2025年6月6日金曜日

【読書感想文】松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 / ゆとり教育は典型的な失敗例

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教育格差

階層・地域・学歴

松岡 亮二

内容(e-honより)
出身家庭と地域という本人にはどうしようもない初期条件によって子供の最終学歴は異なり、それは収入・職業・健康など様々な格差の基盤となる。つまり日本は、「生まれ」で人生の選択肢・可能性が大きく制限される「緩やかな身分社会」なのだ。本書は、戦後から現在までの動向、就学前~高校までの各教育段階、国際比較と、教育格差の実態を圧倒的なデータ量で検証。その上で、すべての人が自分の可能性を活かせる社会をつくるために、採るべき現実的な対策を提案する。

 教育格差がよく問題になる。家の裕福さによって受けられる教育のかなりの部分が決まってしまう、ひいてはその後の人生も変わってくる、と。親ガチャという言葉もすっかり定着した。

 様々な研究や調査をもとに、日本における家庭のSES(Socio-Economic Status:社会経済的背景) と教育レベルの関連をさぐった本。




 教育格差が広がっていると言われているが、実際そんなことはないそうだ。

 日本では昔から家庭によって教育格差があり、その差は長期的に見てほとんど拡大も縮小もしていないようだ。また、日本の教育格差は他の先進国と比べると標準的な水準であり、格差が大きいわけではないけれど小さいわけでもないという。


 生まれ育った家庭による教育格差というと、「親が金持ちだと高学歴になる」という相関をイメージするが、それだけでもないという。

 同じ日本の中でも、どの地域で育つかによっても格差が生じるという。

 まず、東京23区と政令指定都市は、その他すべての地域と比べて教育意識が高い。これは2010年に実施された調査の結果なので、不思議なことではないだろう。報道などから思い浮かべる「教育格差社会」の姿だ。ただ、この大都市における教育熱を説明するのは「大都市だから」ではなく、「近隣の大卒(者)割合」である。住民(ご近所さん)における大卒割合の高低が、教育意識の背景にあるのだ。これは地点間の結果なので、調査回答者本人が大卒かどうかとは別である。本人が大卒であれ非大卒であれ、大卒割合が高い地域に住んでいると、高い教育や塾の利用などに対して肯定的に回答しているといえるのだ。近所の大卒割合が規範となり、望ましい教育達成の基準値が変わると解釈できる。
 さらに2010年SSPよりも調査規模の大きい2015年SSPを用いた研究(Matsuoka 2019b)では、大卒割合と教育熱の関連を繫げるものが何かを検討した。その結果、近隣の大卒割合と教育意識を媒介するのは、近隣の「身体化された文化資本」だった。文化資本については第3章で解説するので、ここでは、「高い教育を得ることを無意識のうちに当然視する町の文化的規範」くらいの理解で構わない。高い大卒割合を土台とした教育を肯定する雰囲気があり、それが教育熱に繫がっている──高い教育という、この社会において「望ましいもの」と親和的な文化のある近隣とそうでない近隣が日本の中にある、ということを意味する。換言すると、大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。

 近隣の大人の学歴が、子どもの学歴に影響を及ぼすのだという。

 ぼくが育ったのは、兵庫県の中でも戦後に開発された住宅地だった。そこに住んでいるのはほとんどが「大阪や神戸に通勤しているサラリーマン家庭」であり、おそらく大卒率も高かった。子どものころ友だち「うちのお父さん、〇〇大学行ってたんだって」「うちは××大学って言ってたわ」みたいな会話をした記憶がある。

 そういう地域で育ったので、小学生の頃にはもう自分は大学に行くものとおもいこんでいた。「大学に行きなさい」などと言われるわけではない。ほとんどの人が「中学校を卒業したら高校に行く」とおもいこんでいるのと同様、「高校を卒業したら大学に行く」と考えているのだ。

 そこでは「どの大学に行くか」は話題になっても、「高校卒業後に大学に行くか、専門学校に行くか、就職するか」は話題にならない。

 高校のとき、卒業をしたら料理人として働くと言っていた同級生に「なんで大学行かないん?」と訊いてしまったことがある。今おもえばすごく傲慢で無神経な質問だ。でもそれぐらい、よほどの事情がないかぎりは大学に行くのが当然だとおもっていたんだよ当時は。


 また、教育格差とは単に成績だけの話でもないという。

 特に学校ランク・学校SESの両方と関連が強い「成功へのこだわり」を偏差値換算して図5‐9を作成した。(中略)高ランク校には「何でも一番になりたい」などの項目に肯定的な生徒が高い割合で在籍する。また、そのような学校の多くは学校SESが上位16%の学校だ。「生まれ」を背景にして高学力を獲得し受験を突破したという成功体験を持つ生徒たちが集まる進学校は成功への欲求が充満するサウナのようなものだ。
 一方、低ランクの学校は概ね低SESで、成功へのこだわりは平均的にだいぶ低い。そのような学校で業績主義的な成功である大学進学を煽っても、「生まれ」を背景に成功体験の積み重ねが少ない以上、生徒たちの反応は弱いだろう。

 親が高学歴・高収入であるほど、子どもの上昇志向も高いという。

 まあねえ、これが現実だよね。親が高学歴だと子どもにも自分と同等かそれ以上の学歴を期待するだろうし、そのためのサポートもする。結果的に子どもも高学歴を目指すようになる。

 かくして教育格差は再生産されていくことになる。




 最近、ぼくの住んでいる市では習い事・塾代助成金という制度が実施されている。小5~中3の子が塾や習い事の費用を、月1万円を上限として市が負担してくれるという制度だ。

 うちも恩恵は受けている。だが、これらの施策は教育格差の縮小に役立つかというと、たぶん役には立たないだろう(無駄とは言わないが)。

 まず、それなりにちゃんとした塾に行こうとおもったら月1万円では足りない。「塾代として毎月5万円払ってます」という家庭は、それが4万円になったら助かるだろう。だが「お金がないから子どもを塾に行かせられません」という家庭は、1万円補助してもらえたからといって「だったら月4万円出して塾に通わせよう」とはなりにくいだろう。

 また『教育格差』で書かれているように、世帯、地域によって親の意識、子どもの意識に格差がある。助成金で「子どもなんか放っておいても勝手に育つわ! 俺は塾なんか行ってなかったし!」という親の意識を変えるのはむずかしいだろう。

 習い事には、親の送迎や時間などの金銭以外のコストもかかるしね。




『教育格差』では、格差自体がいいとも悪いとも言っていない。世帯・地域間の教育格差があるという現実を指摘するにとどめている。

 ただ問題は、きちんとしたデータに基づかずに様々な政策が実施されていることだ。

 教育というのは、誰しも当事者であったから何かしらコメントしやすい分野だ。医療問題について語ってくださいとか、国家財政について意見をどうぞと言われても、知識がなければ何も語れない。でもみんな学校には行ってたし、その中で不満におもうこともひとつやふたつではなかっただろうから、専門知識がない人でもあれこれ言いやすい。結果、えらい人(ただしバカ)の思いつきで極端な方針転換がとられることが多い。

 例として、1990年前後に生まれた世代に施された“ゆとり教育”の失敗が挙げられる。

「思い込み」に基づいて授業時間数とカリキュラムが削減され、学習圧力が低下した結果、存在するデータでは授業内容の理解度に変化はなく、到達度はむしろ低下傾向で、学習意欲も改善しなかった(苅谷2002)。また、2002年度に実施された学習指導要領で土曜日が休みになったことで、SESによる学力格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。さらには、低SESの生徒には学習へのインセンティブ(勉強するといいことがあるよ! という誘因)が見えづらくなり、1979年と比べて1997年には学習時間の格差が拡大(苅谷2001)し、土曜日が休みになった2002年の後にもSESによる学習時間格差が拡大した(Kawaguchi 2016)。
 そして「ゆとり」を忌避する親は、選択の「自由」を行使することになった。事実、首都圏の富裕層が近所の公立学校ではなく私立や小中一貫校などを選ぶ「リッチ・フライト」現象(Fujita 2010)が報告された。選択の「自由」を行使できるのは高SESの親なので(304)、市場デザインの工夫がないまま単に選択肢だけ増やすのでは、格差拡大の方向に進むことになるのは不思議な結果ではない。

「子どもが勉強しすぎらしい。授業時間を減らせば、勉強ばっかりしている子にゆとりが生まれ、学習意欲が増すはず!」という根拠のない思い込みによって導入されたゆとり教育。

 だが結果は狙いの逆だった。公立校での授業時間が減ったことで、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせ、私立校受験への指向が高まった。結果的に格差は拡大。

「ゆとりがなかった層の子はますます学習に駆り立てられ、既に十分ゆとりがあった層の子はさらに学習時間が減る」という、なんとも皮肉な結果になってしまったのだ。

 素人がデータに基づかずに方針を決めると大失敗するという、お手本のような事例だ。

 



 くりかえしになるが、著者は教育格差が悪いと書いているわけではない。差はあるとはいえ格差はどの国にもある。どの時代にもある。「生まれた家によって受けられる教育に差がなかった社会」なんてものは存在しない。

 完全に平等な社会なんてイスラエルのキブツとかヤマギシ村みたいに、「子どもは完全に親元から離れて社会全体で育てる」という極端な社会主義を導入しないと不可能だろうし、それらの試みがうまくいかなかったのは歴史を見ればすぐわかる。

 平等を実現しようとすれば自由が損なわれる。いちばん賢い子に全員をあわせることは不可能なので、平等のためには「できる子ができない子のレベルに合わせる」ことになる。それは社会全体にとっても大きな損失だろう。


 個人的な考えでは、教育格差はそんなに悪いことじゃないとおもうんだよね。全員に平等にチャンスがあるってのはいい面もあるけど悪い面もあるとおもう。勉強が苦手で、勉強嫌いで、親も「勉強なんてしなくていいよ」って考えの子に高いレベルの教育を与えるのがはたして本人のためなのか? という気もする。

 幸いぼくは学校の勉強は得意なほうだったから学校教育はあまり苦ではなかったけど、「すべての子が高いレベルの音楽教育を受けられるように」とか「生まれ育った家庭によって格闘技を学ぶ機会に差があるのはおかしい。公平な格闘技教育を!」とか言われる世の中だったら、音痴で格闘技嫌いのぼくはさぞかし生きづらかっただろう。

 勉強が得意な子、勉強を重んじる親から生まれた子、勉強に時間を使う経済的余裕のある家庭の子が優先的に高い教育を受けられるのはそんなに悪いことじゃないとおもう。


 問題は、学校を出た後の社会のほうにあるんじゃないかとおもう。どういうことかというと、勉強ができることが金を稼ぐ手段として大きなウェイトを占めすぎているんじゃないかってこと。

 勉強ができるだけじゃなくて、掃除が得意であるとか、木工が上手だとか、他人の話に耳を傾けるのが苦にならないとか、お年寄りの世話が好きとか、そういう様々なスキルが金に結びつく世の中だったらいいのにな。


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