2021年8月31日火曜日

名探偵コナン 変わりゆくものと変わらないもの

 八歳の娘が『名探偵コナン』にハマっている。
 きっかけは、ぼくの姪(つまり娘のいとこ。十一歳)が『コナン』のファンであることだ。アニメとはいえ謎解きなので八歳にはむずかしいだろうとおもっていたのだが、「おもしろい!」といって熱心に観ている。謎解きはぜんぜんできていないが。

 毎週土曜日のテレビ放送を録画して観ていて、それと同時にAmazonプライムで昔の作品を観ている。2021年のアニメと1996年のアニメをかわるがわる観ているわけだ。

 同じ作品といえども25年の時を経ているのでいろいろなところが変わっている。絵柄が変わったり声優が交代しているのは当然だが、時代のちがうアニメを交互に観ていると「この25年で世の中はずいぶん変わったんだな」と感じさせられる。

 男も女も肩幅の広いスーツを着ていたり、女子高生がルーズソックスを履いていたり、携帯電話がばかでかかったり、公衆電話でやりとりをしていたり、パソコンがまだめずらしかったり。第29話『コンピューター殺人事件』は、プログラマの男が社長のマンションのコンピューターシステムに侵入してエアコンを遠隔操作するというかなり乱暴なトリックが使われる。ユビキタス対応でもないエアコンなのに。コンピュータが身近でない分過大評価されていたのだろう。


 変わったのはファッションやテクノロジーだけではない。

 たとえば初期のコナンでは、いろんな人がそこかしこでタバコを吸っている。駅のホームでも吸うし、学校内で教師が吸う。子どもが近くにいてもおかまいなし。「マナーの悪い人間」の描写ではなく、ごく自然に吸っている。

 飲酒運転に対する寛容さも今とはちがう。酒を飲んだ後でも運転しようとするし、周囲も「もう! お酒飲んでるのに!」ぐらいで、たいして咎めない。そう、25年前って「ちょっとぐらいなら飲んでても(検問に引っかからないように)気をつければ平気」ぐらいの感覚がふつうだったんだよなあ。


 あと、毛利小五郎のコナンに対する扱いもずいぶん変わっている。ぞんざいに扱っているのは今も変わらないが、1996年に比べて手を上げることはずっと少なくなっている。
 1996年は頻繁にコナンをぶん殴っていた。ちょっとコナンが捜査に口をはさんだだけで容赦なくげんこつを食らわせていた。まだ「子どもは厳しくしつける必要がある。体罰も愛があれば許される」みたいな考えが生きていた時代だ。
 最近はいくらアニメとはいえ児童(しかもよその子)をぶん殴るのはまずいということになったのだろう。暴力描写は激減した。

 というか最近はコナンが堂々と捜査現場に入っている。昔はすぐ締めだされていたのに(まあそれをいうなら私立探偵である毛利小五郎が現場に入ってることもおかしいのだが……)。


 また、人権意識も変わっている。
 1996年版を見ていると「女が口をはさむんじゃねえ」「男らしくない」みたいな台詞があってドキッとする。
 まだ「男/女はこうあるべき」みたいなことを公言していた時代だったのだ。現代でも人々の意識には残っているが少なくとも「それを大っぴらに口にしてはいけない」という共通認識はある(認識していないおじいちゃんも多いけど)。


 同じ作品、同じ世界観のはずなのに時代にあわせて確かに変化は起こっている。それがわかるのも長寿アニメならではだ。

 ただ、25年前と今とで変わらないこともある。
 コナンの世界の住人が、ほんの些細なことで人を殺すことだ。
「殺された恋人の復讐」みたいな深刻な動機もあるが、我々が「舌打ちする」レベルのことでもあっさり殺す。すごくカジュアルだ。
 殺人の多さのわりに暴行や窃盗が多いわけではない。治安が悪いわけではなく、ただ殺人へのハードルだけが異常に低いのだ。
 勘違いで殺してしまって、後で真相を聞かされて犯人が嘆き悲しむこともしょっちゅう。


 ファッションは変わり持ち物は変わり人権意識も変わる。けれど時代が変われども人を殺したいという気持ち、それを実行に移すまでのハードルの低さだけは変わらない。

 腹が立ったときの解決法はいつもひとつ! 名探偵コナン!


2021年8月30日月曜日

読書感想文を教えてみて

 小学校二年生の娘。夏休みの宿題として、読書感想文の課題が出た。

「読書感想文はひとりでやるのはむずかしいから、おとうさんといっしょにやろう」
とぼくは言った。

 読書感想文にはちょっとうるさい。
 なにしろぼくは読書感想文の大家である。「読書感想文五段」を勝手に名乗っている。
 年間百本の読書感想文を書く。あることないこと好き勝手書き散らしているだけだから書評ではなく「読書感想文」だ。
 書評をたくさん書いている人はいるが、読書感想文を年に百本も書く人間はそうはいまい。


 娘が選んだのは、岩佐 めぐみ『ぼくはアフリカにすむキリンといいます』という本だ。


 ぼくも読んでみる。
 ふんふん。読書感想文の題材としては悪くない。

 まず二年生でもわかりやすい。理解できない本の感想文は書きようがない。

 それから、ファンタジーなので変な展開がいくつもある。これは感想文を書く上でとっかかりになる。万事読者の予想通りに進む本よりも、妙な箇所が多いほうが感想文は書きやすい。
「○○をしたのがふしぎだとおもいました。わたしなら××するのに」と書けばいい。

 友だちがいなくて退屈していたキリンが、文通を通して最終的には遠く離れたペンギンと友だちになるというシンプルなストーリーもいい。わかりやすい教訓を引きだしやすい。




 さて。
 ぼくは娘に言う。
「まずはお話のかんたんな説明を書こうか。どんなお話か、読んだことのない人にもわかるように」

 ここはわりとうまくいった。
 二年生の書く文章なのでたどたどしいが、○○がいました、○○しました、と書いていくなので本の内容さえ理解できていればかんたんだ。

 ただ、説明が止まらない。
 八百字以内と決まっているが、四百字を使ってもまだ説明が終わらない。このままだと感想文ではなく要約になってしまう。それはそれで文章を書くトレーニングにはなるが、今回求められているのは感想文なのだ。

「感想文だから、本の内容だけじゃなくて、(娘)が考えたことを書かないといけないんだよ」
というが、これがなかなか伝わらない。
 二年生にとって「説明」と「感想」は不可分なもので、切り分けるのはむずかしいのだ。




「うん、これ以上書くと感想を書くスペースがなくなるから、『これがこの本のないようです』って書いて、ここからは感想を書こっか」
と、半ば強引に要約を終わらせる。

 さあいよいよ感想だ。
 もちろん「感想を書きなさい」「おもったことをそのまま書きなさい」と言っても書けない。読書感想文五段のぼくは知っている。
 感想を言語化するのは大人でもむずかしい。


 そこでぼくはいくつかの指針を示した。

  • 「このお話に出てくる人の中で、誰がいちばん好き? その理由は?」
  • 「もし自分がこのお話の続きを書くとしたら?」
  • 「登場人物のとった行動で、ふしぎにおもったところは? 自分だったらどうする?」
  • 「自分もまねしたくなることはあった? 逆に、まねしたくないとおもったことは?」

など、いくつかのテンプレートを用意した。
 完璧だ。このテンプレートを使えばかんたんに感想文を書ける、はずだったのだが……。




 やはり娘は書けない。
 ぼくが提示したテンプレートを見ても
「なにもおもわない」「わからない」
としか言わない。
 こっちもイライラしてくる。「なんもないことないやろ」「ちゃんと考えてるか?」と、きつくあたってしまう。


 ううむ……。
 大人だったら嘘でもいいから無理やり「それらしい答え」をひねり出すだろうが、二年生ではそれすらもできないのだ。

「こんなん嘘でもええねんで。まったくおもってもいないけど『この本を読んでわたしも知らない人と手紙でやりとりしたくなりました』って書いとけばええねんで」
といえばいいのだが、日頃「嘘をつくな」と教えてる手前「嘘でもええねん」とは言いづらい……。




 娘に「どこが変だとおもった?」と質問し、娘が「ここ」と言えば
「それは○○が××だから? それとも△△が□□だから?」とぼくが訊く。
「自分がこの立場だったらどうする? Aをする? それともBをする?」と重ねて訊く。

 結局、「ぼくが用意した感想の選択肢の中から娘が選ぶ」ような形でどうにかこうにか感想文は完成した。

 はあ疲れた。一日がかりの大作業になった。
 苦労してできたのは「一応最低限の形式だけ整えた読書感想文」。当初ぼくが思いえがいていた「見事な構成で、かつ子どもらしい瑞々しい感性をとりいれたすばらしい読書感想文」にはほど遠い。




 一夜明けて、反省した。
 教え方がまずかった。

 特にまずかったのは、「いくつかのテンプレートを出して、どれがいい?と決めさせること」だ。

 そんなのは生まれてから読書感想文を一度も書いたことの小学二年生にさせることじゃない。
 どれがいい? と言われたってわかるわけがない。書いたことがないんだもの。そもそも読書感想文が何かすらよくわかってないんだもの。

 選択肢なんかいらない。意思を尊重なんてしなくていい。そんなのはある程度書けるようになってからで十分だ。

 野球をはじめてやる子に「どんな投げ方がいい? オーバースロー? サイドスロー? アンダースローもあるよ。トルネードってのもあるけど」なんて尋ねてもわかるわけがない。
 最初はきっちり〝型〟を教えるべきだ。何も考えずにこうしなさい。やってるうちにわかるようになるから、と。




 教えてみてわかったけど、やっぱり読書感想文なんて宿題にすることじゃねえや。
 大人だって書けないもの。教師だって書けないんじゃない? 読書感想文の宿題を出す教師はいっぺん「これぞ正解!」っていう読書感想文を書いてみろよ。

 ぼくは毎週読書感想文を書いてるけど、これは趣味だから続けられていることだ。
 誰かに添削されるならとっくにやめている。
 だいたい感想だから「クソつまんねえ」とか「ケツ拭いた後のトイレットペーパーのほうがまだ見ごたえがある」でも正解のはずなのに、そういうのは許されない。おかしな話だ。上手に悪口を言うのはたいへん技術がいるのに。


 要約でいいとおもうよ、夏休みの宿題は。そっちのほうがはるかに文章力研鑽になる。


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今からだとまにあわない! 読書感想文の書き方 ~感想文嫌いの小中学生のために~

夏休みの自由研究に求めるもの


2021年8月27日金曜日

音痴の子

  ぼくは音痴だ。

 まあそれはいい。よくはないが、あきらめた。
 学生時代は音楽の授業だとか合唱コンクールだとか二次会のカラオケだとか人前で歌わなきゃいけない場面もあったが(カラオケは断っていたが)、もうおっさんになった今ではそんな機会もなくなった。はあ、やっと人前で歌うことから解放された。


 だが娘たちにはぼくのようにつらい思いをさせたくない。
 音楽の授業や合唱コンクールで恥をかいてほしくない。ぼくは「カラオケに行っても断固としてマイクを持たない」「いっそふざけて歌っていじられる」みたいなやりかたでしのいできたが、女の子だとそれもむずかしかろう。
 同調圧力も男子より強そうだし、下手でも変に気を使われてその場は何も言われず本人のいない場で「すごい下手だったよねー!」みたいに言われるかもしれない。

 だが遺伝のせいか環境のせいかわからないが、長女はぼくに似て音痴になってしまったようだ。音痴のぼくが聞いても「音程むちゃくちゃだな」とおもうので(まちがっていることはわかるがどうすれば直るかはわからない)。
 ちなみに妻は絶対音感の持ち主でもちろん音痴ではないのでぼくに似たのだ。
 次女はまだ二歳なので音痴なのかどうかよくわからない。


 遺伝ならしょうがない。これはどうすることもできない。
 だが環境だとしたら申し訳ない。
 変な音程が身に付いてはいけないとおもい、長女が赤ちゃんのときなどはなるべく子守唄などを歌わないようにしていた。だが保育園でいろんな歌をおぼえてきて「いっしょに歌おう!」と言われると、「いやお父さんは人前で歌わないことにしてるから」とは言いづらい。何度も娘の前で歌った。音程のずれた歌を聞かせてしまった。

 ごめんなあ。
 おとうちゃん、うまく歌う方法は教えられへんけど、カラオケを断る方法やったらいくつか知ってるから教えたるで。


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【読書感想文】全音痴必読の名著 / 小畑 千尋『オンチは誰がつくるのか』


2021年8月26日木曜日

ツイートまとめ 2021年4月



無限

予定調和

イカすスニーカー

かけあわせ

卑猥

コロナ禍怪談

Loacker

気力

その通りになった

2021年8月25日水曜日

夏休み最後の日

 娘(小二)の夏休み最後の日に有給休暇をとった。めいっぱい遊ぶために。

 今年の夏はどこにも連れていってない。元々出不精な上にコロナ禍である。
 近所の公園やショッピングモールぐらい。ふだんの土日と変わらない。
 少しぐらいは夏の思い出をつくってやりたい。

 ということで、娘と、その友だちのSちゃんと一日遊ぶことにした。
 とはいえ遠出はできない。あまり人の多くないところということで、徒歩二十分の公園と、ファミレスと、プールに行くことにした。ファミレスは11時ぐらい、プールはお昼ぐらいと、なるべく人のいない時間帯を狙って。

 まず公園に行く。
 途中でアイスを買ってやる。今日だけは甘やかすことに決めている。

 公園でおにごっこ、フリスビー、ブランコで靴飛ばし、宝さがし。平日朝の公園なのでほとんど人がいない。ひさしぶりにマスクをはずして走りまわる。

 ファミレスへ。子どもたちはハンバーグとピザを注文。
 ふだんはさせないガチャガチャも一回だけさせてあげる。

 その後はプールへ。区民プールなのでただまっすぐに泳ぐしかできないが、それでも子どもたちはキャッキャッと楽しそうにはしゃいでいる。

 プールの後はまたアイスを買う。一日に二個も。今日だけだぞと言いながら。

 そして我が家でボードゲーム。
 子どもたちは元気だが、さすがにおっさんには公園での運動→プール→頭を使うゲームはこたえる。「ちょっと寝るわ」と言って横になる。

 涼しい部屋でゲームをする子どもたちの声を聞きながら、畳の上に転がって昼寝。最高じゃないか。

 周囲には「子どものために休みをとった」と言っていい父親アピールをしていたけど、ほんとはぼくがいちばん楽しみにしていたのかもしれない。最高の、夏休み最後の日だ。


2021年8月23日月曜日

【読書感想文】砂原 庸介『大阪 ~大都市は国家を超えるか~』

大阪

大都市は国家を超えるか

砂原 庸介

内容(e-honより)
停滞が続く日本。従来の「国土の均衡ある発展」は限界となり、経済成長の“エンジン”として大都市が注目を集めている。特に東京に比べ衰退著しい大阪は、橋下徹の登場、「大阪都構想」を中心に国政を巻き込んだ変革が行われ、脚光を浴びた。大都市は、日本の新たな成長の起爆剤になり得るのか―。本書は、近代以降、国家に抑圧された大阪の軌跡を追い、橋下と大阪維新の会が、なぜ強い支持を得るのかを探る。

 2012年刊行。
 橋下徹氏が大阪府知事を辞任して大阪市長選に出馬・当選した(2011)よりも少し後、1回目の大阪都構想の住民投票(2015年)より前に刊行された本。

 戦前からの大阪府・大阪市の行政、政治、都市計画、財政などの歴史と、橋下徹氏が府知事になって以降の「大阪都構想」について書かれた本。


 ぼくが結婚して大阪に住みはじめて十年ほどになる(生まれてから五歳までも大阪にいたが)。
 二度の都構想住民投票にも行った。どちらも反対票を投じたが、それは都構想そのものに反対というより「それ以前に維新の会の姿勢を信用できない」からのものだった。百かゼロかで語る人や、まちがいを認めない人のことは信用しないことにしてるので。
「都構想はこんなデメリットもあるけどこんなメリットもあるんですよ」と説明してくれたら聞こうという気になるけど、「なにからなにまでいいことずくめですよ!」は詐欺師の手口だから耳を貸す気になれないんだよね。

 住民投票では反対票を投じたものの、都構想そのものに反対しているわけではない。というよりよくわかんない。住民投票前にはいろんな文章を読んだけど、極端な賛成意見か極端な反対意見のどちらかで、両論併記しているものはほとんどない。
 というわけでこの本を読んでみた。




 大阪を東京都のような「都」にするという構想は最近橋下徹氏が言いだしたものではなく、六十年以上前からあったのだそうだ。

 大都市側の特別市実現に向けた反撃は、一九四八年(昭和二三)六月の大阪市議会による大阪市を特別市に指定する法律案提出案に関する意見書」に始まるとされる。地方制度調査会の答申では支障が少ないと見られていた大阪市の特別市実現は、大阪府から強く反対されていた。特別市実現には大阪市の市域再拡張が避けられず、その場合、特別市に入らない大阪府の残存区域が立ち行かなくなることを大阪府は強く懸念したからである。このような府県と市の対立は、他の大都市でもほぼ同様のものがあった。
 特別市に反対する大阪府が逆に提案したのは、東京都制を参考とした大阪都制案である。これは、大阪府域で都制を施行し、大阪市内に加えて市外にも漸進的に特別区制を実施していくという提案である。それによって、大阪府庁と大阪市役所の二重行政を解消し、区議会を設立して地域の意見をよりきめ細かく反映させることを主張するものであった。第Ⅳ章で述べていく二〇一〇年に提唱された「大阪都構想」とほぼ同型の構想である。

 ざっくりいうと、大阪市のような大都市は財政的には不利な立場に置かれている。

  • 近隣の都市から多くの人がやってくるが、彼らの住所は大阪市ではないので住民税は大阪市に入ってこない
  • だが人は多いのでインフラなどの整備をする必要がある
  • 大阪の場合、高級住宅地は近隣の市町村にあることが多いので、収入の多い人ほど市外に出ていく。逆に収入の低い人が増えれば市からの保護などが多く必要になる
  • 都市計画を整備しようにも周辺の市町村と利害が一致しなければなかなか進まない。たとえば市をまたいだ道路や鉄道を整備しようとすると「どちらが費用を負担するか」という問題になる

 大きな都市だからやらなきゃならないことはたくさんある、なのに(経済規模のわりに)大阪市が使える金は少ない、国や県に比べて権限も小さい。
 大阪市の人口は269万人で鳥取県の人口の5倍近い。それでも権限は県より小さい。

 で、それを解消しようとするのが都構想。使える税も増え、権限も増える。

 なるほどなるほど。
 そうかあ、じゃあやっぱり都構想はいいことかもしれないなあ。ただし「良い為政者がいるならば」という条件付きではあるが

 使える税が増え、権限が増えるということは、いい政治がおこなわれるかぎりにおいてはプラスをより大きくする。ただし政治を執り行うのが「他者を攻撃ばかりするくせに己の失敗は認めようとしない政党」であれば、マイナスを大きくすることになる。

 ということで、ぼくはやっぱり「今の維新の会が推し進める都構想」には反対だな。
 少なくとも、失政は素直に認めて、専門家の話を聞いて、きちんと都構想のデメリットも示せるようになってからですかね。そんな日来るんですかね。




 個人的に〝政治家としての橋下徹〟は信用してない(タレントとしてはわりと好き。無責任にしゃべらせてる分にはおもしろい人なので)。
 でもこの本を読むかぎりでは橋下徹氏が府知事になったのは大阪にとっていいことだったんだろうなとおもう。もちろん悪い面もたくさんあるけど、トータルでは府政への登場はプラスだったんじゃないかな。

 市政の安定と継続は、市長のもとで大阪市の専門官僚制が高い自律性を保ち、長期的展望に基づいて事業を実施することを可能にした。しかしそれは、市長を継続的に支持する市議会を中心とした市政における多元的なチェック機能が麻痺することをともなう。第Ⅲ章で述べた大阪湾開発のように、他の行政機関と調整がなされないままに、大阪市のみに通じる論理で大規模な公共事業が実施され、見直しのきっかけを持たないままに破綻していくのは、その代償とも言える。

 橋下氏以前の大阪は財政・政治・行政あらゆる面で問題山積みだったし、与野党相乗りの知事による緊張感のない政治が続いていた。
 そういった状況の打破を掲げた候補者が当選した意義は大きい。いいか悪いかはべつにして、彼がいろいろ変えたのは間違いない。

 どんな組織でも波風がなければ淀んでいく。
 いつものメンバーでいつものやり方でやるのは「すべてが予定調和でスムーズに事が運ぶ」というメリットもあるけど、「悪しき慣習がずっと残される」というデメリットもある。たまには新しい風を入れたほうがいい。

「国政にパイプがある大政党だから」というアドバンテージにあぐらをかいた政治を地方でやってたら落選させられる、という現実を大政党の議員たちにつきつけただけでもプラスだった(ただし今や維新の会がその大政党に近づきつつあるけど)。

 本来地方と国って利益をめぐって対立することが多いわけじゃない。
 だから国政政党と地方議員って、喧嘩するとまではいかなくても、緊張感を持った関係でいるのが望ましい。少なくとも、地方議員が国会議員の票集めに協力するようなずぶずぶの関係だと、「国会議員は国のために、地方議員は地方のために」という行動ができなくなることは目に見えている。

 橋下府知事誕生以降、大都市では国政とは距離を置いた首長が多く誕生するようになっている。そのこと自体はいいことだとおもう(個々人の資質はべつにして)。


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お金がないからこそ公共事業を!/藤井 聡『超インフラ論 地方が甦る「四大交流圏」構想』



 その他の読書感想文はこちら


2021年8月20日金曜日

いちぶんがく その8

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



研究者というのは常に、早急に何とかしなくてはならない問題、というものを抱えているからだ。

(東野 圭吾『天空の蜂』より)




けれども少女は人間であり、人形ではありません。

(新津 きよみ『星の見える家』より)




なぜなら「能力」とは、どうにでも解釈できる言葉だったからである。

(小熊 英二『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』より)




時に、ため息をつきながら食べていて、時々おいしいと感じるものがあると舌打ちをする。

(古泉 智浩『うちの子になりなよ』より)




わたくしは、そんなみみっちい悪ではなく、本当に自己弁解の余地のない動機のない悪をやってみよう。

(遠藤 周作『真昼の悪魔』より)




ひとは恐怖や苦痛と闘うことはできても、楽しさと闘うことはできない。

(柞刈 湯葉『人間たちの話』より)




ヒョウ柄のパンプスを履かせたい男と、ヒョウ柄のパンプスをそろそろ脱ぎたい女。

(吉田 修一『キャンセルされた街の案内』より)




マチアスはポネットがなぜ座薬を好きなのか考え続けていた。

(ジャック・ドワイヨン(著) 青林 霞・寺尾 次郎(訳) 『ポネット』より)




あなたはそれなりにがんばってるじゃないの。

(湊 かなえ『夜行観覧車』より)




「この社会をどんなにうまく生きてもツマラナイ」ということですね。

(宮台 真司『社会という荒野を生きる。』より)




 その他のいちぶんがく


2021年8月19日木曜日

親孝行代行サービス

 ぼくのふるい友人に、社交性のかたまりみたいなSという男がいる。

 誰とでもすぐに打ちとける。特に年上にかわいがられる。子どもの頃からそうだ。どの家に行っても、そこのお母さんから「Sちゃん、Sちゃん」とかわいがられる。
 ぼくの両親もSのことが大好きだ。母親から「そういやこないだSちゃんが遊びにきたよ」と言われることがある。ぼくがいないのに、ぼくの実家に行くのだ。そしてちゃっかり昼飯をごちそうになったりする。
 また、Sとぼくの父親とでゴルフに行ったこともあるらしい。ぼくは後から聞かされた(ぼくはゴルフをやらないので誘いもされなかった)。ぼくの代わりに親孝行をしてくれているのだ。
 すごい。ぼくにはぜったいできない芸当だ。

 懐に入るのが天才的にうまいのだが、だからといってなれなれしいわけではない。ちゃんと節度ある付き合いを心得ている。親しくはなるが、入ってはいけない領域まで立ち入らない。
「ここまでは踏みこんでいい」というギリギリまで入っていくのだ。だから付き合いは広いのに嫌われない。


 高校生のときのこと。
 ぼくの家に遊びにきたSは「腹へったー」と言いながら台所に入った。母親は不在だった。Sは冷蔵庫にあった卵を使って玉子焼きを作って食べた。
 そしてSはフライパンや食器をきれいに洗い、乾かしてから元あった場所にきちんと直した。
 その日の夜、母親は冷蔵庫を開けて首をかしげた。「あれ? あんた卵食べた?」とぼくに訊く。ぼくはSが卵を使ったことを知っているが、そしらぬ顔で「食べてない」と答えた。嘘はついてない。食べたのはぼくじゃない。
 母が「あれ。まだあったとおもったけどなー。ボケたかな」と首をひねっているので、ぼくは種明かしをした。「Sが玉子焼き作って食べたで」と。母は「さすがSちゃんやなー」と笑った。「洗い物まできれいにしてくれるなんてさすがやわ」と逆に称賛している。いやいや盗み食いされたんやで。

 この大胆さ。おそろしい。
 ちゃんと「このおばちゃんなら勝手に冷蔵庫の卵を使っても怒らない。むしろ笑ってくれる」ことを見抜いて、そのギリギリを攻めるのだ。
 そしてなによりぼくが脱帽するのは、Sが使った卵が「冷蔵庫にあった最後の一個」だということだ。
 十個あるうちの一個を使うのならまだわかる(それでも相当大胆だけど)。だがSは「よその家の最後の一個」にチャレンジするのだ。なんちゅう豪胆。


 明るく社交的で顔も悪くないので、Sはモテる。
 女好きだし女性に対してもどんどん懐に入りこむので、女友だちもたくさんいる。

 世渡りがいいやつとか女にもてるやつは反感を買いがちだけど、Sぐらいずば抜けた社交性だともうそれすらも超越してしまう。自分と次元が違いすぎて嫉妬すら感じない。




 そんなSも結婚して息子が生まれた。
 こないだSが三歳になった息子を連れてうちの実家に遊びにきた。
 Sジュニアは、はじめて来る家であるにもかかわらずずかずかと中に上がりこむ。あっという間に台所にまで入りこんであちこち物色している。
「台所はあぶないよ」と言われても、しょげるどころかにこっと笑う。子どもの満面の笑顔を見せられると許すしかない。
 さらにぼくの娘と姪(どちらも小学生)を気に入り、「おねえさーん!」と言いながら後を追いかける。

 たいていの子どもは人見知りをするものだが、Sジュニアはまったくの逆。知らない人がいるときのほうが上機嫌なのだという。

 あまり血統主義的なことはいいたくないが、Sジュニアの人たらしっぷりを見ていると「血は争えんなあ」とおもうばかり。
 こういうのって教えてどうこうなるもんじゃないもんね。


2021年8月18日水曜日

【読書感想文】川嶋 佳子(シソンヌじろう)『甘いお酒でうがい』

甘いお酒でうがい

川嶋 佳子(シソンヌじろう)

内容(e-honより)
シソンヌじろうが長年演じてきた「川嶋佳子」が綴る、40代後半独身女の517日。恋、亡き母、人生。シソンヌじろう初の日記小説!!

 以前、バカリズム氏が書いた『架空OL日記』という本を読んだ。OLになったふりをしてつづった日記である。
 そして『甘いお酒でうがい』もやはり、シソンヌじろう氏が40代独身OLの心で書いた日記である。
 センスある芸人は女のふりして日記を書きたがるものなのか。なんなんだ。

 しかし気持ちはちょっとわかる。
 ぼくもときどき「あたし」という一人称で文章を書く。最近あんまりやってないけど、いっときはよく書いていた。

ブランド品と九十九神

古今東西おすもうアンドロイド

ロボットフェンシングコンテスト

【エッセイ】犬と赤子に関しては勝手にさわってもよいものとする

【ふまじめな考察】なぜバーテンダーはシャカシャカやりすぎるのか

暗算こそが我が人生

【エッセイ】ミノムシって絶滅危惧種なんですってよ

【エッセイ】地球外生命体の焼き魚定食

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~チーズフォンデュ編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~パエリア編~

【エッセイ】世界三大がっかり料理 ~駅弁編~

【エッセイ】こたつと政権交代

【エッセイ】バイクのブーン その1

【エッセイ】バイクのブーン その2

【エッセイ】バイクのブーン その3

【エッセイ】捨てなくてよかったアジスロマイシン

【エッセイ】あたしが超能力者を嫌いな3つの理由

手のひら、内出血すればいいのに

母親として、子どもに食べさせるものには気をつかいたい

大人の女が口笛を吹く理由

洞口さんとねずみの島

洞口さんじゃがいもをむく

 検索してみたらいっぱい書いてた。これでもごく一部だ。
 そして「あたし」が書いた文章はおもしろい。他人がどうおもうかわからないけど、ぼくはそうおもう。

 なぜなら、自由に書けるから。
 やっぱり「ぼく」が書いた文章ってかっこつけてるんだよね。
 ブログだから知人に読まれることはほとんどないんだけど、それでもついつい取りつくろってしまう。賢く見られたい。良識ある人間だとおもわれたい。論理的矛盾だとか前に書いたこととの整合性とかを気にしてしまう。
 ところが「あたし」の文章を書いているのはぼくじゃないから、自由に書ける。ばかなことも書ける。そのときによって「あたし」の人格は変わるから、整合性も気にしない。

 べつに女性である必然性はないんだけどね。
 お相撲さんでも軍人でもモデルでも政治家でも医師でも宇宙人でも、自分とちがう人の仮面をつけられるなら誰でもいい。
 ただ「あたし」はてっとりばやい。一人称を変えるだけでいいし、特定の職業に関する知識もいらない。
 力士のふりして文章書くと「そんなお相撲さんいねーよ」とツッコミがくる可能性があるが、「あたし」であれば「世界中さがせばひとりぐらいはこんな女性もいるかも」で許される(あくまで自分の中では、だが)。

 ということで、異性のふりをして文章を書くのは楽しい。「自分から解放される」楽しさがある。ねえ、紀貫之さん。




 ただ、『甘いお酒でうがい』は「べつの人格を着て好きなことを書いている文章」かというと、それはちょっとちがう。
 川嶋佳子という仮面をつけてはいるが、その仮面は一時的なものではない。「いつでも脱げる」とおもってあることないこと書いているわけではない。「これからも川嶋佳子として生きていく」という覚悟のようなものが見える。だから川嶋佳子を壊すようなことは書いていない。徹頭徹尾、川嶋佳子はひとりの女性でありつづける。
 じろうという人間から解放されるために別の人格をかぶっているのではなく、じろうから解放されて川嶋佳子に囚われている。


 だから『甘いお酒でうがい』は、率直にいっておもしろくない。というよりおもしろいことが起こらない。
 バカリズム『架空OL日記』はもっとおもしろかった。起伏に富んでいた。あくまでフィクションだから、読者がおもしろがることを書いていたのだ。
 だが『甘いお酒でうがい』はほんとにただの日記である。他人をおもしろがらせるための文章ではない。
 もしも「シソンヌじろうが書いた」という背景を知らなかったら、ぼくは二ページぐらいでこの本を放りだしていただろう。
 これは「別人格を着てつまらない文章を書くシソンヌじろう」を楽しむ文章なのだ。


 書かれるのは、ほんとに些細な日常だ。

[7/19(木)] 帰りの電車に外人さんが沢山乗ってた。
外国人の観光客を見ると、私はあなたよりこの
国を知っている、という優越感に浸れる。
あなたの目に日本はどう映ってる?
あなたの目で今の日本が見てみたい。
[11/7(水)] なんとなく佇まいが男性っぽいシャンプーと、
女性っぽいコンディショナーを買って帰宅。
お風呂場で二人きりにさせてあげる。
[12/16(日)] なんだろう。
なんだか無性に、
重い掛け布団の中で寝たい。

 ここに書いたのは、まだ「何か起こっているほう」の日常だ。これでも。




 本文よりもあとがきのほうがおもしろかった。
 あとがきを読んではじめて、四十代女性のつまらない日記が立体的に立ちあがってくる気がした。

僕は芸人になって1年目の冬に最愛の母を失った。母は僕の芸人としての姿を一度も見たことがない。母を失ってから時間が経つにつれ、僕の作るネタはどんどん変わっていった。登場人物が非常によく死ぬし、愛すべきキャラクターほど、最後に死というオチをつけることが多くなった。
悲しみをいかに笑いに変えるか。気がつかないうちに、それが自分の作るネタのテーマになっていった。この日記に付き纏う物悲しさ。これはやはり母の死が原因なのだと思う。自分で読み返していても、湿地に腰まで浸かっているような気分になる。川嶋佳子はとにかくついていない。しかし彼女は自分の不運を客観的に見て、自分に舞い降りる不幸に意味を持たせることで日常を楽しんで生きている。その姿勢こそが僕がテーマに掲げていることであり、この日記に触れた方に伝えたいことなのである。

 〝川嶋佳子〟も、母親を失っている。そして折に触れて、亡きおかあさんのことを思いだしている。「おかあさんだったらどうしてたかな」と。

 『甘いお酒でうがい』は、シソンヌじろう氏による母への追悼文なのかもしれない。素直に「おかあさんがいなくなって寂しい」と言いたいけど言えない。その気持ちを、川嶋佳子という別人格を借りて表現していたのかもしれない。


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2021年8月17日火曜日

あこがれのトランシーバー

 娘の誕生日に、トランシーバーをプレゼントした。
 おもちゃではあるが、最大200メートル離れていても通信できるというもので、商品レビューを見ると「アウトドアで使っています」「家族でショッピングモールに行ったときに使っている」といった声も。
 四機セットで七千円近くする、おもちゃにしては立派な代物だ。

 誕生日プレゼントなのでもちろん娘が欲しがったものだが、欲しがるように仕向けたのはぼくだ。
「トランシーバーとかどう? 遠くにいる人と話せるから、けいどろとか缶けりとかするときに使ったらめちゃくちゃおもしろそうじゃない? ○○ちゃんだったら家が近いからお互いの家にいても通話できるかもよ」
とそそのかして、まんまと娘に「誕生日はトランシーバーがほしい!」と言わせることに成功した。


 そう。多くの元少年と同じく、ぼくもトランシーバーにあこがれていた。
 トランシーバー、カメラ、ラジコン。これは昭和~平成初期の子どもの三大あこがれおもちゃだろう。いまやスマホがトランシーバーでありカメラであるわけだけど……。

 トランシーバーもカメラもラジコンも、なかなか買ってもらえる代物ではなかった。なにしろ高い。
 だが本体の値段だけなら、誕生日やクリスマスに買ってもらえたかもしれない。問題はランニングコストも決して安くなかったことだ。
 トランシーバーやラジコンは電池を、カメラはフィルムを消耗する(当時はデジカメなんてなかった)。
 数百円だが、小学生にとって数百円は大金だ。コンスタントに出せる金額ではない。

 また、ぼくが小学生のときにいとこがおもちゃのトランシーバーを持っていたが、当時のおもちゃのトランシーバーは本当にちゃちなものだった。同じ家の中にいても声が明瞭に聞こえない。トランシーバーを使うより大声を出したほうがよく聞こえるぐらい。
 トランシーバーにあこがれていたぼくでも「これを誕生日にもらうのは損だな……」とおもうぐらいだった。かといって本式のトランシーバーなんかとても買ってもらえない。

 ぼくも今ではそこそこお金を自由に使えるようになった。本式のトランシーバーでもやすやすと買える。
 が、今買ってもしょうがない。三十代のおっさんが趣味でトランシーバーを買って誰と通信するというのだ。おっさんと秘密基地ごっこやスパイごっこをしてくれる奇特な人はいない。
 そもそも携帯電話を持っているのだからトランシーバーは不要だ。

 そんなわけで「娘のプレゼント」を口実にして長年の夢をかなえたのだった。




 トランシーバーをプレゼントされた娘は大喜びだった。
 さっそく娘といっしょに公園に行ってトランシーバーを使ってみた。
 おお。姿が見えないぐらい遠く離れていてもちゃんと通話できる。音声も明瞭だ。今のトランシーバーはすごい。広めの公園でも問題なく使える。

 娘の友だちもみんなトランシーバーを見てテンションが上がっている。
 中にはキッズ携帯を持っている子もいるが、携帯は遊びで使わないように言われているので、トランシーバーを使って遊べるのは楽しいらしい。
 みんなトランシーバーを持って、連絡をとりながら走りまわっている。高学年の子らまでものめずらしそうに「ちょっと貸して」と集まってきた。
 やはり令和の時代になってもトランシーバーは子どもたちのあこがれなのだ。




 ところで、トランシーバーはチャンネルをいくつか選べる。同じチャンネル同士でしか通信できないのだ。
「こんなのチャンネルひとつでいいのにな。トランシーバーを使ってる人なんてほとんどいないから干渉しないだろ」とおもっていたのだが、公園で使ってみてわかった。トランシーバーを使っている人はけっこういる。

 公園の近くにはショッピングモールや公営のプールがあるのだが、店舗従業員やプール監視員や警備員がトランシーバーを使っているらしい。チャンネル1にしているとしょっちゅう知らない人の声が入ってくる(逆にいうとこっちが公園であほみたいにしゃべっている声も向こうに届いているのだろう)。

 チャンネルを切り替えたら干渉がなくなった。

 そうか、ぼくが知らないだけでトランシーバーはけっこう使われているんだな。


2021年8月16日月曜日

【映画感想】映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ /深海のサバイバル!

映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ
/深海のサバイバル!
(2021)

内容
「映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ」…見た目はおしり、推理はエクセレントな名探偵・おしりたんてい。今度の舞台は、人々が風に乗り空を飛びながら移動して暮らすスフーレ島だ!
「深海のサバイバル!」…サバイバルの達人ジオとその仲間たちが、アンモナイト型の潜水艇に乗って深海をサバイバル。持ち前の勇気とアイデアでピンチに立ち向かう。

 小学二年生の娘といっしょに鑑賞。
 観客は全員子どもとその親。そりゃそうだね。




『映画おしりたんてい スフーレ島のひみつ』


 ふうむ、いい映画ですね。

 毎週テレビ放送しているものも(娘といっしょに)ときどき観ているのだけど、
「おなじみのやりとり」と「劇場版ならではの取り組み」がいい具合にミックスされていて、「これぞ劇場版!」っていう出来だった。

 テレビシリーズを映画化すると、力が入りすぎて「いやそこまでのものは求めてないんだけど……」となることがある。とはいえ時間も制作費もぜんぜんちがうのにいつも通りにつくるわけにはいかない。

 その点この『スフーレ島のひみつ』はふだんと同じく「めいろ」や「おしりをさがせ」もあるが、「かいとうUに協力者がいる」「かいとうUの変装が観客にははじめから呈示されている」などちょっとした仕掛けが施されていて、先が読みにくい展開になっている。クライマックスの「しつれいこかせていただきまさ」も定番のやりとりでありながら発射までにひと工夫凝らされている。

 またいつものおしりたんていであれば「なぞをとく」「犯人を捕まえる」「かいとうUからお宝を守る」が達成された時点でストーリーは終了するが、この劇場版ではなぞときだけでなく「島の外に出たいが代々続く灯台守の家系なのでそれが許されずに不満を抱える少女」というストーリーも並行して語られており、単なるなぞときで終わっていない。

 終始風の吹いている演出や、激しい動きなど、劇場版ならではの派手な演出も多く、観客の「金を払って劇場に来てるんだから特別なものを観たい」という欲求と「とはいえいつものおしりたんていらしさも捨てないでほしい」という願望の両方をうまく両立させていた。

 テレビアニメの劇場版としては完璧に近い内容じゃないでしょうか。




深海のサバイバル!


 子どものいない大人は知らないかもしれないが、『サバイバル』シリーズが小学生の間で大人気だ。
 元々は韓国の学習漫画だが、日本国内でのシリーズ累計発行部数は1000万部を超え、世界では3000万部を超えているという大ヒット児童書だ。

 子どもの頃、学研の『○○のひみつ』シリーズが好きだった大人は多いとおもうが、今は『サバイバル』シリーズが主役の座についている。『○○のひみつ』よりも『サバイバル』のほうが漫画がだんぜんおもしろいんだよね。
『サバイバル』シリーズは漫画九割+解説文一割で構成されているのだが、解説部分は大人でも勉強になる。内容も新しいので「なるほど、今は環境問題に対する考え方ってこうなってるのか」と学ぶことが多い。子どものときに教わった〝常識〟って、変わっててもなかなか気づかないからね。


 そんな人気シリーズから『深海のサバイバル!』が映画化。

 海底調査の潜水艦にもぐりこんだサバイバルの達人・ジオと野生少女・ピピ。めずらしいものだらけの深海に興奮を隠せないふたりだが、事故により潜水艦に電気と空気を供給するケーブルが切断。艦内には三人、だが深海耐久スーツは二着だけ。はたしてジオとピピは無事に潜水艦を海上へと引きあげることができるのか……。
 というワクワクドキドキの王道冒険活劇

 ストーリー展開は山あり谷あり一難去ってまた一難という感じで、ハリウッド映画にも引けを取らないレベル。いやほんと、こんなストーリーのハリウッド映画ありそうだもん。
 子ども向けだから粗いところもあるけれど(潜水艦に子どもがふたり密航してることに誰も気づかない、序盤で密航に気づいたのに引き返さない、ひとりで乗船するはずだったのに深海スーツが都合よく二着積んである、深海スーツの充電器が潜水艦内にあるなど)、そういうところに目をつぶって深く考えなければ大人も楽しめる。

 ただ映像作品なので仕方ないのだけれど、肝心の科学知識がほとんど披露されなかったのは残念。それこそが『サバイバル』シリーズの原点のはずなのに。
 ダイオウイカやマッコウクジラは出てくるだけで生態に関する知見はないし、せいぜいメタンハイドレートぐらい。個人的にいちばん気になったのは深海から連れてきたカニが海面でもぴんぴんしてたこと。これは深海生物の生態を伝えるという根幹のテーマを壊してしまうぐらいのミス。ストーリーは強引でもいいけど、科学知識に関するところで嘘ついちゃだめでしょ。




 某子ども向け作品は鑑賞中に寝てしまったが、この映画はどちらも大人も楽しめた。大人料金1,800円の元はとれた。

 しかし気になったのは対象年齢。
『おしりたんてい』と『サバイバル』のセット上映なのだが、この二作は対象年齢がちがう。おしりたんていのメインターゲットは未就学児(娘は五歳ぐらいのときにどっぷりハマっていた)、サバイバルは小学校中学年ぐらい。けっこう離れている。

 うちの娘は小学二年生なのでぎりぎり両方楽しめるぐらいの年齢だが、周囲の五~六歳ぐらいの子は『サバイバル』のケーブルの切れた潜水艦が深海に沈んでいくシーンや、ダイオウイカに襲われるシーンでは「こわい……」と声をあげていた。そりゃそうだよなあ。

 この二作を抱き合わせで売るのはちょっと無理があるとおもう。
 観客からすると単独上映で半額にしてくれるのがありがたいけど、いろんな事情でそうもいかないんだろう。

 ネット配信してくれたらいいのにな。そしたら上映時間を気にしないで済むし。感染予防にもなるし。

『ドラえもん のび太の宇宙小戦争 2021』も2022年に上映延期されたけど、一年も遅らせるぐらいだったらネット配信してくれたらいいのにな。そっちのほうが売上も増えるだろうに。映画館には申し訳ないけど。


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2021年8月11日水曜日

【読書感想文】鴻上 尚史『ドン・キホーテのピアス』

ドン・キホーテのピアス

鴻上 尚史

内容(e-honより)
意表をつく展開、あざやかな切れ味!鴻上尚史の人気エッセイ、「ドン・キホーテのピアス」文庫化第1弾。なにげない日常が、面白く、刺激的に見えてくる。「分かりやすいものが好きなんですかい?」「大学生は、授業に出てはいけない」「人生を丸ごと理解したいのか?」「コメントとバナナとゲラと」「20世紀の終わりの泣き声について」など50篇収録。

 1994年10~2021年5月という長期にわたって雑誌『SPA!』に連載された鴻上尚史さんのエッセイ『ドン・キホーテのピアス』。
 その単行本化第一弾。

 今では「冷静かつ的確に人々の悩みに答える落ち着いた人生相談家」みたいなポジションの鴻上さんだけど、この頃はまだ三十代(今のぼくより年下だ!)。
 連載第一回のテーマは「女子高生のミニスカート」で、しっかり浮ついている。

 とはいえ〝世間〟と闘う姿勢なんかはこの頃からずっと変わっていないので、最近の文章と読みくらべてみると鴻上さんの変わったところ・変わらないところが見えてきておもしろい。




 この本に収められているのは1994年~1995年に発表されたエッセイ。
 そう、阪神大震災や地下鉄サリン事件、その後のオウム騒動があった激動の時期だ。

 この本では積極的には社会問題を扱ってはいないが、阪神大震災やオウム騒動のような大きな事件が起こると、いやおうなく話題もそっちに引きずり込まれている。
 あんな事件が起こったら、お気楽なエッセイであっても触れずにはいられないよなあ。

 ぼくも東日本大震災直後はブログを書く気になれなかった。多くの理不尽な死、というのを目の当たりにするとどうしても思考がそっちに引きずられるんだよな。


 地下鉄サリン事件後の報道について。

 それと、もうひとつ。事件の三日後、警察署からレポートした若い男性記者が、「地下鉄の普段の安全対策が充分だったのかと疑問の声が出ています」と言って中継を終えたシーンがありました。
 正気なのかと思います。
 新聞紙にくるまれた小さな容器を見つけられなかったといって、地下鉄当局を責めるというのは、とても正気の沙汰とは思えません。
 そんなことを責められるのなら、地下鉄に乗る時に、飛行機に乗る時のようなチェックが必要になります。
 マスコミは、レポートを完結させるために、こういう手法をよく使います。
 この手法を、僕は以前、『物語』と呼びました。
 どうまとめていいか分からない時、(それはつまり、どう理解していいか分からない時ですが)とりあえず、強引に、理解可能な世界に引きずり下ろす枠組みを『物語』と僕は呼んでいるのです。
 この『物語』の枠組みは、ベテランの記者になればなるほど巧妙に、すなわち、人が理解しやすい形になります。
「疑問の声が出ています」という定番の締め方は、その象徴です。「安全対策が充分だったのか疑問です」と言い切ると、その瞬間に、じゃあ、どんな安全対策が必要だったのだろうと視聴者は考え始めます。が、「充分だったのかと疑問の声が出ています」とまとめれば、そうか、そういう人もいるだろうなと、簡単に受け入れられるのです。
 が、今回のケースはいくらなんでも無茶です。若い記者は、稚拙な分だけ、この無茶な『物語』を露呈させたのです。

 人間はありとあらゆる事象に物語を求める。原因があって結果があるとおもいたがる。成功の裏には努力があり、失敗の裏には原因や犯人があるとおもいたがる。
 なぜなら、そう考えるのは楽だから。己を責めなくてすむから。

 少し前に保育園のバスに園児が放置されて亡くなるという事故があった。たいへん痛ましい事故だ。当事者でなくてもやりきれない。
 SNSでこのニュースに対する反応を見ていると、多くの人が条件反射的に保育園やバス運転手を攻撃していた。事件の詳細など知るはずもないのに。
 ぼくも知らない。誰かすごく悪いやつがいたせいで事故が起こったのかもしれない。だがそうではないかもしれない。うっかりミスや間の悪さが重なり、ごくごく平凡な市民が不幸な事故を引き起こしてしまったのかもしれない。
 だが多くの人はそんな「よくわからない現実」は望んでいない。「単純明快な物語」を欲している。「あいつが悪い。だから子どもが死んだのだ!」と言いたい。安全圏から攻撃したい。「ぼくやあなただってその立場に置かれていたら同じミスをしていたかもしれない」なんて思いたくない。
「自分とはまったくちがう悪いやつが引き起こした事故」なのだから当然「自分も気を付けよう」とは思わない。
 こうして不幸なニュースは他山の石にはならず、「自分には関係のない話」と考えた人間によって同じようなミスはくりかえされてゆく。


 天災や大規模テロなど「無辜な市民が大量に犠牲になる出来事」が起こると、この傾向は特に顕著になる。
 誰のせいでもない。亡くなった人が悪いわけではない。助かった人が善行を積んでいたわけではない。わかっちゃいる、わかっちゃいるがついつい因果関係を求めてしまう。

 ○○すれば助かったのではないか。犠牲者は××をしたのが悪かったのではないか。多くの命が失われたのは△△の怠慢のせいではないか。
 必要以上に「原因」「責任」が追及される。これはよくない。


 逆に、必要以上に「原因」「責任」を覆い隠そうという正反対の動きもある。
「こんなときだから助け合おう」「絆」なんて言葉が跋扈して、正当な批判すら封じ込められる。これはこれで危険だ。
 こういうときに、ふだんなら反対されるような法案が通過しちゃったり、正当な裏付けのない増税がまかりとおったりしてしまう。

 コロナ禍の今もまさにそういう動きが見られる。
「こんなときだから特別に○○できる法案を通そう」と。

 そういうのは平常時に議論しておかなくちゃいけないのだ。少なくとも落ち着いてから。

 大事件があるとある程度浮足立ってしまうのはしかたない。けれど、浮足立ってしまうときに重大な決断をしてはいけない。
「こんなときに細かいことを気にしている場合か!」という声には要注意だ。大変な時こそ「何もしない」「何も変えない」ほうがいい。




〝大スター〟について。 

 仕事で、初めて、競輪に行ってきました。
 案内してくれた担当の方がぶっちゃけた人で、しきりに競馬をうらやましがっていました。
 どうやったら、競馬のように国民的ギャンブルになれるんですかねぇ、と思案顔をしてたずねられました。
 そうですねえと、車券握りしめて、「国民的スター、つまり大スターの条件はなんだと思いますか?」と逆に質問しました。
 担当の方は、はへ? という顔をして僕を見つめました。
 大スターの条件とは、じつは、からっぽであるということなのです。
 大スターは、さまざまな年齢、さまざまな生活を持つ人から、感情移入されることが必要条件となります。
 つまり、どんな思い入れも受け入れる必要があるのです。

 たしかになあ。大スターってからっぽなんだよなあ。
 古くは長嶋茂雄。王貞治のほうが成績はずっと上だったけど、国民的スターといえば長嶋さんのほうだ。それはからっぽだったから。(そういう意味では大スターの正統な後継者はイチローや大谷翔平ではなく新庄剛志だよな)
 あと漫画では孫悟空。強いやつと戦えればそれでいい。主義主張はまるでない。


「自分のことや思想信条を多く語らない」人物こそが大スターにふさわしい。見る人が勝手に想いを投影させられるから。

 だから大坂なおみが当初は「国籍や人種の垣根を超えて戦う、けれど日本人の心を忘れない強い女性」みたいなイメージを勝手に投影されてもてはやされていたのに、自分の言葉で主義主張を語るようになると途端に敵がいっぱい湧いて出たのなんかわかりやすい例だよね。
 特に若い女性に対しては「物言わぬ存在」であることを望む人がたくさんいる。


 馬は何も語らないが、競輪選手には人生があり思想信条がある。だから大スターになれないのだ。と、鴻上さんは主張する。
 たしかにそうかもしれない。競輪選手の人間くささはある界隈には受けるけど、万人には受け入れられない。

 一部の人が歴史上の人物に自分を重ね合わせるじゃない。特に坂本龍馬に多いんだけど。
 あれは、歴史上の人物は好きなように自分の願望を投影できるからなんだろうね。何も語らないから、勝手に「龍馬だったらこうするね」って言っても矛盾しない。坂本龍馬も馬とおんなじだ。


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龍馬ぎらい



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2021年8月10日火曜日

【読書感想文】「新潮45」編集部 (編)『凶悪 ~ある死刑囚の告発~』

凶悪

ある死刑囚の告発

「新潮45」編集部 (編)

内容(e-honより)
人を殺し、その死を巧みに金に換える“先生”と呼ばれる男がいる―雑誌記者が聞いた驚愕の証言。だが、告発者は元ヤクザで、しかも拘置所に収監中の殺人犯だった。信じていいのか?記者は逡巡しながらも、現場を徹底的に歩き、関係者を訪ね、そして確信する。告発は本物だ!やがて、元ヤクザと記者の追及は警察を動かし、真の“凶悪”を追い詰めてゆく。白熱の犯罪ドキュメント。

 映画『凶悪』はすごい映画だった。
 とにかくピエール瀧とリリー・フランキーの怪演が光った。このふたりが「老人を拷問して殺しながら心底楽しそうに大笑いするシーン」が頭に残って離れない。

『凶悪』は、実際にあった事件(上申書殺人事件)が明らかになるまでを『新潮45』の記者が追ったルポルタージュだ。
(しかしこの「上申書殺人事件」というネーミング、違和感がある。殺人事件の段階では上申書は何の関係もなく、「被告人の上申書によって明るみに出た」というだけだからなあ)

 殺人などの罪で死刑を求刑され上告中だった後藤という元暴力団組長。後藤が記者に対して、「自分は他にも複数の殺人事件をおこなった。いずれの事件も〝先生〟が共犯である」と述べたことからそれまで闇に葬られていた殺人事件が明るみに出た……というのが「上申書殺人事件」だ。




 さて。
 映画と原作の両方を見ることになったのはぼくのうっかりがきっかけだ(数年前に原作を買って読まずに放置していた。それを忘れて映画を鑑賞し、後で本を読もうとして「これこないだ映画で観たやつだ」とようやく気付いた)。だが、結果的には両方見てよかった。
 映画では迫力や狂気性はよく伝わってきたが、ストーリーはいまいちよくわからなかったからだ。

 いくつもの事件が時系列もばらばらに語られるので、観ていて「これはいつの何だ?」となってしまうのだ。

 本を読むと、それぞれの事件がどういう順序で起こったのかがわかる。わかるが、その上で改めておもう。なんてややこしいんだ。

 それにしても、この時期、後藤の心理状況は異常なものだったにちがいない。
 余罪事件がすべて事実とすれば、彼は平成十一年十一月頃、大塚某の死体遺棄を手伝い、さらに同月中に倉浪篤二さんを生き埋めにして、翌年には〝カーテン屋〟をアルコール漬けにして殺害。そのかたわら、〝先生〟の知らないところで、暴力団関係者を殺し、さらには四人を監禁したうえ、ひとりを死に至らしめたのである。

 ごくごく短期間のうちに次々に殺人、死体遺棄、監禁、暴行などの凶悪犯罪をくりかえしている。しかもそのほとんどは金銭目的。恨みもない相手を次々に殺しているのだ。
 当然、事件の全貌を理解するのはむずかしい。それぞれの事件の間には「後藤と〝先生〟が関与した」という以外にほとんどつながりはないのだから。


 そしておそろしいのは、これらの事件のように
「悪いやつが」「はじめから隠蔽する目的で」「身寄りのないターゲット、または既に家族をまるめこんでいるターゲットを狙う」
という条件がそろった場合、殺人事件であってもなかなか明るみに出ることがないということだ。
 実際、上申書にあった三つの殺人事件は当初すべて警察にスルーされていて、事件として捜査されていない。
 読むかぎりでは、彼らが施した隠蔽工作などずさんなものだ。ミステリ小説のように複雑なトリックなどしかけていない。殺す直前に殴ったりスタンガンを押しあてたりしているから調べたらぜったいにわかっただろうし、被害者が暴行をふるわれる目撃者もいる。

 ちょっと調べればわかる殺人でも、事件の解明を望む遺族がいなければあっさり事故として処理されてしまうのだ。

 日本の殺人検挙率は80%以上なんて話を聞くが、そもそも殺人事件として認識されていない事件がその背後に多数存在するのだろう。
 うまくやれば意外と完全犯罪も達成できるのかも。やる予定ないけど。


 そして〝先生〟は、そういうターゲットを見つけるのに長けていたらしい。

 ――〝先生〟は、整理屋の嗅覚を活かし、金の匂いのする人生の破綻者を見つけ出す。
 狙いは、処分が可能な状態であれば不動産であり、それが残されていなければ、保険金だ。周辺を精査し、親族とも話をして安心させる。そして、破綻者を金に換える環境を整える。
 しかし、〝先生〟自身には、実際に人を殺すだけの腕力も度胸もない。安全な場所に安閑として居られるよう、自分のために汚れ仕事に手を染めてくれる、〝道具〟が必要だ。卑劣で狡猾な首謀者が、常にそうであるように。
 そこに後藤が登場した。人を殺すことなど何とも思っていない、格好のアウトローだ。しかも、殺人の経験者である。
 このふたりの邂逅は、犯罪を醸成するうえで、画期的な核融合を遂げた。これだけ強烈で危険な化学反応はあるまい。被害者にすれば、数少ない確率で生じてしまった禍である。
 実行力と非情さをあわせもつ後藤という男を得た〝先生〟。異種の凶悪性を持つふたりはベスト・パートナーとなり、暴走機関車の両輪のように激しく回転し、次々と大胆で凶悪な事件を遂行した。後藤は殺人マシーンと化して、〝先生〟に忠誠を尽くし、〝先生〟のために働いた。

 人づきあいがないと警察も本腰を入れて捜査してくれない。

 家族や友人がいないと孤独死のリスクだけでなく殺人被害者になるリスクも増えるのか……。




 映画版でも描かれていたことだが、おそろしいのは後藤や〝先生〟のような極悪非道な人間が、人間らしい一面も持ち合わせていること。

「そういえば、A先生は、私の子供が小学校に入学したとき、ランドセルや机まで買ってくれました。良ちゃんではなく、愛人である私のためでもなく、私の子供のために、そこまでしてくれたんですよ。普通、よほどじゃなければ、そこまでしないでしょう。それだけ、良ちゃんのことを大事に扱っていたということですよね。ランドセルは六年間使うんだから、革のいいのを買うように、と十五万か二十万円くらいくれたんです」
 〝先生〟は後藤のみならず、愛人、また愛人の娘のためにも金を惜しまず、気配りを見せていたのである。

 金のために会ったこともない人間を残忍な方法で殺せる一方、舎弟や家族に対しては情の厚い一面を見せたりもする。これが余計におそろしい。
 わかりやすいように、四六時中凶悪なモンスターとして生きていてほしい。

 文庫版『凶悪』には、後藤と〝先生〟の写真も載っている。
 暴力団組長だった後藤は、パンチパーマ、口ひげ、びっしりとはいった刺青、凶悪な人相とヤクザ丸出しの風貌である。
 だが〝先生〟のほうはというと、ごくふつうのおじさんだ。街ですれちがっても何もおもわない、どこにでもいそうな出で立ちをしている。隣近所にこの人が住んでいてもなんともおもわないだろう。

 だが、どこにでもいるようなごくふつうのおじさんが、次々に人を殺し、保険金や土地を手に入れ、警察に捕まることもなく、妻や娘といっしょにのうのうと生きていたのだ。
 この「ごくふつうに生きているごくふつうのおじさんが殺人鬼」という事実こそがなによりおそろしい。


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2021年8月6日金曜日

【読書感想文】湊 かなえ『夜行観覧車』

夜行観覧車

湊 かなえ

内容(e-honより)
高級住宅地に住むエリート一家で起きたセンセーショナルな事件。遺されたこどもたちは、どのように生きていくのか。その家族と向かいに住む家族の視点から、事件の動機と真相が明らかになる。『告白』の著者が描く、衝撃の「家族」小説。


 高級住宅地に建つ二軒の家。
 一軒は以前から住んでいる豪邸。医師の父親、家庭的な母親、名門私立学校に通う姉と弟。
 もう最近越してきた家族で、高級住宅地に不釣り合いなほど小さな家。無責任な父親、見栄っ張りな母親、勉強ができず始終母親に怒りくるっている娘。
 ある日、妻が夫を殺すという事件が起きる。事件が起こったのは、何の問題もないように見える豪邸一家のほうだった――。




 設定としてはおもしろそうだったけど、残念ながらぼくにはあまり刺さらなかった。
 理由のひとつは登場人物が単純だったこと、もうひとつは説明されすぎていたこと。


 人物が単純というのは、一言で語れるような人物ばかり出てくるからだ。「嫌味」とか「おせっかい」とか「高慢ちき」とか「見栄っ張り」とか「事なかれ主義」とか。類型的なキャラクター。物語を進めるため、主人公の感情を揺さぶるためだけに作られたキャラクターという感じ。
「わかりやすい嫌なやつ」なのだ。

 世の中には嫌なやつはいっぱいいるけど、嫌なやつには嫌なやつの論理がある。「嫌なやつになろう」とおもって嫌なやつになってる人はいない。大義名分とか被害者意識があるし、世間に向けてとりつくろう意識もある。
 だから現実の嫌なやつって、たいていは「一見人当たりがいいけど深く付き合うと嫌な面が見えてくるやつ」とか「八割の人にはいい顔をしているのに二割に対してはすっごく嫌なやつ」とか「嫌なやつなんだけど深く付き合うと情け深いところもあるやつ」とかなんだよね。純度百パーセントの嫌なやつもいるけど、そういう人ははなから誰にも相手にされないからかえって厄介じゃない。

 この小説に出てくるのは、そういうグラデーションがなくて嫌なやつは徹頭徹尾嫌なやつ。主人公に嫌がらせをするためだけに生きている、「嫌なやつ」という名札を貼られた人物なのだ。
「嫌なやつかとおもったら意外と優しい面もあった」という人物も出てくるが、それも急に百八十度変わる。

 そして、殺人事件の理由がまるで三面記事のようにシンプルな解釈に帰結されるのも好みじゃない。

 ふだん口論なんてしたこともないような夫婦間で殺人が起こった。その背景にはすごく複雑な感情の動きがあるはずだ。当事者以外にはぜったいわからない、いや当事者ですら理解できないような感情があったはず。
 三面記事やワイドショーでは犯行動機が一行で語られるけど、じっさいにはどれだけ言葉を尽くしても語れないほどの葛藤があったはず。
 なのに語ってしまう。短い言葉で。実はこうだったのです、と。
 裁判所や新聞記事はこれでいいけど、それは小説の仕事じゃない。推理小説ならそれでもいいけどさ。


 吉田修一の『怒り』『悪人』といった小説は、殺人事件が軸になっているが、最後まで読んでも当事者たちの心の動きはわからない。事実はわかっても、内面は想像するしかない。

『夜行観覧車』は内面までわかってしまう。たったひとつの解釈が明示されてしまう。

 そっちのほうが好きという人もいるだろうが、ぼく個人としては殺人当事者の内面を描くのであれば「謎が謎のまま残される」ほうが好きだな。
 理解できないことを理解できないままにするってのは、じつはいちばんむずかしいことだとおもうぜ。


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2021年8月5日木曜日

よくて現状維持

 健康診断の結果が悪かった。

 どこか一箇所が悪くなったというより、ありとあらゆる数値がちょっとずつ悪くなっていた。

 体重も増えた。元々がやせ型なので今も標準体重を下回ってはいるが、問題は体重そのものよりも増加ペース。二年で七キロぐらい増えているので非常に良くない。

 原因として考えられるのは、やっぱり新型コロナウイルスの影響。
 リモートワークだとほとんど外出しない日もある。せいぜい子どもを保育園に送るぐらいで、歩数計を見たら1000歩/日ぐらいの日もあった。通勤するだけでもけっこう運動になっていたのだと気づく。
 またリモートでの打ち合わせが増え、客先に行く機会も減った。
 さらに休みの日も遠出をしなくなった。外出自粛もあるし、コロナが怖いのでちょっと体調が良くない日は「家でおとなしく寝てよう」となる。
 ありとあらゆる面で運動量が減った。

 でもコロナはきっかけにすぎない。本当の原因は〝油断〟だとおもう。
 油断していた。ぼくはタバコを吸わないし酒もほとんど飲まない。月にビール一本ぐらい。同年代の男と比べて脂っこいものも好きではない。野菜やフルーツも摂っている。毎日たっぷり八時間ぐらい寝ている。

 だから大丈夫だとおもっていた。そこそこ健康的な生活を送っているから健康でいられるとおもっていた。甘いものは好きだけど、酒もタバコもやらないから大丈夫だとおもっていた。
 だが年齢は見逃してくれない。

 若いころの不健康には原因があった。
 暴飲暴食をするとか、睡眠時間が足りないとか、喫煙量が多いとか、ちょっと体調が悪いときに無理したとか。
 ところが中年は、これといった原因がなくても不健康になる。運動して食事制限をしてやっと現状維持になる。ぼくもそういう年齢になったのだ。衰えるのがデフォルトなのだ。

 気づけば、一流の野球選手でも引退するぐらいの年齢だ。日常的に厳しいトレーニングをしているアスリートですら若い人についていけなくなる年齢なのだから、何もしていないぼくが不健康になるのは当然だ。

 よくて現状維持、何もしなければ衰退。
 人生の下り坂にさしかかったことを自覚しないとなあ。


2021年8月4日水曜日

【読書感想文】長谷川 町子『サザエさんうちあけ話』

サザエさんうちあけ話

長谷川 町子

内容(e-honより)
高校生で田河水泡へ弟子入りし、西日本新聞社勤務時代、そして『サザエさん』誕生…を著者自らが漫画で綴る。

『サザエさん』を知らない人はまずいないだろうが、若い人で原作を読んだことのある人はそう多くないだろう。『サザエさん』が朝日新聞に連載されていたのは1974年まで。連載終了してから五十年もアニメが放映されているってすごいなあ。

 ぼくは実家に『サザエさん』が全巻あったので読んだことがあるが、はっきり言って漫画の『サザエさん』とテレビアニメの『サザエさん』は登場人物の名前が同じなだけの、まったくべつの作品だ。

 過激なギャグや痛切な政治批判などがちりばめられ、アニメで描かれるような「一家団欒」シーンなどはほとんど登場しない。もちろん日常のほほえましい笑いもあるが、基本的には「異常な一家がもたらすギャグ漫画」だ。なぜか今では「典型的な昭和の家族」みたいなまったく逆の扱いになっているが。
 時代が変われば記憶は改変される。もしかしたらあと何十年かしたら「『こち亀』は平成時代の典型的な交番を描いている」なんて修正された歴史がまかりとおっているかもしれない。



『サザエさんうちあけ話』は1979年に刊行されたコミックエッセイ(ぼくが読んだのは再販版だが)。
 長谷川町子氏およびその家族の生活をつづった自伝的漫画だ。どっちかというと自分の話よりも母親や姉妹の話のほうが多い。
 コミックエッセイは2000年代ぐらいに大流行したが、その先駆けのような作品だ。


 読んでつくづく感じるのは、漫画家・長谷川町子誕生の背景にはお母さんの存在が大きかったということ。

 長谷川町子さんを半ば強引に田河水泡(『のらくろ』の作者で当時の国民的漫画家)に弟子入りさせたり、町子さんのお姉さんを洋画の大家に弟子入れさせたり。

 犯人は、いや母は同じ手口で、油絵の好きな姉を洋画の大家、藤島武二先生に弟子入りさせ、かたわら芸大の「とうりゅう門」であった川端画塾に通わせました。
 そんならば、母は教育ママかといいますと、ちょっとばかり毛色が変わっていて、家の改造で大工さんと植木屋さんがはいった時のこと、お茶のみ話から、二人ともまだ、京都を見たことがないと知ると、「費用は、わたしが出す。連れていってあげよう」と、たちまち相談がまとまりました。
 国宝級の建物、名庭園を見ずして、なんでひとかどの腕になれようか、というのがその理由です。娘どもの、白い視線をしりめに、引率していきました。
「八つ橋」をおみやげに帰ってきた、二人が言うには、「京都は、何といってもご婦人が一番よかった」そうです。わが子、他人の区別なく、才能をひき出すことに、快感を覚えるタチなのですね

 こうと決めたら他人の人生をも強引に牽引してしまう豪傑だったらしい。
 夫を早くに亡くして三人の娘を育てないといけないわけだからパワフルな女性でないと生きていけなかったのだろう。シングルマザーに対する風当たりも今より強かっただろうし。とにかくたくましい。

 東京に行くために家や家財道具を売って金をつくったのに「これで『サザエさん』を出版なさい」とその金をポンと出したとか、敬虔なクリスチャンだったため貯金せずに喜捨していたとか、出てくるエピソードがとにかく豪快。
 将来のため、人のためであればお金をじゃんじゃん使う。あればあるだけ使う。江戸っ子気質だ。

 しかし自費出版で出したおかげで『サザエさん』が人気になったわけで、このお母さんの豪気がなければ今頃日曜の夕方に『サザエさん』はやっていなかったにちがいない。


 そしてその男気は三姉妹にも確実に受け継がれている。
 町子氏は生涯独身。姉は戦中に結婚するも夫は戦死。妹も夫を亡くし、母親、姉妹三人、姪たちという女ばかりの家族で暮らしていたという。
 三姉妹で子育てをしていたが「お宅は母親が三人ではなく父親が三人いるようだ」と言われた、というエピソードが語られる。こんな境遇でみんな自営業で働いていたら強くなるわなあ。『フルハウス』(男三人で女の子たちを育てるアメリカのコメディドラマ)みたいな家庭だったんだろうなあ。



 戦中戦後を女四人で(お母さんと三姉妹)生きてきたのだから、相当な苦労があったはず。
 この漫画に描かれるエピソードも疎開して食うために菜園をやっていたとか、スパイ容疑で逮捕されたとか、焼夷弾が自宅に落ちたとか、敗戦直後の夜中にアメリカ兵が自宅を訪れてきて生きた心地がしなかったとか(なにしろ鬼畜米英と言われていた時代だ)、強烈なエピソードだらけ。しかしそれをおもしろおかしく描いているが見事。ユーモアセンスのある人が語ればどんなことでも笑い話になるのだと改めておもう。
 長谷川町子さんのすごいのは、こういう経験をしているのに作品に〝思想〟が表れていないこと。『サザエさん』も『サザエさんうちあけ話』も、風刺や皮肉はあっても特定の思想はまったくといっていいほど見られない。おもうところはいろいろあっただろうに、新聞連載だから自分の色を出さなかったのだろう。

 社会や政治に深い洞察を持っている人もすごいけど、それを一切出さない表現者というのもすごい。


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