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2020年1月17日金曜日

【読書感想文】時代劇はいろいろめんどくさい / 大森 洋平『考証要集 秘伝! NHK時代考証資料』

考証要集 秘伝! NHK時代考証資料

大森 洋平

内容(e-honより)
織田信長がいくら南蛮かぶれでも、望遠鏡を使わせたらドラマは台無し。「花街」を「はなまち」と読ませたり、江戸っ子に鍋料理を食わせようものなら、番組の信用は大失墜。斯様に時代考証は難しい。テレビ制作現場のエピソードをひきながら、史実の勘違い、思い込み、単なる誤解を一刀両断。目からウロコの歴史ネタが満載です。
NHKでドラマの時代考証を担当している著者による、時代考証資料集。
読み物ではなく製作者向けの手引きなので少々読みづらい(五十音順じゃなくてテーマ順にしてほしい!)が、素人が読んでも十分おもしろい。

時代も、戦国・江戸だけでなく、平安から昭和まで幅広い知識が紹介されている。
立ち上げる 【たちあげる】 これはパソコン用語で九〇年代前半から次第に使われ始め、九五年の「ウィンドウズ95」発売によって一気に広まった言葉で、それ以前には一切ない。台詞・ナレーションともに、「設立する」「生み出す」「編成する」「創立」「設置」等と正しく改める。
へえ。立ち上げるってそんなに新しい言葉なのか。
今じゃ「新規事業の立ち上げ」とかあたりまえのように使うけどね(逆にPC用語としてはほとんど使わなくなった。起動に時間がかからなくなったからかな)。

考えたことなかったけど、よく見たら「立ち上げる」って変な言葉だよね。自動詞+他動詞だもんね。
複合動詞って「立ち上がる(自動詞+自動詞)」とか「持ち上げる(他動詞+他動詞)」という形をとるもんね。「立たせ上げる」のほうが日本語として自然なんじゃないかな。



時代劇というと「言葉遣いに気をつけなくちゃいけないんだろうなー」と素人でも想像がつくが、言葉以外にも留意すべき点はいろいろあるようだ。
オーストラリア 【おーすとらりあ】 オーストラリアの発見は一七世紀初めであるから、戦国時代劇の「南蛮地球儀」に同地が描かれていたら間違いである。ドラマのシーンで織田信長に地球儀を回させたい時は、オーストラリアが映る前にカメラを切り替える必要がある。織田武雄『地図の歴史─日本篇』(講談社現代新書、九一頁)によると、司馬江漢の『地球全図』(寛政四年:一七九二年)にはオーストラリアが出ているが、これが日本での最初の例である。小道具にはアンティークな地球儀がいくらもあるだろうが、使う前に必ずオーストラリアの有無をチェックすることが戦国時代劇の鉄則。
こんなのとか。
へえ。オーストラリアが発見されたのって、地球が丸いと明らかになったよりも遅かったのか。
こんなの言われなかったら思いもよらないよなー。

冲方丁『天地明察』に渋川春海が地球儀を水戸光圀に贈るというシーンが描かれていたけど、あれにもオーストラリアはなかったんだな。

小説なら「地球儀を見せた」で済むことも、時代劇なら現物を用意しないといけない。オーストラリアが描かれていないものを。
あやふやなことがあっても、小説のように「書かずにごまかすというわけには」いかない。

時代劇を作るのってたいへんだなあ。



軍議・本陣 【ぐんぎ・ほんじん】 最近の戦国時代劇では、幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーンが多いが、これは慣習に過ぎず、多分スタジオのセットの組み方等、収録上の制限から来たものだろう。関ヶ原古戦場の東西両軍の本陣跡に登ればすぐわかるが、実際には戦況を見ながら指揮をとる(ナポレオンの時代でも同様)。往年の大河『天と地と』の川中島合戦では、両軍ともちゃんと戦場に向かって視界の開けた本陣で指揮していた。「地図を見ながら大兵力の配置を考えつつ指揮する」というのは近代ヨーロッパの戦争方式で、電信機がない戦国時代にそんなことをしても無意味である。
「幕で四方を閉ざした本陣の中に諸将が座り、地図の上に駒をおいて作戦指揮をしているシーン」
たしかに観たことある気がするわ、これ。
言われてみれば意味ないよね。戦闘がはじまってから現場を見ずにあれこれ策を練っても。
大将は絶対に戦況が一目で把握できる場所(山の上とか)にいなきゃいけないよね。電話もモールス信号もないんだから。

しかし戦場がよく見える場所ということは、裏を返せば戦場にいる兵士たちからも容易に見つかる場所だ(しかも肉眼で見ているわけだからそう遠くないはず)。
飛び道具の発達した近代戦だったら「超危険な場所」だから、まずそんなところに本陣を置かない。
現代の感覚だとまちがえちゃうよね。

おつかれさま 【おつかれさま】 これは日本の一般的伝統的なねぎらいの言葉ではない。時代劇なら「ご苦労様でございます」「お役目ご苦労に存じまする」、旧日本陸軍なら「ご苦労様であります!」等が適切である。大河『篤姫』で「ごくろうさまでございます」という台詞がでた時、視聴者から「『おつかれさま』でないと失礼だろう」という批判があったが、そういうことはない。 一例をあげると、劇評家でエッセイストの矢野誠一著『舞台人走馬燈』(早川書房、二四頁)に、俳優の長谷川一夫が隣に住んでいた少年時代(一九四六年)の思い出として「私は隣家でもって交わされる、『おつかれさま』という挨拶語を生まれて初めて耳にした。いまでこそ立派に市民権を得ている『おつかれさま』だが、その時分はもっぱら藝界や水商売の世界で用いられていて、少なくとも山の手の生活圏には無かった言葉だ」とある。
「目上の人に“ご苦労さま”は失礼。“おつかれさま”と言いましょう」
と何度となく聞いたことがあるけど、“おつかれさま”は水商売の言葉だったんだね。

言葉は変わるものだから「だから“おつかれさま”は失礼!」とは言わないけど、「“おつかれさま”じゃないと失礼」も同様に間違いだよなー。



この本の端々に、時代劇を観た視聴者から「この時代に〇〇はおかしいだろ!」という電話がかかってくることが書かれている。

まあ誤りに対する指摘なら「ありがとうございます」といって拝聴すればいいけど、まちがった認識で電話をかけてくる人がたくさんいるらしい。

「江戸時代に〇〇はなかったはずだ!」
「いやあるんですよ。文献に出てきます」
なんてことが多々あるようだ。

自分の思いこみだけで他人の仕事にケチをつける人って……なんていうか……頭おかしい自己肯定感が高いんだなあ。

テレビで時代劇が減った理由のひとつに「めんどくさい人の相手がたいへんだから」ってのもあるかもしれないね。


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2020年1月14日火曜日

【読書感想文】差別意識が生まれる生物学的メカニズム / ロブ・ダン『わたしたちの体は寄生虫を欲している』

わたしたちの体は寄生虫を欲している

ロブ・ダン(著)  野中 香方子(訳)

内容(e-honより)
「キレイになりすぎた人体」に、今すぐ野生を取り戻せ!腸に寄生虫を戻す。街に猛獣を放つ。大都市のビルの壁を農場にする。―無謀な夢想家たちの、愛すべき実験の数々。
人類の歴史をざっとなぞる第一章は正直退屈だったが(ついこないだ読んだビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』と内容が重複していたので)、第二章で寄生虫の話が出てきてからぐっとおもしろくなった。

医学の歴史は、基本的に体内から異物を排除することの歴史だった。
病気をもたらす細菌や寄生虫や微生物を排除するために、手を洗い、風呂に入り、殺菌し、抗生物質を飲む。
現在我々は人類史上最も清潔な暮らしをしている。

では病気とは無縁になったのか。答えはノー。
一部の病気はほぼ撲滅することに成功したが、まだまだ病気はなくならない。それどころかクローン病、糖尿病、花粉症といった病気の患者はどんどん増えている。
 こんなありふれた病気がまだあまり理解されていないというのは、奇妙に思えるかもしれないが、実を言えば、人間を苦しめる病気のほとんどは、原因がいまだによくわかっていないのだ。人間がよく罹る病気の四○○余りが命名されているが、名前のついていない病気が、まだ数百は残っているはずだ。名前のある病気にしても、ポリオ、天然痘、マラリアなど一○余りの病気は比較的、理解が進んでいるが、その他の大多数は、謎の部分が多い。症状を抑える方法や、厄介な病原体(原因が病原体だとしたら)を殺す方法がわかっていたとしても、その病気に侵された体の中で何が起きているのかは、よくわかっていないのだ。
素人からすると、現代の医学ではほとんどの病気は原因も対処法もわかっていて対処できないのは一部の難病だけかとおもっていたが、実際は逆なのだ。
圧倒的に多くの病気は原因不明で、一部の病気以外は「なんかわからんけど〇〇をすればよくなることが多いとわかっている」「手の打ちようがないけど生命にかかわるほどではなく、ほっておけば身体が勝手に直してくれる」だけ。

コンピュータシステムで
「でたらめにあちこちさわってみたら一応正常に動くようになったけど、どこがあかんかったのか、何をしたのがよかったのか、ようわからんわ」
なんてことがあるけど、人体で起こっているのはまさに同じ。
ジェンガの後半みたいに、絶妙なバランスで立っていてどこを動かしたら倒れるのかはわからない、それが人体なのだ。

にもかかわらず我々は、薬を飲み、注射をされ、手術をされている。

数百年前の医者は手当たり次第に変な薬品や草を飲ませていたけど、今の医学もやっていることは基本的に変わらない。
ただ臨床実験を厳密にやるようになっただけで「なんかわからんけどこれをやったら病状が良くなることが多いみたい」という理由で変な薬品とか草とかを飲ませていることに変わりはない。



ここ数百年にわたって医学がやってきた「体内から異物を排除する」も、それが正しいことだったのか誰にもわからない。

プログラムコードの中の不要に見える1行を消したら動作が速くなったように見えても、実はそのコードは十年に一度だけ機能する大切なコードだったかもしれない。
 ワインストックの成功は他の人々を激し、ほどなくして多くの研究者が、自己免疫やアレルギー性の病気は、寄生虫の欠如が原因だと考えるようになった。うつ状態や一部のガンまで、寄生虫の欠如とのつながりが疑われ、漠然とした見通しの上に、さらなる実験が行われた。これらの追跡調査は、次第に過激で意義深いものになっていったが、いずれもワインストックの仮説の正しさを証明した。寄生虫を導入すると、炎症性腸疾患の患者たちは快方に向かった。糖尿病のマウスは血糖値が正常値に戻った。心臓疾患の進行は遅くなり、多発性硬化症の症状さえ改善した。
ここ数十年で我々は体内から寄生虫を追いだしたが、人類の歴史を考えれば寄生虫と共存してきた時代のほうがはるかに長かった。
ヒトは寄生虫がいることを前提とした体内環境を作り、寄生虫もまたヒトが健康に生きていける環境を整えることに協力した(なぜなら宿主が死ねばいちばん困るのは寄生虫なのだから)。
たまーにごく一部の寄生虫が悪さをすることはあっても、全体としてはうまくいっていた。

が、寄生虫は駆逐された。
結果、寄生虫が攻撃していた外敵は居座るようになり、寄生虫が消化を助けていた食べ物は栄養を吸収されぬまま体外に排出され、免疫細胞は寄生虫の代わりに自らの臓器を攻撃するようになった……。

これがこの本で唱えられている説だ。
あくまで一説だが(なにしろさっきも書いたように人体はわからないことだらけなのだ)、ありそうな話だ。
自然界には相利共生関係(互いにとってメリットのある共生関係)が多数見られるので、ヒトだけが例外であるとおもうほうが不自然だ。

ヒトの内臓のひとつである虫垂も、昔は不要な器官と考えられていた(ぼくも子どもの頃そう教わった)が、今では有用なものだとわかっているらしい。
細菌を蓄えて、必要に応じて体内の最近の活動を制御するはたらきをするのだそうだ。
細菌もまた、ごく一部が悪さをするだけで大半は人体にとって有用または善でも悪でもない存在なのだ。


『奇跡のリンゴ』なる本に、木村秋則さんという人が無農薬でリンゴを作ることに成功したことが書かれている。
無農薬でリンゴを育てる秘訣は、なるべく余計なことをせずに自然に任せることだそうだ(すごくかんたんに言うとね)。
基本的にリンゴは、虫や細菌と共存しながらバランスをとって勝手に成長してくれる。それを支えてやるだけでいい。これが木村秋則さんが何十年もかかって導きだした答えだ。

人間もリンゴと同じで、手を入れすぎるとかえって調子が悪くなるのかもしれない。

はたして寄生虫を追いだしたことは健康にとっていいことだったのか。
その答えを知るためには寄生虫を体内に戻してみるしかないけど、いまさら後戻りはむずかしいだろう。ぼくも、いくら健康になるとしてもできることなら寄生虫を腸内で飼いたくない。



タイトルは『わたしたちの体は寄生虫を欲している』だが、寄生虫の話がすべてではない。
本の後半では、今もヒトの肉体が、捕食者の存在におびえ毒や伝染病を避けるよう設計されている例をいくつも挙げている。

「ここ数百年、あるいは数十年で我々の暮らしは劇的に変わったが、肉体や脳はまだ旧時代のやりかたをひきずっている。そのギャップのせいでいろんな不具合が生じている」
が全体を通しての論旨だ。

たとえば、病気が蔓延している地域の人ほど、個人主義的であり、閉鎖的な傾向があるという(因果関係は証明されていないのであくまで傾向)。
知らず知らずのうちに他人との接触を避けて病気を回避しようとしているのだ。
 病気の兆候を誤解することで生じるさらに危険で深刻な問題は、その誤解ゆえに、わたしたちは無意識のうちに、何らかの社会集団を避けようとする可能性があるということだ。シャラーは、高齢であることや、伝染性でない病気(たとえば病的な肥満など)、身体障害なども嫌悪感の原因になりうると主張し、いくらかは証明している。そうだとすれば、その嫌悪は誤解によるもので、わたしたちの潜在意識が、高齢や肥満、身体障害を、感染症と間違えたのだ。人は、病気の脅威を認識すると、高齢者を差別する行動をとりがちになることをシャラーは示してきた。肥満に対しても同じような行動をとり、病気になることを心配している人の場合、嫌悪はさらに強くなる。
 こうした反応が実際に広く起きているとしたら、社会における高齢者や障害者、慢性疾患患者に対する扱いに大きな影響を及ぼしているはずで、そうした人々は社会の周辺的な地位に追いやられることになるだろう。行動免疫システムの機能は、完璧と呼べるものとは程遠い。人間が自分たちのために作った世界において、部分的にしか機能していない。何が正しく何が間違っているかをわたしたちが判断できないうちに、そのシステムは、無意識の行動と免疫反応を引き起こしてしまうのだ。
ふうむ。
あまり大きな声では言えないけど、ぼくは年寄りが嫌いだ。個人個人でいえば例外もあるけど、総じていえば嫌いだ。身内以外の年寄りとは関わりたくない。

たとえば電車で隣の席に年寄りや顔色の悪い人が乗ってきたとき、ぼくは不快感をおぼえる。内心でおもってるだけのつもりだけど、もしかすると顔にも出てしまっているかも。
無意識のうちに「病気を保有している可能性の高いもの」を忌避しているのかもしれない。

外国人を嫌う人は世界中にいるが、これも同じ理由なのかもしれない。
違う民族の人は「コミュニティの外の人」なわけで、新たな病原菌を持ちこむ可能性が高い。
だから接触を避け、排除することで健康を守ろうとする。

もしかすると世の中にある差別の多くは「病気になる確率を下げたい」という無意識の免疫反応から生まれているのかもしれない。
屠畜業者を避けるのも、動物の死体に触れる人は病気を持っている可能性が高いからだろうし。

だからといって差別を肯定するつもりはない。我々は生理的な欲求に打ち勝つことで文明社会を築いてきたのだから。
でも、免疫学を知ることで差別意識が生じるメカニズムを理解する一助にはなるかもしれない。

「生理的にムリ」の根っこにあるのは「健康でいたい」という自然な欲求なのかも。

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ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】

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2020年1月9日木曜日

【読書感想文】河童の魔導士のソムリエ / 岸本 佐知子『ひみつのしつもん』

ひみつのしつもん

岸本 佐知子

内容(e-honより)
奇想天外、抱腹絶倒のキシモトワールド、みたび開幕!ちくま好評連載エッセイ、いよいよ快調な第三弾!

何度も書いてるけど、ぼくがいちばん好きなエッセイストが岸本佐知子さん(本業は翻訳家だけど)。
とはいえはたしてこれはエッセイなのか……?
元々嘘成分のほうが多いエッセイを書く人だったけど、最近その傾向がよりいっそう強くなり、この本に収録されている話など妄想のほうが多いぐらい。どこまでが真実でどこまでが嘘かわからないのが魅力なんだけど、とはいえさすがに嘘がすぎないか。
もう短篇集といったほうがいいかもしれない。

ぼくが特に気に入ったのは、

粗末な部屋にあこがれるあまりマーラーの作曲小屋をのっとる『大地の歌』

劇場で目にしたボブとサムがいつのまにか脳内に居すわってしまう『カブキ』

物干し竿が壊れて中からドロドロの液体が流れるのを目にしたとたんに自我の分裂がはじまる『洗濯日和』

……そうだね、意味わかんないね。
でも説明しようがないんだよね。岸本さんの摩訶不思議なエッセイって。
読んでくれというしかない。

すごいなあ。こんなキレのある文章書きたいなあ。思いつくままに書きなぐってるようで綿密に構築してるんだろうなあ。
本業の翻訳をしながら、ようやるわ。


 数人でレストランに行った。何かワインを頼もうということになった。
 胸にソムリエのバッジをつけた店の人がテーブルにワインを四、五本持ってきて並べ、端から順に説明を始めた。
 知り合いでも紹介するようにボトルの肩にほんぽんと手を置きながら、「これは○○地方の××という村でしか採れない特別のブドウを使っていて」とか「これは喉ごしはすっきりとしているんですが、後から洋梨とかベリーといった果物系の香りが鼻に抜けて」とか、果ては「じつはここのシャトーは一度経営が苦しくて廃業しかけたんですが、たまたま末の娘さんが結婚した相手が経営学の博士号を持っていて」などといった話まで、一本ずつじつに事細かに懇切丁寧に解説してくれる。
 ソムリエってすごいなあ。さすがだなあ。と思って耳を傾けているうちに、ふいに愕然となった。
 これ、全部作り話なんじゃないか。
 いったんそう気づいてしまうと、もうそうとしか思えなくなってくる。
これは『河童』の書き出しだが、この導入の鮮やかさよ。

「気づいてしまう」って書いてるけど完全に妄想だからね。
ふつうはこんなこと考えないし、考えても一秒で海馬から抹消してしまう。
ここから、ソムリエの正体が河童の魔導士だ、と話が展開していくのだが、うん、そうだね、意味わかんないね。
でもそのとおりなのだから他に説明しようがない。

読んでくれというしかない。

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2019年12月31日火曜日

【読書感想文】フィクションの検察はかっこいい / 伊兼 源太郎『巨悪』

巨悪

伊兼 源太郎

内容(e-honより)
東京地検特捜部の検事・中澤源吾と特捜部機動捜査班の事務官・城島毅。高校時代野球部のダブルエースだった二人は、ある事件をきっかけに「検察」の道を選ぶ。二人の前に立ちはだかる、政治家、企業、秘密機関―「消えた二兆円」。真相に辿り着く過程で明らかになる現代の「巨悪」の正体とは。元新聞記者の著者渾身の検察ミステリー巨編。
元新聞記者の小説だけあって、文章が硬っくるしくて読みにくかった。
そんなにちゃんと書かなくていいよ、適当にはしょってくれていいよと言いたくなる。
すごくちゃんと調べてしっかり構想立てて一生懸命書いてるんだろうなーと伝わってくる(もちろんそれはマイナス)。司馬遼太郎かよ。

小説としてはあんまり好きじゃなかった。登場人物がやたらと多くて、説明が事細かで、とにかくまだるっこしい。
主人公ふたりの背景にあるものも、「ああよくある悲しい過去ね」としかおもえなかった。

この半分の分量だったらスピーディーで楽しめただろうなあ。
 復興予算は東日本大震災発生の二ヵ月後、瓦礫処理費用などに第一次補正予算の四兆円が計上され、さらに第二次補正予算で約二兆円、十一月には第三次補正予算の約九兆円が加算されている。財源は半分以上が所得税や法人税、個人住民税などで、主に国民への増税で賄われている。今後三十年近く続く増税を、誰もが「復興のためなら」と受け入れたのは記憶に新しい。
 それにもかかわらず、当初は被災地以外にもその復興予算が投じられた。特に生活再建の本格的な予算として位置づけられた第三次補正予算では、九兆円という大枠が決められると、各省庁が競い合って要求を出し、それを積み上げる形で中身が作られ、いわば、予算の奪い合いが公然と行われた。
 各庁の予算要求の根拠は、政府が作成した復興基本方針だ。その冒頭に掲げられた理念は「被災地における社会経済の再生や生活の再建に国の総力を挙げて取り組み、活力ある日本全体の再生を図る」という立派な一文。このうち、『活力ある日本全体の再生』という文言によって、被災地以外にも復興予算投入が可能になった。
 当時の第三次補正予算で組まれた約五百事業のうち、四分の一が被災地とは無関係の事業だったと現在判明している。例えば、法務省は北海道と川崎の刑務所で職業訓練を拡充するために、文部科学省は今や跡形もない旧国立競技場の補修費に、農林水産省は反捕鯨団体の対策などに大金を使用している。
ノンフィクションだったらめちゃくちゃおもしろいんだろうけどなあ。復興予算について調べてみたくなった。

告発っぽいネタもあるんだけど、自由共和党とか民自党とか言われてもなあ。フィクションだからしょうがないんだろうけど、たぶんモデルもいるんだろうけど。これが実名だったら最高なんだけど。
「検事さん。なにゆえ過去の特捜部では都合の悪い証拠を隠したり、調書を捻じ曲げたりしたんですか」
「簡単に言うと、それができるからでしょう」
「怖い話だ」
「ええ。できるからといって何でもやっていいわけではないのに、それを忘れてしまった検事が複数いた。これは特捜部だけでなく、誰もが陥りかねない問題です。私が言うのも妙ですが、国民全体が特捜部の不祥事を反面教師にすべきでしょう」
 自分の吐いた台詞が中澤の胸に重たく響いた。海老名が幕を下ろすように結論づける。「政治家も特捜部も、お互い責任重大ですな」
この小説の検察はかっこいい。小説の検察
実際の検察組織の中にも巨悪に挑もうとがんばっている人がちょっとはいるんだろう。と、おもいたい。

とはいえ税金で支援者を接待して、あからさまに証拠を隠蔽していることが誰の目にも明らかな政権を今も放置している以上、現実の検察はまるごとダメ組織と言わざるをえないよねえ。悲しいことに。

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2019年12月27日金曜日

2019年に読んだ本 マイ・ベスト12

2019年に読んだ本は100冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。でも今年はノンフィクション多め。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』


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アメリカの奴隷制度のことを歴史の教科書を読んで知っていた……つもりになっていた。 でもぜんぜん知らなかったのだと教えてくれた本。

本当の奴隷の生活を知った今となっては軽々しく「まるで奴隷のようだ」なんて使う気になれない。
ごくふつうの社会人であり家庭人であった人が奴隷に対してはとんでもなく残忍な仕打ちをする。人間は(おそらくぼく自身も)置かれた環境によってこんなにも残酷になれるのかと背筋が凍った。


文部省『民主主義』

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昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。

現在、政府与党はルールをねじまげ、隠蔽を重ね、民主主義をぶっ壊そうとしている。こうなる未来を予見していたかのような官僚の言葉。

当時の官僚は立派だったんだなあ。今の腐敗しきっている政府に手を貸している官僚は全員これを読んで反省しろ。反省しないやつは社会のゴミクズだからすぐ現世から卒業しろ。いやほんとに。


小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』

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長年、オンチであることをコンプレックスに感じていたぼくは、この本を読んで救われた。

音楽の先生ってみんな子どもの頃から苦労せずに音程をとれた人だから、オンチの人の気持ちがわからないんだよね。そしてちゃんとした指導もしない。 「音がずれてるよ」と言うだけ。どうやったら正しい音がとれるのか、具体的な方法は何一つ示さない。
ぼくは今でもオンチだけど、オンチとはどういう状態なのか、どういうトレーニングをすれば克服できるのかがわかっただけでもずいぶん気持ちが楽になった。


西村 賢太『二度はゆけぬ町の地図』

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ほぼ著者の実体験であろう私小説。
見事なまでのクズっぷりでかえってすがすがしいぐらい。自分が家賃をためこんだくせに、家賃を催促する大家を逆恨みして殺意を抱いたり。ラスコリーニコフかよ。

しかしこの本を読んでいると「己の中の北町寛多」に否が応でも向き合わされる。怠惰で、嫉妬深くて、小ずるくて、身勝手きわまりない自分に。おもしろいけどつらい。


トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』

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真実を明らかにするために、自らの健康や、ときには命をも賭けた人たちの記録。
毒物を口にしたり、病原菌を体内に入れたり、爆破実験に参加したり、食べ物を持たずに漂流したり、安全性がまったく保障されないまま深海に潜ったり気球で空を飛んだり……。
クレイジーの一言に尽きる。

が、そんなクレイジーたちのおかげで今の我々の安全で快適な生活がある。いろんな意味で「ようやるわ」と言いたくなった。


トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

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トースターをゼロから作るために、鉱山に行って鉄鉱石を拾い、じゃがいものでんぷんからプラスチックを作ろうとし(これは失敗したけど)、銅の含有量の多い水を電気分解して銅をとりだし、辺境の山でマイカ(雲母)を採取する。

もう説明不要。ただただおもしろい。


福島 香織『ウイグル人に何が起きているのか』

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ウイグル人たちがどんな残酷な目に遭っているか、のレポート。

もうすぐ世界一の経済大国になろうかという国(しかも国連の常任理事国)の中でこんなことが起こっているとはにわかに信じがたい。21世紀の世の中で。

そしていちばんの問題は、(日本も含めて)ほとんどの国がウイグル問題を知りながら見て見ぬふりを決めこんでいるということ。なぜなら中国が軍事的にも経済的にも大国だから。
対岸の火事じゃないよ、ほんとに。



フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

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「Yes/No」で答えられる質問を出したところ、大半の人の正答率はチンパンジーといっしょ、つまり50%前後だった。
ところが明らかに高い正解率を出す人たちがいる。

自分の正しさを常に疑う、思想信条に従って予測しない、過去の予測の検証をくりかえす、こういう人たちの未来予測は的中しやすい。
……つまりほとんどの政治家やコメンテーターたちとは正反対の人たちだよね。


島 泰三『はだかの起原』

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「なぜ人類は体毛に覆われていないのか」というお話。
保温、保湿、防水、外からの攻撃を守るなど様々なメリットのある毛。なのに人類にはない。
謎を解き明かすためにいろんな仮説をつぶしていく過程はすごく刺激的だった。

……そしてそれ以上に刺激的だったのが、著者の悪口。他の研究者のことをけちょんけちょんに書いている。主張はもちろん人間性まで全否定。

主張のおもしろさと悪口のおもしろさで合わせ技一本の入賞。


今村 夏子『こちらあみ子』

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とにかくすごい小説。圧倒された。

「好きじゃ」
「殺す」
の応酬のすごみたるや。
別世界の住人とおもっていた人の人生を追体験させてくれた。


デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

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いいニュースと悪いニュースがある。
戦場における人間の行動を調査したところ、ほとんどの人間は敵を殺そうとしないことがわかった。人間は基本的に人を殺したくないのだ。それが戦うべき敵であっても。これがいいニュース。

悪いニュースは「人を殺したくない」という気持ちを取り払うために、軍があの手この手で兵士を教育(というかほぼ洗脳)していること。その取り組みは効果を上げて、近代の戦争では大半の兵士が躊躇なく引き金をひけるようになっているらしい。


ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

感想はこちら

こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。


来年もおもしろい本に出会えますように……。


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2019年12月26日木曜日

【読書感想文】森羅万象1,700円 / ビル=ブライソン『人類が知っていることすべての短い歴史』

人類が知っていることすべての短い歴史

ビル=ブライソン (著)  楡井 浩一 (訳)

内容(e-honより)
こんな本が小学生時代にあれば…。宿題やテストのためだけに丸暗記した、あの用語や数字が、たっぷりのユーモアとともにいきいきと蘇る。ビッグバンの秘密から、あらゆる物質を形作る原子の成り立ち、地球の誕生、生命の発生、そして人類の登場まで―。科学を退屈から救い出した隠れた名著が待望の文庫化。137億年を1000ページで学ぶ、前代未聞の“宇宙史”、ここに登場。

宇宙はどうやってできたか、地球の大きさはどれぐらいか、地球の年齢は何歳か、原子や素粒子の世界はどんな法則で動いているのか、地震や噴火は予想できるのか、生命はどうやって誕生したのか、人類はどう進化してきたのか。
そして、それらの謎を解き明かすために科学者たちがどのような取り組みを続けてきたのか。

といったことを上下巻二冊に収めている。文庫にしては分量はちょっと多いが、それ以上に内容は重厚。全二十巻の本を読んだぐらいの読みごたえがあった。
それでいて、文章は軽妙かつユーモラスでおもしろい。いやあ、いい本だ。ほんとに中学生ぐらいで読んでいたらもっと勉強を好きになっていたんじゃないかなあ。
 というわけで、無から、わたしたちの宇宙は始まる。
 目のくらむようなただ一回の脈動、言葉では表現できない速さと広がりを伴う栄光の一瞬を経て、特異点は天空に容積を、概念ではとらえられない空間を獲得する。この強烈な最初の一秒(多くの宇宙学者がその詳細に分け入ろうとしてキャリアを捧げる)で、重力が、そして物理法則を支配するほかのすべての力が作られる。一分足らずで宇宙はとてつもない大きさに広がり、さらに高速で成長を続けていく。大量の熱が生まれた後、百億度まで下がり核反応を引き起こすのに十分な温度に達して、比較的軽い元素──おもに水素とヘリウム、それに少量(原子一億個につき一個)のリチウム──が発生する。三分後には、現在、存在する、もしくは今後、存在が確認される、あらゆる物質の九八パーセントがすでに生成されている。宇宙の誕生だ。そこはこの上ない不可思議さと愉快な可能性を秘めた場所。そして美しい場所だ。しかもサンドウィッチをこしらえるぐらいの時間でできあがる。
最初の宇宙誕生の説明でもう強烈なパンチを喰らう。
一秒で重力が作られる。数分で(サンドウィッチをこしらえるぐらいの時間で)宇宙のあらゆる物質のほとんどが誕生する。
この文章を読むだけでくらくらする。

「宇宙はどうやってできたのか」なんて、もう人間が一生かけても追求しきれないテーマじゃない。
それがこれだけの文章に凝縮されてるんだよ。密度がすごい。ブラックホールか。

ぼくは宇宙にロマンを感じない人間なんだけど、次から次にくりだされるとんでもないスケールの話を読んでいるとただただ圧倒されて、まるで宇宙空間に連れていかれたような気分になる。



読めば読むほど、地球ができて、生物が誕生して、哺乳類が生まれて、そこからヒトへと進化して、絶滅せずに生き残って、こうして文明を築いているのってほんとに奇跡の連続なのだとしみじみおもう。
生まれてきたことに感謝、生きているだけですばらしいとクサいことを言いたくなる。
 一九七八年、マイケル・ハートなる宇宙物理学者が計算を行ない、地球が今よりほんの一パーセント太陽から離れるか、五パーセント接近しているかしていたら、居住不可能だったと結論づけた。ごく狭い幅であり、実際、それは狭すぎた。以来、計算の精度が上がって、もう少しゆるやかな数値五パーセント近づき、一五パーセント遠ざかるあたりまでが精確な居住可能圏とされた――になったが、それでも、狭い地帯には違いない。
 どのくらい狭いか理解するためには、金星を見るといい。金星は、地球より四千万キロ太陽に近いだけだ。その熱が到達する時間差は、わずかに二分。大きさと構成要素において、金星は地球に非常に似ている。が、軌道における小さな違いがあらゆる違いにつながった。太陽系ができて間もないころ、金星は地球よりほんの少し暖かいだけで、おそらく海洋も有していたらしい。しかし、その数度の余分の熱のため、表面の水を保つことができなくなり、環境に悲惨な影響がもたらされた。水が蒸発して、水素原子が宇宙に逃げ、酸素原子は炭素と結びついて、温室効果ガスである二酸化炭素の濃いガス体を形成する。金星は息ができなくなった。わたしと同年代の人なら、金星のこんもりした雲の下には生物が潜んでいるかもしれない、もしかしたら、熱帯植物だって茂っているかもしれないと天文学者たちが期待した時代のことを思い出すだろうが、今では、わたしたちが常識的に考えつくどんな生物にも、きびしすぎる環境であることがわかっている。
地球が生物の棲める環境になったのはすごい確率の偶然が重なった結果だけど、しかし宇宙はそんな奇跡が十分起こりうるぐらい広大なのだ。
銀河には1000億から4000億ぐらいの星があり、そんな銀河が他にも1400億ぐらいあるそうなのだ。うへー。

ってことで、理論上は宇宙のどこかには地球の他にも生物が誕生する星はちょこちょこあるみたい。
とはいえ光に近い速さで移動したとしても寿命がつきる前にたどりつける距離にはまずいない。
ということで「宇宙人がいるか?」という問いに対する答えは、「たぶんいるけど地球人が遭遇する可能性はほぼない」だ。ロマンはあるけど会えなかったらいても意味ないよなー。



かなり平易な文章で書かれているので「科学系の本を読むのが好き」レベルのぼくでもわかりやすかったのだが、量子力学のくだりだけはまったく理解不能だった。
いや書いてあることはわかるんだけど。でもまったく納得ができない。
 要するに、相反する前提にもとづいていながら同じ結果をもたらすふたつの理論が、物理学界に登場したのだ。これはありえない状況だった。
 最終的には、一九二七年、ハイゼンベルクが画期的な折衷案を思いつき、量子力学として知られるようになる新たな規律を生み出した。その中心にある“ハイゼンベルクの不確定性原理”によると、電子は粒子なのだが、波に置き換えて描写することも可能な粒子だという。理論構築の中心に据えられた不確定性とは、電子が空間を抜けて動く際にとる経路か、ある瞬間に電子が存在する場所か、どちらかを知ることは可能でも、その両方を知ることは不可能とする理論だ。一方を計測しようと試みれば、どうしても他方を妨害してしまう。この問題は、単にもっと精密な機器があれば解決するというわけではない。それは、宇宙の不変の特性なのだ。
 つまり事実上、電子が特定の瞬間に存在する場所は、けっして予測できない。できるのは、存在する見込みの高い場所を列挙することだけだ。ある意味で、デニス・オーヴァバイが述べたように、電子は確認できるまで存在しないと言ってもいい。あるいは少し見かたを変えて、電子は確認できるまで「どこにでも存在すると同時に、とこにも存在しない」と考えるべきかもしれない。
電子は規律ある法則に基づいて動いているのに、その場所を予測できないというのだ。それは現時点での観測技術や理論が未成熟だからというわけではなく、もう絶対に不可能。

ん? そんなことってあるか? 法則がわかれば電子がどこにあるかは理論上特定できるはずじゃないの? と素人はおもうんだけど。

物理学者のファインマンは「小さな世界の物質は、大きな世界の物質とはまるで異なる動きをする」との言葉を残したらしい。
微小な世界のための量子論と広大な宇宙のための相対性理論はまったく別個の体系で動いている。相対性理論は素粒子のレベルにはまったく影響を及ぼさない。だと。

なんで? 「家庭の決まりと国家の法律は完全に独立していて、国家の法律は家庭の決まりに一切影響を及ぼさない」だったら明らかにおかしいじゃん。家庭のルールが法律にまったく影響を受けないわけないじゃない。内包されてるんだから。
……とおもっちゃうぐらいに素人なので、ここは何遍読んでも納得できない。



いやほんとどこをとってもおもしろい。
宇宙も原子も地球の構造も生物の進化も細胞も全部おもしろい。
 しかし、いったん進化が軌道に乗ると、哺乳類は驚異的な――ときには、不合理なまでの勢いで―発展を遂げた。一時は、犀(さい)の大きさのモルモットだの、二階建て家屋の大きさの犀だのが存在していた。捕食連鎖に空白が生じると必ず、哺乳類が(文字通り)身を起こしてその空白を埋めた。南米に移住した大昔のアライグマ科動物は、捕食連鎖の空白を発見して、熊ほどの体型と獰猛性を備えた生物へと進化した。鳥類も、不釣合いなほど繁栄した。数百万年ものあいだ、北米で最も獰猛な生物は、タイタニスという肉食の飛べない巨鳥だったと考えられている。この巨鳥が史上最高に恐ろしい鳥だったことは間違いない。体長は約三メートル、体重は三百六十キロ以上あり、気に入らない相手の首を楽々と食いちぎれるほどのくちばしを持っていた。この科の生物は、周囲を脅かしながら五千万年生き延びたが、それでも、一九六三年にフロリダ州で骨が発見されるまで、その存在についてはまったく知られていなかった。
こんなことがさらっと書いてあるけど、夢が膨らむよね。
サイの大きさのモルモット、クマみたいにでかくて凶暴なアライグマ、360kgの身体で相手を食いちぎる巨長……。
ほとんどSFの世界だ。人間が想像するような生物はだいたい過去に存在したんじゃないかと思わされる。
「5つの眼がある生物」なんてのもいたらしい。こんなのも空想の範疇をを超えてるよね。ぼくらが空想できるのはせいぜい三つ目とか偶数個の眼を持つ生物ぐらいだもんね。なんで半端な5個なんだよ。


随所に散りばめられている科学者たちの逸話も楽しい。
 シャップにも増してつきに見放されていたのがギョーム・ル・ジャンティーユだ。この天文学者の経験については、ティモシー・フェリスが著書『銀河の時代──宇宙論博物誌』に鮮やかにまとめている。ル・ジャンティーユは金星の通過をインドから観測するために、フランスを一年前に出発したのだが、いろいろな支障が生じて、太陽面通過の当日にはまだ海の上にいた──揺れる船上では、ぐらつかずに計測できる見込みなどないから、最悪の観測地点といえた。
 ル・ジャンティーユはめげずにそのままインドの土を踏み、現地で次の一七六九年の金星通過を待った。準備期間が八年あったので、第一級の観測台を建て、機器を幾度もテストし、万全の準備態勢で二度めの金星通過の日を迎えた。一七六九年六月四日の朝、目覚めたときは晴天だった。ところが、ちょうど金星が太陽の前を横切り始めたころ、ひとひらの雲がするすると太陽を覆ったかと思うと、ほぼ通過時間の三時間十四分七秒のあいだじゅう、そこに居坐ったのだった。
 落胆を胸に、ル・ジャンティーユは機器を荷造りし、最寄りの港に向かったが、途中で赤痢にかかって一年近くも臥せってしまう。まだ衰弱している体にむち打って、それでもようやく船に乗り込んだ。船はアフリカ沖でハリケーンにぶつかり、すんでのところで遭難しそうになる。やっとのことで帰り着き、家を出てから十一年半、何も達成できないままに戻ってみると、留守のあいだに彼が死んだと決めつけた親戚たちが、土地財産をすべて山分けしたあとだった。

金星の太陽面通過を観測するためにフランスからインドに行ったらいろんな不運に恵まれて帰るまでに11年半(しかも悪天候のため観測できず)、帰ったら財産がなくなっていた……。

ひー。なんてかわいそうな人なんだ。この人の生涯だけで一冊の本になる。
トレヴァー・ノートン『世にも奇妙な人体実験の歴史』を思いだした。いつの世にも、科学のために命も生活も家族も名誉も財産も犠牲にする人たちがいるんだなあ。
彼らをばかだと嗤うのはかんたんだけど、彼らの献身がなければ科学の発展はなかったのだ。



長くなりすぎたのでこのへんにしとくけど、
「カンブリア爆発で生物が爆発的に誕生したわけではない(カンブリア紀に化石化しやすい体になっただけ)」
とか
「カメが地球上で覇権をとりそうになった」
とか、紹介したいことはいっぱいある。

でも書ききれないからこの本を読んでとしか言いようがない。
こんな重厚な本が文庫で1,700円ぐらいで買えるなんて! 全科学をぎゅっとまとめた本だからね。森羅万象が1,700円。安すぎる。

最後まで読んだ後に『人類が知っていることすべての短い歴史』というタイトルを改めて見ると、つくづく我々は自分たちの棲むこの世界のことをわかっているようでぜんぜんわかっていないんだなあと感じ入る。


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2019年12月13日金曜日

【読書感想文】怒るな! けれど怒りを示せ! / パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』

日本人のための怒りかた講座

パオロ・マッツァリーノ

内容(e-honより)
「怒りは悪」と思われがち。しかし、怒りを否定することは人間らしさを否定することです。仮に怒りを抑えたとしてもストレスがたまるだけで問題は解決しません。必要なのはコミュニケーション。身の回りの不愉快な出来事を引き起こしている相手と向き合い、誤解されずに怒りをきちんと伝える技術です。「知られざる近現代マナー史」を参照しながら、具体的な「怒る技術」を伝授する一冊。

ぼくも「怒れない日本人」だった。
腹が立つことがあっても
「いちいち波風を立てるより自分が我慢すればいいや」
とおもうことが多い。

でも最近ちょっとは見ず知らずの他人に注意できるようになった。

ついこないだも、マンションのエレベーター内で犬を歩かせている人に(うちのマンションをペット禁止ではないが共用スペースを歩かせるのは禁止)「犬は歩かせないでくださいね」と言った。
電車の列に割り込もうとしてくるおばさんに「後ろに並んでくださいね」と注意したこともある。

ぼくが他人に注意できるようになったのは子育てをしているせいかもしれない。
子どもと接しているとどうしても叱ることが増える。
子どもは一般常識を持っていないから「言わなくてもいつかわかってくれるだろ」が通用しない。言わなきゃわからない(ほんとは大人もそうなんだけど)。
それに「この子をそこそこの常識を持った大人に育てる」という社会に対する使命感があるから、「自分が我慢すればいいや」というわけにもいかない。

で、子ども相手に叱っているとよその子も叱れるようになる。よその子を叱れるようになるとよその大人も叱れるようになる(怖い人のぞく)。

そのうちに有効な注意の仕方もわかってきた。
怒りとぶつけても反発されるだけ、あいまいな叱り方をしても響かない、皮肉も通じない、具体的に「〇〇して」と要求を伝えるのがいちばん有効。

これは三歳児相手でもおっさんでもおばさんでも年寄りでもだいたい同じだ。
「こら!」とか「周りの迷惑を考えろ!」なんて叱っても相手を怒らせるだけで意味がない。迷惑行為をする人はそれがたいした迷惑じゃないとおもっているからやっているわけで。
自分の常識を押しつけようとしたってうまくいくわけがない。
「あなたがやっている〇〇は私にとって不愉快だから今この場ではやめてください」
これぐらいが適切だし、限界だとおもう。いついかなるときも正しい行いを他人に求める権利までは市民は持っていない。
「タバコのポイ捨てはやめてくれ」と言われて心を入れ替えてすっぱりやめるような人間はそもそもはじめからポイ捨てしないでしょう。



マッツァリーノ氏の主張はこうだ。
迷惑をかけている他人に注意すべき。
我慢したって自分のストレスが溜まるだけ。
注意したって改めてもらえるとはかぎらないが言わないよりは言ったほうが可能性があるだけマシ。
ただし深追いはいけない。聞き入れられなくてもあきらめる。喧嘩をしたり相手を貶めるのが目的ではなく、行動を改めてほしいだけなのだから。
できる範囲でかまわない。怖い相手には言わなくたっていい。
首尾一貫してなくていい。自分が注意したいときだけでいい。

しごくもっともだ。
(ちなみに後半の体罰やペットの話はおもしろいけどテーマがずれる氏のブログの再掲なので、この本にまとめるのはいかがなものか)

タイトルには「怒りかた講座」とあるが、これは適切ではない(あえて不適切な言葉を使っているのだろう)。
氏が主張し、実践するのは「怒る」ではなく「交渉する」だ。
「それをやめてくれないか」と、相手への敬意をある程度示した上で頼む。
正義のためではない。あくまで自分が快適に生きるために。
 なにしろ、大正一三年の読売新聞の投書欄に、「近頃は私のような年寄りが電車に乗っても若い人たちが席を譲ってくれない。本を読むふりなんかして腹が立つ」と七○歳のおばあさんが投書してるんですよ。社会道徳は戦後やバブル崩壊後に廃れたわけじゃないんです。戦前、明治大正の時代から、状況はまったく変わってません。
 そして、そういったぶしつけなこどもやオトナの行動を見て憤慨するも、その場で面と向かって相手にいえない人がほとんどなのも、いまと同じ。その場でいえず、あとで新聞に投書してうっぷんを晴らす気弱な正義漢がたくさんいたのも、いまと変わりません。いまならさしずめ、その場でいえなかった怒りを、あとでブログやツイッターに書きこむのでしょう。メディアが変わっただけで、やってることは一緒です。
 つまり、勝手なことをする人間と、それを不愉快に思いながらも叱れない人がいて、結局は勝手な人間がのさばり続けるという世間の構図は、戦前もいまも、ずーっと変わっていないのです。
 戦前の保守教育も戦後のリベラル教育も、公徳心や社会道徳を育むという目標いては、どちらも失敗しています。これが、庶民史の真実です。
時代が変わっても人間の性質は変わらない。
昔も今も迷惑な人間はいて、それに眉をひそめる人間もいて、けれどその大半は見て見ぬふり。

マッツァリーノ氏は言う。「昔は悪いことをしたら叱ってくれるがんこ親父がいたもんだ」と語る人間は多いが「私は悪いやつを叱る」という人間は少ない、と。
みんな「誰かが嫌な役目を引き受けてくれないかな」と虫のいい期待を抱いているだけで、自分がなんとかしようとはおもわない。これでは社会は変わらない。

とはいえ社会は少しずつ変わっている。
全体としては、迷惑行為は減ってきているとはおもう。ゆるやかにではあるけど。

昔よりは分煙もされているし、セクハラ、パワハラ、アルハラなんて言葉もできて弱い立場の権利が守られるようになってきた。
少しずつだけど「誰もが暮らしやすい社会」に向けて前進してきている。

それは、わずかではあるけど声を上げた人がいるからだろう。
煙たがられても声を上げた人が。
たぶん最初に「セクハラはやめて!」と言いだした人は「なんだよブスのくせに。お高くとまってんじゃねえよ」的な反応を浴びたことだろう。
それでも、そういう人がいたから多くの人が後に続きやすくなったのだ。
迷惑なことは我慢をせずに声を上げたほうがいい。無理のない範囲で。
 なかなか怒らない人は、精神力が強いのでしょうか。人格者なのでしょうか。そうとはかぎりません。ただ単に鈍感なだけ、いわゆる空気の読めない人である可能性も高いのです。自分のことに怒らない人は、他人への共感能力も低いのです。人格者どころか、他人の痛みや苦しみを想像できない鈍い人なのかもしれません。
 そういうタイプの人は、自分も平気なんだから、他人もこれくらい平気だろう、こんなことで苦しんだり困ったりするわけがない、と勝手に決めつけて、ガマンや泣き寝入りを迫る薄情な人間です。
 一方で、ささいなことで怒るのだけど、じつは、他人に対しても人一倍気配りをしてる人もいます。他人の無神経さに敏感に反応して腹を立てるからこそ、自分も他人に不快な思いをさせぬよう配慮するのでしょう。
 ささいなことでは怒らない人が、必ずしも人間的にすぐれているとはかぎらないのです。怒らない人は他人や世の中のことに無関心な、心の冷たい人なのかもしれません。怒らないからやさしい人だと考えるのもまちがいです。やさしい人だからこそ、不正や不条理に対して人一倍腹を立てるんです。

マッツァリーノ氏も書いているが、「こんな小さなこと」で怒れない人は、大きなことだともっと怒れない。

政治家の不正に声を上げたときに「そんな些細なことを問題視するよりもっと大事なことがあるだろ」と言う人がいるが、その手の人が「もっと大事なこと」をきちんと批判しているのを見たことがない。

現代人の脳がネアンデルタール人よりも小さいのは「自己家畜化」したからだという説があるが、「こんなささいなことで怒るなんて」と抑えている人は自己家畜化している真っ最中なのだろう。

感情を制御できない大人はみっともないけど、怒りの感情を完全に抑えることは社会を悪くする。
学校でも職場でも怒りを抑えることばかり求められるけど、抑えるんじゃなく適正な言葉で表出する方法を教えないといけないね。

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【読書感想文】タイトル大事なんとちゃうんかい / 須藤 靖貴『小説の書きかた』

小説の書きかた

須藤 靖貴

内容(e-honより)
読めば読むほど小説が書きたくなる、文章がうまくなる。そして、ひとの気持ちがわかるようになる。海風が吹き抜ける県立高校文芸部を舞台にしたアタマとココロの新・実用小説!

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

物語を通して小説の書きかたを伝える、という『もしドラ』の柳の下のドジョウを狙ったような本。

ハウツー本は好きじゃないんだよなあ。
とおもいながらもせっかくもらったので読んでみた。
うーん、やっぱり……。

「小説の書き方を小説を通して伝える」という意図は買うけど、肝心の物語がおもしろくない。
男子高校生一人と女子高校生三人が共同して一篇の小説を書くという話なのだが、まったくといっていいほど事件が起こらない(起こるハプニングが「書きあげたものの出来がイマイチだった」レベル)。
女子三人も個性がなさすぎて、とうとう最後まで見分けられなかった。
あえてつまんない小説を読ませることで失敗例を提示してくれたのかも。

ふつうにハウツー本として書いたほうがまだマシだったんじゃないだろうか。
書いていること自体はこれから小説を書く人にとってはためになるのかもしれないけど、肝心のこの本がおもしろくないんじゃあなあ。
タイトルとかさ。
「タイトルは作品の顔だからめちゃくちゃ重要」みたいなことを本文中で書いといて、で、この本のタイトルが『小説の書きかた』かよ。なんじゃそりゃ。ひねりゼロ!



まあおっさんが読む本じゃないなあ。
高校生ぐらいのときに読んでたら、「自分も今すぐ書かねば!」と奮いたっていたかもしれない。

ずっと本が好きだったし、そういう人ならたいてい経験があるとおもうけど、ぼくも学生のときは「自分でも書けるはず!」とおもって物語が書いてみた。
しかしながらというか、当然ながらというか、すぐに挫折。書くことのむずかしさを思い知った。おもしろくないとか以前に、書けないんだよね。書けば書くほど自分の文章のダメさが目について。

今は「作家になってやる!」「文壇に名を轟かせてやる!」みたいな野望もなくなったのでこうしてブログにだらだらと文章を書いているが、長く書いていると書くペースやリズムをつかめてきて、少なくとも書いている自分自身は楽しめるようになった。読む人が楽しんでいるかどうかは知らないが。

だから、物語を書きたい人は、こういう本を読むのも無意味ではないのだろうけど、その一万倍ぐらい「書き続けてみる」が大事だとおもう。書かないと書けないのだから。


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【読書感想文】コンビ作家の破局 / 井上 夢人『おかしな二人 ~岡嶋二人盛衰記~』



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2019年12月11日水曜日

【読書感想文】昭和の少年が思いえがいた未来 / 初見 健一『昭和ちびっこ未来画報 』

昭和ちびっこ未来画報 

初見 健一

内容(e-honより)
本書には1950~70年代の間に、さまざまな子供向けのメディアに掲載された“未来予想図”が収録されています。小松崎茂、石原豪人をはじめとする空想科学イラストの巨匠たちが描いた未来画を暮らし、交通、ロボット、コンピューター、宇宙、終末の六項目に分けて紹介。

未来予想が好きだ。
このブログでも、真鍋 博『超発明 創造力への挑戦』、ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』、エド・レジス 『不死テクノロジー 科学がSFを超える日』といった硬軟さまざまな未来予想本を紹介してきた(ページ下の【関連記事】参照)。

未来の世の中(21世紀後半~22世紀ぐらい)はこうなる、という予想もおもしろい。
わくわくして長生きしたくなる(20世紀生まれのぼくが22世紀まで生きるのはまず不可能だろうが。少なくとも肉体は滅びるはず)。

それもおもしろいが、過去の未来予想もおもしろい。
50年前、100年前の人たちが予想した未来を、21世紀を生きるぼくが答え合わせをすることになる。
これがたまらなくおもしろい。
優越感をくすぐられる。なにしろこっちは未来人だ。20世紀人の「未来」については圧倒的にこっちのほうが知識がある。
「ははーん。こんなことを予想してたのかー。しょせんは20世紀人、ばかだねー」
とか
「おっ、まあまあいいセンいってんじゃん。とはいえここまでの予想しかできないのが20世紀人の限界だよなー」
とか上から目線で語れる。
べつにぼくの力で科学が進歩したわけではないのだが(むしろ過去の人のおかげなのだが)、しかし「新しい知識を持っている」というのはそれだけで優位に立てる条件なのだ。未来人でよかったー(20世紀生まれだけど)。



『昭和ちびっこ未来画報』は過去の未来予想を集めた本だ。

1950~1980年ぐらいの少年誌に掲載されていた「未来はこうなる!」というイラストがたっぷり載っている。全ページカラー。
すごくおもしろい。
イラスト(小松崎茂氏のものが圧倒的に多い。未来予想イラスト界の大家だ)もいいし、著者のツッコミも笑える。

雑誌だけでなく大阪万博の「未来生活」の写真なんかもあって、昭和の少年(あるいは大人も)がどんな未来を思いえがいていたかがよくわかる。もちろん全面的に信じていたわけではないだろうけど。


都市の未来予想はけっこうあたっている。

立体交差道路、動く歩道、モノレール、屋上ヘリポート、室内野球場、街頭テレビ。
どれも2019年現在あたりまえのように存在しているものばかりだ(モノレールはあまり一般的にならなかったけど)。

とはいえ「そりゃないだろ」というアイデアもあふれている。


高速道路で事故が起こらないように、巨大ロボットが違反車を(物理的に)つまみあげるという仕組み。
こえー。
こんなにすごいロボットが動いているのに「速度おとせ」という看板で注意を呼びかけているのが笑える。看板は進歩しないのかよ。

っていうかこんなロボットを動かす技術があるならとっくに自動運転車が実用化されてるだろ……。そもそも自動車が必要なくなってるんじゃないか。

あと「空港が空を飛ぶ」とか、脱線した機関車を持ち上げる飛行艇とか、いろいろツッコミどころの多いアイデアもおもしろい。
そんなすごい飛行艇が飛んでるのにまだ機関車使ってるのかよ。

すごいスピードで郵便物を運ぶ「ゆうびんロケット」は、ああ昔の人のアイデアだなあという気がする。
そうだよね。「いかに速く手紙を届けるか」という発想になっちゃうよね。「電子メールが一般化して紙の手紙を出す必要はほとんどなくなる」というパラダイムシフトにたどりつくのはむずかしい。

 今だっていろんな学者が「どうやって健康を維持するか」とか「安全でエコな自動運転車を作るにはどうしたらいいか」とか頭を悩ませているけど、将来的には肉体が不要になっている可能性もあるもんなあ。そうなったらとうぜん自動車なんて不要になるわけで。



コンピュータ、通信などの分野に関しては現在の状況は昔の想像をはるかに超えているかもしれない。
誰もが手のひらサイズの高性能コンピュータを持ち歩いている時代なんてほとんど誰も予想しなかっただろうなあ。

しかし、宇宙開発、海底開発、気象操作などは残念ながら「未来予想」にとうてい及ばない。
宇宙や海底は、今のところ「そこまでする必要がない」から開発してないだけで、「もうすぐ陸上に人類が住めなくなる」などのせっぱつまった状況になればちょっとはマシになるんだろうけど。
天気を操るとか台風を鎮めるなんてアイデアが紹介されてるけど、制御するどころか2019年になっても予想すらまともにできてない状態だもんな。
地球は手ごわいな。

ロボットに関しては、昔の少年が思いえがいていたヒト型ロボットが活躍する時代は当分こないんじゃないかな。ヒト型であるメリットがあんまりないもんな。



登山サポートロボットやおかあさんロボットの想像画が描かれているが「キモいし無駄」という感想以外は出てこない。
特におかあさんロボットの不気味さといったら……。ぜったいこの触手で絞め殺されるだろ。



終末予想も数多く紹介されている。

核戦争、温暖化、隕石の衝突、大洪水などで地球が滅ぶという暗黒未来予想だ(寒冷化がしきりに唱えられているのが20世紀らしい)。

放射能により動物や植物が巨大化・凶暴化、なんてのも昭和のSFって感じだなあ。ゴジラとかウルトラマンとかでも「放射能により凶暴化」ってのはけっこう扱われてるもんなあ。

今だったらアウトだよね。原発事故地域の風評被害がーってなってしまう。
けどそれはそれで臭い物に蓋って感じでイヤな感じなんだよなあ。
「風評被害はやめろー」って言う人の大半が被害者を慮ってるわけじゃなくただ単に遠ざけてるだけに見える。



著者も書いているけど、少年誌の定番だった未来予想は最近ではすっかり鳴りを潜めてしまった。
ぼくが子どもの頃読んでいた雑誌でも見た記憶がない。

ノストラダムスだ終末論だのオカルトが流行るのは歓迎しないけど、長生きしたいとおもわせてくれるような未来予想がもっとあってもいいのになあ。
未来に期待が持てない時代になってしまった。さびしいな。まあ人口も経済も衰退していく一方の今の日本じゃあなあ。


【関連記事】

【読書感想】真鍋 博『超発明: 創造力への挑戦』

未来が到来するのが楽しみになる一冊/ミチオ・カク『2100年の科学ライフ』

【読書感想文】 エド・レジス 『不死テクノロジー―科学がSFを超える日』



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2019年12月9日月曜日

【読書感想文】靴下のにおいを嗅いでしまうように / たかたけし『契れないひと』

契れないひと(1)

たかたけし

内容(yanmaga.jpより)
わたしのしごとは、わたしになにをさせるのでしょう‥‥。子供向け英会話教室の体験を勧誘する訪問販売員ノグチマイコ♪ 今日も顔も知らないお客様のお宅の玄関の前に立ち、一生懸命お仕事をしています。されど毎回、契約が獲れなくて、上司に怒鳴られ、泣いています。苦笑と悲哀に満ちた幸薄ガールの営業GAG日誌♪『契れないひと』、そこはかとなく連載スタートです♪

たかたけしさんのデビュー作。
……だけどぼくはもう十年来のたかさんのファンだ。

とある趣味を通して(ネット上で)たかさんと知り合い、たかさんのブログ に魅了された。
ぼくは文章を読んでおもしろいとおもうことはあっても笑うことはないのだが、たかさんの文章だけは別だ。文章だけでこんなに笑わせられる人がいるのかと大いに感心し、こんなすごい文章をタダで読むことができるなんてブログっていいなあとおもいつつも、この人が世に出ないのはおかしい、『SPA!』あたりですぐに連載させるべきだろうと勝手に憤っていた。

そんなたかさんがついにデビュー。それもヤングマガジンで……ヤングマガジン?
そう、文章ではなく漫画でのデビューだというのだ。お、おめでとう……。

もちろんそれはそれでたいへん喜ばしいことなんだけど、いつかエッセイ集も出してくれることをぼくは今も願いつづけている。
東海林さだお氏のような『漫画以上にエッセイに定評のある漫画家』になってくれたらいいなあ。



前置きが長くなったけど、『契れないひと』について。

なんというか、見ちゃいられない。なのに見ちゃう。
やはりヤンマガで連載されていた 蓮古田二郎『しあわせ団地』という漫画を思いだした。


『しあわせ団地』の主人公・はじめは、仕事をしようとせず、家事もせず、妻に対しては暴言をぶつけるというどうしようもないクズ人間だ。
一応ギャグではあるのだが、はじめのせいで妻がひどい目に遭うことが多く、読んでいていたたまれない気持ちになる。ギャグなのに痛々しいだけでぜんぜん笑えない。
……なのになぜか気になる。ついつい読みたくなる。
イヤな気持ちになるのがわかっているのだから読まなきゃいいのに、読んでしまう。そして胸糞悪さを感じる……。


『契れないひと』も似た印象の漫画だ。
主人公・野口は英会話教室の飛び込み営業。子どものいる家庭をまわり、体験レッスンに勧誘する。結果が出なければ猛烈なパワハラを受けるブラック職場。レッスンもおそらく質の悪いものだと野口自身もうすうす気づいている。
気の弱い野口は契約をとれない。上司に罵声を浴びる。言われるがままに法律ギリギリ(ギリギリアウト)なやりかたで営業をかける……。

上司や会社はもちろん、野口にも共感できない。
自分のやっていることが顧客を幸せにしないことだとうすうすわかっている。
だけど言われるから、怒られるのがイヤだから、英会話教室を勧める。
会社内では立場の弱い野口も、客からしたら立派な加害者だ。
うじうじして身の不幸を嘆いているように見えるけど、あんたも悪人なんだよと言いたくなる。

……でもそれは高みの見物だから言えることであって、ぼくも同じ立場に置かれたらやっぱり野口と同じような行動をとってしまうかもしれない。少なくとも「この会社のやり方は間違っています!」と抗議することなんてできない。せいぜいがさっさと逃げだすぐらい。

だいたいの人は同じようなもんだろう。
数々の腐敗した軍隊や企業や政府の暴走も、ほとんどが「一握りの頭のおかしいトップ」+「その他大勢のうすうすヤバいと感じながら流れに身を任せた部下」によってなされてきた。

不善に立ち向かうのはエネルギーがいる。思考停止するほうがずっと楽だ。
考えることを止めて上司の言われるがままに行動する野口の姿は、まさに自分含めた「弱い人間」の姿だ。

己の弱さを見せつけられるから不愉快だ。でもここに描かれているのはまちがいなく自分の姿。だから読んでしまう。自分の靴下のにおいをついつい嗅いでしまうように。

『契れない人』はそんな漫画だ。



職業に貴賤はないというが、そんなのは嘘だ。
貴いだけの職業はないかもしれないが、賤しいだけの職業はある。振り込め詐欺やってる連中とか。

まあだいたいは「かなり貴い」から「かなり賤しい」のどこかに位置しているわけだが、やっぱり達成感とか社会貢献度とかを感じにくい仕事はある。

ぼくも広告の仕事をしているが、その中でもやってて意義を感じる仕事とそうでない仕事がある。
風俗やギャンブル関係の依頼は断るようにしているが、うさんくさい育毛剤とか不動産投資セミナーとかの広告をつくっているときは
「うーん……あんまり胸を張って勧められるものじゃないけど……」
とおもいながらも金になるからしょうがないと自分を半ば騙しながらやっている(またうさんくさい商売ほど金銭的条件がいいんだよね)。
残念ながら清廉潔白だけで食っていけるほどの技能を持っていないので。


ぼくもそれなりに悪い大人になったので「明らかな違法じゃなければ目をつぶろう」ぐらいにおもえるんだけど、そんなふうに感じられない人もいる。
「悪いことはやめましょう!」って人。
ほんとうならそっちのほうが正しいんだけど、悲しいかな今の世の中は正しい人が住みやすいようにはできていない。
「だったらおまえこの仕事やめろよ」となってしまう。

ついこないだ『ルポひきこもり未満』という本を読んだけど、そこに出てくる「社会でうまくやっていけない」人たちは、まさにそんな感じだった。
ふつうの人が「まあそんな真剣に考えなくていいじゃない」「ちょっとぐらいの悪いことだったらみんなやってるんだからさ」と思えることを、許せない人。

おかしいのはその人たちなんだろうか。それともこの狂った社会に順応できているぼくだちなんだろうか。



『契れない人』の世界の住人はみんな狂っているんだけど(人だけじゃなく犬も)、回を重ねるごとにどんどん狂気が増している。
この先どうなるのか。たぶん不快な展開が待っているんだろう。わかっている。わかっているけど、でも読んでしまうんだろうなあ……。


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【読書感想文】失業率低下の犠牲者 / 池上 正樹『ルポ ひきこもり未満』

ルポ ひきこもり未満

レールから外れた人たち

池上 正樹

内容(e-honより)
派遣業務の雇い止め、両親の多重債務、高学歴が仇となった就職活動、親の支配欲…。年齢も立場も、きっかけも様々な彼らに共通するのは、社会から隔絶されて行き場を失ってしまった現状である。たまたま不幸だったから?性格がそうさせているから?否。決して他人事ではない「社会的孤立者」たちの状況を、寄り添いながら詳細にリポート。現代社会の宿痾を暴き出し、解決の道筋を探る。制度と人間関係のはざまで苦しむ彼らの切実な声に、私たちはどう向き合うことができるのか…。

ひきこもり、あるいはそれに近い状態の人たちの事例が紹介されている。
この本で紹介されている人たちのケースは様々だ。うまく問題を克服して社会に出られた人、今ももがき苦しんでいる人、そしてひきこもりの末に自殺した人……。

以前、久田 恵『ニッポン貧困最前線 ~ケースワーカーと呼ばれる人々~』という本の感想でこんなことを書いた。

生活保護を受けている多くの人にとって、お金がないことは「結果」であって「原因」ではない。
現代日本では“あたりまえ”とされていることをできないことが原因だ。

だからお金を支給するだけでは解決にならない。

羽が折れたせいでエサがとれない鳥に対して、エサを与えて「次からは自分でエサをとれよ」と言っても何も解決しないのと同じように。

「ひきこもり」の問題も同じだ。
外に出られないことには原因がある。「出てきなさい」というだけで解決するような問題ではない。ただ仕事を与えて外に出すだけではだめだ。

ぼく自身、いっとき半ひきこもり状態だった。
気心の知れた友人とであれば出かけるが、それ以外の人とは会いたくない。一週間のうち五日か六日は終日実家にいるなんてこともあった。

あれはつらいものだ。「出たくない」とおもっているわけではない。
常に「出たくない」と「でも出なきゃだめだ」が闘っている状態だ。外に出なきゃいけないことは自分がいちばんわかっている。けど動けない。
そんな状態の人に「まず一歩外に出てみよう」と言ったって無駄だ。羽が折れた鳥に対して「さあ外に出ておいでよ。襲いかかってくる犬も猫もいるけど怖がらなくていいよ」と言うようなものだ。まずは身を守る方法を身につけさせなくては。

ぼくの場合は一年ぐらい半ひきこもりを続けた後、「バイトぐらいはしなくちゃな」ということでバイトをするようになり、そのまま正社員登用されてひきこもりを脱することができた。
でもこれはたまたま運が良かっただけだとおもっている。
実家に経済的余裕があったから一年の休息をとることができたけど、その余裕がなく無理して外に出ていたら心を壊していたかもしれない。
一念発起して受けたバイトの面接に落ちていたら意欲をなくしていたかもしれない。
正社員登用されていなかったらそのまま中年フリーターになっていたかもしれない。

いろんな「ラッキー」が重なっただけで今はそこそこ落ち着いた暮らしをできているけど、ほんの少し歯車がずれていたらぼくも『ルポ ひきこもり未満』に載る側だったかもしれない。



ひきこもりに対しては行政も対策を立てている。
が、あまり機能していない。

ひとつには、年齢制限を課していることがある。
これまでの公的支援が上手くいかなかった理由は、このように支援対象者を年齢や状態などで線引きしてきたことにある。勇気を出して、藁にもすがるような思いでたどり着いた最初の相談窓口の担当者から「あなたは支援の対象ではない」「あなたはここではない」などと冷たく突き放され、あるいは一方的な関係性の支援によって、社会に出ることを諦めてしまう――そんな経験をしてきた当事者たちは少なくない。
 こうした支援のあり方は、話題になっている「8050問題」のひきこもり長期高齢化や、地域で家族ごと潜在化していく大きな要因にもなっていて、当事者たちから「排除の暴力」と批判されてきた。
 柴田さんとやりとりしていた当時、ひきこもり支援の国の施策は、内閣府の「子ども・若者育成支援推進法」が法的根拠とされてきた。そのため、現場の自治体でも、「ひきこもり支援」のゴールは「就労」とされ、「三九歳以下の若者就労支援」に重きが置かれた。その支援の対象から弾かれた本人や家族は、せっかく相談にたどり着いても、せいぜい精神医療へと誘導されるのが実態だった。
せっかく支援制度があっても「二十代・三十代のひきこもりの人が対象」などと制限を設けてしまう。

まあ救いやすいほうから救うという考えもわからんでもないが、しかしより深刻なのは中高年のひきこもりのほうだ。
若ければ本人の意志次第でなんとかなることも多いが(その意志を奮いおこすのがたいへんなんだけど)、中高年の場合は本人の意志だけではどうにもならないことも多い。
正社員はもちろんアルバイトや派遣の職すらなかなか見つからない。周囲の目は厳しくなるどころか認知すらされなくなる。

ほんとはここにこそ行政が手を伸ばすべきなんだろうけど、成果が上がりづらいからか、放置されてしまう。
本人だけでなく、社会にとっても大きな損失なのだが。


『ルポ ひきこもり未満』に出てくる人の経歴を見ると、「たまたま運が悪かっただけ」の人も多いようにおもう。
たまたま最初に入った会社がブラック企業だった、たまたま直属の上司がパワハラ体質だった、たまたま会社の経営が傾いた。
本人の意思でどうにもならない事情が大きい。
もちろんどんな逆境でも乗りこえられるスキルや精神力を持った人もいるが、そんなのは少数派だ。
些細なきっかけでひきこもり生活に転落してしまう。そして一度道を外れると復帰するのはすごくむずかしい。

役所で非正規雇用をされている人の話。
 さらに、濱口さんが何よりも苦痛だったのは、仕事がないのに採用され続けていたことだという。何もすることがないのに職場にいることは、とても耐えがたかった。
 何をしていればいいのかわからないまま、時間が過ぎるのを待つ。指示も何もない。指示があっても、「何もしなくていいよ」と言われる。濱口さんは、生きている価値を否定されているような感覚に襲われた。
 そんなひどい状況であっても、「政治的な約束」を実行するために、その後も非正規は、採用され続けた。
 そもそも濱口さんは、失業対策のために雇われているから仕事がない。仕事を与えられないけど、自分も何かしなければと思っていた。雇わなければいけないことになっているから、給料も支払われる。
 同僚の中には、「仕事しないなら、私、行かない」と言って辞めてしまった人たちもいた。とにかく仕事がなかった。
 一方で、残業するほど忙しくしている部署もあった。しかし、職場側は、同一賃金を払わなければならなくなるため、非正規には仕事をさせようとしない。「働き方改革」が言葉の響きだけで骨抜きになるのではないかと懸念されるのは、まさにこの点である。当初、もらっていた仕事も、途中から来なくなることもあった。
 失業率の数字を下げるといっても、構造的な面での「からくり」に過ぎない。仕事がないために、スキルを付けないまま歳を取っていく。すると、求人欄で足を切られて応募ができなくなるという、負のループにハマっていく。
非正規雇用を増やし、一人でやっていた仕事を二人で分ければ数字上の失業率は低下する。
だけど出せる金は限られているから一人あたりの給料は減る。
「ギリギリ生活できる人」を増やしたにすぎない。

公務員はどんどん非正規化されていっている。
政府が「失業率が下がった!」と喧伝するためだけに弱い立場の人が犠牲になっているのだ。

一億総活躍時代の実態は「みんなで貧しくなろう」だ。


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2019年12月4日水曜日

【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』

戦争における「人殺し」の心理学

デーヴ=グロスマン (著)  安原 和見 (訳)

内容(e-honより)
本来、人間には、同類を殺すことには強烈な抵抗感がある。それを、兵士として、人間を殺す場としての戦場に送りだすとはどういうことなのか。どのように、殺人に慣れされていくことができるのか。そのためにはいかなる心身の訓練が必要になるのか。心理学者にして歴史学者、そして軍人でもあった著者が、戦場というリアルな現場の視線から人間の暗部をえぐり、兵士の立場から答える。米国ウエスト・ポイント陸軍士官学校や同空軍軍士官学校の教科書として使用されている戦慄の研究書。

戦争について考えるたびにおもう。
自分が戦争に行くことになったらどうしよう、と。
もちろん「殺される」恐怖もあるが、「殺す」恐怖もある。どちらかといったら「殺す」恐怖のほうが強いかもしれない。
ぼくが最後に人を殴ったのは中学一年生のとき。たあいのない喧嘩で。本気じゃない。怪我させるつもりすらなかった。それ以来、人を殴ったことはない。
そんな自分が戦場に出向いたとき、はたして見ず知らずの相手に向かって引き金を引けるのだろうか。

また、周囲の人間についても想像する。
自分の友人のアイツや同僚のアイツも、戦争に行ったら敵兵をばんばん撃ち殺すんだろうか。気のいいアイツらが戦場に行けば冷徹な殺人マシーンに変わるのだろうか。
ぼくのおじいちゃんも戦地に行ったそうだが、あの優しいおじいちゃんも敵兵を殺したんだろうか(ぼくがその疑問をぶつけることのないままおじいちゃんは亡くなってしまった)。

だとしたら、戦場のいったい何が人間をそこまで変えるのだろうか。



『戦争における「人殺し」の心理学』は、ぼくの長年の疑問に答えを示してくれた。

まずぼくが根本的に勘違いしていたことだが、戦場に行ったからといって人は殺人マシーンに変わらないということだ。
 第二次世界大戦中、米陸軍准将S・L・A・マーシャルは、いわゆる平均的な兵士たちに戦闘中の行動について質問した。その結果、まったく予想もしなかった意外な事実が判明した。敵との遭遇戦に際して、火線に並ぶ兵士一○○人のうち、平均してわずか一五人から二〇人しか「自分の武器を使っていなかった」のである。しかもその割合は、「戦闘が一日じゅう続こうが、二日三日と続こうが」つねに一定だった。
 マーシャルは第二次大戦中、太平洋戦域の米国陸軍所属の歴史学者であり、のちにはヨーロッパ作戦戦域でアメリカ政府所属の歴史学者として活動した人である。彼の下には歴史学者のチームがついていて、面接調査に基づいて研究を行っていた。ヨーロッパおよび太平洋地域で、ドイツまたは日本軍との接近戦に参加した四○○個以上の歩兵中隊を対象に、戦闘の直後に何千何万という兵士への個別および集団の面接調査が行われたのである。その結果はつねに同じだった。第二次大戦中の戦闘では、アメリカのライフル銃兵はわずか一五から二〇パーセントしか敵に向かって発砲していない。発砲しようとしない兵士たちは、逃げも隠れもしていない(多くの場合、戦友を救出する、武器弾薬を運ぶ、伝令を務めるといった、発砲するより危険の大きい仕事を進んで行っている)。ただ、敵に向かって発砲しようとしないだけなのだ。日本軍の捨て身の集団突撃にくりかえし直面したときでさえ、かれらはやはり発砲しなかった。
最前線に立って、敵兵を目の前にして、殺さなければ自分や仲間が殺されるかもしれない状況において、手元には弾の入った銃があって、それでも大多数の兵士は敵を撃たないのだという。
熾烈を極めた第二次世界大戦の戦闘ですら、発砲した兵士は銃を持っていた兵士の15~20%ぐらい。その中の大半は空に向かって撃つなどの威嚇射撃だったので、敵兵めがけて撃った兵士は全体の2~3%ぐらいだったというのが著者の見立てだ。

これを知ってぼくは安心した。
なんだ、人間もそこまで捨てたもんじゃないな。
ああよかった。人間は基本的に殺人が嫌いなのだ。

積極的に敵兵を殺す2~3%の人間にしても、イコール快楽殺人者というわけではないようだ。
 面接調査に応じたある復員軍人はこう語ってくれた。彼の考えでは、世界の大半は羊なのだ。優しくておとなしくて親切で、真の意味で攻撃的になることはできない。だがここに別の種類の人間がいて(彼自身はこちらに属する)、こちらは犬である。忠実でいつも油断がなく、環境が求めればじゅうぶんに攻撃的にもなれる。だがこのモデルにならって言えば、この広い世界には狼(社会病質者)や野犬の群(ギャングや攻撃的な軍隊)も存在するわけで、牧羊犬(兵士や警察)は環境的にも生物的にもこれらの野獣に立ち向かう傾向を与えられた者だ、ということになる。
彼らは攻撃的な資質は持っているが、あくまで「殺してもいい状況になれば殺せる」なので、兵士や警察官といった職業につけばむしろ英雄として社会から受け入れられやすい。
もちろん反社会的勢力に属した場合はたいへん危険な存在になるわけだが、それは彼ら自身の罪というより社会の責任の話だろう。


水木しげる氏の戦争体験談で、「ぼくは臆病だったので戦闘になってもすくみあがってしまって何もできなかった」というようなことを書いていたが、水木しげる氏だけが特に臆病だったわけではなく、あれこそが標準的な行動だったのだ。
「さあ戦闘だ。敵を撃つぞ!」と思えるのはごくごく少数の人間だけなのだ。

多くの兵士は戦争を通して精神病になる(戦いが長期化するとほぼ全員が精神に支障をきたす)が、空襲を受けて家や家族を失った人が精神病になる割合は平時と変わらなかったそうだ。
つまり、「自分が殺されそうな目に遭う」よりも「敵を殺す」ほうが精神的な負担は大きい。
多くの兵士は人間としての尊厳を守り、他人を殺すぐらいなら死を選ぶ。なんて美しいんだ!いいないいな人間っていいな!



……ところが、面と向かっている相手を殺しにくい」だけで、条件を超えると殺人の抵抗はぐっと下がる。
チームで戦っているとか、あ仲間が殺されるとか、強い上官から命令されるとか、既に一人以上殺しているとかの条件がそろうと、殺人の敷居は下がるのだそうだ。

特に重要なのは「相手の顔を見なくて済むこと」で、対象との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるそうだ。
 圧倒的な音響と圧倒的な威嚇力で、火薬は戦場を制覇した。純粋に殺傷力だけが問題だったのなら、ナポレオン戦争ではまだ長弓が使われていただろう。長弓の発射速度と命中率は、銃腔に旋条のないマスケット銃よりはるかに高かったからである。しかし、中脳で考えている怯えた人間の場合、弓矢で「ヒュン、ヒュン」やっていたのでは、同じように怯えていてもマスケット銃を「バン!バン!」鳴らしている敵にはとてもかなわない。
 言うまでもなく、マスケット銃やライフル銃を撃つという行為は、生物の本性に深く根ざした欲求、つまり敵を威嚇したいという欲求を満足させる。と言うよりむしろ、なるべく危害を与えたくないという欲求を満たすのである。このことは、敵の頭上に向けて発砲する例が歴史上一貫して見られること、そしてそのような発砲があきれるほど無益であることを考えればわかる。
なるほど。
日本でも織田信長が火縄銃を使って戦いのありかたを変えたと言われているけど、単純な強さでいえばそんなに強くなかったんじゃないかな。
当時の銃は準備にも時間がかかっただろうし、命中率も高くなかっただろう。暴発の危険性だってあっただろうしね。
だが「相手をびびらせる」「殺人への抵抗を小さくする」という点で、銃は他の武器に比べて圧倒的に優れていたからこそ火縄銃戦法は成功を収めたのだろう。


太平洋戦争のとき、米軍のパイロットは空襲で日本本土に焼夷弾を落としていった。結果、多くの民間人が命を落とした。
攻撃を加えた米軍のパイロットが特別に冷酷非情だったわけではない。彼らだって、ナイフを渡され「これで民間人を百人殺せ」と言われたら、そんなことはできないと尻ごみしていたことだろう。たとえ相手が無抵抗だったとしても(いや無抵抗だったらなおさら良心がとがめたかもしれない)。

だが飛行機から焼夷弾を落とすのはナイフで人間の腹を切り裂くよりもずっとかんたんだ。
飛行機からは姿の見えない敵、自分がやることは相手の肉を切り裂くことではなくボタンを押すだけ、そういう「抵抗の少なさ」が大量殺人を可能にしたのだ。


だから近代の軍隊がおこなう訓練は、銃の命中率を高めるとかのテクニック的訓練よりもむしろ「人を殺したくない気持ちを抑えこむ訓練」に力を注いでいる。
 こうして第二次大戦以後、現代戦に新たな時代が静かに幕を開けた。心理戦の時代──敵ではなく、自国の軍隊に対する心理戦である。プロパガンダを初めとして、いささか原始的な心理操作の道具は昔から戦争にはつきものだった。しかし、今世紀後半の心理学は、科学技術の進歩に劣らぬ絶大な影響を戦場にもたらした。
 SL・A・マーシャルは朝鮮戦争にも派遣され、第二次大戦のときと同種の調査を行った。その結果、(先の調査結果をふまえて導入された、新しい訓練法のおかげで)歩兵の五五パーセントが発砲していたことがわかった。しかも、周辺部防衛の危機に際してはほぼ全員が発砲していたのである。訓練技術はその後さらに磨きをかけられ、ベトナム戦争での発砲率は九〇から九五パーセントにも昇ったと言われている。この驚くべき殺傷率の上昇をもたらしたのは、脱感作、条件づけ、否認防衛機制の三方法の組み合わせだった。
人間としてごくあたりまえに持っている「人を殺したくない」という気持ちを抑えるために、ほとんど考えずに引き金を引ける訓練を近代軍はおこなってきた。いや訓練というより洗脳といったほうがいいかもしれない。

結果、第二次世界大戦 → 朝鮮戦争 → ベトナム戦争 と、回を重ねるごとにアメリカ軍の発砲率は飛躍的に向上した。

……ところが。
訓練によって発砲するまでの抵抗感は減らすことができたが、発砲した後、人を殺した後の嫌悪感までは減らすことができなかった。
かくして、ベトナム戦争に従軍した兵士たちは(アメリカ国内の反戦ムードもあいまって)帰国後に罪の意識に押しつぶされ、多くの兵士がPTSDなどの精神的不調に陥った。


なんちゅうか、軍隊ってそういうものなんだといわれればそれまでなんだけど、つくづく狂ってるなあ。
人間性を壊す訓練を施すわけだもんな。
そして戦いが終わったら「さあ前と同じように生活せえよ」と言われるわけで、殺されるも地獄、殺すも地獄、いやほんと戦争なんて行くもんじゃないよ。あたりまえだけどさ。



この本を読みながらおもったんだけど、自衛隊はいざ殺し合いとなったらめちゃくちゃ弱いだろうね。
だっておそらく自衛隊員たちは「殺すための訓練」を受けていないだろうから。それどころか「殺さないための訓練」しか受けていないだろう。

どれだけ装備や技術が優れていても、隊員たちが敵を撃たないんじゃ戦いに勝てるわけがない。
敵を殺せない自衛隊と「殺すための訓練」を受けてきた軍隊が向きあったら、もう1対100ぐらいの負け方をするはず(『戦争における「人殺し」の心理学』ではそういう例が紹介されている)。

だからいくら軍事費を上げたって、自衛隊は戦闘集団としてはまるで役に立たない。
その解決策としては
・だから自衛隊は軍であることを捨てよう
・だから自衛隊を正式な軍にして敵を殺す訓練をしよう
のふたつがある。
ぼくの意見はもちろん前者だけど……。後者を唱える人が増えているようにおもうなあ。戦争を知らないからなんだろうなあ……。
そういう人にはぜひ『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで自分が帰還兵になった気持ちを想像してほしい。



この本にはあまり書かれていないけれど、人を殺すための条件として「年齢」はかなり重要だとおもう。

ぼくも小中学生のときは「あいつ殺したい」とか「死ねばいいのに」とかよくおもっていた。
もしも当時のぼくがデスノートみたいな「こちらの身は安全で絶対にバレない殺害方法」を持っていたら、ばんばん教師や級友を殺していたとおもう。

でも今はそこまでおもわない。殺したいほど憎んでいる人はいないし「死ね」と呪うこともない。
せいぜい「あいつ会社クビになればいいのに」「あいつ逮捕されねえかなあ」「たちの悪い病気になればいいのに」ぐらいで、子どものときに比べればずっと穏健な思想になった(卑屈ではあるが)。
嫌いなやつに対しても「まああんなやつでも死ねば悲しむ人もいるだろうから死ぬことはあるまい」ぐらいの優しさは抱けるようになったのだ。

たぶんぼくだけでなく、子どもはそういう生き物なんだとおもう。ブレーキのかけどころを知らない。だから子どもに銃を持たせたらカッとなっただけですぐにぶっ放しちゃうとおもう。

ゲリラやテロ集団が少年兵を育成するのも、少年のほうが「人を殺したくない」という気持ちが弱いからなんだろう。

未来の戦争は「子どもがゲームをする感覚で敵を殺せる兵器」が活躍するんだろうなあ。いや、もうあるのかも……。



この本、中盤まではおもしろかったんだけど(ちょっと冗長ではあるが)、最終章はいらなかった。
「アメリカ国内には暴力的なゲームや映画が増えている。そのせいで暴力行為への抵抗感がどんどん下がっている!」
みたいな話が延々と。
いや「もしかしたらそうなんじゃないかとわたしは危惧している」ぐらいだったらいいんだけどね。たしかなデータもなしに断言されても。

最終章は完全に蛇足。
これで評価を落としたなあ。

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2019年11月29日金曜日

【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ(著)  村井 理子(訳)

内容(e-honより)
仕事はパッとしないし、彼女に怒られるしで、ダメダメな日々を送る僕。いっそヤギにでもなって人間に特有の「悩む」ことから解放されることはできないだろうか…というわけで本気でやってみました。四足歩行の研究のためにヤギを解剖し、草から栄養をとる装置を開発。医者に止められても脳の刺激実験を繰り返し―。イグノーベル賞を受賞した抱腹絶倒のサイエンス・ドキュメント。

トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。

『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。


誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。

セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。



『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。

これもおもしろそう! とおもったのだが……。

うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。

ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。



とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
それに加えて、これはすべての種に見られることだが、家畜化は脳の萎縮をまねく。犬の脳は狼の脳より小さく、一般的な家畜のヤギは野生のヤギよりも小さな脳を持つし、豚の脳はイノシシの脳より小さい。そして興味深いことに、過去三万年間において、人間の脳も萎縮しているのだ。実際のところ、ホーレンシュタイン・シュターデル洞窟のライオンマンを彫った人間は、我々と比較して、テニスボール一個分大きい脳を持っていたのだ。彼らはまた、我々よりも体格がよく、大きな歯と、よりしっかりとしたあごを持っていた。
 この進化のパターンは、人間も家畜化のプロセスを辿っており、凶暴さをそぎ落とされる方向に淘汰されつつあるという、興味深い考えに行きつく。ただし、人間を家畜化したのは、人間自身なのだ。この自己家畜化プロセスは、どのように行われたのだろう? ハーバード大学の生物人類学教授のリチャード・ランガム氏によれば、それは以下のようになされた可能性があるという。誰か(怒っている若い男性の場合が多い)が、その暴力的な気質で集団を混乱させ続ける場合、集団の残りのメンバーは団結して、その若い男に対処しようと決める。そして不穏なことが起こる。集団の残りのメンバーたちは結託して彼の頭に岩を打ちつけたり、崖から突き落としたり、槍で突き刺したりするというわけだ。手荒いやり方ではあるが、問題は解決する。

現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。

ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。

ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。



ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
「その通り。僕らはものごとを快適にして痛みを軽減することはできるけれど、体の各部位にかかる圧力を減らすことはできない。その圧力が君を破壊するってわけだ」
 破壊なんて強い言葉だけれど、でも彼らはゆずらなかった。それじゃあ、義足をつけてマラソンを走った男性は?
「それは素晴らしいことだな」とジェフは言った。「でも、臨床的観点で言うと、狂気の沙汰だ。マラソンが終わった後の足の状態を見てみたい。フニャフニャになるまで叩いたハムみたいになっているはずだ。しかしそうだったとしても、そのランナーは二本足で立っていたわけだ。君の場合は問題が山積みだよ。例えばどうやって頭を上げておく? めちゃくちゃ辛いはずだ。ヤギには人間よりも強い項靱帯というものがある。それは、ピンと張ったロープのようなもので、首の後ろ側にあって、それがあるおかげで頭を上げておくことができるんだ。でも君にはそれがない。それから、たとえ項靱帯のような装具を作ることができても、君はそれを作るべきじゃないと思う。だって快適過ぎてしまうから。君には疲れてもらわなくちゃならない。疲れることで、止まることができるからね。長期間頭を上げ続けて、神経や頭への血流に影響を与えることを避けないと」
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。

そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。


ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。

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【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』



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2019年11月28日木曜日

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』

のび太の魔界大冒険

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
「もしも……魔法の世界になったら!!」。魔法が使えることを夢見るのび太が、もしもボックスでそう願うと、次の日の朝には、街の空は空飛ぶじゅうたんでいっぱい!!ママは指先から光を出して朝食を作り、小学校では物体をうかす授業をしている。そう、本当の魔法世界になったのだ!!そんななか、のび太とドラえもんは魔界博士の満月先生とその娘の美夜子に出会い、博士の魔界接近説を聞いた。魔界が接近して地球をほろぼすというのだ。にわかに信じがたいのび太たち。だが、次の日、再び満月博士の家を訪ねると、博士の家が跡形もなく消えていた!!すべてが謎のまま夜を迎えると、昼間からのび太たちのそばにいた不思議なネコが、月の光を浴びて、美夜子になった!!彼女は博士が魔物にさらわれたと言い、いっしょに魔界に乗りこんでほしいと哀願する。さあ、どうする!?のび太、ドラえもん!!仰天摩訶不思議の大長編シリーズ第5弾!!
小学生のときに買ってもらって、何度もくりかえし読んだ本。
娘がドラえもんを読むようになったので、娘といっしょに読んだ。二十数年ぶりに。

いやあ、やっぱりおもしろい。
これは大長編ドラえもんの中でも最高傑作だ。

まずなにがいいってドラえもんがふつうに道具を使えること。
大長編ドラえもんって、たいていドラえもんの道具が使えなくなるんだよね。
いろんな事情で使える道具に制約がかかる話が多いんだけど、魔界大冒険はもしもボックス以外は使える(もしもボックスも終盤でドラミちゃんが持ってくるので使えるようになる)。道具を使えるのに倒せない敵、ってのがいい。敵の強大さがはっきりわかる。

やっとの思いで大魔王のところにたどりついたのに、あえなく一蹴されるとことか。
タイムマシンやもしもボックスといった反則級の能力を持つ道具を使ってもどうにもならなくなる絶望的な展開とか。
石ころ帽子をかぶっての緊張感ある潜入シーンとか。
ハッピーエンドかと思わせておいてもう一度ひっくりかえす裏切りとか。
とにかくハード。何度も絶望させられる。だからこそ、最後の最後で大魔王を倒したときのカタルシスはすごい。
「たのむぜ名投手」このセリフもしびれるし、期待に見事応えてみせるジャイアンはほんとにかっこいい。

誰もが空想したであろう「もしも魔法が使えたら」という導入の自然さから、楽して魔法が使えるわけではないというせちがらさを経て、徐々にのび太が魔法を使えるようになってゆく姿も王道冒険ストーリーもいい。
この展開で心躍らない子どもはいないでしょ。

のび太とドラえもんが喧嘩して仲直りするシーン、美夜子さんがのび太を信じて後を託すところなど、些細な心の動きを丁寧に描いているのも名作たるゆえん。

石像、帽子の星、最後のオチなど、伏線の張り方も自然で、SFとしても完成度が高い。
ちょっと絶賛しすぎかなと自分でもおもうが、褒めるところしかないのだ。

あと悪役が魅力的なのもいい。大魔王はちょっと印象に残らないけど、星の数で張り合う魔界の連中は妙に人間くさくていい。

そしてなんといってもメジューサ。
ドラえもん映画史上もっともおっかない敵じゃない?


子どものときはトラウマになるぐらいこわかった。今読んでもやっぱりこわい。
最恐にして最強。
だって
・空を飛べる(しかも速い)
・時空の流れに逆らって飛べるのでタイムマシンで逃げても追いつかれる
・人間を石にする
・石にされた人間は動けなくなるが意識だけは残る
と、とんでもない凶暴性。弱点もない。

なによりおそろしいのは、こいつはドラえもんとのび太を石に変えた後、どこへともなく姿を消して二度と現れないってことだ。大魔王は倒されたことがはっきりと描かれるが、メジューサの行方は最後までわからない。パラレルワールドではまだ生きているにちがいないとぼくはおもっている。

今も時空のはざまでうなり声を上げながら人々を石に変えるために飛びまわってるのかもしれない……。


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2019年11月20日水曜日

【読書感想文】生産性を下げる方法 / 米国戦略諜報局『サボタージュ・マニュアル』

サボタージュ・マニュアル

諜報活動が照らす組織経営の本質 

米国戦略諜報局(OSS) (著)
越智 啓太(監修・訳) 国重 浩一(訳)

内容(Amazonより)
CIAの前身、OSSが作成した「組織をうまくまわらなくさせる」ためのスパイマニュアル。「トイレットペーパーを補充するな」「鍵穴に木片を詰まらせよ」といった些細な悪戯から、「規則を隅々まで適用せよ」「重要な仕事をするときには会議を開け」まで,数々の戦術を指南。マネジメントの本質を逆説的に学べる、心理学の視点からの解説付き。津田大介氏推薦!

サボタージュマニュアルとは、CIAの前身に当たる米国の諜報機関OSSが作成した、諜報員向けのマニュアル。
第二次世界大戦の敵国の軍事活動や生産性を妨害するためのマニュアル。
マニュアルというとふつうは効率を上げたりミスを減らしたりするためにつくるものだが、このマニュアルは逆。どうやったら効率を下げるか、ミスを減らすか、人々のやる気がなくなるか、という発想で作られている。
当時はまじめにつくったのかもしれないが、ブラックユーモアのようでおもしろい。

といっても、サボタージュマニュアルの大部分は「トイレを詰まらせる方法」とか「燃料タンクに何を入れたら車が故障するか」とかで、悪質ではあるが程度の低いイタズラ、というレベルでどうもくだらない。
そもそも燃料タンクを一人で触れる立場にある人間以外には実行不可能だし。

完全イタズラマニュアル、といった感じ。
これ考えるのは小学生に戻ったようで楽しかっただろうなあ。でも実用性は乏しそう。


だがこのマニュアルの白眉は第11章。
▼11 組織や生産に対する一般的な妨害
(a) 組織と会議
1.何事をするにも「決められた手順」を踏んでしなければならないと主張せよ。迅速な決断をするための簡略した手続きを認めるな。
2. 「演説」せよ。できるだけ頻繁に、延々と話せ。長い逸話や個人的な経験を持ち出して、自分の「論点」を説明せよ。適宜「愛国心」に満ちた話を入れることをためらうな。
3. 可能なところでは、「さらなる調査と検討」のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)。
4. できるだけ頻繁に無関係な問題を持ち出せ。
5. 通信、議事録、決議の細かい言い回しをめぐって議論せよ。
6. 以前の会議で決議されたことを再び持ち出し、その妥当性をめぐる議論を再開せよ。
これは一部だが、この“妨害方法”は七十年以上たった現在でも十分通用する……というか多くの企業や官公庁で実行されているよね。

ぼくが前いた会社でも実行されてた。毎日朝礼して誰かが演説したり、なにかというと「それは会議を開いてみんなの意見を聴こう」と言いだすやつがいたり……。
もしかしたらあの人たちはどっかの諜報機関から送りこまれたスパイだったのかなあ……。そうおもいたい……。



おそらく学校教育のせいでもあるんだろうけど、「みんなで話しあえばよい知見が得られる」という思いこみを持っている人は多い。
たしかに集団の水準より下にいるバカからすると「他の人に考えてもらう」は有効な方策かもしれない(だから自分で考えない人間ほど会議をしたがる)。

しかしたいていの会議はレベルの低い人間に議論がひっぱられるので正しい結論が導きだされないことも多い。
このうち、スペースシャトル「チャレンジャー」は、1986年1月8日に打ち上げの途中で爆発しました。この事故に際しては、打ち上げ当日に気温が非常に低くなることが予測されたので、シャトルの部品を製作している下請け会社の技術者が、危険性を指摘していたのに、「会議」によってその発言が封殺されて、事故が発生してしまったのです。
 また、スペースシャトル「コロンビア」は、2003年2月1日、発射の際に主翼前縁の強化カーボンとカーボン断熱材が損傷したことにより、大気圏再突入時に空中分解してしまいました。この事故では、NASAの技術者のロドニー・ローシャが、打ち上げ時に断熱材が破損した可能性を早くから指摘し、再三にわたって、人工衛星からその部分を高解像度で撮影することや乗組員に直接チェックさせることを要求したのに対して「会議」でその意見が封殺されて、事故が発生したことが後の調査でわかりました。
「可能なところでは、『さらなる調査と検討』のためにすべての事柄を委員会に委ねろ。委員会はできるだけ大人数とせよ(けっして5人以下にしてはならない)」(5章▼11(a)3)、「重要な仕事をするときには会議を開け」(5章▼11(b)11)といったルールがサボタージュになり得るのは、じつはこのような現象が頻繁に生じるからなのです。

まったく同じ能力の人間が、完全に対等な立場で、自由闊達な雰囲気で話しあえば議論も有意義なものになるのだろうが、そんな会議はまずない。

声の大きいやつの意見が通るか、誰も反対しないような無意味な結論(「各自効率性を上げるよう努力する」みたいな)に達するか、後になって「だからおれはあの時反対したじゃないか」と自己弁護するための議論になることがほとんどだ。

もちろん複数人がからむプロジェクトにおいてコミュニケーションは必要不可欠だが、課題解決の手段としては会議はふさわしくない。
「意見のある人間が集まって意見を出し、それを踏まえた上で誰かひとりが方針を決める(もちろん意思決定者と責任をとる人物は同じ)」がいちばんいいやりかたなんだろうなあ。



 さて、このような「学習性無力感」を意図的につくり出すためにはどうすればよいでしょうか。サボタージュ・マニュアルの次の項目を見てください。「非効率的な作業員に心地よくし、不相応な昇進をさせよ。効率的な作業員を冷遇し、その仕事に対して不条理な文句をつけろ」(5章▼11(b)10)。これを行うと、効率的に一生懸命仕事をしている作業員は自分がやっていることがばからしくなるか、何をすればよいのかわからなくなってきます。つまり、学習性無力感が職場につくられてしまい。作業員の士気は大きく損なわれるのです。
これもよく見る光景だね。
無能なイエスマンが引き上げられた結果、現場の人間がどんどん辞めていくやつ。

このへんの「生産性を下げる方法」は共感できてすごくおもしろい。

生産性を下げるマニュアルがあるということは、この逆をやればいいだけなんだけど、ほとんどの組織はそれができないんだよなあ……。やっぱり大企業や省庁には諜報員がまぎれこんでてサボタージュ・マニュアルを実行してんのかな。


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2019年11月18日月曜日

【読書感想文】革命起きず / 『ゴトビ革命 ~人生とサッカーにおける成功の戦術~』

ゴトビ革命

人生とサッカーにおける成功の戦術

アフシン・ゴトビ(著)  田邊 雅之(取材・文)

内容(e-honより)
少年時代、イランからアメリカに移住。家族との別離や人種差別、苦学をしながらのUCLA卒業を経て、世界が注目するサッカー監督へ。数奇な運命と戦ってきた男だから教えられる逆境の乗り越え方と、組織を躍動させる秘訣。

本の交換で手に入れたうちの一冊。

本の交換しませんか

(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

アフシン・ゴトビの半生とインタビュー集。
といってもサッカーにあまり興味のないぼくは、アフシン・ゴトビという名前すら聞いたことがなかった。
ゴトビといっても決済日のことではございません(関西ジョーク)。

イランで生まれ、13歳からはアメリカで育ち、韓国代表のコーチやイラン代表監督を経て、2011年からは清水エスパルスの監督を務める人物だそうだ。

この本の刊行は2013年だが、この時点では「ゴトビはすごいぞ! ゴトビが日本サッカー界を変える!」といった調子で書かれているが、残念ながらその後もゴトビはエスパルスで結果を出すことはできず、2014年シーズン途中で監督を解任されている。
もちろんチームの結果が悪いのは監督だけの責任ではないが、とはいえ、10位(2011)→9位(2012)→9位(2013)→15位(2014最終順位)という成績を見ると、少なくともJリーグにおいては“ゴトビ革命”は起こせなかったのだろう。

ぼくとしては「成功者の本」よりも、むしろゴトビ監督が退任した後に「なぜうまくいかなかったのか」を分析する本のほうが読みたかったな。
成功者の自慢話から学ぶことはないが、失敗から得られるものは多いから。



とはいえ、中盤の失敗エピソードはおもしろい。
アメリカのでの大学選手時代に実力はあったので監督に気に入られなかったから試合に出してもらえなかったエピソードとか(あくまで自分でそう言ってるだけだけど)、故郷イランの代表監督に就任したものの権力争いに巻きこまれて様々な妨害に遭った話とか。

オシム氏もユーゴスラヴィア代表監督時代に各方面から脅迫されたって言ってたけど、人気スポーツの監督ってとんでもなく気苦労の多い仕事だよなあ。もちろん采配や指導もたいへんだろうけど、それ以上に本業以外の邪魔が多くて。
国家元首よりたいへんな仕事かもしれない。

このへんの話をもっと読みたかったなあ。
後半はゴトビ氏の「私は〇〇だ。だからきっと成功するだろう」みたいな話が並んでいるけど、2019年の読者からすると「でもあなた成果出せずにクビになってんじゃん」としかおもえないからなあ。

現役でやっている人をヨイショしすぎる本は書かないほうがいいね。



韓国代表チームの参謀、そして日本のクラブチームの監督の両方を経験しているゴトビ氏ならでの「韓国と日本の共通点」はおもしろかった。
 ただしこういう例を除けば、やはり日本にいちばん似ているのは韓国だ。その最大のものがヒエラルキー、つまり「タテの人間関係」で社会ができている点だろう。
 タテ社会の意識の強さは、強いサッカーチームを作っていくうえでネックにもなっている。サッカーではいったんホイッスルが鳴ってしまえば、最低でも45分間は試合が続く。この間、監督はほとんど何もできないし、試合に勝つには選手が自分で考え、判断し、リスクを冒してチャレンジすることが不可欠になる。
 だがタテ社会に慣れてしまっていると、ピッチ上でもなかなか自分で判断が下せなかったり、年上の選手の指示を仰いでしまう。そんなことをしていたら何度チャンスをつくってもフイにしてしまうし、守備でもあっという間にゴールを奪われてしまう。
 また、タテ社会の発想に慣れていると、本来の実力を発揮できないという問題も起きてくる。私が日本に来て気がついたことのひとつは、日本人選手は練習の出来と試合のパフォーマンスにかなり開きがあるということだった。実際、エスパルスにも練習では本当に素晴らしいプレーができているのに、試合になると力を発揮できなくなる選手が多い。
韓国を毛嫌いしている日本人は多いけど(そして日本を毛嫌いしている韓国人もきっと多いんだろう)、それは両国の国民性が「似ている」からなんだろうなとぼくもおもう。

なまじっか似ているからこそ些細な違いが許せないんじゃないかな。
何から何まで違う国民性だったら「もうあいつらはほんとしょうがねえな」ぐらいで呆れることはあってもそんなに腹は立たない。
でも微妙に歪んだ鏡だから「なんでこれが通じないんだ!」っておもって嫌いになるんじゃないかな。

こういうこというと、嫌っている人は烈火のごとく怒るだろうけど。

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2019年11月14日木曜日

【読書感想文】壊れた蛇口の消滅 / リリー・フランキー『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』

東京タワー

オカンとボクと、時々、オトン

リリー・フランキー

内容(e-honより)
オカン。ボクの一番大切な人。ボクのために自分の人生を生きた人―。四歳のときにオトンと別居、筑豊の小さな炭鉱町で、ボクとオカンは一緒に暮らした。やがてボクは上京し、東京でボロボロの日々。還暦を過ぎたオカンは、ひとりガンと闘っていた。「東京でまた一緒に住もうか?」。ボクが一番恐れていたことが、ぐるぐる近づいて来る―。大切な人との記憶、喪失の悲しみを綴った傑作。
私小説。
読みながら、けっこう早い段階で「ああこれはオカンの死を描いた小説だな」と気づいた。ぜったい泣かせにくるやつだ、と警戒しながら読む。
はたしてそのとおりの展開になるわけだが(まあ世のオカンはだいたいいつか死ぬ)、わかっていても悲しい。他人のオカンでもオカンの死は悲しい。

考えてみれば、「母親が死ぬ」なんてごくごくあたりまえの話だ。
たいていの人は母親より後に死ぬから、人生において一度は母親の死を経験することになる(二度経験する人はほとんどいない)。
だから「母親が死ぬ」というのは「小学校を卒業する」とか「仕事を辞める」とかと同じように普遍的な出来事だ……なのにどうしてこんなに悲しいんだろう。

いや、ぼくの母親はまだぴんぴんしているから母を亡くした悲しみは味わったことはないんだけど、それでもそのつらさは容易に想像がつく。
「父親が死ぬ」とはまた別格の悲しさだ。
ぼくの父も、父親を亡くしたときは泣いていなかったが母親を亡くしたときは号泣していた。
ぼくからしたら祖母が死んだわけだが、あまり悲しくなかった。まあ順番的にいっておばあちゃんは先に死ぬからな、という気持ちだった。
でも父親に感情移入して「この人はおかあさんを亡くしたのか」と考えていたら泣いてしまった。
「自分の祖母の死」よりも「父親のおかあさんの死」と考えるほうが悲しいのだ。


穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』という本の中で、穂村弘氏がこう書いている。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。

(中略)

でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この文章、すごく的確に「母への気持ち」を表しているとおもう。
もちろんすべての母子関係にあてはまるわけはないが、少なくともぼくは、この気持ちに全面的に同意する。

「世界中を敵に回してもぼくは君の味方だよ」という安っぽい言葉があるが、母親の子への愛情に関してはこの安っぽい言葉がぴったりとあてはまる。そして子のほうでもそれを知っている。この人はなにがあっても自分の味方なのだ、と。
リリー・フランキーさんの母親も、まさに「壊れた蛇口」のような人だったのだろう。我が子のためなら自分の人生を犠牲にしてもよい。おそろしいほどの愛情。
しかも信じられないことに、そんなふうに考えている母親がめずらしくないようなのだ(ぼくの母親もそれに近い)。おお怖い。


ぼくには娘がいる。
なにがあっても味方でいたい、とおもっている。娘に命の危険が迫っていたら自分の命を投げだすこともやぶさかではない。たぶん。
でも、娘が殺人犯になったらどうだろうか。それでもぼくは娘の味方でいられるだろうか、と考えると自信がない。糾弾する社会の側につくんじゃないかという気がする。

やはりぼくは母にはなれない。



リリー・フランキー氏のオカンのエピソードを読んでいると、なんとも男前な人だなあと感じる。
 小学生の頃、誰かの家でオカンと夕飯を御馳走になったことがあった。家に帰ってから早速、注意を受けた。
「あんなん早く、漬物に手を付けたらいかん」
「なんで?」
「漬物は食べ終わる前くらいにもらいんしゃい。早いうちから漬物に手を出しよったら、他に食べるおかずがありませんて言いよるみたいやろが。失礼なんよ、それは」
(中略)
「うちではいいけど。よそではいけん」
「きゅうりのキューちゃんやったんよ」
「なおのこといけん」
ある程度大きくなって、人の家に呼ばれる時は、オカンに恥をかかせないようにと、ちゃんとした箸の持ち方を真似てみたりするのだが、オカンはあまりそういう世間体は気にしないようだった。自分が恥をかくのはいいが、他人に恥をかかせてはいけないという躾だった。
 別府のアパートに来て、オカンは勘づいたらしく、こたつにいるボクの前に座って言った。
「あんた、煙草喫いよるやろ」
「うん.........」。なんでバレたんだろうかと、顔を上げられないでいると、オカンは自分の煙草とライターをボクの目の前に差し出した。
「喫いなさい」
「えっ......?」
「喫うていいけん、喫いなさい」
「オレ、マイルドセブンやないんよ......」
 どぎまぎして席を立ち、机の引き出しに隠したハイライトを出して来て、オカンの前で火をつけて喫った。オカンも煙草を喫いながらボクに話した。
「隠れてコソコソ喫いなさんな。隠れて喫ったら火事を出すばい。火は絶対に出したらいけん。人に迷惑がかかる。男やったら堂々と喫いなさい」
 次の日。オカンは別府の商店街で、会社の重役室に置くようなカットガラスの大きな灰皿を買って来て、こたつの上にどかんと置いた。
このエピソードだけで、ああ、“オカン”は立派な人だったんだなあとおもう。
箸の持ち方が変だったり、高校生が煙草を吸っていたりは気にしない。だけど他人に恥をかかせることや火事を出して他人に迷惑をかけることはぜったいに許さない。
自分を守るためではなく他人を守るためのマナーを徹底して教える。
マナーってそうあるべきだよね。
他人を攻撃するためにマナーをふりかざす人が多いけど、他人を守るためだけにマナーを使うオカン。かっこいいなあ。


オカンもオカンなら、オトンのほうも肝の据わったオヤジだ。
「おう。お母さんから聞いたぞ。就職せんて言いよるらしいやないか」
「うん。せん」
「どうするつもりか?」
「バイトはするけど、とりあえずまだ、なんにもしたくない」
「そうか。それで決めたならええやないか。オマエが決めたようにせえ。そやけどのお。絵を描くにしても、なんにもせんにしても、どんなことも最低五年はかかるんや。いったん始めたら五年はやめたらいかんのや。なんもせんならそれでもええけと、五年はなんもせんようにみい。その間にいろんなことを考えてみい。それも大変なことよ。途中でからやっぱりあん時、就職しとったらよかったねえとか思うようやったら、オマエはプータローの才能さえないっちゅうことやからな」
これ、よその子になら言える男は多いとおもうんだよね。
ぼくだって甥が「仕事したくない」と言いだしたら「そっか。じゃあしばらく遊んで暮らしたらいい」って言える。どっか他人事だから。
しかし自分の子にこれを言えるかというと、ぼくには自信がない。

大した肝っ玉だとはおもうが、このオトンの場合、単に父親としての自覚があんまりなかっただけかもしれんな……。ほとんど息子といっしょに住んでないから……。

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げに恐ろしきは親の愛情



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2019年11月13日水曜日

【読書感想文】凪小説 / 石井 睦美『ひぐまのキッチン』

ひぐまのキッチン

石井 睦美

内容(e-honより)
「ひぐま」こと樋口まりあは、人見知りの性格が災いし、就活をことごとく失敗した二十三歳。ある日、祖母の紹介で「コメヘン」という食品商社の面接を受ける。大学で学んだ応用化学を生かせる、と意気込むまりあだったが、採用はよもやの社長秘書。そして、初出勤の日に目にしたのはなぜか、山盛りのキャベツだった。

六歳の娘と毎週のように図書館に行って本を借り、毎晩のように読みきかせている。
年間三百冊以上の児童書を読んでいることになるが、それだけの絵本を読んでいるぼくの一押しが、石井睦美『すみれちゃん』シリーズだ。


「これはおもしろい! なんてみずみずしく少女の感覚を表現しているんだ!」と感動して『すみれちゃんは一年生』『すみれちゃんのあついなつ』『すみれちゃんのすてきなプレゼント 』と立て続けに読んだ。どれもおもしろかった。図書館で読んだ本だが、これは買っておいておかねばとおもい購入もした。

妹の誕生、妹との喧嘩、母親に対する不満、友だちとの関係。さまざまな出来事を通して、すみれちゃんの五歳から八歳までの成長を描いている。
同じ年頃の娘や姪がいるのだが、まさにこの時期の女の子ってこんなこと言ってこんな歌つくってこんなことで悩んでるよなあと共感することばかり。
自分が五歳の女の子だったときのことを思いだすようだ。五歳の女の子だったことないけど。



ということで期待しながら、同じ作者の大人向け小説を読んでみたのだが……。

あれ。あれあれあれ。ぜんぜんおもしろくない。
何も起こらない。謎もない。失敗もない。誤解も生じない。裏切りもない。悪意もない。差別もない。不幸もない。
ほんとうに何もない小説なのだ。ただ女性が就職してちょっとずつ仕事に慣れながらときどき料理を作るだけ。なんじゃそりゃ。
めちゃくちゃ文章がうまいとかユーモアがあるとかなら、平凡な日常もおもしろおかしく描けるのかもしれないが、それもない。
「それであの立派なオープンキッチン! すごいですね、吉沢さん」
 と、まりあは言った。
(そしてそれをすんなり聞いちゃう社長って。まるで妻の言いなりになる夫のようではないですか。)
 という部分は、こころのなかで思うだけだ。
「すごいだろ? 奥さんだって言わないようなことをサラッと言っちゃうんだから。でも、同時にそれができたら、いいなと思ったんだよ。なあ樋口くん、人間っていうのはなんでできていると思う?」
(えっ。いきなりなんですか?)
「水と、タンパク質?」
 おそるおそるまりあは答えた。答えながら、ここは食品商社なのだから、食べたものでできていると答えればよかったと後悔し始めていた。
「なるほど。そうきたか。僕はね、記憶でできていると思っているんだ。そう、人間っていうのは記憶なんだよ」
 予想外の答えにまりあは目を白黒させた。もちろん、ほんとうに白黒させたわけではなく、それは比喩だ。実際には、あきらかに大きなまばたきを二度して、米田を見た。
どうよこの説明過剰な文章。
「あ、安藤部長!」
「部長はなしだよ。倉庫番の安藤さん」
「いえ、そんな……」
「じゃあ、ただの安藤さん」
「ただの安藤さんていうのも、ちょっと」
 まりあがそう言うと、一瞬、安藤はキョトンとした。
「そうじゃないよ。呼ぶときはただのはつけないよ」
 安藤に言われて、今度はまりあがキョトンとする番だった。やや遅れて、
「あっ」
 まりあが小さな悲鳴のような声をあげた。
どうよこのそよ風のようなユーモア。

このつまんなさ、どこかで読んだことあるなと考えておもいだした。
『和菓子のアン』だ……。
「どんなクソつまらない本でも一度手にとったら流し読みでいいから最後までは読む」を信条にしているぼくが、「これはアカン……」と途中で原子炉に放りなげてしまった『和菓子のアン』だ(あぶないからマネしないでね)。
上すべりしている毒気のないユーモア、食に関する半端な蘊蓄、どうでもいい話が延々と続く退屈な展開。どれをとっても『和菓子のアン』だ。

しかし『和菓子のアン』もそこそこ売れていたから、こういうのを好きな人もいるんだろうね。朝ドラが好きな人とか。

ぼくの心には波風ひとつ立たなかったなあ。凪。

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2019年11月11日月曜日

【読書感想文】収穫がないことが収穫 / 村上 敦伺・四方 健太郎『世界一蹴の旅』

世界一蹴の旅

サッカーワールドカップ出場32カ国周遊記

村上 敦伺  四方 健太郎

内容(Amazonより)
現地観戦やサッカー協会訪問、選手に突撃取材……南アW杯に出場する32カ国を1年かけて廻ったアシシとヨモケンから成るユニット・Libero。その活動を記した人気ブログ「世界一蹴の旅」が、大幅な加筆修正を経てW杯直前に書籍化!1年に渡る感動と笑撃のサッカーバカによるサッカー外交で、W杯を32倍楽しもう!

某氏との本の交換で手に入れたうちの一冊。

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(上の告知はまだ有効です。一部の本は売り切れ)

ぼくはサッカーワールドカップだけはちょっと観る。ただしほとんどダイジェストで。
……という程度のにわかですらないサッカーファンだ。

しかしワールドカップはおもしろい。サッカーが好きというより「世界各国が集うお祭り」が好きなのだとおもう。
最先端の中継技術を楽しめることや、喜びかたにそれぞれの国民性があらわれることや、チーム事情に各国の背負っている政治背景が感じられることなどピッチ以外の見どころも多い。

2014年のワールドカップの時期にNHKスペシャル『民族共存へのキックオフ〜“オシムの国”のW杯』という番組を放送していた。
ぼくはその番組でボスニア・ヘルツェゴヴィナ、そしてユーゴスラヴィアの歴史を知った。その後に見たボスニア・ヘルツェゴビナ代表の試合はすごく楽しめた。
べつにサッカーのことじゃなくても、その国の歴史だとか地理とかがわかるだけでぐっとおもしろくなるのだ。


『世界一蹴の旅』は、サッカーファンの二人が、2010年ワールドカップ出場国32国(日本含む)をめぐった旅行記だ。
短い期間に32ヶ国をまわるということでかなりの駆け足になっているので旅行記としてはものたりないが、これを読んでいるとほんとにそれぞれの国の代表チームに興味が湧いてくるからふしぎだ。2019年の今となっては、とっくに終わった大会なのに。

テレビ局は、いまだに「駅前やパブで浮かれているにわかサッカーファンの声」を垂れながすことが自分たちの仕事だとおもっているが、ちょっと視点を変えるだけでこんなにおもしろいレポートができあがるのだ。

とはいえ、これはこの二人が勝手にやっているからこそおもしろいのであって、テレビとかが入ってきちんとしたレポートになるとつまらなくなりそうな気もする。

「オランダの道路はすごくややこしいからそこで生活しているオランダ人プレイヤーは視野の広いプレーができる」
とか
「アルゼンチン人は遊ぶときはしっかり遊ぶからマラドーナやメッシのように攻守で力の入れ具合の極端に異なるプレースタイルになる」
とか、現地を訪れた一ファンの感想として読む分にはおもしろいけど、公式レポートにしちゃうと「根拠のないいいかげんなことを言うな!」って怒られちゃいそうだもんなあ。



中国から北朝鮮に向かう電車の中で、たまたま乗り合わせた「日本語を専攻していた北朝鮮人」との会話。
対する僕も、北朝鮮人の日常生活や仕事、趣味に関する話などを聞いた。一緒にお酒を飲みながら語り合った中で感じ取れた彼らの考え方や価値観は、元々描いていた北朝鮮の閉鎖的なイメージとはかけ離れており、至極真っ当なものだった。この印象を決定付けた会話がこれだ。「なぜあなたは大学の専攻で日本語を選択したのですか?」と問うと、こんな答えが返ってきたのだ。「隣の国の人と会話できるというのは、人生の財産だと思うんですょ」と。
 彼自身、中国に行き来ができるほどの立場なので、北朝鮮人の中でも比較的グローバルな視点を持った人であることは確かだが、それにしても「日本語は人生の財産」という言葉が北朝鮮人の口から聞けるとは思いもしなかった。
 旅の醍醐味のひとつに、現地にて肌で感じ取った体験を通して、事前に張っていたレッテルを自分自身の手ではがしていくことが挙げられるであろう。今回もまた北朝鮮に対する先入観を自らの手で粉砕することができた。これだから旅は面白い。
へえ。北朝鮮でも日本語を専攻できるんだ。知らなかった。
それってもしかして日本に潜入して諜報活動をする工作員を養成しているのでは……と考えてしまったのはぼくの心が汚れているからですね、そうですね。すみません、魂のふれあいに水をさしてしまって。



いちばんおもしろかったのは、皮肉なことにニュージーランドのレポート。
皮肉というのは、ニュージーランドのレポートにはサッカーの話がまったく出てこないのだ。
ニュージーランドといえば、オールブラックスに代表されるラグビーの国。サッカーがまったく根付いていないのだ。
サッカーコートもサッカーボールを蹴っている人もいなくて、挙句に知り合った人から「サッカーワールドカップじゃなくてラグビーワールドカップの出場国をまわりなさい」と言われる始末……。

サッカーファン的には収穫のない話かもしれないけど、こういうのこそ実際に行ってみないとなかなか感じられない話なのでおもしろい。収穫がないことが収穫だね。


あとアメリカで「サッカーをどうマネタイズするか」みたいな話が出てくるのも、さすがはアメリカという感じでおもしろい。
ヨーロッパの国だったら「フットボールはスピリットを楽しむものだ。金儲けの話ばかりするな!」みたいなことを言われそうなものだけど、アメリカにおけるサッカーは「数あるスポーツのうちのひとつ」なのでドライにビジネスとしての現状を分析している。
プロである以上は金を稼がないといけないわけだし、金を稼げればいい選手が多く集まってくるわけだから、強くするためにもアメリカ的な視点が大事なんだろうね。

日本だと「子どもの野球離れが進んでいる」「この競技をどうやって盛りあげるか」と議論しても「どうやって金を稼ぐか」という話にはなりにくいよね。
「どう魅力を発信していくか」「もっとボランティアの活用を」みたいな声が多数を占めそう。そして衰退してゆく。
やっぱりスポーツは金儲けをしなきゃだめだよね。
ゴルフとかテニスなんかは(一部のプロは)すごく儲かるから、子どものときからやらせるわけだもんね。



「サッカー」という切り口であちこちまわるのはおもしろいね。
こういうワンテーマで掘り下げた旅行記があったらもっと読みたいな。

しかしこの本が物足りないのは、2010年ワールドカップ本選の話がまったく出てこないこと。
ワールドカップ直前に刊行された本なのでしょうがないんだけど、「事前情報では〇〇だったけど本選では××だった」みたいな後日談とあわせて読みたかったなあ……と2019年のぼくとしてはおもってしまう。
わがままな要望だけど。


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2019年11月5日火曜日

【読書感想文】すごい小説を読んだ! / 今村 夏子『こちらあみ子』

こちらあみ子

今村 夏子

内容(e-honより)
あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれ兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第26回太宰治賞、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

以前、『たべるのがおそい』という文芸誌で『あひる』という短篇小説を読んだのが、今村夏子さんの作品との出会いだった。
その奇妙な味わいがやけに心に残っていた。飼っているあひるをすりかえる、なんてどうやったら出てくる発想なんだ。

で、今村夏子という名前をぼんやりとおぼえてAmazonのウィッシュリストに入れたりしていたんだけど(買ってはいない)、芥川賞を受賞したというニュースを見て「しまった! 先を越された!」という気になった。
ぼくが先に目をつけてたんだからな! 芥川賞選考委員より先にな! という身勝手かつ勘違いもはなはだしい妄想にとりつかれて、「だったらもういい! 読まん!」という己でもわけのわからぬ意地を張ってウィッシュリストからも削除したのだが、その直後に古本屋でばったり今村夏子作品と出会って「わかったよ……負けたよ……」と、誰に何の勝負で負けたのかわからぬ呟きを残しながら買ったという始末。なんなんだこの話は。



そして『こちらあみ子』。
いやあ、すごい! 久々に「すごい小説を読んだ!」という気になった。
読みおわったあと、しばらく何も手につかなかった。
こんなにも感情を揺さぶられる小説を読んだのはいつ以来だろう。

お花を愛する女性と近所に住む子どものハートフルなふれあい……かとおもいきや、いきなり女性が「中学生のときに好きだった男の子から顔面を殴られたせいで今も歯がない」というショッキングな話を語りだす。
そして語られるのは、さらにショッキングなあれやこれや……。
「好きじゃ」
「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。
「好きじゃ」
「殺す」のり君がもう一度言った。
「好きじゃ」
「殺す」
「のり君好きじゃ」
「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真っ赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。
読んでない人にはなんのこっちゃわからないシーンだろうが、ぼくはここを読みながら息ができなかった。通勤電車の中で読んでいたのだが、周囲から人がいなくなったような気がした。
日本文学界に残る屈指の名シーンだ。



あらすじでは「あみ子は、少し風変わりな女の子」とオブラートに包んだ表現をしているが、あみ子は世間一般に言う「知的障害児童」だ。「支援」が必要な子だ。

小学生のときにひとつ上の学年にいた知的障害の女の子(当時は大人も子どもも「知恵おくれ」と呼んでいた)のことをおもいだした。
周囲にあわせた行動ができず、気持ち悪いと言われ、同級生からも上級生からも下級生からも等しくばかにされる女の子。
ひとつ下の学年であったぼくらもやはりその子をばかにして、まるで汚い犬のように扱った。感情を持たない生き物のように。

当時はどんな扱いをしてもいい存在だったあの女の子のことを、子を持つ親になって思いだす。
自分がいかに差別感情を持って接していた(接している)かを。そして自分の子どももそうなるかもしれないことを。
そして気づく。
あたりまえだけどあの子にはあの子なりの感情や論理があって、あの子を大切におもう家族がいて、その家族にもいろんなおもいがあったのだ、と。
あたりまえすぎることなんだけど、でも小学生だったぼくらにはわからなかった。

『こちらあみ子』は、そのわからなかった「あの子」の人生を追体験させてくれる。
「あの子」は自分とはまったく異なる人間ではなかったのだ、自分も「あの子」のすぐ近くにいたのだと気づかされる。

少し前に、小学校時代の同級生と再会した。昔毎日のように遊んでいたやつだ。
彼は精神病をわずらい、今は少しずつ社会になれる暮らしをしているのだという。障害者手帳も持っているそうで、つまり精神障害者だった。
だがぼくには、思い出の中にいる彼と、精神障害者という言葉が結びつかなかった。そういうのって“トクベツ”なやつがなるもんだろ?

だがじっくり考えるうちに、精神病になるのはトクベツでもなんでもないのだと気が付いた。誰でも風邪をひくことがあるのといっしょ。風邪をひきやすい人とそうでない人のちがいはあるが、ぜったいに風邪をひかない人はいない。
精神病のあいつも、“知恵遅れ”のあの子も、トクベツではなかったのだ。



べつの短篇『ピクニック』もよかった。

ばればれの嘘をつく人と、嘘だと気づきながら信じてあげる人たちの優しい世界。
優しい、けれど見方を変えればものすごく残酷な世界。

こういう人、いたなあ。
大学生のとき、サークルにどう見てもモテないYという男がいて「おれには彼女がいる」と言っていた。
でもいつ誘っても顔を出すし、合コンにも積極的に行っているし、彼女の姿はおろか写真すら誰も見たことがなくて、ぼくは「ほんとに彼女がいるのかなあ」とおもっていた。もちろん口には出さなかったが。

でもあるとき口の悪い後輩が「Yさんに彼女がいるっていうの、あれ嘘でしょ。脳内彼女でしょ」と言いだした(さすがにY本人はいない場だった)。
するとなぜか無関係である周囲の人たちがあわてだして、「いやまあいいじゃないそれは……」「まあまあ。本人がいるって言ってるんだからさ……」「問いただして、ほんとだったとしても嘘だったとしても後味の悪さしか残らないからさ。だから本当ってことでいいじゃない……」と歯切れの悪いフォローをはじめた。
それを聞いて、ぼくは「ああ、嘘だとおもっていたのはぼくだけじゃなかったのか」と安心した。みんな、嘘に気づいていて、気づかぬふりをしていたのだ。
知らぬはY当人ばかり。周囲はYを気づかっているようで「彼女がいないのにいると主張している哀れなやつ」と見下していたのだ。
優しいようで、すごく残酷な話だなあ。

いや、Yにほんとに彼女がいたのかもしれないけど。

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