2022年7月28日木曜日

【読書感想文】『ズッコケ発明狂時代』『ズッコケ愛の動物記』『ズッコケ三人組の神様体験』

   中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読んだ感想を書くシリーズ第十一弾。

 今回は31・32・33作目の感想。

 すべて大人になってはじめて読む作品。


『ズッコケ発明狂時代』(1995年)

 夏休みの自由研究のために発明にチャレンジするハカセ。一獲千金を夢見てハチベエやモーちゃんも発明に夢中になるが、厳しい現実を知って諦めかける。そんな折、壊れたテレビと電卓をつないだ装置の付近に雷が落ち、それを機に「未来の番組が見られるテレビ」が誕生する。これで金儲けを試みる三人だったが、なんと三人組死亡のニュースが流れてきて……。


 テーマは決して悪くないのだが、これは前半と後半がまったくべつの話だよなあ……。『ズッコケ発明狂時代』といっていいのは前半までで、後半は『ズッコケ三人組と未来テレビ』だ。置いていたガラクタにたまたま雷が落ちて未来が見られるようになっただけで、まったく発明じゃない。机の引き出しから未来のロボットが出てきたのを発明という人はいないだろう。

 前半の「理論立てて考えるハカセよりも先に、適当な気持ちで手を出したハチベエやモーちゃんのほうが発明品を完成させる」あたりのハカセの心の動きの描写もいいし、後半の「自分たちの死亡を知らせるニュースを見てしまい、回避するために全力を尽くす」もおもしろい。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や乾くるみ『リピート』を彷彿とさせるサスペンス展開になっている。

 未来のニュースを見られるようにはなったが、バタフライ効果(とは作中で書かれてはいないが)により必ずしも実現するわけではない。未来テレビ通りの結果になることもあれば、そうでないこともある。なので三人組は助かるかもしれないし、助からないかもしれない……。この塩梅がいい。緊張感がある。

 当然ながら三人組が死亡してバッドエンドになることはないのだが、そこで終わらせずにラストに「未来テレビで観た競馬の結果」が実現するかどうかという展開を持たさているのもニクい。そしてその結末が作中で明かされず読者の想像にゆだねられるところも。

 改めて考えると、中期作品にしてはかなりの佳作といっていいだろう。それだけに、テーマである「発明」から離れてしまったのがかえすがえすも残念。



『ズッコケ愛の動物記』(1995年)

 捨て犬を拾ったモーちゃん。もらい手が見つからないので、工場の跡地で飼うことに。噂を聞きつけた子らが、飼えなくなったリスザルやニワトリやウサギやヘビなどを持ちこみ、それらもあわせて飼うことに。さらにハカセがイモリやトカゲを捕まえてきて飼育をはじめる。ところが土地の持ち主に見つかって動物たちを連れて出ていくように言われ……。


 今の子、都会の子はどうだか知らないけれど、数十年前に郊外で育った子どもなら「動物を拾って困る」は一度は経験したことがあるんじゃないだろうか。

 ぼくは三度経験した。一度は学校に犬が迷いこんできて、学校で保護したとき(昔の学校ってそんなことまでしてたのだ)。その犬は結局我が家で飼うことになった。十数年生きた。

 二度目は、父親が仔犬が捨てられているのを発見して拾って帰ったとき。家族で八方手を尽くして、どうにか貰い手を見つけた。

 三度目は、ぼくが友人たちと遊んでいるときに捨て犬を発見した。それぞれの親に訊いたり、近所の家をまわって「犬飼いませんか」と訊いてまわったりしたが、結局貰い手は見つからず。泣く泣く、元の場所に戻した。翌日その場所を訪れると、「ここに犬を捨てた人へ。あなたの身勝手な行動によって一匹の犬が殺処分されることになりました。動物を飼うなら責任を持ってください」という怒りの貼り紙がしてあった。元々は別の人が捨てたのだが、あれこれ連れまわしたあげく結局元の場所に戻したぼくらは、自分が責められているような気になった。いまだに苦い思い出だ。


 また、我が家ではいろんな動物を飼っていた。犬に加え、文鳥、ハムスター、スズムシ、カメ、トカゲ、オタマジャクシ、カブトムシ、クワガタムシ、アリ、カマキリ、アリジゴク、カミキリムシ、カタツムリ……(後半は全部ぼくが捕まえてきたやつだ)。

 子どもにとって「動物を飼う」というのは身近にして大きなイベントだ。そして「最初はがんばって世話をするけどだんだん面倒になってしまう」のも共通する体験だろう。ぼくが捕まえた小動物たちも、ほとんどが天寿を全うする前に死んでしまった。


 前置きが長くなったが、『ズッコケ愛の動物記』はそんな動物を飼うことをテーマにした話だ。身近なテーマなので親しみやすいが、身近である分、はっきりいって退屈だった。まさに動物を飼いはじめた子どもと同じように、読んでいるほうも飽きてしまうのだ。子どもが親に隠れて動物を飼っても、その先は「死なせてしまう」「逃がす」「逃げられる」のどれかしかないわけで、いずれにしてもあまり楽しい未来は待っていない。さすがにそれではかわいそうとおもったのか、『ズッコケ愛の動物記』では「家で引き取る」という道も用意するのだが、それはちょっと反則じゃねえかという気がする。それができるんなら最初から家で飼えばいいじゃねえか。

 また、ニワトリの処遇だけが最後まで決まらず、ニワトリをかわいがっていた田代信彦が行方不明になるところがクライマックスなのだが、その結末も「ニワトリが何羽がいる神社に置いてきた」というなんとも微妙な決着。「神様がニワトリを放す場所を用意してくれた」とむりやりいい話っぽくしているが、いやあ、勝手にニワトリ放してきちゃだめでしょ。

 たぶん小学生が読めばそこそこ楽しめるんだろうけど、あまりに展開が平凡すぎてぼくには退屈だったな。ズッコケシリーズ史上もっとも波風の立たない作品だったかもしれない。




『ズッコケ三人組の神様体験』(1996年)

 神社の秋祭りで手作りおみこしコンテストが開催され、三人組たちもおみこしを手作りして賞金十万円を狙う。また秋祭りでは数十年ぶりに稚児舞いが復活し、ハチベエが踊ることに。ところがこの稚児舞い、踊った子の頭がおかしくなるといういわくつきの舞いだった。実際に、ハチベエが徐々に変調をきたし……。


 これはなかなかおもしろかった。中期作品にしてはよくできている。地域のお祭りという日常生活の延長から、徐々に摩訶不思議な世界に引き込まれていく感じがいい。神や精霊と交信するシャーマニズムに踊りはつきものだし、神事としての舞いには子どもの脳に異常をきたすといわれても納得してしまう説得力がある。

 この作品が書かれた前の年である1995年には、地下鉄サリン事件を筆頭とする一連のオウム騒動がテレビをにぎわせていた。子どもの間でも「サティアン」だの「ポア」だの「グル」だのといったオウム用語がおもしろ半分に飛び交い、スピリチュアルなものの危うさが受け入れられる土壌もあった。

 超常現象を扱いながらも、不思議な体験が事実だったのかそれともハチベエの見た幻覚だったのかはわからない。これぐらいがいい。『ズッコケ妖怪大図鑑』や『ズッコケ三人組と学校の怪談』は、明確に超常現象を書いちゃってるからなあ。具体的に書くほうが嘘くさくなっちゃうんだよね。

 またオカルト一辺倒にならないように「手作りおみこしコンテスト」というもう一本の軸を用意しているところも重要だ。これにより三人のバランスもとれるし、また神がかりの異常さも際立つ。個人的にはズッコケシリーズの心霊系の作品はハズレが多かったんだけど、これはその中では一番かも。


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2022年7月27日水曜日

【読書感想文】スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい 差別の科学史』 / 先入観は避けられない

人間の測りまちがい

差別の科学史

スティーヴン・J・グールド(著)
鈴木 善次(訳) 森脇靖子(訳)

内容(e-honより)
人種、階級、性別などによる社会的差別を自然の反映とみなす「生物学的決定論」の論拠を、歴史的展望をふまえつつ全面的に批判したグールド渾身の力作にして主著。知能を数量として測ることで、個人や集団の価値を表すという主張はなぜ生まれたのか。差別の根源と科学のあり方を根底から問いかえすための必読の古典。

「人間の知能は、脳の大きさに比例する」と考えた人たちがいた。

 それ自体はすごく自然な考え方だ。ヒトの身体に対する脳の大きさはは、他の動物よりもずっと大きい。イルカのような例外はあるにせよ。

 そしてヒトは賢い。だから「脳が大きいほど賢いはず!」と考えるのはある意味当然のことだ。子どもでもそうおもう。

 しかし、種全体として「脳の大きなヒトが賢い」ことと、種の中で「脳の大きな人間は小さな人間より賢い」ことはまったくべつの話だ。


「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説は、今ではほとんど否定されているそうだ。

 たしかに実験をすると、脳が大きいほどテストの点数が伸びることがある。
 でもそれは
「子どもの場合は年齢が低いと脳が小さく、年齢が低いとテストの点数が低い。だから脳が小さいほどテストの点数が低い」
だったり、
「栄養状態が悪いと脳が小さく、栄養状態が悪いとテストの点数が低い」
だったり、
「ある種の病気では脳が委縮して、知能も低くなる。それが平均点を下げる」
だったりして、相関関係はあっても明確な因果関係は示せないようだ。


 ところが「人間の知能は、脳の大きさに比例する」説を正しいと信じ、さらにはこれにもっともらしい裏付けを作り、「だから××はバカなのだ」と主張した科学者がいる。それもたくさん。

 彼らの多くは、差別のたえに事実をねじ曲げたつもりはなかった。本心から自分の説を信じていた。なぜ彼らは誤ったのか。

 ……ということにせまった本なのだが、とにかく読みづらい。部分的にはおもしろいことも書いてあるのだが、掲載されている例が個別的すぎる。

「■■という学者がいて、彼はこう主張した。だが彼は~という誤りを犯していた」
といった話がひたすらくりかえされるのだが、読む側の感想としては
「それって■■が間違えただけだよね?」
で終わってしまう。

「人間はこういう条件のときに誤りを犯すのです」といった一般的な話が出てこないんだよね。

 というわけで、後半はうんざりして読み飛ばしてしまった。




 様々な人種の頭蓋骨を調べて、「白人男性の脳が大きく、だからいちばん賢い」という結論を下した学者について。

 この修正値はなおも白色人種の平均値に比べて三立方インチ以上のへだたりがある。ところで、白色人種の平均を出したモートンのやり方を吟味してみると、おどろくべき矛盾があることがわかった。(中略)モートンは自分のサンプルから脳の小さいインド人を故意に除外して白色人種の高い数値を導き出している。彼はこう記している(中略)。「とはいえ、インド人のものが全数の中にわずか三個体しか含まれていないことにふれることは当を得ている。それは、これらの人々の頭蓋骨が現存する他の民族のそれよりも小さいからである。たとえば、インド人の一七個の頭蓋骨の大きさは平均七五立方インチしかなく、表の中に含めた三個体もその平均値を示している。」このように、モートンは小さな脳をもつ人々のサンプルを多くしてインディアンの平均値を低め、同じようにして、小さな頭蓋骨をもつ白色人種の多数を除外して、自分たちのグループの平均値を高めた。モートンは自分の行なったことをおおっぴらに語っているので、自分のやり方が適切でないとは思っていなかったと仮定せざるをえない。しかし、白色人種の平均値がより高いのだという前提をもたないとしたら、他にどのような理論的根拠で彼はインカの頭蓋骨は含め、インド人のそれを除外したのだろうか。というのは、インド人のサンプルを変則的なものだとして捨て去り、インカ人のサンプル(ついでに言えば、インド人のものと同じ平均値をもつ)を不利な立場の大きなグループの正常値の最低のものとして取り入れることが可能だからである。

 結論ありきで調査が進んでいることがよくわかる。

「これは例外的に小さいからサンプルから除外しよう」「これは大きすぎるから除外しよう」
とサンプルを取捨選択して、その中で比較をしたのだ。そりゃあ仮定通りの結果になるに決まっている。


 様々な職業の人に知能テストをおこなった学者について。

 ターマンは職業別IQを調査し、知能による不完全な割当がすでに自然に生じていたと満足げに結論した。彼はやっかいな例外をうまく言いぬけた。例えば、運送会社の従業員四七人を調べた。彼らはきまりきった繰返し作業の中で、「工夫したり個人的判断を発揮する機会すら非常に限られている」(一九一九年、二七五ページ)。しかし、彼らのIQ中央値は九五であり、二五パーセントがIQ一〇四以上であった。したがって、知能ランクそのものはずっと上位にあることになる。ターマンは困惑し、彼らがこのように地位の低い仕事についたことは「何らかの情緒的、道徳的、または好ましい性質」が欠けているからであると考えた。しかも、彼らがより必要とされる仕事への準備ができる前に、「経済圧」によって退学せざるを得なかったのかもしれないとも考えた(一九一九年、二七五ページ)。別の研究でターマンは、パロ・アルトの「ルンペン宿」から二五六人の浮浪者や失職者のサンプルを集めた。彼らの平均IQは一覧表の最下位にくるだろうという期待があった。それにもかかわらず、浮浪者の平均は八九であった。非常に優れた素質とは言えないが、運転手や女店員、消防夫や警察官より上位に位置していた。このやっかいな例を、ターマンは、自分の表を操作することによって巧妙に解決した。浮浪者の平均は異常に高い。しかし、浮浪者もまた他のグループより以上に変異が大きいが、むしろ低い値の人々が大勢含まれている。そこでターマンはそれぞれのグループで得点の最も低い二五パーセントのものの数値によって一覧表を再配列し、浮浪者を最下位に位置づけた。

「ブルーカラーの平均知能は低いに違いない」という仮説を立てて実験をしたところ、予想に反して運送会社の従業員のIQ平均が高くなってしまった。

 すると「彼らは他の事情があって今の仕事をやっているだけで、本当はもっと高い知能を要求される仕事につけたはずだ」と結論付けた。

 また「浮浪者のIQが予想していたほど低くない」ことがわかると、「IQの高い人」をサンプルから排除し、予想通りの結果になるよう調整した。


 いやあ、ひどい実験だ。「この人はほんとはもっと別の仕事につくはずだった人間だ」なんて言いだしたら、職種別の知能の傾向を調べるなんて実験自体が成り立たなくなるのに。

どの職業にもそういう事情があるからこそ平均を比べるのに、一部の職種だけで「この人たちには特別な事情があったに違いない」というのは明らかにフェアじゃない。


 なにもこの研究者たちだけが特別だったわけではない。誰も彼もが、都合の良いようにデータを見てしまうのだ。

 たとえば部活の是非について話すと、部活を好きな人は部活をやることのメリットについては大きく評価するが、デメリットについては過小評価する。部活によるいじめだとか深刻なけがだとかの話をされても「そりゃあ中にはそんなこともあるけど、ごく一部の例外だよ」と言う。逆に部活を通して大成功を収めたケースについては〝ごく一部の例外〟扱いはせず、だから部活はすばらしいんだと持論を強化する材料に使う。

 逆に、部活を嫌いな人はその逆で、部活がもたらす恩恵については〝ごく一部の例外〟とみなしてデメリットに重きを置くだろう。


 この本に出てくる研究者はついつい誤った道を選んでしまうけど、ぼくが研究者でもきっと同じようなことをしてしまうだろう。

 仮説を立てて、その仮説が正しいことを検証するために何年も研究して、出てきた結論が「あんたの仮説は大間違いだし、新しい発見は何もないよ」だったとしたら……。素直に受け入れられるだろうか。せっかく集めたデータから何かしらの結論を引き出そうとがんばってしまわないだろうか。そのために都合の悪いデータは見なかったことにしてしまわないだろうか。

 まったく自信がない。




 まあ間違えるだけならまだいいんだけど、「知能が高いのはどういう人々なのか」という研究は、往々にして人種や性別や職業差別と結びついてきた。

「××は知能が低い。だから××が低い階層に置かれているのは合理的な理由によるものなのだ」と、差別を正当化することに使われてきた。

 中には、こんな主張も。

 ロンブロージの主な敵対者である「古典」派は、刑罰は犯罪の性質に応じてきびしく科せられるべきであり、すべての人は自分の行動に責任を負うべきであると論じ、従前の刑の与え方のきまぐれさと戦ってきた。ロンブローゾは生物学を援用して刑罰は犯罪者に合わせるべきで、ギルバートの「ミカド」にも書かれているように、犯罪に合わせるべきではないと論じた。正常な人間も嫉妬に燃えた瞬間には殺人者になるかも知れない。しかし、この人を処刑したり、刑務所に入れておいて何の役に立つのだろうか。彼は更生する必要はないのだ。なぜなら、彼の性質は善良なのだから。社会は彼から防護する必要はない。彼が再び罪を犯すことはないだろうからである。生まれつきの犯罪者が軽い犯罪で被告席につくかも知れない。短期間の刑は何の役に立つだろうか。彼は更生されえないのだから、短期間の刑はつぎの、多分もっと重い違反までの時間を減らすにすぎないのである。

 この人は正常な人間だから犯罪をしても軽い刑罰でいい、こいつは悪いやつだから軽い犯罪でも重い刑罰にするべきだ。

 ひどい。むちゃくちゃだ。

 でも、こういう考え方をする人は決してめずらしくない。それどころか、ほとんどの人がこういう思考をする。ぼくも含めて。

 支持している政党の不祥事は「まあ事情があったんだろう」「そんなこと気にしてたら政治なんてできないよ」と擁護し、対立する政党がやらかしたときは鬼の首を取ったように大騒ぎ。よくある光景だ。

 政治にかぎらず、誰でもひいきをしてしまうものだ。よほど特別な訓練を積んだ人でないと、「行為だけを客観的に評価する」ことは不可能だろう。


「人間は、どれほど自分の見たいようにものを見てしまうか」がよくわかる本だった。気をつけなくちゃ。


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2022年7月25日月曜日

「若い子に言いたい」人たち

 SNSを見ていると、「若い子に言いたい」とか「若い人にアドバイスしたい」と書いてる人がよくいる。もちろんSNSだけでなく、オフラインでもこういうことを言う人はたくさんいる。


 それを見るたびにぼくは自分に言い聞かせる。「若い子に言いたい」年寄りになったらオシマイだぞ、と。


 誰かに何かを言うことはいい。誰しもなにかしら言いたい。言うだけでなく、できることなら自分の言葉に耳を傾けてもらい、参考になりましたと言ってもらいたい。人間ってそういう生き物だ。

 でもなあ。それを「若い子」に向けて言うようになったらオシマイだ。


 「若い子に言いたい」人は、自分でもわかっているのだ。自分は不勉強で思慮が足りなくて他者と比べてこれといって秀でたところがないことを。

 でも、えらそうにしたい。バカだけど賢いとおもってもらいたい

 だから若い子に言う。なるべく己のバカがばれなさそうな相手に言う。

 同年代には言えないから。同年代には、自分より賢くてたくさんものを知っていて深い洞察をできる人がいっぱいいるから。そんな人に言っても、余計にばかにされるだけだとわかっているから。

 なにしろ、若い子にはえらそうにできるから。

 もちろん、若くても自分より賢い子はいっぱいいる。でも、論の甘さをつっこまれたとしても若い人相手であれば「若いうちはわからないだろうけど」「君もこの歳になればわかるさ」という必殺の逃げ道がある。『生きてきた歳月の長さ』という生きているかぎりぜったいに追い越されることのないアドバンテージを手にしているのだから。それが唯一の武器なのだ。

「若い子に言いたい」コレクション。
特に最後のやつは、ぜひとも若い子じゃなくて今の自分自身に言ってあげてほしい。



 ほら。子どものとき、いたでしょ。小さい子とばかり遊ぶ五、六年生のおにいちゃん。

 最初は「小さい子と遊んでくれるなんて優しい人だ」とおもっていたら、だんだんえらそうにしだして、みんなから「この人なんかイヤだな」っておもわれて、よく見たらこいつ同級生からはばかにされてるし、なーんだ単に同級生から相手されないから自分がえらそうにできる小さい子集めていばりちらしてるだけじゃんっていうおにいちゃん。そうやって年下からも疎まれるようになるおにいちゃん。

 大人になっておもうと「あの子はあの子でつらかったんだなあ」と同情的にもなるけど、子どものときはただただ嫌いだったでしょ。

 あれだよあれ。「若い子に言いたい」人っていうのはあのおにいちゃんだよ。


 SNSで「若い子に言いたいんだけど……」というコメントを見るたびに、「こうならないように気をつけねば」とおもう。ともすればぼくも、若い子に言いたくなるから。

「小さい子の前でだけえらそうにふるまって、同級生からはばかにされ、年下からは煙たがられるおにいちゃん」にはなりたくないから。


 言いたいことがあるなら、若い人にじゃなくて年上の人に向かって言えばいいよね。自然と謙虚になれるから。

 ってことを、年をとった子らに言いたい。


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かー坊のこと

2022年7月22日金曜日

【読書感想文】久坂部 羊『日本人の死に時 そんなに長生きしたいですか』 / 求む、ドクター・キリコ

日本人の死に時

そんなに長生きしたいですか

久坂部 羊

内容(e-honより)
何歳まで生きれば“ほどほどに”生きたことになるのか?長寿をもてはやし抗加齢に踊る一方で、日本人は平均で男6.1年、女7.6年間の寝たきり生活を送る。多くの人にとって長生きは苦しい。人の寿命は不公平である。だが「寿命を大切に生きる」ことは単なる長寿とはちがうはずだ。どうすれば満足な死を得られるか。元気なうちにさがしておく「死ぬのにうってつけの時」とは何か。数々の老人の死を看取ってきた現役医師による“死に時”のすすめ。


 ぼくが子どもの頃(1990年代)は、まだまだ長寿はめでたいことだった。百歳の双子・きんさんぎんさんが国民的スターとなってテレビでもてはやされていて、百歳は素直に「いいねえ」と言われることだった。

 当時にも介護などの問題はあった。有吉佐和子の『恍惚の人』が刊行されて認知症が話題になったのが1972年のことである(ちなみに2004年に「認知症」という名称がつけられるまでは「痴呆症」あるいは「ボケ」と呼ばれていた。ぜんぜん悪意なく使っていたのだが、今考えるととんでもない呼び方だよなあ)。とはいえ介護はおおむね家庭の問題であった。「このままじゃ老人が増えて働き手が減って社会が立ちいかなくなるぞ」とは言われていたが、切迫した問題として真剣に憂慮している人は多数派ではなかった。

 その後、日本は1994年に65歳以上の人口が14%を超える高齢社会となり、2007年には21%を超える超高齢社会となった。低成長、国際的競争力の低下、増える税金や社会保険料、国家財政の悪化。多くの問題は「高齢者が多いこと」に起因している。




 祖父母の話。

 ぼくの祖父母は仲が良かった。経済的に余裕もあったので、半年に一度ふたりで海外旅行に出かけていた。

 やがて祖父が亡くなった。享年八十四歳。具合が悪くなって病院に行き、がんが見つかって通院。それでもプールに通ったりするほど元気だった。症状が悪化したので入院して、二週間ほどで息を引き取った。年齢も年齢だし、そう悪い最期ではなかったとおもう。親戚だけで葬儀をおこなったが、残された子や孫たちも「まあ天寿をまっとうできたんだから幸せな人生だったよね」という感じでしんみりしていないお葬式だった。

 だが祖母にとってはショックだったらしい。その後ずいぶん落ち込み、娘に対して「私も一緒に逝きたい」などと漏らすようになった。そして半年後、認知症を発症した。夫を亡くして気落ちしたことや、ひとり暮らしになって会話が減ったことなども原因かもしれない。

 祖母は、遠く離れた長男(つまりぼくの伯父)のところで暮らすことになった。それはもう大変だったらしい。介護をしている長男夫婦をなじったり、暴れたり。ものをなくし、長男夫婦に盗まれたとふれまわる。身体は元気だったので徘徊して迷子になる。ぼくにもよく電話がかかってきた。自分からかけてきたのに「誰?」などと言っていた。孫のことも忘れかけていた。

 それから十数年。祖母はまだ存命だ。九十八歳。孫のことはおろか、子どものことも忘れているらしい。こないだ倒れて意識を失ったが、病院で手当てを受けて一命をとりとめたらしい。

 その話を聞いてぼくはおもった。「死なせてやればよかったのに」と。

 ことわっておくが、ぼくはおばあちゃんが好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。祖母がぼくのことを記憶から失った時点で、ぼくにとっても祖母は過去の人になった。孫や子の存在を忘れ、周囲の人を泥棒呼ばわりする人はぼくの好きだったおばあちゃんではない。


 祖父母の死は対照的だ。まだ元気に動きまわれるときに癌になり、あっという間に亡くなった祖父。認知症になり、家族の記憶も優しい心も忘れた状態で二十年近く生きている祖母。長生きしているのは祖母のほうだが、どっちが幸せな晩年かといわれたら比べるまでもない。

 ぼくもすっかりおっさんになって、認知症も他人事ではなくなった。友人からも、認知症の祖母の介護に苦しんだという話を聞く。

 そうした話を聞くたびに、つくづくおもう。長生きなんてするもんじゃない、と。




『日本人の死に時』では、医師として終末医療に携わっている著者が見た残酷な現実が書かれている。

 脳梗塞で意識を失った八十代の患者。入院後、胃ろう(チューブで直接胃に栄養を送りこむ措置)をつけられたが意識は失ったまま。娘たちが自宅で介護をしたものの褥瘡ができ、手足の関節も曲がったまま固まり、髪の毛も抜け落ち、意識が戻らないまま八ヶ月が経ち、亡くなった。

 かけがえのない母親ですから、必死で看病するのは当然でしょう。しかし、私は診察に通いながら、痛ましい気持でいっぱいでした。胃ろうなどつけなかったら、もっと早く楽に逝けたのに……。でも、もちろんそんなことは口には出せません。
 むかしはものが食べられなくなれば、自然に静かに死んでいました。今は鼻からチューブを入れたり、胃ろうを作ったりしてさまざまな栄養剤を与えます。消化吸収ができなくなれば、点滴や高カロリー輸液で補います。
 食事だけではありません。呼吸も、循環も、排泄も、あらゆる生理機能が人工的に補助されるようになって、人間はなかなか自然に死ねないようになってしまいました。長生きへの欲望を無批判に肯定したため、命を延ばす手だてだけが飛躍的に増えてしまったのです。命はただ延ばせばいいというものではありません。どんなふうに延ばすかが問題なのに、医学はその視点をあまり重視してこなかった。

 結果論ではあるけれど、意識が戻らないまま八ヶ月看病を続けてそのまま亡くなるのであれば、「あのとき胃ろう処置をせずに逝かせてあげればよかったのでは」とおもうのではないだろうか。意識不明状態で八ヶ月活かされた当人も、意識のない人の介護を続けた娘たちも、どちらにとっても不幸な延命処置だとしかおもえない。


 著者は、多くの高齢者が「早く死にたい」とこぼすのを聞いている。身体の不調で痛く苦しい日々を送り、今後悪くなることはあっても良くなる見込みはない。けれど自ら命を絶つことはしたくない。

 本人は長く生きたくない。親身に看護・介護をしている家族も口には出さなくても「早く解放されたい」と願う。寝たきり生活がなくなれば医療費も抑えられる。長生きしないことは三方良しにおもえるが、たいてい口を挟むのは無関係な人だ。

 病院嫌いで本人が入院を望んでいなかったのに、半ば無理やり入院させられてしまった男性の話。

「病院へ行くと、すぐレントゲンを撮って、血の検査やら点滴やらがはじまりました。わたしは主人の苦しみを取ってほしいだけだったのに、こちらの希望は聞いてもらえませんでした。人工呼吸器だけはつけずにしてもらいましたが、酸素マスクはさせられました。主人はそれをいやがり、何度も自分で取るんですが、先生に叱られるのでわたしが無理やりつけなおして……」
 入院したかぎりは、病院側も治療をせざるを得ないのでしょう。苦しみだけ取って、あとは何もしないでというわがままは通してもらえないのです。良成さんはステロイドや抗生物質を投与され、強心剤の点滴もされて、死ぬに死ねない状態で二週間を過ごしたのでした。
 途中で意識がはっきりしたとき、良成さんは「帰る」と叫んで暴れたそうです。奥さんは連れて帰りたかったのですが、親戚が反対した。死にかけているのに、家に帰るなんて無謀だ、どうして最後まで治療をしないんだ。親戚に強くそう言われると、奥さんひとりではどうしようもなかったそうです。ふだん病気から遠いところにいて、現実を知らない人の善意は、なんと怖いものでしょう。

 当事者でない人は「かわいそうじゃないか」「まだ生きられる人を見捨てる気か」と口にする。言うだけならタダだから。金を出し、時間を割き、二十四時間体制で介護をするのは自分じゃないから。

 長く入院してもらえれば病院は儲かる。寝たきりで後は死ぬのを待つばかりの患者なんて、病院からしたらいいお客さんだろう。チューブにつないでおくだけで治療らしい治療はしなくていいし、もともと死ぬ間際なのだから死んだからといって病院が責められることもない。国からがっぽがっぽお金が入ってくる。

 多くの高齢者が、長生きをしているというより「長く生かされている」状況だ。




 もちろん、健康で楽しく長生きできるのであればすばらしい。だが現実には多くの長生きが幸福に結びついていない。

 現在、日本の健康寿命は、男性が七二・三歳、女性が七七・七歳。平均寿命は、男性が七八・四歳、女性が八五・三歳です(「世界保健報告」二○○三年)。その差、すなわち男性で六・一年、女性で七・六年が、介護を要する期間となります。-平均寿命と健康寿命の差を短くすれば、介護の需要は減るわけです。そのためにはどうすればいいか。
 平均寿命が延びたのは、医療のおかげであるのはまちがいないでしょう。しかし、医療は健康寿命は延ばしません。健康な人は病院へは行かないのですから。
 病院へ行って、無理に命を延ばすから、平均寿命が延びる。だから健康寿命との差が広がり、介護の需要が高まる。医療が延ばす命は、点滴やチューブ栄養、人工呼吸やさまざまな薬剤によるものです。そうやって延ばされた命は、決してよいものではありません(私が言っているのは、健康な時間を十分に過ごしたあと、老いて身体が弱った人の話です。若くして事故や難病に倒れ、医療の支えで生きている人はもちろん別です)。
 老いて身体の不具合が出てから、無理やり命を延ばされても、本人も苦しいだけでしょう。そこで私は、ある年齢以上の人には病院へ行かないという選択肢を、提案しようと思います。

 こういう提案を医師が提案するのは、たいへん勇気がいるとおもう。世の中には「医者は患者を少しでも長生きさせるものだ」とおもっている人がいる。きっと非難も浴びただろう(この本の刊行は2007年)。それでも、きれいごとでお茶を濁さずに長生きの悪い面をきちんと書いたことを称えたい。

 著者は「現代人は生きすぎなんじゃないか」と言う。ぼくもそうおもう。同じようにおもっている人は多いだろう。寝たきり老人が増えて得をするのは病院や介護施設の経営者ぐらいだろう。でもみんな「もっと早く死んだほうがいい」とは大っぴらには言わない。「高齢者にも安心して暮らせる国づくりを」ときれいごとを口にするばかりだ。

 死にたいのに死ねない人も、その家族も、介護をする人もみんな困っているのに外野が無責任に「尊い命を見捨ててはいけない」と言うせいで事態は改善しない。夫婦別姓や同性婚の問題と同じだ。困っている当事者がなんとかしてほしいと願っていても、まったく無関係な人間の「昔からのやり方を変えたくない」で潰されてしまう。




 延命治療はしたっていいけど、保険適用外にしたらいいのにね。やりたい人は自腹でやればいい。家族も「だったらやめます」と言いやすくなるし、病院だって無理な延命を勧めなくなるだろう。

 出産費用が保険適用外なのに、百歳の延命治療が保険適用なのは意味わからない。今は高齢者ほど自己負担比率が低いけど、逆にすべきだとおもうんだよね。若い人ほど負担を減らしてあげなきゃだめでしょうよ。

 医者の仕事は「健康にすること」であって「不健康な状態を長引かせること」じゃないとおもうんだけどね。


 漫画『ブラック・ジャック』にドクター・キリコという医師が出てくる。 「死神の化身」と呼ばれ、患者の求めに応じて安楽死させる悪役として描かれる。ぼくも子どもの頃は悪い奴だとおもっていたけど、今にしておもうとなんてすばらしい医者なんだろうとおもう。

 ドクター・キリコはむやみに殺すわけではない。治る見込みがなく、苦しんでいる患者で、かつ当人や家族の依頼を受けた場合だけだ。若い自殺志願者の安楽死は拒否するし、誤って毒を飲んでしまった人は緊急手術をおこなって助ける。助けた後は「命が助かるにこしたことはないさ」とつぶやく。彼は情がないから安楽死をさせるのではなく、逆に苦しむ患者を救うために安楽死という手段をとるのだ。その証拠に実父が難病に冒されたときにもやはり安楽死させようとするし、さらには自らが謎の菌に感染した際には菌の拡散を防ぐために無人島に己を隔離して安楽死しようとする。

 いやほんと、すばらしい医者だよ。金さえもらえればどんなやつでも(たとえその後死刑になることがほぼ確定している犯罪者でも)助けるブラック・ジャックよりよっぽど人道的だとおもう。

 今の時代に必要なのは、ドクター・キリコのような医者かもしれない。




 早いうちに自分の寿命を決めたらいいと著者は提唱する。七十九歳の人が「八十まで生きたら生にしがみつくのはやめよう」とおもってもむずかしいだろう。だが六十歳の人なら心の準備ができる。四十歳ならもっと。

 だからぼくも、自分の終わりを七十歳ぐらいに決めたいとおもう。それぐらいになったら孫もそこそこ大きくなっているだろう(順調にいけば)。孫に「近しい人の死」を身をもって教えるのが最期の大仕事だとおもっている。

 もっとも七十歳になってしまったら自殺するということではない。内臓の検査や治療をやめて、人生の店じまいの準備をすすめていきたいと考えている。

 まあじっさいその年齢になったら意地汚く生きることにしがみついてしまうのかもしれないけど。


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絶好の死のタイミング

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2022年7月21日木曜日

書かないことのむずかしさ

 このブログには特にテーマを決めず、書きたいことを好きに書くようにしているのだけれど、なるべく書かないようにしていることもある。

 それは、時事ネタ、特にいわゆる〝炎上案件〟だ。


 このブログの最優先読者は、まぎれもなく自分だ。自分が後日読んだときにおもしろいとおもってもらうために書いている。

 そのとき旬なテーマは後になると意味がわかりにくくなるし、特に炎上案件のように爆発的に注目度の上がったネタは冷めて忘れられるのも早いから後日読んでもつまらない。


 それよりなにより「炎上案件に首をつっこむのはみっともない」という意識がある。

 といっても今まで何度か首をつっこんだことはあるが、それは一応自分も当事者の端くれであったり、あるいはこの分野に関しては他人より深い前提知識を持っているはずという自負があったりする場合にかぎっている。

 やっぱりほら、みっともないじゃん。〝野次馬根性〟ってめちゃくちゃ醜悪じゃない。

 たとえば誰かが危険運転をしたときに、被害者自身とか、加害者を以前から知る人物だとか、道交法の研究者とかがあれこれ語るのはまあわかる。でも、YouTubeにアップされたドラレコの映像を見て「これは許せん!」とおもっただけの人は、不純物ゼロ、美しいほどの野次馬じゃない。

 いや、わかるのよ。野次馬が石を投げたくなる気持ちも。ぼくだって本心はそうだし。人間は社会的動物だから不正をはたらいて社会のメンバーに迷惑をかけるやつは迫害したくなる。そうやって攻撃的なやつやずるいやつを追いだして、社会秩序を維持してきた。だから炎上案件に首をつっこんで遠くから石を投げたくなるのは本能的なものなんだとおもう。

 でも、だからこそみっともないわけで。

 飯をがっついているところやセックスをしているところやウンコをきばったり惰眠をむさぼったりしている姿が本能に忠実であればあるほどみっともないのと同じで。そこを開陳してしまったら、もうえらそうな顔をできないじゃない。べつにえらそうにしなくたっていいんだけど。


 ま、これはあくまでぼくの個人的美学だ。

 首をつっこみたい人はつっこめばいいし、ただぼくは首をつっこみたくないというだけだ。

 だからこの問題についてひとこと言いたい、とおもったとしても自らブレーキをかけて書かないことにしている。


 問題は「書くのをやめたこと」は他人に伝わらないことだ。

 書いたことは他人に伝わるが、書かなかったことは他人には伝わらない。

 炎上案件についておもうところはあるし、それを文章化することもできるんだけど、あえて書かない。そこは伝わらない。

 ぼくとしては、人並みあるいは人一倍承認欲求があるわけだから「まあこの人は野次馬たちが集まっている下品な話題に首をつっこまないのね。やはりそのへんの凡百な連中とはちがうわ。なんて分別のある人なの」とおもってもらいたい。あわよくば賞賛されたい。

 でも、書かないから伝わらない。「私はこの問題について書きたいことがあるんだけど半端な知識でいっちょかみするのは下品なので、あえて首をつっこみませんでした」と書いてしまったら、それはもう首をつっこんだことになってしまうから、書けない。野次馬にはなりたくないが、野次馬でなければ他人から認識されない。野次馬のジレンマだ。


 こういうのはどうだろう。ぼくがある問題について書くのをやめ、ぼくが自作自演した別アカウントが「犬犬工作所はこの問題については沈黙を貫いている。なんと立派な姿勢だろう」と賞賛する。

 うむ、これがいちばんみっともないな!


2022年7月20日水曜日

【読書感想文】吉田 修一『犯罪小説集』 / 善良な市民による凶悪犯罪

犯罪小説集

吉田 修一

内容(e-honより)
田園に続く一本道が分かれるY字路で、1人の少女が消息を絶った。犯人は不明のまま10年の時が過ぎ、少女の祖父の五郎や直前まで一緒にいた紡は罪悪感を抱えたままだった。だが、当初から疑われていた無職の男・豪士の存在が関係者たちを徐々に狂わせていく…。(「青田Y字路」)痴情、ギャンブル、過疎の閉鎖空間、豪奢な生活…幸せな生活を願う人々が陥穽にはまった瞬間の叫びとは?人間の真実を炙り出す小説集。

 犯罪に巻き込まれた(あるいは引き起こした)人たちを描いた短篇集。

 いやあ、こういう嫌な気持ちにさせる小説を書かせたら吉田修一氏の右に出る人はそうそういないね。『元職員』も『パレード』も『怒り』も、じんわりと嫌な気持ちにさせられた。

『犯罪小説集』は、どこにでもいるような我々の隣人が、ある瞬間に〝犯罪者〟側に足を踏み入れてしまう様子を丁寧に描いている。フィクションとはおもえないほどの生々しさだ。




 下校途中に行方不明になり、遺体で見つかった少女。その地域の数十年後を描く『青田Y字路』

 目立たなかったかつての同級生が殺人事件を起こしたことを知り、専業主婦が彼女の気持ちに近づいてゆく『曼珠姫午睡』 

 大企業の経営者の子息として生まれ育った男がカジノにはまり、身の破滅へと沈んでゆく『百家楽餓鬼』

 限界集落でのちょっとしたいきちがいから村八分にされてしまった男が連続殺人事件を引き起こす『万屋善次郎』

 かつてのスタープロ野球選手が派手な生活を改められず、借金をくりかえしてやがては殺人事件を引き起こす『白球白蛇伝』


 どれも、モデルとなった事件がありそうだ。大企業の御曹司がカジノで会社の金を溶かしてしまう事件とか、限界集落での連続殺人とか、元プロ野球選手の殺人事件とかは、明確に「ああ、あの事件をモデルにしてるんだな」とわかる。

 いろんな犯罪者が出てくるが、みんな根っからの悪人ではない。たとえば『百家楽餓鬼』の主人公は、カジノで散在する一方で、仕事には熱心に取り組み、休みの日には妻と難民キャンプに訪れてボランティア活動に勤しんでいる。そして心からボランティアに歓びを感じている。

『白球白蛇伝』で描かれる元プロ野球選手も決して悪い人間ではない。家族の期待に応えるためプロ野球選手になり、家族の期待に応えるために引退後も華やかな生活を続けている。友人や後輩との付き合いを大事にし、自分の財布が苦しくてもおごってやる。稼ぎさえ伴っていればいい先輩だ。それを「身のほど知らず」「見栄っ張り」と切り捨てることはたやすいが、誰の心にも彼と重なる部分があるだろう。

 彼は、知り合いの中小企業の社長に借金を断られて撲殺してしまう。冷静な犯罪者であればもっと金持ちを狙い、もっと計画的に殺すだろう。だが彼は「その人を殺してもどうにもならないだろ」と言いたくなる相手を殺す。いかに追い詰められていたか。


 この小説に登場する犯罪者たちとそうでない人を分けるのは決定的な資質の違いではない。ほんのわずかなボタンのかけちがいで、平穏な生活を続ける人も向こう側へ行ってしまう。

 河合 幹雄『日本の殺人』によると、殺人事件の多くは家族間で起きていて、さらに「虐げられている側が強い側を殺す」ことが多いそうだ。まあそうだよね。強い側には殺す理由がないもんね。

 大きなニュースになったりフィクションで描かれるのは「快楽殺人」「金銭目的の殺人」「復讐のための殺人」なんかだけど、じっさいはそんなのは圧倒的少数で、ほとんどは「追い詰められた人がその状況から逃れるために殺してしまう」なのだそうだ。でもそれだと「なんてひどい犯人だ! 死刑にしろ!」というエンタテインメントにならないので、ニュースで取り上げられるのはひどい犯人ばかりだ。

 ふつうの性格のふつうの生活を送っている善良な市民が、些細なきっかけで犯罪に手を染めてしまいます。状況が変われば、殺人犯になっていたのは私やあなただったかもしれません。そんな正しい話はみんな聞きたくないんだよね。




「犯罪者に襲われる恐怖」と「自分が犯罪者になる恐怖」ってどっちが強いだろうか?

 ぼくは圧倒的に後者のほうだ(成人男性だかってのもあるだろうけど)。犯罪をして追われる夢もたまに見る。

 人によっては「自分は、犯罪被害に遭うことはあっても加害者にはぜったいにならない」と信じている人もいるとおもう。そう信じられる人は幸せだ。犯罪者に平気で石を投げつけられるだろう。

 でもぼくは犯罪をする側の気持ちもちょっとわかってしまう。ちょっとしたきっかけで自分もあっち側に行っていたかもしれない。彼らと自分がそんなに違う人間じゃないことも知っている。

 その自覚こそが、ぼくが(今のところ)犯罪者になっていない理由だ。


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見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】

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2022年7月19日火曜日

【読書感想文】上原 善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』 / 攻撃的な変人

一投に賭ける

溝口和洋、最後の無頼派アスリート

上原 善広

内容(e-honより)
全身やり投げ男―1989年、当時の世界記録からたった6センチ足らずにまで迫り、WGPシリーズを日本人で初めて転戦し、総合2位となった不世出のアスリート・溝口和洋。無頼な伝説にも事欠かず、まさにスターであった。しかし、人気も体力も絶頂期にあったはずにもかかわらず、90年からは国内外の試合にほぼ出なくなり、伝説だけが残った。18年以上の取材による執念が生んだ、異例の一人称ノンフィクション!ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作!(2016年度)。


 評伝かとおもって読みはじめたら「私が~」という文章が続くので戸惑ってしまった。なんだこれ、自伝なのか? だとしたら著者名と扱っている人物の名が異なるのはなぜだ?

 あとがきまで読んで、ようやくわかった。著者が二十年近く溝口和洋氏にインタビューしてその選手人生について書いたのだが、あえて一人称を使ったらしい。それならそれで最初に説明してくれよ。だいぶ戸惑ったぞ。




 ぼくは陸上競技にぜんぜん興味がないので、溝口和洋という人のことはまったく知らなかったのだが、いろんな意味ですごい人だ。

 まず、身長180cmという(世界で闘うやり投げ選手としては)小柄な肉体ながら、圧倒的に身体の大きい人が有利なやり投げで世界トップクラスの成績を残す。(再計測により無効となったが)世界新記録もたたき出している。彼の持つ87m60という日本記録は、30年以上たった今でも破られていない。若き日の室伏広治にハンマー投げの指導をした人物でもある。

 だが彼のすごさは、その記録よりもむしろ生き様にある。

 指導者はおらずほぼ独学のみで、尋常でないトレーニングを重ね、たった一人で世界の舞台で闘いつづけた。さらに、酒を飲み、本番前にもタバコを吸い、女遊びもする。他の選手や陸上協会に対しても堂々と批判し、マスコミ嫌いで気に入らない記事を書いた記者は捕まえて暴行をくわえる。引退後はパチプロとして生活をし、後に実家に帰って農家になる。

 まさに「無頼派」という言葉がぴったりだ。

 ぼくは小中学生のときに近藤唯之さんという人の本で昔(昭和)のプロ野球選手の逸話をよく読んだが、昭和のプロ野球選手の生活に近いかもしれない。昔のプロ野球選手にも「銀座のクラブで豪遊した」「夜通し飲んで、徹夜明けで出た試合でホームランを打った」なんて逸話が残っている。だが、彼らは無頼派とは異なる。そういう時代だったからやっていただけで、周囲が夜遊びをしていなければやらなかっただろう。

 だが溝口和洋は、あくまで我が道をゆく人だ。

 タバコも一日二箱は吸っていた。タバコはリラックスするために吸うので、「試合の前には必ず二、三本は吸っていた。
 代々木の国立競技場でも、できるだけ目立たないように外に出て限で吸っていたつもりだったが、見つかって「ミゾグチはタバコを吸っている」と非難されたこともある。これもまた、言いたい奴には勝手に言わせておけばいいと放っておいた。
 タバコを吸うと持久力が落ちるというが、タバコは体を酸欠状態にするので、体にはトレーニングしているような負荷がかかるから事実は逆だ。タバコを吸うと階段が苦しくなるというのは、単にトレーニングしていない体を酸欠状態にしているからだ。
 また「タバコは健康に悪い」と言う人がいるが、どう考えてもやり投げの方が体に悪い。一生健康でいたいのなら、やり投げをやめた方がよほど健康的だ。練習中は集中が途切れるので吸わないが、試合前の一服は不可欠だ。
 陸上関係者やマスコミは、こうした私のことを「無頼」とか「規格外だ」とか言っていたが、やり投げ以外のことを、私の事情を知らない他人にとやかく「言われる筋合いはない。逆に「今に見てろ」と、闘争心をかきたてられた。

 タバコを吸うのはトレーニング……。すごい理屈だ。めちゃくちゃだが「どう考えてもやり投げの方が体に悪い」は笑った。はっはっは、たしかにその通りだ。そういえば大学時代の運動科学の先生も「体にいい運動は散歩程度で、あとは全部体に悪い」って言ってたなあ。

 そうだよなあ。趣味でやるレベルならともかく、部活やプロ選手がやるスポーツはほぼ例外なく不健康だよなあ。身体的にも精神的にも。苦しくなるまで身体を痛めつけるって、冷静に考えたらかなりの異常行動だ。ケガもするし。スポーツは体に良いとおもってしまいがちなので、気をつけねばならない。




 溝口氏がすごいのは、徹底的に考えたことだ。外国人選手に比べて小柄な身体というハンデを乗り越えるためにひたすら考え、疑った。

 まず「やり投げ」という競技について、一から根本的に考えてみた。
 これはそもそも「やり投げ」と考えるからよくないのではないか。「やり投げ」と考えるだけで、例えばこれまでのトップ選手のフォームが脳に焼きついてしまっているので、偏見から抜けきらない。「そこで私が考えたのは、「全長二・六m、重さ八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ということだ。
 こう考えれば、それまでの「やり投げ」という偏見を取り除くことができる。
 私がやるべきことは結局、「やり投げのフォーム」を極めることではない。「やり投げという競技」を極めることにあるのだ。
 具体的には「二・六m、八〇〇gの細長い物体をより遠くに飛ばす」ことができれば、世界記録を出し、オリンピックでも金メダルを狙えるところまでいけるのだ。そうして初めて「やり投げ」を極めることができる。

 言われてみれば当然のことのようにおもえるが、なかなかできることではない。スポーツの練習というのは基本的に形から入る。上手な人のフォームを真似るところから始まる。その時点ですでに先入観にとらわれている。

 溝口選手は、あらゆるものを疑い、フラットな状態から見つめなおした。

 こうした技術面での新発見に、コツというものがあるとしたら、これまでの常識を全て疑い、一からヒトの動作を考えることだ。
 短距離だったら、まずスタートから疑ってかかる。現在はオーソドックスとなっているクラウチング・スタートも、本当にそれが正しいのか、一から検証していくのだ。
 例えば、ヒトはなぜ「後ろ向きで走ると遅くなる」と思うのだろうか。わかっていても、その本当の理由を答えられる人は少ないだろう。もしかしたら、後ろ向きで走る方が速いかもしれないのに、誰も試そうとはしない。私は実際に、後ろ向きに走って確かめた。

 ここまで疑うのか……。

 たしかに「後ろ向きに走るよりも前向きに走ったほうが速いのはあたりまえ」とおもっているが、じっさいに確かめたことはない。障害物のない平地で、周囲に人がいない状況で、練習を重ねたら、ひょっとすると前向きで走るよりも速くなるかもしれない。やったことがないのだからぜったいにないとは言い切れない。

 走り高跳びがオリンピック種目になったのは1896年だが、アメリカのディック・フォスベリーが背面跳びを発明し、金メダルをとったのは1968年のメキシコオリンピックである。それまでの70年以上(オリンピック種目になる前も含めれば数百年にわたって)、誰も後ろ向きに跳ぶほうが高く跳べるなんて考えもしなかったのだ。

 常識にとらわれない発想をすることこそが、超一流選手とそれ以外を分ける点かもしれない。

とにかく他人の目など気にしないことが大事だ。
 しかし意外に、これが他の選手には難しいらしい。
 例えば学校の陸上コーチから「そんなフォームはやめろ」と言われれば、あなたならどうするだろうか。ここで自分を貫けば、コーチとの縁は切れてしまうかもしれない。しかし、やり投げの飛距離は伸びるかもしれない。
 実際に、世界レヴェルの選手で、記録ではなく恩師をとった日本人選手も少なくない。
 素質は世界レヴェルなのだから、本気で競技のために親兄弟をも捨て、本当の意味で命を賭ける覚悟があったなら、世界記録もオリンピックの金メダルも狙えただろう。しかし、それができる人の方が少ないのである。世界トップになるよりも、まず人であることを選んだのだ。
 それもまたいいだろう。人の生き方は、それぞれなのだから。べつに良いも悪いもない。
 だが、私は違う。
 やり投げで、世界トップに立とうと思った。
 だから肉親とか恩師とか女とか、そのような存在は無視すべきものであり、他人からどうこう言われようが、自分が一旦納得したら、それを貫き通した。素質のない私のような日本人が、やり投げで世界トップに立つためには、それくらいの覚悟が必要だった。もしかしたら、素質がなかったからこそ、馬鹿に徹し切れたのかもしれない。

 王、野茂、イチロー。いずれもそれまでの常識からすると常識外れの独特のフォームで活躍した選手だ。一本足打法、トルネード投法、振り子打法。多くの指導者が、そんなやりかたで成功するはずがないとおもっていただろう。だが彼らには理解ある指導者がいて、独自の道を貫いた結果大成功を収めた。

 溝口選手は理解ある指導者もなく、自分の思考だけで世界トップクラスで戦えるレベルまでたどりついた。とんでもない我の強さだ。

 ぜんぜん比べられるような話ではないが、ぼくも高校生のときに担任から「授業を聞かずに自分で教科書読み進めてええで」と言われてじっさいにその通りにしてから飛躍的に成績が伸びた。

 スポーツにかぎらず、初心者のうちは「他人のアドバイスに従う能力」が求められるが、ある程度のレベルまで達すれば逆に「他人の意見を聞かない能力」のほうが大事になるのかもしれない。他人から教えられたことと、自分で考えて試したことでは、定着力がぜんぜんちがうもの。




 溝口選手は、飲む・打つ・買うに代表されるその破天荒なスタイルに目が行ってしまうが、同時に誰よりもトレーニングをした選手でもあった。

 とはいえ懸垂も、もちろんMAXでおこなう。トレーニングは常にMAX、つまり限界になるまでやらなければ意味がない。
 何が限界なのかは、もちろん人によって違う。わかりやすくたとえると、他の選手の三倍から五倍以上の質と量をやって、初めて限界が見えてくると私は考えている。
 懸垂のMAXとは「できる限り回数をやる」ことになる。例えば懸垂を一五回できるのなら、それをできなくなるまで何セットでもやり続ける。間に休憩を入れても良いが、五分以上、休むことはあまりない。初めは反動なしでの懸垂だ。
 この懸垂ができなくなって初めて、反動を使っても良い。それでもできなくなったら、足を地面に着けて斜め懸垂をやる。
 ここまでくると指先に力が入らなくなり、鉄棒を握ることすらできなくなっている。ベンチをやっている時から、シャフトを強く握っているからだ。
 しかしここで止めては、一〇〇%とはいえない。
 そこで今度は、紐で手を鉄棒に括りつけて、さらに懸垂をおこなう。さすがに学生たちは本当に泣いていたが、ここまでやらないと、外国人のパワーと対等には闘えないのだから、無理は承知の上だ。

 よくこれで身体を壊さなかったな……。

 ふつうの人の考える「いちばん厳しいトレーニング」は、できなくなるまで懸垂を続けることだろう。溝口選手は、懸垂ができなくなれば斜め懸垂、斜め懸垂ができなくなれば手を鉄棒にくくりつけてさらに懸垂……。よくもまあここまで自分を追い込めるものだ。

 ここまで努力していることを公言はしていなかったそうだから、周囲からしたら
「あいつは酒もタバコもやって、素質だけでやり投げをやってちょっと結果が出ているものだから調子に乗ってるやつだ」
ってなふうに見えていたんだろうね。


 ついつい「あいつはたいした努力もせずに〇〇できていてずるい!」とおもってしまいがちだけど、他人の努力なんて見えやしないんだから勝手に推し量っちゃいけないね。




 やっぱり変な人の話を読むのはおもしろい。現実にはお近づきになりたくないようなタイプの人(つまり攻撃的な変人)であるほど、本で読むのはおもしろい。

 やり投げをやったことも今後やる可能性もないぼくにとっては役に立つ情報はまったくなかったけど、そんなことはどうでもよくなるぐらいおもしろかった。


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2022年7月16日土曜日

【映画感想】『バズ・ライトイヤー』

『バズ・ライトイヤー』

内容(映画.comより)
有能なスペース・レンジャーのバズは、自分の力を過信したために、 1200人もの乗組員と共に危険な惑星に不時着してしまう。 彼に残された唯一の道は、全員を地球に帰還させること。 猫型の友だちロボットのソックスと共に、不可能なミッションに挑むバズ。 その行く手には、孤独だった彼の人生を変える“かけがえのない絆”と、 思いもよらぬ“敵”が待ち受けていた…

『トイ・ストーリー』シリーズの準主役であるバズ・ライトイヤーを主人公にした映画。続編ではなく、『1』の前日譚。前日譚といっても単純に『1』より昔の話というわけではなく、この『バズ・ライトイヤー』を観たアンディがバズ・ライトイヤーを好きになり、『1』の冒頭で誕生日にプレゼントされたという設定。つまり物語内物語になっているという……ややこしいね。まあ『トイ・ストーリー』を観た人ならわかるでしょう。

 ということで、『トイ・ストーリー』のスピンオフではあるけれど、『トイ・ストーリー』とはまったく別次元(というより低い次元)の話なので、『トイ・ストーリー』シリーズを観ていない人でも楽しめるはず。

 低い次元というとレベルが低いように聞こえるかもしれないけどそんなことなくて、むしろ技術が上がっている分だけ『トイ・ストーリー』よりもずっと精度の高い3D技術が使われている。高度な3Dなのに物語の次元は低い(ことになっている)という……ややこしいね。まあいいや。




 まず書いておかないといけないのは、ぼくは『トイ・ストーリー』ファンなのだが、ぼくの中では『トイ・ストーリー4』はなかったことになっている。記憶から消した。否、まだ消えていないが消したいと願っている。それぐらい『4』は嫌いだ。

 つまらなかったというわけではない。おもしろかったが『1』~『3』の世界観をぶち壊しにしてくれたから大嫌いなだけだ。まあこの話は書くと長くなるのでもうやめておく。前にも書いたし。

 そんなわけで、ぼくの中で『トイ・ストーリー』は『3』できれいに完結しているので、続編ではなく前日譚を書くという試みには諸手を挙げて賛成したい。ウッディが仲間を思う気持ち、ウッディの子どもへの愛、そして子どもからおもちゃへの愛。そういったものを『4』がすべて破壊しつくしてしまったので(書かないといいつつつい書いてしまう)、それより後の話はもう描きようがない。ウッディは「最後の最後で子どもを捨てたやつ」になってしまったので、今さらウッディを主人公にした話をつくっても白々しいだけだ。

 だから、バズを主人公に据えて、しかも『トイ・ストーリー』とは別世界の物語をつくることにしたのは大英断だ。そしてその試みは成功している。





【ここからネタバレあり】


 観終わった後の感想としては「あーおもしろかった」。ほんとにそれだけ。感動したとかためになったとか考えさせられたとかはほとんどなくて、ただただおもしろかった。これは悪口じゃなくて褒め言葉ね。

 だからストーリーについてあれこれ書く気になれない。だってただおもしろいだけなんだもん。ストーリーなんか知らずにとにかく観たほうがぜったいにおもしろいんだもん。


 いやあ、これぞエンタテインメントって映画だった。ピクサー映画も、ディズニー映画全般もそうだけど、ここ最近の作品ってやたら説教くさいものが多い。「こんなふうに生きなさい」「こういう生き方を認めなさい」という制作者のメッセージがいちいち感じとれる。そりゃあ創作物だから多少なりともメッセージ性があるのは当然だけど、ストレートすぎるんだよね。そういうのって観た人が思い思いに感じればいいものであって、「制作者のメッセージ」が前面に出てくるとうっとうしい。

『バズ・ライトイヤー』にはお説教くささがぜんぜんなくて、ただ単純におもしろいことを目指した映画だった。もちろん多少なりともメッセージ性はあったし、ぼくも何かしらは感じとったけど、それについてはあえて書かない。人によって受け取るメッセージはちがうのに、ぼくが答えのひとつを提示してしまったらつまらないもの。

 もちろん、メッセージ性が強くて、あれこれ考えさせられる映画もいい。ぼくだって純文学を読むこともあるし。ただ、ディズニー映画、ピクサー映画にはそういうのは求めていない。LGBTQやSDGsや多様性やポリコレを考えるきっかけにならなくていい(ちなみに『バズ・ライトイヤー』は同性愛者が出てくるけど、そこにも説教くささが一切なくて「そうだよ。それがどうした?」って描き方なのがいい)。

『バズ・ライトイヤー』の構造はとにかくシンプルだ。強くて正義感あふれる主人公がいて、主人公がわかりやすい目標に向かって努力して、けれど様々な障害や葛藤があり、強大な敵が現れ、頼りないながらも支え合える仲間が現れ、仲間との協力を通して主人公が自分に足りなかったものに気づき、それぞれが弱さを克服して成長し、最後は力を合わせて敵をやっつける。『オズの魔法使い』や『西遊記』など、昔からあるパターンだ。

 そんな、これまでに何度も目にした王道ストーリーでありながら『バズ・ライトイヤー』はちゃんと新鮮でおもしろい。シンプルな物語の強さ。さすがはピクサー。


 この、単純な骨子なのにおもしろいストーリーは『トイ・ストーリー』1作目に通じるものがある。ぼくがはじめて『トイ・ストーリー』を観たのはもう二十年以上前になるが、そのときの衝撃はまだおぼえている。

 当時ぼくは高校生。林間学校の帰りのバスの中で観た。多くの生徒が「高校生にもなってディズニーかよ……」という感じで、半ばこばかにしながら観ていた。だが、途中からはおしゃべりをする者もいなくなり、後半はぼくも含めみんな固唾を飲んで観ていた。笑いが起こり、手に汗握るシーンでは静まり返り、終わったときにはほーっと息を吐く音が聞こえたものだ。それほどまでにおもしろかった。

『トイ・ストーリー』も、いたってシンプルな物語だ。主人公にライバルが現れ、はじめは反目しあっていたのだが共通の目的のために一時的に手を組むことになり、数々の困難を乗り越えるうちに信頼関係が芽生え、それぞれが弱さを克服して成長し、悪い敵をやっつけ、最後はすべてが丸く収まるハッピーエンド。いわゆる「バディもの」の典型的なストーリーだ。子どもから大人までみんなわかる。

 当時新しかった3D技術以外に凝った仕掛けはない。それでも、映像、音楽、息もつかせぬスリリングな展開、普遍的な感情によって名作にしている。

『トイ・ストーリー』シリーズでぼくがいちばん好きなセリフは、『1』のラストでバズが口にする「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。かっこつけてな」 だ。いや、全映画中でナンバーワンかもしれない。あんなに見事に伏線回収をし、強く、そして弱く、美しいセリフがあるだろうか。あの短いやりとりに、物語を通してのウッディとバズの成長が凝縮されている。それぞれが己の弱さを認め、相手の良さを認め、そして相手の存在を必要に感じていることがわかる。

『バズ・ライトイヤー』を観て、ぼくはあのシーンをおもいだした。これはまだウッディと出会う前のバズだが(そしておもちゃのバズとは別人格だが)、彼もまた物語を通して、己の弱さを認め、仲間の良さを認め、仲間の存在を必要だと感じるようになったのだ。




『バズ・ライトイヤー』にはザーグという敵が出てくる。『トイ・ストーリー2』にもおもちゃのザーグが出てきて、バズの父親という設定になっているが(『スター・ウォーズ』のパロディ)、『バズ・ライトイヤー』に出てくるザーグはバズの父親ではない。そこだけが『トイ・ストーリー』シリーズとは矛盾しているが、そこ以外は『トイ・ストーリー』の世界観をまったく壊すことなく、新しい物語を構築している。すばらしい。これだよ、これ。おい、わかってるか『4』のクソ監督!(つい言ってしまう)


 八方丸く収まるのだが、気になったのが「エンドロール後に宇宙空間を漂うザーグが映る」シーンと、ザーグがタイムスリップなどの技術を誰から手に入れたのかが濁されていたところ。これはもしや、続編『ザーグの逆襲』につながる布石なのか……?


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2022年7月15日金曜日

ABCお笑いグランプリ(2022年)の感想

 第43回 ABCお笑いグランプリ 感想


 感想。関西に住んでいるのでいろんなお笑いのコンテストを見るが、昔からABCお笑いグランプリがいちばん好き。しっかりネタも見せてくれるし、合間の司会者と審査員のやりとりもおもしろく、バラエティとしても見ごたえがある。

 数年前の藤井隆司会、審査員にハイヒールリンゴやフジモンがいた頃がいちばんおもしろかった。でも決勝進出者のネタよりも審査員のほうがおもしろかったりしたので、さすがにそれはよくない。


■ ゲスト漫才

オズワルド
コウテイ
ミルクボーイ

 オズワルド。「車デートの車は車エビでもいいのか」と、シュールなネタにしてはベタよりなテーマ。相変わらずフレーズはおもしろいけど、まだ細かい無駄がある気がする。間とか。M-1グランプリに向けてこれから改良していくことでもっともっと良くなっていくんだろうな。

 コウテイのネタはあんまり好きじゃないんだけど、今回の「奈良時代に備中鍬で畑耕してる女やれや!」のネタはおもしろかったな。でも備中ぐわが広まったのは江戸時代だって小学生の時に習ったよ。名前に「備中」って入ってるんだから江戸以降に決まってるじゃん。

 ミルクボーイは貫禄を感じる。ABCお笑いグランプリのチャンピオンじゃないのに。ラジオ体操の「これ」のネタ。ついに物や場所ではなく動きまでを題材にしはじめた。ミルクボーイのネタって初期からすでに完成されていたように見えたけど、まだまだ伸びる余地があったのか……。



■ Aブロック

ドーナツ・ピーナツ(クラス分け)
こたけ正義感(変な法律)
青色1号(ノリツッコミ)
かが屋(喫茶店)

 ドーナツ・ピーナツはいい設定ではあるが、笑いどころが「変な校長先生」と「変な生徒」に分散されるのがちょっと見づらかったような。少年院上がりの生徒や留学生をハズレ扱いするのは、今の時代にはそぐわないかな。しかし粗さが目立つ分、今後まだまだおもしろくなりそうな二人。

 こたけ正義感は、現役弁護士という属性を活かしたネタ。「変な法律にツッコミを入れる」という着眼点は新しくもなんともない(『VOW』でも変な校則を扱ったりしてた)が、弁護士がやるだけで説得力が増してふしぎとおもしろくなる。たしかにおもしろいが、芸として見たらどうなんだろうという気もする。活字で見てもそこそこおもしろいだろうし。

 青色1号は、後半の「こいつがヤバいやつだったのか」が判明するあたりからどんどんおもしろくなるし、店長の「怖すぎて指摘できなかった」のも妙にリアルでよかった。ただいかんせん前半が退屈だった。「バイトでのウザいノリ」を見せるためにわざとおもしろくないことをしているのは理解できるが、演技がうますぎるのかほんとにつまらなかったんだよなあ。

 かが屋はコントというよりコメディ。台詞でも動作でもなく、カチャカチャカチャカチャッという音のみで笑いをとりにいく勇気がすごい。先輩バイトが震えている、という一点突破ネタだが、「弱気なやつが後輩バイトを守るために勇気を振り絞って面倒な客に立ち向かい震えている」では愛おしいだけで笑いものにする気にはなれない。「イキっていた客のほうも実はびびって震えていた」みたいな展開なら笑えるが、そっちに持っていかずに胸キュンストーリーに話を運ぶのがかが屋らしい。

 決勝進出はこたけ正義感。たしかにおもしろかったが、二本目を見たいという気にはならなかったのでちょっと意外。



■ Bブロック

令和ロマン(秋元康)
ハノーバー(彼女の両親に挨拶)
ダウ90000(独白)
天才ピアニスト(防犯訓練)

 令和ロマン。「AKBの歌を考えているのは秋元康だぞ」というこれまで何十回も聞いたベタすぎる導入ながら、美空ひばりにまで持っていくパワフルな展開。どさくさにまぎれて、後半はAKBの曲を「変な曲」と言ったり、「こんな才能があるのに」と褒めているようでディスっていたり、相当な失礼をぶちこんでいるのにさらっと流すところがニクい。秋元康をイメージできない人にはちんぷんかんぷんなネタだっただろうが。

 ハノーバーは、ひとつめの「お父さんとお母さん、どっちだ?」がすべてで、それを超える展開はなかった。妹もそっくりというオチも、事前に妹の存在を示していることで全員が読めただろうし。はじめの一分がピークだった。

 ダウ90000は、演劇のお約束である「観客に向かっての独白」を逆手にとるというメタなコント。ちょっと挑戦的すぎた。「八人組ってどんなコントをするんだろう?」とおもっていた観客の期待を悪い意味で裏切ってしまった。例えていうなら、ニメートル超の長身ピッチャーが出てきたとおもったら、アンダースローで初球にスクリューを投げてきたかのような。裏切りはほしいが、そこまで裏切られるともうついていけない。何球か剛速球が続いた後のスクリューだったら「してやられた」感もあるが。序盤に「ふつうの独白」をフリとして一、二回見せるべきだったのでは。

 天才ピアニストは、滑稽な校長に教師がつっこむのではなく、「滑稽な校長に生徒がつっこみ、それを教師がたしなめる」という構成にしているのがニクい。これにより二人の周囲が鮮明に見えてきて、立体的なコントになっている。校長につっこみを入れたらリアリティがないもんね。そして、さんざん「笑うな」と言っておいてからの「ここ笑わんと」という緩急のつけ方。最高。徐々に引きこまれて、ほんとに生徒たちの姿が見えた。惜しむらくは「全校集会で生徒たちを叱りつける教師」をやるには竹内さんに貫録がなさすぎること。あと二十年歳をとってからやったら完璧かもしれない。

 決勝進出は令和ロマン。完全に天才ピアニストだろうとおもっていたので、結果を見たとき「えっ」と声が出た。この後の審査もそうだが、漫才のほうが評価高い気がする。



■ Cブロック

 フランスピアノ(ここだけの話)
 ヨネダ2000(おみこしをかつぐプロ)
 Gパンパンダ(飲みの誘い)
 カベポスター(話がそれる)

 フランスピアノ「ここだけの話」が本当にこの地点に紐づいているという設定だが、種明かしがややあっけなかった。ここが最初のピークなのだからもっと引っ張ってもよかったのでは。ブラックなオチは嫌いでないが、この短時間だと「ほら伏線回収見事でしょ」という感じが伝わってしまい、素直に感心できず。

 ヨネダ2000は、好きにしてくださいという感じで特に言いたいことはなし。終わった後に、審査員がみんな「声がよかった」などとネタの内容ではなく表層的な部分だけを褒めていたのがおもしろかった。まあアドバイスするようなネタじゃないしなあ。

 Gパンパンダは「飲み会を断る新人」と「パワハラにならないように気を付けながら飲みに誘う上司」というきわめて現代的な設定のコント。前半の「本心がわかりづらい後輩」は嫌悪感をもったが、後半で後輩が本音を吐露するあたりからは一気に好感が持てた。つまり、まんまと芝居に引きこまれたわけだ。途中、上司役のほうが本気で笑ってたように見えたがあれは芝居なのか? 芝居自体は誇張されているが、登場人物の行動原理はとてもリアルでよかった。

 カベポスター。話が関係ない方向にそれるのだが、それた話のほうがおもしろくて気になってしまうという漫才。漫才って「ボケのおもしろさをツッコミがさらに引き立てる」が多いが、カベポスターの漫才は「ボケ単体ではまったくおもしろくないけどツッコミがいることでおもしろくなる」構成になっていることが多い。このネタなんかまさにそう。ふつうなら見逃してしまうおもしろさに、絶妙にスポットライトを当てて照らしてくれる。さらに、クイズがおもしろい→答えもおもしろい→「ですが」→クオリティ落ちた→クオリティ落ちたかとおもったら高かった、と照明の色がめまぐるしく変わるので飽きさせない。間の取り方も絶妙。いやあ、綿密に計算されたネタだ。

 決勝進出はカベポスター。個人的に好きだったのはGパンパンダだが、あれだけ高い完成度を見せられたらカベポスターの通過も納得。



■ 最終決戦

 カベポスター(大声大会)
 令和ロマン(トイ・ストーリー)
 こたけ正義感(法律用語をわかりやすく)

 カベポスターは相変わらずよくできたネタ。ハートフルな展開になるコントはよくあるけど、漫才ではめずらしい。「開催側がテコ入れ」など、終始やさしい漫才。カベポスターのネタはいつも平和だなあ。漫才もさることながら、永見さんは劇作家の才能があふれてる。

 令和ロマン。「子どもの泣き方の2番」は、個人的に今大会ナンバーワンのフレーズ。しかしこのネタは松井ケムリが延々泣きつづけるため、それは同時に持ち味である巧みなつっこみを封じるということである。漫才はつっこみで笑いをとるものなのに、それを封じてしまったらそりゃ勝てないわなあ。でも個人的には一本目より好きだった。

 こたけ正義感は法律用語を別の言葉に言い替えるというピンネタの定番のようなネタだったが、フレーズがことごとく観ている側の予想を下回っていた。たとえば裁判官⇒「おかあさん」の言い替え。なるほどと感心するほどしっくりくる言い換えでもないし、かといって「ぜんぜんちがうやん」という笑いになるほど遠くもない。絶妙に笑えないラインだったな……。


 優勝はカベポスター。納得。ずっとあと一歩だったのでもう優勝させてやりたい、という審査員の期待に応える見事なネタでした。

 個人的なベスト3は、天才ピアニスト、カベポスター(一本目)、Gパンパンダでした。


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2022年7月12日火曜日

問題はいい店すぎたこと

 何年か前の話。

 高校の同級生M(女・独身)から連絡があり、ぼくの仕事に関係して相談したいことがあるから会えないか、とのことだった。

 平日夜しか都合がつけられなかったので夕食でもいっしょにどうかとおもったが、こちらは既婚者。男女ふたりでディナーとなるとつまらぬ誤解を招くかもしれない。そこで共通の友人T(男)を誘って三人で食事をすることになった。

 Mが「わたしいいお店知ってるから予約しとくね!」と言うので店選びは任せた。ここまではいい。


 当日。駅でMとTと待ち合わせをして、Mの予約した店まで歩いた。到着して驚いた。「えっ、ここ……」

 悪い店ではない。いや、むしろいい店だった。問題は、いい店すぎたことだ。


 夫婦でやっているらしい小さなフレンチのお店。インテリアやメニューなど細部までこだわりが見える。

 メニューを開くと、はたしていちばん安いコースでも七千円する。ビール一杯八百円以上だ。

 Mはうれしそうに「この店のご主人と知り合いで、すっごくおいしいから」と語る。

 ぼくは内心「そりゃあおいしいでしょうね。七千円もするんですから……」と困惑していた。ちらりと隣のTを見ると、やはり困惑しきった顔をこちらに向けてきた。

「なんでこんな高い店……」彼の眼がそう語っていた。


 結局、なんやかんやでひとり一万円近い会計になった。

 店を出た後、帰る方向が別だったMと別れ、ぼくとTは「高かったな……」「ああ……」とつぶやきながら歩いた。


 そりゃあぼくだってフレンチの店ぐらいは行ったことがある。ひとり一万円を超えるコースを頼んだことだって(数えるほどだけど)ある。

 でもそれは、交際している彼女の誕生日とか、妻との結婚記念日とか、両親の銀婚式祝いとか、いってみれば特別な日の食事だった。

 ぼくとTが仕事の後に飲みに行くとしたら、ビール一杯三百円の店しか選ばない。

 しゃれたフレンチの店に行けばおいしい料理を食べられる。そんなことはわかっている。でもそれは友人と仕事帰りに行く店ではない。

 そりゃあMは独身だし、実家暮らしだから金に余裕はあるのだろう。とはいえふつうの会社員。ぼくらと桁がちがうほどの差はないはずだ。


 聞くところによると、女性は女同士の食事でもけっこう値の張るものを食べにいくものらしい。

 考えられない。男同士で古い友人と食事に行くとなったら、昼飯(ランチじゃなくて昼飯)で千円まで、晩飯と酒を入れてもせいぜい五千円ぐらいにおさめる。べつにおさめるつもりはなくても、自然とおさまる。だってそんなに高い店に行かないんだから。

 男女の食事に対する金銭感覚の差をまざまざと見せつけられた。高校の同級生(恋愛に発展しようがない相手)との食事で一万円出せるのか。

 ときどき「デートでファミレスはありかなしか」なんてテーマがネット上で話題になるが、友人との食事に一万円出す人からすると、そりゃあデートでファミレスに連れていかれたら別れるだろうな。


「女ってこわいな……」

 ぼくとTは駅までの道を歩きながらがっくりと肩を落としたのだった。



2022年7月11日月曜日

【読書感想文】村上 龍『「わたしは甘えているのでしょうか?」 〈27歳・OL〉』/ 悩みはつまり「めんどくさい」

「わたしは甘えているのでしょうか?」
〈27歳・OL〉

村上 龍

内容(e-honより)
「やりがいのある仕事についた友人に嫉妬する私をどう思いますか」「彼氏いない歴3年の26歳。将来が不安なのです」「同じように1万円使うなら、何に使えば『自分磨き』に有効ですか」―生活費、職場での人間関係、就職や転職などの若い女性の「バカバカしくも切実な悩み」に村上龍が全力で向き合った、希望と出合うヒントに満ちたQ&A集。

 若い女性からの悩みに村上龍氏が答えるという人生相談。

 村上龍氏に悩みを相談するってどうなんだ。いや小説家としては好きだけど。ふつうの人とはいろいろと感覚ずれてるような気がするぞ。会社勤めもしたことないし。でもそこがいいのかな。

 まあどっちにしろ、会ったこともない人に人生相談をする人の気持ちはぼくにはわからんけどね。




 仕事を続けていくべきか不安だ、という悩みに対する回答。

 本当はわかっているんです。彼女が何をしたいのか、僕にはわからないけれど、本人にはわかっている。でもそれを自覚するのが怖かったり、面倒だったりするから、おっくうになっている。
 やりたいことがはっきりしたら、そのためにすべきことは決まってしまいます。行動を起こさなければならないわけです。それりも曖昧な不安の中にいるほうが、ずっと居心地がいい。
 自分の人生について、いろいろな思いがある中から何かひとつを選ぶというのは、大げさに言えば人間の自由です。自由というのは面倒くさい。むしろ自由を取り上げて、「ああしろ、こうしろ」と指示されるほうがラクな場合だってあります。
 昔から人生相談というのはそういうものなのですが、こういう相談を誰かにするということは、どこかで「悪くない会社だから我慢しなさい」とか、「思い切って転職してみたら」とか、言われることを望んでいるんだと思います。そうすれば自分で考えなくてすむからです。でも、「自分は何がしたいのか」がわからない限り、何のアドバイスもできないんです。

 ずいぶん身もふたもない話で、「それを言っちゃあ人生相談が成立しないんじゃないの」と言いたくなるけど、こういうことを言っちゃうのが村上龍らしいというか。

 まあみんなそうだよね。相談した時点で、求めている答えはすでにある。表題の「わたしは甘えているのでしょうか?」は「そんなことないですよ」と言ってほしいだけなんだろうしね。

「今の仕事を続けていていいのか」と悩むってことは、「このままじゃたぶんよくない」ことは本人もわかってるんだろう。

 だったらさっさと転職活動をするなり独立するなり資格をとるなりすればいいんだけど、めんどくさいし今より悪くなる可能性もある。だから悩み相談をする。何かをやった気になるために。今より良くなるかどうかなんて自分自身でもわからないのに、会ったこともない人にわかるわけがない。


 人間にとって「めんどくさい」って気持ちは相当大きなものだとおもう。ほとんどの悩みは「めんどくさい」に帰結するんじゃないだろうか。転職するのはめんどくさい、離婚するのはめんどくさそう、嫌な人に注意したらめんどくさいことになるかもしれない……。




「サラリーマンと、年下のフリーター。どちらとつき合うのが有利でしょう。親からは、県本当に好きな男性と結婚しなさいと言われています。」
という悩みに対する回答。

この人は2人の中から好きなほうを選べる立場なんだと思っているようですが、本当にそうなんですかね。どちらにしようか迷っているということは、どちらもそんなに魅力がないということじゃないですか。どうしようもない男を2人も抱えてしまっているという視点も必要なんじゃないでしょうか。

 はっはっは。痛快!

 たしかになあ。コメディみたいに、二人の男が花束を抱えて「ぼくと結婚してください!」と言ってきたのならともかく、現実は単に二股かけているだけ。なぜ二股をかけるかといったら、どっちも最高の相手じゃないからだろう。

 こっちが二股をかけているように、相手のほうだって本気かどうかわからない。案外、二人とも「おまえとは身体の関係なだけで結婚とかは考えられないから」みたいな気持ちかもしれないよね。




 わりとドライというか、突き放すような回答が多い一方で、やっぱり村上龍もひとりのおっさんなのねえとおもう回答も。

 社長の親戚でコネ入社した上司からのパワハラに悩まされているという質問に対して。

 怒鳴るのも一種の暴力で、特定の人をターゲットにして、延々と怒鳴るのだったら、それは間違いなく暴力だから、訴えたほうがいいと思います。あまりにもそのストレスが大きくて仕事にならないなら、同僚と話し合って対策を考える、とか。いまは労働組合も力がないから、やり方はむずかしいかもしれないけど、黙って辞めることはないと思いますよ。
 そこまで深刻ではなくて、動物園のトラみたいに、ただグルグル回りながらワァワア言ってるだけだったら、「また始まった」と思って嵐が過ぎ去るのを待つ、という解決が現実的です。「どうせこいつはバカなんだから」と思って、やりすごすことができればいいんですけどね。
 上司は元開発部門? エンジニアなのかな。好意的に考えれば、ずっと理科系でやってきて、畑違いのセクションに回されて、イライラしてるのかもしれない。彼の得意分野のことでも質問してみたらどうですか。
 要は、プライドをくすぐってあげるわけですが、男は案外単純だから、いい改善があるかもしれませんよ。

 いくらなんでもこの回答はないだろう。

 パワハラには耐えなさい、そのつらさを軽減できるよう自分をごまかしなさい。これでは「奴隷の処世術」だ。

 こういう回答を聞いても何にもよくならないでしょう。「奴隷には奴隷の楽しさがあるからがんばってそれを探しましょう」って言われても。

 現実問題として上司が変わることはないだろうし、社長のコネで入社したんなら社内で解決するのはまず無理だろうし。録音して裁判して……とかいう道もないではないけど、それをして居心地のいい職場になるとはおもえないし。そもそもそんなことできる人なら相談してないだろうし。

 でも、「さっさと転職しなさい」ぐらいは言ってあげるべきじゃないのかね。「強者」である中高年男性の回答だなあ。




 あまりテレビや雑誌にヒョコヒョコでてくる人は信用しないほうがいい。本当にハッピーで充実していたら、べつにでる必要はないですから。これは偏見かもしれないけど、タレントでもないのにテレビにでる人って、すごく変な感じがするんです。
 ある意味で自分のプライバシーを売っているわけだから、基本的に寂しい人なんです。そういう人に影響を受けるのはよくないと思う。

『カンブリア宮殿』に出ていて、「作家としてはメディアによく出るほう」の村上龍がそれを言うかというのはおいといて……。


 ぼくには姉がいる。弟のぼくが言うのもなんだけど、すごく充実した人生を送ってる人なんだよね。明るくて、友だちが多くて、家庭円満で(たぶん)、仕事も大好きで、資格取ってどんどんキャリアアップしていて、地域の行事とかにも積極的に参加していて、家事も楽しんでいて、遊びにも出かけていて……とほんとにキラキラした人生を送っている人だ。ぼくとはぜんぜんちがう。

 で、その姉はSNSをやっていない。いやmixiもFacebookもやっていてぼくにも友だち申請が来たけど、まあ絵に描いたような三日坊主でまったくログインしていない(その証拠にこないだFacebookのアカウントを乗っ取られてサングラスの宣伝とかしてたのに本人は気づいてなかった)。あまりパソコンやスマホを使っていないらしい。仕事の連絡とか写真を撮るとかぐらい。

 何が言いたいかっていうと、ほんとに人生充実してる人ってのは、TwitterやInstagramやFacebookでたくさん発信してフォロワーいっぱいいる人じゃなくて、そもそもSNSをやっていない人なんだとおもうんだよね。人生が忙しくて楽しくてSNSをやる暇もないし、やる理由もない。「いいね」を集めなくても、仕事や家族や友だちや地域の人とのつながりで承認欲求が満たされるから。




 読む前は「なんで村上龍に人生相談するんだろう」とおもったけど、読み終わった後はもっと「なんで村上龍に人生相談するんだろう」とおもった

 ほんと、冷たいんだもん。「まあそんなもんですよね」ぐらいで済ませてまともに答えてないのも多いし、答えてるやつにしても「これは質問者が望んでいた答えじゃないんだろうな」と感じるようなものも多い。

 親身になっていない、それどころか親身になっているフリすらしていない。そこがある意味誠実と言えば誠実なんだけど。

 ぼくだったら、仮に人生相談したくなったとしてもこの人には相談しないなあ。鴻上尚史さんのほうがいいな。


【関連記事】

【読書感想文】一歩だけ踏みだす方法 / 鴻上 尚史『鴻上尚史のほがらか人生相談』

【読書感想文】老人の衰え、日本の衰え / 村上 龍『55歳からのハローライフ』



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2022年7月7日木曜日

わからないことが多い人

 賢い人とそうでない人の差は「わからないことが多いかどうか」だとおもう。

 むろん、「わからないことが多い人」が賢い人だ。


 考えることが苦手な人は「わからない」を遠ざける。

  • そもそもわからないものには近づかない
  • 勝手な解釈でわかった気になる
  • 「わかりやすい」説明をしてくれる人の言うことを信じる

 こんなやりかたで、わからないものを視界の外に置く。むりやり「わかった」箱に片づけてしまう。


 考えることに慣れている人は、わからないを忌避しない。そりゃあ誰だってわからないのは嫌だ。わからないよりわかったほうがいい。でも、ちゃんとわからないものを「わからない」箱にしまっておく。

 そうすると、いつかわかる日が来るかもしれないし、少なくとも「わかった気になる」ことだけは避けられるようになる。


 賢い人の話や本には「これはまだわかりません」「~という説が有力ですが他の説もあります」「ここまではわかっています」といった言い回しがよく出てくる。

 どこまでがわかっていてどこからがわからないか。その間に線を引けることこそが知性なのかもしれない。


 人間は本質的に「どっちつかずの状態」が嫌いなんだとおもう。だから白黒つけたがる。

 原発再稼働は是か非か。減税は是か非か。政権交代は是か非か。

 こういう賛否両論ある問題に、賛成あるいは反対の声を躊躇なくあげられる人をぼくはあまり信用しない。

 世の中はあまり単純にできていない。もちろん、絶対的にダメなものはある。「原発を動かしてメンテナンスはやめよう」なんてのは100%ダメだ。でも絶対的にいい案はない。どの案にも一長一短あるし、どうしたって不確実な部分は残る。

 だから「いい面もあるし悪い面もあるしよくわかんないけど、今のところはこっちのほうがいいんじゃないかな」あたりが知的に誠実な態度だ。

「絶対にこっちが正しい! 反対するやつはバカ!」という態度こそがバカだ。


 幼児なんだよね。何にでも答えを知りたがるって。

 空はどうして青いの? という問いに対してたったひとつの答えが得られるとおもっている。

 そりゃあ光の屈折とか光の波長とか人間の眼の構造とかいろいろあるんだろうけど(ぼくはよく知らないからそれっぽいことを並べてるだけだ)、「それはなぜ?」「それはどうして?」をつきつめていけば、最後は「わからない」にたどりつく。きっと詳しい人ほど「究極的にはわからない」になる。

 ありとあらゆることが「〇〇は××だから!」で済むとおもっているのは、五歳児だけだ。そう、『チコちゃんに叱られる』がああいう番組になっているのは制作陣は全員五歳児並みの知性しかないからだ。自分たちでそう言ってるし。



2022年7月6日水曜日

いちぶんがく その14

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




「庶民というのは、一度御馳走を出してもらうと、いつでも出してもらえると思い込み、出てこないと文句をいうものだ」。

(東野 圭吾『マスカレード・ホテル』より)





そのため、国を問わず時代を問わず、集団の指導者は、その集団が失敗したときには、外国人つまり「敵」にたいする憎しみをあおることによって集団の凝集性を高めようとするのがつねである。

(M・スコット・ペック(著) 森 英明(訳)『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学』より)





人間以外はこれまでどおりの世界。

(小林 賢太郎『こばなしけんたろう』より)




昔の生物は死ななかった。

(更科 功『残酷な進化論 なぜ私たちは「不完全」なのか』より)




あたしゃこんな悪魔みたいな男、知りませんよ。

(渡辺 容子『左手に告げるなかれ』より)




関西人なら「ごっつ簡単でんな!」というところでしょう。

(藤岡 換太郎『山はどうしてできるのか ダイナミックな地球科学入門』より)




だいたいチビだし、威圧的じゃないし、声だってソフトだし、怒鳴ったりしないし。

(上野 千鶴子『女の子はどう生きるか 教えて、上野先生!』より)




「ここの留置場は、わりと寝心地がいいっていう話だから」

(東野 圭吾『マスカレード・イブ』より)




自分がこんなに苦労しているのだから、はたらかない人間も同じように苦労をすべきだ。

(井手 英策『幸福の増税論 財政はだれのために』より)




「興味を惹くものがあって、どう扱っていいかわからない場合、殺してしまう」

(花村 萬月『笑う山崎』より)





 その他のいちぶんがく


2022年7月5日火曜日

【読書感想文】廣末 登『ヤクザになる理由』 / 暴力団員はルールを守りたい

ヤクザになる理由

廣末 登

内容(e-honより)
グレない人。グレたが更生した人。グレ続けてヤクザになった人。人生の分岐点はどこにあるのだろうか。元組員たちの証言から、その人生を丹念に辿り、家庭、学校、仲間、地域、個人的資質等が与える影響を浮かび上がらせる。自身、グレていた過去を持つ新進の犯罪社会学者による入魂の書。


 ぼくはヤクザではないし、ヤクザだったこともない、ヤクザの知り合いもいない(ぼくが知らないだけであの人やあの人がほんとはヤクザなのかもしれないが、こわいので考えないことにしている)。

 なので、ヤクザだとか暴力団なんていうのはまるっきりフィクションの中の話だ。魔法使いとか宇宙警察とかと同じようなものだ。

 でも魔法使いや宇宙警察とちがって、ヤクザは実在するらしい。魔法使いや宇宙警察もぼくが見たことないだけで実在するのかもしれないが(科学的態度)。

 溝口 敦・鈴木 智彦『教養としてのヤクザ』によると、今どきのヤクザはやれ拳銃だやれ博打だやれ覚醒剤だという感じではなく(そういうとこもないではないのだろうが)タピオカや精肉や漁業や原発などさまざまな産業に入りこんで稼ぎを上げているらしい。そうなると、ぼくらも間接的にヤクザとかかわっていることになる。我々がスーパーで買う肉や魚が、ヤクザの利益になっているかもしれないわけだ。


 そんな〝誰もが存在は知っているけど実態はよく知らない〟ヤクザの入口について書かれた本。

 多くのヤクザとつながりのある筆者が実際に見聞きした話をもとに、どういう人がどういう流れを経て、ヤクザになるのかについて書かれている。




 結論から言うと、「ヤクザになる理由」は意外性のないものだった。両親不在、貧困、ヤクザの多い地域などの悪環境で育った子どもが学業ができず中学生頃から学校(他生徒というより教員や授業)になじめず、非行グループを作って窃盗や喫煙やシンナーなどをおこない、その中でも特に悪いやつが先輩から声をかけられてヤクザになる……。

「うん、でしょうね」と言いたくなるようなコースだ。「だいたい想像していた通り」だ。もちろん例外はいろいろあるんだろうけど……。


 あくまで傾向の話ではあるが、グレる理由としては「子どもの頃の環境」が大きいそうだ。

 中でも重要なのは、家庭環境だ。

 暴力団研究の第一人者である元科学警察研究所防犯少年部長の星野周弘は、家族の放置や貧困といった現象のことを「家庭内の病理現象」と捉え、次のような指摘をしています(『社会病理学概論』学文社 一九九九年)。
 まず、核家族化が進むと、家庭内に生産力のある人が少なくなる。そのため世帯の経済的負担や構成員の家事の負担が増す。祖父母のような人生経験が豊かな人がおらず、母親が孤立することで育児ノイローゼを誘発しやすくなる。さらに少子化ゆえの過保護が発生することが多く、子どものしつけの怠慢を生みやすくなる。また、単親家庭では貧困やしつけの不足、お手本となるきょうだいや大人(役割モデル)の欠如が生む社会化不全、愛情飢餓といった問題が生じやすい―これが星野の主張です。
 核家族の場合、親の一人が仕事や病気などの事情で家庭から長期間いなくなると、単親と子供だけの家族になってしまいますが、そうなるとさまざまな問題が生じやすい、というわけです。

 もちろんひとり親世帯で道を踏み誤ることなくまっとうに育っている子も多いことは当然のこととして……。

 自分が親になってわかるのは、子育てに重要なのは「マンパワー」だということだ。経済力とか親の学力とか教育熱心さとかは些細なことだ。「親が子どものために使える時間」はすごく大事だ。

 ぼくは、毎晩子どもに絵本を読み、風呂や食事の席で子どもの話を聞きだしたり質問に答えたりしている。勉強のわからないところは教えてやり、宿題をちゃんとやっているかをときどきチェックしている。週末には公園や図書館に連れていって、いっしょに遊んだり身体の動かし方を教えたりしている。家でテーブルゲームをしたりパズルを教えたりもしている。ぼくの親がやってくれたように。

 それができるのは、ぼくに時間的余裕があるからだ。ぼくが子どもを見ている間の家事は妻がやってくれるし、ぼくの仕事は残業がほとんどない。土日祝も休めるし夜勤もない。

 でも、ワンオペで家事・育児をしなくちゃいけなかったり、長時間労働や単身赴任を強いられていたら、とてもそんな余裕はないだろう。仕事をして、子どもに飯を食わせて風呂に入れて寝かせるだけでせいいっぱいだ。

 ちゃんと勉強できているかを確認する、できていなければつきっきりで教えてあげる、なんなら自分が率先して勉強している姿を見せてやる。そんなことができるのは時間に余裕がある親だけだ。たとえ教育熱心で、親自身の学力が高かったとしても、時間がなければ不可能だ。

 いやあ。親をやってみてわかったけど、学校教育ってめちゃくちゃありがたいなあ。そこそこの教養のある親なら、学校で教えているようなことの大半は家庭でも教えられるだろう。無限の時間があれば。でも無限の時間はない。代わりに学校がやってくれる。しかも無償で。ありがてえ。

 



 ですから、再度強調しておきたいのは、有機的に縒り合わせられたロープの始点は社会的な要因であるということです。
 つまり家庭の機能不全です。子供は生まれてくる家庭を選ぶことはできない以上、その意味でこれは運命的な要因ともいえるのではないでしょうか。個人は、その運命的、不可避な要因としての家庭の質、そして、そのような家庭で不完全に社会化された結果、帰属を余儀無くされた社会集団、そこにおける社会的価値観への適応等々の諸要因が結節して、暴力団加入に導かれるのです。

 このブログにも何度か書いているけど、ぼくは「子育ては家庭でやるべきじゃない」とおもっている。いや、家庭でやるのはいいんだけど、もっとアウトソーシングした方がいいとおもう。幸か不幸か、少子化で子どもの数は減っているわけだし。

 経済的にも時間的にも余裕があって熱意もある親は子育てしたらいいけど、「子育ては親がやるもの」という考えは捨てたらいいとおもう。

 料理といっしょ。やりたい人は家でやればいい。でも無理にやらなくてもいい。すべて外食や中食で済ませたっていい。子どもの面倒も誰かが見ればいい。公立小学校で寄宿舎制度をつくったっていいんじゃないだろうか。で、気楽に利用したらいい。「平日は寄宿舎に行かせる」とか「寝るときだけ家に帰るけど食事は寄宿舎で済ませる」とか「親が夜勤のある日だけ寄宿舎に行かせる」とか。学童保育みたいなもんだね。

 こういうこと言うと、「子どもがかわいそう」なんてことを言う輩が出てくるんだけどね。でも、どうしようもない親のもとに生まれ育つほうがよっぽどかわいそうでしょ。『ヤクザになる理由』に出てくる元ヤクザたちも、そのほとんどは別の家庭に生まれてたらヤクザにならなかっただろうよ。

 そもそも親だけで子育てをしていた時代なんて、せいぜいここ数十年ぐらい。親以外の人も含めて子育てをしていた時代のほうが圧倒的に長い。「子育ては親がやるもの」という考えはそろそろ社会全体で捨てないといけないとおもっている。


 うちの子らは一歳から保育園に通っていた。平日は家で親と過ごす時間よりも保育園にいる時間のほうが長かった。

 これだって「ちっちゃい子はおかあさんといっしょにいないと」教の信者からするとかわいそうだとおもうんだろう。でもぼくは保育園に入れてつくづくよかったとおもう。親自身が助かっているのももちろんあるが、子ども自身のためにも。集団で暮らすほうが学べることは圧倒的に多い。子育てド素人の親よりも、プロの保育士のほうがぜったいにしつけはうまいわけだし。

 仮にぼくが働かなくても食っていけるぐらいの大金持ちだったとしても、やっぱり子どもは保育園に預けたい(働いてなかったら預かってくれないだろうけど)。

 就学年齢以上向け保育園みたいなのがあってもいいとおもうよ。

 



 非行集団のメンバーたちは、通常の活動――様々なタイプの暴力や窃盗(ギャングファイト、自動車窃盗、コソドロ、万引き、カツアゲ等々)――が法に違反することを知っています。彼らは精神病質でも、身体的、精神的欠陥を有しているわけでもありません。正気で違法行為を繰り返しているのです。
 非行集団は、独自の基準を定め、メンバーはそれを支持し、共有し、実行することが求められます。メンバーであり続けるには、高度の適合性と個人的能力が必要です。ゆえに、若者ギャングは、近隣のコミュニティ・メンバーの中から、最も「有能」な若者を勧誘する傾向が認められるのです。
 一般社会からは、無軌道、無秩序に見える非行集団ですが、ミラーはそうではない、と主張しているわけです。非行集団が犯罪を遂行するにあたっては、グループの基準や下層階級のモノサシにかなっていることが前提であり、集団内で評価されない行為は避けられるのです。

 暴力団や暴走族について、ふしぎにおもっていたことがある。

 社会のルールを守りたくない人が集まる組織なのに、どんな組織よりも厳しい掟があり、それに従っているのはどうしてだろう? と。

 暴力団や暴走族に入ったことはないけど、聞くかぎりではとにかく厳しい世界らしい。ボスや先輩の言うことには口答えしちゃいけないとか、集まりにはぜったいに参加しなきゃいけないとか、朝から晩まで拘束されるとか。

 どう考えたって、学校や会社のほうが楽だ。教師や上司に多少生意気な口を聞いたって殴られたりはしないし。拘束される時間も短いし。理不尽な目に遭ったら警察や労基署に駆け込むという道もある。暴力団だったらそういうわけにもいかないだろう。

「ルールを守らなくちゃいけない」のも「イヤなやつに頭を下げなくちゃいけない」のも「自分を押し殺さなくちゃいけない」のも、学校や会社よりも暴力団のほうがずっと厳しい。

「社会のルールを守りたくないから行き当たりばったりの犯罪に手を染める」ならまだわかるけど、「社会のルールを守りたくないからもっと厳しい掟に支配される世界に入る」ってのは理解できない。


 でも、この本を読んで少しだけ理解できた気がする。

 著者は、こう書いている。

一般社会において自尊心の低下を経験した者が、新たな帰属集団において自尊心の回復を希求するとき、暴力団に加入する傾向がある

 結局、学校や会社とは別のつながりを求めているんだろうね。ひとりはイヤだから組織には属したい。でも学業で評価される世界では勝てる気がしない。だから別の土俵を求めて暴力団に所属する。そこなら勉強ができなくても出世できるチャンスがあるから。

 暴力団に入る人というのは、すごく上昇志向が強いんだとおもう。そうじゃなかったらわざわざ厳しい世界に身を置かないもの。サラリーマンやフリーターのほうがずっと楽だもん。学校や一般企業では勝てない。でも勝ちたい。だから、少しでもチャンスのある世界に行く。

 暴力団に入るためのそもそもの動機は「野球選手になりたい」「芸術家になりたい」「芸能人としてスターになりたい」ってのとそんなに変わらないんだろうね(だから野球選手や芸能人がヤクザとつながりやすいのかも)。


 だからさ。

 勉強以外にも、学校に「音楽コース」とか「芸人コース」とか「漫画家コース」とか「YouTuberコース」とか上を目指すための道がいろいろあれば、〝新たな帰属集団において自尊心の回復を希求〟が満たされて暴力団に入る人が減るかもね。

 いや、SNSなどで帰属集団を作りやすくなったことで、既にそうなっているのかもしれない。


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2022年7月4日月曜日

さかあがりのコツ

 長女が五歳のとき。

 保育園の友だち何人かが鉄棒のさかあがりをできるようになった。娘はできない。

 公園の鉄棒で練習をするが、できない。

 傍から見ているとぜんぜんできそうな気がしない。身体と鉄棒が離れている。これではどれだけ脚を上げても回れるわけがない。

 自分も子どものときのことを思いだした。


 ぼくもさかあがりができなかった。二年生のときだったか。クラスの半分以上はできるようになっていたので、あせっていた。

 母と姉と公園で練習した。母や姉から「がんばれ!」「もっと蹴って!」「もっと脚上げて!」などと言われるが、どれだけ言われてもぜんぜんできるようにならない。がんばってできれば苦労はしない。

 結局できるようになったのだが、できたときのことはちっともおぼえていない。おぼえているのは、母や姉から叱咤された嫌な思い出だけだ。


 自分がした嫌な思いを我が子にさせたくない。がんばっている人に「がんばれ!」なんて言いたくない。

 スマホで「さかあがり コツ」で検索した。すぐにいろんな記事が見つかった。とにかく腹筋が大事なのだとわかった。腹筋が弱いと脚が上がらない。脚が上がらなければ回れない。

 腹筋を鍛えるための運動方法も載っていた。仰向けに寝そべり、脚を上げる。脚を地面すれすれまで下ろし、数秒静止。その後ゆっくり上げる。これがいいらしい。

 風呂上がりに、娘といっしょにこの運動をする。二週間ぐらいやっているとあっさりさかあがりができるようになった。

 実にかんたんなことだった。必要なのは鉄棒の前でがんばることじゃない。もっと蹴ることじゃない。もっと脚を上げようとおもうことじゃない。毎日の腹筋運動だった。


 ぼくたちは、さかあがりをするときも、自転車に乗るときも、野球をするときも、身体の動かし方なんて意識していない。何も考えずにやっている。だから教えられない。

 おまけに、扱えるのは自分の身体だけだ。自分より手足の短い身体や、軽い身体や、筋力の少ない身体の扱い方はわからない。

 そんなド素人が、子どもに身体の動かし方を教えるのはむずかしい。

 だけど今は教えるプロの書いたものを、ごく手軽に、かつ無料で読めるようになった。いい時代だ。動画で観ることもできる。

 同じようにネットでコツを検索して、ぼくは娘に自転車の乗り方や一輪車の乗り方やテニスのラケットの振り方を教えた。

 おかげで娘は、スポーツ全般が「得意でもないが苦手でもない」ぐらいになっている。ぼくが子どものときは中の下ぐらい、妻は下の中ぐらいだったそうなので、それをおもえば上出来だ。


 「できる」と「教えられる」はまったくべつの能力なのに、前者ができれば後者もできると勘違いしてしまいがちだ。

 教師ですら勘違いしている人が多い。ぼくが小学生のときには「さかあがりができなければ腹筋を鍛えろ」なんて教えてくれる先生はいなかった。

 子どものときのぼくに教えてあげたかった。

 そしたら今頃ぼくの名前のついた鉄棒の技ができていたのに。