2021年4月30日金曜日

【読書感想文】ただただすごい小説 / 伊藤 計劃『虐殺器官』

虐殺器官

伊藤 計劃

内容(e-honより)
9・11以降の、“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう…彼の目的とはいったいなにか?大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは?ゼロ年代最高のフィクション、ついに文庫化。

 いやすごい本だった。
 紹介文にある〝ゼロ年代最高のフィクション〟ってのはぜんぜん大げさじゃない。すごい本だった。今まで読んだSFの中でもトップクラス。はじめから最後までずっとおもしろかった。

 まず著者の経歴に圧倒される。
『虐殺器官』で作家デビュー。『SFが読みたい! 2008年版』1位になるなど高い評価を受けるも、2009年3月に34歳の若さで肺癌で死去。その年、遺作の『ハーモニー』で日本SF大賞を受賞。

 嘘みたいな経歴だ。著者の本はすべて死後に出されたもの。尾崎豊みたいな経歴。もっと太く短い。

 そして本を読んでもう一度圧倒される。すごい。天才か。
 伴名練氏の『美亜羽へ贈る拳銃』という短篇は伊藤計劃作品へのトリビュートとして書かれたものだそうだ。あの才能豊かなSF作家が敬意を捧げるなんてどんな人かとおもったら、なるほどこりゃすごい。

 つくづく著者の夭逝が惜しい。もっと長く生きていたら、小松左京氏を超えるSF界の重鎮になっていたんじゃなかろうか。



 舞台は近未来というかパラレルワールドというか。9・11テロをきっかけに紛争が絶えなくなった世界。
 主人公は米軍の暗殺部隊のメンバー。各国の要人を暗殺するプロの暗殺者だ。

 それはつまり、殺す相手の姿と人生とを生々しく想像することに他ならない。相手に愛情を抱けるほどリアルに想像してから、殺す。最悪のサド趣味だ。定番の変態ナチスポルノならばうってつけの題材だろう。そんな悪趣味がなんらトラウマにならないのは、ひとえに戦闘適応感情調整のおかげだ。戦闘前に行われるカウンセリングと脳医学的処置によって、ぼくらは自分の感情や倫理を戦闘用にコンフィグする。そうすることでぼくたちは、任務と自分の倫理を器用に切り離すことができる。オーウェルなら二重思考(ダブルシンク)と呼んだかもしれないそれを、テクノロジーが可能にしてくれたというわけだ。

 任務(つまり暗殺)を果たすためのテクノロジーにまずしびれる。
 衝撃を和らげる人工筋肉、子どもをも殺せるようにするための戦闘適応感情調整、痛みを認識できるが痛さを感じない脳への操作。

 デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』によると、大半の兵士はたとえ戦闘状況でも、たとえ自分や仲間を守るためであっても、敵に向かって発砲することはできないのだそうだ。

 だから、近代における軍隊の訓練というのはほとんど「人を殺したくない気持ちを抑える訓練」なんだそうだ。
 映画『フルメタル・ジャケット』で描かれていたのも、新兵訓練所がどれだけ人間性を奪っているかということだった。

『虐殺器官』は、「人間は他人を殺したくないという良心を持っている」ことがきっちり書かれていて、同時に「状況次第ではかんたんに他人を殺すこともできる」ことも書かれている。その境界はひどく揺るぎやすいもので、誰しもが殺人者になれるということも。



 序盤は単なるSFサスペンス小説かとおもったのだが(だとしても相当ハイレベルだが)、ある暗殺ターゲットに逃げられたあたりから様相が一変する。

 ジョン・ポール。
 いまや、この男は内戦地帯をうろつく奇特な観光客ではないことが判明した。暗殺指令が出た当初から、それを立案し承認した人間たちにはわかっていたことだが、実行するぼくらにそれが教えられることはなかった。
ぼくらが幾度も殺そうと試みては失敗しているこの男が、世界各地で虐殺を引き起こしているということを。この男が入った国は、どういうわけか混沌状態に転がり落ちる。
 この男が入った国では、どういうわけか無辜の命がものすごい数で奪われる。

 この男がなんとも魅力的(ただ気に入らないのはジョン・ポールという名前が無個性すぎること)。ヒロインよりも、さらには主人公「ぼく」よりもずっと鮮烈な印象を与える。『羊たちの沈黙』のレクター博士のように。

 ジョン・ポールは〝ある方法〟で様々な国で内戦を引き起こさせる。その手段や目的が徐々に明らかになっていく展開はスリリング。しかも説得力がある。おもわずフィクションだということを忘れそうになるぐらい。
 ほんとにこうやったら大量虐殺が起こるんじゃない?
 ほんとにこういう目的で他国に大量虐殺を起こさせようと考える人もいるだろうな。
 そう思わされる説得力がある。

 ぼくは、小説のおもしろさを決めるのは「いかにうまくほらを吹くか」がほとんどだとおもっている。読者をうまく騙してくれる小説がおもしろい小説。
 虚実を織りまぜてもっともらしいことを並べたて、偶然に頼りすぎず、それでいて大胆に嘘をつく小説。ちなみにリアリティは必ずしもなくていいとぼくはおもっている。リアリティがなくてもおもしろい小説はいっぱいある。
『虐殺器官』はほらの吹きかたがすごくうまかった。ぜんぜん現実的じゃないのに、でも「ここじゃないどこかにはこういう世界もありそう」とおもわせてくれる。

 改めて言う。すごい小説だった。
 発想がほどよく壊れていてユニークだし、それでいて説得力があるし、そしてなによりおもしろい。最初から最後までずっとおもしろい。
 SF好きな人すべてにおすすめしたい小説だ。SFファンならとっくに知ってるだろうけど。


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2021年4月28日水曜日

【読書感想文】奇怪な機械 / 石持 浅海『三階に止まる』

三階に止まる

石持 浅海

内容(e-honより)
あなたの所は大丈夫?ボタンを押していないのに必ず3階で止まるエレベーター。住民が見たものとは?背筋の凍るミステリー短編集。


 一篇目の『宙の鳥籠』の出来がよろしくなかったので「これはハズレだったな……」とおもいながら読んだのだが、どんどん尻上がりになっていって、二篇目以降はほとんどおもしろく読めた。

宙の鳥籠』だけは書き下ろし作品らしいが、これだけ明らかに見劣りしている。

 しかも舞台は密室。登場人物はふたりだけ(その二人の会話の中には他の人物も出てくる)。すでに事件は起こっていて、書かれているのは謎解き部分だけ。
 結果、説明台詞のオンパレードだ。

 「君も知っている通り○○は××をした」「そう、君は△△をしたわけだ」「わかっているとおもうけど□□だよね」
 こんな台詞しゃべるやつおるかい。
 お互いにとってわかりきっていることを、時系列にとって丁寧に説明する。頭おかしいとしかおもえない。
 まあ世の中にはわかりきったことをぐだぐだぐだぐだとしゃべる人もいるが、切れ者という設定の人がこんなしゃべりかたをしたらだめだ。
 設定からして無理があるんだよね……。


転校』は超進学校を舞台にした作品。ミステリというよりSFショートショートのような味わい。これは謎解きよりも設定の異常性に重きが置かれているので悪くなかった。


壁の穴』は「女子更衣室を覗いている最中に殺された」という友人の汚名を返上するため、推理をする学生の話。
 都合のよい「高校生名探偵が殺人事件を解決!」になっていないのがいい。


院長室』は『EDS緊急推理解決院』というアンソロジーに収録されている一篇だそうだ。
 この一篇だけ読むと少々設定がわかりづらい。これだけでも一応わかるけど。
 緊急推理解決院の院長がまぬけすぎるのと、謎解きがすべて推測なのが残念。七瀬氏はもう結論がわかってたのに、なんでわざわざあんなことをしに行ったのか。


ご自由にお使い下さい』は6ページほどの作品。
 これも証拠のない推測がたまたま当たっただけで、推理の切れ味はあまりよろしくない。この長さだったら、ラスト数行で真実が明らかになるぐらいの鋭さがほしいな。


心中少女』は、心中するために廃墟を訪れた少女が死体を発見する……という設定は好きだった。これはどうなるんだろうと期待したんだけど、残念ながら期待を下回ってしまったな。
 でもこのへんでわかってきた。この人は奇をてらったどんでん返しよりも、地に足のついた「ありそう」な展開のほうが好きなんだろうな。そうおもって読むと悪くない。


黒い方程式』は設定がすごくよかった。
 トイレに出たゴキブリに殺虫剤をかけて殺した妻が、夫にドアを閉められてトイレに閉じこめられる。そして夫から告げられる意外な事実……。
 これもオチの意外性は少ないが、フランスの短篇映画みたいでよかった。フランスの短編映画観たことないから勝手なイメージだけど。


 ラスト『三階に止まる』。
 短篇集のタイトルにするだけあってよかった。この作品だけ毛色が違うのだが。

 新しく越してきたマンション。家賃は相場より安いし、住人もいい人ばかり。ただ一点気になるのは、なぜかエレベーターが必ず三階に止まること。一階から七階に行くときも、七階から一階に行くときも、途中で必ず三階に止まる。誰も乗り降りしないのに。どれだけ点検してもエレベーターに異状はない。はてしてエレベーターを三階に止めている原因は何なのか……。

「日常の謎」系ミステリかとおもったがそうではなく、オカルトだった。オカルトはあまり好きではないのだが(怖いとおもえないので)、「エレベーターがなぜか三階に止まる」というのが気に入った。なぜなら、いかにもありそうな現象だから。

 エレベーターって謎の動きをすることが多いよね。止まったのに誰も乗り降りしないこともあるし(押し間違いなんだろうが)、「七階で押したのに八階に止まってるやつより十階に止まってるやつのほうが先に来る」なんてこともある。
 以前読んだ数学の本に、エレベーターは複雑なアルゴリズムで動いていると書いてあったが、複雑すぎてまったく動きが読めない。もはやエレベーターって人知を超えてるんじゃないか

 だからエレベーターって電化製品でありながら怪奇現象と相性がいいよね。機械なのに奇怪。


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2021年4月27日火曜日

【芸能鑑賞】『ドロステのはてで僕ら』


内容紹介(映画.comより)
「サマータイムマシン・ブルース」などで知られる人気劇団「ヨーロッパ企画」の短編映画「ハウリング」をリブートした劇団初となるオリジナル長編映画。とある雑居ビルの2階。カトウがテレビの中から声がするので画面を見ると、そこには自分の顔が映っていた。画面の中のカトウから「オレは2分後のオレ」と語りかけられるカトウ。どうやらカトウのいる2階の部屋と1階のカフェが、2分の時差でつながっているらしい。「タイムテレビ」 の存在を知った仲間たちは、テレビとテレビを向かい合わせて、もっと先の未来を知ろうと躍起になるが……。

『サマータイムマシン・ブルース』などで知られるヨーロッパ企画の映画。

 70分ほどの映画だが、もしかしてこれ全部1シーン? 細かくチェックしてないけど場面転換が一度もないよね?(調べてみたらさすがに全編1シーンではないらしい。そう見えるけど)。
 映画というより芝居を鑑賞しているような気分になる。
 時間ものという難しいテーマを、場面転換を使用せずに処理しているのがすごい。


 2分後の未来(また2分前の過去)の自分と会話ができる〝タイムテレビ〟を手に入れたカフェのオーナー。カフェの常連客たちはあれこれとテストをして、ついに2分より先の未来を知る方法を発見するが、それがおもわぬピンチを引き起こす……。
 ヨーロッパ企画らしい(っていってもぼくは『サマータイムマシン・ブルース』しか観たことないんだけど)SFコメディ。
 未来を知ることができるのだが「2分だけ」というのが、絶妙に「あまり役に立たない」ライン。じっさいに登場人物は「コンビニのスクラッチくじを当てる」「ガチャガチャで狙っている商品をあてる」といったくだらないことに使う。このあたり、『サマータイムマシン・ブルース』でタイムマシンを「壊れる前のエアコンのリモコンを取りに行く」というくだらない目的のために使っていたのをおもいだす。

 中盤はひたすら〝タイムテレビ〟の使い方実験が続くのでやや退屈だが、「未来の自分の言っていたことが現実にならない」などのアクセントが効果的。
 そしてケチャップ、シンバル、ゼブラダンゴムシといった小道具の登場が実にニクい。まあシンバルは「これは後で何かあるな……」って感じだったけど。

 ストーリーはとにかくよくできていた。終盤で〇〇(ネタバレのため伏字)が出てきてからはちょっと説明くさい感じがしたけど。でもあそこのばかばかしい展開も嫌いじゃない。

 あととにかく撮影がたいへんだっただろうなと感心した。一発勝負だもんな。ちょっとだけカメラワークを失敗しているところがあるが、それはそれで新鮮でおもしろい。

 脚本はすごく緻密でよくできてるんだけど、登場人物のキャラクターはおもしろみにかける。みんな呑み込みが早いしいい大人だから落ち着いてるし。もっとバカなキャラクターがいてもよかったかな。

 とはいえ時間ものSFが好きな人ならまちがいなく楽しめる作品。


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2021年4月26日月曜日

休まない人

 世の中には仕事を休まない人がいる。
 とても迷惑な人だ。
 特にそういう人が上の役職に就くと、周囲はとても困る。


 書店で働いていたときのM店長がそういう人だった。
 早番のぼくが「お先に失礼します」と言うと、遅番のM店長は「犬犬くん、もう帰るんか。もうちょっとゆっくりしていけよ」と言ってくる。
 半ば冗談なのはわかるのだが、ぼくが定時ぴったりで帰ろうとしているならともかく、朝6時半に出勤してたっぷり4時間残業した上で「もう帰るんか」と言われると控えめにいっても殺意をおぼえる。

 じっさいM店長自身も残業大好きな人だった。毎日5時間ぐらいは残業していた。
 店舗運営というのは、社員の無給残業がそのまま店の利益に直結する。社員が1時間無給残業すればバイトを1時間早めに上がらせることができるのだから。そんなわけで長時間残業が常態化していた。

 あるとき、M店長が「おれ今日は歯医者に行くから定時ぴったりで帰るから」と言いだした。
 はあそうですかと言ったのだが、その後何度も「今日は歯医者の予約があるから」「どうしてもその時間しか予約がとれなかったから」と言い訳がましく口にする。ぼくだけでなく、他の社員やバイトにまで言っている。
 ははあ。さてはこの人、定時ぴったりで帰ることに罪悪感をおぼえてるな。

 言っておくが、誰も
「店長、ふだんは残れっていうくせに自分は早く帰るんですか」
なんて言ってない。
 みんな「どうぞ」と言っている。
 だがM店長は過去に自分が発した「もう帰るんか」という言葉に囚われ、帰れなくなっているのだ。

 己の言葉に呪われている。
 あほとちゃうか。ぼくはおもった。



 次に入った会社のH部長もそういう人だった。

 あるとき、ぼくがウイルス性の腸炎になって会社を二日休んだ。
 出社すると、H部長からねちねちと文句を言われた。

「会社に来られないほどしんどかったのか?」

「二日目はだいぶ良くなったのですが、まだ咳が出てまして。ウイルス性の病気なので他の人にうつしてはいけないとおもい休みました」

「出てこれるんなら出てこいよ」

 もともと「他の曜日ならともかく月曜日に風邪をひくのはたるんでる証拠だ」とわけのわからないことを言う人だった。
 「感染を防ぐために休んだ方がいい」ということがわからないのだ。


 数週間後、H部長はごほんごほんと咳をしていた。痰が絡んだ嫌な咳だ。ときどき額に手を当てている。明らかに具合が悪そうだ。
「具合悪いんですか」と訊くと、「ああ」と気まずそうに言いながら焦点の定まらない目でパソコンに向かっている。
 相当しんどそうだが、ぼくに「出てこれるんなら出てこいよ」と言った手前、休むことができないのだ。

 その数日後、H部長の近くの席の数人がインフルエンザで休んだ。そりゃああれだけ派手に咳をしてる人が近くにいたんじゃあな。

 無理して出社したH部長、どう考えても迷惑しかかけていない。



「休まない人」は迷惑でしかない。周囲も会社も自分自身も苦しめる。

 困るのは、こういう人は経験から学ばないことだ(経験から学べる人は体調不良のときは休んだほうがいいことを知っている)。
 だからこうして失敗しても、反省するどころか「インフルエンザの苦しさと闘いながらがんばった俺」という都合のいい記憶だけをおぼえていて、別の人が休んだときには「おれは39度の熱でも無理して出社したのにこいつは38度で休みやがる」と考える。

 困ったものだ。
 新型コロナウイルスの流行で感染症に対する知識が広まったおかげで、こういう人たちも減っているだろう。早く絶滅してほしいものだ(考えを改めるか、もしくはご逝去あそばすかのどちらでもいいので)。


2021年4月23日金曜日

「わかりやすい!」はわかるようになってない

 高校時代、勉強ができたのでよく他の生徒から「教えて」と言われた。仲の良い友人だけでなく、あまり話したことのない生徒まで「これどうやって解くん」と訊きにきた。それをきっかけに親しくなった友人もいる。

 教えるのは嫌いではないので、丁寧に教えてあげた。
「この公式を使うねんで」
「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」
「背理法を使うねん。この命題が真でないと仮定すると……」
と。

 すると、教えられた人たちはこう言う。
「なるほど! よくわかった!」
「すげえな。先生の説明よりわかりやすい!」
「そっか。そう考えればそんなに難しいことじゃないな!」

 ぼくは気を良くする。教えてあげた甲斐があった。


 さて。
 ぼくに解き方を教えられた人たちは、その問題を解けるようになったか。
 答えはYes。ただし、その問題だけは

 後日似た問題に出会うと、また解き方がわからない。そしてまたぼくに訊きにくる。ぼくはうんざりする。前に教えたのとほとんど同じ問題なのに……。


 今ならわかる。ぼくの教え方が悪かったのだ。
 ぼくは解法を教えていただけで、考え方を身につけさせようとはしていなかった。
 料理の作り方がわからない人にレシピを渡して「この通りにつくるといいよ」と言っていただけだ。レシピを見て作ればそれなりの料理ができるが、一か月後にレシピを見ずに同じ料理を作ってくださいといってもまず無理だろう。

 教える人が気を付けなくてはならないのは、
「わかりやすい!」という言葉だ。

 逆説的だが、「わかりやすい!」と感じたときはわかるようになってない
 すでにわかっていることを再確認しただけだ。

 ぼくが「階差数列を見たら、等比数列になってることがわかるやろ?」と説明したときに「わかりやすい」と感じた人は、「等比数列とは何か」「階差数列から元の数列を導くにはどうしたらいいか」はすでに知っていた。だからぼくの説明を「わかりやすい」と感じた。知っているものを組み合わせただけだから。
 だが「どういうときに階差数列を見ればいいか」はわかっていなかった。ぼくが「この問題では階差数列を調べればいい」と解法を教えたから、それ以上考える必要もなかった。


 元々自分が持っている知識だけで解ける問題はわかりやすい。じっくり考える必要がないから。
 だから「わかりやすい」と感じたということは、頭を使っていないということだ。

 ぼくの説明は「AはBだ。BはCだ。CはD以外に考えられない。だからAはD」というものだった。
 いい指導とは、相手が「BはCだ」をわかっていないことを見抜き、
「AはBだ。Dを導くためにはCであることを証明する必要がある」と教えることだ。
 すると相手は考える。AがBになることはわかる。CがDになることもわかる。ではなぜAがDになるのか。
 あれこれ考えた結果「BはCだ」という結論に達する。これではじめて知識が身につく。



 数学にかぎった話ではない。

 人は「わかりやすい!」を求めている。
 小難しいデータやあらゆる可能性を並べたてる専門家よりも、単純明快で結論もはっきりしている素人の話に飛びついてしまう。
 だってわかりやすいから。頭を使わなくても理解できるから。なんら学ぶものがないから。
 新たに学ぶものが何もない、こんなに「わかりやすい」ものはない。


 教えた相手から「わかりやすい!」と言われたときは悦に入るのではなく、自分の説明が未熟だったと反省しなければならない。


2021年4月22日木曜日

姉妹げんか

 長女(七歳)と次女(二歳)。

 五つも離れてたら喧嘩することはないよねとおもっていたらおおまちがい。毎日のように喧嘩をしている。

 喧嘩の原因は
「次女が長女のおもちゃを勝手に使って、長女がとりあげた」とか
「次女がおもちゃで遊んでいたら長女が『貸して』と強引にとりあげた」
とか些細なものだ。

 まともにやりあえば次女に勝ち目はない。力でも口でも二歳児が小学生にかなうはずがない。

 だが要領は次女のほうがずっといい。次女は自分の持っている武器を心得ている。

 姉と喧嘩をすると「おかあさん、ねえねがばかっていったー」とか「おとうさん、ねえねがキックしたー」とか言いつけにくる(キックといっても足が軽くふれた程度だが)。

 ちゃんと「弱い自分」をわきまえていて、その弱さを武器に、もっと強い大人に訴えるのだ。しかも「ねえねがおもちゃをとった」とは言わない。なぜならそのおもちゃは姉のだから。その論点で戦うと分が悪いことをわかっているのか、「ばかっていった」「キックした」などの攻めやすいところを訴えるのだ。したたかだ。


 二歳ともなると、言葉こそまだまだ未熟なものの、いろんなことを理解している。
「これは姉のおもちゃだから勝手に使うと怒られる」ことはちゃんとわかっている。
 その証拠に、姉が近くにいるときはぜったいに手を出そうとせず、姉がトイレに立った隙を狙ってすかさず手を伸ばすのだ。

 ぼくはそれをにやにやしながら見ている。「あーあー。長女が戻ってきたら怒られるぞー」とおもうが、何も言わない。どうなるんだろうと楽しみながら見ている。
 案の定、長女が戻ってきておもちゃをとりあげる。泣く次女。しかしこのときは「ねえねがとったー」とは言いつけにこない。使ったらいけないものを使ったとわかっているのだ。

 そう。「弱い自分」という武器も、使いすぎれば力を失う。いつもいつも被害者面していてはやがて相手にされなくなるとわかっているのだ。だからここぞというときに使う。やるやん。



 次女が「ねえねがばかっていった―」と言いにきても、ぼくは長女をしからない。
 基本的に姉妹げんかはほったらかしだ。
 次女を「ばかちゃうのになー」「そっか。キックされたんかー」と慰めはするが、現場を見ていない人が一方的に裁くことはしないよう心がけている。

 ぼくの姪は、よく四歳下の弟をいじめて怒られている。

 弟と喧嘩をする → まわりの大人が弟にやさしくする → 姉はおもしろくないからますます弟に厳しくあたる → ますます大人は弟にやさしくする

 これを何度も見た。
 弟のほうもかわいそうだが、姉のほうもかわいそうだ。年上というだけで、喧嘩をしたら罪が重くなるのだから。

 だからぼくは、娘たちが喧嘩をしていたらどちらの肩も持たないようにしている。
「ねえねに○○されたー」「(妹)が××してきた!」と言いにきても、「ふーん。おとうさんは見てへんかったわー」と言うだけだ。

 

 それにしても。次女のほうはほんとにうまくやっている。

 きょうだいの下の方は要領がいいというが、それにしたって二歳でここまでうまく立ちまわれるものだろうか。

 ぼくや妻が長女に注意をすると、次女はそれを真似する。

妻「脱いだパジャマかたづけてよ」
次女「ねえね、ぬいだパジャマおいてるー」

ぼく「椅子の下にごはん落ちてるから拾っといて」
次女「ねえね、ごはんおとしてるー。あかんなー」

 そのたびに長女は神経を逆なでされている。二歳児に説教されるほど腹の立つことはない。
 こいつ、ほんとはぜんぶわかっててわざと姉を怒らせるようなこと言ってるんじゃないか。次女を見ているとそんなふうにおもえてそらおそろしくなる。

 でも叱れない。だって二歳児かわいいもん。二歳児最強にして最恐。



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不公平な姉弟


2021年4月21日水曜日

【読書感想文】第二の平家物語の時代が来るのか / 広瀬 浩二郎『目に見えない世界を歩く』

目に見えない世界を歩く

「全盲」のフィールドワーク

広瀬 浩二郎

内容(e-honより)
「全盲」から考える社会、文化、人間。目が見えないからこそ見える世界とは。目が見えない人は、目に見えない世界を知っている―。障害当事者という立場から盲人史研究に取り組み、現在は独自の“触文化論”を展開する文化人類学者がその半生と研究の最前線を綴る。

 全盲でありながら点字受験に合格して京都大学に入学し、研究者になった著者による「目に見えない世界」の紹介。

 うーん。
 障害者の人の書いた本にこういうことを言うのは気が引けるけど……。いや、それはよくないな。等しく扱うべきところは分け隔てすべきでない。だからはっきり言おう。つまんねえ。

 なんか、視覚障害者協会の会報に載せる文章って感じだったな。
「ぼくはこんな活動をしてきました」「これからはこんなことをしていこうと考えています」
という活動報告。
 広瀬さんに興味のある人はいいかもしれないけど、この本で広瀬浩二郎さんを知ったぼくのような人間からすると、ぜんぜん興味が持てない。へー。そんな活動してはるの。がんばってはるねー。ほなおきばりやすー。ぼくの知らんところで。

 ずっと身内向けの話なんだよな。すでに広瀬さんの活動・研究内容に興味を持っている人向けの文章で、新たに興味を持ってもらおうという文章ではない。

 たぶんこの人からすると今までの人生で「目が見えないゆえの苦労」とか「目が見えない人として社会に期待すること」みたいなのを一万回ぐらい訊かれていて飽き飽きしているんだろうけど、でもやっぱりとっかかりになるのはそういう話なんだよな。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のほうがずっとおもしろかったな。




「目の見えない人」というと、ぼくらはつい「能力を欠いた人」とおもってしまう。
 だが、視覚に頼らない生活をしている人は「視覚の代わりにべつの能力を研ぎ澄ました人」でもある。

 伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』には、全盲の人が
「月を思い浮かべるときは円ではなく球でイメージする」
「地図をイメージするときは高低差も含めた三次元的なマッピングを脳内に描いている」
という例を紹介している(全員ではないだろうが)。 ぼくらは物事を正確に見ているようで、じつは脳でずいぶん補正している。

 たとえば月を写真に撮ってみると「えっ、月ってこんなに小さいの?」と驚かされる。ほんとは我々が見ている月は小さいのに、脳が勝手に拡大しているのだ。
 目が見えないからこそ、より正確に対象をとらえられる場合もあるのだ。


 見る時は外にいる、聴く時は内にいる。映画を見る鑑賞と聴く鑑賞の違いを一言で要約すると、このようになるでしょうか。僕が副音声解説を聴きながら映画を楽しむ場合、しばしば出演者とともにドラマの中に入り込む感覚にとらわれます。自分も映画のストーリーに参加しているような錯覚は、視覚では感じにくいものです。画面を見て映画鑑賞する際、大半の晴眼者はドラマの外にいて、出演者の動きや景色を追いかけています。つまり、聴く人は「参加者」、見る人は「観察者」なのです。

 ふうむ。
 ぼくは眠りにつく前に落語を聴くことがあるのだけれど、目をつぶって落語を聴いているとすぐ近くでやりとりがくりひろげられるような気になる。
 マンガを読んでいて世界に入りこむことはないから(入れる人もいるんだろうけど)、やはり聴覚のほうが臨場感を味わいやすいんだろう。

 視覚優位の今日、インターネットやテレビを介して、僕たちは厖大な画像・映像を日々見て(見せられて)います。しかし『平家物語』が大流行する中世には、視覚以外の情報も尊重されていました。「より多く」「より速く」という近代的な価値観は視覚の特性に合致していますが、『平家物語』を支えていたのは、それとは相容れない独自の世界観・人間観だったのです。
 源平の合戦が各地で繰り広げられたのは一一八〇年代でした。それから五〇年ほど経過すれば、リアルタイムで戦を「見た」人はほとんどいなくなります。そんな時、〝音〟と〝声〟で歴史を鮮やかに再現したのが琵琶法師だったのです。彼らは自己の語りにリアリティを付与するために、色彩表現を随所に鏤め、聴衆の想像力を刺激しました。那須与一が扇の的を射る情景描写は、画像・映像に頼らない聴覚芸能の真骨頂でしょう。中・近世の老若男女は、琵琶法師のゆっくりとした語りを聴きながら、長大な歴史絵巻を自由に思い描いていたのです。「より少なく」「より遅く」という所に、じつは『平家物語』が聴衆を引き付けた魅力があったのかもしれません。

 現代は視覚のほうが聴覚よりも圧倒的に優位な時代だが、ここ数年でちょっと流れが変わってきたようにおもう。

 YouTubeをはじめとする動画の氾濫、そしてオーディオブックの隆盛だ。
 ぼくは耳からの情報を処理するのが苦手なのでYouTubeもほとんど見ないしオーディオブックも聴いたことがないのだけれど、今後はさらにその比重が高まるだろう。
 ぼくだって歳をとって老眼が進めば、オーディオブックに切り替えるかもしれない。

 ひょっとするとまた平家物語のように「語り」の物語が主流になるかもしれない。


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授業を聞かないほうが成績がよくなる



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2021年4月20日火曜日

【読書感想文】「顧客の顔が見える仕事」は危険 / 山本 幸久『店長がいっぱい 』

店長がいっぱい 

山本 幸久

内容(e-honより)
ここは友々家。国内外に総数百二十七店舗を展開する他人丼のチェーン店だ。ひと癖ある社長と創業者会長の元、左遷組、転職組、離婚した主婦、家出青年と、いろんな店長たちが奮闘中。不満は山ほど、疲れも溜まりトラブル多発。でも店長たちは今日も明日も、誰かのために店を開けています。さあ、いらっしゃい。超絶技巧のトロトロ卵で、きっと元気になれますから。

 他人丼のチェーン店を舞台にした連作短篇集。
「店長の仕事はたいへんだけどときにはこんないいこともあるよね」みたいな人情話が並ぶのかとおもったら、ほぼ「店長の仕事はたいへんだよね」だけだった。

 まあね……。ぼくも店舗(書店)で働いてたからわかるけど、ほんとにつらいことばっかりだった。そりゃその中に1%ぐらいは楽しいこともあったんだろうけど、もうぜんぜんおぼえてない。
 朝6時から夜20時までの勤務。休憩は30分、しかもトラブルがあれば休憩中でも呼び出される。クレーマー対応。ガラの悪い客の相手。安い給料。長時間のサービス残業があたりまえで、たまに早く帰ると小言を言われる。
 もう愚痴が止まらなくなるからこのへんにしとくけど、まあ書店にかぎらずどの店も同じようなもんだろうな。「社員が長時間働くほどバイトの人件費を削れて利益が出る」という構造があるかぎり変わらないよね。

 ぼくもぐうたらなりに十数年社会人やってておもうのは、「顧客の顔が見える仕事」は危険だなってこと。
 顧客の顔が見える仕事はやりがいを感じやすい。でもやりがいの感じやすさと待遇の良さはたいていの場合反比例する。「きつくてやりがいを感じられない仕事」はみんなやめていくから、「きついけどやりがいのある仕事」だけが残るのかもしれない。



 本の感想は……。
 特に言うことないや。

 というか数日前に読み終わったばかりなのに、もうほとんどおぼえていない。つまりはそういう小説だってこと。
 でも悪い意味ではなく、ひまつぶしに読むにはちょうどいい小説だとおもう。娯楽小説ってそういうもんだから。
 つまんない小説のほうが後々までずっとおぼえてるからね。


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2021年4月19日月曜日

【読書感想文】少年Hにならないために / 堤 未果 中島 岳志 大澤 真幸 高橋 源一郎『NHK100分de名著 メディアと私たち』

NHK100分de名著
メディアと私たち

堤 未果  中島 岳志  大澤 真幸  高橋 源一郎

内容(e-honより)
現代社会に蔓延する「空気」の実相に迫る!
リップマン『世論』、サイード『イスラム報道』、山本七平『「空気」の研究』、オーウェル『一九八四年』の4作品をとりあげ、「偏見」や「思い込み」「ステレオタイプ」の存在に光を当てるとともに、いま私たちがとるべきメディアへの態度について考える。

「これは読まねば!」と即購入した執筆陣&テーマだった。

 堤未果氏と中島岳志氏についてはファンで、著作はかなりの部分に目を通している。大澤真幸氏はぼくの通ってた学部の先生だった(といっても彼の授業を受けたことは一度しかないが)。『「空気」の研究』『一九八四年』は心にもやもやを与えてくれるいい本だった。



 サイード『イスラム報道』については、読んだことはおろか存在すら知らなかったけど、中島岳志氏の紹介で興味を持った。

「アメリカ人はイスラムと自分たちの間に線引きをして、まったく別の人たちとみなしている」というのがサイード氏の指摘らしいが、これはアメリカだけの話ではない。日本人の多くも同じだ。かくいうぼくも無意識のうちにイスラム教徒を「理解不能なもの」とみなしている。

 理解できないことがあっても「なぜそのような行動に至ったのか」と考えることを放棄して「イスラムだからね」で片付けてしまう風潮がある。
 日本人が人を殺したら「いったい何が彼を追い詰めたのか」と考えるのに、イスラム過激派のテロ行為は「やっぱりイスラムは理解できない」で済ませてしまう。イスラム教徒の中でも思考は千差万別なのに、全部ひとまとめにして「イスラム」というシールをべたっと貼って遠くへ押しやってしまう。


 ぼくの高校時代の女ともだちがエジプト人と結婚した。彼女はイスラム教に改宗した。
 彼女が日本に帰ってきたときに会ったのだが、ヒジャーブ(イスラム教の女性が顔を隠すために巻くスカーフ)を巻いた彼女を前に、ぼくは妙に気をつかってしまった。
「豚肉とかだめなんだよな」
「こんな話題はやめたほうがいいかな」
とあれこれ気を回してしまった。

 よく考えたらべつにぼくが気にする必要はないのだ。NGなら本人がノーというだろうから。
 これが「キリスト教に改宗した」なら、ここまで意識しなかったとおもう。
 やはり「イスラム教徒だ」というだけで無意識に線引きをしてしまうのだ。 


 この本にははっきりとした言及はありませんが、サイードは「アメリカは敵を欲している」という印象を持っていたと、私は考えています。アメリカは長く、ソ連に対抗するために政治・軍事の体制を構築してきました。しかしベトナム戦争が終わり、七〇年代の後半になると、共産勢力は圧倒的に弱体化していきます。さらに、中国との国交が正常化し、「デタント」(緊張緩和)と呼ばれる時代が来た。ソ連や共産勢力という敵を失ったアメリカの情報機関は、存在意義が揺らぎかねない状況に追い込まれるわけです。そこでイラン革命が起きた。ソ連や東欧諸国に替わる「別の新しい敵」は、情報機関にとって、自分たちの地位を守るためにはうってつけの存在でした。

 これまたアメリカだけじゃないよね。
 日本もまた、常に敵を欲している。戦争中はアメリカ、終戦後はソ連をはじめとする東側国家、冷戦終結後は北朝鮮であり韓国であり中国。常に「仮想敵国」を持っている。たぶん日本だけじゃなくてどの国も。

 興味深いのは、〝仮想敵国〟は同時にたくさん持てないこと。
 ぼくの記憶では、北朝鮮の拉致問題が話題だったときや911テロの後は韓国や中国とは友好ムードだった。北朝鮮やイラクやアフガニスタンを敵視している間は、他の隣国をライバル視しなくなるんだよね。
 同時にあちこちを憎めるほど人間、器用じゃないんだね。



 山本七平『「空気」の研究』、原著を読んだときには理解できない部分も多かった。たとえに出てくる話が古いのもあって。

 しかし大澤真幸氏の解説、とりわけ山本七平氏が洗礼を受けたクリスチャンだという指摘を受けて読むと、わからなかったところがすっと理解できた。

 もう一つの事例は「ヨブ記」です。これは『旧約聖書』の中で最も重要なテキストだと思いますが、宗教的にはあまりありがたくない話なのです。これは、東西の智慧の精髄を集めた「箴言」に書かれた徳目をすべて守った「完全に正しい」裕福な人間が、次々にひどい目に遭うという話です。普通、信仰に篤く徳目を守れば、報われて幸せになれるのが当然だと考えるでしょう。しかし、この人は「財産を失い、家族を失い、癩病のような皮膚病にかかり、そのため町を追われ、ごみ捨て場に座って、陶片で体中のかさぶたを搔くような状態」になってしまうのです。
 山本さんの解釈では、これもある種の正義の絶対化に対する警告です。つまり、よいことをした人は必ず恵まれ、信仰を捨てれば必ず不幸になる、というようなことではない、と。「正義は必ず勝つ」と信じていて、またそれが当然よいことだと思っている日本人からするとびっくりするような内容ですが、考えてみると、山本さんの言っていることに説得力がある。よいことをする人が必ず恵まれるのならば、恵まれていない人はみんな悪い人なのか、となる。山本さんも、正義が必ず勝つのなら「敗れた者はみな不義なのか」と書いています。つまり、「ヨブ記」は地上における成功などというものはすぐに相対化できるものなのだ、ということを示すためにあえて聖書の中にあるというのです。

「あ、そういうことか!」
 これを読んで、遠藤周作『沈黙』をおもいだした。

 十数年前『沈黙』を読んだ。
『沈黙』のあらすじはこうだ。日本にやってきたポルトガル人の司祭がは苦境に立たされる。彼はとらえられ、踏み絵を迫られる。踏まなければ自分が拷問されるだけでなく、他の信者までが殺されることになる。司祭はずっと信じている、いつか神が奇跡を起こして救ってくれると。だがとうとう最後まで奇跡は起きず彼はキリスト像を踏んでしまう……。

 ぼくには理解できなかった。やはりクリスチャンだった遠藤周作が何を伝えたかったのか。ポルトガル人司祭は常に他人のため、神のために行動しているのにとことん救われない。ずっとずっと苦しんで、最後に救われるのかとおもいきやとうとう最後まで救われない。
 ぼくには、この物語から「奇跡など起きない」「信じても救われない」という結論しか引きだせなかったからだ。

 だけど、この解釈を読んでやっと理解できた。
「神を信じて正しい行動をすれば救われる」は、まだまだ人間の尺度でものを考えている証拠だ。「正しい行動」も「救われる」も相対的なものだ。人間には「これこそが正しい行いだ」という絶対的な尺度を持つことができない。
 そうか『沈黙』が伝えるのは、人間はどこまでいっても不完全であること、神は絶対的な存在なのだから人間の考える正しさなど超越しているということか……。

 十数年間ずっともやもやしていたものがやっと腑に落ちた。
 遠藤周作は「神を信じても無駄だ」と言いたかったわけではなく「神を信じていれば救われるという短絡的な考えは誤りだ」と言いたかったわけね。たぶん。




 少し前、武田総務相が国会答弁に立った総務省の鈴木信也氏に向かって「『記憶にない』と言え」と命じ、鈴木信也氏は「記憶にありません」と答弁した(おそろしいことにこの公然の不正行為に関して誰も何の処分も受けていない)。

 あの光景を見て、ぼくは「『一九八四年』の二重思考だ!」とおもった。
 二重思考(ダブルシンク)とは、「自分の記憶と党の主張に矛盾があった場合は、記憶を改変して党の主張を信じなくてはならない」という思考方法だ。ジョージ・オーウェル『一九八四年』の世界では、国民はこの考えを叩きこまれている。つまり「党がまちがえた」とおもってはいけないわけだ。党の過去の主張と今の主張が食い違うなら、修正すべきは党ではなく自分の記憶なのだ。
 鈴木信也氏は自民党の利益を優先するために、自分の記憶を消したのだ。すごい能力の持ち主だ。

 だが二重思考をするのは『一九八四年』のオセアニア国民や、鈴木信也氏だけではない。

 第二次世界大戦で、日本は負けて降伏しました。その後、教育の中身が変わったことがあります。それまで学校では、鬼畜米英とか天皇陛下万歳と教えていたのに、夏休みが終わって、新学期が始まったら、アメリカはいい国だ。日本は民主主義の国だ。そう、先生が言い始めた。(中略)「鬼畜米英」って言ってた先生が、まったく同じような調子で「民主主義が大事です」と言うようになった。いったい、先生の中ではどんなロジックがあって、そんなことができたのか。そうです。「二重思考」なんですね。誰が言い出したわけでも、命令されたわけでもなく、生き延びてゆくために、「二重思考」を採用するしかなかったんです。ずっと「鬼畜米英」とか「天皇陛下万歳」と言っていた。でも、それがダメだということなったので、自分が、そんなことを言っていたのは忘れて、まるで昔から「民主主義が大切です」と言っていたように思い込む。そんなことが可能なのか。可能なんですね。
 実は、昔から、心の中では、戦争に反対していた。戦争が嫌いだった。けれど、周りが賛成しているから、口に出せなかった。別に、いきなり、「民主主義がいい」と思ったわけではなく、「心の底」ではうすうすそう思っていた。誰だって、心の中では、さまざまな思いが交錯しています。もともと、自分は戦争に反対していた。なんとなくそんな気がしてくる。先生だけではなく、実に多くの日本人が、戦争が終わると、それまでの戦争協力の気持ちを失ってしまいました。終戦の日を境にして、日本人の中身がすっかり変わってしまったように見えるほどに、です。ずっと戦争に賛成していた人が戦争が終わった途端、俺は本当は、戦争に反対していたんだと言い出した。やっぱり戦争のない世の中がいいと、みんなが言い出した。そこには、「二重思考」と同じメカニズムが働いていると思います。ここに欠けているのは、苦悩です。変化しなければならないことへの苦しみなのです。恐ろしいことですが、わたしたちは、誰でも、そういうことができてしまうのですね。

 なるほど、言われてみれば〝二重思考〟はそこかしこで見られる。

 小泉改革はだめだとおもってた、民主党に政権なんか任せたらだめだってわかってたことなのに、おれは前から原発が危険だとおもってた、あの不祥事をやらかしたタレントは前々から嫌いだった。
 ぼくらはかんたんにこう口にするし、心の底からそう信じてしまう。前からあいつはダメだとおもってたよ、と。

 どの本に書いてあったか忘れたけど、「前の選挙で誰に投票しましたか?」と無記名のアンケートをとったところ「当選した人に投票した」と答えた人の割合は、当選した候補者の得票率よりもずっと多かったそうだ。つまり「自分の選択は多数派と同じだった」と記憶を改竄してしまうのだ。

 ぼくが中学生のとき、妹尾河童『少年H』という本がベストセラーになった。戦中の少年時代をふりかえる自伝的小説だ。ぼくも『少年H』を読んだ。そして気持ち悪さを感じた。『少年H』には、
「日本中みんな戦争賛美ムードだったけど、ぼくとぼくの家族だけは戦争に反対してた」
という言い訳(にしかおもえなかった)が延々と並んでいたからだ。

 いや、知らんよ。ほんとに妹尾河童一家だけは戦争反対だったのかもしれないよ。
 でも戦後になって「我々は反対してましたから! 他のみんなとはちがって!」というのはずるくない? とおもったわけ。
 内心どうだったかは誰にも(当人にも)わからないわけで、はっきりしているのは「声を上げて反対しなかった」という事実だけ。
「命を投げだしてでも反対の声を上げるべきだった!」という気はないよ。でも声を上げて反対しなかった人が後から「おれは最初から反対だったんだけどね」とぐじぐじ言うのはいちばん卑怯なおこないだとぼくはおもう。なぜなら反省がないから。
「おれは内心反対だった」といえば責任を感じなくて済むからね。そういうやつは何回でも同じ失敗をくりかえす。

〝二重思考〟は誰もがやってしまう。もちろんぼくも。それを自覚しなくちゃいかん。
「おれは前からうまくいかないとおもってたんだよ」と感じたときは、己の記憶を改竄している可能性をまず疑ったほうがいい。少年Hのような反省のない人間にならないために。


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2021年4月15日木曜日

ツイートまとめ 2020年8月



避難所

イソジン

今できること

王手

BGM

正しく

売場

ネコバス

下ネタ

ロシア

リアクション

古本屋

カラス

健康

ボーっと生きていないからこそわからない

ツッコミ

セクハラ

変遷

信仰の自由

効果



2021年4月14日水曜日

【読書感想文】小説の醍醐味を感じられる短篇集 / 向田 邦子『思い出トランプ』

思い出トランプ

向田 邦子

内容(e-honより)
浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男。おきゃんで、かわうそのような残忍さを持つ人妻。毒牙を心に抱くエリートサラリーマン。やむを得ない事故で、子どもの指を切ってしまった母親など―日常生活の中で、誰もがひとつやふたつは持っている弱さや、狡さ、後ろめたさを、人間の愛しさとして捉えた13編。直木賞受賞作「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」を収録。

 その世代の多くの女性がそうであるように、母は向田邦子作品が好きだった。
 テレビで向田邦子脚本のドラマをやるときは熱心に観ていたし、本棚には向田邦子さんのエッセイが並んでいた。
 『霊長類ヒト科動物図鑑』という興味深いタイトルに惹かれてぼくも手に取ってみたことがある(ぼくは母の本棚によって大人向けの本を読むようになった)。おもしろさがさっぱりわからなかった。まあそりゃそうだ。男子小学生向けじゃないもの。


 それからに二十数年ぶりに向田邦子さんの本を手に取ってみた。いい。実にいい。
 向田邦子さんってこんなに小説がうまかったんだ。
 個人的に「うまい小説」ってあんまり好きだじゃないんだよね。鼻につく感じがして。正確に言えば「うまいことを見せつけてくる小説」が嫌いなんだな。技巧的な文章とかこれ見よがしな比喩とかをふんだんに使って。

 でもこれは好き。にじみ出るようなうまさ。さらっと書いているようにおもえる。
 じっさいはそんなことないんだろうけどさ。でも「推敲なんてしてません」って感じが漂ってくる。それぐらい自然な文章。



 小説の題材も「そこを切り取るか!」と言いたくなるようなものばかり。

「よその家で火事が起きたときや葬式のときに妙にはりきる妻」
「妻が医者に対して甘えたような声を出す」
「魚屋の若い男がうちに来て犬の世話をするのが助かるがうっとうしい」
「小さい頃から守ってあげたくなるタイプだった妹が、夫と視線をからませていた」
「仕事に困っている写真屋に仕事を依頼したら、必要以上にへりくだってくるのが嫌になった」
「世渡りだけはうまい従兄弟に後ろ暗い秘密を知られてしまったのかもしれない。知られたところでどうということもないのだが、はっきりわからないので気がかりだ」

といった、大きなトピックではないけれど、当人にしたらのどに引っかかった小骨のようになんとなく気になる出来事を鮮やかにすくいとっている。
 ふつうの人ならもやもやしても五秒で忘れてしまうことを一篇の短篇にしてしまうのだから、うまいと言わずしてなんという。

 この人、俳句とか短歌とかもつくらせてもうまかったんじゃないかな。一瞬の感情の揺れを切り取るのがすごくうまい。



 個人的に好きだったのは、

 あまり器量のよくない女を愛人として囲っている男が、女が少しずつ垢ぬけてゆくたびに愛情が冷めてゆく『だらだら坂』と

 不慮の事故で息子の指を切り落としてしまったことがきっかけで離婚した母親があれこれと考え事をする『大根の月』。

 自分の人生とはまったく無縁の話なのに、なぜか「こういうことあるなあ」と共感してしまった。赤の他人の人生を追体験できる、小説の醍醐味を感じられる短篇だった。


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2021年4月13日火曜日

【読書感想文】情熱と合理性のハイブリッド / 正垣 泰彦『サイゼリヤ おいしいから売れるのではない 売れているのがおいしい料理だ』

サイゼリヤ
おいしいから売れるのではない
売れているのがおいしい料理だ

正垣 泰彦

内容
「自分の店はうまい」と思ってしまったら、もう進歩はない。物事はありのままに見て、データに置き換えよ。失敗は成功のためにある。商売は、やっている人間が楽しくなければ続かない――。国内外で1300店を超すレストランチェーンを築きあげたサイゼリヤ創業者による、外食経営の指南書。

 サイゼリヤにはよく行く。ただの客としてだが。うちの家から歩いて行ける距離に二軒もサイゼリヤがある。なんて恵まれた立地だ。サイゼリヤがあるからここに住んでいると言っていい。それは嘘だ。

 サイゼリヤは信じられないぐらい安い。がんばってあれこれ注文してもひとり千円分ぐらいしか食べられない。五百円でも満足いく。
 一度、友人たちと昼間からサイゼリヤで飯を食ってワインをデカンタで何杯か頼んでつまみにエスカルゴやらハムやら頼んで三時間ぐらい居座ったことがあるが、それでもひとり二千円ぐらいだったか。安すぎて心配になるぐらい安い。
 それでいてうまい。某ファミリーレストランだと「麺とか安いハンバーグは(値段の割に)うまいけど、ちょっと奮発してステーキを頼んだたら大失敗だった」なんてことになるのだが、サイゼリヤは全部うまい。安いメニューも、高いメニューも(といっても千円しないのだが)全部うまい。
 特に2020年秋限定の「ラムときのこのきこり風」はうまかったなあ。あれを目当てに再訪してしまったぐらい。あれが七百円で食えるなんて。

 ぼくは味音痴なのでたいていのものはおいしく食べられるのだが、ホテルのフレンチレストランでシェフをしている幼なじみも「サイゼリヤはうまい」と言っていた(じっさいよく行くらしい)ので、サイゼリヤのおいしさは本物なのだ。



 そんな「サイゼリヤ」創業者が外食店経営について語った本。

 外食産業とはまったく関係のないぼくにとっても、なるほどと感心することが多かった。

 だからサイゼリヤは、店長に売り上げ目標を課していない。店長の仕事は人件費、水道光熱費など経費をコントロールすることだ。店の売り上げは「立地」「商品」「店舗面積」で決まる。売り上げが悪くなるとすれば、商品開発をする本社の責任で、店長のせいではないからだ。
 それに「売り上げを何とかしろ」と店長に言えば、販促にお金を使うしかなくなってしまう。私は広告宣伝や販促をしたことはないが、仮にそれらを実行してお客様が増えても、急な客数増による慣れない仕事で現場が疲れるだけだ。やみくもに販促をしたり、安易なひらめきでアイデア商品を投入したりする店もあるが、短期的には売り上げが増えても、生産性を下げ、長期的には店の力を弱くしてしまうだろう。
 ほとんどの人は売り上げが増えれば、利益も増えると思っているが、それは違う。利益は「売り上げ」-「経費」。売り上げが増えなくても、無駄を無くして、経費を削れば利益は増える。経営者は日頃から、売り上げが減っても利益が増える店を目指すべきで、売り上げが減って利益が出ないから困るというのは、今まで無駄なことをたてくさんしていたというのに等しい。

 なるほどねえ。
 外食産業に関わったことがないが、DVDやCDも取り扱っている書店で働いていたのでぼくも「売上重視主義」には疑問を持っていた。
 ぼくが働いていた店の売上は、店員の努力と関係ないところで決まっていた。
 村上春樹の新刊が出れば文芸書の売上は上がるし、『ONE PIECE』と『NARUTO』と『HUNTER×HUNTER』の新刊がそろって出たときはコミックの売上がすごいことになった。
 DVDやCDも同じだった。EXILEやAKB48や嵐の新譜が出るかどうかで月の売上は大きく違った。
 あとは競合店の有無とか、客の懐事情とか、天気とか、近くでイベントがあるとか、要するに「店ではコントロールできない事情」によって売上はほとんど決まっていた。
 そりゃあ接客態度とか陳列方法とかも多少は影響あるだろうけど、「この店は接客がいいから欲しい本ないけど無理して買おう」「店員の挨拶の声が小さいから買おうと思ってた『ONE PIECE』の新刊買うのやめよう」となる人はまずいない。

 飲食店の場合は、味とか値段とか書店に比べればコントロールできる部分が多いけど、そうはいっても「同じ食材を使ってるのにずばぬけておいしい料理」なんか作れないし、できるならみんな真似するし、「同じ食材を使ってるのにうちは相場の半額で出します」というわけにもいかないだろうし、立地が良ければ家賃は上がるし、結局のところ似たり寄ったりのサービス・価格に収束していくだろう。

 チェーン店の店長が交代したとして、売上を10%伸ばすことはまず不可能だろう。立地やメニューや客層が変わらないのに、売上が急に伸びることは(よほどの幸運に恵まれないかぎり)不可能だ。
 だが経費を10%削ることはできるかもしれない。すいている時間帯はバイトを減らすとか、ひまなときに将来分の仕事をしておくとか、廃棄物を減らすとか。

「売上を上げるのではなく経費を減らすのが店長の仕事」というのはすごく理解できる。
 ただ、経費削減を実現しようとすると「店長自ら残業しまくる」がいちばん手っ取り早い解になってしまうんだよねえ。というかほとんどの店長にとっては唯一解。

 ぼくが働いていた書店もそうだった。社員はみんな月100時間ぐらい残業していたし、店長はもっと。忙しい時期は休みもろくにとっていなかった。

 この本を読むかぎりではサイゼリヤの社員の労働時間はわからないけど
「創業者である正垣泰彦氏が『若いころはほとんど休みなしで働いていた』自慢をする」
「外食産業にしては高給与であることを誇っているが勤務時間についてはまったく触れられていない」
ことから想像するに、決して十分な余暇時間が得られる職場ではないんだろうなあ。
 というか正垣氏が「余暇? なにそれ?」みたいな人だもんな。自分が365日24時間仕事のことを考えていても平気な人って、他人にも同じものを求めるからなあ。



 正垣泰彦氏の考え方は、情熱と合理性が同居していておもしろい。
 どちらかしか持っていない人は多いけど、この人は「いい世の中にする!」「お客様に満足してもらう!」みたいな抽象的なビジョンを持ちつつ「それを実現するにはどうしたらいいか。どうやったら客観的に計測可能な数値に落としこめるか」という視点も忘れていない。

 飲食店の従業員はよくお客様に「いかがでしたか?」と料理の味をたずねる。お客様が笑顔で「おいしかったよ」と答えてくださるなら、これ以上の励みはない。そして、本当に「おいしい」と思っていただけたなら、必ず、また来てくださるはずだ。
 だから、「おいしい」=「客数」と考えるようにしている。客数が増えているなら、その店の料理はおいしい。逆に客数が減っているなら、その店の料理はおいしくないのだから、何らかの対策を講じるべきだ。

「お客様を笑顔にする!」を掲げるお店は多いけど、ふつうはそこで終わってしまう。
 だがこうして「おいしい」を測るための指標を仮に「客数」と置くことで、時間・場所・観測者の主観を超えて比較が可能になる。数値比較が可能になれば、何をすれば「お客様の笑顔が増えたのか」「お客様の笑顔に影響を及ぼさなかったのか」「お客様の笑顔が減ったのか」がわかるし、後々まで知見として活かせる。

 私は競合店が増えることは良いことだと思っている。それはお客様の選択肢を増やすことであり、社会を豊かにする。ただし、競合店の出現で、曜日・時間帯別にどの程度、客数が減ったかを把握し、客数が減った曜日・時間帯の担当スタッフを減らすことで人件費を減らさなければならない。また、競合店の商品が魅力的なら、それに負けないような新商品の開発を本部に提案するのもエリアマネジャーの仕事だ。
 当社では、こうした経費のコントロールの精度が高くて、的確な報告・提案ができるエリアマネジャーが、本部スタッフなど次のステップに上がっていく。

 売上や経費を構成するものを「知恵や努力である程度コントロール可能なもの」「コントロールできないもの」に切り分ける。そして後者についてはすっぱり諦める。
 ぼくはWebマーケティングの仕事をしているが、こういう思考は常に求められる。広告を出すときに「いつ出すか」「どこに出すか」「どんな人に出すか」「どんなタイミングで出すか」はある程度コントロールできる。でも「広告を見た人がどうするか」や「競合がいつ広告を出すか」はコントロールできない。だったら後者は平均をとって定数として扱い(中期的に変えていく必要はあるけど)、基本的には変数である[コントロールできる部分]を調整する。
 マーケティングに失敗する人は、コントロールできない部分ばっかり見るんだよね。
「競合の××社に負けるな!」とか「冷やかし客に広告をクリックさせないようにしろ!」とか。

 正垣氏は、この「コントロールできる部分」「コントロールできない部分」の切り分けがうまい。
 ただ情熱があるだけでなく、その情熱の注ぎ方に無駄がない。
 大学では物理学科にいたらしく、なるほど物理学者の思考だ。




 改めてサイゼリヤとその創業者のすごさがわかる。
 わかるが「ぼくもここで働きたい!」とはならないな。とてもついていけない。
 厳しい環境で苦労したい人にはいいだろうけど。

 サイゼリヤの安さの秘密は、創業者の合理的思考と、(たぶん)社員たちの過酷な労働によって支えられていることがよくわかる本だった。


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2021年4月12日月曜日

お塾

 子どもが塾に行く年齢は、年々早くなっていっているようだ。

 うちの子の周囲でも「中学受験対策の有名塾に入った」とか「××の春期講習に行かせている」といった声が聞かれる。まだ小学二年生だが。

 まだまだ必要ないとおもっているけど、そうはいっても周囲が塾に行きだすと焦る。「うちの子だけ取り残されてしまうのでは……」という気になる。

 焦りを払拭するため、小学校時代の同級生のことをおもいだす。



 悪友N。
 彼はもっとも勉強とは遠いところにいた。とにかく勉強ができない。というよりやろうとしない。宿題はやってこない。授業態度も悪い。小学生にして「おれはパチンコで食っていく」と言っていた。中学卒業後は、近隣でもっとも偏差値の低い高校を中退してホストになったと風のうわさで聞いた。その後の消息は知らない。

 小学校時代、Nからこんな話を聞いた。
「おれは小学校受験をさせられてん。いやでいやでしょうがなかったけど、親がむりやり。おれが勉強嫌いになったのはそのせいや。おれが小学校受験に失敗したから、親はおれに対して勉強の期待をしなくなった」

 嘘やろとおもった。とても小学校受験をするタイプには見えなかったからだ。
 だが言われてみればNの姉は地元では名門とされる国立の附属中学校に通っていた。たぶんNの親は、姉と同様にNにも国立小学校に行ってくれる期待をかけ、そして期待を捨てたのだろう。

 このエピソードは、ぼくに「幼いころから勉強漬けにしようとすると反動でとんでもないアホになってしまう」という意識を植えつけた。



 べつの友人D。
 家が近かったこともあり小学校低学年の頃から毎日のように遊んでいた。公園で走りまわったり、サッカーをしたり。活発な子だった。
 彼は小学校一年生のときからそろばん教室に通い、二年生には塾に通いだし、三年生になると塾が週六ぐらいになってまったく遊べなくなった。通っていたプール教室やサッカークラブもやめ、学校以外のすべての時間を塾にささげるようになった。

 Dの二歳上の兄もやはり小さいころから塾に通い、日本有数の進学校に入った。後に京大に入ったと聞く。

 一方のDは兄ほど勉強が得意でなかったようで、「日本有数の進学校」よりは少しランクの落ちる中学校に入り、そこの学校とはあまりあわなかったようで不登校気味になり、大学は「関西ではわりといいとされる私大である××大学」に入った。

 これは母から聞いた話だが、公立中学校、家からいちばん近い公立高校に通っていたぼくが京大に合格したとき、そのうわさをどこからか聞きつけたDのおかあさんが我が家にやってきて(それまで十年以上連絡をとってなかったのに)、「おたくのお子さんは公立高校から京大入ったんですって? うちの子なんか昔から塾に行って私学に行かせてたのに××大学にしか行けなかったんですよ……。ほんとお金が無駄になったわ……」と愚痴を吐いていったそうだ。
(ちなみにぼくの姉は××大学に行ってたので「おたくの娘の頭が悪いと言われてるようで不愉快だったわ!」と母は憤慨していた。)


 Dが優秀でなかったわけではない。小学校時代同じクラスだったぼくにはわかる。塾に通っているからというだけでなく、当意即妙な受け答えができたり、おもわぬ発想をしたり、柔軟な思考力を持った子だった。

 ただ、ぼくと同じで悪ガキだった。教師のことはなめてかかってる。教師から言われたことでも、自分が納得しなければ従わない。
 そういうタイプは、進学塾や「そこそこの進学校」には合わなかったんだろうなと今ならわかる(ちなみにトップクラスの進学校はたいていものすごく自由らしいので合っていたかもしれない)。

 もしDが公立中学校・公立高校に進んでいたらどうなっていただろう。



 このふたつの例をもって「塾や小学校受験・中学校受験なんて意味がない」と言い切る気はない。

 NもDも「塾通い・受験が(親の期待ほど)うまくいかなかったケース」だが、もしも塾に行っていなかったらどうだったかなんて誰にもわからない。

 ただ、年齢が低いほど「塾で先取りしていることでつけられる周囲との差」は大きくて、中学高校と進んでいくにつれその差はほとんどなくなる。

「塾に通っているからクラスの中でダントツによくできる子」が「塾に通っていてもそこそこのレベルの子」になるケースは多く見てきた。周囲も塾に通ったり家庭学習の時間を増やすからだ。

 勉強なんて周りと比べるようなものではないけれど、そうはいっても周囲は気になる。
「かつては周りを引き離していたのに追いつかれる」よりも
「かつてはぜんぜんできる子ではなかったけど歳を重ねるごとに相対的順位が上がっていく」ほうが、当人の意欲は湧きやすいだろう。まちがいなく。


 我慢だ、我慢。マラソンでいうとまだスタートしてトラックを出ていないぐらい。ここで大きなリードを得ても意味がない。

 今は「勉強を嫌いにならないこと」が最優先だ。

 だから小二の娘はまだ塾に行かせなくていいよねと自分に言い聞かせてるんだけど、そうはいっても周囲が塾に行かせているのを見ていると不安になる。
 ちくしょう受験産業め。親の不安にうまいことつけこみやがる……。


2021年4月9日金曜日

【読書感想文】いい本だからこそ届かない / ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』

事実はなぜ人の意見を変えられないのか

説得力と影響力の科学

ターリ・シャーロット(著)  上原直子(訳)

内容(e-honより)
人はいかにして他人に影響を与え、他人から影響を受けているのか。名門大学の認知神経科学者が教える、とっておきの“人の動かし方”。タイムズ、フォーブスほか、多数のメディアで年間ベストブックにノミネート。イギリス心理学会賞受賞。

 デモを見るたびにおもう。
 あれを見て「これまで反対意見だったけどデモを聞いて考え方が変わった!」という人がこれまでひとりでもいたのだろうか。
 いや、ちょっとぐらいはいるか。一万人にひとりぐらいは。
 でも「うっせえんだよ」と反感を持つ人はその百倍以上いるとおもう。

 ネット上で議論をしている人がよくいる。一応議論なのかもしれないけど、傍から見ていると喧嘩にしか見えない。なぜなら、いっこうに議論が深まらないから。
 ネット上の議論で、どちらかが「私の誤解でした。あなたのご指摘の通り。勉強になりました」となっているのをほぼ見たことがない。議論の結果、双方の溝は埋まるどころか深まるばかりだ。

 世の中には「他人の意見を変えようとする人」がたくさんいる。それもストレートに。その試みはことごとく失敗している。誰しも「他人の意見を変えようとする人」の意見など聴きたくないのだ。


『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』の著者ターリ・シャーロットは、2015年のアメリカ共和党候補者討論会で、ワクチン接種についての医師のベン・カーソンの主張よりも、医学にはド素人のトランプの主張に強く心を動かされたことを例に挙げ、人を動かすのは事実や正確さでないと述べる。

 そして多くの論文や実験を挙げて「どのようなときに人は動かされ、どのようなときに動かないのか」を説明する。



 情報をたくさん知っている人ほど正しい判断ができるとおもってしまう。

 でもそれはまちがいみたいだ。

 チャールズ・ロード、リー・ロス、マーク・レッパーら三人の科学者は、アメリカの大学から「死刑を強く支持する学生」と「死刑に強く反対する学生」計四八人を選んで、全員に二つの研究結果を提示した。一つは極刑の有効性に関する証拠、もう一つは効果のなさに関する証拠を示した研究結果である。実はその資料は偽物で、ロードらがでっちあげたものだったが、そのことは伏せられていた。さて、学生たちはそれらの研究結果に納得しただろうか?
 自らの考えを変え得る素晴らしい証拠を備えたデータだと信じただろうか? 答えはイエスである──ただし、その研究結果がもとの自分の考えを強化する場合に限って。死刑を強く支持していた学生は、有効性が立証された資料をよくできた実証研究と評価する反面、もう一方を不用意で説得力のない研究だと主張した。そして、もともと死刑に反対していた学生はまったく逆の評価をした。最終的に、死刑支持者は極刑へのさらなる熱意を抱いて研究室をあとにし、死刑反対論者はそれまでより熱い思いで死刑に反対するようになった。この実験によって、物事の両面を見られるようになったどころか、意見の両極化が進んでしまったのだ。

 いろんな立場の意見を読んでも、人が信じるのはもともとの自分の考えに合致しているものだけ。耳に痛い意見は切り捨てる。

「エコーチェンバー効果」という言葉を最近よく耳にする。
 SNSで考え方の近い人だけフォローしてた極端な思想に染まってしまうよ、というやつだ。そのとおりだが、だったらいろんな人をフォローをしていたら極端な思想に染まらないかというと、そんなことはない。結局自分が持っている説を裏付ける言説をしてくれる人だけをピックアップして信じるのだから。

 情報を知れば知るほど、元々の意見に固執してしまう。なぜなら持論を裏づけるデータが得られるから。
 だったらどうしたらいいんだろうね。賛成派の意見だけ聞いてもだめ。反対派の意見を聞いてもだめ。かといってよく知ろうとしないのもだめ。どないせいっちゅうねん。

 極端に偏らないためには、せいぜい「自分の考えは歪んでいる」と認識することぐらいかな。「自分は中立公正にものを見ている」と感じたらもうあぶない。


 大統領や首相や府知事といった人のもとには、たくさんの情報が入ってくるはずだ。一般の人とは比べ物にならないぐらいの。
 だけど、彼らがいつも正しい判断を下しているようには見えない。むしろ誤ってばかり。
「なんでいくつも選択肢がある中で、よりにもよってその手を選ぶかね」と言いたくなるようなヘボ将棋を指すことも多い。

 それは、情報が集まりすぎるからなんだろうね(おまけに側近が機嫌をとるような情報ばかりを選ぶから)。情報が多いからこそ、正しい判断を下せない。



 さらに気を付けなくてはならないのは「多くの情報から偏った意見を選びだしてしまうのはバカのやることだ」とおもってしまう。

 なんと、現実は逆なのだ。

 こうした研究結果から、「自分本位な推論は知的でない人の特性だ」という思い込みは誤っていることがわかる。それどころか、認知能力が優れている人ほど、情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう。だとしたら皮肉な話だが、人間はより正確な結論を導き出すためではなく、都合の悪いデータに誤りを見つけるために知性を使っているのではないだろうか。だからこそ、誰かと議論するときに、相手に不利で自分に有利な事実や数字を突きつけたくなる衝動は、最適なアプローチではないのかもしれない。あなたの目の前にいるのがとても教養豊かな人だとしても、反証を挙げてその考えを変えるのは容易ではないことがわかるだろう。

 驚いた。頭のいい人ほど自己正当化がうまいのだ。
 なるほどね。
 政治家とか官僚とか、頭がいいはずなのに「どうしてこんな賢い人があんなバカな意見に固執してるんだろう」と疑問におもうことがあった。なるほど、こういうわけか。

「頭がいいのに」ではなく「頭がいいから」意固地になってしまうのだ。
 ぼくも気をつけなくちゃなあ。頭いい(と自分ではおもっている)からなあ。


 この本に紹介されている実験。

 いくつかの絵が出てくる。「あらかじめ指定された絵が写ったときにボタンを押せば一ドルもらえる」というゲームと「指定された絵が写ったときにボタンを押さなければ一ドルとられる」というゲームをする。

 やることはまったく同じだ。報酬も同じ。うまくいけば、うまくいかなかったときより一ドル得する。

 だが、結果には差が生じた。「ボタンを押さないと一ドルとられる」ルールのときのほうが失敗しやすく、ボタンを押すのも遅かったそうだ。

 人間は、ムチよりもアメに釣られやすいのだ。

「勉強しないとテストで悪い点とることになるよ」よりも
「勉強したらテストでいい点とれるよ」というほうが効果的なのだ。ほんのちょっとしたことだけど。

 ムチを振るうよりもアメをちらつかせるほうが人は動く。



 またべつの実験。

 映画を観た後、映画の内容に関するいくつかの質問が出される。「映画に出ていた女性は何色の服を着ていたか」など。
 数日後、また同じクイズに挑戦する。ただし今度は、答える前に他の人の回答が表示される。そのうちいくつかは嘘で、わざとまちがった答えである。
  すると、前は正解できていた問題をまちがってしまう。前回は「赤」と答えたのに、他の人たちの「白」という答えを見ると、自分も「白」と答えてしまう。

 ここまではすんなり納得できるだろう。自分はAとおもっていても、みんながBと答えたらBのような気がしてしまうものだ。

 昔観た『高校生クイズ』のことを思いだす。一問目は○×クイズ。多くの参加者をふるいにかけるため、かなりの難問だった。たぶんほとんどの高校生は答えがわからなかったとおもう。
 だが、回答には差がついた。○×いずれかの場所に移動するのだが、九割の高校生は○に移動したのだ。しかし答えは×。一問目にして参加者の九割が脱落する事態となった。○×クイズなので勘で答えても半数は正解するはずなのに。
 まちがえた高校生たちのほとんどは、「みんなが○に移動しているから」という理由で○を選んだのだろう。誰かが○を選び、他の人もつられる。すると自信のない人たちもみな多数派である○を選び、結果的にみんなでまちがえたのだ。

 話はここで終わらない。
 それだけではない。私たちはテスト終了後、実はアダム、ロージー、スー、ダニエルの答えが一部偽物だったことを参加者に明かした。そのうえで、自分自身の記憶に忠実に従ってもう一度テストを受けてもらった。
 本当に興味深いのはここからだ。操作があまりにも強力に働いたため、参加者の記憶の約半分は永久に変わってしまった──もはや映画の記憶は不正確で、間違った回答に固執している。彼らに、自分はまだ事前に見た偽の答えに影響されていると思うかと質問すると、ほぼ声を揃えて「いいえ!」という答えが返ってきた。いったいどういうことだろう?

 種明かしをされた後でも、他人の答えにつられたままなのだ。しかもつられたことに自分でも気が付かない。

 赤信号みんなで渡ればこわくない。おまけに一度みんなで渡った後は、ずっとこわくなくなるのだ。



 その他、「人はついつい一票の価値は平等だとおもってしまうのでたった一人の専門家の意見よりも十人のド素人の意見を重要視してしまう」とか「コントロール感を得られるときのほうが積極的にイヤなことでも引き受けやすい。『自分なら税金をどう使うか』と考えただけで脱税しにくくなる」とか、人の意思決定に関する興味深い話がたくさん。

 これを読むと「人を動かすにはどうしたらいいか」に対するヒントが得られるはず。

 いい本だった。
 参考文献も豊富だし、慎重な物言いも個人的には評価する。
「今わかっていること」を挙げるが、「だから○○は××だ!」と乱暴な持論に結びつけたりもしない。
 事実に対して謙虚な姿勢を忘れない。

 だけど。いや、だからこそ。

 事実よりも「一部の人だけが知っている単純でわかりやすい真実」に飛びついてしまう人の行動を、この本は変えることはできないだろうな。なぜなら人を動かすのは事実ではないから。
 そもそも、わかりやすい真実に飛びつく人はこの本を手に取らないだろうな。


「人は自分の都合のよい解釈をしてしまうから事実をそのまま受け止めることが難しい。人間は必ず間違える。だが人間の思考の傾向を知ることで誤った判断を少しは減らすことができる」
というメッセージは、「自分は間違えない」「世の中には間違えない人がいる」と信じている人には届かない。かなしいけど。


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2021年4月8日木曜日

いちぶんがく その5

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



夜中にピルクルを買いにいったっていうだけで、どうしてこんな罰を受けなくちゃいけないの?


(東 直子『とりつくしま』より)




ここから得られる結論は、よい母親は温かくなくてはならないということだ。


(アレックス・バーザ『狂気の科学者たち』より)




ある意味縄跳びは、標準的なピアノのいちばん低い音の5オクターブほど下の周波数を持つ、ひとつの弦楽器とも言える。


(ランドール・マンロー『ハウ・トゥー ~バカバカしくて役に立たない暮らしの科学~』より)




「同じものだけど……ちがった奴が欲しいんだ!」


(ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則 ~本当に売れる脚本術~』より)




おばあちゃんは、どこからでも自由に出入りする。


(今村 夏子『あひる』より)




『あなたが思ってるほど、大人は馬鹿じゃないのよ』


(根本 総一郎『プロパガンダゲーム』より)




いちばんキモかったのは、彼女を主人公にしたオペラの台本を書いたこと。


(大野 更紗 開沼 博『1984 フクシマに生まれて』より)




暴力は確かに売れる。


(マルコ・イアコボーニ(著) 塩原 通緒(訳)『ミラーニューロンの発見』より)




「これはゴキブリじゃない、大きめのシロアリなんだ。」


(松浦 健二『シロアリ ~女王様、その手がありましたか!~』より)




さて、出頭予定の日には、裁判所の扉はいっぱいに開けはなたれ、毛虫とネズミの到着が今か今かとまたれた。


(池上 俊一『動物裁判 ~西欧中世・正義のコスモス~』より)




 その他のいちぶんがく


2021年4月7日水曜日

LINEのお礼ラッシュ

 長女が保育園に通っていたときのこと。

 同じクラスのおかあさんたちのLINEグループがあり、なぜかそこにぼくも入っていた。
 おとうさんはぼくと、もうひとりだけ(Sさんとする)。

 ぼくがママLINEグループに入れられていたのは、招待されたからだ。
 うちの家は妻が「公園で子どもと遊んだり他のおかあさんとしゃべるよりも家で家事をするほうが楽」というタイプで、ぼくが「休みの日は朝から夕方まで子どもと遊ぶが、家事は苦手」なタイプなので、必然的にぼくが他のおかあさんとやりとりをすることが多い。
 また、「買い物に行くなら○○ちゃん見ときますよ」「××くんが銭湯行きたいと言ってるのでいっしょにどうですか。終わったら家まで送ります」とよその子を預かることもあるので、よそのおかあさんのLINEも知っていたのだ。
 Sさんもそういうタイプだ。 


 さてさて。
 考えてみれば、ぼくはあまり女の人とLINEのやりとりをしたことがない。ぼくの学生時代にはLINEはまだなかったし、LINEをインストールしたときは結婚直前だったので、LINEを使って女の人とプライベートな会話をするという経験がほぼない。LINEの相手の女性といえば、妻と母親と姉ぐらいだ(あと娘のために友だち登録したプリキュアのアカウント)。

 そんなわけで、女性中心のLINEグループってこんな感じなんだーとおもうことが多々あった。

 まずことわっておくが「ママ友グループによくあるドロドロした感じ」はぜんぜんない。
 幸い大人の付き合いを心得ている人ばかりだった。LINEでやりとりをするのは基本的に事実の連絡のみ。保育園の役員をしているおかあさんが「今度○○があります」「担任の先生は△△先生になりました」とか伝えるぐらい。
 他の人も「△△先生でよかったです」ぐらいしか言わない。「××先生じゃなくてよかったー!」みたいなことを言ったりしない。誰かを悪く言う人はいない。ちゃんと節度ある付き合いをしている。
「××先生はダメですよねー。どうおもいます?」みたいなやりとりがあったらどうしようとちょっと身構えていたのだが、杞憂だった。まあ担任の先生がしっかりしたベテラン保育士だったおかげかもしれないが。

 ま、ぼくが知らないところでは悪口を言い合っているのかもしれないけど。まああずかりしらぬところでやってくれるのはどうでもいい。


 ひとつだけ、ママLINEグループでぼくがうんざりしたものがある。
「ちゃんとお礼を言うこと」だ。

 運動会の写真を撮った人がグループに写真をアップする。するとみんなが「○○さん、写真ありがとうございます」とお礼をコメントする。また別の人が写真を載せる。また「○○さん、写真ありがとうございます」がはじまる。
 グループには二十人ほどのメンバーがいる。その人たちが、誰かが写真を載せるたびに「ありがとうございます」と書きこむので、数時間で百件以上のお礼コメントがつく。
 また保育園の夏祭りや発表会とイベントが終わると、役員をやったおかあさんに対して「○○さん、役員おつかれさまでした」というコメントが書きこまれる。ひとりが書くと、他の人たちもみんな書く。

 めんどくせえ。いいじゃんお礼なんか。
 さすがにスルーはかわいそうだけど、誰かひとりが代表して書いて、それで終わりでいいじゃない。
 だいたい写真を載せるのも役員をするのも、お互い様だ(役員は園児が在籍中に一度はやることになっているので全員やることになる)。いちいちかしこまってお礼を言うようなことじゃない。

「みんながお礼を言ってるのに自分だけ言わないのは悪い」って心境なんだろうな。
 こういうところは女性のコミュニティだな、とおもう。見ると、お礼を言ってないのはぼくと、やはり男性のSさんだけだ。

 Sさんに会ったときに話してみた。

「あのLINEのお礼ラッシュ、めんどくさいですよねー」

「ですよね。ぼくはもうあのグループの通知オフにしました」

「ぼくもです。あれは女の人の特性なんでしょうね。集団から疎外されるのを異常におそれるというか」

「お礼を言うことに敏感なのは、逆に言われなかったことを気にするからでしょうね。『あいつだけ私にお礼を言ってない』とか気にするんでしょうね」

「ということは我々は無礼なやつらとおもわれてるんでしょうね」

「まあじっさい無礼なのでしょうがないですね」

「我々からすると、お礼を言わないことよりもお礼ラッシュで通知が止まらなくなることのほうが迷惑なんですけどね」

「そこは価値観の違いなんでしょうね。自分ひとりのイメージがちょっと悪くなることには耐えられないけど、みんなで大きな迷惑をかけるのは平気というか」

「だから女性は横一列に並んで歩いてるときに隊列をくずすのを異常に嫌がるのかー」


2021年4月2日金曜日

【読書感想文】ニンニクを微分する人 / 橋本 幸士『物理学者のすごい思考法』

物理学者のすごい思考法

橋本 幸士

内容(e-honより)
物理学者は研究だけでなく、日常生活でも独特の視点でものごとを考える。通勤やスーパーマーケットでの最適ルート、ギョーザの適切な作り方、エスカレーターの乗り方、調理可能な料理の数…。著者の「物理学的思考法」の矛先は、日々の身近な問題へと向けられた。超ひも理論、素粒子論という物理学の最先端を研究する学者の日常は、「異次元の視点」に満ちている!ユーモア溢れる筆致で物理学の本質に迫る科学エッセイ。

 理論物理学者によるエッセイ。

 ぼくの通っていた大学は変人が多いという世間の評判だったが、その中でもいちばん変人が多かったのが理学部だった。変人扱いというか、じっさいに変な人がいっぱいいた。
 食堂でずっと数学だか物理学だかの話をして楽しそうに笑っている集団とか、構内に立ち止まって中空を見上げているような人とか。サークルに理学部に首席合格したという男がいたが、彼は「脳内でぷよぷよができる。慣れると完全ランダムにぷよが降ってくる。速度もだんだん上がる」と言っていた。
 ある理学部生が「9次元までは脳内でイメージできる」と言ってたので、他の理学部生に「おまえもできる?」と訊くと、「できない人いるの?」という答えが返ってきた。3次元世界だけで生きててすみません。


 とまあ、奇人変人が多いことで知られる物理学部。そこの教授が書くエッセイなのだから、クレイジーな人に決まってる。
 読んでみるとはたしてそのとおり。



 ギョーザをつくっているときに、皮に対してタネが余りそうだったので、皮二枚でタネをつつむ「UFOギョーザ」を考案したときの話。

 僕は子供たちに、くれぐれも急がずにギョーザを作るようにと言い残して、手を洗い、ペンを握った。ギョーザの定理を書き下ろすために。僕の頭はフル稼働した。2枚の皮でタネを包むと、普通のギョーザに比べて、どの程度、容量が増えるのか。様々な妥当な仮定の下、しばらく計算を進めてみると、UFOギョーザは普通のギョーザの3倍の量のタネを包み得ることが判明した。しかし、UFOギョーザを作るには、2枚の皮が必要である。皮とタネを余らせないためには、UFOギョーザと普通のギョーザをそれぞれ何個ずつ、作らねばならないだろうか?
 つるかめ算や! と僕は、ほくそ笑んだ。小学校で教えられる悪名高きつるかめ算、あれがついに人生で役に立つ時が来たのだ。かくして、「手作りギョーザの定理」が完成した。
「定理:具の量と比較してギョーザの皮がn枚足りない時、作るべきUFOギョーザの数はおよそnである」

「たかが家庭でつくるギョーザ、そんな計算する暇があったらつくってみたほうが早いのでは」とおもうのだが、一度疑問を持つと解を求めずにはいられないらしい。



「エレベーターに何人まで乗れるだろう?」という問いに対する解法。

 加えて、物理学は様々な極限状況から新しい考え方や見方を発見していく学問である。エレベーターに本当は何人まで乗れるのだろう、という質問は、極限状況を探査する心を極限まで刺激するのである。近似病の人は、まず人間を立方体で近似するだろう。人間の体重を65キロぐらいとして、人間がほとんど水からできているとすると、体積は1リットル牛乳パックの65本分、つまり40センチ四方の立方体で近似できる。この立方体がエレベーターの内側に何個入るか? エレベーターの中をぐるりと見渡して虚空を眺めている人の頭の中では、そういう計算が繰り広げられている。そして、「うーん、無理したら40人は乗れるんじゃないかな」とか冗談っぽく答えるその人の目の奥は、実は真剣そのものなのである。

 なるほどねえ。これは感心した。

 どっかの入学試験だか入社試験で「ニューヨークにあるマンホールの数を求めよ」的な問題が出されると聞いたことがある。物理学者はこういう問題が得意なんだろうな。
 問いを立て、答えを導きだすための解法を考え、解を求めるために必要な材料を明らかにし、材料がないときは手持ちの材料で近似する。
 こういう思考法ができるようになりたいなあ。




 いちばんおもしろかったのは、ニンニクの皮をむいているときにむきおわったニンニクよりも皮の体積のほうが大きいことに気づいたときのエピソード。
 単純化のため、ニンニクを球だと仮定しよう(中略)。球の体積の公式は、中学校でも学ぶ。一方、ニンニクの皮の面積は、球の表面積の公式だ。実は、球の体積の公式を、球の半径rで微分すると、球の表面積の公式が出てくるのだ。「微分」の定義は、ちょっとだけrを変更した時に出てくる変化分、ということである。つまり、ニンニクの半径rを、皮を剥くことでちょっとだけ小さくすると、体積がちょっとだけ小さくなり、その表面積の分の皮が出てくる、という仕組みなのである。僕は1時間、ニンニクを微分し続けていたのだ。
(中略)
 僕は、左側の、ニンニクの皮の山を注意深く観察した。皮は曲がっているので、自然に、積み重なった皮と皮の間には空間ができている。皮と皮の間の距離はおよそ1センチメートル、と見積もれた。一方、ニンニクの半径はおよそ1センチメートルである。右側はニンニク球の体積、左側はニンニク球の表面積に皮間距離をかけたもの、とすると、数字上、左側の体積は右側の体積のほぼ3倍であるという結論に達した。これは、先ほどの観察結果を再現している。僕は再びニヤリとした。

 ニンニクを微分!
 すごいパワーフレーズだ。

 たしかに皮を剥くという行為は三次元を二次元にすることだから、微分だよね。
 日常生活において微分を使うのなんて速度や加速度を求めるときぐらいかとおもってたけど、こんなふうにも応用が利くのか……。
 言われてみれば「たしかに微分に似た行為だね」とおもうけど、ゼロからこの発想には至れない。

 すげえなあ。何の役にも立たないかもしれないけどすげえなあ。


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2021年4月1日木曜日

【読書感想文】墓地の近くのすり身工場 / 鳥居『キリンの子 鳥居歌集』

キリンの子

鳥居歌集

鳥居

内容(e-honより)
美しい花は、泥の中に咲く。目の前での母の自殺、児童養護施設での虐待、小学校中退、ホームレス生活―拾った新聞で字を覚え、短歌に出会って人生に居場所を見いだせた天涯孤独のセーラー服歌人・鳥居の初歌集。


 作者のプロフィールが書いてあるのだが……。

2歳の時に両親が離婚、小学5年の時には目の前で母に自殺され、その後は養護施設での虐待、ホームレス生活などを体験した女性歌人。義務教育もまともに受けられず、拾った新聞などで文字を覚え、短歌についてもほぼ独学で学んだ。

 おおお……。もうこれだけで圧倒されてしまう。

「壮絶」の一語に尽きる。

 収められている短歌も、やはり自殺未遂や母の自殺、養護施設での虐待について歌ったものが多い。

亡き母の日記を読めば「どうしてもあの子を私の子とは思えない」
母の死で薬を知ったしかし今生き抜くために同じ薬のむ

 ろくでなし息子ではあるが母に愛されて育ってきた(とおもってる)ぼくにとって、「母に愛されない」「母に自殺される」というのはもはや想像を超える出来事だ。地球滅亡と同じくらい。


 穂村弘さんが『世界中が夕焼け』という本の中でこんなことを書いていた。

自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。(中略)でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。

 この感覚、よくわかる。

 ぼくは幸いにして自死を考えたことがない。だから自殺する人の気持ちもわからない。

 自殺を考えることすらないのは、「母に愛されてる」と信じているからだとおもう。
 今だと「娘に愛されてる」という自負もある。
 娘のほうはこの先はどうなるかわからないけど、母のほうはきっと死ぬまでぼくを愛してくれるとおもう。根拠はない。でも母の愛ってそういうものだから。

 だから「母が子どもを置いて自殺してしまう」ってのは、自分の存在を全否定されたような気持ちになるんじゃないかとおもう。もちろん原因は心の病気だから「愛されてなかった」というわけではないんだろうけど、それは理屈だ。感情としては、一生ぬぐえない傷を受けるんじゃなかろうか。

 おかあさんがダイナマイト自殺した末井昭さんとか、幼いころに母親が出ていった爪切男さんとかの文章を読むと、「母親の喪失」という体験は一生消えないもんなんだろうなとお感じる。


 しかし「母が自殺」「目の前で友が自殺」「孤児院で壮絶ないじめ」「元ホームレス」というのは人生においてはとんでもない試練だけど、表現者としてはものすごく強い武器だよね。こんなこと言っちゃわるいけど、文学をやる人間としてはハイスペック。RPGで最強の武器を持ってスタートするぐらいの。

 もちろんそれだけでこの人の短歌が評価されているのではなくて才能や努力も大きいけど、そうはいっても「サラリーマンと専業主婦の家庭で育ちました」だったらぼくもこの本を手に取ってなかったわけで、こうやってデメリットをメリットに変えられる道を選んでよかったなとおもう。



 短歌という媒体は、個人的な感情を表現するのに向いている。つくづくおもう。

振り向かず前だけを見る参観日一人で生きていくということ

 たくさんの文字を費やしてあれこれ語るより、この十七文字のほうがよっぽど雄弁に孤独感を伝える。

 参観日なんて「学校での自分(家での自分とはちがう姿)」を母親に見られるイヤなイベントでしかなかったけど、今おもうと贅沢な悩みでしかなかったんだなとおもう。

 参観日はオンライン中継して自宅で見られるようにするといいね! 子どももプレッシャーを感じにくいし、親のいない子も引け目を感じなくて済むし。



 いちばん好きだった歌がこれ。

孤児たちの墓場近くに建っていた魚のすり身加工工場

 いいんだけどさ。墓場の近くにすり身加工工場があったって。関係ないんだけどさ。
 でも道理として問題なくても、やっぱり嫌だよねえ。墓地の近くにすり身加工工場があったら。
 想像しちゃうもんね。まさかすり身の原料は……って。

 想像力を刺激される、いい歌だ。


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