2020年2月28日金曜日

ガリバーは巨人じゃない

電通(企業)のことを形容する言葉として、「広告界のガリバー」というのがあるらしい。

ふうん。まあ巨大代理店だもんなあ。

……ん?
まてよ。
大きいことを表すのに「ガリバー」っておかしくないか?

よく考えたら、ガリバーはでかくないぞ。
小人の国リリパットに行ったから巨人扱いされただけで、ごくふつうの人間だぞ。
しかもその後は巨人の国に行って小人扱いされてるし。

比喩がまちがっている。
まあ「じっさいは大したことないものを大きく見せる」のは広告の常套手段だから、広告代理店である電通を「じっさいは大きくないのに大きそう」なイメージのあるガリバーに例えるのは、あながちまちがいでもないかもしれない。



比喩がまちがっている例はほかにもある。

いちばん有名なのはフランケンシュタインだろう。
モンスターを生みだした博士がフランケンシュタインなのに、怪物の代名詞として使われている。

あと高校生の集まる大会を「俳句甲子園」「漫才甲子園」などというのも気に入らない。
甲子園は野球の全国大会がおこなわれる球場の周り一帯をあらわす地名だ。大会の名前じゃない。
「俳句界の全国高校野球選手権大会」というべきではないだろうか。俳句なのか野球なのかわからんな。
そもそも高校生による大会を別の高校生の大会で例えるって、変じゃないか? エルサレムのことを「キリスト教のメッカ」と呼ぶようなものだ。



以前、津波の映像を流しながらアナウンサーが「まるで怒涛のように津波が押し寄せています!」としゃべっていた。
怒涛のようじゃなくてそれが怒涛そのものなんだよ!

「怒涛」なんてほとんど比喩でしか使わないから本来の意味が失われつつあるのだ。

走馬灯とか金字塔なんて比喩でしか見ないもんな。
金字塔はピラミッドのことだけど、九割の人は知らずに使っている。



比喩でよく使われる人名がある。
必ずしもその人物自体の知名度と一致していないのがおもしろい。

ドン・キホーテやユダなんて、たいていの人はよく知らない。
なのに名前と「無謀」「裏切者」という強烈なイメージだけは知っている。

ちなみに世界三大有名な裏切者は、ユダ、ブルータス、明智光秀だ。
彼らには彼らの正義があったはずなのに、何百年何千年も裏切者の汚名を着せられるなんてかわいそうに。


日本人でいちばん比喩に使われる人物は、弁慶じゃないかとおもう。
物語ではたいてい牛若丸(源義経)が主人公だが、比喩の世界では弁慶が義経を抑えての堂々の一位だ。

同じく、主人公よりも多く比喩で使われる人物として、ワトソンがいる。
物語の世界では「ワトソン役」という言葉はあるが「ホームズ役」とは言わない。

主人公は案外個性がないのかもしれない。脇役のほうが独特のイメージがついていることが多い。
「孫悟空みたい」より「ヤムチャみたい」のほうがイメージが明確だし、
「桜木花道かよ!」より「ディフェンスに定評のある池上かよ!」のほうが強烈な印象を与える。



日本人にかぎらなければ、比喩の世界でいちばんよく使われる人物はジャンヌ・ダルクじゃないだろうか。

ちょっと女性が活躍するとすぐに「〇〇のジャンヌ・ダルク」と言われる。
Wikipediaにジャンヌ・ダルクの異名を持つ人物の一覧なる項目があるぐらいだ。

ちなみに、十年ぐらい前までは高校野球界にすごいバッターが現れるとすぐに「清原二世」と呼ばれていた(「〇〇のダルビッシュ」も大量にいた)。
さすがに清原氏が逮捕された今ではもう言わないだろうな。
次に呼ばれるのは甲子園で活躍した後覚醒剤で逮捕された選手が現れたときぐらいだろうな……。


2020年2月27日木曜日

修羅場発表会

小学校お受験をさせた友人から聞いた話。

人気の附属小学校ということで、倍率は五倍を超えていたそうだ。
当然合格発表の会場には落ちた側の人のほうが圧倒的に多いわけで、その会場が修羅場だったそうだ。

「もうそこかしこで泣いてるわけよ。親も子も」

 「まあそういう人もいるだろうね。
  しかし六歳の子どもも泣くんだねえ。状況を理解してるんだろうか」

「理解してないからこそじゃない?
『これで合格しなかったら人生終わり』ぐらいに脅されてきたのかもしれない」

 「あーそりゃ泣くわ」

「怒ってる人もけっこういたなあ」

 「怒る? なにに?」

「子どもに向かって『ちゃんとやらなかったからでしょ!』って怒ってる親とか」

 「ひええ。落ちてから子どもに怒ってもしょうがないだろうに」

「あと捨て台詞を吐く母親とか」

 「どんな?」

「『こんな学校つぶれてしまえ』みたいな」

 「うわー……。こわっ」

「うちは合格してたんだけどね。
 でも喜べるような雰囲気じゃなかったから沈痛な顔して外に出てから喜んだ」

 「小学校受験って、親の様子も見られるんでしょ?」

「うん。親子でいっしょに取り組む課題とかあって」

 「じゃあ、落ちてから子どもに怒る親とか、捨て台詞を吐く親とかは、ちゃんと試験官がそういうところを見抜いて落としたのかもしれないね」

「あー。そうかも。だとしたら試験官、すごいなあ。
 ちゃんと本質を見抜いている」

 「ね。だから怒ってる母親に言ってやればよかったのに」

「なんて?」

 「『おかあさん、そういうとこですよ』って」

「殺されるわ!」


2020年2月26日水曜日

すさみソビエト

和歌山県にすさみ町という町がある。

ひらがなですさみ。すごい名前だ。
周参見(すさみ)町が1955年に他の村と合併して、ひらがなの「すさみ町」が誕生したらしい。

なんでわざわざひらがなにしたのだ。
どうしたって「荒(すさ)む」を連想してしまうのに。
周参見町でよかったのに……とおもったけど、Wikipediaを見たら周参見町の由来も「海を波風が激しく吹きすさんでいたことより。」とある。
なんと。もともと「荒む」だったのだ。

古くからの地名だと、ネガティブな名前がついていたりする。「墓」がつく地名があったり。ぼくの家の近くの交差点も、かつては「斎場前」という名前だったらしい。

しかし市町村の名前が「すさみ」って……。もしかしたら日本で唯一のネガティブ市町村名かもしれない。
鳥取県や茨城県あたりがよく自虐的なキャッチコピーでPRしているけど、さすがにネガティブな町名まではつけないだろう。
よくこの名前が六十年以上も生き残ってきたものだ。改名しようと言いだす人はいなかったのだろうか。

もしかしたらほんとに町民の心がすさんでしまって
「もういいんじゃねえか。どうせ若いやつはみんな出ていくんだし。おれたちにぴったりの名前だよ」
なんて会話が町議会でおこなわれているのかもしれない。

そのうち「心もすさむ すさみ町」なんてキャッチコピーでPRしだすかもしれない。いや、心がすさみすぎてそんな気力もないか。



それはそうと、このすさみ町のWikipediaページを見ていたら気になる記述を見つけた。
2014年8月1日、政府は当町沿岸にある小島の一つに、「ソビエト」と命名することを発表した。釣り人の間で言い習わされてきた呼称だが、その由来は不明であるという。
Wikipedia すさみ町より) 
ソビエト……?
なぜ和歌山にソビエトが……。
しかも政府公認の名称だ。

ふしぎだ。
オホーツク海の島とかならわかる。
地元の漁師が「あれはソビエト領だ」と勘違いしてそのまま「ソビエト」という名前になってしまった……みたいなストーリーが容易に想像できる。

しかし和歌山県の小島だ。太平洋にソビエト領があるわけがない(もしロシアが太平洋に拠点を持っていたら世界の勢力図は大きく変わっていたかもしれない)。

なぜソビエトが和歌山にあるのだろう。
地元漁師の間に伝わる通称としてあるだけでなく、政府公認の名称ということがまた驚きだ。
勝手によその国の名前をつけていいんだ。
まあアメリカ村とかドイツ村とかスペイン村とかオランダ坂とかトルコ風呂とかあるしな。いいんだろうな。
海外にも「ニッポン村」「ジャパン崖」みたいなのがあるのかもしれないな。

それに「ソビエト」はたしか固有名詞ではなく評議会を指すロシア語の一般名詞だったはず。
だいたいソビエト連邦はもうないしな。
うん、まったく問題ない。

よしっ。
今日から我が家の浴室は神聖ローマ風呂、トイレはオスマン・トイレだ!

2020年2月25日火曜日

【読書感想文】ネコが働かないのにはワケがある / 池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』

自分では気づかない、ココロの盲点

池谷 裕二

内容(Amazonより)
脳が私をそうさせる。「認知バイアス」の不思議な世界を体感。たとえば買い物で、得だと思って選んだものが、よく考えればそうでなかったことはありませんか。こうした判断ミスをもたらす思考のクセはたくさんあり、「認知バイアス」と呼ばれます。古典例から最新例までクイズ形式で実感しながらあなた自身の持つ認知バイアスが分かります。
脳科学や行動経済学の本をほとんど読んだことのない人なら目からうろこの内容がてんこもりなんじゃないかな。

「かんたんにわかる心理学」みたいな本って玉石混交なんだけど(というか九割ゴミ)、池谷裕二さんの本は安定しておもしろい+根拠もしっかりしている。
『進化しすぎた脳』も『単純な脳、複雑な「私」』もわかりやすくおもしろかった。

『自分では気づかない、ココロの盲点』でも出典を明らかにしていて(また聞きではなくオリジナルの実験)、「こういう実験をしたらこんな結果が出ましたよ」と書くにとどめて「だから必ず〇〇のときは××になる!」みたいな乱暴な結論は書いていない。

さらにクイズ→解答+解説 という構成にすることで、多くのトピックをテンポよく紹介している。
よくできた本だ。講談社ブルーバックスなので中高生におすすめしたい。

とはいえ池谷さんの著書を何冊か読み、行動経済学の本も読んできた身としては毎度おなじみの話題が多くていささか退屈。『進化しすぎた脳』のほうがより深い知見が得られるとおもうな。



6種類の商品を販売したときと、24種類の商品を販売したときで売上がどう変わったかを示す実験。
 脳が同時に処理できる情報量は有限です。許容量を超えると、選ぶこと自体をやめてしまいます。
 6種類のブースのほうが、24種類のブースの7倍の売り上げがありました。
 通りかかった客が足を止める確率は、24種類のほうが上でした。おそらく商品棚が目立つからでしょう。しかし、実際に商品を買ってもらえる客の割合は、6種のブースでは30%だったのに対し、24種のブースでは3%に留まりました。
 さらに客の満足度も、品数が少ないブースのほうが、高かったのです。客のことを考えると、つい多くの選択肢を用意したくなりますが、それは偽善的な自己満足です。
「偽善的な自己満足」は言い過ぎだとおもうが、これはよくある話だ。

こないだiDeCo(個人型確定拠出年金)という金融商品の資料請求をおこなった。
iDeCoの説明が書いたパンフレットが送られてきて、ふむふむよさそうだな申し込んでみようかとおもってパンフレットの後半を見たら、商品が数十種類並んでいた。
わ、わからん……。
これが三種類ぐらいだったら「Cはないし、AとBだったらAのほうが良さそうだからAにしよう」とすぐ決められるのに。数十種類あったらはたしてどれがいちばんいいのかわからない。
で、結局パンフレットを放りだして申し込みをしないまま今に至る。
こういうときに誰かが「いちばん人気なのは××か△△ですね」と言ってくれたら「じゃあそれで!」と飛びついてしまうだろう。

こういうのってものにもよるけどね。
お昼の定食だったら五種類ぐらいでいいけど、居酒屋でおつみまみを頼もうとしたら五種類しかなかったらもう二度と来たくない。

選ぶ楽しみのある場合と、選ぶことに頭を使いたくない場合があるよね。



二つのグループに写真を見せる。片方のグループは写真を見て受けた印象を語り、もう片方は何も語らない。
しばらくして何枚かの写真を見せて「前回見た写真は?」と尋ねると、印象を語ったグループのほうが正解率が低かったという実験結果。
 言語は便利な道具ですが、完璧ではありません。たとえば、山頂から眺めた雄大な夕日の風景や、高尚な芸術作品に心を打たれたときの感動は、「言葉にならない」はずです。無理に言語化したところで、紡がれた言葉はどこかウソっぽく、もどかしい残余感があります。
 言語化とは、言葉にできそうな容易な部分に焦点を絞り、その一部を切り取って強調する歪曲化です。
 設問のケースでは、言葉で説明することによって記憶が歪められ、かえって想起しにくくなってしまいます。事件を目撃した人が、犯人の顔の特徴を警察に報告すると、あとで真犯人を見たときに正しく認識しにくくなることも知られています。
ぼくは文章を書くのが好きなので、言語化が得意だ。
映画を観終わってから「どんなストーリーだったか一分で語ってください」と言われたら、そこそこうまく要約できる自信がある。
一方、妻は言語化が得意でない。
ふたりで映画を観てから感想を語りあっても、妻からはあまり感想が出てこない。

ところが、映画のワンシーンや台詞や音楽のことをおぼえているのは圧倒的に妻のほうだ。
彼女が、目にしたもの、耳にしたものをそのままの形で記憶している。だから「あるシーンの二人の役者のやりとり」を一字一句正確に再現できたりする。
一方ぼくは観たものを自分の言葉に変換して圧縮してから脳に格納しているので、再現ができない。「たしかジャイアンとスネ夫が勝手にバギーに乗って出かけちゃって、朝になってそれを知ったドラえもんたちがあわてふためくんだよね」といった大まかな説明しかできない(『のび太の海底鬼岩城』を例にとると)。そのときドラえもんが発した台詞は圧縮時に削除されている。

どっちがいいという話ではないが、記憶の仕方は「おおざっぱにしか覚えないが、短期的に多くの情報を処理できる」と「正確に覚えられるが、記憶するのに時間がかかる」というべつのやりかたがあるのはまちがいない。
だから、何かを覚えるため要点をメモするのは考えものだ。要点メモは大まかに覚えるのには向いているけど、正確に記憶するためにはかえって足をひっぱることになるかもしれないから。



「レバーを押すと餌が出る装置」と「何もせずに餌が出る装置」があれば、ほとんどの動物は前者を好むという実験結果。
 不思議なことに、皿から餌を自由に食べられるにもかかわらず、わざわざレバーを押します。苦労せずに得られる皿の餌よりも、労働をして得る餌のほうが、価値が高いのでしょう。
 実は、これはイヌやサルはもちろん、トリやサカナに至るまで、動物界にほぼ共通して見られる現象で、「コントラフリーローディング効果」と呼ばれます。
 ヒトも例外ではありません。同様な実験を、就学前の幼児に対して行うと、ほぼ100%の確率でレバーを押します。成長とともにレバーを押す確率は減りますが、大学生でも選択率は五分五分で、完全に利益だけを追求することはありません。
(中略)
 ちなみに、これまで調べられた中で、コントラフリーローディング効果が生じない唯一の動物が飼いネコです。ネコは徹底的な現実主義で、レバー押しに精を出すことはありません。
ふははは。
さすがネコ。
賢いというか怠惰というか。

根っからの貴族体質なんだな。やはり人間はネコの従順たるしもべとして働くために生まれてきたんだな。

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2020年2月23日日曜日

悪意なき凶器


中学生のとき、田舎のおばあちゃんがうちに来た。
会うのは数年ぶり。

おばあちゃんはぼくの姉(中学生)を見るなり
「まーよう肥えたねー」
「ほんとによう肥えたわー」
とくりかえし言った。

ことわっておくが、姉は太っていなかった。どっちかといったら細身のほうだった。
そしておばあちゃんは決して意地悪な人ではなかった。むしろ孫には甘い顔しか見せたことのない人だった。

つまり、おばあちゃんには孫を傷つける意図は微塵もなかったのだ。
おばあちゃんの「よう肥えたね」は「大きくなったね」とか「すっかり大人の女性らしくなったわね」の意味だったのだ。

だがその言葉を肯定的に受けとる余裕は、思春期の女子中学生にはなかった。
姉は翌日からダイエットをはじめ、ごはんを残すようになった。



善意はときに凶器になる。
善意だからこそ傷つけることもある。

姉は決しておとなしいほうではなかったから、クラスの意地悪な男子から「やーいデブー」とはなしたてられても「うるせえバカ」と聞きながすことができただろう。

だが優しいおばあちゃんににこにこしながら言われる「よう肥えたねえ」は受けながすことができなかった。

悪意をまとっていないからこそ、言葉がダイレクトに胸に突き刺さったのだ。


だから、
「まあまあ、悪気があって言ったわけじゃないんだから」
「あの人も悪い人じゃないからね」
なんてことを言う人に対してはこう言いたい。

「悪気がないから傷つくんだよ!!」と。


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2020年2月21日金曜日

狂牛病フィーバー


2001年のこと。

BSEなる病気が世間をにぎわせていた。

BSE。正式名称は牛海綿状脳症。日本での通称は狂牛病。

なんともおそろしい病気だ。
牛の脳がスカスカの海綿状(スポンジ状)になるという病気で、当時原因はよくわかっていなかった。その後判明したのかどうかは知らない。

何がおそろしいって、その名前。
狂牛病。狂犬病もおそろしいが「狂牛」はもっとおそろしい。アメリカバイソンみたいなやつが怒り狂って角をふりかざして暴れまわりそう。ドラクエにあばれうしどりというモンスターが出てくるが、あのイメージ。
じっさい狂牛病になったからってそんなことにはならないんだろうけど、でもそれぐらいインパクトのある名前だった。

潜伏期間が長いというのもおそろしかった。感染しても発症するまでに十五年ほどかかるという話だった。
今から十五年後に世界中の人たちの脳がいっせいにスカスカになって狂牛化する……。そんなイメージは多くの人を震えあがらせた(だから狂牛化しないんだってば)。

当時、日本中が狂牛病に大騒ぎしていた。ほんとに。
「牛肉を食べるとヤバい」みたいな話が出回って(きちんと処理されている牛肉は大丈夫だったのだが)、焼肉屋やステーキ屋の経営があぶなくなったなんて話も聞いた。


そんな狂牛病騒動のさなか、当時十八歳だったぼくは高校卒業祝いとして友人たちと焼肉を食いに行った。
風評被害のせいで客の来ない焼肉屋が「食べ放題半額キャンペーン」をやっていた。
金はないけどたらふく肉と飯を食いたい高校生にとっては「いつか発症するかもしれないおそろしい病気」よりも「目の前にある大量の焼肉」のほうが重要だったのだ。

客はぼくたち以外にいなかった。
ぼくらは他の客に遠慮する必要もなく、「狂牛の肉うめー!」「ほっぺたが落ちて脳がスポンジ状になるぐらいうまい!」なんて不謹慎な冗談を言いながら肉を腹いっぱい食べた。

ほんとはぼくも「狂牛病に感染したらどうしよう」という不安を抱えていたが、そのおそろしさをふりはらうための強がりでわざと不謹慎ジョークを飛ばしていたのだった。



あれから二十年弱。
今のところぼくの頭は正常に動いている。たぶん。
多少物覚えは悪くなったが、経年劣化にともなう正常な範囲だとおもう。

あのとき食べた牛肉はぼくに狂牛病をもたらさなかったのだろう。

しかし今でも「赤ちゃんの脳はスポンジのように吸収力がすごい」なんて言葉を聞くとぼくの頭の中に暴れまわるアメリカバイソンが現れてどきっとする。


2020年2月20日木曜日

【読書感想文】破壊! / 筒井 康隆『原始人』


原始人

筒井 康隆

内容(e-honより)
男は“獣欲”を満たすために棍棒を振るって女を犯し、“食欲”を満たすために男の食物を強奪して殺す…。“弱肉強食”時代の人類の始祖・原始人の欲望むき出しの日常を描いた衝撃作はじめ、「アノミー都市」「怒るな」「読者罵倒」「おれは裸だ」「筒井康隆のつくり方」など、元気の出る小説13篇を贈る。

中学生のとき筒井康隆作品を読みあさった。
きっかけは、星新一が好きだったから。星作品をすべて読んで、なにか似た小説はないかとおもって星新一氏と親交のあったSF作家である筒井康隆作品を手に取った。
正直、それほどおもしろいとおもわなかった。おもしろいものもあったが理解不能なものが多かった。星新一のような鋭いオチのショートショートを期待していたので、剛腕でなぎ倒すような筒井康隆作品は性にあわなかった。

でも読んだ。なにしろ活字に飢えていたのだ。わからないままに読んだ。いつかはわかるはずと信じて。結局ほとんど理解できなかったが。
古本屋で五十冊以上は買ったはず。短編作品はほぼすべて買ったのでこの『原始人』もきっと読んだはず。でもまったくおぼえていない。


今読んでみておもう。ああ、これは中学生のぼくには理解できなかっただろうなあ。
この短篇集を一言で表すなら、「破壊」。
常識の破壊、既存の手法の破壊、文学の約束事の破壊。

(現代人が考えるような)理性のない主人公のただひたすら欲望にもとづく行動を書いた『原始人』、倫理や法の欠如した世界が舞台の『アノミー都市』、ショートショートの約束事の破壊を試みた『怒るな』、あっさりと現実が塗りかえられてゆく『他者と饒舌』など、とにかく常識をぶっ壊そうとする意欲的・実験的な作品が多い。

これはまともな小説を数多く読んで「小説とはこういうもの」という確固たる常識が己の中にできあがってから読むことでその破壊活動を楽しむための本。
だから、まさにこれから常識を構築しようとする中学生の時期に読んでもおもしろくないわなあ。
創造より先に破壊をやっちまったわけで、そりゃ理解できんわな。

ちなみに筒井康隆作品には『日本以外全部沈没』というパロディ短篇があるが、ぼくはこれも小松左京『日本沈没』より先に読んだ。



もっとも破壊的な作品ばかりでもなく、初期のドタバタコントのような『おれは裸だ』、わりとオーソドックスなショートショート『抑止力としての十二使徒』、文壇の面白語録である『書家寸話』、自伝風の『筒井康隆のつくり方』など、バラエティに富んだ内容。

中でもインパクトが大きかったのは『読者罵倒』。
 こら。読みさらせこの脳なしの能なしの悩なしめ。手前だ。ふらふらと視線さまよわせ気軽、心安らか、自らは何ひとつ傷つかず読める小説がないかときょとつく手前のことだ。できるだけ自分の理解できる範囲内のことしか書かれていず肥大したおのれが自我にずぶずぶずぶずぶ食いこんでくることのないような小説のそのまた上澄みのみをかすめ取ろうとしている盗っ人泥棒野郎そうとも貴様のことだこの両性具有(ふたなり)め。自分と交接(さか)れる小説を読もうとしながらも自分では書くことのできない無学文盲の手前が、そもそも読む小説を選ぶことのできる生きものかどうか鏡を見てよく考えろこの糞袋。ははあ。自分のことではないと思っているな。おのれより低級な読者のことであろうと思い安心しているのだろうが、あいにくおのれのことだ。今これを読んでいる貴様のことだ。貴様以上に低級な読者がいるとでも思ったかこの低能。
こんな感じで読者に対する罵倒が延々続く。
そういう趣向だとわかっていてもやっぱり読んでいると不愉快になってくるんだからたいしたもんだよ。

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2020年2月19日水曜日

【読書感想文】思想弾圧の化石 / エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』

カルチャロミクス

文化をビッグデータで計測する

エレツ・エイデン
ジャン=バティースト・ミシェル
阪本 芳久 (訳)

内容(Amazonより)
Googleがスキャンした過去数世紀分の膨大な書籍データから、年ごとに使われている単語・フレーズの使用頻度をグラフに示す「グーグル・Nグラム・ビューワー」が誕生した。この技術の登場で、文献をビッグデータとして活用するまったく新しい人文科学が誕生した。実現に導いたふたりの科学者は本をビッグデータとして扱い、研究に活用する新しい学問を「カルチャロミクス」と名づけ、その誕生の経緯と意義を熱く語る。人文科学が「定量化」時代に突入する“文系”フロンティアの幕開けだ!
Google Ngram Viewer なるサイトがある。

過去100年以上に世界中で出版された大半の本に使われた言葉をデータ化し、その言葉がどれぐらい使われたかを年ごとにグラフ化できるサービスだ。無料。
(残念ながら2020年2月時点で日本語は非対応)

たとえばこれは、1800年以降に[America][USA][China][Japan]という言葉がどれだけ本に使われたかを示すグラフ。

19世紀、世界的に中国も日本も重要な国ではなかった。日本などほぼ話題にされていないに等しい。
ところが1900年頃から[China]と[Japan]に関する記述が増えはじめる。日清戦争(1894-1895)を経て、世界的に存在感を増してきたことが原因だろう。
その後、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)の時期には三国とも記述が増える。おそらくこの時期は大戦に参加したすべての国が多く言及されたことだろう。
その後[China]は横ばい。
戦後になって急激に[USA]が増える。[USA]は戦後に使われるようになった言葉なんだね。[USA]にとって代わられた[America]は微減。
Japanは戦後一定を保つが、1980年頃から急上昇。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。この時期はじめて[China]を超える。
が、バブル崩壊とともに[Japan]は失速。急激に世界からの関心を失い、入れ替わるように存在感を増した[China]に大きく水をあけられている(ちなみにこのグラフの右端は2008年なので、現在はもっと大差をつけられているはず)。

こんなふうに、人名、俗語、一般名詞など、いろんな言葉の隆盛が手に取るようにわかる。
ふうむ、おもしろい。
早く日本語版をリリースしてくれー。



『カルチャロミクス』は、このNgram Viewerを開発したふたりの研究者による、開発の顛末とそこから導き出される知見についての本。

Ngram Viewerを生みだすまでには並々ならぬ苦労があったようだ。
まずこれまでに出版されたありとあらゆる本を電子データ化すること。これはGoogleが既にやっていたプロジェクトらしいが、何人ものスタッフが1ページずつ本をめくってスキャンしていったそうで、とんでもない労力だ。
金になるかわからないけど莫大な労力のかかるプロジェクトに金を出すなんて、さすがはGoogleだよなあ。でも金になるんだろうなあ。
国家がやらなきゃいけないことを私企業がやってるんだもんなあ。[Google]の影響力が[Japan]を上回るのも時間の問題かもしれない。

ちなみにGoogle Ngram Viewerにおける[Toyota][Sony][Google]の1950-2008年のグラフがこちら。

Googleの躍進ぶりがいかにすごいかがよくわかる(何度も言うけどグラフの右端は2008年だから今はもっと差があるからね!)。


Google Ngram Viewerが日本語に非対応なのは、スキャンデータを電子化するのが難しいからだろうね。アルファベットは形がシンプルだし種類も少ないから文字を自動判別するのが楽だろうけど、漢字は難しいんだろうな。
画数が多い字なんかはスキャンの仕方やフォントによって別の字とまちがえられてしまうだろうから(柿(かき)と杮(こけら)なんか見分けるのはほぼ不可能だろう)。



技術的な問題だけでなく、法的な問題も立ちはだかったらしい。
本には著作権があるから、万が一スキャンデータが流出したりしたらとんでもないことになる。一億冊以上の本のデータが流出したら、数百万件の訴訟を起こされるリスクがある。
そのため、新しい本の情報は扱いにくい、単語単位での分析はできるが文章単位での分析はできないなどいろんな制約がかかったらしい。

たいへんだあ。
いくらGoogleとはいえ数百万件の訴訟を起こされたらひとたまりもないだろう。
そりゃ扱いも慎重にもなるわな。

そんな幾多の試練を乗り越え、完成した Ngram Viewer。
著者たちは、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものようにNgram Viewerでいろんなことを調べている。


たとえば不規則動詞について。
ふつうの動詞は[-ed]をつければ過去形、過去分詞形になるが、たとえば[go]は[go-goed-goed]ではなく[go-went-gone]という不規則な変化をする。

英語を勉強した人なら、きっと誰しもが「なんで不規則動詞があるんだよ」とおもったことだろう。ぼくもおもった。
すべてが規則動詞なら英語の勉強もぐっと楽になったのに。

ところが、不規則動詞が今も残っているのにはちゃあんとわけがあるのだ。
drive(その過去形がdrove)は英語の不規則動詞の一つである。不規則動詞には意外なところがある。不規則動詞も他の品詞に属す大半の単語と同じようにジップの法則に従うのなら、不規則動詞の大半はめったに使用されないと考えていいだろう。ところが実際には、ほぼすべての不規則動詞がきわめて頻繁に使用されている。不規則動詞は動詞全体の三パーセントを占めるにすぎないが、使用頻度の上位一〇位までに入る動詞は、すべて不規則動詞なのだ20。簡単に言えば、不規則動詞はジップの法則の印象的な例外なのである。不規則動詞こそ、われわれが追い求めていたものにほかならなかった。ティラノサウルス・レックスの骨格のありかが、うまいぐあいに統計的データという目印によって示されたのと同じように、調査すべき対象が見つかった。
元々動詞の活用の仕方はばらばらだったらしい。
だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができ、次第に動詞の活用は置き換わっていった。
まっさきに置き換わったのは、めったに使われない動詞だ。
めったに使われないので「これの過去形ってどうだったっけ? まあ[-ed]つけときゃいっか!」みたいな感じで、あっさり置き換わってしまうのだ。

その結果、現在生き残っている不規則動詞はよく使われるものばかり。
[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、使用頻度の高い動詞ほど規則的な活用をしにくいのだ。
使用頻度が高いから、イレギュラーな活用をしても忘れられないからだ。

筆者たちは過去のデータを元に、今後も不規則動詞はどんどん減っていくと予想する。既にいくつかの不規則動詞が消滅(規則動詞化)に瀕しているらしい。
未来の中高生はちょっとだけ英語学習が楽になるね。



思想弾圧があると、ある種の単語の使用頻度が急激に減る。
 検閲や抑圧・弾圧といった行為は、どの地で行なわれているかにかかわらず、特徴的な痕跡を残す場合が多い。特定の語や言葉が突然メディアに登場しなくなるのだ。このような語彙の欠落は、出現頻度の統計的データに顕著に現われる場合が多いので、何が抑圧の対象になっているのかを解明する一助として、ビッグデータの「数の力」を利用することができる。
 この手法の仕組みを理解するために、ナチス・ドイツの時代に戻ってみよう。ここでの目標は、一九三三年から一九四五年までの第三帝国の時代に、知名度(名声)がシャガールと同じように下がった人物を探すことである。知名度の下落の大きさは、ある人物の第三帝国時代の知名度と第三帝国成立前および消滅後の知名度を比較すれば、数値として表わせる。たとえば、ある人物の名の本の中での言及頻度が一九二〇年代と一九五〇年代は一〇〇〇万語当たり一回だったのに、ナチス政権下では一億語当たり一回だったとすれば、知名度は一〇分の一に下がったことになる(下落の大きさは一〇という数値で表わせる)。これは、その人物の名前が検閲の対象となって削除されたか、当人が何らかの形で抑圧されていたことを示唆している。逆に、一〇〇〇万語当たり一回だった言及頻度がナチス政権下では一〇倍の一〇〇万語当たり一回に上昇していれば、その人物は政府による宣伝の恩恵を受けていた可能性がある。このように、ナチス政権下での知名度とその前後の時代での知名度を比較すれば、さまざまな人物の名を取り上げて、それぞれに知名度の下落の大きさ、ないしは上昇の大きさを表わす「抑圧スコア」を割り当てることができる。こうしておけば、次はこの抑圧スコアが、社会的に抑圧されていた人物を割り出すのに一役買ってくれる。
一部の芸術家、思想家、ユダヤ人学者などはナチス政権下で弾圧されたため、その期間のドイツ語の本に登場する頻度ががくっと下がる。

「急に注目されるようになった人物・事象」は話題にのぼることが多いので目に付くが、「話題にならなくなった人物・事象」には気づきにくい。
死語といえば? と尋ねたら「ナウなヤング」といった答えが返ってくるだろうが、そういう言葉は意識されているのでほんとには死んでいない。ほんとの死語は死語として意識されることすらないのだ。

だが Ngram Viewerを見れば、特定の国・時代だけで不自然に使われなくなった言葉がわかる。それはつまり「抑圧された思想」なのだ。
弾圧が化石として残る。これは後世のためにもぜひ残しておかなければならないプロジェクトだ。国家を挙げてでも。
でも、権力者からすると弾圧の痕跡が残ってしまうのは避けたいだろうから無理かもしれない……。



Ngram Viewerで得られた考察を見ても「ふーん。おもしろいねー」とおもうだけで特に何の役に立つわけでもない。だが研究とはそういうものだ。それでいい。

著者たちが楽しんでいることだけは存分に伝わってくる。
Ngram Viewerみたいなおもちゃ、言語マニアにはたまらないだろうなあ。

国語辞典が好きな人なら一日中 Ngram Viewer で楽しめるはず。

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2020年2月18日火曜日

鉄道マエストロ


電車乗客の指揮者になりたい。

満員電車でタクトをふりまわして他の乗客たちの行動を指揮するのだ。


ほらそこ、もっと奥に詰められるだろ。おまえがそこでふんばってるせいでこっちがぎゅうぎゅう詰めなんだよ。

そこのおっさん、おまえが右か左に寄ればあと一人座れるんだぞ。寄らんかい。

そこのおばちゃん、リュックは胸の前で持つか網棚に上げるかせんかい。じゃまだよ。

スマホ見てる少年、目の前にマタニティつけた女性が立ってるぞ。ちゃんと見ろよ、ただのでぶじゃないぞ。

おねえちゃん、傘は自分の前で持たんかい。人に当たるから。

にいちゃん、壁にもたれて内側を向くんじゃない。他人の顔面と向き合わなきゃいけない人の気持ちも考えんかい。外側を向くのがルールなんだよ。鉄道乗客法で定められてるのを知らんのか。そんなのないけど。



ぼくの的確な指揮で、乗客たちに六方最密充填構造原子のように最適なフォーメーションをとらせるのだ。

マエストロのタクトは片時も休まない。



さあ。もうすぐ駅に着くぞ。降りるやつは準備しろよ。到着してからあわてるんじゃないぞ。

こらこらおっさん。だからといって今から出口に向かおうとするんじゃない。
扉が開いてないのに隙間をつくれるわけないだろ。
どうせ次はターミナル駅。いっぱい降りるんだからそれを待ってから向かっても十分間に合うぞ。

出口横のにいちゃん。そのポジションをキープするんだったらいったん降りんかい。

うわうわうわ。おばちゃん、並んでる人を押しのけて乗りこもうとするんじゃない。よしそこの大学生、そのおばちゃんを一発どついていいぞ。

おいそこの変なやつ、狭い電車内でタクトをふりまわすんじゃない! 周囲の迷惑だろ!
指揮者はぼくひとりで十分だ!


2020年2月17日月曜日

【読書感想文】雑誌で読むならいいかもしれないけど / 渋谷 直角『ゴリラはいつもオーバーオール』

ゴリラはいつもオーバーオール

渋谷 直角

内容(Amazonより)
レジ横でターンテーブルをまわすコンビニ店員の異様な情熱、スティーヴィー・ワンダーのものまねをしながら文化祭のステージ上で火を噴いた友人の狂気―。何気ない日常に潜む、バカバカしくも愛おしい、イビツな人々のエピソードが満載!先入観や思い込みを捨て、何かに「気づくこと」の楽しさと大切さを再認識させてくれる珠玉のエッセイ集。

渋谷直角氏の漫画『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』もおもしろかったので(タイトルなげえな)エッセイも読んでみたのだが、読んだ後に残るものがなかった。

『ボサノヴァカバー』も『民生ボーイ』も底意地の悪い視点が随所にあふれかえっていたのだが、『ゴリラはいつもオーバーオール』はずいぶんライトでポップなエッセイで、「こんな変わったやつがいましたー!」「こんなおもしろ出来事があったんですよー!」ってな感じで、決してつまらないわけではないのだが突き刺さってくるものがなかった。

雑誌のコラムの寄せ集めらしいのだが、そのまま本にしたらこうなってしまうのもしょうがないのかな。
雑誌のコラムは主役じゃないから、アクが強すぎてはいけない。極端な主張や身勝手な思いこみはじゃまになる。
この本に収録されたエッセイはどれも収まりがいい。暴言も妄言もない。主張も弱い。「ぼくはこうおもうんですけど、ぼくだけですかね、アハハ……」みたいな感じで、雑談のトピックとしては合格だけど一冊の本にまとめられると退屈だ。
雑誌コラムの宿命かもしれない。


駆け出しライターだった頃の顛末も、せっかくのいい題材なのにただ事実を並べて書いてるだけだ。各方面に気を遣って書いた結果こんな毒にも薬にもならないお話になっちゃったのかな。

もっと人を小ばかにしたものを期待していたのになー。



おもうに、フィクションを書く才能ととエッセイを書く才能はまったくべつのものだ。

ほんとにごくごくまれにどちらもおもしろいものを書く人もいるが(今おもいつくのは遠藤周作と北杜夫ぐらい)、たいていの書き手はそのどちらかの才能しかない(両方ない人もいる)。

小説家がエッセイを書いても日記みたいな内容だったり、エッセイのおもしろい作家の小説を読んだらだらだら文章が並んでいるだけでヤマ場も落ちもなかったりする。

漫画家とか学者とか翻訳家とか歌人とか、小説家じゃない人の書くエッセイのほうがおもしろいことが多い(まあこれは「エッセイを書く小説家」と「とびきりおもしろいエッセイを書く他の職業の人」を比べてるから当然なんだけど。他の職業でエッセイがつまらない人にエッセイの仕事はまず来ないだろうから)。

フィクションとエッセイはまったく別の筋肉を要する作業なんだろう。
小説家だからといって安易にエッセイ執筆を依頼するのは、「マラソン速いんだから短距離走も速いでしょ」というぐらい乱暴なことなのだ。


で、渋谷直角さんはフィクション畑の人なのだとおもう。
自分でも雑誌ライター時代に「インタビューをとってそのまま書いてもつまらないから全部妄想で書いた」なんて話をしてるから、きっとそっちのほうが向いているんでしょうね。

ということで、今後は毒っ気の強いフィクション漫画を描いていってもらいたいものです。以上。

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2020年2月14日金曜日

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』

OUT

桐野 夏生

内容(e-honより)
深夜の弁当工場で働く主婦たちは、それぞれの胸の内に得体の知れない不安と失望を抱えていた。「こんな暮らしから脱け出したい」そう心中で叫ぶ彼女たちの生活を外へと導いたのは、思いもよらぬ事件だった。なぜ彼女たちは、パート仲間が殺した夫の死体をバラバラにして捨てたのか?犯罪小説の到達点。’98年日本推理作家協会賞受賞。
いやーよかった。
すごくイヤな小説だった。イヤなところがよかった。イヤな気持ちになる小説、好きなんだよなあ。

ある女性が、夫婦喧嘩の末に夫を殺害してしまう。死体の始末に困った犯人は、パート仲間である中年女性の雅子に相談をもちかける。
雅子は「なんとかするよ」と答えて、別のパート仲間とともに死体を自宅風呂場で解体し、遺棄する。
警察は別の男を逮捕。雅子たちの死体遺棄は見事に成功したかに見えたが、事件の裏側を知った貸金業者や誤認逮捕されたカジノ経営者が雅子に近づき……。

と、かなりぶっとんだ設定。
これ以上はネタバレになるので説明しないが、ここからさらにすごい展開になってゆく。

すごいのは、死体遺棄の首謀者である雅子が、夫を殺した女性と何の利害関係もないこと。
ただのパート仲間で、すごく仲の良い間柄でもない。
「金をくれたら死体を処分してあげる」といった取引をしたわけでもなく、脅したり脅されたりしたわけでもない。
「車で来てるから送っていってあげるよ。ついでだし」ぐらいの感覚で「夫の死体処分してあげるよ」とやっているのだ。

傍から見ているとまったく理解できない。
だからこそ逆にばれないのだろう。そこに奇妙なリアリティがある。

もしもじっさいにこんな事件があったら、やっぱり捜査は難航するだろうな。
まさか何の利害関係もない赤の他人が無料で死体処理を手伝うとは誰もおもわないもん。

完全犯罪でいちばんむずかしいのは死体の処理だと聞く。
でかい、おもい、目につく、腐る、臭う、ばらしにくい、怖い。そういうものを人知れず処分するのは相当むずかしいだろう。

赤の他人が死体を処理してくれるのなら完全犯罪も意外とかんたんなのかもしれない。
大人がひとりいなくなったって死体が出てこなければ警察もまともに捜査しないだろうし。

本格ミステリって「どうやって殺すか」「どうやって殺した場所から立ち去るか」「いかにして証拠を残さないか」などに重点が置かれるけど、現実には「いかに死体を消すか」がもっとも大事かもしれない。そこを成功すれば九割方成功したようなものかもしれない。
完全犯罪を試みるときのためにおぼえておこう。



赤の他人の死体を風呂場で切り刻んでばらばらにしてゴミ捨て場に捨てるというめちゃくちゃ残酷なことをやっているのにもかかわらず、そのへんの描写はどこかユーモラスで、その後主人公たちが警察の捜査からまんまと逃れるあたりは痛快ですらある。

死体遺棄犯側に肩入れしてしまうのは、それをやっているのが「冴えない中年女性たち」だからだろう。
社内のいじめが理由で会社をやめて夫や息子との交流もなくなった女、憎い姑の介護と身勝手な娘に苦しめられながらも家から逃げられない女、物欲に歯止めが利かず借金を抱えて男にも逃げられる女。
若くもなく、美しい容姿もなく、技能があるわけでもなく、誇れる家族がいるわけでもない。
男中心の社会から見れば「とるにたらないおばさんたち」だ。

だからこそ彼女たちの大胆な犯罪は常識の盲点をつき、警察たちは彼女たちを疑うことすらできない。
『OUT』に出てくる刑事は女性たちにセクハラを平気でおこなうデリカシーのない男として描かれているが、彼こそが「男社会における中年女性への扱い」を体現している。
彼にとって女は「家庭を守るもの」か「性欲を満たすもの」であって、まさかバラバラ事件のような大胆なことをしでかす存在ではないのだ。だから犯人を捕まえられない。

この刑事は、『OUT』に出てくるほぼ唯一の「まっとうな仕事をしている男」だ。
他の登場人物といえば、街金業者の元暴走族、殺人の前科のあるカジノ経営者、ブラジルからの出稼ぎ労働者などで、彼らは社会の周縁にいる“OUT”な人間だ。なにしろ社会は、正社員の男性を中心にまわっている(ことになっている)のだから。

だが彼らは“OUT”だからこそ、死体遺棄の首謀者である雅子の本質に気づくことができる。
決して男のいいなりにならない女、直接の利害がなくても死体をばらばらにできる女の本質に。
そして三人ともが雅子の本質に惹かれ、三者三様の形で雅子に近づくことになる。

これは追いやられた女たちから男へ、“OUT”の男たちから“IN”の男たちへの逆襲の物語なのだ。



死体遺棄、警察との攻防、その後の“ビジネス”、姿の見えない敵から追い詰められる犯人たちとどのパートもおもしろく読んだのだが、ラストの展開だけは好きになれなかった。

〇〇と雅子の魂の触れあいはさすがに異常すぎて理解不能で……。

でもまあ、それでいいのかもしれない。
結局ぼくは“IN”の人間だしな。だから『OUT』をフィクションとして楽しめるんだし。
これが心底理解できるようになったらぼくももう“IN”ではいられないだろうから……。


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2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。


2020年2月12日水曜日

喪服のバラ売り

仕事で付き合いのあった方が亡くなくなり、お通夜に参列することになった。

葬儀なんて何年ぶりだろう。
ありがたいことに知人の死とはほぼ無縁の人生を送っている。親戚以外の葬儀に出席するのははじめてだ。

たしか喪服があったはず。ついにこれが役に立つ日が……。
あれ。
喪服はある。ジャケットだけ。ズボンがない。

ズボンだけがない。
衣装棚の服を全部調べた。ない。喪服のズボンだけがない。

そんなことあるか?
こないだ着たのいつだっけ。わかんない。喪服なんてめったに着ないから思い出せない。一度か二度しか着てないのに。

この喪服は、高校を卒業するときに母が買ってくれたものだ。
「こういうのが必要になるときも必ずあるから」と云って、数珠や袱紗と一緒に“葬儀セット”を買ってくれた。
さすがは母親だ。
息子が「こういうの」を自分では買わないことをちゃんとわかっているのだ。
もしものときに備えて買っておくなんてことはぜったいにしないし、いざ「必要なとき」になっても
「喪服買わなきゃいけないのか……。黒っぽいズボンとシャツじゃだめかな。なるべく文字が入ってないやつで」
とおもうか
「別の葬式と重なったことにして『葬式の先約があるんです』と云って行くのやめようかな」
と考えるかで、いずれにせよめんどくさいことから逃げようとする人間だということを、母はちゃんと理解しているのだ。すごいなあ。

その、母が買ってくれた喪服のズボンだけがない。

クリーニングの袋には入ってないから、クリーニングに出したわけではない。なによりぼくの性格的に、目に見えて汚れたわけでもないのにクリーニングに出すなんて面倒なことをするわけがない。

いつなくしたんだろう。喪服のズボンだけがどこかに行くなんてことあるだろうか。
前回お葬式に出たときに、ズボンを履かずに下半身パンツ丸出しで帰ってしまったとしか考えられない。
きっとどこかの葬儀場のトイレの中だ。我ながらうっかりさんだなあ。ウケる。

しかし、ないものを嘆いてもしかたがない。
問題は明日のお通夜をどうするか、だ。

時間はあるから、買いに行くことはできる。家から徒歩五分のところに紳士服屋もある。
さすがに結婚して子どもも持った今となっては「黒っぽいズボンと黒っぽいシャツ」というわけにはいかない。

でもなあ。
ジャケットはあるんだよなあ。
両方なくしたんなら潔く買い替えるんだけどなあ。
ジャケットは一回かニ回しか袖を通してないから新品同様なんだよなあ。ぼくは十八歳のときから体型も変わってないからまだ着られるんだよなあ。
このジャケットを紳士服屋に持っていって「これにぴったりのズボンください」って言って買えるのかなあ。むりだろうなあ。喪服のバラ売りやってないだろうなあ。

試しに他のスーツのズボンをあわせてみる。
いちばん黒っぽいの。
うーん。
やっぱりちょっとちがう。喪服は漆黒だけど、スーツは黒といってもちょっと明るいんだよなあ。
妻に訊く。
「これ、上下ちがうってわかる?」

「んー。明るいところでよく見たらぜんぜんちがう。でもまじまじと見なければ気づかないかも。敏感な人なら気づくかもしれないけど」

おお。
なかなかいい手ごたえじゃないか。
これならごまかせるかも。
そうだよな。よく見なきゃ気づかないよな。
それにお通夜って夜だしな。葬儀場って祭壇以外はそんなに煌々と照らさないしな。
うん、いける。
しかも黒ネクタイとか数珠とかの「葬儀セット」はちゃんとあるしな。そっちに目が行くしな。
そもそも誰も「この人喪服の上下そろってなくない?」なんて疑いもしないだろうしな。

よし、これでいこう!
大丈夫だ!


そして翌日。
喪服のジャケットと黒っぽいスーツのズボンでぼくは出かける。
そして玄関先で気づく。
真っ黒の靴がない。
まあこの黒っぽい靴なら……。黒というかダークブラウンだけど……。


2020年2月10日月曜日

【読書感想文】振り込め詐欺をするのはヤクザじゃない / 溝口 敦・鈴木 智彦『教養としてのヤクザ』

教養としてのヤクザ

溝口 敦  鈴木 智彦

内容(Amazonより)
芸人の闇営業問題で分かったことは、今の日本人はあまりにも「反社会的勢力」に対する理解が浅いということだ。反社とは何か、暴力団とは何か、ヤクザとは何か。彼らと社会とのさまざまな接点を通じて「教養としてのヤクザ」を学んでいく。そのなかで知られざる実態が次々と明らかに。「ヤクザと芸能人の写真は、敵対するヤクザが流す」「タピオカドリンクはヤクザの新たな資金源」「歴代の山口組組長は憲法を熟読している」―暴力団取材に精通した二大ヤクザライターによる集中講義である。
ヤクザに精通したふたり(といってもこの人たちはヤクザではなくライター)による「今のヤクザ」に関する対談。

幸いにしてぼくはヤクザとは無縁の生活を送っているのでヤクザのことなんて映画やマンガで出る覚醒剤、拳銃、抗争、ショバ代……ぐらいのイメージしかなかったんだけど、この本を読むかぎりヤクザはわりと身近なところにいるらしい。

なにしろタピオカ、精肉、漁業、建設、原発などいろんな産業にヤクザが入りこんでいるらしく、そうなるとまったく無縁の生活を送ることはほぼ不可能だ。
溝口 昨年、カナダで大麻が解禁されましたが、それまでマフィアは大麻でも儲けていたわけです。カナダ政府が大麻を解禁したのは、犯罪でなくなれば捜査の手間や経費がかからなくなるうえ、大麻産業から税金を徴収できるようになる。こういうソロバン勘定で、要するに、ヤクザの儲けを政府が奪ったわけです。
 日本のヤクザも、希少な高山植物を採りに行ったり、あるいは禁止されているかすみ網で、鳴き声が綺麗な小鳥を獲ったり。自分が追い込まれたり、困ったりしたら何でもやっちゃうという習性がある。そういう人たちなんです。その習性の一つとしてサカナもあるのかなと。基本的にこの見方はそれほど間違ってはいないと思う。
鈴木 絶滅危惧種だの何だの、「獲ったら大変なことになる。ウナギが食べられなくなる」と煽られれば煽られるほど、ヤクザとしては美味しいシノギになるわけですね。禁漁というルールがあるからこそ、ヤクザの付け入る隙が生まれてくる。
 実際、ウナギの場合は、もちろん減っていることは事実なんですが、必要以上に絶滅危惧種と煽られることで、稚魚であるシラスウナギの密流通の値が上がっている。これは事実です。
なるほど。禁止されているものを扱うのがヤクザの仕事なのか。
だから拳銃や覚醒剤はもちろん、希少なものであればヤクザの商売道具になりうるわけだ。たとえばゲームが禁止されたらヤクザがゲームが扱いだす、という具合に。

水産庁が「ウナギが減っているからウナギ漁を抑制しよう!」となぜやらないのだろうとおもっていたけど、その背景にはもしかしたらこういう理由もあるのかもしれない。
制限してしまうと密漁や密輸が横行してヤクザを儲けさせることになるのかもしれないね。
アメリカの禁酒法がマフィアが勢いづかせることになったように。
溝口 五輪の場合、スタジアムの建設や人材派遣に膨大な人手が必要だから、ヤクザの入り込む余地が生まれる。建設業界は被災地の復興で人が回せないという状況ですからね。人が足りなくなれば、暴力団から人材が供給されることになる。
鈴木 私が東日本大震災後に福島第一原発に潜入取材したときは、五次請けでしたよ。でも周囲には六次、七次、八次という業者もいた。
溝口 八次請けじゃ、暴力団が入っていても元請けの建設会社はわからないよね。
鈴木 わからないでしょうね。実際、福島第一原発の廃炉関連事業には暴力団関係者が相当入っていました。
廃炉作業なんてのはやりたがる人が少ないから、ヤクザを介在させるのは必要なことなのかもしれない。
暴力団関係者を徹底的に排除してしまったら作業をする人間がいなくなってしまう。だから関係者は暴力団関係者とわかっていても目をつぶらざるをえない。
うーむ、こういう話を聞くと、ある分野ではやっぱりヤクザは必要悪なのかなあとおもってしまう。
誰もやりたがらないけどやらなきゃいけないこと、ってのはぜったいにあるもんね。

東日本大震災復興予算のかなりの部分が、被災地と関係のないところに流れたと聞く。それは納税者としても一市民としてもぜったいに許せないことなんだけど、しかし「ヤクザ以外にやりたがらない仕事」のために使われた部分もあるだろうし、そのへんを完全に切り分けるのは難しいだろうから、やっぱり現実問題としてある程度ヤクザやグレーの企業に流れるのはしかたないことなのかなあ。



詳しくない人間からすると「ヤクザ」と振り込め詐欺をするような「半グレ」はどっちも同じようなものなんだけど、当事者たちからするとまったくべつの組織なんだそうだ。

昨年、芸能人が反社会的組織と付き合って話題になった。
ぼくは「ヤクザとの付き合い」だとおもっていたけど、あれはヤクザではないそうだ。振り込め詐欺などは、(基本的には)ヤクザの仕事ではないみたいだ。
溝口 暴力団の看板を一度背負ってしまうと、警察に登録されてしまっているから、今さら半グレにはなれないという現実的な問題もあるんですが、やっぱり、〝ヤクザ愛〟があるんですよ、彼らには。
鈴木 ヤクザとしてのプライドですよね。矜持がある。
溝口 山口組五代目・渡辺芳則は「我々は反社と呼ばれたくない」「反社会的集団ではない」と言った。織田も同じようなことを言っています。彼らの基準では、反社会的集団のなかに半グレも含まれてるし、特殊詐欺のグループも含まれている。そういうのと一緒にするなと。
鈴木 ヤクザであることに強いこだわりがある。ここが一般の人にはわかりにくいんですよね。
 半グレのほうが儲けているかもしれないが、裏社会のトップはあくまでヤクザであって半グレではない。反社のキングはヤクザであって、スリを捕まえて、「盗ったものを返してやれ」と言えるのはヤクザしかいない。
溝口 半グレからヤクザになることはあっても、その逆はない。
もちろんヤクザ(暴力団)は悪しき存在なんだけど、ヤクザと半グレを比べた場合、警察が扱いやすいのはヤクザのほうなんだそうだ。
警察はヤクザの組織構成はだいたいつかんでいるし、警察とヤクザの間である程度の取引もできる(ほんとはよくないことなんだろうけど)。
ヤクザには一種の美学もあるので、「罪のない年寄りをだまして金をまきあげる」ことに抵抗をおぼえるヤクザも少なくないかもしれない。
(だから年寄りを騙して金をまきあげてたかんぽ生命はヤクザではなく半グレ)

一般人からしても、どっちがタチが悪いかといわれれば、ヤクザのほうがまだマシなのかもしれない。
「金さえ払えば超法規的な手段でもめごとを解決してくれる組織」を必要とする人も多いだろうし。

ところが今、暴力団対策法によって暴力団の構成員が生活していけなくなり、昔だったらヤクザになっていたような人間が特殊詐欺グループに行くようなケースも増えてきているらしい。
ヤクザにはヤクザなりの秩序があったわけだが、その秩序すらない犯罪組織がどんどん拡大してきていると聞くと、はたして暴力団対策法っていいことだったのかなとふとおもってしまう。

かといってヤクザが幅を利かせている世の中ももちろんイヤなんだけど。

ヤクザに対する見方がちょっとだけ変わる一冊。

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【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



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2020年2月8日土曜日

ツイートまとめ 2017年12月


流行語大賞

大日如来

偽物

日本放送協会

ないしょ話

二刀流

環状線

現代文

歴史修正主義

だじゃれ

四色定理



生産性

アドベンチャーワールド

ボタン電池

相撲協会

確認

グッズ

プロフィール

分類

ストロー


想像力

おいだき

広告

金曜ロードショー

ザ・

座右の銘



平安

こども手当

Excel

通話

接客

レゴ



2020年2月7日金曜日

カポエラと不倫

幼なじみの不倫

大学生のとき、幼なじみの女の子Sと同窓会で再会した。幼稚園からの付き合いなので色恋沙汰にはならない。いとこのような感覚だ。
Sは大学を中退して今は仕事をしているという。
すぐ近所に住んでいることがわかったので「じゃあ今度ごはんでも行こうよ」と連絡先を交換した。

それっきりなんともなかったのだが数ヶ月後にSから「カポエラに興味ある?」とメールが来た。

カポエラ?
ネットで調べると、南米発祥の格闘技とのことだった。踊るように戦う武術。
奴隷が格闘技をしていると反抗を企図してるとおもわれるので、ばれないように踊りに見せかけたのがはじまり。鎖につながれたままでも戦えるような動きが特徴で……。

興味あるどころかカポエラについて考えたことすら一度もない。

なぜカポエラなのか尋ねると、今度カポエラ教室の無料体験があるから一緒にいかないかという誘いだった。
自分から新しいことにチャレンジするのは苦手だが、だからこそこういう誘いはありがたい。
授業の終わったあとにSと待ち合わせてカポエラ教室に向かった。

行ってすぐに自分が場違いな存在であることに気づいた。
格闘技とはいうものの「カポエラで楽しくダイエット!」的なレッスンで、ぼくと講師の男性をのぞく全員がOLで、いたく恥ずかしい思いをした。
ぼくは他のOLさんたちからSの彼氏だと勘違いされた。「彼氏?」と訊かれて訂正しようかとおもったが、彼氏じゃないならOLの汗のにおいをかぎにきた変態野郎だということになるので訂正はやめておいた。

カポエラ教室の後、Sと食事に行った。
カポエラの話や共通の知人の話で盛り上がり、Sから「彼女いるの?」と訊かれた。
「いるよ。Sは彼氏は?」
「……いるといえばいるかな」
「どういうこと?」
「わたし、不倫してんねん」
「えっ……」

それからSは不倫について語りはじめた。
相手は同じ会社の既婚男性であること、ごくふつうのおじさんでかっこいいわけでもお金持ちなわけでもないけどそういう関係になったこと、相手には子どももいて子どもの写真を見せてくれたりもすること、別れさせるとか結婚するとかは考えてないこと。

かなり赤裸々に語られたのだが、ぼくはまるでテレビドラマのストーリーでも聞かされているような気持ちだった。

目の前の女性は、今は二十一歳の女性とはいえ、ぼくが幼稚園のときから知っている子だ。
幼稚園では一緒に登園し、プール教室に通いたくないと泣き、ぼくのいたずらを先生に言いつけにいっていた子だ。
小学校も中学校も高校も同じだったので、きょうだいかいとこみたいな存在だった。

かつて五歳だったSと、今不倫をしていると語る目の前の女性とがどうしても結びつかなかった。
んなあほな。五歳だったのに不倫なんかするわけないじゃないか。
もちろん世の不倫女性すべてがかつては五歳だったわけだけど、それでもぼくの知っている元五歳児は不倫なんかするわけがなかった。

だいたい不倫をする女って、もっとセクシーで男を手玉に取るようなタイプなんじゃないのか。
中学校の図書室でメガネをかけて小説を読んでいたSと、ぼくの中にある不倫女性のイメージとはほんの少しも重ならなかった。「互いに素」だ。

なぜSがぼくにそんな話をしたのかわからない。
ごくごくふつうの調子で、「最近海外ドラマにハマってるんだー」みたいな調子で、「わたし、不倫してんねん」と語っていた。
きっと、Sにとってぼくはちょうどいい距離感の人間だったのだろう。
家族や友人ほど近すぎず、かといってまったく知らない間柄でもない。不都合になればいつでも連絡を断つことができる。
だからこそ打ち明けられたのだとおもう。

ぼくは、Sの行為を肯定も否定もしなかった。
「へえ」とか「不倫とか現実にあんねんなあ」と間の抜けた相づちを打っていた。



数年後、Sからひさしぶりに連絡があった。
「東欧に行くことになったから挨拶しとこうとおもって」

東欧?
Sからの話はいつも唐突すぎてわからない。

数日後に会うことにし、喫茶店でパフェを食べながら話を聞いた。

結婚することになった、相手の仕事の都合で東欧に行くことになった、となんだかせいせいするというような口ぶりでSは語った。

不倫関係があの後どうなったのかは聞けなかった。
結婚相手は同い年だと言っていたので、不倫相手と結婚したわけではないことだけは確かだった。

「しかし外国に住むなんてたいへんやなあ。子どもができてもかんたんに親に手伝ってもらうわけにもいかんやろし……」
と話すと、Sは云った。
「子どもはぜったいにつくりたくない」
その強い言い切りように、ぼくは「なんで?」と聞けなかった。
聞けばどういう答えが返ってくるかはわからないが、その答えがおそろしいものであることだけはわかった。



それから数年。
お正月に実家に帰ったら、母から「Sちゃん離婚したんだって」と聞かされた。

その言葉がずしんと響いた。
驚いたのではない。むしろ納得感があった。落ちつくべきところに落ちついた、という感覚。
ビールを一気に飲んで、しばらくしてから溜まっていた炭酸が大きなげっぷとなって出てきたときのような。

よく「不倫するような女は将来結婚しても幸せになれない」という言葉を聞く。
それは事実というより願望なのだろう。他人を不幸にしていい思いをしたんだからしかるべき罰を受けてほしい、という願望。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」と同じだ。

Sの離婚の原因がなんだったのか、ぼくは知らない。
Sが過去にしていた不倫と関係あるかどうかもわからない。きっとS本人にもわからないとおもう。

Sが「罰を受けた」という見方には賛成できない。
Sに与えられたのは、罰ではなく解放だったんじゃないかとぼくはおもう。
離婚を決めたときのSの心に「ああよかった」と安堵する気持ちがちょっとはよぎったんじゃないかと想像する。これで過去の不倫がチャラになる、というような。

なぜなら、ぼくも似た感覚を味わったからだ。
ぼくが不倫をしたわけではない。
でも、Sから不倫をしているという報告を受けたことで、それを咎めなかったことで、Sが不倫をしているということを誰にも言わずに自分の胸に秘めていたことで、知らず知らずのうちにぼくも共犯者になっていたのだ。
まるでぼくがSの不倫相手の家族を苦しめているかのような。

それが「Sが離婚した」と聞かされたとき、ようやく解放された。だからこうして書くこともできる(これまでは匿名であっても書けなかった)。

もちろんSが離婚したことと、Sが結婚前に不倫をしていたこととは無関係だ。不倫の罪(罪だとするなら)が消えるわけではない。
でも、ぼくの中では相殺された。打ち消しあって完全に消えてしまった(当事者でないからなんだろうけど)。


Sに対して、よかったなと言いたい。
皮肉ではなく本心から。

ずっと不倫の過去という鎖につながれたまま戦ってただろうけど、ようやく自由になれたな。
もうカポエラはしなくていいんだよ。


2020年2月6日木曜日

「無難」を選ぶ生き方

娘の通う保育園のすぐ横に園長先生の住宅があるのだが、今朝その前に救急車が停まっていた。
何かあったのかとおもったが、救急隊員たちもあわてている様子はない。しばらくすると救急車はそのまま走り去った。大したことはなかったようだ。

保育園に入ると、男の子がぼくに向かって言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

すると横にいた保育士が「そういうことを大きな声で言ったらあかん」と言った。

また別の女の子が言った。
「園長先生の家で事故があったんやでー」

保育士がきつく叱る。
「そういうことを言ったらだめでしょ! まだはっきりわかんないのに!」


聞いていたぼくはおもう。
「保育士さんの言わんとすることはわかるけど、その言い方では子どもに伝わらないだろう」と。



まず抽象的すぎる。
「そういうことを言ったらあかん」と言われたって、五歳ぐらいの子には「そういうこと」が「どういうこと」なのかわからないだろう。

保育士は「不確かな情報を広めるな」「仮に真実だとしても本人が隠したがる情報かもしれないのだからむやみに広めるな」と言いたいのだろうけど、「そういうことを言ったらあかん」の一言で五歳児が理解できるわけがない。

なにしろ言ってる子どもに悪気はないのだから。
ただ園長先生の家に救急車が停まっているのを見た。だから怪我か急病が発生したにちがいない。それしか考えていないのだ。
「さっき猫が園庭に入ってきてたよ」とか「明日雪が降るんだってー」とかと同じぐらいの意味合いで「園長先生の家で事故があったんやでー」と言っているのだ。
園長先生をおとしめようとしているわけではないのだ。

もちろん「今の時点でむやみに話を拡散すべきでない」というのはわかる。
ぼくが大人だから。

ぼくが園長先生だったら、「階段から落ちて脚の骨を折った」ならどうせ近いうちに明らかになることなのだから広められたっていい。
でも「興味本位で便座を下げずに便器に腰をおろしてみたらすっぽりはまってしまって抜けだせなくなって救急車を呼んだ」なら恥ずかしいから広めないでほしい。
だから本人が言うまでは話を広げるべきではない。大人のたしなみだ。

しかしいずれにしても
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
ことを五歳児に理解させるのはむずかしいだろうな。



ぼくが中学一年生のとき。
クラスにSさんという休みがちな女の子がいた。毎週のように休む。出席したときは明るくてまじめな子だったので、サボっているわけではなく身体が弱かったのだろう。

その日もSさんは休んでいた。三日連続だ。
日直だったぼくは、日誌の [欠席者] の欄にSさんの名前を書いた。そして余白に「三日連続!」と書いた。

翌朝、担任から職員室に呼びだされた。
ぼくには呼びだされた理由がさっぱりわからなかった。担任から日誌を見せつけられても、やはりわからなかった。

「こんなこと書いて、Sが読んだときにどういう気持ちになるかわからんのか?」
と叱られた。
ぼくにはわからなかった。心から。
だって「三日連続!」は事実を書いただけだったのだから。Sさんを傷つけようという意図はまったくなかったし。
仮にぼくが三日連続欠席したときに同じことを書かれたらどうだろうと想像してみても、やっぱりぜんぜんイヤじゃなかったから。

「三日連続!」をSさんが見たら、イヤな気持ちになっていたかもしれない。イヤな気持ちにならなかったかもしれない。
それは誰にも分からない(「三日連続!」は担任に叱られてすぐ跡形もなく消したのでSさんの目には触れていないはず)。

今ならわかる。担任の言いたかったことが。
「言われた当人が傷つくか傷つかないかはわからないような情報で、言わなくてもいいことならとりあえず黙っておいたほうがいい」
処世術としては正しい。
今のぼくが担任だったとしても「書かないほうがいいんじゃない?」という。「たとえSさんを傷つけてでも書かずにいられないことならむりには止めないけど、そこまでじゃないでしょ? だったらやめといたほうが無難だよ」と。

しかし「無難」を選ぶには人生経験がいるんだよね。
中学一年生のぼくにはできなかった。
もちろん五歳児も無理だろう。


2020年2月5日水曜日

【読書感想文】現代日本にも起こる魔女狩りの嵐 / 森島 恒雄『魔女狩り』

魔女狩り

森島 恒雄

内容(Amazonより)
西欧キリスト教国を「魔女狩り」が荒れ狂ったのは、ルネサンスの華ひらく十五‐十七世紀のことであった。密告、拷問、強いられた自白、まことしやかな証拠、残酷な処刑。しかもこれを煽り立てたのが法皇・国王・貴族および大学者・文化人であった。狂信と政治が結びついたときに現出する世にも恐ろしい光景をここに見る。
中世ヨーロッパにふきあれた魔女狩りの嵐。
その実情にせまるため、キリスト教の立場の変化、魔女狩りが起こった理由、魔女裁判や拷問・刑罰、収束していった背景などについて書いた本。

1970年刊ということで今から五十年も前の本だが、魔女狩りの本は他にあまり出ておらず、五十年たった今でもこれが魔女狩りについていちばんよくわかる本なのではないだろうか。



ぼくは知らなかったのだが、魔女狩りの対象となった「魔女」は女だけではなかったらしい。男も女も「魔女」にされたらしい。

魔女狩りはとにかくおそろしい。
 第三の場合の「世間のうわさ」は、裁判官の判断の有力な根拠とされ、また容疑者を逮捕する十分な理由ともされた。告発者が誰であるかを被告に知らせないことは、対決して反論する大事な機会を奪うことを意味するのだから、被告にとってはこの上なく不利だったが、ましてや「世間のうわさ」という、実体のつかめない告発者に対しては、被告は手の施しようがない。しかも『魔女の槌』によれば、この第三の場合がもっとも多かった。その上、「うわさ」の真実性を確かめるという重要な考慮を、裁判官は全く払わなかった。
「魔女の罪については、他の犯罪の場合と違って、世間のうわさの真実性を詮索することは不必要だと思う。なぜなら、魔女の罪は『格別の罪』と呼ばれる立証困難な罪であり、証人として喚問された法律学者すら、妥当な立証を行なうのに困難するほど、むずかしい罪であるからである。……」(ボゲ)
なんと「世間のうわさ」だけで逮捕され、魔女扱いされてしまうのだ。
一度魔女の疑いを持たれると、過酷な環境の牢獄に入れられさまざまな身体的苦痛を受け(しかもそれは「拷問」ではないという扱いだった)、その後は本格的に拷問を受ける。

拷問を受けても「自白」しなければ、それこそが魔女の証とされ(魔女だから痛みや苦しさを感じないという理屈)、死よりも苦しい拷問が延々続く。
自白しなければ生きたまま火あぶり、自白すれば絞首の後に焼かれる。いずれにせよ殺されることには変わりなく、また他の魔女の存在を白状するよう拷問を受け、苦しみから逃れるために別の人間を「魔女」としてでっちあげる。そしてまた拷問が……。

という終わりのない苦しみが延々と続く。
まったく罪のない人間が魔女にされ、どれだけ否定しても拷問を受け、死ぬまで、いや死後も魔女としての汚名を着せられるのだ。


……いやほんと、言葉も出ない。
我々が知っている「人間の残酷な所業」はそのほとんどが二十世紀の出来事だが、それより前の出来事は記録が乏しいからあまり伝わっていないだけで、もっとえぐいことをやっている。
そりゃあ二十世紀に虐殺された人たちもめちゃくちゃ気の毒なんだけど、魔女狩りで拷問を受けて焼かれた人からしたら「魔女狩りの拷問に比べたらぜんぜんマシじゃん」と言いたくなるんじゃないかな。
それぐらい魔女狩りのえげつなさはレベルが違う。



もともと「魔女」はごくふつうの社会の一員だったらしい。
薬を作ったり占いをしたりする人が「魔女」とされ、社会に受け入れられていたらしい。
今の時代なら薬剤師や気象予報士や経済アナリストみたいなものかもしれない。

魔女が裁かれることはあったが、それは「他人を呪い殺した」といった罪で裁かれるのであって、存在自体が罪であったわけではない。

だがキリスト教による異教徒弾圧が過激化するにともない、魔女は「存在自体が罪」「反論の余地を与える必要もないし何をしてもいい」という存在に変わっていった。

なぜ魔女狩りがエスカレートしていった理由は、宗教思想というより、意外にもカネと政治によるものが大きかったらしい。
 ヨハネスが異端審問官に魔女狩り許可を与えたばかりでなく、追いかけて魔女狩り強化令を連発したのにも、それによってヨハネス個人の身を護る私的な事情が多分にあった。彼は法皇選挙をめぐる身辺の情勢から、自分を排斥しようとする者の陰謀を恐れ、常に神経をとがらせていた。そして法皇に即位後間もなく、自分の生命を狙う疑いのある者数人を司教に命じて捕えさせ、「悪魔の力をかりて未来を占い、人を病気にし、死亡させた」という魔女的行為を拷問によって自白させ、処刑した。また同じ年、彼の出身地フランスのカオールの司教に、個人的な怨恨から終身禁固の刑を課した上に、自分の生命を狙っているという理由でその司教を官憲に引渡し、火刑に処している。ヨハネスのこの種の行動はほかにもいろいろあるが、彼が魔女狩り解禁令を発布したのは、ちょうどこのようなときであった。
 神聖ローマ帝国が財産没収を禁じた一六三〇年と一六三一年の二年間は、魔女摘発が急激に減少している。(たとえばバンベルク市では、一六二六年から一六二九年までは毎年平均一〇人が処刑されたのに比し、一六三〇年は二四人にすぎず、一六三一年にいたってはゼロとなった。) また、財産没収を禁じていたケルン市では、他の地域にくらべて、魔女の処刑数ははるかに少なかったのである。
 いずれにしろ、異端者の没収財産に対する裁判官の執着には、はなはだしいものがあった。異端者の死骸に附随する財産没収権を獲得するために、すでに腐敗しかけている屍体を聖職者同士が奪い合うことは珍しくなかった。また、審問官たちは、裁判の結果を待たずに財産没収を執行したこともある。

権力者(法皇)が、敵対する者を陥れるためや共通の敵を使って自分への支持を高めようとするためだったり。
あるいは「魔女」の財産が目的だったり。

結局、人を残忍な行為に走らせるのは思想ではなく政治(権力)とカネなのだ。

虐殺とか大規模な不正とかもたいてい裏にあるのは政治とカネだ。



もちろん二十一世紀の今、魔女を本気で糾弾する人はいないだろうが、「魔女狩り」は今後も起こるだろう。いや今でも起こっているかもしれない。

現代日本の「起訴されたら99%有罪」「逮捕されたら犯罪者扱い」なんてのはほとんど魔女裁判と一緒だ。

政府の不正を隠すために必死に隠蔽や虚偽の報告を続けている内閣府の官僚なんかは「魔女狩り令」が出たらいともかんたんに「魔女」に対して残忍な拷問をするだろう。


魔女狩りが教えてくれるのは、
「昔の人は迷信を信じていて愚かだった」でも
「キリスト教は異教徒に対して残忍なことをする」でもない。

「人間は権力とカネのためならどんなに残忍なことでもする」だ。
ぼくもあなたも。

だからこそ基本的人権という制度があるのだ。
「〇〇人が攻めてくるかもしれない」なんて言って「敵」をつくって基本的人権を制限しようとする人間が現れたときには気を付けましょう。


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【読書感想文】虐げる側の心をも蝕む奴隷制 / ハリエット・アン ジェイコブズ『ある奴隷少女に起こった出来事』

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2020年2月4日火曜日

【読書感想文】良すぎるからおそろしい / 成毛 眞『amazon ~世界最先端の戦略がわかる~』

amazon

世界最先端の戦略がわかる

成毛 眞

内容(Amazonより)
「何が勝って、負けるのか」ビジネスの基礎知識も身につく!この一社を知ることは、最新のビジネス感覚を身につけることと同じ。

ぼくはAmazonヘビーユーザーだ。

毎月Amazonで本を買い、Kindleで電子書籍を読む。
Amazonプライムにも加入していて、Fire TV stickを使ってテレビでPrime動画を観る。
子どものおもちゃもおむつもたいていAmazonで買うし、サンタさんにも「娘が〇〇をほしがってるのでAmazonの商品URL送ります。お願いします」とリクエストする。
写真のバックアップはAmazonフォトストレージに保管してるし、仕事でもAWS(アマゾン ウェブ サービス)サーバーを使っている。
こないだはじめてAmazonでスーツを買った。スリーピースの冬物スーツがなんとタイムセールで7,140円(税込)! これだけ安いならよほど低品質なのかな、でもまあ騙されたとおもって試してみる価値はあるとおもって買ったら、実にいい仕立て。これを紳士服屋で買ったら50,000円はするだろうとおもえるぐらいの品質で大いに満足した。

もはやAmazonのない生活は考えられない。
そんなネット界の巨人Amazonの現状・経営・戦略・思想について、知の巨人である成毛眞さんがまとめた本。



Amazonのすごさは「そこまでやるか」とおもえるぐらいのサービスに尽きる。
消費者向けのサービスは言うまでもないが、マーケットプレイスの出品者に対してのサービスもすごい。
 あまり知られていないが、何とFBAはアマゾンを経由しない顧客の注文にも対応できるようになっている。2009年に始めた「マルチチャネル」だ。
 これは、業者がアマゾン以外のサイトで商品を売った場合にも、出荷をアマゾンが代行してくれる仕組みだ。アマゾンの競合である楽天市場やヤフーショッピングでも、アマゾンの倉庫から商品を発送できる。複数のサイトで売っても、することは、商品をアマゾンの倉庫に送ることだけ。それだけやっておけば、どんな複数のサイトで売っても、一本化して出荷できるのだ。
 これは、地味だが革命的な仕組みである。多くのネット通販を手がける業者は、自社サイトを含めた複数のサイトに出品している。普通ならば在庫管理や発送が面倒だが、「マルチチャネル」を使えば、企業はこの面倒な作業から解放される。
これはすごい。
競合サービスのために在庫管理や発送を代行するのだ。EC(ネット通販)でいちばん手間や費用がかかるのは在庫管理・発送だと聞く。それを一任できるのだから出品者からするとメリットは大きい。

もちろんAmazonも慈善事業でやっているわけではない。
在庫管理・出品を一手に握ることによって出品企業はAmazonから離れられなくなるし、Amazonにとって最大のメリットは「(Amazon以外も含む)オンラインでの全販売データ」が手に入ることだろう。

そしてそのデータは、当然Amazonの利益のために使われる。
 たとえば、ある出店企業がマーケットプレイスを利用して、アマゾンが自ら取り扱っていない商品を売り、それがヒットしたとしよう。
 当然、支払いを管理しているアマゾンには販売履歴が筒抜けなので、アマゾンは売れ筋商品と判断する。アマゾンはその商品を仕入れ、直販で取り扱いを始めるだろう。こうやって、アマゾンはどこよりも低価格で商品を提供できる。しかも、システムで機械的に判断できるから、アマゾンの仕入れ担当者はほぼ自動で手配を始めるだろう。
Amazonに出店して商品を売っていたら、その販売データをもとにある日Amazonが同じような商品を開発してもっと安い価格で売りはじめるのだ。パートナーとおもっていたらいきなり商売敵(それもどこよりも手ごわい)になるわけで、こんなことされたらよほどブランド力のある会社以外は太刀打ちできないだろう。
なんともおそろしい話だ……。



Amazonの存在は、ほとんどの卸売店・小売店・出版社にとって脅威だ。
が、Amazonの行動は決して邪悪でない(納税については決して褒められた行動をとっていないが、それはむしろ抜け穴のある税制度のほうが悪い)。
むしろAmazonは「すべては顧客利益のために」という行動原理に基づいて動いている、(消費者からすると)超優良企業だ。

株主の利益のためでなく、従業員の利益のためでもなく、お客様のために。
口先だけなら言う企業は多いが、Amazonはその理念を見事に行動に反映させている。
これこそがAmazon最大の強みであり、Amazonのおそろしいところでもある。


ぼくは書店が好きだ。
自分が書店で働いていたこともあって、できることなら書店文化が衰退してほしくないとおもっている。

でも、たとえば店頭にない商品の扱いひとつとっても

・店頭にない商品を注文したときに「ないですね」としか言わない
・取り寄せ注文を依頼しても商品が到着するまでに2週間近くかかる
・2週間で届けばいいほうで、1週間たってから「やっぱり品切れでした」と連絡してくることもある

というリアル書店と(取次制度が諸悪の根源なんだけど)、

・まず品切れになることがほぼない
・新品がなければ中古商品の中からいちばん安いものを勧めてくれる
・新品も中古品も同じプラットフォームで購入できる

というAmazonのどっちを選ぶかといったら、「リアル書店にがんばってほしい」という想いをさしひいても、そりゃあAmazon使うでしょ。

品揃え、価格、スピード、検索性能、レビューの有無、返品対応、スペースの問題(電子書籍)、他のうっとうしい客などどれをとってもAmazonは実店舗に圧勝しているので、本が好きな人ほどAmazonに吸いよせられてしまう。
いまや、Amazonより実店舗のほうがはるかにいいぜ! って根拠を挙げて説明できるのって「立ち読み専門の人」「万引き犯」ぐらいなんじゃない?

残念ながら、書店は今後も減りつづける。
「地域の文化資本を支える」みたいな、言ってる本人もよくわかっていない理由で利便性に太刀打ちできるわけがない。
個人商店が商店街につぶされ、商店街がショッピングモールにつぶされたのと同じで、いくら愛着があろうとたいていの人は愛着のために高くて不便な店で買おうとはしない。
さよなら本屋さん。


これは書店だけの話はない。
ほとんどの小売店が同じ流れに巻きこまれる。衣類や生鮮品を扱う店であっても。

なにしろAmazonがオンライン書店としてスタートしたのは、本という商品に思いがあったわけではなく、「取り扱いが楽で鮮度を気にしなくていいから」という理由だけのためだったそうだ。
だから取り扱うノウハウさえ整えばどんな商品でも取り扱う。

Amazonで上質なスーツを7,200円で買ったぼくがこれから先、紳士服屋でスーツを買うことは二度とないだろう。
友人にもスーツ屋がいるので申し訳ないという気持ちはあるが、義理と数万円の安さを天秤にかけたら、安いほうをとる。
こうして書店がたどった道を、洋服屋もおもちゃ屋もスーパーマーケットも歩むことになる。

誰が悪いわけでもない。企業努力の問題でもない。職業は時代とともに滅びゆくものなのだ。



Amazonは投資を惜しまない。
なにしろAmazonが利益を出すようになったのはここ数年の話で、それまではずっと粗利益のほとんどを設備投資にまわしていて、利益はわずか、あるいは赤字だったのだ。
 ここで驚くべきなのは、当時アマゾンは利益を生み出していないのにもかかわらず、1999年からの1年間で倉庫を2カ所から8カ所に急拡大していることだ。倉庫の面積は約3万平方メートルから約50万平方メートルに増えた。
 赤字を垂れ流しても、事業拡張に投資を続けるという現在のアマゾンの原型はすでにできあがっていたのだが、当時は有象無象の新興ネットベンチャーが数多く倒産していた時期であり、経営を不安視する声が高まっていた。
 しかし、外部からの評価が低い中でも、当時からベゾスの姿勢はまったくぶれていない。『日経ビジネス』のインタビューでもきっぱりと言い切っている。
「短期的利益を得たい投資家には恐ろしい現象でしょうが、やはり長期的な視点が大切だと思います」
「アマゾンの投資家は私たちに長期展望を持ち、正しい経営を求めています。それこそ(成熟した事業で出た黒字を)新しいビジネスに向けることなのです」

これはすごく勇気のいる経営だとおもう。ぼくが経営者だったらできない。
万一の事態に備えてキャッシュを置いといたり、株主に分配したりしてしまう。

Amazonは成功したから「赤字を垂れ流しても、事業拡張に投資を続ける」というスタイルが評価されているけど、うまくいかなかったらめちゃくちゃ非難されるやつだもんなあ。

Amazonの投資はいたるところに及ぶ。
サーバーや倉庫はもちろん、物流も自前で確保しようと動いている。
 さて、ドローンを飛ばすには、当然のことながら、ドローン専用の基地が必要だ。アマゾンはすでにそれも構想している。なんとアマゾンは倉庫も空に飛ばそうとしているのだ。母艦のようにするらしい。
 アマゾンの物流倉庫は郊外に立地している場合が多く、そこからドローンを都市に飛ばすには遠すぎる懸念があるからだ。「空飛ぶ倉庫」により、ドローンを都市に配備し、顧客までの距離を縮める狙いだ。
 この空飛ぶ倉庫は、ヘリウムガスを使った全長100メートルの飛行船であり、数百トンの品物を積載する計画だ。旅客機との衝突を避けるために、飛行機が飛ぶより高い約1万4000メートルの上空に浮かべるという。
 ドローンは空飛ぶ倉庫から品物をピックアップし、配送した後は上空の倉庫には戻らずに、地上の拠点に向かう。単なる構想にしては非常に細かい計画だ。それもそのはず、なんとアマゾンはすでに米国でこの構想を特許出願しているのだ。これが夢物語の眉唾に聞こえないところがアマゾンの恐ろしさだ。
空飛ぶ倉庫!
ラピュタはほんとうにあったんだ!

一見突飛な発想だけど、土地代はかからないし輸送は楽になるし、実現できればいいアイデアかもしれない。
こんなの、日本じゃ法規制されて絶対にできないよねえ。

大型トラックはもちろん、Amazonは航空機、空港、海上輸送手段まで保有しようとしているらしい。
もはや一企業を超えて大国の軍ぐらいのスケールになっている。
そうなれば次は「エネルギー採掘も自前で」ってなるんだろうな(風力発電所は既に保有しているらしい)。

日本のGDPよりもAmazonの売上のほうが大きい、なんて日が来るのはわりとすぐそこかもしれない。



今後もAmazonはどんどん拡大を続けるだろう。
「顧客満足」のために。
もはやAmazonはネット通販の会社ではない。
Amazonでいちばん収益を上げている事業はAWS(サーバー事業)だし、Amazonプライム・ビデオはテレビが持っている利益を奪う。
 現在、すでに社員向けにテスト実験中だが、店舗で数千種類の商品を買えるだけでなく、事前にネットで注文し、日時を指定して商品を受け取ることも可能だ。顧客が店舗に行くと、従業員があらかじめ注文した商品を袋に詰めて用意しており、車のトランクまで運んでくれる。注文から15分で商品の準備を完了してもらえるという。
 このアマゾンフレッシュの店舗は、物流拠点としての利用も視野に入れている。ネット配送用の生鮮食品の倉庫としても使えるのだ。こうすることで、ネット通販の方の物流拠点もでき、より一層広がるというわけだ。リアルとネットと両方を構えることは、こういう意味もある。「ラストワンマイル」(物流における、ユーザーの手元に商品を届けるまでの最後の区間)を推し進めるアマゾンにとって2000店の店舗網は強力な武器になるはずだ。
 アマゾンから、融資の提案がきた時点で、審査はすでに終わっている。借りたい出品企業はオンラインで金額と返済期間を選択するだけで、最短で翌日に手元にお金が入る。通常の金融機関での融資は1カ月以上の期間を要することを考えれば、その短さは常識を塗り替える。
 このスピード融資は小規模な事業者がビジネスチャンスを逃さないためには、大変ありがたい仕組みだ。
 たとえば、取扱商品が突然SNSで拡散されるなど、思わぬ形で話題になったとする。当然、注文が急増する。業者としては予想外の事態なので、在庫を十分に確保できていない。通常の融資では審査に時間がかかるため、仕入れが間に合わず、販売の機会を逃すことになる。しかしアマゾンレンディングならば、仕入れのタイミングを逃さずに在庫を拡充できる。
実店舗、金融などありとあらゆるビジネスがAmazonのターゲットになりうる。

何度もいうが、いちばん怖いのはAmazonが消費者に歓迎されることだ。

品切れのない書店、どこよりも安い価格で買える洋服屋、安定していて安いサーバー、好きなときに観られるテレビ番組、待たずに買えるスーパー、欲しいときに融資してもらえる金融機関……。
Amazonを使わない理由はどこにもない。

「うまい話」になんとなく抵抗を感じてしまうけど、でも、たぶんいい流れなんだよね。たぶん……。

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書店が衰退しない可能性もあった



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2020年2月3日月曜日

【読書感想文】純愛≒尿意 / 名木田 恵子『赤い実 はじけた』

赤い実 はじけた

名木田 恵子

内容(e-honより)
「赤い実がはじけるって、どんな感じかしら。」想像するとなんだかどきどきしてくる。それは本当だった。まったく突然。急に胸が苦しくなって。パチン。思わず飛び上がるほど大きな音を立てて、胸の中で何かがはじけたのだ。予想もしていなかった。だって、相手が哲夫だったんだもの。小学上級以上向。

同世代で、光村図書の国語の教科書を使っていた人ならきっとおぼえているはず。
『耳をすませば』とならんで全国の子どもたちを赤面させた『赤い実 はじけた』。

ふと「どんな話だったっけ」とおもって読んでみたのだが、なんともあっけない話だった。

小学生の女の子が魚屋に行くと同級生の男の子が店番をしている。少し苦手だとおもっていた男の子だけど、魚屋見習いとして一生懸命な姿を見ているうちに「パチン」と胸の中で赤い実がはじけたような気がした……。

というお話。
青春小説の冒頭みたいだけど、これで終わり。
長篇の一部かとおもっていたら教科書用に書き下ろされた短篇(というか掌編)らしく、すごく短い。
三分で読み終える。

この子の恋の行方はどうなるのだろう……と想像する余韻すらない。たぶんどうもならない。小学生の恋なんてそんなもんだ。



他にも小学生の淡~い恋愛(淡すぎてほぼ純白)を描いた短編が収録されているが、はっきりいっておもしろくない。
まあね。小学生の「好き」なんておもしろくないよなあ。
肉欲とか見栄とか打算とか背徳とかがあってこそ恋愛はドラマになる。
安っぽい恋愛ドラマは「純愛」という言葉をよく使うが、本当の純愛なんて単純な欲求だから「尿意」とか「眠たい」とかと同じで、まったく心を動かされないんだよね。

そんな中、父親のDVに苦しむ母子を描いた『な・ぐ・ら・な・い』は唯一読みごたえがあった。といっても児童文学だから暴力の描写なんてぜんぜんソフトなんだけど。

道徳の教科書にはこういう話こそ載せたほうがいいよね。
「国を愛する心」を教えるよりも「子どもを殴るクズが父親だったとき、子どもなりにとれる行動は何か」みたいなことを教えるほうが千倍役に立つから。

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【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』



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2020年2月2日日曜日

ツイートまとめ 2019年3月



似てる

TKG

大阪市長

ヒック

否定

ロマンチック

吃音

純次

淘汰圧

読書感想文

成長

回収と公開

本来

押し入れ

たま

カラーボール

けもの

誤解と憶測

キツネリス

トリクルダウン

かわいい

歯みがき

神戸電鉄


盗塁

教育

あみだくじ

カメラを止めるなを止めるな

男のシャンプー

怒涛

ブタのメガネ

新元号

フトアゴヒゲトカゲ

デブの常識

本を読む時間

Eテレ

AIスピーカー


先輩風

電波

精神

飼い主の資質

議員定数

どさくさ

構想