
・魚も鏡の姿を自分とわかる……幸田正典(大阪公立大学)
・チョウはどのように相手を見ているのか?……竹内 剛(大阪公立大学研究員)
・サムライ・スネイルの作法……千葉 聡(進化生物学者)
・新種発見の旅……岡西政典(分類学者)
・海に棲む哺乳類の不思議や魅力、そして紡ぐメッセージ……田島木綿子(海獣学者/国立科学博物館)
・イルカは賢いか……村山 司(東海大学海洋学部教授)
・日常にある灯……三上 修(鳥類学者)
・「ヒトとは何か」を探る動物研究……山本真也(京都大学高等研究院准教授)

 様々な生物について研究している研究者十五人による、研究報告&若い人へのメッセージ。

 なにしろ十五人もいるので一人あたりのページ数が少ないのと、中高生向けに書かれた本ということもあり、書かれている内容は軽め。とはいえテーマを絞って深い話をしている人もいて、おっさんが読んでもけっこうおもしろかった。

 生物学を志している人はもちろん、そうでない人にもなにかしらの指針を与えてくれるんじゃないだろうか。

 幼いころからイルカが大好きでそのままイルカの研究者になった、なんて人もいるが、あれこれ迷ったり回り道をしたりして自分でも予期せぬままこの研究をすることになった、なんて人もいる。それでもけっこう楽しくやっているのが伝わってくる。


 ぼくは今WebマーケティングだとかDXだとか労務だとかいろんな仕事をやっているが、どれも学生時代には自分がやるなんて想像すらしていなかった仕事だ(というかそんな仕事があることすら知らなかった)。それでもけっこう楽しくやっている。

 学校や就活企業は、やれ将来の夢だ、やれ天職だ、やれ仕事のやりがいだとえらそうなことを抜かすが、そんなものを無理に考える必要なんかない。なるようになるし、あかんときはあかん。




 幸田 正典『魚も鏡の姿を自分とわかる』より、魚の行動について。

 私は大学生になった時からサークル活動として南日本の海岸や沖縄のサンゴ礁の海に潜り魚の行動や生活を見てきた。卒論や博士論文の研究テーマも魚の行動・生態・社会に関するものである。動物行動学では魚は本能に基づき単純な行動をする、と長い間みなされてきた。しかし、サンゴ礁やアフリカのタンガニイカ湖に潜って魚たちの暮らしぶりを見ていると、彼らは物事をよくわかっているし、様々な感情も持っていることがわかってくる。自分の観祭や経験から、これまでの動物行動学が魚の動きは本能に基づいており単純だとする考えはおかしいし、魚はこちらが思っている以上に物事を理解していると確信するようになった。
 そして2010年頃から、魚の賢さについての研究を始めたのである。
 その頃、魚の様々な「賢い」振る舞いが少しずつわかってきた。例えば、魚も「A>BかつB>CならばA>C」という一種の三段論法ができる。2016年に我々自身もシクリッドという魚がこの能力を持つことを明らかにした。また、ヒトは互いに親しい相手をその顔で区別する。同じように社会性のある魚類も顔の違いで相手を識別できることがわかってきた。魚が知り合いの個体を顔で素早く正確に識別するのだ。ヒトとよく似ている。

 へえ。三段論法ってけっこう高度だよね。

 また、魚も鏡を使って自分の顔を認識できるのだそうだ。例えばあご(鏡を使わないと見えない位置)に寄生虫のような印をつけた後に鏡を見せると、こすってとろうとする仕草を見せるとするそうだ。

「鏡に写っているのが自分だと認識する」って、あたりまえにやっているけどけっこうすごい能力だよね。なぜなら自分の顔を直接見たことがないから。「鏡に写った母親」は実際の母親と見比べられるけど、「鏡に写った自分」は見比べる対象がいない。自分が上を向いたら向こうも上を向いた、下を見たら向こうも顔を下に向けた……という観測を重ねて帰納的に導きだすしかないわけで、ある程度の知能がないとできないことだ。

 魚は魚で、ちゃんと論理を持って生きているのだ。




 村山 司『イルカは賢いか』より、イルカに関する実験。

 しかし、ここで素晴らしいことが起きた。ナックには物に対応する記号(例えば「フィンを見せたら⊥を選ぶ」)と物の呼び方(例えばフィンを見せたら「ピー」と呼ぶ)を教えただけなのに、その逆の、記号に対応する物が何であるか(例えば⊥を見せたらフィンを選ぶ)や、教えてもいない記号の呼び方(例えば⊥を見せたら「ピー」と鳴く)まで自発的に理解できたのである。

 なんとイルカにはものの名前を教えることができるのだそうだ。しかも、声と文字の両方を使えるのだとか。さらには教えていないことまで自分で推論して学べるとか。賢い!

 イルカショーとか見てたら、めちゃくちゃすごいことやってるもんな。ひょっとしたら小学生とかより賢いかもしれないぞ。


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2025年4月17日木曜日

【読書感想文】小川 哲『地図と拳』 / 技術者の見た満洲国

地図と拳

小川 哲

内容(e-honより)
「君は満洲という白紙の地図に、夢を書きこむ」日本からの密偵に帯同し、通訳として満洲に渡った細川。ロシアの鉄道網拡大のために派遣された神父クラスニコフ。叔父にだまされ不毛の土地へと移住した孫悟空。地図に描かれた存在しない島を探し、海を渡った須野…。奉天の東にある“李家鎮”へと呼び寄せられた男たち。「燃える土」をめぐり、殺戮の半世紀を生きる。第168回直木賞、第13回山田風太郎賞受賞作。

 ハードカバーで600ページ超の重厚な大河小説。

 満洲国という国の誕生から消滅までを書いた群像小説。史実と創作がうまくからみあっていて、どの部分をとってもおもしろい。史実に忠実な部分と、おとぎ話のような奇想天外な部分がモザイク画のように入り混じっている。

 この小説を書くにあたって、途方もなく膨大な史料を読んだのだろう。と同時に、それらをかみ砕いて血肉とした上で小説に還元している。膨大な史料から小説を書く人には「調べたことを全部書かなくちゃ!」というタイプが少なからずいるのだが、この著者は見事に取捨選択している。

 手塚治虫は史実と虚構を織り交ぜるのがうまい人だったけど、『地図と拳』にも近いものを感じる。


 ただ、個々のエピソードはどれもすごくおもしろいんだけど、全体を通してみるとひどく散漫な印象を受ける。いろんな登場人物の視点で語られるし、登場人物の立場もみんなそれぞれ異なる(日本人技師、ロシア人神父、中国人の地主、中国人ゲリラ、日本人の軍人など)。時代も移り変わるし、登場人物も死んだり生まれたりして入れ替わる。

 それこそが著者の狙いなんだろうけど(人ではなく国の栄枯盛衰を書こうとしたのだろう)、読んでいて尻のおさまりが悪いというか、どういう立場で読めばいいのかわからない。神の視点で読むのが正解なのかもしれないが、ぼくは神を経験したことないからなあ。

 この読みづらさはどっかで経験したことあるとおもったら、あれだ、歴史の教科書だ。

 ぼくは本を読むのは好きだけど、歴史の教科書は苦手だった。それぞれまったくつながりのない説明がばらばらに並んでいるので、頭の切り替えに苦労するのだ。

 歴史の教科書が好きだった人ならもっと楽しめるのかもしれない。



『地図と拳』では、技術者として満洲国建設に関わった日本人が登場する。

 歴史の教科書だと「満洲事変をきっかけにして日本は満洲を占領した」と書かれるが、あたりまえだが軍人が戦いに勝ったからといって国はできない。計測をおこない、地図を作り、都市計画を立て、建物を建造する必要がある。

『地図と拳』の登場人物たちは、地図作成、都市計画、建築設計などを通して理想の満洲をつくりあげようとする。

 日本の大陸進出は身勝手な帝国主義によるものだったと教科書では教わるが、それは一面であり、すべてではなかったのだろう。少なくとも現場には使命感に燃えて、本気で啓蒙してやろうと考えていた人もいた。

 とはいえ侵略される側からしたらそんな理想や使命感なんて知ったこっちゃなくて「いい国であろうと悪い国であろうと侵略されたくない」としかおもえないだろうけど。

 住んでいる人間からすると、いい植民地より悪い独立国家かもしれない。



 これまでいろんな戦争文学を読んできたけど、つくづく感じるのは戦争のむなしさ。兵士も市民も大人も子どもも勝者も敗者も死者も生者も、みんな戦争によって悲惨な思いをする。得をする人なんてほとんどいない。

 それなのに、いざ戦争が始まってしまったらもはやどうすることもできない。止めようとしても止められない。個人も集団もえらくない人もえらい人も、誰にも止められない。





 圧倒的な資料にあたっているだけあって、随所に散りばめられたうんちくも楽しい。

「ずいぶんと建築に詳しいのだな」
 間取り、壁のレリーフ、柱の切り出し方、階段の形状、調度品の種類など、建物の薀蓄を熱心に語る細川に対し、思わずそう口にした。
 細川は珍しく照れ笑いを浮かべ「建築には歴史と思想が表れますから」と答えた。「それに、実用的な情報も得られます。この建物を見るだけで、ロシアが支那においてどのような狙いを持っているかがわかるのです」
「たとえばどんなことが?」
「なるほど」
「まず、地方の駐在武官ごときが本国から建材を取り寄せ、本国の建築家を使ってこれだけ立派な邸宅を建てていたという事実から、ロシアがかなり本気で、それも長期的に満洲を支配しようとしていたことがわかるでしょう」
「もう少し抽象的な側面の話もしましょうか。この建築は様々な意匠が折衷されていますが、基本的にはバロック主義と呼ばれている様式です。この建築が街の中でも一際目立っていることからわかると思いますが、ロシア人はこの地を占領する上で、清の風習を取り入れるつもりはなく、自分たちの文化を押しつけるつもりだったのです」
 細川は「もちろん、かなり具体的なこともわかります」と続けた。「この建築は街区から百五十メートルほど離れています。馬賊や団練が好んで使う武器である天門槍の有効射程からちょうど外れており、それでいてロシア軍の小銃の射程内に入る距離です。この家の街路に向いた窓には兵士を配置することもできますし、庭に機関銃を設置すれば街区に射線が通ります。煉瓦の壁は耐火性があり、榴弾に耐える厚さにもなっていて、暴動が発生したときには要塞に変わるのです。地下の貯蔵庫には、大量の食糧と弾薬が備蓄してあったのでしょう。ロシア軍はこの街を支配しつつも、馬賊や団練との戦闘に備えていました。万が一の際は、友軍が到着するまで守りきれるようにしていたのです」

 こういう話、大好き!


 ぼくは建築の知識は皆無なので、建物を見ても「でっけえなー」とか「掃除たいへんそうだなー」とかのアホみたいな感想しか出てこないけど、知識のある人が見ればこれだけの情報を引き出せるのだ。

 昔、今和泉隆行さんという架空地図を描いてる人の講演を聞きにいったら
「地図を見れば、その町がどんな歴史を持っていて、どこにどんな人が住んでいてどんな生活をしているかがだいたいわかる」
と語っていた。

 知識がある人って、そうでない人と同じものを見ていても目に映る景色がまったく違うんだよね。『ブラタモリ』でも、タモリさんはただの坂道や山(としか我々には見えないもの)からいろんな情報を引き出してるもんね。

 こういう、「自分は持っていない視点からものを見る愉しさ」を味わわせてくれるのが読書の喜びだ。




 いちばん印象深かった挿話。
  たとえば、ヨーロッパの古地図には「画家の妻の島」と呼ばれる島がいくつか含まれている。
 ヨーロッパでは専門家の調査結果を元に、最終的に職業画家が地図を清書することが多い。画家が地図を描き終えたとき、隣にいた妻がこう囁く。
「私の島が欲しい」
 画家はその話を聞いて、地図に一つの島を書き加える。こうして、架空の島や架空の国家、架空の大陸が描かれる。どうやら歴史上、そういった例がいくつも存在したようだ。

 なんかロマンがある話だなー。

 もしかしたら今でも、地球から遠く離れた宇宙の彼方に「天文学者の妻の星」があるかもね。


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2025年3月25日火曜日

【読書感想文】貫井 徳郎『光と影の誘惑』 / ペンギン関係ないんかい


 光と影の誘惑

貫井 徳郎

内容(e-honより)
銀行の現金輸送車を襲い、一億円を手に入れろ―。鬱屈するしかない日常に辟易し、二人の男が巧妙に仕組んだ輸送車からの現金強奪計画。すべてはうまくいくかのようにみえたのだが…。男たちの野望が招いた悲劇を描く表題作ほか、平和な家庭を突如襲った児童誘拐事件、動物園での密室殺人など、名手・貫井徳郎が鮮やかなストーリーテリングで魅せる、珠玉の中編ミステリ4編。

 ミステリ中篇集。元は1998年刊行だそう。

 うーん、「おもしろくなりそう」な作品が多かったな……。

(以下、ネタバレ含みます)



『長く孤独な誘拐』

 息子が誘拐された。両親のもとにかかってきた誘拐犯からの電話。誘拐犯の要求は「息子を返してほしければ、今から言う子を誘拐しろ……」

 息子を誘拐された被害者が犯人になるという二重誘拐事件。これはおもしろい設定だとおもったのだが……。


 あたりまえだけど、「自分で誘拐&身代金受け渡しをやる」よりも「会ったこともない人に命じて誘拐&身代金受け渡しをさせる」ほうがはるかに難しいはず。それなのに順調に事が運ぶ。ということは……。

 かなり早い段階でオチが読めてしまう。そもそもミステリで誘拐事件が書かれる場合って、かなりの確率で狂言誘拐パターンだからね。



『二十四羽の目撃者』

 突然の海外コメディのような文体。そのわりにウィットに富んだ会話がくりひろげられるわけではなく、「怖い上司に怒られちゃったよ。とほほ……」「おっかない警察官に怒られちゃったよ。とほほ……」みたいな昭和臭の漂うやりとりが続く。

 そもそもこの人の文章は重めで、説明が多くてテンポが遅いので、こういう軽妙な文体は似合わないとおもうんだけど。

 動物園で起きた殺人事件、屋外の密室、という設定はおもしろかったんだけど、明らかになるのは「ミステリ作家が頭の中だけで考えたとうていうまくいくとはおもえないトリック」。なんだよ、「手袋に風船を結びつけておき、発砲後は風船が飛んでいくので現場に残らない」って。

 そして、意味ありげなタイトルも、動物園という舞台もぜんぜん本筋に関係なかった。ペンギン舎の横で殺人が起きてタイトルが『二十四羽の目撃者』なのに、謎解きにペンギン関係ないんかい。



『光と影の誘惑』

 現金輸送車から金を奪う計画を立てる二人の男。

 もう、「ふたりの胸中が交互に語られる」時点であのパターンだとわかる。さすがに今では手垢にまみれすぎた手法。1998年時点ではまだ古びてなかったのかなあ。

 しかも「かつて自分が騙して殺した相手と同じ苗字で顔もよく似た男が現れたのにまったく警戒しない」ってどうなのよ。雑ー!


『我が母の教えたまいし歌』

 父を亡くした大学生。葬儀を取り仕切っているうちに、一人っ子だとおもって育ってきた自分に姉がいたことを知らされる。さらに人付き合いの苦手な母がかつては社交的だったこと、両親の転居の時期にいろいろなことが起こっていたことなどが明らかに。はたして姉はどこにいるのか……。


 四篇の中ではこれがいちばんよかった。オチの切れ味もいいし、真相を明かしてすぱっと終わらせているのもいい。



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【読書感想文】安藤優一郎『百万都市を俯瞰する 江戸の間取り』 / のび太みたいなことをやる大名

百万都市を俯瞰する
江戸の間取り

安藤優一郎

内容(Amazonより)
江戸は五〇〇年以上も前から関東の港湾都市として賑わいを見せていたが、天正18年(1590)に徳川家康が居城に定めたことで、大きく変貌を遂げた。当初は軍事拠点として城の整備が進められ、関ヶ原で徳川家が勝利したのち武家人口・町人人口が急増すると、一大消費地点として発展。ついには世界最大級の百万都市にまで成長し、現代東京の礎が築かれることとなる。
本書では、そんな江戸という巨大城下町を、「間取り」を介して解説していく。具体的には江戸城のほか、武家地、町人地、寺社地、江戸郊外地という五つの土地毎に章を分け、各建物の内部構造や周辺の俯瞰図を見ながら、江戸に住む人々の暮らしに迫っている。(中略)この五つの切り口を通じて、城下町江戸で暮らす武士や町人の生活を、様々な間取り図とともに解き明かしていこう。(「はじめに」より)

「間取り」という切り口で、江戸の人々の暮らしをひも解く本。江戸城、武家、寺社などが中心。ぼくは落語は好きだけど時代小説も時代劇もほとんど見ないので、個人的には名もなき人々の暮らしぶりを知りたかった。でも紙も文字も一般的でない時代なので、一般人の暮らしぶりをわざわざ書き残したりはしない。間取り図を残すのは名のある家や金持ちだけだよね。当然だけど残念。

 

 改めて、市井の人々の暮らしって残りにくいものだと感じる。

 今の我々の暮らしも百年後の人々にとっては興味深い「歴史資料」になっているんだろうけど、わざわざ不動産広告のチラシを百年後に残したりしないもんな。子孫に残すなら貴重な金銀財宝よりも、「ごみとしかおもえないどうでもいい紙切れ」とかのほうがおもしろいかもしれない。いや、金銀財宝も欲しいけど。



 おもしろかったのが、江戸に多くあった大名屋敷について。

 各藩の大名たちが住む屋敷は、幕府から与えられた土地に建てられた。ただし与えられたのは土地だけで、建物はそれぞれで建てなければならなかったそうだ。

 だからだろうか、それぞれ趣向を凝らしてけっこう好き勝手に建てていたのだそうだ。

  別荘・倉庫・避難所として使われた下屋敷は上屋敷・中屋敷とは異なり、複数下賜される事例が珍しくなかった。尾張藩もその一つだが、江戸郊外で下賜されることが多かったため、江戸城近くで下賜された上屋敷や中屋敷よりも面積はかなり大きかった。なかでも、尾張藩の戸山屋敷(現新宿区戸山一~三丁目)の広さは群を抜いた。市谷屋敷以上の規模である八万五〇〇〇坪を下賜されたが、尾張藩では周囲の農地を購入して戸山屋敷に組み込んだため、その分を合わせると一三万坪にも達した。
 (中略)
 戸山荘二十五景の一つである龍門の滝でのアトラクションは、戸山荘の名物の一つになっていた。まず、巨大な池から滝へと流れていく水を堰き止めておく。訪問客たちが渓流に配された飛び石の上を渡り切ると、堰き止めの板を外して滝へ水を落とす。そうすると、今まで渡って来た飛び石が水中に没するという趣向であった。
 (中略)
 戸山荘(戸山屋敷)のように、とりわけ面積が大きかった下屋敷は庭園化する傾向がみられたが、楽しめたのは景観だけではない。本物そっくりの宿場町のレプリカも作られていたのだ。
 同じく二十五景の一つに数えられた「御町屋通り」は、東海道小田原宿をモデルにして造られたと伝えられる。図のように、三七軒もの町屋が七五間(約一三六メートル)にわたって立ち並んでいた。一軒の間口は平均約三間(五・五メートル)だった。
 米屋・家具屋・菓子屋・旅龍屋などの店舗や弓師・矢師・鍛冶屋などの職人の店つまり町屋が、時代劇のセットのように実寸大に造られたのである。本当に旅をしているかのような幻想を戸山荘の訪問客に湧き立たせる粋な趣向が施されていた。

 人口の滝をつくって客に見せたり、宿場町のレプリカを作ったり。

 これはあれだな。ドラえもんの道具を使ってのび太がやるやつだな。

 江戸に住む大名というと何かと不自由なイメージがあったんだけど、こんなふうにあんな夢こんな夢かなえているのを見ると、けっこう江戸生活を楽しんでいた大名も多かったのかもしれない。単身赴任で羽を伸ばすみたいな。




 さらに屋敷内の土地を貸したり農地にしたりして、生活の足しにしていたという。

 貸家もあるが、屋敷内の土地を貸して生活の足しにするのは、御徒に限らず御家人にとってはごく普通の経済行為だった。他の組屋敷の事例をみると、同じ御家人や藩士のほか、御坊主衆・学者・医師などが御徒の屋敷に地借している。
 御徒の組屋敷は深川でも与えられたが、深川の場合は個々の屋敷の規模は一三〇坪ほどであった。建坪二〇~三〇坪ほどの建物の構造も山本政恒の屋敷と似たようなものだが、裕福な者は土蔵や湯殿を持っていた。
 空いた土地は農地にする一方、地代を取って貸し付けた。農地には茄子や胡瓜を植え、自家用にしている。
 組屋敷は組単位で活用する方法もあった。東京の初夏の風物詩として入谷(現台東区)の朝顔市は有名だが、御徒などの御家人が内職として栽培した朝顔を市場に出したことがはじまりである。栽培するとなると相応の土地が必要だが、そこで活用されたのが組屋敷だった。組屋敷として与えられた土地を朝顔の栽培地として共同利用したわけだ。
 現在の東京都新宿区大久保周辺に住んでいた鉄砲百人組の同心が組屋敷で共同して栽培したツツジに至っては、江戸のガーデニングブームのなかで名産品となる。東京都新宿区の花はツツジだが、その由緒は大久保の百人組同心のツツジ栽培にまでさかのぼるのである。
 他の御家人の組屋敷では鈴虫や金魚の飼育も盛んであった。養殖には巨大な池が必要だが、組単位で土地活用すれば、それも可能だ。こうした御家人によるサイドビジネスが、江戸の庭園・ペット文化を支えていた。

 武士は武士としてふるまっていたようにおもってしまうけど、武士は武士でけっこう商売をやっていたのだ。

 江戸時代の人々はつつましい生活をしていたようなイメージを持っていたけど、我々と同じように経済活動をしたり、趣味にお金を使ったりしていたことがわかる。ガーデニングをしたりペットを飼ったり。歴史の教科書には書かれないし時代劇にもあんまり出てこないけどさ。

 ひょっとすると江戸の町人のほうがぼくらより贅沢な生活を送っていたのかもね。


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2025年3月14日金曜日

【読書感想文】伊沢 拓司『クイズ思考の解体』 / こんなにも手の内を明かして大丈夫なのか

クイズ思考の解体

伊沢 拓司

内容(Amazonより)
東大卒クイズ王・伊沢拓司の待望の新刊!
執筆2年半のALL書き下ろし。クイズ業界関係者から大絶賛!
「高校生クイズ」で史上初の2連覇を果たし、「東大王」や「QuizKnock」創設で日本のクイズ界を牽引する伊沢拓司。彼の「思考過程」がまるっと見えてくる”
「クイズは無限の可能性を持つエンターテインメントです。クイズが文化として見直され注目をされている今こそ、クイズを解く時に何を考えているかという過程を解剖したい! それが私を育ててくれたクイズ界への恩返しになる。その使命感で無心に執筆を続けた、『クイズのために書いたクイズの本』です! 」(伊沢)
クイズを愛しすぎた“時代の寵児"が、「クイズ本来の姿」を長大かつ詳細に、繊細だが優しく解き明かす、クイズの解体新書。伊沢氏自らが長期間に渡って調査を行い、圧倒的な情報量を詰め込んだ超大作である。熱意のこもった、かつ親しみやすい筆致で、クイズの現在地をロジカルに体系化し、未来への発展をいざなう。クイズプレーヤーはもちろん、クイズ愛好者にはぜひとも手に取ってもらいたい、クイズ史の「マイルストーン」となる一冊になるだろう。


 最近読んだ小川 哲『君のクイズ』がめっぽうおもしろかったので、競技クイズについてもっと知りたくなって読んでみた。

 クイズメディア・QuizKnockの代表である伊沢拓司氏によるクイズ論。

 テレビ番組『東大王』で有名になった人らしいが(高校生クイズで前人未到の2連覇をしたことでも有名になったそうだが)、ぼくは『東大王』を観たことがないので、この人のことは最近まで知らなかった(別の番組で、クイズに答えた後に「どのような思考を経てこの回答にたどりついたのか」という思考の流れを説明しているのを見て、おもしろい人だとおもった記憶がある)。


『クイズ思考の解体』を読んで、あまりにあけすけに語っていることに驚いた。もうクイズから離れた人ならまだしも、今後もクイズプレイヤー・クイズ作家として活躍するであろう人がこんなにも手の内を明かしちゃって大丈夫だろうか、と他人事ながら心配になった。

 伊沢さんがここまで手の内を明かしている理由は序文で「マジックからロジックへ」というフレーズとともに丁寧に説明されている。

 だがそれを読んだ上でも、やっぱり「こんなに書いちゃって大丈夫?」とおもってしまう。個人の損得よりもクイズ界全体の発展のことを考えている人だからこそなんだろうな。



 この本で最も多くのページが割かれているのが、第2章の『早押しクイズの分類』だ。

 早押しクイズをパターン分けし、それぞれの構文を解剖し、クイズプレイヤーたちがどのような思考を経てどこでボタンを押しているのかを解説している。

 結論から述べてしまえば、「クイズ王たちの頭の中には、クイズの問題文をパターン化した『構文集』的なものがあり、それを用いることで問題文の展開をある程度予測できる」のである。そして、構文集の中から当てはまるものを引っ張ってくることで予測が可能になり、それゆえに他人より多くの情報を早い段階で手にすることができる。情報の先取りをすることで、他人より早い段階で多くのヒントを得て、正解を導き出す。これが早押しの仕組みであり、「構文の把握」が重要な理由でもあるのだ。ゆえに、この章ではそうした脳内「構文集」の可視化を目指す。こうした構文ひとつひとつがどのように成り立ち、なぜ展開が推測できるのか、というところにフォーカスしていくことで、早押しを構造的に捉え、クイズプレーヤーの技術を可視化することが本章のゴールである。

 問題文の序盤を聞いただけで構文を推測し、どこで早押しボタンを押せるかを判断する。

 この際「どこで早押しボタンを押せるか」というのは「どこで正解にたどりつくのか」とイコールではない。正解がわかってからボタンを押していたのでは、レベルの高いクイズプレイヤー同士の戦いには勝てない。「もう少し問題文を聞けば正解がわかりそう」「八割ぐらいの確率でこういう問題だろうと推測できる」ぐらいのタイミングで押しているのだそうだ。

 問題文を聞いている数秒の間に、この先に読まれる問題文を推測し、そこから答えの候補を記憶からひっぱりだし、同時に他のプレイヤーがどのあたりでボタンを押すかを読み、ボタンを押す/押さないの判断をする。

 もしクイズプレイヤーの頭の中をのぞくことができたら、きっと1秒未満の間にとんでもない量の思考をめぐらせていることだろう。もしかするとそうした処理を身体化してしまい思考より先に動作があるのかもしれない。

 ほとんどスポーツと一緒だ。


 では、具体的に「ここで押せる」を見ていきたい。
 いくつか、「ここで押せる」ポイントを並べてみよう。わかるものがひとつでもあったら素晴らしい。
 「いまにお」
 「おおかみのふ」
 「きがいっ」
 「ひゃくはちじゅうどいじょ」
 そして、対応する問題文と答えはそれぞれ以下のようになる。
 「『今に王になれ』という願いを込めて、所属する力士のしこ名に『琴』という字が〜」「佐渡ヶ嶽部屋」
 「狼の糞を混ぜていたことから、漢字では『狼の煙』と書く、~」→「狼煙(のろし)」
 「木が一本立つ舞台で、ウラジミールとエストラゴンのふたりが~」→「『ゴドーを待ちながら』」
 「180度以上の広角な範囲を撮影できるレンズのことを、~」→「魚眼レンズ」

 さて、これらは納得のいくものだろうか。それとも、思わずツッコミたくなるものだろうか。
 そこで行われるツッコミはおそらく、「いやいや、他にも答えの選択肢がありそうじゃねえか!」というものだろう。しかしながら、ここに挙げたものはどれも、他の選択肢について考え尽くされた結果として実践された「ここで押せる」なのだ。「80%を目指す」と先に述べたが、これらの場合は95%以上の確率で正解にたどり着けるようなポイントであろう。
 これらは多くのプレーヤーが別解を探し、それでもなお「高確率でこの正解になるだろう」と認識されているものである。

 このへんはほとんど競技かるたと一緒だ。

 ただし競技かるたと違うのは、「ここで押せる」でも100%正解が確定していないこと。
 百人一首で「む」と読まれたら上の句は「むらさめの つゆもまだひぬ まきのはに」しかないから下の句は「きりたちのほるあきのゆふくれ」と決まる(こういう字を“決まり字”という)。でも「きがいっ」で始まる問題の答えは『ゴドーを待ちながら』とは限らない。

「きがいっぽんなら木、木が二本なら林、では木が三本なら?」という問題かもしれない。ただしこれだとかんたんすぎるので、クイズ愛好家向けの大会ではまず出題されないだろう。そういうわけで「ここで押せる」なのだ。「ここで決まる」ではない。

 そして競技かるたと異なるのは、クイズの問題は無限にあり、ということは「ここで押せる」もまだ発見されていないだけで無限にあるということだ。

 勝負の強さだけでなく研究や勝敗を決する、そのあたりは将棋や囲碁に似ているかもしれない。




『クイズ思考の解体』ではクイズの問題だけでなく、その周辺に関する思考も開陳している。

 また、置かれた状況によっても判断が異なってくる。
 苦手なジャンルの問題だとわかったとしても、その問題が最終問題、かつ自分が負けている状況なら、勝負しなければダメだ。どうせ最後まで聞いてもわからない確率が高いなら、ひとまず早く押して、自分の中にある少ない選択肢から何か答えなければならない。まずは解答権を取るのが先決である。
 一方、序盤戦なら当然考え方が変わってくるはずだ。苦手ジャンルなんだから、余計な誤答をするわけにはいかない。得意ジャンルが来たときのためにも、ここは我慢しよう……などと考えることができるだろう。

 クイズの大会とは「多く正解することを目指すゲーム」かとおもっていたのだが、どうもそうではないらしい。

 戦略的にあえて間違えたり、確率が低い勝負に出たり。極端なことを言えば、1ポイントしかとれなくても、他のプレイヤーが全員0ポイントであればそれでいい、という考えになる。

 サッカーのリーグ戦で「この試合は引き分けでもいい」とか「1点差の負けならかまわない」みたいな状況が生まれるが、それに近い。しかもその状況が刻一刻と変わる。




 ただの知恵比べではない、クイズの本当の魅力を存分に教えてくれる本だった。

 なにしろ「どうやって知識を増やすか」という話はほとんど出てこない。一流のクイズプレイヤーにとっては知識を増やすことなんて自明のことで、そこからがスタートなのだろう。

 知識があることは、将棋で言うところの「駒の動かし方を知っている」ぐらいの話なのだ。


2025年3月12日水曜日

【読書感想文】森見登美彦『四畳半王国見聞録』 / 学生時代に通っていた定食屋の味

四畳半王国見聞録

森見登美彦

内容(e-honより)
「ついに証明した!俺にはやはり恋人がいた!」。二年間の悪戦苦闘の末、数学氏はそう叫んだ。果たして、運命の女性の実在を数式で導き出せるのか(「大日本凡人會」)。水玉ブリーフの男、モザイク先輩、凹氏、マンドリン辻説法、見渡すかぎり阿呆ばっかり。そして、クリスマスイブ、鴨川で奇跡が起きる―。森見登美彦の真骨頂、京都を舞台に描く、笑いと妄想の連作短編集。


 森見登美彦の真骨頂というか、いつもの森見登美彦というか。京都(その中でも主に左京区や上京区)を舞台に、『四畳半神話大系』『【新釈】走れメロス 他四篇』『有頂天家族』の家族が登場し、ボロアパートの四畳半が舞台で、図書館警察や詭弁論部などの組織も書かれており……と、どこを切っても森見登美彦ワールド。


 内容もいつもの感じで、四畳半世界の在り方を高らかに宣言する『四畳半王国建国史』『四畳半王国開国史』、マジックリアリズム満載の『蝸牛の角』、愛に飢えた男が詭弁を弄して哀れな自己弁護の言い訳をこねくりまわす『グッド・バイ』など、「らしい」作品が並ぶ。

 いくつもの森見作品を読んできた身からすると、またこれか、とおもいつつも、これこれこの味、と安心する感覚もある。大学時代に通っていた定食屋に久しぶりに行ったら当時とまったく変わらない料理が出てきた感じに近い。

 まったく新しいものを読みたければ他の作家の本を読むので、森見登美彦作品はこれでいいのだ。




 気に入ったのは『大日本凡人會』。凡人であることを目指す、非凡人たちによる結社「大日本凡人會」。メンバーは、マンドリンを弾きながら人生論を説くことで迷える学生をさらに迷わせることのできる丹波、妄想的数学により存在を証明することで物質を出現させることのできる数学氏、モザイクを自由自在に操る能力を持つモザイク氏、気分が落ちこんだときは周囲の空間を凹ませる能力を持つ凹氏、そして存在感がなさすぎて誰にも気づいてもらえない無名君。

 これらのほとんど役に立たない能力を、決して人の役に立てないことが大日本凡人會の会則である。

 だがある日、この会則をめぐって亀裂が走り、メンバーが脱退。脱退したメンバーはその能力を駆使して他メンバーの行動を邪魔するようになる……。

 能力バトルでありながら、言うこと、やることが徹頭徹尾くだらない。

 このファンタジーとくだらなさの融合、これぞまさに森見登美彦! という感じだ。

 森見氏の他作品を楽しめた人なら迷わずおすすめできる一冊。


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2025年3月10日月曜日

【読書感想文】奥田 英朗『罪の轍』 / わからないからこそ魅力的

罪の轍

奥田 英朗

内容(e-honより)
昭和三十八年十月、東京浅草で男児誘拐事件が発生。日本は震撼した。警視庁捜査一課の若手刑事、落合昌夫は、近隣に現れた北国訛りの青年が気になって仕方なかった。一刻も早い解決を目指す警察はやがて致命的な失態を演じる。憔悴する父母。公開された肉声。鉄道に残された“鍵”。凍りつくような孤独と逮捕にかける熱情が青い火花を散らす―。ミステリ史にその名を刻む、犯罪・捜査小説。

(少しネタバレを含みます)


 息詰まる迫力のクライムサスペンス。

 北海道の礼文島で漁師をしていた青年。記憶力が悪いため周囲から「莫迦」と呼ばれ、道徳心が低くあたりまえのように窃盗をはたらく。放火と窃盗をはたらいて逃げるように東京に出てきてからも悪気なく窃盗をくりかえす。

 やがて青年の周囲で殺人事件が起きる。殺人を犯したのは窃盗常習犯の青年なのか。警察の捜査の手が青年の近くまで伸びたとき、日本中を揺るがす誘拐事件が発生。はたして誘拐事件の犯人は「莫迦」と呼ばれる青年なのか……?


 作中では「吉夫ちゃん誘拐事件」となっているが、明らかに戦後最大の誘拐事件とも呼ばれる 吉展ちゃん誘拐殺人事件(Wikipedia) をモチーフにした事件。

 ただしあくまでモチーフであり、酷似している箇所もあれば、ぜんぜんちがう創作の部分もある。

 この年に黒澤明の『天国と地獄』が公開され、その影響で身代金目的の誘拐事件が増えたそうだ。背景には電話機の普及もあるそうだ。なるほど、電話はスピーディーかつ匿名でのやりとりができるから誘拐事件に向いているのか。考えたこともなかったな。


 吉展ちゃん誘拐事件は日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、テレビで犯人の音声を公開して大々的に公開捜査がおこなわれた事件であり、この事件を契機に電話の逆探知が可能になった事件でもあり、様々な面で日本誘拐事件史における転換点の事件だったようだ。

 それはつまりこの時点で警察に誘拐事件捜査のノウハウがなかったということでもあり、『罪の轍』ではそのあたりの警察のドタバタを丹念に描いている。

 警察署ごとの面子争いのせいで連携がうまくとれなかったり、身代金として用意していた紙幣の番号を控えわすれたり、急な予定変更に対応できず身代金から目を離してしまいその隙に持ち逃げされたり、テレビで情報提供を呼びかけたせいで有象無象の情報が寄せられて混乱をきたしたり……。

 これらの大部分は、実際の吉展ちゃん誘拐事件でも実際にあったことだという。戦後の日本の誘拐事件で、犯人が捕まらず、身代金奪取にも成功したのは0件だそうだ(もっとも警察に知らされなかった事件があった可能性はあるが)が、それもこうした失敗を踏まえて捜査が洗練されてきたからなのだろう。



 犯人側の視点から描いたクライムサスペンスはいろいろ読んだことあるが、『罪の轍』が特異なのはその犯人像だ。

 通常、そうした小説で描かれる犯人は、知能が高く、用意周到で、落ち着いて計画を遂行する実行力を持った人物として描かれる。

 だが『罪の轍』に出てくる宇野寛治はそうした人物像とはかけ離れている。記憶力が弱く(ただし思考力が低いわけではなさそう)、いきあたりばったりに生きている。その刹那的な生き方ゆえに逮捕されることをあまり恐れておらず、それが犯罪に対する実行力につながっている。実行力があるというより理性が弱いといったほうがいいかもしれない。


 この人物像がなかなか新鮮で、悪いことをしでかしてもどこかユーモラスで憎めない。落語に出てくる滑稽な泥棒みたいな感じ。また生い立ちが不幸なのもあいまって、もちろん本人も悪いけど社会も悪いよね、という気になってしまう。

 大きな犯罪を成功させるのって周到に計画を立てる知能犯じゃなくて、案外こういういきあたりばったりのタイプなのかもしれないな。いきあたりばったりで無駄な行動が多いから警察も行動パターンが読みにくいし。自分が捜査する側だったら、「なんも考えてない犯人」がいちばん恐ろしいかもしれない。




 犯人側、その周囲の人々、警察の動き、どれも丁寧に書いていてそれぞれおもしろかった。

 ただ、ラストの復讐のための逃亡劇だけは違和感をおぼえた。ここだけ人が変わったようになるんだもの。無目的に生きてきた犯人が、突然使命感に燃えて行動しはじめる。きっかけがあるとはいえ、ころっとキャラクターが変わってしまうのにはついていけない。

 そもそも、何を考えているかわからないこそ不気味で魅力的だったのに、最後は復讐のためというわかりやすい行動。凡庸な人間になってしまった。


 ところでこの小説、同著者の『オリンピックの身代金』の登場人物がかなり登場している(書かれたのも、作中の時系列的にも『罪の轍』のほうが先)。

 単独の犯罪者 VS 警察組織 という物語の内容も似ているが、個人的には『オリンピックの身代金』のほうが好み。『オリンピックの身代金』の犯人のほうが心理がわかりづらくて不気味だったのと、国民の命よりも面子のほうを重視する警察や国家という組織の姿をも描いていたから。

 やっぱり人間も組織も、わからないからこそ魅力的だしわからないからこそ怖いんだよね。

 

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