2018年11月30日金曜日

数学で百点をとる方法


はるか昔の自慢。

高校二年生のとき、数Bのテストが五回あったが(一学期中間、期末、二学期中間、期末、学年末)、ぼくはそのすべてで百点をとった。
ちなみに数Ⅱでも五回中三回百点をとり、あとの二回も九十七点ぐらいだった。

これはすごいことだと胸を張って言える。
ぼくが通っていたのはそこそこの進学校だったから、決して易しい問題ではない。
それなのに五回連続百点。すごい。
数学教師ですら何も言ってくれなかったから自分で言うけど、すごい。


数学が得意だった人ならわかると思うが、百点をとるのと九十五点をとるのは難しさがぜんぜんちがう
九十五点をとるのは、教科書に書いてあることを完璧に理解すればできる。
これはそこまでむずかしいことじゃない。基礎ができている人であれば、時間をかけさえすれば誰でもできる。
だって教科書というのは、本来「それを使う生徒全員がすべて理解できるようになる」ために作っているものだもの。
「一部の特殊な人にしか理解できないこと」は教科書には載っていないのだから。

教科書を完璧に理解したとしても、百点をとるのはむずかしい。
数学には計算が必要である以上ミスはつきものだ。

数学で百点をとるためにはチェックが欠かせない。
少なくとも二回、できれば三回解いてみる。そうしないと百点はとれない。まして五回連続百点など。

六十分のテストであればどんなに遅くても三十分以内にはすべて解きおわらなければならない。
二十分かけてもう一度すべての問題を解く(二回目は早く解ける)。
残りの十分でざっとチェックする。
ここまでやればほとんどのミスは防げる。

つまり確実に百点をとるためには、教科書の内容を完全に理解しているだけでは足りず、「とにかく早く解く」ことが必要になる。
一度目は雑でいいからとにかく早くやる。他の人の二倍以上の速さで解く。これだけで、かなりの確率で百点をとれる。

この方法で、センター試験でもぼくは満点をとった。




このやり方は仕事をする上でもたいへん役に立っている。

ミスをしないためには「とにかく丁寧にやる」ことが大事だと思っている人がいる。
ぼくから言わせると大間違いだ。そんなことではぜったいに百点はとれない。
大事なのは「雑でもいいからとにかく早くやる」だ。

一週間以内に企画をつくらないといけないのであれば、二日でつくってしまう。それを提出する。
そうすれば「伝え忘れていたけどこんな資料もほしいんだ」と言われたときにも「こっちが意図していたものとぜんぜん違いますね」となったときにも、修正できる。

早くやって時間を余らせれば見直す余裕もできるし、間違えたときに修正もできる。
結果的に失敗を防げる。


試験終了のチャイムが鳴る前に見つけたミスはミスじゃない。


2018年11月29日木曜日

遊ぶ金欲しさ


ぼくの通っていた高校はアルバイト禁止だった。
特段の事情がある場合は届け出て学校の許可をもらえばアルバイトをしてもよいということになっていたが、学業を優先させるべし、ということで原則禁止だった。

とはいえ、学校に内緒でこっそりバイトをしている生徒はいた。
こづかいの足しにするために、近くの飲食店やスーパーなどでバイトをするのだ。
とはいえ、田舎のことなので高校生が働ける場所はそう多くない。おまけに近所に住んでいる教師もいるので、へたな場所でやると見つかってしまう。バレたら厳重注意、その後また見つかったら停学だ。遊ぶ金欲しさのバイト、そして停学。

リスクが高いので、バイトをやっている生徒は多くなかった。そもそも塾や部活で忙しいのだ。
うちの高校では、アルバイトはちょっと不良の子がやるもの、という認識だった。


あるとき、家から少し離れたところにあるコンビニに入ったら隣のクラスのYくんがコンビニの制服を着てレジにいた。何度か言葉を交わしたことのあるやつだ。
「おう。バイトしてるんや。まじめそうに見えて、けっこう悪いなあ」
ぼくは声をかけた。
Yくんは少し恥ずかしそうに「おお、まあな」と言った。
「大丈夫、学校には内緒にしとくから」
ぼくは笑い、彼からジュースを買って店を出た。

少し後に、別の友人と話していて
「そういや前、Yくんがコンビニでバイトしてるのを見たわ。ふだんはまじめやのにちょっと意外やな」
と言うと、
「Yはちゃんと学校に許可をとってバイトしてるんやで」
と教えられた。


その言葉で事情をさとり、ぼくは己の考えの浅はかさを恥じた。
高校からアルバイトを許可されるのは、家庭に経済的な事情がある場合だけだ。
Yくんの家は、高校生のバイト収入をあてにしないといけない経済状況だったのだろう(「Yの父親は何度も選挙に出馬して落選している」という話も聞いた)。

ぼくが育った街は戦後に造成された住宅地。
小学校でも中学校でも、同級生の大半はサラリーマン家庭だった。みんな同じような広さの一戸建てに住んでいたから、経済状況も似たり寄ったりだったはずだ。
高校もそのエリアにある公立高校だったので同じような環境だった(Yくんは少し離れたところから通っていた)。

ぼくにとって「高校生の息子がバイトしないと生活に困る家」というのは想像の埒外だった。
高校生がバイト=遊ぶ金欲しさ、という間抜けな等式がぼくの中にできあがっていたのだ。


必要に駆られてバイトをしているYくんに「けっこう悪いなあ」と声をかけるなんて、申し訳ないことをした。
かといってYくんに「家計を助けるために働いててんな。そうとは知らずにごめんな」と言うのも、かえって嫌な気持ちにさせるんじゃないかと思って何も言えなかった。

今でもこころぐるしい思い出。

2018年11月28日水曜日

寝返り戦争


じっさいの戦争も、将棋みたいに「敵兵を捕獲したら味方として使える」ってルールにしたらいいのにね。

そしたらなるべく相手を殺さないようになる(だって将来の味方だもの)。
兵士の待遇を悪くしたらわざと捕まって相手側に寝返ったりするから、兵士の待遇は良くせざるをえなくなる。
「ほら、こっちの軍はこんなにうまいもの食ってるぜー」
「こっちは週休三日もあるぜー。福利厚生もしっかりしてるしなー」
って、いかに自分の軍が魅力的かをアピールしあうようになる。

戦争が終わったら、寝返った兵士もちゃんと市民権を得て相手国での生活を保障される。家族も呼び寄せていい。


そんな制度になって、日本が戦争を始めたら……。

「あいつは国を捨てて出ていこうとしてたぞ!」
「みんながつらい生活を送っているのに自分だけ他の国でいい暮らしを送ろうなんて虫が良すぎる!」
って言って、日本軍は味方を殺しまくるだろうな。
幸せになれる人から幸せになるよりも、みんなで不幸になるほうを選ぶだろうな。

2018年11月27日火曜日

【読書感想文】ぼくらの時間はどこにいった / ミヒャエル・エンデ『モモ』


モモ

~時間どろぼうとぬすまれた時間を人間にかえしてくれた女の子のふしぎな物語~

ミヒャエル・エンデ(著) 大島 かおり(訳)

内容(e-honより)
町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。
『はてしない物語』でも知られるミヒャエル・エンデの代表作。

この話、中学校の国語の教科書に載っていたなあ。
しかし教科書の悪いところで、物語の中盤しか載っていなかったので「なんとなくおもしろそうだな」とは思いつつもぜんぜん意味がわからなかった。

いやほんと教科書ってひどいよね。ばかが作ってんのかな。
前半部分がばっさりカットされて
「時間どろぼうから逃れたモモはカメのカシオペイアとともに”どこにもない家”にやってきます」
みたいなあらすじしか書いてないんだもの。
それだけ読んで「あーなるほどそういう話ね」ってなるわけないだろ!



『モモ』は子ども向けのお話だけど、つくづくよくできた寓話だと思う。

物語の中であつかわれている時間の感覚に関しては、大人のほうがずっと共感できるんじゃないかな。
 仕事がたのしいかとか、仕事への愛情をもって働いているかなどということは、問題ではなくなりました――むしろそんな考えは仕事のさまたげになります。だいじなことはただひとつ、できるだけ短時間にできるだけたくさんの仕事をすることです。
 大きな工場や会社の職場という職場には、おなじような標語がかかげられました。
  時間は貴重だ──むだにするな!
  時は金なり──節約せよ!
これと似たような標語は、課長の事務づくえの上にも、重役のいすのうしろの壁にも、お医者の診察室にも、商店やレストランやデパートにも、さらには学校や幼稚園にまで、はり出されました。だれひとりこの標語からのがれられません。
 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということには、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとり認めようとはしませんでした。
人間はずっと忙しくなりつづけている。

昔は一日がかりだった東京ー大阪間の移動が、新幹線や飛行機によって二時間ちょっとで移動できるようになった。
じゃあその分人々の暮らしには余裕が生まれたのかというと逆で、みんなせわしなくなっった。
昔だったら長い時間をかけて遠くに行って、ちょっと仕事をして、その土地のうまいものを食って、夜は酒を呑んで宿に泊まって翌日またたっぷり時間をかけて鉄道に乗って帰る、なんてスケジュールだったのが、今では東京ー大阪でも余裕で日帰りで行ける。朝早く出て、二時間ちょっとで目的地についてあわただしく仕事を済ませて、夕方の新幹線に乗ってその日のうちに帰ってくる。なんてあわただしさだ。
(昔のサラリーマン生活に関しては経験したことないから想像だけど。)

コンピュータの登場で計算は以前とくらべられないぐらい早くなった。昔なら一日がかりだった計算も、数秒で終わる。
じゃあその浮いた時間は余暇に使えるようになったのかというと、そんなことはない。業務の量はぜんぜん変わらない。むしろ昔より増えてるんじゃなかろうか。

あれおかしいな。
時間を短縮すればするほど余裕がなくなっていくぞ。時間が余るはずじゃないのか。

ぼくの時間も、時間どろぼうにかすめとられてるんじゃないのか。



AI(人工知能)の精度はどんどんよくなっている。AIに関するニュースを耳にしない日はない。
しかし「AIによって人間は苦役的な労働から解放される。思索や芸術など、真に生産的な活動に打ちこむことができる!」なんてハッピーな未来を提示する人は誰もいない。
みんな知っているのだ。便利になればなるほどぼくらの自由がなくなっていくことを。

ぼくらの時間はどこにいっちゃったんだろうね。この先どれぐらい残ってんのかな。

最後に、ミヒャエル・エンデのあとがきを引用。
「わたしはいまの話を、」とそのひとは言いました。「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

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政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】



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2018年11月26日月曜日

【読書感想文】てんでばらばらヒョーゴスラビア / 鈴木 ユータ『これでいいのか兵庫県』


『これでいいのか兵庫県』

鈴木 ユータ

内容(e-honより)
連帯感なし!県ではくくれないジコチュー愛―メジャーなのになぜマイナーなの?兵庫県!
第1章 時代に翻弄されてきた兵庫県の歴史
第2章 バラバラの気質が生んだ兵庫県のカオスな実態
第3章 神戸ブランド失墜!五大都市復活の目はあるのか!?
第4章 統一感がまったくない 阪神地域の悲喜こもごも
第5章 存在感がなくてマイペースな東・北播磨
第6章 西・中播磨の反撃は盟主の姫路次第
第7章 オリジナリティ全開で突っ走る但馬・丹波地域
第8章 開発のピントがずれている豊かな淡路島
第9章 過去の神戸モデルから脱却して兵庫統一を目指せ!

下品な表紙のわりに、意外とちゃんとした内容だった。歴史や地理的なことをちゃんと調べていて、著者が県内各地に足を運んで取材していることもわかる。

しかし学術書ではないので、土地や人から感じた印象など「あやふやなこと」も書かれている。これがいい。「どんな土地か」なんてことはどれだけデータを並べたってわからない。「おれはこう思うぜ」が大事なのだ。
この「ちゃんと調べて書かれていること」と「著者の個人的な印象」のバランスがいい。

さらに著者は関東の出身者らしいので、特別にどこかの地域に肩入れすることもなく、わりとフラットな視点で地域の特色が書かれている。
兵庫県出身者のぼくから見てもかなり的確だと思う。これは住人には書けない。個人的な思い入れがじゃまをしてしまって。



ぼくは五歳から十八歳まで兵庫県で育ったので、今は兵庫に住んでいなくても「自分は兵庫県民だ」という意識は持っている。

とはいえその意識は「どこ出身ですか」と訊かれたときに「兵庫県の東の端です」と答えるのと、高校野球で兵庫県代表校を応援するぐらいのもので、ふるさとのために何かをすることは特にない。
生まれ育った町には愛着を感じているけど、兵庫県まるごとに愛を感じることはほとんどない。

この本によると、兵庫県民はとりわけ「県民意識」が希薄なのだという。
まあそうだろうな。
ぼくなんか阪神地域の出身で神戸に行くよりも大阪に行くほうが近かったので、ちょっとした買い物なら大阪・梅田に出ていた。だから兵庫県への帰属意識はぜんぜんない。父の職場も大阪だった。

兵庫県はもともと五つの藩がなかばむりやりくっついたところなので、まとまりがないのも無理はない。
むかし「県民性」の本をぱらぱらとめくったときには「兵庫県は地域によって気質がちがいすぎるので一口に語るのはほぼ不可能」と書かれていた。
県内に瀬戸内海も日本海も盆地も島も港町も工業地帯も農業地域もあり、大阪・京都・和歌山・鳥取・岡山・香川・徳島と隣接しているわけで、そりゃあひとまとめにはできないだろうなあ。
多民族国家だったユーゴスラビアになぞらえて「ヒョーゴスラビア」という人もいる。

兵庫県内にあるスポーツチームをみても、
  • 阪神タイガース(野球)
  • ヴィッセル神戸(サッカー)
  • 西宮ストークス(バスケットボール)
  • ヴィクトリーナ姫路(バレーボール)
  • 西宮ブルーインズ(アメリカンフットボール)
みんな県名は名乗らない。「兵庫県のチーム」ではないのだ。

Google検索結果を見ても、
「大阪人」は3,680,000件、
「京都人」は1,150,000件、
「兵庫人」は   13,700件と圧倒的に少ない。だれも「兵庫人」という自覚を持っていない。

大阪や京都はキャラクターが強すぎるせいでしょ、と思うかもしれない。だが
「岡山人」の  133,000件や
「鳥取人」の   28,300件にも負けている。兵庫県の人口は鳥取の10倍ぐらいいるのに。



兵庫県出身者としては、「もっとみんな兵庫県に来てよ!」と思う。

世界遺産の姫路城。甲子園球場、宝塚大劇場といった唯一無二の大舞台。食べ物がおいしい明石や淡路島。日本最古の温泉という説もある有馬温泉。ファンにはたまらない手塚治虫記念館。平家や源氏ゆかりの地や赤穂、竹田城氏など、歴史ファンに魅力の場所も多い。

でも兵庫県は全国的にはいまいち地味。観光客も大阪や京都にくらべるとぜんぜん増えていないそうだ。
著者は「神戸頼み」の状況がその原因なのではと指摘している。
 であれば、神戸は仮に人口が今後減少し続けても、阪神地域や東・北播磨地域としっかりと連携し、それぞれの強みを活かした「広域都市」のようになれればいいのではないか。今も神戸が考える「神戸大都市圏」はあるけれど、「それはあくまでも神戸のひとりよがり、わが身中心のジコチューな都市圏である。そんな独善的なプライドは取り払い、神戸が周囲の都市を引き立てつつ、密な連携を図るべきときを迎えているのではないだろうか?
「神奈川県といえば横浜」「石川県といえば金沢」「宮城県といえば仙台」と同じで、兵庫県もやはり神戸の存在感がすごく強い。
ぼくも「出身は兵庫県です」というとまずは「神戸?」と訊かれる。そんなわけないに決まってるだろ。神戸出身者ははじめから「出身は神戸です」っていうんだよ。
なんだかんだいって、兵庫県といえば神戸だ。

しかし神戸は没落の一途をたどっている。
阪神大震災から復興を果たしたものの人口は減りつづけているし、外国人観光客もあまり増えていない。そりゃそうだ。神戸のウリは「異国情緒」なんだもの。そんなものを外国人が味わいたいわけない。かといって異人館も中華街も横浜のコンパクト版なので、日本人を呼ぶには弱い。
山と海にはさまれた風光明媚な場所ではあるが、それはイコール坂が多い、ということで高齢者が住むのには向いていない。
再開発できれいな街になっているが、それは歴史を感じさせるものがなくなっているということでもある。
こないだ三宮(神戸の中心部)の地下街を歩いたとき「梅田(大阪の中心部)にくらべてあんまり人がいなくて歩きやすい」と思った。町全体がコンパクトにまとまっている。
歩きやすいが、それは裏返せば歩いていて楽しくないということでもある。京都や大阪の中心部はもっとごちゃごちゃしていて、それが観光客にとっての楽しさにもつながっている。

たしかに著者のいうとおり、「うちの市が」といった主張を捨てて県全体で人を呼ぶ施策をしていけば、居住者にとっても観光客にとってもいい土地になるんだろうけど、まあむりだろうな……。
特に神戸は嫌がるだろうな……。


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西方浄土

阪神大震災の記憶



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2018年11月24日土曜日

お金を出さなくてもいい生活


そりゃお金はほしいけど、もっとほしいのは「お金を出さなくてもいい生活」なんだ。

懐を痛めたくないんだ。ほんのわずかでも。
小学生のとき、百円は大金だった。でも今ははした金だ。だから百円を出すことに躊躇しない。
とはいえ百円が惜しくないわけじゃない。百円を落として転がっていったら走って追いかける。排水溝に落ちちゃったら「あぁ……」と思う。拾えそうなら拾う。拾えなかったら悲しむ。涙は流さないけど心では泣く。号泣。

もしぼくが一兆円の資産を持っていたとしても、二千円のひるめしを食うときは「ひるめしに二千円か……」という気持ちがよぎるだろう。
いくら持っていたって、出ていくお金は少しでも少ないほうがいい。


大阪にスパワールドという施設がある。
ぼくはスパワールドが大好きで、しょっちゅう行く。
プールや風呂や岩盤浴を楽しめるのももちろんいいんだけど、中でお金を使わなくていいというのがすごくいい。
入場時にリストバンドみたいなのを渡される。中で買い物をするときはそれをかざすだけでいい。ご飯を食べるときもビールを買うときもマッサージをされるときも、リストバンドを見せるだけでいい。これがすごく快適なのだ。お金を払わなくていいのがこんなにストレスフリーだなんて。
とはいえ、あたりまえだけど帰るときには使った分を精算しないといけない。それがなくなればもっといいのに。


だからお金をくれるんじゃなくて、代わりにお金を出してくれる人がほしい。
とはいえ、お金を払ってもらうたびにいちいち「あれ買ってもらってもいいですか」とか「ありがとうございます」とか気を使いたくない。

だから何でも買ってくれるおとうさんがほしい。当然のようにぼくの分も払ってくれて、ぼくがお礼を言わなくても嫌な顔ひとつしないおとうさん。
ぼくは一円も持たずに出かける。レストランに入って、値段も見ずに注文をする。食べおわった後、おとうさんがレジでお金を払っているのに「ねえ、早く行こうよ!」とわがままを言う。そういう生活がしたい。

今ぼくが娘にされているように。
いいなあ、娘は。代わりにお金を出してくれるおとうさんがいて。


2018年11月23日金曜日

ツイートまとめ 2018年9月


民主主義

仮面

バリウム

眉毛

サブ機能

フィルム

いっせい

株式会社

カメムシ


無神経

質問

うしろまえ

スポンサー

スラムダンク


ゾンビ

保存用

娘語

重さ

信者

KWANSEI

ジャニーズ

Eテレ

デモ

2018年11月22日木曜日

【読書感想文】「今だけ、カネだけ、自分だけ」の国家戦略 / 堤 未果『日本が売られる』


『日本が売られる』

堤 未果

内容(e-honより)
水と安全はタダ同然、医療と介護は世界トップ。そんな日本に今、とんでもない魔の手が伸びているのを知っているだろうか?法律が次々と変えられ、米国や中国、EUなどのハゲタカどもが、我々の資産を買い漁っている。水や米、海や森や農地、国民皆保険に公教育に食の安全に個人情報など、日本が誇る貴重な資産に値札がつけられ、叩き売りされているのだ。マスコミが報道しない衝撃の舞台裏と反撃の戦略を、気鋭の国際ジャーナリストが、緻密な現場取材と膨大な資料をもとに暴き出す!
他の国に住んだことがないので断言はできないけれども、なんだかんだで日本は住みやすい国だと思う。少なくとも日本人にとっては。
治安はいいし、教育水準も高いし、水道水は飲めるし、高度な医療を安いお金で受けられるし、そこそこ仕事もあるし、おいしいものも食べられるし。

しかし、今後そういったものはどんどん失われていく。
『日本が売られる』で書かれていることは警鐘ではない、なかば決定事項だ。
潤沢な水、高い教育、おいしくて安全な食べ物、高度な医療介護制度、そういったものが外国の資本家にどんどん売られている。ほかでもない、日本政府によって。

水、種子、農地、漁業権のような命にかかわるものから、教育や福祉といった豊かな生活に欠かせないものまで、次々に「規制緩和」の名のもとに大企業にとって有利な法律がつくられてゆく。生産者も消費者も得をしない、ただ株主だけが得をする法律。
そして先人たちが築いてきた金銭には換えられない財産がどんどん外国資本に売られてゆく。
読んでいるとだんだん背筋が冷たくなってくる。腹が立つ。なにもできない自分にむなしさをおぼえる。そして悲しくなる。国民の生活のことなど歯牙にもかけない政府を戴いていることに対して。

『日本が売られる』では「今だけ、カネだけ、自分だけ」というキーワードがくりかえし出てくる。
これはまさに投資家の論理だ。ほとんどの投資は儲けるのが目的だし、誰かが損をしないことには自分は得をしない。そして利益をもたらしてくれるのは今だけでいい。いずれダメになっても、その頃にはもう自分は売り抜けているから。

株式市場だけでやる分には「今だけ、カネだけ、自分だけ」でもいいのだろうが、それがわれわれの生活、特に公的インフラや医療や教育や環境のような長期的スパンで安定した結果が求められるものにはまったく向いていない。
「やってみてあかんかったからやめよーっと」というわけにはいかないのだ。投資家からしたら「もう日本はあかんわ。まともに人が住めるとこじゃなくなったわ。手を引こう」で済むだろうが、そこに住みつづけるわれわれは困る。

だからこそ国家というものがあり、国民の暮らしを守るために規制をかけたり富の再配分をおこなったりする。
ところが、その国家が先陣を切って「今だけ、カネだけ、自分だけ」を実践しているのだ。涙が出る。

国土が未曽有の水害に見舞われているときにカジノ法案を通すような政党が与党であるかぎりは、いつまでもこの状態はつづくだろう。



自動車やアニメなんかはどれだけ外国製品が入ってきてもかまわない。だからどんどん自由競争でやったらいい。
しかし教育やインフラは安ければいいというものではない。「消費者が複数を比較して自分にあったものを選択する」ことができないものだから、取返しのつかない事態になるまえに国家が保護しなければいけない。

だが、今の日本は逆のことをやっている。失うわけにはいかないものをどんどん叩き売っている。

その最たるものが水道だ。
2018年、水道民営化を進めるための水道法改正案が衆議院で可決された。
諸外国では、水道事業を公営化する動きが進んでいる。民営化させたら、料金が上がった、災害への復旧が遅くなった、水質が悪化したなどの悪影響が相次いだためだ。
あたりまえだ。
「民営化すれば効率化する」というのは、競争の原理がはたらくためだ。だが水道は民営化しても競争は起こらない。携帯電話会社のように「複数の水道の中から自分にあった一社を選ぶ」ことはできない。
地域内で一社独占になるのだから、利益を追求する民間企業が水道事業をするなら
「料金は払えるかぎりぎりぎりまで高く、水質はぎりぎりまで落とす。料金を払わない家庭に対しては即座に供給を停止する」が最適解となる。

民営化していいことなんてひとつもないと誰だってわかる。おまけに生命維持に直結するものだから「やってみてダメだったら元に戻そう」というわけにはいかない。
 民営化して米資本のベクテル社に運営を委託したボリビアの例を見てみよう。
 採算の取れない貧困地区の水道管工事は一切行われず、月収の4分の1にもなる水道料金を 「払えない住民が井戸を掘ると、「水源が同じだから勝手にとるな」と、ベクテル社が井戸使用料を請求してくる。
 困った住民が水を求めて公園に行くと、先回りしたベクテル社が水飲み場の蛇口を使用禁止にし、最終手段で彼らがバケツに雨水を溜めると、今度は一杯ごとに数セント(数円)徴収するという徹底ぶりだった。
それでも日本は世界の潮流に逆行して、水道の民営化を進めている。
喜ぶのは外国資本と投資家だけ。
「日本人は水と安全はタダだと思っている」といわれているが、そんな幸福な時代はもうすぐ終わりを告げるだろう。



高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』にも書かれていたが、日本人の多くは日本の農産物は安全と思っているが、外国からは「日本の農産物は農薬基準がゆるすぎるので危険」と思われているらしい。
 アグリビジネス業界にとって、頼れる味方はアメリカ政府だけではない。
 助け舟を出したのは、他でもない日本政府だった。
 翌年2017年の6月。農水省はグリホサート農薬の残留基準を再び大きく緩めることを決定し、パブリックコメントを募集し始める。
 今回はトウモロコシ5倍、小麦6倍、甜菜75倍、蕎麦150倍、ひまわりの種400倍という、本家本元アメリカもびっくりの、ダイナミックな引き上げ案だ。
 遺伝子組み換えでない小麦は本来グリホサートを使わないが、収穫直前にグリホサートを直接かけて枯らすと刈り取りやすくなるために、使う農家が増えている。よって小麦の残留基準 も6倍に上げられることになった。これで農家は小麦にも、遺伝子組み換え大豆よりも多い量のグリホサートを、たっぷり使えるようになる。
本来なら食の安全を守る立場にある農水省が、海外の農薬や種子会社が参入しやすいよう、規制をどんどん緩和しているそうだ。

ぼくらが何も知らずに「国産野菜だから安心」なんて思っているうちに、いつのまにか日本産は外国産よりも危険な食べ物になっているのだ。

この本の後半には、ロシアが国家をあげて自然栽培に舵をきりつつある姿が書かれている。
ロシア野菜に安全なイメージなんてまったくなかったけど、今後は変わってくるのだろう。
こういうとき、一党独裁国家は強い。
民主主義国家が目先のカネさえ稼げればいいと思って国土を切り売りしている間に、国家一丸となって長期的なビジョンに向かって突き進めるのだから。

中国やロシアのような一党独裁がいいとはいえないが、もしかしたら資本主義国家も似たり寄ったりなのかもしれない。国家が支配するか資本家が支配するかの違いだけで、一般国民の生活はさほど変わらないのかもしれない。いや、案外一党独裁国家のほうが「なにがなんでも国を守ろうとする」だけマシかもしれない。



この本の最後には、イタリアの五つ星運動など、「国を売らせない」ために行動をはじめた人たちの取り組みが紹介されている。
かすかな希望だ。だが『日本が売られる』に書かれているのは1%の希望と99%の絶望だ。
堤 未果『日本が売られる』より

堤 未果『日本が売られる』より

国の財産を売るための法律がどんどんつくられているのはもちろん国会の責任だが、国会議員以外の国民も無関係ではいられない。
そういう政治家を選んだのはわれわれだし、なにより消費者が目先の安いものをありがたがっているうちは、「日本が売られる」傾向はこれからもつづいていくだろう。
消費者が「高くても安全なものを買う」という意思を表示していれば、企業も質のいい財やサービスを提供せざるをえない。

ぼくは少し前から、生産者からの直販などでなるべく無農薬栽培のコメや野菜を買うようにしている(ときどきだけど)。
些細なことかもしれないけど、こういうことが少しでも「日本が売られる」を防ぐことにつながればいいなと思う。

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【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』

アメリカの病、日本の病



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2018年11月21日水曜日

きれいにするやつが汚い


歯ブラシの毛と毛の間に食べ物がはさまる。根本付近に緑色のものがはさまってる。
水圧で取ろうと蛇口の下にもってくる。とれない。
歯ブラシを掃除するためのブラシがほしい。歯ブラシブラシ。

そういえば小学校の掃除道具箱には、剣山みたいな形の「ほうきの隙間に詰まったごみを取るための道具」があった。なんて名前か知らないが。
あれのちっちゃいやつがほしい。


洗面所の排水口。
持ちあげてみるとすごく汚い。髪の毛やらぬめぬめしてる何者かやらがへばりついてる。
んげえ。
指先で取ろうとするがうまく取れない。ぬめぬめとした嫌な感触だけが手に移る。
ティッシュで拭こうとするが、ティッシュが破れるだけでやはりうまく取れない。
あーもう。何もかもが嫌になって、蛇口の下に持っていって水圧で流す。髪の毛やらぬめぬめやらがいっぺんに流れていく。
はじめからこの排水口部分いらなかったんじゃねえか。一回せきとめる必要なかった。


掃除機がくさい。
いろんなごみを吸いこんで溜めこんでいるんだもの。小さい虫を吸いこんだこともあった。
紙フィルタは捨てられるけど、ノズルやホースの部分にもいろんなものがくっついているのだろう。
ノズルとホースを風呂場に持っていって洗う。
いったい何をやってるんだ。こいつはきれいにするための道具なんじゃないのか。なんでぼくがこいつをきれいにしてやらなきゃいかんのだ。


2018年11月20日火曜日

走れシンデレラ


シンデレラは激怒した。必ず、かの城でおこなわれるパーティーに参加せねばと決意した。シンデレラには舞踏がわからぬ。シンデレラは床を拭き、継母や姉のために料理をつくって暮して来た。けれどもパーティーに対しては、人一倍に敏感であった。

「私は、ちゃんと炊事洗濯をする覚悟で居る。ただ――」と言いかけて、シンデレラは足もとに視線を落し瞬時ためらった。
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、夜十二時までの日限を与えて下さい。パーティーに出席したいのです。十二時までに、私はお城でダンスを踊り、必ず、ここへ帰って来ます」

「ばかな」と魔法使いは、嗄しわがれた声で低く笑った。「とんでもない嘘を言うわい。逃がした小鳥が帰って来るというのか」

「そうです。帰って来るのです」シンデレラは必死で言い張った。「私は約束を守ります。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、十二時の鐘が鳴りおわるまでにここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい」

それを聞いて魔法使いは、残虐な気持で、そっとほくそえんだ。生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに騙された振りして、放してやるのも面白い。そうして身代りの男を殺してやるのも気味がいい。人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩やつばらにうんと見せつけてやりたいものさ。

「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。十二時の鐘が鳴りおわるまでに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。炊事も洗濯も、永遠にゆるしてやろうぞ」
「なに、何をおっしゃる」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ」



夜中十二時を告げる鐘が鳴った。
シンデレラは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

若いシンデレラは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。途中、ガラスの靴が脱げるのもかまわず走った。

「待て。その人を殺してはならぬ。シンデレラが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれて嗄がれた声が幽かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼女の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。シンデレラはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、「私だ! 殺されるのは、私だ。シンデレラだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧りついた。群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。

佳き友は、気をきかせて教えてやった。
「シンデレラ、君は、裸足じゃないか。早く靴を履くがいい」
シンデレラは、ひどく赤面した。


2018年11月19日月曜日

そしてスマホはすべる


スマートフォンを買い替えた。

新しいやつを一日使ってみた感想。
すべる。
すごくすべる。


スマホってこんなにすべるっけ。
すべらすアプリ入ってんのかってぐらいすべる。
物理の教科書に書かれていた「ただし摩擦はないものとする」がついに実現したのかと思うぐらいすべる。

本の上、クリアファイルの上、胸ポケットの中。
どこからでもすべる。ほんのわずかな傾斜があるだけですべる。
ゴルフ中継見てたらさ、グリーンでわずかに穴に入らなくて、あー残念惜しかったねって思ってたらぐんぐんぐんぐん転がって、穴から十メートルぐらい離れたところまでいくときあるじゃない。あれぐらいすべる。

傾斜なくてもすべるんじゃないかってぐらい。
カーリングで、あーもう止まるだろうなってとこからモップみたいなのでごしごしごしやって信じられないぐらいすべるときあるでしょ。あれぐらいすべる。

机の隅に置いていたはずなのに、ゆっくりゆっくりすべってどこかに行ってしまう。
気づいたら、あれ、こんなとこに置いたっけ、ってとこにある。
向かいのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに。

これを書いている今も、スマホはじわじわじわじわどこかに移動している。水平な机に置いているはずなのに。さては欠陥住宅か。ビー玉を置いてもわからないぐらいの微妙な傾斜も見つけてすべる。

すべりゆくスマホを目で追う。本の上から机の上、椅子をつたって床へと落ちる。フローリングの上をつるつるとすべるスマホ。
玄関まで行ってもまだ止まらない。外に出たスマホはマンションの廊下を通ってエレベーターの中へと。すべるように降下してゆくエレベーター。
外に出たスマホは歩道を通り、車道を横切り、駅のスロープをすべり、地下鉄に乗る。音もなくスマートにすべるスマートフォン。
終点の駅で降りたスマホはすべってすべってエレベーターに乗りこみ地上へ。外に出ると目の前に広がる海。そう、ここは海抜ゼロメートル。

スマホはすべり、海の中へ。
でも大丈夫。新しいスマホは完全防水仕様なのだ。
波に流され海流にのまれながらも、スマホは海底をすべりゆく。低いほうへ、低いほうへ。

すべり着いたのは太平洋の北西の海底。
大きな穴がぽっかりと口を開けている。世界で最も深い場所、マリアナ海溝だ。
スマホはすべり、穴にどんどん近づいてゆく。

だがわずかにはずれて穴には入らない。
あー残念惜しかったねって思ってたらぐんぐんぐんぐんすべって、穴から十メートルぐらい離れたところまですべってゆく。残念、ボギー。


2018年11月18日日曜日

新規開店花泥棒


本屋で働いていたとき、新規開店の手伝いをしたことがある。

いよいよオープン当日。
取引業者から開店祝いの花輪が届いたので、店の前に飾っておいた。


開店して、驚いた。
やってきたおばちゃんが花を勝手に持って帰ろうとしているのだ。
ひとりではない。おばちゃんたちが次々に花に群がる。まるで蝶、いや蛾のように。

えー。
泥棒!?

さほど実害のあるものではないが、しかし放置するわけにもいかない。
あわてて店長に報告した。

「あー、あれ。いいんだよ。そういう風習だから」

ぼくは知らなかったのだが、大阪や愛知あたりでは
「新規開店祝いのお花を持っていってもいい」
というルールがあるそうだ。
さらに「早く花がなくなったらその店は繁盛する」との言い伝えも。

そうだったのか……。知らなかった……。

とはいえ、おばちゃんたちが勝手に花を引っこ抜いて持っていく姿はなかなか衝撃的だった(「持って帰ってもいい?」と訊いてくれるおばちゃんもいたが、何も言わずに引き抜いていくおばちゃんもいた)。

勝手に持って帰ってきた花を飾って生活にうるおいがもたらされるのだろうかと疑問に思ったが、そういう風習なら仕方がないと、むしり取られてゆく花を呆然と見ていた。
なんて野蛮な風習の民族なのだろう。

わりと人通りの多い場所だったので、新しい店の入口を彩っていた数々の花たちは、開店から三十分もしないうちにすっかりなくなってしまった。

ぼくは小さな声で「逆に奪われて すべて奪われて 花泥棒 花泥棒~♪」と歌いながら、店先に散らばった花びらをほうきでかき集めた。

2018年11月17日土曜日

ツイートまとめ 2018年08月


求人

ボクシング協会

マイメロディ

レンタルなんもしない人

強気

間隔

ロコモコ

邪魔記号

映像化不可能

いまそがり

不要不急

激辛

泣き顔

電話帳

ドーピング

なぞなぞ

サマータイム

炎上

ひらがな

気遣い

2018年11月16日金曜日

Mー1グランプリ2018決勝進出者についてのあれこれ


Mー1グランプリ予選、三回戦と準々決勝の動画をGYAO!で視聴した。
いやあ、いい時代になった。
昔は観にいった人のレポートに頼るしかなかったもんなあ。

その中でぼくがおもしろいと思ったベスト3は、さらば青春の光(準決勝敗退)・天竺鼠(準々決勝敗退)・金属バット(準決勝敗退)だったので、つくづく予選審査員とは趣味があわない。まあ天竺鼠と金属バットに関しては落とされた理由もわかるけど。

あとマヂカルラブリーもおもしろかったが、一本調子なので決勝に行ったら前年同様撃沈していたような気がする。落とされるのもむべなるかなという感じだ。

さらば青春の光は抜群に良かったけどなあ。特に3回戦で披露していた「野球で例える」のネタは最高だった。発想もさることながら、後半になるにつれてどんどん無茶になっていく構成がいい。
しゃべりも立つし、ここを落とす理由がちょっとわからない。準々決勝の「怪談」は3回戦ネタよりは見劣りしたが、それでも悪くはなかったと思うけど。

それからミルクボーイはいつ決勝に行くんだろう。毎年準々決勝止まりなのがふしぎでしかたない。独自性もあるしめちゃくちゃおもしろいのに。元々おもしろかったのにひどい偏見を放りこんでくるようになってさらにおもしろくなった。
近いうちに決勝に行ってくれることを切望する。



決勝進出は、
和牛、霜降り明星、ゆにばーす、見取り図、かまいたち、スーパーマラドーナ、ジャルジャル、トム・ブラウン、ギャロップ
だそうだ(+敗者復活組)。

「このコンビが落ちて残念!」というのはあるが、「なんでここが決勝に?」と思うところはない。わりと納得のメンツだ。

とはいえ、個人的な好き嫌いはあって、和牛スーパーマラドーナがやるようながっちがちに固まったネタは好きじゃない。一字一句台本通り、どんな舞台で演じても寸分たがわず一緒、というような漫才は「よくできている」という思いが先に来てしまい、どうも笑えない。
ぼくが漫才に求めるのは「どこまでが台本通りなんだ」と思わせてくれるような即興性だ。昨年とろサーモンが和牛に勝っていた点はそこだと思う。
和牛とスーパーマラドーナはスタイルも完成されつつあるし、昨年までの自分たちを大きく上回ることはむずかしいんじゃないかなあ。

ジャルジャルぐらい徹底的にやるんだったら逆にその不自然さが気にならなくなるんだけどね。でもあれはもうコントでしょ。



今年はめずらしく正統派のしゃべくり漫才が評価されたな、とうれしく思う。やっぱり正統があってこその変わり種ですよ。

たとえばギャロップ。昔からずっと安定して質の良い漫才をしてきたコンビが評価されるのはうれしい。うれしいが、なぜ今、と思ってしまう。
予選のネタはたしかにおもしろかったけど、昨年までと比べて飛躍的に成長したかというとそうでもない。ギャロップはずっとこれぐらいの水準のネタをやってきた。今になって評価するんだったらもっと早くに評価してあげてよ。去年のとろサーモンもそうだったが。

かまいたちも二年連続の決勝だが、ネタの質は五年前から大きく変わったわけではない。というか五年ぐらい前にめちゃくちゃ脂に乗っていて、2012年にNHK上方漫才コンテストで優勝したときなどはぼくは腹を抱えて笑った。しかし全国的には鳴かず飛ばずだった。
たぶん今年だって去年のキングオブコント優勝がなければ二年連続の決勝進出はむずかしかったんじゃないかな。
評価するのが遅すぎるだろ、と言いたい。

見取り図も好きなコンビなので決勝進出はうれしい。が、逆にここはまだ早いのでは? という気もする。ツッコミはほぼ完成されてるんだけどね。
まだまだ伸びるコンビだと思うので、今年顔を売って来年以降で決勝常連になってほしい。

トム・ブラウンは今年の予選で知ったけど、これは決勝でウケるだろうなあ。出番順が後半だったら会場の雰囲気ごとかっさらってしまいそうだ。ただし審査員からの評価は分かれそうだが。
おもしろいが、でもこのコンビのネタを一日に二本観たいとは思わないな。2017年キングオブコントのにゃんこスターみたいになりそう。売れるだろうなあ。

霜降り明星ゆにばーすに関しては特に言うことないでーす!
みんながんばってくださーい。終わり。

2018年11月15日木曜日

【読書感想文】ショートショートにしては右肩下がり / 洛田 二十日『ずっと喪』


『ずっと喪』

洛田 二十日

内容(e-honより)
天才か、それともただの変わり者か…。異能の新人、デビュー!第2回ショートショート大賞受賞!受賞作「桂子ちゃん」を含む奇想天外な洛田ワールド、全21編!

奇想天外なショートショート集、ということだが正直いってどれも出オチ感がすごい。

たとえばはじめに収録されている『桂子ちゃん』
月に一回桂馬になってしまい(月経のようなものらしい)、桂馬のようにナナメ前にしか進めなくなってしまう少女が出てくる。

「桂馬の動き」という時点で個人的には受け付けなかったのだが、それはさておき。
(十年前ぐらいにぼくはネット大喜利にハマっていたのだが、大喜利の世界では「桂馬の動き」は手垢にまみれた発想とされていた。中級者が使いたがる安易な発想よね、という扱いだった)

「月に一度桂馬になってナナメ前にしか進めなくなってしまう」という導入はまあいい。
でもその後の展開がすべてこちらの期待を下回ってくる。「みんなは歩なのに」とか「敵地に入ったことで金に成った」とか、ぜんぜん想定を超えてこない。
でもまあ中盤はつまらなくても最後は鮮やかに落としてくれるんだろうと思っていたら、「妹は香車だった」というオチ。えっ、それオチ? 意外性ゼロなんですけど(オチばらしてもうた)。

『桂子ちゃん』が特につまらないのかと思っていたが、これが第2回ショートショート大賞受賞作らしい。
この賞のことは知らなかったが、これが大賞?
ううむ、ぼくの期待するショートショートとはちがうなあ……。

ショートショートの構成って「起・承・転・結」だったり「転・承・結」だったり「転・承・転・転・結」だったりするもんだけど、『ずっと喪』は「転・承・承・承」ばっかり。ほぼ全部が出オチで、右肩下がりの小説だった。



串カツに二度漬けをしてはいけない真の理由が語られる『二度漬け』や、村おこしのために桜前線の進行を食いとめようとする『円い春』はばかばかしくてよかった。

しかしこれは本の後半になって、ぼくが『ずっと喪』の読み方をわかってきたからかもしれない。

はじめは「ショートショート大賞」という肩書きや表紙や帯に釣られて「意外なオチ」を期待しながら読んでいたのだが、どうやらそれが良くなかったらしい。
どうせ大したオチはないんでしょ、と期待せずに読めばそれなりに楽しめることがわかった。

でもなあ。
やっぱりショートショートを名乗っている以上は、あっと驚く意外な顛末を期待しちゃうんだよな、こっちは。

いいショートショートになりそうなアイディアもあるのにな。「ここの種明かしを最後に持ってきたらおもしろくなったのに」と思う作品もあった。
小説として発表する以上は、アイディア一本勝負じゃなくて技巧もほしいなあ。

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星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』

【読書感想文】 氏田 雄介『54字の物語』



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2018年11月14日水曜日

歯みがきをしているおじさんに訊きたい


職場のトイレで歯みがきをしている人がいる。

昼食後も歯をみがいたほうがいいに決まっている。だから歯みがきをする。
理屈はわかる。わかっちゃいるが、他人の歯みがきを見ることにどうも慣れない。

トイレに入って洗面台の鏡に向かって歯みがきをしている人がいると「あっ」と思う。
見てはいけないものを見てしまったような気分。
トイレの個室を開けたら中に人がいたときのような気分。

なぜだろう、歯みがきってなんか恥ずかしい。見られるのも見るのも。

職場で歯みがきをする人は、恥ずかしくないのだろうか。手を洗うくらいの感覚なのだろうか。
耳かきはどうだろう。職場で歯みがきをする人は耳かきも人前でできるだろうか。爪きりはどうだろう。垢すりはどうだろう。

ぼくはぜんぶ恥ずかしい。歯みがきも耳かきも爪きりも垢すりもぼくの中では「排泄」に近い行為だ。


歯みがきをしているおじさんに訊きたい。

ねえ、歯みがきを赤の他人に見られるのって恥ずかしくないですか。口を大きく開いたり横に伸ばしたりして、毛の生えた棒を口の中につっこんで、歯くそをかきだす行為ですよ。どうですか、それをぼくに見られている気持ちは。歯ぐきまで丸見えですよ。ほらほら、恥ずかしいんでしょう、顔が真っ赤になってきましたよ。もう歯ブラシはよだれでびしょびしょですよ。口では嫌がってても身体は正直なんですね、おじさん。そんなにも口の中をきれいにしたいんですか、おじさん。「きれいにしたい」って言ってごらんなさいよ。人前で歯をみがいて喜ぶなんて、ほんとにいやらしいおじさんですねぇ。

2018年11月13日火曜日

【読書感想文】朝ドラのような小説 / 池井戸 潤『民王』


『民王』

池井戸 潤

内容(e-honより)
「お前ら、そんな仕事して恥ずかしいと思わないのか。目をさましやがれ!」漢字の読めない政治家、酔っぱらい大臣、揚げ足取りのマスコミ、バカ大学生が入り乱れ、巨大な陰謀をめぐる痛快劇の幕が切って落とされた。総理の父とドラ息子が見つけた真実のカケラとは!?一気読み間違いなしの政治エンタメ!

総理大臣とその息子の心が入れ替わってしまい、さらには大臣や野党党首もそれぞれ子どもと心が入れ替わってしまい……というドタバタ小説。

なんというか、お手本のようなエンタテインメント小説って感じだったな。悪い意味で。

起承転結がはっきりしていて、ほどほどに諷刺とユーモアが散りばめてあって、スピード感があって、後半にはピンチが訪れて、主人公が熱いセリフを吐いて、いろいろあったけど最後は大団円……とまあ、ほんとにエンタテインメント小説の教科書を読みながら書いたのかなってぐらい。

よくできているし誰が読んでもそこそこ楽しめるだろうなって感じの小説だけど、終わってみればあんまり印象に残らない。
官能小説のストーリーぐらい印象に残らない。



ぼくは「半端なリアリティ」が嫌いだ。
フィクションなんだからむちゃくちゃ書いたっていい。だけど世界感は統一させてほしい。どんなに無茶な設定でも、その中では整合性を持たせてほしい。

『民王』はまさに「半端なリアリティ」を持った小説だった。
もう「総理大臣と息子の心が入れ替わる」って時点でむちゃくちゃなんだから、そこに理由なんていらないんだよ。どれだけ理由をつけたって嘘くさくなるだけなんだから「気がついたら入れ替わっていた」だけでいい。

それなのに長々と、やれテロだのやれ製薬会社の陰謀だの、愚にもつかない理由を並べはじめる。
うるせーよ。どんな技術だよ。
なんで心を入れ替える技術を使って総理を息子と入れ替えて失脚させようとするんだよ。まわりくどすぎるだろ。企んだやつが総理になるほうがよっぽど手っ取り早いじゃねえか。

矛盾点を書きだしたら永遠に終わらないのでもうやめとくが、とにかく設定がぐずぐず。
もっとうまく読者をだましてくれよ。



政治を扱った小説ということで政治家に対する諷刺も効かせてるんだけど、その諷刺もやたらとお行儀がよい。
 自分の口から出てくる言葉のたどたどしさに、翔はあきれた。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。「なんつーか、我が国はいま、アメリカ発の金融、えーと、金融キキンによる、あー、ミゾユーの危機にジカメンいたしており、景気は著しくその、テイマイしておるところでございます」 場内がざわつき始めたが、翔にはその理由がわからなかった。
麻生太郎元総理がぜんぜん漢字を読めなかったことをなぞっているんだろうけど、こんなのは当時さんざんイジられていたことだから、ぜんぜん毒っけがない。

「ほら政治諷刺をしてみましたよ。こういうの書いたらみなさんおもしろがるでしょ」
という小手先テクニックって感じなんだよね。笑えねえよ。ザ・ニュースペーパーかよ。
やるなら政党から怒られるぐらいやってよ。

皮肉もメッセージもエピソードも、ぜんぶどこかで聞いたことのあるような平べったい内容で、なんでこんなワイドショーの薄口コメントみたいな小説を読まなきゃいけないんだとだんだん嫌になってきた。

池井戸潤氏の『空飛ぶタイヤ』は自分の経験を活かした熱いメッセージが胸に響く小説だったのに、『民王』はぜんぜんだった。

あ、言っておくけどつまんなかったわけじゃないよ。おもしろかったよ、そこそこ。
そこがまたイヤなんだよね。安定感がありすぎて。少しもドキドキしない。

おもしろくなくてもいいからこれを書くんだ! みたいな文章がひとつもなかった。
朝の連続ドラマ小説のような平和きわまりない小説だった。

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2018年11月12日月曜日

【読書感想文】アヘンの甘美な誘惑 / 高野 秀行『アヘン王国潜入記』


『アヘン王国潜入記』

高野 秀行

内容(e-honより)
ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州。1995年、アヘンを持つ者が力を握る無法地帯ともいわれるその地に単身7カ月、播種から収穫までケシ栽培に従事した著者が見た麻薬生産。それは農業なのか犯罪なのか。小さな村の暖かい人間模様、経済、教育。実際のアヘン中毒とはどういうことか。「そこまでやるか」と常に読者を驚かせてきた著者の伝説のルポルタージュ、待望の文庫化。

稀代の冒険ルポライター高野秀行さんの出世作。

高野さんの本は何冊も読んでいるが、その上で『アヘン王国潜入記』を読むと、文章が若い。肩に力が入っているというか。
誰もやったことのないことをやったるでえ、という気負いのようなものが感じられる。
決死のルポルタージュって感じよね。個人的には近年の「肩ひじ張らずに誰もやったことのないことをやっちゃう」感じのほうが好き。



東南アジアに、ゴールデン・トライアングルという世界最大の麻薬密売地帯がある。
その中でも特にアヘンの栽培量の多いワ州に高野さんが潜入して、村人の生活を観察したルポルタージュ……というとずいぶんものものした感じだが、描かれているのはいたってのんびりした生活だ。

そもそもアヘンの栽培が現地では非合法ではないので、殺伐とした雰囲気はない。村人はアヘンの種をまき、間引きをし、草刈りをし、アヘンが実ってきたら収穫をする。ただの農業だ。
ワ州というところは、国家でいうと一応ビルマに属しているが、そこに住んでいるのはワ族という少数民族であり、言語もワ語という独特の言葉を使うので、ほとんど独立国家である。
村人は基本的にアヘンはやらない(一部やる人もいる)し、村人間で現金のやりとりをほとんどしないので、村の生活はいたってのどかなものだ。
(とはいえワ族は少し前まで首狩り族として付近一帯に知られていたらしい)



本の後半には、高野さんがアヘンを吸うシーンも出てくる。
そりゃあね。
「アヘン王国に行ってきました。アヘンを栽培してきました。でも吸ってません」ではルポにならないよね。
やっぱりいちばん知りたいのは「アヘンを吸うのってどんな気分?」ってとこだもんね。

たぶん高野さんがいちばん伝えたかったのはそこじゃないんだろうけど、読者が知りたいのはそこなんだよなあ(このギャップに対する歯がゆさがあとがきなどからびんびん感じられる)。
 私の番になった。ランプの灯にアヘンをあてながら、ゆっくりと長く吸い込む。私の吸気でゆらめく薄い炎、ジジジッというアヘンが身を焦がす音、たなびく天上の香り、そして肺ではなく腹の底に降りていくようなモワッと柔らかい煙。
 アイ・スンと交互に何回吸っただろう。時間にして一時間以上たっていた。アヘンはなくなり、アイ・スンは「そのまま静かに寝ていろ」と言って寝床を出た。言われるまでもなく、私はもう夢うつつであった。しかし、このアヘンの効き目のすごさといったら! 頭蓋骨痛も、胃の不快感も、下痢も、節々のだるさも瞬時に消えてなくなった。身体は毛細血管の隅々まで暖かい血流がめぐり、全身がふわふわと浮き上がるような感じだ。眠りに引き込まれるときのあの心地よい瞬間が持続しているのを想像してもらえば、いくらかわかるかもしれない。
まずい、これを読んでると吸いたくなる……。
めちゃくちゃ甘美な気分なんだろうなあ。だからこそ多くの人が中毒になるし、それがきっかけで戦争まで起こっちゃうんだろう。

アヘンは麻薬ヘロインにもなるが、医療用のモルヒネにもなる(ちなみにヘロインも元々は薬として売りだされたそうだ)。
壮絶なガンの痛みを抑えるのに使われるぐらいだから、ちょっとした疲れなんかはたちまちふっとんでしまうんだろう。

一生に一度ぐらいはやってみたいなあ、すごくしんどいときに使う分にはいいんじゃないかな、要は風邪薬で熱やだるさを抑えるのと同じだろう。
……なんて思いながら読んでいたんだけど、高野さんがだんだんはまっていく姿を読むにつれて「やっぱりアヘンこえぇ」とおそろしくなってきた。

べつの本で高野秀行さんが「ルポのためにもぐりこんだはずがアヘン中毒になりかけたことがある」と書いていたが、中毒になりかけたなんてもんじゃない、完全に中毒者だ。
なにしろ毎日のようにアヘンを吸って、吸引をやめたら動けなくなり、アヘンを育てている村人たちから「おまえもうアヘンはやめとけ」と止められるぐらいなのだ。
よく無事に帰ってこられたものだと思う。

アヘンダメ、ぜったい。
とはいうもののやっぱりちょっとは気になる。
末期ガンになったらモルヒネ打ってもらおうっと。



ワ人の男は、あまり死をおそれないそうだ。
 ワ人はふだんはけっして勇ましくもないし、気性も激しくない。どちらかといえば温和で、ひじょうに礼儀正しい。そして、何より従順だ。こういう人たちが戦争になると、死を恐れず敵に向かって突っ込んでいくのだ。
 しかし、この夜、「どうして怖くないの?」と重ねて聞いたときのアイ・スンの答には、ほんとうに驚いた。「おれが死んでもアイ・レー(長男)がいる。アイ・レーが死んでもニー・カー(次男)がいる。二ー・カーが死んでもサム・シャン(三男)がいる。サム・シャンが死んでもアイ・ルン(四男)がいる」
 こう平然と言ってのけたのだ。ふつうなら「おれが死んでも子どもたちがいる」くらいで止まるだろう。仮にも「長男が死んだら」などと口には出さないものだろう。それを息子三人までは死んでもかまわないと明言するのだ。ひどいことを言うものだと思った。末っ子のアイ・ルンは彼が毎朝あやしている赤ん坊でまだ生後三カ月である。それさえ生き残ればいいと言うのだ。

この死生観は、現代日本人からするとなかなか理解できない(戦時中の日本人には理解できるのかもしれない)。
いやいや自分が死んだらそれでおしまいじゃないか。いちばん大事なのは自分の命でしょ、と。
子どもを守るなら命を落としてもかまわない、であれば理解できる。ぼくも究極の選択をせまられたら命を捨ててでも子どもの命を守るほうを選ぶかもしれない。
でも「子どもを守るためなら死ねる」と「子どもがいるから戦争で死ぬのが怖くない」はぜんぜんちがう。なによりやっぱり死ぬのはこわい。


でも、もしかしたら生物としては「死ぬのがこわい」のほうが異常で、「自分が死んでも子どもがいる」のほうがずっと自然なことなのかもしれない。
ミツバチやアリはこういう行動をとる。同じ遺伝子を持ったきょうだいのためなら命を投げだすことをいとわない。
生物なんてしょせん遺伝子の乗り物。遺伝子的に見れば各個体の命なんてものはたいして価値がない。
ミツバチやアリにかぎらず、人類の歴史においても「子孫やきょうだいが生き残ればそれでいい」のほうがふつうだったのかも。そうじゃなきゃ戦争なんてできないし。
長いスパンで見れば、「死んだらすべておしまい」のほうが例外的な価値観なのかもしれない。

この本には、ワ州の村の風習である「その家の男が死んだら家をつぶしてしまう」という行動が描写されている。
「まだ女が住んでいるのにずいぶん乱暴な話だ」とびっくりした。

でも、これもよく考えたら自然なことかも。
女だけでは子孫を残すことができないのだからいつまでも古い家で思い出にひたっていてもしかたがない。
それなら家は壊して建材は他で使い、残された女はさっさと他の家に嫁いだほうが(遺伝子を残すという点では)いい。

原始的な生活を送っているワ州のほうが、文明国の人間よりも「遺伝子を次の世代に受けつぐ」という観点では合理的な行動をとっているのかもなあ。


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自分の人生の主役じゃなくなるということ




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2018年11月11日日曜日

去年の流行りの服


オシャレには疎い人間だが、それでもたまには「今年は〇〇が流行っているらしい」という情報を耳にする。

そうすると「今年は〇〇が流行っているのか。じゃあ〇〇を買うのはやめとこう」と思う。

ぼくがあまのじゃくだから、ってのもあるけど、それだけではない。
流行は、ちょっと古くなるといちばんダサくなるからだ。

流行りじゃない服を着るのはぜんぜん平気。
でも「あの人、去年流行った服を着てるわ」と思われるのはめちゃくちゃ恥ずかしい。


と考えると、流行の服は「いちばんダサい服一歩手前の服」だ。
みんなようそんなの買うわ。

肉は腐りかけがいちばんうまい、ってのと似てるね。

2018年11月9日金曜日

みんな小さな機械を見ている


電車に乗っている。ふと文庫本から顔を上げてあたりを見まわす。
スマホを見ている青年、スマホを見ている女性、スマホを見ているおじさん、スマホを見ている子ども。


毎日見慣れた光景のはずが、急に世界がぐらつく。あれ、なんだこれ。

ぼくは二十年前からタイムスリップしてきた人。

なんだこれは。
みんな小さな機械を見ているぞ。ははあ、あれは小型テレビなのかな。いや、何やら操作をしている。テレビ付きウォークマンか。それともゲームボーイの進化版か。
さすがは二十年後の未来。みんな小型端末で娯楽に興じているようだ。

だがどうも様子が変だ。
ちっとも楽しそうじゃない。
みんな険しい顔をしている。あの画面に映っているのはゲームの画面のように見えるが、それにしてはつまらなさそうだ。
表情がちっとも変わらないし、「よっしゃ!」とか「くそっ」とか言ったりしない。無言・無表情でひたすら指だけを動かしている。いやいややらされているようにすら見える。

あれは娯楽じゃないのか。仕事なのか。
ワープロやFAXや電卓があの機械の中に入っているのか。
いや仕事にしたってもうちょっと感情の動きがあるだろう。どの人もただただ"無"の顔で画面をにらんでいるぞ。

もう手遅れなのかもしれない。
すでに彼らは大いなる存在に操られているのではないだろうか。
ビッグ・ブラザーの意向によって画面を凝視させられている。目を離すと不穏分子として当局から目を付けられる。だから歩いている間もあの小さな画面から目を離さない。

ここは感情を表に出してはいけない世界なのか。
その掟を破ったらどうなるんだ。
まるで地獄だ。こわい。こわい。
えっ。
なんですかあなたたちは。感情を顔に出していた? ぼくが?
待ってやめてやめてその手を離して。
ちょっと誰か! 誰か助けて! 連れていかれそうなんです!
誰か助けて、その画面を見てないで顔を上げてこっちを見て!

2018年11月8日木曜日

未来のUFO


ぼくたちが見ている星の光は、何万年も前の光なんだそうだ。

だったら逆に、未来の光を見ることもあるんじゃないだろうか。
ぼくらは時間の流れを半直線のようなものと考えているけど、じつは輪のようなもので、ループしている。ずっと未来はずっと過去につながっている。
そして、なにかの拍子にずっと昔、すなわち未来の映像をちらっと目にすることもあるかもしれない。

ここは1968年。
今から50年前。アメリカの牧場主がふっと空を見あげたら、2018年のドローンが飛んでいるのが見える。
なんだありゃ。明らかに人工物だが、あんなものが空を飛べるわけがない。飛行機やヘリコプターよりずっと小さいし、自由自在に飛びまわっている。
地球のもんじゃねえ。まちがいねえ、ありゃ宇宙船だ。

目撃したのは牧場主だけじゃない。何人もの目撃情報が集まる。
保安官がやってくる、州警察がやってくる、ついには軍までやってくる。
牧場のほかに何もない町はたちまちUFOの町としてアメリカ中、世界中に知られるようになる。

そして50年後。
今でもときおりこの町には世界中のUFOフリークがやってくる。
はたしてUFOはどこからやってきたのか。なぜここにやってきたのか。どうやって姿を消したのか。
現場検証のため、UFO研究者はカメラを搭載したドローンを飛ばす。

2018年11月7日水曜日

まゆ毛っていらないよな


こないだテレビで、美容整形手術で乳首をとる男性がいるという話をやっていた。
不要なものだからとりたい、という人がそこそこいるらしい。

気持ちはわからなくもない。
乳首をとりたいと思ったことはないが、同じような気持ちを抱いたことはある。

小学校一年生ぐらいのとき、ふと「まゆ毛っていらないよな」と思った。
なんでこんなものがあるんだろうと思った。鏡で自分のまゆ毛を見てみる。
なんだこれ。中途半端なところに生えている。髪の毛はまだわかる。人間にとって大切な頭部を守るのだろう。しかしまゆ毛があるのは眼とひたいの間。ぜんぜん大事じゃない。
生えてる場所も半端なら、長さも半端。うっすらと生えているだけで生命力を感じない。
つくづく不要なものに思える。

引っぱって抜いてみた。ぜんぜん痛くない。髪の毛を抜くと痛いのに、まゆ毛はちっとも痛くない。やっぱりいらないものなんだ。ほんとに必要なものだったら抜くときに痛みを感じるはずだもの。
途中で母親から止められたおかげで全部抜くことはなかったが、当時の写真を見るとまゆ毛が薄くて人相が悪い。



中学三年生のとき、ふいに自分の下くちびるが気持ち悪くなった。
なんだこのぼってりしたやつ。こんなにぶあつい必要あるか? ものを食べるために使うには、この半分でも十分だろ。
当時は思春期まっさかり。この気持ち悪い下くちびるで人前に出ることが急に恥ずかしくなった。
幸い下くちびるは、口の中に隠すことができる。下くちびるをぐっと口の中に押しこみ、上くちびるでふたをする。
鏡を見てみる。こっちのほうがずっといい。きりっとして見える。下くちびるはだらしない印象を与えるようだ。

ちょうどその頃、卒業アルバムをつくるために写真屋さんが学校に来ていた。ひとりずつ座って写真を撮る。
ぼくは下くちびるをしっかりと口の中に隠す。
写真屋さんは云った。「口をぎゅっとしないで、ふつうにして」
ちがうんです、これがぼくのふつうなんです。下くちびるを全部見せているのはだらしなくしているときだけで、下くちびるを隠しているこの状態こそが本来のぼくの顔なんです。心の中で弁解する。

ぼくはほんの少しだけ下くちびるを外に出す。
写真屋のおじさんは云う。「そうじゃなくて、もっと自然にして」
かなりいらいらした口調だ。この後何十枚も撮らないといけないのだ。
ぼくは下くちびるを隠しつづけた。やがて写真屋のおじさんは諦めて「この写真が残るけどいいねんな?」と確認して、シャッターを切った。

卒業アルバムに写ったぼくの顔は、ぎゅっと下くちびるを噛んで、まるで悔しさを押し殺しているように見える。じっさいぼくは悔しかったのだ。不必要にぶあつい下くちびるが自分の口についていることが。



あれから数十年。
今ぼくはまゆ毛をじゃまに思うことはないし、自分の下くちびるを無駄にぶあついと思うこともない。ごくごくふつうのまゆ毛、ふつうの下くちびるだと思う。
血迷ってカッターナイフで下くちびるを切りとったりしなくて本当によかった。

美容整形手術で乳首をとってしまった男性は、数年後に後悔したりしないのだろうか。
それともやはり切除してよかったと思っているのだろうか。
もしくは、乳首をとってすっきりしたことで、またべつのものを不要に思うのかもしれない。
このへそ、何の役にも立ってないなとか。なんでこんなところにくるぶしみたいなでっぱりがあるんだろうとか。鼻なんて穴だけあればいいじゃないかとか。背中を使うことないなとか。

2018年11月6日火曜日

瀬戸内寂聴の予約キャンセル


予約って怖いよね。

予約できる人ってすごいよね。ぼくが美容院に行かない理由もそれ。予約しないといけないから。

だって予約するってことはキャンセルしたり遅刻したりできないってことじゃない。

ずっと気にしてなきゃいけないんだよ。
一週間も前からああ今度の土曜日美容院だ、他の予定入れたらだめだ、体調万全にしとかなきゃ、髪に良さそうなものを食べよう、明日は美容院だから髪をしっかりかわかしてから寝よう、少なくとも三時間前には起きとかなきゃ、あと一時間三十分だ、今家を出たら早く着きすぎるからあと十五分したら出よう、でもやっぱり早く着きすぎたあんまり早く入店しても迷惑かな。

ずっと美容院のために脳のリソースを使わなきゃいけない。だったら予約なしで床屋に行って一時間待たされるほうがいい。

飲食店やホテルには、予約をしたのに来ない客がけっこういると聞く。
予約を忘れたのか、それとも覚えていたのにキャンセルが面倒で放置したのか。
いずれにせよ、そういうことができる豪胆な神経がちょっとうらやましい。周囲は苦労するだろうが、本人はいたって幸せに生きていけるように思う。


キリストやブッダやマザーテレサや瀬戸内寂聴のような「心の広い人」は予約キャンセルの連絡を入れない。たぶん。

よいではありませんか。行けなくなったのはめぐりあわせがよくなかった、ただそれだけのこと。わたしの予約は別の誰かのもとへ行く。そしてまた誰かの予約がわたしのもとにやってくる。すべての予約はつながっているのです。
あなたが過ごしている時間はあなたひとりのものではないんです。世界中の人、あらゆる生物と共有しているのです。それを独占しようだなんて考えはやめましょう。

「ご予約のお時間ですがいらっしゃらないので確認のお電話をさせていただきました」と言われた瀬戸内寂聴さんはきっとこう言う。

「いやじっさいお店に迷惑かけてるのにそんなふうに開きなおって大丈夫なの」
とヒヤヒヤしているのは、隣で聞いているぼくだけだ。

2018年11月5日月曜日

おれがでかいからだ


おれはスーパーヒーロー。
この世にはびこる悪を倒す。

おれは強い。
悪人はおれの姿を見ただけで震えあがる。

おれはでかい。
とにかくでかい。めちゃくちゃでかい。

しかしおれは不人気だ。
スーパーヒーローなのに。





でかいのがいけないらしい。
おれの身長は5メートル。成人男性3人分ぐらいだ。

おれの体重は3トン。成人男性45人分ぐらいだ。
なんでそんなに重いんだと思ったやつは算数をわかってない。
体重はタテ×ヨコ×高さで決まるから身長の3乗に比例するのだ。
ただしこれは同じ体形の場合の話で、当然ながらおれは君たち一般人と同じ体形ではない。
考えてもみてほしい。身長が3倍だったら、単純に考えて体重は3×3×3で27倍。しかし足の裏の表面積は身長の2乗に比例するから3×3で9倍。9倍の足の裏で27倍の体重を支えられるわけがない。したがっておれの足の裏は君たちを3倍にしたよりもずっと広い。
でかくなればそれだけ骨や筋肉は強度を増さないといけないし、大きくなった骨や筋肉はそれ自体がかなりの重みを持つからより支えるためにいっそうの力を要する。
そんなわけでおれは、君たちの目にはめちゃくちゃ太く見える。でもそれはおれがデブだからじゃない。でかくなるためには太くなくてはならないのだ。

子どもがおれを見て言う。「うわっ、すっげーデブ」
おれはスーパーヒーローだからそういうのを許さない。子どもがまちがったことを言ったら注意して訂正するのが大人の義務だ。
子どもをつかまえて、おれはデブじゃない、体重は身長の3乗に比例するから……という話をする。子どもはたいてい怖がって泣きだす。だがおれはやめない。ここでやめたら本人のためにならない。
当然ながら手を上げたり、きつい言葉をかけたりはしない。あくまで冷静な口調で怒っていることを伝える。
それでも親が「やめてください!」と言いに来るし、ときには警察を呼ばれたりもする。
おれがでかいからだ。



おれは人気がない。
ひったくり犯を捕まえたことがある。おれはずいぶん手加減をしたつもりだったが、相手は複雑骨折で全治六ヶ月の怪我を折った。
野次馬から「何もそこまで」という声が上がった。
警察官からも「私どもに任せていただければ大丈夫ですので。ケガとかあってもたいへんですし」と遠回しに嫌味を言われた。
ふつうだったら表彰状でももらえるところだが、おれにはなかった。がんばったと思われていないのだ。一生懸命走って原付を追いかけたのに。
おれがでかいからだ。

スーパーで、おっさんが店員の若い女性にからんでいた。自分がポイントカードを忘れたのが悪いのに、なぜポイントをつけないんだと詰め寄っている。弱い者相手には強気になる卑怯なおっさんだ。
おれが入っていって「あんたが悪いんだろ」とおっさんを一喝した。
おっさんだけでなく店員もおびえていた。べつの店員が走ってきて「すみません、他のお客様もいらっしゃいますので……」と言った。おっさんではなく、おれに。
おれがでかいからだ。



おれはただでかいだけじゃない。
きみたちと同じくらい俊敏に動ける。きみたちはふつうに動いているようにしか見えないかもしれないけど、これはすごいことなんだ。
ゾウは動きがのろいだろう。逆にネズミはすばしっこい。
身体がでかいとそれだけ動かすのに力がいる。だから素早くは動けない。なのにおれはきみたちと同じくらい機敏に動ける。これはおれがめちゃくちゃがんばっているからだ。
おれが君たちと同じサイズになったとしても、きっとオリンピックでメダルを総なめにしているだろう。

だがおれはオリンピックには出られない。いや、規定があるわけじゃない。「身長3メートル以上は出場を禁ずる」というルールはない。
でも世間的にというか世の中の空気的に、おれはオリンピックには出られない。おれが出場したら「そんなにでかいのに出んのかよ」という空気になる。おれがレスリングの無差別級に出場したら、ぜったいにみんな小さいほうを応援する。おれが優勝しても「そんなにでかいんだから勝つに決まってるじゃんかよ」という目で見られる。正々堂々と力を尽くしても卑怯者みたいな目で見られる。
出場したことないけど、おれにはわかる。無差別級は無差別じゃない。

おれはそういう空気には敏感なのだ。
これもすごいことだ。
世の中には、自分と同サイズの人たちの気持ちを察することができない人がいっぱいいる。おれなんか自分よりずっと小さい人たちの気持ちを読まないといけないのだ。大きな文字より小さい文字を読むほうがむずかしいように、大きい空気を読むより小さい空気を読むほうがずっとむずかしいのだ。それをやっているおれのことをもっと賞賛してほしい。



おれは活躍のわりに人気がない。
それはおれがでかいからだ。

SNSで言われているみたいに、理屈っぽいからとか、自尊心が強すぎるからとか、身体はでかいのに心はせまいからだとかでは断じてない。


2018年11月2日金曜日

【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』


『素敵なダイナマイトスキャンダル』

末井 昭

内容(e-honより)
実母のダイナマイト心中を体験した末井少年が、町工場への集団就職ののち上京、キャバレーの看板描き、イラストレーターを経て、伝説のエロ本編集長として活躍するまでの、波乱にとんだ身辺記。登場するおかしな人物たちへのフェアかつ鋭く、しかし暖かな観察眼と、力の抜け切った語り口が描く山盛りの仰天エピソードで、多くの読者を魅了した幻の名著。

1982年に刊行された本だが、なぜか近年になってちくま文庫で復刊。2018年3月には映画化もされた。
エロ雑誌やパチンコ雑誌の編集者を経験し、今は高年者バンド"ペーソス"のテナーサックス担当でもある末井昭氏の半生記。

前半はすごくおもしろい。
特に冒頭でおかあさんが爆死するエピソードはおもしろい。おもしろがっちゃ悪いけど、しかし本人が悲壮感を出してないんだから気の毒がるのも違うような気もする。おもしろがっとこう。

いやしかし「おかあさんが若い男とダイナマイト心中した」って強烈だなあ。この本の中でダイナマイト心中に触れているのは全体の2パーセントぐらいしかないけど、強烈なインパクトがある。
ぼくの知人にも母親を自殺で亡くした人がいるけど、とても他人が触れられる話題ではない。親が子より先に死ぬのは自然の摂理だからしかたないとしても、自殺ってのはやはり「止められたのでは」とか「置いていかれた」とか思ってしまうからなかなか割り切れるものではないだろう(置いていかれるのもイヤだが道連れにされるのはもっとイヤだけどね)。

しかし、ダイナマイトという字面がそういう重苦しさをボカンと吹きとばしてしまう。ダイナマイトだけに。
末井さんが育ったのは鉱山の町だったので、わりと手軽にダイナマイトが手に入ったそうだ。日常的にダイナマイトがあれば、自殺のときにそれを使うのもわかる。かんたんだし、確実に死ねるし、苦しくなさそうだし。
しかし大半の現代人にとってはダイナマイトって漫画にしか出てこないものだから(シリアスな小説や映画にだってめったに出てこない)、「ダイナマイトで爆死」ってなんか冗談みたいな響きがあるんだよね。「1トンハンマーでぶんなぐって月までぶっとばす」みたいな非現実感。

道徳的にはおもしろがっちゃいかんのかもしれないけど、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」なんて書かれたら笑うしかない。



末井さんの書くものは、生い立ちのせいか、何をしていてもどこか醒めている。
たいへん、つらい、わくわくする、といった感情が伝わってこない。どんな境遇に置かれていても、今いる場所を楽しむ方法を知っている。
どこか悟りを開いたような文体だ。

戦地で死線をくぐった水木しげるさんや、やはり幼いころにおかあさんと生き別れた爪切男さんの書く文章にも似ている。
なにかしら共通するところがあるのかもしれない。

 最初、なんでもいいから描きたいものを描いていいということでスタートした雑誌の仕事だったのだが、なんでもいいと言われると逆にすごく困っていた。あれほど自分の中に表現したいものがあると思っていたのに、それがうまく具体化できないのだ。そのことにイライラして、アパートや喫茶店で考え込んでしまっていた。
 でも、それだけ考え込んで描いたものを持って行っても、編集者は「こんなもんでいいんじゃない」という感じで見ている。僕は、なんだかむなしい気持になっていた。そして、表現したいものやオリジナリティなんて本当はなくて、自分を表現したいという欲求があるだけなのだ、ということがおぼろげながら分ってきた。
こんな短い文章だけど、ここに若者の十年分の苦悩がぎゅっと凝縮されている。

すごくわかる。ぼくも若いころは「なにか表現したい」という気持ちを抱えて生きていた。今でも完全になくなったわけではないけど。

でもその「なにか」はなんでもないのだ。ほんとに表現したいものなんてない。
「自分でもわからないけどぼくのいいところを誰か見つけてよ」とずっと叫んでいるだけ。
当然ながら世の中の人はそんなにひまじゃない。ぼくに興味なんてない。

そういうことがわかって、「表現したいのなら表現しなくてはならない」というあたりまえのことにようやく気付いた。それだけのことに気づくのにどれだけの時間かかってるんだ。

そしてこうして誰が見ているのかもわからないブログを書いて心の平穏を保っている。
「すごいものを表現したい」という気持ちを抱えているよりも「たいしたことないものだけど表現している」のほうがずっと健全だと思う。



エロ雑誌編集者が語る、エロ本のテクニックについて。
 エロ本のテクニックは、いかにうまく予告篇を作るかなのであって、ガバッは反則なのだ。このウラ本と呼ばれているガバッには、精神的余裕というものがまったくありません。むかしのエロ本の自信と寛容さなんて、あるわけがありません。あるのはお金と、警察にビクビクする目だけです。
 でも、ガバッが出てきたというのも、時代のせいなのだろう。女の人は穴ボコの中に”愛”なんてあるわけないと、最初っから知っているのです。だって、自分たちの持物なのですから。それが人の持物であっても、男の股間に”愛”が二つぶら下がっているワ、とは思いません。女の人向けのエロ本が絶対作れないのはこのためです。
そうそう、そうなんだよね。
ぼくも人並みにエロには興味を持っているけど、あれは性器そのものに昂奮しているわけじゃないんだよね。
「本来見えてはいけないものを自分だけが見ている」とか「見られて恥ずかしがっている相手のしぐさ」とかに昂奮しているわけで、だから「ほら見ていいよ」とばーんと出されてしまったら、そこにエロスはないわけ。一応見るけど。

十八歳のときに、留学していた友人がカナダで買ってきた無修正のエロ本をはじめて見た(なにしに留学しとんねん)。
すごくドキドキしながら見たんだけど、ああこんなもんか、という感じで期待していたほどの悦びはなかったのをおぼえている。
やっぱりアレは布ごしに想像するもので、まじまじと眺めるもんじゃないね。

能の世阿弥が「秘すれば花なり」という言葉を残しているけど、これって女性器について語った言葉だよね?

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ペーソスライブ@西成区・萩之茶屋

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』



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2018年11月1日木曜日

【読書感想文】からっぽであるがゆえの凄み / 橋下 徹『政権奪取論 強い野党の作り方』


『政権奪取論 強い野党の作り方』

橋下 徹

内容(e-honより)
有権者の望みを「マーケティング」して政策を磨き、地方から「変えられる」実力を示して信頼を勝ち取り、意見は多様でも最後はきちんと「決める」強固な組織をつくる。そうしておかなければ、与党が何をしても「風」すら吹かない。強い野党をどうすれば作ることができるか―。8年間の生きた政治経験をフルにつぎ込んで語ろう。野党の弱さが今の政治の根本問題。日本を刷新するガチンコ戦略と戦術!

は、橋下徹氏が朝日新聞出版から本を出している……!
かつてあんなこと(Wikipedia「週刊朝日による橋下徹特集記事問題」)があったのに……!

和解金を払ってもらったとはいえ、あんな程度の低い中傷記事を書かれた出版社で仕事をするなんて、意外と橋下氏も大人なんだなあ。一生根に持つタイプかと思ってた(ぼくなら根に持つ)。見直した。

すごくおもしろい本だった。
ぼく自身は前大阪市長である橋下徹氏の考え方とはあわない点が多いのだけれど(大阪都構想を問う住民投票の際も大阪市民として反対票を投じた)、それはさておいてこの本はおもしろかった。

納得できる点も多い。反対に「ここはまったく賛成できないな」という点も多い。良くも悪くも論旨が明快なのだ。
学者にはこういう文章は書けないだろうなあ。弁護士という実業の世界に身を置いていたからかもしれない。
そういや去年、橋下氏の講演を聴く機会があったのだが、その講演も歯に衣着せぬ物言いですごくおもしろかった。
しゃべりがおもしろいから政治家にしておくには惜しいよね。良くも悪くも。
自分でも政治家には向いていないことがわかってたから辞めたんだろう。

橋下さんに対しては、大人なんだからもうちょっとうまくやりなよ、と思うところも多い。
とはいえその子どもっぽい純粋さこそが、この人の魅力なんだろうな。



橋下徹氏は「他人に厳しく自分にも厳しい人」だとぼくは見ている。
(そして彼が抜けた後の大阪維新の会には「他人への厳しさ」だけが残り「自分への厳しさ」は捨ててしまったように見える。)

そんな橋下氏の「厳しさ」が、日本維新の会を含めた野党の立ち居振る舞いに向けられたのが『政権奪取論 強い野党の作り方』だ。

今、国政において野党はめちゃくちゃ弱い。誰が見ても弱い。
自民党はダメダメだが野党はもっとダメ。多くの人がそう思っている。

野党は反対ばかりというイメージを持たれている(じつはそれは誤りで、野党も大半の法案には賛成しているのだが、誰も反対しない法案はニュースにならないので報道されないだけなのだが)。

自民党に好印象を持っていないぼくですら、総選挙での野党の分裂っぷりなどを見ていると「こいつら本気で政権とりにいってないだろ」と思う。
いや、じっさいそういう議員も多いでしょ。ずっと野党議員でいたほうが楽だもん。人のやることに文句言っとけば議員として高い給料もらえるんだから。

野党は応援しているが、政権交代までは望んでいない。そういう人も多いだろう。ぼくも今の野党を見ているとそう思うし、何より当の野党議員自身がそう思ってんじゃないのかね。


ということで、橋下氏は野党のやりかたを鋭く批判している。今の政治が悪いのは野党のせいだ。野党が不甲斐ないから自民党がめちゃくちゃをやるんだ、と。

言いたいことはわかるが、でもいくらなんでもそれは無茶でしょ。

野党が強ければ与党である自民・公明も襟を正すはず、だから野党が弱いのが問題だ。
というのは「女性がみんな格闘術を習得すれば痴漢をしようとする人も思いとどまるはず。痴漢がなくならないのは女性が弱いのが問題だ」みたいな話じゃないか?

どう考えたって自ら襟を正さないやつが悪いでしょ。



橋下氏の主張を読んでいると、民主主義、多数決を信用しすぎじゃないかと思う。
 国を誤らせないように、一生懸命考え抜いてこれだと方向性を示すのが政治家の仕事。しかし、最後の判断は、国民に委ねる。もし間違った判断があっても、その責任は国民に平等に分担される。また、時の権力者が暴走する気配があれば、内戦で国民の血を膨大に流すことをしなくても、次の選挙で国民がその首を落として、権力者をすげ替えることだってできる。
 そのようにして国民の選択が国を作り、動かしていくのが、日本のような成熟した民主国家における政治のあり方だろう。
「やってみてだめなら変えればいいじゃん」ってのは、民間企業や地方自治体であればそうかもしれない。
でも国会は法律をつくる権限を持っているから、その「次の選挙で国民がその首を落として、権力者をすげ替えることだってできる」という制度そのものを壊されちゃう可能性もあるわけだし。
じっさい、公正な選挙制度をぶっこわした政権なんて世界中にいくらでもあるし、自民党だって自党に都合のいいように選挙区制度を改変したりしているわけだしね。

それに「その責任は国民に平等に分担される」ってのは明らかなウソだ。沖縄の基地や原発稼働の負担は誰が見たって等しく分担されていない。

「すべての都道府県で等しく米軍基地を受け入れるか、沖縄だけに集中させるか」と国民投票をやったら沖縄以外の賛成多数で「沖縄だけに負担集中派」が勝つかもしれない。
でもそれは正しい民主主義とは呼べない。

だから「間違った判断をしたら変えればいい」じゃなくて「間違った判断をさせない」が政治に求められるものだし、それをさせる仕組みが憲法なのだ。



前半は首をかしげるところも多かったが、後半の「強い野党の作り方」はなるほどと感心するところも多かった。
自ら政党を立ち上げて、成功と失敗を経験した人だけに説得力がある。
「たしかに橋下さんの言うとおりにしたら勝てそう」と思ってしまう。

「野党間で予備選挙をやって候補者を一本化せよ」なんて主張は、たしかにその通り。
これをやるだけで野党が勝つ選挙区は増えるだろうし、少なくとも「自民党の大勝」はなくなるだろう。

ま、それができないから野党が弱いんだけど。
 ここは特に野党が勘違いしやすいところで、日本の新しい道を示すだけで有権者の期待を集められると思っている。だから日本維新の会も、政党綱領や「維新八策」という政策集をまとめることに膨大なエネルギーを割き、そこで仕事を終えたような感じになってしまっている。
 それは完全に間違い。日本の新しい道を示すことはもちろん大事だが、勝負はそこから。政党としての意気込み、挑戦、実行力を示していかなければ、有権者の期待を集められず、政権などは永久に取れない。逆に有権者は、ある政党に意気込み、挑戦、実行力を感じると、今は大賛成の政策がなくても、少し気に入らない政策があったとしても、支持を継続してくれる。その政党に意気込み、挑戦、実行力があるかぎり、「次は私のことについても、やってくれるんじゃないか」「少々気に食わないが、それ以上に私のことを良くしてくれるんじゃないか」と期待感が高まるからだ。

さすがは自他ともに認めるポピュリスト。大衆の心理をよくわかっている。

そうだよなあ。地元選出の政治家が何やってるかなんてふつうの人は知らないもんなあ。
結局ぼくらは「なんかやってくれそう」「なんかいらんことしそう」「なんか気に食わない」ぐらいで票を入れている。

だから特に野党が勝てるかどうかは「何をするか」ではなく「どう見せるか」にかかっているんだろうね。



読んでいてそらおそろしくなったのが、この文章。
 インテリ層たちは政党とは「政策だ」「理念だ」「思想だ」と言うけれども、そうではなくて、極論を言えば各メンバーの意見をまとめる力を持つ「器」でありさえすればよい。野党としては、政権与党に緊張をもたらすためのもう一つの「器」であることが大事なのであって、器の中身つまり政策・理念・思想などは、各政党が一生懸命、国民の多様なニーズをすくい上げて詰めていくものだと思う。つまり政党で死命を決するほど重要なのは組織だ。はじめから政策・理念などを完全に整理する必要はない。
どうです、すごいでしょう。

ぼくが前々から橋下徹という人間に感じていた得体の知れなさの原因がわかった。
この人はからっぽなんだ。
橋下徹という人間自体がただの「器」なのだ。満たされることが目的であって、中身はお茶だろうがワインだろうがコーラだろうがなんでもいいのだ。

からっぽというと悪口のように思われるかもしれないが、これは橋下徹氏の長所だ。
彼が政治家として支持されたのはからっぽだったからだ。軸がないと言い換えてもいい。
これはすごい。誰にでもできることではない。ほんとにすごい。
いや、皮肉でなく本心から感心してるんだよ。

さすがは弁護士。
依頼人であれば悪人も弁護するのと同じで、要請さえあれば主義主張を捨てて支持される道を選ぶ。
ふつう「政党にとって政策・理念・思想は後回しでいい」なんて言えない。思わない。
この言葉にはからっぽであるがゆえの凄みを感じる。


橋下氏は自分自身の主張や理念というものがなく、市民の願望をすくいあげることが天才的にうまかった。
だから多くの府民や市民は彼を支持したし、彼もまたそれだけに応えた。
タレント弁護士として成功したのも、自分のポリシーを捨てて(というよりはじめからない)番組制作者や世間が求めるものを演じたからだろう。

そのからっぽさは「維新の会」という名前にもあらわれている。とにかく変革することが目的。重要なのは刷新することであって、その先にビジョンはない。
ふつう政党の名前には「自由」「民主」「平和」「社会」「共産」といった主義主張がこめられるが、「維新の会」にはいっさい主張がない(「みんなの党」「希望の党」もそうだね)。
無色透明なガラスのコップ。何を入れてもおかしくないが、それ自体には何の主張もない。


橋下徹氏はよくポピュリストだと言われる。彼自身、それを否定していないし、むしろポピュリストであることに誇りを持っている(この本にもそう書かれている)。

だから民衆の支持を集めることだけに全力を注ぐし、支持がなくなればどんな政策もあっさり捨てる。
あれだけ大阪都構想と言っていたのに、住民投票で否決されるとあっさり手放して政治からも身を引いてしまった。からっぽだからこその潔さだ。
小泉純一郎氏の「郵政民営化」や安倍晋三氏の「憲法改正」のような、悲願という感じがまったくない。



橋下氏の主張は正しい。勝つためには、自らをからっぽにして世間の声に身を任せるのがいい。
なりふりかまわず主義主張を捨て、ひたすら組織を強くすることをめざす。
そうすれば政権も見えてくるかもしれない。

だが、それっておもしろいの? と思う。
おもしろいんだろう。金儲けが趣味でお金を使うことに興味がない人がいるけど、それと同じだ。

ふつうは権力というのは手段だと考えるけど、それは凡人の発想なのだ。橋下氏にとっては権力は目的そのものなのだ。


でも「そこまでして政権をとりたいんだったら強い野党をめざすんじゃなくて自民党に入ればいいんじゃねえの?」と思ってしまうんだけど。

結局この「強い野党の作り方」って「自民党をもうひとつ作る方法」なんだよね。まあそれはそれで意味のあることだけど。

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