2018年7月20日金曜日

【読書感想文】 烏賀陽 弘道『SLAPP スラップ訴訟とは何か』


『SLAPP スラップ訴訟とは何か
裁判制度の悪用から言論の自由を守る』

烏賀陽 弘道

内容(Amazonより)
自分に不利な言論(批判、反対、公益通報など)を妨害するために、相手を民事訴訟で訴えて裁判コストを負わせ疲弊させる戦術を「SLAPP(スラップ)」と呼ぶ。自らもスラップの被害者になった筆者は、日本ではまったく野放しのスラップに、アメリカでは1990年代から被害を防止する法律が整備さていることを知り、自費で現地取材を重ねた。北海道から沖縄まで、日本国内のスラップの実例を取材して歩いた。米国スラップ被害防止法のしくみ・背景、日本の事例を取材、報告し、日本でのスラップ被害防止法の立法化を訴える。「山口県・上関原発訴訟」「沖縄・高江米軍ヘリパッド訴訟」「北海道警裏金報道訴訟」「新銀行東京訴訟』など日本のスラップの実例も豊富に掲載している。

アメリカでは防止法まで作られている(州によるが)ものの、日本ではほとんど認知されていないSLAPP(スラップ)訴訟。
SLAPPとは、裁判で勝つことではなく、裁判自体によって相手にダメージを与え、言論の自由を奪おうとする戦術のことだ。Strategic Lawsuit Against Public Participationの略であり、slap(平手打ちをくらわす)ともかかっている。

烏賀陽氏はSLAPP訴訟の特徴として、

・民事裁判
・公的な意見表明をきっかけに提訴される
・提訴によって相手に金銭・時間的コストを負わせることが目的
・長期化する裁判を避けるため、被告だけでなく他の批判者も公的発言を控えるようになる

といった点を挙げている。

たとえば大企業Aが不法行為をしているとする。その事実を知ったBが内部告発をして新聞社に対してAの不法行為を告発する。
するとAは、Bに対して「事実無根の名誉棄損だ」として一億円の損害賠償を請求する裁判を起こす。
Bの告発が真実であれば、裁判をすればおそらくBは勝つだろう。だがふつうの人にとって大会社を相手に長期間の裁判をするのはかんたんなことではない。何度も平日に裁判所に出向かなければならないし、弁護士も雇う必要がある。制度上は弁自分がひとりでやってもいいが、弁護士なしで裁判に臨むのはふつうの人にはまず無理だ。完全勝訴であれば裁判費用は払わなくていいが、弁護士費用は自分で負担しなければならない。
勝ったところで得られるものはない。勝っても負けても失うものばかりだ。時間もお金も精神も削られてゆく。
そこでAがBにささやく。「告発を否定するなら、こちらも提訴を取り下げますよ」

これがSLAPP訴訟だ。裁判を起こすこと自体で相手にダメージを与えること、相手の言動を委縮させることを目的とする訴訟である。実に効果的だ。
さらにSLAPP訴訟が効果的なのは、実際に告発したBだけでなく、将来的に告発していたかもしれないCやDをも委縮させることだ。
誰だって裁判の被告になりたくない。「ものを言えば訴えられるかも」と思えば、ほとんどの人は沈黙を選ぶだろう。

 よって、提訴されたら、ただちに対応するためのコスト=時間、労力、金銭の消費や精神的、肉体的疲弊が生じる。
 応訴したらしたで、今度は法廷での審理が始まる。無視したり欠席を続けたりすれば、裁判官の心証が悪化する。不利な判決を覚悟しなくてはならない。負けると、判決には強制執行が伴う。財産を差し押さえられる。負債が発生する。
 また、裁判は長時間争えば争うほど「コスト」=「金銭の消費」「時間の消費」「手間の消費」「精神的疲労」「肉体的疲労」が増加する。提訴される方にとっては望まない裁判であることが多い。コストは「苦痛」に直結する。
 つまり「提訴される側」はいかに裁判が苦痛でも、断ることができない。選択の自由がない。
 ところが一方、第1章で述べたように民事訴訟は裁判化が容易だ。「訴状」という書類を作成して裁判所に提出するだけでいい。原告の判断だけで提訴できる。「いつ提訴するか」「いくら請求するのか」も意のままに設定できる。

強い者から弱い者を守るために裁判を起こす権利が日本国憲法32条で守られているわけだが、それが大企業、県、国といった力のある者が個人をおさえつけるために使われているのだ。
そして日本においてはこれを防ぐ方法がほとんどない。SLAPP訴訟は合法的に気に入らないやつの口を封じさせる手段なのだ。



カリフォルニア州では、訴えられた側が「この訴訟はSLAPPである」と主張すれば審理に入る前に裁判所がSLAPP訴訟かどうかを判断し、SLAPPと認定されてば提訴はそこで棄却される。
さらに、SLAPP訴訟と認定されれば、被告側が雇った弁護士費用も原告側が負担しなければならない。さらに提訴されたことによって被った被害を原告に求める裁判を起こすことができる「スラップ・バック条項」もあるそうだ。

つまり、SLAPP訴訟を起こしても、相手に大したダメージを与えられない上に、相手の弁護士費用を負担しなくてはならない、さらに逆に提訴される可能性もある、と訴えた側にとってダメージばかりなのだ。
これなら訴訟を起こす側も慎重になるだろう。


一方、日本にはそのような仕組みがない。訴える金銭的・時間的余裕のある側が圧倒的有利にできている。
ということで、市井の人々でも情報発信がしやすくなった今、SLAPP訴訟はどんどん増えるだろう。

SLAPP訴訟は強者に有利な戦術なので、強者である政治家がわざわざそれを防止する法をつくることは期待できそうにない。
報道が強く主張すれば風向きも変わるかもしれないが、それもあまり期待できない。なぜなら、NHKや読売新聞のような報道機関も、自らを批判する人に対してSLAPP訴訟ではないかと疑われるような裁判を起こしているからだ。大手マスコミにとってSLAPP訴訟は武器であって脅威ではないのだ。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』を読んだときも思ったことだけど、インターネットのおかげで人々が自由にいろんなことを発信できるようになったけど、言論の自由は拡大されたのかというとむしろ狭まっているように思える。
体制に批判的な発言を発見して押さえつけるための手段として、法や裁判所が使われている。

ついこないだ、エジプトで「5000人以上のフォロワーがいるフェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの個人アカウントやブログはメディアとして扱われ、政府の監督対象になる」というニュースを目にした。
名目はデマ拡散を防ぐことだというが、どう考えても反体制的な発言を封じるために使われるだろう。

どうでもいいことは言いやすくなったけど、大事なことは発信しづらい世の中に変わっていくのを感じてしまう。


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【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』



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2018年7月19日木曜日

【読書感想文】西川 美和『ゆれる』


『ゆれる』

西川 美和

内容(e-honより)
故郷の田舎町を嫌い都会へと飛び出した勝ち気な弟・猛と、実家にとどまり家業を継いだ温厚な兄・稔。対照的な二人の関わりは、猛の幼なじみである智恵子の死をきっかけに大きく揺らぎはじめる。2006年に公開され数々の映画賞を受賞した同名映画を監督自らが初めて小説化。文学の世界でも大きな評価を受けた。

西川美和さんの『永い言い訳』がおもしろかったので、処女小説である『ゆれる』も読んでみた。
映画『ゆれる』を監督自らが小説化。ノベライズは嫌いなのでふだんは読まないけど、監督自らのノベライズなら、ということで手にとった。

田舎で育った兄弟。お互いに敬意を持って接しているように見えるが、幼なじみの死をきっかけに自分でも意識していなかった相手への確執が徐々に表面化してく……。という、なんともイヤな小説。ぼくはイヤな小説が好きなのでこれは褒め言葉ね。

この人の小説は、人が見ないように、考えないようにしていることをわざわざ書くのがうまい。暴きだしてもイヤな気持ちになるだけなのに、それを指摘する。そして案の定イヤな気分になる。

 兄の切り返しに笑い声が上がる。父はばつが悪そうに縮こまってしまった。全てが元通りに収まってゆく中で、愛想良く場をとりなしながら、ぶち撒かれた料理を四つん這いになって片付けてゆく兄のズボンのふくらはぎに、膳の上で倒れたお銚子の口から酒が滴り落ちているのが見えた。
 兄はその冷たさを、その不快さを、感じることがないのだろうか。むしろ、そういった不快さを常に身体に負いながら生きるのが兄の「自然」なのか。なぜ、声を上げて身をよじり、床より先に自分の足を拭かないのか。声を上げず、身をよけもせず、最後は大損を食らうという、母から受け継いだらしいその「こらえ性」みたいなものが、僕には苛立たしい。他人の起こした面倒の煽りを食っても、文句の一つも吐き出すどころか、滑稽に口をすぼめてちゅうちゅうと苦い水をすすっている、そんなみじめったらしい姿を見るたびに、僕の身体には寒気が走った。けれども兄は、そんな自分のあり方には全く無自覚だ。「ズボンがびしょ濡れじゃないか」と他人が指摘して初めて、そうだったかしら、なんてまるで昔の思い出をしのぶようなのんびりした様子で、それに気付いて見せるのにちがいない。でもそのことを指摘してやるのは僕じゃない。僕は目を背けたくなった。不連続に滴るそのしずくが、兄の足をくくりつけている鎖のように見えた。ぽたぽた、ひた、ひた、と少しずつ、そして絶え間なく落ちてしみを広げて、最後は肉を腐らすだろう。

父親と弟の親子喧嘩の後の一幕。如才なく場を取りなしてその場の苦労を一手に引き受けた兄に対するこの視点の、なんと残酷なことか。


ぼくは、もう十年以上も前に死んだ祖母のことを思いだした。

中高生のころ、父の実家に行くのが嫌だった。父の実家は福井県の、最寄り駅から車で四十分という山の中にあった。
田舎の年寄りらしく家のことは何もしないくせに偉そうにふるまう祖父を見るのも嫌だったが、それ以上に嫌だったのは、常に台所の隅に控えて何を言われても嫌な顔ひとつもしようとしない祖母の姿だった。
あんたは奴隷じゃないんだから我慢しなくていいのに。もっと主張すればいいのに。祖母は孫のぼくに対してとても優しく、だからこそ常に耐えているように見えるその姿が正視に耐えなかった。
じっさいには祖母には祖母の喜びがあったのだろうが、ぼくにはわからなかった。孫たちが集まってみんなで食事をしているときも、食卓には加わらず、台所で味噌汁をすすっていた。こんなことをいうのは祖母に悪いかもしれないが、哀れだった。



ぼくは同性のきょうだいがいない。だから兄と弟の関係というものを体験したことがない。
小さい頃はいっしょに遊んでくれる兄や弟がほしかったが、大人になってみると煩わしいことのほうが多いんだろうなという気がする。女きょうだいのほうが気楽だ。

同性のきょうだいはどうしたってライバル関係になってしまうような気がする。
どっちがモテるか、どっちが勉強ができるか、どっちが稼ぐか、どっちが幸せに暮らすか。
ぼくは姉に対して対抗心を燃やすことはまったくといっていいほどないが(小さい頃はあったけどね)、同性だったらはたして同じ気持ちで接することができるかどうか。


ぼくの父には兄がいる。
父とその兄(ぼくの伯父)の関係は、『ゆれる』の猛と稔の関係にちょっと似ている。

さっきも書いたように、父は福井県の超がつくほどの田舎で生まれ育った。幼いころは牛を飼っていて冬は家の中に牛を入れていたというから、昭和三十年代とは思えない暮らしぶりだ。
父は高校生のときに家を出て(なぜなら自宅から通える距離に高校がないから)、大阪の大学に入り、大阪の会社に就職し、ずっと関西に住んでいる。
一方、伯父は福井の高校を出て、福井の企業に就職しながらも農繁期には実家の畑仕事を手伝い、冬は実家の雪下ろしをし、母親を看取り、父親が認知症になってからは介護をし、父親を看取ってからもときどき実家に行っては古い家の手入れをおこなっている。

ぼくから見ると、長男はたいへんだ、と思う。祖父の家はべつに名家だったわけでもないから、家を継いだっていいことなんかぜんぜんない。駅から車で四十分の誰も買わない土地と冬は雪に閉ざされる古い家がもらえるだけだ。長男より次男のほうがずっといい。

それでも伯父はあたりまえのように煩わしいことを一手に引き受けている。理由なんかない。長男だから、ただそれだけ。

父と伯父は仲良くやっているが、「家に残って貧乏くじを引いた兄」「煩わしいことを兄に押しつけた弟」として、内心わだかまりがあるのかもしれないなあ。いや、あるんだろう。たぶん一生腹の中にしまったまま墓まで持っていくんだろうけど。自分自身ですら気づいてないかもしれないけど。

これまでそんなことまともに考えたことなかったけど『ゆれる』をきっかけに父と伯父の確執(あるのかどうかわからないけど)に想像が及んでしまった。

ほんと、西川美和さんの小説は嫌なことを暴きだしてくれるよなあ。


【関連記事】

【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』



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2018年7月18日水曜日

2018年FIFAワールドカップの感想


2018年FIFAワールドカップの感想。
10試合ぐらいはリアルタイムで観戦、残りはダイジェストで観戦。
気になったチームの感想だけ。日本の試合は観てないのでパス。

■ ロシア

世界ランキング70位と出場国中最下位でありながら、グループリーグでサウジアラビアとエジプトに圧勝し、決勝トーナメントではスペインも破り、クロアチアともPK戦までもつれるという大健闘。
ちょっとしか観てないけど、ふつうに強かったね。うまかったし、走りまくってたし。とても70位のチームとは思えなかった。これがホームの力か。

■ スペイン、ポルトガル

スペインーポルトガルはリアルタイムで観てたけどおもしろかったなあ。3-3というスコアもさることながらプレーが華やかだった。これぞワールドクラス、というゲームだった。
グループリーグ初戦でぶつかった、というのもよかった。初戦だから「勝ち点3がほしい」「負けても次がある」ということで、お互い果敢に攻めていた結果だね。もっと後で対戦していたら3-3にはならなかっただろうね。

■ フランス

予選では大勝こそしていなかったものの堅実な勝ちっぷりで、これはいいとこまでいきそうだなあ、という印象だった。優勝したから言うわけじゃないけど。守りの固いチームじゃないと勝ち続けるのは難しいよね。
アルゼンチン戦のエムバペはうまくて速くてかっこよかった。
ただ、準決勝のベルギー戦の終盤でエムバペが汚い時間稼ぎをしていたのでいっぺんに嫌いになった。ピッチ内ならどれだけ時間稼ぎをしてもいいけど、ボールが外に出てから時間稼ぎをするのはいかん。
ただ、時間稼ぎにキレたベルギー選手にどつかれて、どつかれたエムバペがイエローカードでどついた選手がおとがめなしだったのは笑った。ぼくでもどついてたな。ああいうプレーにはレッドカードを食らわせてほしい。

■ クロアチア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。
今大会一番好きになったチーム。
モドリッチはかっこよかったなあ。あれだけうまいのに、誰よりも一生懸命走るし、身体を張って守備にも参加するの、めちゃくちゃすごくない? いちばんうまいやつがいちばんがんばってるんだよ。ネイマールは見倣え。
32歳だから次の大会では見られないのかなあ。寂しい。

決勝の後半で1ー4になったとき、クロアチアのマンジュキッチが相手キーパーの前まで詰めていって相手ミスを誘って1点をもぎとったのもほんとにしびれた。めちゃくちゃ疲れている時間帯で、まず逆転不可能な点差がついて、それでもわずかな可能性のために懸命に走る。すげえ。あんなのできないよ。

たぶん個々の実力でいったらクロアチアはベスト8にも入らないぐらいじゃないかな。それでも各選手の献身的なプレーで準優勝に輝いた。いやあ、いいチームだった。

■ アルゼンチン

グループリーグは1勝1敗1分で辛くも突破したものの、決勝トーナメント1回戦でフランスにあっさり敗北。チームは相変わらずのメッシ頼み、テレビ的には相変わらずのマラドーナ頼みで、相手チームにしっかり対策をされたメッシはこれといった活躍はできず。
一人のスーパースターがチームを優勝に導く時代は遠い昔のものになったんだということを、メッシとマラドーナが教えてくれた。

■ ナイジェリア

ナイジェリアはいつ観ても楽しい。サッカーが華やかなのもあるが、何より人が陽気だ。ナイジェリアが得点を決めて踊るところをもっと観たい。ガーナとかカメルーンとか、中央アフリカの人って陽気だから観ていて楽しいよね。ワールドカップを盛りあげるために「中央アフリカ枠」を用意しておいてほしい。

■ セルビア

イビチャ・オシム氏のファンなので、旧ユーゴスラビアの躍進はうれしい。さっきも書いたな。
予選敗退だったけど、地に足のついたサッカーでブラジルとスイスを苦しめた。惜しかったなあ。

■ ブラジル

ネイマールの大げさに転がる演技が話題になっていたけど、ネイマール以外もひどかった。ブラジル人、転がりすぎじゃね?
弱いチームが戦術としてやるならともかく、ブラジルには横綱相撲をとってほしいな。今回はVAR(ビデオ副審)が導入されたことでブラジル選手の三文芝居が次々に明るみにでてしまった大会でもあった。メキシコ戦観てたけど、なんかもう観ているこっちが恥ずかしかった。ベルギーに負けてくれてよかった。

■ メキシコ

前回大会でブラジルとスコアレスドローに持ちこんだ守護神・オチョアが健在。
初戦でドイツを破り、スウェーデンに大敗しながらもドイツが敗れたおかげでまさかの決勝トーナメントに進出するも、ブラジルの技術の前に敗れて7大会連続でベスト16で敗退となかなかドラマチックな展開を見せてくれた。
ずっと「そこそこ強い」のって逆にすごいよね。

■ ドイツ

前回大会優勝、ヨーロッパ予選は全勝という輝かしい実績をひっさげてやってきた圧倒的優勝候補だったが、初戦でメキシコに敗れ、スウェーデンには終了間際のゴールで辛勝するも、韓国にまさかの敗退を喫してあえなくグループリーグ敗退。
いやあ、ドイツが優勝すると思ってたんだけどなあ。ずっとちぐはぐな印象だった。組織力で勝つチームはひとたび歯車が狂うとボロボロになるのだということを教えてくれた。
でも、もしもグループリーグ突破して立て直していたら連覇もあったんじゃないだろうかと思わせてくれるうまさはあった。

■ ベルギー

スター選手がそろっていて、ひとつひとつのプレーが華やか。観ていていちばん楽しいサッカーをしてくれたのがベルギーだった。
特にでかくてうまくて速いルカクがいい。でかくてうまい選手ってなかなかいないよね。決勝トーナメントでもっと活躍してくれると思ってたんだけどなー。

■ イングランド

GKのピックフォードが「映画に出てくるイギリスのいじめっ子の少年」みたいな顔で、見るたびに笑ってしまった。子ども時代、『スタンド・バイ・ミー』か『グーニーズ』か『ハリー・ポッター』に出てなかった?
相手のミスを誘ってセットプレーで点をとり、守り切って勝つというサッカー。今大会の躍進はVAR(ビデオ副審)導入のおかげかもしれない。
観ていて楽しいサッカーじゃないよね。こういうチームもあったほうがいいけど。



ワールドカップは、世界最先端の映像技術が活躍する大会でもある。
2014年にはゴール判定システムで「すげえ!」と思ったけど、今大会はドローンによる空撮技術とかNHKアプリのマルチアングル映像とかに興奮した。次の大会とかは3Dパブリックビューイングとかあるかもなあ。

スタジアム内の広告を観ていたら、蒙牛乳業っていう中国の会社の広告が目についた。ぼくが十五年ぐらい前に中国にいたとき、よく蒙牛のアイスクリームを食べていた。懐かしい。
他にも中国の企業の広告が目について、つくづく中国は経済大国になったんだなあと実感した。今回中国は出場していないのに広告を打つということは、海外向けなんだろうなあ。

ぼくはワールドカップでしかサッカーを観ないにわかファンだけど(しかもダイジェストで観ることが多い)、やっぱりワールドカップって楽しいよね。
サッカー関係者は「ワールドカップで興味を持ったらJリーグも観てよ」なんていうけど、ワールドカップを観た後だとJリーグの試合なんて観てられない。ちんたらやってんじゃねえよ、という気になる。女子サッカーも。日本代表の試合も。だから観ない。

サッカー自体ももちろんおもしろいんだけど、駆け引きの生まれるグループリーグシステムとか、観客席にも国民性が出るとことか、いろんな国の老若男女がばか騒ぎしているとことか、プレー以外のところもお祭り感があってワールドカップは楽しい。

参加国数を倍の64ぐらいに増やしてもっと長くやってほしいぐらい。やっぱりイタリアとかオランダとか見たかった。
と思っていたら、2026年からは48チームになるらしいね(2022年からになる可能性もあるらしい)。楽しみだ。


2018年7月17日火曜日

もうダンス教室やめたい


娘のおともだち(四歳)がダンス教室に通っている。
「ダンス教室楽しい?」と訊くと、「もうダンス教室やめたい……」と云う。

「なんで? この前はダンス好きって言ってたのに」と尋ねると
「踊るのは楽しいけど、新しいダンスをいっぱい覚えないといけないし、せっかく覚えたダンスはやらせてもらえないし、まちがえたら怒られて何回もやりなおさないといけないし、もうイヤ……」
と返され、そのあまりにまっとうな理由に思わず言葉を失った。

四歳児の抱えるつらさがはっきりと実感できた。
それはつらいよね……。
ダンスが好きなのに、好きなダンスを踊れないんだもんね。




子ども向けサッカー教室をやっている知人から聞いた話では、最近のサッカー教室では技術的なことを教えずに「とにかくサッカーをやりましょう」という方針のところが増えているそうだ。
まずはサッカーのおもしろさを教えるのが先、おもしろいと思ったらうまくなるにはどうしたらいいかと自分で考える、そのときに誤った方向に行かないようにうまく手助けしてやるのが指導者の役目だ、という話を聞いた。

それがいちばんいい、と思う。
ぼくは小学校二年生から五年生までサッカーチームに入っていた。自分から「サッカーやりたい!」と行って入部したのだが、リフティングを〇回やれるように何回も練習しなさいだの、三角コーンの隙間を縫ってドリブル練習しなさいだの、シュートをして決まらなかったらグラウンド一周だのと言われているうちにすっかり「サッカーやりたい」という気持ちが消えてしまい、練習に行くのを苦痛に感じることも多くなった。
ぼくはサッカーがやりたかったのに。リフティングも三角コーンドリブルもグラウンド一周もサッカーじゃなかった。

むずかしいことはいいからサッカーのゲームをしましょう、という方針だったらぼくも続けていたかもしれない。



四歳児のダンスなんて、上手に踊れなくたっていいじゃないか、と思う。
ちっちゃい子が音楽にあわせてうごうご動いてるだけでも十分観ていて楽しい(親は)。

子どもがダンスをまちがえてもかわいい。
緊張して動けなくなっていたら応援したくなる。
一生懸命やっていたら感心する。
そしてなにより、楽しそうにやっていたらうれしい。

子どもダンス教室なんて、そんな感じでいいじゃない。

子どもをダンス嫌いにさせないこと、それが子どもダンス教室の最大にして唯一の使命だ。


2018年7月16日月曜日

地頭がいい人


いろんな企業の採用担当の人と話す機会があるのだが、
「地頭(じあたま)がいい人」
というフレーズをよく耳にする。

必ずしも学歴重視ではないが頭の回転がはやい人、みたいな意味で使われる。
「べつに高卒とかでもいいんですが、地頭がいい人に来てほしいです」のように。

ぼくはその言葉を聞くたびに、心の中で首をかしげる。
たしかに学歴は低くても頭の回転のはやい人はいる。
でもそういう人を表現するのは「頭がいい」でいい。わざわざ「」という接頭語をつける必要はない。

「地頭がいい」とは、「今は頭は良くないがすぐに良くなる」という意味なのだ。
だが、そんな人はいない。



「地頭がいい」という言葉を使う人は、
「今は頭が良くないけどなにかの拍子に頭の良さが開花する人」が存在すると思っているのだろう。
漫画の主人公がある日突然自分の眠っていた才能に気づくように、素質を持った者が聖なる弓矢に撃たれたとたんにスタンド使いになるように、「ある日突然頭がよくなる」ことがあると思っているのだろう。

あたりまえだが、そんなことはありえない。
素質だけで頭の良さが決まるのは三歳までだ(もっと早いかもしれない)。
頭の良さは、素質×トレーニングの量で決まる。そして大人になるほど後者の重要性が大きくなる。
二十歳をすぎて頭の良くない人が、急に頭が良くなることはない。トレーニング量が圧倒的に足りないから。
一念発起して必死に勉強したとしても、ずっと勉強してきた人にはまず追いつけない。

たくさんトレーニングをしてきた人ほどトレーニングのやりかたがうまいので、仮に同じ時間トレーニングをしたとしてもその差は開くばかりだ。



「地頭がいい」は、スポーツでいうところの「運動神経がいい」に相当するのかもしれない。

「運動神経がいい」とは、「トレーニングをしたときの上達するスピードが早い」や「十分なトレーニングをしたときに高いレベルに達することができる」である。「トレーニングをしなくてもできる」ことではない。
どんなに運動神経がいい人も、生まれてはじめてバッターボックスに立ったときは空振りする。

「トレーニングしたらプロ野球選手になれる人」と「どれだけトレーニングをしても野球選手になれない人」の違いはある。その差こそ「持って生まれた運動神経」の差だ。
だが「野球をやったことないけど素質だけでプロ野球選手になれる人」は存在しない。

「もし小さい頃から野球やってたらプロになれたであろう人」はいるだろうが、彼が今後野球選手になることはない。

同じく「地頭がいい人(=素質はあったけどトレーニングをしてこなかった人)」も、永遠に「地頭いい人」のままだろう。


2018年7月15日日曜日

椅子取りゲームで泣いた話


四歳の娘が云う。

「あのな、今日保育園でゲームして勝てなくて泣いちゃってん。椅子取りゲームをしてんけどな、ずっと勝っててんけど最後にRくんがズルしてん。ほんまは先に椅子を触ったらあかんけど、先に椅子を持っててん。それで負けたから泣いちゃってん。でも先生はRくんがズルしたこと知ってて、(娘)にがんばったねって言ってくれてん」

これ自体は大した出来事じゃないんだけど、

起こったことを他者にわかるように順を追って説明したり、

伝わりにくい点を補足したり、

自分の感情がどう動いたかを表現したり、

うまく伝えることができるようになったんだなあとしみじみと感心した。


ツイートまとめ 2018年05月


大人の証

鼻毛

L⇔R

ひとりごと

なぞなぞ

世間

脱衣

褒められて

いろいろあって

誤解

LEGO

見える化

思慮

四親等

減少の理由

オーディオ

巧妙な手口

悪いコンテンツ

クールジャパン


2018年7月13日金曜日

ぼくたち見せしめ大好き!


『人口減少社会の未来学』という本の中で、平川克美氏がこんなことを書いていた。

 もし、晩婚化から早婚化へのベクトルの転換が難しいとするならば、少子化対策として可能な政策はひとつしかない。それは、結婚していなくとも子どもが産める環境を作り出すこと以外にはないだろう。
 少子化をめぐる状況を、改善のすすまない日本や韓国と、ある程度歯止めがかかったヨーロッパとの比較で見ていると、顕著な相違に気付く。その相違とは、婚外子率である。フランスもスウェーデンも婚外子率が5割を超えている。ヨーロッパの中で、日本と同じ家族形態を持っていたといわれるドイツでさえも35%という数値を示している。
 これに対して、日本の婚外子率は、1桁以上少なく、わずかに2.3%でしかない。韓国はさらに低く1.9%である。つまり、法律婚をしていないで子どもをもうけることは、儒教的なモラルに縛られているアジアにおいてはほとんどタブーのような扱いになっているということである。
 日本における少子化対策は、婚姻の奨励や、子育て支援が中心である。フランスやスウェーデンにおける少子化対策は、日本や韓国とは向かっている方向が逆で、法律婚で生まれた子どもでなくとも、同等の法的保護や社会的信用が与えられるようにすることであった。婚姻の奨励や、子育て支援といった個人の生活の分野には、政治権力が介入するべきではないと考えているからだ。むしろ、人権の拡大や、生活権の確保といった方向に、この問題を解決する鍵があるということである。

ここには少子化を(少しだけ)食い止めるヒントが書かれている。
婚外子の保護を手厚くすることだ。

でも。
断言してもいいが、絶対に日本は「結婚してない親から生まれた子どもを支援する」方向には舵を切らない。
フランスやスウェーデンだって結婚せずに子を生むことを推奨しているわけではない。ただ「結婚せずに生まれた子も差別せずに、むしろ積極的にサポートしていきましょう」と言っているだけだ。
日本はそれすらやらない。やれない。「むしろ積極的に差別していきましょう」という方針を貫く。



他の国はどうだか知らないので比較はできないが、日本人は"見せしめ"が好きだ。人類に共通する習性かもしれないが。

犯罪者が罰を受けることに対して、ほとんどの人は「被害者への償い」「犯罪者の更生」だとは考えていない。「他の人への見せしめ」と思っている。
だから遺族が望まなくても被害者の実名や写真を公表するし、報道に「冤罪だったら」「加害者が刑期を終えて一般市民に戻ったら」なんて視点は少しもない。
あるのは「悪いことをしたやつはこうなるんだぞ。わかったな」という見せしめ意識だけだ。磔(はりつけ)刑の時代とやっていることは変わらない。

見せしめだから、冤罪であっても関係ない。被害者が報道を望んでいなくても関係ない。補償も更生も気にしない。
それが冤罪であっても、犯罪を大々的に報道することは「悪いことしたらこうなるんだぞ」という見せしめには有効だ。





「結婚してから子どもを産んだほうがいい」という考え自体は、世界中ほとんどの文化で主流を占める考えだ。
でも"見せしめ"が好きな人たちは「結婚してから子どもを産んだほうがいい。だから結婚せずに子どもを産んだら不幸になるべきだ」と考える。そうすれば結婚せずに子どもを産む人間は減るだろう、と。

この手の考えはあちこちに蔓延している。
「高校を中退したやつはまともな仕事につくべきじゃない」
「不倫をしたやつはテレビに出るべきじゃない」
「あくどい儲け方をしたやつはろくな死に方をしない」
「夫婦別姓なんか選択する家庭の子どもはつらい思いをする」

赤の他人が高校中退しようが、不倫をしようが、法律スレスレのやりかたで金儲けをしようが、夫婦別姓を名乗ろうが、自分には関係ない。でも"見せしめ"を欲しがっている人にとってはそうではない。自分の考えと違う生き方をしている人には不幸になってほしいと思っている。



結婚してないやつは子どもを産むな、未成年者は子どもを産むな、まともな仕事をしてないやつは子どもを産むな、子どもをかわいがれないやつは子どもを産むな、責任感のないやつは子どもを産むな、他人に迷惑をかけるなら子どもを産むな、でも少子化を止めるために結婚して子どもを産め。
わが国で求めらているのはそういうことだ。

世の中が求めているのは「規範的な生き方をする人」と「見せしめ」のどちらかだけだ。規範から外れているけど幸せな人、は欲していない。


ぼくは「子どもは親のものではない」と思っている人間なので、個人的には、とりあえず産んでみて育てるのが難しそうだったらとっとと手放せばいいと思う。
子育てに必要なのは「何があっても子どもをまっすぐ育てあげる覚悟」ではなく「親が手放した後もちゃんと育てる仕組み」だと思っている。


2018年7月12日木曜日

古典の実況中継


高校生のとき、授業中にひとりで「実況中継」という遊びをやっていた。

授業中の他の生徒の様子を、ルーズリーフにひたすら書いてゆくのだ。
「□□が古典の教科書で隠しながら英語の宿題をやっている。と思ったら寝てしまった」
「〇〇が大きなあくびをした。それを見た△△が少し笑った」

これをルーズリーフにびっしり書く。五十分の授業中ずっと書く。
他の生徒を観察するのはなかなか愉しかった。ぼくは遊んでいるんだけど、ぱっと見ただけだと熱心にノートをとっているように見えるので意外と注意されなかった(一度、教師から「おまえは一生懸命ノートをとってるけど、そんなに書くことあるか?」と言われたが)。

できあがったルーズリーフには『〇月〇日 古典の実況中継』とタイトルをつけていた(タイトルの元ネタは当時売れていた参考書のシリーズ名だ)。

実況中継のルーズリーフは今でも実家にある。
たまに読みかえすと、二十年近くたった今でも授業中の雰囲気が思い起こされてなつかしい。おもしろくて、懐かしくて、泣きそうになる。
以前、同窓会に持っていったらものすごく盛り上がった。

現役学生の人たちは、後年のためにぜひとも実況中継をしておくといい。
十年後の自分が愉しめるから。


2018年7月11日水曜日

【読書感想文】 春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』


『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』

春間 豪太郎

内容(e-honより)
きっかけは、八年前。当時は海外に興味なんてなかったし、危ないというイメージの方が強かった。ところが、突然親友のリッキーがフィリピンへ行ったきり、消息不明に…。そこから始まる、おれの冒険譚。エジプトの砂漠を渡るべく、ラクダ飼いの見習いになったら死にかけたり、モロッコを横断するため、変態ロバや番犬の子犬、小猫や鳥たちと行商したり…。行方不明の親友を探しに海外へ…からの大冒険!

高野秀行さんが絶賛していたので読んだが、なるほど、高野氏の文章の系統を走りながらも、もっと勢いと行き当たりばったり感がある。一言でいうならば「若い」文章。

たったひとりでロバと仔猫と鶏と仔犬と鳩を連れてモロッコを旅する、というブレーメンの音楽隊みたいな冒険。だんだんパーティーの仲間が増えていくのは桃太郎にも似ている。鬼退治はしないけど。

めちゃくちゃめずらしい体験をしながらも、そこで語られている心の動きは「動物が病気で苦しんでいるのがかわいそう」といったごくごくなじみ深い感情で、非日常と日常のギャップがおもしろい。
海外を旅してまわっている人って行動力も語学力も判断力も高いスーパーマンみたいに感じてしまうのだけれど、春間豪太郎さんはごくふつうのにいちゃん、という印象。なんとなくやってみたらなんとかできました、みたいな感じ。
もちろんじっさいは細かく下調べしているし行動力も決断力も高い人なんだけど、文章からはそれを感じさせない。この気取らなさがすごくいい。

文章のテンポもすばらしい。余計な修辞や描写がなく、事実だけを突きつけるような文章。ぼくの好みだ。
この簡潔さの中にこそ想像力のはたらく余地がある。描写が少ないことでかえって情景がイメージできる。
これだけめずらしい体験をしていたら細大漏らさず長々と書きたくなりそうなものだが、大胆に省略をしているのでさくさく読める。これは文才か、編集者の腕か。




冒険に連れていくロバを探すシーン。五頭のロバの中からどれを買うか決めることになる。

 おれが買い取らなかった場合、一頭目のロバは今後ずっと道具として扱われ、ちょっとしたことで、殴られたり殺されたりするのかもしれない。その点四頭目のロバには名前があり、日本のペットに近い扱いがされているので比較的安心できると言えるだろう。そう考えると、このティズギ村でおれがなすべきことは、一頭目のロバを買うことなんじゃないかと思った。攻撃的なので四頭目より扱いにくく、値段も倍近くする一頭目を買うなんて、正直バカとしか思えない。でも、そうすべきだと思ってしまったんだから仕方がない。
 よし、一頭目のロバを買おう!
 そう決断し、すぐに飼い主の所へ行ってロバを購入。値引き交渉をしたので三千円ほど値引かれ、最終的な価格は約二万円だった。こうして、臆病で攻撃的な、遠くから見ると馬と見まがうほどに大きなロバが、おれの相棒となった。

他にも、サソリを見つけたら「サソリの毒がどんなものか知るために」わざと刺されたり、あえてリスクのある選択ばかりしている。

ロバを連れてひとりでひとけのない道を旅するわけだから、ロバの良し悪しが文字通り命運を握ることもあるだろう。そんな状況でも「ロバがかわいそう」というシンプルな理由で扱いにくいロバを選んでしまう。
ちょっとしたことかもしれないが、ごく自然にこの選択ができるからこそ、誰もがやらない冒険をやれたんだと思う。
「やろうと思えばやれるけど誰もやらないこと」をやる人とは、「かわいそうだから」という理由で暴れロバを選べる人だ。
世界を変えるのはこういう人なんだろうな。そして、わざとサソリに刺されることのできないぼくは冒険をすることはできないのだとつくづく思う。


すごくおもしろかったので他の本も読んでみたいと思ったけれど、現時点(2018年7月)ではこれ一冊しか上梓していない。早くべつの本書いてくれ!


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2018年7月10日火曜日

号泣される準備はできていた


四歳の娘を連れて、実家(つまり娘からすると「おばあちゃん家」)に泊まりに行く。

一日中おじいちゃんおばあちゃんやいとこたちと遊んで、娘は終始テンション高め。
ふだんはぼくと入るお風呂にも「(いとこの)〇〇ちゃんと入る!」といって、子どもたちだけで入浴した。もちろんおもちゃをいっぱい持って入り、一時間ぐらい遊んでいた。

そして夜。
娘は「〇〇ちゃんといっしょに子どもだけで寝る!」とのこと。

「わかった。じゃあおとうちゃんは下で寝てるからね。おやすみ」というと、
娘が心細そうに「二階で寝るけど、もし途中で寂しくなったら下に来てもいい?」と。

「はいはい。いいよ」と言ってぼくも布団に入った。
五分すると娘が階段を降りてきた。「どうした? 寂しいの?」と訊くと、「ううん。でも夜中に寂しくなったら降りてきてもいい?」との返事。

もう寂しくなってるやんと思いながらも、おもしろかったのでもうちょっと様子を見ることに。
「いいよ。二階で寝るのね。じゃあおやすみ」

今度は三分後。また降りてきた。
涙をせいいっぱいこらえた顔で「もしも、もしも、夜中に寂しくなったら、降りて、きても、いい?」と云う。
たぶん「いっしょに寝よう」と言ってほしかったのだと思うが、ぼくも意地悪なもので気づかぬふりをしたまま
「もしも寂しくなったらね。じゃあおとうちゃんはここで寝るからね。おやすみ、バイバイ」
と手を振った。

はたして一分後に、娘が号泣しながら降りてきた。「やっぱりいっしょに寝て!」

「手つないで寝て!」というので、手を握りながら寝た。



娘の気持ちはよくわかる。
ぼくも同じような経験をしたことがあるからだ。
五歳のとき、いとこの家で遊んだ。めちゃくちゃ楽しかったのでぼくと姉は「まだ帰りたくない!」と言い、伯母さんに「よかったら泊まっていってもいいよ」と言われたのに乗じて「子どもだけ泊まる!」と宣言した。

両親はぼくと姉を置いて帰宅した。ぼくと姉は楽しくご飯をごちそうになり、楽しくお風呂に入り、そして布団に入った。
布団に入ったとたんに心細くなり「やっぱり家に帰る!」と大泣きした。困りはてた伯母さんはぼくの親に電話をし、一度帰宅した両親は夜中に車で迎えに来てくれた(車で一時間ぐらいの距離だった)。

子どもというやつは遊ぶときは親がいなくても平気でも、布団に入ると急に心細くなるものらしい。



そして経験から学ばないのもまた子どもである。

保育園の友だちから「家に泊まりに来ていいよ」と言われた娘は、「Nちゃんの家に泊まりにいく!」と言いだした。
「同じ家の別の部屋」でも耐えられなかったのに「別の家にひとりで泊まる」なんてできるわけがないでしょ、と言っても聞く耳持たず。

やれやれ。やれやれやれ。


2018年7月9日月曜日

【読書感想文】 西川 美和『永い言い訳』


『永い言い訳』

西川 美和

内容(e-honより)
人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻が旅先で不慮の事故に遭い、親友とともに亡くなったと知らせを受ける。悲劇の主人公を装うことしかできない幸夫は、妻の親友の夫・陽一に、子供たちの世話を申し出た。妻を亡くした男と、母を亡くした子供たち。その不思議な出会いから、「新しい家族」の物語が動きはじめる。

あらすじを読んで、
「妻を亡くしても悲しさを感じられなかった主人公が、ふとしたことで出会った子どもたちと過ごすことで徐々に内面と向き合っていき、やがて妻の存在の大切さに気付く」
的なベタな感動ストーリーかな、と警戒していたのだけれど、予想通りに運ばなくてよかった。
そりゃそうよねえ、うまくいってなかった人が死んだからって「そばにいてくれてありがとう」なんて思えないよねえ。

主人公がわがままで見栄っ張りで平気で他人の気持ちを踏みにじるやつ、ってところに作者の「ありきたりなお涙ちょうだい物語にはしないぞ」という意思が感じられた。
いろんな表現メディアがあるけれど、人間のダメなところを描くという点では小説は優れた表現手法だなと『永い言い訳』を読んで思った。ほんとに主人公がダメなやつなんだよ。




幸いにして身近な人を亡くしたことがない。祖父母の死は経験したが、八十歳ぐらいで病死したので「まあ順番的にそうなるわな」という感じで、少なくとも「なんでこの人が死ななくちゃいけないの!」という死に方ではなかった。だからまあ悲しかったけど、卒業式の悲しさと同じで「つらいけどしかたないよね」と気持ちは醒めていた。

もっと近しい人が理不尽に死んだとき、正しく悲しめるだろうか。正しくっていうのも変だけど、号泣するとか、取り乱すとか、そういう反応ができるか自信がない。いやべつに取り乱さなくたっていいんだけど、冷静になりすぎてへらへらしてしまったりするんじゃないかと心配だ。

ぼくは感情のスイッチをかんたんに切り替えられない。
以前、友人の運転する車の助手席に乗っていた。信号を右折するとき、自転車が飛びだしてくるのが見えた。車は減速する様子がない。どうやら自転車に気づいていないようだ。
ぼくは言った。「自転車きてるでー」
運転手は自転車に気づいてブレーキを踏み、間一髪で接触はまぬがれた。あと0.1秒遅れていたらぶつかっていたかもしれない。
危なかったな、と運転手にいうと「気づいたんやったらもっと危なそうに言ってや!」と怒られた。
「あぶないっ!!」とか「ブレーキ!!」とか、なんなら「わああああー!!」でもいいから、とにかくたいへんな事態が迫っていることを警告してほしい、おまえの口調にはまったく切迫感がなかった、と。

感情の起伏の少ない人間だと言われる。まず怒らない。四歳の娘に対して怒鳴ることはあるが、かっとなって怒鳴るわけではない。「真剣に聞いてないからまずは怒っていることを伝えないといけないな」と考えて「よし、怒ろう」と決意してから怒っている。
依然の職場に一瞬でキレる人がいて(上の立場の人間だった)、ぼくはその人のことを「感情のコントロールができないんだな」と小ばかにしていたが、感情のおもむくままに行動できることをちょっとうらやましいとも思っていた。

もう何年号泣していないだろう。学生のとき、小さいときから飼っていた犬が死んだとき以来だから、十年以上は号泣していない。

突然の災害や事件に巻き込まれたときに、冷静に行動しなければいけないと思うあまり、必要以上に冷静でいすぎる人間がいるらしい。
緊急事態だから何を置いても逃げないといけないのに、自分は冷静だと思うあまりふだんどおりに行動してしまう。仕事に向かったり、現場の写真を撮ったり。そして、危険が自分の身に及んでいることに気づかぬふりをしたまま、自身も巻きこまれてしまう。
自分自身、そういうタイプになりそうな気がする。もう少し感情的に行動できるようになったほうがいいな、と思う。思ってできるようなものでもないのかもしれないけど。




主人公(中年男性、小説家、子どもなし)が、知人の娘のお迎えのために保育園に行ったときの描写。

 近辺をぐるぐる回り、ようやく保育園にたどり着いたが、昨日のうちに陽一氏がぼくらの関係を先生に説明してくれていたおかげで、「大宮灯の迎えの衣笠です」とインターホンで名乗ったら門扉の関はすんなりクリアできた。
 建物の下足場まで入って待っていると、次から次へと園児が出てきて、迎えに来た母親たちと帰って行く。中には父親もいる。彼らは互いに決まって明るく「こんにちはー」「さよならー」と挨拶を交わし、時間の無い勤め人らしく立ち話もそこそこに三々五々帰って行く。ぼくはしっかりと父親を装って、「こんにちはー」と発してみる。すると不審がる様子も無く、相手も同じように返してくれてほっと息をつく。犬猫が動物嫌いの人間を瞬時に感知するのと似て、母親という生き物は「人の親でない者」を見抜くセンサーを持っているように感じてきたが、どうやらそれも百発百中ではないようだ。よしよしよし。そうこうしているうちに灯ちゃんが奥から廊下を歩いてやってきた。ぼくが来ることは分かっているはずだが、ちょっと照れくさげな表情をしているので、思い切っておーい、と手を振って手のひらを差し出すと、てててと駆けてきて右手でぱちんとタッチしてきた。む。可愛いぞなもし。

これを読んで笑ってしまった。そうそう、ぼくもこうだった。

まだ自分に娘が生まれる前、姪っ子の保育園にお迎えに行ったことがある。会社を辞めてヒマだったからだ。
そのときの気持ちは、まさにこんな感じだった。ちゃんと園児の母親(ぼくの姉)から頼まれて来ているんだから堂々とすればいいのに、不審者と思われるんじゃないか、まだ姪は一歳だから急に泣き出すかもしれない、そしたら怪しいおじさんだと思われて通報されるかも、じっさい無職のおっさんだしな、そんなことを考えてドキドキした。
で、ビクビクキョロキョロした結果、余計に挙動不審な怪しい人になる。

小学校や保育園って、関係のない人にとってはものすごく敷居の高い場所だよね。近寄ったり中をのぞきこんだりするだけで防犯ブザーを鳴らされそうで怖い。
ぼくが中国の大学に留学していたとき、大学の門の入り口に銃を持った人(警察か兵士かわかんないけど)がいて通るたびに銃口向けられるんじゃないかとびくびくしていたけど、それぐらいの緊張感がある。常に銃口向けられている気分だ。

子どもが生まれてよかったと思うのは、よその子に話しかけやすくなったことだ。
「大人の男」というのはそれだけで不審者予備軍みたいな扱いを受けるから、子ども、特に女の子に話しかけることは許されない。

こないだ、公園で小学生の女の子が携帯電話を手にして困っている様子だったので
「どうしたん? あー、電話かかってきたけどとれなかったのか。ちょっと貸して。ほら、こうしたら誰からかかってきたかわかるよ。この真ん中のボタンを押せばかけなおすことができるよ」
って教えてあげたんだけど、それはぼくが娘を連れていたからできたことで、そうじゃなかったら「おっさんが女子小学生に話しかけていたら通報してもよい」という社会的規範のせいで話しかけることはできなかっただろう。




自分が父親になったからだろう、子どもとの接し方について書かれているところが印象に残った。

 察するに津村は、かのキワモノ親父の家庭の中に、自分の身の置き場を見出したんじゃないか。実際そこの子たちに愛情めいたものを感じ始めているのは本心だろうが、それに一番癒されているのは、母親を失った子供たちよりキワモノ親父より、津村本人なのではないかと思う。子供を愛することって、これまで自分がやってきたどんな疾(やま)しいことだって夢みたいに忘れさせてくれるから。これは男たちが、父親になることで手にすることのできる、一つの大きなご褒美だ。母を失った悲しみに暮れる子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせるようになった津村は今、本当に快適そうだ。

この指摘はけっこうぐさっと刺さったなあ……。
ぼくも休日はほぼ毎日子どもと一緒にいるし、平日も風呂も寝るのも子どもと一緒だから「けっこう子育てやっているほう」とひそかに自慢に思っていたのだけれど、「子供たちを手助けしている、という最高な大義名分とともに、すべての忌まわしいことから実に心地よく背中をむけて過ごせる」と言われてしまうと、ううっ、たしかにそうかもしれない……と居心地の悪さを感じてしまう。

大人としてダメダメな人間である衣笠幸夫という主人公の姿を読むことで、自分の中のダメさが浮き彫りにされるような気になる。
おまえはダメなんだぞと真実を突き付けてくれる、いい小説でした。


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2018年7月6日金曜日

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』


『裁判所の正体
法服を着た役人たち 』

瀬木 比呂志 清水 潔

内容(e-honより)
裁判所には「正義」も「良心」もなかった!良心と憲法と法律に従って判決を下す「正義の府」。権力の暴走を監視する「憲法の番人」。しかし実態はそれとは懸け離れたものだった!最高裁を頂点とした官僚機構によって強力に統制され、政治への忖度で判決を下す裁判官たちの驚愕の姿を暴きだす。

『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件:遺言』などの超絶骨太ノンフィクションで知られる清水潔氏が、元裁判官である瀬木比呂志氏から裁判官の姿について聞きだした本。
瀬木さんが、いくら辞めたとはいえここまで言っちゃっていいのかな、とこちらが勝手に心配してしまうほどずけずけと裁判官の内情を暴露している。

あくまでひとりの元裁判官が言っていることなので裁判官全体を表しているわけではないし偏った見方もあるんだろうけど、「転職会議」気分で話半分で読む分にはおもしろい。
ふつうのサラリーマンの愚痴っぽいところもあるけどね。「上司にうまくごまをすってるやつばっかり出世する」とか。それはたいていの組織であるだろう。

いや、途中までは暴露話を聴いている感じでおもしろがっていたんだけど、途中から怖くなってきた。日本の司法ってここまで腐敗してたのか。



序盤の「暴露話」風のやりとりから。

清水 実際に事故が起きてしまったとか、起こしてしまった裁判官の話とかは聞いたことありますか。

瀬木 ええ。裁判官の話も聞いたことあるし、その家族の話も聞いたことありますね。大事故だともちろん刑事裁判ということになりますけど、それほどのことでもないと、起訴されないようにしたり、そういうことは、かつてはありました。検察に便宜を図ってもらって起訴を免れる、みたいなことですけど。

清水 便宜ですか。やはりそういうことはあったんですね。露呈すればマスコミでも話題になったりするわけですけど、たとえば交通違反とか、飲酒運転とかで、「ちょっと何とかならないの?」みたいなことがあったわけですね。

ひゃあ。今もあるんだろうなあ。
飲酒運転はともかく、軽い交通違反ぐらいだったら「反則金を払う」と「もみ消しがばれたときのリスク」を天秤にかけたら圧倒的に素直に反則金のほうがいいと思うんだけど、それでもやっちゃうのが人間くさいというか。誰よりも公正であらねばならない立場にある人でも目先の損から避けるために誤った道へ進んでしまうというのがおもしろい。おもしろがってちゃいかんか。
裁判官であっても自分のことになると冷静な判決は下せないんだね。



さっきの「交通違反をごまかしてもらう」はまだ許せるというか、「裁判官も人間だなあ。しゃあないな」と思わず笑ってしまう気持ちになる。少なくとも心情は理解できる。

しかし、次に書かれるような話は、とても許せるものではない。

清水 今おっしゃった「統治と支配」の根幹にふれる事件には、たとえばどんなケースがありますか?

瀬木 近年の例から一つ挙げますと、たとえば夫婦別姓については、まさに「統治と支配」の根幹にふれ、自民党主流派の感覚にもふれますから、絶対さわらない(最高裁二〇一五年〔平成二七年〕一二月一六日判決)。だけど、非嫡出子の相続分については、そんなに大きな問題ではないので、民主的にみえる方向の判断を下す(最高裁二〇一三年〔平成二五年〕九月四日決定)。やや意地悪な見方かもしれませんが、日本の最高裁の判断を注意深くみていくと、大筋としてはそんな感じでバランスを取っている傾向が強いと思います。そして、国際標準の民主主義にかなう判決は、わずかなのです。

清水 今ものすごい話を聞いてしまったので(笑)、このまま続けてうかがいたいんですが、「統治と支配」にかかわる部分にさわらないというのは、つまり今であれば自民党の顔色をうかがうということでしょうか。

瀬木 そうですね。その時々の権力者、ことに、その時々の自民党の中枢の顔色をうかがうという傾向は強いですね。

これはあくまで瀬木さんの見方にすぎないが、内閣のほうを見ながら仕事をしている裁判官がいるとしたら憤懣やるかたない。中学校の公民の教科書からやりなおしてこいと言うほかない。

瀬木さんの話によれば、国政の方針にそぐわない判決を出した裁判官は地方支部を転々と飛ばされる、なんてこともあるんだとか。大飯原発の運転差し止め判決を出した裁判長が地方裁判所から外されて家庭裁判所に異動になった、というエピソードも載っている。
ぼくが思っているよりも裁判所という機関は、こと政治分野に関しては腐敗しきっているようだ。

もちろん個人レベルで見れば、己の良心に従って判決を下している裁判官もいるのだろう。だがそういう裁判官は出世できないから、上級審に行くほど権力者の顔色をうかがう裁判官にあたる可能性が高くなる。結果、権力者に睨まれた人は裁判で勝つことはできない。たとえ勝っても控訴審でひっくり返されてしまう。
本来不正から国民を守るための再審制度が、権力者を守るための制度に成り下がってしまっているというのが実情のようだ。情けないことに。



特に近年、名誉棄損訴訟で、原告が勝ちやすくなっている(あるいは罪の一部を被告に認めさせやすくなっている)と瀬木氏は指摘している。

瀬木 アメリカでは、名誉毀損訴訟では、原告はきわめて勝ちにくいということになっています。ことに、公人といわれるような人々についてはそうですね。これは、民主主義社会の基盤としての「表現の自由」を最大限に尊重するということです。ヨーロッパは、日本とアメリカの中間くらいでしょうか。日本では、法律の仕組み、判例としては、名誉毀損は簡単に成立して、むしろ被告のほうに証明責任が負わされるという形になっているのですが、この形自体が、アメリカに比べると、随分被告に不利なんです。

清水 そうですね。これがまさに訴えられた時の真実性・相当性の立証責任ということですね。

瀬木 被告の側に証明責任があるんです。僕は、少なくとも真実性については、反真実性の立証を原告にさせるべきだと思います。原告にとっては難しいことではないはずですから。現に、アメリカ法ではそうなっています。でも、かつての裁判所は、実際には、真実性・相当性は、常識的なところで認めていたんです。これはまあ真実だよな、あるいは、そういうふうに信じたのも無理はないよな、という事案では、棄却していたんです。民主主義国家の裁判所としては、それは当然のことで。

清水 取材、執筆時に真実だろうと判断した、その理由をきちんと立証できればよいと。

瀬木 ところが、最近、全然それを認めないんです。そうすると、本当に、これは、ある意味で、表現の自由の封殺ですよ。本当にこんなに暴走していいのかと近年強く感じる一つの分野が、名誉毀損です。そういう方向性がスラップ訴訟の温床にもなる。

清水 いろいろうかがっていくと、裁判所が、国民のためではなく、やはり権力側についてしまっている。この国のすべてのシステムが、そちらに向かっているというかバランスが崩れてきています。そんなふうに感ずるのです。

「報道される」「わざわざ訴訟を起こす」という時点で、名誉棄損裁判の原告の多くは権力者だ。政治家だったり、大手企業だったり。
つまり原告が勝ちやすくなっているということは、権力者が勝ちやすいということでもある。

そうなると、大企業や大政党の政治家のように金を持っている側が「余計なこと書いたら訴えるぞ」と脅しをかけやすくなる。
すると表現をする側が委縮してしまう。

ぼくなんかこうやってインターネット上に好き勝手なことを書いていて、表現の自由という権利を当然のように享受しているけど、じつは表現の自由というものはきわめてあぶなっかしい状態にあるのかもしれない。



政治家や官僚が嘘をついたり、重要な文書を改竄したり、存在する文書を隠蔽したりというニュースが相次いで報じられている。
ぼく個人としては「だめな政治家だなあ。さっさと辞めてほしいな」と思うけど、当の政治家や官僚に対してさほど怒りは湧いてこない。なぜならはじめから彼らに対して公明正大であることを期待していないから。
「だめな政治家だなあ」と思うのは「かんたんにばれる嘘をついてだめなやつだなあ」という意味である。嘘をつくことそのものがだめだとは思わない。「やるんならもっとうまく嘘をつけよ」と思う。

上手に嘘をつく知性が足りない政治家はさっさと辞めろ、とは思うが、彼らがいついかなるときも正直であるべきと信じているほどピュアではない。

文書を隠蔽する政治家にも官僚にも呆れるばかりで腹は立たないが、それに対して立ち向かわない司法に対しては憤慨している。検察庁も裁判所も仕事してんのかよ。


誰しも権力を持つと腐敗するものだから、総理が近しい人に便宜をはかることなんて、現政権に限らず今までもあったんだろう。人間が政治をやっている以上、完全になくすことはできないだろう。
だからこそ三権分立とか司法の独立とかの内閣をチェックして暴走を止める仕組みがあるのに、今はそれが機能していない。

今、ぼくが中学校の社会科教師だったら「裁判所には違憲審査というチェック機能があります。ま、これはあくまで名目であってまったく機能してませんけどね」と言うしかない。
大阪地検特捜部が文書改竄を指示した官僚の立件を見送ったというニュースを見ると、三権分立はどこにいったんだと憂鬱な気持ちになる。



田中角栄氏は現職総理大臣でありながら逮捕された。ぼくが社会の教科書でそれを知ったときは「総理が逮捕されるなんて情けない時代だったんだな」と思った。でも今にして思うと「総理が逮捕された」ってのは司法が正常に機能しているということの証明でもあるわけで、むしろいい時代だったんだと思う。
今なら、首相が汚職事件に手を染めていたとしても検察は目をつぶるだろう。

裁判所ってもっとまともな組織だと思っていた。政治や警察や検察が腐敗しても、裁判所だけは良心を持っていると。ぼくがピュアすぎただけなんだろうか。

司法の公正を信じている人ほど、厳しい取り調べを受けたときにいわれのない罪でも「ここは嘘の自供をしても裁判所では真実を明らかにしてくれるはず」と思って嘘の自白をしちゃうんだろうなあ。
とても悲しいことだけど、ぼくはもう裁判所を信じるのはやめる。裁判所は国民を守るためのもの機関ではないと思って生きていくことにする。


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清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2018年7月5日木曜日

ファイトの軽薄さ


中学生のとき陸上部に所属していた。専門は長距離。
走ることは好きだったが、応援されるのは嫌いだった。
特に大会になると、沿道に同じ学校の生徒(短距離とか幅跳びとかの選手)が並び、「ファイト―!」と声をかけてくる。先輩、同級生、後輩、特に女子が多い。
ぼくはハッハッと息を吐いて走りながら「うるせえ死ね」と思っていた。

長距離走、という種目がよくなかった。
百メートル走だったら声援なんて聴いている余裕はないし、砲丸投げのような投擲競技や走り幅跳びのような跳躍競技であれば選手の集中を妨げないように観客は静かにしている。
だが長距離だと声援がはっきり聞こえる。誰が何を言った、と理解する余裕もある。だから余計に声援を送ってくるのだろう。

女子に応援されるなんてうれしいじゃないか、と思うかもしれない。だがそんなことはない。
野球のバッターボックスに立っているときに女子から声援を送られたらぼくだってうれしい。きりっとした顔をつくる余裕だってあるだろう。
だが長距離走だ。汗はだらだら、息ははぁはぁ、足はよれよれ、はっきりいって気持ち悪い。そんな姿を見られたくない。そっと目を背けてくれ、と思う。

こっちがめちゃくちゃ苦しいのに何もしてないやつが「がんばれー!」と言ってくることに腹が立った。言われんでもがんばっとるわ、この苦しそうな顔を見てわからんのかい、今以上がんばったらせっかくキープしてるペースがくずれるやろがい、と憎悪の念が湧いてくる。

特に「ファイトー!」が嫌いだった。なんと軽い言葉だろう。無責任きわまりない。
自分の子どもが徴兵されてこれから戦地に赴くことになるとする。なんと声をかけるだろう。「しっかりやってこい」だろうか、「生きて帰ってこいよ」だろうか、あるいは無言で手を握るかもしれない。少なくとも「ファイト―!」ではないだろう。うすっぺらすぎる。
「ファイト」には、本気で応援する気持ちはこもっていない。

中島みゆきはちゃんとその嘘くささを見抜いていて、『ファイト!』という絶望感たっぷりの歌を作っている。あの歌を「がんばる人への応援歌」と言っている人がいるが、何もわかっていない。あれは「ファイト!」の軽薄さを唄っているのだ。沿道の人間がマラソン選手に送る「ファイト―!」からもっとも遠いところにある歌だ。

チームメイトから応援されるのなら、わかる。サッカーのPKを蹴る選手にチームメイトが「決めろー!」と応援するのは納得がいく。彼のパフォーマンスが自分にとっても利益になるからだ。
だが陸上競技は、駅伝以外は個人種目だ。応援されても「おまえらには関係ないだろ」と思う。
ぼくがひねくれてただけかな。
でも学校のテストで同級生を応援しないんだから、個人競技に出場している同級生を応援するのも変じゃないか?
今にして思うと、応援が不快だったのは、ぼくに「学校を背負って走ってる」気が微塵もなかったからかもしれないな。


陸上部時代の嫌な思い出があるからか、今でも応援は好きじゃない。応援するのも、されるのも。
といってもこの歳になると人から応援されることなんてそうそうないんだけど。せいぜい保育園の保護者リレーで走ったときぐらい。
でも保護者リレーで走っているときに「がんばれー!」と言われても嫌な気にならない。それは本気でがんばってないからなんだろうな。「そんなに速くないし、がんばれと言われて当然」ぐらいの気持ちで受け止めることができる。

ということで、ほんとにがんばっている人に「がんばれ」と言うのはよくないね。
デブにデブと言ってはいけないのと同じだね。ちがうか。


2018年7月4日水曜日

怒りのすりかえ


娘が二歳のとき、いわゆる「イヤイヤ期」が訪れ、いったん火がつくと何をするのもイヤと言うようになった。

そんなときにぼくが対策としておこなっていたのが「怒りのすりかえ」である。

たとえば、
今からごはんというときに「イヤだ! おでかけする!」と娘が怒りだす
 ↓
「よし、はみがきしよう!」といって歯ブラシを取りにいく
 ↓
娘、「イヤだ! はみがきしたくない!」と暴れる
 ↓
ひとしきり暴れさせた後に「わかったわかった、じゃあはみがきしなくていいよ」と言う
 ↓
娘、少し落ち着く。この時点で「おでかけ」のことは忘れている
 ↓
「じゃあごはん食べよっか。大好きな納豆あるよ」と声をかける
 ↓
娘、機嫌を直して食卓につく


百パーセントではないが、このやりかたでうまくごまかせることがあった。
ただ「イヤ!」といって我を通したいだけなので、べつの話題を持ちだして「イヤ!」が通ったことにしてあげれば納得するのである。



仕事をしていると、ときどきイヤイヤ期の人に出くわす。
ただケチをつけたいだけ、自分の要望を通したいだけ、の人。


そういう人に話を通さなければならないときは、
「わざとわかりやすいミスを作っておく」
「無理めな要求を入れておく」
とするとうまくいく。

「ここが違うから直せ!」とか「こんなの認められん!」とかいうので、
少し逡巡したふりをしてから「わかりました。ご要望通りに対応します」といえば、わりと納得してくれるのだ。

怒りのすりかえ、二歳児以外にも使えるテクニックだ。


2018年7月3日火曜日

新刊のない図書館


よく大阪市立図書館に行く。子どものえほんを借りるのが目的だ。
ぼくは本を買うのが好きなので(読むために買うというより買うために読んでいるというぐらい)ずっと図書館とは無縁の生活を送ってきたのだが、子どもができて図書館を利用するようになった。

えほんはすぐ読みおわるし、かさばるし、値段は高い。
次々に買っていたら財布がもたない。毎週のように図書館に出かけて、肩がもげるぐらいリュックいっぱいにえほんを詰めて帰る。



大人の本はほとんど借りないが、図書館の棚を見るのは好きだ。
図書館の書架は書店とはだいぶ味わいが異なるので、他人の本棚を見るような楽しさがある。

しばらく見ているうちに気づいたことがある。
ある時期を境に新しい本が入っていない。



ぼくは書店で働いていたこともあるので、本の流行りには敏感だ。
図書館の本棚には、十年前のベストセラー、二十年前のベストセラーはあるけど、ここ数年に売れた本がほとんど並んでいない。
たとえば1990年代~2000年代前半にヒットを飛ばしていた宮部みゆきの本は充実している。ほぼ全作品が並んでいる。だが近年の人気作家の本は少ない。あっても古い本しかなかったりする。

はじめは借りられているだけかと思った。だが、注意してチェックしてみると、いつ見てもない。そもそも置いていないらしい。
まあそれはいい。図書館に新刊の文芸書を置くことはぼくも反対だ。趣味の本は買って読んでほしい。図書館に置くのは新刊書店で手に入らなくなった本だけでいいと思っている。

だが、新しい本がないのは文芸書だけではないことにも気づいた。実用書も古い本だらけだ。
たとえばパソコン入門書のコーナーなどを見てみると、十年ぐらい前の本がずらりと並んでいる。『わかる! Excel2007』なんて本が堂々と置かれている。
パソコン書の世界で十年前なんて大昔だ。医学書の棚に『解体新書』が置かれているようなものだ。

生活に困っている人が仕事を探すにあたりパソコンスキルを身につけようと図書館に行く、なんてシチュエーションもあるだろう(なにしろ大阪市の生活保護受給率は政令指定都市の中でナンバーワンだ)。
そんなときにExcel2007の本しかなかったら困るだろう。
図書館ってそういう人のためにあるものだと思うのだが。


どうしたんだろう。
どうして大阪市はここ十年ほど図書館の蔵書を増やすことを放棄してしまっているのだろう、と首をかしげていたのだが、2011年に大阪維新の会の橋下徹氏が大阪市長になったことに気づいて「ああそういうことかな……」と深くため息をついた。


2018年7月2日月曜日

【読書感想文】 橘 玲『朝日ぎらい』


『朝日ぎらい
よりよい世界のためのリベラル進化論』

橘 玲

内容(e-honより)
朝日新聞に代表される戦後民主主義は、なぜ嫌われるのか。今、日本の「リベラル」は、世界基準のリベラリズムから脱落しつつある。再び希望をとり戻すにはどうすればいいのか?現象としての“朝日ぎらい”を読み解いてわかった、未来に夢を与える新しいリベラルの姿とは。

主に「国内外のリベラル派の置かれている状況」について書かれていて、「朝日」はメインテーマではない。どっちかっていうと「リベラル嫌い」について語っている本。
タイトルからは「朝日新聞出版から出している本にこんなタイトルつけても許しちゃうなんて懐が広いっすよね」というリップサービス感が漂ってるけど、内容はすごくおもしろかった。
橘玲氏のべつの著作『言ってはいけない』もそうだったけど、「そんなこと言っちゃまずいんじゃないの」ということを、実験データに基づいてずばずば書いてしまうのがおもしろい。

たとえば、知能が低い人ほど保守派になりやすいとか。
知的好奇心が高く、言語運用能力の高い人ほどリベラルに、そうでない人ほど保守派になりやすい傾向があるそうだ(あくまで傾向)。
知能の高い人ほど社会的に成功しやすい。つまり、成功者ほどリベラルである傾向が強い。
だからといってリベラルの主張通りに世の中が動かないのがおもしろいところだ(リベラルからすると困ったことだが)。アメリカ大統領選でトランプ氏がクリントン氏を破ったことやイギリスがブレグジット(EU離脱)を決定したのがまさにその典型で、賢い人が「立派なこと」を言うと、「えらそうにしやがって」「きれいごと言ってんじゃねえよ」と反発する人が世の中にはたくさんいるのだ。

「朝日」が嫌われるのも同じ理由で、高学歴な社員たちが「誰もが住みよい世の中にしよう」「弱者を守ろう」なんて主張をしても、「上から目線で言いやがって」「おまえらは高収入もらってるからきれいごと言ってられるけどよ」と反発を招く。
本来ならリベラルが守ろうとしている人たち(社会的弱者やその予備軍)までもが、「高学歴で大手企業に勤めてるやつらの言うことなんて」と攻撃している。

イギリスでもアメリカでも、白人・労働者階級・男性というかつては社会的に大きなポジションを占めていた人たちが貧困化していき、「おれたちの待遇が良くならないのは誰かが不当に利益をむさぼっているせいだ」と移民や女性を叩くことに精を出している。日本でも同じことが起こっている。知識社会に取り残された日本人男性がネトウヨ化し、外国人を攻撃している。
そして彼らは自分たちのことを切り捨てようとしている政党を支持して、弱者の権利を拡大しようとしているリベラルを非難している。

この結果、アメリカでも日本でもどんどん金持ち優遇社会になっていく。持たざる人たちがそれを支持している、というのがなんとも悲しい。

……でも、こういう上から目線の憐みの姿勢こそがリベラルが嫌われる原因なんだろうな。誰だって憐憫の目で見られていい気はしないもんな。
憐みを受けるぐらいなら、たとえ幻想でも強者側に立って他人を叩いているほうが幸福なのかもしれない。



世の中がリベラル化したことでリベラル派が力を失った、という指摘にはうならされた。

ぼくはタバコを吸わない。
公共の場のいたるところにタバコの煙が充満している時代だったら「嫌煙家が煙を吸わない権利を守れ!」と主張する政党に魅力を感じていただろう。
でも、ずいぶん分煙が進んだ今、「飲食店は原則禁煙にせよ!」なんて主張を聞いても、「うーん、現時点でさほど迷惑してないし、きっちり分煙してくれるなら全面禁煙じゃなくてもいいんじゃない?」と逆にかばいたくなる。

女性も障害者も共働き世帯もLGBTも病弱な人も、昔の日本に比べればずっと生きやすくなっているわけで、世の中が良くなっている分、「誰もが暮らしやすい世の中にしよう」という主張は力を失っていく。
世の中が良くなればなるほど、「世の中を良くしていこう」派が力を失うというのは逆説的だが興味深い。戦後は反戦主義が主流だったのに、戦争から離れることでその傾向が弱まっていくのにも似ている。

逆に、満ち足りているからこそ「きれいごとばかり言ってんじゃねえよ」という反発が支持を集めてしまう。

「リベラル」の最大の失態は、「雇用破壊」とか「残業代ゼロ」とか叫んでいるうちに、同一労働同一賃金などのリベラルな政策で保守の安倍政権に先を越されたことだ。普遍的な人権を至上の価値とするリベラルこそが、先頭に立って日本社会の前近代的「差別」とたたかわなくてはならなかった。なぜそれができないかというと、大企業の労働組合もマスコミも、正社員の既得権にしがみつく中高年の男性に支配されているからだろう。
 ここに、日本の「リベラル」の欺瞞がある。彼らは差別に反対しながら、自らが「差別」する側にいるのだ。
 日本的雇用は権力によって強制されているわけではない。「非正規社員を雇用しなくてはならない」とか、「女性を管理職や役員にしてはならない」という法律があるわけでもない。彼らがほんもののリベラルなら、まずは自分たちの会社で差別的な雇用制度を廃止し、積極的に女性管理職を登用したうえで、堂々と同一労働同一賃金の実現や「女性が活躍する社会」を主張すればいいのだ。

このリベラルの弱点を、橘玲氏は「ブラックスワン問題」という言葉を使って表現している。たとえ1%でも白くない白鳥がいれば「白鳥は白い」と言えなくなるように、「きれいごと」を唱えるリベラルはわずかな落ち度があるだけで「でもおまえ自身できてないじゃん」という反論を受けてしまう、というものだ。

「朝日」や大手マスコミが叩かれやすいのもこれが理由のひとつだ。「正しい主張」をしているからこそ「えらそうなこと言ってるけどおまえらだって間違えたことあるじゃん」という批判が鳴りやまない。いろんな方向に失礼なことばかり言っている大臣が失言をしても「もう麻生のおじいちゃんがまたバカ言って、しょうがない人ねえ」みたいに受け取られるのに。

「たったひとつの汚点が目立つ大企業」と「ゴミの中にいる批判者」が戦えば、そりゃ後者のほうが失うものがない分強いよね。



リベラルの失敗について。

リベラルが高齢化し、知識社会で力を持ったことで、本来なら社会の変革を唱えるはずのリベラルが既得権益を守ろうとする保守派になってしまった。なんとも倒錯した状況だ。
いくらリベラルが「弱者を守ろう」と言って改革を主張しても、それは「オレたちの既得権益が守られる範囲でね」なのだ。朝日新聞はリベラルな主張をしているが、女性役職者の割合は半数に遠く及ばないし、正社員と派遣社員の待遇は違うし、たぶんサービス残業が常態化している。「おまえらはどうなんだよ」と言われたら返す言葉もないだろう。

今後も高齢化は進み、知識社会化は進み、貧しい若者が這いあがるどんどん若者が貧しくなっていく。ますます「若者のリベラル離れ」は進んでいくのだろう。
リベラルが支持を集めるためには自分たちの既得権益を捨てる覚悟が必要なのだが、ま、それは無理だろうな……。


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2018年6月29日金曜日

鳩に関する常識


高校のとき。
生物の教師がこんな話をしていた。

伝書鳩が巣に戻ってこられるのは、磁気を感知する仕組みがあって、磁力で自分の所在地や巣の位置を把握しているからだと言われている。
ではここで問題。
実験で、鳩にあることをしたらまったく巣に戻ってこられなくなった。何をしたでしょう?

正解は「頭に磁石を乗せた」だったのだが、教師から「鳩に何をしたでしょう?」と訊かれたМさんという女子生徒はこう答えた。

「羽根をもいだ」



この答えを聞いたとき、なんて頭のいい女性だろう、とぼくは心から感心した。

「鳩に何をしたら巣に戻れなくなるでしょう?」という問いに対する回答としては、まごうことなき正解である。

だがふつうの人間は「磁力を使って位置を把握している」という前提や「あまりに明白であることは実験で確かめない」や「高校の授業で教師があまりにエグい話をしてはいけない」という"常識"にとらわれてしまって、「羽根をもぐ」というシンプルな正解を導きだすことはできない。

教師含めクラス全員がMさんの回答にドン引きだったが、ぼくは心の中で彼女の自由すぎる発想にこっそり喝采を送り、自由な発想という翼がもがれてしまわないことを願った。


2018年6月28日木曜日

【芸能鑑賞】『塔の上のラプンツェル』


『塔の上のラプンツェル』
(2011年)

内容(Amazonより)
森の奥深く、人目を避けるようにしてたたずむ高い塔。そこには、金色に輝く“魔法"の髪を持つ少女ラプンツェルが暮らしていました。18年間一度も塔の外に出たことがないラプンツェルは、毎年自分の誕生日になると夜空を舞うたくさんの灯りに、特別な想いを抱き、今年こそは塔を出て、灯りの本当の意味を知りたいと願っていました。そんな中、突然塔に現れた大泥棒フリンと共に、ついに新しい世界への一歩を踏み出します。初めての自由、冒険、恋、そして、彼女自身の秘められた真実が解き明かされ…。

Amazonプライムで鑑賞。崖の上のポニョ、じゃなかった、塔の上のラプンツェル。
いきなり話それるけど、ポニョって崖の上にいるシーンほとんどないよね。崖の上の家でラーメン食って寝るだけだよね。あとは平地か海の中。なんで「崖の上の」ってタイトルにしたんだろう。羊頭狗肉じゃないか。劇場版を観にいった人は怒っただろうな。「崖の上のシーンを観るために入場料払ったのにほとんど崖の上のシーンないじゃないか! 金返せ!」って。どんな崖フリークだ。火曜サスペンスでも観とけ。ま、とにかく『崖の上のポニョ』よりも『海の中のポニョ』とか『半人半魚のポニョ』のほうがしっくりくるよね。

その点、ラプンツェルは十八年も塔の上にいるから看板に偽りなしだ。これなら塔フリークも納得だ。



古き良きディズニー映画、という内容。悪い魔女が出てきて、お姫様がさらわれて、イケメンの盗賊がやってきて塔から連れだして、一緒に冒険をして、献身的な愛を捧げて、最後は悪者がやっつけられて幸福な生活と結婚相手を手に入れて大団円。
ベタベタな内容だが、ディズニーはこれでいい、という気もする。
しかしディズニープリンセスも変わってきているよね。『アナと雪の女王』なんかぜんぜん違うパターンだもんね。
昔のディズニーヒロインって美人なだけで、すてきな男性が迎えに来てくれるのを待ってるだけの頭空っぽな存在だったけど、最近のプリンセスはみんな活動的だしちゃんと自我がある。少なくとも物語の中では女のほうが男より強くなっているね。


四歳の娘と一緒に観ていたのだけど、娘は号泣していた。ただ彼女が泣いていたのは「さらわれて本当のお母さんお父さんと引き離された」という点と「最後に本当のお母さんお父さんの元に帰ってくることができた」という点だけで、ああこの子にとってはまだ親子の情がすべてなんだなあ、と思った。四歳だから男女の愛を理解できないのはあたりまえなんだけど。
準主役であるフリン・ライダーのことなんかまったく娘の眼中になかった。終盤でフリン・ライダーが死にそうになっているシーンでも「ラプンツェルは本当のお母さんとお父さんのとこに帰れる?」ってずっと心配してたから。「フリン・ライダーも心配してあげなよ」って言ったら「誰?」って言ってたから。

かと思うと「カメレオンががんばって偽物のお母さんをやっつけた!」なんて叫んでた。準主役のフリン・ライダーはカメレオン以下かよ。
しかしそんぐらい異性に関心のない娘でもいつかは彼氏ができたりするんだろうなあと思うと、父親としては変なところでしんみりしてしまった。



さっきも書いたように最後は万事丸く収まるハッピーエンドなんだが、ピュアさを失ったおっさんからすると「そんな単純に物事が運んじゃっていいわけ?」と思ってしまう。

いやいやだって、じつは悪い魔女だったとはいえ、仮にも十八年自分のお母ちゃんと思っていた人でしょうよ、その人が死んでスパっと割り切れる?
実の親と再会したとき、つい昨日までは見ず知らずだった人に抱きつきにいける?

ゴーテル(魔女)は人の話は聞かないし嘘ついてラプンツェルを塔から出さないようにしてるけど、話を聞かない親も嘘ばかりつく親もいくらでもいる。
ラプンツェルが健やかに育っているところを見ると、ゴーテルだってそれなりにちゃんと親らしいこともしていたんだろう。
もうちょっと、育ててくれた親への未練というか、『八日目の蝉』のラストシーンみたいな別離のシーンみたいなのがあってもいいんじゃないかなあ、と思ってしまう。それをやると話がややこしくなっちゃうけど。

あとお姫様を救ったとはいえ大泥棒のフリン・ライダーがなんの説明もなく赦されてることとか、大泥棒だった男と十八年間塔から一歩も出たことのなかったお姫様の結婚生活がうまくいくわけないだろうなとか、余計なことを考えてしまう。

ぼくも娘のようにシンプルに「お母さんお父さんに会えて良かったー!」と号泣したいぜ。


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氷漬けになったまま終わる物語


2018年6月27日水曜日

あるオーディオマニアの独白


まあたしなむ程度ですけどね。人からはよくオーディオマニアって言われますけど、自分ではそこまでじゃないと思うんですけど。

だっていい音を愛するのってふつうのことでしょ。
音楽を嫌いな人なんていないし、どうせ聴くならいい音で聴きたいって思うのも自然なことでしょ。

そうですね、機材にはずいぶんこだわりましたね。
電器屋にいって、いいというものはひとしきり試しましたね。ずいぶん買い換えましたよ。趣味のためならお金に糸目はつけないタイプなので。

そのうち市販のものじゃ満足できなくなって、自分でパーツを買ってオーディオ機器を自作するようになりました。さらにパーツも自作するようになりました。機械工学を勉強して、工作機械を買ってきて。
手間ですけどね。でも趣味のためなら手間は惜しまないタイプなので。

しかしオーディオの道ってのは終わりがないんですよね。というよりそこまで来てまだ二合目、ってところですかね。
機器をある程度良いものにすると、今度は部屋の造りが気になってきました。部屋の形、天井の高さ、壁の建材。こういったもので届く音っていうのはぜんぜん変わってきますからね。
そこで音を最良化するための家を建てました。ですが土地の磁場によっても音は変わってくるので、どうしても作ってみないとわからない部分もあるんですね。ですから二回家を建てなおしました。
この頃ですかね、妻が出ていったのは。趣味につきあいきれないといって。ま、オーディオの世界では妻が出ていってやっと一人前みたいなところがありますからね。むしろ名誉なことです。

おかげで一流コンサートホールよりもすばらしい音を聴けるオーディオルームができあがりました。
しばらくはそれで満足していたんですが、少しするとやはり不満が出てくるんですね。
いろいろ考えた結果、問題は私の耳にあるということに気づいたんです。
常に耳をベストな状態に保っておかないと、聞こえてくる音も乱れるんですね。
耳掃除にはずいぶん凝りました。ありとあらゆる耳かきや綿棒を買いそろえました。毎日耳かきエステにも通いました。
あんまり耳かきをしていたせいで中耳炎になったんですが、おもしろいもので、中耳炎のときの音がすごく良かったんですね。音というものはふしぎですよね。
この中耳炎の状態を保つ方法はないかって耳鼻科にも相談したんですが、それはできないと言われました。
そこで思いきって自分の耳を捨て、人工の耳をつけることにしました。義耳ですね。
試行錯誤を重ねて、収音効果がもっとも高まるような義耳を作ってもらいました。左右両方、それぞれスペア込みで四つ。丸洗いできるのでいつでもベストな状態に保てます。
さすがに耳を取るのは少し怖かったですが、趣味のためなら身体を改造することは厭わないタイプなので。

最高の機器、最高の部屋、最高の耳をそろえました。それでも日によって音の聞こえ方に違いがあるんですね。
そこで考えたんです、これはどうも神経回路の状態が日々異なるからじゃないかって。日によって、音が適切に脳まで伝わらないんですね。耳の奥は生身の肉体ですからね、様々な外部要因によって変化してしまうんです。
そこで、音を電気信号に変換して直接脳に伝達する仕組みを構築しました。こうすることで伝達時のノイズがなくなるんですね。音というのは波ですから、これを電気信号に変えるのは意外と難しいものではありません。
オーディオ機器と脳を接続しているので自由に歩くことはできなくなりましたが、趣味にある程度の不自由はつきものでしょう。

これでようやく満足のいく音が聴けるようになりました。
しかし最近また少し不満が出てきたんですね。疲れていたりストレスがたまっていたりするとノイズを感じる、と。脳の状態が一定でないために電気信号の受け取り方にも変化が生じてしまうんですね。
そこで今、いい音を聴くためには脳をどう改造すればいいかを調べているところです。
いや、オーディオの世界ってほんとに底がないですよね。


2018年6月26日火曜日

【読書感想文】小森 健太朗『大相撲殺人事件』


『大相撲殺人事件』

小森 健太朗

内容(e-honより)
ひょんなことから相撲部屋に入門したアメリカの青年マークは、将来有望な力士としてデビュー。しかし、彼を待っていたのは角界に吹き荒れる殺戮の嵐だった!立合いの瞬間、爆死する力士、頭のない前頭、密室状態の土俵で殺された行司…本格ミステリと相撲、その伝統と格式が奇跡的に融合した伝説の奇書。

クレイジーすぎる内容紹介文で一躍Twitterなどで有名になった『大相撲殺人事件』。
相撲×ミステリというテーマの短篇集だ。

読んでみたら、紹介文に負けず劣らず本編もイカれていた。
新入幕力士の対戦相手が次々に殺されていく。撲殺、鉄骨を落とされる、絞殺、刺殺、溺死、毒殺、射殺、焼死、感電死、スズメバチに刺される、凍死、墜落死、一酸化炭素中毒死、轢き逃げ……と、なんと十四日連続で対戦相手が死んでいく。
はっはっは。こんなことが続いたら三日目ぐらいで相手が逃げるとか、興行が中止になるはずとか、警察無能すぎるとか、そういうツッコミは野暮というものだ。
十四人連続対戦相手が死んでいる力士のほうも「不戦勝で十四連勝になってラッキー」と喜んでいる。グレート。登場人物みんな頭おかしい。
このばかばかしさを笑い飛ばせないまじめな人は読まないほうがいいね。

「大相撲の世界も災難続きよねぇ」大関・貴鳳凰の遺体が発見されたことを報じる新聞記事を読みながら聡子が言った。「こないだの十四力士殺害事件に続いて、また三人も殺されて。一年前に幕内にいた力士も、この一年で四十パーセントくらいいなくなっちゃったわねぇ」

どんだけ死ぬねん。「災難続き」で済む話か。
ちなみにこれは中盤に出てくる台詞で、もちろんこの後もばったばったと力士たちが死んでいく。
マフィア組織でもこんなに死なないだろ。角界に吹き荒れる殺戮の嵐を書くことで、現実の相撲界の閉鎖性、異常性を痛切に風刺している……ってそんなわけないか。
こんなけ死んでたら、礼儀のなってない力士をビール瓶で殴ったぐらいじゃ問題にすらならないだろうね。日馬富士もこの世界の大相撲をやってたらよかったのに。殺される可能性のほうが高いかもしれんけど。



中でもいちばん発想がぶっ飛んでいたのが、『最強力士アゾート』。

「おそらく今度の殺人事件の犯人は、大相撲界の革命をもくろむ、頭のイカれた科学者か誰かでしょう。彼はおそらく人造人間の製造に命を賭けている。そしてまた彼は相撲の大ファンでもあった……。そんな彼が抱いた夢が、最強の相撲力士の人造人間を誕生させることです。そのためには、霧乃鷹の右腕、籠石橋の左腕、貴鳳凰の右足が必要だった。あと角界最強の左足、胴体、頭部が揃えば、最強力士の人造人間をつくるのに必要なパーツは揃います。それで彼は念願の、最強力士の人造人間を出現させることができる。競馬でいえば、シンボリルドルフとミスターシービーとハイセイコーといった歴代の名馬たちのすべての長所を兼ね備えた、最高の競走馬を生み出そうとするようなものです」
「それでその科学者は、力士の身体の部位を集めて何をしようとしているんだ?」
「もちろん、その力士を相撲界にデビューさせて、最強の横綱に仕立てあげ、この相撲界をその配下におさめることをもくろんでいるんでしょう。百年間、他の力士たちが束になって挑戦し続けても決して勝てない人造人間の最強力士を、この角界に出現させようとしているに違いありません……。何らかの策を早急に講じなければ、間もなく角界は、この最強人造力士の前にひれ伏すことになるでしょう……」

力士たちが次々に殺され、それぞれ最強を誇っていた身体のパーツが持ち去られる……というとんでもない事件。ブラックユーモアが過ぎる。
ネタバレになるけど、犯行動機もほぼこの推理通り。



ただのトンデモ本かとおもいきや、意外にもまじめに相撲ミステリを書いている。設定はむちゃくちゃだけど姿勢はまじめだ。
「髷」「取組表」「女人禁制」「大柄な男には通れない通路」など、大相撲ならではのトリックや犯行動機をからめていて、「大相撲殺人事件」の名にふさわしく、大相撲×ミステリというテーマに対してがっぷり四つに取り組んでいる。
どのトリックもミステリとしてはあまりスマートでないけど、相撲だからスマートでないのはしかたない。

世紀の奇書と呼ぶにふさわしいこの本、どんなイカれた人が書いたのかと思ったら、作者の小森健太朗氏は史上最年少の16歳で江戸川乱歩賞の最終候補に残り、東大進学後に教育学の博士号を取り、現在は大学で准教授を務めるという、とんでもなく輝かしい経歴の持ち主だった。いったい何があったんだ、それとも頭が良すぎるからこそこんな方向に走ってしまうのか。

ミステリ小説の研究者でもあるらしく、そういえば土俵上は女性の立ち入りが禁じられているから土俵上は女性にとって密室だという『女人禁制の密室』、力士たちが謎の洋館に閉じこめられる『黒相撲館の殺人』など、本格ミステリのパロディも随所に見られる。

とにかく、相撲とミステリへの愛情が存分にあふれていることだけはわかった。だいぶ歪な愛情だけど。

2018年6月25日月曜日

幽体離脱というほどでもない体験


子どもと公園で遊んで、プールで泳いだ後、また子どもと遊んでくたくたになった。

その晩、意識が身体から離れている感覚を味わった。

まず尿意を感じた。
膀胱のあたりにだけ感覚がある。「あートイレ行きたい」と思うと、意識が身体にすとんと落ちてきたような感覚があった。
あっ、入った」と思った。とたんに、手足がずしんと重たくなった。


幽体離脱というほどでもない。
魂だけどこかに行っていたわけではない。意識は身体のすぐ近くにあった。ただし身体の中ではなかった

汗びっしょりのときにシャツを脱ぐように、疲労びっしょりの身体を一時的に脱ぎすてていた、という感じだった。意識が一時的に身体から離れていた。

身体の疲労と眠気と尿意がちょうど絶妙なタイミングで重なったおかげで味わえたのかな、と思ってちょっとおもしろかった。
すぐ忘れそうなので書きしるしておく。


ツイートまとめ 2018年4月


別れの挨拶

公務員

ボランティア

読解力

トップ営業マン

偉そう

口下手の言い分

名文

黄金時代

犯行動機

説教

嘘つき


2018年6月22日金曜日

【読書感想文】寺尾 紗穂『あのころのパラオをさがして』


『あのころのパラオをさがして
日本統治下の南洋を生きた人々』

寺尾 紗穂

内容(e-honより)
1920年から終戦まで日本の統治下にあったパラオ。そこには南洋庁という役所が置かれ、作家の中島敦をはじめ、日本から移り住む者も多かった。「楽園」と呼ばれた島で、日本人移民と現地島民が織りなす暮らし。そして「戦争」のリアルとは―。各地で拾い集めた、75年前の「日常」の証言。植民地支配の歴史を、そこに暮らした人々の視点から見つめなおすルポルタージュ。

シンガーソングライターでもある寺尾紗穂氏が、『山月記』で知られる中島敦や石川達三(第一回芥川賞受賞作家)らの記述を通して、日本統治下にあったパラオの状況を書くルポルタージュ。

正直、文章は読みづらかった。おばちゃんのとりとめのないおしゃべりを聴いているような文章。
まるで会った人、あった出来事、交わした会話をすべて書いているかのように話があちらこちらにいく。時代も舞台もバラバラ。勝手に他人の気持ちを憶測する。パラオと無関係なエピソードが断片的に挿入される。『土佐日記』『おもひでぽろぽろ』のような、つまりまるでルポルタージュ的でない、アーティスティックな文章だった。もちろん悪い意味で。

テーマはおもしろかったけどね。



パラオについて、かんたんに説明。
ぼくのも付け焼刃の知識だが。

パラオは太平洋に浮かぶ島。佐渡島や淡路島より小さい。
日本のほぼ真南に位置するので、日本との時差はない。

パラオは、スペイン植民地、ドイツ植民地を経て、第一次世界大戦でのドイツの敗北を受け、1922年から日本統治領になる。日本の敗戦によりアメリカ統治となり、1994年にやっと独立国となっている。
日本統治時代には日本の軍人や移民、連行された朝鮮人など数万人が住むようになり、一時はパラオ先住民のほうが日本人より少なかったという。中島敦は南洋庁職員として、日本語教科書編纂のためにパラオに赴任している。

かつて日本統治下だった影響で日本語にちなんだ地名や人名も多く、親日国としても知られている。
国旗も日の丸と似ている(「日の丸を参考にした」という説もあるがデマらしい)。
パラオ国旗

ぼくもテレビで「パラオは日本が大好き!」とやっているのを観たことがある。
日本人のひとりとして「好きと言われるのはうれしい」とのんきに思っていたのだが、歴史を見ると単純にそうも言えない気持ちになる。

 サイパンは島全体が戦場となり、日米の軍人、民間人のみならず島民も沢山巻き添えを食って亡くなっている。一方パラオでは、日本軍がコロール島から本島に住民を移動させ、巻き添えによる死亡はやはりあったが、島民が戦闘に大規模に巻き込まれることは回避された。これは一種の美談となり、現在ネット上でも散見される。二〇一四年の終戦記念日に放送された上川隆也主演の「終戦記念スペシャルドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』」(フジテレビ)はパラオが舞台であり、ペリリュー島の戦いが扱われていたが、この島民を移住させるシーンはやはり美談に沿って感動的な形で描かれていた。主役はもちろん日本の軍人であり、彼らが島民をいたぶったり、銃を向けたり、畑を奪うようなは当然出てこない。パラオ人と日本人の友情だけが強調されていた。
 しかし、実際はパラオにおいてもそう単純なものではなかったことは澤地久枝の著作を読むだけでもよくわかる。
 食うや食わずの森での生活が続く中、ニーナさんが心を痛めたのは、朝鮮人など南洋群島で築かれたヒエラルキーの底辺にいる人々の姿だった。骨と皮だけになって木の下で餓死する者もいた。
「一番かわいそうだったのは、コリアン朝鮮の人。朝鮮、朝鮮、あれたちは(日本人が)いじめてやった。沖縄の人もかわいそうだった。日本人がいじめた。コリアの人はとってもかわいそうだった。日本語わからないから。インドネシアの人もいた。苦しかった」

こういう記述を読むと、とてもパラオを「親日国」の一言で表現することなどできない。
パラオの人が「日本を好き」と言ってくれるのはうれしいが、日本人の側から「パラオは親日国だ。なぜなら日本はパラオにたくさんのものを残したからだ」とは恥ずかしくて言えない。

「日本統治時代は良かった」と思っているパラオ人は少なからずいるようだ。でもかなりの部分「美化された思い出」補正が入っていると思う。『三丁目の夕陽』を観て、戦後日本は良かったと思うように。

スペイン植民地時代やドイツ植民地時代よりは日本統治時代のほうがマシだったのかもしれない。その後のアメリカ統治時代が苦しかったのかもしれない。それとの比較で「日本統治時代は良かった」と思う人はいるのかもしれない。だからといって統治して良かったとは言えない。
パラオ語の中に多くの日本語が生き残っているのも(パラオ語で弁当はbento、電話はdenwa、ビールを飲むことはtskarenaos(ツカレナオース)だそうだ)、どっちかといったら負の遺産と呼んだほうがふさわしい。

『あのころのパラオをさがして』には、日本統治時代のパラオ人が、日本軍人として戦死したこと、戦争の巻き添えになって死んだこと、日本軍に食糧を供出させられたことで飢えに苦しんだことが書かれている。
一方で日本はパラオに学校や病院、道路などのインフラを整備したという功績もあるが、それだって善意でやったわけではなく、「日本のために戦う臣民を養成するため」にやったことだ。感謝を強いるようなことではない。
こういう事実を知った上で、「日本統治のおかげでパラオは近代化して良かった」なんて、恥ずかしくてぼくには言えない。



パラオ国立博物館での記述がショッキングだった。

パラオ国立博物館のほとんどの展示物には日本語訳がついている。だが、階段の途中という読みづらい場所にある展示には日本語訳がついていない。そこには、日本兵がパラオ人に暴力を振るったことがパラオ語で書かれていた――。

というもの。
日本から受けたひどい仕打ちは記録には残すが、それをことさらに現代日本人に対して責めたてたりはしたくない、というパラオ人の気持ちの表れなのだろう。
なんと寛大な人たちなのだろうと思う。

きっと、パラオの人たちの多くは日本に好意的な感情を持っているのだろう。だが、手放しで賞賛しているわけではない。彼らはまた日本の悪いところ、日本人がした悪いおこないも知っている。あえて口には出さないが、思うところもあるはずだ。その上で、すべてをひっくるめて受け入れて好意を表してくれているのだ。赦したのではなく、目をつぶっているだけ。
こういうパラオの人たちの懐の広さに想像を及ぼすこともなく「パラオ人は日本が大好きなんです!」とかんたんに口にしてしまうテレビ番組に、ぼくはなんともいえないあぶなっかしさを感じる。



新天地を求めて日本からパラオへと入植した人たちは、戦争中はもちろん、戦後日本に帰ってきてからも相当な苦労したようだ。

「敗残兵」という言葉が切なかった。久保さんたちは兵士ではない。何に負けたというのだろうか。新天地パラオで楽園を築いた。久保さんの義父勇吉さんは会社員だったが、多くの農業移民も成功を収めた。現地の人々の畑や住まいを奪ったわけではなく、ゼロから土地を耕しての成果で、満州の一部の開拓地のように先住民から反感を買っていたわけでもなかった。しかし戦争が起きて水の泡となり、そのまま帰還、再びゼロから内地で環野の開拓となったのは北原尾の人々と同じだ。

宮城県蔵王町に北原尾という地区がある。パラオからの引揚者たちが入植した土地だ。北のパラオ、という意味を込めて北原尾(キタハラオ)と名付けられたそうだ。

彼らは周囲から差別をされてずいぶん冷たくあしらわれたらしい。
みんな余裕がなかった時代だったから、だけではないだろう。余裕があったとしても、一度この国を離れていった人が戻ってきたら冷たく当たると思う。ぼくらの多くはそういう人間だ。
同胞である日本人からさげすまれた引揚者たちが夢見たふるさとは、いろんなことを包みこんでくれるおおらかさを持ったパラオだったのではないだろうか。だからこそ北原尾という地名が生まれたのだろう。


『水木しげるのラバウル戦記』という本に、終戦後水木さんがパプアニューギニアの原住民に誘われてそこで永住しようとするエピソードが出てくる。
水木さんのような人がこのおおらかさに包まれた島で暮らしていたら、日本に帰りたくなくなるだろうなあ。
ぼくのようなせせこましい日本人は、かえって生きづらそうな気もするけど。


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2018年6月21日木曜日

わからないものをわからないもので例えてはいけない


天国や地獄が例えに用いられることがよくある。
「あの時代に比べたら天国みたいなもんだよ」とか「地獄のような光景が広がっていた」とか。

しかしぼくらの多くは、天国も地獄も知らない。ほとんどの人はどちらにも行ったことがない、はずだ。
物語に地獄の描写が出てきたり、天国について描かれた絵を見たりしたことはあるが、それらもすべて想像で語られているものだ。誰もほんとうの天国や地獄を知らない。
各人の頭の中には天国や地獄のイメージはあるだろうが、百人いれば百種類の天国と地獄があるはずだ。
そういう曖昧模糊としたものを例えに使っていいのだろうか。

こういうのが天国だと思う人もいる

比喩とは、物事をわかりやすくするために使うものだ。
ドローンを見たことがない人のために「ラジコンみたいにリモコンで操縦できて、ヘリコプターみたいに空を飛ぶ機械で、片手で持てるぐらいのサイズが多い」と説明すれば、ラジコンとヘリコプターを知っている人ならなんとなく実物を想像することができる。
これが「コジランみたいに操ることができて、プヘーコリタみたいに動いて、テタカに乗るぐらいのサイズの機械」だったらさっぱりわからない。説明することで余計にわからなくさせている。

「天国のよう」「まるで地獄」といった表現もこれと同じことだ。
わからないものをわからないもので例えてはいけない。



2018年6月20日水曜日

地震の一日


6月18日午前7時58分に地震があった。
大阪府内では死者も出る大きな地震。大阪では阪神大震災以来の大規模な地震だった。

ぼくの住んでいた地域は震度4だったが、それなりに混乱したのでその日のメモ。


7時50分頃、娘と一緒に保育園に向かった。地震が起こったのは、ちょうど保育園に着いたときだった。
門を開けようと手を伸ばすと、鉄の扉がガタガタガタっと震えだした。ぼくは「また子どもが遊んでるな」と思った。保育園ではよくあることだ。
だが園児の力にしては強すぎる。風で揺れているのだろうか、と思ったがそれほど風も強くない。そこでようやく「あっ地震か」と気づいた。揺れはじめてから地震だと気づくまでに3~5秒ぐらいかかっている。
あわてて娘に目をやると、揺れに気づいていないらしく、さっきの続きでぼくのお尻を叩いて遊んでいる。

園内に入った。園長先生と会ったので「地震でしたよね?」と確認しあった。
屋内はかなり揺れたらしい。教室の中を見ると、ふたりの保育士さんが十人ぐらいの子どもたちを抱きかかえていた。村を焼かれたときの母親が「子どもたちだけは……」と懇願するときの光景だ。
保育士はおびえていたが、子どもたちは平然としていた。誰も泣いていなかった。何が起こったのかわかっていなかったのだろう。

いつも通り、娘の着替えやタオルの準備をした。べつのお父さんと会ったので「地震でしたね」と話しかけると、「そうみたいですね。でもぼくは自転車に乗ってたので気づきませんでした」と言われた。外に歩いている人がかろうじて地震に気づく、自転車に乗っている人は気づかない、それぐらいの揺れだった。

娘の担任の先生に会った。「もし何かあったら〇〇小学校に避難しています。そこが危険な場合は〇〇公園に行きます」と伝えられた。さっき地震が起こったばかりなのに的確な伝達だ。しっかりした先生だ、と感心した。
娘に「また地震があるかもしれないから、そのときは先生の言うことを聞くんだよ。先生の近くにいたら大丈夫だからね」と言い残して保育園を出た。


地下鉄の駅まで来たとき、異変に気づいた。駅の前が人でごった返している。
その時点でぼくはすっかり地震のことを忘れていたので「何かイベントでもあるのか?」と呑気なものだった。この近くにホールがあるのでときおり人で賑わっているのだ。
しかしスーツ姿の男性が多いのを見て「ああ地震で地下鉄が止まっているのか」と気が付いた。

運行状況を見ようとスマホを取りだし、そのときはじめて緊急地震速報が届いていたことに気づいた。かなり大きな音で鳴っていたはずなのに、鞄に入れていたのでまったく気がつかなかった。
大阪メトロ(市営地下鉄)のホームページを見ると、つい五分ほど前の時刻で「ただいま遅延は発生しておりません」というメッセージが表示されていた。「嘘つけ」とつぶやいた。今現在止まってるじゃねえか。たぶん何もしなければ自動的に「遅延は発生しておりません」と表示されるシステムなのだろう。その結果、メッセージを打ちこむ余裕がないぐらい大きな事変が起こったときにも「遅延なし」と表示されてしまう。危機感のないシステムだ。

役に立たないホームページだな。ニュース検索をしようかと思うが、十分ぐらいしか経っていないのでまだニュースも出ていないだろう。
ふと思いついて、Twitterで「谷町線」と検索してみた。すると、いろんな人が「谷町線止まった」とつぶやいている。おお、こういうときはTwitter便利だな。Twitterが暇つぶし以外で役に立ったのははじめてだ。
ぼくの家から会社に行くルートはいくつかある。「御堂筋線」「大阪環状線」などでも検索してみるが、いずれも止まっているらしい。大きな地震だったことをようやく実感する。駅の行き先案内板が外れている画像がTwitterに流れていて、思わず「おお」と声が漏れる。

まだ駅の周囲には大勢の人がいたが、そんなとこに突っ立っていても仕方がない。地震で電車が止まったら復旧するまでに最短でも一時間はかかる。
自宅近くの公園まで歩いた。都会の公園なので、高いマンションに囲まれている。大きな地震が再び起こることを考え、中央のベンチに腰を下ろした。
社長にチャットで「地震で電車が止まっているので遅れます」と送った。社長からは「了解。必要であればタクシー使って来てください」といわれたが、いやけが人とか妊婦とかいるかもしれないのに、仕事みたいなくだらない用事のためにタクシー使ったらだめだろ、と思って無視した。
妻からLINEが来ていた。安否確認のメッセージだったので、娘も無事だと返す。
いろいろと情報収集もしたかったが、こんなことでスマホのバッテリーを消耗してしまったらいざというときに困る。電池長持ちモードというやつに切り替え、Kindleで本を読んだ。意外と集中して読むことができた。おろおろしていても何もやることができないし、こういうときには現実逃避するに限る。

自宅はマンションなのでなるべく帰りたくなかった。マンションはよく揺れるので怖い。
しかし小雨が降ってきた。しょうがない、どうせいつかは帰らなくちゃいけないんだ、と自らに言い聞かせて自宅に帰った。
マンションのエレベーターが止まっていたので階段を上がり、自宅に戻る。地震で閉じこめられないように少しだけドアを開けておいた。

トイレに行くと、床にトイレットペーパーが一個転がっていた。地震で棚から転げ落ちたらしい。我が家の唯一の被害だった。
万が一に備えてだいぶ前に準備していた防災バッグを引っぱりだした。水、消費期限切れ。イワシの缶詰、消費期限切れ。ミカンの缶詰、缶切りがないと開けられないやつ。なんで入れてたんだ。
とりあえず水のペットボトルだけ新しいものに入れ替え、貴重品の類とともに玄関に出しておいた。そうすると閉じこめ防止のために少し開けているドアが気になる。結局ドアを閉めた。

寝ようかと思ったがまだ九時前だ。おまけに気持ちが高ぶっているので寝られない。外で救急車のサイレンの音が聞こえる。
実家に安否報告をして、横になって本を読んだ。

十時半ぐらいにTwitterを見ると、地下鉄の一部区間が運行再開したらしい。今日はもう休もっかな、とも思ったが家にひとりでいるのも嫌だったので結局出社した。車内に閉じこめられることを想定して、ペットボトルのお茶を買って地下鉄に乗った。ぎゅっと力強くつり革を握りしめていた。

会社には半分くらいの社員が来ていた。多くの鉄道路線がまだ止まっていた。
電話で取引先の人と話して「どうですか」と尋ねると、「うちは冷蔵庫が倒れましたよ」と言われた。
「えっ、たいへんじゃないですか」
「そうそう、だから今うちの中ぐっちゃぐちゃ」
「それ出社してる場合じゃないでしょ」
「うーんでも家にいたってどうにもならないしね」
というやりとりをした。そういうものだろうか。平時と同じことをしているほうが精神的には気楽なのかもしれない。

やはりその日一日は何をしていても地震のことが頭から離れない。「今地震が起きたら……」と考えながら行動する。倒れそうな建物には近寄らない、落ちてきそうなもののそばには寄らない、非常階段の位置を確認する。小松左京『日本沈没』を読んでいるときもこんな気分だった。
電車に乗りながら「今電車が起きたら、まずは吊り革で身体を支えて……」などと考えていたらピーピーピーとけたたましい機械音が鳴りだした。「すわっ、緊急地震警報!」と身構えたが、隣のばあさんのばかでかい着信音だった。
年寄りの着信音はだいたいばかでかいけど、こんなに憎いと思ったのははじめてだった。


2018年6月19日火曜日

【読書感想】吉田 修一『横道世之介』


『横道世之介』

吉田 修一

内容(e-honより)
大学進学のため長崎から上京した横道世之介18歳。愛すべき押しの弱さと隠された芯の強さで、様々な出会いと笑いを引き寄せる。友の結婚に出産、学園祭のサンバ行進、お嬢様との恋愛、カメラとの出会い…。誰の人生にも温かな光を灯す、青春小説の金字塔。第7回本屋大賞第3位に選ばれた、柴田錬三郎賞受賞作。

吉田修一作品を読むのは四作目。
『元職員』は嫌なやつが嫌なことしかしない話だった。『怒り』はスリリングだったがじわじわと追い詰められているような息苦しさがあった。『パレード』は青春小説に見せかけて後半に不快感が待っていた。というわけで、ぼくの中で吉田修一氏はとにかく「嫌な小説を書く人」という印象だ(だから好きだ)。

だから「青春小説の金字塔」なんてキャッチコピーを見ても「どうせ吉田修一作品だから人間の醜い部分が存分に描かれているんでしょ」としか思っていなかったが、徹頭徹尾青春小説だった。
ごくごく平凡な主人公が田舎から上京して、バイトをしてサークルに入って車の免許をとって恋をして彼女をつくって……というありふれた青年の生活を優しく、でもドライに描いている。



ぼくにとって、大学生だった四年間というのはあまりいい時代ではない。たくさん遊んだし、彼女もできたし、それなりにいいこともあったはずなのにどちらかというとあまり思いだしたくない時期だ。当時の気持ちを思いかえそうとしてみると、息苦しい気持ちになる。

勉強したい、遊びたい、バイトもできる、ひとり暮らし始めた、サークルにも入った、夜遊びしてもいい、車にも乗れる、旅行に行く時間もある、彼女もほしい、資格もとったほうがいいかも、名を上げたい、インターネットおもしろい、飲み会だ、ゲームしたい、家事もやらなくちゃ、留学しよう、学祭だ、試験だ、就活だ……。
「できること」と「やらなきゃいけないこと」と「やりたいこと」がわーっと押しよせてきて、自分の中でうまく処理できていなかったんだと思う。
自由と可能性に襲われてぶったおれそうだった。やらなきゃやりたいやらなきゃやりたいという焦燥感ばかりがあって、それによってなにひとつ満足にできない自分の姿が見えてきて苦しかった。

『横道世之介』を読んで、当時の気持ちを思いだした。主人公の横道世之介はぼくよりずっと柔軟かつ行動的に生きているが、それでも様々な壁にぶつかっている。ひとつひとつは小さな壁なのだが、それらの積み重ねがじわじわと自尊心を蝕んでいくような気がする。

大学生というのは「できそうなこと」が膨れあがって、でも「じっさいにできること」は意外と少ないと気づかされる時期なんだと思う。肥大した自尊心を叩き折られる時期というか。少なくともぼくは叩き折られた。特に就活で。

「なんでもできる」「なにをやってもいい」があんなに苦しいことだとは、大学に入るまでは知らなかったなあ。


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2018年6月17日日曜日

住みたくない町、それは京都


いくつかの町に住んできた。大阪で生まれ、兵庫で育ち、京都で学生生活を送り、愛知で働き、兵庫に戻り、結婚して大阪に住んでいる。

特にこの町が好き、というのはない。幼稚園から高校まで過ごした町は好きだが、これはいちばん長く住んで友人が多いから、という理由であって、町自体の魅力は低いように思う。思い出の中にあるから美しい町だが、今住んだら退屈きわまりない町だろう。ふるさとは遠きにありて思うものだ。

大好きな町はないが、住みたくない町はある。
京都だ。
今まで住んだ町の中でいちばん住み心地が悪かった。正確には京都市内。

盆地だから夏は暑いし、冬は寒いし、人は多いし、学生が多くてやかましいし、観光客が多くて人の流れは悪いし、バスやタクシーがひしめいているし、しょっちゅう祭りで交通が麻痺するし、ほんとに住みにくかった。
住みたくない町、ダントツのナンバーワンだ。

観光都市なのに、根っこのところではよそものを受け入れない風土もそうだ。
ぼくは京都で代々続く仏具屋の子の家庭教師をしていた。その家のお母さんが会話の中で「あの人は京都の人やないからねえ」と言うのを何度か聞いた。
嫌味っぽく言うわけではない。ごくごく自然に口をついて出る、という感じだった。ぼくらが「彼は日本人じゃないから文化や考え方も違うよね」というような調子で「あの人は京都の人じゃないから」というのだ。京都人にとって「京都の人じゃない人」はそれぐらい遠い存在なのだ。


住んでいたときは嫌いな町だったが、たまに京都に遊びに行くとおもしろい。独特の文化はあるし、見てまわるところは多いし、伝統ある食文化もあるし、新しい文化に寛容でもある(京都市内にはギャラリーやスタジオも多い)。
マニアックな古書店が並んでいたり、古い銭湯があったり、安くてうまい飲み屋が道の奥に隠れていたり、小さなエスニック料理屋や古着屋が小路に並んでいたりと、なんでもない道を歩いているだけでもぜんぜん退屈しない。なんと楽しい町なんだろう、ここに住んだら楽しいだろうなとすら思えてくる。


郷土と京都は遠きにありて思うものだ。


2018年6月16日土曜日

あえて言おう、人がごみのようだと


「見ろ! 人がごみのようだ!」

 アニメ映画『天空の城ラピュタ』に出てくるムスカ大佐の有名な台詞である。
 空から落ちていく乗組員たちを表現している。

 この言葉から受けるムスカ大佐の印象はどうだろう。「残忍」「傲慢」といったところだろうか。「本性があらわれた」と思う人も多いかもしれない。
 だが、ぼくはそうは思わない。むしろ、この台詞は「ムスカ大佐らしくない」という印象すら受ける。

 ムスカ大佐は主人公たちと対立する存在ではあるが、その立ち居振る舞いは気品にあふれている。王家の末裔であるという自覚を持ち、少女に対しては手荒な真似はせず、教養とそれに基づく自信に満ちあふれている。
 そのような人物が、「人がごみのようだ」とわざわざ口に出して言った意味とはなんだろうか。もはや助かる道の残されていない人間を貶めても何のメリットもない。そんなことは、計算高いムスカ大佐であれば百も承知だろう。むやみに人民の敵愾心を煽ることを、王家の末裔という自覚を持った人間がするとは思えない。

 彼の「人がごみのようだ」は、まちがいなく自分に言い聞かせた言葉だったのだ。
 人はあまりに残酷な場面に遭遇したとき、現実から目を背ける。今日も遠い外国で幼い子が腹をすかせて泣き叫んでいる。だがいつも彼らのことを想像をして同情していては自分の神経が持たない。だから人は目を背け、耳をふさぎ、残酷なシーンを想像の外へと追いだす。
 戦争中、爆撃をおこなうパイロットはゲームのような感覚で住居の上に爆弾を落とすという。パイロットが残酷だからではない。その逆で、住宅一戸一戸の中で生活している命のことを想像していては己の神経がもたないから、ゲーム感覚で上官の命令に従うのだ。

 ムスカ大佐も、ごみのようとでも言わなければ目の前に繰り広げらる残酷な現実に耐えきれなかったのだろう。「人がごみのようだ」発言は、彼が人間に対する深い愛情を捨てきれないことの表れだとぼくは思う。


 死んでゆく兵士たちそれぞれに人生や生活や家族があることを想像してたらやりきれない。
 そのつらさが「人がごみのようだ」には表れているように思える。


2018年6月15日金曜日

将棋をよく知らない人が書いた将棋小説


 ユミ女流七段の劣勢は誰の目にも明らかだった。王将はほとんど丸裸だったし、持ち駒も残り二枚。おまけに一対局につき二回までと定められている「待った」を序盤で使いはたしていた。

 アキヒロ六段は余裕たっぷりの笑みを浮かべ、アイスコーヒーを飲んだ。
「ふっふっふ。どうやらこの勝負、ぼくの勝ちらしいな。将棋界には『桂馬も成れば金になる』という格言があることを知らなかったようだな」
 しかしユミ女流七段は動じる様子もなかった。
「格言を勉強すべきはあなたのほうね。『囚われの香車の矢、王の甲冑をもつらぬく』という格言があるのを知らないの?」
 女流七段は千代紙で折ったお手製の駒箱の中から一枚の駒を取りだし、剛速球投手のような勢いで盤に叩きつけた。衝撃でいくつかの駒が盤上にこぼれ落ちたが、気に留める様子もなかった。

 その剣幕にひるんだアキヒロ六段だが、置かれた駒を見てすぐに苦笑した。
「ははっ、その手は二歩だ。知らないのかい? 二歩は反則負けなんだぜ」
 そういってアキヒロ六段が手にしていた扇子を広げようとした瞬間、ユミ女流七段は不敵に笑った。
「二歩が反則負け? そんなことは百も承知よ。私の手をよく見てごらんなさい」
 盤上に広がった駒たち、そこに仕組まれたユミ女流七段の意図に気づいたとき、アキヒロ六段の顔から笑みが消えた。手から扇子がこぼれ落ちた。
「これは……二歩じゃない……!?」
 扇子を落とした場合は次回の対局を香車落ちでスタートしなければならないルールだったが、そんなことはもはやどうでもよかった。
「そう、わたしの狙いははじめっからこれ。三歩よ」

 国立将棋スタジアムの動きが止まった。観客、レフェリー、はてはビールの売り子にいたるまで、誰もが茫然としていた。
 一瞬の沈黙の後、いち早く状況を把握した実況アナウンサーが叫んだ。「これは二歩じゃない、三歩、まさかの三歩だぁ!」
 その言葉を合図に地鳴りのようなどよめきが起こった。誰も見たことのない手だった。
 「いや、これは驚きましたね。ルールの盲点ですね。たしかに三歩はだめというルールはありませんが……」
 解説席に座っている元朱雀級チャンピオンの趙八段がハンカチで額の汗を拭きながら絶句した。あとはうわごとのように「いや、これは……」とくりかえすばかりだった。

 この日のために、この瞬間のために、周到に準備してきた手だった。先ほどユミ女流七段が5二に捨てた龍は、三歩をさとらせないための布石だった。勝ちを確信した瞬間は誰でも気が緩む。アキヒロ六段と格言のやりとりをしている間に、一瞬の隙をついてふたつめの歩をそっと配置したのだった。

「おい、マチムラ準二級!」
 アキヒロ六段がほとんど悲鳴に近い声で付き人を呼んだ。
「すぐにルールブックを引いて、三歩が反則に該当しないか調べろ!」
「しかしルールブックなんてここには……」
 付き人の棋士が困った様子でいった。すかさずアキヒロ六段の平手打ちが炸裂した。
「ばかやろう! ルールブックがなかったらWikipediaでもYahoo!知恵袋でもなんでもいいから調べるんだよ。知恵袋で質問するときは『大至急』のタグをつけるのを忘れるなよ!」
 すっかり平静を失ったアキヒロ六段を、ユミ女流七段は冷ややかな目で見つめた。
「無駄よ。そっちはもう手回ししてある。Yahoo!知恵袋に書いてあることはルールとして認められないし、昨日のうちにWikipediaは荒らしておいたわ。今は凍結されて編集もできない状態よ」
「くそっ。三歩が許されるのなら、こちらも同じ手を……」
 言いかけて、アキヒロ六段は何かに気づいたように口をつぐんだ。ユミ女流七段は薄笑いを浮かべた。
「どうやら気づいたようね。そう、さっきあなたが場に流した三枚の歩、あれがあればまだ逆転の目はあった。でもあなたは私の挑発に乗って、歩を盤外へと捨ててしまった。あの行動が明暗を分けたのよ」
 アキヒロ六段はまだ何か手はないかと純銀の駒箱を探っていたが、使える駒は見当たらなかった。飛車と角は山ほどあるのに、肝心の歩だけがなかった。
「時間切れよ」
 女流七段は卓上のストップウォッチを指さした。持ち時間いっぱいを知らせるピピピピピ……という音が無情に鳴りひびいた。

「時間切れだからもう一度わたしの番ね。覚悟しなさい、2九角!」
 ユミ女流七段は駒箱に残っていた最後の一枚を盤上に乗せた。駒の側面にはべったりと血がついていた。
「その血まみれの駒は……」
「そう、この駒がなかったらこの作戦は成立しなかった……」
 ユミ女流七段が二回戦で戦ったフミヤ序二段の駒だった。それを受け取ってから、ずっと胸ポケットの中に隠しもっていたのだ。
「あの死闘の結果、フミヤ序二段は命を落とした。でも彼の意思はこの駒の中に生きている!」
 アキヒロ六段はがっくりと肩を落とした。ぎゅっと噛みしめたためだろう、唇から血が滴りおちて座布団を紅く染めた。
「参りました……」絞りだすようにいって、アキヒロ六段は玉将の駒をユミ女流七段に差しだした。
 解説者は言葉を失ったままだった。実況のアナウンサーが放心したように、それでもはっきりとした口調で「投了です、手数は約四百八十手、決まり手は2九角による『曲がり弓矢』でした!」といった。スタジアムは大歓声に包まれた。

二週間に及ぶ激しい闘いが、ようやく終わった瞬間だった。


2018年6月14日木曜日

漫画を読むのがおっくうになってきた


歳をとったからか、漫画を読むのがおっくうになってきた。


昔は、漫画が手元にあればすぐに読んだ。どれだけ読んでも疲れなかった。「途中でやめて続きは明日」ということができなかった。あればあるだけ一気に読んだ。

ところが最近漫画を読むのがめんどくさいと感じるようになった。まったく読まないわけじゃないけど、ちょっと読んで「あとはまた今度にしよう」と閉じてしまう。一冊の漫画を読むのに一週間かかる。つまらないわけじゃないんだけど。
昔は考えられなかったことだ。

本を読むことに対する意欲は今のところ衰えていない。意欲、というのはちょっとちがうかもしれない。ほとんど習慣のように読んでいるからだ。食後に歯みがきをするように、ちょっと時間があったら本を読む。そこに意欲は必要としない。
小説やノンフィクションを読む時間は昔より増えている。漫画だけが面倒になった。


"セリフ"が原因かもしれない。

読むのに時間がかかる本もあれば、すぐに読みおえてしまう本もある。

難しい本を読むのには時間がかかる。これははあたりまえ。
ところが易しい内容の本でも時間がかかることがある。「会話文の多さ」が理由だということに最近気がついた。
他の人はどうだか知らないが、どうやらぼくは会話文だけは心の中で音読しているらしい。頭の中で音声として再生しているのだ。だから時間がかかる。

ノンフィクションは会話が少ないのですっと読める。活字を目で追うだけでいい。
でも小説はセリフの多さに比例してペースが落ちる。こないだ桂米朝『上方落語 桂米朝コレクション』という本を読んだが、すべて噺家口調で脳内再生しながら読んでいたのでものすごく時間がかかった。内容的にはさほど難解なものでもないのに。


漫画もセリフが多い。だから時間がかかるのかもしれない。
岩明均『ヒストリエ』は漫画だけど説明文が多くてセリフが少ないから、あっさり読める。
そういう漫画がもっと出てきてほしい。セリフは少なくて説明文が中心。『もやしもん』みたいなやつ。
なんなら絵もなくて活字だけでいい。それもう漫画じゃない。



2018年6月13日水曜日

船旅の思い出


学生時代、船で中国に行った。
なにしろ金はなかったがひまだけはあった。
今はどうだか知らないけれど、ぼくが大学生のとき、夏休みは二ヶ月半もあった。春休みも二ヶ月近くあったから、それだけで一年の三分の一以上を休んでることになる。冬休みとか土日祝日とか入れたらたぶん半分以上は休日だったはずだ。狂った制度だったとしかいいようがない。それだけではあきたらず平日のうち一日は授業を入れずに自主休校にしていた。制度が狂っていると学生も狂うようだ。
そんな学生が週休一日で毎日残業の社会人生活に耐えられるはずもなく、数ヶ月で仕事をやめてめでたく無職になった。狂った学生生活のおかげである。社会人生活のほうも狂っている気もするが。


閑話休題。船旅の話に戻る。
ぼくと友人は蘇州号という船で中国へ渡った。神戸から天津まで片道五十時間かかる。移動だけで五十時間、往復で百時間。なんとも贅沢な時間の使い方だ。
ただし贅沢なのは時間だけで、金銭のほうは実にお手頃だった。たしか往復で三万円ぐらいだったはず。往復百時間で三万円。一時間あたり三百円。安すぎる。中国語でいうと太便宜。太い便が出たみたいな字面だ。
飛行機だと二時間ちょっとで到着して数万円だから時間あたり一万円を超える。はたしてこの計算にどんな意味があるのか知らないが、とにかく船旅は安い。

蘇州号には一等客室と二等客室があって、ぼくらはもちろん安いほうの二等客室を選んだ。あたりまえだ。一等客室を選ぶ理由があるのか。安くもないし速くもないのに。わざわざ一等客室を選ぶ理由としては「飛行機が飛ぶことを信じていない」「荷物がでかすぎる」ぐらいだろうか。

船を選んだのにはもうひとつ理由がある。
旅行の少し前に肺気胸という病気を患ったのだ。肺に穴が開くというおそろしい病気だ。
内視鏡手術を経て治ったのだが「肺気胸は再発しやすい病気です。高い山とか飛行機とか気圧の変化の大きなところにいくとまた穴が開きやすいので気を付けてください」と言われたのだ。
飛行機上で肺に穴が開いたら困る。人生において一度ぐらいは「この中にお医者さんはいらっしゃいませんか!?」の場面に遭遇してみたいものだが、そのとき横たわっているのが自分なのは嫌だ。


船のチケットを取ろうとしたら、ビザがいると言われた。二週間以上の滞在だとビザが必要なのだ。
京都華僑総会という怪しい組織の事務所へ行ってビザを取得した。大使館や領事館のような公的機関じゃなくても取得できるのか。さすがは華僑、力を持っているなと感心した。


船旅はなかなか楽しかった。
出発のタイミングで見送りの人が手を振っていた(残念ながらぼくらの見送りはいなかったが)。船旅はこれができるのがいい。飛行機だと離陸の瞬間はシートベルトをしているし、外なんかほとんど見えない。下が見えるようになったときには人間なんかもう豆粒より小さくなっている。船だと乗客は甲板に出て港を見ることができる。
また飛行機は離着陸の瞬間はものすごく揺れるのでぼくは毎回事故を起こさないかと怖くてたまらないのだが、船の場合はさほど怖くない。万一沈んでもまだここだったら泳いで岸に戻れるな、と思える。
出発の瞬間、映画みたいに紙テープを投げて別れを惜しんでいる人がいて、ほんとにやるんだと感心した。

蘇州号の乗客はぼくらのような学生と、バックパッカーと、中国人の家族ばかりだった。みんなお金がなさそうだった。あたりまえだがビジネスマンなんかひとりもいなかった。五十時間の船旅を許してくれる豪気な会社はないらしい。
二等船室は、二十人ぐらいが入れる大部屋だった。といっても客数は少なく、定員の半分もいなかったのでゆったりと使えた。布団と枕が置いてあるだけで後はなんにもなく、ここで雑魚寝するのだ。

船が出発して間もなく、避難訓練をするから全員集合せよというアナウンスがあった。
じっさいに救命胴衣を身につけ、沈みかけたらここから脱出して浮いて救助を待てと言われた。
飛行機は墜落したらまず助からないが、船なら沈んでもなんとかなりそうな気がする。救命胴衣を身につけてぷかぷか浮かんでいたら救助が来てくれるかもしれない。みんな真剣に説明を聞いていた。

船内の食事はめちゃくちゃまずかった。中国風のお粥や饅頭が出されたと記憶しているが、味がまったくしなかった。こんなにまずい食べ物があるのか、と感心した。
飯がまずかったからか、ひどく酔った。吐きはしなかったが(なぜなら食事がまずくてほとんど手をつけていなかったから)、終始胃がむかむかしていた。
気分転換に船内を散歩していると、ビールの自販機があった。缶ビールが一本百円ぐらいで売られていた。船内は免税なのでばかみたいに安いのだ。残念ながら絶賛船酔い中だったので飲む気にはならなかった。

そう大きい船でもないので見るところはさほどない。甲板に出ると風が気持ちよかったが、潮水をかぶるので長居はできない。
やることもないので船室で過ごした。
部屋の片隅にそう大きくないテレビが吊るされていて、そこで映画『リング』をやっていた。こういう不特定多数が見るような場所で流すものとして、ホラー映画はどう考えてもふさわしくないだろう。謎のチョイスだ。
中国人家族と一緒に『リング』を眺めた。

同室に、見るからにバックパッカーの若い男がいた。ぼくと同年代だ。
彼は「どこに行くの?」と話しかけてきて、こちらの答えを聞くか聞かないかのうちに自分のことを語りだした。中国から陸路でインドに渡るのだという。
「インド行ったことある? ぼくは何度もインドに行ったけど、インドはいいよ。人生観変わるよ」と語られた。
その、人生観変わったとは思えないほど薄っぺらい言葉にぼくらは内心失笑していたが、彼はうれしそうにインドの魅力を語ってくれた。乞食が群がってくるとか、ガンジス川で死体が流れてくるとか、「どこかで聞いたことのあるインド」を得意げに披露してくれた。

彼の絵に描いたようなインドかぶれっぷりは、ぼくらに道中の話題を提供してくれた。
ぼくらは中国に渡った後、そして帰国した後もしばらく「人生観変わったごっこ」をして楽しんだ。
「君は京都に行ったことがあるかな。あそこには人力車が走ってるんだ。人間の生きるパワーがまるで違うね。あれに触れたら人生観変わるよ」
「君はケンタッキーフライドチキンに行ったことがあるかな。あそこには鶏の死体がたくさんある。けれどいちいち騒いだりしない。死が生活と隣り合わせにあるんだな。あそこに行ったら人生観変わるよ」
と、インドかぶれ男の口調を真似てはげらげらと笑った。


五十時間の船旅は、ぼくの人生の中でもっとも贅沢だった五十時間かもしれない。
退屈でしかたなかったし、船酔いで気持ち悪かったし、飯はめちゃくちゃまずかったけど、それこそが贅沢な経験かもしれない。
楽しくて快適でおいしいものを食べる旅行なんて、金さえ出せばかんたんにできるもんね。


2018年6月12日火曜日

ストロベリーハンター


子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。


娘はいちごが大好きだ。

以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。

大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。

他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。

いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。


いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。


予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。


いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。


狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。

まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。

なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。

おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。


皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。

電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。

いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。


2018年6月11日月曜日

【読書感想】陳 浩基『13・67』


『13・67』

陳 浩基(著) 天野 健太郎(訳)

内容(Amazonより)
華文(中国語)ミステリーの到達点を示す記念碑的傑作が、ついに日本上陸!
現在(2013年)から1967年へ、1人の名刑事の警察人生を遡りながら、香港社会の変化(アイデンティティ、生活・風景、警察=権力)をたどる逆年代記(リバース・クロノロジー)形式の本格ミステリー。どの作品も結末に意外性があり、犯人との論戦やアクションもスピーディで迫力満点。
本格ミステリーとしても傑作だが、雨傘革命(14年)を経た今、67年の左派勢力(中国側)による反英暴動から中国返還など、香港社会の節目ごとに物語を配する構成により、市民と権力のあいだで揺れ動く香港警察のアイデェンティティを問う社会派ミステリーとしても読み応え十分。
2015年の台北国際ブックフェア賞など複数の文学賞を受賞。世界12カ国から翻訳オファーを受け、各国で刊行中。映画化件はウォン・カーウァイが取得した。著者は第2回島田荘司推理小説賞を受賞。本書は島田荘司賞受賞第1作でもある。

香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細な物語でおもしろかった。

ミステリには「本格」「社会派」というジャンルがある。ざっくりいうと謎解き自体を楽しむのが本格派、事件が起こった社会的背景を描きだすのが社会派だが(すごく雑な説明です)、短篇集である『13・67』はひとつひとつの作品は謎解きメイン、しかし六篇すべてを読むことで香港警察という組織がどのように社会と向き合ってきたかという歴史が見えてくる。短篇としては本格派、短篇集としてみると社会派ミステリになっているという変わった趣向だ。

変わった趣向といえば、第一話で「主人公が死を前にして言葉も発することもできずにベッドに横たわっている」という設定から入るのもおもしろい。主人公がスタートした状態で幕を開ける落語『らくだ』のような導入だ。
ここからどう続けていくのだろうと思っていたら、時系列を逆にして(リバースクロノロジーというらしい)、徐々に主人公クワンが若い時代の話が語られてゆく。
物語の舞台は、第一話は2013年、第二話は2003年、第三話は1997年、第四話は1989年、第五話は1977年、そして最終第六話は1967年である。この間、租借地であった香港ではイギリスや香港警察に対して暴動が起こり、少しずつ民主化が進み、イギリスから中華人民共和国へと変換され、そして再び政府や警察に対する不満が募る時代へと変わってきている。
こうした時代の変化が、『13・67』ではさりげなく、しかし丁寧に描かれている。


ちょうどこないだ読んだ『週間ニューズウィーク日本版<2018年3月13日号>』の『香港の民主化を率いる若き闘士』という記事に、こんな記述があった。
 1997年にイギリスが中国に香港を返還したとき、中国は本土と異なる政治・経済制度を今後7年間維持し、高度な自治を認めると約束した。いわゆる「1国2制度」である。
 このとき普通選挙の実施も約束されたが、3年たった今も香港の有権者は形ばかりの民主主義の下に置かれ、中国共産党のお墨付きを得た候補者の中から投票先を選ぶしかない。
「1国2制度というより、1国1.5制度だ」と、黄は言う。
「その0.5もどんどん縮小し、完全に中国の支配下に置かれようとしている」
 14年秋、何万もの人々が民主的な選挙の実施を求めて香港中心部の主要な道路に居座った。参加者の多くが警察の催涙スプレーを避けるために雨傘を持ったことから、この運動は雨傘革命と呼ばれるようになった。四日間続いた占拠は、同年12月11日、香港警察の暴力的な弾圧で幕を閉じた。

返還当初は「香港は香港がこれまでやってきたやりかたを維持していいよ」と約束していた中国だったが、少しずつその約束は反故にされ、イギリス統治下の香港に根付いていた民主主義は奪われていった。それを支持したのは中国共産党だったが、その手先となり実際に民衆を抑圧したのは香港警察だった。

民衆の味方ではなくイギリス(作中の言葉を借りるなら「白い豚」の手先であった香港警察が徐々に市民から信頼されるようになり、そして今度は中国共産党の手先となってまた信頼を失ってゆく姿がミステリを通してありありと描かれている。
描かれている事件はフィクションだが(事実を下敷きにしているものもあるらしいが)、まるでルポルタージュを読んでいるような気分になる。
イギリス、中国共産党、犯罪者、警察組織、そして市民。それぞれの間で葛藤する香港警察官の苦悩が伝わってくるようだ。

なるほど、これはたしかに読みごたえ十分のミステリだ。
このような骨太のミステリが日本でもアメリカでもなく、香港で生まれたということに時代の移り変わりを感じる。



ミステリとしてはやや粗も目立つ(第一話『黒と白のあいだの真実』などは都合よく展開しすぎだし、第六話『借りた時間に』ではそれまでの短篇と語り口が変わってしまうのでラストのどんでん返しを察してしまう)。しかしエネルギーがみなぎっているため細かい粗は吹きとばしてしまう。それぐらいパワフルな筆力だ。
訳もいい。訳者はミステリの訳には慣れていないらしいが、香港に関する知識の乏しい読者でも抵抗なく読めるようよく工夫されている。

主人公クワンの大きな正義のために小さな悪には目をつぶるというハードボイルドさが痛快だ(平気でおとり捜査や不法侵入もしてしまう)。
これが日本警察を題材にしていたら「こんなめちゃくちゃな捜査する刑事いねえよ。完全に違法捜査じゃねえか」と思うけど、香港というなじみの薄い舞台のおかげで細かい点も気にならない。
そんなまさか、と思いつつも、いや香港ならひょっとしたらありうるかもしれないという気になる。なにしろジャッキー・チェンが『ポリス・ストーリー/香港国際警察』をやってた街だからね。


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