スペードの3
朝井 リョウ
あるスターのファンクラブの幹部を務める女性、小学校ではいじめられっ子だったが中学校で自分の居場所を見つけられた少女、華やかなキャラクターであるライバルと常に比べられてきたベテラン女優。三者それぞれの人生を描いた連作短篇集。
彼女たちはそれぞれ心にわだかまりを抱えているが、直ちに人生に大きな影響を抱えるほどの深刻な悩みではない。さしあたっては。
他人に自慢できない仕事についていることを隠している、ファンクラブ内での人間関係に不満を持っている、絵を描くのが上手いし好きだがプロになれるほどの実力はない、小学校時代の暗い過去を隠して中学生活を送っている、年齢を重ねるごとに女優としての限界を感じてしまう、古くからの友人のほうが芸能界で成功している……。
彼女たちが抱える不満を解消するのはすごくむずかしい。おそらく不可能だろう。そして、抱えたまま生きていけないほどの苦しみではない。だからなるべく蓋をして、そのことについて考えないようにしながら生きていく。その程度の不満。きっと誰しもが抱えているだろう。
換気扇の油汚れのようなもの。とるのはすごくたいへん。とらなくても換気扇は機能する。でもついているとなんとなくイヤ。だから見ないようにして、換気扇を使いつづける……。
人生ってそんなものといってしまえばそれまでだけど、でも当事者にとってはやっぱりイヤなものだよね。いつかその汚れが深刻な問題を引き起こすこともあるわけで。
「父親がいない」「おもいもよらない行動で周囲をはらはらさせる」「難病で女優を引退することになった」という〝メディアが好きそうなストーリー〟を持ったライバルをうらやむ女優の語り。
この気持ち、なんとなくわかる。ぼくは表現者ではないけど。
作家の自伝を読んでいると、とんでもなく波乱万丈な経歴を持った人がいる。一家離散していたり、借金まみれでアル中の父親がいたり、警察の厄介になっていたり。そんな体験をおもしろおかしくつづっていて、「この人は表現者になるために生きてきたのだな」とおもわされる。
花村萬月氏や西村賢太氏のように。
そういう文章を読むたびに、「それに比べてぼくの人生はなんてつまらないんだろう」と嘆いたものだ。サラリーマンの父親とときどきパートに出る主婦である母親。まじめで友だちの多い姉。家はベッドタウンの一軒家。ヤクザな親戚も面倒な隣人もいない。成績も悪くないし、教師に怒られることはよくあるが警察のお世話になるほどではない。そんな人生を歩んできた。
だから学生時代はいろんな奇行に走った。着物でうろうろしたり、民族衣装を着たり、わけのわからないものを持ち歩いたり、わざと寝癖をつけて学校に行ったり、生徒会長になって意味不明なスピーチをしたり。
でも、やればやるほど自分の平凡さを痛感した。「変わってるやつだ」とおもわれるけど、著しく損をするようなことはしないのだから。どこまでいってもぼくは「奇人にあこがれてる凡人」だった。
ま、花村萬月氏や西村賢太氏が作家になれたのは、別に彼らの経歴が独特だったからではなく、彼らに文才があり、またそれを活かすための努力をしたからなんだけどさ。昔はそういうことがわかっていなくて、表現者となるためには「その人のバックボーンとなるストーリー」が必要だとはおもっていたんだよな。
問いを考えることに熱中しすぎて裸で街へ飛び出したとか、表現をつきつめるあまり自分の耳を切り落としたとか、そういうわかりやすい逸話がほしかったんだよね。
想像だけど、朝井リョウ氏も〝説得力のあるストーリー〟を持たないことにコンプレックスを感じていたのかもしれないな。
何しろ朝井リョウ氏は早稲田大学在学中に作家デビューし、デビュー作が映画化されるほどのヒットになり、23歳という驚異的な若さで直木賞を獲り、その後もコンスタントに売れている人気作家だ。その順風満帆すぎる経歴が、逆にコンプレックスだったのかもしれない。
西村賢太氏みたいな「父親が強姦で捕まり、母子家庭で育ち、不登校になり、ほとんど本を読まず、中卒でその日暮らしを送り、喧嘩で留置場に入れられ、借金まみれの生活を送っていた」という経歴のほうが作家っぽくて「無頼派のかっこよさ」があるもんね。
ま、数多の「経歴だけは西村賢太のようだけど作家になれなかった人たち」がいるので、その経歴にあこがれるのはまちがってるんだけど……。
この本でぼくが好きだった文章。
これ、本編とはあまり関係のない記述だ。このウェイターは作品の中でまったく重要な役割を果たさない。
でも、だからこそこの描写が印象に残った。ストーリーに関係のないウェイターだから記号みたいな扱いでもいいのに、わざわざ「このウェイターが最寄りの駅前で煙草を路上に捨てるところを見たことがある」というエピソードを入れて立体的に描いている。
なかなかできることじゃないですよ、こういう丁寧な仕事は。
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