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2020年4月3日金曜日

【読書感想文】奇妙奇天烈摩訶不思議 / シャミッソー『影をなくした男』

影をなくした男

シャミッソー (著)  池内 紀 (訳)

内容(e-honより)
「影をゆずってはいただけませんか?」謎の灰色服の男に乞われるままに、シュレミールは引き替えの“幸運の金袋”を受け取ったが―。大金持にはなったものの、影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描く。
オリジナルの刊行は1814年。原題は『Peter Schlemihls wundersame Geschichte』。
日本では『ペーター・シュレミールの不思議な物語』とも『影を売った男』とも。


主人公はふところからなんでも(馬や馬車まで)出せる男と出会い、金貨が無限に出てくる「幸運の金袋」と引き換えに自分の影を譲ることを承諾する。
いいものを手に入れたと喜んだのもつかのま、主人公に影がないことを知った人たちは急に冷たい態度をとるようになり……。

寓話なんだろうな、「影」というのは何かを象徴しているんだろうなとおもいながら読んだのだが……。どうもそうではなく、ほんとうに影の話だった。
影がないことを知られたとたんに急に迫害されたり仲良くしていた人が去ったりするのだが、なぜだかわからない。そのへんの説明は一切ない。とうとう最後までわからない。
なんだかわからないけど、この世界では「影」は金銭や人柄よりもはるかに大事なものらしい。影がないと人間扱いすらされないのだ。

さらに「姿の消える隠れ蓑」が出てきたり「一歩で七里を歩くことができる魔法の靴」を偶然手に入れたりと、次々に奇想天外な道具が出てくる。

「影」の意味はわからないが、影を奪った男の正体は物語中盤でわかる。影を返すことを条件に「魂をくれ」と持ちかけてくるからだ。
そうだね、男の正体はドラえもんだね。「ふところからどんなに大きなものでも出せる」「ふしぎで便利な道具をたくさん持っている」など、ドラえもんとしか考えられない。



謎の男=ドラえもん説はさておいて、そういえばドラえもんには『かげがり』というお話があった(てんとう虫コミックス1巻収録)。

「影切りばさみ」でのび太の影を切り取ると、影がのび太の代わりに草むしりをしてくれる。
ドラえもんはのび太に影を使うのは30分までにしろと警告するが、のび太が影にあれこれ命じているうちに30分経ってしまう。
すると影は次第に自我を持ち、言葉も発するようになってくる。対照的にのび太の姿は黒っぽくなっていき……。

というなんとも恐ろしい話だ。さすがに『ドラえもん』なのでコミカルなオチに落としこんでいるけど、『笑ゥせぇるすまん』だったら二度と還ってこられなかったところだ。

ひょっとしたら藤子・F・不二雄先生も『影をなくした男』を読んだのかもしれないな。



意味深なタイトルなのでぼくは寓話だとおもって読みはじめてしまったのが失敗だった。
奇想天外なファンタジー小説として読むべき小説だったな。
『不思議の国のアリス』や『オズの魔法使い』のように。
でもそれにしちゃあ意味ありげなんだよな。
「主人公が(著者である)シャミッソー氏に宛てた書簡」という形をとった語り口とか、宙ぶらりんの終わり方とか。

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2020年4月2日木曜日

【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』

保守と立憲

世界によって私が変えられないために

中島 岳志

内容(e-honより)
保守こそリベラル。なぜ立憲主義なのか。「リベラル保守」を掲げる政治思想家が示す、右対左ではない、改憲か護憲かではない、二元論を乗り越える新しい世の中の見取り図。これからの私たちの生き方。

刊行は2018年2月。発売後すぐ買ったのだが、2年間も積読していたので内容は古くなっていることが多い(当時ホットだった希望の党は消滅し、当時リベラルの星だった立憲民主党もその勢いを失った)。
とはいえすごく刺激的でおもしろい本だった。

特にオルテガ『大衆の反逆』を紹介しているあたりはおもしろかったな。
100分 de 名著のオルテガ『大衆の反逆』を買っちゃったよ。オルテガなんて名前も知らなかったけど。



 安倍内閣が「一隻の船」だとしましょう。この船は徐々に傾き、沈んでいっている。しかし、乗り移るべき別の船が見当たらない。あっちに移れば大丈夫という安心感や希望を与えてくれる代わりの船が見当たらない。仕方がないので、ズブズブと沈んで行く船にしがみついている。そんな状況が、最近の多くの国民のあり方なのではないでしょうか。
 従来の構図で言えば、右派政権に対抗するのは左派ということになるでしょう。しかし、彼らの一部は教条的で、時に実現可能性やリアリズムを無視した反対意見を振りかざします。その態度はしばしば強硬で、何か自分たちが「絶対的な正しさ」を所有しているような雰囲気を醸し出しています。
 多くの庶民は、その姿に違和感と嫌悪感を抱いてきたのだと思います。一部の左派の主張や行動には、「自分たちは間違えていない」という思い上がりが多分に含まれていました。生活世界の良識を大切にしてきた庶民にとって、その独断的でドグマ的な態度は、修正の余地を残さない「上から目線」と捉えられ、忌避されてきたのでしょう。
この文章は現状をよく表しているとおもう(書かれたのは数年前だけど)。
国民の九割以上は「安倍内閣は問題だらけだ」と気づいている。たぶん自民党支持者ですら大半は気づいている(だよね?)。
政治ニュースを見ている人で、この政権最高! とおもっている人は、よほど利権に与っている人以外にはいないだろう。この船がいずれ沈むことも知っている(もしくは安倍政権という船が他の船を全部沈ませるか)。

でも、全員が船を捨てようとはおもっているわけではない。
「あっちの船のほうがまだマシだ」「いやあっちはこっちより早く沈みそうだ」で揉めている。

ぼくは個人的には政権交代してほしいとおもっている。もっといい船はたくさんあるとおもっている。
だからといって、政権およびその支持者に対して何を言ってもいいとはおもわない。

昨年の参院選前、こんなことを書いた。





ここに書いたことには少しウソがあって、ほんとは「安倍辞めろ」とおもっている。でもそれをおおっぴらに言うことはフェアではない。

それは野球のゲームで無得点に抑えられているからって「相手のピッチャーひっこめ!」ってヤジるようなものだ。見苦しいだけだ。
ちゃんとルールにのっとってヒットを重ねることで、マウンドから引きずりおろさなければならない。
(とはいえ現状は相手ピッチャーがドーピングしまくっているのに審判が見てみぬふりしている状態なので言いたくなる気持ちはよくわかる。だとしても抗議する相手は相手ピッチャーではなく審判やコミッショナーであるべきだ。検察仕事しろ。)

「安倍辞めろ!」の人たちは、「安倍さん万歳! 安部さんなら何をやっても許す!」の人たちと同じレベルでものを言っているということに気づいていないのだろうか。



過酷な労働環境で苦しんでいる人がいるとする。
長時間労働、低賃金、パワハラ。
客観的に見たら「そんな職場辞めたらいいのに」とおもう。

だからといって「そんな仕事してるやつはばかだよ。何も考えてないんだね。おれはよく考えてるからこっちの正しい仕事をするけどね」と言えばいいってもんじゃない。そんな言葉で相手が転職を検討するとはおもえない。
そんなこと言われたら相手は「何もわかってないくせに気楽なこといいやがって。たしかにきつい仕事かもしれないけどやりがいはあるしそれなりに楽しさだってあるんだよ。だいたい辞めたからってもっといい職場が見つかるとはかぎらないだろ。もっと悪くなるかもしれないし」と反発したくなるだろう。もしかすると余計に意固地になって仕事を続けるかもしれない。

必要なのは相手や組織の否定ではなく「こんな仕事もあるよ。あなたのスキルならこれぐらいの給料もらえるよ。そりゃこっちの会社だって完璧ではないだろうけど、転職することで状況が良くなる可能性が高いんじゃない?」という別の求人を提示することだ。

多くの「自称リベラル」がやっているのは、まさに相手や組織を否定することだ。「安倍やめろ」の人たちなんかまさしく。これでは仲間は増えない。
(ただ「野党は文句ばっかりで具体的な案を示さない」という批判も的外れだけどね。示してるのにおまえが不勉強なだけだ。)


ぼくは、政治家の仕事は究極をいえば「ビジョンを示すこと」だけだとおもっている。その他の仕事は官僚のほうが百倍優秀にできるわけだからそっちに任せたほうがいい。
政治家は理想論者でもいいとおもっている。
だから上から目線で政敵を批判するのではなく、ビジョンを示してほしい。それも二十年先とか五十年先とかそういうスパンの。
与党も野党もそういうの語ってくれないでしょ。五十年後に向けてこうしていきますとか。田中角栄は語ってたけど。
みんな目先の消費税の話とかばっかりで。
べつにまちがってもいいんだよ。五十年先なんか誰にもわからないんだから。でも方向性だけでも示してほしい。
それすらわからないから、消費をせずに金を貯めるし、子どもも増やせないんだよなあ。



この人の提唱する「保守リベラル」という思想は、ぼくの政治スタンスとほぼぴったり一致する。
そうそう、これがぼくの言いたかったことなんだよ! という感じ。
今日からぼくも「リベラル保守」だ!(でも世間一般のイメージの保守派とおもわれたくないので大っぴらにはいわないけど)。

政治的な視界がすごくクリアになった。

今「保守」というと、靖国参拝だとか戦前回帰みたいなイメージで語られることが多い。ぼくもそういう人だとおもっていた。要は日本会議の人たちのイメージ。

でも本来の保守はまったくべつのものだと筆者は語る。
保守は人間の理性を疑う。長年の間に蓄積されたシステムを信用する。だから激変を嫌う。「教育勅語を現代日本に!」なんてもってのほかだ。
ただし変わらないということではない。保守のためには絶えず変わりつづけることが必要だ。一気に変えるのではなく、漸進的に変えていくのが保守のスタンスだ。

憲法をラディカルに変えるのは保守ではないし、護憲を掲げ何十年も同じ憲法を使いつづけるのももちろん保守ではない。
たしかにねえ。
この本の枝野幸男氏との対談の中でも語られているけど、「憲法改正に賛成ですか?」ってほんとに無意味な問いだよねえ。
「ある人が転職を考えています。したほうがいいですか?」みたいなことだもんね。それだけじゃなんともいえない。その人のスキル、今の仕事、次の仕事を知らずに判断することなんかできるわけがない。

 懐疑主義的な人間観に依拠する保守は、常にバランス感覚を重視します。私が尊敬する保守政治家・大平正芳は「政治に満点を求めてはいけない。六十点であればよい」と述べています。大平は、自己に対する懐疑の念を強く持っていた政治家でした。自分は間違えているかも知れない。自分が見落としている論点があるかもしれない。そう考えた大平は、「満点」をとってはいけないと、自己をいさめました。
「満点」をとるということは、「正しさ」を所有することになります。また、異なる他者の意見に耳を傾けるということも忌避します。大平は、可能な限り野党の意見を聞き、そこに正当竹がある場合には、自分の考えに修正を加えながら合意形成を進めていきました。これが六十点主義を重んじたリベラル保守政治家の姿でした。
すばらしいなあ。
今の国政にこういう政治家いるかなあ。いないんじゃないかなあ。いても目立たないだろうなあ。メディアは過激な発言をしてくれる人にしか注目しないから。

でも、こういう人こそが政治家に向いている。
自分はまちがってるかもしれない、相手のほうが正しいかもしれない、だから大変革ではなくいろんな人の話を聞いて微調整しながら漸進的に物事を進めていきましょう、って人が。
舌鋒鋭く敵を攻撃する人じゃなくてさ(そもそも他の政治家や国民を敵と認識している人に政治家をやってほしくない)。

大平正芳氏はスピーチが流暢ではなかったため(あと風貌のために)「アーウー宰相」や「讃岐の鈍牛」とも呼ばれていたが、実際は知識量も多く、謙虚で思索的な人柄だったらしい。
「六十点を目指す」ってのはほんとに頭がいい人じゃないと言えないことだよ。バカはすぐ「自分はぜったいに正しい! 反対するやつはまちがってる!」って言うからね。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、未来の不確定な出来事を正確に予測する能力の高い人は、「自分の考えは誤っているかもしれない」と常に自省的である人だそうだ。
うーん。今国会議員をやっている〇〇氏や○○大臣とは真逆だねえ。

自分は百点だとおもっている人間じゃなくて六十点かもしれないと疑いつづけている人に政治家をやってほしいなあ。



ギルバート・キース・チェスタトン(イギリスの作家)の思想の紹介。
 ひとつの観念に固執する人間を、チェスタトンは「狂人」と見なす。狂人は常に明快で、一直線に論争相手を論破しようとする。正気の人間は、狂人との議論に勝つことができない。なぜなら、正気の人間には常に「躊躇」や「曖昧さ」がつきまとうからである。一方、狂人は過度に自己を信用するがあまり、社会生活を支えている良識や人間性を喪失している。

(中略)

「正気の人間の感情」を持つ人間は、自己に対する懐疑の念を有している。そのため、異なる他者の主張に耳を傾け、常に自己の論理を問い直す。「正しさ」を振り回すことを慎重に避け、対立する他者との合意形成を重視する。
 そこでは対話を支えるルールやマナー、エチケットが重要な意味を持つ。他者を罵倒し、一方的な論理を投げ付ける行為は、「理性以外のあらゆる物を失った人」のなせる業である。彼らは先人たちが社会秩序を維持する中で構築してきた歴史的経験知を、いとも簡単に足蹴にする。彼らがいかに「保守的」な言説を吐いていても、それは保守思想から最も遠い狂人の姿にほかならない。

子どもの頃のぼくは弁が立つガキだった。
口喧嘩ならまず負けなかった(と自分ではおもっていた)。
いくらでも言葉は出てくるし、比喩や極端な例を持ち出して相手が言葉に窮すまで追いつめることができた。教師相手でも負けていなかった。

今にしておもうと、当時のぼくはチェスタトンのいう「狂人」の姿そのままだったのだ。
自分は正しい、相手はまちがっている、だから相手が黙りこむまで徹底的に言葉を重ねる。
論戦に勝つか負けるかしかないとおもっていた。
相手が黙りこんでいたのは論戦に負けたからではなく、狂人であるぼくに愛想を尽かしたからだったのだろう。

今ではさすがにそこまでやりあうことはなくなったけど(妻とは口喧嘩をすることはあるが妻をやりこめても長期的に見れば損しかないのでほどほどにするよう気を付けている)、特にネット上の論戦なんかを見ているとこの手の「狂人」であふれかえっている。姿が見えないと余計にエスカレートしやすいのかもしれない(どんなに相手を怒らせてもぶん殴られる心配がないからね)。

さっきの例でいうと「安倍辞めろ!」の人は「安倍さん万歳!」の人たちと同じく狂人だ。自己の正しさについて疑いを持っていたらそんな発言にはならないだろう。

かくいうぼく自身も、正しさを振りまわす「狂人」になってしまうことがある。
自省しないとね。



すごく新しいことや過激なことを書いているわけではないが、いやだからこそ、染み入る内容だった。あたりまえのことを丁寧に言うだけでいいんだよ。こういうのを読みたいんだ(刺激的な文章も読みたいけど)。
著者が選挙に出馬したらぼくはまちがいなく票を入れるね。

特に一章『保守と立憲』、二章『死者の立憲主義』、三章の枝野幸男氏との対談『リベラルな現実主義』はおもしろかったな。

中盤以降はいろんな雑誌にいろんなテーマで書いた短文の寄せ集めなので、一冊の本として読むとぜんぜんまとまりがない。
後半は……個人的にはいらなかったな。

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2020年4月1日水曜日

【読書感想文】小学生レベルの感想文+優れた解説文/NHKスペシャル取材班『老後破産』

老後破産

~ 長寿という悪夢 ~

NHKスペシャル取材班

内容(e-honより)
「預金が尽きる前に、死んでしまいたい」「こんなはずじゃなかった…」年金だけでは暮らせない。金が無いので病院にも行けない。食費は1日100円…。ごく普通の人生を送り、ある程度の預貯金もある。それでも、病気や怪我などの些細なきっかけで、老後の生活は崩壊してしまう。超高齢化社会を迎えた日本で、急増する「老後破産」の過酷な現実を、克明に描いた衝撃のノンフィクション。
貧しい老人の暮らしを書いたルポルタージュなんだけどね。
なんつうかね。
読みながらむかむかしたね。
なんだこの年寄りは何を言ってんだ、と。

金がなくて大変なのはわかる。家族がいなくて寂しいのもわかる。
その責任がすべて本人にあるとは言わない(でも一部はあるとおもう)。
ぼくらの納めた税金や社会保険費を彼らのために使うなとは言わない。

でもさあ。
「立派なお葬式を挙げたいから葬式費用を貯金している。貯金があるから生活保護を受けられない」
「長年住み慣れた思い出のつまった家を離れたくない。持ち家があるから生活保護を受けられない」
「若いころは旅行に行くのが楽しかった。でも今はとてもそんな余裕がない」
とかボヤいてんの、この本に出てくる貧しい年寄りたちは。

は? なにねぼけたこといってんの?

ぼくが葬式にも持ち家にも思い入れのない人間だから余計にそうおもうかもしれないけどさ。

高い金かけて葬式挙げたいとか、思い出いっぱいの家を離れたくないとか、完全にわがままじゃん。
べつにわがまま言ったっていいけど、他人の金で贅沢したいってのは身勝手すぎる。
 そもそも、年金額が生活保護水準以下であれば、権利として認められているのが生活保護だ。憲法25条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」としていて、この条文に基づいて、生活保護制度が保障されている。自治体によって差はあるが、単身者に支給される生活保護費は、月額13万円前後。収入がこれを下回る場合、差額を生活保護費として受け取る権利がある。しかも、生活保護を受ければ、医療費や介護費用は無償となる。つまり安心して病院に行けることになるのだ。
 しかし、実際に生活保護を受けている高齢者の割合は10%程度で、ほとんどの人は生活保護に頼らずに年金収入だけで切り詰めた生活を送っている。「身体の不調があっても、我慢できるうちは病院に行かない」と、医療費まで節約している人も少なくない。
 自分の収入や貯えだけで踏ん張って暮らしている高齢者が医療や介護まで節約せざるを得ない状況にある一方で、いったん生活保護を受ければ、医療や介護は無償で受けられるというのが今の生活保護制度だ。しかし、自分の力で頑張っている人にこそ、支援したいと感じている福祉現場では、制度の行き届かない部分にある「モヤモヤ感」を口にする人が少なくない。
 さらに大きな矛盾を感じるのは、自宅を所有している高齢者が生活保護を受けにくい現実だ。一生懸命働いて、ようやく手に入れた思い出の家を手放したくないという人は、自宅を売却して生活費に充てた後でなければ、原則として生活保護を受けられない。もし自宅を手放したくないというのであれば、年金の範囲内で暮らしていかなくてはならないことになる。
 57歳の定年までデパートの神士服売り場で働いた山本さんは、厚生年金は、なぜかもらっていない。| 当時、企業では、厚生年金を退職時に「一括前払い」で受け取ることができたためだ。この「厚生年金脱退手当金制度」をよく知らずに利用してしまったために、厚生年金を受け取ることができなくなってしまった人は少なくない。
「昔は、積み立てた厚生年金を退職時に一括でもらうこともできたんですよ。でも、退職した当時は、年金がこんなに大切な物だったって分からないじゃない。それで、その時一括してもらってしまったんです。だから今、厚生年金はないんです」
 当時、一括してもらったとしても、物価相場のことを考えると、それほど多い金額ではないだろう。一括受け取りは、今思えば、大きな損をしてしまったことになる。それも困ってから、初めて気がついたのだという。
払った以上の年金をもらっているのに「思い出の自宅を手放したくないから生活保護を受けられない」とか「年金を一括でもらって使い果たしてしまったから困っている」とか、たわごともたいがいにせえよと言いたくなる。
何を悲劇の主人公みたいに語ってるんだ。おまえらのために少ない給料から多額の年金を徴収されている若者の生活こそが悲劇だよ。

そんな甘っちょろい考えしてるから貧しく孤独な老後を送ってんじゃないのと言いたくなる(そうじゃない人もいるんだろうけど)。
ぜんぜん共感できない。



少し前、オフィス街で「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」ってデモをしてる高齢者たちがいた。
ぼくはあっけにとられながらその光景を見ていた。

いや、言いたくなる気持ちはわかる。
誰だって自分が得をする制度であってほしい。
でもそれをオフィス街の、今働いている人間の前でやって共感を集められると思っている神経が理解できない。

「年金支給額を減らすな―」「高齢者の医療費負担額を上げるなー」って、「我々老人のために後の世代の負担をもっと大きくしろー」って言ってるのと同じだからね。
毎月給料から健康保険費だの年金費用だのをがっつり取られている上に将来還ってこない人たちの前で、払った分以上の年金と医療費をもらっている人間が「もっとよこせー」って言ってるんだよ。
それをオフィス街で叫べる無神経さに寒気がした。こいつらどこまで自分勝手な思考回路してんだ、と。

「我々は優遇されすぎです。もっと若い人のためにお金使ってください」と言えとまではいわない(言ってほしいけど)。
でも「若い人たちに養ってもらってありがとうございます」という気持ちは忘れんなよ、とおもう。

世代間の意識の差はこんなに大きいのかとぼくはため息をついた。
デモをしていた老人たちは、今の労働者がどれだけ税金や社会保険料をとられているか知らないし、知る気もないんだろうな。



ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』に書いてあった話。
ほとんどの動物は死ぬ直前まで生殖機能を有している。だけど人間のメスは例外的に寿命の何十年も前に閉経して生殖機能を失う。
それは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができたから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすかったのだそうだ。

ところが近代になって文字による伝達が可能になり、さらに技術や知識の発展のスピードが速くなったためにおばあちゃんの知識や技術が役立つ機会が減ってしまった。

ということで、現代の高齢者の多くは生物学的にみれば不要なものということになる(オスに関してはかなり高齢まで生殖機能を維持しているが、現実的に高齢男性が子どもを作るのは身体的にも社会的にも容易ではない)。
もちろんこれは生物学的な話であって、人間は生物学的な合理性だけで生きるわけではないので「老人は生きる価値なし」とは言わない。
でも「あんたらは社会から必要とされていない」というプレッシャーをいちばん感じているのは誰よりも高齢者本人なのではないだろうか。

金がない、仕事もない、子どもも産めない、世話をする子どもも孫もいない、誰かの世話になることはあっても役に立つことはない。
そういう状況で生きているのはすごくつらいとおもう。

ぼくは子どもを持ってから生きるのがすごく楽になった。
それは「役割」ができたからだとおもう。子どもを育てる父親。おまけに勤労もして納税までしている。大手を振って社会のど真ん中を歩いていける。楽ちんだ。
大学卒業後に無職をやっていたが、そのときに感じていた生きづらさははるか彼方。社会から必要とされるってすごく快適だ。

『老後破産』に出てくる老人たちがいちばんつらいのは、金がないことではないとおもう。誰にも必要とされていない(そしてこの先も必要とされることがない)ことが苦しみの原因なんだとおもう。

『老後破産』は老人の貧しさを問題として掲げているが、それは切り口がちがうんじゃないかとぼくはおもう。
そりゃ個別に見れば貧しくて困っている老人はたくさんいるだろうが、それはこの時代の問題ではない。むしろ今の高齢者は歴史的に例のないほど「(金銭的には)恵まれた老後」を送っている。
百年以上前だったら、金がなくて家族のいない老人は死ぬしかなかった。死ぬほど貧しいんじゃない。貧しいから死ぬ。それが当然だった。
逆に今より未来の老人は、もっと貧しいはずだ。年金は減らされ、医療費も介護費負担も増大している。そりゃもうまちがいなく。団塊ジュニア世代以降の老人貧困率なんか今の比じゃない。はたして「健康で文化的な最低限度の生活」だって保障されるかどうかあやしいものだ。
「昔は持ち家を手放せば生活保護をもらって生きていけたんだって。いい時代だったんだなあ」となる可能性が高い。

今の老人がいちばん恵まれている。どんなに貧しくても生きていける。払った分以上の金がもらえる。
だからって貧困問題を解決しなくていいとはいわないけど、でもいちばんマシな世代を例に挙げて「ほらこんなつらい人たちがいるんですよ。若い世代がなんとかしましょうよ」と言われたってまったく響かない。
だってそれをしたら未来の老人がもっと苦しむだけだもん。
 そうして、一面の焼け野原だったところに都市を築き、戦後復興を成し遂げてきた。それが今の高齢者の人たちだ。川西さんも、50年余り、誠実に働き続け、年金を納め、大きな借金をすることもなかった。それでも今、「老後破産」に陥ることを恐れ、不安な毎日を送っている。
 一生懸命に働き、一生懸命に生きてきた普通の人たちが報われない──。
 それが今の日本の老後の現実なのだ。
だからちがうんだって。
今がいちばん報われてるんだって。昔はもっと報われなかったし、未来の高齢者もまずまちがいなく今ほどいい暮らしをできない。
そこをわかってないんだなあ。



あと気に入らないのは、「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」って文章がくりかえされること。

意図はわかる。
これを読んでいるあなたも他人事ではありませんよ、って警告なんだろう。

でも逆効果なんじゃないか。
「まっとうにがんばって生きてきた人が報われないといけない」はすなわち「がんばっていなかった人は不幸になってもしかたない」だし、それはすぐに「不幸なあの人はがんばりが足りなかったからだ」という“自己責任論”と結びつく。

人間、誰だって探せばアラはいくらでも見つかる。三百六十五日四六時中まっとうに生きている人なんかいない。
誰だって、無職の期間があった、社会の仕組みについて勉強してこなかった、ギャンブルをやっていた、離婚した、趣味にお金を使っていた、一獲千金を夢見て失敗した、などの“落ち度”は見つかるだろう。
この本に紹介されている老人たちだって、なにかしら“落ち度”を抱えた人たちだ。助けない理由なんか探せばいくらでも見つかる。

だから「〇〇さんはまっとうに長年働いてきた。なのにどうして老後にこんなに苦しまなくてはならないのか」という主張は筋が悪い。
「それは十分まっとうに生きてこなかったからですよ」の一言でかんたんに覆されてしまう。

まっとうに生きてきたから救わなければならないのではない。人間だから救わなければならないのだ。
どうもこの本を書いたNHKスタッフたちは基本的人権の根本をわかっていないようだ。

「まっとうに生きてきたこの人がなぜ」は、貧困救済をしたいならぜったいに書いてはいけない言葉だとおもうよ。



『老後破産』に出てくる老人の多くは「もう死にたい」と口にしている。
家族も金も健康も需要もない、そしてなにより未来への希望がない。そんな状態で生きるのはさぞ苦しかろう。

中学生が「生きてたっていいことないしもう死にたい」と言ってたら「そんなことないよ。生きてたらいいことあるよ。今はつらくてもあと何年かしたら笑いとばせるようになるよ」と声をかけてあげられる。
でもお金も仕事も家族もなくて不健康な老人が「生きてたっていいことないしもう死にたい」って言ってたら「そうかもしれませんね。今後状況が悪くなることはあっても良くなることはほぼないでしょうねえ」と言ってしまいたくなる。だってほんとにそうだもん。

もう、安楽死しかないよね。
死にたいという老人がいて、彼らを求めていない社会がある。もう安楽死制度導入しかないじゃない。
生きるのがつらい高齢者も助かる、税金と社会保険費の負担が減る労働者も助かる、国家財政も助かる。三方良し。

残酷だけど、ぼくは見ず知らずの「もう死にたい」という老人がどこかで生き続けていることより、自分の社会保険費用が安くなることのほうがずっとうれしい。

いやじっさい安楽死があることで救われる老人も多いはず。
いつまで生きるかわからないから不安、いつまで生きるかわからないからお金がない(あっても使えない)。
死ぬタイミングを自分でコントロールできればそういった問題も解決する。

不健康で貧しい老後を三十年送るよりもそこそこいい暮らしを十年するほうがいいって人も多いはず。ぼくも後者だ。今の時点ではね(でも年取ったら生にしがみつくんだろうな)。

書き手の伝えたいメッセージとはちがうだろうけど、読めば読むほど「こりゃあ安楽死させてやるしかねえな」という気持ちが強くなっていった本だった。



というわけでぼくにとってはハズレ要素しかない本だったのだが、解説文を書いている藤森克彦氏(日本福祉大学教授/みずほ情報総研主席研究員)の文章はすごくよかった。
ちゃんとデータを出して、貧困に至る原因、考えられる政策などを解析している。
厚生年金の適用拡大、医療・介護費の自己負担軽減と財源捻出、家賃補助制度、高齢者向け生活保護制度など、具体的な案も示している。
こっちは読む価値がある。

本編のほうはケースを個別紹介しているだけで分析も提言もぜんぜんなく「こんな人がいます。かわいそうだなあと思いました」という小学生レベルの感想文でしかないので、余計に解説文の良さが際立つ。

本編より解説文のほうが1000倍読む価値がある本だった。


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2020年3月31日火曜日

【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』

なめらかな世界と、その敵

伴名 練 (著)

内容(e-honより)
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの1度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曾有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6篇。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。

星新一が好きだったので学生時代に筒井康隆、小松左京、かんべむさしといったあたりのSFを読んではいたのだが何十冊か読んだところでSFが性に合わないことに気づき(気づくの遅いな)、久しく遠ざかっていた。
海外の有名作品をちょろちょろと読んでいたけど、日本SFはなんとなく敬遠していた。伊藤計劃ですら読んでいない。

で、久しぶりに手に取った国内SFが『なめらかな世界と、その敵』。
本格的なSF短篇集だ。
六篇が収録されているが、どれも文体やテーマがぜんぜん異なる。そしてそれぞれちがうおもしろさがある。これだけでも大した才能だと感心させられる。
SF界の将来を担う新進気鋭の新星、みたいな評価を先に知っていたので少し身構えていたのだが、なるほど前評判にたがわぬ短篇集だった。

とはいえ「ザ・SF」という感じなので、SF初心者におすすめはしにくいかな。



なめらかな世界と、その敵


人々が[乗覚]なる能力を身につけた世界が舞台。
[乗覚]というのはパラレルワールドをいったりきたりできる能力というか。教師からお説教を食らったからその間は[お説教を食らわない別の世界]に行ってやり過ごす、とか。交通事故に遭ったから[交通事故に遭っていない世界]に行くとか。
そういうことができる能力。

RPGでセーブデータを切り替えるようなものだろうか。
失敗したからリセットボタンを押して他のセーブデータに切り替える。

パラレルワールドへの移動自体はSFによくあるテーマだが、この作品の設定のすごいのはパラレルワールドが無数にあってその中から好きな世界を選択できること。
たとえば[水の上を走ることができた世界]なんかにも行けちゃう。こうなるともう何でもありだ。しかも世界中の人がこの能力を持っている。
もう収集がつかなくなりそうだが、それでもこの小説の登場人物たちは他の世界に行ったり来たりしながらそれなりの秩序を持って生きている。わけがわからない。

なのにちゃんと小説として起承転結の中に落としこんでいるのは高い筆力のたまものだ。
[乗覚障害]という乗覚を失った人物を出すことでさりげなく[乗覚]を説明するとことか、ほんとうにうまい。
こないだ読んだ某小説がそのへんほんとへたで不自然かつ冗長な説明をくどくど並べていたので、それと比べて余計に巧みさに感心した。



ゼロ年代の臨界点


日本のSF小説は1900年代の女性作家たちによってつくられた、という真っ赤な嘘をさも史実であるかのような語り口で説明。小説というか嘘ノンフィクションというか。

おもしろかったが、日本SFの黎明期を支えた星新一のファンとしてはちょっと複雑。フィクションとはいえ、星新一の功績がなかったことにされてるんだもの。

しかし現実には女性SF作家って少ないよなあ。ぼくが知らないだけかな。
ぼくが知っているのは栗本薫、新井素子ぐらい。漫画だと萩尾望都。古いなあ。
SFは特に女性が少ない分野だとおもう。だからこそこの作品が小説として成立する。ほんとに女性SF作家が増えたら『ゼロ年代の臨界点』のおもしろみが消えちゃうだろうな。



美亜羽へ贈る拳銃


伊藤計劃の『ハーモニー』や『虐殺器官』に対するトリビュート作品として発表されたものだそうだ。
ぼくは伊藤計劃作品を読んでいないので正しく評価できないとおもうのだが、それでもおもしろかった。
登場人物の造形がみんなつくりものじみている。リアリティのかけらもない。ふつうなら欠点でしかなさそうなものだけど、この人の小説に関してはそれがかえってしっくりくる。
ハードな設定のSFになまぐさい人間味はいらないのかもしれない。



ホーリーアイアンメイデン

自殺した妹が、生前に姉に宛てて書いていた手紙からなる短篇。
ううむ。書簡文学って嫌いなんだよなあ。不自然きわまりないから。相手も知っていることをそんなにことこまかに説明するわけがないだろ。
ストーリーにも意外性はなく、これは凡作かな。



シンギュラリティ・ソヴィエト

ソヴィエト連邦が西側諸国より先にシンギュラリティ(技術的特異点。人工知能が人間を超える瞬間)を迎えた世界が舞台。
ヴォジャノーイという人工知能が世界を統治し、人間は脳をヴォジャノーイに演算装置として貸しているという発想がおもしろい。
「あなた方は我々に勝つためにヴォジャノーイを作り、我々はあなた方に追い付き追い越すためにリンカーンを作った。しかしいつの間にやら、競っているのは我々とあなた方ではなく、リンカーンとヴォジャノーイそのものになった。ヴォジャノーイは勝利のためにあなた方やその他の生命を演算資源にしようとするし、リンカーンは勝利のために我々を眠らせようとする。チェスを指しているうちに、駒と指し手が入れ替わってしまったようなものだ。今この時も、ヴォジャノーイとリンカーンはそれぞれの国民を駒に見立てて、チェックをかけるため互いに戦略をぶつけ合っているが、盤上の駒に過ぎない我々には、戦略や戦局どころか、どこに動かされているのかさえ分からないし、自分が既に盤面から下ろされたのかどうかも分からない。……こちらがどうやって『これ』を見せているか、お尋ねにならないのですか?」
今は我々がコンピュータを外部の記憶・演算装置として使っているわけだけど、それと逆のことが起こるのだ。ふうむ。たしかに人間の脳ってすばらしくよくできているから、それを人間に使わせるのはもったいない。優秀な人工知能が使ったほうがよりよく効率的に活用できるかもしれない……。

ソヴィエトに敗れたアメリカ人たちは次々に現実逃避して電脳の世界ですばらしい世界(に見えるもの)を享受する。
人工知能に支配されているソヴィエト人と、人工現実の世界に救いを求めるアメリカ人。これぞ人類の終わり。でもどっちもそんなに不幸ではなさそう。
家畜がさほど不幸に見えないのと同じだな。

すごく精密な設定のわりに妙にばかばかしいオチはあまり好きじゃないが、設定はおもしろかった。



ひかりより速く、ゆるやかに


多くの修学旅行生を乗せた新幹線のぞみ号が突如動きを止めた。乗客も含め完全に停止した。……かに見えたが、よく調べてみると新幹線とその中だけ時間の流れがきわめてゆっくりになっているのだ。外の世界の二千六百万分の一の速度。このままだと、この新幹線が名古屋駅に停車するのは西暦四七〇〇年……。

意味不明の現象が起きたという導入はいいのだが、その後の展開がちぐはぐな気がする。
「名古屋駅に停車したら再び動きだす」という前提で主人公たちは行動しているのだが、それがまったくもって意味不明。元に戻る保証なんかまったくない。それどころか戻らないと考えるほうが自然じゃない?

その後も、きわめて少ないサンプルをもとに根拠の薄い憶測に従ってどんどん行動していく。
それも「1%でも可能性があるなら賭けてみる!」みたいな感じではなく、「前はこうだったからまた同じになるでしょ?(サンプル数1)」というぐあい。要するにバカ。
主人公たちがバカだから(バカの勘がたまたま当たったけど)共感できない。
設定はおもしろかったけどなあ。



ということでちょっと尻すぼみ。
全体的に「設定はものすごくおもしろいんだけどその後の話の転がり方に無理がある、不自然だ」という作品が多く、良くも悪くもハードSFらしい短篇集だったな。


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2020年3月26日木曜日

【読書感想文】語らないことで語る / ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

本当の戦争の話をしよう

ティム・オブライエン (著)  村上 春樹 (訳)

内容(e-honより)
日ざかりの小道で呆然と、「私が殺した男」を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出したとたん、まるでセメント袋のように倒れた兵士、祭の午後、故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵…。ヴェトナムの・本当の・戦争の・話とは?O・ヘンリー賞を受賞した「ゴースト・ソルジャーズ」をはじめ、心を揺さぶる、衝撃の短編小説集。胸の内に「戦争」を抱えたすべての人におくる22の物語。

じっさいに兵士としてベトナム戦争に行き、仲間を失い、敵(と呼べるのかどうか)を殺した著者による戦争小説集。
小説、創作とは書いているが、大部分はほんとうにあったことなんじゃないかな。フィクションとノンフィクションの境界をわざとあいまいに書いているけど。

タイトルのとおり「本当の戦争の話」という感じがする。
ぼくは戦争を経験したことないけどさ。
でもわかるんだよ。作者は本当のことを書こうとしているということが。

何も断定しようとしない。教訓を引きだそうとしない。わかりやすい因果関係を探さない。責任の所在を見つけようとしない。すごく誠実な態度だ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、正確な未来予測ができるのは以下のようなタイプなんだそうだ。
  • 自分はまちがっているのでは? という疑いを常に持つ
  • 自らの思想信条に重きを置かない
  • あいまいなものはあいまいなままにしておく
  • 頻繁に検証を重ね、自らのまちがいを認める
要するにほとんどの政治家やコメンテーターとは真逆のタイプ。
ティム・オブライエン氏は、予測力の高いタイプの人間なんだろうなとおもう。
わからないものはわからないものとして扱う。決めつけを避ける。シンプルな法則を見いだそうとしない。
戦争の得体の知れなさをそのまま読者に提示している。



『本当の戦争の話をしよう』を読むと、戦争を一言で語るなら「一言では語れない」なんだろうとおもう。パラドックス。

ぼくは学校で、戦争は単純なものだと教わってきた。
いわく「戦争は悲劇だ」「戦争は残酷だ」「戦争は悪だ」「戦争は二度としてはいけない」。
スローガンとしてはそれでいいのかもしれない。でもそれは本当の戦争の姿を伝えていない。

『水木しげるのラバウル戦記』には、南方に出兵した水木しげる氏が、アンパンを食べられなかったことを何度も悔やんでいたという記述があった。
これもまた戦争の姿だ。
『本当の戦争の話をしよう』には、ガールフレンドのストッキングを首にまきつけている兵士や、意味なく仔牛を殺す兵士や、下品な冗談を言いあう兵士の姿が描かれている。これもまた戦争の本当の姿だ。

「戦争は残酷だ」の一言からは、そういった人間の姿がこぼれ落ちてしまう。笑い、おびえ、踊り、妬み、恥じらい、あきらめ、歌い、ふざける兵士たちの姿が見えなくなってしまう。

本当の戦争は語りつくせない。だからティム・オブライエン氏は語る。とりとめもない話をくりかえすことで。



有史以来人間はさまざまな戦争をしてきたが、ベトナム戦争ほど兵士たちが戦う意味を見いだせなかった戦争はなかなかないだろう(米軍の兵士にとっての話ね)。
祖国や家族を守るためでもない。敵に恨みがあるわけでもない。そもそも敵かどうかもよくわからない。だけど戦わなくちゃいけない。戦っても自国民から感謝されない、それどころか非難を受ける。終わりが見えない。誰と戦っているのかもわからない。

帰還兵のPTSD発症率も高かったという。そりゃそうだろう。
命を削って敵と戦い、味方だとおもっていた人間からも石を投げられるんだもん。

ティム・オブライエン氏は発狂はしなかったかもしれないけど、深く傷を負ったことはまちがいない。
それは「死に直面したから」「仲間の死を目の当たりにしたから」「人を殺したから」なんて単純な理由によるものではない。そうやって語れるようなものではないからこそ、小説を書くことで語らずにはいられないのだろう。

『本当の戦争の話をしよう』は、戦争の悲惨さを伝えるために書かれたような本ではない。
作者自身の魂の救済のために書かれたものだ。



最後に。
これは名文だとおもった文章。
 ノーマン・バウカーとヘンリー・ドビンズが毎日日没の前にチェッカーをやっていたことを覚えている。それは二人にとっては儀式みたいなものだった。二人はたこつぼを掘って、チェリッカー盤を取り出し、ピンクから紫にと変化していく夕空の下で黙りこくったまま延々とゲームに耽った。我々は時折足をとめてゲームを見物した。そこにはなにかしら心の休まるものがあった。秩序正しく、そして見ているだけでほっとできる何かがあった。それは赤い駒と黒い駒の戦いだった。完璧な碁盤目がその戦場だった。そこにはトンネルもなければ、山もジャングルもなかった。自分がどこにいるか、はっきりとわかる。得点だって把握できる。駒は全部盤の上に載っているし、敵の姿だってちゃんと見える。作戦がより大きな戦略へと展開していく様をこの目で見ることもできる。そこには勝者がいて、敗者がいる。そこにはルールというものがある。
この文章、すごくない?
この文章はチェッカー(テーブルゲーム)について語っているだけ。戦争については何も書いていない。なのに「戦争とはどういうものか」がひしひしと伝わってくる。

書かないことで語る。すげえなあ。

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2020年3月19日木曜日

【読書感想文】「没落」の一言 / 吉野 太喜『平成の通信簿』

平成の通信簿

106のデータでみる30年

吉野 太喜

内容(e-honより)
平成元年。消費税が施行され、衛星放送が始まり、日経平均株価は史上最高値をつけた。それから三十年、日本はどれくらい変わったのか?家計、医療費、海外旅行、体格、様々なアングルからこの三十年間の推移を調査。平成日本のありのままを浮き彫りにする。

昨年、『FACTFULLNESS』という本を読んだ。
さまざまなデータを示して、「みんな悲観するけどほらじっさいは世界はこんなに良くなってるんだよ~」と紹介する本だ。
病気で死ぬ人は減った、戦争も減った、子どもは教育を受けられるようになった、豊かな暮らしができるようになった、と。

その本に載っているデータはもちろん本当で、世界が多くの人にとって生きやすい世の中になっていっているのはまちがいない。
でもその一方でぼくは「いや世界は良くなってるんだろうけど、でもぼくらが生きる日本についてはどうなのさ」ともおもった。

たとえば1989年(平成元年)の若者と2019年(令和元年)の若者、どっちが生きやすいんだろう?
もちろん物質的には2020年のほうが豊かだろう。スマホあるし。それだけで圧勝。写ルンですでは勝負にならない。
でも「将来に希望を持てるか」とか「周りと比べて自分は恵まれない境遇にあるとおもう人はどっちが多いか」とか「今の社会は自分にとっていい社会か」とか尋ねたときに、令和元年の若者からより前向きな答えを引きだせるだろうか。

世界は全体的によくなっている。それはまちがいない。
でも人が幸福を感じるのは絶対的な尺度よりもむしろ相対的な優位性による面が大きい。
日本人は、三十年前と比べて幸福になったのだろうか?



ということで『平成の通信簿』。
平成のはじまりと終わりで比べて、日本をとりまく状況がどう変わったのかをデータで示す。
「日本版・FACTFULLNESS」といった内容だ。

で、ぼくがもともと悲観的な見方をしていたからかもしれないけど、やっぱり残念なデータが目立つ。
 1989(平成元)年の日本の一人あたりGDP(名目)は、世界第4位であった。1988年の第2位からは少し下がったものの、米国やイギリス・フランス・ドイツを上回り、スイスや北欧諸国など、欧州のトップグループと同じ層にあった。
 では現在は、どうなっただろうか。一人あたりGDPの順位は、2000年の第2位をピークに低下をつづけ、2017年のランキングでは日本は5位となった。このランキングには、マカオ、アルバなど、国家ではない地域も含まれているので、これらの扱いによって順位の数字は微妙に異なりうるが、傾向は変わらない。現在の日本は、かつて首位を争った欧州のトップグループからは引き離され、イギリス・フランス・ドイツなど欧州の一軍グループからやや後れをとりつつある。そして、イタリア・スペインなど欧州の二軍グループや、韓国・台湾が後ろに迫っている。
 1989(平成元)年当時、日本のGDPは米国に次ぐ世界第2位であった。世界経済全体に占める日本のシェアは15.3%で、3位から5位のドイツ・フランス・イギリスを合わせたのと同じくらいあった。ニューヨーク・ロンドン・東京が世界の三大証券市場であり、米国・欧州・日本が世界経済を考えるうえでの三本柱であった。
 最新のランキングはどうなったか。2017年の日本のGDPは、米国、中国に次ぐ世界第3位となり、世界経済におけるシェアは6.5%にまで低下した。
 日本のGDPは、1989年から2017年の間に1.6倍に増えている。これだけを見ると、「失われた20年」とはいえ、なかなか増えているものだと思われるかもしれない。しかし世界の中でみると、日本はこの3年間でもっとも成長しなかった国のひとつである。
 世界全体のGDPは、この間に4.0倍になった。中国は26.1倍、インドは8.7倍、韓国は6.3倍、米国は3.5倍。ヨーロッパの国々は世界平均よりも低いが、それでもドイツ3.0倍、フランス2・5倍、イタリア2.1倍となっている。日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目である。ちなみに、日本よりも下位は、中央アフリカ(1.4倍)、ブルガリア(1.3倍)、リビア(1.1倍)、イラン(1.1倍)、コンゴ民主共和国(1.0倍)となっている。なお戦争のあったシリアやイラク、アフガニスタン、あるいは北朝鮮など、このデータには含まれていない国もある(3-2)。
経済力だけでいえば「没落」の一言に尽きる。「凋落」でも「零落」でもいい。
もちろん他国が伸びたから、というのもある。日本は早い段階で成長しきっていたからのびしろが少ないのもある。
とはいえ。とはいえ。
「日本のGDPの伸び率は、データの存在する139カ国中134位、下から数えて6番目」ってのはあまりに衝撃的なデータだ。
日本より下位の中央アフリカとかリビアとかコンゴ民主共和国って、クーデターや内戦があった国だからね。それらの国よりちょっとマシってのが日本の30年。
大きな自然災害があったとはいえ、戦争もないのにこの数字ってのは相当なもんですよ。
ちなみに高齢者人口が増えてるのは日本だけじゃないからね。同じくらい高齢化が進んでても経済成長してる国もあるからね。高齢化だけのせいにしちゃだめよ。

国の経済が伸びていないのだから、もちろん国民の暮らしは悪くなっている。
支出の内訳でいうと、家賃、インフラ代、家賃、交通費、医療費などの「生きていくために必要なお金」の額が増え、被服費、教育費、娯楽費、交際費などの「余裕のある暮らしをするためのお金」が減っているそうだ。
うーん、せちがらい。ほんとに貧しい国になってるんだなあ。

これを「失政」と呼ばずして何を失政と呼ぶって感じだけど、為政者が責任をとるどころか総括すらしないわけだから、日本の凋落は令和の世になっても止まらないだろうな。

せめて認識だけでも改めないとね。先進国という意識は捨てないと。
モンゴルとかポルトガルといっしょですよ、日本は。
はるか昔に世界の覇権を手に入れそうになった国。それだけ。今は見るかげもない小国のひとつ。

もっとも、個人的にはそれでいいとおもうんだけどね。
没落した中小国家のひとつとしてやっていくならそれなりに幸せにやっていける道はある。小国には小国の幸せがある。
そこでオリンピックだ万博だと身の丈にあわないことを言いださなきゃ、ね。
そういうのは先進国さんや成長中の国家さんに任せましょうよ。ねえ。



国債について知らなかったこと。
 国債には、建設国債と赤字国債(特例国債)がある。公共事業など後世に残る資産を作るために一時的に資金を借りるのが前者、単なる借金が後者である。ただし建設国債で作ったものが本当に資産になるかはわからないので、この区分はかなり恣意的なものである。とはいえ、昭和の日本には、後世のために何かを作る建設国債ならともかく、後世の負担にしかならない赤字国債を発行してはいけないという矜持が一応はあった。
 高度成長期はおおむね均衡財政を維持してきたが、70年代から低成長期に入ると悪化、1975(昭和62)年度、ついに赤字国債を発行するに至った。財政規律はいったん緩むと歯止めがかからない。国債残高はたちまち増加、当時OECDで最悪の水準にあったイタリアと肩を並べるに至った。これに危機感を持った当時の政府は、国鉄や電電公社の民営化など財政再建に取り組んだ。バブル景気の税収増加にも助けられ、1991(平成3)年度の赤字国債の発行額はゼロとなった。
ぼくなんか物心ついたときから日本が借金まみれだから、借金があるのがあたりまえだとおもっていた。国の財政ってそういうものなんだと。
でもそうじゃないんだね。
1975年までは赤字国債を発行していなかったし、1991年も赤字国債はゼロだった。
借金がないのが健全なのだ。そんなあたりまえのことを忘れていた。たぶんみんな忘れている。財務省の人間なんかもう完全に麻痺しちゃってるんだろう。
「借金があっても大丈夫ですよ」と主張するための言い訳は必死で探すけど、借金を返す方法なんて考えようともしていない。



いちばん悲しくなるのがこれ。
 数の少なくなった貴重な人材を、今の日本はどう育てているだろう。教育費の公費負担額の対GDP比をみると、日本はOECD加盟国でデータの存在する34カ国中最下位、未加盟国を含む40カ国では39位である。トップの中米のコスタリカは、建国当初から教育熱心な国として知られ、教育費にGDPの6%を使うことを憲法に明記している。
 教育費を公私どちらが負担するかは、国によって異なる。欧州の大陸系の国は公費負担の比率が高く、英米系の国は公費負担の比率が低い。そして総額は、英米系のほうが多い。日本は公私の比率では英米系に属するが、私費負担はとくに高等教育で英米ほど多くなく、結果として総額が少なくなっている。私費負担を含む教育費の総額でみても、日本はGDP比で4.1%と、OECDの34カ国の平均5.0%を下回っている。
はああ。
教育費の公費負担分は、コスタリカはGDPの6.6%、アメリカと韓国は4.1%(先進国はだいたいその前後)、そして日本の公費負担分は2.9%……。

情けなくなってくるね。
貧しいのはしかたないにしても、未来に投資しなくなったらもう終わりじゃない。小泉純一郎が総理時代に「米百俵」とか言ってたけど、その話はどうなったの?

子どもに投資するどころか、老人が子どもから借金してる(そして返す気はない)のが日本の状況だからね。
つくづく憂鬱になる。


ほんとに平成ってまるまる日本没落の時代だったんだな。
何がつらいって、その没落が止まる傾向がまったくないことなんだよな。

他人事みたいに言ってるけど、責任の一端はぼくにもあるんだけどね。はぁ。選挙行ってるんだけどなあ。変わんねえなあ。

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2020年3月18日水曜日

【読書感想文】地獄の就活小説 / 朝井 リョウ『何者』

何者

朝井 リョウ

内容(e-honより)
就職活動を目前に控えた拓人は、同居人・光太郎の引退ライブに足を運んだ。光太郎と別れた瑞月も来ると知っていたから―。瑞月の留学仲間・理香が拓人たちと同じアパートに住んでいるとわかり、理香と同棲中の隆良を交えた5人は就活対策として集まるようになる。だが、SNSや面接で発する言葉の奥に見え隠れする、本音や自意識が、彼らの関係を次第に変えて…。直木賞受賞作。

もしも過去に戻れるとして、いちばん戻りたいのはいつ頃だろう。高校生のときがいちばん楽しかったし、でも何も考えていない小学生の頃も幸せだったし、結局うまくいかなかったあの子とのデートの日に戻って……。なかなか決められない。

でも「ぜったいに戻りたくない時期」は即決できる。
就活をしていた時期だ。

あの頃はほんとにつらかった。
こないだ、昔友人たちと会話をしていたBBS(ネット掲示板)を久しぶりに見てみた。そこには就活中のぼくがいた。ほんとうにイヤなやつだった。周囲全員を見下し、自分だけが特別な人間であるかのようにふるまい、攻撃的な言葉を隠すつもりもなくまきちらしていた。うげえ。とても見ていられなくなってBBSを閉じた。
「こんなやつとよく友だち付き合いをしてくれていたな」と友人たちに感謝をした(ほとんどは今でもときどき会う友人だ)。

ぼくは、高校までは友だちも多くて勉強もできて「おまえはおもしろいやつだな」とか「個性的だね」とか言われて(「個性的」は必ずしも褒め言葉ではなかったとおもうが)、難関と言われる大学にストレートで入って、ほんとに調子こいていた。
自分は周囲の人間とはまったく違う、いずれ世に広く名前を知られる存在だと本気で思い込んでいた。何も成し遂げていないのに。

で、そのぼくの出鼻がこっぴどくくじかれたのが就活だった。
就活をすると、ぼくは何物でもなかった。履いて捨てるほどいる学生の中のひとり。誰もぼくを特別扱いしてくれない。
面接でがんがん落とされる。上っ面だけ調子のいいやつが次々に面接を突破しているのに、誰よりも誠実な自分は落とされる。

なんなんだ就活って。仕組みがまちがってるとしかおもえない。
毎日がめちゃくちゃ苦しかった。
だからまったく聞いたこともないような会社の社長から「君こそうちにくるべきすばらしい人材だ!」みたいなことを熱く語られて、すぐに飛びついた。社長の言葉に共感したから、というのを自分への言い訳にしていたがほんとは一日でも早く就活を終わらせたかっただけだった。

今にしておもうと、肥大化しきった自尊心を叩き潰してくれたという意味で就活はいい経験だったといえるかもしれない。
でもそれは十年以上たった今だから言えることで、やっぱり当時は毎日つらかったんだよ。



『何者』は読んでいてつらかった。
この小説には、周囲をうっすらと見下している人物が出てくる。
自尊心のかたまりみたいな人間で、何もしていないくせに自分だけは他と違うとおもいこんでいて、自分だけが繊細で物事を深く考えている人間だと思っていて、真正面から就職活動に取り組む同級生を見下し、かといって就職せずに世捨て人になるほどの覚悟もなく傷つかないような鎧をたくさん着込んでから就活に勤しむ。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。
二十一歳だったぼくそのものだ。

この登場人物はことあるごとに、社会の矛盾に対して一席ぶつ。それを周囲が感心して聞いている、と当人は思っている。「個性的だね」「いろいろ考えてるんだね」といったお茶を濁す言葉を、額面通りに受け取って。
でもじっさいは、自分が見下している周囲の人間から見下されている。理屈だけこねまわして自分が傷つかないように必死に逃げ回っているのだということを見透かされている。

……まるっきりぼくの姿じゃないか。

たぶん世の中に何万人といるんだろう。
自分だけは他の就活生とは別の考え方で就活をしている、と思っている人間が。

『何者』は、そんなありきたりな人間を容赦なく切り捨てる。
 たくさんの人間が同じスーツを着て、同じようなことを訊かれ、同じようなことを喋る。確かにそれは個々の意志のない大きな流れに見えるかもしれない。だけどそれは、「就職活動をする」という決断をした人たちひとりひとりの集まりなのだ。自分は、幼いころに描いていたような夢を叶えることはきっと難しい。だけど就職活動をして企業に入れば、また違った形の「何者か」になれるのかもしれない。そんな小さな希望をもとに大きな決断を下したひとりひとりが、同じスーツを着て同じような面接に臨んでいるだけだ。
「就活をしない」と同じ重さの「就活をする」決断を想像できないのはなぜなのだろう。決して、個人として何者かになることを諦めたわけではない。スーツの中身までみんな同じなわけではないのだ。
 俺は、自分で、自分のやりたいことをやる。就職はしない。舞台の上で生きる。
 ギンジの言葉が、頭の中で蘇る。就活をしないと決めた人特有の、自分だけが自分の道を選んで生きていますという自負。いま目の前にいる隆良の全身にも、そのようなものが漂っている。

「『企業から採用してもらうために自分を型にはめて偽りの仮面をかぶって就活するなんてダサい』という考えこそがダサい、と。
そうなのだ。
就活をしている人間は何も考えずに就活をしているわけではない。
「自分を偽って面接に臨むことが正解なのか」なんて考えをとっくに通過した結果として面接に臨んでいるのだ。
何も考えていないのは、それをばかにするぼくのほうだったのだ。

読んでいると過去の自分を殺したくなってくる。つらい。



これだけでもぼくにはグサグサと刺さったのに、後半の展開はすごかった。もう息ができないぐらい苦しかった。
「こういうイタいやついるよねー」って半分客観的に読んでいたら、「いやこれまさしくおまえの姿なんだよ!」って小説の内側から指をつきつけられた気分。
観察しているつもりになっていたら、いつのまにか観察される側になっている。

やめてくれえ。
これ以上傷口を広げないでくれえ。痛い痛い痛い痛い。

タイムマシンで過去に戻って就活をやっているぼくの姿を見せつけられているような。いちばん戻りたくない時期なのに。地獄だ。



この小説を貫くキーワードは「就活」と「SNS」だ。
ぼくが学生のときはSNSは誰もやってなかった。卒業ぐらいのタイミングでやっとmixiが広まった。FacebookもInstagramもtwitterもなかった。せいぜいさっきも書いたようなBBSぐらい。

SNSのある時代に学生生活を送らなくてよかった、とおもう。『何者』を読んで余計に。

だってSNSっていやおうなしに「何者でもない自分」を突きつけてくるツールだもん。
すごい人がすごいことを発信している。どうでもいいことをつぶやくだけで何千という「いいね!」をもらう人がいる一方で、自分の渾身のツイートには誰も反応しない。
すごく残酷だよね。

一方で、かんたんに自分をとりつくろうこともできる。だけど無理していることがみんなにばれている。ばれていることにも気づいている。でもやめられない。

ぼくはもう老いて「何者でもない自分」として生きていく覚悟をある程度身にまとったから(完全に捨てられたわけではない)なんとか耐えられるけど、「もうすぐ功成り名遂げるはずの自分」として生きていた学生時代だったらとても耐えられなかった。

でも逆にSNS慣れしてる若い人のほうがそういうくだらない「自己と世間の評価のギャップ」をあっさり乗りこえてたりするのかなあ。それはそれでちょっと寂しい話だなともおもう。
現実を見るのは大事だけど、現実ばかり見なきゃいけないのもつらいよなあ。



就活のときに味わった苦しさをもう一度味わわされた気分だ。
それどころじゃない。
苦しさを何倍にも増幅されて与えられたようだ。

めちゃくちゃひりひりする小説だった。
三十代の今だからなんとか耐えられたけど。
これを二十五歳ぐらいで読んでたら発狂して自傷行為に及んでいたかもしれないな。それぐらいの殺傷能力がぼくに対してはあった。

朝井リョウ氏のデビュー作『桐島、部活やめるってよ』は特に何の感情も揺さぶられなかったので油断してた。ぐわんぐわんと揺さぶられた。

就活が嫌いだったすべての人におすすめしたい。
いやーな気持ちになれること請け合い。

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2020年3月17日火曜日

【読書感想文】明るく楽しいポルノ小説 / 奥田 英朗『ララピポ』

ララピポ

奥田 英朗

内容(e-honより)
みんな、しあわせなのだろうか。「考えるだけ無駄か。どの道人生は続いていくのだ。明日も、あさっても」。対人恐怖症のフリーライター、NOと言えないカラオケボックス店員、AV・風俗専門のスカウトマン、デブ専裏DVD女優のテープリライター他、格差社会をも笑い飛ばす六人の、どうにもならない日常を活写する群像長篇。下流文学の白眉。

内容説明に「下流文学」とあるが、まさに下流文学。
登場人物がみんな社会の下層にいる人間ばかり。ただ貧しいだけじゃない。向上心がない、モラルにも欠けている、地道な努力は嫌い(風俗のスカウトマンだけは地道に努力してるけど)、でも他人への嫉妬心は強い、濡れ手で粟だけは夢見ている。
なかなかどうしようもない連中だ。

しかしそれがリアル。
清貧なんて嘘。貧しい出自で懸命に努力を積み重ねて成功を手にする、なんて例外中の例外。
貧しい環境にある人ほど明日が見えなくなってゆく。明日が見えないのに将来に向かっての努力なんてできるわけがない。
まともな方法で人生大逆転なんてできない。大博打を打つにも資本がいるのだ(金だけでなく時間とか教育とか人脈とか)。

貧困からの一発逆転手段といったら非合法なやりかただけ。
で、違法スレスレ(またはアウト)の方法に手を染める。
それはそれで成功を手にするのはむずかしい。まして非合法なやりかたで継続的な成功を収めるなどまず不可能だろう。
かくしてひとつの過ちをごまかすためにまた別の悪事に手を染め、あとはどんどん転落の一途……。

といったのが全篇に共通するおおまかな展開。
しかしじめじめせずに乾いたユーモアで包みながら物語は目まぐるしく動くので、読んでいて楽しい。
けっこう陰惨なエピソードもあるのだが(介護老人の死とか放火とか売春とか逮捕とか盗撮とか……。よく考えたら陰惨なやつばっかりじゃないか)、でもからっとした筆致のおかげで気が詰まらない。

最後は下流なりの小さな幸せをつかむ……みたいな展開にはなるのかとおもったら、そうはならずに、最後まで救いのない結末だった。個人的にはこのほうが好き。とってつけたような救済を与えたって嘘くさいしかえってみじめったらしいもん。とことん突き離してどん底に叩き落とすほうがいい。フィクションなんだし。

ストーリーはおもしろかったんだけど、性描写が多くて(全篇にある)電車の中で読みながら「これは窮屈な満員電車で読む本じゃなかったな」と後悔した。

性描写があるエンタテインメント小説というより、もはや明るく楽しいポルノ小説。



ちなみにタイトルの「ララピポ」とは「a lot of people」のことだそう。
たしかに早口で言うとそう聞こえる。
だからなんだって話だけど(この小説本編にもあんまり関係ない)、タイトルに使いたくなる気持ちはなんとなくわかるなー。

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2020年3月16日月曜日

【読書感想文】ゲームは避難場所 / 芦崎 治『ネトゲ廃人』

ネトゲ廃人

芦崎 治

内容(e-honより)
現実を捨て、虚構の人生に日夜のめり込む人たち。常時接続のPCやスマホが日用品と化した今、仮想世界で不特定多数と長時間遊べるネットゲーム人気は過熱する一方だ。その背後で、休職、鬱病、育児放棄など社会生活に支障をきたす「ネトゲ廃人」と呼ばれる人々を生んだ。リアルを喪失し、時間と金銭の際限ない浪費へ仕向けられたゲーム中毒者の実態に迫る衝撃のノンフィクション。
ノンフィクションというより、ネットゲーム中毒になった人たちへのインタビュー集。
あくまで実体験を積み重ねただけで、考察は少ない。第9章の『オンラインゲーム大国、韓国の憂鬱』だけがちょっとデータ多めだけど、それでも個別の事例や談話が中心だ。

なので読んでいても「ふーん、たいへんだなー」とおもうだけ。
対策とか治療法とかは何もない。
ゲーム雑誌の企画でおこなわれたインタビューらしいので、ゲーム会社への批判的な視点もない。
つくづく何もない本。
まるでクリアもゲームオーバーもなくだらだらと続いてゆくオンラインゲームのように。



ゲームにはまっている(いた)人たちの話を読んでおもうのは、ネットゲームにはまる人が社会でうまくやっていけなくなるというよりも、社会でうまくやっていけない人がネットゲームにはまるのだということ。

家庭に問題があったり、学校や職場で疎外感を味わっている人がネットゲームに居場所を求めたり。
ゲームは避難場所なのだ。


ぼくはあまりゲームに夢中になることはないのだが、いっときネット大喜利なるものにはまっていた。2004年~2012年ぐらいのことだ。
インターネット上で大喜利好きの人たちが集まって、お題に対してこれぞとおもう回答を出すという遊びだ。で、回答に対してみんなで投票をして、順位をつける。
たあいのない遊びだ。でもこれに夢中になった。ひとつのお題に対して何十個も回答を考えたり、一週間ずっと回答を考えつづけたり。ぼくは回答もしたし出題もしたし自分で大喜利サイトも運営したしブログで他人の回答について寸評したしときには熱く議論をしたりもした。
傍から見ていると、なんでそんなことに夢中になっているの、それやって何になるの、と言いたくなることだとおもう。
でも当時のぼくは夢中になっていた。ぼくだけでなく、ネット大喜利に没頭している人は何十人、何百人といた。

だからネットゲームにはまる人の気持ちもわかる。
ネット大喜利で自分の回答が何十人の中で一位を獲ったときの快感は、実生活ではなかなか味わえないものだ。自分の才能が認められた! という気になる。

当時ぼくは就職活動がうまくいかなかったり、新卒で入った会社をすぐ辞めたり、体調を崩して無職だったり、ようやくフリーターとしてバイトをはじめたりと、あまりうまくいっていない時期だった。だからこそ余計にネット大喜利の世界は居心地が良かった。唯一の認められる場という気さえした。


それでも実生活に悪影響が出るほどネット大喜利にはまっていた人はそう多くなかっただろう。それは、ネット大喜利を運営しているのもみんな素人だったからだ。
今はどうだか知らないけど、当時のネット大喜利は運営側もみんな趣味でやっていた。金儲けの要素はぜんぜんなかった。課金制度もないし、やめられなくなるような巧妙なイベントやアイテムも存在しなかった。もしあったら、ぼくなんかはもっともっとはまって抜けだせなくなっていたかもしれない。

ぼくはもうネット大喜利をやっていないけど、当時知り合った人とは今も交流があるし(ほぼオンラインでだけど)、ネット大喜利があったから人生の低迷期をそこそこ楽しく乗りこえることができたともおもっている。

ゲームも同じで、ゲームばかりして人と出会わなくなるのは、きっとゲーム以外に原因があるからなのだ。
それを「ゲームこそが悪の根源だ! ゲームは一日三時間まで!」と言うのは、「薬を飲んでいる人は薬を飲まない人に比べて体調が悪い傾向がある! 薬を飲むな!」と言うようなものだ。
ゲームにはまっている人からゲームを取り上げてもその時間を勉強に向けるようにはならないよ。他の場所に逃げるか、何もしなくなるだけだよ。



数々の「ゲーム廃人」が口をそろえて言っていることがある。
「ゲームばっかりやってきたぼくが言うのは変ですが……」
「こんな私が言うのは、おかしいんですけど……」
「ぼくみたいな者が言うのは、何なのですが……」
 そう断って、反省とも自戒ともとれる警鐘を鳴らした。
 彼らは異口同音にこう語った。
「自分が親だったら、子どもには、やらせない」
子どものときにはまっていたらヤバかった、幼い弟にはやらせないようにしていた、自分の子どもにはやらせたくない。
ゲームにどっぷりはまっている人でも(はまっている人だからこそ?)子どもにはゲーム漬けになってほしくないとおもっているようだ。

大人とちがって子どもは、行動の選択肢が多くない。学校に居場所がなければ家にいるしかない。家でやることといったらゲームぐらいしかない。
「稼がないと生きていけない」「このままじゃ留年/退学になる」といったきっかけも少ないので、親や学校が何もしなければ外に出る機会はない。
子どもの場合、大人以上にとことんまではまりやすいのだろう(そしてゲーム廃人になってそのまま戻ってこられない子どもも多いのだろう)。

またおそろしいのは「親がゲーム廃人になった子ども」の将来だ。
 ところで、両親が毎晩のようにパソコンの画面を見続けていれば、子どもに与える影響は少なくないだろう。子どもは小学三年の男の子と小学一年の男の子がいる。上の子は三歳の時にパソコンに触れた。

(中略)

「おやすみなさい……」
 午後八時になると、子どもは一言いって布団に入るようになった。
「何か理由はわからないけど、午後八時になると勝手に布団に入ってくれる。ロボット化されていくというのか。子どもがゲームに理解のある子なので、『ぼくたちは寝なきゃいけない』という気持ちがあったのかも。主人がいないときは、主人の代わりにプレイをお願いすると、操作もできる。ゲーム仲間には、『ご主人より、息子のほうがゲームはうまい』という人もいます。上の子だけですけど、チャットもできるし、やりたいときには、ゲームをやらせてあげている」と言う。
 長男はおとなしい、喋らない子に育った。
「ママは、ちょっと忙しいからね」
 片山百合がゲームを優先しているので甘えてこない。用でもない限り下の子と一緒に遊んでいる。
さすがにこのエピソードには背筋が冷たくなった。

いやいやいや……。
「子どもがゲームに理解のある子なので」じゃねえだろ……。
どう考えたってすでに子どもの発達に影響出てるだろ……。


親本は2009年刊行なので、「ネトゲ」とはスマホゲームではなくPCゲームのこと。
小中学生でもスマホで手軽にゲームをやるのがあたりまえの今はこのときよりももっと状況が悪くなっているんじゃないかな。

「ゲームが教育に悪い!」と安易な決めつけはしたくないけど(そしてゲームそのものではなくゲームにはまる原因をなんとかしないと意味がないとおもっているけど)、子どもがゲームに大量の時間を投下するのはどう考えたって良くない。

体系的なゲーム依存治療法が確立されていない今、「子どもをゲームから遠ざける」が最適な方法になっちゃうんだよなあ。
ほんとはゲーム業界こそがゲーム依存症の治療にお金と労力を割くべき(そっちのほうが長期的には得をする)だとおもうよ。

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2020年3月13日金曜日

【読書感想文】オスとメスの利害は対立する / ジャレド=ダイアモンド『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』


人間の性はなぜ奇妙に進化したのか

ジャレド=ダイアモンド(著)  長谷川 寿一(訳)

内容(e-honより)
人間は隠れてセックスを楽しみ、排卵は隠蔽され、一夫一婦制である―ヒトの性は動物と比べてじつは奇妙である。性のあり方はその社会のあり方を決定づけている。ハーレムをつくるゴリラや夫婦で子育てをする水鳥、乳汁を分泌するオスのヤギやコウモリなど動物の性の“常識”と対比させながら、人間の奇妙なセクシャリティの進化を解き明かす。

原題は『Why is Sex Fun?』で直訳すると『セックスはなぜ楽しいか』なのだが(和訳版元々はこの題で出ている)、なぜか文庫化の際に『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』となんとも野暮ったいタイトルに改題している。

まあ原題だと学術書だということが伝わりにくいし大学の講義で扱いにくいので改題はいたしかたないのだけど……。
にしても『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』はちょっとつまんなすぎるなあ。



だれもが知っているように、人間は動物だ。哺乳類だ。
ところが人間は他の哺乳類、動物とはいろんな面で性行動が異なる。例外だらけなのだ。
 また一般的に社会生活をする哺乳動物は、群れのメンバーの見ている前で交尾を行なう。たとえば発情したメスのバーバリーマカクは群れのあらゆるオスと交尾を行なうが、他のオスに見られないように隠れたりはしない。こうしたおおっぴらな繁殖行動が多いなか、例外として最もよく知られているのはチンパンジーの性行動だ。大人のオスと発情したメスは群れを離れ、二匹だけで数日間を過ごす。研究者たちはこの行動を「コンソート行動」または「ハネムーン行動」と呼んでいる。ところが配偶者とコンソート関係を結び二匹だけで交尾を行なったメスが、同じ発情サイクル[通常一〇~一四日間つづく]のあいだに別のオスたちと、今度は群れのメンバーのいる前で交尾を行なうこともあるのだ。
 ほとんどの哺乳動物のメスはさまざまな目立つシグナルを発し、いまが繁殖サイクルのなかで受精可能な短い排卵時期であることをまわりに宣伝する。そのような宣伝のシグナルには、性器のまわりが鮮やかに赤くなるなど視覚的なものもあれば、強烈な匂いを発するなど嗅覚に訴えるものもある。また、鳴き声を上げるといった聴覚的なものや、大人のオスの前にかがみこみ、性器を見せるなど行動的なシグナルもある。メスが交尾を誘うのは受精の可能性のある数日だけで、それ以外の時期にはオスを刺激する性的シグナルを出きない。そのためオスのほうも普段はメスにまったく、あるいはほとんど性的な関心を示さない。それでもオスが性的関心から寄ってきた場合、メスはどんなオスであれ拒絶する。つまり動物にとって交尾は決して楽しむためのものではなく、繁殖という機能から切り離されることはほとんどないのだ。だがこの一般論にもやはり例外がある。ボノボ(ピグミーチンパンジー)やイルカなど少数の動物種は、明らかに繁殖以外のために交尾を行なうのである。
 最後に、大多数の野生哺乳動物にとって、閉経は正常な現象ではない。閉経とは、老年期に繁殖機能が完全に停止してしまうことで、それ以前の繁殖可能な期間にくらべるとはるかに短いにせよ、以後かなりのあいだ不妊の状態がつづく現象をさす。一方、野生動物の場合は、死ぬ瞬間まで受胎可能か、加齢とともに少しずつ繁殖能力が衰えるかのどちらかである。
人間だけが交尾を他の個体から隠れておこなう、人間だけが排卵時期以外でも交尾する、人間だけが閉経する(生殖機能がなくなってからも生き続ける)……。
(いくつかの例外はあるにせよ)ヒトだけが持つ特徴がいくつもある。

どれも、生物として一見不利になることばかりだ。
チャンスがあればどんどん交尾をしたほうが遺伝子を残せるし、受精のチャンスがないときにまで交尾をするのはエネルギーの無駄だ。閉経してしまったら子どもを産めないのだから死ぬ直前まで受胎できるほうがいい……。
いわれてみればそのとおりだ。

この人間の奇妙な習性の謎を解くのが『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』だ。
うん、わかりやすくていいタイトルだな(さっきと言ってることがちがうぞ)。



これら「人間の奇妙な性」が進化した理由を、ひとつひとつわかりやすく説明してくれる。さすがはジャレド=ダイアモンド。
ところでジャレド=ダイアモンドって『銃・病原菌・鉄』とか『危機と人類』が有名だから「へえ、文化人類学以外の本も書くのか」なんておもってたけど、本業が進化生物学者なんだってね。こっちが専門だったのかー。


たとえば閉経について。
閉経をするのは、高齢になってからは自らが出産するより子どもや孫の世話をするほうが結果的に子孫繁栄につながる確率が高いからなんだそうだ。
文字が発達していない社会では、おばあちゃんは若い人より知識も経験もあって仕事ができるから、おばあちゃんがいるほうが孫が生存しやすいんだと。

なるほどね。ヒト以外の動物だと知識や経験を伝達できないから、閉経後に長生きする理由がないけど、ヒトには言語があるから「おばあちゃんの知恵袋」が生存率を高めてくれたのだ。
しかしそれは文字が発達する以前の話であって、近代においてはおばあちゃんは若い人より有用な知識や仕事効率の上で劣っていることのほうが多いはず。
もしかするとあと何万年かしたら人間の女性は閉経しなくなるか、閉経と同時に寿命が尽きるように進化していくのかもしれないなあ。

現代は、高年齢女性が「なんのために生きるか」を見いだしにくい時代なんだろうな。
もちろん人間は子孫を残すためだけに生きてるわけじゃないけどさ。でもどれだけえらそうなことを言ってもぼくらは遺伝子の乗り物だから、遺伝子を運ぶ役に立てなくなったまま生きていくのはつらいはず。
更年期障害のつらさってそういうところから来ているのかもしれないね。



男と女の永遠のテーマ、結婚と浮気について。
 だれもがよく知っているように、男性と女性では婚外性交にたいして異なった態度をとるが、その生物学的基礎も子育てから得る遺伝的価値に性差があることに根差している。伝統的な人間社会では、子供には父親の世話が不可欠だったので、男性は既婚の女性と婚外性交し、その夫が、他人の子とは知らずに生まれた子供を育ててくれた場合に最も大きな利益を得た。男性と既婚女性が浮気をすることで、男性は子の数を増やせるが、女性は増やせない。この決定的な違いから男性と女性が婚外性交に走る動機も異なってくる。全世界のさまざまな社会を対象に行なわれた社会調査によると、男性は女性にくらべて、偶発的なセックスや短期間の肉体関係など、バラエティーに富んだ性行動にたいしてより強い興味を抱いていることがわかった。男性がそのような行動傾向を示すのももっともなことである。女性とは異なり、男性はこうした行動傾向を通じて、遺伝的成功を最大化できるからである。一方、女性が婚外性交にかかわる動機は、結婚生活に満足がいかないからという自己報告が多い。夫に不満な女性は新たな長期的関係を求める傾向があり、再婚を求めたり、現在の夫よりも財力のある男性や、よい遺伝子をもつ男性と長期的な婚外関係を求めたりするのである。
男と女は子を産むためのパートナーでありながら、その利害は必ずしも一致しない。ときには対立する。

男も女も、遺伝子を残すためだけでいえば「子どもをつくって世話はパートナーに押しつけて自分はさっさと浮気する」が最適解になる。
ところが妊娠・出産までに投じたコストが男と女ではまるでちがう。だから子どもの押し付けあいになればどうしたって女が不利になる(親権問題というと両者とも引き取りたがることが多いが、遺伝子の保存の観点でいえば押しつけるほうがいい)。
こういう事情があるから、男と女では結婚や浮気に対する最適な戦略が異なる。当然の話だ。人間だけでなく、有性生殖をする動物ならみんなそうだ。

なのに人間だけが「夫婦で同じ価値観を」という無茶を求めるから話がややこしくなる。


高校生のとき、家庭科のテストで「なぜ結婚してパートナー関係を結ぶのがよいか説明しなさい」という問いが出された。
ぼくは「今の日本では慣例的に一夫一妻制を布いているがそれが最良の選択肢ではない。種の保存や多様化のためには婚外交渉を積極的におこなうほうがよい」みたいなことを書いた。
そしたらおばちゃん教師から怒りのこもったコメントを書かれた。なんと書いてあったかは忘れたが、理屈ではなく「こんなものダメに決まってるでしょ! ダメだからダメ!」みたいな論調だった。

でもぼくが書いたことはまちがってなかったのだとこれを読んで改めておもう。
もちろん一夫一妻制にもメリットはあるが、それは普遍的に正しい制度ではなく、あくまで「近代の日本においては比較的マシ」程度だ。べつの制度のほうが良くなる時代がくるかもしれない。いや、もしかしたらもうすでに来ているかも。だって今、一夫一妻制の結果(それだけじゃないけど)人口構成がどんどんいびつな形になっているもん。

結婚して一対一の関係は結ぶけど、ときどきは浮気をする。そして浮気相手の子どもを作ることもある。浮気をするメリットは男のほうが大きいので、男が浮気をすることのほうが女よりも多い。
こっちのほうが生物として自然なことなのだ。

言っとくけどぼくは婚外恋愛を推奨してるわけじゃないよ。あくまで生物として自然という話ね。
人間だから生物としての自然さより社会的規範を優先させるべきという考えもわかる。
だけどそれは種の繁栄の観点では最適な方法ではない。
だから「性交渉は慎重に。決まったパートナーとだけ。浮気なんてもってのほか。パートナーの子どもを産んで育てましょう」というルールを守れば守るほど人口が減っていくのも自然なことなのかもしれない。

そういやフランスはシングルマザーへの保護を手厚くしたら少子化が少しだけ解消されたという話を聞いたことがあるなあ。
日本も本気で少子化対策をするなら、そろそろ「伝統的な家族観」という虚像を捨てさったほうがいいのかもしれない。ほどほどに浮気をして外に子どもを作る、こそが本当に伝統的な家族観なのだし。



なぜ授乳をするのがメスなのか、という話。
あたりまえでしょ、と言いたくなるかもしれないが出産はともかく授乳は必ずしもメスがやる必要がない(出産についてはメスの仕事というより、出産する側の性をメスと呼ぶという定義そのものの話だ)。

いくつかの動物ではメスではなくオスが子育てをする。だったらオスが授乳できたほうが都合がいい。
じっさい、乳を分泌できる人間の男も存在するそうだ。
 このように、ヒトがダヤクオオコウモリにつづくオスの乳汁分泌の第一候補となる条件はずらりと揃っている。実際にヒトの男性が自然淘汰を通して完全に乳汁分泌をするようになるには数百万年がかかるだろうが、われわれにはテクノロジーという強い味方があり、進化のプロセスを一気に縮めることができる。手による乳頭の刺激とホルモン注射を組み合わせれば、出産を待つ父親――彼の親としての確実性はDNA鑑定によって裏づけられている――の乳を出す潜在能力は、遺伝的な変化を待たずとも、すぐに発達するだろう。オスの乳汁分泌に秘められた利点は測りしれないほどある。それが可能になれば、いまは女性にしかもてない親子の感情的な絆が、父親にも得られるようになるだろう。実際、多くの男性が、授乳によってもたらされる母子の特殊な結びつきを羨ましく思っている。授乳が伝統的に女性の特権であることで、男性は疎外感を感じているのだ。
感じたよ、ぼくも。疎外感。

なるべく子育てに関わりたいとおもっていても、授乳だけはぜったいに代われない。
赤ちゃんって夜中に泣くから、そのたびに母乳をあげて眠らせる(粉ミルクでもいいけど、熱湯で溶かして、冷めるまで待って、飲みおわったら煮沸消毒して……って夜中にやんなきゃいけないの超めんどくさいんだよね)。
そうすると子どもは母親といっしょに寝ることになる。「今日はぼくが代わるよ」ってわけにはいかない。

長女が小さいときは、ぼくとお風呂に入って、ぼくと本を読んでも、寝るときになったら妻の布団に行ってしまう。
目を覚ましておかあさんがいなければ、いくらぼくがあやしても泣きやまない。妻がおっぱいを口にふくませるとぴたっと泣きやむ。
そのたびに「おっぱい、ずるい!」とおもったものだ。

ふたりめのときは「妻が次女にかかりっきりになるので、ぼくが長女の相手をする」と自然と役割分担できたのでよかったけど、ひとりめのときは疎外感を味わったなあ……。

だったら「安くてかんたんで安全で痛みのない手術を受けるだけで男性でも母乳を出せるようになりますよ!」となったら喜んで手を挙げるかというと、
「いや、それはもうちょっと考えてから……。世の父親の二割ぐらいが手術受けるようになったら、かな……」
と情けない返事をしてしまうんだろうけど。

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2020年3月12日木曜日

【読書感想文】「清潔な夫婦」はぼくの理想 / 村田 沙耶香『殺人出産』

殺人出産

村田 沙耶香

内容(e-honより)
今から百年前、殺人は悪だった。10人産んだら、1人殺せる。命を奪う者が命を造る「殺人出産システム」で人口を保つ日本。会社員の育子には十代で「産み人」となった姉がいた。蝉の声が響く夏、姉の10人目の出産が迫る。未来に命を繋ぐのは彼女の殺意。昨日の常識は、ある日、突然変化する。表題作他三篇。

『殺人出産』

殺人が合法的な制度になった時代の物語。
 もちろん、今だって殺人はいけないこととされている。けれど、殺人の意味は大きく異なるものになった。
 昔の人々は恋愛をして結婚をしてセックスをして子供を産んでいたという。けれど時代の変化に伴って、子供は人工授精をして産むものになり、セックスは愛情表現と快楽だけのための行為になった。避妊技術が発達し、初潮が始まった時点で子宮に処置をするのが一般的になり、恋をしてセックスをすることと、妊娠をすることの因果関係は、どんどん乖離していった。
 偶発的な出産がなくなったことで、人口は極端に減っていった。人口がみるみる減少していく世界で、恋愛や結婚とは別に、命を生み出すシステムが作られたのは、自然な流れだった。もっと現代に合った、合理的なシステムが採用されたのだ。
 殺人出産システムが海外から導入されたのは、私が生まれる前のことだ。もっと以前から提案されていたものの、10人産んだら一人殺してもいい、というこのシステムが日本で実際に採用されるのには、少し時間がかかった。殺人反対派の声も大きかったからだ。けれど、一度採用されてしまうと、そちらのほうがずっと自然なことだったのだと皆気付くこととなった、と学校で教師は得得と語った。命を奪うものが、命を造る役目を担う。まるで古代からそうであったかのように、その仕組みは私たちの世界に溶け込んでいったのだと、教師は熱弁した。恋愛とセックスの先に妊娠がなくなった世界で、私たちには何か強烈な「命へのきっかけ」が必要で、「殺意」こそが、その衝動になりうるのだ、という。
 殺人出産制度が導入されてから、殺人の意味は大きく変わった。それを行う人は、「産み人」として崇められるようになったのだ。
 日本では依然として人工授精での出産が1位を占めるが、それでも「産み人」から生まれた子供の比率は少しずつ増え、昨年度の新生児の10パーセント以上を占めるようになっていた。
 当然だが、それは命懸けの行為であるので、「産み人」としての「正しい」手続きをとらずに殺人を犯す人もいる。逮捕されると、彼らには「産刑」というもっとも厳しい罰が与えられる。女は病院で埋め込んだ避妊器具を外され、男は人工子宮を埋め込まれ、一生牢獄の中で命を産み続けるのだ。
 死刑なんて非合理的で感情的なシステムはもう過去のものなのです、と教師は言った。殺人をした人を殺すなんてこわーい、とクラスの女子は騒いだ。死をもって死を成敗するなんて、本当に野蛮な時代もあったものです、命を奪ったものは、命を産みだす刑に処される。こちらのほうがずっと知的であり、生命の流れとしても自然なことなのです、と教師は言い、授業を締めくくった。
設定はおもしろい。
でも説得力に欠ける。ぼくは入っていけなかった。

いまぼくらが暮らす世界とはまったくべつの世界のお話、であればすんなり受け入れられたとおもうんだけどな。
でも『殺人出産』の舞台は近未来の日本。現実と地続きになっている。
ってことは今の「人殺しはだめ」から「出産のために人を殺すのはすばらしいことだ」に至るまでの間に大きな社会的な葛藤があったはず。
そこを丁寧に書く必要があるのに、この小説ではたった数行の説明で済ませている。いちばん書かなきゃいけないところを、教師の口上という形をとることで読者への説得から逃げている。ずるい。

説得できないのはしかたない。もともと無理があるんだもの。
物語の本筋はここじゃないこともわかる。何十ページも割いて説明したら冗長になるだけかもしれない。
でも、だったらいっそ説明するなとおもう。稚拙な言い訳を並べたてるから「それはおかしくないですか」と言いたくなるのだ。いっそ説明せずに「こうなってるんです」でいい。

藤子・F・不二雄氏のSF短篇に『気楽に殺ろうよ』という作品がある。
設定は『殺人出産』によく似ている(言うまでもないが『気楽に殺ろうよ』のほうが四十年以上早い)。子どもをひとりつくれば一人殺していい、という世界の話だ。
『気楽に殺ろうよ』は基本的に説明がない。「なんかしらんけどこうなってました」で済ませている。氏の短篇にはこういう価値観が倒錯した世界を描いた作品が多いが、だいたいそうだ。
藤子・F・不二雄氏は知っていたのだろう。へたな説明をくだくだ並べるぐらいなら説明しないほうがおもしろいと。

SFとして読むには設定が雑で、ファンタジーにしては理屈っぽく、エンタテインメントとしては意外性がない、なんとも半端な読後感だった。



『トリプル』

この本の中でいちばん好きな作品だった。キモくて。
三人で性的な関係を結ぶことがマジョリティとなった世界。男一女二の場合もあるし、女一男二だったり、男三や女三という関係もある。
で、三人でやるセックスの描写があるのだがとにかく気持ち悪い。うげえ。ほぼスカトロじゃん。

でもその「気持ち悪い」という感覚が、トリプルの人がカップルのセックスに対して抱く感情であり、ヘテロセクシャル(異性愛者)が同性愛者のセックスに対して抱く感情と同質のものであると気づかされる。

ぼくはヘテロだが「LGBT? けっこうじゃないか。誰もが自らの性嗜好に対して自由であるべきだよ」なんておもっている。でも同時に、同性同士のセックスはキモイともおもっている。
どれだけ口では偉そうなことを言っていても、理屈と本能的な快不快ってぜんぜんちがうものなのだ。
結局人間は差別とは無縁ではいられないんだろうなあと気づかされた作品だった。



『清潔な結婚』

これはいちばん共感できたな。
性生活を排除した夫婦の話。うん、わかるわかる。

そうなんだよ。夫婦って恋人と家族を両立させなきゃならないんだけど、それってすごくしんどいんだよね。
それが苦にならない人もいるんだろうけど、ぼくにとってはけっこう負担が大きい。
ぼくは結婚して九年だけど、もうすっかりセックスレスだ。というか九年中八年半はセックスレスだ。でも仲はいいほうだとおもう。

だってぼくにとって妻は家族であり、子どもたちのおかあさんであり、経済的パートナーであり、愚痴をこぼしあえる仲間であり、くだらない話題で盛りあがる友人であり、ときには利害が対立する交渉相手だ。
そんな人といちゃいちゃしたいとおもわない。
夫婦間の性交渉を続けている人はすごいなあとすなおに感心する。
うちは子どもをつくるときは「そろそろ子どもつくるか。よしっ!」ってな感じで一念発起してがんばった。情動に動かされて、みたいな感じではぜんぜんない。むしろ本能が拒むのを理性で押さえつけて事に及んだ。

だから『清潔な結婚』で描かれる、性的な関係を完全に切りはなした「兄妹のような夫婦」はぼくの理想かもしれない(それぞれ家庭の外に恋人がいる、という点には共感できないけど。めんどくさそうだもん)。

家族としての最適なパートナーと理想の恋人はまったく別、というのは心から共感する。つくづくそうだよなあ。
恋愛結婚という制度自体が人類に向いてないのかもしれない。自由恋愛の延長に結婚があるのなんて長い人類の歴史の中でもごくごく限られた時代・社会の話だもんなあ。



『余命』

短篇というよりショートショートぐらいの長さ。
とはいえ何も起こらない。医療の発達によって自然死や事故死がなくなった世界で、人々は自分で死ぬ時を選ぶようになった、という説明だけの小説。

どれも設定はおもしろいんだけどなあ。頭でっかち尻すぼみ、という印象。
話を膨らませたりディティールをつきつめたりするのが得意でないのかなあ。

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2020年3月11日水曜日

【読書感想文】売春は悪ではないのでは / 杉坂 圭介『飛田で生きる』

飛田で生きる

遊郭経営10年、現在、スカウトマンの告白

杉坂 圭介

内容(e-honより)
現在、160軒がひしめく大阪・飛田新地。そこで2軒を経営する人物が初めて当事者として内情を語る。ワケあり美女たちの素顔、涙なしに語れぬ常連客の悲哀、アットホームな小部屋の中、タレントばりの美貌の日本人美女たちはどこから来たのか、呼び込みの年配女性の素性、経営者の企業努力、街の自治会の厳格ルール、15分1万1000円のカラクリ、元遊郭の賃料と空き状況、新参経営者の参画等、人間ドラマから数字的なディテールまでを網羅する。
飛田新地を知っているだろうか。
大阪市にある遊郭だ。知らない人はこの令和の時代に遊郭なんて、とおもうかもしれないが、ほんとうに遊郭なのだ。
ぼくも一度友人に連れられて冷やかしたことがある(店には入ってないよ)。和風の建物が立ち並び、通りに面した座敷がオープンになっている。そこに着物姿のお姐さんが座り、派手な照明を浴びている。横にはおばちゃんが座っていて「にいちゃん、どうや」と客を引いている……。
もうどこをとっても遊郭、純度百パーセントの遊郭なのだ。
(ただし一応名目は料亭という扱い。料亭でお客さんと従業員が恋に落ちてコトに及んでしまう……という設定になっているそうだ。たった十五分で。もちろん警察も売春だとわかっているが目をつぶっているのが実情)

ぼくが飛田で見たお姐さんは、めちゃめちゃ綺麗だった。化粧や照明の力も大きいのだろうが、テレビタレントよりも美しかった。ぼくが生まれてから見た中でいちばんの美女だったかもしれない。こんな綺麗な人が売春を……とものすごくどきどきした。

もうまるっきりの異世界で、同じ日本とはおもえなかった。中国に行ったときに売春宿の外観を見たことがあるが(なぜか床屋が売春宿だった)、それよりももっとつくりものっぽくてとても現実とはおもえなかった。

飛田で目にした光景は、冷やかしただけなのにかなり衝撃的だった。
ちなみに友人から「ぜったいに写真を撮ったりしたらあかんで。あやしいそぶりがあると怖い人がとんでくるらしいで」と脅されていたのでそういう意味でもどきどきした。

日本にもこんな世界が残っているんだなあと夢でも見たような感覚にとらわれたものだった。


そんな異世界・飛田だが、今のぼくにとってはまったくの別世界というわけでもなくなった。
今ぼくが住んでいる場所が飛田のすぐ近くなのだ。区は違うし飛田新地は壁で覆われているので通り抜けることもないが、行こうとおもえば徒歩十五分もかからずに行けるぐらいの距離。
うちの家は再開発された地区なので新しいマンションが並んでいるのだが、なぜか飛田新地と小学校の校区が一緒なのだ。なぜ。区もちがうのに。
で、娘が小学校に入るにあたり相当悩んだ。同級生に飛田の子がいるってどうなの。低学年のときはよくても六年生になったらいろんなことがわかるでしょ。そもそも飛田に住んでるのってどういう人なの。保護者同士のまともな付き合いができるの。
差別意識丸出しだが、事実そうおもったのだからしかたない。ぼくもふだんはリベラル派を気取っているが、やはり自分の子のことになると「出自や門戸で人間の本質は決まらないから気にしない!」とは言い切れない。決まらなくても大いに影響は受けるもの。

で、(飛田だけじゃなくて他にもいろいろ理由はあったけど)他の小学校に行かせることにした。別の校区でも希望を出せば行ける制度があったので。

そう、なんだかんだいってもぼくは差別主義者なのだ。
自らの本性をつきつけられた出来事だった。



そんなわけでちょっと自己嫌悪にもなっていたので、「飛田のことを知らねば! 同じ差別をするのでも知らずに差別するより知った上で差別したほうがまだマシなんじゃないか!」と『飛田で生きる』を読んだ。

いやあ、いい本だ。骨太。
文章を書きなれていない人の本なので朴訥とした語り口なのだが、それがかえってわかりやすくていい。題材に力があるので余計な技巧はいらない。

まったく別業種から、ひょんなことから料亭(売春宿)経営をすることになった人の体験談。
経営者として十年、その後は女の子のスカウトをやっているそうで、飛田の裏側を存分に知っている。飛田のことってこれまでは口にするのもタブーみたいなところがあったので、ものすごく貴重な体験談だ。

で、わかったのは、飛田新地は意外なほどちゃんとした世界だということ。
「でも、暴力団がバックについているんでしょ?」
「そんなのまったくない。飛田を管理しているのは、飛田新地料理組合。組合の人は普通の人たちで、暴力団との関わりはいっさいない。逆に徹底的に排除してる。考えてみ、もし飛田が暴力団の資金源になっとったら、大阪府警がほっとくわけあらへん」
「でも店の奥で怖い人が待機してるって聞きますよ」
「そんなん、おらんわ。でもわざわざ『おらん』と言う必要もない。なせならそのほうが都合がいいからや。裏に怖い人がおる、と思われているほうがお客さんの行儀がええから。確かに、写真を撮ったり女の子に悪さする客を叱る親方や、街を見回りする組合の人のなかには迫力ある人おるから、そう思われても仕方ないんやけどな」
暴力団は徹底的に排除、組合が定めた営業時間はきちんと守る、組合内での女の子の引き抜きは禁止、料金も基本的に一律。とにかくきっちりしている。余計なトラブルを起こさないように厳しく管理している。
組合は地域の清掃活動などにも取り組んでいるらしい。
他の風俗街はおろか、ふつうの繁華街でもこんなに厳しくルールを守っているところはないだろう。

逆にいえば、それだけマズいことをしているということでもあるんだけど。
「売春」という非合法なことで生業を立てているがゆえに、その他の点で府警や近隣住民から苦情を寄せられないよう細心の注意を払っているんだろう。

女の子のスカウトについても、ぜったいにトラブルにならないように配慮しているらしい。
デメリットなども説明した上で、本人の同意をもらってから働いてもらう。辞めたいと言ってきた女の子がいたら無理な引き留めはしない。
万が一女の子が「無理やり働かされた」なんて警察に駆けこんだりしたら飛田新地全体が取り壊しなんてことになりかねないので、そのへんは十分配慮しているそうだ。
 開業前、私は柴田さんに紹介してもらいスカウト歴一五年という四十代の男性に会いました。女の子を他業種から引き抜く方法を教えてもらおうと思ったのです。その人から教わったのは、次のようなことです。

 ■街頭で女の子に声をかけるのは警察、暴力団に目を付けられるので避ける
 ■縄張りを荒らすと暴力団に拉致・監禁されることもあるから極力目立たないこと
 ■ねらい目は、消費者金融のATMから出てきた子
 ■ハローワークから出てきた子もいいが、最近は不況のあおりで就職活動中の学生も含まれるので注意すること

 喫茶店で話を聞いた後、その人には必ずキャバクラに連れて行かれおごらされました。授業料ということなのでしょう。初めはその親切心に感謝し喜んでキャバクラをおごっていたのですが、二回、三回と授業を重ねていくうちに、はたと気づいた。彼は私にはばれないようにこっそりスカウト活動をしていたのです。
「そうかあ、自分なかなか大変な生い立ちやなあ」
「一重がいや? 十分かわいいやん。二重にしたいの? それいくらかかるん?」
「そらその彼氏はひどいなあ。毎日パチンコ通いかあ。それあんたが出してあげてるんやろ? いくらここで働いてもお金足らんやん」
 言葉巧みに彼女たちの悩みを聞きだし、連絡先を教える。
「なんか力になれるかもしれんから、困ったときは連絡してな」
 この時点では、自分が飛田のスカウトであることはいっさい言いません。あくまで困ったときには助けてあげられるということを伝えて、向こうからの連絡を待ちます。連絡が来たら二人で会い、相手の悩みをさらに聞き込み巧みに飛田で働くよう仕向けていくのです。その後聞いたところによると、私がおごったキャバクラで彼は二人ほど女の子を飛田に送り込んだようです。
風俗のスカウトなんていうと、虚言をあやつって半ば騙して強引に……みたいなイメージがあったけど、(少なくとも著者の周辺では)ないみたい。
やはりそもそもが非合法なビジネスで成り立っているので、その他の点は極力クリーンにしようとしているのだろう。

嘘をついて連れてきて後々トラブルになるほうが長期的に損するので、だったら最初から正直に……ということらしい。

 飛田にくる子の約九割は派手好きな子であると書きましたが、ごくまれに、国家資格を取りたい、自分で店を持ちたいなどの夢を持ってくる子もいます。そういう子たちは明確な目標があるぶん意志も強く、まじめに働いて稼ぐだけ稼ぎ、辞めるときはスパッと辞めていきます。
 いちばん多いのは看護師を目指す子です。彼女たちは専門学校に通う学費と日々の生活費を稼ぎながら勉強もしなくてはなりません。いくら稼がなくてはならないといっても、ハンバーガーショップで週六日もバイトしていたら今度は勉強ができなくなります。しかも時給も安い。七〇〇~八〇〇円くらいの時給では八時間働いても一日六〇〇〇円程度ですが、飛田なら一五分で稼げる額です。
 だから彼女たちはみんなこう言います。
「一日一本で十分ですから。あとは勉強の時間にあてさせてください」
 まじめに毎日働いてくれるのはありがたい。しかし一本で終わってしまっては困ります。
「もう少し上がってくれんか。もしくは週一日でいいから、六本やってくれん?」
「わたし、あとはもういいです」
 そう言うと待機部屋で勉強するのです。実際に看護師の国家資格をとって、今も病院で働いている子がいます。
こういうのを読むと、飛田新地は今の社会に必要なものなんだろうなとおもう。

もちろんこんなケースはごく一部で、大半の女の子はブランド品やホスト通いに使うのだとしても。
でも、飛田で働くにはそれぞれワケがある。ブランド品やホスト通いが原因のこともあるけど、親がつくった借金だったり学費だったり家族の生活費だったり。
原因はどうであれ、若い女性がまっとうな仕事で何百万円も貯めることなど、まず不可能だ。
一度貧困にはまると抜けだすことはほぼ不可能だ。
そういう人にとっての貧困からの脱出手段が風俗。その中でも(比較的)危険が少なく、短期間で高額のお金を稼ぐチャンスがあるのが飛田なのだ。

売春はけしからんというのはかんたんだけど、今の日本の生活保護制度や奨学金制度では救えない女性たちを売春宿が救っているのもまた事実。
読めば読むほど「なんで売春っていけないことなんだ? 双方同意でやって、男は満足して女は助けられるんなら何も悪いことないのでは?」という気になる。
批判するやつはこの社会から貧困をなくしてから言えよなー。

といいながらも、こういう世界と自分が積極的に関わりたいかというとやっぱり「まあそれはぼくや家族とは関係のない世界でやってくれ」と彼我の間に線を引いてしまうのもまた事実で……。

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2020年3月10日火曜日

【読書感想文】成功者の没落を楽しめる本 / 荒木 博行『世界「倒産」図鑑』


世界「倒産」図鑑

波乱万丈25社でわかる失敗の理由

荒木 博行

内容(e-honより)
「倒産」は教訓と知恵の宝庫である。なぜ一時代を築いた企業は破綻に至ったのか。日米欧の25事例を徹底分析!

仕事で弁護士とつきあっている。その人は法人破産の案件を担当しているのだが、「もうどうしようもなくなってから駆けこんでくるんだよね」と語っていた。

金もなくなり、信用もなくなり、人も離れ、万策尽きてから弁護士に相談に来るのだという。
そうなると弁護士としてはどうすることもできない。破産しかないが、弁護士としてはそのサポートすらできない。なぜなら弁護士費用を一切払えないから(破産したら無一文になるから弁護士費用は前金でもらうしかない。だがその数十万円すら払えない)。

「あと半年早く相談してくれたら、負債を整理するなり、経営者個人の財産だけは守るなり、打てる手があったのに……」
というケースが多いそうだ。

傍から見ていると「もっとなんとかできる方法はいっぱいあったのに」とおもうけど、渦中にいる人間にとってはどうすることもできない。
それが倒産だ。



『世界「倒産」図鑑』は、そごうやNOVAといった比較的最近倒産した日本の企業から、ゼネラルモーターズ、コダックといった海外の老舗企業まで、25社の倒産に至った経緯とそこから導きだされる教訓をまとめた本。

25社の紹介ということで、それぞれの説明はあっさり。
倒産に至るまでには様々な要因があったのだろうが、ひとつかふたつぐらいの要点にまとめて説明している。

これがおもしろい。
正直に言おう。
下世話な楽しさだ。
うまくいって調子こいてた企業が、調子に乗りすぎたためにみるみるうちに転落してゆく。こんなおもしろいことはない。うひゃひゃひゃひゃ。この手の話、みんな大好きでしょ?

著者のまえがきには「決して興味本位でおもしろがるわけじゃなく、過去の失敗例から教訓を導きだして二の轍を踏まないように気を付けてもらうためにこの本を書いた」とあるが、そんなものは建前にすぎない。
成功者の没落が見たいんだよ、みんな。



たとえばそごう。1830年創業、戦後に次々新店舗を開業して勢力を急拡大したものの、その急成長戦略がバブル崩壊で裏目に出て2000年に民事再生法を申請した。
 そごうがここまで急激に拡大できた背景には、「地価」という要素がありました。そごうは出店予定地周辺をあらかじめ買い占め、出店で地価を上げることで資産を増やします。こうして担保力をつけて黒字化した独立法人が、新しい店舗(独立法人)の債務保証をしながら銀行から資金調達し、そしてまた新たな店舗を作っていく、というサイクルを作っていきました。
 例えば、千葉そごうが軌道に乗ると、今度は千葉そごうが出資して、柏そごうを設立。さらに柏そごうと千葉そごうが共同で札幌そごうなどに出資するという形です。地価が上がっていれば、担保によって銀行から新たな資金を調達することができ、そうして新しい店舗を広げていったのです。
 しかし、このサイクルはいくつかの重大な問題を孕んでいます。
 1つ目は、そごうの独立法人同士が支え合う複雑な形になっていたため、経営の内情がブラックボックスになること。これに水島社長のカリスマ性が合わさって、誰もグループ全体の経営状況を把握できない状況になりました。資金の貸し手である銀行も、そして当の水島社長ですら、正確な全体像を把握していなかったと言われています。各社ともに独立法人であったために、人的交流もなく、数字の基準もバラバラな状態が放置されていました。恐ろしい規模のどんぶり勘定が許されてしまっていたのです。
 そしてもう1つは言うまでもなく、地価が下がった時は全てが逆回転する、ということです。担保価値が低下して銀行が資金提供を止め、資金回収に回る時、この拡大サイクルは一気に「崩壊サイクル」へと転じます。
「地価」を担保にどんどん支店を作り、そのおかげで上がった「地価」を元にさらなる出店……というサイクルをくりかえしてきたため、地価が下がるとすべてがシナリオ通りにいかなくなる。

今の我々から見ると「そんな無茶な」と言いたくなるようなシナリオだけど、でも地価が上昇している局面ではそごうの戦略は正しかったんだよね。
バブル期までは大半の日本人が「土地の値段は上がりつづける」という認識を持っていたそうだし、たぶんそごうにはどうすることもできなかった。
仮に社長がタイムテレビで未来を見ることができて「地価の上昇が止まるだろうからここらでブレーキを踏もう」って言いだしたとしても、一度動きだしたサイクルはなかなか止められない。そごうの破綻は避けられないシナリオだったんじゃないだろうか。

もちろん「拡大サイクル」をやっていなければ破綻はなかっただろうけど、でもそうすると成功もなかっただろうしなあ。



フィルム写真で世界を席巻したもののデジタル化の波に乗り遅れて倒産したコダックについて。
 もちろん、コダックの思慮が足りなかったという側面もあるかも知れませんが、私たちは後日談をベースにこの事例を笑うことはできません。優秀な人材はたくさんいたでしょうし、彼らによるビジネスの分析も行われていたはず。デジタル化に真っ先に踏み込んだ通り、デジタル化の未来を予測し、最も脅威を感じていたのはコダックだったのかも知れません。
 しかし、それ以上に、コダックには「保守派」「守旧派」と呼ばれるステークスホルダーが多く存在していました。銀塩周りの写真品質にこだわる技術者や、現像に関わる販売店など、従来のコダックのビジネスモデルによって潤う人たちはたくさん存在したのです。このような技術的転換点において、経営者はジレンマに陥り、そして、ジレンマは「希望的観測」を生み出します。「こうなってくれた方が私たちにとって強みが活かせる」「この方が私たちに都合が良い」という願いが冷静な分析を打ち消していくのです。
いろんな倒産のケースを見ていると、たしかに倒産の近しい原因としては失敗や慢心や見通しの甘さや組織の機能不全があるのだけれど、それらがなかったらその企業たちは数十年先も業績好調だったかと言われれば首をかしげてしまう。

たとえばコダックは誰がトップに立っていたとしてもカメラのデジタル化で大打撃を受けたことはまちがいない。
富士フイルムのようにフィルムを捨てて化学工業メーカーとして生まれ変わった例もあるけど、そんなの例外中の例外で、まったく別の業種に乗りだして成功した例よりも失敗した例のほうが圧倒的に多い。

この本には
「うまくいっているときも慢心するな。今の技術や手法は必ず時代遅れになる」
「時代の先を読んで次の手を打ちつづけること」
「常に社内の風通しを良くして、でも決定はスピーディーに」
といった教訓が挙げられている。
それは正論ごもっともなんだけど、それらをすべて実践しつづけられる企業なんか世界中どこにもないでしょ。

AppleやAmazonやアルファベット(Google)だって、今はうまくいっているからその手法がもてはやされてるだけで、彼らのやっていることって強引かつ無茶なやり方だからいったん歯車が狂ったらだめになるのも速いはず。

企業たるもの、倒産するのがあたりまえなのだ。
「できるだけ長く健康に生きる方法」はあっても「不老不死になる方法」はないのと同じで、遅いか早いかの違いはあっても倒産は避けられないのが企業の運命だとおもうなあ。



いくつものケースを見ていて気付くのは、ブレイクスルーを果たすのはその業界のトップ企業ではないのだということ。

コダックがデジタルカメラを生みだせなかったように、トイザラスがオンラインでの販路を拡げられなかったように、トップ企業には業界の仕組みを変えることができない。なぜなら、業界の仕組みが変われば自社の優位性を捨てることになるから。

ネット通販よりもっと便利な販売方法ができて(それがどんなものか想像もつかないけど)「ネット通販なんてもう古いぜ!」となったとき、たぶんAmazonや楽天はそこに力を入れることができない。
今、書店が「地方から書店文化が消えていいんですか?」と消費者にとって何の利益ももたらさないわけのわからぬ理屈を並べながら消えていこうとしているように、Amazonや楽天もネット通販にしがみついて消えてゆくだろう。

車の自動運転技術を実用化するのは自動車メーカーではないはずだ(じっさいGoogleらが開発しているしね)。
オンライン時代の報道を牽引するのは新聞社やテレビ局ではない。

業界の人間には既存の仕組みを壊せないのだ。大手であればあるほど。

新聞社だって「紙の新聞をやめてオンラインに専念してはどうか」とはおもいついてたはずなんだよね。かなり早い段階で。
でも、それをするには、全国各地の販売店をつぶして、印刷所をつぶして、既存の広告枠を全部なくして、記者の数も減らさなければいけない。しがらみでがんじがらめになっている新聞社にはできない。

新聞社や書店だけでなく、銀行も自動車メーカーも電機メーカーもそうやってつぶれてゆく。
自らが生まれ変わることはできずに外からやってきた黒船に押しつぶされる。かつて自分たちがそうやって旧いビジネスを叩きつぶしてきたように。
 しかし、歴史というものは皮肉なものです。1893年に創業したシアーズは、通信販売という流通革命を起こし、アメリカ全土に品物を行き渡らせてアメリカ人の生活をより豊かなものにしてきました。それから100年経った1993年、シアーズは祖業の通信販売から撤退するのですが、その翌年の1994年、まるでシアーズの遺志を継いだかのように、アマゾンが新たな通信販売モデルを立ち上げます。そして、シアーズはやがてそのアマゾンに引導を渡されるのです。

そして。
企業だけでなく、国家も同じだとおもう。
有史以来、いろんな国が生まれては消えていった。同一の政治体制が五百年続いたことなんてほとんどない。百年続けば国家としては十分長命なほうだ。
あらゆる組織は、外圧以外では大きく変われない。そして大きな外圧を受けたらたいていはぶっ壊れる。

日本という国も、そのうち滅びる。
現在すでに「過去の成功にしがみついて時代の変化についていけない」という危険な局面に陥っているように見える。

明治維新で近代国家となった大日本帝国が太平洋戦争でこてんぱんにやられて国家システムが瓦解するまでが七十余年。
そして終戦から現在までが七十五年。
もしかすると「日本の倒産」もそろそろかもな……。


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2020年3月6日金曜日

【読書感想文】カツオとインターネットは旬が大事 / 綿矢 りさ『インストール』

インストール

綿矢 りさ

内容(e-honより)
学校生活&受験勉強からドロップアウトすることを決めた高校生、朝子。ゴミ捨て場で出会った小学生、かずよしに誘われておんぼろコンピューターでボロもうけを企てるが!?押入れの秘密のコンピューター部屋から覗いた大人の世界を通して、二人の成長を描く第三八回文藝賞受賞作。

「かつて話題になった本を今さら読んでみる」シリーズ。
綿矢りさ氏が十七歳の若さで『インストール』で文藝賞を受賞したのが2001年。
『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞し、著者のルックスも相まって文壇以外でもたいへん話題になったのが2004年。
へそまがりのぼくは「ふん。話題作なんか読むもんか」ということで文庫になってからも手を伸ばさなかったのだが、二十年近くたったしもういいだろうと(何が?)いうことで今さら読んでみた。

うーん、おもしろくない。
いやこれはぼくのせいだ。話題になったときにすぐ読まなかったぼくのせいだ。

「当時は有効に機能していたであろう小道具」が2020年の現在ではすっかり錆びついてしまっている。
「女子高生が小学生の男の子といっしょにインターネットを使って人妻のふりをして風俗チャットで小遣い稼ぎをする」
というストーリー、2001年には新しくて電脳的で不安を抱かせてくれるものだったんだとおもう。
女子高生も小学生もスマホを持っているのがあたりまえの2020年には、そんなストーリーは日常でしかない。何の新しさもない。
もちろん文学は設定の斬新さだけで成り立つものではない。が、『インストール』に関してはその設定に依存する部分がきわめて大きい。
というわけで今読んでもぜんぜんおもしろくない。当時はこんなものをめずらしがっていたんだなあとおもうだけ。かといって懐かしむにはさほど古くないし。

『潮騒』や『太陽の季節』や『限りなく透明に近いブルー 』も、発表当時はその新しい性風俗の描写が話題になったらしい。でも数十年たった今では「そこまで大騒ぎするほどのことか?」という感じだ(陰茎で障子をつきやぶる、とかは今でも異常行動だけど)。
まあ『潮騒』も『太陽の季節』も『限りなく透明に近いブルー 』も読んでないんですけど。

ってことで、文学には鮮度が短いものがある。鮮度が短いものは旬のうちに読んじゃいましょうね、という結論。


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2020年3月5日木曜日

【読書感想文】電気の伝記 / デイヴィッド・ボダニス『電気革命』

電気革命

モールス、ファラデー、チューリング

デイヴィッド・ボダニス(著)  吉田三知世(訳)

内容(e-honより)
同じ電信技術を追求しながら特許のために人生の明暗が分かれたモールスとヘンリー。聴覚障害者の恋人への愛から電話を発明したベル。宇宙は神の存在で満たされていると信じつつ力場を発見したファラデー。愛した上級生の死の喪失感をバネにコンピュータを発明したチューリング。電気と電子の研究の裏側には劇的すぎる数多の人間ドラマがあった!
だじゃれを言いたいわけではないが、電気にまつわる人々の伝記。
電気の性質に気づき、活用し、改良を加えた人たちに関する逸話が並んでいる。

褒めそやすばかりではなく、悪いところも書いているのがいい。
今もその名が知られているモールスやエジソンの金に汚い部分とか(金に汚かったからこそ成功したのかもしれない)。
 これらの発明のほとんどすべてにおいて、エジソンと彼の研究開発チームは重要な役割を果たしていたので、エジソンはご満悦だったに違いない。エジソンは、年老いてからは愚痴っぽくなったものの、機械が大好きで、社会に起こった一連の変化を総じて歓迎していた。だがじつは、彼にはまだ不満があった。当時の技術者でそのように考えていた者は極めて少数だったが、エジソンは、電気の効果の背後にある原理を科学的に解明したいと考えつづけていたのである。
 エジソンは、当時の最高の電気技師だと目されていたが、彼には導線の内部で何が起こっているかさえわからなかった。新聞記者たちに、彼の偉大な発明品が機能するほんとうのからくりを説明してくれないかと求められると、たいてい彼はただ笑ってごまかすのだった。そして、そういうことは、ご立派な大学教授の皆さんが解明すべきことであって、それがほんとうに解明されるころには、自分はとうに死んでしまっているだろうと話した。
へえ。
エジソンって電気のことを(当時としては)熟知しているのかとおもっていたが、じつは仕組み自体はよくわかっていなかったんだね。
エジソンは技師であって研究者ではなかった。だから「こうすればああなる」という事象は知っていても、「なぜそうなるのか」はよくわかっていなかった。
まあ発明するのにはそれで十分なんだろう。

ぼくだってWeb広告の仕事してるけどパソコンがどういう仕組みで動くかまったくわかってないし。だからよく「パソコンが動かないんです」とか相談されるけど、ちっとも答えられないんだよね。「再起動してみたらどうですか」ぐらいしか言えない。

とはいえ、エジソンの発明した電球や、エジソンが改良した電話はほとんど同じ原理でごくごく最近まで使われていた(今も一部では使われている)そうで、百年間も使用に耐えるものをつくるなんて、エンジニアとしてはほんとに天才だったんだなあとつくづくおもう。原理をわかっていないのに、いやわかっていないからこそすごい。

エレクトロニクスってものすごく進歩しているようで、案外ほとんど進んでいない分野もあるんだなあ。



電気はレーダーを生みだし、戦争の性質を大きく変えた。

敵機の来襲や攻撃目標の選定など、肉眼ではとらえきれないものをレーダーでとらえられるようになった。
おかげでイギリスはナチスドイツを撃退することができた。イギリスがレーダーを使えずドイツがイギリス侵攻に成功していたら世界の勢力図も大きく変わっていただろう。

この顛末にはけっこうページが割かれていて、すごくおもしろい。
でもここだけテイストがちがうんだよなあ。サイエンスノンフィクションではなく軍記物小説のようになっている。
 イギリス政府が、レーダーによる防衛システムを隠蔽するために、作り話を積極的に広めたのも功を奏した。新聞各紙に、特に夜間に正確に敵を迎撃することができるのは、ニンジンの視力改善効果によるものだという情報がわざと流され、それが掲載された(ニンジンが目にいいという話は、ここから始まったようだ)。英国空軍のメンバーたちの機転もあった。たとえば、フィリップ・ウェアリング軍曹が、敵機をフランスまで追っていた際に撃墜され、捕らえられてまもなく尋問を受けたときの機転の利いた受け答えについて、彼自身の説明を引用しよう。
「あるドイツ兵が尋ねました。『どうしておまえたちは、われわれが行くところにいつも先回りしているんだ?』と。わたしは、『われわれには強力な双眼鏡があって、それでいつも見張っているからさ』と答えました。それについてはそれ以上訊かれませんでした」
レーダーを発明したことを隠すために自国民に対しても積極的にデマを流したイギリス政府。
おかげでドイツ軍はレーダーの存在に気付くのが遅れ、戦況に大きく影響を与えた。
ドイツの諜報活動というレーダーに対してデマというレーダー遮蔽装置を使ったわけだ。

しかし結果的に成功したからよかったものの、政府が国民を騙すことを美談としてしまってよいのだろうかとちょっと気になる。「ニンジンが目にいい」程度の罪の小さい嘘だったらまだいいんだけどさ。
でも「国民を安心させるために日本は連戦連勝と虚偽の発表をした」大本営発表と本質的には変わらないわけで、楽しい話ではあるけれどいいことじゃないよね。



コンピュータの父とも呼ばれるアラン・チューリングの章より。
チューリング自身がコンピュータを完成させることはなかったが、彼の構想がコンピュータの開発につながった。
 チューリングの主張とは異なり、この機械は万能などではない」と批判する者が、この機械が実行できないような仕事の例を列挙したときには、チューリングはその批判者に、不可能と思われる仕事をいくつかの段階に分割して表現して、それぞれの段階を、チューリングと同じ明確で論理的な言葉で表現してもらえばよかった。そのうえで、チューリングがその分割された命令を機械に与えると、機械は着々と、指示通りに仕事を果たすだろう――そして、批判者が間違っていたことが明らかになる、というわけだ。今の世に生きるわたしたちは、一連の指示を実行する機械というものにあまりに慣れきっており、コンピュータにせよ携帯電話にせよ、打ち込んだ命令に従うものと思い込んでいるので、そのようなアイデア自体が受け入れられなかった時代があったということを忘れてしまいがちである。だが、チューリングが学生だったころは、生物ではなく、自らの意志で動くのではない機械に、そのような知的な仕事が成し遂げられると想像できる人間は、ほとんど存在しなかったのだ。
これ、今の我々にはわかりにくいんだよね。
パソコンやスマホに囲まれている我々は、「命じられたことを実行する機械」の存在に疑問を持つことはない。
「計算をしろと言われて計算をする機械がある」と聞かされても「そりゃそうでしょ」としかおもえない。
でもほんの数十年前までは、その考え方自体がとうてい受け入れられるものではなかったのだ。
「スイッチを入れたら灯りがつく機械」と「計算でもお絵描きでも映画上映でもできる機械」の間には遠い隔たりがあったのだ。

言われてみれば、ほんの二十五年ぐらい前でもそんな感じだったかもしれない。
当時小学生だったぼくのまわりにも機械はいくつもあったが、基本的に一機一用途だった。
文書を作るならワープロ、計算をするなら電卓、スケジュールを管理するなら電子手帳(懐かしい!)、日本語を調べるなら電子国語辞典、英語を調べるなら電子英語辞典、テレビ、ラジオ、カメラ、ゲーム機、ぜんぶ別々の機械だった。
それらすべてがひとつの機械に収まって、誰のポケットにも入っている時代がくるなんて想像もつかなかった(しかもそれが二十年たらずで実現するなんて!)。

チューリングの頭の中にはハードウェアとソフトウェアを別のものにする発想もあったようで、とんでもない天才だったんだなあ。今の時代にはそのすごさが伝わりにくいけど。



電気が変えたのは人々の生活だけではないという話。
 これによって、遠い遠い昔から変わることがないと思われていたいろいろな関係が変化しはじめた。召使たちが、ひざまずいて、冷たい水で衣類を洗濯したり、暖炉の煤を擦り取ったり、汚れた水の入ったバケツを持って階段を昇り降りしているのを目にすれば、彼らは、気の利いた会話をしたり読書をしたりする自由な時間のある人間とはまったく違う種類の人間だと思える。したがって、召使には投票を行なう「資格」などないと考えるのはごく自然なことだろう(日々の労働で疲れ切った召使たちのほうも、投票権を要求するなど身に余ると感じることだろう)。だがしかし、電気3ポンプと電気モーターで動く洗濯機が登場し、続いて電気冷蔵庫に電動ミシン、そして次々といろいろな電化製品が生まれるようになると、単純な家事労働はどんどん減っていき、それと共に召使も姿を消し、自分を他人より下だと感じる気持ちも薄らいでいった。労働者階級の成人男子に投票権を与えてもいいのではないかという機運が高まり、やがて、以前はまったく無謀な考えでしかなかった、女子の投票権というものが検討されるようになったのである。
これは著者の個人的見解だけど、機械化が人権の拡大に寄与した影響は少なからずあるだろうね。
職業に貴賤はないというけれど、やっぱり尊大にさせられる仕事や卑屈な気持ちにさせる仕事はぜったいにある。
たとえば靴磨き。今ではめったに見なくなったけど、ぼくが子どもの頃はまだ街中に座って靴磨きをやっているおじさんがいた。
あれぜったいに卑屈になるとおもうよ。他人の足元にひざまずいて手を真っ黒にして靴を磨くんだもん。「おれは人から必要とされる立派な仕事をやっている!」という気持ちにはなれないとおもう。やったことないから想像だけど。古今東西どんな社会にも「磨いてほしいのかい? こっちも忙しい身だからね。まあ条件次第だね」みたいな態度の靴磨きはいないにちがいない。
逆に政治家なんてのは「選ばれた」という意識があるし、困っている人が陳情にきたりするからどうしても自分が偉くなったと勘違いしてしまう。他人を生かすも殺すもオレ次第だぜ、みたいな気持ちになっちゃうんだろうなあ。

人権意識っていついかなる社会にでも適用できるものじゃないのだと改めて気付かされる。
未開文明で「男女平等、基本的人権、思想の自由」なんて唱えたって、科学技術がなければ「家の中で炊事洗濯をする人」「教育を受けずに働かないといけない子ども」「過酷で危険な労働に従事する人」がいないと生きていけない。そういう環境で等しく人権を、なんて意識を持ったとしても実現不可能であれば意味がない。

思想や権利って普遍の真実であるみたいについついおもってしまうけど、じつはテクノロジーに支えられてぎりぎり立っている、きわめて危ういもんなんだなあ。

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2020年2月25日火曜日

【読書感想文】ネコが働かないのにはワケがある / 池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』

自分では気づかない、ココロの盲点

池谷 裕二

内容(Amazonより)
脳が私をそうさせる。「認知バイアス」の不思議な世界を体感。たとえば買い物で、得だと思って選んだものが、よく考えればそうでなかったことはありませんか。こうした判断ミスをもたらす思考のクセはたくさんあり、「認知バイアス」と呼ばれます。古典例から最新例までクイズ形式で実感しながらあなた自身の持つ認知バイアスが分かります。
脳科学や行動経済学の本をほとんど読んだことのない人なら目からうろこの内容がてんこもりなんじゃないかな。

「かんたんにわかる心理学」みたいな本って玉石混交なんだけど(というか九割ゴミ)、池谷裕二さんの本は安定しておもしろい+根拠もしっかりしている。
『進化しすぎた脳』も『単純な脳、複雑な「私」』もわかりやすくおもしろかった。

『自分では気づかない、ココロの盲点』でも出典を明らかにしていて(また聞きではなくオリジナルの実験)、「こういう実験をしたらこんな結果が出ましたよ」と書くにとどめて「だから必ず〇〇のときは××になる!」みたいな乱暴な結論は書いていない。

さらにクイズ→解答+解説 という構成にすることで、多くのトピックをテンポよく紹介している。
よくできた本だ。講談社ブルーバックスなので中高生におすすめしたい。

とはいえ池谷さんの著書を何冊か読み、行動経済学の本も読んできた身としては毎度おなじみの話題が多くていささか退屈。『進化しすぎた脳』のほうがより深い知見が得られるとおもうな。



6種類の商品を販売したときと、24種類の商品を販売したときで売上がどう変わったかを示す実験。
 脳が同時に処理できる情報量は有限です。許容量を超えると、選ぶこと自体をやめてしまいます。
 6種類のブースのほうが、24種類のブースの7倍の売り上げがありました。
 通りかかった客が足を止める確率は、24種類のほうが上でした。おそらく商品棚が目立つからでしょう。しかし、実際に商品を買ってもらえる客の割合は、6種のブースでは30%だったのに対し、24種のブースでは3%に留まりました。
 さらに客の満足度も、品数が少ないブースのほうが、高かったのです。客のことを考えると、つい多くの選択肢を用意したくなりますが、それは偽善的な自己満足です。
「偽善的な自己満足」は言い過ぎだとおもうが、これはよくある話だ。

こないだiDeCo(個人型確定拠出年金)という金融商品の資料請求をおこなった。
iDeCoの説明が書いたパンフレットが送られてきて、ふむふむよさそうだな申し込んでみようかとおもってパンフレットの後半を見たら、商品が数十種類並んでいた。
わ、わからん……。
これが三種類ぐらいだったら「Cはないし、AとBだったらAのほうが良さそうだからAにしよう」とすぐ決められるのに。数十種類あったらはたしてどれがいちばんいいのかわからない。
で、結局パンフレットを放りだして申し込みをしないまま今に至る。
こういうときに誰かが「いちばん人気なのは××か△△ですね」と言ってくれたら「じゃあそれで!」と飛びついてしまうだろう。

こういうのってものにもよるけどね。
お昼の定食だったら五種類ぐらいでいいけど、居酒屋でおつみまみを頼もうとしたら五種類しかなかったらもう二度と来たくない。

選ぶ楽しみのある場合と、選ぶことに頭を使いたくない場合があるよね。



二つのグループに写真を見せる。片方のグループは写真を見て受けた印象を語り、もう片方は何も語らない。
しばらくして何枚かの写真を見せて「前回見た写真は?」と尋ねると、印象を語ったグループのほうが正解率が低かったという実験結果。
 言語は便利な道具ですが、完璧ではありません。たとえば、山頂から眺めた雄大な夕日の風景や、高尚な芸術作品に心を打たれたときの感動は、「言葉にならない」はずです。無理に言語化したところで、紡がれた言葉はどこかウソっぽく、もどかしい残余感があります。
 言語化とは、言葉にできそうな容易な部分に焦点を絞り、その一部を切り取って強調する歪曲化です。
 設問のケースでは、言葉で説明することによって記憶が歪められ、かえって想起しにくくなってしまいます。事件を目撃した人が、犯人の顔の特徴を警察に報告すると、あとで真犯人を見たときに正しく認識しにくくなることも知られています。
ぼくは文章を書くのが好きなので、言語化が得意だ。
映画を観終わってから「どんなストーリーだったか一分で語ってください」と言われたら、そこそこうまく要約できる自信がある。
一方、妻は言語化が得意でない。
ふたりで映画を観てから感想を語りあっても、妻からはあまり感想が出てこない。

ところが、映画のワンシーンや台詞や音楽のことをおぼえているのは圧倒的に妻のほうだ。
彼女が、目にしたもの、耳にしたものをそのままの形で記憶している。だから「あるシーンの二人の役者のやりとり」を一字一句正確に再現できたりする。
一方ぼくは観たものを自分の言葉に変換して圧縮してから脳に格納しているので、再現ができない。「たしかジャイアンとスネ夫が勝手にバギーに乗って出かけちゃって、朝になってそれを知ったドラえもんたちがあわてふためくんだよね」といった大まかな説明しかできない(『のび太の海底鬼岩城』を例にとると)。そのときドラえもんが発した台詞は圧縮時に削除されている。

どっちがいいという話ではないが、記憶の仕方は「おおざっぱにしか覚えないが、短期的に多くの情報を処理できる」と「正確に覚えられるが、記憶するのに時間がかかる」というべつのやりかたがあるのはまちがいない。
だから、何かを覚えるため要点をメモするのは考えものだ。要点メモは大まかに覚えるのには向いているけど、正確に記憶するためにはかえって足をひっぱることになるかもしれないから。



「レバーを押すと餌が出る装置」と「何もせずに餌が出る装置」があれば、ほとんどの動物は前者を好むという実験結果。
 不思議なことに、皿から餌を自由に食べられるにもかかわらず、わざわざレバーを押します。苦労せずに得られる皿の餌よりも、労働をして得る餌のほうが、価値が高いのでしょう。
 実は、これはイヌやサルはもちろん、トリやサカナに至るまで、動物界にほぼ共通して見られる現象で、「コントラフリーローディング効果」と呼ばれます。
 ヒトも例外ではありません。同様な実験を、就学前の幼児に対して行うと、ほぼ100%の確率でレバーを押します。成長とともにレバーを押す確率は減りますが、大学生でも選択率は五分五分で、完全に利益だけを追求することはありません。
(中略)
 ちなみに、これまで調べられた中で、コントラフリーローディング効果が生じない唯一の動物が飼いネコです。ネコは徹底的な現実主義で、レバー押しに精を出すことはありません。
ふははは。
さすがネコ。
賢いというか怠惰というか。

根っからの貴族体質なんだな。やはり人間はネコの従順たるしもべとして働くために生まれてきたんだな。

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2020年2月20日木曜日

【読書感想文】破壊! / 筒井 康隆『原始人』


原始人

筒井 康隆

内容(e-honより)
男は“獣欲”を満たすために棍棒を振るって女を犯し、“食欲”を満たすために男の食物を強奪して殺す…。“弱肉強食”時代の人類の始祖・原始人の欲望むき出しの日常を描いた衝撃作はじめ、「アノミー都市」「怒るな」「読者罵倒」「おれは裸だ」「筒井康隆のつくり方」など、元気の出る小説13篇を贈る。

中学生のとき筒井康隆作品を読みあさった。
きっかけは、星新一が好きだったから。星作品をすべて読んで、なにか似た小説はないかとおもって星新一氏と親交のあったSF作家である筒井康隆作品を手に取った。
正直、それほどおもしろいとおもわなかった。おもしろいものもあったが理解不能なものが多かった。星新一のような鋭いオチのショートショートを期待していたので、剛腕でなぎ倒すような筒井康隆作品は性にあわなかった。

でも読んだ。なにしろ活字に飢えていたのだ。わからないままに読んだ。いつかはわかるはずと信じて。結局ほとんど理解できなかったが。
古本屋で五十冊以上は買ったはず。短編作品はほぼすべて買ったのでこの『原始人』もきっと読んだはず。でもまったくおぼえていない。


今読んでみておもう。ああ、これは中学生のぼくには理解できなかっただろうなあ。
この短篇集を一言で表すなら、「破壊」。
常識の破壊、既存の手法の破壊、文学の約束事の破壊。

(現代人が考えるような)理性のない主人公のただひたすら欲望にもとづく行動を書いた『原始人』、倫理や法の欠如した世界が舞台の『アノミー都市』、ショートショートの約束事の破壊を試みた『怒るな』、あっさりと現実が塗りかえられてゆく『他者と饒舌』など、とにかく常識をぶっ壊そうとする意欲的・実験的な作品が多い。

これはまともな小説を数多く読んで「小説とはこういうもの」という確固たる常識が己の中にできあがってから読むことでその破壊活動を楽しむための本。
だから、まさにこれから常識を構築しようとする中学生の時期に読んでもおもしろくないわなあ。
創造より先に破壊をやっちまったわけで、そりゃ理解できんわな。

ちなみに筒井康隆作品には『日本以外全部沈没』というパロディ短篇があるが、ぼくはこれも小松左京『日本沈没』より先に読んだ。



もっとも破壊的な作品ばかりでもなく、初期のドタバタコントのような『おれは裸だ』、わりとオーソドックスなショートショート『抑止力としての十二使徒』、文壇の面白語録である『書家寸話』、自伝風の『筒井康隆のつくり方』など、バラエティに富んだ内容。

中でもインパクトが大きかったのは『読者罵倒』。
 こら。読みさらせこの脳なしの能なしの悩なしめ。手前だ。ふらふらと視線さまよわせ気軽、心安らか、自らは何ひとつ傷つかず読める小説がないかときょとつく手前のことだ。できるだけ自分の理解できる範囲内のことしか書かれていず肥大したおのれが自我にずぶずぶずぶずぶ食いこんでくることのないような小説のそのまた上澄みのみをかすめ取ろうとしている盗っ人泥棒野郎そうとも貴様のことだこの両性具有(ふたなり)め。自分と交接(さか)れる小説を読もうとしながらも自分では書くことのできない無学文盲の手前が、そもそも読む小説を選ぶことのできる生きものかどうか鏡を見てよく考えろこの糞袋。ははあ。自分のことではないと思っているな。おのれより低級な読者のことであろうと思い安心しているのだろうが、あいにくおのれのことだ。今これを読んでいる貴様のことだ。貴様以上に低級な読者がいるとでも思ったかこの低能。
こんな感じで読者に対する罵倒が延々続く。
そういう趣向だとわかっていてもやっぱり読んでいると不愉快になってくるんだからたいしたもんだよ。

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2020年2月19日水曜日

【読書感想文】思想弾圧の化石 / エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』

カルチャロミクス

文化をビッグデータで計測する

エレツ・エイデン
ジャン=バティースト・ミシェル
阪本 芳久 (訳)

内容(Amazonより)
Googleがスキャンした過去数世紀分の膨大な書籍データから、年ごとに使われている単語・フレーズの使用頻度をグラフに示す「グーグル・Nグラム・ビューワー」が誕生した。この技術の登場で、文献をビッグデータとして活用するまったく新しい人文科学が誕生した。実現に導いたふたりの科学者は本をビッグデータとして扱い、研究に活用する新しい学問を「カルチャロミクス」と名づけ、その誕生の経緯と意義を熱く語る。人文科学が「定量化」時代に突入する“文系”フロンティアの幕開けだ!
Google Ngram Viewer なるサイトがある。

過去100年以上に世界中で出版された大半の本に使われた言葉をデータ化し、その言葉がどれぐらい使われたかを年ごとにグラフ化できるサービスだ。無料。
(残念ながら2020年2月時点で日本語は非対応)

たとえばこれは、1800年以降に[America][USA][China][Japan]という言葉がどれだけ本に使われたかを示すグラフ。

19世紀、世界的に中国も日本も重要な国ではなかった。日本などほぼ話題にされていないに等しい。
ところが1900年頃から[China]と[Japan]に関する記述が増えはじめる。日清戦争(1894-1895)を経て、世界的に存在感を増してきたことが原因だろう。
その後、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)の時期には三国とも記述が増える。おそらくこの時期は大戦に参加したすべての国が多く言及されたことだろう。
その後[China]は横ばい。
戦後になって急激に[USA]が増える。[USA]は戦後に使われるようになった言葉なんだね。[USA]にとって代わられた[America]は微減。
Japanは戦後一定を保つが、1980年頃から急上昇。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。この時期はじめて[China]を超える。
が、バブル崩壊とともに[Japan]は失速。急激に世界からの関心を失い、入れ替わるように存在感を増した[China]に大きく水をあけられている(ちなみにこのグラフの右端は200
8年なので、現在はもっと大差をつけられているはず)。

こんなふうに、人名、俗語、一般名詞など、いろんな言葉の隆盛が手に取るようにわかる。
ううむ、おもしろい。
早く日本語版をリリースしてくれー。



『カルチャロミクス』は、このNgram Viewerを開発したふたりの研究者による、開発の顛末とそこから導き出される知見についての本。

Ngram Viewerを生みだすまでには並々ならぬ苦労があったようだ。
まずこれまでに出版されたありとあらゆる本を電子データ化すること。これはGoogleが既にやっていたプロジェクトらしいが、何人ものスタッフが1ページずつ本をめくってスキャンしていったそうで、とんでもない労力だ。
金になるかわからないけど莫大な労力のかかるプロジェクトに金を出すなんて、さすがはGoogleだよなあ。でも金になるんだろうなあ。
国家がやらなきゃいけないことを私企業がやってるんだもんなあ。[Google]の影響力が[Japan]を上回るのも時間の問題かもしれない。

ちなみにGoogle Ngram Viewerにおける[Toyota][Sony][Google]の1950-2008年のグラフがこちら。

Googleの躍進ぶりがいかにすごいかがよくわかる(何度も言うけどグラフの右端は2008年だから今はもっと差があるからね!)。


Google Ngram Viewerが日本語に非対応なのは、スキャンデータを電子化するのが難しいからだろうね。アルファベットは形がシンプルだし種類も少ないから文字を自動判別するのが楽だろうけど、漢字は難しいんだろうな。
画数が多い字なんかはスキャンの仕方やフォントによって別の字とまちがえられてしまうだろうから(柿(かき)と杮(こけら)なんか見分けるのはほぼ不可能だろう)。



技術的な問題だけでなく、法的な問題も立ちはだかったらしい。
本には著作権があるから、万が一スキャンデータが流出したりしたらとんでもないことになる。一億冊以上の本のデータが流出したら、数百万件の訴訟を起こされるリスクがある。
そのため、新しい本の情報は扱いにくい、単語単位での分析はできるが文章単位での分析はできないなどいろんな制約がかかったらしい。

たいへんだあ。
いくらGoogleとはいえ数百万件の訴訟を起こされたらひとたまりもないだろう。
そりゃ扱いも慎重にもなるわな。

そんな幾多の試練を乗り越え、完成した Ngram Viewer。
著者たちは、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものようにNgram Viewerでいろんなことを調べている。


たとえば不規則動詞について。
ふつうの動詞は[-ed]をつければ過去形、過去分詞形になるが、たとえば[go]は[go-goed-goed]ではなく[go-went-gone]という不規則な変化をする。

英語を勉強した人なら、きっと誰しもが「なんで不規則動詞があるんだよ」とおもったことだろう。ぼくもおもった。
すべてが規則動詞なら英語の勉強もぐっと楽になったのに。

ところが、不規則動詞が今も残っているのにはちゃあんとわけがあるのだ。
drive(その過去形がdrove)は英語の不規則動詞の一つである。不規則動詞には意外なところがある。不規則動詞も他の品詞に属す大半の単語と同じようにジップの法則に従うのなら、不規則動詞の大半はめったに使用されないと考えていいだろう。ところが実際には、ほぼすべての不規則動詞がきわめて頻繁に使用されている。不規則動詞は動詞全体の三パーセントを占めるにすぎないが、使用頻度の上位一〇位までに入る動詞は、すべて不規則動詞なのだ20。簡単に言えば、不規則動詞はジップの法則の印象的な例外なのである。不規則動詞こそ、われわれが追い求めていたものにほかならなかった。ティラノサウルス・レックスの骨格のありかが、うまいぐあいに統計的データという目印によって示されたのと同じように、調査すべき対象が見つかった。
元々動詞の活用の仕方はばらばらだったらしい。
だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができ、次第に動詞の活用は置き換わっていった。
まっさきに置き換わったのは、めったに使われない動詞だ。
めったに使われないので「これの過去形ってどうだったっけ? まあ[-ed]つけときゃいっか!」みたいな感じで、あっさり置き換わってしまうのだ。

その結果、現在生き残っている不規則動詞はよく使われるものばかり。
[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、使用頻度の高い動詞ほど規則的な活用をしにくいのだ。
使用頻度が高いから、イレギュラーな活用をしても忘れられないからだ。

筆者たちは過去のデータを元に、今後も不規則動詞はどんどん減っていくと予想する。既にいくつかの不規則動詞が消滅(規則動詞化)に瀕しているらしい。
未来の中高生はちょっとだけ英語学習が楽になるね。



思想弾圧があると、ある種の単語の使用頻度が急激に減る。
 検閲や抑圧・弾圧といった行為は、どの地で行なわれているかにかかわらず、特徴的な痕跡を残す場合が多い。特定の語や言葉が突然メディアに登場しなくなるのだ。このような語彙の欠落は、出現頻度の統計的データに顕著に現われる場合が多いので、何が抑圧の対象になっているのかを解明する一助として、ビッグデータの「数の力」を利用することができる。
 この手法の仕組みを理解するために、ナチス・ドイツの時代に戻ってみよう。ここでの目標は、一九三三年から一九四五年までの第三帝国の時代に、知名度(名声)がシャガールと同じように下がった人物を探すことである。知名度の下落の大きさは、ある人物の第三帝国時代の知名度と第三帝国成立前および消滅後の知名度を比較すれば、数値として表わせる。たとえば、ある人物の名の本の中での言及頻度が一九二〇年代と一九五〇年代は一〇〇〇万語当たり一回だったのに、ナチス政権下では一億語当たり一回だったとすれば、知名度は一〇分の一に下がったことになる(下落の大きさは一〇という数値で表わせる)。これは、その人物の名前が検閲の対象となって削除されたか、当人が何らかの形で抑圧されていたことを示唆している。逆に、一〇〇〇万語当たり一回だった言及頻度がナチス政権下では一〇倍の一〇〇万語当たり一回に上昇していれば、その人物は政府による宣伝の恩恵を受けていた可能性がある。このように、ナチス政権下での知名度とその前後の時代での知名度を比較すれば、さまざまな人物の名を取り上げて、それぞれに知名度の下落の大きさ、ないしは上昇の大きさを表わす「抑圧スコア」を割り当てることができる。こうしておけば、次はこの抑圧スコアが、社会的に抑圧されていた人物を割り出すのに一役買ってくれる。
一部の芸術家、思想家、ユダヤ人学者などはナチス政権下で弾圧されたため、その期間のドイツ語の本に登場する頻度ががくっと下がる。

「急に注目されるようになった人物・事象」は話題にのぼることが多いので目に付くが、「話題にならなくなった人物・事象」には気づきにくい。
死語といえば? と尋ねたら「ナウなヤング」といった答えが返ってくるだろうが、そういう言葉は意識されているのでほんとには死んでいない。ほんとの死語は死語として意識されることすらないのだ。

だが Ngram Viewerを見れば、特定の国・時代だけで不自然に使われなくなった言葉がわかる。それはつまり「抑圧された思想」なのだ。
弾圧が化石として残る。これは後世のためにもぜひ残しておかなければならないプロジェクトだ。国家を挙げてでも。
でも、権力者からすると弾圧の痕跡が残ってしまうのは避けたいだろうから無理かもしれない……。



Ngram Viewerで得られた考察を見ても「ふーん。おもしろいねー」とおもうだけで特に何の役に立つわけでもない。だが研究とはそういうものだ。それでいい。

著者たちが楽しんでいることだけは存分に伝わってくる。
Ngram Viewerみたいなおもちゃ、言語マニアにはたまらないだろうなあ。

国語辞典が好きな人なら一日中 Ngram Viewer で楽しめるはず。

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2020年2月17日月曜日

【読書感想文】雑誌で読むならいいかもしれないけど / 渋谷 直角『ゴリラはいつもオーバーオール』

ゴリラはいつもオーバーオール

渋谷 直角

内容(Amazonより)
レジ横でターンテーブルをまわすコンビニ店員の異様な情熱、スティーヴィー・ワンダーのものまねをしながら文化祭のステージ上で火を噴いた友人の狂気―。何気ない日常に潜む、バカバカしくも愛おしい、イビツな人々のエピソードが満載!先入観や思い込みを捨て、何かに「気づくこと」の楽しさと大切さを再認識させてくれる珠玉のエッセイ集。

渋谷直角氏の漫画『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』もおもしろかったので(タイトルなげえな)エッセイも読んでみたのだが、読んだ後に残るものがなかった。

『ボサノヴァカバー』も『民生ボーイ』も底意地の悪い視点が随所にあふれかえっていたのだが、『ゴリラはいつもオーバーオール』はずいぶんライトでポップなエッセイで、「こんな変わったやつがいましたー!」「こんなおもしろ出来事があったんですよー!」ってな感じで、決してつまらないわけではないのだが突き刺さってくるものがなかった。

雑誌のコラムの寄せ集めらしいのだが、そのまま本にしたらこうなってしまうのもしょうがないのかな。
雑誌のコラムは主役じゃないから、アクが強すぎてはいけない。極端な主張や身勝手な思いこみはじゃまになる。
この本に収録されたエッセイはどれも収まりがいい。暴言も妄言もない。主張も弱い。「ぼくはこうおもうんですけど、ぼくだけですかね、アハハ……」みたいな感じで、雑談のトピックとしては合格だけど一冊の本にまとめられると退屈だ。
雑誌コラムの宿命かもしれない。


駆け出しライターだった頃の顛末も、せっかくのいい題材なのにただ事実を並べて書いてるだけだ。各方面に気を遣って書いた結果こんな毒にも薬にもならないお話になっちゃったのかな。

もっと人を小ばかにしたものを期待していたのになー。



おもうに、フィクションを書く才能ととエッセイを書く才能はまったくべつのものだ。

ほんとにごくごくまれにどちらもおもしろいものを書く人もいるが(今おもいつくのは遠藤周作と北杜夫ぐらい)、たいていの書き手はそのどちらかの才能しかない(両方ない人もいる)。

小説家がエッセイを書いても日記みたいな内容だったり、エッセイのおもしろい作家の小説を読んだらだらだら文章が並んでいるだけでヤマ場も落ちもなかったりする。

漫画家とか学者とか翻訳家とか歌人とか、小説家じゃない人の書くエッセイのほうがおもしろいことが多い(まあこれは「エッセイを書く小説家」と「とびきりおもしろいエッセイを書く他の職業の人」を比べてるから当然なんだけど。他の職業でエッセイがつまらない人にエッセイの仕事はまず来ないだろうから)。

フィクションとエッセイはまったく別の筋肉を要する作業なんだろう。
小説家だからといって安易にエッセイ執筆を依頼するのは、「マラソン速いんだから短距離走も速いでしょ」というぐらい乱暴なことなのだ。


で、渋谷直角さんはフィクション畑の人なのだとおもう。
自分でも雑誌ライター時代に「インタビューをとってそのまま書いてもつまらないから全部妄想で書いた」なんて話をしてるから、きっとそっちのほうが向いているんでしょうね。

ということで、今後は毒っ気の強いフィクション漫画を描いていってもらいたいものです。以上。

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2020年2月14日金曜日

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』

OUT

桐野 夏生

内容(e-honより)
深夜の弁当工場で働く主婦たちは、それぞれの胸の内に得体の知れない不安と失望を抱えていた。「こんな暮らしから脱け出したい」そう心中で叫ぶ彼女たちの生活を外へと導いたのは、思いもよらぬ事件だった。なぜ彼女たちは、パート仲間が殺した夫の死体をバラバラにして捨てたのか?犯罪小説の到達点。’98年日本推理作家協会賞受賞。
いやーよかった。
すごくイヤな小説だった。イヤなところがよかった。イヤな気持ちになる小説、好きなんだよなあ。

ある女性が、夫婦喧嘩の末に夫を殺害してしまう。死体の始末に困った犯人は、パート仲間である中年女性の雅子に相談をもちかける。
雅子は「なんとかするよ」と答えて、別のパート仲間とともに死体を自宅風呂場で解体し、遺棄する。
警察は別の男を逮捕。雅子たちの死体遺棄は見事に成功したかに見えたが、事件の裏側を知った貸金業者や誤認逮捕されたカジノ経営者が雅子に近づき……。

と、かなりぶっとんだ設定。
これ以上はネタバレになるので説明しないが、ここからさらにすごい展開になってゆく。

すごいのは、死体遺棄の首謀者である雅子が、夫を殺した女性と何の利害関係もないこと。
ただのパート仲間で、すごく仲の良い間柄でもない。
「金をくれたら死体を処分してあげる」といった取引をしたわけでもなく、脅したり脅されたりしたわけでもない。
「車で来てるから送っていってあげるよ。ついでだし」ぐらいの感覚で「夫の死体処分してあげるよ」とやっているのだ。

傍から見ているとまったく理解できない。
だからこそ逆にばれないのだろう。そこに奇妙なリアリティがある。

もしもじっさいにこんな事件があったら、やっぱり捜査は難航するだろうな。
まさか何の利害関係もない赤の他人が無料で死体処理を手伝うとは誰もおもわないもん。

完全犯罪でいちばんむずかしいのは死体の処理だと聞く。
でかい、おもい、目につく、腐る、臭う、ばらしにくい、怖い。そういうものを人知れず処分するのは相当むずかしいだろう。

赤の他人が死体を処理してくれるのなら完全犯罪も意外とかんたんなのかもしれない。
大人がひとりいなくなったって死体が出てこなければ警察もまともに捜査しないだろうし。

本格ミステリって「どうやって殺すか」「どうやって殺した場所から立ち去るか」「いかにして証拠を残さないか」などに重点が置かれるけど、現実には「いかに死体を消すか」がもっとも大事かもしれない。そこを成功すれば九割方成功したようなものかもしれない。
完全犯罪を試みるときのためにおぼえておこう。



赤の他人の死体を風呂場で切り刻んでばらばらにしてゴミ捨て場に捨てるというめちゃくちゃ残酷なことをやっているのにもかかわらず、そのへんの描写はどこかユーモラスで、その後主人公たちが警察の捜査からまんまと逃れるあたりは痛快ですらある。

死体遺棄犯側に肩入れしてしまうのは、それをやっているのが「冴えない中年女性たち」だからだろう。
社内のいじめが理由で会社をやめて夫や息子との交流もなくなった女、憎い姑の介護と身勝手な娘に苦しめられながらも家から逃げられない女、物欲に歯止めが利かず借金を抱えて男にも逃げられる女。
若くもなく、美しい容姿もなく、技能があるわけでもなく、誇れる家族がいるわけでもない。
男中心の社会から見れば「とるにたらないおばさんたち」だ。

だからこそ彼女たちの大胆な犯罪は常識の盲点をつき、警察たちは彼女たちを疑うことすらできない。
『OUT』に出てくる刑事は女性たちにセクハラを平気でおこなうデリカシーのない男として描かれているが、彼こそが「男社会における中年女性への扱い」を体現している。
彼にとって女は「家庭を守るもの」か「性欲を満たすもの」であって、まさかバラバラ事件のような大胆なことをしでかす存在ではないのだ。だから犯人を捕まえられない。

この刑事は、『OUT』に出てくるほぼ唯一の「まっとうな仕事をしている男」だ。
他の登場人物といえば、街金業者の元暴走族、殺人の前科のあるカジノ経営者、ブラジルからの出稼ぎ労働者などで、彼らは社会の周縁にいる“OUT”な人間だ。なにしろ社会は、正社員の男性を中心にまわっている(ことになっている)のだから。

だが彼らは“OUT”だからこそ、死体遺棄の首謀者である雅子の本質に気づくことができる。
決して男のいいなりにならない女、直接の利害がなくても死体をばらばらにできる女の本質に。
そして三人ともが雅子の本質に惹かれ、三者三様の形で雅子に近づくことになる。

これは追いやられた女たちから男へ、“OUT”の男たちから“IN”の男たちへの逆襲の物語なのだ。



死体遺棄、警察との攻防、その後の“ビジネス”、姿の見えない敵から追い詰められる犯人たちとどのパートもおもしろく読んだのだが、ラストの展開だけは好きになれなかった。

〇〇と雅子の魂の触れあいはさすがに異常すぎて理解不能で……。

でもまあ、それでいいのかもしれない。
結局ぼくは“IN”の人間だしな。だから『OUT』をフィクションとして楽しめるんだし。
これが心底理解できるようになったらぼくももう“IN”ではいられないだろうから……。


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