2020年9月30日水曜日

【読書感想文】ざまあみさらせ銀行 / 池井戸 潤『銀行総務特命』

銀行総務特命

池井戸 潤

内容(e-honより)
帝都銀行で唯一、不祥事担当の特命を受けている指宿修平。顧客名簿流出、幹部の裏金づくりからストーカー問題まで、醜聞隠蔽のため指宿が奔走する。だが、知りすぎた男は巨大組織のなかで孤立していく。部下になった女性行員、唐木怜が生き残りの鍵を握る―。腐敗する組織をリアルに描いた傑作ミステリー。

そもそもぼくは銀行に対していい印象を持っていない。

大学生のときのこと。

K銀行に行き、大家さんの口座に家賃を振り込んだ。
翌日、銀行から電話がかかってきた。
ぼくの振り込みが処理できなかったので返金をするから本日15時までに銀行に来てほしい、と。

後でわかったことだが、その数日前に大家さんが亡くなっており、遺族によって口座の凍結が申請されていたらしい。
だが口座の凍結処理に時間がかかり、「遺族による凍結の申請」から「口座の凍結処理」までの間に、たまたまぼくが振込をしたらしい。
そのときは振込が受理されたが、後からやはり受理できなくなった……という事情だった。

そのときはそんな事情も知らなかったので、わけもわからず急いで銀行に行った。もう少しで15時だったからだ。
だが窓口にいた行員たちには話が通っておらず、20分ほど待たされた挙句、「ご足労おかけいたしました」も「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」もないまま書類に記入させられた。

家に帰ってからふつふつと怒りが沸いてきた。

 こっちは正当な手続きを踏んで振込をして、ATMには「振込完了しました」と表示されたのに、なんで後から呼びつけられないといけないのか。
 口座凍結に時間がかかるのはしかたないにしても、それは銀行側の都合であって当方の責ではない。
 一方的に呼びつけるのではなく、本来ならそっちが出向くのがスジであろう。
 もちろん銀行業務を出張でやるのは現実的に不可能であろうから呼びだすのはしかたないにしても、有無を言わさず本日中に出頭せよと呼びつけておいて詫びも礼もないどころか長々と待たせるとは顧客に対してあまりに礼を失した態度なのではないか……。

という内容を手紙にしたためて支店長宛てに投函した(我ながらめんどくさい人間だ)。

すると数日のうちに支店長から電話がかかってきて、このたびはたいへんな無礼をはたらいて申し訳ない、お詫びにうかがわせてほしいと連絡があり、その日のうちにクッキーを持って詫びにやってきた。

鼻であしらうような対応をしておきながら手紙一通で態度を豹変するその「マニュアル通りのクレーム対応」にも腹が立った。
居丈高な態度をとるならとるで貫けよ、注意されて平身低頭するぐらいなら最初から丁重に接しろよ、とそのとってつけたような腰の低さがかえって不快だった。我ながら勝手だが。
おまけに詫びにやってきたときに一瞬見せた「なんだ一人暮らしの学生かよ。下手に出て損した」という顔にもむかついた(これはぼくの被害妄想かもしれないが)。


そんな個人的な銀行に対する嫌悪があるので、昨今の「銀行がうまくいっていない」ニュースを目にすると「そらみたことか」とおもう。

ぼくが就職活動をしていた十数年前はまだ銀行は人気の就職先だった。
銀行といえば安定。
当時銀行を志望していた人たちの中で、こんなに早く銀行がだめになると想像していた人はいなかったにちがいない。

少し前に中途採用の面接官をしていたとき、銀行脱出組の面接を何件かした。
みな口をそろえて「とことん体質が古い。このままじゃ生き残っていけないのに上のほうはまったく危機感を持っていない。社内の権力闘争に明け暮れていて自分の定年まで持たせることしか考えていない」とぼやいていた。

銀行を辞めた人たちのいうことだから一面だけの意見だが、真実に近いとおもう。
なぜならぼくがかつていた書店業界もそうだったから。
上のほうは「とにかく今のやりかたを変えたくない」「自分の定年退職までもてば後は野となれ山となれ」しか考えていないように見えた。
衰退する業界はどこもいっしょだ。
銀行なんか、つぶれそうになっても基本的には国に守ってもらえるんだから余計に危機感がなくなるだろう。

そんな体質だから若者は逃げる。
変革しようという志のあるものほど愛想を尽かして出ていく。
残るのは変えたくない人ばかり。

滅びるべくして滅びるのだ。
中にいる人にとっては気の毒だが、ちょっと痛快でもある。ごめんやで。




『銀行総務特命』の主人公は、銀行の総務部におかれた特命担当者。業務は行内の不祥事を取り調べること。
横領や社内ストーカー事件だけでなく、行員の家族がさらわれた誘拐事件や傷害事件にまで首をつっこむ。
フィクションなのでなんでもありだ。

フィクションだとはわかっている。
わかっているが……。

読んでいておもうのは、「くだらねえことやってんな」ってこと。
特命担当の指宿がいろんな事件の調査をするのだが、だいたいどの事件にも「行内の人間関係」が絡んでいる。
やれ出世競争だ、やれ派閥争いだ、やれ部のメンツだ。

くっだらねえなあ。
現実の銀行がどうかは知らないけど、著者の池井戸氏は元銀行マンなのであながちまったくの作り話でもないんじゃないかな。

基本的に
「事件が勃発」→「総務特命が調査に乗りだす」→「銀行内の敵対勢力の妨害を受けつつも真相を暴く」→「妨害をしていた敵対勢力こそが黒幕だった」
みたいなパターンがほとんど。

わかりやすい勧善懲悪ストーリーなんだけど、悪役はもちろん、主人公側にもあまり好感を持つことができない。
だって舞台となっている帝国銀行自体がクソ組織なんだもん。
登場人物みんなろくな仕事してない。顧客ほったらかしで社内政治に明け暮れてる。

そのクソ組織を一生懸命守ろうとしている主人公にも、まったく共感できない。
こんな銀行さっさと出ていけばいいのに。この銀行内の秩序を守ったところでなんかいいことあるの? って気になる。

だいたい銀行なんて……おっといかん、フィクションと現実をごっちゃにしてしまうとこだった。




勧善懲悪ストーリーでありながら個人的にはまったくすかっとできなかったのだけど、小説の技法はめちゃくちゃうまい。感心した。

真相が明らかになった後、スパンと終わる。唐突といってもいいほど。
長々と「実は〇〇でした。あれは××という意味があったのでした……」みたいな種明かしをしない。
これが実にスマート。
作者としては言いたくなるとおもうんだけどね。「実はあのときのあれがこういう意味だったんです! どや、気が付かなかったやろ?」って。

でもそれをしない。
若干説明不足なぐらい。
でも、だからこそ余韻が後を引く。勇気がある書き方だとおもう。

題材は好きになれなかったけど、ストーリーテリングのうまさには舌を巻いた。


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2020年9月29日火曜日

姉との二人暮らし

大学一回生(関西では大学一年生のことをこう呼ぶ)から三回生まで、姉と二人で暮らしていた。

一歳上の姉の通う大学と、ぼくの通うことになった大学が近かったので。


親にしてみれば別々に一人暮らしするよりも家賃や生活費も割安。

ぼくにとっても料理上手の姉といっしょに住むのはメリットがある。

姉にしても「若い女の子ひとりは危険だから」という理由でひとり暮らしをさせてもらえなかったのが、弟といっしょなら許してもらえる。

……と、三者それぞれの利害が一致して始まった姉弟の同居生活。


はじめは順調だった。

姉はごはんや弁当を作ってくれたし、それ以外の家事も当番を決めて分担することでうまくやっていた。

ときには姉とふたりで飲みに行くこともあり(当時は未成年の飲酒は半ば黙認状態だった)、それぞれの友だちから「仲のいい姉弟だね」と言われていた。


しかし。

ぼくたちは、徐々に仲が悪くなっていった。

同居していたらどうしても意見が衝突することがある。

他人同士なら譲れることでも、姉弟だから譲れない。

それに他人同士なら同居を解消するという選択肢もあるが、姉弟だとそういうわけにもいかない。

今後数十年にわたってつきあっていかなくてはならない相手なのだ。なおさら妥協したくない。

頻繁にぶつかるようになった。




まあ基本的にはぼくのほうが悪かった。

分担している家事をサボることもよくあったし、やってもいいかげんだった。

姉はしっかり者なのでよくぼくに注意をした。

「帰りが遅くなるときは連絡してよ」

「あんたの料理は手順が良くないからもっとこうしたほうがいい」

「ごはんのときはテレビを観るのはやめよう」

といった小言を言われるたびに、ぼくは「せっかく実家を出てのびのびできるとおもっていたのにどうしてそんな細かいこと言われなくちゃいけないんだ」と反発した。

また、姉は「理想のタイプはクッキングパパ」と公言するぐらい「男も料理をできなくちゃいけない」という主義の人だったので(本当に『クッキングパパ』の単行本を集めていた)、ぼくにも料理の腕前が上達することを求めていた。

ぼくは料理を嫌いではないが「量と栄養があれば味は二の次」「ファーストフードも好き」という人間なので、そのへんでもよく衝突した。


正面からぶつかるような喧嘩は数えるほどしかしなかったが、口も聞かない、同じ家に住んでいるのに顔も会わせようとしない日々が続いた(3LDKだったので姉がリビングにいるときは自室に閉じこもっていた)。

三年間暮らしたうちの最後の一年は、ほとんど口を聞かなかったんじゃないだろうか。




今ならわかる。

要は認識の違いだったのだ。

姉は「おかあさん」をやろうとしていたのに対し、ぼくは姉のことを「ルームメイト」だとおもっていた。

そのすれ違いは最後まで解消することがなかった。


姉が大学を卒業して、一年間だけひとり暮らしをした。

ものすごく快適だった。

好きなときに好きなものを食べて、好きなだけ部屋を汚くして、好きなときに好きな場所で寝た。

不衛生な部屋で暮らしたからか身体を壊したけど、置いていた服がカビだらけになったけど、それでも清潔なふたり暮らしよりずっと楽しかった。




そして距離を置いたことで、姉との関係も自然に修復した。

今は隣県に住んでいて年に数回顔を合わす。

子どもを連れて姉の家に遊びに行くこともあるし、実家に帰ったときは子育ての話などをしながら酒を酌み交わす。

あたりまえだけど、ぼくが姉を無視することもないし、姉がぼくの世話を焼くこともない(子育てをしているので弟のことなんてしったこっちゃないんだろう)。

お互い大人になったこともあるけど、距離を置いているのがいいんだろう。


ほどほどの距離って大事だなあ。

あの人とだってあの国とだって、距離が遠ければうまく付き合えるんだろうけど。


2020年9月28日月曜日

キングオブコント2020の感想


【ファーストステージ】


■滝音 (大食いファイター)

大食い選手権の最中にラーメン屋の店員が接客をしてくるので邪魔になる……というコント。

やりとりはおもしろく、ワードセンスが光った。たっぷり時間を使った導入から「大食い選手権なのよー」で笑いをとってからは、持続的に笑いが生じる丁々発止のやりとり。
シンプルなセットで会話のみで笑いをとる。好きなタイプのコントだ。

ただ、芝居としての完成度を求めると、いくつか粗が目立った。

まず食材がラーメンであること。
なんでラーメンにしたんだろう。
はじめにラーメンの丼が二つ置いてあり、さらにお代わりを要求することで、観ている側は「ん? これはふつうの客じゃないな」とおもってしまう。ふつうの人はラーメンを二杯も三杯も食べないのだから。
その違和感があるので「大食い選手権なのよー」の驚きが目減りする。「そうだったのか!」ではなく「ああそういうことね」になる。
寿司とか天ぷらみたいにいくつも食べるものにしたらよかったんじゃないかな。天ぷらを大食い選手権で食うかは知らんけど。

そもそも大食いの選手がべらべらしゃべるのがいただけない。時間との戦いをしてるのにラーメンほったらかしで店員としゃべってはいけない。おまけにしゃべる姿から焦りとか苦しさとかがまったく感じられない。
たとえば、時間切れになり、店員に対して「おまえのせいで負けたじゃないか」と詰問する……という設定であればすんなり観れたのだが。

また「金とんのかい」のオチは首をかしげた。
そりゃ店側は金をとるだろう。おかしいのは金をとることではなく、出場者から金をとること。言葉のチョイスとして「金とんのかい」は不適切では。

このコンビの漫才を二度ほど見たことがあったが、そっちのほうが素直に笑えた。
凝りすぎた言い回しはコントの中でやると浮いてしまうので、そもそもこのコンビはコントが向いていないんじゃないだろうか……。
あの独特の口調もコントの中では不純物になってしまうし。
この大会で名前を売って今後は漫才で評価されてほしい。滝音の漫才おもしろいし、キャラが浸透するにつれどんどんおもしろくなるタイプのコンビだから。


■GAG (心が入れ替わる)

中島美嘉と草野球のおじさんがぶつかったことで心が入れ替わり、さらにはフルートを練習している少女の心とも入れ替わってしまうコント(こう書くとすごい設定だな)。

昨年大会の「公務員の彼氏と女芸人の彼女」がものすごくよかったので(あれは笑いと悲哀がふんだんに描かれていて昨年大会でいちばん好きなコントだった。オチも完璧だったし)期待していたのだが、今作は期待外れだった。

漫画的なばかばかしさは嫌いじゃないが、こういう方向にいくんならもっともっとばかをやってほしかった。
入れ替わりが明らかになってからの展開は予想通りで、「中島美嘉と草野球のおじさんが入れ替わる」というインパクトが強烈すぎるので、その後にフルートと入れ替わる、フルートになったおじさんを吹くぐらいでは驚かない。
またテンポも遅かった。深く考えずにこのばかばかしさを笑ってよ、とするなら中盤以降はテンポアップしたほうがよかったんじゃなかったのかな。

フルートとの入れ替わりというビジュアル的にわかりやすい方向にいくのではなく、入れ替わった後の心境を掘りさげて描いたらもっともっとおもしろくなったような気もする。
昨年のネタを見るかぎり、それができるトリオだとおもうし。

せっかくGAGの「流れをぶったぎる力強いツッコミで笑いをとる」スタイルが浸透してきた中で違うパターンを持ってきたのはもったいなかったな。


■ロングコートダディ (バイトの先輩後輩)

A1、A2、B1、B2、C1、C2、D1、D2の段ボールの中から指定されたものを取り出すバイト。マッチョな先輩の行動が明らかに非効率で……。

まず個人的な思いを書くと、『座王』というテレビ番組でロングコートダディの堂前さんはそのセンスの良さを存分に見せつけている。たたずまいもセリフもすべてがおもしろい。
なのでものすごく期待して観たし、どうしても贔屓目に見てしまう。

その上で感想を書くと、すごくおもしろかった。
都会的な不条理ネタかとおもいきや、先輩の「頭が悪い」ところが徐々に明るみに出てくるところはわかりやすく笑える。それでいて「ほら、おれ、頭悪いからさ」「段ボールはじめてか」のような絶妙に噛みあわない会話。

また、先輩が悪い人じゃないのもいい。すごく頭悪いし非効率だけど、仕事に対してはまじめだし、後輩には優しく教えてあげるし、「それぞれ好きなやりかたでやればいい」と自分のやりかたを押しつけようとはしないし。
めちゃくちゃ非効率だけどいい人だし結果的に他の人と同じぐらいの仕事をこなしてるから誰も注意できないんだろうな……。
この奇妙なリアリティ、すごく好きだ。

個人的には大好き。大好きだけど……大会で勝てるネタじゃないよなあ。
単独ライブの一本目でやるような自己紹介的なコントだ。
じわじわとずっとおもしろいけど、爆発的な笑いが起きるネタじゃないし。「めちゃくちゃ重い」というオチも弱い。

最初の笑い所までにあれだけたっぷり尺を使ったのだから、その後はよほど大きな笑いが起きるだろうと期待してしまう。
かといって強いフレーズや衝撃の出来事を後半に持ってくればいいかというと……それはそれでこの空気感が壊れてしまうしなー。
個人的には堂前さんのおもしろさが全国区に伝わっただけで満足。


■空気階段 (霊媒師)

霊媒師におばあちゃんを降霊してもらおうとするが、近くのラジオ電波を拾ってしまう……。

内容と関係ないけど、空気階段を見るたびにどうやってコンビを組んだのだろうとおもってしまう。コントがなかったら一生交わることのなさそうなふたりだもんな。コント以外に共通の話題があるんだろうか。

コントの内容だが、序盤のストーリー展開はわりとベタ。降霊術で別の人にアクセスしてしまうという発想は目新しいものではないし、おばあちゃんが出てきたのにチャンネル(?)を切り替えちゃうとことかは予想できた。
それでも飽きさせずに見せたのは、やはり鈴木もぐらという人間の持つ魅力のせいか。
風貌や語り口調のおかげで何をやってもおもしろいんだよね。圧倒的な存在感。芸人やめても役者として一生食っていけるだろうな。

中盤以降は、霊媒師がラジオのヘビーリスナーであることがわかったり、破産寸前であることがラジオネームからわかったり、霊媒師ラジオを通して自分の声が聞こえてきたり、ストラップの伏線を回収したり、霊媒師の変な名前を時間がたってから処理したりと、話がどんどん転がっていってひきこまれた。
キャラクターとスピード感で気づきにくいけど、めちゃくちゃしっかりした脚本だなあ。
終わってみれば非常に完成度の高いコントだった。
さほど笑えはしなかったが、芝居としてはここまででいちばん好きなコントだった。


■ジャルジャル (競艇場での営業の練習)

競艇場で歌うことになった新人歌手。ヤジに慣れるため、事務所社長にヤジを飛ばしてもらいながら歌うのだが……。

基本的には、社長が過激なヤジを飛ばす → 真に受けた歌手が歌うのをやめる → 続けるように言われる のくりかえし。
同じセリフをくりかえすあたりなど、ジャルジャルらしいコント。
基本的にやっていることは同じで、展開もだいたい読めるのに、それでも飽きさせずに客を引きつけていたのはさすが。同じ台本でもジャルジャル以外の人が演じていたらこううまくはいかないだろう。

基本的に同じことのくりかえしなので序盤でつかまれたらどんどん引きこまれるのだろうが、残念ながらぼくはあまりは入りこめなかったので最後まで笑えないままだった。
ジャルジャルは好きなんだけど。
この設定に入りこめなかった理由について考えてみたんだが、福徳さんの声質のせいじゃないかな。
競艇場のおっさんの声じゃないんだよね。ちょっと怪しい事務所社長の声でもない。少年の声。声質がぜんぜんちがう。
たとえばこの役を滝音・さすけやさらば青春の光・森田のような汚いだみ声(ここでは褒め言葉ね)の持ち主がやってたらずっとおもしろくなったんじゃないだろうか。


■ザ・ギース (退職祝い)

退職するおじさんのためにハープを演奏するコント。

序盤にしんみりした芝居をするネタフリ、舞台の夢を追いかけていたという伏線など、構成のうまさはさすが。コント巧者という感じ。
うまいコントをしながら、ラストはハープを弾きながら紙切りをするというシュールな絵で、このばかばかしさがおもしろかった。

個人的には他の番組でハープを演奏しているのを観たことがあったので「楽器ってハープか!」という驚きはなかった。
また、GAGがフルート吹いた(ふりをした)後だったので、余計にハープの衝撃が小さくなってしまった。

ハープはたしかにうまいんだけど、「がんばって練習したんだね」という余興レベルのうまさで、うますぎて笑えるというほどの技術には達していなかったのが残念。
ハープをコントの中心に持ってくるなら、東京03のハーモニカやにゃんこスターのなわとびのようにプロ級でなきゃ。
切り絵もクオリティが高くなく、ハープを弾き終わるタイミングと切り絵を切り終わるタイミングがずれていることなど細かいところが気になった。
この設定なら、驚くほどうまくないとダメだよなあ。

あと細かいことだけど、序盤の「この新聞販売所を辞めちゃうんですか」という説明台詞は個人的に大きくマイナスポイントだった。現実にはぜったいに言わないセリフなので。
こういうところを大事にしてほしい。


■うるとらブギーズ (陶芸家の師弟)

気に入らない作品を割ってしまう陶芸家。だが出来のいい作品まで割ってしまい、それを弟子のせいにする……。

昨年二位だったコンビだが、昨年の「サッカー実況」ネタはなんであんなに評価されたのかわからなかった。演技力こそあったものの「サッカーの実況と解説が別の話で盛り上がって試合を見逃してしまう」というのは安易な設定だったので(というか現実の解説者にもそういう人いるし)。

このネタにも似た感想を抱いた。
うっかりいい壺まで割ってしまうというのは、「陶芸家の師弟の設定でコントをつくってください」と言われたらまず思いつくボケじゃないか?
もちろん、師匠のキャラがどんどん変化するとことか、師弟の関係性が徐々に変化していって最後には逆転してしまうとことかはうまいんだけど、入口が平凡だった分、それを発展させたところで驚きはなかったかな。

あと、国宝級の壺を割ってしまう姿を見ると、それがウソだとわかっててもちょっと胸が痛むんだよね。「あっ、もったいない!」という気持ちがチクリと胸を刺す。
その胸の痛さを跳ね飛ばせるほどの不条理さがなかったかな。

ちなみに小学一年生の娘はこのコントでいちばん笑っていた。
そうそう、ぜんぜん悪くないんだよね。一般投票だったら上位になっていたかもしれない。
ぼくは「さあ次はどんな新しいコントを見せてくれるんだ?」と思いながら観ていたので、肩透かしを食らってしまっただけで。カトちゃんケンちゃんがやっていてもおかしくないコントだもん。


■ニッポンの社長 (ケンタウロス)

下半身が馬の少年。クラスのみんなから疎外されるが、ある日牛の頭を持つミノタウロスタイプの女性と出会い……。

いやあ、笑った。今大会でいちばん笑った。
ただコントのストーリーはあまり関係なく、ケツのあの風貌で全力でイキって歌やラップを披露する姿がおもしろかっただけなんだけど。

個人的に、ありものの曲をネタの中心に持ってくるコントが好きじゃないんだよね。曲とのギャップがおもしろいんだけど、それは曲の力じゃんっておもっちゃって。

票は伸びなかったけど、初期キングオブコントの芸人審査方式だったら相当高得点になったんじゃないだろうか。
今大会いちばんインパクトを残せたコンビ。もう一本見たかったなあ。


■ニューヨーク (結婚式の余興)

結婚式の余興のために一生懸命ピアノを練習したという新郎友人。ピアノの技術があまりに高く、さらにはハーモニカやタップダンスなど次々に余興とはおもえないレベルの芸を披露しはじめ……。

バカバカしくて好きだった。出番順も良かったのかも。ニッポンの社長のシュールなコントの直後だったので、わかりやすく笑えたのがよかったのかも。
根底にずっと「結婚式の余興なんてしょうもないもの」という底意地の悪さがあって、そのへんもニューヨークらしくてよかった。
よく考えたらべつに笑うようなことじゃないもんね。芸が見事だったからって。
じっさいの結婚式で玄人はだしの芸を披露した人がいたら、拍手喝采になるだけで、誰も笑わない。
ニューヨークって、そういうところをつっつくのがうまいよね。フラッシュモブで踊ってる人とかさ。本人はいたって一生懸命で、周囲の人も「まあおめでたい席だから」と優しい気持ちで見守っているのに、わざわざ「それってほんまに拍手に値するか?」と意地悪な指摘をしてくる。
その底意地の悪さ、好きだ。

また「芸のレベルがすごい」だけでなく、ばかみたいな歩き方をはさんだり、中盤からは大岩やドリルといった視覚的なボケ+「すごいけど危険すぎてひく」という新たな方向、とただばかをやっているようで意外と巧みな構成になっていた。

審査員にもウケて高得点だったけど、数年後に思い返したときに記憶に残っているコントかというと、どうだろう……。


■ジャングルポケット (脅迫)

男たちに監禁され、企業秘密を渡せと脅されるサラリーマン。男たちはサラリーマンの娘の情報を握っていることを明かして脅すが、その情報が深くなりすぎていき……。

娘を使った脅しから、ご近所ゴシップの話になり、どんどん話がエスカレートしていく展開はジャングルポケットらしい。
忘れた頃に脅迫の話に戻ったり、フリップを使った関係図を登場させたりと飽きさせない仕掛けがたくさん。

にもかかわらずぼくはまったく入りこめなかった。
前にも書いたけど、ジャングルポケットは芝居が過剰すぎる。
熱演をするのはいいけど、三人が三人とも早い段階でヒートアップしていくと、観ているほうはついていけなくなる。せっかく三人いるんだから、一人は抑えた芝居をしてほしい。
静かなやつがいるからこそ熱さが際立つし、熱いからこそ冷めたやつが不気味に写る。

やっぱりトリオでやる以上、「三人いる意味」ってのが常に求められるとおもうんだよね。
でもこのコントに関しては、三人いる意味がなかった。太田・おたけの役回りがいっしょで、一人の台詞をただ二人で分担して言っていただけだった。
あの二人が「ボス/手下」「感情的/冷静」「冷徹/まぬけ」のように違った役どころであれば、ぐっとおもしろくなったんじゃないかな。
交互にしゃべるだけでなくドラマ仕立てで不倫関係を再現してみせるとか。

「体育会系 宇宙系 劇団系 」というキャッチコピーがついていたけど、「宇宙系」の部分がぜんぜん活きてなかったな。せっかくバラエティ番組でキャラクターが浸透してきてるのに、もったいない。

ところで「企業秘密を出せと脅す」という設定で、「は?」と首をかしげてしまった。
企業秘密を探るのに直接的に脅さないでしょ。秘密はこっそり盗むから価値があるんでしょ。反社との付き合いに厳しい時代にあんなやりかたしたら、どう考えても秘密を盗んだほうが損をするだけじゃん。
マフィアの攻防とかでよかったんじゃないかなあ。


【ファイナルステージ】


■空気階段 (定時制高校)

定時制高校で、後ろの席の男性に恋をしている女子生徒。授業中にこっそり手紙のやりとりをしてお互いの想いをさぐりあう……。

……というストーリーを書くとどこがコントなのだという気もするが、じっさいボケらしいボケもツッコミもなく、変なところといえばただ「おじさんが何を言っているか(観ている側には)わからない」という一点のみだ。
と書くと大したことのないコントにおもえるが、いやこれはよかった。今大会でひとつ選ぶとしたらぼくはこのコントを挙げたい。

「何を言っているのかわからない」というボケ自体はさほど強いものではないのだが(ニッポンの社長のコントでも用いられていた)、しかし「手紙の読み上げナレーションもやはりわからない」「まったく日本語の音をなしていないのになぜか女性には完璧に理解できる」という不条理な設定をつけくわえることで、かえって観ている側にも理解できるようになるのがふしぎだ。
おじさんの言動が変であればあるほど、女性の想いの強靭さが伝わってくる。
伝えようとするのではなく、観客に「理解しようとさせる」表現。これはすごい。

コントとしての笑いどころは前半で終わっていて、後半はもはや完全に恋愛ドラマ。
表情やしぐさや間の使い方が実にうまい。ふたりの恋の行方はどうなるんだろう、と世界に入りこんでしまった。コントなのに、笑いどころがない。笑いどころがないのに、いいコントを見たとおもわせる。ふしぎな作品だった。

番組では化粧に時間をかけたことをつっこまれていたが、これは女性のほうがきれいじゃないと成立しないネタだから化粧はぜったいに必要な時間だった。

惜しむらくは、男性の想いが明らかになるところで安易にわかりやすい曲(『出逢った頃のように 』)に頼ったところ。
せっかく緻密な芝居でここまで世界をつくりあげてきたのだから、演技だけで見せてほしかった。

あと、すっごく細かいところだけど、後ろのおじさんが持っていたのがシャーペン(ボールペン?)だったのが気になった。
あのおじさんが持つのは短くなった鉛筆だろ!


■ニューヨーク (ヤクザと帽子)

ヤクザの親分と子分。ずっと帽子をかぶっているわけを尋ねられた子分は「髪を切りすぎたから」だという。帽子をとってみろという親分に対し、子分は強情なまでにそれを拒否し……。

本人たちがヤクザ映画みたいな芝居をしたかったんだろうな~という感想。
ヤクザ映画を好きな感じが節々から感じられる。いったん笑顔を見せてから脅しつけるとことか。

「それほど変じゃないんですよ」とか「八方塞がりなんすよ」とか微妙な心理描写はおもしろかった。
ただ、空気階段の強烈かつ繊細な芝居を観た後だからか、どうも小ぢんまりした印象を受けた。
「ヤクザが切りすぎた前髪を気にする」ってのはたしかにギャップがあるんだけど、笑うほどの落差じゃないんだよなあ。ヤクザって伊達男が多いからじっさい切りすぎたら気にするだろうし。

「たかが帽子をとるとらないぐらいで命を賭ける」ってのもばかばかしいんだけど、帽子をとりたくない側の論理もそこそこ筋が通っているから「筋を通すためならそこまでやるのもわからんでもない」ってなっちゃうんだよなあ。
どっちの言い分もわかるから。

その流れで殺すオチを見せられても後味の悪さしかない。
「それなら殺すのもわかる」でもないし、かといって「そんなことで殺すわけあるかいw」というほど無茶でもない。
コントに死を持ちこむなら、「死なせるだけの重大な理由」か「くだらない理由で死んでしまう軽妙さ」のどっちかが必要だとおもうんだよね。


■ジャルジャル (泥棒)

ある会社に泥棒に入った二人組の泥棒。だがひとりがなぜかタンバリンを持ってきたせいで大あわて……。

ううむ。これまでにジャルジャルのコントを三十本は見たとおもうけど、これはいちばん笑えなかったかもしれない。

ドジなやつがまぬけな失敗をくりひろげるわかりやすいドタバタ劇。古い。まるでコント55号のよう(ちゃんとコント55号のネタ見たことないけど)。

これは、令和二年の今あえて昭和感丸出しの古くさいコントをやるというひねくれた笑いなのか……?

感想を書くにあたって、いいところと悪いところを両方書こうと決めて書いていたのだが……。
ううむ。このコントにはいいところが見つからなかった。
笑えないだけでなく、意図すら理解できなかった。
あえて挙げるとしたら、「おまえ置いて逃げるわけないやん」の台詞と、金庫からもタンバリンが出てきたとこかな。
とはいえそれらも唐突に出てきて、その後の展開に発展するわけでもなかったのが残念。



総評

個人的に三組選ぶなら、ニッポンの社長、ロングコートダディ、空気階段かな。

まあコントは好みが分かれるものだし、審査にケチをつけるつもりはない。
ニッポンの社長やロングコートダディの点が高くなかった理由もわかるし。

ただ、全体の傾向として、ここ数年わかりやすいものが評価されているようにおもう。
新奇なものよりも、深く考えずに笑えるもの。
かもめんたるとかシソンヌとか、最近の審査傾向だったら優勝できなかっただろうな。

まあコントなんて千差万別だから本来同じ土俵に並べて点数をつけるようなもんじゃないもんな。それをたった五人の審査員がやればどうしても客席の笑いの量で決めることになってしまうのはしかたないのかもしれない。

だから審査員を変えろとは言わないけど、ぼくとしては、以前みたいに全組が二本ずつネタをする制度に戻してほしい。
一本目で下位に沈んだ組が逆転優勝をすることはまずないだろうけど、そんなことはどうでもいい。こっちはただいろんなコントが見たいんだ!


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キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理

(2019年の感想は書いてません)

2020年9月25日金曜日

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』

子どもは「この場所」で襲われる

小宮 信夫

内容(e-honより)
暗い夜道は危ない―子どもにこう教えている親は多いが、これを鵜呑みにすると明るい道で油断してしまう。犯罪者は自分好みの子を探すために明るい場所を好むのだ。親の間違った防犯常識や油断によって、子どもが犯罪に巻き込まれる危険性は高まる。本書は、本当に知っておくべき「危険な場所」を見分ける方法をわかりやすく解説する。近所の公園、通学路、ショッピングセンター…子どもの行動範囲の中で、どこが危ないのかが一目瞭然になる。

娘が小学生になり、防犯を考えることが増えた。

今まではほぼずっと親がそばにいるか保育園に預けているかのどっちかだったので、娘が誰かに連れ去られるかもしれない……と心配することはほとんどなかった。

だが小学生になるとそうも言っていられなくなる。
平日は基本的に学校または学童保育にいるが、学童保育は「来た子は預かる」というスタンスなので仮に子どもが来なくても連絡してくれない。預かってくれる時間も保育園より短い。
習い事の日はひとりでピアノ教室まで行かなくてはならないこともある。
これから先は子どもだけで遊びに行く機会も増えるだろう。

いやがおうでも「子どもを狙った犯罪」に巻きこまれないよう心配することになる。

……ということで『子どもは「この場所」で襲われる』を読んでみた。
著者は海外で犯罪学を学び、警察庁や文科省でも指導する立場にあるという犯罪学者。




「知らない人についていっちゃだめ」「暗い道には気を付けて」と言いがちだが(ぼくも言っていた)、あまり効果はないそうだ。
それどころか逆効果になることもあるという。

 しかし、そもそも周囲に住居がない場所では、通りが明るくなっても人の目は届かず、逆に、街灯を設置することで犯罪者がターゲットを見定めやすくなってしまいます。
 シンシナティ大学で刑事司法を教えるジョン・エック教授は、「照明は、ある場所では効果があるが、ほかの場所では効果がなく、さらにほかの状況では逆効果を招く」と指摘しています。照明をつけるのが有効かどうかは、その場所の状況次第ということです。
 街灯の効果は、夜の景色を昼間の景色に近づけることです。それ以上でも、それ以下でもありません。つまり、街灯の防犯効果は、街灯によって戻った「昼間の景色」次第なのです。昼間安全な場所に街灯を設置すれば、夜間も安全になりますが、昼間危険な場所に街灯を設定しても、夜だけ安全になることはあり得ません。
「暗い道は危ない」と子どもに教えると、「明るい昼間は安全」「街灯がある道は安全」という二重の危険に子どもを追い込むことになります。子どもの事件は、夜間よりも昼間のほうが多く、街灯のない道より街灯のある道のほうが多いことを忘れないでください。

子どもが犯罪被害に遭うのは暗い道より明るい道のほうが多い、子どもを狙った性犯罪者はまず子どもと接触して顔見知りになることがある、といったのデータが紹介されている。

「知らない人に気をつけて」「暗い道に気を付けて」と言うことは「何度か話したことのある人なら大丈夫」「明るい道なら気を付けなくていい」というメッセージを伝えてしまうことになりかねない。

だから「怪しい人に注意」のような〝人〟に目を向ける防犯ではなく、〝場所〟に注目することが重要だと著者は説く。

危険な場所を見分ける力をつけさせることが重要だという。
子どもが被害に遭いやすい場所とは、「入りやすい」場所と「見えにくい」場所。
たとえばガードレールのない歩道は車で連れ去りやすいので「入りやすい」場所、高い塀にはさまれた道は「見えにくい」場所。

この本を読んで、ぼくも道を歩きながら意識するようになった。
娘の送り迎えをしながら
「ここは歩道がないので入りやすいな」
「この道は人通りもないので見えにくい場所だな」
と考えるようになった。




特に共感したのは、犯罪機会論という考え方。

 このように「人」ではなく、「場所」に注目するアプローチの方法を「犯罪機会論」と言います。犯罪を起こす機会(チャンス)をなくしていくことで犯罪を防ぐという考え方です。犯罪機会論では、犯罪の動機を抱えた人がいても犯罪の機会が目の前になければ、犯罪は実行されないと考えます。人は犯罪の機会を得てはじめて実行に移すと言い換えてもいいでしょう。
 これに対して、犯罪を行う「人(=犯罪者)」に注目するアプローチの方法を「犯罪原因論」と言います。人が罪を犯すのは、その人自身に原因があるという考え方です。犯罪者は動機があってこそ罪を犯すということです。
 日本ではこれまで、防犯については「犯罪原因論」で語られることが常でした。つまり、人が罪を犯すのは動機があってこそなのだから、それをなくすことが犯罪の撲滅につながるのだという考えです。
 もちろん、犯罪者には動機というものは存在します。動機というのは、銃でいうと弾丸のようなものです。動機という弾丸が込められているからこそ、犯罪が起こるのですが、一方で、引き金が引かれなければ弾丸は発射されません。弾丸が込められたところに、引き金として、犯罪を誘発する、あるいは助長するという意味での環境(機会)が重なり、この2つが揃ってはじめて犯罪が行われます。ただ、この弾丸は、程度の差こそあれ、誰でも持っているというのが私の考えです。

大いに納得できる。

部外者からすると、「人」のせいにするほうが楽なんだよね。

「機会」が原因だとすると、絶えず自分や家族や友人が犯罪者にならないかと気を付けなければならない。
自分を戒め、周囲の人を警戒しながら生きていくのはしんどい。
でも「人」のせいなら深く考えなくて済む。
あいつらは生まれもって犯罪者の素質があったんだ、自分とは違う人種だ、絶対に許せない、ああいうやつに近づいてはいけない。はい終わり。

でも、どんな状況におかれても犯罪者にならない人はいないとおもう。

ぼくが(今のところ)犯罪者として生きていないのは、運がよかったからだ。
「あのとき、あいつから誘われてたらたぶんあっちに行ってたな」というタイミングがいくつもある。
書けないけど、「あれがばれてたらヤバかったな」ってこともある。
今ぼくが刑務所にいないのはたまたまめぐり合わせがよかっただけだ。

逆に、犯罪に手を染めてしまった人も、タイミングがずれていたらまっとうな人生を歩んでいた可能性が高い。

教師が児童に対してわいせつ行為をしたニュースに対して、「教員免許を剥奪しろ」という人がいる。
感情的でよくない意見だ。
でも「現場復帰させない」こと自体は悪くない案だとおもう。
教員に対する罰のためではない。むしろ救済措置として。

児童に性犯罪をしてしまう教師って、たぶんほとんどは学校にいなかったらやってなかったとおもうんだよ。
そもそも子どもに欲情しなかったり、したとしてもエロコンテンツで満足してたんじゃないだろうか。
でも学校で働いていて、「子どもが眼の前にいて」「人目にふれずに手を出せる機会がある」からやっちゃったんじゃないだろうか。
もし彼らが子どもとふれあう機会がほとんどないぜんぜんべつの仕事をしていたら、やらずに済んでいたはず。

だから、ただ教員免許を剥奪して放りだすのではなく、教育委員会とかで子どもと直接関わらない仕事につくチャンスをあげたらいいんじゃないかな。
本人だって「欲情してしまう職場」よりもそうでない職場のほうが働きやすいだろうし(それでも「欲情してしまう職場」を選ぶやつは放りだしたらいい)。


わざわざ人の家に入って一万円を盗まない人でも、道端に一万円が落ちていて誰も見ていなければネコババしてしまうかもしれない。
その人は「窃盗癖がある」わけではなく、機会があったから罪を犯した。
なくせる犯罪機会は少しでもなくしておいたほうがいい。
(だからといって「痴漢されるのは、痴漢したくなるような恰好をしている女のほうが悪い!」というのは暴論だけどね)

ぼくは車の運転に自身がない。
何年か乗ったことで多少技術は向上したけど「いつか事故を起こして死ぬか殺すかするんじゃないだろうか」という不安は少しも消えなかった。
だから、仕事で車に乗らなくて済むようになったのを機に、運転をやめた。車も手放した。今後もたぶん車を買うことはないだろう。仕事も家も「車を運転しなくていいこと」を条件に選ぶ。
ぼくという「人」はなかなか変わらないので、人を轢いてしまう可能性のある「機会」のほうを変えたのだ。

「人」ではなく「機会」を改善するという考え方は、防犯以外でもいろいろ使えるかもしれないな。

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【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』



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2020年9月24日木曜日

カラス侵入禁止

 とあるマンションのごみ捨て場で見た貼り紙。


ナンセンスだ……。

いうまでもなく、カラスに文字が読めるわけがない。

カラスは頭がいいというが、それにしたってこれは伝わらない。
カタカナはともかく漢字は無理だろ……(カタカナもたぶん無理)。


これが「犬侵入禁止」ならまだわかる。

イヌが一匹で歩くことはあまりないから、飼い主に「ここに犬を入らせるなよ」と伝えられる。

だがカラスは基本的に野良だ。

この貼り紙はカラス本人に向けたものなのだ。


しかも、カラスにゴミを荒らされてかっとなり我を忘れて書きなぐった、というものではない。

パソコンでPowerPointを起動させて、テキスト欄を挿入して「カラス侵入禁止」と書き、中央に配置し、印刷設定で[印刷の向き]を[縦]に設定し、[部数]を[2]にして印刷し、出てきた紙が濡れたり破れたりしないように透明な袋に入れ、袋にパンチで穴を開け、穴に紐を通し、マンション管理組合の倉庫からカラーコーンとコーンバーを持ってきて、コーンバーに貼り紙を結わえつけてゴミ捨て場に設置する。

張り紙設置までにいくつもの工程がある。
その工程のどこかで「おかしい」とおもわなかったのだろうか。

ちゃんと文字は用紙の中央に印刷されているし、紐はほどくときのことを考えてちょうちょ結びにしている。
落ち着いた仕事だ。

冷静に、狂ったことをしている。

こういう人がいちばん怖い。




カラスに「ここに入るな」と伝えたいなら、「カラス侵入禁止」じゃだめだ。

たとえば、カラスが死んでいる絵を描くとか。


これがカラスに伝わるかはわからないが、少なくとも「カラス侵入禁止」の貼り紙よりはマシだろう。

あるいはカラスが怖がるものの絵を描くとか。
犬とか鷹とか。




百歩譲って、カラスが文字を読めて、その意味を十分に理解できるものとする。

だとしても、「カラス侵入禁止」では効果がないだろう。
これを書いた人はカラスの心理をわかっていない。

カラスに人間の法は通じない。

「カラス侵入禁止」と書いても、おとなしく従ってくれるとはおもえない。

むしろ「ここにはカラスの好きなものがあります」というメッセージを発信してしまうだけで、逆効果だ。


カラスにゴミを漁らせないような文章を書くとしたら、

「名物 焼きカラス販売中。おいしいよ!」

とかが効果的なんじゃないだろうか。
これなら文字の読めるかしこいカラスは近づかないだろう。

あるいは

「カラス様各位。いつもゴミ捨て場をきれいにお使いいただいてありがとうございます」

とか。


2020年9月23日水曜日

【読書感想文】調査報道が“マスゴミ”を救う / 清水 潔『騙されてたまるか』

騙されてたまるか

調査報道の裏側

清水 潔

内容(e-honより)
国家に、警察に、マスコミに、もうこれ以上騙されてたまるか―。桶川ストーカー殺人事件では、警察よりも先に犯人に辿り着き、足利事件では、冤罪と“真犯人”の可能性を示唆。調査報道で社会を大きく動かしてきた一匹狼の事件記者が、“真実”に迫るプロセスを初めて明かす。白熱の逃亡犯追跡、執念のハイジャック取材…凄絶な現場でつかんだ、“真偽”を見極める力とは?報道の原点を問う、記者人生の集大成。

清水潔さんの『殺人犯はそこにいる』 『桶川ストーカー殺人事件』 はどちらもめちゃくちゃすごい本だ。

どちらも、日本の事件ものノンフィクション・トップ10にはまちがいなく入るであろう。

すごすぎて「これは嘘なんじゃないか」とおもうぐらい。

だってにわかには信じられないもの。
『殺人犯はそこにいる』 では、警察が逮捕した連続殺人事件の容疑者が無罪であることを証明し、『桶川ストーカー殺人事件』では警察よりも早く犯人を捜しあてる。
しかも、週刊誌の記者が。

ミステリ小説だったら「リアリティがない。週刊誌の記者がそんなことできるはずがない」っておもうレベルだ。

でもそれを本当にやってのけたのが清水潔さん。
ぼくは『殺人犯はそこにいる』『桶川ストーカー殺人事件』 、そして清水さんと元裁判官の瀬木 比呂志の対談である『裁判所の正体』を読み、足元が揺らぐような感覚をおぼえた。


警察も裁判所も善良な市民の味方であるとはかぎらないのだと知った。

たまにはミスをしたり、ろくでもない警察官もいるかもしれない。
だが全体として見れば警察や裁判所は善良な市民の味方のはずだ。正しく生きていれば味方でいてくれるはずだ。
そうおもっていた。

だが、警察も裁判所も、善良な市民の味方をしないどころかときには敵になることもあるのだと知った。

それもミスや誤解のせいではなく。
保身のために、無実の市民の命や権利を奪うこともあるのだと。



『騙されてたまるか』では、先述の足利事件(冤罪を証明した事件)や桶川ストーカー事件をはじめ、在日外国人の犯罪や北朝鮮拉致問題を追った事件など、清水さんがこれまでにおこなってきた取材の経緯が紹介されている。

日本で殺人を犯しながらそのまま出国しブラジルに帰った犯人を追った取材。

「とぼけないでください。浜松のレストランでのことを聞きたいんです」
 男は、私に背を向けると沈黙のまま歩き出した。
「日本に戻って警察に出頭するつもりはないか」
 何を問いかけても、無視を決め込み足早に離れていく。
 すべてのシーンはカメラに記録された。奴の仲間のジーンズの尻ポケットには、小型拳銃の形が浮き上がっていたのを後になって気づいた。
 車に戻って男を追跡する。ベンタナは車の窓を開けて、大声で何やら問いかけるが、男は動じない。途中でタバコに火をつけて、やがて建物の扉の中に逃げ込んだ。通訳が焦ったように騒ぎ出した。「あそこは警察だ、早く逃げましょう」。なぜこちらが逃げなければならないのかと訝る私に通訳は、「ここは民主警察です。市民に雇われた警察官は、我々を逮捕拘束する可能性があります。早く空港に戻らないと検問が始まるかもしれない」と説明した。
 納得できないが、この国の警察からすれば、海外メディアの取材などより自国民の保護が優先されるのだろう。私は取材テープを抜くと靴の中に隠してその場を離れた。

相手は拳銃所持の殺人犯一味、こちらは丸腰。おまけに場所はブラジル、相手のテリトリー。

そこに乗りこんでいって「警察に出頭するつもりはないか」と問う。

なんておっそろしい状況だ。
これを書いている以上清水さんが無事だったことはわかっているのだが、それでも読んでいるだけで脂汗が出てくる。

事件記者ってここまでやるのか……。

すばらしいのは、うまくいった事件だけでなく、無駄骨を追った事件のことも書いていることだ。
入手した情報をもとに三億円事件の犯人を追ったもののあれこれ調べたらでまかせだとわかったとか、他殺としかおもえない事件を追ったら結果的に自殺だったとか……。

答えがわかっていない中で取材するんだから、当然ながらうまくいかないこともある。
というかうまくいかないことのほうが多いだろう。

それでも追いかける、追いかけてだめだとわかったら潔く手を引く。
なかなかできることじゃないよね。



「記者」と一口に言うけど、『騙されてたまるか』を読むと、記者にも二種類いることがわかる。

清水潔さんのような「調査報道」をする記者と、警察・検察や企業や官庁の発表をニュースにする「発表報道」をする記者と。

当然ながら発表報道のほうが圧倒的に楽だ。
多少の要約は入るにせよ、基本的に右から左に流すだけでいいのだから。

この「発表報道」が増えているらしい。

 確かに最近は、会見後の質問も何だか妙である。 「ここまでで何かご質問があれば、どうぞ」などと、発表者に問われると、 「すみません、さっきの○○の部分がよく聞き取れなかんですけど……」  内容についての芯を食った鋭い質問や矛盾の追及ではなく、ひたすらテキストの完成が優先されていくのだ。無理もない。話の内容を高速ブラインドタッチで「トリテキ」しながら、その内容を完全に理解、把握した上で、裏や矛盾について鋭い質問をするなど、どだい不可能な話であろう。少なくとも私には無理である。

「トリテキ」とは「テキストをとる」ことだそうだ。
要するに聞いた話を文字起こしする作業。

今なら自動でやってくれるツールがある(しかもけっこうな精度を誇る)。
はっきり言って記者がやらなくていい。

悪名高い「記者クラブ」では、機械がやってくれる仕事をせっせと記者がやっているのだ。(ところで記者クラブって当事者以外に「必要だ」って言ってる人がいないよね)


少し前にこんなことを書いた。

「発表報道」の重要性は今後どんどん下がってゆく。

にもかかわらず我々が目にするニュースは圧倒的に「発表報道」のほうが多い。
官邸の発表が「文書は廃棄した。だが我々は嘘はついていない。だけどこれ以上調査する気はない」みたいな誰が見てもウソとしかおもえないものでも、NHKなんかはそのまま流している。

テレビでの芸能人の発言をそのまま文字にしていっちょあがり、みたいな記事も多い(記事って呼べるのか?)。

新聞社などの報道機関が権力の監視役として民主主義の砦となるか、それともこのまま“マスゴミ”として朽ち果ててゆくのかは、この先どれだけ調査報道をするかにかかってるんだろうな。


【関連記事】

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』



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2020年9月21日月曜日

ツイートまとめ 2020年1月



図鑑

途方に暮れた

一人焼肉

子ども好き

望まない

サンタさん

過去の遺物

横綱の品格



兄貴

年齢不詳

伏せ字

死人に群がる

2020年9月18日金曜日

【読書感想文】我々は論理を欲しない / 香西 秀信『論より詭弁』

論より詭弁

反論理的思考のすすめ

香西 秀信

内容(e-honより)
著者は、論理的思考の研究と教育に、多少は関わってきた人間である。その著者が、なぜ論理的思考にこんな憎まれ口ばかりきくのかといえば、それが、論者間の人間関係を考慮の埒外において成立しているように見えるからである。あるいは(結局は同じことなのであるが)、対等の人間関係というものを前提として成り立っているように思えるからである。だが、われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手と人間関係は対等ではない。われわれは大抵の場合、偏った力関係の中で議論する。そうした議論においては、真空状態で純粋培養された論理的思考力は十分には機能しない。

ぼくは理屈っぽい。

特に小学生のときは口ばっかり達者な生意気なガキだった。
「弁護士になれば口が立つのを活かせるから弁護士になる!」とおもっていた。
弁護士にならなくてよかった。府知事と市長をやって無駄に敵をつくっちゃう迷惑な弁護士になるとこだった。ああよかった。


子どものころ、よく親や教師から「それはへりくつだ」と言われた。

じっさいへりくつのときもある。言いながら自分でも「これは重箱の隅をつついてるだけだな」とおもうときもあった。

だが、ほんとに「あなたの言うことは筋が通らないんじゃないですか」というつもりでおこなった指摘が、教師から「へりくつだ」と言われたこともある。
教師が議論から逃げるための口実にされたのだ。

理不尽なものを感じた。
「じゃあどこがおかしいんですか」と訊いても「おまえのはへりくつだから相手にしない」と言われた。
「おまえの言うことはへりくつだ」と一方的に断罪し、どこがどう論理的に誤っていることは一切説明しないのだ。

教室では教師のほうが圧倒的に強い。
その教師が児童に議論に負けるなんてあってはならない。だから分が悪いとおもったら「おまえのはへりくつだ」と言って終わりにする。
とるにたらない理屈だからへりくつだし、へりくつだから取り合わなくていい。無敵の循環論法だ。

ぼくは学んだ。
世の中では理屈よりも立場のほうが強い、と。



『論より詭弁』にも書いている。

 私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。このために、レトリックは、古来より非難、嫌悪、軽視、嘲笑の対象となってきた。が、レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。先ほど論理的思考力について、「弱者の当てにならない護身術」と揶揄したが、天に唾するとはこのことで、レトリックもまた弱者の武器にすぎない。強者はそれを必要としない。

そうなのだ。論理的に正しい考えができることは、世の中ではほとんど役に立たない。

社長が言っていることが論理的にむちゃくちゃでも、ほとんどの従業員は指摘できない。

権力は論理よりも法律よりも強い。じゃなきゃブラックな職場がこんなにはびこるはずがない。


『論より詭弁』では、様々な「論理的に正しいこと」を取り上げ、その論理的な正しさは無駄だと喝破する。

たとえば「人に訴える議論」。
歩きタバコをしている人から「歩きタバコをしたらダメじゃないか」と注意されたとする。
たいていの人は「おまえだってしてんじゃねえか」と言うだろう。
論理学の世界では、これは詭弁だとされる。
「おまえが歩きタバコをしている」ことと、「おれが歩きタバコをしてもいいかどうか」には何の関係もないからだ。

これに対して、著者はこう語る。

 私が、「てめえだって、煙草を咥えて歩いているじゃないか」と言い返したとしたら、それはきわめて非論理的な振る舞いということになる(「お前も同じ」型の詭弁である)。私が咥え煙草で歩いていたという事実およびそれが悪であるという評価は、その男もまた咥え煙草で歩いていたかどうかとは「関係なく」成り立つ。相手もまた咥え煙草で歩いていたという事実は、私が咥え煙草で道を歩いていた事実を帳消しにはしない。したがって、私に期待される論理的行動は、恥じ入って慌てて煙草を消し、それを携帯用の灰皿に収めることだ。そうしてこそ、初めてこちらも、その男に対して、「あなたも、咥え煙草で道を歩いてはいけません」と注意し返すことができるのである。
 いかにももっともらしい説明だが、惜しむらくは、誰もこの忠告に従って論理的に振る舞おうとはしないであろうことだ。おそらく、よほどの変わり者を除いたほとんどの人が、先の私のように「それじゃあ、あんたはなぜ煙草を咥えて歩いているんだ?」「あんたにそんなことを言う資格があるのか」と言い返すだろう。それでこそ、まともな人間の言動というものだ。
 だが、こうした言動は、論理的に考えると、発話内容の是非と発話行為の適・不適とを混同しているということになる。「咥え煙草で道を歩いてはいけません」という発話内容の問題を、咥え煙草で道を歩いている人間にそんな発話をなす資格があるかという発話行為の問題にすり替えているというのだ。「人に訴える議論」(特に「お前も同じ」型)が、虚偽論で、ignoratio elenchi(イグノーラーツィオー・エーレンキ、ラテン語で「論点の無視、すり替え」)という項目に分類されてきたのもそのゆえである。
 しかし、開き直るようだが、論点をすり替えてなぜいけないのか。そもそも、「論点のすり替え」などというネガティヴな言葉を使うから話がおかしくなるので、「論点の変更」あるいは「論点の移行」とでも言っておけば何の問題もない。要するに、発話内容という論点が、発話行為という論点に変更されただけの話である。

そう、じっさいには我々は論理の正しさに従って動かない。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」で動く。

立場を無視して論理的な正しさを考えるのは「空気抵抗も摩擦もない世界での物理学」みたいなもので、考えるのが無意味とまではいわないが、その物理学で設計した飛行機は空を飛ばない。



そもそも詭弁と正しい論調は、明確に分けられるものではないと筆者は言う。

 だが、事実と意見を区別することは、実はそれほど簡単なことではない。例えば、次の二つの文章を見てみよう。

 a Kは大学教授だ。
 b Kは優秀な大学教授だ。

 事実と意見を区別せよと主張する人は、おそらくaが事実で、bが意見だと言うのだろう。確かに、「K」が「大学教授」かどうかは、事実として検証可能である。これは、「K」が「優秀」かどうかのように、個人の主観で判断が分かれるものとは明らかに違うもののような気がする。が、ここで疑問なのは、「Kは大学教授だ」が事実であるとしても、それを発言する人は、なぜそんなことをわざわざ言おうとしたのかということだ。
 つまり、事実と意見の区別を主張する人は、ある話題の表現がどのように選択されているかばかりを見ていて、そもそもその話題の選択がなぜなされたのかについてはまるで考えていない。例えば、Kが結婚適齢期にある、独身の大学教員だとしよう。ある人がKについて、「Kは次男だ」と発言した。もちろん、Kが次男であるかどうかは、事実として明確に検証可能である。だが、「次男」という事実を話題として選択し、聞き手に伝えようとするその行為において、「Kは次男だ」は十分に意見としての性格をもっている。

そう、「おれは事実を述べただけだよ。何が問題なの?」という人がいるが、たいてい問題になるのは「事実」だ。

「彼は逮捕されたことがある」「彼は離婚したらしいよ。元奥さんは彼に暴力を振るわれたと言っている」というのが事実であっても、それを聞けばたいていの人は「彼」の信頼性を大きく落とすだろう。
仮に彼の逮捕が冤罪だったり、彼の元妻が嘘をついていたとしても。



結局、自分に都合のいい意見は「巧みな論理」で、反対派の意見は「詭弁」になってしまうんだよね。

 こうしたやり方は、もちろん論理的には邪道で、ルール違反と言われても仕方がない。しかし、論理的であろうとすることが、しばしば正直者が馬鹿を見る結果になる。相手の意図などわからないのだからと、定義の要求に馬鹿正直に応じ、その結果散々に論破されて立ち往生する。いつでも論理的に振る舞おうとするから、論理を悪用する口先だけの人間をのさばらせてしまうのだ。われわれが論理的であるのは、論理的でないことがわれわれにとって不利になるときだけでいい。

なんだかずいぶん身も蓋もない意見だけど、論理的に正しく生きていてもあんまり得しないってのは事実だよね。

その真実にもっと早く気づいていれば、もっと楽に生きていけたんだけどなあ。


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ジジイは変わる



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2020年9月17日木曜日

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』

子どもの貧困

日本の不公平を考える

阿部 彩 

内容(e-honより)
健康、学力、そして将来…。大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。OECD諸国の中で第二位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。

「日本は一億総中流の国」だとおもっているなら、その認識は三十年以上前のものだから早く捨てたほうがいい。

日本は格差社会だ。
他の先進国と比べて、圧倒的に格差が大きい。

子どもも例外ではない。
貧困世帯を、全世帯の中央値未満の所得の世帯と定義した場合、日本の子どもの七人に一人は貧困世帯にいるそうだ。

『子どもの貧困』は2008年の刊行なのでデータはやや古いが、残念ながらその後も貧困率は改善していない。
むしろ日本全体が没落するにともなって格差はますます大きくなっている。

今は貧しくたって、将来のために金を使っていたらまだ希望がある。
だが日本政府は子どもに使う金をまっさきに削っている。

これじゃ没落するのもあたりまえ。おまけに希望もない。泣ける。



誰だって貧しいのはいやだが、特に子どもの貧困の問題は公的な支援を必要とするところだ。

なぜなら子どもの貧困はほぼ百パーセント本人の責任ではないし、貧困家庭に生まれ育った子どもが将来も貧困にあえぐ可能性は高い。

一発逆転、立身出世は、不可能ではないがたいへんむずかしい。

貧しくてもがんばればなんとかなる、という人もいるかもしれないが
「将来の成功のために目先の欲求をはねのけて努力する」
というのもまた、裕福な家庭のほうが育まれやすい能力なのだ。


親の学歴や職業など、生まれながらの「不利」を背負った子は、やはり「不利」な学歴や職業に就くことが多い。

いわば「不利」の再生産。
この傾向は近年ますます強くなっている。
 このような結果は、学歴だけではなく、職業階層の継承においても報告されている。佐藤俊樹東京大学准教授は、特に社会の上層の職業階層においては、親子間の継承の度合いが、「大正世代」「戦中派」「昭和ヒトケタ世代」と落ちていくが、その後の「団塊の世代」で反転して上昇していると分析する(佐藤2000)。学歴でみても、職業階層でみても、世代間継承は常に存在し、いったんはその関連性は弱まってきていたものの、また、近年、強くなってきているのである。

「生まれは関係なく本人の努力次第でなんとかなる」傾向にあったのははるか昔の話で、団塊の世代以降は「どの家に生まれるか」が本人の成功を大きく左右することになっている。

「不利」が再生産されるのにはいろんな要因がある。
遺伝、親の指導力不足、住居環境が悪い、健康状態が悪い、ストレスが大きい、地域の環境、付き合う友だちの問題……。

だが、その中でも最大の要因は単に「金がない」ことにありそうだ。

つまり、同じ地域において、たくさんの被験者を募り、その中から無作為に半数を選ぶ。そして、その対象グループには毎月〇〇ドルといった所得保障を行い、残りの半数のコントロール・グループには何も行わない。そして、数か月から数年後に二つのグループの子どもたちの成績、学歴達成などがどのように変化したかを見るのである。もし、対象グループの子どもたちだけが、成績が上がり、コントロール・グループでは上がらなければ、所得のみの影響、つまり所得効果が存在するということになる。
 このような手法を使った研究のほぼ一致した結果は、所得効果は存在するということである。たとえば、クラーク-カフマンらは、0歳から一五歳までの子どもを対象とした一四の実験プログラムの対象グループとコントロール・グループを比較している(Clark-Kauffman et al.2003)。プログラムは、単純な現金給付のものから、現金給付に加えて(親の)就労支援プログラムを行うもの、就労支援プログラムのみが提供されるものなど、さまざまである。その結果、潤沢な現金給付のプログラムであれば〇~五歳児の成長(プログラムに参加してから二年から五年の間に測定される学力テストや教師による評価)にプラスの影響を与えるものの、現金給付がないプログラム(サービスのみのプログラム)や現金給付が充分な額でないプログラムでは影響が見られなかったと報告している。つまり、所得の上昇だけによって、子どもの学力は向上したのである。

金さえ出せばある程度解決する。だったら出せばいい。

子どもに一時的な金を出すことで彼らが生涯にわたって貧困から抜けだせるのであれば、国全体の所得も増える。

海老で鯛を釣るようなものだ。ぜったいにやったほうがいい。
じっさい、多くの国ではやっている。

だが日本ではやらない。
未来の日本を支える子どもよりも老人に金をまわすほうを選ぶから。

 まず最初に、家族政策の総額の規模から見ていこう。国立社会保障・人口問題研究所によると、日本の「家族関連の社会支出」は、GDP(国内総生産)の〇・七五%であり、スウェーデン三・五四%、フランス三・〇二%、イギリス二・九三%などに比べると非常に少ない。ちなみに、ここで「家族関連の社会支出」として計上されているのは、児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当(障がい児に月五万円ほどの給付がなされる制度)、健康保険などからの出産育児一時金、雇用保険からの育児休業給付、それに、保育所などの就学前保育制度、児童養護施設などの児童福祉サービスである(保育所については、二〇〇〇年より地方自治体の一般財源とされたため含まれない)。
 第7章にて詳しく説明するように、アメリカ、イギリスなど多くの国は、社会支出としてではなく、税制の一環として、給付を伴う優遇税制措置をとっているが、これらはこの統計には含まれていない。図3-1の中では、アメリカが唯一日本より比率が小さい国であるが、そのアメリカでさえも、税制からの給付を加えると、日本より高い比率の公費を「家族政策」に注ぎ込んでいると考えられる。
 次に、教育にかける支出についても国際比較してみよう。日本の教育への公的支出は、GDPの三・四%であり、ここでも日本は他の先進諸国に比べ少ない。スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国はGDPの五~七%を教育につぎ込んでおり、アメリカでさえも四・五%である。教育の部門別に見ても、日本は初等・中等教育でも最低の二・六%であり、高等教育においても〇・五%と、最低のレベルである。家族関連の支出と同様に、子どもの割合などを勘案して計算し直すと、この差は縮まるが、それでも日本は他の先進諸国に比べて少ない。

日本政府が子どもにかける金は、他の国に比べて圧倒的に少ない。

ちなみにこれは高齢者の比率が高いから、というわけでもない。
日本と同程度の高齢化率国でも、もっと多くの金を教育に投じている。

「米百俵」なんて言葉が力を持っていたのもはるか昔。

経済的に衰えただけでなく、品性まで貧しい国になってしまったのだ。悲しい。



まあ「日本政府は子どものいる貧困世帯を見捨てている」ぐらいならまだマシだよ(ぜんぜんよくないけど)。

現実はもっとひどい。

 図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。

わかります?

日本だけ、税金や社会保険を徴収・分配した後のほうが、子どもの貧困率が高くなっているのだ。

つまり、日本政府は子どものいる貧困家庭からむしりとって、そうでない世帯にお金を移しているのだ。

なんとグロテスクなグラフだ。
おっそろしい。

基本的に政府に対して不信感を持っているぼくでも、まさかここまで悪辣なことをやっているとはおもっていなかった。

なぜこんなことが起こるのかというと、

  • 所得税は高所得者のほうが多くとられるが、社会保険は逆累進的でむしろ低所得者のほうが所得に対して大きな割合でとられる
  • 社会保険を負担するのは現役世代で恩恵を受けるのは引退世代だが、子育て世帯はたいてい現役世帯なので取られるほうが大きい
  • 低所得者でも関係なくむしりとる消費税の負担が大きくなっている

ことなどが原因だ。

老人のために金を使い、そのために子どもに使うべき金をめいっぱい削っている。
絶望感しかないな。


日本政府の対応は、「貧困家庭、母子家庭はもっと働け」というスタンスだ。
就労支援をして所得を増やす……という方法もわからんでもないが、正直いって現実的でない。子育てをしたことない人間が政策をつくっているのだろうか。

うちには今七歳と一歳の子がいる。
子育て世代どまんなかだ。

子どもはしょっちゅう熱を出す。いろんな病気をもらってくる。ぐずる。目が離せない。じっとしてない。夜中も起きる。朝は起きない。

はっきりいって、仕事をしながら子育てをするのは超たいへんだ。
それでもうちは夫婦ともに残業がほぼなくてそこそこ休みをとれる職場だし、土日祝は休みだし、夜勤もないし、なにかあれば祖父母も来れないこともない距離だし、頼れる友人や親戚もいるので、まあまあなんとかなっている。
幸いにして子どもはふたりとも頑健なほうだし。

それでも「ギリギリなんとかなってる」って感じだ。
休みが少なかったり夜勤があったり頼れる親戚がいなかったり子どもが病気がちだったりしたら、あっという間にゆきづまってしまう。

だから「仕事を用意してやるからもっと働け」と言われてもムリだ。
残業がなくて急な休みを好きなだけとれて給料のいい仕事を用意してくれるならべつだが。


貧困にあえぐ子育て世帯に必要なのは就労支援ではなく、現金給付だ。

そして働ける高齢者に必要なのは仕事。
生きていくためには、金だけでなく「誰かの役に立ちたい」という欲求も満たす必要があるのだから(子育てをしていれば後者はいやというほど満たされる)。

でも今の政策は逆をやっている。
母子家庭は就労支援、高齢者は現金給付。

もちろん高齢者といってもひとくくりにはできないが、働きたい高齢者には金ではなく仕事を、貧困子育て世帯にはまず金を。

高齢者に金を使うなとは言わないが、優先順位がおかしいんだよね。
子どもは最優先だろう。
人道的な理由だけでなく、「それが長期的にはいちばん安くつく」から。
子どもに金を出せば、七十年後に「貧しい高齢者」が減ることになるのだから。



日本政府が子どものために金を使わないのは、政府だけの問題ではない。

「すべての子どもが最低限享受すべきとおもうのは何ですか?」と尋ねて「新品の靴」とか「誕生日を祝ってもらえること」とかの中からチェックしてもらうという意識調査をおこなったところ、日本人は他の国よりも「なくてもしかたない」と答える人が多かったという。

たとえば「少なくとも一足のお古でない靴」を「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべき」と答えたのは40.2%、「自転車(小学生以上)」は20.9%だ。

多くの日本人は「親が貧しければ子どもが不便を強いられるのはしかたない。周りの子どもがみんな持っているものをひとりだけ与えられなくても我慢しろ」と考えているのだ。

日本人は貧乏人に厳しい。

その理由を、筆者はこう分析する。

 筆者は、日本の人々がイギリスの人々に比べて子どもを大事にしていないわけはないと思う。しかし、このような結果が出るのは、日本人の心理の根底に、数々の「神話」があるからではないだろうか。「総中流神話」「機会の平等神話」、そして「貧しくても幸せな家庭神話」。
「総中流神話」は、たとえ子どもの現在の生活が多少充足されていなくても、他の子どもたちも似たり寄ったりであろうという錯覚を起こさせる。「機会の平等神話」は、どんな家庭状況の子でも、がんばってちゃんと勉強していれば、たとえ、公立の学校だけでも、将来的な教育の達成度や職業的な成功を得る機会は同じように与えられていると信じさせる。「貧しくても幸せな家庭神話」は、物的に恵まれなくても子どもは幸せに育つと説得する。
 もちろん、そうであるべきであるし、そうであると信じたい。しかし、第1章でみてきたように、実際には、子ども期の生活の充足と、学力、健康、成長、生活の質、そして将来のさまざまな達成(学歴、就労、所得、結婚など)には密接な関係がある。その関係について、日本人の多くは、鈍感なのではないだろうか。これが、「子どもの貧困」が長い間社会的問題とされず、国の対応も迫られてこなかった理由なのではないだろうか。

筆者が「神話」と呼んでいるように、これらは全部ウソだ。

データを見れば明らかだ。
日本は圧倒的に格差が大きい社会。
生まれた家の経済状況が成功を大きく左右するので本人の努力での逆転は困難。
貧しいことはさまざまな問題を引き起こす上に、一生ついてまわる。

残念ながらこれが日本の現実だ。


子どもの貧困を減らすために政治や行政が手を打つことも大事だけど、まずは我々が
「日本には貧しい子が多いし、貧しい子のために金を使う気はない国だ」
という現実を直視することが大事なのかもしれない。


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2020年9月16日水曜日

【読書感想文】土はひとつじゃない / 石川 拓治・木村 秋則『土の学校』

土の学校

石川 拓治(文)  木村 秋則(語り)

内容(e-honより)
土は何から作られているか、良い土と悪い土をどう見分けるか、植物の成長に肥料は必要か。…絶対不可能といわれたリンゴの無農薬栽培に成功した著者が10年あまりにわたってリンゴの木を、畑の草を、虫を、空を、土を見つめ続けてわかった自然の摂理を易しく解説。人間には想像もつかないたくさんの不思議なことが起きている土の中の秘密とは。

『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』と内容はあまり変わらないが、こっちのほうがより実践に即したアドバイスが多い。

物語としてのおもしろさなら『奇跡のリンゴ』、実践に役立てるなら『土の学校』かな。

まあ農家でもなければ家庭菜園すらやっていないぼくにはまったく実用的でない内容だけど……。

でもやっぱり木村秋則さんの話はおもしろい。
ぼくは農業の本というより思想の本として読んでいる。



木村秋則さんという人を知らない人のために説明すると……。

無農薬でのリンゴの栽培に成功した農家。

というと「ふーん」ってな感じだとおもうが、これはめちゃくちゃすごいことらしい。
無農薬の野菜は世の中にいろいろあるけど、「リンゴは肥料なしでは育たない」というのは農業界の常識だったそうだ。
というのも今我々が食べているリンゴというのは品種改良によって生みだされたもので、農薬や肥料を使うことを前提につくられたものだからだ。

そんなリンゴを無農薬・無肥料で育てるのは、チワワをジャングルで放し飼いで育てるようなものかもしれない。

木村さんは特に根拠があるわけでもなく全身全霊をかけていリンゴの無農薬栽培に挑戦したがうまくいかず、十年近く収入のない日々を送る。
ついに自殺しようと山に足を踏み入れたとき、そこに生えていたリンゴの樹にヒントを得てとうとう無農薬栽培に成功する……。

というウソみたいな経歴の持ち主(ぼくは自殺未遂エピソードについては眉に唾をつけているが)。

とにかく『奇跡のリンゴ』はめちゃくちゃおもしろい本なので、農業に関係ない人もぜひ読んでほしい。



この木村さん、とんでもない行動力の持ち主で無農薬栽培成功までに数多くの試行錯誤をくりかえしているので、経験、実地重視の人かとおもいきや、それだけではない。

 このときの経験から、私の自然栽培では畑に大豆を植えるようにしています。植物の必要とする窒素分を補給するためです。窒素そのものは空気中に含まれていますが、普通の植物はそのままの形では利用することができません。大豆の根に共生する根粒菌は、その大気中の窒素を植物の利用しやすい化合物に変えることができます。この働きを利用して、土壌に植物の使える窒素分を供給するわけです。
 ただし大豆を植えるのは、慣行農法から自然栽培に移行したばかりの最初の何年間かだけです。
 私の場合は最初の5年間だけ大豆を播きました。5年目に播いた大豆の根っ子を見ると、根粒菌の粒がほとんどついていなかったからです。窒素がもう土中に行き渡ったサインだと解釈して、それ以降は大豆を播くのをやめました。

行動力もすごいが、理論もしっかり持っている。

生物や化学の知識をちゃんと持っていて、確かな知識の裏付けのもとに試行錯誤をしている。

理論だけでもだめ、実践だけでもだめ。
木村さんは両方をとことんやる人だったから、一見無謀な挑戦がうまくいったんだろうな。



ぼくなんか本で読んだだけでわかったような気になってしまう人間だから、木村さんの指摘にはっとさせられる。

 土とひとくちに言っても、その場所によって極端に言えばまったくの別物なわけです。基本的にその違いを考えないのが、現代の科学であり、農業だと思います。
 土と言った瞬間に、それはみんな同じという前提になってしまう。ここの土はどんな性質があって、どんな微生物が多いとか考えずに、種を播くわけです。
 それでもやってこられたのは、化学肥料と農薬があったからです。
 水はけの悪い場所には、湿気を好む雑草が生える。そこに棲んでいる土中細菌は、乾いた場所の土中細菌とはまた違っているはずです。
 そんな場所に、たとえば乾燥を好む野菜を植えたら、生育が悪いのは当たり前だし、病気にもかかりやすくなる。それで農薬や肥料を使わざるを得なくなるのです。
 土の個性をよく見極めて、その土地にあった作物を植えれば、少なくとも農薬や肥料の使用量を今よりも減らせることは間違いない。農薬や肥料の使用量を減らせば、環境への負荷も低くできるし、何よりも支出を減らせます。
 土の性格は、その場所によってみんな違う。
 違いを見極めることが、賢い農業の出発だと思います。
 もっともそんなことは、昔の百姓なら当たり前のことでした。どこにどんな作物を植えるかで、収穫が大きく違ってしまうのですから。
 農薬や化学肥料が広まってからは、そんなことを考える必要がなくなった。百姓と土との長年にわたるつきあいに、ひびを入れたのが農薬や化学肥料ではないのかなと思うのです。

理科の教科書で「植物が育つのに必要なのは水・土・光・肥料(ミネラル)」と習ってそれをそのままおぼえているけど、たしかに「土」といっても千差万別。
とても「土があれば大丈夫」と単純に言えるはずがない。

人間が生きるには炭水化物やたんぱく質やビタミンが必要だけど、それさえ満たしていればどんな食べ物でも生きていけるかと言われると、もちろんそんなことはない。

バランスよくいろいろ食べることが必要だし、体調や気候によっても必要なものは変わる。
「いついかなるときでもこれさえ食べておけば元気でいられる、すべての人にあてはまる万能食品」
は存在しない。

そう考えれば「水・土・光・肥料(ミネラル)があれば植物は育つ」なんて大間違いだとわかるんだけどさ。

水や土は必要条件であって、十分条件ではないんだよな。



木村さんからのクイズ。

 たとえその虫が、成虫も幼虫もリンゴの葉や実を食べる、どこをどう突っついても悪者の、正真正銘の害虫だったとしても、リンゴの木にとってためになることを最低ひとつはやってくれています。
 何だかわかりますか?

答えは本書にて。


【関連記事】

ニュートンやダーウィンと並べてもいい人/『奇跡のリンゴ 「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録』【読書感想】

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』



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2020年9月15日火曜日

ころがスイッチ


ころがスイッチ ドラえもん ワープキット


小学一年生の娘が楽しみにしていたイベントが新型コロナウイルスで中止になり、目に見えて気落ちしていた。 

なにか家で遊べるおもちゃでも買ってあげるよとおもちゃ屋に連れていった。

で、娘が選んだのがこれ。

いいチョイス! ぼくもこういうの大好きだ!
子どもの頃、レゴとか積み木でこういうの作ってたし。
子どもの頃っていうか中学生になってもやってたし。

店頭価格で5,000円近く。
誕生日とかクリスマス以外では絶対に買ってあげない金額のおもちゃだけど、ぼくも欲しかったので「えーどうしても欲しいの? じゃあしょうがないなあ」とニヤニヤしながら迷わず購入。




期待を裏切らない出来だった。

ボールを転がして、ピタゴラ装置のようなものを作るおもちゃ。
直線レール、坂道、カーブはもちろん、

 下のドアから入ったボールが上のドアから出てくる(ように見える)「どこでもドア」

 ボールの動きが遅くなる「モグラ手ぶくろ」

 ボールが不規則な動きをする「タイムトンネル」

など、おもしろいギミックがたくさん。

(ただし「タケコプター」はボールが通過するとプロペラが回るだけなのでぜんぜんおもしろくない)

中でもぼくがいちばん気に入ったのは「エスパー帽子」。

ここにボールがやってくると直進するが、二個目のボールがやってくると今度は右に曲がる。

単純な仕組みなので、見ればすぐに「なるほどそういう仕掛けか」と納得できるのだが、これをおもいつくのはむずかしい。

シンプルなのに奥が深い。
大人も夢中で遊べるおもちゃだ。




七歳児ももちろん楽しく遊んでいる。

こうすれば失敗する。
ここをこうしたらうまくいく。

試行錯誤を重ねながらコースを作って遊んでいる。

今流行りの「プログラミング思考」ってやつだね。


うちには一歳十ヶ月児もいるんだけど、こっちも「ころがスイッチ」で楽しく遊んでいる。

レールの上にボールを置いて、それが転がる様子を見てきゃっきゃっと声を上げて喜んでいる。

彼女は凝った仕掛けは必要としておらず、ただボールが転がるだけでおもしろいようだ。


一歳も七歳も中年も楽しく遊べるおもちゃ。いいねえ。

一歳がコースを破壊して七歳がぶち切れるという事件が頻発するけど。


2020年9月14日月曜日

【読書感想文】闘う相手はそっちなのか / 小川 善照『香港デモ戦記』

香港デモ戦記

小川 善照

内容(e-honより)
逃亡犯条例反対に端を発した香港デモは過激さを極め、選挙での民主派勝利、コロナウイルス騒動を経てなお、混迷の度合いを深めている。お気に入りのアイドルソングで気持ちを高める「勇武派」のオタク青年、ノースリーブの腕にサランラップを巻いて催涙ガスから「お肌を守る」少女たち…。リーダーは存在せずネットで繋がり、誰かのアイデアをフラッシュモブ的に実行する香港デモ。ブルース・リーの言葉「水になれ」を合い言葉に形を変え続ける、二一世紀最大の市民運動の現場を活写する。

2014年に香港で大規模なデモがおこなわれた。いわゆる「雨傘運動」だ。

中国共産党により香港での普通選挙が拒否され、中国政府の指名を受けた人物しか立候補できないことに市民が反発しておこなわれたデモだ。

結論から言うと、雨傘運動は失敗に終わった。
香港の民主化は進まず、指導者は逮捕され、デモをおこなっていた団体は分裂した。中国共産党の姿勢はいっそう強硬なものになった。

そして2019年から2020年、香港では再びデモがおこなわれている。
デモの発端は2019年に提出された逃亡犯条例改正案だ。刑事事件の容疑者を中国本土に引き渡すことができるという法律。中国政府に目をつけられたら、中国に無理やり送られる可能性があるわけだから、香港市民からしたら怖すぎる法律だ。

そもそも香港が中国に返還されたときに「2047年までは一国二制度(中国のやりかたを押しつけない)」と約束していたのに、その約束を反故にしつつあるのが最大の原因だろう。


香港のデモについては日本でも報道されているが、どうしても対岸の火事。

しかし、香港の状況は決して例外的な事例ではない。古今東西、同じようなことはあちこちで起こっている。

ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソンの『国家はなぜ衰退するのか』を読み、政治も経済も一部の権力者が牛耳っている国が多いことに驚かされた。
自由な競争が保たれている国のほうがむしろ例外なんだと気づかされる。

我々があたりまえのように享受している民主主義は決して普遍的なものではなく、ちょっとしたきっかけで奪われてしまうものなのだ(そして権力者は私権を制限したいものなのだ)。

中国共産党がずば抜けて悪なのではなく、権力者はどこも同じような志向性を持っている。
アメリカだって日本だって、中国と同じ道を歩む可能性は十分にある(もう近づいていっている気がする)。

えらそうに語っているぼくだって、自分が国家を動かせる権力を持っていたら、その権力を強化し国民の権利を制限するほうを選ぶだろう、きっと。
「こっちのほうが民衆のためだ」なんて言って。

権力の暴走を防げるのは理性ではなくシステムだけ。

だから権力者を縛るシステムはぜったいに緩めちゃいけない。
権力側が言いだした「憲法改正」なんて話にはぜったいに乗ってはいけないのだ。



現地に何度も足を運んで香港のデモ隊についての生の声を拾ったルポルタージュ。

現地の温度感を知るにはいいが、ほぼ一方の声しか拾っていないので、デモに関しての全体的な状況はわかりづらいかもしれない。

また第五章の『オタクたちの戦い』にいたっては「デモをしているメンバーには日本のアニメや漫画が好きなオタクもいるんですよ」ってことが長々と書いてあるのだが、正直いって「だから何?」という感想しか出てこない。

それを言うなら、香港警察や中国共産党の側にだって日本のアニメが好きなオタクはいっぱいいるだろう。

まあ「デモをしているのも日本にいるのと変わらないような若者なんだよ」って言いたいんだろうけど、「オタク」「パリピ」といった言葉をくりかえしてむやみに分類するやりかたは好きじゃないな。

そういう姿勢がいらぬ分断をあおるんだよ……と言ったら言いすぎだろうか。


とはいえ、現地に足を運んでいるからこそ見えてくるものもある。

 警察はそうした過激な抗議活動に対して、確実に潰しにかかっていた。
「ネット上で一二日の呼びかけを行った人物はデモの前夜に警察に逮捕されたと聞きます。暴動を呼びかけたということで。だから、今現在は、みんなネットの書き込みにさえ『○○で警察を見た』ではなく、『○○に警察がいる夢を見たんだが』というような現実ではない報告の形にしています」

こういう「生の情報」は現地に行かないとなかなか手に入らないだろうし、このエピソードだけでいかに警察によるデモ隊への締め付けが厳しくなっているかが伝わってくる。

「警察を見た」とネットに書き込むだけで逮捕される可能性があるのだから、言論の自由などはもうとっくになくなったに等しい状況にあるのだろう。

ぼくが漠然とおもっていたよりも香港の状況は深刻なようだ。



雨傘運動にしても2019年のデモにしても、デモの直接的なきっかけは政治や法改正なのだが、その背景には経済的な不満も大きいらしい。

香港も、日本と同じく数年前から中国から大量の観光客がやってきて“爆買い”をするようになったらしい。

そのせいで香港の物価は上がり、香港市民の生活は苦しくなった。

新築の標準的な3LDKのマンションの一室を買うのですら、日本円で一億円近くするため、持ち家は諦めざるを得ないという。
「公営企宅には抽選に当たれば入居できますが、その抽選自体が何年待ちという状態で、庶民はほとんど入居を諦めている状態です。それなのに、香港の大陸側の郊外である新界(ニューテリトリー)地区などには、高級マンションだけはどんどん建っています。そこもすごい価格なのにすぐに完売してしまうんです。それで、そのマンションには人がほとんど住んでいない。大陸の中国人の金持ちが投資目的で買うからです」

このへんの状況は日本とよく似ている。

香港市民の反中感情が高まる一方で、中国企業、観光客、中国政府のおかげでお金を儲けている香港人もおり、香港市民間の溝が深まっていたこともデモの背景にあるようだ。

だから香港市民の中にも反中派と親中派がいる。
みんながみんなデモに賛成しているわけではないのだ(大半はどっちつかずなんだろうが)。

 香港市民は無意識に新しく知り合った相手が黄色(イエロー)か藍色(ブルー)か、「どちら側なのか」を考えるようになっている。それはデモをめぐっての立場、黄色(デモ隊支持)か、藍色(警察支持)だ。香港では今、そのことによって、すべての行動を定義してしまうようだ。
 香港の取材相手と食事をするとき、「どちら側の店が近くにあるか」が重要になってくる。香港では、黄色い店、藍い店のリストがあり、まとめられたサイトではマップと連動しており、近くにどんな店があり、その店は黄色か、藍色かが表示されるのだ。
「黄色経済圏として、どうせお金を落とすならば、デモ隊支持の自分たちの仲間のところで、ということなのです。逆に親中派の店には、一銭も落としたくないと。飲食店から金融機関など、あらゆる店舗やサービスが、分類されているのです」

こうやって香港人同士が憎みあって分断していく姿は、悲しい。

香港人同士で対立して互いを敵視して、それこそ中国共産党の思うつぼなんじゃないの、と海の向こうから見ているとおもえてしまう。

中国にしたら香港人が一致団結するより、分断して対立しているほうが統治しやすいんじゃないかな。
強引な締め付けをしたって、市民の怒りは中国政府じゃなくて香港政府や香港警察や親中派香港人に向かうんだもん。こんな楽なことはない。


そしてデモをしている香港人も、一枚岩ではない。
中国本土も含めた民主化を望む比較的穏健な「民主派」、香港のことは香港で決めるという「自決派」、大陸ではなく香港こそが本土なのだという「本土派」、その考えをさらに極端にした「独立派」などいくつもの派閥に分かれている。

それぞれの派閥の中でも、平和・理性・非暴力を掲げる穏健派「和理非派」と、過激派の「勇武派」があり、さらにそれぞれが内ゲバをくりひろげている。


勇武派のデモ参加者のインタビューより。

――こうした破壊をして、今どんな気持ちか?
「こんなことはしたくない。でも、自分たちの未来のためだ」
 そう話しながら、彼は少し間を置いて、こう言い切った。
「こんなことをしても変わらないなどと言う人もいるが、やらずに後悔はしたくない」
――勇武としての活動は、ずっと続けるのか?
「逮捕されるまでは絶対に続ける」
 彼は、そう断言した。彼の決意に衝撃を受けた。「香港独立」でも「五大要求貫徹」でもなく、彼のゴールは、強制終了である「逮捕」なのだ。その結果、暴動罪に問われたら、最高で一〇年間の禁錮刑となってしまうことも理解しての言葉だ。
「逮捕されることは問題ではない」
 わずか一八歳の少年が自分たちの未来を、自らの自由と引き換える固い決意をもって、自らの手で変えようとしている。一瞬、彼が警官に取り押さえられて逮捕される映像が浮かんでしまい、涙が出そうになった。

気持ちはわかる。気持ちはわかるんだけど……。

もはや目的と手段が入れ替わっている。
日本の学生運動の末期を見ているようで悲しくなる(その時代生まれてなかったけど)。

普通選挙もかなわないし平和デモも通用しない。だから実力行使で……という心情はわかるんだけど、武力闘争をして警察や中国軍にかなうわけがないし、むしろ軍の介入を許すきっかけをつくるだけだ。

武力闘争をしかけていけば、「デモには参加しないけど応援してる」という圧倒的多数の市民の支持を失うだけだろう。
警察に武力攻撃をしかけている映像が流れれば世界中からの支持も失う。

ほとんどの人は「自由を求める闘争で命を落とす危険」よりも「多少の自由は制限されても警察権力によって秩序や安寧が保たれる」ほうを選ぶんだから。


人が集まったら派閥に分かれるのは当然だけど、そうはいっても少数派が分裂して大きな敵にかなうはずがない。

思想の違いまで妥協しろとはいわないが、いったん棚上げしてまとまらないと、ぜったいに負ける。

大きな目標を達成する前から内部分裂してどうするんだ、と言いたくなる(日本の野党もだぞ!)。


だいたい香港警察相手に闘いをくりひろげているけど、本当の敵は香港警察じゃないだろ!
そいつらは生活のために大陸の言いなりになっているだけで、本当に戦うべき相手はそっちじゃないだろ!

と外部から見ていると言いたくなる。
まあデモをしている人たちだってそんなこと百も承知で、怒りをぶつける相手が眼の前にいる警察しかいないんだろうけど……。


ま、こんなふうに安全なところで高みの見物を決めこみながら「その戦略はまちがっている!」とえらそうに言ってるぼくのような人間こそ真に打倒すべき相手なのかもしれないけど……。


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2020年9月13日日曜日

ツイートまとめ 2020年2月



100%→99%

犯行



イチャつけ

タトゥー

新聞の価値

祝日

左手

2020年9月11日金曜日

【読書感想文】我々は「死者」になる / 『100分de名著 ナショナリズム』

ナショナリズム

100分de名著

大澤 真幸 島田 雅彦 中島 岳志 ヤマザキ マリ

内容(NHK出版ホームページより)
かつて「21世紀には滅んでいる」といわれたナショナリズム。ところが世界はいまも、自国ファーストや排外主義にまみれている--。今年の元旦に放送され、話題となった特別番組「100分deナショナリズム」。4人の論客がナショナリズムを読み解くための入り口となる名著を持ち寄って議論した。大澤真幸氏が『想像の共同体』(ベネディクト・アンダーソン)を、中島岳志氏が『昭和維新試論』(橋川文三)を、島田雅彦氏が『君主論』(マキャベリ)を、ヤマザキマリ氏が『方舟さくら丸』(安部公房)を。

啓蒙書や文学作品から「ナショナリズム」について考える、という企画。

中島岳志氏やヤマザキマリ氏の作品は好きなので期待していたのだが、あまりナショナリズムに真正面から向き合ってる論調ではなかったな……とじゃっかん裏切られた気持ち。

おかげで安部公房には詳しくなったが。
『100分de名著 安部公房』ならこれでよかったんだけど。



大澤真幸氏が読み解く『想像の共同体』はおもしろかった。

じつは大澤真幸さん、ぼくの大学時代の学部の先生だったんだよね。
でもぼくは大澤先生の授業をとってなかった。とっときゃよかったなあ。

逆に、ヨーロッパのいずれかの国に植民地化され、まとまった行政単位として扱われたという事実が、結果的に、植民地の人々に「我々○○人」という意識を植え付ける結果となった、と考えるほかありません。
 その極端な典型は、アンダーソンが専門的に研究していたインドネシアです。インドネシアは、三千もの島々から成り、そこにはムスリムもいれば、仏教徒やヒンドゥー教徒等々もいて宗教的にも多様で、さらに百以上もの言語が話されていた地域です。こんなに多様で分散していた人々の間には、もともと「我々インドネシア人」などというアイデンティティはありませんでした。彼らが「インドネシア人」になったのは、オランダに植民地化され、まとまった扱いを受けたから、という以外に原因は考えられません。特に目立った事実は、ニューギニアの西半分だけが、インドネシアに属しているということです。しかも国境線は、南北に直線になっている。どうしてこんな不自然なことになったかというと、それは、かつてオランダ王がニューギニアのこの地域までの「主権」を主張した、ということに由来しています。すると、現地の人々までも、そこまでが「我々」に運命的に所属していた、と思うようになるのです。

国ができるのは外国の存在があったから、外部の存在がなければ国としてまとまることはない。

たしかにインドネシアって、「ぜったい自然にこんな形になるはずがない」って形の国土だもんね。

複数の島にまたがってるくせに、ニューギニア島だけはまっぷたつ。
こんな形で、住民に国家意識が芽生えるはずがない。


インドネシアはわかりやすい例だけど、他の国もいっしょ。

日本だって、欧米の列強の脅威があったからむりやり国としてまとまっただけ。
「数百年前の日本では……」なんて言い方をするけど、人々が「我々は日本人である」という意識を持ちだしたのなんてせいぜい明治以降のはず。

日本の伝統だの日本古来だのいってるけど、日本は百五十年ぐらいの歴史しかないのだ。




大澤氏は、日本のナショナリズムは大きな弱点を抱えていると主張する。

それは戦後の日本人は「我々の死者」を持たないからだという。

 これは、無名の殉死者、つまり匿名のままに葬られた死者に敬意が払われることは近代以前にはまったく考えられなかったことで、ナショナリズムが近代的な現象であることをよく示している、ということを論じた箇所です。アンダーソンがいおうとしていた中心的な論点からは少しずれますが、ここからひとつのことがわかります。ナショナリズムは、国民という共同体が「我々の死者」をもつことを意味している、ということです。
「我々の死者」とは、次のような意味です。ひとつの国民が、「その人たちのおかげで現在の自分たちはあるのだ」と思えるような死者、自分たちは「その人たちの願望を引き継いで実現しようとしているのだ」と思える死者、そして自分たちが「その人たちから委託を受けて今、国の繁栄のために努力しているのだ」と思えるような死者。こういうものが、「我々の死者」です。

(中略)

 ほんとうに「我々の死者」などもたなくても別に困らないのでしょうか。そうではない、と僕は思います。自分たちが生まれる前の他者たちのことを思うことができない人間は、つまり自分たちの生まれる前の人たちからの連続性を思い、そのような死者たちの願望に縛られない人間は、逆のこともできなくなるからです。逆のこととは、自分たちが死んだ後にやってくる将来世代のこと、未だ生まれてはいない他者たちのことを配慮したり、考えたりする、ということです。過去の死者たちのことを思わない人は、将来世代のことを考えなくなります。今生きている、自分たちのことしか考えないわけです。
 現代の日本は、実際、そのような状況にあるのではないでしょうか。しかし、現在、僕らが直面している重要な問題のほとんどが、現在生きている人たち以上に、これから生まれてくる人たちに関わっています。人口問題にせよ、環境問題にせよ、安全保障や憲法の問題にせよ、すべてそうです。これらの問題についての現在の日本人の意志決定の影響を受けるのは、主として、現在の日本人の大半が死んだ後に現れる将来世代です。
 自分たちの後にくる未生の世代への異様な無関心。これが現代の日本人の特徴であるように思えてなりません。その原因はどこにあるのでしょうか。少なくともそのひとつの原因は、戦後の日本人が「我々の他者」を失ったことにあるのではないか。これが僕の仮説です。

日本は戦前戦中の考え方はまちがっていたのだという反省を出発点にして戦後の復興をスタートさせたので、戦前の日本人、特に戦死した人たちの理想や大義を引き継ぐわけにはいかなくなった。

だから日本は独特な方法で「我々の死者」を取り戻す必要がある、死者に対して裏切りながら謝罪をしていくことが必要だ……。


ふうむ。

どの国にも多かれ少なかれナショナリズムはあるが、日本の場合は特にナショナリズムが「戦前の軍国主義への回帰」と結びつきやすいので余計にややこしいんだよね。

愛国心自体は決して悪いものではないのだが、「軍国主義まで含めて過去を肯定」or「過去の全否定」みたいな極端な対立になってしまいがちので、「過去の日本人の営みのおかげで今の我々がある」とは言いづらく「戦後復興期にがんばった日本人のおかげで」というずいぶん半端な「我々の死者」への感謝の形になってしまう。

「軍国主義は誤っていた。あの戦争で死んだ多くの人たちは無駄死にだった。それはそれとして彼らは我々の仲間だし、我々は彼らに敬意を持つべきだ。だが同時に批判も忘れてはいけない」
という微妙なスタンスをとることを、両極端な人たちは許してくれないんだよねえ。


そういえば中島岳志さんがオルテガの『大衆の反逆』について書いた文章の中で、「死者の声」に耳を傾けるべきだと書いていた(100分 de 名著 オルテガ『大衆の反逆』より)。

 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。
 ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。

政治について語るとき、「今生きている人」のことしか念頭にない人が多い。右も左も関係なく。

我々が身のまわりについて考えるときはそれでいいが、国の方針を定める場合は「今生きている人」だけのことではいけない。
なぜならふつう国の寿命はひとりの人間の寿命よりも長いから。

ぼくも若いときは「もう死んだ人間のことなんて知ったことか」とおもっていたが、最近ちょっと考えが変わってきた。

大澤氏の言うように、死者について考えることは、まだ生まれていない我々の子孫について考えることである。
なぜなら、我々の子孫にとっての「死者」こそ私たちなのだから。
我々の考えたことやおこなったことを未来へと引き継いでもらいたいのであれば、我々もまた「死者」の考えや行動を汲みとらなければならない。

こんなふうに考えるようになったのは、ぼくが歳をとって昔よりも「死者」に近づいたからなのだろうか。
だとしたら年寄りがナショナリズムにはまってしまうのも加齢のせいなのかもしれないな。


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2020年9月10日木曜日

【読書感想文】人間っぽいキキ / 角野 栄子『魔女の宅急便』

魔女の宅急便

角野 栄子

内容(e-honより)
お母さんは魔女、お父さんは普通の人、そのあいだに生まれた一人娘のキキ。魔女の世界には、13歳になるとひとり立ちをする決まりがありました。満月の夜、黒猫のジジを相棒にほうきで空に飛びたったキキは、不安と期待に胸ふくらませ、コリコという海辺の町で「魔女の宅急便」屋さんを開きます。落ち込んだり励まされたりしながら、町にとけこみ、健やかに成長していく少女の様子を描いた不朽の名作、待望の文庫化!

みんなご存じ『魔女の宅急便』、の原作本。

もう映画のほうが何度も観た(いつも金曜ロードショーだが)ので、どうしても映画版と比較してしまう。

「あっ、ここは映画といっしょ」「ここは映画にはないエピソードだな」と。
ほんとは逆なんだけど。


毎晩寝る前に子どもに図書館で借りた本を読みきかせているので、年間三百冊ほどの児童書を読む。
それを数年続けているので、ここ数年に読んだ児童書は千冊を超える。

中には、大人が読んでもけっこうおもしろい作品もある。まったくおもしろくない作品もある(そういう本はたいてい子どももつまらなそうに聴いている)。

多作で、しかもぼくが読んでもおもしろい作品を書くのは、斉藤洋氏、そして角野栄子氏だ。

両氏の作品は、ファンタジー要素と現実感がバランスよく配合され、キャラクターが活き活きと描かれ、メリハリのあるストーリーが展開され、そこはかとないユーモアが漂っている。

角野栄子作品にははずれがない。
ぼくが子どものころから読んでいたおばけのアッチコッチソッチシリーズ、シップ船長シリーズ、アイウエ動物園シリーズなど、みんなおもしろい。

『魔女の宅急便』も……もちろんおもしろかった。



映画との違いを書く(『魔女の宅急便』原作小説は全六巻あるが、ぼくが読んだのは一巻だけなので一巻との違い)。

映画よりもファンタジー強め

映画は、魔女が空を飛べること、ジジがしゃべること以外はだいたい現実に即していた。
小説版は、もっと奇想天外な話が多い。
序盤こそ「おしゃぶりを届ける」「鳥かごとぬいぐるみを届ける」という映画でおなじみのエピソードだが、中盤からは「船がつける腹巻きを届ける」「新年を知らせる鐘の音を届ける」「春を知らせる音楽を届ける」など、運ぶものが意外なものに変わってくる(音そのものを運ぶわけじゃないけど)。

このあたりのエピソードはほんとにおもしろい。こっちこそが「魔女の宅急便ならでは」という感じがする。おしゃぶりとかぬいぐるみはべつに魔女じゃなくていいもんね。

キキが人間っぽい

映画のキキはものすごくいい子だ。
というより、いい子であろうとしている。

多少感情の浮き沈みはあるものの、誰にも嫌われないように、誰にも迷惑をかけまいと必死に耐えている。
オソノさんにもトンボにも絵描きのおねえさんにも全力では甘えられない。
キキが素直に感情を吐露できる相手はジジだけ。そのジジですら、後半はコミュニケーションできなくなってしまう。

観ていてたいへん息苦しい。

小説版のキキはもっと人間っぽい(魔女だけど)。嫌みも言うし、嫌なやつにはいじわるをしたりもする。
かえって安心する。

映画は教科書的だった

映画後半で描かれていた、ニシンのパイを届ける、ジジの言葉が理解できなくなる、宙づりになったトンボをキキが助ける、などのエピソードは原作小説(の一巻)にまったく出てこない。

とんぼ(小説版ではひらがな表記)はキキの友人ではあるものの、出番は二回ほど。あまりかかわりはない(続刊ではキキと結婚するらしいが)。

小説版を読んだ上で映画版について思いかえしてみると、あれはずいぶん教科書的なストーリーだったな、とおもう。

善意や努力が報われないことを学ぶ、それによって自信を失って魔法が使えなくなる、「必要とされる」ことを通して再び魔法が使えるようになる……。

はっきりと因果関係があり、わかりやすく成長が描かれる。

教科書の題材にするにはいいけど、はっきりいってつまらない。物語はもっと理不尽でいい。


高校の現代文の教科書に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』が載っていた。
授業で、国語教師があれこれ解説してくれた。

カムパネルラはこのとき死んでいるのです、カムパネルラだけ切符を持っていないのは死んでいるからです、このシーンも死への暗示です……。

それを聞いてぼくはおもった。

つまんね。

いや、解釈するのはいい。解釈は自由だ。

だが「これが唯一の正解です。これ以外の解釈は間違いです」といった感じで解説されたことで、あの幻想的な物語が台無しになったような気がした。

べつにいいじゃん。銀河鉄道の旅とカンパネルラの死はなんの関係もなくたってさ。


小説版『魔女の宅急便』は、映画版よりももっともっと自由に解釈ができる。

わかりやすい意図も因果関係もない。
出来事のひとつひとつにいちいち意味があるわけじゃない。

ただ出来事があるだけ。
ただキキが飛ぶだけ。
ただ運ぶだけ。

それが楽しい。
童心にかえって楽しめた。

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2020年9月9日水曜日

【読書感想文】変だからいい / 酒井 敏 ほか『京大変人講座』

京大変人講座

常識を飛び越えると、何かが見えてくる

酒井 敏 ほか

内容(e-honより)
常識を飛び越えると、何かが見えてくる。京大の「常識」は世間の「非常識」。まじめに考えると、人間も生物も地球も、どこかおかしい。だから、楽しい。

こんなタイトルだが、「変人」が出てくるわけではない。

「変でもいい」「普通とちがうからこそいいこともある」といったテーマで、様々な分野の研究者が知見を披露している本だ。


以前、大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本を読んだ。
これも、大阪大学のいろんな分野の研究者がワンテーマについて語るという本だが、正直いっておもしろくなかった。

なぜなら、ほとんどの研究者が「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」というお題から早々に逃げ、むりやりドーナツにからめて得意分野に逃げこんでいただから。


だが『京大変人講座』のほうはどの項もおもしろかった。
たぶんお題が「変でもいい」というゆる~いテーマだったからだろう。

だから
「人間が今生きているのは我々の祖先が“酸素があっても生きられる”という(当時としては)変な生き物だったからだ」
「不便なことには不便であるがゆえの価値がある」
といった、それぞれの得意分野を思う存分語れる。

どの人の話もおもしろい。



山内裕氏によるサービス経営学の話より。

 実は、サービスにおいて、提供者側が客を満足させようとすると、かえって客は満足しなくなるというパラドクス(逆説)が起こります。「満足させよう」とするサービス側の気持ちが透けてみえてしまうと、客は満足しないのです。同じように、相手を笑わせよう、信頼させようとすればするほど、客の気持ちは逆の方向へ向かってしまいます。
 これを「弁証法」と呼びます。
 もし鮨屋のおやじが、お客さんに笑顔で接し、喜ばせようとし、心を配って、満足させようとがんばったら、むしろ、提供者である鮨屋のおやじは客から「この人は私を喜ばせようとする意図を持っている」と受け止められます。
 そこに生まれるのは、上下関係です
 提供者は従属する側――要するに立場が弱くなってしまいます。さらにいえば、自分に従属する人からのサービスは、価値が低く感じられてしまうものです。
 提供者側が満足させようとサービスすると、その満足はお客にとって意味がなくなってしまう。これは、サービスにおいて必ず発生する問題です。
 その点、鮨屋のおやじは、職人として「自分のために仕事をしているんだ。客のことなんか関係ねえよ」という姿勢を貫くからこそ、客がその価値をありがたく認める図式ができあがっているのです。
 さて、カジュアルなレストランやファストフード店であっても、お客を拒否するサービスを展開していることはすでに述べたとおりですが、一方で、サービスが高級になればなるほど、闘いの局面が増していくという現実もあります。
 なぜなら、高級になればなるほど、いわゆる「サービス」と呼ばれるものが提供されなくなっていくからです。減っていくのは「笑顔」であったり、「情報」であったり、「迅速さ」であったりします。
 意外な感じがしますね?
 もちろん、高級なサービスにまったく笑顔がないわけではありません。しかし、プロフェッショナルであるほど表情はキリリと引き締まり、むやみやたらと笑顔を向けたりはしない傾向があります。頼りがいや信頼感は高まる一方、親しみやすさという要素は確実に減っていきます。 また、情報量も確実に減ります。カジュアルなレストランのメニューには、「季節のおすすめ」の紹介があったり、「定番!」というアピールがあったり、料理の解説や写真が添えられていて、にぎやかです。
 一方、高級なフレンチレストランで出てくるメニューには、料理名が並んでいるだけで、解説も何もありません。選択肢もそれほどない。とにかく情報量が少ないのです。

たしかになあ。
言われてみれば、高級店のほうがサービスが簡素であることが多い(高級なサービスを利用したことはあんまりないけど)。
ファミレスとかスーパーとかコンビニのほうが過剰に笑顔やあいさつを振りまく。

そしてたぶん、「ここの店員は礼儀がなっとらん!」みたいな説教をする客が多いのも、安い店のほう。

「高い店のほうがより多くのサービスを求められる」とおもってしまいがちだけど、じつは逆なのだ。


そういや仕事をしていても、こっちが下手に出たらとことんつけあがって無理難題をふっかけられるとか、もう断られてもいいやとおもって強気に出たら案外それが通ったりすることとかある。

色恋沙汰でも同じかもしれない。
こっちからぐいぐい「重いもの持ってあげるよ」「車で送ってあげるよ」「なんかほしいものない?」みたいな男より、「べつにどっちでもいいけど」みたいな男のほうがモテたりする(顔面の美醜はおいといて)。

『ハッピーマニア』シゲタカヨコも「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」って言ってたけど、仕事も恋愛も尽くしすぎたらダメなんだな。



川上浩司氏のシステム工学の話もおもしろかった。

便利すぎるものはかえって不便、という禅問答のような話。
川上さんは、あえて不便なものをつくり、不便さの便利を見いだそうとしているそうだ。

*カスれるナビ
 正確で詳細な情報をリアルタイムで表示してくれるカーナビ。これは便利すぎるのではないかということで、不便さをとり入れてみたのが「カスれるナビ」。
 このナビは、通った道がしだいにかすれていきます。道を間違って戻ろうとしても、ちょっと消えているのです。何度か同じところを通るとかすれがどんどんひどくなり、三度も通るとその周辺はほぼ真っ白で見えなくなります。

 この「カスれるナビ」で実験をしてみました。あるグループにはカスれるナビを渡し、別のグループにはカスれない普通のナビを渡して、一人ずつ町歩きをしてもらったのです。戻ってきたら、実際に通った場所の写真と、通っていない場所の写真を見せて、本当にあった景色なら○、そうでないなら×と答えてもらいました。
 すると、カスれるナビを手にして町歩きをしたグループのほうが、有意に正しく解答したという結果になりました。私の仮説ですが、「いつも手元に正しい情報がある」という状況があるとき、人は深層心理で「この情報を頭に入れる必要はない」と判断するのではないでしょうか。

更科 功『絶滅の人類史』によれば、人類の脳は昔よりも小さくなっているのだそうだ。

一説によれば、文字が発明されたことで外部に記録できるようになり、大きな脳を必要としなくなったからだとか。

それが事実だとすると、今後はもっともっと脳が縮んでいくだろう。

スマホがあれば計算もしなくていい、スケジュールもスマホで管理するからおぼえる必要なし、地図もおぼえなくたってスマホで地図検索、わからないことはすぐにスマホで調べられる、漢字も書けなくていい、外国語も自動翻訳。
便利だが、脳はどんどん必要なくなる。

これからは、ちょっと不便なサービスが流行るかもしれないな。



ぼくもはるか昔に京大に通っていたが、その頃に比べると京大の校風であった「自由」は失われているように感じる。

といっても中にいるわけではないので、タテ看規制とか寮の建て替えの件とかのニュースを見るかぎり。

ぼくが学生の頃は校舎内にバーがあったり、地下教室に学生が集って酒盛りをしたり、一夜にして謎の建造物ができていたり、無法地帯なところがあって、大学側も半ばそれを黙認していた。

「単位はやるから授業は出なくていい」と公言する教授がいたり、入学式で「授業に出ていい成績をとるのは二流。一流は授業なんか出ない」と煽ってくる教授がいたりと、「ふつうから外れてるほうがえらい」みたいな気風があった(ごく一部だけどね)。


でも国全体の方針として大学にも「カネになる研究をする」「学生を使いやすい会社員にする」ことが求められるようになり、漏れ聞こえてくる話では京大もその例外ではないらしい。

京大も含め、日本の大学の競争力はどんどん低下している。
「選択と集中」は明らかに失敗だった。
「当たり馬券だけを買えばいいじゃん」というやりかたは通用しないのだ。


だから「変でもいい」「役に立たなくてもいい」「ふつうはやらないことをやる」という、この姿勢は大事だ。

『京大変人講座』は今後もシリーズとして刊行されていくらしい(すでに二冊目が出版されている)。
ぜひとも長く続けて、京大の「変」を取り戻してほしい。

「そんなもん研究しても社会に出たら役に立たん」と言うやつには、
「社会に出たら役に立たんから大学で研究するんじゃないか!」と言い返してやってほしい。

ま、大学時代は労働法というおもいっきり実学を専攻していたぼくが言うのもなんですけど……。

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2020年9月8日火曜日

【読書感想文】失って光り輝く人 / こだま『いまだ、おしまいの地』


いまだ、おしまいの地

こだま

内容(e-honより)
集団お見合いを成功へと導いた父、とあるオンラインゲームで「神」と崇められる夫、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……“おしまいの地"で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまの日々の生活と共に切り取ったエッセイ集。

こだまさんの第二エッセイ集。

前作『ここは、おしまいの地』は達観や悟りのようなものが随所に感じられた。
どんな逆境におかれても、立ち向かうでもなく、くじけるでもなく、ただ黙って受け入れてゆく。苦境に置かれた自分を、他人事のように笑い飛ばしてしまう。

そんな柳のような強さを感じたものだ。


ところが、今作『いまだ、おしまいの地』を読んで心配になった。
〝おしまいの地〟での不遇な生活をどこか他人事のように楽しんでいたような乾いたユーモアが今作ではあまり感じられない。

まるで必死に「自分は大丈夫」と自らに言い聞かせているようだ。
その姿は、達観とはほど遠い。


仏教には「執着(しゅうじゃく)」という言葉がある。
物事にとらわれ、心がそこから離れられない状態。執着はすべての苦しみの原因とされる。
『ここは、おしまいの地』では執着から解き放たれているかのように見えるこだまさんが、『いまだ、おしまいの地』では執着にふりまわされている。

小説やエッセイが評価されて他者から期待されるようになったことで、一度は手放した執着をまた取り戻したのかもしれない。


なんだかずいぶん思い詰めているようあ……。
大丈夫か、このままだとどこかで破綻するんじゃないか、この人近いうちに失踪するんじゃないか……。

と心配しながら読んでいたのだが、2020年に入って世間がコロナ禍で騒ぎだしたあたりのエッセイから急におもしろくなった。
活き活きとしているのが伝わってくる。

そうか、この人はいろんなものを手にして期待をかけられているときより、失ったときにこそ光り輝く人なのだ。
自粛期間でいろんなものを失ったことで、かえって強くなったのかもしれない。

どうか今後も失ったものを笑いとばしてほしい、と無責任におもう。

こだまさんの失踪記も読んでみたいけどな……。
(あと諸々の事情でむずかしいのかもしれないけど、けんちゃんの話をまとめて読みたい)



やはり印象的なのは、詐欺に遭った顛末。

SNSで知り合ったメルヘン氏(仮名)にだましとられた数十万円を取り戻すべく、メルヘン氏の実家に乗りこむシーン。

 メルヘンは、しばらく前に母親と喧嘩して家を出て行ったきりだという。母親は私とそれほど歳が変わらないように見えたが、父親は高齢だった。ふたりとも状況を理解するのに精一杯で、心が追いついていなかった。「両親は他界した」という息子の一文をどんな思いで読んだのだろう。 
 正直に言うと、両親に会う直前まではどこかわくわくしていた。詐欺師の実家に押し掛けるなんて一生に一度の経験だから。 
 だけど、これはドラマでも探偵ごっこなんかでもない。チェーンの隙間から戸惑う母親の顔が見えた瞬間、冷水を浴びせられたように目が覚めた。私の薄っぺらい「善意」が人を刺している現場を目の当たりにした。私がメルヘンを突き放していれば、ここまで被害額は膨らまず、両親を悲しませずに済んだのだ。自分が損して終わるだけならよかった。シェパードの散歩みたいに「阿呆だなあ」と笑えるラインは、とっくに越えてしまっていたのだ。

大金をだましとられた被害者なのに、加害者やその家族の心境をおもいやり、自らの行動を責める。

まちがいなく善人の行動なんだけど、たいへん残念なことにこの世は善人が生きやすいようにはできていない。


少し前に、こんな光景を見た。

雨に打たれているホームレスのおっちゃんに傘をさしかけてあげる子。

おじさんもさしかけられた傘に気づいて
「えっ、あっ、ありがとう。でもええよ。大丈夫やから。やさしいな」
と驚いていた。

なんて心優しい子なんだろう。
道徳的には大正解だ。

でも。
世渡り的には不正解だ。たぶん。

もし自分の娘が同じことをやっていたら
「君がやったことはすばらしい。その優しい心はずっと持ちつづけてほしい。でもそれはそれとして、知らないおじさんに近づいて万が一あぶない目にあったらいけないから、今後はやめてほしい。あのおじさんを救うのは政治や行政の仕事だから」
と言ってしまうとおもう。

我ながら小ずるいオトナだなあとおもうけど。


小ずるい人間のほうがうまくやっていけて、ホームレスや詐欺の加害者に心から同情してしまう優しい人のほうが生きづらい。

まったく嫌な世の中だ。
そんな世の中にしている原因の一端はぼくのようなオトナにあるんだけど。


しかし詐欺をやる人って、ちゃんとだまされやすい人を選んでるんだなあ。
かんたんにだまされてくれる人、だまされたと気づいても「自分にも落ち度はあった」と感じてくれる人を狙ってるんだな。

「詐欺をするようなやつは家族親戚もろとも地獄の底まで追いかけてケツの毛までむしってやる」と考えてるぼくのような人間のところには来てくれないんだもん。

さすがはプロの仕事だ、と変なところで感心してしまった。



なつかしい、ネット大喜利のこと。

 対戦者を募集している人がいたので適当にハンドルネームをつけて入室してみた。すると、さっそく一問目のお題が表示される。「ボケ」の投稿まで数日あった。空っぽだった頭の中に突如降りてきた大喜利のお題。その瞬間から、夕飯の買い出しに行くときも、味噌汁の出汁を漉しているときも、バスタブを洗っているときも、眠りに就く前の布団の中でも大喜利のことばかり考えるようになった。生活自体は何も変わらないのに脳内がめまぐるしく動き、満たされていた。
 制限時間ぎりぎりまで考え、指先を震わせながら投稿。あとは、どちらが面白いか他の参加者が投票する仕組みだ。結果が出るまで落ち着かなかった。何かを楽しみにそわそわ待つなんて、いつ以来だろう。もう結果が出たか。まだか。数分おきにサイトを覗いた。
 私は初めての対戦に勝っていた。「面白い」とコメントまで付いていた。実生活でそんな褒め言葉をもらったことはなかった。そうか、ネットならば、文章ならば、私も人を笑わせることができるのかもしれない。それは大きな発見だった。

 一口に大喜利といっても様々なサイトがあった。数百人が一斉に投稿して面白さの順位を競うもの、イベント形式の勝ち抜き戦、数人でボケを相談し合うチーム戦。私はすぐその世界にのめり込み、いくつもの大喜利サイトに登録して渡り歩くようになった。何年も続けるうちに自然とネット上の大喜利仲間が増えていった。

ぼくも同時期にネット大喜利にはまっていた。
こだまさんがブログで開催した大喜利に参加したこともある。
こだまさんが、ぼくが主催した大喜利イベントに参加してくれたこともある。

当時ぼくは大喜利を「趣味」だとおもっていたが、今にしておもうと「逃避場所」だった。

就活がうまくいかず、やっと就職したものの一ヶ月でやめ、実家で一年引きこもり、フリーターになって先の見えない暮らしをしていた。
ぼくがネット大喜利にはまっていたのはそういう時期だった。

夜遅くまでチャットをしたり、肌身離さずメモ帳を持ち歩いて大喜利の回答を考えたり、夢の中で回答をおもいついたときは飛び起きてメモをとったり(翌朝見るとぜんぜんおもしろくないんだこれが)、ときには大喜利のことで他の人と喧嘩をしたりもした。

人生の関心事の八割ぐらいを一円にもならないネット大喜利に捧げていたのだから、今おもうと狂っている。

でも当時は自分が異常だとはおもわなかった。なぜなら、同じように大喜利ばかりやっている人が他にもたくさんいたから。
もしかしたらあの人たちも狂っていたのかもしれない(まっとうな生活を送りながらたしなんでいた人もいっぱいいたとおもうが)。

こだまさんの追想を読んで、ああネット大喜利に居場所を求めていたのはぼくだけじゃなかったんだとちょっと安心した。


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2020年9月7日月曜日

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』

サル学の現在

立花 隆

内容(e-honより)
立花隆が霊長類学の権威たちと徹底的に対話し、それを立花流にわかりやすく構成している。立花隆にかかると政治から先端技術、生物学までこれほど面白く感じられるのはなぜなのだろうか。

文庫版の刊行が1996年なのでぜんぜん「現在」ではないのだが。

立花隆氏がサルの研究者たちから(当時の)最先端の知見を聞きだした本。

専門の研究者にとっては古い内容なんだろうけど、サルの専門家でないぼくにとっては新鮮でおもしろい。

たとえば
「ニホンザルは群れを作り、ボスザルを頂点としたヒエラルキーがある。厳然たる順位があり、ボスから順番に食べ物を食べていく」
なんて話を聞いたことがあるけど、あれは動物園のサル山のような人工的につくりだした群れだけで起きる現象なんだそうだ。
自然界のサルはもっとゆるやかなつながりで生きているんだとか。

なるほどねえ。そういうところもヒトと似てるね。
ふだん我々は友人やご近所さんとの間には「どちらが上」とか順位をつけずに暮らしている。
ところが会社とか学校とか軍隊とかの閉鎖的な環境では、すぐに順位をつけたがる。

もしかしたらヒトやサルにかぎらず、閉鎖的な環境に置いたらほとんどの哺乳類が順位をつけるのかもしれない。


研究内容には古さを感じないが、立花隆氏が堂々と女性研究者へセクハラ質問をしているとこには時代を感じる。

女性研究者に「フィールドワークをしているときトイレどうしてんの?」とか「サルの交尾を観察してたら妙な気持ちになってこない?」とか訊いてんの。
男性研究者には訊いてないんだから完全にセクハラだよね。
子育てしながらフィールドワークしている女性を「お転婆」と称したり。
時代だなあ。



「サル学」とひとくくりにしているが、紹介されている研究者のアプローチは様々だ。
野外に出てサルを観察している研究者だけでなく、サルの脳を調べたり、化石を調べたり、分子化学の面からサルとヒトの違いをさぐったり。

サルはおもしろい。

やっぱり他の動物とはちがう。
人間ではないが人間に近い。だからおもしろい。
赤ちゃんの行動が見ていて飽きないのにも似ている。


サルを研究することは、ヒトを知るためのとっかかりになる。

ヒトについて調べたい。できることならいろんな実験をしたい。
効果不明の薬を飲ませたり、脳に電極をつっこんだり、どんな影響が及ぶかわからない手術を施したりしたい。

でも人道的な理由でそれはできない。


サルの研究者には、純粋にサルに興味がある「サル屋」と、ヒトについて知りたくてそのためにサルを研究している「ヒト屋」がいるのだそうだ。

しかし、結局サルとヒトは同じではない。
『サル学の現在』を読んで、「サルをいくら研究しても永遠にヒトのことはわからないな」とおもった。

たしかにサルとヒトには似た部分もあるけど、それだけだ。
探せばヒトとゴキブリの間にも共通点はいくつも見つかるけど、ゴキブリをいくら研究してもヒトのことはわからない。
サルも同じだ。
サルはサル。ヒトはヒト。



「男と女の間の友情は成立するか」というのはよく語られるテーマだが、意外にもニホンザルの世界ではオスとメスの友情が成立しているらしい。

 ニホンザルには交尾期と非交尾期があって、その生活は全く違う。交尾期は、地方によってかなり違うが、おおむね、一〇月から四月くらいまでである。
 交尾期のあいだは、オスはメスの尻を追いかけて暮らす。しかし、交尾期をすぎるとオスもメスもたちまち性的関心を失い、性的活動は全く見られなくなる。非交尾期のあいだは、オスはオス、メスはメスの世界に閉じこもっているものとかつては考えられていた。しかしそのあいだに、特定のオスとメスのあいだに親和的関係がうまれ、しかも、その親和的関係にあるオスとメスは、次の交尾期にセックスを避けるという現象が発見されたのである。特定のオスとメスのあいだに、なぜそのような関係がうまれるのか、またなぜ彼らはセックスを避けるのか。

交尾期以外でも特定のオスとメスが仲良くする、しかもそのオスメスは交尾期になっても交尾を避ける。

友情成立してんじゃん……!

えらいなあ、ニホンザルは。
ヒトのオスよりよっぽど抑制きいてるね。

まあ特定のパートナーを持たずに乱交的な関係を築いているからこそ逆に「あえてこいつとはセックスを避けよう」という選択ができるのかもしれないけど。



ぼくも動物園にいるとサル山の前に三十分以上いるぐらいだから、サルを観察するおもしろさはよくわかる。

しぐさが人間的なので(というか人間がサル的なのかもしれないが)どうしても情念たっぷりのストーリーを感じてしまうんだよね。

それは研究者でも同じらしい。
たとえばこんな描写。
(「ミノ63」は63年生まれのミノという名前の個体、「ミノ63・69」はミノ63が69年に生んだ子、「ミノ63・69・74」はその子で74年生まれ)

「ミノの家系というのは、何というか気性の激しい血筋なんですね。七五年に、ミノが娘のミノ63に順位を逆転された話をしましたね。そのときすぐ、それに続いてミノ63とその娘、つまりミノの孫娘のミノ63・69との争いが始まりましてね、噛み合ったまま崖をころがり落ちていったんです。それはちょうど、ぼくが嵐山に入って研究を始めたばかりのときのことで、こんなこともあるのかと、びっくり仰天しました。
 そのとき、一時的には、孫娘が勝ったんですよ。しかし、それも三〇分間くらいでしたかね、形勢が逆転して、結局孫娘は腕を噛み裂かれて敗北しました。しかし、それから二年後に、ミノ63・69が母親のミノ63にリターンマッチを挑み、ついに噛み倒して池の中に落として溺死させてしまうんですよ。ミノ63・69の娘のミノ63・69・74が今のメスガシラですね。こういう栄枯盛衰の流れをたどっていくと、もうまるで平家物語ですよ」

ものすごくドラマチック。
でもこれはサルだから「まるで平家物語」と感じるわけで、クワガタムシだったらここまでのドラマ性を感じないよね、きっと。




ゴリラの音声コミュニケーションについて。
――そういう音声によるコミュニケーションが、いろいろあるんですか。
「ありますよ。たとえばウファファファーン』と馬のいななきに似た声は、<クエスチョン・バーク>といって、″お前に聞きたいことがある。″″お前は何をやってるんだ″を意味します。これをやってみると、必ず相手はこちらをふり向きます。それから、<チャックル・ヴォーカリゼーション>といって、″ボコボコボコ″とあぶくがわいてくるような音は、遊びたいときの誘いの声ですね。ぼくは一○種類ぐらいまねができますよ」
――そういう音声は、人間がまねをしても通じるんですか。
「完全に通じます。かなり発音がへたでも通じます。お前の発音はひどいなという顔でこちらを見ますが、通じることは通じます。これはゴリラのすごいところですね。ニホンザルの音声コミュニケーションもいろいろ知られていますが、いくらじょうずにまねしても、サルはめったに返事してくれません」
なんと。

ゴリラ同士が音声でコミュニケーションをとるだけでなく、ヒトが発した音声をゴリラが理解してくれるのだ。

ヒトとゴリラで会話できるんだ……。

人間の中には「おまえは何をやってるんだ」と訊いてんのに「何をやろうが私の勝手でしょう」みたいなずれた返事をする人もいるから、もしかしたら一部の人間よりゴリラのほうがよっぽど正確に意思疎通できるのかもしれない。



サルの行動を見ていても飽きないように、サルの話もすごくおもしろい。
読んでいて飽きない。

ただ、インタビューである立花氏自身がサルに肩入れしすぎているように見える。

―― ニホンザルにも、ケンカの仲裁行動がありますよね。
「あれは、ボスザルあるいは優位のサルが劣位のサルのケンカを止めるんですね。劣位のサルが優位のサルのケンカを止めに入るということは、絶対ありません。劣位のサルでも、ケンカしているどちらかに加勢するということはある。だいたい強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける。チンパンジーになると、単純に強弱を見るだけでなく、自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする。いずれにしても、自分の利益のために行動している。ケンカを止めること、それ自体を目的として、劣位の者が仲裁行動を起こすというのは、ゴリラ以外ありません」
―― これは、ずいぶん人間的な行動ですね。他のサルは自分の利害と無関係なところで起きているケンカは放っておくのに、ゴリラは自分と直接関係がなくても、身を挺して社会の平和を守ろうとする。かなり高級な精神作用ですね。

必要以上に「人間性」を感じている。この姿勢は好きじゃない。

文学ならこれでいいけど、サイエンスで「身を挺して社会の平和を守ろうとする」とか「高級な精神作用」なんて言っちゃダメだ。

勝手に人間の価値観をゴリラに押しつけちゃいかんよ。
ゴリラにはゴリラの計算があるんだろうから。


だいたい人間なんて、ニホンザルみたいに「強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける」タイプや、チンパンジーみたいに「自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする」タイプがほとんどで、「身を挺して社会の平和を守ろうとする」ような人間はほとんどいないじゃん。

だからゴリラの行動はぜんぜん人間的じゃないよ。人間はそんなにえらくないもん。



あと読んでいて気になったのは、どうも立花氏は「ヒトは生物の進化の頂点」と思いこんでいるフシがあるんだよなあ。

「ヒトこそが生物の理想形で、サルはヒトへのなりそこない」
「サルはどうやったらヒトに近づくか」
みたいな意識がインタビューの節々から感じられる。


はっきり言って古い。考え方が。

ヒトはサルの頂点ではなく単なる一種族だ。

他のサルが進化してヒトになったわけではない。
現生人類は(今のところ)進化の頂点だけど、チンパンジーだって進化の頂点だし、ナメクジだって進化の頂点にいる。

生物として見たとき、ヒトは他の動物より優れているわけではない。
肉体的にはサルの中でも弱いほうだし、脳の大きさでもネアンデルタール人に負けている。

ヒトはたまたま今の地球環境では繁栄できているだけで、強いわけでも優れているわけでもない。

……ってのが今の常識なんだけど、立花氏は「適者生存」を理解していないんじゃないか。

だから必要以上にサルに「人間性」を感じて持ちあげてしまうんだろう。


生物が繁栄するために必要なのは、強いことでも賢いことでもなく、環境に適していること。

立花氏だって偉大な業績を残した人だけど、それは時代や環境にうまく適応できていたからで、あと数十年生まれてくるのがおそかったらセクハラで表舞台から消えていたかもしれないしね。


【関連記事】

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2020年9月4日金曜日

【読書感想文】めずらしく成功した夢のコラボ / 森見 登美彦『四畳半タイムマシンブルース』

四畳半タイムマシンブルース

森見 登美彦 (著)  上田 誠 (企画・原案)

内容(e-honより)
炎熱地獄と化した真夏の京都で、学生アパートに唯一のエアコンが動かなくなった。妖怪のごとき悪友・小津が昨夜リモコンを水没させたのだ。残りの夏をどうやって過ごせというのか?「私」がひそかに想いを寄せるクールビューティ・明石さんと対策を協議しているとき、なんともモッサリした風貌の男子学生が現れた。なんと彼は25年後の未来からタイムマシンに乗ってやってきたという。そのとき「私」に天才的なひらめきが訪れた。このタイムマシンで昨日に戻って、壊れる前のリモコンを持ってくればいい!小津たちが昨日の世界を勝手気ままに改変するのを目の当たりにした「私」は、世界消滅の危機を予感する。『四畳半神話大系』と『サマータイムマシン・ブルース』が悪魔合体?小説家と劇作家の熱いコラボレーションが実現!

おもしろ!

森見登美彦の小説『四畳半神話大系』も映画『サマータイムマシン・ブルース』も大好きな作品だ。
どちらも伏線回収が見事で、見終わった直後にまた見返したくなる作品だ(じっさいどちらも二回ずつ見た)。

そんな二作品が夢のコラボ!

奇しくもぼくは数年前、『四畳半神話大系』の感想文で『サマータイムマシーン・ブルース』について書いている。

「なくなったクーラーのリモコンを取りに行く」ためだけにタイムマシンを使う『サマータイムマシーン・ブルース』という映画がある(奇しくもこれも頽廃的な大学生の物語だ)。『四畳半神話大系』では並行世界の自分の存在を感じとることができ、『サマー・タイムマシーン・ブルース』ではタイムマシンで過去に戻ることができるが、どちらもたいしたことをしない。うまくいかないことは何度やりなおしてもうまくいかないし、付きあう友人は自分の身の丈にあったやつらになる。

ちゃあんとこの二作品の共通点に気づいていたのだ。
えらいぞぼく! いよっ先見の明!


だがこのコラボ作品の存在を知り、おもしろそうと期待すると同時に一抹の不安もおぼえた。

世の中にある「夢のコラボ」はたいていおもしろくないからだ。
両方が遠慮してどっちつかずの無難な内容になったり、片方の持ち味が損なわれてしまったり。へたすると両方の持ち味が失われて「もうこれ誰も得してないじゃん……」になったり。

そんなわけでおそるおそる読んでみた『四畳半タイムマシンブルース』だが、ぼくのつまらぬ心配は杞憂だった。
ちゃんとおもしろい。

両方の良さがちゃんと発揮されている。



オリジナルである舞台版は観たことがないので知らないが、映画『サマータイムマシン・ブルース』はまちがいなくおもしろい作品だ。だが、欠点がある。

それは「前半がとにかくつまらない」ということだ。

大学生の退屈な生活がだらだらと描かれる。
何も起こらない。みんな覇気がない。
伝わってくるのは夏のけだるい空気だけ。観ているこちらまでぐんにゃりしてくる。
おまけにわけのわからないことがちょこちょこ起こる。大きな事件というほどではないのだが、ちっちゃな不可解が積みあげられていくのでもやもやだけが残る。

だがこれは「必要不可欠な伏線」だ。
ただ退屈だった前半が、タイムマシンの登場によって一気に様変わりするところは大きなカタルシスを与えてくれる。
あのつまらないシーンもあのくだらない会話もあの理解不能な行動もぜんぶこういう意味があったのか! と、世界が一変する。

『カメラを止めるな!』に近いものがある。
伏線がつまらないからこそ回収段階がスカッとするんだけど、でも世の中には伏線段階すらおもしろい作品もあるからなあ。


しかし『四畳半タイムマシンブルース』では、その「前半がとにかくつまらない」が解消されている……ようにぼくにはおもえた。
まあこれは『四畳半神話大系』を読んで、「私」、明石さん、小津、樋口師匠、城ヶ崎氏、羽貫さん、相島……といった面々のキャラクターを知っているからでもある。
おなじみのメンバーがどたばたとやっているので「必要不可欠なつまらない前半」もそこまで退屈なものではない。

だからこの小説を読む前に、できたら『四畳半神話大系』だけでも読んでおいたほうがいい。そっちのほうがだんぜん楽しめるはず。

映画版だと、登場人物のキャラクターや関係性が所見でわかりにくかったので、おなじみのメンバーが動き回っているのは助かる。

キャラクターは『四畳半』だが、物語は『サマータイムマシン・ブルース』のストーリーを忠実になぞっている。

つくづくおもうのは「いい脚本だなあ」ということ。
ほんとによくできている。
タイムトラベルというむずかしいテーマを扱いながらも矛盾がない。それでいてやっていることは「クーラーのリモコンを過去や未来に運んでるだけ」なので、ばかばかしさとのギャップがおもしろい。

映画版だとそのストーリーの良さをじっくり味わうひまがなかったんだけど、小説だとじっくり噛みしめることができた。
舞台版は観たことないけど、もしかしたら小説や漫画のほうがマッチしているストーリーなのかもしれない。



ストーリーはちゃんと『サマータイムマシン・ブルース』でありながら、ところどころに『四畳半』をにおわせてくれるファンサービスがあるのもうれしい。あ

「それは君がまだ自分の可能性を試していないからなんだよね。もしもうちの大学へ入学することになったら、新歓の時期に時計台下へ行ってみるといい。そこではありとあらゆるサークルが新入生を迎えようとして待ってますから。無限の未来への扉が開かれている。学生時代を有意義に過ごしたいならサークルに入りなさい。傍観者みたいに外から眺めていたって未来は切り拓けない」
「でも僕、とくに興味のあるサークルなんてないんですけど」
「興味なくてもいいから入りなさい」
 相島氏は眼鏡を光らせてビシャリと言った。
「さもないと君は不毛きわまる四年間を過ごすことになる。たとえばこんな四畳半アパートの一室にひとりで籠もっているとしよう。こんなところにどんな可能性がある? ここには恋も冒険もない。なーんにもない。昨日は今日と同じで、今日は明日と同じ。まるで味のしないハンペンのような毎日ですよ。それで生きていると言えますか?」

下鴨幽水荘がかつて沼だったとか、後付けにしてはよくできたエピソード。

あと『サマータイムマシン・ブルース』では失恋を予感させるオチになっていたのに対し、『四畳半タイムマシンブルースは恋愛成就を予感させる(というかほぼ断定している)のも、個人的には好き。

こういうばかばかしいお話にはとってつけでもいいからハッピーエンドあったほうが収まりがいいとおもうんだよね。

オリジナルの「たぶん無理だけどまだあきらめんぞ!」という印象のラストの台詞も好きだけどね。


【関連記事】

【読書感想】森見 登美彦『四畳半神話大系』



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2020年9月3日木曜日

ふざけんなクアッガ

クアッガという動物がいる。

いや、正確にはいない。もう絶滅したから。

クアッガを知らない人は、ぜひ一度その姿を見てほしい。
絶滅したのが19世紀なので、写真も含め、わりと正確な資料が残っているのだ。

クアッガ の検索結果


どうです。
驚いたでしょう。

ぼくもびっくりした。

うそでしょ。こんな冗談みたいな生き物いんのかよ(今はいないけど)。


上半身(四つ脚の場合は前半身っていうのか?)はシマウマ、下半身(後半身)はウマ。

キメラじゃん。
これが許されるなら、ケンタウロスや人魚だって余裕で実在しうるでしょ。


世の中にはいろんな動物がいる。

シマウマだってキリンだってゾウだって、見慣れているから驚かないだけで、大人になってからはじめて見たらきっと驚いただろう。

うそでしょ。こんなふざけた動物いんのかよって。

まったく知識のない状態で「めちゃくちゃ鼻が長くて、その鼻で食べ物をつかんで口に運ぶことができる、クマよりでかい動物がいる」って聞かされたらまちがいなく「うそつけ」って言ってる。

でもまあ、見たら一応わかるじゃん。
一見ふざけたように見えることにも、ちゃんと理由があるんだって。

ゾウだったら、身体がでかいから太い脚でしっかり身体を支えないといけない。
だから手足を上手に使えない。
その代わり鼻が発達したんだろうなって。
一応理にかなってるわけじゃない。

キリンの長い首だって意味がある。

シマウマはシマがあることで、蚊に刺されにくくなるらしい(ソースは『ダーウィンが来た!』。

みんなちゃんと意味があるわけ。
(まあパンダの模様は意味わかんねえけど)

クアッガの半分だけ縞模様は意味がわからない。

上半身だけ蚊に刺されにくくしてどうすんの?
その分下半身が刺されやすくなるだけじゃん。

クアッガの縞模様は発展途上だったんだろうか。
ゆくゆくはシマウマみたいに全身縞模様にするつもりだったんだろうか。
クアッガはシマウマになる途中だったんだろうか。

それにしても。

 はじめは薄い縞模様 → ちょっと濃い須磨模様 → シマウマ

みたいな経路をたどるんじゃないの? 進化って。

 はじめは頭だけ縞模様 → 半分ぐらい縞模様 → シマウマ

とはおもえないんだけど。


なんであんな変な模様なんだろう。

と考えていて、ぼくはついに「クアッガが前半身だけ縞模様になった理由」に関する有力な仮説を思いついた。

それは……

 クアッガはズボンと靴下を履いていたから!


2020年9月2日水曜日

【読書感想文】刺身はサラダなのだ / 玉村 豊男『料理の四面体』

料理の四面体

玉村 豊男

内容(e-honより)
英国式ローストビーフとアジの干物の共通点は?刺身もタコ酢もサラダである?アルジェリア式羊肉シチューからフランス料理を経て、豚肉のショウガ焼きに通ずる驚くべき調理法の秘密を解明する。火・水・空気・油の四要素から、全ての料理の基本を語り尽くした名著。オリジナル復刻版。

料理はむずかしい。

なんせやることが多い。
「動詞」が多いんだよね。

焼く、炒める、煮る、炊く、茹でる、湯がく、炊く、蒸す、揚げる、燻す、さっとくぐらす、チンする。
加熱する系の動詞だけでもこんなにある。

それにくわえて、捌く、和える、切る、割る、剥く、おろす、漬ける、浸す、研ぐ、砕く、こねる、冷ます、包む、混ぜる、調える、濾す、くわえる、絞る、かける、混ぜる、寝かす、発酵させる……。

もうやることが多すぎてわけがわからん。


『料理の四面体』では、そんな複雑きわまりない料理の工程を大胆に因数分解して、シンプルな構造に落としこむ試みをしている。

著者は、火、空気、水、油の四つを重要な要素と置き、あらゆる料理はその四つの関わりによって位置づけることができると説いている。

火に空気の働きが介在してできるのが「焼きもの」
火に水の働きが介在してできるのが「煮もの」
火に油の働きが介在してできるのが「揚げもの(炒めもの)」

である。
豆腐を例にとれば、火と空気を用いれば焼き豆腐、火と水をくわえれば湯豆腐、火と油を加えれば厚揚げ、火と油を加えたのちに火と水を与えれば揚げ出し豆腐、火を使わなければ冷奴……。

程度の差こそあれ、いずれも「火、空気、水、油」との関わりによって説明できるとしている。

ふうむ。
なるほど。そんなふうに料理をとらえたことがなかった。

 実は名前や由緒にこだわらなければ、基本の手順をひとつ知っているだけで、素人にも二〇や三〇のソースの種類はたちどころにつくりわけることができるのだ。いや二、三〇ではきかない、一〇〇、それどころか一〇〇〇種類といっても言い過ぎではないかもしれぬ。これは冗談でも誇張でもない、本当の話である。 
 肉を炒めたあとのフライパンに〝汁〟を入れて油脂・肉汁をこそげ落し混ぜ合わせることをフランス料理の言葉で、〝デグラッセ(霜とり)〟と称するが、デグラッセする〝汁〟のほうはワインでも生クリームでもブイヨン(出し汁)でもなんでもよい。つまりこの〝汁〟を変えることだけでさまざまの種類のソースができることになる。
 ワインでデグラッセすればワインソース。
 生クリームでデグラッセすればクリームソース。

 刺身はサラダである。
 本当だ。
 マグロの刺身というものは、マグロの刺身だ、と思って眺めると、マグロの刺身としか思えない。
 しかしマグロの刺身を、これはサラダなのだ、と思って眺めると、だんだんサラダに見えてくるから不思議である。
 いま眼前に、美しい皿にかたちよく盛られたマグロの刺身があるとしよう。
 皿の手前に、赤い部分と、ピンク色に脂肪ののった部分のほどよく混じりあった、しっとりした肌をなまめかしく輝かせているマグロの切り身が数片並んでいる。
 そのマグロの身をうしろから支えるように、大根の千六本がこんもりと敷かれ、その横にミョウガのセン切りが少し置かれ、背後にはシソの大葉がピンと立てられていて、わきにレモンの輪切りが一枚飾られていて、端にワサビがある。
 その皿の手前に、小さな皿があって、その中には醤油が入っている。
 どうだろう。まったくサラダではないか。
 これがサラダであることがまだ認識できないならば、ハシをとって、皿の上にあるものをすべてぐちゃらぐちゃらに撹拌してみればよろしい。マグロの身もツマの野菜もすべて渾然とミックスして、その上から小皿の醤油を注ぎ、もう一度かきまわす。
 どうだろう。ミックス・サラダではないか。
 材料はマグロと大根とミョウガとシソ葉。
 ドレッシングはレモンから出た汁と醤油。スパイスはワサビである。
 しばらく置くとマグロの身の脂肪分がいくらか溶け出してドレッシング液に油滴が光りはじめ、ますます一般的概念の〝サラダ〟に近い姿になって行く。
 つまり刺身はサラダなのだ。

こんな感じで、大胆に料理をくくっていく。

たしかに、刺身とサラダの明確な境界線なんてないよなあ。
刺身はふつう野菜といっしょに出されるし、サラダにツナとかタコとかサーモンが入っていることはめずらしくない。

刺身はサラダ。たしかになあ。
おもいもよらなかったけど、言われてみればそのとおりだ。

けっきょく刺身と海鮮サラダの間に明確な差異があるわけではなく、認識の違いでしかないんだよね。

「天丼の主役は当然エビ天でしょ」という人もいれば、
「いやいやエビ天がなくても天丼になるが、ご飯がなくては天丼とはいえない。やはり天丼の主役はほかほかのごはんだ」という人もいるし、
「天丼の主役はタレに決まってるだろ。私はタレを食べるために天丼を食べている」という人だっているだろう。

魚を主役とおもえば刺身、野菜を中心としてとらえればサラダ。それだけ。



ってな感じで各料理を「火、空気、水、油」との関わりでくくっていけば、世の中にごまんとある料理もじつはいくつかのパターンの組み合わせでしかないことに気づく。

……というのが『料理の四面体』の内容だが、はっきりいってこれに気づいたところで何の役にも立たない。

料理が上手になるわけでもないし、出された料理がおいしく感じられるわけでもない。

ただ「料理って意外と単純かも」とおもえるだけだ。
料理はややこしいとおもっている人からすると、ちょっとだけ苦手意識が薄れるかもしれない。

でもまあ、それでいいんじゃないかな。
役に立つようで立たない、理屈のような屁理屈のような話を読むのはただ単純におもしろかったから。

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