2017年10月31日火曜日

選挙、抗議、批判以外の政治との関わり方/明智 カイト『誰でもできるロビイング入門』【読書感想】


『誰でもできるロビイング入門
社会を変える技術』

明智 カイト

内容(e-honより)
本書でいう「ロビイング」とは、業界団体が「もっと金よこせ」と言って政治家に圧力をかけることではない。日本ではあまり行われてこなかった、弱者やマイノリティを守るために政治に働きかけることである。圧力団体が行うロビイングとは目的が全く異なるので、「草の根ロビイング」という名称も使用する。ロビイングはそれぞれテーマや、人によってやり方が異なるため、これまでマニュアルというものは存在しなかった。そこで本書では暗黙の了解となっていたロビイングのルールと、様々な立場からロビイングに関わってきた方たちのテクニックを紹介していきたい。

ロビイストってうさんくさい?


アメリカの政治の本を読むと「ロビイスト」という言葉がよく出てくる。
特定の政策を推し進めてもらうよう政治家にはたらきかける人物、というような意味らしいが、どうもうさんくさいものを感じていた。

選挙を通して選ばれた政治家に、どこの馬の骨とも知れない人物が圧力をかけるの?

それって結局は金に物を言わせて政治家を操ろうとしてるってことじゃないの?

みたいな印象だった。

しかしこの本では、清水康之氏、駒崎弘樹氏、荻上チキ氏、赤石千衣子氏、明智カイト氏の取り組みを通して「自殺者を減らす」「待機児童問題を解決する」「性的マイノリティが生きやすい社会をつくる」など、どちらかというと「弱者を守る」ためのロビイング活動が紹介されている。




政治と関わらざるをえない状況に陥ったら


ぼくは、なるべくなら政治に関わらずに生きていきたいと思っている。

本来、間接民主主義ってのは「一般人は政治のことなんか考えなくていいですよ。すべて専門家に任せておけば安心です」って制度なわけだから、職業政治家以外は政治のことを考えなくて済む世の中が理想だ。

しかしそうは言ってられないこともある。

こんな例が載っている。

 たとえば、失業して住む家も追われ、多重債務に陥ってうつ病を発症してしまった人がいたとする。その人が生きる道を選択するためには、単純化していえば、精神科でうつ病の治療をしつつ、法律の専門家のところで債務の法的整理を行い、福祉事務所で生活保護の利用を申請するなり、ハローワークで雇用促進住宅への入居手続きをするなどして、さらには求職活動もしなければならない。
 しかし、そうした切羽詰まった状態にある人が、自力でそれらすべての情報を探し出し、それぞれの窓口にピンポイントで辿りつくのは至難の業だ。
 支援が必要な人ほど支援から遠ざかるというジレンマは、社会的な問題を解決するための仕組み上の問題である。様々な解決策や支援策が、当事者ではなく施策者・支援者の視点で設計されているために、需要と供給の間にギャップが生じてしまうのだ。

これは「至難の業」どころか不可能だよね……。

窓口を一本化すればいいんだろうけど、行政は縦割りになっているから内部から変わることはまずない。
当事者が選挙に出馬して政治家になれば状況を変えられるかもしれないが、あたりまえだが当事者にはそんな余裕はない。出馬しても当選しないだろう。
政治家が動いてくれればいいけど、政治家もひまじゃないから要請がないとなかなか動けない。

そこで有効なのがロビイング活動。

支援者団体が政治家に対して、失業者を救済する法の策定を要請する。
それが多くの人を救う法であれば政治家にとっては票の獲得につながるから、制定に向けて動くことになる……。

つまり、ここで紹介されているロビイング活動とは、「弱者の声をすくいあげて政治家に届け、弱者を救済する仕組みを作ってもらう」という活動だ。

なんとも理想的な政治との関わり方だ。

そうかんたんにはいかないことも多いんだろうけど、少なくともデモ行進やビラ撒きをするよりは、ずっと現実的な方法だよね。



政治家をうまく使う


『誰でもできるロビイング入門』ではロビイングのいろんなケースが紹介されているけど、これを読むと与党の政治家もちゃんと仕事をしているし、野党の議員も批判ばっかりじゃなくて与党と協力して法の策定に尽力しているんだな、と実感する。

ニュースを見ていると政治家ってどうしようもないクズばっかりに見えるけど、目立たないところでちゃんと活動しているんだねえ。

権力の監視は報道機関の大事な仕事だけど、こんなふうに「業績をちゃんと伝える」ことにも紙面を割くようにしてくれたら、もっとみんなハッピーになるような気がするな。

政治家だって人だから、批判ばっかりされてたらやる気なくすでしょうよ。
「〇〇しない政治家は辞めちまえ!」って言うのと、「〇〇してくれるならこれだけの票が獲得できますよ」って言うのではどっちが人を動かせるかって考えたら明らかだよね。


大事なのは「政治家をどう動かすか」で、うまくやっている人や団体はそれをとっくに実行している。

って考えると、世の中を変えたいと思うのなら政治家になるよりロビイストになるほうがいいね。
政治家って支持母体や政党の言いなりにならざるを得ないわけだから、自分のやりたいように動ける範囲って実はすごく少ないらしいし。

 一方でロビイストには、そのような制約は一切存在しない。政治家が市民から要望のあった政策実現を行なうのに対して、ロビイストはその「要望をする側」であるため、自分自身が実現したいと願う政策のために動くことができる。バックに何か勢力があるわけでもないため、束縛されることもない。
 また、一つの選挙での当選・落選もなく、ある特定の政党に属するということもないため、普遍的に超党派的に誰とでも関わることが可能であり、より効果的に政策実現に寄与することができる。くだけた言い方をすれば、ロビイストとして政治家のバックであれやこれやと複数の議員に働きかけをしたほうが、選挙に当選して政治家になって政策実現を目指すより、自分の叶えたい政策を実現するという観点からいえば圧倒的に手っ取り早いのである。

一般人の政治との関わり方って、「政治家を批判する」か「投票によって誰かを支持する」しかないと思っていたんだけど、ロビイング活動によって「政治家をうまく利用する」って道もあるんだということに気づかされた。

政治家って、雲の上の存在ではなくて、逆にどれだけ批判してもいい存在でもなくて、「我々の代わりに動いてくれる人」だと思えばもっと有意義な接し方ができるような気がする。

たぶん政治家だって、有権者に対しては「要望を伝えてくれる」ことを望んでるんじゃないかな。

「選挙」「抗議」「批判」以外で、もっと政治家と気軽に関われたらいいな。



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2017年10月30日月曜日

タンクトップジャージャー麺


北京にいたとき、ジャージャー麺屋さんに行った。

今はたぶん様変わりしているんだろうけど、15年前の北京ってほんとに田舎街で、小さな商店がたくさんあるばかりで、マクドナルドもスターバックスも市内有数の繁華街に数店舗あるぐらいだった。

飲食店も夫婦と子どもでやっているような零細店がほとんどで、だから友人から「有名なジャージャー麺屋さんがあるらしいよ」と聞いたときも、「どうせ隣近所の間で有名ってぐらいでしょ」と半信半疑だった。

店につくと、なるほど50席ぐらいはある大きな店で、しかもほぼ満席で、たしかに北京ではめずらしいぐらいの有名店といってよさそうだった。

ぼくがまず驚いたのは、店内にはいるなり店員たちが一斉に何事かを叫んだことだった。
おそらく「いらっしゃいませー!」的なことだと思う。

それでなぜ驚くのかと思われるかもしれないが、北京の店ではまず店員があいさつなどしなかったのだ(今はどうかしらない)。

釣銭を投げて渡す、隙あらば釣銭をごまかそうとする、何か質問すると「はぁ?」という挑発的な返答がかえってくる(これは中国語で「え?」ぐらいの意味なのだが、語調が強いのもあいまってとにかく威圧感がある)など、北京人の接客態度はとても感じがいいとはいえず、まあそれはそういう文化だからべつにいいんだけど、それに慣れきっていたのでいっせいに「いらっしゃいませー!」を言われて思わずひるんでしまったのだ。

はじめてブックオフに入ったとき以来の衝撃である。

威勢の良い接客、明るく清潔な店内。日本ではあたりまえの光景だが、北京では異様に思えた。


しかし、そのジャージャー麺屋さんにはもっと驚くべきことがあった。

ホールには15人ぐらいの店員がおり(50席程度の店にしては多すぎる)、しかもそれが全員18歳ぐらいの長身のイケメン男性であり、さらには彼らの服装が一様に真っ白なタンクトップだったことだ。

一瞬、目がくらくらした。
これはどういう状況なんだろうか。
この店の情報を仕入れてきた友人に目をやると、彼もまたタンクトップについてはまったく知らなかったらしく、困り笑いを浮かべながら目を泳がせている。

風俗店なのかも、と思った。
当時の北京では風俗店が目くらましのために美容院の看板を掲げていた。
そういえば中国は宦官制度を生んだ文化の国でもある。
これはそういう性癖の人向けのいやらしい店なのかもしれぬ。ノーパンしゃぶしゃぶならぬタンクトップジャージャー麺なのかもしれぬ。

しかし見たところ、他のテーブルではみなふつうにジャージャー麺をすすっているし、ジャニーズJr.のような店員の少年たちは威勢がよいだけでちゃんとオーダーをとっているし、おさわりをされたりタンクトップの隙間に人民元紙幣をはさまれたりもしていない。

というわけでなにがなんだかよくわからぬままにジャージャー麺をオーダーし、狐につままれたような気分のままさわやかなタンクトップ少年が運んできたジャージャー麺をすすった。


めちゃくちゃうまかった。
さすがは有名店、と思った。北京滞在中に食べた食事のなかでいちばんおいしかった。

しかし疑問は余計に増した。
味だけでも十分に勝負できるだろうに、なぜこんな安っぽい話題作りのようなことをしているのだろうか。
オーナーの趣味なのだろうか。


あれから15年。
あれ以来ぼくはジャージャー麺を好きになり、機会があればジャージャー麺を注文するが、いまだにあのときのジャージャー麺を超える味には出会っていない。

日本にもタンクトップの美少年たちがあふれるジャージャー麺屋さんが上陸してくれることをぼくは心待ちにしている。いやそういう意味じゃなくて。


2017年10月29日日曜日

【DVD感想】カジャラ #1 『大人たるもの』



カジャラ #1 『大人たるもの』

内容紹介(Amazonより)
小林賢太郎の作・演出による、新しいコントブランド「カジャラ」。
旗揚げ公演となる「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●ラーメンズ・小林賢太郎の新作コント公演カジャラ♯1「大人たるもの」がBlu-ray&DVDで登場!
●出演は片桐仁/竹井亮介/安井順平/辻本耕志/小林賢太郎!
2009年の「TOWER」以降は本公演を実施していないラーメンズが揃って舞台に出演するのは7年ぶり!
●2016年7月27日から東京、大阪、神奈川、愛知で行われ、プレミアム公演となった模様を収録!

ラーメンズ・小林賢太郎氏が脚本・演出・出演を務めるコントユニット「カジャラ」の旗揚げ公演。

ラーメンズとしての活動は2009年を最後に休止中。小林賢太郎氏はニューヨークに住んで、NHKの『小林賢太郎テレビ』などを手掛け、片桐仁氏は役者や造形作家として活動しています。あとEテレ『シャキーン!』のジュモクさんとしてもおなじみですね。おなじみじゃないですか。あ、そう。ぼくは毎朝観てます。

そんなラーメンズが久しぶりにそろい踏みの舞台ということで楽しみに観てみたんだけど、うーん、「笑えるか」という点でみると正直いまいちだった。

コントというかちょっと笑いのある芝居、ぐらいの感じかな。


ベテラン芸人ならまずやらないベタ中のベタな設定「医者コント」をあえて数本用意していたり、時間の異なる2シーンを同時に演じてシンクロさせたり、実験的な作品をいくつか用意しているのに、それを突きつめることなくそこそこのところに着地させているのが残念。
たしかにどれもそこそこおもしろいし、細部の巧みさは感心すんだけど、小林賢太郎の舞台に求めてるのはそこそこじゃないんだよなああ。

いろんな創作表現の中でも「笑い」って特に年齢を重ねるごとに劣化しやすい部分だとぼくは思っていて、小林賢太郎も例外ではないんだろうな。『小林賢太郎テレビ』なんてほとんど笑える部分ないし。
それでも真正面から笑いにチャレンジする姿勢はすごいんだけど、だったらいっそおもいきってラーメンズとして活動再開してほしいなあとファンとしては思うばかり。
ぼくがこのライブでいちばん感心したのは片桐仁のコントアクターとしての質の高さだった。この人がいるだけで舞台の雰囲気がまったく変わるしね。
だからこそラーメンズというシンプルな枠組みで挑戦してほしい。

失敗してもいいからもっと鋭いものを、小林賢太郎に、というよりラーメンズには期待してるんだよ。



2017年10月28日土曜日

つまらない本を読もう


とある人が「世の中にはつまらない本が多い。誰だっておもしろくない本は読みたくない。だから読書離れが進んでる」と書いていた。

本好きのひとりとして、いやそれはちがうぞと思った。


うーん、どう説明したらいいんだろう。

そりゃおもしろい本を読みたいんだけど。おもしろくない本は読みたくないんだけど。

でも、つまらない本があるからおもしろい本を読む喜びがあるわけで。

本好きならみんなそれを知ってると思うんだけど。



たとえば野球観戦。

いちばん見たい展開ってどんなんかな。

僅差のゲームで終盤の逆転により贔屓チームが勝利、みたいな展開だろうか。見ていて気持ちいいよね。

でも全部がそんな試合だったら野球を観る楽しみは大幅に減少してしまう。

勝ったり負けたり、ときにはつまらないエラーで贔屓チームが負けたり、序盤に大差のついてしまうワンサイドゲームがあったり、そういう試合があるからたまに起こる逆転サヨナラゲームが楽しい。

野球観戦にかぎらず、どんな趣味でも同じだと思う。

いいときだけでないからこそおもしろい。



「誰だっておもしろくない本は読みたくない」と書いた人は、ほとんど本を読まない人だと思う。

誰にとってもおもしろい本ばかりになったら、そのとき本は死ぬだろうな。


2017年10月27日金曜日

【ショートショート】ワイルド・アクタガワ


「いたぞ、野生の芥川賞作家だ!」

まさか。そんなはずはないと思いながらも脚は勝手に駆けだしていた。

そんなわけが。いるわけない。でももしかして。

地下鉄の階段をかけあがったところで人だかりができていた。おかげで勢いのままに見知らぬおばさんの背中にぶつかってしまったがおばさんは振り向こうともしない。

群衆が取り囲んでいたのは、くしゃくしゃの髪の毛、丸眼鏡、そして右手に万年筆を持った中年男性だった。
たしかに作家であることはまちがいないようだった。

「あれですか」
隣に立っていた男性に訊いた。
「たぶん」
男性はスマホの画面を作家に向けてムービーを撮りはじめた。

「おい何か書いてみろよ」
若い男が怒鳴った。

言われた作家は少しおびえた様子を見せたが、しかしためらうこともなく「何か書くものを」と言った。
若い男は紙を持っていなかったらしく、誰かいないかと周囲を見まわした。

「iPadならあるけど」
サラリーマンが言い、隣にいた上司らしき男に「ばか野生の芥川賞作家だぞ。タブレットなんか使えるわけないだろ」と頭をこづかれた。

「便箋でもいいの?」
百貨店の紙袋を提げた老婦人が尋ねた。
作家がうなずくと、老婦人はハンドバッグから鳥の絵がはいった便箋を五枚ほどまとめて作家に手渡した。

作家は便箋を手にすると「机が……」と言った。
さっきのサラリーマンが「これ下敷きにしてください」とタブレットを差しだし、上司に「ほら役に立ったでしょ」と得意げに笑った。

作家は背中をかがめるとタブレットの上に乗せた便箋にすごい勢いで何やら書きだした。
しばらく書くとくしゃくしゃっと便箋を丸めて投げ捨て、また新しい便箋に怒涛の勢いで書きつけた。

その様子を見ていた群衆から、おぉ……というため息が漏れた。
私も驚嘆していた。
万年筆を片手に猫背で原稿用紙(便箋だが)に向かう姿勢、ぼさぼさ頭、紙を丸めて投げ捨てるしぐさ、すべてが野生の芥川賞作家のそれだった。
といっても野生の芥川賞作家はとっくに絶滅したことになっているので、あくまでテレビで見ただけのイメージなのだが。

「これは期待できそうだな」
「もし本物の野生の芥川賞作家だったらやっぱり通報したほうがいいのかな」
「言うってどこに」「テレビ局とか」「やっぱり出版社じゃないの」

人だかりはますます大きくなっていた。もはや地下鉄の階段は完全にふさがれていて、下から「早く通せよ!」という声が聞こえてくる。


「おいおいおいおい」

ざわめきを切り裂くように、男の大げさな声が響いた。
さっき「何か書いてみろよ」と言った若い男だった。
手には、作家が丸めて捨てたくしゃくしゃの便箋が握られている。

「なんだよ『ぼくが目が覚めると異世界だった。それが冴えない中学生だったぼくが魔法を武器に戦うようになったきっかけだった』って。おまえ純文学じゃねえじゃねえか!」

隣に立っていた会社員も便箋を覗きこみ、すぐにがっかりしたような怒ったような顔になった。
「ほんとだこりゃライトノベルだ!」

「おまけにすごく子どもっぽい字」
老婦人は顔をしかめて、残りの便箋をひったくってハンドバッグにしまいなおした。

「まぎらわしいまねすんじゃねえよ!」
サラリーマンが怒鳴りながらタブレットを取りかえし「今度やったら二度と書けないようにしてやるからな!」と罵声を浴びせて立ち去っていった。

車道にまであふれていた人だかりはあっというまに雲散し、気づくとニセ芥川賞作家野郎も姿を消していた。警察が来る前に逃げだしやがったのだろう。



「野生の芥川賞作家はもういない、もういないんだ……」

いつからそこにいたのだろう、隣に立っていた老人が誰に言うでもなくつぶやいた。

「おじいさんは本物の芥川賞作家を知っているんですか」

私が訊くと、老人はこちらを向いて話しはじめた。

「ああ。わたしの若いころにはまだ、年に二回、新しい芥川賞作家が見つかっとった。多いときにはいっぺんに二人見つかるようなときもあった」

「二人も」

「そう。だがやがて年に一度になり、数年に一度になり、人々が危機感を抱いたときにはもう遅かった。芥川賞作家は完全に姿を消した。やはりあれは乱獲だったんだ。高く売れるからといって、若き才能を発掘しすぎたんだ。一度消えた芥川賞作家はもう甦らん……」

老人は遠い昔を思いだすように、そっと目を閉じた。


2017年10月26日木曜日

現代人の感覚のほうが狂っているのかも/堀井 憲一郎『江戸の気分』【読書感想】

『江戸の気分』

堀井 憲一郎

目次
病いと戦う馬鹿はいない
神様はすぐそこにいる
キツネタヌキにだまされる
武士は戒厳令下の軍人だ
火事も娯楽の江戸の街
火消しは破壊する
江戸の花見は馬鹿の祭典だ
蚊帳に守られる夏
棺桶は急ぎ家へ運び込まれる
死と隣り合わせの貧乏
無尽というお楽しみ会
金がなくても生きていける
米だけ食べて生きる

落語通の堀井憲一郎氏が、落語というフィルタを通して現代社会について考えた本。
江戸の人の視点で眺める現代というか。落語に出てくる江戸の人に向かって「今から200年後、あんたたちの子孫はこんなふうに生きてるぜ」と説明するというか。

 近代人は、病気をすべて「外のもの」として捉えるのがいけないやね。
 外のものがやってきて、自分のからだを侵食していくから、これをまた外に排除してくれ、医者だったら排除できるだろう、と考えているのは、近代人の異常性だとおもう。これは江戸時代から見なくても、ふつうに異常です。
 たしかにそういう病いもある。ウイルス性の病気など、薬で体外に出せば治る病いもあるけど、もっとよくわからない身体の不都合はいっぱいある。たとえば、ガンはどう考えても外から来てないだろう。内で自分で作ってる。それを外からやってきた毒みたいに扱おうったって、それは無理だとおもうんだけど、もちろん現場の医者は痛いほどそのことは知ってるだろうけれど、近代人はそうは考えないですね。ガンを外に出してくれ、と考えてしまう。あまつさえ戦おうとしたりする。

現代人は昔の人よりもずっと正しい医学の知識を持っていると思っていて、それはじっさい正しいんだけど、根本的な考え方でいうとひょっとしたら江戸人のほうが正鵠を射ているのかもしれない。

健康的な生活をしていると「健康=正常」で、病気になることは突発的なエラーが起こっているような気になるけど、はたしてそれは正しいのだろうか。

こないだ読んだ山口雅也『生ける屍の死』(感想はこちら)にこんな台詞が出てきた。
「死じゃよ。生命のない物質から生命が発生したという事実にもかかわらず、彼らは死という言葉で生を説明しようとしない。自然界においては、死とは平衡状態のことであり、生命活動に必要な外からの補給がなくなったときすべての生命が達する自然な状態なのじゃよ。だからな、論理的に言えば、生の定義は『死の欠如』ということになろう」
死んでいる状態こそが自然な状態であり、動的に活動している生の状態こそが異状なのだ、という解釈だ。

さすがにそれは極端な考え方だが、ぼくも歳をとって身体のあちこちにガタがくるようになると「どこかしら悪いほうがふつうで、絶好調のときのほうが例外的」と思えるようになってきた。

江戸時代だったら視力が悪いのも矯正できないし虫歯になっても治せないし、たぶん今よりずっと「身体が悪くてあたりまえ」という感覚は強かったのではないだろうか。
死も今よりずっと身近に存在していたから、身体についての理想的な状態は今よりずっとハードルが低かっただろう。「とりあえず目が見えて耳が聞こえて立って歩けて生きてたらオッケー」ぐらいのものだったかもしれない。

江戸にかぎらず人類の歴史としてはそっちのほうがずっと長かったわけで、今の「具合が悪かったら病院へ」の時代のほうがずっと異常な時代なのだろう。

あと何十年かしたら「毎日身体チェックをして病気になる前にその芽をつぶす」時代が訪れるだろうから、「病気を治す時代」なんてのは長い人類の歴史においてたった100年ぐらいので終わるかもしれないね。





江戸の経済成長の話も興味深かった。

 ただ江戸期の後半は、商品経済が農村に入り込んでゆき、この制度と現実が乖離していく。「米だけでは、もう、何ともなりませんずら」ということになってゆくのだが、政府は「いやいやいや、米さえ獲れて、それをきちんとまわせば、世は安泰じゃろ」という方針を最後まで崩さなかった。となると、あまり金銭が出回ってもらっては困るし、世の中が発達してもらっても困るのである。高度に発達した資本主義社会の端っこから見てるとこれは意味のわからない風景だが、当時は本気である。民のことを考え、世間の安定を考えて、そうしていたのだ。
 つまり国総がかりで「金は不浄のものである」と示していた。政府が強く「金からものを考えるな」と言ってる社会での金銭感覚を、いまのわれわれが想像しようとしても、まあ、無理である。「発展しないことが善」というのを信じるところから想像を始めるしかない。
 金がなくても生きていける、それが江戸の理想の世の中である。
 この理念は、昭和の中ごろまではまだ残っていた。それを昭和の後半から末期にかけて、みんなで懸命に押し潰していった。何とか押し潰しきったとおもう。それがいいことか悪いことかは判断がつかない。社会全体が「金」でものごとを測ると決めたのだから、社会の端まで徹底的にそれで染めていったばかりである。ひとつ価値を社会の隅々まで広めないと気が済まないのは、うちの国の特徴であり、病気であり、また強みでもある。


江戸時代の人口は、戸籍がなかったので正確にはわからないけど、1600~1750年の間で1.5~2.5倍くらいの増加らしい。
昭和時代が約60年で倍になっているから(しかも大戦で多くの国民が死んだにもかかわらず)、150年で2倍くらいというのはだいぶ緩やかだ。1年で1.0046倍ずつ増えていけば、だいたい150年で2倍になる。
ということは年に0.5%経済成長すれば経済成長ペースが人口増加ペースを上回るわけで、単純に考えると人々の暮らしはよくなることになる。

なるほど、それなら革新的な政策を打ちだして経済成長をしようとするより、社会の安定(ひいては幕府の安定)をめざすのも納得できる。
0.5%ぐらいだったらやれ軍需だアベノミクスだと言わなくても自然に達成できそうだし。



ぼくは経済のことはさっぱりわからないけど、肌感覚としては、インフレもデフレも経済成長もなくて「今ぐらいの状態がずっと続いてくれる」のがいちばんいい。

それなら将来の備えもしやすいし。

日本はどんどん人口が減っていくわけで、もう経済成長を捨てて大きな実害が出ないようにちょっとずつ日本をシュリンクさせていきましょう、ってな方向にもっていけないもんですかね。

グローバル競争とかもういいじゃない。さっさと負けを認めて競争からおりましょうよ、と言いたい。

未来のための撤退戦、ってのはできない相談なんでしょうかね。

やっぱりあれですかね。江戸時代みたいに鎖国するしかないんですかね。


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2017年10月25日水曜日

ズゾゾゾゾゾゾゾォ


少し前にこんなことを書いたんだけどさ。



身のまわりの機械製品を考えたとき、親しみを感じるものとそうでないものがあるな、と思った。

たとえば電気髭剃りには、あまり親しみがわかない。
長く使っていたら愛着は湧くけど、電気髭剃りに名前をつけて友人やペットのように接している人は、たぶんそう多くない。
「わたしは髭剃りをブラウンって名前で読んでます。こないだ壊れたときは庭に埋葬しました」ってあなた、あなたは少数派です。



ロボット掃除機に親しみを覚える人はけっこういる。
「うちのルンバちゃん」みたいな言い方をする人もいる。
ぼくの家にはロボット掃除機がないのでわからないけど、たぶんペットに近い感覚なんだと思う。イヌやネコとまではいかなくても、飼ってるザリガニに対して湧くぐらいの親しみは湧くんじゃないだろうか。


親しみが湧くかどうかは、使う頻度とはあまり関係がない。

ふつうの人がいちばん接する時間の長い電化製品はテレビだと思うが、テレビ自体をペットのようにかわいがっている人はちょっとアレな人だ。テレビのことを「テレビのジョン」って呼んでるあなたのことです。

最近はしゃべる家電も増えているが、それも親しみとはあまり関係ない。
うちの湯沸かし器は「ノコリヤク5フンで、オフロガワキマス」「オフロガ、ワキマシタ」としゃべるが、それに対して「おうおう、ういやつじゃ」とは思わない。返事もしない。昭和の関白亭主のように黙って風呂に入る用意をするだけだ。


たぶん、ポイントは「自走するかどうか」なのだと思う。
だから、アイボやC-3POのように犬や人の形をしている機械はもちろん、ロボット掃除機のように楕円形の機械に対しても親愛の情を持つのだろう。

だって想像してみてほしい。
もしもロボット掃除機が部屋の片隅からぴくりとも動かず、超強力な吸引力を発生させて「ズゾゾゾゾゾゾゾォーーーーー!!!」と部屋中のごみを一気に吸いこむ方式をとっていたとしたら。

怖くてしかたがない。


2017年10月24日火曜日

陽当たりの悪い部屋


学生時代、陽当たりの悪い部屋に住んだことがある。

窓のすぐ向こうには別のマンションが建っていて、昼でも薄暗かった。


不動産屋と内見に行ったときから「暗い部屋だな」と思ったが、家賃が安かったのでぼくはその部屋を選んだ。

暗ければ電灯をつければいい。

どうせ布団を干さないから陽当たりなんかどうでもいい。

その前に住んでいた部屋が最上階で陽当たり良好の部屋だったためにめちゃくちゃ暑かったので「むしろ陽が当たらないほうが涼しくていい」ぐらいに思っていた。



住んでみると、はたしてその部屋は陽当たりが悪かった。

一日中陽があたることがなかった。

しかし夏場は快適だった。

窓は2か所についていたので両方とも開けはなつと風が通りぬけ、涼しくて気持ちがよかった。


だがたいへんなのは冬場だった。

その部屋に住んではじめて知ったのだが、陽当たりの悪い部屋というのは外と中の温度差が大きいから結露がすごい。

朝起きると、窓にびっしりと露がついていた。窓につくだけでなく、床にまで落ちていた。

窓際に置いていた本が濡れてびちゃびちゃになっていた。

窓を雑巾で拭くと、バケツ半分ぐらいの水がとれた。たかだか10畳ぐらいの部屋で、どこにこれだけの水があったのかと驚いた。

それが毎日である。

風を通せば多少は改善するのかもしれないが、冬場に窓を開けはなして風を通すなんて寒いからしたくない。

ずっと部屋を閉めきって、朝になると窓を拭いて水を捨てて、湿っぽい部屋で過ごした。

洗濯物は部屋干しをしていたが、どれだけ干しても乾かなかった。

実家に帰ったときに母から「あんたの服、くさいで」と言われた。

湿っぽい部屋にいると気持ちも滅入ってくるし、体にもよくないのだろう、その年はよく風邪をひいた。関係あるのかわからないけど、肺に穴があく肺気胸という病気で入院もした。

失ってその大切さがはじめてわかるものはよくあるが、陽当たりもそのひとつだと痛感した。

ほんと陽当たりの悪い部屋に住んでると心の水蒸気まで凝固しちゃうよ。なんだよ心の水蒸気って。



2017年10月23日月曜日

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

『熱帯夜』

曽根 圭介

内容(e-honより)
猛署日が続く8月の夜、ボクたちは凶悪なヤクザ2人に監禁されている。友人の藤堂は、妻の美鈴とボクを人質にして金策に走った。2時間後のタイムリミットまでに藤堂は戻ってくるのか?ボクは愛する美鈴を守れるのか!?スリリングな展開、そして全読者の予想を覆す衝撃のラスト。新鋭の才気がほとばしる、ミステリとホラーが融合した奇跡の傑作。日本推理作家協会賞短編部門を受賞した表題作を含む3篇を収録。

『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の3篇を収録。

それぞれテイストの異なる不気味さがあって、いろんな「嫌な感じ」を味わえた。



『熱帯夜』


ヤクザ、借金、ひき逃げ、シリアルキラーととにかくいろんな要素が盛りだくさん。

ばらばらな要素がラストで一直線につながるのは気持ちいいんだけど、短篇でこれをやるとご都合主義っぽさが鼻についてしまうな。

「うまい」が35%、「できすぎてる」が65%。

ちょっとうますぎるね。

とはいえ小説にリアリティはなくてもいいとぼくは思っているので、「偶然が重なりすぎだろ」と言いたくなる気持ちを捨てて読めば物語の展開の軽妙さが存分に味わえて楽しい短篇だった。

残酷な事件が描かれてるのに楽しいってのも妙だけど、乾いた文章のおかげでぜんぜん陰惨な感じがしないんだよね。

曽根圭介の文章って小説としてみると決してうまくないんだけど、それはわかりづらいということではなく、むしろ逆で余計な装飾を省いているからすごくわかりやすい。

文章のうまさって、内容とあってるかどうかだよね。ミステリには過度な美辞麗句は必要ないから、これぐらいがちょうどいい。ストーリーの進行を妨げないからね。




『あげくの果て』


これは長編にしてもよかったんじゃないかな。

若者と高齢者の対立が激化した世の中を描いたディストピア小説。

「四十年か、一九六五年ってことだな。じゃあ若いころにバブルがあったろ、さぞ楽しかっただろうな。てめぇの親父は高度成長期の世代か、あ?」
 老人はアスファルトに顔を擦られて、悲鳴を上げた。
「虎之助、聞いたか。こいつらだ。こいつらが国をだめにしたんだ。昔はこの国も経済大国だったんだぞ。世界中からうらやましがられた時代があったんだ。信じられるか? それを、このジジイどもが、この世代が全部食い潰しやがったんだ」
 多田は足元に転がっていた金属バットを手に取り、振り上げた。


なにが絶望的かって、もうすぐ日本で実現してしまいそうなところだよね。

若い人も子育て世帯も老人もみんな幸せになってない。どうしたらいいんだろうね。どうにもならないんだろうね。

戦争に行くのが戦闘スーツを着た高齢者ってのはいいアイデアだね。

子孫を残せなくなった人が若い世代のために戦いにいくほうが生物学的には理にかなってるし、歳をとると戦争に行かないといけなくなるとみんな必死に戦争を避けようとするしね。




『最後の言い訳』


死者がよみがえって生者を食べたり食べなかったりする世界を舞台にした、ゾンビもののホラーコメディ。

グロテスクな描写が多いんだけど、ペーソスとユーモアにあふれた意外にも叙情的な作品だった。

 父を食べた男、父を食べるための列に並んだ女を、商店街で、公園で、僕は何度か目にした。皆、まさに「なに食わぬ顔」で、家族を連れ、恋人を伴い歩いていた。


こういうブラックユーモアが散りばめられていて、いかにも曽根圭介らしい。

オチもブラックで、藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』ってSF短篇を思いだした。

この人の小説ってとことんドライだよね。残酷なのに洒脱。陰惨なのに軽妙。ふしぎな味わいだ。


冷笑的な視点が光るから、ショートショートを書いてもおもしろいだろうなあ。


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 曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

 曽根 圭介『鼻』



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2017年10月21日土曜日

大学に通うことと単3電池を買うことの違い


小田嶋 隆 『超・反知性主義入門』にこんな記述があった。

 いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。
 なんと、素敵な話ではないか。
 目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。
 大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。

最後の結論はべつにして、ぼくも「大学は実用的なものを学ぶ場じゃない」と思っている。


本屋で働いていたときに、外国語大学に通う学生バイトがいた。

「なんで外大選んだの?」と訊くと、

「オープンキャンパスに行ったんですよ。
 ××大学(総合大学)の文学部は、英語の理論とか文法とかが中心的だったんです。でも外大の授業は外国人の先生との会話が中心で、これなら実践的な英会話が身につくな、と思って外大を選びました」
と彼女は語っていた。

「だったら大学じゃなくて英会話スクール行けよ!」とぼくは心の中で思った(いい大人なので口には出さなかった)。



英会話を身につけたいなら英会話スクールのほうが早いし安い。

大学は実用的な道具を買うところじゃない。電器屋さんに単3電池2本を買いにいくのとはちがう。

単3電池を買うことで得られる効用は事前に予見できる。単3電池は誰に対しても同じはたらきをする。


しかし、映画館でまだ観たことのない映画を観るとか、大学で何かを学ぶということは、効用が事前に予見できない類のものだ。

ハラハラドキドキする2時間かもしれないし、退屈なだけの4年間かもしれない。

ある人にとってつまらない映画が、べつの人にとっては人生最良の1本になるかもしれない。



「いくらの資本を投下すればどれぐらいのリターンが得られるか」というマインドで行動していても、投下したものの100倍のリターンを得ることはできないだろう。

「これをやることで何にどう役に立つかわかりません。というか役に立つ可能性は低いです」
というプロジェクトは、ビジネスマンには受け入れられない。マネーの虎たちはお金を出してくれない(古いね)。

でもそういったプロジェクトが100倍の利益を生んでくれることがある。

教育とか芸術とか医療とか福祉とかインフラとかの分野は、ビジネスマインドとの相性が良くない。

ビジネス向きではないからこそ国が率先してお金を投じないといけないのに、今や国の中枢にまでビジネスマインドは入りこんでしまっている。

いくら投資したらどれぐらいのリターンがあるか、とそろばんをはじいている人ばかりだ。

たとえばオリンピックでも「限られた予算内でより多くのメダルを獲得する」という目標を立ててしまったがゆえに、柔道とか水泳とか体操とかの「比較的ローコストで多くのメダルを稼げる」競技ばかり日本は強くなった。

大学もまちがいなくそうなっていくはずだ。

「TOEICで高得点を取れる大学」とか「司法試験の合格率が高い大学」ばかりになっていって、できるかぎり低予算でTOEICの点数を買う「買い物上手な大学」ばかりになるのだろう。



こういう話は教育の世界にいる人はうんざりするぐらいしつこく言っているはずなのだが、それでも「コスパ」ばかり求めている人たちの耳には届かない。

今後日本の大学教育はどんどん没落していくばかりだ。

ぼくとしては、自分がビジネスとは無縁だった時代の最後に大学に通えたことを、ただ感謝するばかりだ(ぼくが大学4年生のとき、通っていた大学が国立大学法人になった)。

ぼくは「大学の4年間で何を学んだか?」と問われたら「いや、なんでしょうね……。なんかあるかな……」としか答えられないし、だからこそ大学に通って良かったと思う。

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2017年10月20日金曜日

死者がよみがえる系ミステリの金字塔/山口 雅也『生ける屍の死』【読書感想文】

『生ける屍の死』

山口 雅也

内容(e-honより)
ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った。この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか。自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。

本格ミステリ、なのかな……?

殺人事件があり、きちんと伏線があって、ヒントが提示されていて、矛盾のない謎解きがある。

このへんは本格派なんだけど、「死者が続々と生き返る」「主人公も殺されるがよみがえって犯人を追う」という非常識な設定が設けられている。

めちゃくちゃ異色なのに本格派、というなんとも扱いに困るミステリ作品。
自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。
内容紹介文にあるこの文章、パンクでかっこいいなあ……。



しかしこの本、テンポもいいしユーモアもあるのに、とにかく読むのがしんどかった。
小説を読んで疲れたのはひさしぶりだ。

疲れた理由としては、
  • 文庫本で650ページという分量。
  • 文章が翻訳調
  • 舞台がアメリカの葬儀会社と、なじみのない場所
  • 登場人物が多い。20人くらい出てくる。
  • 登場人物の名前がおぼえづらい。兄弟の名前がジョン、ジェイムズ、ジェイソン、ジェシカって、いやがらせとしか思えない……。
そしてもちろん、死者が次々によみがえること。

ふつう、推理小説って後半になるにつれて登場人物が減っていき(死ぬから)、容疑者が絞られていくんだけど、『生ける屍の死』では登場人物が減らないし(死んでもよみがえるから)、容疑者も絞られない。

これ、相当上級者向けだわ……。




しかし読むのがつらかった分、ラストの謎解きで得られるカタルシスは大きかった。

動機も「人がよみがえる世の中だから」という理由だし、犯行も「人がよみがえる世の中」ならではのやりかただし、謎解きも「よみがえった死者だからわかった」という手順を踏んでいる。

「――ちょっと待ってくれ。その前に、ジョンの心理をもう少し探ってみたいんだ。今度の事件が普通の殺人事件と違うのは、もとより死人が甦るということにつきる。これがあったから捜査は大混乱した。普通の事件では犯人の心理を読めば事件解決の道筋がつくんだろうが、この事件では、被害者を始めとする甦った死者たちの心の動きを掴まなければ真相は見えてこないんだ。俺は、ハース博士の示唆に従って、死者の心理を推察してみた。――同じ死者の立場でね。そうして考えてみると、ひとつおかしい点があることに気がついた。――それは遺言状の件だった」

設定は奇抜だが、その設定を十二分に活用している。

アメリカの葬儀会社を舞台にしている必然性もあるしね。これが日本を舞台にしていたらやっぱり違和感があっただろう。

「死者がよみがえる系のミステリ小説」としては、これを超えるものはそう出てこないだろうね。まずないだろうけど。




最後まで謎のまま残されるのが、物語の冒頭で語られる殺人事件の真相。

刑事の謎解きがすごい。

「いいか、お前の小賢しい奸計を俺が説明してやろうか? あの窓際の水槽のなかにつけられた砂時計、あれとケチャップを塗りたくられたピエロの人形のふたつがあったおかげで、お前のアリバイが成立した。しかしな、俺は暖炉の隅に捨てられていた萎れたサボテンの存在を見逃さなかった。あれこそ、お前のアリバイを破り、お前が殺人を犯したことを物語る重要な証拠……」

どんな事件だよ。

気になってしかたないぜ……(もちろんこれは推理小説に対するパロディなんだけど)。



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2017年10月19日木曜日

距離のとりかた

 我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。

 春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
 ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。

 名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。

 何中学出身か。

 部活は何をやっているのか。

 誰と仲が良いのか。

 わかったことからどんどん書いてゆく。
 クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。


 そして。

 ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
 クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
 田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。

 おお。
 おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
 どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
 精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。

 あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
 自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
 おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
 親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。

 そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。


 まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
 よくあることさっ。

と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。

 誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。

2017年10月18日水曜日

思想の異なる人に優しく語りかける文章 / 小田嶋 隆『超・反知性主義入門』【読書感想】


超・反知性主義入門

小田嶋 隆

内容(e-honより)
他人の足を引っ張って、何事かを為した気になる人々が、世の中を席巻しつつある…。安倍政権の政策から教育改革、甲子園、ニッポン万歳コンテンツにリニアまで、最近のニュースやネットの流行を題材に、日本流の「反知性主義」をあぶり出してきた「日経ビジネスオンライン」好評連載中のコラムが、大幅な加筆編集を加えて本になりました。さらに『反知性主義 アメリカを動かす熱病の正体』の著者、森本あんり・国際基督教大学副学長との、「日本の『宗教』と『反知性主義』」をテーマにした2万字対談も新たに収録。リンチまがいの炎上騒動、他人の行動を「自己責任」と切り捨てる態度、「本当のことなんだから仕方ない」という開き直り。どれにも腹が立つけれど、どう怒ればいいのか分からない。日本に漂う変な空気に辟易としている方に、こうした人々の行動原理が、最近のニュースの実例付きで、すぱっと分かります。エッセイ集として、日本の「反知性主義」の超・入門本として、お楽しみ下さい。

いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。

ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。

既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。

ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。

まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。


小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。

ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。

とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。

そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。

「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。

これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。



謝罪会見について。

 「反省しているか?」「反省しています」 と、トントンと話が進めば、謝罪はそんなに難しい作業ではない。なのに、理詰めで来るから、話が複雑になってしまう。というのも、謝罪は、そもそも理詰めの情報交換ではないからだ。謝罪は、むしろ、情報のやりとりを一時的に棚上げにする手続きだ。理屈を外れた、どちらかといえば、「話をズラして曖昧にする」ことを目的としたコミュニケーションだ。とすれば、理屈っぽい質問は、謝罪の前提を台なしにするだけではないか。

ふうむ。

云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。

きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。

逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。


ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。

すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。

こちらも誠心誠意謝ることができる。

たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。

店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。

そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。

これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。



政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。

 選挙カーの中で候補者の名前を連呼しているウグイス嬢に悪気が無いことはわかっているし、助手席から白い手袋をした手を振っている候補者が仕方なくそうしていることも知っている。でも、それにしても、ほかにやり方はないのか、と、私は毎回、選挙がはじまる度に、どうしてもそう思ってしまうのだ。
 ビールケースに立つ候補者の姿も、間抜けなタスキも、走って逃げ出したくなるような土下座芝居も、そういうことがあってこその選挙だと思い込んでいる人々のために展開されている一種の小芝居にすぎないものではあるのだろう。でも、それらが若者を政治から遠ざけていることに、そろそろ思い当たる人があらわれても良い頃合いではないか。

いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。

スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。

雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。

うん、クソダサい。

ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。

「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。

「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。

たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。

「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。

そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。

あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。

だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。

まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。

選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。



小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。

難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。

だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。


世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。

世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。

必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。

オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。



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2017年10月17日火曜日

正義は話をややこしくする


大学1年生のとき、サークルの同級生たちとしゃぶしゃぶを食べた。

ある程度食事も進んだとき、友人Hが言った。

「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」

その言葉はKという男に向けられたものだった。

Kが野菜をほとんど食べずに肉ばかり食べていたのを腹に据えかねて、Hが注意したのだ。

Kはべつに自己中心的な人間なわけではなく、ちょっと周囲の反応に無頓着なだけで、だから「肉を食べたい」という欲望そのままに肉ばかり食べていたのだ。

Kは温厚な人間だったので、少しひるんだ様子は見せたものの「ごめん、気を付けるわ」と言って特にいさかいにはいたらなかった。




さて。

ぼくは、Hの発した「てめえ肉ばっか食ってんじゃねえよ、おれの食う分がなくなるだろうが。ぶっころすぞ!」という言葉にしびれていた。

「肉ばっかり食いやがって」という気持ちは、よくわかる。

Hが怒鳴る前からぼくもうっすらと「Kのやつ、肉ばっかり食ってるな」と思っていた。

だがぼくはそれを口には出さなかった。

それはぼくが「ええかっこしい」だったからだ。

「おれの食う分が少なくなるから肉ばっかり食うなよ」と口にするのはあさましいと思い、なんでもないようにふるまっていただけだ。

内心では、Hと同じように「肉ばっかり食うなよ」と思っていたにもかかわらず、細かい人間に思われたくないというプライドがじゃまをして、注意することができなかっただけだ。

あまりにも度を越したら注意したかもしれないが、だとしても「みんなの食う分がなくなるから控えてくれ」と言ったと思う。

「おれの食う分がなくなるだろうが」という物言いはぼくにはできなかっただろう。


だがHはきちんと自分の主張を明確にしたうえで、Kに対して要求をつきつけた。

そしてKは素直にその要求に従い、問題は解決した。




Kのように私益のために直截的な怒りをぶつけられるのは、ある種とても誠実な態度といってもいいのではないだろうか。


人は、公益のためなら相当強気になれる。

「地球環境を汚す二酸化炭素を大量に排出する企業はつぶれろ!」とか「こどもたちの健康を害する喫煙者は出ていけ!」とか、大義名分があれば過激な主張もできてしまう。

だが「おれの嫌いなデザインの服をつくっている企業はつぶれろ!」とか「あたしの飯がまずくなるから喫煙者は出ていけ!」なんてことを、顔や名前を出していう人はほとんどいない。

私利私欲のために強い主張をするのは気が引けるのだ。

それは、立場が強いものが弱いものに言うときでも同じである。

企業の経営者は「会社を大きくするためにみんなもっとがんばろう」とか「必死に働くことが自分のためになるのだ。若いときは休みを削ってでも働いたほうがいい」なんて偉そうなことを言うが、「おれの役員報酬を増やすためにみんなもっとがんばろう」とは言わない。

たぶん本心は後者だと思うのだが、どんな強欲な経営者でもそれを口に出すのは気恥ずかしいのだろう。

おそらく自分自身にも嘘をついて「社会のため」「会社の未来のため」といった、より公共性の高いものを持ちだしてくる。





こうした公共的な道徳を持ちだしてくる態度は、話をややこしくする。

たとえば騒音問題。

「おれがうるさく感じるからやめてくれ」と主張すれば、解決に持っていくことはさほど難しくないのではないだろうか。

「あなたは何デシベルまで許容できますか」と訊いて、だったら夜間は〇デシベル以下に抑えましょう、といった具体的な方策を立てることができる。

だが「みんな迷惑してるんですよ」とか「赤ちゃんが安心して眠れないじゃないですか」なんて公共的な道徳を持ちだしてくると、そうかんたんにはいかなくなる。

「みんなが許容できるデシベル数」は誰にもわからない。「うちはいいけど赤ちゃんのいるお隣はどうでしょう……」なんて言いだしたら、騒音をゼロにしないかぎりは「みんな」が騒音に悩まされる可能性はなくならない。

「世界中の貧しい人たち」だとか「未来を担うこどもたち」だとか「この地球に生きる動物たち」だとか、会ったこともないものを持ちだして主張をはじめると、その問題は永遠に解決されることがない。

だって彼らは実在してないんだもの。実在してないものが納得して許容する日は永遠に来ない。





だからぼくは、私的に怒る人でありたいと思う。

自分の怒りを、自分の要求を、自分のものとして伝える人でありたい。

誰かの怒りを代弁するして正義を主張するのは話をややこしくするだけだ。

「みんなが迷惑するから」ではなく「おれの食う分がなくなるから」肉の食いすぎを注意する人でありたいと思う。



2017年10月16日月曜日

テクニックではカバーできない衰え/阿刀田 高『脳みその研究』【読書感想】


『脳みその研究』

阿刀田 高

内容(e-honより)
昔から大ざっぱな性格の定雄は、人の名前を覚えるのが苦手だった。ところが定年を前に、急に記憶力がよくなり、却って不安を抱いてしまう。かわりに何か大事な能力を失っているのではないだろうか…。意表をつく表題作をはじめ、シチリアの夜を描く「海の中道」、母への憧れが生み出す「狐恋い」など珠玉の9篇。


「短篇の名手」を誰かひとり挙げるとするなら、ぼくなら阿刀田高を挙げる(星新一はショートショートの神様なので別格)。

奇抜なアイデア、スリリングな展開、無駄のない構成、スマートなオチ。どれをとっても一級品だ。

中高生のときは古本屋で阿刀田高の短篇集を買いあさり、50作以上あった短篇集のほぼすべてを所有していた。今でも実家にある。

阿刀田高の小説とはなんとなしにしばらく遠ざかっていたのだが10年ぶりぐらいに読んでみた。


あれ。つまんない。

いや、うまい。すごくうまいのだ。
無駄のない構成も、ほどよく散りばめられた教養知識も、テンポのよい文章も健在。
リズムよく読める。
さすがは短篇の名手。

でも、オチまで読んでがっかり。

ぜんぜん切れ味がない。読者の予想を裏切ってくれない。中にはだじゃれのオチもあって、そこまでの話運びがうまいだけに期待を裏切られたがっかり感も大きい。

短篇集だから一作ぐらいはあたりもあるだろうと思って最後まで読んだが、どれも期待外れだった。

最近の作品のレビューを読んでみると、どうやらこの作品にかぎらず衰えが目立つらしい。旧年からのファンたちの嘆きの声ばかりが並んでいる。



小説家にかぎらず、クリエイティブな仕事ってだいたい歳をとるごとに斬新な着想は衰えていく。

そのかわり経験を重ねてテクニックは上がっていくから、技巧を凝らすことで作品の完成度は高くなったりする。

阿刀田高にもそういう時期があって、たいしたことのないアイデアでも阿刀田高が巧みに味付けすることで一級品の仕上がりになっていて、これを他の作家が書いたらきっと凡作だったはずだ、さすがは短篇の名手だとうならされたものだ。

しかし名手のテクニックではカバーできないぐらいアイデアの枯渇が進行してしまったのだろう。

なんちゅうか、引退間近のスポーツ選手を見るような寂しさを感じるな……。



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2017年10月15日日曜日

なんとなくずるやすみ


朝、4歳の娘が「しんどい……。ごはん食べたくない……」と言う。

ゼリーなら食べられそう? と訊くとこくんとうなずく。
保育園おやすみする? と訊くとこくんとうなずく。

しかし熱を測ると36.2度。
咳も出ていないし昨夜は元気に跳びはねていた。

これはもしかして……と思いながらも保育園に休みますと連絡を入れて、ぼくも会社を休むことにした。
しばらくはおとなしくえほんを読んでいたが、やがて暇をもてあましたらしく「どっか行こうよー」などと云う。
「お昼何食べたい?」と訊くと、「串カツ!」と云う。

おいおまえ、それもっとも病人食と遠いやつじゃないか。
ゼリーしか食べられなかったやつが食べたいっていう食べ物じゃないだろう。

串カツを食べに外に出ると、さっそく元気よく走りはじめた。
「しんどいんじゃなかったの?」と訊くと「しんどい……」と弱々しく応じるが、1分たつとすぐに設定を忘れてまた走りはじめる。

まちがいない。これは詐病というやつだ。
もっと平易な言葉で言うならば仮病。

そういや1年前にも同じようなことがあった。
まあいいか。1年に1回ぐらい、保育園をずるやすみしたくなる日もあるだろう。
うまく表現できないけど、4歳児なりにいろいろ抱えていらっしゃるんでしょう。
保育園に行きたくない理由が具体的にあるわけじゃないけど、ただなんとなく行きたくないこともあるんでしょう。

あえて指摘せず「病気でしんどい娘」という設定に乗っかってあげることにした。

おかげでぼくも仕事を休めた。
こんなことでもないと「体調不良でもないのに休む。何の用事もないのに休む」ってできないしね。いい機会だ。
ぼくも娘のずるやすみにつきあい、本を読んだり昼寝をしたりしてごろごろと過ごした。

翌日、娘は何事もなかったかのようにいつも通りに起きて元気よく保育園に行った。
子どもも大人も、たまには「何の理由もないけどなんとなく休む日」があってもいいと思う。

2017年10月14日土曜日

うまい炭水化物を食わせる店


ご飯が大好き なので、うまいご飯を食わせる店があったらいいのにと思う。

最高級の新米を、ちょうどいい火加減で炊いたご飯。

できたら釜で。直火で。高級炊飯器で炊いたほうがおいしいのかもしれないけど、気持ち的にはやっぱり釜のほうがうまそうだ。

つやつやでふっくらとした炊きたてのご飯。メニューはそれだけ。

ご飯だけの店。ザ・めしや。
いや、ザ・めしやはすでにあるか。



さすがに ご飯好きでも、ご飯だけではそんなに食べられないからご飯のお供もほしい。

海苔、納豆、岩海苔、ちりめんじゃこ、鮭フレーク、食べるラー油、生卵、塩、肉そぼろ、バター醤油(ご飯とめちゃくちゃあうからね)なんかを置いといてほしい。全部市販のやつでいい。

ご飯のお供は食べ放題。

ご飯は一杯五百円。おかわりは二百五十円。

ご飯もお供も原価は安いし、調理の手間はほとんどない。ご飯を炊くだけ。

あとは客がつくかどうかだけだけど、職場の近くにあったらぼくなら週三で通う。

ご飯一杯五百円は高いが、外食で一食五百円と思えば安い。

なんといっても毎日のように食べても飽きないのがご飯のいいところだ。


どうなんでしょう、うまい炭水化物を食わせる店。

商売的にはかなりうまみがあるんじゃないかと思う(ご飯だけに)。


2017年10月13日金曜日

kawaii清純派


海外では「kawaii」がエロい言葉として使われている、という話を聞いた。

インターネットのおかげで海外の人もかんたんに日本のポルノにアクセスできるようになり、ポルノで「かわいい」という言葉がよく用いられているのを見て「これはエロい意味にちがいない」と思われているらしい。

なるほど。おもしろい。


逆の例でいうなら、ソープとかデリバリーとかヘルスとかも、本来エロい意味のない言葉なのに、日本においては風俗業界隈で用いられることが多いために淫猥な響きを持つようになってしまった。
そういえば「風俗」だって本来はまったくエロい言葉じゃなかったよね。


ということは、今やアダルト産業でしかまずお目にかかれない「清純」なんて言葉も、海外の人にとっては正反対の意味を持つようになるかもしれないね(もしかしたらもうなっているかも)。

2017年10月12日木曜日

3人のおかあさんと男女の違い


娘(4)の日記。

読んでいただければわかるように(読めねー!)、おままごとが最近の流行りらしい。

4歳になって「今日、保育園で何をしたか」を説明できるようになったんだけど、「おままごとをした」と「おにんぎょうであそんだ」が多い。


おままごとは誰が何の役をやったの? と訊くと、
「M(自分)はバブーちゃん(赤ちゃん)、Rちゃんがおねえちゃんで、NちゃんとSちゃんとKちゃんがおかあさん」
とのことだった。

複雑な事情のありそうな家庭環境だ。

女の子ばかりなので、みんなおかあさんをやりたがって、おとうさんをやる子がいないらしい。

「男の子はおままごとしないの?」と訊くと、「Kくんだけはやってくれるけどほかの子はプラレールとか車とかであそぶ」のだそうだ。


保育園では特に男女の区別もなく育てていると思うのだが、自然と男女グループに分かれていくのはおもしろい。


そういえば、ぼくはレゴが好きなので娘ともよくレゴであそぶ。

ブロックで家や車をつくるのだが、興味深いのはその後で、娘はつくった家や車でおままごとをはじめる。

レゴの人形を持ってきて「こんにちはー。あそびにきましたよー」などと言いはじめる。

ぼくはレゴを組み立てたりばらしたりするほうが楽しいのだが、娘は組み立て作業よりもおままごとに興じている時間のほうが長いぐらいだ。

ぼくがこどものころは、友人と「レゴでつくった車をぶつけあって先に壊れたほうが負け」「レゴの人形の首をならべて首タワーをつくる」とかやっていたので、ずいぶんと遊びかたがちがうものだ。

レゴ人の首

3歳までは男も女も同じように走りまわるだけだったのだが、4歳くらいから別々の道を進みはじめるんだねえ。


2017年10月11日水曜日

星新一のルーツ的ショートショート集/フレドリック ブラウン『さあ、気ちがいになりなさい』


『さあ、気ちがいになりなさい』

フレドリック・ブラウン (著), 星 新一 (訳)

内容(e-honより)
記憶喪失のふりをしていた男の意外な正体と驚異の顛末が衝撃的な表題作、遠い惑星に不時着した宇宙飛行士の真の望みを描く「みどりの星へ」、手品ショーで出会った少年と悪魔の身に起こる奇跡が世界を救う「おそるべき坊や」、ある事件を境に激変した世界の風景が静かな余韻を残す「電獣ヴァヴェリ」など、意外性と洒脱なオチを追求した奇想短篇の名手による傑作12篇を、ショートショートの神様・星新一の軽妙な訳で贈る。

ショートショートの神様・星新一が「大きな影響を受けた作家」と語るフレドリック・ブラウンのベスト短篇集。訳は星新一。

収録されている12作はいずれも1940年代。
アメリカは戦争中にSF小説を楽しんでいるんだから、そりゃあ戦争に負けるわなあ。余裕が違いすぎる。


どの作品も、ぜんぜんテイストが異なり、それぞれに奇想天外な設定が与えられている。

悪魔の復活をいたずら坊やが防ぐ『おそるべき坊や』

あらゆる電気や電波を奪う宇宙人が現れる『電獣ヴァヴェリ』

自身の無意識にはたらきかける新発明をめぐる顛末『ユーディの原理』

18万年生きている人物が語る、いくつもの人類の歴史『不死鳥への手紙』

どれも奇抜な設定だが、スムーズな話運びと期待を裏切らないスマートなオチで楽しませてくれる。



星新一ファンとして、特に印象に残ったのが以下の2篇。

『みどりの星へ』
緑のない星に不時着した男が、緑の地球に戻れる日だけを夢見ながら生きる。ついに男のもとに救助がやってくるが――。
という、なんとも星新一っぽいストーリー(というか星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。
切れ味のいいオチではないが、静かに狂気を感じさせる後味。
世界初の有人宇宙飛行より10年以上前にこういう小説が書かれてたのかと思うと、人間の想像力ってたいしたものだなと思うね。


『ノック』

 わずか二つの文で書かれた、とてもスマートな怪談がある。
「地球上で最後に残った男が、ただひとりの部屋のなかにすわっていた。すると、ドアにノックの音が……」

ではじまる作品。

星新一ファンなら誰しも『ノックの音が』を連想するね。15篇すべて「ノックの音がした」で始まる意欲的なショートショート集だ(『人形』はめちゃくちゃ怖かったなあ)。
なるほど、『ノックの音が』はこの作品にインスピレーションを受けて書かれたのか……。

『ノック』は、この短い怪談にユニークな背景を与えて思わぬ解釈を与える、というもの。
宇宙人が出てくるし、展開はコミカルだし、初期の星新一作品のような味わいだった(何度も書くけど星新一がこっちに影響を受けてるんだけど)。


SFあり、サスペンスあり、コメディあり、ブラック・ユーモアありとバラエティに富んだ作品集で、まるではるか遠くの恒星のように70年たった今でも輝く作品だねえ。



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2017年10月10日火曜日

四歳児だから流せる悔し涙


娘と 図書館に行ったら、保育園のおともだちのSちゃんと出会った。

いっしょにえほんを読むことになり、たどたどしく文字を読む子どもたち。

その様子を見ていたSちゃんのおかあさんが言った。

「わー、○○ちゃん(うちの娘)、もうカタカナ読めるんですかー。うちの子はまだひらがなも半分くらいしか読めないのに。すごいねー!」

読み書きぐらいはちゃんとできるようになってほしいと思ってぼくが毎日教えたので、うちの娘は文字を読むのは上手になった。
たぶん同い年の子の中では、かなりすらすら読めるほうだと思う。親ばかだけど。


その後もえほんを読んでいたのだが、Sちゃんの様子がおかしいことに気がついた。

さっきまではにこにこしながらえほんを見ていたのに、急にだまりこみ、ふくれっつらをしている。

明らかに不機嫌だ。

きっと、自分のおかあさんがよその子を褒めた(しかも自分ができないことを引き合いにだされて)ことに傷ついてしまったのだろう。

だがうちの娘はそんな様子を気にすることもなく、それどころかさっき褒められて調子づいたらしく、ますます元気よくカタカナを読みあげている。

さすが4歳児、まったく空気を読んでくれない。

ついにSちゃんは気持ちがいっぱいになってしまったらしく、目にじわりと涙を浮かべてしまった。




なにも 娘の自慢をしたくてこんなことを書いたわけではない(自慢したい気持ちもあるがそれはまたの機会に)。

自分が読めないカタカナを同い年の子が読めたこと。
それを自分のおかあさんが褒めたこと。
その悔しさをどう表現していいかわからないこと。
いろんな感情が混然一体となり涙となってあふれだしたSちゃんをなぐさめながら、なんて美しい涙なんだろうとぼくは感激したのだ。


4歳のときにカタカナが読めるかどうかなんて、大人からしたらどうでもいいことだ。

どうせあとちょっとしたらみんな読めるようになっているのだから。

周囲の目を惹く美貌を持って生まれたとか、4歳にして3ヶ国語を自在にあやつるとかならともかく、カタカナを読めるようになるのが半年かそこらちがったってこの先の人生には何の影響もない。 

それでもSちゃんはこらえきれずに涙を流すぐらい悔しさを感じた。

たぶん「おかあさんが褒めた」ことが小さな彼女のプライドをもっとも傷つけたのだと思う。

おかあさんは「そうはいっても自分の子がいちばん」と思ってるからこそよその子を褒めたのだが、幼い彼女にはそこが理解できなかったのかもしれない。


こんなにもひたむきな気持ちを持つことは、大人になったぼくにはもうできない。

劣等感や悔しさや嫉妬心を抱くことはあるが、自分の中でそれなりの理屈をつけてやりすごしてしまう。
「○○だからしょうがないよね」「でもぼくは□□があるし」「そもそもそこで勝負しようとは思わないし」
己を傷つけずに済む理屈は、三十数年も生きていればなんとでも見つけられる。

悔しさに対して涙がでるほどまっすぐ向きあうことがぼくにはできない。

4歳児が流した悔し涙は、逃げ方だけがうまくなったおじさんの心には深く刺さった。



数日後、Sちゃんのおかあさんと出会った。

「うちの子、あの日帰ってすぐにひらがなの勉強はじめたんですよ。以前買ったドリルにずっと手をつけてなかったのに。今日も朝からドリルやってました」

との報告を受けた。

ああ、いいなあ、とぼくは思った。

悔しさを克服するためにすぐ行動に移す。

すごくシンプルなことなんだけど、それって今しかできないことかもしれない。


2017年10月8日日曜日

文庫の巻末のお楽しみ


 文庫の巻末のお楽しみ


世に文庫好きは多いと思うが、あまり語られないのが巻末の宣伝ページだ。

本編があって、あとがきや解説があって、その後にあるやつ。

同じ出版社から刊行されているさまざまな文庫本を、3行ぐらいの解説とともに紹介しているページ。

ぼくはあれが大好きだ。正確にはなんていうのか知らないけど、とりあえず「巻末のお楽しみ」と呼ぶことにする。

昭和58年の今月の新刊




 巻末のお楽しみの効用


電車の中で思っていたより早く本を読み終えてしまうことがある。
今日読みおわるとおもっていなかったから、次に読む本を持ってきていない。

読む本がない。どうしよう。うわあああ(常に本が手放せない人間にとってはこれぐらいの緊急事態だ)。

こんなとき、巻末のお楽しみがあると助かる。
あの3行解説をじっくり読んで、紹介されている1冊ずつに対して「この本はどういう内容なのだろうか?」と沈思黙考すれば、けっこう時間がもつ。


広告としてもよくできている。

同じ著者の作品、同ジャンルの別の作家の作品、中には出版された時期が近いだけのまったくカテゴリ違いの本も紹介されたりしていて、それぞれおもしろい。
何十年も前の "今月の新刊" を見ると妙に感慨深いものがある。
鳴かず飛ばずだった本なのに「文壇を揺るがす問題作!」みたいな鳴り物入りで発表されていたのか、とか。
Amazonが「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とやるよりずっと前から、文庫業界では巻末のお楽しみという形でレコメンド広告(関連する商品をお薦めする広告)を出していたんだよね。


映画好きの中には、予告編を楽しみにしている人も多いだろう。
だが映画の予告編が残念なのは、本編の前にやっていることだ。あれによって観客は広告を観ることを強制されてしまう。もちろん広告主としては全員に観てもらったほうがいいんだろうが、それによって嫌われてしまっては元も子もない。
広告には「ご迷惑でなければ見てやってください」というたしなみがなくてはいけない。巻末のお楽しみには、ちゃんとつましさがある。




 文庫の終わりのシンフォニー


本編を読んで本の中身に引きこまれて、あとがきや解説を読んで「なるほど、そういう解釈もあるのか」と感じ入って、最後に巻末のお楽しみを読んでクールダウンする。

おもしろい本だと本の中に引きこまれすぎる。著者の意向か知らないけどたまにあとがきも解説もない文庫があって、そういう本だと読み終わった後に気持ちの整理がつかない。うまく現実世界に帰還できない。巻末のお楽しみがあればそういう事態を防げる。

海外から帰国したときって変な感じしない? 頭の中では日本に帰ってきたってわかってるんだけど、でも身体はまだ海外にいるようなふわふわした感じ。
でも、空港という日本でも海外でもないような場所をうろうろして土産物屋とか見ているうちにだんだん慣れてくる。少しずつ「ああ、日本に帰ってきたんだな」って日常を取り戻していく。身体の切り替えって時間がかかるんだよね。

巻末のお楽しみは、空港の土産物屋みたいなどこか異次元の時間を提供してくれる。



2017年10月7日土曜日

ノートとるなよ


学生時代、教師に言われて嫌だった言葉のひとつが「ノートとれよ」だった。

表立って反論したことはないけど、内心ではずっと反発していた。



ぼくは学生時代、ほとんどノートをとらなかった。

教師が「ノートとれ」と言う。そのとき黒板に書かれていることは、ほとんどが教科書や資料集に書いてあることだ。

だったら教科書を読めばいい。
教科書に載っていないことであれば教科書の余白にメモをとれば済むことだ。
わざわざノートにとる必要がない。


じっさい、授業中ずっと真剣にノートをとっているやつよりも、一切ノートをとっていなかったぼくのほうがずっと成績が良かったのだから、ノートの不要性が証明されたようなものではないか。

学生のとったノートのほうが、専門家がたくさん集まって作って検定を経ている教科書より理解しやすいなんてことがあるわけない。

ノートをとることは、「ちゃんと聞いてますよ」というアピールをして内申点を上げる以外には役に立たない。

だからぼくは「ノートはできないやつがとるものだ」と学生時代思っていた。そしてノートをとるできないやつはできないままだ、と。
大人になった今では、もっとそう思っている。



学校で「ノートをとれ」とでたらめな教育を受けたせいだろう、大人になっても手帳にメモをしている人がいる。

「10月31日の19時に〇〇で会食」ってな内容ならわかる。
それはメモにとっておいたほうがいい。

でも、たとえばぼくがExcel関数の使い方を教えたときに、その内容をメモにとるやつがいる。

あほちゃうか、と心の中で思う。相手によっては口に出して言う。

検索したら出てくるものをなんでメモるんだよ、と。

そんなものメモしてるひまあったら覚えろよ。覚えられないんだったら検索のしかたを覚えろよ。

メモをとれば記憶しなくてすむわけじゃない。
書いたことを役立たせるためには、「どのメモに書いてどこに保存したか」を覚えとかないといけない。
テストをするんだったらテスト前に全部のメモを見かえせばいいが、仕事ではそんなわけにはいかない。
「どのメモに書いたか」の記憶に少ない脳のメモリを使うぐらいだったら、メモの内容をおぼえたほうがずっと効率がいい。



すでに書いてあること、ちょっと調べればわかることをメモするのはまったくの無駄だ。

見返さないノートをとってる人は、すぐそのノートを破棄しなさい。

これすごく大事。

すごく大事なこと書いたから、ちゃんとノートとっとけよ。


2017年10月6日金曜日

新党ひかり


政治における「右」と「左」の表現って絶妙じゃないっすか?

右派と左派。右翼と左翼。

もともとはフランス議会で保守派が議長から見て右側にいたから言うようになったらしいんだけど、左右の表現には優劣がないのがいい。

もしも「上」と「下」だったら定着しなかっただろう。「下」にされたほうが「なんでおれたちが下なんだよ」って怒って。

「前」と「後」だったら前のほうがイメージいいし(「前進」「前向き」)、「表」と「裏」だったら裏のほうがイメージが悪い(「裏の顔」「裏切り」)。
昔は裏日本なんて言い方もあったけど廃れたしね。つくづくひどい表現だ。

「北」と「南」は、それ自体に優劣はないけど、「北上」「南下」みたいに上下と結びついてしまうのでふさわしくない。話はそれるけど南半球の国には「南上」「北下」みたいな言語があるのかな。

「西」と「東」も優劣はないけど、世界が東西陣営に分かれていた時代は特定のイメージが強すぎたから、国内政治に用いるとややこしかったにちがいない。



そう考えると、やはり「右」「左」は対立を表しつつも上下関係がなくてベストな表現って感じがする。

右と左ってどっちが上なのかよくわかんないもんね。

左大臣のほうが右大臣より官位は上らしいけど、「右に出るものはいない」という言葉を使うときは右のほうがいいとされている。どっちやねんと。それがいいんだろうね。



あとは「内」と「外」もアリかもしれない。

保守派が「内派」で革新派が「外派」。うん、けっこうしっくりくるね。



政治の世界が「光党」と「闇党」に分かれたらおもしろいだろうなあ。

それを機に、中二病的な政党が続々誕生。「火党」「水党」「土党」「風党」「電党」なんかが出現して。

光党内の火派寄り勢力が分裂して「炎党」をつくったり。

残った光党が電党と合併して「灯党」をつくったり。

政治部記者も見出しをつけるのが楽しくてしょうがないだろうね。「水党と土党の泥沼抗争」とか「風向き変わって火党鎮火」とかさ。



2017年10月5日木曜日

【作家について語るんだぜ】土屋賢二


土屋 賢二

Wikipediaによると、土屋賢二は
日本の哲学者、エッセイスト。お茶の水女子大学名誉教授。専攻はギリシア哲学、分析哲学。
とある。

なかなか日本人で「哲学者」って呼ばれる人はいないよね。ぼくがぱっと思いつくのは三木清と西田幾多郎ぐらい。

話はそれるけど西田幾多郎の『善の研究』は昭和初期にベストセラーになったんだとか。哲学書がいちばん売れてたってすごい時代だなあ。とはいえべつに今の人がバカになったわけじゃなくて、昔は一部の教養人しか本を読まなかったし、お堅い本しか出版されてなかったってことなんでしょう。


ぼくが「おもしろい」と思うエッセイを書く人って、
  • 東海林さだお(漫画家)
  • 穂村弘(歌人)
  • 鹿島茂(フランス文学者)
  • 内田樹(フランス文学者)
あたりで、小説家でおもしろいエッセイを書く人ってほとんどいない。
小説を書く能力とエッセイの才能ってちがうんだろうなあ。
学生時代は、遠藤周作とか北杜夫とか原田宗典とかのエッセイをよく読んでたけど。


土屋賢二も「本業は物書きじゃないのに、物書きよりおもしろい文章を書く人」のひとり。
はじめて土屋賢二のエッセイを読んだときは衝撃的だった。
なんて知的なユーモアに満ちた文章を書く人だろう、と。
わたしの職業はダンス教師で、タレントの女の子たちにダンスを教えている、と言うと、たいていの男性に羨ましがられる。しかし実態は、そんなに羨ましがられるようなものではない。第一に、銀行員と同じで、価値のあるものを扱っているからといってそれを手に入れたり、自由にすることができるわけではない。第二に、価値あるものを扱っているのかどうかかなり疑問がある。第三に、わたしの職業はダンス教師ではない。

基本的におもしろいエッセイって「めずらしい体験」「ひどい失敗談」「独自性のある考察」なんかがあって、それをユーモアで肉付けすることによって生みだされる。
ところが土屋賢二の文章は、上に引用したものを読めばわかるように、そういったものが何もない。というか中身がまったくない。上の文章は、長々と書いているわりに情報量はほぼゼロだ(「わたしの職業はダンス教師ではない」という情報しかない)。

天ぷらを食べてみたら衣しかなかった、でもその衣がめちゃくちゃおいしかった、みたいな文章。
拍子抜けするんだけど、でもなんだかやめられない魅力がある。



さっき「やめられない魅力がある」と書いたそばから矛盾するけど、ぼくは最近読んでない。

だって飽きちゃうんだもん。
どの文章もはずれがなくて楽しめるんだけど、基本的に内容の少ない話なので、どうしても似てきてしまう。単行本を一冊読むと、途中から胸やけがしてくる。どんなにおいしくても、やっぱり衣は衣。形のあるものが食べたくなる。


中島義道という人(これまた哲学者)が、とある本で「土屋賢二の文章は誰も傷つけないように配慮しているので大嫌いだ」ってなことを書いていた。
「誰も傷つけないから嫌い」って言われたらもうみんな嫌われるしかないじゃんって思うんだけど(中島義道はそういう世界を望んでいるみたいだけど)、まあ毒にも薬にもならぬという指摘はそのとおりだと思う。

土屋賢二は週刊文春に連載している。週刊文春を買ったことはないけど、銀行や病院の待合室なんかに週刊文春が置いてあったりするので、たまに手に取って土屋賢二のエッセイを読む。
期待にたがわずおもしろい。
ああおもしろかった、と思う。
自分の名前が呼ばれて、医者に診察してもらい、処方箋をもらい、薬局に行って薬を受け取る。そのころには、さっき読んだ土屋賢二のことは頭の片隅にもない。ふとしたときに思い出すようなこともない。

このありようこそ、週刊誌のエッセイとして100点だと思う。


2017年10月4日水曜日

10ユーロをだましとられて怒る人、笑う人


新婚旅行でイタリアに行った。

コロッセオに行くと、入口の前に中世の鎧騎士みたいな恰好をしたおっさんが2人立っていて、陽気な笑顔で「チャオ!」と手を振ってきた。
コロッセオ運営会社に雇われているおっさんだろうか。
それとも個人的な趣味でやっているのだろうか。

おもしろいおっさんだと思い身振り手振りで「写真を撮ってもいいか」と訊くと、「撮れ撮れ」と言ってくる。
もう一方のおっさんが「カメラ貸しな」というジェスチャーをしてくる。
「カメラを盗まれるんじゃ………」と一瞬不安になるが、おっさんが満面の笑みを浮かべているので断れない。
カメラを渡すと、おっさんは早速カメラを構えて「そこに並べ」と指示を出してくる。
ぼくと妻はそれに従い、鎧騎士のおっさんを挟むようにして記念写真を撮った。

コロッセオを背景にして、鎧騎士のイタリア人おっさんと撮影。とてもいい写真が撮れた。
なんて気持ちのいいおっさんたちだろう。



「グラッツェ」と言ってカメラを返してもらおうとすると、おっさんが手のひらを差し出してきた。

ああ、そういうことね。そういう仕組みね。すぐに事情が呑みこめた。
このおっさんたちは鎧騎士の恰好をして、観光客相手から小金を巻きあげている商売の人なのだ。

日本の観光地にはまずこの手の人がいないので「イタリア人はサービス精神旺盛だなあ」とのんきに考えていたが、うっかりしていた。
ここは外国なのだということを改めて感じた。



そういうことならしかたがない。
楽しい写真を撮らせてもらったわけだからチップを支払うことはやぶさかではない。
ぼくは財布から1ユーロ硬貨を取りだして、おっさんに手渡した。日本円にして100円ちょっと。

するとおっさんは、ぼくと妻を指さしてイタリア語で何かしゃべる。
どうやら「2人いるんだから2人とも払ってよ」というようなことを言っているらしい。
「2人分払えってさ」と妻に伝えると、妻も財布を取りだして1ユーロをおっさんに渡した。

ところがおっさんたちはまだ納得しない。妻の財布を除きこみ、紙幣を指さす。
10ユーロ紙幣を渡せと言っているらしい。
いくらなんでも写真を1枚撮っただけで1,000円以上よこせというのは高すぎる。
ぼくは苦笑して「ノ、ノ、ノ」と伝えた。ついでに日本語で「10ユーロってあほか」とつけくわえた。

しかし内心では喜んでいる。
隙あらば観光客からぼったくろうとしてくる商売人とのやりとりが、ぼくはけっこう好きだ。

ところが妻は10ユーロ紙幣を財布から取りだすと、おっさんに手渡してしまった。



その場から離れて、ぼくは笑いながら妻に言った。
「はっはっは。10ユーロぼられてやんの」
妻は何も言わない。目を伏せたまま黙って歩いている。

「10ユーロはちょっと気前良すぎじゃない?」
からかうような口調で言うと、妻はきっとぼくをにらみつけた。
「ちょっと。外国人のおっさんにからまれて怖かったからお金渡したのに、なんで笑うのよ!」

その剣幕にびっくりしてしまった。
彼女が何に起こっているのか、ちっともわからなかった。

まず「怖かった」というのが理解できない。
ぼくだって暗がりの細い路地で外国人2人にからまれたらおしっこちびるぐらい怖いが、ここは昼日中の観光名所。
観光客でごった返していて近くには警備員もいる。
もめ事を起こして商売ができなくなって困るのはおっさんたちだ。
おっさんの要求を無視したって、危ない目に遭うことは万にひとつもないだろう。

しかもぼくらが金を払わなかったのならともかく、2ユーロも払っている。
こういうものに決まった値段はないが、おっさんの写真を1枚撮る料金の相場として考えれば安すぎることはないだろう。



なによりぼくが妻との間にギャップを感じたのは、この一件に関するとらえかただった。
しつこいおっさんに1,000円ちょっとのお金をぼられた出来事は、ぼくにとっては「旅先で起こった、ちょっとしたおもしろハプニング」だった。
むしろ高くない金で土産話のネタを買えてラッキー、ぐらいのものだ(お金を出したのは妻だが)。

だが妻は、怖い目に遭わされたことや余計なお金を払わされたことやぼくに笑われたことがショックだったらしく、その後もしばらくふさぎこんでいた。

新婚早々、そんな妻に対してぼくは少し不安を感じた。
「1,000円ぼられたぐらいで落ちこんでいて、この人は生きていくのがしんどくないのだろうか」と。

たぶん妻も、ぼくに対して不安を感じていたのではないだろうか。
「少しまちがえれば大事故につながっていたかもしれないのに、この人はへらへらしている。大丈夫だろうか」と。

それから5年。
ぼくと妻は、今のところそれなりにうまくやっている(当方が認識しているかぎりでは)。
ぼくは相変わらず人生をまじめに生きていないし、妻はぼくからしたら些細なことを真剣に悩んでいる。

いいかげんな父と生真面目な母を持った娘は苦労することもあるだろうが、それぞれの気質に腹を立てながらもおもしろさを感じてくれたらいいなと思う。

【少し関連記事】

 無神経な父


ツイートまとめ 2017年9月



効果音

緊急避難


表現意欲


高音中心主義


不祥事


 度胸


憎悪



苗字


罵倒


道徳心


雪舟


陳腐


定礎


風物詩


土産


歌詞


清潔感


双生児


飛散


梯子


意思伝達


白飯


清原和博


銭湯



2017年10月3日火曜日

政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】

『動物農場』

ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)

内容(e-honより)
飲んだくれの農場主を追い出して理想の共和国を築いた動物たちだが、豚の独裁者に篭絡され、やがては恐怖政治に取り込まれていく。自らもスペイン内戦に参加し、ファシズムと共産主義にヨーロッパが席巻されるさまを身近に見聞した経験をもとに、全体主義を生み出す人間の病理を鋭く描き出した寓話小説の傑作。巻末に開高健の論考「談話・一九八四年・オーウェル」「オセアニア周遊紀行」「権力と作家」を併録する。

ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。

ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。


農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。

というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。

豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。

終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。

動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。


この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。

まずは旗の掲揚。これは、ジョーンズの女房が使っていた緑色のテーブル掛けをスノーボウルが馬具小屋で見つけ、白で蹄と角を描いた旗だった。スノーボウルの解説によると、この緑はイギリスの野を表し、蹄と角は、人類を最終的にやっつけたあとにきたるべき動物共和国を表すものであった。

この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。

しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。

この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。

発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。


『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。

かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。

さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。





人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。

だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。


だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。

つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。

白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。

裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。





話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。

つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。

突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。

そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。




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2017年10月2日月曜日

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


『キングオブコント 2017』を観おわって「コントはリアリティはどう処理すべきなのか?」と考えたのでつらつら書いてみる。


ジャングルポケットの1本目のコント。
サラリーマンが痴話喧嘩に巻きこまれてしまい、やっと乗れたエレベーターがなかなか動きださない……。というストーリー。

エレベーターがなかなか出発しないという誰もが経験のある現実感のある設定。
徐々に明らかになる意外な真相。
妙な状況を次第に受け入れてしまう心境の変化。
共感性のあるオチ。
よくできた脚本だった。

だが3人の「やりすぎの演技」がすべてを台無しにしていた。
大会に賭ける意気込みが裏目に出たのだろうか、3人ともが終始大声を張りあげている。抑揚がまったくない。常にテンションの高い芝居は、裏を返せば盛り上がり所のない芝居だ。

考えてみてほしい。
知らない人が「開」ボタンを何度も押すのでなかなかエレベーターが動きださない。
場所は自分の会社が入っているオフィス。相手は同じ会社の人かもしれない。取引先の人かもしれない。そんな相手に向かっていきなり怒鳴り声をぶつけるか?
ふつうのサラリーマンなら、しばらくは静観し、徐々にいらいらした様子を見せ、その後で「すみません、急いでるので先に行かせていただいていいですか?」と声をかける。それでも聞き入れられなければ、そこではじめて声を荒らげることになる。

痴話喧嘩をしている二人も同様だ。
ふつうはわざわざ職場で別れ話をしないし、するのであれば押し殺した声でおこなう。己の恥になる話を、わざわざ知り合いに聞かれるような大声で話すわけがない。

このコントでは徐々にヒートアップしていく過程が完全に省略されて、冒頭から3人ともが声を張りあげる。リアリティは破綻して、せっかくの緻密な脚本がわかりやすいドタバタ喜劇になりさがってしまったのは残念だ。
あの脚本そのままで、たとえば東京03が演じていたならめちゃくちゃおもしろいコントになっていただろうなあ。


コントでは、じっさいにはありえない設定を描くことができる。
「火星を探検する宇宙船の中」でも「ブサイクのほうがもてる世界」でもいい。

ただ、どんな無茶な設定を持ってきてもいいが、芝居である以上、その中の登場人物の行動には整合性がなくてはならない。
西暦3000年だろうが、ブサイクがもてる世界だろうが、人は理由もなく他人をぶん殴ったりはしない。何の得もないのに己の財産を投げ捨てたりもしない。
どんなに頭のおかしい人でも、自らの行動原理に基づいて動いている。狂人には狂人のルールがある。

パーパーの卒業式コントで描かれる男は、好きでもない女にキスをせまったり、女を5人集めてくることを要求したりと「めちゃくちゃヤバいやつ」だが、彼の言動には彼なりの論理がある(女を5人集めさせる理由の説得力よ!)。
だから観客は共感はできなくても理解ができる。そしてその論理のおかしさを笑うことができる(まあコントはウケてなかったけどね)。

アンガールズが2本目に披露したストーカーのコントも同様で、好きな女性の夫をつけ狙う男は異常者ではあるが彼の行動は首尾一貫している。
だから設定としては破綻していないのだが、残念なのはその行動を自ら説明していること。
ふつうの人は、自分がとった行動とその目的をわざわざ他人に説明したりはしない。そもそも自分の中でも明快な解釈を持っていないことがほとんどだ。

GAG少年楽団も「幼なじみの男女の50年間の微妙な関係性」という壮大なテーマを示しながらも、すべての歴史を台詞で説明してしまったことでずいぶんと安い芝居になってしまった。
あれを台詞ではなく演技だけで表現することができたならまた違った結果になったのだろうが、あまりに時間が足りないよなあ。


コントにリアリティをもたすための処理がうまかったのは かまいたちだった。
彼らが2本目に披露したウェットスーツを脱がすコントでは、序盤に「4時間もウェットスーツが脱げないんです」という状況を説明している(しかも不自然にならないように、店員が本店に電話で説明する形をとっている)。
あのくだりは笑いをとる上では冗長な部分だが、コント全体にリアリティを与えるという意味で重要な役割を果たしている。
「4時間後」から始めることによって、さらに「鬱血してきている」という説明をくわえることで、客が鋭く店員をなじる様子に説得力が与えられる。店員の手違いで着せられたウェットスーツが脱げないまま4時間も待たされたのなら声を荒らげて怒るのも無理はないな、観客は怒っている客に共感できる。
「あれ? 脱げないな」という状況からはじめてもコントとしては成立するが(そしてそのほうが導入はスムーズだが)客が店員に強いツッコミを入れることの説得力は失われてしまう。

さらば青春の光も、大会の常連だけあって説得力を持たせたコント運びをしていた。
2本とも、序盤は違和感を遠慮がちに指摘するだけにとどめ、徐々に不条理さのギアを上げていってから、強めのフレーズで糾弾している。いつのまにかありえないシチュエーションになっているけど、じわじわとエスカレートしていくので無茶めな行動もすんなり受けいれられてしまう。
じつにうまく観客をあざむいている。
さらに彼らはルックスや演技力も設定とぴったりあっていて、そこでも説得力を持たせていた。「居酒屋でひとりでささやかな晩酌をしているサラリーマン」「ちょっと客をなめた感じの居酒屋店員」「40代でバイトの警備員してる人」の風貌してるもんなあ。


先ほど、人はそれぞれ正当な行動原理を持っているはずと書いたが、その行動原理を意識的に破壊しにいったのがアキナだった。
誰もが「これはボールを拾いにいくだろう」と思う状況で行かない、ふつうの人なら言葉にしなくてもわかる暗黙のルールを理解しないなど、静かな狂気を描いていた。

試みは理解できるのだが、共感性を欠く男の狂気性をじっくり描くには時間がたりなかった。わかりやすい記号(サスペンスでおなじみの音楽)を用いたり、わかりやすい残酷性(「ピーターパンも焼いたら食べられる」発言)を入れたりしたことで、常人と紙一重のところに存在する狂気が、ずいぶん陳腐なものになってしまった。

なによりアキナの最大の不幸は、コントを披露する順番が、リアリティや論理性のある言動の一切を放棄したにゃんこスターのコントの直後だったことだ。常識を捨てたコントの後に常識のずれた人物を描いてもパワーダウンの印象は免れない。今大会でいちばんくじ運で損をした組だろう。

にゃんこスターは、リアリティのある設定や人物描写や文脈のつながりを捨て、さらには暗転前に自己紹介を放りこむことで芝居であるという大枠すらぶっこわしてしまった。
(たしかに革新的ではあったがコントの概念が変わると喧伝されていたのはいささかオーバーだ。キングオブコント初代王者のバッファロー吾郎もリアリティを完全に放棄したコントを披露していたではないか)


リアリティを欠いたコントは評価を落とすが、リアリティを捨てたコントは受け入れられる。
それは、ストーリー漫画では設定に矛盾があってはならないが、ギャグ漫画では矛盾が許されるようなものだ。
ギャグ漫画では、爆発の衝撃でふっとんだ人物が次のコマで包帯ぐるぐる巻きになっていて、さらにその次のコマでは完治していてもかまわない。誰も「すぐに包帯を巻けるはずがない。設定が破綻している」とはつっこまない。突拍子もない展開もある種の記号として処理する暗黙の了解が共有されているからだ。

コンテストの結果は、誠実にリアリティを追求したかまいたちが1位、でたらめな虚構世界をつくりあげてショーに徹したにゃんこスターが2位、巧みな嘘で観客を見事に騙したさらば青春の光が3位。

もちろん3組とも大きな笑いをとっていたが、コントに説得力をもたせることに成功した3組が上位を占めたという点で、芝居の構造的に見てもおもしろい大会だったなあ。


【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら

少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。

いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。

1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。





1人複数票制度の概要

もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。

ぼくが提示するのは

「1人が何票でも入れていい。ただし同一候補者に対して入れていいのは1票まで」

という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。

有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。




具体的に実行する方法

投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。

このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。





考えられるメリット

意思表示の選択肢が増える

現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。

【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。

「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。

供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。

また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。


複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?

「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。


「落としたい」という意思表示ができる

先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。

選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。

今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。

【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。

投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。



考えられるデメリット

集計の手間がかかる?

得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。

とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。

電子投票にすればもちろんこの点は解決する。


投票ミスが増える

あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。

これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。

とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。

強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。


不正がしやすい

たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。

「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。

また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。

まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。



もし導入されたらどう変わるだろうか?


さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?

候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?


変わるのは無党派層


特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。

大きく変化するのは無党派層だ。

たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。

ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。


選挙カーがなくなる?


現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。

【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。

現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。

そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。

選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。

だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。

不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。

そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?

また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。


政策が似たり寄ったりになる?


現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。

ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。

となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。

「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。

結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。

どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。


現職・与党が不利になる?


"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。

結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。


選挙協力が進む?


【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。

市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。

勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。

そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。



導入される可能性は……


ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。

実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。


上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。

なにより、与党が不利になる制度だ。

さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。

自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。


2017年10月1日日曜日

いっちょまえな署名

全国私立保育園連盟というところから署名協力の依頼がきた。


なんじゃこりゃ。

何万もの署名集めて、首相に伝えるのが「子どもの保育・成育環境向上のための改善を求めます」ってなんじゃそりゃ。

ぼくが首相だったらこんな抽象的な努力目標書かれた署名届けられても「オッケー、改善しまーす☆」って言って、その1秒後に秘書に「おいこれシュレッダーしとけ」って言ってるわ。
「ったく。おれは忙しいんだから金にならない来客は通すなって言ってあんだろ」つって。

(一応書いておくと、少しだけ具体的な要望も後半にはあった。少しだけね)



この署名用紙、めんどくさいことにこんなことが書いてある。

「〃」等の略字は避けてご署名は自署にてお願いします。

いっちょまえに。「自署にて」ですってよ。

いや一応知ってるよ。請願法ってのがあるんでしょ。署名について定めた法律。

自筆じゃなかったり住所が適当だったら無効とされることがあるんでしょ。

知ってるよっていうかさっき調べたんだけどね。知らなかったけどね。


でも無効ってなんだよ。そもそもこの署名が有効になることあんのかい。

この署名が集まったら、それ見た首相が「え!? 子どもの保育環境改善したほうがいいとみんな思ってんの? 知らなかったー。よっしゃ、軍事費全部保育園に回せーい!」ってなることあんのかい。

首相と「〇月〇日までに署名を〇万通集めたら予算を〇円増やす」って具体的な取り決めしたのかよ。してねーんだろ。だったら全部無効だよ。

住所を書こうが書くまいが無効だから、書かないほうがまだマシだよ。




デモとか署名とかの「やったった」気になる行動が嫌いだ。

身内でやるならいいけど、考え方が同じかどうかわからない人にまで協力を求めてくるのがいやだ。

趣旨に賛同できなくて署名をしないこともあるが、それでも断ったときにはいくばくかの罪悪感を感じる。

なぜ他人の思い出作りのためにこっちが罪悪感を覚えにゃあならんのだ。


デモにしても署名にしても、達成感味わうために文化祭やんのはいいけど他人を巻きこまないでほしい。

やるんなら寄付金集めるとか選挙の候補者擁立するとか地元議員と取引するとか、もうちょっとマシなことあるだろうよ。
それが効果あるかどうか知らないけど、署名集めて総理大臣に持っていくよりは可能性あるだろうよ。
(ちなみに私立保育園連盟は寄付金も募っていたからそれには協力した。主張自体に反対するものではないからね。)

署名なんて、何十時間もかけてちまちまベルマーク集めて1,000円ぐらいの文房具もらう行為よりももっと不毛だわ。

こんなことのために他人の時間を奪おうとするなよ。

やりたいんなら1人で千羽鶴折って届けろよ。





世の中の署名嫌いのみなさん!

「署名をなくそう」という署名を集めて世の中を変えましょう!