2018年12月30日日曜日

マンガでわかるドラゴンボール



本屋ではたらいていたとき、「なんでこんなもの売らなくちゃいけないんだ」と思った本はいろいろあったが、その最たるものが「マンガでわかる名作文学」シリーズだった。

「マンガでわかるマルクス経済学」とか「マンガでわかる決算報告書」とかならわかる。
大学の試験や仕事で知識が必要になったけどむずかしい説明文を読みたくない人が買うんだろう。

しかし名作文学をマンガで読む動機は謎だ。
文学なんてしょせんひまつぶしだ。
読みたくないなら読まなくていい。

文学作品を理解しないといけない場面なんてまずないだろう。
文学部の学生ならそういう状況もありうるかもしれないが、文字を読みたくない学生は文学部なんてやめちまえ。



文字を読まずして文学を理解できることはできるのだろうか。

ミステリならいざしらず、純文学なんか文章がすべてといってもいい。
『マンガでわかる城の崎にて』を読んで何が得られるんだろう。志賀直哉から文章をとったら何も残らないんじゃないか。

マンガでわかる名作文学がありなら、『マンガでわかるサザンオールスターズ』とかどうだろう。
マンガだけで音楽性を理解することができるのだろうか。ぜったいわからんだろ。

そういや少し前にNHKで「落語の物語をドラマ化する」って番組をやっていた。
あれは何がしたかったんだろう。しゃべりだけで存在しないものを見せるのが落語という芸なのに、それを映像化したら意味がない。
存在しない階段をおりているように見せるのがパントマイムなのに、そこに本当の階段を用意したらダメでしょ。



ぼくの疑問に反して、「マンガでわかる名作文学」シリーズはよく売れていた。
世の中には「文学を読みたいけど字を読むのは嫌い」という人がけっこういる、というのは驚きだった。

有名作品だから内容は知っておきたいけど四十数冊もの単行本を読むのはめんどくさい、という人のために『マンガでわかるドラゴンボール』なんて出してみてはいかがだろうか。
けっこう売れるんじゃないかな。

ぼくもなんだかんだいって、『マンガでわかる北斗の拳』とか『マンガでわかるベルサイユのばら』とかあったら読んでみたい。
今さら読むほどじゃないけど一応知っておきたいんだよな。


2018年12月28日金曜日

【漫才】包丁の切れ味


「はぁ……」

「どうしたの。なんか悩みでもあるの」

「じつはさいきん、包丁の切れ味がよくないんだよね……」

「ため息をつくような悩みかね。ストーカーにつきまとわれているのかと思うぐらいの深いため息だったよ」

「わたしにとっては大事なことなのよ」

「研いでもらったらいいじゃない」

「誰に」

「誰にって……。研ぎ師の人に」

「誰よそれ。研ぎ師ってどこにいるの」

「スーパーの前にいるの見たことあるよ。ときどき出張してくるんだよ」

「どこのスーパー? いついるの?」

「いやそれはわからないけどさ。何度もスーパーに通ってたらそのうちめぐりあえるよ」

「幻のポケモンかよ。仮に何度も通ってやっと出会えたとしてもさ、そのとき包丁持ってなかったら研いでもらえないじゃない」

「いつか出会う人のために常に持っとけよ」

「謎の研ぎ師に出会うために常に包丁をかばんに忍ばせて何度もスーパーに通わなくちゃいけないの。あぶない人じゃん」

「べつにかばんに忍ばせなくてもいいじゃん」

「包丁むきだしで持ちあるくの。研ぎ師に出会うまでに二百回職務質問されるよ」

じゃあスーパーの前じゃなくて直接研ぎ師のところに持ちこんだらいいんじゃない」

「だから研ぎ師ってどこにいるのよ。店構えてるの見たことないよ」

「イメージ的には人里離れた山奥で、偏屈なじいさんが窯をかまえて灼熱の炎の前でカンカンカンって金属を叩いてる印象」

「それ刀鍛冶と混ざってない?」

「そうかも。でも刀鍛冶でも包丁研げるんじゃない?」

「できるかもしれないけど刀鍛冶がどこにいるのよ。それに法外な料金を請求されそうじゃない」

「でも高くても名刀が手に入るんだったらいいんじゃない」

「わたしはよく切れる包丁がほしいだけなの。だいたいうちの包丁は数千円で買ったやつなんだから、それを何万円もかけて研いでもらうのはおかしいでしょ」

「じゃあもう新しく買えよ。買ったほうが安いだろ。消耗品と思って毎年買い替えていけばいいじゃないか」

「それはそうかもしれない。でもさ、買うとなったらべつの問題があるんだけど」

「なに」

「今使ってる包丁はどうしたらいいの」

「捨てればいいじゃん。料理人じゃないんだから同じような包丁何本もいらないでしょ」

「包丁ってなにゴミ? 持つとこは木だけど刃は金属だし、燃えるゴミでも資源ゴミでもないような」

「じゃあプラゴミ?」

「ぜったいちがうでしょ」

「もうそのへんに捨てちゃえば。公園にぽいっと」

「だめすぎるでしょ。見つかったら逮捕案件だよ」

「じゃあ人目につかない山奥に夜中こっそり捨てにいく

「ますますやばいよ。犯罪のにおいしかしない」

「いいじゃん、人里離れた山奥の刀鍛冶のところに行くついでに」

「いつ行くことになったのよ。包丁は買うことにしたから刀鍛冶に用はないの。いやどっちにしろ刀鍛冶に用はないけど」

「じゃあもう捨てずに置いておけば。包丁なんてそれほどかさばるものじゃないし」

「そりゃあ一本ぐらいならかさばらないけどさ。でも毎年買い替えていくんでしょ。十年たったら包丁が十本。台所の扉裏の包丁収納スペースにも収まりきらないよ」

「じゃあべつのとこにしまっておけよ。どうせ切れ味悪くなった包丁なんだし」

「包丁なんてどこにしまうのよ。あぶないし」

「針山みたいなのをつくればいいんじゃない」

「針山?」

「大きめのぬいぐるみを買ってきてさ、そこに毎年包丁を一本ずつ突きさしていけば……」

「ぜったいにイヤ!」

「でもそれぐらい威圧感あるもの置いといたら、ストーカーもびびって離れていくんじゃない?」

「だからストーカーにはつきまとわれてないんだってば!」

2018年12月27日木曜日

2018年に読んだ本 マイ・ベスト12

2018年に読んだ本は85冊ぐらい。その中のベスト12。

なるべくいろんなジャンルから選出。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』

感想はこちら

ディストピアものの古典的名作。
評判にたがわぬ怪作だった。

ストーリー展開自体は今読むとやや陳腐だけど、圧倒的な説得力を持ったディティールが引きこませる。言語をコントロールすることで思想を封じこめるという発想はすごくよかった。



高橋 和夫『中東から世界が崩れる』

感想はこちら

中東といえば石油とイスラム教、というのが多くの日本人のイメージだろう。ぼくもそうだった。
しかしこの本では宗教対立から離れた視点で中東を語っている。これがすごくわかりやすい。

特にイランの重要性についてはまったく知らなかったなあ。「イラン≒中華」説はおもしろい。



陳 浩基『13・67』

感想はこちら

香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細。

短篇ミステリを読んでいると、やがてイギリス・中国に翻弄される香港という国の変化が見えてくる。
腐敗しきって民衆の敵だった警察が徐々に市民からの信頼を得るが、やがて中国共産党の手先となってまた人々を締めつけるようになる。社会派エンタテインメントの傑作。



瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』

感想はこちら

読んでいると憤りをとおりこして恐ろしくなってきた。ぼくはこんな前近代的な司法が治める国に住んでいたのか。

これを読むまで司法のことは信頼していたんだよね。政治や官僚が腐敗しても司法だけは良心にのっとって裁いてくれるだろう、と。
この本を読むと、裁判所が権力者を守るための機関になっていることがよくわかる。情けなくってため息しか出ない。はぁ。



春間 豪太郎『行商人に憧れて、ロバとモロッコを1000km歩いた男の冒険』

感想はこちら

たったひとりでロバと仔猫と鶏と仔犬と鳩を連れてモロッコを旅した記録。
あえてリスクの高いほうばかり選択してしまう人って傍から見ているとおもしろいなあ。

めちゃくちゃめずらしい体験をしているのに、気負いがなくさらっと書いているのが楽しい。事実がおもしろければ文章に装飾なんていらないということを教えてくれる。



矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』

感想はこちら

2018年最大の驚きを味わわせてくれた本。
文章めちゃくちゃだし内容は気持ち悪いしストーリーは不愉快。なのにおもしろいんだから困っちゃう。

嫌な話が好きなぼくとしては最高におもしろかった。どうやったらこんな小説が書けるんだろう。奇才と呼ぶにふさわしい。



テッド・チャン『あなたの人生の物語』

感想はこちら

これまた驚かされた小説。
かなりの量の小説を読んできたのでもう驚くことなんてないと思っていたが、この想像力には脱帽。
「ぶっとんだ発想」と「ディティールまで作りこむ能力」ってなかなか両立しないと思うのだが、テッド・チャンはその両方の才能を併せもつ稀有な作家。



山本 義隆『近代日本一五〇年』

感想はこちら

明治以降の日本の科学は戦争とともに歩んできた。
案外それは戦後も変わってないのかもしれない。

著者は、日本がかたくなに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。核兵器禁止条約に署名しないのも、将来的に核兵器を保有するためだと考えればつじつまが合う。
だからこそ「負けフェーズ」に入った原発を捨てられない。先の大戦で、負けを認められずに大きな犠牲を出したときと同じように。



岸本 佐知子『なんらかの事情』 


感想はこちら

翻訳家によるエッセイ集。いや、エッセイなのか……?
どこまで本当なのか、どこから嘘なのか。気づいたら引きずりこまれている空想の世界。
こんな文章を書けるようになりたいなあ。



セス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』

感想はこちら

人はすぐ嘘をつく(おまけに嘘をついている自覚もないことが多い)ので、アンケート結果は信用できない。前の大統領選でも、事前のアンケートではトランプ氏が圧倒的劣勢だった。
だが行動は嘘をつかない。人々のとった行動をビッグデータにして分析すれば未来も予想できる。
医療も変わる。医者の仕事のうち、「診断」は近いうちにコンピュータの仕事になるだろうね。



高野 秀行『アヘン王国潜入記』

感想はこちら

これを読むとアヘンを吸ってみたくなる、困った本。
カンボジアのワ州という村に滞在した記録なのだが、おもしろかったのは村人たちの死生観。
独特なんだけど、彼らのほうが生物としては正しくて、われわれのように「個の死をおそれる」「他人の死を悼みつづける」ほうが異常なのかもしれないと思わせる。



堤 未果『日本が売られる』

感想はこちら

タイトルは大げさでもなんでもなく、日本のあらゆる財産が売られつつある。
水、農業、自然、教育、福祉、そして我々の生活。売っているのは国。つまり政府。
「今だけ、カネだけ、自分だけ」の先にあるのは貧しい暮らし。今の政治体制が続くかぎり、この傾向はどんどん加速していくんだろうな。



来年もおもしろい本に出会えますように……。


【関連記事】

2017年に読んだ本 マイ・ベスト12



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月26日水曜日

【読書感想文】史上最低の「衝撃のラスト」/小林 泰三『殺人鬼にまつわる備忘録』

殺人鬼にまつわる備忘録

小林 泰三

内容(Amazonより)
見覚えのない部屋で目覚めた田村二吉。目の前に置かれたノートには、「記憶が数十分しかもたない」「今、自分は殺人鬼と戦っている」と記されていた。近所の老人や元恋人を名乗る女性が現れるも、信じられるのはノートだけ。過去の自分からの助言を手掛かりに、記憶がもたない男は殺人鬼を捕まえられるのか。衝撃のラストに二度騙されるミステリー。

「記憶が数十分しかもたない主人公」と「他人の記憶を書き換えることができる悪役」の対決を描いたミステリ。

んー、最後まであんまりわくわくしなかった。
「記憶が数十分しかもたない」はともかく「他人の記憶を書き換えることができる」はもうなんでもありだからなー。無敵すぎて。
その無敵の能力者が「記憶が数十分しかもたない」人物だけは相性が悪い、というのがこの話の妙らしいんだろうけど、いやいやそんなに相性悪くないし。記憶を書き換えられるほうが圧倒的に強い。
そのへんの「強すぎる設定」がじゃまをして、とうとう最後まで入りこめなかった。

「記憶を書き換えられる上に人を殺すことをなんとも思わない人物」と対峙するなら、やることはふたつしかないじゃない。
「とにかく逃げる」か「記憶を書き換えられる前に暴力で制する」か。
なのに主人公は頭脳戦で戦おうとする。記憶が数時間しかもたないくせに。ばかすぎる。

それから設定上しょうがないんだけど、主人公の記憶がもたないので、何度も同じことをくりかえす。同じことばかり書いている。
これがまだるっこしくてしょうがない。ここをもっとうまく処理してほしかったな。



あとひどかったのが「衝撃のラスト」ね。

〇〇と思っていたのが実は××だった、ってことが最後に明らかになるんだけど、××がはじめのほうにちょろっと出てきただけなので「誰だこいつ?」ってなる。
読みかえせば「あーこんなやついたっけ」とわかるんだけど、しかし××がまったくストーリーにからんでいないから「で、それがどうしたの?」って思うだけ。

今までに「衝撃のラスト」の小説をいくつも読んできたけど、その中でもダントツでゴミみたいな「衝撃のラスト」だったな。



この作者のデビュー作『玩具修理者』は丁寧な構成のいいホラーだったんだけどな。
『殺人鬼にまつわる備忘録』はダメダメミステリだった。

ぼくは後味が悪い小説は好きだけど、「よくできていて後味が悪い」小説が好きなんだよね。これはただただ不愉快なだけ!


【関連記事】

【読書感想文】三半規管がくらくらするような小説/小林 泰三 『玩具修理者』



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月25日火曜日

【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』

『シュガー・ラッシュ:オンライン』

内容(Disney Movieより)
 好奇心旺盛でワクワクすることが大好きな天才レーサーのヴァネロペと、ゲームの悪役だけど心優しいラルフ。大親友のふたりは、アーケード・ゲームの世界に暮らすキャラクター。
そんなふたりが、レースゲーム<シュガー・ラッシュ>の危機を救うため、インターネットの世界に飛び込んだ!そこは、何でもありで何でも叶う夢のような世界――。しかし、思いもよらない危険も潜んでいて、ふたりの冒険と友情は最大の危機に!? 
果たして<シュガー・ラッシュ>と彼らを待ち受ける驚くべき運命とは…。

(『シュガー・ラッシュ:オンライン』のネタバレを含みます)

劇場にて、五歳の娘といっしょに鑑賞。

うーん、おもしろかったかと訊かれたらまあおもしろかったんだけど、ぼくは好きじゃないな。
というかディズニーがこんなの作っちゃだめでしょと言いたくなる作品だった。

世俗的すぎるというか。いや、率直に言おう。低俗だ。
ゲームの世界を舞台にした前作『シュガーラッシュ』でも、「ん? これは子ども向けなのか?」と首をかしげてしまうシーンが多かったけど、今作はインターネットの世界が舞台ということでもっとひどい。

ポップアップ広告が出てきてクリックしするとあっという間にべつのWebサイトに連れていかれるとか、検索エンジンに単語(「バレエ」とか)を打ちこむとものすごい勢いで検索候補(「バレエ教室」「バレエシューズ」「バレエダンサー」とか)を出されるとか、「インターネットあるある」がそこかしこにちりばめられているんだけど、ぼくには理解できるけど五歳の娘はさっぱり理解できていなかった(パソコンやスマホをさわらせないようにしているので)。

あげくにラルフが動画投稿サイト「BuzzTube」に動画を投稿して金を稼いだり炎上したりするという展開は、あまりにも時代性が強すぎてたしなみがない。
いやディズニーにそういうの求めてないから。何年たっても変わらないおもしろさを期待してるから。

さらに、予告篇でも話題になったプリンセス大集合のシーン。
白雪姫、シンデレラ、オーロラ姫、ポカホンタス、ムーラン、ジャスミン、アナ、エルサ、ラプンツェル、モアナ、メリダといったディズニーの歴代プリンセスが一堂に会してくっちゃべっている。
うちの娘はこれを観るために映画館に行ったようなものだ(プリンセスだけでなく、バズ・ライトイヤーやベイマックス、ニック・ワイルドといったキャラクターも出演している)。
ぼくも歴代プリンセス勢ぞろいに、「おおっ、豪華キャスト!」とテンションが上がった。
だが、その内容には失望した。

プリンセスたちが愚痴をこぼしたり、「プリンセスが夢を語るときはスポットライトが当たって歌いはじめるのよ」なんて台詞を当のプリンセスに言わせたり、メリダが話した後に他のキャラクターに「彼女だけべつのスタジオの制作だから」と言わせたり(『メリダとおそろしの森』はピクサースタジオ制作)。
とにかくセルフパロディや内輪ネタがひどい。
一時的なウケを狙いにいくあまり長い時間をかけて築いたブランドを棄損していることに気づいてんのかな(ちなみに劇場でもぜんぜんウケてなかった)。
もう一回言うけど、ディズニーにそういうの求めてないから

無関係の人が「ディズニーランドのキャラクターの中の人が……」と言う分にはおもしろくても、当のキャラクター自身が着ぐるみ脱いで「ほら着ぐるみでしたー!」ってやってもぜんぜんおもしろくない。
こっちはわかってて騙されてんのに、ディズニー自身がその夢を壊したらダメ。

ぼくは「宝くじなんて買えば買うほど損するだけだよ」という意見だけど、宝くじ売り場のおばちゃんがそれを口にしてはいけない。
それを言っちゃあおしめえよ、というやつだ。



何もディズニーに変わるなといっているわけではない。
逆説的だけど、ずっと同じように愛されるためには、ずっと同じでいてはいけない。
だが変わるということは、それまで築いてきたものを破壊することではない。古きを残しつつもその上に新しさを構築することだ。

『アナと雪の女王』があれだけヒットしたのは、「女性はすてきな男性に愛されることが幸せ」という古い価値観から脱却したことが大きな要因だろう。
だがアナやエルサという存在は、オーロラ姫やアリエルのような「王子様に守られるかよわいプリンセス」を否定しているわけではない。新しい価値観を提示しただけだ。
だからこそ、旧来のディズニーファンにも受けいれられたし、新たなファンを獲得することにもつながった。

『シュガーラッシュ・オンライン』も新しい価値観の提示に挑戦していた。
パーカーを着たプリンセスがいてもいい、危険なダウンタウンで命を賭けたカーレースに興じるプリンセスがいてもいい。
その試み自体はすごくよかった、だがヴァネロペというキャラクターの夢と対比させるために、歴代プリンセスを茶化す必要はなかった。
「女性がもっと働きやすい社会にしよう!」というメッセージ自体は大賛成だ。だが、専業主婦という存在まで否定すべきではない。



『シュガーラッシュ・オンライン』はおもしろかった。特にラストのプリンセスたちがそれぞれの強みを生かしてラルフを助けるシーンなんて最高だ。ディズニーファンなら昂奮することまちがいない。

だが、同時にディズニー史に残る失敗作でもある。
ディズニーにとってはこの映画によって得たものより失ったもののほうが大きかったんじゃないだろうか。長期的に考えれば特に。

一言でいうなら「悪ふざけが過ぎる」映画だった。ディズニーがまた迷走期に入らなきゃいいけど。


【関連記事】

【芸能鑑賞】『リメンバー・ミー』

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』

【DVD感想】『塔の上のラプンツェル』


2018年12月24日月曜日

マンション入居者採用面接


「はい、次の方お入りください」

 「よろしくお願いいたします」

「ええっと、ではまずうちのマンションに入りたいと思った理由を教えてください」

 「はい、私が御邸を志望いたしましたのは、マンションの経営方針に共感したためです。『安心とくつろぎを与える住環境を提供することで人々の暮らしを豊かにして社会の発展に貢献する』この方針が私の目指す住人像にふさわしいと考えたため、ぜひとも御邸のお力になりたいと思い、志望いたしました。このマンションに住むことによってかねてからの夢であった"角部屋の住人"という目標を実現したいと考えています」

「そうですか。ですがその条件でしたらうちのマンションでなくてもいいわけですよね」

 「いえ、駅近、日当たり良好、オートロック、セパレート、角部屋。これらの条件を満たしている御邸に住ませていただければと思っております」

「新入居者の方には、最初は一階からスタートしてもらうことになります。角部屋に住めるようになるのは、その方の能力にもよりますが、だいたい十年ぐらいはかかります。その覚悟はありますか?」

 「はい」

「なるほど。ちなみにあなたがうちのマンションに入ることで、どういった貢献ができるとお考えですか?」

 「はい、私は大学時代、スキーサークルで会計担当をしておりました。金銭の管理はもちろんですが、メンバーとの交渉や説得も要求されるポジションです。はじめはなかなか会費を払ってくれない会員もいましたが、根気よく話をすることで無事に会費を徴収することができました。また年末のスキー合宿では宿泊施設との交渉をおこない、宿泊費を値引きしてもらうことに成功しました。こうした私の経験が、御邸での住人トラブルの解決やリフォーム時の交渉に役立つものと考えております」

「そうですか。ちなみに他にはどんなマンションを受けていらっしゃいますか」

 「本町駅周辺を中心に、主にデザイナーズ系を何社か受けております」

「さしつかえなければ具体的なマンション名を」

 「グリーンハイツ様、パークライフ様、エトワール様です」

「なるほど。その中で弊邸は第何希望ですか」

 「第一希望です」

「ありがとうございます。ええっと、あなたは一般入居者ではなく総合入居者希望ですよね。ご存知のこととはおもいますが、マンション都合により転居していただく可能性があります。駅の南口にあるサンクチュアリ2号棟でのお住まいをしていただくことは問題ありませんか」

 「はい、御邸がそう判断したのであれば従います」

「何か質問はございますか」

 「そうですね、出産・育児に関する制度についてお聞かせいただければと思います」

「うちのマンションでは四階以下に子育て世帯用の部屋を設けております。ですので子どもが生まれた場合はそちらに越していただくことになります。お子さんが大きくなりましたら、本人が再転居を希望する場合は再び五階以上でばりばりやっていただくことも可能です。じっさいにこの制度を活用している女性入居者もおります。弊邸ではマンションをあげて女性の居住をサポートしておりますので、長く住みやすい環境かと思います」

 「ありがとうございます。安心しました」

「他に何かありますか」

 「質問は以上です。最後になりましたが、私がもし貴邸に入居したあかつきには、必ずやこのマンションを町内一の高層マンションにできるよう努力してまいる所存です!」

「はい、ありがとうございました。では本日は以上です。選考の結果は二週間以内に書面をもって回答させていただきます。もし二次選考に進まれましたら、そこでオーナーと家賃や敷金、部屋の広さなどの話をさせていただくことになります。それでは本日は弊邸の入居者採用面接にお越しいただき、ありがとうございました」

2018年12月21日金曜日

【読書感想文】「壊れた蛇口」の必要性 / 穂村 弘・山田 航『世界中が夕焼け』


『世界中が夕焼け』

穂村 弘 山田 航

内容(e-honより)
穂村弘の「共感と驚異の短歌ワールド」を、新鋭歌人・山田航が解き明かし、穂村弘が応えて語る。瞬間凍結された120首を、言葉の面白さがわかるあなたへ。

短歌のことはよくわからない。
ぼくが読んだことのある歌集といえば、穂村弘さん以外には俵万智さんや笹公人さん、あとは伊勢物語を読んだぐらい……。って考えたらけっこう読んでるほうだな。現代人にしたら。

でもやっぱりよくわからない。
歌集を読んでも、三分の一ぐらいは「何が言いたいのだろう」と首をかしげる。
残りの三分の二だってはっきりわかるわけじゃなくて「たぶんこういうことを伝えたいんじゃないかなあ……」と思うぐらいだ。
みんなそういうものなんだろうか。
短歌って、わかる人にはちゃんと伝わるものなんだろうか。知識のある読み手が触れれば
「なるほど、こういう着想をこう膨らませて、さらにはこんな技巧を凝らして、××における苦悩と××を抱えながら生きる我々の××を××を通して××しているのだ!」
みたいにズバっと読みとけるものなんだろうか。



で、『世界中が夕焼け』である。

穂村弘氏が過去に発表した短歌(歌集はもちろん、歌集未収録の作品も)を、山田航氏が読みとき、それに対して穂村弘氏がまたコメントをつけるという形態の本だ。
元は山田航氏が自身のブログ(トナカイ語研究日誌)で「穂村弘百首鑑賞」と題してやっていた評論らしい。

この山田航さんという人は、歌人であり、さらには現代短歌評論賞を受賞しているぐらいの人なので、短歌の読み手としては一流といっていい。
そんな一流の読み手による解説なのだが、これを読んでぼくは安心した。

「なーんだ、やっぱり短歌ってよくわからないものなんだ」

山田航さんが「この歌にはこういう意図が込められているのだろう」と書いていて、それを受けて穂村弘さんが「そうじゃなくてこういう意図で詠んだ歌です」みたいなばっさり否定していることがよくある。

あーよかった。やっぱりわからないんだ。
現代短歌評論賞を受賞するような人ですら読みまちがえるんだ。
作者の意図なんて正しく伝わらないものなんだ。そりゃそうだよね、三十一文字で複雑な心情を表すんだもの、ディスコミュニケーションは当然起こる。
読み手によって受け取り方が変わる、だからこそ短歌はおもしろいんだろう。



って書いちゃうと山田航さんが読みまちがえてばっかりだと思われてしまうかもしれないけど、そんなことはないですよ。
当然ながら作者の言いたいことを見ごとに言い当てている指摘も多い。

言い当てているにせよ、まちがっているにせよ、この「他人が評論」→「それに対して作者が回答」という形式はすごくいい。
短歌の作者に「自分がつくった短歌について解説してください」と言っても、なかなかうまく説明できないだろう。照れくささもあるだろうし、野暮ったさもある。「この短歌はここが妙味なんですよ」なんて自己解説するなんてかっこ悪すぎる。
そもそも完全に説明できるなら短歌で表現する必要がない。短歌でしか表現できないから短歌を詠むのだから。

しかし他者の眼というフィルターをいったん通すことで、自然に解説に入れる。
「そうなんですよ。ただもっというと、こういうことも背景としてあるんです」
「いやそれはちがいますね。これが伝えたかったんです」

短歌評論にかぎらず、この形式はどんどんとりいれたらいい。
批評ってどうしても批評家のほうが強くなってしまう。批評家のほうがえらそうというか。
だから 作品 → 批評 → 批評に対する作者のコメント まであるとフェアでいいと思う。喧嘩になりそうだけどね。でもそれはそれで楽しい(傍で見ているほうとしては)。



 ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵の中の火星探検

という歌に対する山田航さんの解釈に対する穂村弘さんの返答(ややこしいな)。
自分を絶対的に支持する存在って、究極的には母親しかいないって気がしていて。殺人とか犯したりした時に、父親はやっぱり社会的な判断というものが機能としてあるから、時によっては子供の側に立たないことが十分ありうるわけですよね。でも、母親っていうのは、その社会的判断を超越した絶対性を持ってるところがあって、何人人を殺しても「○○ちゃんはいい子」みたいなメチャクチャな感じがあって、それは非常にはた迷惑なことなんだけど、一人の人間を支える上においては、幼少期においては絶対必要なエネルギーです。それがないと、大人になってからいざという時、自己肯定感が持ちえないみたいな気がします。僕はわりと過剰にそれを与えられたところがあるので、全能感が非常に強いんですね。そうすると、逆に挫折感も強くなるんだけど。だって全能なはずだと思っているのに、現実には自分が乗り越えられないことばっかりなわけで、そうすると、いちいちびっくりする。子供の頃にその種を埋め込まれるみたいなことがありました。だから、むしろ母親に対して邪険な態度を取ったりしましたね。だってそれとは別に自分の価値を生成しないと、社会は自分にお金をくれないし、女の子は自分に愛をくれないし、そのスキルや価値が証明されなくても無償の愛情をくれるのは親だけだから、それは邪魔なものに変わるでしょう、ある時から。自分を守っていた引力圏が今度は邪魔なものになる。動物の場合はもっと本能的にそれが起きるけど、人間の場合、ずっとその引力圏に留まろうと思えば留まれてしまうから、そうすると危険な感じになりますよね。でも、そうはいっても、実際、経済的に自立したり、母親とは別の異性の愛情を勝ち得たあとも、母親のその無償の愛情というのは閉まらない蛇口のような感じで、やっぱりどこかにあるんだよね。この世のどこかに自分に無償の愛を垂れ流している壊れた蛇口みたいなものがあるということ。それは嫌悪の対象でもあるんだけど、唯一無二の無反省な愛情でね。それが母親が死ぬとなくなるんですよ。この世のどこかに泉のように湧いていた無償の愛情が、ついに止まったという。ここから先はすべて、ちゃんとした査定を経なくてはいけないんだという(笑)。
この感覚はよくわかる。自分が親になったことで特に。

母親は赦しの存在だ。

ぼくの妻も、娘に対して甘い。
ぼくなんかは娘が駄々をこねたときなんかは「置いていくよ!」と言って、ほんとに立ち去る(もちろん安全な場所でだけだが)。
だが妻は「置いていくよ」と言っても置いていかない。娘が「待って!」というときはぜったいに待つ。
結果、娘はぼくの言うことには比較的したがってくれるが、「おかあさんの『置いていくよ』は嘘だ」と気づいているので、言うことを聞かない。

こういうことについて、ぼくは妻に対して不満に思っていた。
「『置いていくよ』と言ってるのに待ってあげてたらなめられるじゃない」と。

しかし最近は、いやこれはこれでいいのかもしれないと思うようになった。
社会的規範を守らせようとする父親と、なにがあっても最後は味方になってくれる母親。両方の存在があることで、自己肯定感と社会意識の両方を持った人間に育つのかもしれない。


ぼくの父は、祖母が死んだとき大泣きしていた。祖父が死んだときは泣いていなかった。
父親の死がつらくなかったわけではないと思う。
やはりあれは「世界中を敵にまわしても少なくともひとりは自分のことを守ってくれる」という【壊れた蛇口】を失ったことによる涙なのだろう。
これからはほんとにひとりで生きていかなくちゃならないという感覚。泣くのも当然だと思う。

【関連記事】

【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』

ふわふわした作品集/『文学ムック たべるのがおそい vol.1』【読書感想】



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月20日木曜日

フリーマーケットとぬいぐるみの呪い


五歳の娘を連れてフリーマーケットに行った。

フリーマーケットなんて何年ぶりだろう。
ぼくは物欲のない人間なので、あまり買い物が好きでない。買いたいものは本ぐらいなので、フリーマーケットに行くより古本屋やAmazonマーケットプレイスをめぐるほうが効率がいい。

しかし娘は「自分のお金でたくさんおもちゃを買える」ということで狂喜乱舞していた。

娘のお年玉の残り(五百円ぐらい)を持ってきた。
「ほしいものあったら自分のお金で買っていいよ」と言うと、はじめはあまりピンときていないようだったが、いくつか買っているうちに「買い物って楽しい!」ということに気づいたらしく、あれも買うこれも買うと、気づいたら十個ほどのおもちゃを買っていた(それでもぜんぶで五百円ぐらいだ)。

無骨なマグネットとか、謎のキャラクターがプリントされたパジャマとか、大人からすると「えーそんなの買うの……」と言いたくなるようなものも選んでいたが、妙なものを買うたのしさもわかるので、あえて口出しはしなかった。

あまりに娘がたのしそうに買い物をしているので、「自分のおこづかいで買えるぶんだけだよ」と伝えていたにもかかわらず、予算を上回る服や本を娘がほしいと言いだしたときは「まあ服は実用品だし本は勉強になるからな……」とこっそりぼくの財布から娘の財布にお金をたしてあげたりもした。甘いぜ父親。



ぼくが唯一「それは買うのをやめといたほうがいいんじゃないの?」と娘に言ったのは、ミニーマウスのぬいぐるみだ。

ごそごそおもちゃをさぐっていた娘がミニーマウスのぬいぐるみを見つけて「これ買う!」と言いだした。
そのミニーマウスを見たぼくは「いやそれはどうだろう……」と顔をしかめた。

わりときれいなぬいぐるみだった。商品自体に欠陥があるわけではない。
値段は破格の十円。買いおしみするような金額ではない。

問題は、ミニーマウスのぬいぐるみがウェディングドレスを着て「LOVE」と書かれたプレートを持っていることだった。
ちなみに隣にはタキシード姿のミッキーマウスもある。
どう見ても結婚祝いだったぬいぐるみだ。

どういういきさつでこのミッキー&ミニーペアはフリーマーケットに出品されたのだろうか。
ちなみにぼくの家にも結婚祝いでもらった男女ペアのミッフィーちゃん(紋付き袴&文金高島田)のぬいぐるみがある。
妻の職場の人から送られたものだが、はっきり言って迷惑だ。ぼくにも妻にもぬいぐるみを飾る趣味はない。
実用性ゼロ・趣味にあわない・かさばる、という迷惑三拍子そろった贈り物だ。

だったら捨てればいいじゃないかとも思うかもしれないが、結婚の象徴のようなぬいぐるみを捨てるのはなんとなく気がひける。
迷信を信じるたちではないが、これをごみ箱に捨てたら結婚生活がうまくいかなくなるような気がする。

いらないのに捨てられない。
はっきり言って、こんなものお祝いじゃない。呪いだ。


フリーマーケットに出品されていたミニーマウスの話に戻る。
これを十円で出品した人は、離婚したのだろうか。
ウェディング感まるだしのペア人形を十円で売るなんて、そうとしか考えられない。

いやぼくの思いすごしかも。
ただ単に合理的な考えの人で、「趣味にあわないから売っちゃおう」と思っただけかもしれない。ぼくのように「呪い」を感じなかったのかもしれない。

しかし出品者は感じなかったかもしれないが、ぼくは「呪い」を感じる。
特に、娘がミニーマウスを手にとって「これ買う!」と言ったときに、ミッキーマウスから漂ってくる「おいおれとミニーをはなればなれにさせる気か」という怨念をびんびんと感じた。

ぼくは娘に言った。
「どうしてもそれを買うんなら、ミッキーマウスもいっしょに買ってあげたら? 別々にしたらかわいそうじゃない」

娘はミッキーマウスも買うことを納得してくれた。



かくして、今ぼくの家にはどこかの誰かの結婚祝いのミッキー&ミニーの人形が飾られている。
まったく趣味じゃない。かさばる。

しかしこれを捨てたらどこかの誰かが離婚してしまいそうな気がする。
見知らぬ夫婦の円満までぼくが責任を負う義理はないんだけど、しかしなんとなく大事にしないといけないような気がする。

今、我が家にはダブルの呪いをかけられている。


2018年12月19日水曜日

【芸能鑑賞】『リメンバー・ミー』


『リメンバー・ミー』
(2018)

内容(Amazonプライムより)
家族に音楽を禁じられながらも、ミュージシャンを夢見るギターの天才少年ミゲル。ある日、彼はガイコツたちが楽しく暮らす、カラフルで美しい死者の国に迷い込んでしまう。日の出までに帰らないと、ミゲルの体は消えて永遠に家族と別れることに…。唯一の頼りは、陽気だけど孤独なガイコツのヘクター。だが、彼にも生きている家族に忘れられると、死者の国から存在が消えるという運命が…。絶体絶命のふたりと家族をつなぐ重要な鍵──それは、ミゲルが大好きな名曲リメンバー・ミーに隠されていた…。

ピクサーの真骨頂といってもいいような映画だった。
個性豊かな登場人物、ストーリーが進むにつれて明かされる真実、手に汗握るアクション、シンプルながら力強いメッセージ。どこを切り取ってもすばらしい。

ピクサーファンのぼくとしてはもっと早く観たかったのだが、五歳の娘に「これ観ようよ」と誘っても「やだ。プリンセスが出てくるやつがいい」と断られて、なかなか観ることができなかった。
そりゃあね。五歳の女の子からしたら『リトル・マーメイド』とか『眠れる森の美女』とかのほうがいいよね。ということで、そのへんの作品も観てもらった上で、「じゃあ次はいよいよ『リメンバー・ミー』ね」ということでようやく観させてもらった。



(ここからネタバレ)


いやあ、泣いたね。
中盤ぐらいで「たぶん最後はミゲルがママココといっしょに『リメンバー・ミー』を歌うんだろうな」と思って、その通りの展開になったんだけど、やっぱり泣いた。まんまとしてやられた、って感じだ。音楽の力って偉大だなあ。

序盤に
「祭壇に写真を飾られていないと死者の国から帰ってくることはできない」
「現世で誰からも忘れられたとき、死者の国で二度目の死を迎える」
というふたつのルールを自然な形で提示する。
そして中盤以降はその二つのルールが物語にいい制約を与え、ラストはこのルールが感動を生む。
ピクサーはほんとに物語作りがうまいよね。

最近「ラストに意外などんでん返し! あなたは伏線を見抜けるか?」みたいな小説や映画がよくあるけど、その手の物語はまあたいていつまらない。
伏線やトリックが読者を驚かせるためのものでしかないんだよね。驚かせたその先に何があるかが大事なのに。

その点『リメンバー・ミー』は、伏線の貼り方が巧みすぎて観終わった後でも伏線だったと気づかないぐらい。なんて上質な仕掛け。
しかも「観客をだますための仕掛け」自体は物語の中心に据えられていない。あくまで、メッセージを届けるための手段でしかない。

ミゲルが歌う『リメンバー・ミー』を聴きながらぼくは、自分が死んで数十年たった日のことに思いを馳せた。
自分が死に、娘が歳をとり、百歳の娘にも死期が迫る。そのとき、娘はぼくのことをおぼえていてくれるだろうか。ぼくと過ごした日のことをいまわの際に思いだしてくれるだろうか。

百年後のことまで想像させてくれる映画は、文句なしにいい映画だ。



ピクサー作品にははずれがない(『カーズ』を除く)。
だからこそこんな映画が作れたんだろう。

この設定を思いついたとしても、ふつうは金をかけてつくれない。
かわいいキャラは出てこないし、主人公もごくごくふつうの少年だし、行動を共にするのはガイコツだし、舞台は死者の国だし、とにかく地味だ。主人公の相棒も汚い野良犬だ。
とても客を呼べる設定ではない(現に、ぼくの娘はなかなか観ようとしなかった)。

それでもぼくが観ようと思ったのは、それがピクサー制作だから。信頼と安心のピクサーブランド。
そして見事に期待に応えてくれた。
名作ぞろいのピクサー作品の中でも、『トイ・ストーリー』シリーズ、『インクレディブル』シリーズの次に好きな映画になった。



ところで、この映画の舞台である死者の国には、
「現世の誰からも忘れられたら消える」
「死んだときの年齢で死者の国にやってくる」
という設定があるが、この世界は現世以上に少子高齢化がすごいだろうな。

医学の発達によって若い人はどんどん死ななくなっていて、死ぬのは年寄りばかり。おまけに子どもは忘れられて死者の国から消えるのも早い(子孫がいないから)。

じっさいにこの設定の死者の国があったら、年寄りであふれかえっていて目も当てられない状況かもしれないな。

戦争があったら一気に死者の国も若返るんだろうけど。


【関連記事】

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』

【芸能鑑賞】 『インサイド ヘッド』


2018年12月18日火曜日

一日警察署長アイドルの所信表明


わたしはアイドルですが、警察署長になったからにはその責務を十分に果たしたいと考えています。
たとえ一日警察署長だからといってイベントに参加して愛想を振りまくだけでお茶を濁すつもりは毛頭ありません。
この警察署を県内一、いや日本一の警察署へと大改革をする所存であります。

もちろん容易なことではないのは承知しております。
なにより、わたしには明日になれば任期が切れるという時間的制約があります。
ですが時間を言い訳にするつもりはありません。

「今は時間がないから練習ができない」そう言って歌やダンスの稽古から逃げる人たちをわたしはたくさん見てきました。彼女たちはみんなアイドルの道を諦めていきました。

トップアイドルになるために必要なものはなんでしょうか。持って生まれた容姿、音感、魅力あるキャラクター。そういったものもたしかに必要です。ですがそれらは努力で補えるものです。
トップアイドルになるために欠かせないものは、決して諦めずに努力を続けることだとわたしは考えます。
自分でいうのもなんですが、わたしには才能があります。それは歌やダンスの才能ではなく、ましてや見た目でもありません。わたしが持っている才能は、言い訳をせずに努力を続けることができるという能力です。

ですから警察署長として、その才能を活かし、より良い警察署にするための努力を惜しまないつもりです。



まず、署員のみなさんには、前任者のやりかたは捨ててもらいます。

わたしはこの一日警察署長の依頼をいただいてから、過去十年分の公表している資料にあたり、重大犯罪検挙率、軽犯罪の発生率、交通事故発生率、そういったものの推移を確認いたしました。
全国平均と比較して、この署の数字はいずれも悪化しております。

ええ。みなさんの言いたいことはわかっています。
港湾部の再開発がおこなわれたことによって住民の流入が増え、それに伴って治安が悪化したといいたいのでしょう。そういった背景が治安に与える影響についてはわたしも重々承知しております。

ですが、あえて厳しいことをいいますがそれは言い訳です。
外部要因を見つけだして「我々のせいじゃないからどうしようもない」ということはかんたんです。ですが、それでは何も解決しません。

じっさい、これは他県の事例になりますが、同じように港湾部の再開発をしたT市の犯罪発生率はここ五年で低下しています。警察署と行政の連携による防犯キャンペーンが実を結んだ事例です。

同じような背景を持ちながら数字を向上させている事例がある以上、わが署管轄内の数字悪化は警察署に原因があると見られてもいっていいでしょう。



わたしはなにもみなさんに限度以上の努力を強いているわけではありません。
先ほど努力の重要性を説きましたが、それは自らに課すことであって、他人に強いることではありません。
ただやみくみに「努力しろ!」「がんばれ!」と叫ぶ人間は管理職失格です。管理職の仕事は、努力したくなるような仕組み、努力しなくても結果が出るような仕組みを整備することです。

これまで思うような成果が出なかったということは、方向性が誤っていたということ。それはつまりトップである警察署長の責任です。
これを修正するのが一日警察署長であるわたしの役割です。

そこでわたしが手はじめにおこないたいのは、警察署によるPRイベントの廃止です。
具体的にいうならば、今ここでやっているイベントです。「警察ふれあいさんさん祭り」でしたっけ? わたしに言わせれば、こんなイベントくそくらえです。

市民に開かれた警察署なんていりません。
警察官に求められるのは市民に迎合することではない! 市民を守ることです!
市民に「警察は何をやっているのかわからない」と思われるぐらいがちょうどいいのです。平和で安全な暮らしをしている人は警察の存在を意識しませんからね。

わかりましたか?
わかりましたね?
では、解散!

2018年12月17日月曜日

地下鉄がこわれた


地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

信号故障とはめずらしいな、と思いながら文庫の続きを読む。


しばらくしても動かない。
地下鉄の駅と駅の間で停車しているので、どうすることもできない。職場に「少し遅れます」との連絡だけ入れ、また読書に戻る。

電車は動かない。
「信号故障のため停止しています」のアナウンスだけがくりかえし流れる。
うるせえなあ、進捗ないんだったらアナウンスしなくていいよ。ずっと同じメンバーが乗ってるんだからみんなわかってるんだよ。

時計を見るともう十五分も停まっている。
少し疲れてきた。
気づくと、本を読みながらずっと吊り革を握っている。電車が走っていないのだから吊り革につかまる必要などないのに、いつもの習慣で、目の前に吊り革があるとついつい握ってしまう。
こんなことならさっき座っておけばよかった。
さっき目の前の席が空いたのだが、隣にくたびれたおっちゃんが立っていたので座らなかったのだ。
ぼくが座らなかった席に座っているおっちゃんは、ずっとスマホでゲームをしている。おい、ちょっとはぼくに感謝しろよ。こっちはずっと立ってるんだぞ。そこは本来ぼくの席だぞ。譲ってもらった席でゲームやってんじゃねえよ、自己研鑽に励め。
おっちゃんは悪くないのに、憎らしくなってくる。

窓の外に目をやる。真っ暗だ。地下鉄なのであたりまえだけど。
なんでこんなところで止まるんだろう。
ブレーキの故障とかならしょうがないけどさ。
信号機の故障なら、そろそろっと徐行してせめて次の駅まで行くとかできないもんかね。電車のことは知らないけど、徐行運転とかできないんだろうか。

地下通路で停まるのと駅で停まるのではぜんぜん気分がちがう。
地下通路に停車するのはこわい。閉塞感がすごい。
気分が悪くなったらどうしよう。火が出たら。変な人が暴れだしたら。便意をもよおしたら。

どうせ停まるなら駅に停まってくれればいいのに。
トイレにも行けるし他の路線に乗り換えることもできるし一駅ぐらいなら歩けるし。

たぶん次の駅までは百メートルぐらい。
徐行で走ったって一分かからないだろう。だのにどうしてそこまで行かないんだ。こんな真っ暗の地下道で停車しているんだ。

ひょっとして何者かの意図がはたらいているのか。
わざわざぼくらをここに閉じこめたのか。いったい誰が。何のために。どうやって。いつまで。いま何問目。

こわいこわい。
大声でさけびたくなる。わああ。
ぼくがさけんだらみんなどうするだろう。逃げるかな。でも駅じゃないから逃げるとこなんてどこにもない。
案外みんな同じような心境かも。誰かがさけぶのを待っているのかも。
わああとさけぶ。となりのにいちゃんもさけぶ。本来ぼくの席だったところに座っているおっちゃんもさけぶ。おねえさんもじいさんもみんなさけぶ。

ぼくらのさけび声はどんどん反響して地下通路内に鳴りひびく。通勤電車の声の力はものすごい。その力は止まっていた地下鉄を動かす。さらに声は枕木を吹っ飛ばし、ホームに立っている人たちをなぎ倒し、時空も超えて、さけび声はぐんぐんぐんぐん飛んでいって信号を破壊する。

地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

2018年12月14日金曜日

【読書感想文】岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」


『罪と罰』を読まない

岸本 佐知子 三浦 しをん 吉田 篤弘 吉田 浩美

内容(e-honより)
「読む」とは、どういうことか。何をもって、「読んだ」と言えるのか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会。

誰もが名前は知っているが、その分量の多さから「読んだことありそうでない本」であるドストエフスキー『罪と罰』。
その『罪と罰』を読んだことのない四人が、無謀にも読まずに『罪と罰』について語りあうという座談会。

序文で吉田篤弘氏がこう書いている。
 こうしてわれわれは、本当に『罪と罰』を読まずに読書会をしたのだが、「読む」という言葉には、「文字を読む」という使い方の他に、「先を読む」という未知への推測の意味をこめた使い方がある。
 このふたつを組み合わせれば、「読まずに読む」という、一見、矛盾しているようなフレーズが可能になる。「本を読まずに、本の内容を推しはかる」という意味である。他愛ない「言葉遊び」と断じられるかもしれないが、言葉遊びの醍醐味は、遊びの中に思いがけない本質を垣間見るところにある。
この試みはすごくおもしろい。
ぼくも「読んだことはないけどなんとなく知っている」作品をいくつも知っている。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』といわれれば「あー強欲なユダヤ人の金貸しが血を出さずに肉をとれと言われるやつでしょ」といえるし、カミュの『異邦人』といわれれば「人を殺して太陽がまぶしかったからと答えるやつだよね」といえる。

ガンダムもエヴァンゲリオンもスターウォーズも観たことないけど、「黒い三連星が出てくるんだよね」とか「シンジ君がエヴァンゲリオンに乗せられて惨敗するんでしょ」とか「フォースの力を使って親子喧嘩をするんだって?」とか断片的な知識は持っている。

そういった「断片的に知っている」作品について、やはり知らない人同士で憶測をまじえながらああだこうだと話すのは楽しいだろうな、と思う。

とはいえ、企画自体はおもしろかったが内容は少し期待はずれだった。
まずメンツがイマイチ。
岸本佐知子氏、三浦しをん氏はよかった。両氏とも想像力ゆたかだし、どんどん思いきった推理をくりひろげてくれる。
篤弘 トータルで千ページ近い――。どうだろう? もしかして、第一部で早くも殺人が起きますかね。もし、しをんさんが、六部構成の長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?
三浦 いえ、殺りませんね。
岸本 どのくらいで殺る?
三浦 ドストエフスキーの霊を降ろして考えると――そうだなあ、これ、単純計算で一部あたり百六十ページくらいありますよね。捕まるまでにどれぐらいの時間が経つのかによるけれど、私だったら第二部の始めあたりで一人目を殺しますね。
岸本 それまでは何をさせとくの?
三浦 金策をしてみたり、人間関係をさりげなく説明したり。
岸本 そう簡単には殺さず、いろいろとね。
三浦 主人公をじらすわけですよ。大家がたびたび厭味なことを言ってきて、カッとなっては、「いやいやいや」と自分をなだめたり。
三浦しをん氏の「自分が書くとしたら」なんて、まさに作家ならではの視点で、なるほどと思わされた。

しかし吉田篤弘氏、吉田浩美氏は正直つまらなかった(この二人は夫婦らしい)。
わりとマトモなことを云う進行役みたいな立ち位置をとっているが、そのポジションに二人もいらない。
おまけに吉田浩美氏はNHKの番組で『罪と罰』を影絵劇で観たことがあるらしく、大まかなストーリーをはじめから知っている。はっきりいってこの企画には邪魔だ。他の三人の空想の飛躍を妨げている。おまけに「私は知ってますから」みたいな口調で語るストーリーがけっこうまちがってる。ほんとこいつは邪魔しかしてない。
おまえ何しにきたんだよ。ていうかおまえ誰なんだよ(経歴を見るかぎりデザイナーっぽい)。

読んでいて椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二の四氏がやってた『発作的座談会』を思いだしたのだが、発作的座談会のほうがずっとおもしろかった。
よくわかっていないことを適当にいう「酒場の会話」が自由気ままでよかったし、メンバーも行動派の作家、常識人の弁護士、世間知らずのイラストレーター、活字中毒の編集者とキャラが立っていた。あの四人で「〇〇を読まない」をやったらおもしろいだろうなあ。



あとちょっと冗長なんだよね。
『罪と罰』がボリューム重厚なわりにそれほどストーリー展開があるわけではないので、はじめは四人の謎解きを楽しんでいたが、だんだん飽きてきた。

分量を四分の一ぐらいにして、いろんなジャンルの本を四冊ぐらい扱ってほしかったな。「『東海道中膝栗毛』を読まない」とかさ。

ぼくも『罪と罰』を読んだことがないけど、この本を読んで、ますます読みたくなくなった。
ロシア人の長ったらしい名前も疲れるし。
あらすじで読むだけでも飽きるんだから、つくづく読むのがしんどい小説なんだろうなあ。



篤弘 もしかして、ソーニャって探偵役でもあるのかな。
三浦 「『リザヴェータおばさんを殺したのは誰なの!』。ソーニャは悲憤し、ついに安楽椅子から立ち上がった。」
篤弘 名探偵ソーニャ。
岸本 やがて憤りが愛に変わっていく。
浩美 捕まえたら、わりにイケメンだった。
三浦 「犯人はあの栗毛の青年に違いない。ああ、だけど彼って、なんてかっこいいのかしら。憎まなければいけない相手なのに、神よ、なんという残酷な試練をわたくしにお与えになるのですか!」
岸本 濃いめのキャラ(笑)。
三浦 「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

こういう、妄想がどんどん飛躍していくノリはすごくおもしろかったんだけどなあ。だけどこのノリが続かないんだよな。
三浦しをん氏、岸本佐知子氏の二人は残して、メンバー変えてべつの本でやってほしいなあ。


【関連記事】

【読書感想】岸本 佐知子『気になる部分』

【読書感想文】これまで言語化してこなかった感情/岸本 佐知子『なんらかの事情』

【読書感想】 吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月13日木曜日

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』


『翻訳できない世界のことば』

エラ・フランシス・サンダース(著)
前田 まゆみ(訳)

内容(e-honより)
FORELSKET フォレルスケット/ノルウェー語―語れないほど幸福な恋におちている。COMMUOVERE コンムオーベレ/イタリア語―涙ぐむような物語にふれたとき、感動して胸が熱くなる。JAYUS ジャユス/インドネシア語―逆に笑うしかないくらい、じつは笑えないひどいジョーク。IKUTSUARPOK イクトゥアルポク/イヌイット語―だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。…他の国のことばではそのニュアンスをうまく表現できない「翻訳できないことば」たち。

翻訳できない言葉、つまりある言語だけにしかないユニークな概念の言葉を集めた本。
日本語からも「こもれび」「積ん読」などが紹介されている。
「こもれび」なんて、なくても特にこまらない。日常会話でつかうことまずない。詩や歌詞ぐらいでしかつかわない。
でもこういう「なくてもいい言葉」をどれだけ持っているかが言語の豊かさを決める。なくてもいいからこそ、あるといいんだよね。

「積ん読」もすばらしい言葉だ。ダジャレ感も含めて。かゆいところに手が届く感じ。
積ん読も読書の一形態なんだよね。読まない読書。読んでないけど「いつか読もうとおもってそこに置いておく」ことが大事なんだよね。読書好きならわかるとおもうけど。
その感覚を「積ん読」という一語は見事に言いあらわしている。



『翻訳できない世界のことば』で紹介されている中でぼくのお気に入りは、トゥル語の「KARERU」。
これは「肌についた、締めつけるもののあと」という意味だそうだ。

言われてみれば、たしかに存在する。
パンツのゴムの痕やベルトの痕など。
だれもが見たことある。毎日のように見ている。
でもこれを総称して表現する言葉は日本語にはない。「肌についた、締めつけるもののあと」としか言いようがない。

この言葉を知るまえと知ったあとでは、目に見える世界が少し変わる。
これまではなんとも思わなかったパンツの痕が「KARERU」として意識されるようになる。ほんの数ミリだけ世界が広がる。

ドイツ語の「KABEL SALAT」もいい。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。


あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方」なんてのも「あるある」という現象だ。
だれもが経験しているはず。
「あのときああ返していればウケたはずなのに」と、後になってから気づく。言いたい。でももう完全にタイミングを逃しているから今さら言ってもウケない。あと二秒はやく思いついていれば。あのときあいつが話題をそらさらなければ。くやしい。



いちばん笑ったのはドイツ語の「DRACHENFUTTER」。


龍のえさ!
「こないだワイフが怒ってたからDRACHENFUTTERを与えたんだけど高くついたよ」みたいに使うんだろうな。
まるっきり反省していないのが伝わってきていいな。ぼくもつかおうっと。


【関連記事】

【読書感想文】骨の髄まで翻訳家 / 鴻巣 友季子『全身翻訳家』




 その他の読書感想文はこちら


2018年12月10日月曜日

たからさがし


五歳の娘と、その友だちが公園で「なんかおもしろいことしてー」と言ってきたので、
「じゃあ宝さがししよっか」と云った。

よくわからないままに「するー!」と手を挙げる五歳児たち。
「じゃあちょっと待ってて」と鉄棒をさせて、その間にぼくは宝を隠す準備をする。

ノートの切れ端を使い、メモを書く。
「いちばんたかいてつぼうのしたをみろ」と。
で、鉄棒の下に「すべりだいのうえをみろ」と書いた紙をわかりやすく埋めておく。
すべりだいの上には「せがさをんだか  ヒント:はんたいからよむこと」を挟んでおく。
十回ぐらいあちこちいったりきたりさせてあげくに、最後には「おっちゃんのぼうしのなか」として、ぼくの帽子の中にどんぐりを入れておいた。

これを五歳児にやらせたところ、とても楽しんでいた。
ずいぶんやさしいヒントにしたつもりだが、それでもときどき迷いながらああでもないこうでもないと宝をさがしていた。

「たのしかったー!」「またやってー!」
とお褒めの言葉をいただき、その後、何度も宝さがしをした。



これはぼくが子どものときに好きだった遊びだ。
『きょうはなんのひ?』という絵本で知って、真似をして何度もやった。


『きょうはなんのひ?』は、女の子が家中に散りばめた謎を、おかあさんが解いてゆくという話だ。
絵本にはめずらしく子どもよりおかあさんの登場シーンが多いが、それでもこの絵本の主人公はあまり姿を見せない"まみこ"だ。姿は現さなくても、いたずら好きで頭のいいチャーミングな女の子を感じることができる。
この本を読んだ子は、ぜったいに"まみこ"のように宝さがし(の仕掛人)がやりたくなる。

少し前に脱出ゲームなるものが流行っていたが、それを思いついた人もきっとこの絵本を読んだことのある人なんじゃないかな。



何度か宝さがしゲームをやっているうちに、娘たちも仕掛人をやりたくなった。
「今度は子どもたちがつくるからおっちゃんがやって!」

そう。
この遊びは、仕掛ける側のほうが楽しいのだ。

しかし五歳児たちがつくった宝さがしはめちゃくちゃだった。

「いしのした」とか(どの石やねん!)
「すなのなか」とか(どこやねん!)
「したをみろ(うそ)」とか(じゃあどこ見たらええねん!)。
とても解けない。

そもそも五歳児の書いた文字が読めないし。

2018年12月7日金曜日

カンタのおばあちゃん


何度も観た『となりのトトロ』だけど、ひさしぶりに観てみたら新たな発見だらけだった。

ぼくは現在、ふたりの娘の父。
かつてはサツキやメイの立場で観ていた『となりのトトロ』も、今ではおとうさんの視点で観てしまう(たぶんサツキとメイのおとうさんはぼくより若い)。

いちいち感動して泣いてしまう。
それも、なんでもないシーンで。

たとえば病院におかあさんのお見舞いに行った帰りに
サツキが「メイは大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの!?」と言い、
メイが「おかあさんはいいの」と返すシーン。

ああ。
メイもがんばってるんだよなあ。おかあさんが入院した当初は、毎晩寝る前に泣いていたんだろうなあ。サツキは自分も寂しいのに「メイのそばにいてあげる」という役割を自らに課すことで寂しさをまぎらわせていたんだろうなあ。
そんな日々を乗りこえて「大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの?」という冗談を言いあえるようになったんだねえ。ふたりともよくがんばったねえ。

おとうさんが大学に行く日だからおばあちゃんにメイを預けたのに、メイが寂しくなって小学校に来ちゃうシーン。
我慢しなくちゃいけない、いい子にしていなくちゃいけないと思いながらも、やはり耐えきれなくておねえちゃんに会いにいってしまう。だけどわがままを言ってはいけないとも思っているから、おねえちゃんを前にすると何も言えない。
しょうがないよ、まだ四歳だもん。メイちゃんはよくがんばったよ。

病院に行ってサツキがおかあさんに髪を結ってもらうときの表情。
サツキはおかあさんと話しながらはにかんでいる。メイに対するときの「姉の顔」とはまったくちがう。おとうさんにも見せない顔。おかあさんだけに見せる、こどもの顔。

おかあさんの退院が延びたと聞かされたときのサツキとメイの喧嘩。
ずっと我慢して退院の日を心待ちにしていたのにそれが先になると聞かされたメイの悲しみ。
おかあさんの病気が重いのではという不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命に「しっかり者の姉」という役割を果たそうとする、けれど折れてしまいそうになるサツキの心細さ。
ついでに、好きな子が困っているからなんとかしてあげたいけど自分の立場では何もできないカンタのもどかしさ。

子どもの頃に読んだときには気づかなかった心の動きに胸がしめつけられる。



しかし、ぼくがいちばん感情移入をしてしまったのはカンタのおばあちゃんだった。

メイが行方不明になったときのおばあちゃんの心境を思って、ぼくも心がつぶされそうになった。

「ばあちゃんの畑のもんを食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」
と言ってしまったせいで、メイがトウモロコシを持って病院に行ってしまった。

「メイちゃんはここにいな」
と言ったにもかかわらずメイは駆けだしてしまった。

そして今、メイがいなくなった。
池からは女の子のサンダルが見つかった……。

幼い子どもを持つ親として、おばあちゃんの心境が痛いほどよくわかる。
子どものときはなんとも思わなかったが、四歳の子が行方不明になるというのはとんでもないことだ。まっさきに命の心配をする。

あのとき「すぐ元気になっちゃうよ」なんて言わなければよかった。励ますために言ったつもりだったが、おかあさんの退院を心待ちにしている四歳の子に言うには無責任すぎる言葉だった。
あのとき、むりやりにでもメイの手をつかんで止めていれば……。
もしものことがあったら一生悔やんでも悔やみきれない。

ばあちゃんは自分のことをずっと責めていただろう。
自分のせいで小さい子が死ぬなんて、自分が死ぬことよりもおそろしい。
サツキの到着を持っているときのばあちゃんの「ナンマンダブナンマンダブ」には魂の祈りが込められている。

だからばあちゃんはサツキの「メイんじゃない」にどれだけ救われただろう。
池の中をさがしていた男の人(おそらくばあちゃんの息子)からは「なんだぁ。ばあちゃんの早とちりか」と"人騒がせなばあさん"扱いされたが、その言葉にどれだけ安堵しただろう。自分が人騒がせなばあさんになっただけで良かったと心から思っただろう。

最終的にメイと再会したおばあちゃんはめちゃくちゃ泣いただろうなあ。メイが生きていたことに心から感謝しただろうなあ。
そして、メイはもちろん、サツキも、おかあさんもおとうさんも、おばあちゃんがどれだけ祈っていたかを知らないんだろうなあ。

でもぼくはわかっているからね、おばあちゃん。ぐすっ。

2018年12月6日木曜日

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』


ピクサー

~早すぎた天才たちの大逆転劇~

デイヴィッド・A・プライス (著) 櫻井 祐子(訳)

内容(e-honより)
『トイ・ストーリー』から現在まで、大ヒット作を連発し続けているピクサー・アニメーション・スタジオ。だがその成功までには長い苦難の時代があった。CGに対する無理解、財政危機、ディズニーとの軋轢…。アップルを追放されたジョブズとディズニーを解雇されたラセター、ルーカスフィルムに見限られたキャットムルら天才たちは、いかに力を結集し夢を実現させたのか?

『トイ・ストーリー』をはじめて観たときの衝撃は今でも鮮明におぼえている。

高校一年生の林間学校の帰りのバスだった。バスガイドさんが、社内のテレビで『トイ・ストーリー』を流しはじめた。

なんだよ、ディズニーかよ。おれたち高校生だぜ。ディズニー見て胸をときめかせるような歳じゃねえんだよ。しかもおもちゃの話? ガキっぽいな。

そんな感じで斜に構えながらぼんやりと『トイ・ストーリー』を観ていた。
あっという間に心をつかまれた。
おもちゃが動くというアイディア。その動きのなめらかさ。動きだけでなく、嫉妬やプライドや絶望や憐憫や諦観や友情といった感情が活き活きと描かれている。
少年の日におもちゃに対して持っていた気持ちを思いだした。
食いいるようにバスの小さなテレビ画面を観ていた。ふと周りを見わたすと、クラスメイトは誰ひとり寝ていなかった。みんな真剣に『トイ・ストーリー』に魅いっていた。林間学校の帰りで疲れていたにもかかわらず。

すごい映画だ。今までにないぐらい感動した。
その映画をつくったのはピクサー・アニメーション・スタジオという制作スタジオだと知ったのは、ずっと後のことだ。

以来、ピクサー作品だけはほぼ欠かさず観ている。あまり映画は観ないんだけど。
『モンスターズ・インク』『カールじいさんの空飛ぶ家』『ウォーリー』『Mr.インクレディブル』……。
現時点でピクサーの長編アニメーションは20作あるが、まだ観ていないのは『カーズ/クロスロード』だけだ(カーズシリーズだけは好きじゃない)。
延期に延期を重ねている『トイ・ストーリー4』もずっと楽しみにしている。

ピクサーのすごいところは、打率がめちゃくちゃ高いところだ。『カーズ』シリーズ以外はみんなおもしろい。
しかもすごい完成度を誇る『トイ・ストーリー』よりも『トイ・ストーリー2』のほうがおもしろい。『トイ・ストーリー2』よりも『トイ・ストーリー3』のほうがもっとおもしろい。続編がつくられている映画はたくさんあるが、回を重ねるごとにおもしろくなっていく作品は他にほとんどない。



そんな、世界が誇る3Dアニメーションスタジオ・ピクサーの歴史を書いた本。ピクサーファンとしてはすごくおもしろかった。
ディズニーやスティーブ・ジョブズはもちろん、ジョージ・ルーカス、ティム・バートンといった大御所の名前も随所に出てくるのでアメリカ映画好きなら楽しめるんじゃないかな。

ピクサースタジオの物語は、それ自体が映画にできそうなぐらい波乱万丈だ。

ピクサーはコンピュータソフトウェアの会社だったが、アップルを追いだされたスティーブ・ジョブズに買収される。
1989年に一般人向けに3Dレンダリングをできるソフトを売りだして大コケしたエピソードが紹介されているが、早すぎるとしか言いようがない。2018年でも一般の人が3D画像処理をしてないのに。
買収された後もピクサーはずっと赤字続きだった。だがスティーブ・ジョブズは手を引かない。おそらく成功を信じていたわけではないだろう。意地になっていただけだ。
「アップルでのジョブズの成功はたまたまだった」という世間の評価を覆すため、それだけのためジョブズはピクサーを支えつづける(かなり口も出していたようだが)。

ディズニーを辞めたジョン・ラセターが加わり、ピクサーは「アップルを見返す」「ディズニーを見返す」「世間を見返す」という目標のために世界初の全編3Dによる長編映画製作にとりかかる。
もちろんそれだけで動いていたわけではないだろうが、個人的怨恨がかなりの原動力になっていたことはまちがいなさそうだ。

ディズニーに宣伝してもらったこともあって『トイ・ストーリー』が大ヒット、さらに『バグズ・ライフ』『モンスターズ・インク』『ファインディング・ニモ』と次々にヒットを飛ばすピクサー。
その勢いに反比例するかのようにディズニーは低迷期を迎え、気づけばディズニーとピクサーの立場は逆転していた……。

と、つくづくドラマチックな展開。プロジェクトXのような大逆転劇だ。逆襲劇といったほうがいいかもしれない。



スティーブ・ジョブズといえばアップルの人というイメージを持つ人が大半だろうが、ジョブズ抜きにはピクサーは語れない。
立場としてはパトロンみたいなもので制作に携わっていたわけではないが、ジョブズという濃厚なキャラクターがピクサーに与えた影響は大きいだろう。
この本の主役はジョブズではないが、やはりいちばんインパクトを与えるのはジョブズだ。

ジョブズがアップルにいたときのエピソード。
 一年後、状況は逆転していた。ケイはまだアップルで働いていたが、ジョブズはもういなかった。アップルにはジョブズのビジョンと完璧主義を崇拝する社員は多かったが、彼には鼻持ちならない面があって、上から下まで多くの社員を敵に回した。マッキントッシュ・プロジェクトの考案者ジェフ・ラスキンは、ジョブズと一緒に働けない一の理由を列挙した絶縁状を叩きつけ、のちに会社をやめた(その一「認めるべき功績を認めない」、その四「人格攻撃が多い」、その一〇「無責任で思いやりに欠けることが多い」)。ジョブズは愛車のメルセデスをマッキントッシュ・チームの建物の目の前にある、身体障害者専用スペースに停めるのを常としていた。その理由は、建物のうしろや横の目の届かない一般向けスペースに停めると、誰かに腹いせにキズをつけられるからだと囁かれていた。
たったこれだけの文章で、ジョブズがどんな人物だったかがなんとなくわかる。
他の社員に何をしたのかはこの本には書かれていないが、相当なことをしないかぎりはここまで嫌われないだろう。

とはいえジョブズの話を聞いていると誰もが引きこまれてしまうカリスマ性についても書かれていて、良くも悪くも強烈な個性の持ち主だったようだ。

「なぜ日本にジョブズは生まれないのか」なんてことを言う人がいるが、こんなクレイジーな人物、どこの国でも居場所がないだろう。
彼がアップル、ピクサー、そしてアップルで成功をしたのはたまたま時代と場所にめぐまれた奇跡のような出来事だったのだと思う。

しかしその奇跡のおかげでぼくらはピクサーの上質な映画を楽しむことができるのだから、ジョブズ被害者の会の人たちには申し訳ないが、ジョブズに感謝したい。



ピクサー映画の特徴として、「何度観ても楽しめる」ということがある。
『トイ・ストーリー』なんて何度観たかわからない。それでも、観るたびに新しい発見がある。こんなとこでこんな動きをしていたのか、この台詞が後から効いてくるんだな、ここの映像はすごいな、と。

それは映像、音楽、台詞、ストーリーすべての細部に至るまで丁寧につくりこまれているからだ。
「だが全般的にいって、リアリズムへのこだわりは狂信的なほどだった。マーリンとドリーがクジラに飲み込まれるシーンの下調べとして、美術部門の二人がマリン郡の北部海岸で座礁して死んだコククジラの体内によじ登って入った。魚の筋肉や心臓、えら、浮き袋などの生体構造を知るために、死んだ魚を解剖したクルーもいた。サマーズは世界的権威を何人も連れてきた。スタンフォード大学のマーク・デニーが波に関する講義を行ない、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のテリー・ウィリアズがクジラについて、バークレーのマット・マクヘンリーがクラゲの推進力について、バークレーのミミ・ケールが藻や海草の動きについてくわしく説明した。海中には半透明な、つまり完全に透明でも完全に不透明でもない物体が多いことから、デューク大学のゾンケ・ジョンセンを呼んで水中の半透明感について話をしてもらった。モス・ランディング海洋研究所のマイク・グレアムから、ケルプ(藻の一種)は珊瑚礁には生えないという指摘を受けると、スタントンは珊瑚礁のシークエンスのデザインからケルプをすべて取り除くよう指示した。
これは『ファインディング・ニモ』を製作時の逸話だ。
はっきりいって、観客の99%は気にしない。クジラの体内が本物とちがっていようが海藻の動きが不自然だろうが、珊瑚礁に藻が生えていようが、ほとんどは気づきもしない。
だがこういうところで徹底的にリアリティにこだわることで、「大胆な嘘」が説得力を持つようになるのだろう。

読んでいるうちに、またピクサー作品を観かえしたくなってきた。
この本を読んだ後だとまた新たな発見があるんだろうな。


【関連記事】

【DVD感想】 『インサイド ヘッド』

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月5日水曜日

手作りカヌーと冬のプール


「おい犬犬、カヌーつくるから放課後、詰所にこい」
高校一年生の冬。現代社会の授業中、H先生から突然声をかけられた。

いろいろと説明が必要だ。



詰所というのは、北校舎一階にある小部屋のこと。
H先生はなぜか学校内に自分だけの部屋を持っていて、職員室にも社会科準備室にもめったにおらず、詰所にいることが多かった。
公立高校で、いくらベテランとはいえ何の権限もない一教師がなぜ自分だけの部屋を持っていたのかは謎だ。
たぶん「空いている部屋に勝手にH先生が棲みついて、校長含め誰もが黙認していた」のだと思う。

H先生はとにかく変わった人だった。
五十歳を過ぎていたがトンボが大好きで、よく巨大な虫取り網を持って学校の周りをうろうろしていた。
沖縄出身で、幼いころにはトンボを追いかけているうちに基地内に入りこんでしまい、米軍に捕まったこともあるそうだ。

野外観察同好会という部活(同好会という名称だが一応学校公認の部活だった)の顧問をしていた。
ぼくがどういういきさつでぼくが野外観察同好会に入ったのかはおぼえていない。部員は三人だった。まったく口を聞かない三年生と、バスケ部とかけもちしているぼくの友人。
三年生は引退し、友人はバスケ部の練習が忙しいので実質ぼくひとりだけの部活だった。

野外観察同好会の活動は、びっくりするぐらい何もなかった。
入部したものの三か月ほど何もしない。あまりに何もしないのを不安に思ってH先生に「何かしないんですか」と訊いたら、「じゃあトンボ取りに行くか」と、ぼくと友人を郊外の山まで連れて行ってくれた。
山歩きをして、釣りをした。その間H先生はずっとトンボを追いかけていた。

文化祭では、文科系の部活は何か出展しないといけない。美術部は絵や彫刻を出展するし、吹奏楽部や軽音部は演奏をする。
だがぼくらは何もしなかった。文化祭当日、生物室には「野外観察同好会」名義でトンボの写真が飾られていた。H先生がひとりでやったらしい。

ぼくは部員というよりH先生の助手、というか手下のような扱いだった。
H先生が授業で使う資料をよく運ばされた。
あるとき、女子生徒が「コートをかけるハンガーがないのが不便」と漏らすのを聞いたH先生が「ハンガー掛けをつくろう」と思いたった。
H先生はどこからか板や棒切れを持ってきて、それをぼくに運ばせた。
そして教室の後ろの掲示板にがんがん釘を打ちつけてハンガー掛けを作ってしまった。「ここに釘打っていいんですか」と訊くと「知らん!」と言われた。



話を戻す。
どういうわけか、H先生は急にカヌーを作りたくなったらしい。
カヌーなんて作れるの? と、疑問に思った。アボリジニーが大きな丸太をくりぬいてカヌーを作っているのをテレビで見たような気がする。まさかあれ?

と思ったが、ちゃんと「手作りカヌーキット」みたいなものがあるのだった。
ぼくとH先生は放課後、一週間ほどかけてカヌーを作りあげた。板を組み立て、最後には防水シートでぐるぐる巻きにした。手作り感満載のカヌーだった。
「これってカヌーというよりカヤックっていうんじゃないですか?」と訊くと「カヤック? なんやそれ。これはカヌーや!」と言われた。H先生がカヌーというからカヌーなのだ。

完成した余韻にひたる間もなく、「犬犬、そっち持て」とカヌーを運ばされた。車にでも積むのかと思ったら、着いたところはプールだった。
冬の屋外プール。もちろん誰もいない。
H先生はプール入口の鍵を開けた。ぼくらは手作りカヌーをプールに浮かべた。すぐにぶくぶく沈むのではないかと心配したが、意外とちゃんと浮いていた。
近くで部活をやっていたバレー部やテニス部の女子生徒がなんだなんだと集まってきた。またH先生が変なことやろうとしてる。嫌な予感。
「よっしゃ、犬犬、先に乗っていいぞ」
ぐええ。やはり。先に乗る名誉を与えられたというより、実験台にされた形だ。冬のプール。もちろん掃除もしていないから藻が繁殖して水は緑色。落ちたらタダでは済まない。
「いやここは先生が」
「何を言ってるんや」
半ばむりやりカヌーに乗せられた。おっかなびっくりだ。なにしろカヌー自体、人生で数回しか乗ったことがないのだ。この緊張感。寒空の下で緑色の水にはまるのはつらすぎる。おまけにバレー部やテニス部の女子たちが見ているのに。

転覆しそうになるたびにわあわあ言っていたが、しばらく乗っているうちにコツをつかめてきた。乗るときが一番揺れるが、いったん落ち着いてしまえば安定するし、プールだから波もない。もうひっくりかえりそうになることはない。
集まっていた女子生徒たちは「なーんだ」という顔で練習に戻っていった。明らかにぼくが転覆して緑色の水にはまることを期待していたのだ。残念だったな!



数ヶ月後、遠足で京都の嵐山に行った。
遠足は昼過ぎに解散。
見ると、H先生がカヌーを持っている。
「先生、まさか……」
H先生はおもしろくもなさそうに言った。「これで帰るんや。おまえも乗るか?」
ぼくは即座に断った。学校のプールとはわけがちがう。

だがH先生は手作りカヌーで桂川を下り、五時間かけて無事に淀川までたどり着いたらしい。そしてカヌーをかついで阪急電車に乗って帰ったのだそうだ。

後からその話を聞いて、やっぱりやっておけばよかったなあと後悔した。
カヌーは一人乗りだったけど。


2018年12月4日火曜日

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』


『勝手にふるえてろ』

綿矢 りさ

内容(e-honより)
江藤良香、26歳。中学時代の同級生への片思い以外恋愛経験ナシ。おたく期が長かったせいで現実世界にうまく順応できないヨシカだったが、熱烈に愛してくる彼が出現!理想と現実のはざまで揺れ動くヨシカは時に悩み、時に暴走しながら現実の扉を開けてゆく。妄想力爆発のキュートな恋愛小説が待望の文庫化。

三ヶ月くらい前に映画『勝手にふるえてろ』のDVDを観た。
映画がおもしろかったので原作小説も手に取ってみたのだが、
「あれ、なんかこぢんまりしてる……」という印象。

映画を先に観たのがよくなかった。
映画のヨシカは突きぬけたキャラクターだったのだが、それに比べると小説のヨシカはずっとまとも。拍子抜けしてしまった。

映画版の主人公・ヨシカは、人とコミュニケーションがとれない、他人の気持ちを理解しようとしない、そのくせ行動力だけはある、ひたすらいかれた人間だった。傍から見ているにはおもしろいけどお近づきにはなりたくないタイプ。

小説版のヨシカはちゃんと他人の痛みが理解できるし(理解するのが遅いけど)、自分の行動を反省したりもする。
小説を先に読んでから映画を観たら、二度楽しめたかもしれないなあ。
 初めて付き合うのは好きな人って決めてた。自分に嘘をつきたくないし、逆に好きじゃなきゃ付き合えないし。いつか来留美が言ったみたいに私もまた自分自身を、いまどきめずらしいくらい純情で、純愛を貫いていると思っていた。初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった。でもいまニを前にして、その考えが純情どころかうす汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。どうして自分を好きになってくれた人には目もくれない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて。ただ勝手なだけだ。付き合ってみて、それでも好きになれないならしょうがない、でも相手の純情に応えて試してみても、いいじゃないか。自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない。ニは私とうまくいくと確信しているのだから。
なんかちゃんとしてるなー。ちゃんとしてない人が出てくる小説が読みたかったんだけどな。

この「自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心」ってのは、まさしく自分に思いあたる。
学生時代、すごく好きな女の子に対しては「これだけ好きなんだから付き合ってくれてもいいじゃない。イヤだったらすぐ別れてくれていいから。まずはぼくという人間を知ってよ」と思ってた。
じゃあ、自分が好きでない子のことを知ろうとしてたかというと、百パーセントのノーだ。好きでない子のことは少しも知ろうとしていなかった。

若いときに「自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない」という境地に達していれば、ずっと楽に生きられただろうなあ。



『仲良くしようか』という短篇も収録されているが、こっちはどんな内容かぜんぜんおぼえてない。二日前に読み終わったばかりなのに。そんな感じの短篇でした。

【関連記事】

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』



 その他の読書感想文はこちら


2018年12月3日月曜日

ヤンキー的教育方針


娘の保育園の友だちのお父さん。
いかにも昔はヤンチャしてたんだろうなーってタイプの人。言葉遣いもやや荒っぽい(言葉だけね)。

そのお父さんと話す機会があったのだが、なるほど、教育方針もヤンキー的だ。
息子に対しての発言が、

「女の子には優しくしたらなあかんで」 とか

「男やねんから、泣かんとがんばれ」 とか

「やられたらやりかえさなあかん」 とか。


ジェンダーフリーとかポリティカルコレクトネスとかマイノリティへの配慮なんてものは気にも留めない。

おおヤンキー的だと思ったのだけれど、よく考えたらちょっと前まではこれがごくごくふつうな子育て方針だったのだ。
いや今だってこういう方針の家庭はめずらしくないだろう。



ぼくが大学で少し教育学をかじったときは、ジェンダーの再生産だとかの話題が大人気だった。
そういう時代だったし、指導教官も女性だった。
「男は女の子を守ったらなあかん」なんて口が裂けても言ってはいけない雰囲気だった。

だから「男は強くなくちゃいけない」とか「女の子なんだからおしとやかに」なんてぜったいに口にしてはいけないと思っていたし、自分の子に対してもそういった発言はしないように気を付けていた。

娘が
「女同士は結婚できないねんで」
と言ったときは
「んー、でも女の人が好きな女の人もいるしね。今は結婚できないけど将来的には女同士でも結婚できるようになるかもしれないよ」
と説明してきたし、

娘が
「男やのにスカートはくなんてヘン!」
と言ったときは
「たしかにスカートをはくのは女の人が多いけど、男の人がはいちゃいけないっていう決まりはないんだし、他人の恰好を笑ったらだめだよ」
と教えてきた。

世の中にはいろんな趣味嗜好の人がいるから、それぞれに配慮しないといけない。主流派の考えを他人に押しつける人間になってはいけない。
と、ぼくなりに娘に伝えてきたつもりだ。
五歳の娘にそれが伝わっているかはわからないけど。



そんな配慮を一瞬で吹き飛ばすような、「男やねんから女の子には優しくしたらなあかんで」だ。

ううむ。
「男やねんから女の子には優しくしたらなあかんで」のほうが正解なのかもしれない。正しくはなくても、生きていく上ではこっちが正解。
「女同士で恋愛感情を持つのはおかしい」「男がスカートをはくなんてヘン!」も、道義的には正しくない。
でもこういう価値観を持っていたほうがずっと楽に生きられる(ぼく自身、そういう価値観を持っている。価値観と理解は同じではない)。

「男は女の子には優しくしたらなあかん」は性差別的かもしれない。
でも「男だから女に優しくする!」と信じている男のほうが
「いや、男だから、女だからって優しさに差をつけるのはおかしい!」という男よりもモテることもまた事実。


政治的正しさよりもヤンキー的マッチョな価値観を持っていたほうが世の中をうまく泳いでいけるんだろうな。
自分の子にどちらを教えるのが正解なのか、考えているがまだ答えは出ない。

2018年12月2日日曜日

ツイートまとめ 2018年10月


赤子

電話番号

部室

ムリ

メロス

歯ブラシブラシ

carp

親孝行

イケメン代表

目障り

復活