『失敗の本質
日本軍の組織論的研究』
戸部 良一 / 寺本 義也 / 鎌田 伸一
/ 杉之尾 孝生 / 村井 友秀 / 野中 郁次郎
太平洋戦争(本書の中では「大東亜戦争」と表現されている)で日本が惨敗に至った理由を探るため、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という六つの作戦の背後にどのような失敗があったのかを分析し、そこから日本軍、ひいては日本社会が抱える「失敗の本質」を見いだそうとする本。
著者たちも「こうすれば日本はアメリカに勝てた」と考えているわけではない。
ただ、もっとうまく負けることはできた、もっと犠牲を少なくできた、もうちょっとマシな講和条約を引きだせた可能性は十分にあったと指摘している。
じっさい、日本がアメリカに勝てた可能性は一パーセントもなかっただろう。
どんな作戦をとっていたとしても、部分的に勝利することはあっても最後には敗北を喫していただろう。
だが「もっといい戦い方があったのでは」と研究することはたいへん意味のあることだ。
敗戦分析は、軍事にかぎらず、ビジネスや教育や政治などあらゆる局面で「何が失敗を引き起こすのか」を教えてくれる。
しかし我々は敗戦分析が好きじゃない。日本人の特質なのか、人間共通の性質なのかはわからないが、失敗からは目を背けたがる。
サッカーワールドカップなんかでも、試合前はああだこうだと様々な分析がおこなわれるのに、敗退が決まったら潮が引くように報じられなくなる。勝ったら「〇〇が活躍した」「この采配が当たった!」と喧伝するのに、負けたときは何も言わない。
「負けたのは誰のせいでもない」と責任の所在を明らかにしない。
「私が悪かった」という人間はいても「じゃあどこをどうしていたら良かったのか」と追及する人間はいない。
負けた人たちを誰も責めない。
それどころか「負けたけどよくがんばった。胸を張って帰ってこい!」と、逆に褒めたりする。
敗戦から学ぼうとする人の姿はどこにもない。
「絶対に負けられない戦いがある」ということは、裏を返せば「負けたらその戦いはもうなかったことになる」である。
日本が惨敗した原因はいろいろあるが、あえてひとつ挙げるなら「負けから何も学ばなかった」ことに尽きる。
ノモンハン事件は日本にとってはじめての近代戦、ミッドウェー作戦は不運にも見舞われた戦いだった。ここで負けたのはある程度しかたがない。
しかし日本軍はそこから何も学ばなかった。
生き残った者を卑怯者とみなしたため、敗戦の経験を持つ指揮官は左遷されたり、自殺したりした。
敗者の貴重な体験がその後に活かされなかった。
どんな強い軍隊でも全戦全勝というわけにはいかない。世界最強のアメリカ軍がベトナムゲリラに敗れたりする。だからこそ「負ける可能性を低くする」ことは重要だ。それは「絶対に負けない」とはまったく違う。
日本軍は「必勝の信念」を持って戦略を決めていた。作戦不成功のことを考えるのは士気に悪影響を及ぼすと考え、失敗のことは考えないようにしていた。これでは勝てるわけがない。
失敗することを考えない組織は大失敗する。
日本軍の不運は、はじめはうまくいったことにあるのかもしれない。
日清、日露戦争で大国を破った。パールハーバーの奇襲作戦も成功した。開戦直後は連戦連勝だった。
これが「負けから学ぶ」機会を奪ったのかもしれない。
成功体験が大きいほど、負けを認めるのは難しい。
「負けられない」は「負けを認められない」である。
誰もがもうだめだとうすうす気づいている作戦から、いつまでも撤退できなくなる。
戦後もその意識は変わっていない。ほとんどの組織は負け戦がへただ。
国民年金はいい制度だったが、もう破綻することが避けられない。
日本はものづくりで戦後の復興を果たしたが、いいものを作れば売れる時代は終わった。
自動車産業も電機メーカーも大手銀行も繁栄したが、ビジネス形態自体が時代遅れになりつつある。
書店は文化や教育の水準を向上させることに貢献したがもう売れない。
家を買えば将来の安心につながったが今や不安材料のほうが大きい。
みんな気づいている。だけど認められない。
「ここまでやってきたことは失敗でしたね」とは誰も言えない。誰かに言ってほしいと思っているが、自分は言いたくない。
誰かに止めてほしいけど自分で終わりにしたくはない。
「オリンピックなんてもうやめたら」と言う人間はいても、「おれがやめさせる」と言える人間はいない。かくして、これはまずいと思いながら引き返せずにどんどん深みにはまってゆく。抜けだすのはますますむずかしくなる。
この本が上梓されたのは1984年だが、こういう報告が戦後四十年近く経つまで成されなかったということこそが我々が「負け戦がへた」だということを表しているように思う。
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