2024年1月9日火曜日

【読書感想文】山崎 雅弘『未完の敗戦』 / 批判が許されない国

このエントリーをはてなブックマークに追加

未完の敗戦

山崎 雅弘

内容(e-honより)
コロナ対策、東京五輪強行開催、ハラスメント、長時間労働、低賃金…。なぜ日本ではこんなにも人が粗末に扱われるのか?そんな状況と酷似するのが戦中の日本社会だ。本書では、大日本帝国時代の歴史を追いながら、その思考形態を明らかにし、今もなおその精神文化がはびこっていることを様々な事例を通して検証。敗戦で否定されたはずの当時の精神文化と決別しなければ、一人一人の命が尊重される社会は実現しない。仕方ない、という思い込みとあきらめの思考から脱却するための、ヒントと道筋を提示する書。


 日本は無謀な戦争につっこんでいった大日本帝国時代の総括をまだきちんとできていない。それどころか民主主義を否定し、戦前の時代に近づけようとする輩が跋扈している……と警鐘を鳴らす本。


 書いてる内容自体にはすこぶる共感できるんだけど、さして新しい主張ではないのと、著者の気持ちが強く出すぎていて、新書を読んでいるというより演説を聞いているような気分になる。

 演説って不愉快なんだよね。選挙の街頭演説なんて、主張に賛成だろうと反対だろうと、どっちにしろ気持ち悪い。人前で「おれはこうおもう!おれは正しい!」って唱えてる声が聞こえてくるだけで気分が悪くなる。

 クールな視点で淡々と書くからこそ届くものってあるとおもうんだけどね。




 二〇二一年五月十四日、菅首相は首相官邸での記者会見で、記者から「東京五輪を開催するメリットとデメリットは何か?」と問われて「五輪は世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものだ」という「メリットだけ」を答え、「デメリット」には一切触れませんでした。
 菅首相は、六月二日夜に首相官邸で応じた記者の「ぶら下がり」取材でも、記者からの「東京五輪を開催すべきだという理由をどのように考えるか?」との質問に対し、次のように答えました。
「まさに平和の祭典。一流のアスリートがこの東京に集まってですね、そしてスポーツの力で世界に発信をしていく。さらにさまざまな壁を乗り越える努力をしている。障害者も健常者も、これパラリンピックもやりますから。そういう中で、そうした努力というものをしっかりと世界に向けて発信をしていく。そのための安心安全の対策をしっかり講じた上で、そこはやっていきたい。こういう風に思います」
 まるで、オリンピックという商品を売るセールスマンのような、東京五輪の「良い面」だけを強調する言葉ばかりで、日本の首相として日本国民の命と健康と暮らしを優先順位の第一位にするという責任感は微塵も感じられません。

 首相が国民のことを考えないのは今にはじまったことでないからもう慣れっこになってしまったんだけど(ほんとはそれもよくないんだけど)、良くないのはそれをそのまま垂れ流す報道機関。

 首相が質問に真っ向から答えなかったときは「~と、首相はデメリットを隠した」と伝えなきゃいけないのに。


 戦争中、日本の大手新聞三紙(朝日、毎日、読売)とNHKラジオは、大本営すなわち政府と軍部の戦争指導部による発表の内容を無批判に社会へと伝達し、国民が「敗戦」を受け入れる心境にならないようにする心理的な誘導に加担しました。
 新型コロナ感染症が国内で大流行している最中でも、感染予防よりオリンピックの開催が大事であるかのような、戦争中の戦意高揚スローガンを彷彿とさせる薄気味の悪い政治的アピールの言葉が、日本の総理大臣の口から繰り返し語られ、NHKと大手新聞各紙、民放テレビ各局が、それらの言葉をほとんど無批判に報じて、政府広報のような役割を果たす図式は、戦争中の図式と瓜二つだったと言えます。
 本章で具体的な事例と共に紹介した、新型コロナ感染症流行下でも東京五輪の開催に固執し続けた菅首相と日本政府の姿勢に見られるのは、厳しい現状と「こうあって欲しいという願望」を混同する思考形態の危うさです。

 おかしな人はいつの世にもいるし、私利私欲に走るのは人間としてあたりまえの姿だ。だからこそ定められた手続きを踏まないといけないし、そのプロセスを公開して批判的な意見を集めるのが民主主義国家だ。

 ずるいやりかたでお金儲けをするのが大好きな人が「税金でオリンピック! 税金で万博&カジノ!」と叫ぶこと自体はあたりまえのことで、そいつらを根絶やしにするのは不可能だ(オリンピックや万博にだってメリットがないわけではないし)。

 必要なのは、オリンピックや万博で儲けようという政治家に対してきちんと批判の目を向けること。

 なのだが、本邦では新聞社やテレビ局がオリンピックのスポンサーになっているわけで……。




 先の戦争で、無謀な特攻により多くの兵士が戦死した。ぼくは“無駄死に”だとおもう。特攻兵は悪くない。特攻を考案して強引に推し進めたやつが悪い。

 鴻上尚史『不死身の特攻兵』によると、特攻は人道的でないだけでなく、戦術としても愚策だったそうだ。斜め上からの攻撃だと戦艦に大きなダメージを与えられない、爆弾を落とすよりも飛行機で突っ込むほうが衝突時のエネルギーが小さい、引き返せないのでタイミングが悪くても無理して攻撃しなければいけない、そして操縦技術を習得した兵士や戦闘機を失うことになる……。どこをとってもダメダメな攻撃だ。ダメダメな攻撃で死んだので特攻死は犬死にだ。

 が、こういうことを書くと文句を言うやつがいる。「国を守るために命を落とした英霊を侮辱する気か!」などとずれたことを言う、論理性のかけらもない人間がいる。

 このように、靖国神社という特殊な施設は、戦前戦中の日本において、軍人が死ぬという「マイナスの出来事」を、「国難に殉じた崇高な犠牲者」という「プラスの価値」へと転化し、教育勅語に基づく教育によって国民に定着した「天皇のための自己犠牲を国民の模範とする風潮」をさらにエスカレートさせる役割を果たしていました。
 こうした精神が膨張すれば、日本軍人が戦争でいくら死んでも「失敗」や「悪いこと」とは見なされなくなります。当時の大日本帝国の戦争指導部は、どれほど多くの軍人を前線や後方で死なせても、靖国神社という施設が存在する限り、無制限に「免責」される。つまり指導部の道義的な責任を問われない仕組みが成立していました。
 死亡した日本軍人が、靖国神社で自動的に「英霊」として顕彰されるなら、その死を招いた原因は追及されません。なぜなら、彼らの死の原因が戦争指導部の「失敗」や「不手際」ということになれば、「英霊」の名誉も傷つく、との考えが成り立つからです。

 戦争の話だけではない。2021年の東京オリンピックのときもやってることは変わらない。

 感染症対策、莫大な費用、汚職にまみれた誘致、やらないほうがいい理由は山ほどあった。けれど「このために何年も努力してきたアスリートが……」「闘病から復帰した女性アスリートの夢が……」と美談らしきものを引っ張り出してきて、政府とマスコミが一丸となって「やるしかない」ムードを作り上げていた。

「ここで降伏したら国のために命を捧げてきた英霊たちの犠牲が無駄になる」の時代とやっていることは変わらない。




 この本で書かれているのは至極まっとうなことで、批判的精神を持ちましょう、批判を認めましょう、ということだ。

 でも批判を許さない風潮は今でも強い。

 たとえば政治について「もっといいやりかたがあるんじゃないか」「こうすればもっとよくなるんじゃないか」とおもうから政権批判するわけだけど、それだけで反射的に「なんでもかんでも反対するな! アカが!」と青筋立てる連中がいる。

「自民党がやるからすべて賛成!」の人と「もっといいやりかたがあるはず」の人ではどっちが真剣に考えているか明らかだとおもうんだけど、後者許すまじの人はすごく多い。

「盲目的に従わないやつは反抗的」って考えは強いんだよね。政治でも、企業でも、学校でも。




 著者が書いていることには概ね同意できるんだけど、読めば読むほど
「でも、こういう本を出しても、ほんとに届いてほしい人には届かないんだよなあ」
という虚しさをずっと感じてしまう。


【関連記事】

【読書感想文】鴻上 尚史『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』 / 死ななかった優秀な特攻兵

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』



 その他の読書感想文はこちら


このエントリーをはてなブックマークに追加

0 件のコメント:

コメントを投稿