2018年7月31日火曜日

大人の男はセミを捕る


四歳の男の子に「おっちゃん、セミとって」と言われた。

七月の公園。樹にセミが鈴なりになっている。
ぼくのすぐ眼の前にも青く光っているセミがくっついている。鳴いていない。
娘の友だちのKくんはいともかんたんに「おっちゃん、セミとって」と言う。おっちゃんがびびっていることに気づいていない。大人にとってどれほど虫が嫌なものなのかわかっていない。ぼくもそうだった。

ぼくは自他ともに認める虫好き少年だった。幼稚園に行く途中トカゲや虫を捕まえた。「いつも虫を持ってるね」と言われていた。
しかしそれから三十年。虫好きだった少年は、ごくふつうの虫がちょっと苦手なおじさんになった。

「自分でとったらどう?」
 「とどかないもん」
「だっこしてあげるよ」
 「Kくん、手が小さいから捕まえられない。おっちゃんやって」

四歳のくせに理屈こねやがって。
虫取り網なんて気の利いたものはない。手でつかむしかない。
セミかあ嫌だな。カナブンとかダンゴムシとかの堅いやつならわりと平気なんだけどな。セミってお腹の部分が柔らかいし羽根も破れちゃいそうだしお腹からむにゅっとやわっこい臓物的なものが出てきそうだなあ。うへえ。想像したらますます嫌になってきた。


Kくんは「とってとって」と云う。横にいたうちの娘まで「おっちゃんとって」と云う。ちくしょうこいつら、大人の男にできないことなどないと思っていやがる。自慢じゃないがおっちゃんは厚生年金の仕組みすらよくわかってないんだぞ。
「おっちゃんちゃうわ、おとうちゃんや」とぼくは娘に云い、樹に手を伸ばした。
へたに勢いをつけたらセミが動いたときにうっかりつぶしてしまうかもしれない。それだけは避けたい。どうか穏便に、穏便に。
左手でセミの進路をふさぐ。上に向かって飛べないようにしておいて右手をそっとセミにかぶせる。セミは少しも動かない。おい動けよ危機感持てよまったく最近のセミは。右手をじわじわとすぼめてゆく、指の腹がセミの羽根に触れる。

じゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅ
掌の中で激しく鳴くセミ。うへえ、やわっこくてがさがさしたものが掌の中で動きまわっている。『クレイジージャーニー』で観た、昆虫食の好きな女の人のことを思いだす。彼女はセミの羽根をむしってからフライパンで炒めていた。こいつが、こいつの胴体が、油の中で。

だが捕った。どうだ大人の男は。セミを捕ったぞ。

ところがKくんはじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅと鳴き叫ぶセミにすっかり恐れをなして「わあ」と叫んで走りだした。つられて娘も逃げる。こら待ておまえらが捕ってってゆうたんとちゃうんかい、こっちはセミがおしっこかなんか変な液体を出して手を濡らしているのを我慢して握ってるんやぞ。
逃げる幼児、追うぼく、掌の中で暴れるセミ、不快な汁、どこまでも暑くるしい夏。


2018年7月30日月曜日

『りぼん』の思い出


小学生のとき、雑誌『りぼん』を読んでいた。
といっても買ったことは一度もない。姉が購読していた『りぼん』を読ませてもらっていたのだ。姉弟喧嘩をして「もう『りぼん』読ませへん!」と言われてからも、姉がいないときにこっそり部屋に侵入して『りぼん』を読んでいた。

当時はたぶん今以上に男が少女漫画を読むとばかにされる時代だった。男子小学生だったぼくらの間では、当時大ブームを巻きおこしていた『ちびまる子ちゃん』ですら「男が読むもんじゃない」という扱いだった。
「男はジャンプだろ」
男子はジャンプ一択、コロコロ読むやつはガキ、ボンボンはゲーマー、それ以外は存在しない。そんな時代だった。
だからぼくは『りぼん』を読んでいることをクラスの誰にも言ったことがなかった。


『りぼん』を読んではいたが、ぼくが主に読んでいたのは『ちびまる子ちゃん』『こいつら100%伝説』『ルナティック雑技団』『赤ずきんチャチャ』『へそで茶をわかす』だけで、要するにギャグ漫画しか読んでいなかった。亜流だ。
当時はジャンプ黄金期であると一方で女子の間ではりぼん黄金期でもあった(りぼん>なかよし>>>ちゃお みたいな序列があったはず。今はちゃおの圧勝だが)。
当時の『りぼん』には、『天使なんかじゃない』『ときめきトゥナイト』『マーマレード・ボーイ』などそうそうたる漫画が連載されていたが、タイトルしか覚えていない。なぜなら読みとばしていたから。『天使なんかじゃない』は十五年後ぐらいに読みかえしておもしろかったのだが、やはり男子小学生にとっては恋愛の心の機微よりも「宇宙でいちばん強えやつは誰か」のほうが気になるところなので、当時ちゃんと読んでいたとしても楽しめなかっただろう。

せっかく姉の『りぼん』という女子の嗜好を把握するツールが手近にあったのだから、恋愛漫画を真摯に読んで勉強していれば、もっと女心のわかるモテ男になっていたかもしれない。『こいつら100%伝説』ではまったくモテにつながらなかった。



2018年7月28日土曜日

ことわざ分類

【逆説表現】


青は藍より出でて藍より青し

雨降って地固まる

急がば回れ

灯台下暗し

二兎を追う者は一兎をも得ず


【説教】


秋茄子は嫁に食わすな

果報は寝て待て

可愛い子には旅をさせよ

郷に入っては郷に従え

初心忘るべからず

鉄は熱いうちに打て

習うより慣れよ


【そりゃそうだろ】


夫婦喧嘩は犬も食わぬ

井の中の蛙大海を知らず

腐っても鯛

後悔先に立たず

笛吹けども踊らず


【ちがうよ】


五十歩百歩

立つ鳥跡を濁さず

猫の手も借りたい


【やんねえよ】


赤子の手をひねる

石の上にも三年

鵜の真似をする烏

馬の耳に念仏

二階から目薬

糠に釘

猫に小判

暖簾に腕押し

豚に真珠

へそで茶を沸かす


2018年7月27日金曜日

【短歌集】病弱イレブン



チームメイト追悼試合の最中に死んだ選手の追悼試合



リズム感に欠く彼らのドリブルは まるで銃弾浴びてるかのよう



病弱の健闘むなしく無情にも響きわたるはキックオフの笛



勝ったのに2回戦には上がれない トーナメントにスロープつけて



病弱を支えて励ます女子マネが ひそかに計算せし内申点



全員が倒れし後も好勝負演出するはベルトコンベア



負傷者を乗せた担架を持ちあげる隊員たちの強さが際立つ



タックルをしかけた側が倒される サッカーだけに踏んだり蹴ったり



あと一歩 病弱イレブン破れ散る 勝者はお掃除ロボットルンバ



看護師の制止を振り切り出場し 血を吐きながらキックオファァアああ



敵味方 赤と青とに分けるのは ユニフォームでなくサーモグラフィー



永遠のものなどないと思ってた 彼らにとっては終わらぬ試合



2018年7月26日木曜日

中学生が書いたサラリーマン小説


「わかっているだろうな、ホンダくん。これは我が社の命運を賭けたビッグ・プロジェクトだ。決して失敗は許されんぞ」
部長が鼻髭をさわりながら言った。おれは「承知いたしました」と軽く頭を下げて席に戻った。後ろの席の女性社員たちがこちらを見ているのを感じながら、あくまでクールに席についた。

「どうせ失敗に決まってるさ。部長、失敗したらこいつクビですよね」
同期のカワサキが薄笑いを浮かべながら言う。ほんとうにいやなやつだ。社内の噂話と上司へのごますりしか頭にない男だ。おれは聞こえないふりをしながらコンピュータを起動した。二万テラバイトのハイパースペック・マシン。こないだのビッグ・プロジェクトを成功させたお祝いに部長が買ってくれたものだ。こんなところにも部長からおれへの期待が現れている。

「こないだのビッグ・プロジェクトすごかったわね。今度のビッグ・プロジェクトも期待してるわ」
おれの机に湯のみ茶碗を置きながら、会社のマドンナであるレイコさんがささやく。ささやきついでに、おれの手をぎゅっと握りしめていった。カワサキの歯ぎしりがここまで聞こえてくるようだ。思わずにやにやしてしまう。

おれはノートをとりだして、複雑な計算式を書きはじめた。ビッグ・プロジェクトの見積もりを作成するのだ。この計算式はおれにしか書けない。だからいくらカワサキが悔しそうににらんだところで、ビッグ・プロジェクトを任せられるのはおれしかいないのだ。

出た。なんと105万円。
ついに100万円の大台に乗った。たくさんのビッグ・プロジェクトを手がけてきたおれでも、これほどビッグなプロジェクトははじめてだ。
検算をして見積もりにまちがいがないことを確認して、おれは見積もりを真っ白な紙に清書した。

ネクタイを締めなおし、清書した見積もりを部長に手渡した。窓の外に目をやり、横目で部長の反応をうかがう。
「ひゃっ、105万円……」
部長の声が震えている。当然だろう、なんせ会社の運命を握っているビッグ・プロジェクトだ。
部長の声を聞いていた同僚たちがさざめきあう。「105万円だって……」「いくらビッグ・プロジェクトだからって……」そんな驚嘆の声が聞こえる。
ビッグ・プロジェクトのビッグさに一瞬たじろいでいた部長も、すぐに落ち着きを取り戻して見積もりの内容を確かめはじめた。さすがだ。今はこんな小さな支社にいる部長だが、かつてはニューヨーク支社で数々の大胆な見積もりを世に出してアメリカ中のビジネスマンを驚かせ、東洋の見積もり王の名を欲しいままにしたと聞く。もしかすると、おれの強気の見積もりを見てかつての栄光の見積もりを思いだしているのかもしれない。

「完璧な見積もりだ……。この見積もりなら我が社の危機は救われる……」
うめくように部長が云った。当然だ、百年に一度の新入社員と呼ばれたおれの渾身の見積もりなのだから。
「この見積もりをあれだけの短時間で完成させるとは、まったく大した男だな。ホンダくんは」部長が顔をほころばせる。「それにしても105万円の見積もりとはおそれいったよ、これはもはやビッグ・プロジェクトではない。大ビッグ・プロジェクトと呼んだほうがいいだろうな」
「ははは、部長、大ビッグだと意味が重複していますよ」
「それもそうだ、こりゃあ一本とられたな」
おれの鋭いツッコミに、部長がおでこに手を当て大声で笑った。つられたように社内全体が笑いだす。ひとり苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのはカワサキだ。

そのとき扉が大きな音を立てて開いた。顔を出したのはなんと、本社にいるはずの社長だった。
「おや、楽しそうな話をしているな。わしも混ぜてくれんかね」
社長の横では、タイトなワンピースに身を包んだ切れ者秘書のエリカさんが細メガネを光らせている。
「こ、こ、これは社長。どうしてここへ」
部長があわてて椅子から立ちあがる。カワサキがさっそく社長の後ろにまわりこんで、肩をもみはじめる。まったく、わかりやすいぐらいのごますり野郎だ。
だが社長はハエでも追いはらうかのようにカワサキの手を払いのけた。
「完璧な見積もり、という声が聞こえたような気がするが……。それともわしには教えられんような話かね」
社長の目がぎらりと光った。今ではすっかり好々爺然とした社長だが、戦後の闇市で怒涛の見積もりを連発して財を成し、そこから一代でのしあがっただけのことはあり、ときおり見せる鋭い眼光は社員を威圧する。
「ととととんでもございません。たった今、ホンダくんが見積もりをつくったところでして、ぜひとも社長にもお見せしたいと思っていたんですよ」
部長が平伏せんばかりの勢いで見積もりを社長に手わたすと、すかさず秘書のエリカさんが老眼鏡をさしだす。
「ほうほう、これをホンダくんが……」
にこにことした表情で見積もりを眺めていた社長の顔つきが、突如豹変した。「まさか……」「いやしかし……」と独り言が漏れる。
最後まで読みおえると、社長は見積もりを丁寧に封筒に収め、深く息をついた。社長も無言、部長も無言、部署全体が静まりかえっていた。
やがて社長はすっと指を二本立てた。秘書のエリカさんがそこにタバコを差しこみ、流れるような動きで火をつけた。あわてて立ちあがろうとしていたカワサキが「出遅れた」という顔をした。

「いやはや驚いたよ。こんな優秀な社員がうちにいたなんて」
社長はタバコの煙を吐きだしながら声を漏らした。
「わしは長いことこの仕事をやっているがこんなすごい見積もりを見たことはない。このビッグ・プロジェクト、まちがいなく成功する!」
わっと歓声が上がった。社長の威厳の前にぶるぶると震えていた部長が安堵のため息をついた。表情を変えていないのはおれだけだ。ずっと余裕の笑みを浮かべていたからだ。

「よしっ、ボーナスをはずもう。ホンダくん、このビッグ・プロジェクトはすべて君に一任するよ!」
社長とおれはがっちりと握手をかわした。


【次回予告】
完璧な見積もりにより完璧なスタートを切ったビッグ・プロジェクト。すべて完璧かと思われていたが、なんとライバル会社であるイリーガル社がまったく同じ見積もりを作成していたことが判明。完璧だったはずのビッグ・プロジェクトに暗雲が立ちこめる。ビッグ・プロジェクトの見積もりをライバル社に漏らしていたのはいったい誰なのか……。
次回、『カワサキの謀略』。乞うご期待!


2018年7月25日水曜日

【DVD感想】 『インサイド ヘッド』

『インサイド ヘッド』
(2015)

内容(Amazonプライムより)
11才の少女ライリーの頭の中の“5つの感情たち”─ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、そしてカナシミ。遠い街への引っ越しをきっかけに不安定になったライリーの心の中で、ヨロコビとカナシミは迷子になってしまう。ライリーはこのまま感情を失い、心が壊れてしまうのか? 驚きに満ちた“頭の中の世界”で繰り広げられる、ディズニー/ピクサーの感動の冒険ファンタジー。観終わった時、あなたはきっと、自分をもっと好きになっている。

頭の中の感情を擬人化するという、アニメーションでしか表現できないアイデア(あ、でもラーメンズが『心の中の男』でやってたわ)。
「頭の中」「頭の外」「他人の頭の中」が描かれるのでややこしくなりそうなものだが、さすがはピクサー、わかりやすく見せてくれる(一緒に観ていた四歳の娘はよくわかっておらず終盤で「ライリーって誰?」などと言っていたが)。

個人的な好みで言えば、今まで十本以上観たピクサー映画の中ではかなり下位の評価だった。『カーズ』シリーズとワースト一、二を争うぐらい。
ぼくは理屈で納得できないと先に進めないタイプなので、「抽象的なものを擬人化」「目に見えないものを具現化」するタイプの物語が苦手だ。「どうして短期的な感情の変化によって長期記憶を保管する部分がなくなってしまうんだ?」とか考えてしまう。深く考えずに観たらおもしろかったのかもしれないけど、なまじっかディティールがしっかり作りこまれているから理屈で追おうとしてしまうんだよね。

ストーリーとしては「ライリーが引っ越し先でうまくいかない」ということと「脳内司令部から長期記憶保管場所に行ってしまったヨロコビとカナシミが戻ってくる」という二点が錯綜しながら語られるわけだが、どちらも結末が読めてしまってハラハラ感がない。
子どもも楽しめるアニメーション映画なのだから「最後は友だちもできてハッピーになるんでしょ」「ヨロコビもカナシミも無事に戻ってくるんでしょ」ということが誰にでもわかる。
カナシミが序盤で厄介者として描かれている点も「序盤でこういう扱いをされているってことは最後にカナシミの大事さに気づくやつね」と容易に想像がついてしまうし、じっさいその通りに展開する(ネタバレしてもうた)。

「感情を擬人化」というアイデアはすごくおもしろいけど、そのアイデアを前面に活かそうとするあまりストーリーが単調なものになってしまったように思う。たとえば『トイ・ストーリー』でいえば「おもちゃが人間みたいに動いてしゃべってる。おもしれー」と思うのははじめの十分ぐらいで、その後はストーリーが魅力的だったからこそあんなにおもしろかった。『インサイド ヘッド』は「脳内でおこなわれていることをこんなふうに表現しました」を最後までやりつづけてしまった、という感じ。
短篇作品だったらすごくおもしろかったかも。



どうでもいいCMソングがなぜか頭にこびりついて離れなくなるとか、昔覚えた大統領の名前が忘れられてゆくとか、自分にとってパーフェクトで都合のいいイケメンが脳内にいるとか、猫の喜怒哀楽がランダムに決まってるとか、「脳内あるある」がふんだんに散りばめられていて、小ネタのひとつひとつはすごくおもしろい。
「なるほど、脳の中でこんなことが起こっているんだな」と思わされる説得力もある。たぶんきっちり脳科学のことを調べた上で作っているんだろう。


ところで、イライラ(Disgust)とイカリ(Anger)が別の個体として存在しているのがふしぎだ。イライラの激しいやつが怒りなんじゃないかと思うんだけど、アメリカでは別感情として扱われているのか?
それともじっさいの脳内ではべつの部分が担当しているのかな?
イライラの代わりにネタミとかオドロキとかワライとかがいたら、中盤の司令部のやりとりもネガティブ一辺倒ではなくもっと見応えがあったのかもしれないな。


2018年7月24日火曜日

【読書感想文】 田原 牧『ジャスミンの残り香 「アラブの春」が変えたもの』


『ジャスミンの残り香
「アラブの春」が変えたもの』

田原 牧

内容(e-honより)
この出来事は日本人にとっても、決して対岸の火事ではない。三十年近くにわたり、アラブ世界を見続けた気鋭のジャーナリストが中東民衆革命の意味を問う!「革命」は徒労だったのか。2014年第12回開高健ノンフィクション賞受賞作。

アラブの春。
2011年1月にチュニジアでデモをきっかけに政権が倒されたのを皮切りに(ジャスミン革命)、アラブ世界の各国でデモや革命が相次いで起こった。
日本では東日本大震災の時期と重なっていたこともあり大きく報道されなかったが、世界的には大きな運動だった。ぼくが見るかぎりでは「民主化バンザイ!」と手放しで賞賛する声が多かった。
民主主義が独裁政権を打ち破った、これからハッピーな世の中になるぞ、と。

『ジャスミンの残り香』を読むと、アラブの春はそんなに単純な物語ではなかったことがわかる。革命で政権を打倒した国が西欧諸国のように平和で民主的になったのかというと、答えはノーだ。

独裁政権後に政権を握った勢力も、ほとんどの場合がうまくいかなかった。旧政権側にいた人間を虐殺したり、市民を弾圧したり、内部抗争で自壊したり。
結果、再び旧政権が権力を握ったり、市民を巻き込んだ武力闘争に明け暮れたり、革命前より混乱した状況に陥っている国がほとんどだ。
だからといって「アラブの春は無駄だった」と結論づけるのはそれもまた早急すぎるけど、少なくとも手放しで褒められるものではなかった。



ヒトラーなどの影響で日本人の多くは「独裁=悪」と決めつけてしまうけど、必ずしもそうとはいえない。
江戸幕府は徳川家による独裁政権だったわけだが「江戸時代は民衆が虐げられていた悪しき時代だった」という人はほとんどいない。それなりに民衆が暮らしやすくする政策も多かった。
現在の中華人民共和国は一党独裁だが、言論の自由が制限される一方で、党が決めた場合は環境保護でも人権保護でも経済政策でもすばやく行動に移せるというメリットもある。一概に悪とは言えない。

リビアは、カダフィ大佐が強権を握る独裁国家だった。だがその反面、高福祉国家でもあった。
教育費、医療費、電気代は無料だった。新婚夫婦はマイホームを買うために50,000ドルを政府から支給されていた。アフリカの中でも治安の良い国として知られていた。産油国だったからこそできた太っ腹だったが、これを知ると「私利私欲と自身の名声のために人々を苦しめる独裁者」というイメージは変わるだろう。
言論の自由などは制限もあったが、体制に批判的でなければわりといい暮らしを送ることができた。その点では、今の日本とそう変わらないかもしれない。

だがリビアのカダフィ大佐は、内戦により殺害された。樹立された新政府はイスラム系武装勢力の台頭を抑えることができず、二つの政府と過激派組織が勢力を競う混乱状態に陥った。外国の軍事力を借りている組織も跋扈している。

リビア人の知り合いがいないので想像するしかないが「独裁政権時代のほうがずっと良かった」と思っているリビア国民は少なくないだろう。
独裁政権を打ち破ることが人々を幸せにするとはかぎらない。



著者は、革命をしないほうが良かったと語る市民はほとんどいないと書いている。
革命後の世界はたしかに良いものではなかったかもしれない。だが革命は目的ではなく手段だ。革命によって市民は武器を手に入れたのだ、と。

そうかもしれないと思う反面、生き残った人はそう言うかもしれないけど、という冷ややかな目もぼくは向けてしまう。
筆者は日本での学生運動に身を投じていた人なので、基本的に「革命をする側」の立場で書いている。革命という行為そのものを賛美しているような文章も散見される。
でもぼくは、ほとんどの革命は悪であると思う。革命という悪が「もっと悪」を打ち倒すことはあるにせよ。

革命後の混乱によって殺された人、家族を亡くした人は「革命やってよかった」と言えるだろうか。大多数の市民にとっては、平和に暮らすことが第一の願いだ。
現代のフランスに生きる人のほとんどは「フランス革命があってよかった」と思うかもしれないが、革命の巻き添えをくらって死んだ人たちはやっぱり生きたかったと思う。
世の中の多数は「革命をする側」でも「革命をされる側」でもない。



 革命の理念が成就すること、あるいは自由を保障するシステムが確立されるに越したことはない。それに挑むことも尊い。しかし、完璧なシステムはいまだなく、おそらくこれからもないだろう。そうした諦観が私にはある。実際、革命権力は必ず腐敗してきた。
 革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。
 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。

この考え方も、とても立派なことは言っているが、不服従の精神が現実的に人々の幸福に貢献するかといわれるとぼくは懐疑的だ。
たしかに革命を起こす力を持っている市民は権力者にとって脅威だろう。だが市民の手に入れた武器は、自らを攻撃する凶器にもなる。
権力者が「このままだと革命を起こされるかも」と思ったときに、「だったら革命を起こされないように市民の声も尊重しよう」と考えてより穏健な政治をしてくれるだろうか。逆に「だったら革命を起こされないように市民の力を奪って弾圧しよう」と考える権力者のほうが多いんじゃないだろうか。
一度政権を失ったアラブの独裁政権を見ていると、そっちに転がっているように感じる。

日本も同じだ。一度政権の座を奪われた自民党は、政権に返り咲いた後、国民の声に耳を傾けるようになっただろうか。むしろ逆で、「批判の声に耳を傾ける」ではなく「批判の声を上げさせない」に力を注いでいるように思えてならない。


虐げられている人が声を上げ、立ちあがることはすばらしい。だけどその行為は誰も幸福にしないかもしれない。それでも立ちあがる人だけが革命家たりうるのだろう。
自分も敵も家族も友人も不幸にしながら起こす革命が正しいのか。ぼくにはなんとも言えない。だったらどうすりゃいいんだと問われると何も言えなくなる。
革命を肯定することも否定することもできない。あいまいな態度でいることが、革命の外にいる人間にとっての誠実な態度なのかもしれない。



アラブの春、そしてその後の混乱がぼくらに教えてくれるのは、権力を握ると集団は腐敗するということだ。アラブの春にかぎらず、古今東西いたるところで権力は腐敗している。

だから民主主義を守るためにもっとも必要なものは、国家権力を縛りチェックするための仕組み、すなわち憲法だ。
国民は代表者を信任して権力を委託する。だが権力者は必ず自らの利益のために権力を濫用しようとするので、憲法を定めて暴走を食いとめなければならない。
この仕組みがあるから民主主義国家は成り立っている。

権力者が改憲しようと言いだすのは、囚人が「刑務所の警備をゆるくしよう」と言いだすようなものだ。何ぬかしてんだ立場わかってんのかバカ、と一蹴しなければならない話だ。
でもそのバカなことが今の日本で着々と進もうとしている。自分たちの手で憲法を勝ち取った経験のない国民は、危機感を抱いていない。

ぼくは改憲そのものには反対しないが、「国家の権力を強くする」方向への改憲は大反対だ。逆ならまだしも。



本書の趣旨とはあまり関係がないが、おもしろかったくだり。

「もし当地に来られるのなら、盆栽を持ってくることは可能ですか。ダマスカスの空港まで持参していただければ、国内への持ち込みには何の問題もありません」
 メールの送り主は貿易関係の仕事をしているヤーセルという知人だった。彼は、私もその昔、ダマスカスのパーティーで会ったことがある「元帥」と呼ばれる独裁政権の大物とつながっていた。たしか、ダマスカスの老舗ホテル、シャームパレスで催された「元帥」の娘の出版記念パーティーの席だった。その「元帥」が盆栽をほしがっているのだという。
 独裁国家は忌まわしい。しかし、その分、そうしたでのコネは蜜の味がする。コネさえあれば、独裁国家は通常の国より、はるかに泳ぎやすい。もちろん、タダほど高いものはない。コネはときに踏み台にも足枷にもなる。両刃の剣ということだ。
 メールには査証の発行を保証するとは書かれていなかった。だが、思案投げ首の挙げ句、このチャンスに懸けることにした。つまり、盆栽と査証が交換されるという可能性である。

著者が入国が禁じられていたシリアに入ろうとしていたときのエピソード。
ライバルから盆栽を自慢された有力者が「盆栽を持ってきてくれるのならなんとかできるかも」という話を持ってきたのだ。

この後著者は、検疫でも引っかからず(検疫は持ちこみを防ぐためのものなので持ちだしには甘い)、飛行機の機内持ち込み禁止リストにも盆栽はないため、首尾よく盆栽を持っていってシリア入国を果たすことになる。

この盆栽の一件だけで、シリアがいかに混乱と腐敗の状態にあるかが伝わってきておもしろい。


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2018年7月23日月曜日

【読書感想文】 氏田 雄介『54字の物語』


『54字の物語』

氏田 雄介(著) 佐藤 おどり(イラスト)

内容(Amazonより)
9マス×6行の原稿用紙につづられた「#インスタ小説」がついに書籍化! こどもから大人まで楽しめる、世界一短い(かもしれない)短編小説90話をあなたに。あなたはこの物語の意味、わかりますか――? ◆先日研究室に送ってくれた大きなエビ、おいしかったよ。話は変わるが、例の新種生命体のサンプルはいつ届くのかね? ◆「ただいま」と言えば「お帰りなさい」と返ってくる新生活が始まった。家賃も安いし、こんな一人暮らしも悪くない。 ◆本当にこんな惑星に生命体が存在するのだろうか? 一年間に及ぶ実地調査の最終日、幸いなことに私はうんこを踏んだ。 ◆「くそ! 逃げられたか!」「いえ、あの方は何も次まなかったわ」「いや、奴はとんでもないものを次んでいきました」 ◆「やあ、私は未来から来た。今は戦前か?」「いや、戦後から七十年は経っているが」「ということは二十二世紀だな」 物語の解説&他の物語は、ぜひ本書でお楽しみください!

54字という制約の中で書かれた(一部54字未満の作品もあるが)ショートショート90篇。
ショートショートが好きで、星新一全作品はもちろん、阿刀田高作品や『ショートショートの広場』も読みあさったショートショート好きのぼくとしては放ってはおけない。

内容は玉石混交だけど、おもしろかった。さくっと読めるのもいい。
ショートショートとしてはわりとベタな内容も多く、やや子ども向けかもしれない。小学生に本好きになってもらうための入口にはぴったりかもしれないね。

作品はおもしろかったが、解説やイラストが蛇足だった。
解説は作品を野暮ったらしく説明して、イラストはひねりなく情景をそのまんま書いただけ。作品がおもしろくても解説されるとつまんなく感じてしまうんだよなあ。ショートショートは解説しないからおもしろいのに。
これだったら解説とイラストを削って、その分『ショートショートの広場』みたいに一般公募した作品を載せてほしかった。

ぼくが好きだった作品を三つ選ぶなら↓↓↓


金星で原住民に捕らえられた調査隊一行は、翌朝には解放されると聞き安堵の表情を浮かべた。夜明けまであと千時間。



数分間の格闘の末、彼が釣り上げたのは小さなゴム片だった。世界中の海面が少しずつ下がり始めたのはこの日からだ。



金属資源をめぐる戦争の最中、偶然にも大量の鉱脈が見つかり両国は歓喜した。「やった!これで新しい武器が作れる」


やっぱりショートショートはSFと相性がいいね。

娘が小学生になったら読ませてみようかな。


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【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』



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2018年7月22日日曜日

ぜったいに老害になる


「Excelのマクロに仕事をさせるのは怠けてる」とか
「メールじゃ気持ちが伝わらないから直接話すのがマナー」
とか
「クーラーの効いた部屋にずっといたら身体が弱くなる」
とか、テクノロジーの進歩に伴う価値観の変化についていけない人間を、ぼくは老害としてばかにしている。
自分はああはならないぞ、とも。


でも。
自分が年寄りになったら。

どこへ行くにも人間転送装置で移動する孫には
「たまには自分の足で歩いて身体を鍛えたほうがいいよ」
と言っちゃうと思う。

学校の勉強をパーソナル学習装置にすべて任せている孫に
「勉強は自分の頭を使ってやらないといつか困るよ」
と言っちゃうと思う。

オンライン上でバーチャル結婚を送ろうとする孫には
「やっぱり結婚相手を決めるなら、一度くらいは会ったほうがいいと思うよ。古い考え方かもしれないけど」
と言っちゃうと思う。

老害をばかにしてるぼくも、ぜったいに老害になる。


死体遺棄気分の夏


高校三年生の夏休み、どういう流れだったか忘れたが、友人三人と夜の小学校に忍びこんだ。
田舎の高校生が夜遊ぶところなどほとんどない。スーパーでお菓子とジュースと少しばかりの酒(といっても缶チューハイ)を買って、住宅街のはずれにある小学校の塀を乗りこえた。

粋がってはいても田舎の進学校の生徒であるぼくらは、学校に入ったからといって尾崎豊のように窓ガラスを壊してまわったわけではない(尾崎だってやってなかったかもしれないが)。ただグラウンドの隅に座り、ジュースを飲みながら他愛のない話をするだけだった。
四人で缶チューハイ二本だけ。なめるように回し飲みしながら「おれけっこう酔ったかもしれん」なんて言いあっていた。そんな少量で酔えるはずもないのに。

そのうち、ひとりが泣きだした。友人Tだ。彼はその少し前につきあっていた彼女にフラれたのだった。その愚痴をこぼしながら「好きだったのにー!」と大声を上げだした。
ぼくらは笑いながら声のボリュームを抑えるように言った。住宅街のはずれ、裏は山とはいえ夜の小学校で大声を上げたら不審に思われてしまう。
前言撤回、Tはチューハイたった半分で酔っていたのだ。

その後もしばらく話を続けていたのだが、ふらふらと歩きまわっていたTが急にまた声を上げた。
「なんだおまえ?」

やばい、誰か来たか、とあわてて逃げだす態勢をとったが、目を凝らしても誰もいない。
Tがひとりで「おっ、やんのかおまえ?」と叫んでいる。
よく見ると、小学校のお祭りで使ったものらしい提灯が吊るされていて、Tはその提灯に向かって喧嘩を売っているのだった。
「喧嘩ならやったるぞ。おれボクシングやってんねんぞ」
Tは自分より少し高い位置に吊るされた提灯に向かって、必死に拳をふりまわしていた。
残りの三人は「おまえボクシングやってへんやないか」と云って、漫画のような酔っ払いの姿にげらげらと笑った。

やがてTはグラウンドの上に眠りこけてしまった。
ぼくらはその後も話を続けていたが、少しずつ空が白みはじめた。朝の四時ぐらいだろうか。
「おい、そろそろ帰ろうぜ」と眠っているTに声をかけた。起きない。「人来たらやばいぞ」とゆするが起きない。むりやりまぶたを開けてみるが、まったく起きる気配がない。

これはまずい。焦りはじめた。
ここは小学校のグラウンド。塀を乗りこえて入ってきたのだから、出るときも塀を乗りこえなくてはならない。だがTは熟睡中。
夏休みとはいえ、朝になれば人も来るだろう。見つかったら叱られる。いや、叱られるぐらいで済めばいいが、へたしたら警察沙汰だ。飲酒もばれるかもしれない。高校に連絡→停学というコースもありうる。

新聞配達のバイクのエンジン音が聞こえてきた。まずいまずい。そろそろ人々が起きてくる。
とりあえずぼくらはTをかついで校門へと向かった。「しゃあない、かついで乗りこえさせよう」

男三人がかりとはいえ、まったく意識のない人間をかつぎあげるのはたいへんな作業だ。塀の高さは二メートル以上もある。Tが小柄な男でまだよかった。
まずぼくが塀の上に乗り、人がいないことを確認する。下から二人がかりでTを持ちあげ、同時にぼくがTをひっぱりあげる。
いったんTを塀の上に置いて、落っこちないように身体を支える。その間に下のふたりが塀を乗りこえる。そして塀の上からTを落とし、下でキャッチする……はずだったが、五十キロ以上ある男を落とすだけでもたいへんだ。ずりずりずりっと落としたら、下のふたりがうまくキャッチできずにTは生垣の上につっこんだ。だいぶすり傷をつくったと思うが、それでも起きない。あと十センチずれていたら生垣ではなくコンクリートに頭をぶつけていたところだった。とりあえず胸をなでおろした。

作業を終えると汗びっしょりだった。死体遺棄をしている気分だった。まだTの死後硬直が始まってなくてよかった(死んでねえし)。
代わる代わるTをかついで、そこからいちばん近い友人の家に向かった。明け方だったので、幸い人には見られなかった。
友人の家にTを引っぱりあげた。さんざん苦労をかけたくせに気持ちよさそうに寝ている姿に腹が立って、三人がかりでTの身体に落書きをした。腹、背中、手足に数学の公式を書きならべてやった。「That's カンニング!」


これがぼくの、はじめての飲酒体験だ。
その後あまり酒好きにならなかったのは、このときのたいへんだった記憶があるからかもしれない。



2018年7月20日金曜日

【読書感想文】 烏賀陽 弘道『SLAPP スラップ訴訟とは何か』


『SLAPP スラップ訴訟とは何か
裁判制度の悪用から言論の自由を守る』

烏賀陽 弘道

内容(Amazonより)
自分に不利な言論(批判、反対、公益通報など)を妨害するために、相手を民事訴訟で訴えて裁判コストを負わせ疲弊させる戦術を「SLAPP(スラップ)」と呼ぶ。自らもスラップの被害者になった筆者は、日本ではまったく野放しのスラップに、アメリカでは1990年代から被害を防止する法律が整備さていることを知り、自費で現地取材を重ねた。北海道から沖縄まで、日本国内のスラップの実例を取材して歩いた。米国スラップ被害防止法のしくみ・背景、日本の事例を取材、報告し、日本でのスラップ被害防止法の立法化を訴える。「山口県・上関原発訴訟」「沖縄・高江米軍ヘリパッド訴訟」「北海道警裏金報道訴訟」「新銀行東京訴訟』など日本のスラップの実例も豊富に掲載している。

アメリカでは防止法まで作られている(州によるが)ものの、日本ではほとんど認知されていないSLAPP(スラップ)訴訟。
SLAPPとは、裁判で勝つことではなく、裁判自体によって相手にダメージを与え、言論の自由を奪おうとする戦術のことだ。Strategic Lawsuit Against Public Participationの略であり、slap(平手打ちをくらわす)ともかかっている。

烏賀陽氏はSLAPP訴訟の特徴として、

・民事裁判
・公的な意見表明をきっかけに提訴される
・提訴によって相手に金銭・時間的コストを負わせることが目的
・長期化する裁判を避けるため、被告だけでなく他の批判者も公的発言を控えるようになる

といった点を挙げている。

たとえば大企業Aが不法行為をしているとする。その事実を知ったBが内部告発をして新聞社に対してAの不法行為を告発する。
するとAは、Bに対して「事実無根の名誉棄損だ」として一億円の損害賠償を請求する裁判を起こす。
Bの告発が真実であれば、裁判をすればおそらくBは勝つだろう。だがふつうの人にとって大会社を相手に長期間の裁判をするのはかんたんなことではない。何度も平日に裁判所に出向かなければならないし、弁護士も雇う必要がある。制度上は弁自分がひとりでやってもいいが、弁護士なしで裁判に臨むのはふつうの人にはまず無理だ。完全勝訴であれば裁判費用は払わなくていいが、弁護士費用は自分で負担しなければならない。
勝ったところで得られるものはない。勝っても負けても失うものばかりだ。時間もお金も精神も削られてゆく。
そこでAがBにささやく。「告発を否定するなら、こちらも提訴を取り下げますよ」

これがSLAPP訴訟だ。裁判を起こすこと自体で相手にダメージを与えること、相手の言動を委縮させることを目的とする訴訟である。実に効果的だ。
さらにSLAPP訴訟が効果的なのは、実際に告発したBだけでなく、将来的に告発していたかもしれないCやDをも委縮させることだ。
誰だって裁判の被告になりたくない。「ものを言えば訴えられるかも」と思えば、ほとんどの人は沈黙を選ぶだろう。

 よって、提訴されたら、ただちに対応するためのコスト=時間、労力、金銭の消費や精神的、肉体的疲弊が生じる。
 応訴したらしたで、今度は法廷での審理が始まる。無視したり欠席を続けたりすれば、裁判官の心証が悪化する。不利な判決を覚悟しなくてはならない。負けると、判決には強制執行が伴う。財産を差し押さえられる。負債が発生する。
 また、裁判は長時間争えば争うほど「コスト」=「金銭の消費」「時間の消費」「手間の消費」「精神的疲労」「肉体的疲労」が増加する。提訴される方にとっては望まない裁判であることが多い。コストは「苦痛」に直結する。
 つまり「提訴される側」はいかに裁判が苦痛でも、断ることができない。選択の自由がない。
 ところが一方、第1章で述べたように民事訴訟は裁判化が容易だ。「訴状」という書類を作成して裁判所に提出するだけでいい。原告の判断だけで提訴できる。「いつ提訴するか」「いくら請求するのか」も意のままに設定できる。

強い者から弱い者を守るために裁判を起こす権利が日本国憲法32条で守られているわけだが、それが大企業、県、国といった力のある者が個人をおさえつけるために使われているのだ。
そして日本においてはこれを防ぐ方法がほとんどない。SLAPP訴訟は合法的に気に入らないやつの口を封じさせる手段なのだ。



カリフォルニア州では、訴えられた側が「この訴訟はSLAPPである」と主張すれば審理に入る前に裁判所がSLAPP訴訟かどうかを判断し、SLAPPと認定されてば提訴はそこで棄却される。
さらに、SLAPP訴訟と認定されれば、被告側が雇った弁護士費用も原告側が負担しなければならない。さらに提訴されたことによって被った被害を原告に求める裁判を起こすことができる「スラップ・バック条項」もあるそうだ。

つまり、SLAPP訴訟を起こしても、相手に大したダメージを与えられない上に、相手の弁護士費用を負担しなくてはならない、さらに逆に提訴される可能性もある、と訴えた側にとってダメージばかりなのだ。
これなら訴訟を起こす側も慎重になるだろう。


一方、日本にはそのような仕組みがない。訴える金銭的・時間的余裕のある側が圧倒的有利にできている。
ということで、市井の人々でも情報発信がしやすくなった今、SLAPP訴訟はどんどん増えるだろう。

SLAPP訴訟は強者に有利な戦術なので、強者である政治家がわざわざそれを防止する法をつくることは期待できそうにない。
報道が強く主張すれば風向きも変わるかもしれないが、それもあまり期待できない。なぜなら、NHKや読売新聞のような報道機関も、自らを批判する人に対してSLAPP訴訟ではないかと疑われるような裁判を起こしているからだ。大手マスコミにとってSLAPP訴訟は武器であって脅威ではないのだ。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』を読んだときも思ったことだけど、インターネットのおかげで人々が自由にいろんなことを発信できるようになったけど、言論の自由は拡大されたのかというとむしろ狭まっているように思える。
体制に批判的な発言を発見して押さえつけるための手段として、法や裁判所が使われている。

ついこないだ、エジプトで「5000人以上のフォロワーがいるフェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの個人アカウントやブログはメディアとして扱われ、政府の監督対象になる」というニュースを目にした。
名目はデマ拡散を防ぐことだというが、どう考えても反体制的な発言を封じるために使われるだろう。

どうでもいいことは言いやすくなったけど、大事なことは発信しづらい世の中に変わっていくのを感じてしまう。


【関連記事】

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』



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2018年7月19日木曜日

【読書感想文】西川 美和『ゆれる』


『ゆれる』

西川 美和

内容(e-honより)
故郷の田舎町を嫌い都会へと飛び出した勝ち気な弟・猛と、実家にとどまり家業を継いだ温厚な兄・稔。対照的な二人の関わりは、猛の幼なじみである智恵子の死をきっかけに大きく揺らぎはじめる。2006年に公開され数々の映画賞を受賞した同名映画を監督自らが初めて小説化。文学の世界でも大きな評価を受けた。

西川美和さんの『永い言い訳』がおもしろかったので、処女小説である『ゆれる』も読んでみた。
映画『ゆれる』を監督自らが小説化。ノベライズは嫌いなのでふだんは読まないけど、監督自らのノベライズなら、ということで手にとった。

田舎で育った兄弟。お互いに敬意を持って接しているように見えるが、幼なじみの死をきっかけに自分でも意識していなかった相手への確執が徐々に表面化してく……。という、なんともイヤな小説。ぼくはイヤな小説が好きなのでこれは褒め言葉ね。

この人の小説は、人が見ないように、考えないようにしていることをわざわざ書くのがうまい。暴きだしてもイヤな気持ちになるだけなのに、それを指摘する。そして案の定イヤな気分になる。

 兄の切り返しに笑い声が上がる。父はばつが悪そうに縮こまってしまった。全てが元通りに収まってゆく中で、愛想良く場をとりなしながら、ぶち撒かれた料理を四つん這いになって片付けてゆく兄のズボンのふくらはぎに、膳の上で倒れたお銚子の口から酒が滴り落ちているのが見えた。
 兄はその冷たさを、その不快さを、感じることがないのだろうか。むしろ、そういった不快さを常に身体に負いながら生きるのが兄の「自然」なのか。なぜ、声を上げて身をよじり、床より先に自分の足を拭かないのか。声を上げず、身をよけもせず、最後は大損を食らうという、母から受け継いだらしいその「こらえ性」みたいなものが、僕には苛立たしい。他人の起こした面倒の煽りを食っても、文句の一つも吐き出すどころか、滑稽に口をすぼめてちゅうちゅうと苦い水をすすっている、そんなみじめったらしい姿を見るたびに、僕の身体には寒気が走った。けれども兄は、そんな自分のあり方には全く無自覚だ。「ズボンがびしょ濡れじゃないか」と他人が指摘して初めて、そうだったかしら、なんてまるで昔の思い出をしのぶようなのんびりした様子で、それに気付いて見せるのにちがいない。でもそのことを指摘してやるのは僕じゃない。僕は目を背けたくなった。不連続に滴るそのしずくが、兄の足をくくりつけている鎖のように見えた。ぽたぽた、ひた、ひた、と少しずつ、そして絶え間なく落ちてしみを広げて、最後は肉を腐らすだろう。

父親と弟の親子喧嘩の後の一幕。如才なく場を取りなしてその場の苦労を一手に引き受けた兄に対するこの視点の、なんと残酷なことか。


ぼくは、もう十年以上も前に死んだ祖母のことを思いだした。

中高生のころ、父の実家に行くのが嫌だった。父の実家は福井県の、最寄り駅から車で四十分という山の中にあった。
田舎の年寄りらしく家のことは何もしないくせに偉そうにふるまう祖父を見るのも嫌だったが、それ以上に嫌だったのは、常に台所の隅に控えて何を言われても嫌な顔ひとつもしようとしない祖母の姿だった。
あんたは奴隷じゃないんだから我慢しなくていいのに。もっと主張すればいいのに。祖母は孫のぼくに対してとても優しく、だからこそ常に耐えているように見えるその姿が正視に耐えなかった。
じっさいには祖母には祖母の喜びがあったのだろうが、ぼくにはわからなかった。孫たちが集まってみんなで食事をしているときも、食卓には加わらず、台所で味噌汁をすすっていた。こんなことをいうのは祖母に悪いかもしれないが、哀れだった。



ぼくは同性のきょうだいがいない。だから兄と弟の関係というものを体験したことがない。
小さい頃はいっしょに遊んでくれる兄や弟がほしかったが、大人になってみると煩わしいことのほうが多いんだろうなという気がする。女きょうだいのほうが気楽だ。

同性のきょうだいはどうしたってライバル関係になってしまうような気がする。
どっちがモテるか、どっちが勉強ができるか、どっちが稼ぐか、どっちが幸せに暮らすか。
ぼくは姉に対して対抗心を燃やすことはまったくといっていいほどないが(小さい頃はあったけどね)、同性だったらはたして同じ気持ちで接することができるかどうか。


ぼくの父には兄がいる。
父とその兄(ぼくの伯父)の関係は、『ゆれる』の猛と稔の関係にちょっと似ている。

さっきも書いたように、父は福井県の超がつくほどの田舎で生まれ育った。幼いころは牛を飼っていて冬は家の中に牛を入れていたというから、昭和三十年代とは思えない暮らしぶりだ。
父は高校生のときに家を出て(なぜなら自宅から通える距離に高校がないから)、大阪の大学に入り、大阪の会社に就職し、ずっと関西に住んでいる。
一方、伯父は福井の高校を出て、福井の企業に就職しながらも農繁期には実家の畑仕事を手伝い、冬は実家の雪下ろしをし、母親を看取り、父親が認知症になってからは介護をし、父親を看取ってからもときどき実家に行っては古い家の手入れをおこなっている。

ぼくから見ると、長男はたいへんだ、と思う。祖父の家はべつに名家だったわけでもないから、家を継いだっていいことなんかぜんぜんない。駅から車で四十分の誰も買わない土地と冬は雪に閉ざされる古い家がもらえるだけだ。長男より次男のほうがずっといい。

それでも伯父はあたりまえのように煩わしいことを一手に引き受けている。理由なんかない。長男だから、ただそれだけ。

父と伯父は仲良くやっているが、「家に残って貧乏くじを引いた兄」「煩わしいことを兄に押しつけた弟」として、内心わだかまりがあるのかもしれないなあ。いや、あるんだろう。たぶん一生腹の中にしまったまま墓まで持っていくんだろうけど。自分自身ですら気づいてないかもしれないけど。

これまでそんなことまともに考えたことなかったけど『ゆれる』をきっかけに父と伯父の確執(あるのかどうかわからないけど)に想像が及んでしまった。

ほんと、西川美和さんの小説は嫌なことを暴きだしてくれるよなあ。


【関連記事】

【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』



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2018年7月18日水曜日

2018年FIFAワールドカップの感想


2018年FIFAワールドカップの感想。
10試合ぐらいはリアルタイムで観戦、残りはダイジェストで観戦。
気になったチームの感想だけ。日本の試合は観てないのでパス。

■ ロシア

世界ランキング70位と出場国中最下位でありながら、グループリーグでサウジアラビアとエジプトに圧勝し、決勝トーナメントではスペインも破り、クロアチアともPK戦までもつれるという大健闘。
ちょっとしか観てないけど、ふつうに強かったね。うまかったし、走りまくってたし。とても70位のチームとは思えなかった。これがホームの力か。

■ スペイン、ポルトガル

スペインーポルトガルはリアルタイムで観てたけどおもしろかったなあ。3-3というスコアもさることながらプレーが華やかだった。これぞワールドクラス、というゲームだった。
グループリーグ初戦でぶつかった、というのもよかった。初戦だから「勝ち点3がほしい」「負けても次がある」ということで、お互い果敢に攻めていた結果だね。もっと後で対戦していたら3-3にはならなかっただろうね。

■ フランス

予選では大勝こそしていなかったものの堅実な勝ちっぷりで、これはいいとこまでいきそうだなあ、という印象だった。優勝したから言うわけじゃないけど。守りの固いチームじゃないと勝ち続けるのは難しいよね。
アルゼンチン戦のエムバペはうまくて速くてかっこよかった。
ただ、準決勝のベルギー戦の終盤でエムバペが汚い時間稼ぎをしていたのでいっぺんに嫌いになった。ピッチ内ならどれだけ時間稼ぎをしてもいいけど、ボールが外に出てから時間稼ぎをするのはいかん。
ただ、時間稼ぎにキレたベルギー選手にどつかれて、どつかれたエムバペがイエローカードでどついた選手がおとがめなしだったのは笑った。ぼくでもどついてたな。ああいうプレーにはレッドカードを食らわせてほしい。

■ クロアチア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。
今大会一番好きになったチーム。
モドリッチはかっこよかったなあ。あれだけうまいのに、誰よりも一生懸命走るし、身体を張って守備にも参加するの、めちゃくちゃすごくない? いちばんうまいやつがいちばんがんばってるんだよ。ネイマールは見倣え。
32歳だから次の大会では見られないのかなあ。寂しい。

決勝の後半で1ー4になったとき、クロアチアのマンジュキッチが相手キーパーの前まで詰めていって相手ミスを誘って1点をもぎとったのもほんとにしびれた。めちゃくちゃ疲れている時間帯で、まず逆転不可能な点差がついて、それでもわずかな可能性のために懸命に走る。すげえ。あんなのできないよ。

たぶん個々の実力でいったらクロアチアはベスト8にも入らないぐらいじゃないかな。それでも各選手の献身的なプレーで準優勝に輝いた。いやあ、いいチームだった。

■ アルゼンチン

グループリーグは1勝1敗1分で辛くも突破したものの、決勝トーナメント1回戦でフランスにあっさり敗北。チームは相変わらずのメッシ頼み、テレビ的には相変わらずのマラドーナ頼みで、相手チームにしっかり対策をされたメッシはこれといった活躍はできず。
一人のスーパースターがチームを優勝に導く時代は遠い昔のものになったんだということを、メッシとマラドーナが教えてくれた。

■ ナイジェリア

ナイジェリアはいつ観ても楽しい。サッカーが華やかなのもあるが、何より人が陽気だ。ナイジェリアが得点を決めて踊るところをもっと観たい。ガーナとかカメルーンとか、中央アフリカの人って陽気だから観ていて楽しいよね。ワールドカップを盛りあげるために「中央アフリカ枠」を用意しておいてほしい。

■ セルビア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。さっきも書いたな。
予選敗退だったけど、地に足のついたサッカーでブラジルとスイスを苦しめた。惜しかったなあ。

■ ブラジル

ネイマールの大げさに転がる演技が話題になっていたけど、ネイマール以外もひどかった。ブラジル人、転がりすぎじゃね?
弱いチームが戦術としてやるならともかく、ブラジルには横綱相撲をとってほしいな。今回はVAR(ビデオ副審)が導入されたことでブラジル選手の三文芝居が次々に明るみにでてしまった大会でもあった。メキシコ戦観てたけど、なんかもう観ているこっちが恥ずかしかった。ベルギーに負けてくれてよかった。

■ メキシコ

前回大会でブラジルとスコアレスドローに持ちこんだ守護神・オチョアが健在。
初戦でドイツを破り、スウェーデンに大敗しながらもドイツが敗れたおかげでまさかの決勝トーナメントに進出するも、ブラジルの技術の前に敗れて7大会連続でベスト16で敗退となかなかドラマチックな展開を見せてくれた。
ずっと「そこそこ強い」のって逆にすごいよね。

■ ドイツ

前回大会優勝、ヨーロッパ予選は全勝という輝かしい実績をひっさげてやってきた圧倒的優勝候補だったが、初戦でメキシコに敗れ、スウェーデンには終了間際のゴールで辛勝するも、韓国にまさかの敗退を喫してあえなくグループリーグ敗退。
いやあ、ドイツが優勝すると思ってたんだけどなあ。ずっとちぐはぐな印象だった。組織力で勝つチームはひとたび歯車が狂うとボロボロになるのだということを教えてくれた。
でも、もしもグループリーグ突破して立て直していたら連覇もあったんじゃないだろうかと思わせてくれるうまさはあった。

■ ベルギー

スター選手がそろっていて、ひとつひとつのプレーが華やか。観ていていちばん楽しいサッカーをしてくれたのがベルギーだった。
特にでかくてうまくて速いルカクがいい。でかくてうまい選手ってなかなかいないよね。決勝トーナメントでもっと活躍してくれると思ってたんだけどなー。

■ イングランド

GKのピックフォードが「映画に出てくるイギリスのいじめっ子の少年」みたいな顔で、見るたびに笑ってしまった。子ども時代、『スタンド・バイ・ミー』か『グーニーズ』か『ハリー・ポッター』に出てなかった?
相手のミスを誘ってセットプレーで点をとり、守り切って勝つというサッカー。今大会の躍進はVAR(ビデオ副審)導入のおかげかもしれない。
観ていて楽しいサッカーじゃないよね。こういうチームもあったほうがいいけど。



ワールドカップは、世界最先端の映像技術が活躍する大会でもある。
2014年にはゴール判定システムで「すげえ!」と思ったけど、今大会はドローンによる空撮技術とかNHKアプリのマルチアングル映像とかに興奮した。次の大会とかは3Dパブリックビューイングとかあるかもなあ。

スタジアム内の広告を観ていたら、蒙牛乳業っていう中国の会社の広告が目についた。ぼくが十五年ぐらい前に中国にいたとき、よく蒙牛のアイスクリームを食べていた。懐かしい。
他にも中国の企業の広告が目について、つくづく中国は経済大国になったんだなあと実感した。今回中国は出場していないのに広告を打つということは、海外向けなんだろうなあ。

ぼくはワールドカップでしかサッカーを観ないにわかファンだけど(しかもダイジェストで観ることが多い)、やっぱりワールドカップって楽しいよね。
サッカー関係者は「ワールドカップで興味を持ったらJリーグも観てよ」なんていうけど、ワールドカップを観た後だとJリーグの試合なんて観てられない。ちんたらやってんじゃねえよ、という気になる。女子サッカーも。日本代表の試合も。だから観ない。

サッカー自体ももちろんおもしろいんだけど、駆け引きの生まれるグループリーグシステムとか、観客席にも国民性が出るとことか、いろんな国の老若男女がばか騒ぎしているとことか、プレー以外のところもお祭り感があってワールドカップは楽しい。

参加国数を倍の64ぐらいに増やしてもっと長くやってほしいぐらい。やっぱりイタリアとかオランダとか見たかった。
と思っていたら、2026年からは48チームになるらしいね(2022年からになる可能性もあるらしい)。楽しみだ。


2018年7月17日火曜日

もうダンス教室やめたい


娘のおともだち(四歳)がダンス教室に通っている。
「ダンス教室楽しい?」と訊くと、「もうダンス教室やめたい……」と云う。

「なんで? この前はダンス好きって言ってたのに」と尋ねると
「踊るのは楽しいけど、新しいダンスをいっぱい覚えないといけないし、せっかく覚えたダンスはやらせてもらえないし、まちがえたら怒られて何回もやりなおさないといけないし、もうイヤ……」
と返され、そのあまりにまっとうな理由に思わず言葉を失った。

四歳児の抱えるつらさがはっきりと実感できた。
それはつらいよね……。
ダンスが好きなのに、好きなダンスを踊れないんだもんね。




子ども向けサッカー教室をやっている知人から聞いた話では、最近のサッカー教室では技術的なことを教えずに「とにかくサッカーをやりましょう」という方針のところが増えているそうだ。
まずはサッカーのおもしろさを教えるのが先、おもしろいと思ったらうまくなるにはどうしたらいいかと自分で考える、そのときに誤った方向に行かないようにうまく手助けしてやるのが指導者の役目だ、という話を聞いた。

それがいちばんいい、と思う。
ぼくは小学校二年生から五年生までサッカーチームに入っていた。自分から「サッカーやりたい!」と行って入部したのだが、リフティングを〇回やれるように何回も練習しなさいだの、三角コーンの隙間を縫ってドリブル練習しなさいだの、シュートをして決まらなかったらグラウンド一周だのと言われているうちにすっかり「サッカーやりたい」という気持ちが消えてしまい、練習に行くのを苦痛に感じることも多くなった。
ぼくはサッカーがやりたかったのに。リフティングも三角コーンドリブルもグラウンド一周もサッカーじゃなかった。

むずかしいことはいいからサッカーのゲームをしましょう、という方針だったらぼくも続けていたかもしれない。



四歳児のダンスなんて、上手に踊れなくたっていいじゃないか、と思う。
ちっちゃい子が音楽にあわせてうごうご動いてるだけでも十分観ていて楽しい(親は)。

子どもがダンスをまちがえてもかわいい。
緊張して動けなくなっていたら応援したくなる。
一生懸命やっていたら感心する。
そしてなにより、楽しそうにやっていたらうれしい。

子どもダンス教室なんて、そんな感じでいいじゃない。

子どもをダンス嫌いにさせないこと、それが子どもダンス教室の最大にして唯一の使命だ。


2018年7月16日月曜日

地頭がいい人


いろんな企業の採用担当の人と話す機会があるのだが、
「地頭(じあたま)がいい人」
というフレーズをよく耳にする。

必ずしも学歴重視ではないが頭の回転がはやい人、みたいな意味で使われる。
「べつに高卒とかでもいいんですが、地頭がいい人に来てほしいです」のように。

ぼくはその言葉を聞くたびに、心の中で首をかしげる。
たしかに学歴は低くても頭の回転のはやい人はいる。
でもそういう人を表現するのは「頭がいい」でいい。わざわざ「」という接頭語をつける必要はない。

「地頭がいい」とは、「今は頭は良くないがすぐに良くなる」という意味なのだ。
だが、そんな人はいない。



「地頭がいい」という言葉を使う人は、
「今は頭が良くないけどなにかの拍子に頭の良さが開花する人」が存在すると思っているのだろう。
漫画の主人公がある日突然自分の眠っていた才能に気づくように、素質を持った者が聖なる弓矢に撃たれたとたんにスタンド使いになるように、「ある日突然頭がよくなる」ことがあると思っているのだろう。

あたりまえだが、そんなことはありえない。
素質だけで頭の良さが決まるのは三歳までだ(もっと早いかもしれない)。
頭の良さは、素質×トレーニングの量で決まる。そして大人になるほど後者の重要性が大きくなる。
二十歳をすぎて頭の良くない人が、急に頭が良くなることはない。トレーニング量が圧倒的に足りないから。
一念発起して必死に勉強したとしても、ずっと勉強してきた人にはまず追いつけない。

たくさんトレーニングをしてきた人ほどトレーニングのやりかたがうまいので、仮に同じ時間トレーニングをしたとしてもその差は開くばかりだ。



「地頭がいい」は、スポーツでいうところの「運動神経がいい」に相当するのかもしれない。

「運動神経がいい」とは、「トレーニングをしたときの上達するスピードが早い」や「十分なトレーニングをしたときに高いレベルに達することができる」である。「トレーニングをしなくてもできる」ことではない。
どんなに運動神経がいい人も、生まれてはじめてバッターボックスに立ったときは空振りする。

「トレーニングしたらプロ野球選手になれる人」と「どれだけトレーニングをしても野球選手になれない人」の違いはある。その差こそ「持って生まれた運動神経」の差だ。
だが「野球をやったことないけど素質だけでプロ野球選手になれる人」は存在しない。

「もし小さい頃から野球やってたらプロになれたであろう人」はいるだろうが、彼が今後野球選手になることはない。

同じく「地頭がいい人(=素質はあったけどトレーニングをしてこなかった人)」も、永遠に「地頭いい人」のままだろう。


2018年7月15日日曜日

椅子取りゲームで泣いた話


四歳の娘が云う。

「あのな、今日保育園でゲームして勝てなくて泣いちゃってん。椅子取りゲームをしてんけどな、ずっと勝っててんけど最後にRくんがズルしてん。ほんまは先に椅子を触ったらあかんけど、先に椅子を持っててん。それで負けたから泣いちゃってん。でも先生はRくんがズルしたこと知ってて、(娘)にがんばったねって言ってくれてん」

これ自体は大した出来事じゃないんだけど、

起こったことを他者にわかるように順を追って説明したり、

伝わりにくい点を補足したり、

自分の感情がどう動いたかを表現したり、

うまく伝えることができるようになったんだなあとしみじみと感心した。


ツイートまとめ 2018年05月


大人の証

鼻毛

L⇔R

ひとりごと

なぞなぞ

世間

脱衣

褒められて

いろいろあって

誤解

LEGO

見える化

思慮

四親等

減少の理由

オーディオ

巧妙な手口

悪いコンテンツ

クールジャパン


2018年7月13日金曜日

ぼくたち見せしめ大好き!


『人口減少社会の未来学』という本の中で、平川克美氏がこんなことを書いていた。

 もし、晩婚化から早婚化へのベクトルの転換が難しいとするならば、少子化対策として可能な政策はひとつしかない。それは、結婚していなくとも子どもが産める環境を作り出すこと以外にはないだろう。
 少子化をめぐる状況を、改善のすすまない日本や韓国と、ある程度歯止めがかかったヨーロッパとの比較で見ていると、顕著な相違に気付く。その相違とは、婚外子率である。フランスもスウェーデンも婚外子率が5割を超えている。ヨーロッパの中で、日本と同じ家族形態を持っていたといわれるドイツでさえも35%という数値を示している。
 これに対して、日本の婚外子率は、1桁以上少なく、わずかに2.3%でしかない。韓国はさらに低く1.9%である。つまり、法律婚をしていないで子どもをもうけることは、儒教的なモラルに縛られているアジアにおいてはほとんどタブーのような扱いになっているということである。
 日本における少子化対策は、婚姻の奨励や、子育て支援が中心である。フランスやスウェーデンにおける少子化対策は、日本や韓国とは向かっている方向が逆で、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられるようにすることであった。婚姻の奨励や、子育て支援といった個人の生活の分野には、政治権力が介入するべきではないと考えているからだ。むしろ、人権の拡大や、生活権の確保といった方向に、この問題を解決する鍵があるということである。

ここには少子化を(少しだけ)食い止めるヒントが書かれている。
婚外子の保護を手厚くすることだ。

でも。
断言してもいいが、絶対に日本は「結婚してない親から生まれた子どもを支援する」方向には舵を切らない。
フランスやスウェーデンだって結婚せずに子を生むことを推奨しているわけではない。ただ「結婚せずに生まれた子も差別せずに、むしろ積極的にサポートしていきましょう」と言っているだけだ。
日本はそれすらやらない。やれない。「むしろ積極的に差別していきましょう」という方針を貫く。



他の国はどうだか知らないので比較はできないが、日本人は"見せしめ"が好きだ。人類に共通する習性かもしれないが。

犯罪者が罰を受けることに対して、ほとんどの人は「被害者への償い」「犯罪者の更生」だとは考えていない。「他の人への見せしめ」と思っている。
だから遺族が望まなくても被害者の実名や写真を公表するし、報道に「冤罪だったら」「加害者が刑期を終えて一般市民に戻ったら」なんて視点は少しもない。
あるのは「悪いことをしたやつはこうなるんだぞ。わかったな」という見せしめ意識だけだ。磔(はりつけ)刑の時代とやっていることは変わらない。

見せしめだから、冤罪であっても関係ない。被害者が報道を望んでいなくても関係ない。補償も更生も気にしない。
それが冤罪であっても、犯罪を大々的に報道することは「悪いことしたらこうなるんだぞ」という見せしめには有効だ。





「結婚してから子どもを産んだほうがいい」という考え自体は、世界中ほとんどの文化で主流を占める考えだ。
でも"見せしめ"が好きな人たちは「結婚してから子どもを産んだほうがいい。だから結婚せずに子どもを産んだら不幸になるべきだ」と考える。そうすれば結婚せずに子どもを産む人間は減るだろう、と。

この手の考えはあちこちに蔓延している。
「高校を中退したやつはまともな仕事につくべきじゃない」
「不倫をしたやつはテレビに出るべきじゃない」
「あくどい儲け方をしたやつはろくな死に方をしない」
「夫婦別姓なんか選択する家庭の子どもはつらい思いをする」

赤の他人が高校中退しようが、不倫をしようが、法律スレスレのやりかたで金儲けをしようが、夫婦別姓を名乗ろうが、自分には関係ない。でも"見せしめ"を欲しがっている人にとってはそうではない。自分の考えと違う生き方をしている人には不幸になってほしいと思っている。



結婚してないやつは子どもを産むな、未成年者は子どもを産むな、まともな仕事をしてないやつは子どもを産むな、子どもをかわいがれないやつは子どもを産むな、責任感のないやつは子どもを産むな、他人に迷惑をかけるなら子どもを産むな、でも少子化を止めるために結婚して子どもを産め。
わが国で求めらているのはそういうことだ。

世の中が求めているのは「規範的な生き方をする人」と「見せしめ」のどちらかだけだ。規範から外れているけど幸せな人、は欲していない。


ぼくは「子どもは親のものではない」と思っている人間なので、個人的には、とりあえず産んでみて育てるのが難しそうだったらとっとと手放せばいいと思う。
子育てに必要なのは「何があっても子どもをまっすぐ育てあげる覚悟」ではなく「親が手放した後もちゃんと育てる仕組み」だと思っている。


2018年7月12日木曜日

古典の実況中継


高校生のとき、授業中にひとりで「実況中継」という遊びをやっていた。

授業中の他の生徒の様子を、ルーズリーフにひたすら書いてゆくのだ。
「□□が古典の教科書で隠しながら英語の宿題をやっている。と思ったら寝てしまった」
「〇〇が大きなあくびをした。それを見た△△が少し笑った」

これをルーズリーフにびっしり書く。五十分の授業中ずっと書く。
他の生徒を観察するのはなかなか愉しかった。ぼくは遊んでいるんだけど、ぱっと見ただけだと熱心にノートをとっているように見えるので意外と注意されなかった(一度、教師から「おまえは一生懸命ノートをとってるけど、そんなに書くことあるか?」と言われたが)。

できあがったルーズリーフには『〇月〇日 古典の実況中継』とタイトルをつけていた(タイトルの元ネタは当時売れていた参考書のシリーズ名だ)。

実況中継のルーズリーフは今でも実家にある。
たまに読みかえすと、二十年近くたった今でも授業中の雰囲気が思い起こされてなつかしい。おもしろくて、懐かしくて、泣きそうになる。
以前、同窓会に持っていったらものすごく盛り上がった。

現役学生の人たちは、後年のためにぜひとも実況中継をしておくといい。
十年後の自分が愉しめるから。


2018年7月11日水曜日

【読書感想文】 春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』


『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』

春間 豪太郎

内容(e-honより)
きっかけは、八年前。当時は海外に興味なんてなかったし、危ないというイメージの方が強かった。ところが、突然親友のリッキーがフィリピンへ行ったきり、消息不明に…。そこから始まる、おれの冒険譚。エジプトの砂漠を渡るべく、ラクダ飼いの見習いになったら死にかけたり、モロッコを横断するため、変態ロバや番犬の子犬、小猫や鳥たちと行商したり…。行方不明の親友を探しに海外へ…からの大冒険!

高野秀行さんが絶賛していたので読んだが、なるほど、高野氏の文章の系統を走りながらも、もっと勢いと行き当たりばったり感がある。一言でいうならば「若い」文章。

たったひとりでロバと仔猫と鶏と仔犬と鳩を連れてモロッコを旅する、というブレーメンの音楽隊みたいな冒険。だんだんパーティーの仲間が増えていくのは桃太郎にも似ている。鬼退治はしないけど。

めちゃくちゃめずらしい体験をしながらも、そこで語られている心の動きは「動物が病気で苦しんでいるのがかわいそう」といったごくごくなじみ深い感情で、非日常と日常のギャップがおもしろい。
海外を旅してまわっている人って行動力も語学力も判断力も高いスーパーマンみたいに感じてしまうのだけれど、春間豪太郎さんはごくふつうのにいちゃん、という印象。なんとなくやってみたらなんとかできました、みたいな感じ。
もちろんじっさいは細かく下調べしているし行動力も決断力も高い人なんだけど、文章からはそれを感じさせない。この気取らなさがすごくいい。

文章のテンポもすばらしい。余計な修辞や描写がなく、事実だけを突きつけるような文章。ぼくの好みだ。
この簡潔さの中にこそ想像力のはたらく余地がある。描写が少ないことでかえって情景がイメージできる。
これだけめずらしい体験をしていたら細大漏らさず長々と書きたくなりそうなものだが、大胆に省略をしているのでさくさく読める。これは文才か、編集者の腕か。



冒険に連れていくロバを探すシーン。五頭のロバの中からどれを買うか決めることになる。

 おれが買い取らなかった場合、一頭目のロバは今後ずっと道具として扱われ、ちょっとしたことで、殴られたり殺されたりするのかもしれない。その点四頭目のロバには名前があり、日本のペットに近い扱いがされているので比較的安心できると言えるだろう。そう考えると、このティズギ村でおれがなすべきことは、一頭目のロバを買うことなんじゃないかと思った。攻撃的なので四頭目より扱いにくく、値段も倍近くする一頭目を買うなんて、正直バカとしか思えない。でも、そうすべきだと思ってしまったんだから仕方がない。
 よし、一頭目のロバを買おう!
 そう決断し、すぐに飼い主の所へ行ってロバを購入。値引き交渉をしたので三千円ほど値引かれ、最終的な価格は約二万円だった。こうして、臆病で攻撃的な、遠くから見ると馬と見まがうほどに大きなロバが、おれの相棒となった。

他にも、サソリを見つけたら「サソリの毒がどんなものか知るために」わざと刺されたり、あえてリスクのある選択ばかりしている。

ロバを連れてひとりでひとけのない道を旅するわけだから、ロバの良し悪しが文字通り命運を握ることもあるだろう。そんな状況でも「ロバがかわいそう」というシンプルな理由で扱いにくいロバを選んでしまう。
ちょっとしたことかもしれないが、ごく自然にこの選択ができるからこそ、誰もがやらない冒険をやれたんだと思う。
「やろうと思えばやれるけど誰もやらないこと」をやる人とは、「かわいそうだから」という理由で暴れロバを選べる人だ。
世界を変えるのはこういう人なんだろうな。そして、わざとサソリに刺されることのできないぼくは冒険をすることはできないのだとつくづく思う。


すごくおもしろかったので他の本も読んでみたいと思ったけれど、現時点(2018年7月)ではこれ一冊しか上梓していない。早くべつの本書いてくれ!


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2018年7月10日火曜日

号泣される準備はできていた


四歳の娘を連れて、実家(つまり娘からすると「おばあちゃん家」)に泊まりに行く。

一日中おじいちゃんおばあちゃんやいとこたちと遊んで、娘は終始テンション高め。
ふだんはぼくと入るお風呂にも「(いとこの)〇〇ちゃんと入る!」といって、子どもたちだけで入浴した。もちろんおもちゃをいっぱい持って入り、一時間ぐらい遊んでいた。

そして夜。
娘は「〇〇ちゃんといっしょに子どもだけで寝る!」とのこと。

「わかった。じゃあおとうちゃんは下で寝てるからね。おやすみ」というと、
娘が心細そうに「二階で寝るけど、もし途中で寂しくなったら下に来てもいい?」と。

「はいはい。いいよ」と言ってぼくも布団に入った。
五分すると娘が階段を降りてきた。「どうした? 寂しいの?」と訊くと、「ううん。でも夜中に寂しくなったら降りてきてもいい?」との返事。

もう寂しくなってるやんと思いながらも、おもしろかったのでもうちょっと様子を見ることに。
「いいよ。二階で寝るのね。じゃあおやすみ」

今度は三分後。また降りてきた。
涙をせいいっぱいこらえた顔で「もしも、もしも、夜中に寂しくなったら、降りて、きても、いい?」と云う。
たぶん「いっしょに寝よう」と言ってほしかったのだと思うが、ぼくも意地悪なもので気づかぬふりをしたまま
「もしも寂しくなったらね。じゃあおとうちゃんはここで寝るからね。おやすみ、バイバイ」
と手を振った。

はたして一分後に、娘が号泣しながら降りてきた。「やっぱりいっしょに寝て!」

「手つないで寝て!」というので、手を握りながら寝た。



娘の気持ちはよくわかる。
ぼくも同じような経験をしたからだ。
五歳のとき、いとこの家で遊んだ。めちゃくちゃ楽しかったのでぼくと姉は「まだ帰りたくない!」と言い、伯母さんに「よかったら泊まっていってもいいよ」と言われたのに乗じて「子どもだけ泊まる!」と宣言した。

両親はぼくと姉を置いて帰宅した。ぼくと姉は楽しくご飯をごちそうになり、楽しくお風呂に入り、そして布団に入った。
布団に入ったとたんに心細くなり「やっぱり家に帰る!」と大泣きした。困りはてた伯母さんはぼくの親に電話をし、一度帰宅した両親は夜中に車で迎えに来てくれた(車で一時間ぐらいの距離だった)。

子どもというやつは遊ぶときは親がいなくても平気でも、布団に入ると急に心細くなるものらしい。



そして経験から学ばないのもまた子どもである。

保育園の友だちから「家に泊まりに来ていいよ」と言われた娘は、「Nちゃんの家に泊まりにいく!」と言いだした。
「同じ家の別の部屋」でも耐えられなかったのに「別の家にひとりで泊まる」なんてできるわけがないでしょ、と言っても聞く耳持たず。

やれやれ。やれやれやれ。


2018年7月9日月曜日

【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』


『永い言い訳』

西川 美和

内容(e-honより)
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。悲劇の主人公を装うことしかできない幸夫は、妻の親友の夫・陽一に、子供たちの世話を申し出た。妻を亡くした男と、母を亡くした子供たち。その不思議な出会いから、「新しい家族」の物語が動きはじめる。

あらすじを読んで、
「妻を亡くしても悲しさを感じられなかった主人公が、ふとしたことで出会った子どもたちと過ごすことで徐々に内面と向き合っていき、やがて妻の存在の大切さに気付く」
的なベタな感動ストーリーかな、と警戒していたのだけれど、予想通りに運ばなくてよかった。
そりゃそうよねえ、うまくいってなかった人が死んだからって「今までありがとう」なんてあっさり思えないよねえ。

主人公がわがままで見栄っ張りで平気で他人の気持ちを踏みにじるやつ、ってところに作者の「ありきたりなお涙ちょうだい物語にはしないぞ」という意思が感じられた。
いろんな表現メディアがあるけれど、人間のダメなところを描くという点では小説は優れた表現手法だなと『永い言い訳』を読んで思った。ほんとに主人公がダメなやつなんだよ。



幸いにして身近な人を亡くしたことがない。
祖父母の死は経験したが、八十歳ぐらいで病死したので「まあ順番的にそうなるわな」という感じで、少なくとも「なんでこの人が死ななくちゃいけないの!」という死に方ではなかった。
だからまあ悲しかったけど、卒業式の悲しさと同じで「つらいけどしかたないよね」と気持ちは醒めていた。

もっと近しい人が理不尽に死んだとき、正しく悲しめるだろうか。正しくっていうのも変だけど、号泣するとか、取り乱すとか、そういう反応ができるか自信がない。いやべつに取り乱さなくたっていいんだけど、冷静になりすぎてへらへらしてしまったりするんじゃないかと心配だ。

ぼくは感情のスイッチをかんたんに切り替えられない。
以前、友人の運転する車の助手席に乗っていた。信号を右折するとき、自転車が飛びだしてくるのが見えた。車は減速する様子がない。どうやら自転車に気づいていないようだ。
ぼくは言った。「自転車きてるでー」
運転手は自転車に気づいてブレーキを踏み、間一髪で接触はまぬがれた。あと0.1秒遅れていたらぶつかっていたかもしれない。
危なかったな、と運転手にいうと「気づいたんやったらもっと危なそうに言ってや!」と怒られた。
「あぶないっ!!」とか「ブレーキ!!」とか、なんなら「わああああー!!」でもいいから、とにかくたいへんな事態が迫っていることを警告してほしい、おまえの口調にはまったく切迫感がなかった、と。

感情の起伏の少ない人間だと言われる。まず怒らない。四歳の娘に対して怒鳴ることはあるが、かっとなって怒鳴るわけではない。「真剣に聞いてないからまずは怒っていることを伝えないといけないな」と考えて「よし、怒ろう」と決意してから怒っている。

依然の職場に一瞬でキレる人がいて(上の立場の人間だった)、ぼくはその人のことを「感情のコントロールができないんだな」と小ばかにしていたが、感情のおもむくままに行動できることをちょっとうらやましいとも思っていた。

もう何年号泣していないだろう。学生のとき、小さいときから飼っていた犬が死んだとき以来だから、十年以上は号泣していない。

突然の災害や事件に巻き込まれたときに、冷静に行動しなければいけないと思うあまり、必要以上に冷静でいすぎる人間がいるらしい。
緊急事態だから何を置いても逃げないといけないのに、自分は冷静だと思うあまりふだんどおりに行動してしまう。仕事に向かったり、現場の写真を撮ったり。そして、危険が自分の身に及んでいることに気づかぬふりをしたまま、自身も巻きこまれてしまう。
自分自身、そういう行動をとりそうな気がする。もう少し感情的に行動できるようになったほうがいいな、と思う。思ってできるようなものでもないのかもしれないけど。



『永い言い訳』主人公(中年男性、小説家、子どもなし)が、知人の娘のお迎えのために保育園に行ったときの描写。

 近辺をぐるぐる回り、ようやく保育園にたどり着いたが、昨日のうちに陽一氏がぼくらの関係を先生に説明してくれていたおかげで、「大宮灯の迎えの衣笠です」とインターホンで名乗ったら門扉の関はすんなりクリアできた。
 建物の下足場まで入って待っていると、次から次へと園児が出てきて、迎えに来た母親たちと帰って行く。中には父親もいる。彼らは互いに決まって明るく「こんにちはー」「さよならー」と挨拶を交わし、時間の無い勤め人らしく立ち話もそこそこに三々五々帰って行く。ぼくはしっかりと父親を装って、「こんにちはー」と発してみる。すると不審がる様子も無く、相手も同じように返してくれてほっと息をつく。犬猫が動物嫌いの人間を瞬時に感知するのと似て、母親という生き物は「人の親でない者」を見抜くセンサーを持っているように感じてきたが、どうやらそれも百発百中ではないようだ。よしよしよし。そうこうしているうちに灯ちゃんが奥から廊下を歩いてやってきた。ぼくが来ることは分かっているはずだが、ちょっと照れくさげな表情をしているので、思い切っておーい、と手を振って手のひらを差し出すと、てててと駆けてきて右手でぱちんとタッチしてきた。む。可愛いぞなもし。

これを読んで笑ってしまった。そうそう、ぼくもこうだった。

まだ自分に娘が生まれる前、姪っ子の保育園にお迎えに行ったことがある。会社を辞めてヒマだったからだ。
そのときの気持ちは、まさにこんな感じだった。
ちゃんと園児の母親(ぼくの姉)から頼まれて来ているんだから堂々とすればいいのに、不審者と思われるんじゃないか、まだ姪は一歳だから急に泣き出すかもしれない、そしたら怪しいおじさんだと思われて通報されるかも、じっさい無職のおっさんだしな、そんなことを考えてドキドキした。
で、ビクビクキョロキョロした結果、余計に挙動不審な怪しい人になる。

小学校や保育園って、関係のない人にとってはものすごく敷居の高い場所だよね。近寄ったり中をのぞきこんだりするだけで防犯ブザーを鳴らされそうで怖い。
ぼくが中国の大学に留学していたとき、大学の門の入り口に銃を持った人(警察か兵士かわかんないけど)がいて通るたびに銃口向けられるんじゃないかとびくびくしていたけど、それぐらいの緊張感がある。常に銃口を向けられている気分だ。

子どもが生まれてよかったと思うのは、よその子に話しかけやすくなったことだ。
「大人の男」というのはそれだけで不審者予備軍みたいな扱いを受けるから、子ども、特に女の子に話しかけることは許されない。

こないだ、公園で小学生の女の子が携帯電話を手にして困っている様子だったので
「どうしたん? あー、電話かかってきたけどとれなかったのか。ちょっと貸して。ほら、こうしたら誰からかかってきたかわかるよ。この真ん中のボタンを押せばかけなおすことができるよ」
って教えてあげたんだけど、それはぼくが娘を連れていたからできたことで、そうじゃなかったら「おっさんが女子小学生に話しかけていたら通報してもよい」という社会的規範のせいで話しかけることはできなかっただろう。



自分が父親になったからだろう、子どもとの接し方について書かれているところが印象に残った。

 察するに津村は、かのキワモノ親父の家庭の中に、自分の身の置き場を見出したんじゃないか。実際そこの子たちに愛情めいたものを感じ始めているのは本心だろうが、それに一番癒されているのは、母親を失った子供たちよりキワモノ親父より、津村本人なのではないかと思う。子供を愛することって、これまで自分がやってきたどんな疾(やま)しいことだって夢みたいに忘れさせてくれるから。これは男たちが、父親になることで手にすることのできる、一つの大きなご褒美だ。母を失った悲しみに暮れる子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせるようになった津村は今、本当に快適そうだ。

この指摘はけっこうぐさっと刺さったなあ……。
ぼくも休日はほぼ毎日子どもと一緒にいるし、平日も風呂も寝るのも子どもと一緒だから「けっこう子育てやっているほう」とひそかに自慢に思っていたのだけれど、「子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせる」と言われてしまうと、ううっ、たしかにそうかもしれない……と居心地の悪さを感じてしまう。

大人としてダメダメな人間である衣笠幸夫という主人公の姿を読むことで、自分の中のダメさが浮き彫りにされるような気になる。
おまえはダメなんだぞと真実を突き付けてくれる、いい小説でした。

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2018年7月6日金曜日

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』


『裁判所の正体
法服を着た役人たち 』

瀬木 比呂志 清水 潔

内容(e-honより)
裁判所には「正義」も「良心」もなかった!良心と憲法と法律に従って判決を下す「正義の府」。権力の暴走を監視する「憲法の番人」。しかし実態はそれとは懸け離れたものだった!最高裁を頂点とした官僚機構によって強力に統制され、政治への忖度で判決を下す裁判官たちの驚愕の姿を暴きだす。

『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件:遺言』などの超絶骨太ノンフィクションで知られる清水潔氏が、元裁判官である瀬木比呂志氏から裁判官の姿について聞きだした本。
瀬木さんが、いくら辞めたとはいえここまで言っちゃっていいのかな、とこちらが勝手に心配してしまうほどずけずけと裁判官の内情を暴露している。

あくまでひとりの元裁判官が言っていることなので裁判官全体を表しているわけではないし偏った見方もあるんだろうけど、「転職会議」気分で話半分で読む分にはおもしろい。
ふつうのサラリーマンの愚痴っぽいところもあるけどね。「上司にうまくごまをすってるやつばっかり出世する」とか。それはたいていの組織であるだろう。

いや、途中までは暴露話を聴いている感じでおもしろがっていたんだけど、途中から怖くなってきた。日本の司法ってここまで腐敗してたのか。



序盤の「暴露話」風のやりとりから。

清水 実際に事故が起きてしまったとか、起こしてしまった裁判官の話とかは聞いたことありますか。

瀬木 ええ。裁判官の話も聞いたことあるし、その家族の話も聞いたことありますね。大事故だともちろん刑事裁判ということになりますけど、それほどのことでもないと、起訴されないようにしたり、そういうことは、かつてはありました。検察に便宜を図ってもらって起訴を免れる、みたいなことですけど。

清水 便宜ですか。やはりそういうことはあったんですね。露呈すればマスコミでも話題になったりするわけですけど、たとえば交通違反とか、飲酒運転とかで、「ちょっと何とかならないの?」みたいなことがあったわけですね。

ひゃあ。今もあるんだろうなあ。
飲酒運転はともかく、軽い交通違反ぐらいだったら「反則金を払う」と「もみ消しがばれたときのリスク」を天秤にかけたら圧倒的に素直に反則金のほうがいいと思うんだけど、それでもやっちゃうのが人間くさいというか。誰よりも公正であらねばならない立場にある人でも目先の損から避けるために誤った道へ進んでしまうというのがおもしろい。おもしろがってちゃいかんか。
裁判官であっても自分のことになると冷静な判決は下せないんだね。



さっきの「交通違反をごまかしてもらう」はまだ許せるというか、「裁判官も人間だなあ。しゃあないな」と思わず笑ってしまう気持ちになる。少なくとも心情は理解できる。

しかし、次に書かれるような話は、とても許せるものではない。

清水 今おっしゃった「統治と支配」の根幹にふれる事件には、たとえばどんなケースがありますか?

瀬木 近年の例から一つ挙げますと、たとえば夫婦別姓については、まさに「統治と支配」の根幹にふれ、自民党主流派の感覚にもふれますから、絶対さわらない(最高裁二〇一五年〔平成二七年〕一二月一六日判決)。だけど、非嫡出子の相続分については、そんなに大きな問題ではないので、民主的にみえる方向の判断を下す(最高裁二〇一三年〔平成二五年〕九月四日決定)。やや意地悪な見方かもしれませんが、日本の最高裁の判断を注意深くみていくと、大筋としてはそんな感じでバランスを取っている傾向が強いと思います。そして、国際標準の民主主義にかなう判決は、わずかなのです。

清水 今ものすごい話を聞いてしまったので(笑)、このまま続けてうかがいたいんですが、「統治と支配」にかかわる部分にさわらないというのは、つまり今であれば自民党の顔色をうかがうということでしょうか。

瀬木 そうですね。その時々の権力者、ことに、その時々の自民党の中枢の顔色をうかがうという傾向は強いですね。

これはあくまで瀬木さんの見方にすぎないが、内閣のほうを見ながら仕事をしている裁判官がいるとしたら憤懣やるかたない。中学校の公民の教科書からやりなおしてこいと言うほかない。

瀬木さんの話によれば、国政の方針にそぐわない判決を出した裁判官は地方支部を転々と飛ばされる、なんてこともあるんだとか。大飯原発の運転差し止め判決を出した裁判長が地方裁判所から外されて家庭裁判所に異動になった、というエピソードも載っている。
ぼくが思っているよりも裁判所という機関は、こと政治分野に関しては腐敗しきっているようだ。

もちろん個人レベルで見れば、己の良心に従って判決を下している裁判官もいるのだろう。だがそういう裁判官は出世できないから、上級審に行くほど権力者の顔色をうかがう裁判官にあたる可能性が高くなる。結果、権力者に睨まれた人は裁判で勝つことはできない。たとえ勝っても控訴審でひっくり返されてしまう。
本来不正から国民を守るための再審制度が、権力者を守るための制度に成り下がってしまっているというのが実情のようだ。情けないことに。



特に近年、名誉棄損訴訟で、原告が勝ちやすくなっている(あるいは罪の一部を被告に認めさせやすくなっている)と瀬木氏は指摘している。

瀬木 アメリカでは、名誉毀損訴訟では、原告はきわめて勝ちにくいということになっています。ことに、公人といわれるような人々についてはそうですね。これは、民主主義社会の基盤としての「表現の自由」を最大限に尊重するということです。ヨーロッパは、日本とアメリカの中間くらいでしょうか。日本では、法律の仕組み、判例としては、名誉毀損は簡単に成立して、むしろ被告のほうに証明責任が負わされるという形になっているのですが、この形自体が、アメリカに比べると、随分被告に不利なんです。

清水 そうですね。これがまさに訴えられた時の真実性・相当性の立証責任ということですね。

瀬木 被告の側に証明責任があるんです。僕は、少なくとも真実性については、反真実性の立証を原告にさせるべきだと思います。原告にとっては難しいことではないはずですから。現に、アメリカ法ではそうなっています。でも、かつての裁判所は、実際には、真実性・相当性は、常識的なところで認めていたんです。これはまあ真実だよな、あるいは、そういうふうに信じたのも無理はないよな、という事案では、棄却していたんです。民主主義国家の裁判所としては、それは当然のことで。

清水 取材、執筆時に真実だろうと判断した、その理由をきちんと立証できればよいと。

瀬木 ところが、最近、全然それを認めないんです。そうすると、本当に、これは、ある意味で、表現の自由の封殺ですよ。本当にこんなに暴走していいのかと近年強く感じる一つの分野が、名誉毀損です。そういう方向性がスラップ訴訟の温床にもなる。

清水 いろいろうかがっていくと、裁判所が、国民のためではなく、やはり権力側についてしまっている。この国のすべてのシステムが、そちらに向かっているというかバランスが崩れてきています。そんなふうに感ずるのです。

「報道される」「わざわざ訴訟を起こす」という時点で、名誉棄損裁判の原告の多くは権力者だ。政治家だったり、大手企業だったり。
つまり原告が勝ちやすくなっているということは、権力者が勝ちやすいということでもある。

そうなると、大企業や大政党の政治家のように金を持っている側が「余計なこと書いたら訴えるぞ」と脅しをかけやすくなる。
すると表現をする側が委縮してしまう。

ぼくなんかこうやってインターネット上に好き勝手なことを書いていて、表現の自由という権利を当然のように享受しているけど、じつは表現の自由というものはきわめてあぶなっかしい状態にあるのかもしれない。



政治家や官僚が嘘をついたり、重要な文書を改竄したり、存在する文書を隠蔽したりというニュースが相次いで報じられている。
ぼく個人としては「だめな政治家だなあ。さっさと辞めてほしいな」と思うけど、当の政治家や官僚に対してさほど怒りは湧いてこない。なぜならはじめから彼らに対して公明正大であることを期待していないから。
「だめな政治家だなあ」と思うのは「かんたんにばれる嘘をついてだめなやつだなあ」という意味である。嘘をつくことそのものがだめだとは思わない。「やるんならもっとうまく嘘をつけよ」と思う。

上手に嘘をつく知性が足りない政治家はさっさと辞めろ、とは思うが、彼らがいついかなるときも正直であるべきと信じているほどピュアではない。

文書を隠蔽する政治家にも官僚にも呆れるばかりで腹は立たないが、それに対して立ち向かわない司法に対しては憤慨している。検察庁も裁判所も仕事してんのかよ。


誰しも権力を持つと腐敗するものだから、総理が近しい人に便宜をはかることなんて、現政権に限らず今までもあったんだろう。人間が政治をやっている以上、完全になくすことはできないだろう。
だからこそ三権分立とか司法の独立とかの内閣をチェックして暴走を止める仕組みがあるのに、今はそれが機能していない。

今、ぼくが中学校の社会科教師だったら「裁判所には違憲審査というチェック機能があります。ま、これはあくまで名目であってまったく機能してませんけどね」と言うしかない。
大阪地検特捜部が文書改竄を指示した官僚の立件を見送ったというニュースを見ると、三権分立はどこにいったんだと憂鬱な気持ちになる。



田中角栄氏は現職総理大臣でありながら逮捕された。ぼくが社会の教科書でそれを知ったときは「総理が逮捕されるなんて情けない時代だったんだな」と思った。でも今にして思うと「総理が逮捕された」ってのは司法が正常に機能しているということの証明でもあるわけで、むしろいい時代だったんだと思う。
今なら、首相が汚職事件に手を染めていたとしても検察は目をつぶるだろう。

裁判所ってもっとまともな組織だと思っていた。政治や警察や検察が腐敗しても、裁判所だけは良心を持っていると。ぼくがピュアすぎただけなんだろうか。

司法の公正を信じている人ほど、厳しい取り調べを受けたときにいわれのない罪でも「ここは嘘の自供をしても裁判所では真実を明らかにしてくれるはず」と思って嘘の自白をしちゃうんだろうなあ。
とても悲しいことだけど、ぼくはもう裁判所を信じるのはやめる。裁判所は国民を守るためのもの機関ではないと思って生きていくことにする。


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清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2018年7月5日木曜日

ファイトの軽薄さ


中学生のとき陸上部に所属していた。専門は長距離。
走ることは好きだったが、応援されるのは嫌いだった。
特に大会になると、沿道に同じ学校の生徒(短距離とか幅跳びとかの選手)が並び、「ファイト―!」と声をかけてくる。先輩、同級生、後輩、特に女子が多い。
ぼくはハッハッと息を吐いて走りながら「うるせえ死ね」と思っていた。

長距離走、という種目がよくなかった。
百メートル走だったら声援なんて聴いている余裕はないし、砲丸投げのような投擲競技や走り幅跳びのような跳躍競技であれば選手の集中を妨げないように観客は静かにしている。
だが長距離だと声援がはっきり聞こえる。誰が何を言った、と理解する余裕もある。だから余計に声援を送ってくるのだろう。

女子に応援されるなんてうれしいじゃないか、と思うかもしれない。だがそんなことはない。
野球のバッターボックスに立っているときに女子から声援を送られたらぼくだってうれしい。きりっとした顔をつくる余裕だってあるだろう。
だが長距離走だ。汗はだらだら、息ははぁはぁ、足はよれよれ、はっきりいって気持ち悪い。そんな姿を見られたくない。そっと目を背けてくれ、と思う。

こっちがめちゃくちゃ苦しいのに何もしてないやつが「がんばれー!」と言ってくることに腹が立った。言われんでもがんばっとるわ、この苦しそうな顔を見てわからんのかい、今以上がんばったらせっかくキープしてるペースがくずれるやろがい、と憎悪の念が湧いてくる。

特に「ファイトー!」が嫌いだった。なんと軽い言葉だろう。無責任きわまりない。
自分の子どもが徴兵されてこれから戦地に赴くことになるとする。なんと声をかけるだろう。「しっかりやってこい」だろうか、「生きて帰ってこいよ」だろうか、あるいは無言で手を握るかもしれない。少なくとも「ファイト―!」ではないだろう。うすっぺらすぎる。
「ファイト」には、本気で応援する気持ちはこもっていない。

中島みゆきはちゃんとその嘘くささを見抜いていて、『ファイト!』という絶望感たっぷりの歌を作っている。あの歌を「がんばる人への応援歌」と言っている人がいるが、何もわかっていない。あれは「ファイト!」の軽薄さを唄っているのだ。沿道の人間がマラソン選手に送る「ファイト―!」からもっとも遠いところにある歌だ。

チームメイトから応援されるのなら、わかる。サッカーのPKを蹴る選手にチームメイトが「決めろー!」と応援するのは納得がいく。彼のパフォーマンスが自分にとっても利益になるからだ。
だが陸上競技は、駅伝以外は個人種目だ。応援されても「おまえらには関係ないだろ」と思う。
ぼくがひねくれてただけかな。
でも学校のテストで同級生を応援しないんだから、個人競技に出場している同級生を応援するのも変じゃないか?
今にして思うと、応援が不快だったのは、ぼくに「学校を背負って走ってる」気が微塵もなかったからかもしれないな。


陸上部時代の嫌な思い出があるからか、今でも応援は好きじゃない。応援するのも、されるのも。
といってもこの歳になると人から応援されることなんてそうそうないんだけど。せいぜい保育園の保護者リレーで走ったときぐらい。
でも保護者リレーで走っているときに「がんばれー!」と言われても嫌な気にならない。それは本気でがんばってないからなんだろうな。「そんなに速くないし、がんばれと言われて当然」ぐらいの気持ちで受け止めることができる。

ということで、ほんとにがんばっている人に「がんばれ」と言うのはよくないね。
デブにデブと言ってはいけないのと同じだね。ちがうか。


2018年7月4日水曜日

怒りのすりかえ


娘が二歳のとき、いわゆる「イヤイヤ期」が訪れ、いったん火がつくと何をするのもイヤと言うようになった。

そんなときにぼくが対策としておこなっていたのが「怒りのすりかえ」である。

たとえば、
今からごはんというときに「イヤだ! おでかけする!」と娘が怒りだす
 ↓
「よし、はみがきしよう!」といって歯ブラシを取りにいく
 ↓
娘、「イヤだ! はみがきしたくない!」と暴れる
 ↓
ひとしきり暴れさせた後に「わかったわかった、じゃあはみがきしなくていいよ」と言う
 ↓
娘、少し落ち着く。この時点で「おでかけ」のことは忘れている
 ↓
「じゃあごはん食べよっか。大好きな納豆あるよ」と声をかける
 ↓
娘、機嫌を直して食卓につく


百パーセントではないが、このやりかたでうまくごまかせることがあった。
ただ「イヤ!」といって我を通したいだけなので、べつの話題を持ちだして「イヤ!」が通ったことにしてあげれば納得するのである。



仕事をしていると、ときどきイヤイヤ期の人に出くわす。
ただケチをつけたいだけ、自分の要望を通したいだけ、の人。


そういう人に話を通さなければならないときは、
「わざとわかりやすいミスを作っておく」
「無理めな要求を入れておく」
とするとうまくいく。

「ここが違うから直せ!」とか「こんなの認められん!」とかいうので、
少し逡巡したふりをしてから「わかりました。ご要望通りに対応します」といえば、わりと納得してくれるのだ。

怒りのすりかえ、二歳児以外にも使えるテクニックだ。


2018年7月3日火曜日

新刊のない図書館


よく大阪市立図書館に行く。子どものえほんを借りるのが目的だ。
ぼくは本を買うのが好きなので(読むために買うというより買うために読んでいるというぐらい)ずっと図書館とは無縁の生活を送ってきたのだが、子どもができて図書館を利用するようになった。

えほんはすぐ読みおわるし、かさばるし、値段は高い。
次々に買っていたら財布がもたない。毎週のように図書館に出かけて、肩がもげるぐらいリュックいっぱいにえほんを詰めて帰る。



大人の本はほとんど借りないが、図書館の棚を見るのは好きだ。
図書館の書架は書店とはだいぶ味わいが異なるので、他人の本棚を見るような楽しさがある。

しばらく見ているうちに気づいたことがある。
ある時期を境に新しい本が入っていない。



ぼくは書店で働いていたこともあるので、本の流行りには敏感だ。
図書館の本棚には、十年前のベストセラー、二十年前のベストセラーはあるけど、ここ数年に売れた本がほとんど並んでいない。
たとえば1990年代~2000年代前半にヒットを飛ばしていた宮部みゆきの本は充実している。ほぼ全作品が並んでいる。だが近年の人気作家の本は少ない。あっても古い本しかなかったりする。

はじめは借りられているだけかと思った。だが、注意してチェックしてみると、いつ見てもない。そもそも置いていないらしい。
まあそれはいい。図書館に新刊の文芸書を置くことはぼくも反対だ。趣味の本は買って読んでほしい。図書館に置くのは新刊書店で手に入らなくなった本だけでいいと思っている。

だが、新しい本がないのは文芸書だけではないことにも気づいた。実用書も古い本だらけだ。
たとえばパソコン入門書のコーナーなどを見てみると、十年ぐらい前の本がずらりと並んでいる。『わかる! Excel2007』なんて本が堂々と置かれている。
パソコン書の世界で十年前なんて大昔だ。医学書の棚に『解体新書』が置かれているようなものだ。

生活に困っている人が仕事を探すにあたりパソコンスキルを身につけようと図書館に行く、なんてシチュエーションもあるだろう(なにしろ大阪市の生活保護受給率は政令指定都市の中でナンバーワンだ)。
そんなときにExcel2007の本しかなかったら困るだろう。
図書館ってそういう人のためにあるものだと思うのだが。


どうしたんだろう。
どうして大阪市はここ十年ほど図書館の蔵書を増やすことを放棄してしまっているのだろう、と首をかしげていたのだが、2011年に大阪維新の会の橋下徹氏が大阪市長になったことに気づいて「ああそういうことかな……」と深くため息をついた。


2018年7月2日月曜日

【読書感想文】 橘 玲『朝日ぎらい』


『朝日ぎらい
よりよい世界のためのリベラル進化論』

橘 玲

内容(e-honより)
朝日新聞に代表される戦後民主主義は、なぜ嫌われるのか。今、日本の「リベラル」は、世界基準のリベラリズムから脱落しつつある。再び希望をとり戻すにはどうすればいいのか?現象としての“朝日ぎらい”を読み解いてわかった、未来に夢を与える新しいリベラルの姿とは。

主に「国内外のリベラル派の置かれている状況」について書かれていて、「朝日」はメインテーマではない。どっちかっていうと「リベラル嫌い」について語っている本。
タイトルからは「朝日新聞出版から出している本にこんなタイトルつけても許しちゃうなんて懐が広いっすよね」というリップサービス感が漂ってるけど、内容はすごくおもしろかった。
橘玲氏のべつの著作『言ってはいけない』もそうだったけど、「そんなこと言っちゃまずいんじゃないの」ということを、実験データに基づいてずばずば書いてしまうのがおもしろい。

たとえば、知能が低い人ほど保守派になりやすいとか。
知的好奇心が高く、言語運用能力の高い人ほどリベラルに、そうでない人ほど保守派になりやすい傾向があるそうだ(あくまで傾向)。
知能の高い人ほど社会的に成功しやすい。つまり、成功者ほどリベラルである傾向が強い。
だからといってリベラルの主張通りに世の中が動かないのがおもしろいところだ(リベラルからすると困ったことだが)。アメリカ大統領選でトランプ氏がクリントン氏を破ったことやイギリスがブレグジット(EU離脱)を決定したのがまさにその典型で、賢い人が「立派なこと」を言うと、「えらそうにしやがって」「きれいごと言ってんじゃねえよ」と反発する人が世の中にはたくさんいるのだ。

「朝日」が嫌われるのも同じ理由で、高学歴な社員たちが「誰もが住みよい世の中にしよう」「弱者を守ろう」なんて主張をしても、「上から目線で言いやがって」「おまえらは高収入もらってるからきれいごと言ってられるけどよ」と反発を招く。
本来ならリベラルが守ろうとしている人たち(社会的弱者やその予備軍)までもが、「高学歴で大手企業に勤めてるやつらの言うことなんて」と攻撃している。

イギリスでもアメリカでも、白人・労働者階級・男性というかつては社会的に大きなポジションを占めていた人たちが貧困化していき、「おれたちの待遇が良くならないのは誰かが不当に利益をむさぼっているせいだ」と移民や女性を叩くことに精を出している。日本でも同じことが起こっている。知識社会に取り残された日本人男性がネトウヨ化し、外国人を攻撃している。
そして彼らは自分たちのことを切り捨てようとしている政党を支持して、弱者の権利を拡大しようとしているリベラルを非難している。

この結果、アメリカでも日本でもどんどん金持ち優遇社会になっていく。持たざる人たちがそれを支持している、というのがなんとも悲しい。

……でも、こういう上から目線の憐みの姿勢こそがリベラルが嫌われる原因なんだろうな。誰だって憐憫の目で見られていい気はしないもんな。
憐みを受けるぐらいなら、たとえ幻想でも強者側に立って他人を叩いているほうが幸福なのかもしれない。



世の中がリベラル化したことでリベラル派が力を失った、という指摘にはうならされた。

ぼくはタバコを吸わない。
公共の場のいたるところにタバコの煙が充満している時代だったら「嫌煙家が煙を吸わない権利を守れ!」と主張する政党に魅力を感じていただろう。
でも、ずいぶん分煙が進んだ今、「飲食店は原則禁煙にせよ!」なんて主張を聞いても、「うーん、現時点でさほど迷惑してないし、きっちり分煙してくれるなら全面禁煙じゃなくてもいいんじゃない?」と逆にかばいたくなる。

女性も障害者も共働き世帯もLGBTも病弱な人も、昔の日本に比べればずっと生きやすくなっているわけで、世の中が良くなっている分、「誰もが暮らしやすい世の中にしよう」という主張は力を失っていく。
世の中が良くなればなるほど、「世の中を良くしていこう」派が力を失うというのは逆説的だが興味深い。戦後は反戦主義が主流だったのに、戦争から離れることでその傾向が弱まっていくのにも似ている。

逆に、満ち足りているからこそ「きれいごとばかり言ってんじゃねえよ」という反発が支持を集めてしまう。

「リベラル」の最大の失態は、「雇用破壊」とか「残業代ゼロ」とか叫んでいるうちに、同一労働同一賃金などのリベラルな政策で保守の安倍政権に先を越されたことだ。普遍的な人権を至上の価値とするリベラルこそが、先頭に立って日本社会の前近代的「差別」とたたかわなくてはならなかった。なぜそれができないかというと、大企業の労働組合もマスコミも、正社員の既得権にしがみつく中高年の男性に支配されているからだろう。
 ここに、日本の「リベラル」の欺瞞がある。彼らは差別に反対しながら、自らが「差別」する側にいるのだ。
 日本的雇用は権力によって強制されているわけではない。「非正規社員を雇用しなくてはならない」とか、「女性を管理職や役員にしてはならない」という法律があるわけでもない。彼らがほんもののリベラルなら、まずは自分たちの会社で差別的な雇用制度を廃止し、積極的に女性管理職を登用したうえで、堂々と同一労働同一賃金の実現や「女性が活躍する社会」を主張すればいいのだ。

このリベラルの弱点を、橘玲氏は「ブラックスワン問題」という言葉を使って表現している。たとえ1%でも白くない白鳥がいれば「白鳥は白い」と言えなくなるように、「きれいごと」を唱えるリベラルはわずかな落ち度があるだけで「でもおまえ自身できてないじゃん」という反論を受けてしまう、というものだ。

「朝日」や大手マスコミが叩かれやすいのもこれが理由のひとつだ。「正しい主張」をしているからこそ「えらそうなこと言ってるけどおまえらだって間違えたことあるじゃん」という批判が鳴りやまない。いろんな方向に失礼なことばかり言っている大臣が失言をしても「もう麻生のおじいちゃんがまたバカ言って、しょうがない人ねえ」みたいに受け取られるのに。

「たったひとつの汚点が目立つ大企業」と「ゴミの中にいる批判者」が戦えば、そりゃ後者のほうが失うものがない分強いよね。



リベラルの失敗について。

リベラルが高齢化し、知識社会で力を持ったことで、本来なら社会の変革を唱えるはずのリベラルが既得権益を守ろうとする保守派になってしまった。なんとも倒錯した状況だ。
いくらリベラルが「弱者を守ろう」と言って改革を主張しても、それは「オレたちの既得権益が守られる範囲でね」なのだ。朝日新聞はリベラルな主張をしているが、女性役職者の割合は半数に遠く及ばないし、正社員と派遣社員の待遇は違うし、たぶんサービス残業が常態化している。「おまえらはどうなんだよ」と言われたら返す言葉もないだろう。

今後も高齢化は進み、知識社会化は進み、貧しい若者が這いあがるどんどん若者が貧しくなっていく。ますます「若者のリベラル離れ」は進んでいくのだろう。
リベラルが支持を集めるためには自分たちの既得権益を捨てる覚悟が必要なのだが、ま、それは無理だろうな……。


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