2020年11月30日月曜日

【読書感想文】タイトル負け / 塩田 武士『騙し絵の牙』

騙し絵の牙

塩田 武士(著)  大泉 洋(写真)

内容(e-honより)
出版大手「薫風社」で、カルチャー誌の編集長を務める速水輝也。笑顔とユーモア、ウィットに富んだ会話で周囲を魅了する男だ。ある夜、上司から廃刊の可能性を匂わされたことを機に組織に翻弄されていく。社内抗争、大物作家の大型連載、企業タイアップ…。飄々とした「笑顔」の裏で、次第に「別の顔」が浮かび上がり―。俳優・大泉洋を小説の主人公に「あてがき」し話題沸騰!2018年本屋大賞ランクイン作。

 俳優である大泉洋さんのキャラクターをイメージして書いた「あてがき小説」なんだそうだ。

 その試みが成功しているかどうかは……残念ながらぼくがドラマも映画もほとんど観ない人間なので(『水曜どうでしょう』も観たことない)、大泉洋さんのキャラクターをよく知らないんだよね。
 観たのは『アフタースクール』ぐらいかな。でもあんまり印象に残ってないな。見た目から「ユーモラスな芝居をする役者さんなんだろうな」と想像するだけで……。




 大泉洋氏のファンでないぼくにとって、残念ながらこの小説は「期待はずれ」だった。

 いや、けっこうおもしろかったんだよ。でも読む前のハードルが上がりすぎて。
「あてがき小説」という変わった趣向、『騙し絵の牙』という挑戦的なタイトル、騙し絵になっている表紙写真。
 いったいどんな仕掛けがあるのかと身構えて読んじゃうじゃない。
『騙し絵の牙』ですよ。
「今から読者であるみなさんを騙します。最後にあっと驚くこと請け合い。さあ、見破ってごらんなさい」
っていうタイトルじゃん。

『騙し絵の牙』では最後に「意外な事実」が語られるんだけど、ものすごくささやかなんだよね。
「意外といえば意外だけど、人間誰にでもそれぐらいの秘密はあるよね」
ってぐらい。ささやかー!

『騙し絵の牙』というタイトルで読者に挑戦状を叩きつけるんなら、もっとすごい仕掛けがなきゃダメでしょ。
 〇〇は二人いたとか、〇〇と□□は同一人物だったとか、1章と2章は別の時代の話だったとか。

 小説の内容は悪くないんだけどタイトルがダメだなー。宿野かほる『ルビンの壺が割れた』もそうだけど。
 読者を欺くんならなんとかの季節にとかなんとかラブみたいなさりげないタイトルをつけなきゃ(ネタバレになるので一応自粛)。




〝仕掛け〟部分は期待はずれだったけど、雑誌編集者の仕事っぷりを書いたお仕事小説としてはおもしろかった。
 綿密に取材してることがうかがえる。

 ぼくは大学時代「なんとなくおもしろそうだから」という適当すぎる理由で出版社数社にエントリーした。結果は全滅。地方の出版社も含めてことごとく不採用だった。
 当時は「ぼくの能力を見抜けないなんて見る目のない採用担当だ」と不満だったけど、今にしておもうと「ちゃんと見抜いていたんだな」と感じる。
 ぼくにはできない仕事だわ。編集って。
 まず人と話すのが苦痛だもん。一日中パソコンに向き合ってるほうがずっといい。そんな人間に編集ができるはずがない。

『騙し絵の牙』の主人公・速水は雑誌の編集長。
 あっちに頭を下げ、こっちを笑わせ、そっちを励まし、あっちを持ちあげ、こっちを売りこみ、そっちから夜中に呼びだされ……。
 とんでもない仕事量とその幅の広さだ。おまけに速水はコミュニケーション能力の塊のような男で、プライベートを犠牲にする仕事の鬼。部下からの人望も厚く、上からもむずかしい仕事をこなせると期待されている。
 そんなスーパーマンのような男でも、出版不況には逆らえず、雑誌廃刊一歩手前で東奔西走させられる。

 もう読んでいてつらい。
 速水の仕事はほぼ完璧だといってもいい。それでも結果がついてこないのは「もう出版業界がだめだから」以外にない。
 速水氏もわかっている。それでも必死にもがきつづける。編集が、文芸、紙媒体が好きだから。


 ぼくも書店という出版業界の端くれの端くれにいた人間なのでわかる。紙の出版が今後伸びることはない。個人の努力でどうこうなる問題じゃない。
 毛筆業界やそろばん業界のように趣味のものとして細々と続いていくだろうが、あと二十年もしたら市場規模は今の数分の一になっているだろう。

 だから「そこであがいても無駄だよ」とおもう。局地的に勝つことはできても大勝することはない。さっさと見切りをつけて他の業界で勝負したほうがいい。速水のような優秀な人間ならどこにいってもやっていける。戦い方が悪いんじゃなくて戦う場所をまちがっているんだ。

 でも速水は必死にあがく。柳のように柔軟な人間なのに、根本のところは揺るがない。傍から見ると、その根本がまちがっているのだが。

 終盤、速水たち労働組合と経営陣が団体交渉をする場面がある。
 編集者、イラストレーター、フォトグラファー、印刷業者、作家、読者たちのために出版文化を残そうとする労働組合と、あくまで経営を第一に考え不採算部門を切り捨てようとする経営陣。
 作中では経営陣が悪者側として描かれるが、ぼくは経営側に肩入れしながら読んだ。
 出版文化だなんだのといっても経営者には利益を出す責務がある。文化を守るために会社をつぶすわけにはいかない。
 知恵と努力で苦難を乗り切れる可能性があるならまだしも、今の出版業界が以前の水準に戻る見込みは万に一つもない。良くてほんの少し延命させるだけだ。

 どう考えたって「紙をつぶしてデジタルに舵を切る」方針は正しい。
 いまさらデジタル化したってうまくいくとはおもえないが、それでも紙と心中するよりはまだ可能性がある。

仕事の物差しが「採算」なら、編集者ほど虚しい仕事はない。無駄が作品に生きる感覚は、現場を踏んで初めて得られる。だが、その成果が表れるのは行間であって、目につかないところに潜む特性がある。一目瞭然の数字とは、ほど遠いところに身を置く。

 これは速水の心中を吐露した文章だが、なんと青くさい感傷か。気持ちはわかるが、作家ならともかく、編集長ともあろう立場にあってこの青くささはどうだ。


 会社一筋に生きてきた人なら速水に共感できるのかもしれない。
 だが幾度かの転職をしてきて、これから先も「今の仕事があぶなくなったら別の業界に移ろう」とおもっているぼくとしてはまったく同情できない。
 こっちは一労働者だ。業界や会社と心中する義理なんかねえぜ。

 まあ速水の場合は、単なる「業界への愛着」以外にも雑誌や文芸に執着する理由があるのだが、それにしてもこの浪花節に共感できるのは、まだ終身雇用制を信じられた1960年代生まれまでじゃねえのかな。
 こっちはハナからそんなもの信じてないからなー。
(とおもったが著者の塩田武士さんは1979年生まれだった。ぼくとそう変わらないのにずいぶん無邪気に会社を信じている人物を主人公にしたもんだ)


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2020年11月27日金曜日

【読書感想文】誰の心にもあるクズな部分 / 吉田 修一『女たちは二度遊ぶ』

女たちは二度遊ぶ

吉田 修一

内容(e-honより)
電車で遭遇した目を見張るように美しい女。電話ボックスで見かけた甘い香りを残した女。職場で一緒に働く世間に馴染めない女。友人の紹介でなんとなく付き合った怠惰な女。嬉しくても悲しくてもよく泣く女。居酒屋から連れ帰った泥酔する女。バイト先で知り合った芸能界志望の女。そして、中学の時に初めて淡い恋心を抱いた女…。人生の中で繰り返す、出会いと別れ。ときに苦く、哀しい現代の男女をリアルに描く短編集。

 なぜかは自分でもよくわからないのだが、吉田修一さんの小説はすごく心地がいい。

 決して「いい話」じゃない。
『元職員』も『怒り』も『パレード』も『悪人』も、登場人物の大半は悪いやつ、ずるいやつ、怠け者のやつだった(『横道世之介』は例外)。

 読んでてぜんぜんスカッとしないんだよ。むしろ逆で、じわっと嫌な気持ちになる。善人が理不尽に不幸な目に遭って、悪人がこそこそ逃げまわるようなストーリーが多い。
 なんか湿度が高いというか。不快指数の高い小説なんだよね。
 でも、蒸し風呂に病みつきになってしまうように、吉田修一作品もなぜだか無性に読みたくなる。読んでいる間はじわっと嫌な気持ちになって、だから読みおわったときには一種の爽快感がある。はあ、やっとこの不快感から抜けだせた!


 吉田修一作品の「嫌な感じ」がぼくにはちょうどいい。
 出てくる人間が「こんな極悪非道なやつ許せない!」というほどじゃなくて、「どうしようもないクズだけどこいつの気持ちもちょっとわかってしまうな。ぼくも置かれた状況によってはこういうことしちゃうだろうな」っていうレベルの悪人なんだよね。




『女たちは二度遊ぶ』は短篇集だが、やはりダメな男ばかり出てくる(タイトルに『女たちは』とあるが基本的には男の話だ)。

 飲み屋で泥酔した女をホテルに連れていく男、だらだらと借金を重ねてしまう男、彼女が妊娠したときに堕胎してほしいと直接言えずに男友だちに代弁してもらう男……。

 十一の小説が収録されていて十一人の男が出てくるが、ほとんどがダメ男だ。定職についていない男や大学に行かない大学生ばかりだ。
 そして出てくる女たちは、彼らにとって「そんなに大事じゃない女」だ。


 一応言っておくと、ぼくはそこそこ真面目に生きてきた。大学も四年で卒業したし、仕事を無断欠勤したこともないし、退職するときは一ヶ月以上前に伝えたし、行きずりの女と寝たこともないし、それどころかナンパをしたこともない。
 だから「無断欠勤をくりかえす男」や「女をひっかけてヤリ捨てる男」の話を読むと、軽蔑すると同時に一抹のうらやましさも感じる。ぼくができないことをやっているから。

 一応まじめに生きてきたとはいえ、嘘をついてバイトを辞めたり、不実な態度で女性を傷つけたりしたことがある。だから「そっち側」の男の気持ちもよくわかる。ちょっと環境が違えば自分も「そっち側」で生きていたとおもう。


 特に印象に残ったのは『泣かない女』。

 ここに出てくる男はなかなかのクズ野郎だ。彼女を妊娠させてしまった男友だちの代わりに彼女に「中絶してほしい」と電話し、自分が彼女を妊娠させたときはやはり男友だちに代弁を頼む。
 責任感ゼロ。男のぼくから見ても最低のやつだとおもう。さすがのぼくでも、もし同じ境遇に立たされたらちゃんと頭を下げるぐらいのことはする。

 でも、ここまでのクズではなくても、たいていの男は「まあなんとかなるっしょ」ぐらいの気持ちでセックスしちゃってるんだよね。というかなんも考えてない。性欲で頭いっぱいで、一ヶ月先、一年先のことなんかまったく考えてない。
 みんなクズなんだよね。
「誰の心の中にもあるクズの部分」を書くのが、吉田修一さんはほんとにうまい。


 ところでこの『泣かない女』に出てくる「赤ちゃんをパチンコ屋の駐車場に置き去りにしたせいで死なせてしまった母親が、少し後にとった行動」のエピソード、めちゃくちゃ怖い。
 なんだろう。まったく理解不能な行動なのに、フィクションとはおもえないリアリティがあるんだよな。
 これ実話に基づいた話じゃないよね? 実話でないことを願うが……。


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2020年11月26日木曜日

ツイートまとめ 2020年3月



長寿

ほらふき

沈みゆく船

クリーニング

広辞苑

あばれる

隣県

おやつ

飲めるけど

村上春樹

ボランティア

ニューオータニ

比喩

本来の用途1

本来の用途2

生存権

曲乗り

そこそこ

コロナで延期

質量

疫病

読書感想文ブログ

結婚式場

よだれ

トイレットペーパー買い占め

コロナ封鎖

社交辞令

反ワクチン

964円

目線

選別



2020年11月25日水曜日

【読書感想文】何でも食う人が苦手な料理 / 高野 秀行『辺境メシ ~ヤバそうだから食べてみた~』

辺境メシ

ヤバそうだから食べてみた

高野 秀行

内容(e-honより)
人類最後の秘境は食卓だった!食のワンダーランドへようこそ―辺境探検家がありとあらゆる奇食珍食に挑んだ、驚嘆のノンフィクション・エッセイ!

 食に関しては好奇心旺盛なほうだとおもう。めずらしいものがあれば食べてみたい。
 とはいえインドア派でめんどくさがり屋なので、「居酒屋で聞きなれないメニューがあったら頼んでみる」とか「スーパーでよくわからない野菜や果物があれば買ってみる」レベルだ。
 一度、機会があって虫も食べてみた。特にどうってことのない味だった。


 しかし世の中には食に保守的な人が多い。
 以前中国に滞在していたとき、ぼくは屋台で売っている謎の肉とか、レストランで名前からは想像もつかない料理とかをばくばく食べていた(「猫耳朶」という料理があったので猫の耳を食わせるのかとおもって頼んでみたがただのパスタでがっかりした。形状が猫の耳に似ているかららしい)。
 ところが周囲の日本人から「よくそんなもん食えるね」とか「怖くないの?」とか聞かれたものだ。彼ら彼女らは炒飯や水餃子ばかり頼んでいる。そんなもの日本でも食えるのに。
 日本人数人でレストランに行ったとき、入口のバケツで醜悪な見た目の謎の巨大魚が泳いでいたから「これ頼んでみようよ」と行ったら全員から猛反対された(ひとりで食い切れる量ではなかったので泣く泣く断念した)。
 たった一ヶ月ほどの滞在なのに日本食が恋しくなって「日本食レストランに行かない?」と言ってくる人もいた。なんて保守的なんだろう。

 ぼくからすると、高い上にうまくないに決まってる外国の日本食レストランに行くほうが正気の沙汰ではない。何しに外国に来てるんだ。
 謎の肉とはいえ、お店が出していて現地の人がお金出して食っているものなんだから食えるに決まっている。
 せっかく外国に来てるんだから食ってみたらいいじゃないか。うまければラッキーだしまずければそれはそれで話のタネになる。タニシやカエルを中国で食ったが悪くない味だった。

 とはいえ火の通っていないものだけは手を出さなかった。やっぱり衛生的に不安だったので。




「食への好奇心は強いけど出不精」のぼくとはちがい、高野秀行さんは食への好奇心も強い上に世界の辺境をあちこち旅している人なので、当然妙ちきりんなものもいっぱい食べている。
 なにしろ反政府ゲリラの支配区に滞在してアヘン中毒になったことのある人だ。『辺境メシ』では、ゴリラ、昆虫、ムカデ、水牛の脊髄、密造酒、麻薬成分のある草などいろんなものが紹介されている。

 コンゴで食べたチンパンジーの話。

 さっそく村の男たちが解体をはじめた。ゴリラのときはあまりにヒトに似ていたため、山刀で切り刻む様子が凄惨で目をそむけた。が、さらに飢餓が進み、なおかつ解体にも慣れてしまったせいか、このとき私は目をそむけるどころか生唾を飲んでしまった。「赤身の旨そうな肉じゃん!」と思ったのだ。
 いつものようにぶつ切りにされた肉は塩と唐辛子だけで煮込まれた。一口食べて驚いた。
「これ、ゴリラの肉そっくりだ!」
 ゴリラ同様チンパンジーも筋肉の発達が著しく、ひたすら固いが、意外に臭みはない。よく嚙むとコクも感じられる。ちなみに、一般的なサルの肉とは全然ちがう。サル肉は、独特の臭みがあるが味自体はあっさりしている。
 閉口したのは、体毛。一応解体の際に取り除いてあるのだが、仕事が雑なため、女性の髪そっくりの長く黒い毛が肉のあちこちにからみついている。私たちの舌や喉にもひっかかるので、しばしば口に指を突っ込んで毛をとらなければならない。野趣あふれすぎだ。
 でも、今となっては思う。ゴリラとチンパンジーの肉は臭みもないしコクのある肉である。もしちゃんと毛の処理をして、ハーブや種々の調味料を使い、じっくりコトコト煮込んで柔らかくしたら意外にいけるんじゃないだろうか。チンパンジー肉のトマトシチュー南仏風とか。もはや試す機会はないし、そんな機会はあってはいけないとも思うのだが。

 チンパンジーの肉なんてぜんぜんうまくなさそう……というイメージだったのだが、意外にいけるらしい。あくまで「世界中どんな料理でもほぼ何でも食べる」高野さんの感想なので、万人に当てはまるかは謎だが。
 とはいえサル族はやっぱり抵抗があるな……。顔が人間の赤ちゃんみたいだもんな。まして「女性の髪そっくりの長く黒い毛」がからみついていたら無理かもしれない……。


 チベットの「水牛の脊髄」とかミャンマーの「納豆バーニャカウダ」とかタイの「豚生肉を発酵させた料理」とか、見ただけで「食いたくない!」とおもう料理でも、高野さんの文章を読んでいるとおいしそうな気がしてくるからふしぎだ。

 まあ現地の人が金を出して食うものだから、そこそこうまいのだろう。
 しかし豚生肉を発酵させたものは、いくらうまくても食いたくないな……。命は惜しい。

 命知らずな料理といえば、日本の料理もたいがいだ。

 フグの中でも卵巣は最も危険な部位で、一匹分で三十人を殺せるほどの毒があるそうだ。そんなものをどうやって食べるのかというと、まず卵巣を三~五カ月ほど塩漬けにしたあと、糠味噌樽の中に漬けておく。すると、糠味噌の乳酸菌による分解で毒が少しずつ減り、三年後にはすっかり無毒かつ美味しい卵巣漬けになっているという(「塩が毒素を希釈する」という説もあるらしい)。
 こんな異常に高度な技術が江戸時代から培われていたというから、日本人の食い物に関する貪欲さは恐ろしい。だって、技術が確立するまでに何人が犠牲になったかわからないじゃないか。ほんの少しでも毒が残っていればアウトなのだ。他にも食べ物がたくさんあるわけだし、どうしてそこまでしてフグの卵巣に執念を燃やしたものかわからない。

 フグって冷静に考えたら世界でもトップクラスのゲテモノだよなあ。一歩間違えれば死ぬんだもん。
 もし外国に行って「このヘビおいしいんですけど、猛毒を持ってて食べたら死ぬんですよ。まあ腕のいい料理人が毒の部分だけ取り除いてるからほぼ大丈夫ですよ」と言われてもぜったいに手を出さない。それなのにフグはおいしくいただくんだから、慣れとはおそろしい。

 ここで紹介されているフグの卵巣なんて、誰がどうやって食べ方を発明したんだろうな。今だったら化学的な解析をできるのかもしれないけど、江戸時代だったらじっさいに食ってみるまでわからなかっただろうに。
「三年放置すれば無毒になる」ことに気づくまでにどれだけの命が失われたのだろう。




 韓国でホンオ(世界で二番目にくさい食べ物とされる、エイを発酵させた料理)を食べたときの顛末。

 だがまだ終わりではない。というか、これからが本番だった。締めにホンオのチム(蒸し料理)を頼んだ。大皿に、ネギ、ニンジン、ニラが入っており、遠目にはふつうの魚の蒸し料理に見える。だが、スプーン一杯分の塊をとって口に入れると強烈。湯気と一緒にアンモニア・スパークリングがジュワーッと口から喉、鼻と呼吸器に充満するのだ。飲み込んでも胃から臭気が逆流してくるので、急いでマッコルリを流し込む。
「なんじゃこりゃ!?」こんな食べ物、あるのか? どうしてこんなものを食べようと思うのか?
 俄然おもしろくなり、二回目は思い切ってガバッと大量にすくって口に放り込んだ。すると、大変なことが起きた。舌と口腔内へビリビリと電気が走り、直後、それは塩酸でもぶっかけられたような全面的な衝撃となって口全体が焼けただれていくような感覚に陥った。
「うわっ!」
 火傷したときの習性で、新鮮な空気を入れるべく口を開いたら……ドカーン! ときた。入ってきたのは空気じゃなくて毒ガスだった。そう、ホンオを口に入れたまま呼吸するのはタブーなのだ。目に星が飛んだ。ちょっと貧血っぽくなって焦ったが、口を開けるともっと悲惨なことになるので、必死でこらえてなんとか飲み込んだ。

 こんなもん毒じゃん。危険物じゃん。おっそろしい。

 虫は食べられるぼくでも、生肉発酵系の食べ物は食べたくない。やっぱり本能が「危険!」って叫んでるもん。納豆は好きだけどさ。

 でも生肉を発酵させた料理は世界中にある。発酵は貴重な食料を保存するための合理的な知恵なのだ。
 どんな奇妙奇天烈な食べ物でも、人が食べるということはそれなりに理由があるのだ。「エネルギー源がそれしかない」とか「日持ちがする」とか「はじめはきついが慣れると病みつきになる」とか。

 人類がここまで世界中に繁栄できたのは、器用だとか賢いだとかの理由もあるが、「なんでも食う」ってのも大きな要因かもしれないね。
 コアラとかパンダみたいに特定のものしか食べられない生き物だったら、まだアフリカの森から出ていなかっただろう。


 ところで、ほとんど何でも食べている高野さんが、いちばん怖がっているのが「タコの踊り食い」なのがおもしろい。
 とある生物に似ているからというのがその理由だが(詳しくは本書を読まれたし)、ゴリラや生の虫や世界一臭い料理やヤギの胃袋の中身や口噛み酒やカエルのジュースに比べれば、タコの踊り食いなんてぜんぜんたいしたことないとおもうのだが……。

 落語『饅頭こわい』じゃないけど、人間、何を怖がるかわからないもんだねえ。

 

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2020年11月24日火曜日

駒は二度取られる

 将棋ってさ、駒を取られたら相手のものになるじゃない。

「寝返りだ、卑怯だ」なんていう人もいるけど、駒にしたらそれがふつうだとおもうんだよね。
 主君に対して忠誠を誓う兵士なんてごく一部で、大半は金とかに釣られてどちらかについてるだけで、もっといい条件を提示されたらそっちに移るのはあたりまえだ。
 同業他社に転職しました、心機一転がんばります、ぐらいの感覚なんじゃないかな。

 だから相手陣営に加わるのはいいんだよ。
 後足で砂かけて、「前の軍の弱点とか教えますよ!」みたいな感じで新天地でがんばればいい。

 問題は、もういっぺん取られたときね。
 古巣に戻るわけじゃん。
 しかも周囲は同業他社にいたことを知ってるわけ。
 みんな口には出さないけど「どのツラ下げて戻ってこれたんだ」っておもってる。

 あれはめちゃくちゃ気恥ずかしいだろうね。
 必要以上に被害者ぶったりするのかな。
「いやー後手に無理やり連れていかれたんすけど、あっちの労働条件最悪でしたわー。やっぱり先手側がいいっすわー。よかったわー戻ってこれて」
とか聞かれてもいないのにべらべらしゃべるんだろうね。


 太平洋戦争の後シベリアで強制労働させられてた人が日本に帰国した後、「あいつはソビエト共産党のスパイなんじゃないか」という目で見られていてなかなかまっとうな仕事につけなかったという話を聞いたことがある。

 二度転籍した将棋の駒も、同じような目で見られているかもしれない。
 どれだけチームに貢献しても「あいつは前に裏切ったやつだ」「どうせまた裏切るんだろ」という評価は拭い去れない。
 どんなにがんばっても外様扱い。

 シベリア抑留者も二度取られた駒も、自分で選んだ道ではないのに、気の毒だ。
 なんなら同胞のために犠牲になったのに。


 そんな「二度転籍した駒」がいちばん輝くのは、なんといってもかつてのボスであった王将に王手をして詰ませるときだろう。
 それまでずっと「結局あいつはどっちにも転ぶやつだから」みたいな目で見ていた同僚たちが「すまなかった、おまえこそがいちばんチームのことを考えていたんだな!」と胴上げしてくれることまちがいなし。


2020年11月20日金曜日

テナガザル向けアダルトビデオが存在しない理由

 ふとおもったんだけど、アダルトビデオに興奮できるのって人間だけなんじゃないかな。

 いや、あたりまえなんだけど。人間向けに作ってるから。

 でもさ。
 アダルトビデオってだいたい他人がセックスしてる映像でしょ。
 それで昂奮するのってよく考えたら変じゃない?

「女の裸を見て昂奮する」のはわかるよ。
 女が自分の前で裸体をさらしているってのはセックスに持ちこむチャンスだからね。
 女性とふたりっきりになって、相手が全裸になってくれたら、まずまちがいなくセックスできるわけじゃない。
 そこで「いやそんなつもりじゃないから」って言われることはまずないでしょ。

 でもさ。
「自分じゃない男」と「自分じゃない女」がセックスしていて、自分がそれを隠し見ているというシチュエーション。
 ふつうに考えればそこから自分がセックスできる可能性はほとんどない。
 だから、本来なら昂奮するどころか消沈する状況なわけ。

 じゃあなんで赤の他人同士が性交しているところを見て昂奮できるのかっていったら、人間には想像力があるから。
 ビデオに写っている男優に自分を投影して、自分が性交している感覚を追体験できるから。


 だからさ。
 たとえばテナガザルに、他のテナガザルが交尾してる映像を見せたとするじゃん。
 それで昂奮するかっていうと、しないんんじゃないかとおもうんだよね。
 テナガザルはそこまでの想像力がないだろうから。


 あ、でもチンパンジーはべつだよ。チンパンジーなら昂奮するかもしれない。
 一夫一妻制のテナガザルとちがって、チンパンジーは乱婚型だから。
 他の個体が交尾していてもチャンスがあるわけだから。

2020年11月19日木曜日

手のひらメカ

子どものころは「手のひらにおさまるメカ」に対するあこがれが強かった。

今だと携帯電話を持つのがあたりまえになったので手のひらメカにあこがれたりしないけど、ぼくが子どもの頃は手のひらメカは希少だったし、まして子どもが触ってもよい手のひらメカなんて電卓ぐらいしかなかったからとにかく夢のアイテムだった。

特にほしかったのが時計とカメラだった。


小学四年生のとき、家族で香港旅行に行った。
おみやげとして、蚤の市で目覚まし時計を買ってもらった。

パスポートぐらいのサイズで、ケースもついていて、なんつうか超かっこよかった(ボキャブラリー貧困!)。

折りたたんで持ち運びできて、拡げたら置時計になって、デジタルで、世界各地の時刻がわかって、気温計もついていて、今おもうとぜんぜん〝メカ〟ってほどじゃないんだけど、これがぼくがはじめて所有した手のひらメカだった。

目覚まし時計として使っていただけでなく、どこへ行くにも持ち運んでいた。
夏の暑い日に公園に持っていって石の上に置いてたら温度が50℃になってて仰天した。
それでも壊れなかったのだからなかなかタフな時計だった。


カメラはなかなか買えなかった。
六年生のときにフリーマーケットでプラスチックのおもちゃみたいなカメラを五百円で買った。
おもちゃとはいえ一応写真は撮れるのだが、なんとパノラマ写真しか撮れないというわけのわからんカメラだ。
パノラマ専用のフィルムが必要だし、現像・プリントも特別料金が必要。
とにかくランニングコストが高くついたので、小学生に捻出できるはずもなく、けっきょくフィルム一本分しか撮らなかった。


1996年ぐらいにたまごっちとか携帯テトリスとかが爆発的に流行った。
ぼくはたまごっちは持っていなかったが、携帯テトリスは持っていた。何かの景品でもらったのだ。

あれがあんなに流行ったのは、みんな〝手のひらメカ〟に対するあこがれを持っていたからじゃないだろうか。
冷静に考えればわざわざちっちゃい画面でやりたいほど、テトリスをやりたいわけではなかった。〝手のひらメカ〟を使いたいから携帯テトリスをやっていたのだ。

中学生のときに気に入っていた〝手のひらメカ〟は電子辞書だった。
英和・和英辞典と漢字辞典。別々の機種だった。
どちらも家電量販店で1,000円で買った。
こんなすごいものが1,000円で買えるなんて! と感動したことをおぼえている。


中高生になってからは多少使えるお金も増えたので、使い捨てカメラ(いわゆる『写ルンです』)でよく写真を撮っていた。
これはこれで楽しかったのだが、やはり「メカ」という感じはしなかった。
何しろ現像に出したら手元に残らないのだから。

はじめてちゃんとしたフィルムカメラを買ったのは、大学生になって中国に行ったときのことだ。
北京の蚤の市で(蚤の市が好きなのだ)カメラを買った。その名も『長城』。
日本円で千円ぐらいだった。当時は中国の物価は今よりずっと安かったのだ。
だがけっきょく『長城』も長くは使わなかった。
ほどなくしてデジタルカメラを買ったからだ。

このあたりから〝手のひらメカ〟は特別な存在ではなくなった。


今の子どもって〝手のひらメカ〟にあこがれるのかな。
ものごころついたときからスマホやタブレットやデジカメに囲まれて育っているからあこがれないのかな。

とおもっていたが、こないだ娘の進研ゼミの景品カタログを見ていたら「トランシーバー」があって、おおっやっぱり今の子どももトランシーバーにあこがれるのか! とうれしくなった。

いいよなあ、トランシーバー。
スマホ持っててもやっぱりあこがれるぜ。

2020年11月18日水曜日

自分のイヤなところを写す鏡

長女は七歳。

ぼくになついている。すごく。
朝はぼくと手を手をつないで学校へ行き、夜は「おとうさん本読んで」「おとうさん宿題見て」「おとうさんいっしょにピアノ弾こ」「いっしょにお風呂入ろ」と言い、隣で寝る。
休みの日もいっしょに遊ぶし、ぼくが出かけたらついてくる。

始終ぼくといっしょにいる。
そのせいだろうか、ぼくのイヤなところが似てきた。


たとえば他者のルール違反にやたらと厳しいところとか。
ぼくは長女の「約束を破る」とか「嘘をつく」に対してはすごく厳しく叱る。ゲームをしていても、手加減をしたりハンデをつけることはあってもルール違反は許さない。
だからだろう、長女も他人のズルやごまかしに厳しい。

ドッチボールで線を越えて投げたとか、おにごっこでタッチされたのに「タッチされてない」と言い張って逃げたとか。
そういうのを厳しく糾弾する。
しかも、ちっちゃい子がいまいちルールを把握してなくて結果的にずるになってしまった、なんてときにも厳しくたしなめる。

まあルールはルールだし、誰であろうと不正は不正なので、長女の言い分もわかる。
とはいえたかが遊びなので「まあちょっとぐらいはええじゃないか」「ルールの厳密さよりも場の流れのほうが大事だよね」ぐらいのゆるさでやったほうが楽しくやれるのもまた事実。

長女が明らかに意地悪や自己中心的な考えでやっているなら叱るが、正義感でやっているので注意すべきかどうか悩ましい。

おもえばぼくも小学生のとき、通知表に「他人に厳しい」と書かれていた。
イヤなところが似てしまった。


あと長女の次女(二歳)への叱り方とか。
理由はささいなことだ。次女が長女の持ち物を勝手に使ったとか、手を洗う順番を守らなかったとか。
長女は次女を呼びつけ、

「ねえさっき勝手に私のノートに落書きしたよね。ああいうことされたら私はすごくイヤなの。学校で使う大事なものだし。前にも注意したよね? わかる? 今度からはもうやめてほしいんだけど守れる?」

と、理詰めでねちねち責めたてる。

言っていることはまちがってないのだが、相手は二歳だ。くどくど説明してもわかるわけがない。「だめっ!」とか「やめてね」で十分だ。
なによりイヤなのが、長女の叱り方が、ぼくが長女を叱るときのやりかたであることにそっくりなことだ。

何をしたのか、その行為の何がダメだったのか、どうしたらよかったのか、今後はどうしたらいいのか。
ぼくとしては、こちらが感情的に叱っているのではなく、なぜ叱っているのかを言語で説明するようにしている。
だが客観的に聞いたらこんなにねちねちくどくどと聞こえるのか……。すげえイヤミな口調だな……。きらいだわー……。

「子どもは親の言うことは聞かないが、親の言動は真似をする」
と言われるが、まさにそのとおり。
悪いところだけじゃなくて良いところも似ているのかもしれないが、やっぱり目に付くのはイヤなところ。

自分の声を録音したものを聴くと
「ぼくってこんな気持ち悪いしゃべりかたしてんだ」
と絶望的な気持ちになるが、それとよく似ている。

世の中には「自分の子どものことが嫌い」という人がいるらしいが、きっと自分に似ているからなんだろうなー。


2020年11月17日火曜日

【読書感想文】池上彰のダメ番組のような / 中原 英臣・佐川 峻『数字のウソを見破る』

数字のウソを見破る

中原 英臣  佐川 峻

内容(e-honより)
私たちの身の周りにはさまざまな数字が溢れている。健康診断の正常値や失業率・有効求人倍率、テレビの視聴率など、個人にとっても社会にとっても、数字は大きな力を持っている。しかし、客観的でウソがないように見えるそれらの数字には、そのまま信じると騙されるものもしばしばある。例えば、テレビの視聴率の〇.一%の違いで広告会社は動くが、サンプル調査ゆえの誤差の範囲でまったく意味はない。医療・健康・経済・社会に関するいろいろな数字を取りあげて、そのウラを暴く。

 共著だが、二人が共同して執筆しているわけではなく、前半は医師である中原氏が医療分野について書いて、後半は科学評論家である佐川氏が経済や社会の諸々について語っている。
 ボリュームが足りないので二人の本をむりやりまとめて合本にした、という感じの作り。

 そして前半の中原氏のパートはいまいちだった。
「日本では〇〇という基準で医療をやっているが、欧米では□□という基準が使われている。だから〇〇は適切でない!」
みたいな論調なのだが、正直素人にはそれだけ読んでも〇〇と□□のどちらが正しいのかわからない。日本の基準のほうが正しくて欧米のほうがまちがってるのかもしれないし。

「厚労省が出した数字をそのまま信じるな」というのは首肯できるが、だったら中原氏の出した数字だってそのまま信じられない。
 結局この本を読んだだけだと「厚労省は〇〇と言っているが、反対意見もある」ということしかわからないんだよね。

 医療に関しては万人に通用する正解がない以上、ちょっと疑わしい数字でも「数字のウソ」とまでは言い切れないんじゃないかな。




 佐川さんのパートはおもしろかった。内容は古かったけど(2009年刊行なのでしかたないけど)。

 気象庁の天気予報が雨を降るかどうか的中させる確率は約85%だそうだ。
 85%と聞くとけっこう当たってるなという気がするが、2008年に東京で雨が降ったのは114 日だけ。

 この数字は、東京では、日に関係なく、いつも「明日は晴れです」と「予報」すれば68.8%、すなわち約70%の適中率になることを意味している。
 雨が降る日数というのは、年によっても、地域によっても異なるだろうが、おそらく日本ではところかまわず、「明日は晴れ」と予報しておけば、だいたい7割前後の適中率が得られる。
 ほとんど雨が降らない、たとえばアフリカの砂漠地域での「予報」を考えれば、もっと高い適中率が得られるのは容易に想像できるだろう。極端な例だが、乾燥した地方で、年間に2~3日しか雨が降らないとすれば、「明日は晴れです」という予報の適中率は99%を上回ることになる。
 ここでいいたいことは、日本で85%という数値を評価するときの基準は0%ではなく、70%からどれだけ高いか、ということだということである。それが本当の意味での予報の適中率の評価になる。70%の適中率は素人にも実現できるのだから。
 とすれば、気象庁の予報の適中率は、70%から15ポイントだけ高いということになる。気象衛星からの生のデータや蓄積した膨大な気象データをスーパーコンピューターで計算した結果の予報として、はたしてこの数字は大きなものだろうか。評価の仕方にもよるが、非常に大きいとはいえそうにもないような気がするが、どうだろうか。

 堀井憲一郎さんが『かつて誰も調べなかった100の謎』という本で、天気予報が当たってるかどうかを検証していた。
 その調査によると、雨が降った31日のうち、7日前に「7日後は雨」と的中させていたのはたったの1回だけだったそうだ。的中率は驚きの3.2%。ゲタを転がすよりはるかに的中率が低い。

 そして今でもほとんど天気予報の的中率は上がってないらしい。週間天気予報は基本的に当たらないのだ。
 そしてこの先も週間天気予報の成績が向上する可能性はほとんどない。どれだけコンピュータが進化しても、天気のような複雑なものを正確に予測するのはできないらしい(カオス理論)。
 だから「週末の天気は?」と訊かれたときは天気予報など見ずに「晴れるよ」と言っておけばいい。2/3以上は当たるから。




 そのほか、地球温暖化、株のナンピン買い、失業率、出生率、平均寿命など雑多な話。
 それぞれ興味深いんだけど、いかんせんテーマが多岐にわたりすぎているのですごく浅い。
「食品が製造年月日表記から賞味期限表記になったのは外国からの圧力によるもの」とかテレビ番組で紹介するぐらいならおもしろい内容だけど、本で読むにはものたりない。
 根拠とか洞察とかがほとんどないんだよな……。最近の池上彰さんの番組みたい。


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2020年11月16日月曜日

古本屋の店主になりたい

古本屋の店主になりたい。

客は来ないほうがいい。一日に三人とか。
ひまなときは(基本的にずっとひまなんだが)本を読む。
だから客は少なくていいが、かといってまったく来ないのは寂しい。

基本的に買取はしない。
面倒だから。
好きじゃない本を店に並べたくないし。

店に並べるのはぼくが読みおわった本だ。
「おっ、それ買うの? お目が高い」
「あーそれね。イマイチだったんだよねー」
「その本は読む人を選ぶとおもうよ。大丈夫かな?」
とか心の中でつぶやきながら売りたい。

買ったけどずっと読んでいない本を店に並べておいてもおもしろいな。
客が手に取ったら「あっ、あっ、それまだ読んでないやつ」とドキドキしたい。
買われちゃったら「あー。あれおもしろかったんだろうなー。もっと早く読んどきゃよかったー」と後悔したい。
だったら店頭に置くなって話なんだが、でもたまにはドキドキしたいじゃない。古本屋の店主って刺激少なそうだもん。

もちろん利益なんかない。
それどころか光熱費にすらならないぐらいの売上しかない。家賃なんかもってのほか。
利益どころか大赤字だ。なぜならぼくが別の古本屋やAmazonで本を買ってしまうから。
もうずっと赤字。
「おっ、今月は赤字が2万円で済んだ。よかったー」みたいな感じでやっていきたい。

あまりにも客が少なすぎて、近所の人たちから
「あそこの古本屋、表向きは古本屋だけど裏でヤバい商売扱ってるらしいよ」
「『小松左京の初版本は入荷したかい?』って言えばカジノにつながる秘密の通路をあけてもらえるらしいよ」
みたいな噂が立つぐらい。

あー、いいなあ!



2020年11月13日金曜日

【読書感想文】男から見ても女は生きづらい / 雨宮 処凛『「女子」という呪い』

「女子」という呪い

雨宮 処凛

内容(e-honより)
男から「女のくせに」と罵られ、常に女子力を求められる。上から目線で評価され、「女なんだから」と我慢させられる。私たちは呪われている?!「男以上に成功するな」「女はいいよな」「女はバカだ」「男の浮気は笑って許せ」「早く結婚しろ」「早く産め」「家事も育児も女の仕事」「男より稼ぐな」「若くてかわいいが女の価値」…こういうオッサンを、確実に黙らせる方法あります!


 男として生まれ、男として生きてきたので、「女性の生きづらさ」について深く考える機会はほとんどなかった。

 だが娘が生まれ、彼女の将来を案ずるうちに遅ればせながら「女性の生き方」について真剣に考えるようになった。
「娘が大きくなったときに生きていきやすい世の中だろうか」という目で今の日本社会を見渡してみると、お世辞にも女性が生きやすい世の中とは言えない(男も生きづらい世の中だけどね)。

 昨年、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説を読んだ。ふつうの女性がふつうの人生を送るだけなのだが、それだけなのに「女の生きづらさ」が浮かびあがってくる。小説の舞台は韓国だが、日本の状況と大きく変わらない。




 ぼくらの世代は、ちょっと上の世代とは違い、「男女は平等である」と言われつづけて育った。
 ぼくの通っていた中学校では男女ともに技術と家庭科をやり、名簿も男女混合で、体育祭では男子もダンスをして女子も組体操をした。
 ぼくにはひとつ上の姉がいるが、親から「男の子なんだから」「女の子らしくしなさい」と言われたこともない。「これからは男でも家事をできなきゃいけないよ」とは言われたが。

 本音はともかく、タテマエとしては「男女平等」に異を唱えることなど許されない時代に育った。

 だから「女は家で家事と子育てをしとけ」なんてことを言う人は、今の三十代以下にはほとんどいない。
 ぼくがいた会社でも「女性がお茶を出すように」なんて言うのは1960年代生まれまでだった。

 じゃあ女性が生きやすくなったかというと、そんなことはないんじゃないかとおもう。
 むしろ「男女平等」というタテマエがある分、「女性だけが損をしている」という声を上げづらくなったんじゃないだろうか。
 現実問題として「女のほうが平均給与が低い」という明確な格差があるのに、「今は雇用機会均等法もあって男女平等の世の中だよ」というタテマエがあるせいで、「あなたの給与が低いのはあなたが女だからではなくあなたの能力が低いからでしょ」と言われてしまうというか。




 この国では、男は経済的自立さえしていればそうそう責められることはない。しかし、女はその上で家事や育児まで完璧にこなすことを求められ、「男を立てる」ことまで要求される。仕事を続けたら続けたで「旦那さんの理解があっていいわね」なんて言われ、育児に手がかかったり介護を必要とする家族がいたりすれば仕事を続けていることを責められ、やむを得ず仕事を辞めて育児や介護に専念すれば、誰もねぎらってくれないどころか「気楽な専業主婦」扱いされる。
 一方で、結婚しない女、子どもがいない女は、時に無神経な言葉に晒される。

 ぼくは子どもと過ごすのが好きなので、休みの日はほぼずっと子どもといっしょにいる。
 妻が外で遊ぶのがあまり好きでないことや、ぼくががさつなこともあって、我が家では自然と「ぼくが子どもを連れて外で遊んでいる間に、妻が掃除や料理をしてくれる」という役割分担になった。

 子どもと遊んだり、子どもを連れて買物に行ったりしていると、けっこう「おとうさんえらいねえ」と声をかけられる。声をかけてくるのはほぼまちがいなくおばちゃん・おばあちゃんだ。「うちの旦那なんかなんもしてくれへんかったわ」と愚痴をこぼされることもよくある。

「ご主人子どもと遊んであげてえらいねえ」と言われることはあっても、「奥さん家事をしててえらいわねえ」「おかあさん、子ども連れて買物に行っててえらいねえ」と言われることはない(そして「ご主人仕事しててえらいわねえ」とも言ってもらえない)。

 2020年になっても「夫は仕事がメインで家事はオプション、妻は家事がメインで仕事はオプション」は根強く残っている。




「女は楽でいいよな」と言う男もいる。ぼくもかつてそうおもっていたが、最近気づいた。「女は楽でいい」なんてごく限られた時期の限られた人だけのことだ。

 二十歳ぐらいの女の人はだいたいちやほやされる。それはそれで悪いこともあるが、トータルで考えれば得のほうが多いとおもう。
「二十歳ぐらいで金もないし顔もよくない男」なんて誰にも相手にされなかったもん、ホント。世の中から「単純労働力」としてしか期待されてなかった。

 でも、黙っていてもちやほやされる時期はごくごく限られている。
 美人であっても歳をとったら、同年代の男より生きるのは大変だ。そして大変な時期のほうがずっと長く続いてゆくのだ。

 例えば一人親の貧困率が50%を超えるのは、この国の社会保障制度の設計に問題があるからだ。すでに時代遅れの「正社員の夫と専業主婦の妻、プラス子ども」みたいなものが標準世帯とされているので、標準世帯からもれる一人親世帯は貧困となるリスクが一気に高まる。当然、結婚していない単身女性の貧困リスクも高まる。単身女性の三人に一人が貧困(月の収入が約10万円以下)というのは有名な話だが、これが高齢者になるともっと大変なことになっている。65歳以上の単身女性の貧困率は52.3%(07年)で二人に一人だ。
 女性は、子どもの時には「父」という男が、そして大人になってからは「配偶者」という男がいなければ貧しくなるリスクが高まるのだ。そしてそれをカバーする制度は今のところ、ない。

 男女平等だのといっても、歳をとった独身女性が生きていくのは(歳をとった独身男性よりも)大変だ。社会のシステムが、女性が独身で生きていけるようにできていないのだ。

 娘の幸せを願う父親としては「娘にいい人と結婚してほしい」と願わざるをえない。もしぼくに息子がいても、そこまで強く「いい人と結婚してほしい」とは願わないだろう。
 令和の時代になってもまだ、女性の幸せは夫によって決まる部分が大きいのだ。

 この国では、なんて「普通に大人になる」ことが難しいのだろうと。例えば、カビさんの〈子供でいた方が両親は可愛がってくれると思ったから 大人になってはいけないと思っていた〉という一文。この言葉に、共感できる人は多いのではないだろうか。
 一方で、社会も「女の子」の「成熟」に変に敏感だ。年相応に、恋愛や異性や性的なことに興味を持つと「親」や「教師」的な存在からは全否定される。しかし、突然「大人の男」は「お前の性を売れ」という圧力を直接的・間接的にかけてくる。同時に「未熟であれ、成熟などするな」というメッセージも投げかけてくる。自分が成熟したほうがいいのか悪いのか、自分が何かトンデモなく隙だらけだから変なオッサンに声をかけられるのか、心も体もいつも傷ついてちぐはぐで、常に欲望の主体ではなく客体として扱われるので、自分は本当は何がしたいのか、当たり前にある自らの欲望と折り合いがつけられなくなる。そんな無限ループ。そして「女」であることから降りたくなる。

 恥ずかしい話だが、ぼくもやはり女を一方的に品定めしていた。男友だちと「あの女はアリ/ナシ」と語ったこともある。ひとりの人間としてではなく、顔と身体だけを見て。

 そして自分の娘が同じ眼にさらされるのだと想像してやっと、女性の置かれる状況の厳しさを思い知る。自分の娘が……という立場に置かれて想像をしないと気づけない。

 やっぱり大変ですよ、女のほうが。
 美人でも不美人でも男好きでも男嫌いでも仕事ができても仕事ができなくても生きづらい。
「ふつうぐらいの器量で、ふつうの性格で、ふつうに仕事ができるぐらいであってほしい」と我が子に対して臨んでしまうのだが、これがもう〝呪い〟だよな……。




 ところでこの本、4章構成なのだが、2章と3章は「メンタルを病んだ女性の生きづらさ」について書かれており、これは蛇足だったようにおもう。

 心を病んだ原因は「女であること」に由来するのかもしれないが、リストカットをくりかえしている人やAVで処女喪失したライターが飛び降り自殺をしたことを引き合いに出して「女は大変」って言われても、「大変なのはわかるけど〝女の生きづらさ〟を語るための例としては極端すぎるだろ……」としか思えない。
 ガソリンかぶって焼身自殺をした男がいるからって「ほら男って大変でしょ?」とは言えないでしょ。

 

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【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

男らしさ、女らしさ



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2020年11月12日木曜日

【読書感想文】作者はどこまで狂っているのか / 星野 智幸『呪文』

呪文

星野 智幸

内容(e-honより)
さびれゆく松保商店街に現れた若きカリスマ図領。クレーマーの撃退を手始めに、彼は商店街の生き残りを賭けた改革に着手した。廃業店舗には若い働き手を斡旋し、独自の融資制度を立ち上げ、自警団「未来系」が組織される。人々は、希望あふれる彼の言葉に熱狂したのだが、ある時「未来系」が暴走を始めて…。揺らぐ「正義」と、過激化する暴力。この街を支配しているのは誰なのか?いま、壮絶な闘いが幕を開ける!

 なんというか……。
 表現しづらい小説だな。

 序盤は商店街立て直し小説みたいな感じの導入だったので、徐々にサイコホラーになってきて戸惑ってしまった。え? なにこれ? この武士みたいなしゃべり方する女の人は何なの? って感じで(ちなみにその武士みたいなしゃべり方の女性はフェードアウトして途中からストーリーにほとんどからまなくなってくる。ほんとなんだったんだ)。

 決してうまくない小説なんだよね。武士みたいな女の人もそうだし、悪の黒幕的ポジションの図領も最後はほったらかし。登場人物が多いわりに細かく描ききれてないので「この人誰?」となってしまう。
 視点がころころ変わるんだけど、そういう構成の小説を書くにはちょっと技量が追いついていないような……。ストーリー展開も急すぎて「極限状態でもないのに人間がここまでかんたんに洗脳されるか?」という気になる。


 と、決して巧みとは言えない小説ではあったけど、しかしなんというかすごいパワーがあった。粗削りだけど、熱量とかオリジナリティとかはびんびん感じる。引きこまれた。

「それでノアとその一族を方舟に乗せて、残りの全人類を滅ぼした。動物はとばっちりだけどね。で、ノアは選ばれた人間ということになっているが、本当にそうなのか、というのがここで考えたいことだ。何しろ、世が新しくなるために本当に必要だったのは、ノアが生き残ること以上に、他の人間たちが死ぬことだったんだから。選ばれたのはノアじゃなくて、ノア以外の、死んだ者たちじゃないだろうか? ノアはむしろ、選ばれなかった、選に漏れた役立たずとも言えるんじゃなかろうか」
 栗木田はゆっくりと全員の顔を見た。
「今の世も腐ってるよな。だからディスラーも世直しに励んだつもりでいたんだもんな。洪水みたいなものも、世界中で起きている。まさに、古い時代は終わり、新しい時代が作られようとしてる。人類は少しずつ滅亡しようとしていると、私は実感してる。それで、方舟がどこにあるのかは知らないが、少なくとも私はその乗客ではないことは自覚している。本能的に知ってるというかね。おまえらもそうだろ?」
 今度は全員がうなずいた。
「大切なのは、滅びるほうだろ?滅びるべき者たちがその使命を悟って死んでいくから、世の中を新しく変えることができるわけだ。つまり、世を変えているのは、死んでいく側なんだよ。我々が、世を捨てるような自棄な気分じゃなく、強い意志を持って率先して消えることで、次のもっとマシであろう世を生むことができるんだ。変な言い方だが、無意味さを認めて死ぬことのできる我々には、生まれてきた意味がある。私はそちらの側にいたい。というか、いる。我々こそが改革者なんだ、選ばれた民なんだ!」

 登場人物の言動とかはめちゃくちゃなんだけどね。ぜんぜん筋道が立ってないし。
「洗脳されている側」がめちゃくちゃなのは当然として、「洗脳されている連中と闘う人々」のほうもだいぶヤバい。どっちもおかしい。いかれてる人しか出てこない。

 作者もどっか狂ってるんじゃないか。そう思わせる力がある。もしくは本当に狂っているか。

 矢部 嵩『魔女の子供はやってこない』を読んだときにも同じことを感じた。これだけ粗いものをちゃんと活字にする出版社もすごい。


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2020年11月11日水曜日

【読書感想文】本を双眼鏡で探す家 / 磯田 和一『書斎曼荼羅 1 本と闘う人々』

書斎曼荼羅 1

本と闘う人々

磯田 和一

内容(e-honより)
有名作家や翻訳家、脚本家、大学教授といった、日頃本と闘っている職業人を取材し、その状況をイラストで紹介。

 京極夏彦、佐野洋、大沢在昌、山田風太郎など、本に関わる人々の〝書斎〟をイラストと文章で紹介した本。

 妹尾河童氏が『河童が覗いた〇〇』というシリーズの連載をやっていたが、あんな感じ。


 ぼくも学生時代は数千冊の本を所有していて、本棚に入りきらないので段ボールに入れて押し入れに積みあげていたら押し入れの中板がひしゃげてしまったことがあった。

 自分もなかなかの蔵書家だとおもっていたが、『書斎曼荼羅』を読むとぼくの蔵書なんて富士山のふもとにある公園の砂山ぐらいのレベルだったと思い知らされる。

 しょっぱな(関口苑生氏・書評家)から、「本が多すぎてストーブが置けないのでガスコンロをつけっぱなし」「本が多すぎることが原因で妻が出ていったので広いマンションに引っ越す(が、引っ越し先でもやはりすぐ本だらけになる)」という強烈なエピソードに仰天される。

 すげえ……。
 しかしガスコンロつけっぱなしとかあぶなすぎるだろ……。これだけ本があったら一度火が付いたらあっという間に燃え広がるだろうし。


 阿刀田高(作家)のエピソードもすごい。

「すごく高い本棚をつくったが、上のほうのタイトルが見えないので本を探すときは双眼鏡で探す」というもの。

 絵があるけど、高い本棚がずらりと並んでいて、図書館みたいな書斎。いや図書館よりもはるかに本の密度は高い。




 いちばん度肝を抜かれたのは、翻訳家・評論家の藤野邦夫氏。


 なんと床に本が敷きつめられているのだそうだ。
 これはどうなんだろう……。たいていの本好きなら、どんなに本が家にあふれかえっててもぜったいに「本に乗る」ということはしないとおもうが。
 こういうことできる人もいるんだなあ。ぼくはこの家に入りたくない。




 井上ひさし氏の『本の運命』というエッセイに、こんな文章が出てきた。

 一番買い込んだのは、朝日新聞で文芸時評をやってた頃でした。たまたまその頃、僕の『吉里吉里人』がびっくりするほど売れて、印税がどんどん入ってきたせいもあった。
 気が大きくなって、「よしっ、世の中に出てる本で、文芸時評の対象になりうるものは全部買ってみよう」と決意して、一年間続けました。出入りの本屋さんに、小説と評論と漫画をとにかく全部取ってくれと頼んで。これは月に四、五百万円かかりました。
 お陰で、印税は本代で消え、税金を払うために借金をして、払い終わるのに五年ぐらいかかったでしょうか。これがきっかけで、本がたくさん売れるのが怖くなった(笑)。
 さすがにこんな買い方は続きませんでしたが、いまでも本代が月に五十万円ぐらいになるでしょうか。ですからうちの、エンゲル係数じゃなくて、本にかかる係数はかなり高い(笑)。

 上には上がいるものだ。

 本の重みで床が抜けた、なんて話を聞くとあこがれると同時にちょっとあこがれる。
『書斎曼荼羅』に出てくる人たちは、地震で本に埋もれて死んだらむしろ本望なんだろうな。

 しかし最近は電子書籍が普及したからねえ。本をたくさん読む人ほど電子書籍のほうがメリットあるからね。もうこんな書斎もなくなっていくんだろうね。


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【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』

ショールームとエロ動画の本棚



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2020年11月10日火曜日

【読書感想文】多数決のメリットは集計が楽なことだけ / 坂井 豊貴『多数決を疑う』

多数決を疑う

社会的選択理論とは何か

坂井 豊貴

内容(e-honより)
選挙の仕組みに難点が見えてくるとき、統治の根幹が揺らぎはじめる。選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか。

集団内で何かを決めるときにいちばんよく使われるやり方、それが多数決。
ぼくらはあたりまえのように多数決を使っている。
クラスの委員を決めるのも多数決だし、数人で昼飯に何を食うか決めるときにも使うし、選挙だって多数決だ(比例代表は違うけど)。

そして多数決は強い。
多数決の結果に異を唱えるのはむずかしい。
「多数決で決まったんだから文句言うなよ」という空気が醸成されてしまう。
「自民党が与党なのはおかしい!」と言おうもんなら「公正な選挙で民主的に決まったことにいちゃもんつけるな!」と言われるだろう。


だが、ちょっと待ってほしい。
多数決ってほんとに公正なのか。ほんとに民主的な手段なのか。
そんな疑問がずっとあった。

『多数決を疑う』を読んではっきりわかった。
多数決は公正でも民主的でもない。何かを決めるにあたって、ぜんぜんいいやりかたじゃない。




たとえば X、Y、Zという候補者がいたとする。

10人中4人は X > Y > Z ……①
10人中3人は Y > Z > X ……②
10人中3人は Z > Y > X ……③

という順で候補者を支持している。
「XとYのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がYを選ぶ(②と③のグループ)。
「XとZのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がZを選ぶ(②と③のグループ)。

XはYよりもZよりも支持されていないわけだ。
「三人の中で誰がいちばんイヤですか?」と尋ねたら、10人中6票を獲得してXが1位になる。
ところが、3人の候補者の中から1人選ぶ多数決だと、選ばれるのは4票を獲得したXになる。

いちばん嫌われているXが当選する。それが今の日本の選挙でも用いられる「多数決」なのだ。


こういう逆転現象を防ぐ基準を「ペア敗者基準」と呼ぶ。複数候補者からペアをとりだして比較したときに他のあらゆる選択肢に負けてしまう選択肢のことを「ペア敗者」と呼び、ペア敗者が勝利しないルールが「ペア敗者基準」だ。
多数決はペア敗者基準を満たさない。

ペア敗者基準を満たす投票ルールはいくつかあるが、その中のひとつは「ボルダルール」だ。
3人が立候補した場合、1位に2点、2位に1点、3位に0点をつける方式だ。
これだとペア敗者が勝利することはありえない。

この本では他にも「コンドルセ・ヤングの最尤法」「決選投票付き多数決」「繰り返し最下位消去ルール」などが紹介されているが、個人的には「ボルダルール」がもっともすぐれているようにおもう(理由はいちいち書かないのでこの本を読んでほしい)。
わかりやすいし、多数決に比べればずいぶん公平だし。姑息な企てにも強いし。




『多数決を疑う』ではいろんな方式が紹介されているが、いろいろ読んだ上でおもうのは「ベストな方法なんてない」ということだ。

万人が納得する方法など「満場一致になるまで全員で徹底的に話しあう」しかないが、もちろんこんなことは現実的に不可能だ。
またシンプルかつ公正なやりかたを追求していけば、独裁制につきあたる。独裁制は1/1の満場一致で決めるのだからきわめて公正だ。だがもちろんこれがいいやりかただとおもう人は少ないだろう。

ベストな方法などない。
でも、「まだマシな方法」はある。
多数決は欠点だらけで、「まだマシな方法」ですらない。

多数決のメリットは「とにかくシンプル」であることぐらいだ。
集計が楽、バカでも仕組みがわかる。ほとんどそれだけだ(「危険防止性」とか「中立性」もあるけど)。

だから幼稚園児がお遊戯会の主役を決めるときには向いているし、集計手段や通信や交通の制約の多かった時代に多数決制を採用することにも、いたしかたのない面はあった。

しかし、これだけ計算機も情報伝達手段も発達した今、公正に代表を選ぶべき選挙で多数決を使いつづける理由はまったくないと言ってもいい。

以前「汚い手で選挙に勝つ方法」という記事を書いたが、こういう手が通用するのも多数決だからだ。ボルダルールならこの手は使えない(むしろ逆効果になる)。

結局、今でも多数決が使われているのは「集計が楽」「小学校のときから使っているから」という集計側の都合でしかない。
民意のことを少しでも考えれば多数決にはならない。




そもそもさ。

ごく一部の層だけから熱狂的に支持されている候補者と、大半の有権者が「こいつなら悪くないとおもわれている候補者、どっちがいい政治をできるだろうか。
正解はないが、ぼくは後者だとおもう。

三割から熱狂的に支持されていて七割から蛇蝎のごとく嫌われている候補者/政党が、全国民のためにいい政治をするとおもう? ぜったいしないでしょ。どう考えたって支持母体に利益誘導するだけでしょ。
でも多数決制度だとそういう候補者が当選しちゃうんだよね。

 どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。選挙で勝った政治家のなかには、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。

今の日本の選挙はほとんどが多数決であり、多数決は民意を正確に反映しない。
すなわち、今の首長や議員は民意によって選ばれたものではない。「自分が有利になるいびつなルールで勝ち上がった者」だ。

もちろんそれは政治家のせいではない。制度が悪いだけだ。
だから恥じる必要はない。
だが「民意によって選ばれた」などと思いあがってはいけない。
「集計が楽なだけの、民意を正確に反映しない多数決という制度」によって暫定的に立法権を受託されているだけなのだから。

わかってます?


しかしさあ。
そろそろ国民投票でもして、多数決に代わる選挙方法を決めようぜ。
もちろん、多数決以外のやりかたで!

 

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小選挙区制がダメな99の理由(99もない)/【読書感想エッセイ】バク チョルヒー 『代議士のつくられ方 小選挙区の選挙戦略』

選挙制度とメルカトル図法/読売新聞 政治部 『基礎からわかる選挙制度改革』【読書感想】



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2020年11月9日月曜日

制帽自由化とへそまがり

 ぼくの通っていた中学校には「男子は制帽をかぶること」という校則があった。

 ダサいし、夏は暑いし、汗を吸ってくさいし、セットした髪型はくずれるし、いいことなどひとつもない制帽。
 当然ながら生徒からの評判は最悪。
 だが校則は校則なので、(少なくとも教師の前では)みんなかぶっていた。

 ひとつ上の学年に、Kというまじめな生徒がいた。
 Kは生徒会選挙で風紀委員長に立候補した。公約は「制帽の自由化」。
 彼はめでたく風紀委員長に当選し、公約を実現するため学校側と交渉を重ねた。制帽があるのは市内でもうちの学校だけです、規律と制帽に関係がないじゃないですか、無意味なルールは変えていくべきでしょう、と。

 学校側もKの熱意に心を動かされたらしい。
 だからといって「じゃあ校則を改正します」とあっさり認めてしまうのも教師としては示しがつかない。
「じゃあ制服もやめてください」「じゃあ髪の色も自由に」とどんどん規則が緩んでいけば風紀が乱れる、という懸念もあった。
 そこで学校側が出した条件は「校則違反が大きく減れば制帽は廃止しよう」。

 学校からの条件を引きだした風紀委員長・Kは生徒全員に働きかけた。
「規則を緩めても風紀は乱れないと教師から信用してもらうために今は耐えようじゃないか」

 ヤンキーたちの反発もありながらも、Kの活動の甲斐あって、校則違反は減少した。
 そして数か月後。朝礼で、偏屈な校長は言った。
「風紀委員長のKくんを筆頭に、みんなよくがんばってくれた。校則違反は大きく減少した。約束通り制帽は自由化しよう」

 わっとみんな喜んだ。
 だが三年生だけは複雑な顔をしていた。なぜなら校長が制帽自由化を宣言したのは二月。
 三年生がその恩恵にあずかれるのはたった一ヶ月だけ。
 おれたちはここまで我慢したのになんで後輩ばっかり……そうおもった三年生も少なくなかっただろう。
 ちなみに制帽自由化に向けて尽力していた風紀委員長Kも三年生。彼もまた、自由化の恩恵にはほとんどあずかれないまま卒業していった。




 さて、Kの一学年下にたいへんへそまがりな男子生徒がいた。ぼくだ。

 ぼくは制帽自由化が施行された日以降も、制帽をかぶって登下校した。
「自由化ってことは、かぶらない自由もあるしかぶる自由もあるってことだろ」と言って。

 もちろん制帽をかぶっているのはぼくひとり。
 友人からは「おまえなんで制帽かぶってるんだよ」と冷やかされ、教師からも「もうかぶらなくてもええんやで」と言われながらも、「人とちがうことをしたい」という一心でいかぶりつづけた。

 その春入学した一年生にいたっては制帽の存在すら知らないわけだから「なんであの人だけ変な帽子かぶってるのに許されてるんだろ?」とおもっていたにちがいない。
 後で聞いた話では「あの人は投薬の副作用で髪の毛が抜けているのだ」という噂まで流れていたらしい。

 ある日、社会科教師のテシマ先生がみんなの前でぼくのことを褒めた。
「彼はひとりだけ制帽をかぶりつづけている。この姿勢はすばらしい。制帽をかぶらないことも新しく手にした権利なら、かぶることも権利。彼は権利を正しく行使し、権利を主張している。かぶりたいとおもったら、たとえ学校にひとりであっても実行する。周囲に流されない姿勢はすばらしい」
と。

 いや先生、ぼくも制帽をかぶりたいわけじゃないんです、暑いしダサいからほんとは嫌いなんです、ただひねくれものなだけなんです、学校にひとりであっても実行してるんじゃなくて学校にひとりだから実行してるだけなんです、権利とかどうでもいいんです……とは言えなかった。



2020年11月6日金曜日

【読書感想文】取り越し苦労をおそれるな / 石川 拓治『37日間漂流船長』

37日間漂流船長

あきらめたから、生きられた

石川 拓治

内容(e-honより)
武智三繁、50歳、漁師。7月のある日、いつものように小さな漁船で一人、長崎を出港。エンジントラブルに遭遇するが、明日になればなんとかなるとやり過ごす。そのうち携帯電話は圏外となり、食料も水も尽き、聴きつないだ演歌テープも止まった。太平洋のど真ん中で死にかけた男の身に起きた奇跡とは? 現代を生き抜くヒントが詰まった一冊。

長崎県を出港した後、船のエンジントラブルにより漂流。
食べ物も水も尽きたが、海水を蒸留させて水滴をなめて命をつなぎ、出港から37日目に千葉県沖の太平洋のどまんなかで救助された……。

と、なんともドラマチックな実話を文章化したもの。

壮絶な体験のはずが、あまり緊張感がない。
文章のせいもあるだろうが、漂流した武智さんの語り口のせいもあるだろう。
なんだかずっとユーモラスだ。




武智さんが漂流しはじめたとき、まだ携帯電話の通じる場所にいた。
だが彼はエンジンメーカーに電話をしただけで、知り合いや海上保安庁などに助けを求める電話はしていない。

 独り身とはいえ、武智の身を案じる人間、兄弟や親戚のことも少しは考えろという友人の言葉は重い。
 武智もいまになって、そのことは後悔しているのだが、それでもやはりあのときの自分は、どうしても携帯電話をかけるつもりにはなれなかったと言う。
 まず、彼自身には、まだ遭難したという意識はなかったから。
 そして何よりも、彼の人柄がそれをさせなかった。友人も言っているように、武智は極端と言っていいくらい遠慮深い。
 武智が連絡をしなかった最大の理由は、そこにあった。

どう考えたって判断ミスなのだが、でもこの気持ちはよくわかる。
ぼくが同じ立場でも、やっぱり通報をためらってしまうかもしれない。
「大事にしたくない」という気持ちがはたらいちゃうんだよね。

だが、仕事でもそうだけど、たいていの問題は自分ひとりで抱えてなんとかしようとするとかえって大事になる。
ぜったいに早めに相談したほうがいい。
「なんでもっと早く言わなかったんだ!」と言われることはあっても「こんなつまらないことで相談するな!」と怒られることはあまりない(そういう上司も存在するんだろうが、その手の人はどっちみち怒るのでやっぱり早めに相談しといたほうがいい)。

ぼくは今までに三度緊急通報をしたことがある。
一度は成人式で友人が酔っぱらったヤンキーにからまれて殴られていたとき、二度めはひとり暮らしで夜中に高熱を出したとき、三度めは猛烈にキンタマがいたくなったとき(→ 睾丸が痛すぎて救急車に乗った話)。

結果的に三度とも大したことはなかった。
友人は一発殴られただけでヤンキーは立ち去ったし、熱はすぐに引いたし、キンタマもたいした病気ではなかった。

ただ、警察官にも救急隊員にも医師にも「こんなことで緊急通報をしないように」とは言われなかった。
まあ通報があれば駆けつけるのが彼らの仕事だし、「暴行」「高熱」「急所の痛み」は一歩間違えれば命にかかわってもおかしくないことだからだ。

やばいことになる予兆があれば、早めに助けを求めたほうがいい。
取り越し苦労でも怒られたりしないから。




ふつうに考えれば、小さな漁船で37日間も太平洋を漂流していたらまず生きられない。

武智さんが生き延びられたのは、運が良かったのもあるし(食べ物や飲み物を多く積んでいた。台風でも転覆しなかった)、幼いころから漁師をやっていた経験や技術のおかげでもある(魚を釣ったり釣った魚を干して保存したりしている)。

だが、彼が生き延びたいちばんの決め手は強い精神力にあったんじゃないだろうか。

 漂流がしばしば悲惨な結果に終わるのは、物理的な要因だけではない。いやむしろ、心理的な側面がかなりのウエイトを占めている。水や食料などの物質的な欠乏よりも前に、恐怖感やストレスに蝕まれた心がカラダを死に追いやるのだ。
 武智は度重なる危機の局面で、驚くべき自然さで、心の平衡を保つための行動をとっている。それは高度なマインドコントロールとでも言うべきものだ。
 もっとも武智は、そういう言葉を使うことを好まないのだが。
「そういう難しい話じゃなくてさ、俺はただ自分が楽でいられるように、肩ひじはらずにいられるように、やりたいことやってただけだよ」
 おそらく武智の言うとおりなのだろう。けれど、私はその話を聞いて想像をめぐらせたものだ。江戸時代の船乗りたちは、何を想いながら漂流したのだろう、と。彼らも、生き延びたからには、武智と同じような経験をしたに違いないのだ。
 武智は、石けんやシャンプーの匂いをかいで、楽しんだりもしたと言う。

ふつうなら、仮に飲み物や食べ物があったとしても太平洋の真ん中をひとりで漂っていたら発狂してしまうんじゃないか。

見渡す限りの海。周囲には何も見えない。たまに飛行機や大型船舶の姿が見えても、向こうはこちらに気がつかない。船にあるのは有限の食糧と水。確実にある死に向かって近づくだけの日々。
この状態で一ヶ月。平静を保てる自信がない。
ぼくだったら早めに食糧を食べつくして海に身を投げてしまうかもしれない。

この状況を少し楽しむ余裕がある武智さんはすごい。
ただ石けんやシャンプーの匂いを楽しむって、もうちょっとおかしくなっているような気もするが……。


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2020年11月5日木曜日

【読書感想文】名盤アルバムのような短篇集 / 津村 記久子『浮遊霊ブラジル』

浮遊霊ブラジル

津村 記久子

内容(e-honより)
定年退職し帰郷した男の静謐な日々を描く川端康成文学賞受賞作(「給水塔と亀」)。「物語消費しすぎ地獄」に落ちた女性小説家を待ち受ける試練(「地獄」)。初の海外旅行を前に急逝した私は幽霊となり旅人たちに憑いて念願の地を目指す(「浮遊霊ブラジル」)。自由で豊かな小説世界を堪能できる七篇を収録。

名盤のアルバムのような短篇集だった。

冒頭に収められている『給水塔と亀』は、久しぶりに故郷に戻った男がただ静かに新生活の準備をするだけの話で、決して悪くはないんだけどおもしろいわけでもなく、この手の志賀直哉っぽい短篇ってあんまり好みじゃないんだよなー、一篇ぐらいだったらいいけどこの感じがずっと続くのは正直退屈だなーとおもっていたのだが……。


ところが『うどん屋のジェンダー、またはコルネさん』から様相が変わってくる。
明るい店主のいるうまいうどん屋。その情景を淡々と描写していたかとおもうと、どうやら店主が明るく話しかけるのは女性に対してだけらしく、おまけに常連と新規客とでずいぶん対応が異なることに主人公が気づき……。

この不穏な感じ、すごく共感できる。
いるよね。女性にだけ優しく接する気のいいおっちゃんとか、常連客と新規客への扱いの差が大きい店主とか。
いやいいんだけど。私営企業だから好きにしたらいいんだけど。
べつにこっちだっておっさんになれなれしく話しかけてほしいわけじゃないんだけど、でもやっぱり「自分だけぞんざいに扱われる」というのは気分が悪い。
だからといって声を上げるのも、嫉妬しているようでイヤだ。
声を上げるほどイヤじゃないけど、何度も味わうのももやもやする。

「女性にだけ優しいおっちゃん」って、男からみても不快だし、たぶん当の女性から見ても気持ち悪いとおもう。
よく行く店の店主ぐらいの関係性だったら、格別に低く扱われるのイヤだけど、不当に好待遇を受けるのもイヤだ。
昔はよくあった「いつもありがとうね、安くしとくよ」「奥さん美人だからおまけしちゃお」系の個人商店が廃れたのは、贔屓されない側と贔屓される側の両方から嫌われたからじゃないかとぼくは睨んでいる。


アイトール・ベラスコの新しい妻』は、学校でいじめられていた子、いじめられていた子と仲良くしていた子、いじめていた子、三者それぞれの人生が描かれる。
いじめられていた子が有名サッカー選手と略奪結婚したり、いじめていた子が夫の不倫に悩まされたり、わかりやすい一発逆転ではなくなんともいえない立場に置かれているのがいい。
世間には「かつていじめられていました」という告白があふれているが、「かつていじめていました」はほとんど聞かれない。いじめられていたのと同じ数だけあるはずなのに。
だからこそ小説で書く意義がある。しかしこの短篇で描かれるいじめっ子は、ちょっとわかりやすすぎるな。「わたしは弱い者を見つけて攻撃している」という自覚がある。ほんとのいじめっ子の心理ってそうじゃないとおもうんだよな。自分は悪くないとおもってるはず。だからこそ、「いじめられていた」告白と「いじめていた」告白の数がぜんぜんちがうわけで。


そして『地獄』はすごかった。
ここで描かれる地獄は比喩ではない。死んだ後に落ちる、文字通りの地獄だ。

 私とかよちゃんがいったいいくつで死んだのかについては、地獄に来た今となってはよくわからない。地獄では、その人物が最も業の深かった時の姿で過ごさなくてはならないからだ。私は、三十四歳の時がいちばん業が深かったらしく、ずっとその時の姿で過ごしている。かよちゃんとは、各地獄への配属の列に並んでいた時以来一度も顔を合わせていない。かよちゃんはたぶん、別の地獄にいるのだ。列に並びながら、私とかよちゃんは、列を仕切っている鬼の鼻毛がものすごく出ているという話で激しく盛り上がっていたのだが、それが相当うるさくて周りから苦情でも出たのか、鬼はかよちゃんを別の列に並ぶように促し、かよちゃんは五十日近く渋ったのち、「でも鬼の人も仕事だし、悪いよな」という結論のもと、最初に並んでいた列を離れていった。その時は、まあなんだかんだでそのうち会えるだろう、と私はイージーに考えたのだが、見込み違いだったのか、かよちゃんにはまだ会えていない。会いたいな、とときどき思うのだけれども、地獄でこなさなければいけない試練プログラムのサイクルが厳しい時などは、自分にあてがわれたタスクを処理するので手一杯なので、まあ、身が引きちぎれるほどではない。他の地獄のことはよくわからないが、私のいる地獄は、かなり忙しい方だと思う。忙しいというか、目まぐるしい。それは私が現世で背負った業のせいなのだが。

こんな感じで地獄での生活がひたすら描写される。
やけに生々しくて、けれどところどころぶっとんだ発想が混じっていて、上質のコントのようでおもしろい。
地獄なのにやけに現世っぽい。いや、現世こそが地獄なのか。

落語の『地獄八景亡者戯』のようなスケールの大きな地獄話だった。



運命』『個性』はちょっと概念的過ぎて個人的に性に合わなかった。

浮遊霊ブラジル』もまた死後の世界。
アイルランド旅行を楽しみにしていた男性が、旅行の直前に死んでしまう。
アイルランドに行かないと成仏できないので出かけようとするが、乗り物はすり抜けてしまうので飛行機にも船にも乗れない。
だが他人の中に入れることを発見し、アイルランドに行きそうな人を探しているうちになぜかブラジルへ行ってしまい……。

これもドタバタコントのような味わい。


津村記久子さんの小説ははじめて読んだが、〝自由な小説〟という感じがしてなかなかよかった。

おとなしい幕開けから徐々に盛りあがってきて、実験的な短篇が並び、最後は集大成のような壮大なストーリー。
うん、ほんといいアルバムのような短篇集だった。


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2020年11月4日水曜日

【読書感想文】殺人犯予備軍として生きていく / 河合 幹雄『日本の殺人』

日本の殺人

河合 幹雄 

内容(e-honより)
人殺しのニュースが報じられない日はない。残忍な殺人鬼が、いつ自分や自分の愛する人に牙を剥くか。治安の回復は急務である、とする声がある。しかし、数々の事件を仔細に検証すると、一般に叫ばれる事態とは異なる犯罪者の実像が浮かび上がる。では、理解不能な凶悪な事件を抑止するために、国はどのような対策を講じているか。そして日本の安全神話はどうして崩壊してしまったのか。さらに、刑罰と出所後の生活、死刑の是非、裁判員制度の意義まで。

2009年刊行とちょっと古いが(裁判員制度導入のタイミングで出版されたようだ)、じつに読みごたえがあった。
新書でここまで重厚なものは他にちょっとない。いい本だった。

ぼくらは「殺人」についてよく知っているような気になっている。
殺人事件はニュースでも大きく扱われるし、小説や映画の題材にもなりやすい。詐欺や窃盗よりもよっぽど多く耳にするテーマだ。

だが、ニュースや小説になる殺人事件はごく一部だけ。
連続殺人事件とか、残虐非道な犯人とか、センセーショナルな事件だけだ。

暴力をふるう夫に追い詰められた妻が、夫が寝ているすきに首を絞めて殺害したもののすぐに我に返って警察に通報……みたいなケースはニュースにもならないし小説の題材にもならない。

だが、日本で起こっている殺人事件の大半はそのような「ごくふつうの市民による家庭内の殺人」なのだそうだ。

 確かに考えてみれば、人など殺したくないのが当たり前である。たとえ合法でも、進んで死刑執行をやろうという人はまずいないであろう。「殺してやろうか」と思うことと実際に「殺しきる」ことの間には、大きな溝がある。「殺しきる」には、よほどの強い動機が必要であり、それがあるのは家族間の関係なのであろう。私も、殴ってやりたい人はいなくもないとしても、殺すのは御免である。嫌な人がいれば、付き合わなければいいのである。殺す必要があるのは血のつながりがあるか、恋愛がらみで、「別れたいのに別れてくれない」か、「別れたくないのに別れようとされる」かといったケースであろう。嫉妬に駆られての事件や、不倫がらみの事件も、統計の名目上家族間ではないが、実質的には家族問題とすれば、ますます家族がからまない殺しの数は少なくなる。
 家族は、人の命を生み育てるところであるとともに、命を奪う可能性っているということであろう。

なるほど。
フィクションだと「積年の恨みを晴らすために殺す」というケースが多いが、じっさいはそんな事件はほとんどない。
心の底から憎らしい人物がいれば、ふつうは「近づかない」「法的な手段に訴える」「殺害以外の手段で攻撃する」などの行動をとる。
たとえば会社の上司が憎くても、殺すぐらいならふつうは会社を辞めるし、エネルギーのある人なら裁判に訴えるかもしれない。あるいは「ぶん殴る」という手もある。殴るのはよくないが、殺すよりはマシだ。

そもそも、憎い相手に一泡吹かせたいとおもったら、殺したってつまらないよね。
こっちは生きたまま苦しむ姿を見たいんだからさ。げっへっへ。

というわけで、殺したいほど憎くて、今後もつきあっていかなきゃいけない相手というと、これはもうほとんど家族に限られる。
親が自分の人生を束縛しようとするとか、配偶者と別れたいけど相手が別れてくれないとか、年老いた親の介護が苦しすぎるとか、「こいつが死ぬか、自分の人生を捨てるか」の二択になってやむなく殺す……というパターンが多いようだ。

もちろん殺人は悪いことだが、彼らが殺人に追い込まれるには「被害者にも問題があった」「助けてくれる家族がいなかった」「行政の手が届かなかった」などの事情があることが多く、加害者自身も反省していることが多いのでニュースとしては(言い方が悪いけど)おもしろみがない。
みんな「極悪非道の殺人鬼が捕まりました。よかったね。被害者かわいそうだね」みたいなスカッと話が聞きたいのであって、「ちょっとめぐり合わせが悪かったら殺人を犯していたのはあなただったかもしれません」みたいな講釈は聞きたくないんだよね。


フィクションだと「金銭目当ての殺人」もあるが、これも現実にはほぼないそうだ。
そりゃそうだよね。
殺すぐらいなら泥棒をするほうがずっと確実だもん。捕まったときの罪も軽いし。
被害者側だって「金を出せ」と包丁を突きつけられたらふつうは金を出す。殺されたら金持っててもしかたないし。
強盗殺人なんて、殺す側にとっても殺される側にとっても割に合わない犯罪だ。
仮に強盗殺人で首尾よく金を奪っても、その金をこっそり使うのもまたむずかしいだろうしね。

殺すことが割に合わない強盗とは違い、保険金殺人は「殺さなくては金が入らない」犯罪だ。
保険金殺人には、殺すだけの正当な(倫理的にではなく論理的に)理由がある。

 保険金殺人については、刑事司法関係者や犯罪学者に聞くよりも、生命保険会社の調査員が詳しい。殺された者が第一被害者であるが、保険会社もまた被害者である。死体の検分は警察の仕事であるが、そこから保険の状況はわからない。はっきりいって、保険金殺人の捜査は、保険会社の調査員が不審に感じることが端緒である。

なるほどー。
保険金殺人を調査するのは保険会社の人なんだな。
ミステリ小説を書くなら、保険会社の調査員を主人公にしてもいいかもしれないね。私立探偵とちがって調査する理由が明確だし、刑事よりも自由に動けそうだし。




「殺人はありとあらゆる殺人の中で最も凶悪な部類。だから当然罪も重いはず」とおもっていたが、意外とそうでもないことをこの本で知った。

たとえば介護疲れから姑を殺してしまった主婦の事件。

 さて、このような殺人者に、いかほどの量刑が適切であろうか。これまでに犯歴もなく、高齢で体調不良の主婦に、ほかの一般人を傷つけるおそれは全くないと言ってよいであろう。治安を守る観点からは、彼女たちを刑務所に入れる必要があるとは到底思えない。ところが、起訴猶予にするか執行猶予判決を出して、釈放すれば、それは彼女たちにとって、よい選択であろうか。彼女たちは、人を殺してしまったという強い罪の意識を持っている。それに対して、罰を与えないで自宅に帰してしまうとどうだろうか。帰宅したそこは、しばしば、犯行現場でもある。自宅に帰った彼女たちが、その場で自殺を遂げるという危険性がかなりの程度存在する。誰か世話してくれる人がいればまかせればいいが、その人がいないから事件が起きているわけで、そのような可能性は低い。したがって、釈放はまずいのである。
 これらのことは、検察も意識していると思われる。短期の実刑を求刑し、裁判官も、その八掛けぐらいの短期懲役刑を宣告する。自首などが伴えば、一年ということさえある。
 自殺防止ということなら、刑務所内ほど適した環境はない。また、ある程度罰を受けた形にしたほうが納得する。時間がたてば落ち着くという効果もある。早いとこ落ち着いたとみれば、刑期の三分の一を越えれば仮釈放可能である。罪の意識はあるが、凶悪な殺人事件とは認識していないので、長期間刑に服さないことに対しては、違和感はないであろう。一つの目安として被害者の一年後の命日は区切りになるであろう。事件後、即日逮捕、全面自供でとんとん進んでも、判決まで何か月かかかるので、刑務所入所後、短期間で最初の命日を迎えることになる。

たしかに。
介護疲れから殺してしまった人は、要介護者が死んでしまった以上、たぶんもう罪を犯さない。殺人にいたった直接的な原因がなくなったのだから。

だが、釈放してしまえば今度は自分を責めて自殺してしまう可能性もある。だから一年ほど刑務所に入れて、自殺をできないようにしながら過剰な罪の意識を癒してやる。

「刑務所=懲罰の場」というイメージだったが、救済の場でもあるわけだ。


そして、人を殺しても刑務所に入らないケースもけっこうあるのだという。

  ここ数年の殺人事件の量刑をみておこう。参考資料は、もちろん『犯罪白書』である。事件数は年間一四○○件ぐらい、ほぼ全て解決事件である。そのうち、刑務所に入所するのは、最近増えたが、それでも六○○人余りである。殺人事件を起こしても刑務所に入らないほうが多いとは驚きであろう。執行猶予付き有罪が一三○から一四○ある。残りは裁判にかけられていない。その最大は、「その他」の理由で不起訴処分になっている。このうち多くは、被疑者死亡と考えられる。無理心中で後追いから、逮捕後自殺まで死亡の仕方は多様である。数えようがないが最大二○○ぐらいであろうか。ほかに、その他に含まれる不起訴理由があれば、それだけ減るが思いつかない。ついで心神喪失で不起訴が一○○件足らず(二〇〇一年は八七件)。起訴猶予が数十件たらず(二〇〇四年は六四件)、嫌疑不十分で不起訴も何十件かはある。このほか、被疑者が少年の場合、家庭裁判所に送致され、少年院に入所する。その者、約数十人である。

やはり家族間の殺人であれば、再犯の可能性はきわめて低い。
「社会の秩序を乱す者を塀の中に閉じこめて更生させる」という刑務所の目的からすれば、追いつめられて家族を殺してしまった人は収監の必要がないわけだ。

「人を殺してしまった」という結果は重大でも、「殺すか人生捨てるかの状態まで追いつめられたらから殺してしまった」という人は、決して凶悪な人間ではないのだ。

むしろ、振り込め詐欺とか窃盗常習犯のほうが「他人に被害を与えるとわかっていて犯罪に手を染める人間」なので、よっぽど凶悪かもしれない。


バラバラ殺人というのも、その猟奇的なイメージとは逆に、弱い人物による事件が大半だという。

 これには、社会的な条件も加わる。バラバラ事件の多くは、家族内で発生する。飲み屋でのケンカ殺人は、現行犯逮捕されるなど、遺体を隠すことにつながらないし、計画的な殺人は、どこかに連れ出して実行されている。さらに、体力が弱い、つまり女性が犯人であることが多いとすれば、家庭内の事件にほかならない。家のなかに、遺体を放置すれば臭いが耐えられないし、事件発覚につながる。遺体をなんとかしなければならないが、もし、家が一戸建てであれば、庭に埋めるか、床下に埋めるかという選択肢がある。マンション住まいになれば、このような解決策はない。マンション暮らしの女性が、自宅で殺人をやってしまったら、もっとも単純に考え付くのが遺体を切り分けて捨てることである。 つまり、バラバラ事件となる。被害者が、自分の家族であることは、遺体に対する恐怖心を和らげ、それを切断することにも抵抗をあまり感じないでできてしまうであろう。

そういや桐野夏生『OUT』でも、とっさに夫を殺してしまった妻たちが死体をバラバラにして処分するシーンがあった。

読んでいるときは異常な光景だとおもったが、あれは意外とリアリティのある描写だったんだなあ。




『日本の殺人』を読んでいておもうのは、快楽殺人や強盗殺人や強姦殺人のような、我々がふつうイメージする「凶悪な殺人犯」というのは殺人犯の中でも例外的な存在で、大半は平凡な市民がちょっとめぐりあわせが悪かったせいで人を殺してしまっただけなんだということ。

つまり、ぼくやあなたもちょっと状況が変わっていれば人を殺していたかもしれないってこと。
存外、殺人犯予備軍という自覚を持って生きていくことが、殺人から遠ざかる一番の方法かもしれないよ。


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【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』



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2020年11月2日月曜日

【読書感想文】防災用品としての山道具 / 笹原 芳樹『体験的山道具考』

体験的山道具考

プロが教える使いこなしのコツ

笹原 芳樹

内容(e-honより)
登山家としての豊富な経験、登山用具店勤務のプロの知識から生まれた実践的な山道具本。食糧から登攀具まで幅広い山道具を、選び、使いこなすために役立つ83編を収録。

うん、おもしろくなかった。

山登りの道具を紹介しているのだが、
「あれもいいですよ」「これもいいですよ」「これもあったら便利なんですよ」
とひたすら山道具を褒めていて、結局どれを買ったらいいのかわからない。

著者は登山用具店の店員だと知って合点がいった。
ああ、そりゃいいことしか書けないわ。いろんなしがらみがあるだろうから。

こっちが読みたいのは「〇〇はまったく使えない。買ったけど一度しか使わなかった」「〇〇社製の××はぜったいにやめとけ」みたいな本音の情報なんだけどな。

この本読むんなら登山グッズメーカーが出しているパンフレット読んでたほうがよっぽどためになるよ。タダだし。


ぼくのような初心者は「何はなくともこれだけは用意しろ」「雪山ならこれを用意しろ。雨天にそなえてこれを買っとけ」みたいな必要最小限の情報がほしいのだが、この本ではあれもこれもと勧めてくるので、結果「じゃあもう山登りやめとこう」という気になってしまう。

この本でおすすめされている道具を全部買ったら一千万円超えるんじゃないかな。




とはいえ役立った情報も。
「レスキューシート」なるものをこの本で知った。

 大震災直後、現地での使用はもとより今後の地震の備えにと、当店をはじめ日本中の登山用具店では1カ月ほど品切れ状態になったレスキューシートも、それ以後は品切れになったという話は聞きませんし、大量に個人輸入した人が処分に困って相談にこられたケースもありました。最近では「レスキューシートって何ですか?」というお客様もいるくらいなので、一応説明しておきますと、極薄のポリエステルにアルミを蒸着させた大判のシートで、畳むとタバコの箱より小さいくらいですが、広げてくるまれば毛布の2~3倍の保温力があるというものです。
 万が一のビバークにはもちろん、グラウンドシートや雪、雨、風を防ぐフライシートやボディーガードシートとしても使えます。専門の救急処置にも利用されているようです。また、キラキラ光るので、遭難時にはヘリコプターからも発見されやすく、レーダー探知にも良好とのことです。

これは良さそう! とおもい早速Amazonで購入して防災バッグにつっこんだ。

レスキューシートにかぎらず、登山用品ってたいてい防災グッズとしても使えるよね。
この本にも、東日本大震災後に電気や物流が止まったときに登山用品が活躍したと書かれている。


子どもが生まれて、防災について考えることが増えた。
独身時代は「大地震が起きたって自分ひとりぐらいなんとかなるだろ。まあ死んだら死んだときだし」みたいな考えだったが、一応父親になると「家族は守らなきゃ」「子どもが震災遺児になるのはかわいそうだから死ぬわけにはいかない」という意識が芽生えてきた。

登山用品は「いろいろ試してみて自分にあうものを選ぶ」という方法がいいとおもうが、防災用品はそうはいかない。
めったに使わないものだし、どの程度の災害にどんなふうに巻きこまれるかはまったくわからないのだから。

だから防災用品をそろえるにあたって「山で使って便利だった」というのは非常に大きな判断基準になる。
山で役立つアイテムがあれば、電気やガスや電話が止まってもしばらくは生きていけるだろうから。


防災用品をそろえるなら意外と登山用品店がいいかも。
防災訓練として登山をやってみるのもいいかもしれない。

あとゾンビが街を埋めつくしたときにも登山用品は役立ちそうだよね。ピッケルとかあればゾンビと戦えそうだし。


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