2019年6月28日金曜日

虚言癖の子ども


娘の保育園の友だちに、Tちゃん(五歳)という子がいる。

あるとき、娘とTちゃんが鉄棒で遊んでいた。
娘はいちばん右端、Tちゃんは左端。
Tちゃんが手を滑らせて鉄棒から落ち、顔を地面に打って泣きだした。

それを見ていたぼくは、泣きわめくTちゃんを抱きかかえて、少し離れたところにいるTちゃんのおかあさんのところに連れていった。
おかあさんはTちゃんを家に連れてかえった。


翌日、Tちゃんのおかあさんに会ったので
「Tちゃん大丈夫でした?」
と尋ねた。
Tちゃんのおかあさんは「大丈夫でした。ありがとうございました」と言った後で、言いにくそうにこう口にした。

「Tが、Mちゃん(ぼくの娘)に突き落とされたって言ってるんですけど……」

ぼくはびっくりした。
事実無根だ。現場を見ていたのだからまちがいない。
「いやいやいや、落ちるとこを見てましたけど、そのときうちの娘とTちゃんはぜんぜん離れたところにいたので、押してなんかいませんよ!」

Tちゃんのおかあさんは「すみません」と頭を下げて、
「T! なんでそんな嘘つくの! Mちゃんに謝りなさい!」とTちゃんをきつく叱った。

ぼくはまだ驚いていた。
どうしてそんな嘘をつくのだ。

Tちゃんのおかあさんが言ってくれたから嘘だと判明したけど、そうでなければうちの娘が「友だちを鉄棒から突き落としてケガをさせたやつ」という汚名を着せられるところだった。
Tちゃんのおかあさんも言いにくかったとおもうが、言ってくれてよかった。おかげで誤解が解けた。
ぼくだったら黙って距離をとっていただろう。



また別の日。

Tちゃんのおかあさんと話していると、Tちゃんが通っていたプール教室をやめたと聞いた。

「なんでやめたんですか?」
と訊くと、
「Tちゃんが、プールのコーチにおぼれさせられたっていうんで。そんなところに通わせられないなとおもって」
とのこと。

えっ。

とっさにぼくがおもったのは「それまたTちゃんの嘘では……」ということ。

プール教室でコーチがわざと幼児をおぼれさせるなんてことするだろうか。
プール教室には他の子やコーチもたくさんいる。窓ガラス越しに保護者が見ることもできるそうだ。
もちろん真相はぼくにもわからないが、99%嘘だろう、とぼくはおもった。
せいぜい「Tちゃんがおぼれてしまったことに気付くのが遅れた」ぐらいだろう。それをTちゃんが「おぼれさせられた」といったんじゃないのか。

子どもなんて平気で嘘をつくし、自分が嘘をついたという自覚すらなくしてしまう。
だからTちゃんがそういう嘘(たぶん)をついたことはそれほど驚くに値しない。

それよりぼくが驚いたのは、Tちゃんのおかあさんが「プールのコーチにおぼれさせられた」というTちゃんの言葉を全面的に信じていることだった。

ぼくだったら「自分の子が嘘をついているんだろうな」とおもうし、仮に「万が一ということもあるから念のためプール教室を退会させよう」となったとしても「娘がコーチにおぼれさせられた」なんて不確かかつ他人に迷惑をかける情報(ソースは五歳児の発言のみ)を他人に言ってまわったりしない。

いや、それ信じちゃうの……?

こんなこと言ったらアレですけど、おたくのお子さん、ちょっと虚言癖があるんじゃないでしょうか……。
それなのに、信じちゃうの……?

いや、ちがうか。
「Tちゃんに虚言癖があるのにおかあさんが信じてしまう」のではなく、「おかあさんがなんでも信じてしまうからTちゃんが真っ赤な嘘をつくようになった」なんじゃないだろうか。
おかあさん、素直すぎるでしょ。悪い意味で。


とおもったけど、もちろんぼくは何も言わなかった。
こわいのでTちゃん母子とは距離を置いたほうがいいな、とおもっただけだ。


2019年6月27日木曜日

【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』

民主主義

文部省

内容(e-honより)
「民主主義」―果たしてその意味を私たちは真に理解し、実践しているだろうか。昭和23年、文部省は新憲法の施行を受けて当代の経済学者や法学者を集め、中高生向けに教科書を刊行した。民主主義の根本精神と仕組み、歴史や各国の制度を平易に紹介しながら、戦後日本が歩む未来を厳しさと希望をもって若者に説く。普遍性と驚くべき示唆に満ちた本書はまさに読み継がれるべき名著といえる。全文収録する初の文庫版!

昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。
民主主義とは何か、なぜ民主主義の社会であるべきなのか、民主主義を根付かせるには何をしたらいいのか。こうしたことが丁寧に書かれている。教科書でありながらすごく重厚な本だ(刊行されたときは上下巻だったそうだ)。

昭和二十三年ということはまだ日本は独立国ではなく連合国の占領下にあった時代。
当然この教科書もGHQのチェックが入った状態で書かれたはずだ。

軍国主義の大日本帝国がこてんぱんにやられ、民主主義という新しい風が吹き込んでくる。その中で、当時の学者や官僚が若者に対してどんなことを期待をしていたのか。
この本を読むと、当時の「新しい時代の幕開け」という空気が感じられる。
当時の国の中枢にいた人たちが、いかに日本が民主主義国家として生まれ変わることに期待してひしひしと伝わってくる。

残念ながらその期待は七十年たった今もかなえられていないけれど。



七十年前に刊行された本だが、驚くほど今の世の中にあっている。
悲しいことに。
そう、ほんとに悲しい。
「七十年前はこんなことをありがたがっていたのか」と言える世の中であってほしかった。
「この頃は国民主権があたりまえじゃなかったんだねえ。政府が国民を押さえつけようとしていたなんて今では考えられないねえ」と言える世の中であってほしかった。


『民主主義』の中で「こんな世の中にしてはいけない」と書かれている社会に、今の日本はどんどん近づいている。
 全体主義の特色は、個人よりも国家を重んずる点にある。世の中でいちばん尊いものは、強大な国家であり、個人は国家を強大ならしめるための手段であるとみる。独裁者はそのために必要とあれば、個人を犠牲にしてもかまわないと考える。もっとも、そう言っただけでは、国民が忠実に働かないといけないから、独裁者といわれる人々は、国家さえ強くなれば、すぐに国民の生活も高まるようになると約束する。あとでこの約束が守れなくなっても、言いわけはいくらでもできる。もう少しのしんぼうだ。もう五年、いや、もう十年がまんすれば、万事うまくゆく、などと言う。それもむずかしければ、現在の国民は、子孫の繁栄のために犠牲にならなければならないと言う。その間にも、独裁者たちの権力欲は際限もなくひろがってゆく。やがて、祖国を列国の包囲から守れとか、もっと生命線をひろげなければならない、とか言って、いよいよ戦争をするようになる。過去の日本でも、すべてがそういう調子で、一部の権力者たちの考えている通りに運んでいった。
 つまり、全体主義は、国家が栄えるにつれて国民が栄えるという。そうして、戦争という大ばくちをうって、元も子もなくしてしまう。

美しい国にしよう、国家秩序のために基本的人権を制限しよう、と叫ぶ連中が幅を利かせている。
増税や社会負担増加で今は苦しくても国家が経済的に成長すればやがては楽になる。君たち庶民もいつかはトリクルダウンにあずかれるのだから耐えなさい。

今の日本を支配しているのは、まさにここに書かれている「全体主義」そのものだ。

情報伝達手段は発達したはずなのに、資料は廃棄され、データは捏造され、公共放送機関は人事権という金玉を政府に握られ、権力者はなんとかして情報を隠そうとする。
 これに反して、独裁主義は、独裁者にとってつごうのよいことだけを宣伝するために、国民の目や耳から事実をおおい隠すことに努める。正確な事実を伝える報道は、統制され、さしおさえられる。そうして、独裁者の気に入るような意見以外は、あらゆる言論が封ぜられる。たとえば馬車うまを見るがよい。御者はうまが右や左を見ることができないように、目隠しをつける。そうして御者の思うとおりに走らなければ、容赦なくむちを加える。馬ならば、それでもよい。それが人間だったらどうだろう。自分の意志と自分の判断とで人生の行路をきりひらいてゆくことのできないところには、民主主義の栄えるはずはない。

個人的には「熱い正論をふりかざす人間」が苦手なのだが、今の世の中に欠けているのは理想論なんじゃないかとおもう。

こういうことって今、誰も言わないでしょ。
人権は大事だ、一人の生命は地球より重い、権力は弱者のためにこそ使うべきである。

そんなことあたりまえだとおもっているから誰も口にしない。
でもほんとはあたりまえじゃない。我々が享受している自由は先人たちの不断の努力によって支えられてきたもので、天からふってくるものじゃない。気を抜くと権力者によってすぐに奪われてしまうものだ。
めんどくさくてもちゃんと正論を言わなきゃいけない。

ぼくは星新一作品を読んで育ったので熱い意見に冷や水をぶっかけるような「シニカルな視点」が好きなのだが、シニカルな意見がおもしろいのは熱い議論があってこそだ。
みんなが冷や水をぶっかけてたら風邪をひいてしまう。

今って、国のトップに立つような人たちですら
「現実的に全員を救うのはムリっしょ」
「世界平和なんか達成されるわけないっしょ」
「立場がちがう人と話しあったってムダっしょ」
みたいなスタンスじゃないですか。
理想とかビジョンに興味がないし、そのことを隠そうともしない。
作家だとか落語家だとかが片頬上げながらそういうこというのはいいけど、でもそれを政治家がいったらおしまいでしょ。

「愛は地球を救う」ってのはきれいごとすぎて気持ち悪いけど、でももしかしたら愛は地球を救うんじゃねえかって気持ちも一パーセントぐらい持っておきたい。
ひょっとしたらほんとに愛が地球を救うかもしれない。そういう夢を見せてくれるのが政治家の仕事なんじゃないかとこのごろはおもっている。



この本、前半はビジョンを提示し、中盤以降は諸外国の民主主義の成り立ちや日本における政治・社会の変遷をたどることで民主主義国家の実現に向けた方法論を考察するという構成になっている。

この構成がすばらしい。ただきれいごとを語るだけではなく、過去の失敗例や外国の事例なんかがあることで具体的に考えるための手助けになっている。
GHQ検閲下にあったはずなのにアメリカの制度を手放しで褒めているわけではないのもすばらしい。
ほんとよくできた教科書だ。

 だからイギリスは君主国ではあるが、政治の実際の中心を成すものは議会である。中でも、国民によって選ばれ、国民を代表しているところの庶民院である。庶民院を中心とするイギリスの議会は、立法権を持った最高の国家機関であって、同時に、政府の行ういっさいの行為を批判するという重大な役割を果たしている。政府は議会の多数党の支持を受けているが、議会にはかならず反対党があって、政府の政策を常に批判し攻撃する。
 これに対して、政府は、くり返してその政策を説明し、弁解し、擁護しなければならない。政府は、それによってたえずその政治方針が正しいかどうかを反省することになるし、国民は、それによって常に政治問題の中心点に批判の目を注ぐこととなる。このような政治上の議論が公明に行われる舞台として、議会は最も重要な機能を果たしているし、イギリスの議会は、この重要な任務を模範的に遂行しているといってよい。

よく「野党はなんでもかんでも反対してばかりだ」といって揶揄する人がいる。

ぼくは「野党はなんでもかんでも反対」でもいいとおもっている。野党が賛成ばかりになったらもうその国の民主主義は終わりだ。
自民党が下野したときも与党案に反対ばかりだった。それでいいのだ。反対意見にさらに反論することで議論が深まり、より完成度の高い法案ができる。

学生が論文を書いたら、指導教官がそれをチェックする。疑問を投げかけたり不備を指摘したり書き直しを命じたりする。
それを受けて学生は論文を書きなおす。より説得力を増した論文ができあがる。
この肯定を「教授は人の論文にケチをつけてばかりだ」といって否定する学生がいたらバカだとおもわれるだけだろう。法案も同じだ。



ぼくはこないだ「民主主義よりもっといいやりかたがあるんじゃないか?」という記事を書いた。
 → 「いい独裁制」は実現可能か?

この本では、そういった反論も予想した上で、それでもやはり民主主義が最善だと結論づけている。
 人間は神ではない。だから、人間の考えには、どんな場合にもまちがいがありうる。しかし、人間の理性の強みは、誤りに陥っても、それを改めることができるという点にある。しかるに、独裁主義は、失敗を犯すと、かならずこれを隠そうとする。そうして、理性をもってこれを批判しようとする声を、権力を用いて封殺してしまう。だから、独裁政治は、民主政治のように容易に、自分の陥った誤りを改めることができない。
 これに反して、民主主義は、言論の自由によって政治の誤りを常に改めてゆくことができる。多数で決めたことがまちがっていたとわかれば、こんどは正しい少数の意見を多数で支持して、それを実行してゆくことができる。そうしているうちに、国民がだんだんと賢明になり、自分自身を政治的に訓練してゆくから、多数決の結果もおいおいに正しい筋道に合致して、まちがうことが少なくなる。教育がゆきわたり、国民の教養が高くなればなるだけ、多数の支持する政治の方針が国民の福祉にかなうようになってくる。そういうふうに、たえず政治を正しい方向に向けてゆくことができる点に、言論の自由と結びついた多数決原理の最もすぐれた長所がある。民主主義が、人類全体を希望と光明に導く唯一の道であるゆえんも、まさにそこにある。

ぼくは二大政党制を支持していない(当然小選挙区制も)。
それは、まちがいを認めなくさせるシステムだからだ。

政治における過ちは、ミスを犯すことではない。ミスを犯したことを隠すことだ。
「過ちを隠したい」という気持ちは誰しも持っている。それはなくせない。「権力者は過ちを隠そうとする」という前提で制度の設計をするしかない。

二大政党制は、為政者のミスで政党全体の権力が失われてしまうので、政党レベルで「ミスを覆い隠そうとする」力がはたらく。
集団が全力でミスを覆い隠そうとした場合、それを暴くのは並大抵のことではない。たとえば個人の殺人はほぼ間違いなく犯人が検挙されるが「村ぐるみで一致団結して殺人を覆い隠そうとした」場合はかなりの確率で逃げおおせることができるだろう。

民主主義国家にとって必要なのは嘘がばれやすくする仕組みなのだが、二大政党制は不都合な事実を隠蔽しやすくさせる。

党内で常に権力闘争が起こっているかつての自民党の状況のほうが、むしろ健全(いちばんマシ)なんだったとつくづくおもう。



人類の歴史を見ても、権力者が他者の人権を制限してきた時代のほうがずっと長かった。
今は「たまたま、例外的に民主主義が保たれているだけ」だ。

この本には「明治憲法の下でも民主主義国家になることはできた」と書いてある。少なくとも明治憲法をつくった人たちは国民主権の世の中にしたいという高邁な精神を持っていたはずだ。
けれど明治憲法にはいくつかの不備があり、二・二六事件などをきっかけにあっという間に軍部の暴走を許すことになった。今の日本国憲法も完璧ではない。その穴を拡げる改憲をしようと目論んでいる政治家もいる。
ちょっとしたことをきっかけに民主主義は崩されてしまうだろう。


すごくいい本だった。
今の中高生にこそ読んでほしい(まさかこれを読まれたら困ると考える為政者はいないよね?)。

しかし、戦争を経験している世代が民主主義の大切さを唱えていたのに、こういう教育を受けてきた世代が大臣や総理になったとたんに崩壊しはじめるってのはなんとも皮肉な話だよね。
教育って無力なのかもしれないと絶望的な気持ちになる。

まあ、今の二世三世大臣たちがまともに学校教育を受けていなかっただけ、という可能性も大いにありそうだけど……。

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2019年6月26日水曜日

【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』

会計が動かす世界の歴史

なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか

ルートポート

内容(e-honより)
“お金”とは何か?私たちの財布に入っているお金には100円、1000円、10000円などの価値がつけられています。しかし、ただの金属、紙切れにすぎないものをなぜ高価だと信じているのでしょうか。貨幣や紙幣に込められた絶大な影響力―。その謎を解く手がかりは人類と会計の歴史のなかにあります。先人たちの歩みを「損得」という視点で紐解きながら「マネーの本質を知る旅」に出かけましょう。

おもしろい本だった。

この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。

ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。



 私たち人類が記録を残すようになったのは、歴史や詩、哲学を記すためではありません。経済的な取引を残すために、私たちは記録のシステムと、そして文字を発明したのです。
 さらに注目すべきは、これがお金――金属製の硬貨――が発明されるよりも、ずっと以前のできごとだということです。
 貨幣としての硬貨が登場したのは、紀元前7世紀ごろのリディア(現・トルコ領)というのが西洋では定説になっています。しかし、それよりもはるかに古い時代から人々は「簿記」を使って取引をしていたわけです。
 お金よりも先に文字があり、文字よりも先に簿記があったのです。

漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。

なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。

でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。

「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。



 一般的には「農耕の開始によって人類は豊かになった」というイメージがあります。約1万年前、貧しい狩猟採集生活を憂えた私たちの先祖は、素晴らしい創造性を発揮して、豊かな農耕定住生活を手に入れたのだ、と。
 しかし最近の研究では、まったく異なる姿が明かされつつあります。
 気候変動によって狩猟採集で得られる動植物が減り、さらに人口増加によって食糧難に陥ったために、仕方なく農耕を始めたというのです。
 実際、農耕の開始により人々の生活水準は落ち、死亡率は上昇しました。
 狩猟採集生活では木の実や肉類などをバランスよく食べられるのに対し、農耕定住生活では食事が穀物ばかりになり、栄養素がデンプン質に偏ります。また、定住生活では人口密度が高くなります。身体的な接触が増え、さらに排泄物などで土壌や水源が汚染されて、疫病が簡単に蔓延します。

死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。

今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。

一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。

どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。

人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。

農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。



会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
 ヨーロッパ諸国では近世以降、戦争の大規模化にともない戦費も増大しました。王の財産だけでは国家運営を賄いきれず、かといって借金にも限界があります。最終的には、国民から徴収した税金によって国家を運営せざるをえなくなりました。「租税国家」の誕生です。
 国民は税金を納める代わりに、議会を通じて税の使い道を監視させるように要求しました。現代では当たり前になった議会制政治や国民主権は、租税制度の発展にともない産声を上げたと言えます。
 イギリスでは17世紀の清教徒革命や名誉革命によって、この「納税者による監視」の習慣が根付いていました。一方、フランスは情報開示の面で大きく後れていました。このことが庶民の不満を制御できないレベルまで膨らませて、革命をもたらしてしまったのでしょう。
 このような歴史的経緯から言えば、納税と正確な情報開示はセットであるべきだと考えられます。
 もしも政府が積極的に情報の改竄や隠蔽を行うのなら、それは納税者の不信を招くだけでなく、徴税そのものに対する正当性を失わせます。私たちが税金を納めるのは、それが自国の繁栄という目的のために正しく使われると信じているからにほかなりません。国家に対する国民の信頼を維持するためには、公文書管理の徹底を避けては通れないでしょう。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。

「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。

だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。

だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。

投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。

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【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』



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2019年6月25日火曜日

もしかして好かれていたのか


夜中にのどの渇きをおぼえて目が覚めた。お茶を飲んでもう一度布団に入ったとき、気がついた。
「あっ、もしかして!?」

突然として、点と点がつながって線になった。

今にしておもう。
もしかして、好かれていたのか?



Tちゃんという女ともだちがいた。

大学生のとき、仲良くしていた友人だ。

お酒を飲んだり、いっしょにライブに行ったり。何度も遊んだ。
Tちゃんは酒癖が悪かったので、何度も介抱した。酔いつぶれたTちゃんをおぶってぼくの家まで連れてかえり、泊めてやったこともある(二人きりではない)。
逆にぼくがTちゃんの家で酒を飲んで酔いつぶれてしまったこともある。

Tちゃんは愛嬌のある子だったが決して美人ではなかった。
開けっぴろげの性格で、自分は処女だと公言していた。
少しも気取ったところがなく、話していると男ともだちといっしょにいるようでとても気安くつきあえる友人だった。

よく遊んでいたが、ぼくに彼女ができ、その後少ししてTちゃんも結婚した。
今では疎遠になっている。

そのTちゃんのことをふと思いだして
「あれ、もしかしてTちゃんはぼくのことを好きだったのか?」
と唐突におもったのだ。



バイトで忙しいはずなのに飲み会に誘うとほぼ必ず来てくれたこと。

酔っぱらうときまってぼくの腕にしがみついてきたこと。

家に遊びにきたとき、ぼくの母親と話すときに異常に緊張していたこと。

ぼくの恋愛相談に乗ってくれたあと、「どうせ犬犬は〇〇ちゃんのことが好きやもんな……」とつぶやいていたこと。

バレンタインデーにチョコレートをくれたTちゃんにふざけて「Tちゃんはオレのこと好きやもんなあ」と云ったら黙ってしまったこと。

彼女ができたと言ったら「寂しいけどしかたないことだとおもいます」と妙にかしこまったメールがきたこと。

それ以降、あまり誘いに乗ってくれなくなったこと。


当時はなんともおもわなかったことが、十数年たった今いっぺんに思いだされて、
「あっ、Tちゃんはぼくのことを好きだったのかも!」
とおもったのだ。


自慢じゃないが、ぼくは女性から好意を寄せられたことはほとんどない。
だからいろんなサインを見落としていたのかもしれない。

一度そうおもうと、あれもこれも、好かれていたという仮説を裏付ける根拠のようにおもえてくる。
逆に「なんで当時はTちゃんの好意に気づけなかったんだ?」とふしぎだ。
(Tちゃんに確認をとったわけではないのでまちがってるかもしれないけど)



漫画でよくあるシーン。

主人公のことを好きなヒロインが、おもわせぶりなことをいう。
「あたしじゃダメ……?」みたいな台詞。
それもう98%告白じゃん、みたいなこと。

なのに主人公は気づかない。
「おまえは大事な仲間のひとりだよ」
みたいなことを言ってしまう。

ヒロインは「もう、ほんとにニブいんだから!」なんていってふくれてしまう。
それでも主人公は「え? なにが?」と気づかない。


こういう展開を見るたび、ぼくはおもっていた。
嘘つけ―!
こんなかわいい子にあからさまに好意を寄せられて、気づかないわけないだろー!
なにすっとぼけてんだよ、ビンビンになってくるくせに!

と。


でも、案外ありうる話かもしれない。
自分が好意を寄せていない人からの好意は、ぜんぜん気がつかないものなのかもしれない。

好きな子に対しては、常に「もしかして自分のこと好きなんじゃ……」と考えながら生きている。
どんな些細な兆候も見逃すまいと注意を欠かさない。
こちらを見て笑った、たまたますれちがった、言葉を交わした、たったそれだけのことで「自分を好きだからにちがいない」とおもいこんでしまう。

すべてが「自分を好きにちがいない」という仮説を裏付ける傍証となる(まちがった推理なんだけど)。

でも、それ以外の人にはてんで関心を払わない。
『おしりたんてい』レベルのわかりやすすぎる手がかりですら見逃してしまう。マルチーズ署長のように。


ぼくは妻と付き合うとき、交際を申しこんだが「そういうふうに見られない」という理由でフラれた。
でも数ヶ月後に改めて申しいれたときにはオッケーをもらえた。

たぶん、一度好意を伝えたことで「恋愛対象」として見てもらえるようになったのだとおもう。

ぼく自身、高校時代に「〇〇ちゃん、おまえのこと好きみたいだよ」という不確かな情報を耳にして、それまでなんともおもっていなかった〇〇ちゃんをまんまと好きになってしまったことがある(結局うまくいかなかった)。

「好かれている」とおもうことは、恋愛の入口として大きなステップになる。



三十歳をすぎて、
「ちゃんと言語化しないとまず好意は伝わらない」
「好意を伝えてからが、好きになってもらえるかどうかの審査のはじまり」
ということにようやく気づいた。

たぶんモテる人はとっくに気づいてたことなんだろうけど。

ぼくはもう結婚して(今のところは)離婚・再婚の予定もないので今さら気づいたところでどうしようもないのだが、未来ある若者の役に立ってくれればというおもいで書き記す。


2019年6月24日月曜日

【読書感想文】時間感覚の不確かさと向き合う / ニコリ『平成クロスワード』

平成クロスワード

ニコリ

内容(e-honより)
平成元年から平成31年まで、それぞれの年にちなんだ言葉を満載したクロスワードパズルを1年につき1問ずつ収録しました。各年の出来事を詳しく解説したページもあります。遊んで、読んで、平成を改めて振り返りましょう。

ぼくはニコリのパズルが大好きだ。
ニコリといっても伝わらないかもしれない。パズルばかりつくっている出版社だ(他の事業もあったらごめんなさい)。

小学生のときに父親がニコリの数独の本を買ってきて、すっかりはまった。
それから「数独」や「ぬりかべ」「スリザーリンク」の本を買いこみ、いろんなパズルが載った雑誌(その名も『ニコリ』)があるのを知ると買い求めた。
『ニコリ』は近所では買えず、わざわざ電車に乗って大きなおもちゃ屋さんに買いにいっていた(当時『ニコリ』はふつうの書店に置いておらずおもちゃ屋で売っていたのだ)。

買いにいくのが面倒になると定期購読をした。
ぼくが買いはじめたころ『ニコリ』は季刊(年4回発行)だったのだが、やがて隔月刊になり、そして月刊ペースになり、そしてまた季刊に戻った。
いろいろ試行錯誤中の雑誌だということが伝わってきて、余計に愛着が湧いた。

ぼくは学生時代数学が得意だったが、それは『ニコリ』で論理的な考え方を身につけたからだと確信している。

受験を機に定期購読はやめてしまったが、その後も目についたときに買っている。
書店で働いていたときには、権力を私物化してニコリを入荷できるよう手回しした。



前置きが長くなったが、そんなパズル界の第一人者であるニコリ社から刊行された『平成クロスワード』。
クロスワードで平成の時代をふりかえるという、重厚なパズル本だ。

これはおもしろそうと早速購入して解いてみたのだが、期待通りのすばらしい本だった。

その年の出来事、流行ったこと、活躍した人などがパズルのカギになっている。


クロスワードも多く解いていると「またこれか」っておもうことが多いんだよね。
たとえば「小粒でもぴりりと辛い香辛料。この香りがする天然記念物もいる」とか。だいたい同じようなヒントになってくるんだよね。

でも平成クロスワードのカギは固有名詞が多い。
「事件の名前」とか「不祥事を起こした議員」とか「流行ったおもちゃ」とかがカギになるのはすごく新鮮。
ふだん使わない筋肉を使っているような心地よさがある。

それに、「あーあれなんだったけー。ここまで出てるのにー」という感覚+「だんだんヒントが増えてくるクロスワード」はすごく相性がいい。

「平成をふりかえる」系の本はたくさん出版されたけど、クロスワードでふりかえるってのはすごくいい試みだね。



クロスワードの後には年ごとに起こった事件や流行ったものなどが丁寧にまとめられていて、パズルとしてはもちろん読み物としてもおもしろかった。

いかに自分の中の時間感覚が不確かなだったかを実感した。
郵便番号が七桁になったのと『タイタニック』のヒットとプリウスの発売って同じ年だったんだ、とか。
ぼくの中ではプリウスっていまだに「新型ハイブリッドカー」の位置づけだったんだけど(車にぜんぜん興味ないので)、こうして見るとずいぶん古いなあ。


あと自分の老化、具体的には知的好奇心の衰えと記憶力の低下。
二十年前のノーベル賞受賞者はおぼえてるのに、ここ数年はぜんぜんわからない……。答えを見てもぜんぜんピンとこなかった……。



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ツイートまとめ 2017年04月


機械第一主義

必要十分条件

現像

引越支援

黒猫

誘発

電話作法

才能

自打球

異業種交流会

方舟

続編

鹿町

観光地図

2019年6月21日金曜日

次女がかわいい。


次女がかわいい。

生後八ヶ月。
よく笑う。かわいい。
ハイハイをする。かわいい。
つかまり立ちをする。かわいい。
立ち上がってしりもちをつく。かわいい。
失敗して後ろにひっくりかえる。かわいい。
手づかみで野菜を食べる。かわいい。
ぼくの髪の毛をつかむ。かわいい。
パチパチ手をたたく。かわいい。
腕も脚も太い。かわいい。
寝ている。かわいい。
起きた。かわいい。

何をしていてもかわいい。
長女のときはここまでかわいかっただろうか。いや、ここまでかわいいとはおもっていなかった。


誤解のないようにいっておくと、長女の器量が劣っているわけではない。
親としてはどちらも同じぐらいかわいい。

ただ長女が赤ちゃんのときは、こちらに「ひたすらかわいがる余裕」がなかった。

けがをしないように。
病気にならないように。
正常に発達しているか。
先天的な異常はないか。
他の子と比べてどうか。
この時期に親がやるべきことはなにか。
逆になにをしてはいけないのか。
今のうちに写真を撮っておかなければ。
どうすればかしこい子に育つのか。

いろんなことが心配で、手放しでかわいがるような心持ちではなかった。

二人目ともなるといろんなことがわかってきて、肩の力を抜いて子どもと向きあえるようになった。
ちょっとぐらいこけても平気、子どもなんて病気になるもの、たぶん正常に育ってるのだろう、まあ少々失敗してもなんとかなるさ。

そんな余裕が出てきたおかげで、かわいさをそのまま「かわいい」と受けとれる。
逆にいえば、長女のときにはいろんなかわいさを見過ごしていたんだとおもう。悪いことをした。


超一流の寿司を食っていても、「そろそろ終電が」とか「財布のお金たりてたっけ」とか「こんな食べ方してマナー違反じゃないか」とか心配していたらきっとうまくないだろう。
同じように、心配事が多いとかわいい子どももかわいいとはおもえない。


孫がかわいいのも同じ理屈だろう。
過去に子育てをした経験がある、多くの子どもを見てきた、自分が育てなくてもいい。
心配しなければいけないことが少ない分、かわいさもひとしおなのだとおもう。


次女がかわいいのは「ぼくがかわいがりかたを習得した」というのもある。

かわいがるのは誰でもできることじゃない。じつはけっこう技量がいる。

いきなり赤ちゃんにほおずりして「おーかわいいな~! おまえはなんでそんなにかわいいんだ~! このぷにぷにのほっぺ! このむちむちの腕! かわいすぎて食べちゃいたい! よし食べよう。かぷっ!」というのは、いい大人にとってはなかなかむずかしい。
はじめてだと、羞恥心がじゃまをしてうまくやれない。
周りに誰もいなくても、内なる自分が「おまえなにやってんだ」と冷や水をぶっかけてきたりする。

だが親として何年も生きていると、子どもの前でばかをやることにも慣れてくる。
恥も外聞もなく全力でほおずりして甘い声を出せるようになる(とはいえさすがに外ではやらないが)。
親ばかになるのもこれはこれでなかなか技量が必要なのだ。


ぼくが次女をかわいがるのは「長女に見せるため」でもある。
「赤ちゃんはこうやって愛情を注いでやるものなんだよ」
「おとうさんは子どものことをこんなに好きなんだよ」
と見せつけることによって、
「君も赤ちゃんのときにはこんなにかわいがられてたんだよ」
「君もおとうさんおかあさんに愛されてるんだよ」
と教えてやるのだ。

じっさいは長女のときはここまでやっていなかったんだけど。
でも「君のときも同じぐらいかわいがってた」という嘘の記憶を長女に植えつけるためにやっているのだ!

長女と次女


2019年6月20日木曜日

視覚障害者を道案内

視覚障害者の手を引いて道案内した。

音の鳴らない信号にさしかかったところで
「ふだんはどうやって渡ってるんですか」と訊いたら、
「勘です。音でだいたいわかりますけど最近は静かな車が多くて困ります」
と言っていた。

また、あまりに交通量が多い交差点だと、ひっきりなしに走行音があるのでやはり怖くて渡れないのだという。

うるさすぎてもだめだし、静かすぎてもだめなのだ。

そんなこと考えたこともなかった。


ひとりでも歩けるが、そんなふうに渡れない道を避けて歩くことになるので、ひとりだと時間がかかるそうだ。

「だからこうしていっしょに歩いてくれる人がいると助かります」
とってもらえた。

よかった。
「余計なお世話かな」とおもいながらもおもいきって「案内しましょうか」と声をかけてみてよかった。

ということで、同じように躊躇している人がいたらぜひ声をかけるといいよ。

2019年6月19日水曜日

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

悪いものが、来ませんように

芦沢 央

内容(e-honより)
助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス!

嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。

己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。

こういう些細なエピソードとか。
 きっかけは、互いに結婚してからもふた月に一回程度のペースで会い続けていた短大時代の友人、倫代からの年賀状だったと思う。
 たしかに紗英は、彼女からの年賀状を見るのが憂鬱だった。互いに子どもがおらず、会えば仕事の話と旦那への愚痴で盛り上がれていた倫代が、他のみんなと同じように母親になって関心の先を子どもに変えてしまうのは寂しくもあった。どうせ子どもの写真なのだろうと、紗英はどこか白けた思いで年賀状をめくった。だが、それは紗英のものと同じ干支を使った味気ないものだった。
 なんとなく、嫌な予感がした。口実を作って共通の友達に連絡をとり、どこか祈るような思いでかまをかけた。
 倫代からの年賀状、かわいいね。
 ほんと、ハルキくん、倫代によく似てるよね。
 返ってきた答えに、やっぱり、となぜか勝ち誇るような思いで考えた。やっぱり、そうだった。倫代は、子どもがいる友達には子どもの写真入りの年賀状を、使い分けていた。
 わたしだってそうじゃないか、と紗英は何度も自分に言い聞かせた。わたしだって、結婚していない友達には結婚の話はしにくいと思っている。気遣いというそぶりで、見下している。――こんな話をしたら自慢に聞こえてしまうかもしれない、傷つけたらかわいそう、と。
 だから、倫代のことをひどいと思うことなんかできないのだと、そう考えながら、倫代の年賀状を捨てていた。

子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。


ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。

女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。



いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。

前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。

この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。

この歪んだ愛情に支えられた関係は、母と娘じゃないと成立しない。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。


瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。

そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。

げに恐ろしきは親子の縁よのぅ。


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2019年6月18日火曜日

レジ袋と傘袋


レジ袋有料のスーパーマーケットが増えた。
どこもだいたい二円ぐらい。

ぼくはレジ袋をもらうことが多い。
買い物用のエコバッグを持っているにもかかわらず。
なぜなら、レジ袋がほしいからだ。

うちのマンションにはダストシュートがあって生ごみを投入することができるが、一辺三十センチメートルまでという制約がある。
ここに入れるのにスーパーのレジ袋がちょうどいいのだ。

他にも、レジ袋はいろんな場面で重宝する。
プールに行ったときに濡れた衣服を入れたり、銭湯に行くときに脱いだ服を入れたり、子どもの着替えやおむつを入れたり、出先でごみ箱がないときにごみを持ち帰ったり、公園のベンチが濡れているときに下に敷いたり、子どもがダンゴムシを見つけて家で飼いたいと言いだしたときにダンゴムシを入れたり……。

ごみ袋は一枚五円ぐらいするので、スーパーで買い物をするときにレジ袋をもらうほうが安い。

というわけで、ぼくはレジ袋削減にはぜんぜん貢献していない。



レジ袋有料化ってほんとに環境問題に対して効果あるんだろうか。

いや、ないことはないとおもうんだけど。
どんなものだって廃棄量を増やすよりは減らすほうが地球にやさしいにきまってる。
でもどこまで効果あるんだろうか。


最近、大手飲食チェーンでいっせいにストローがなくなったけど、それも効果があるのか疑問だ(ちゃんと調べたわけじゃないから大きな声では言えないけれど)。

効果はゼロではないんだろうけど、どっちかっていったら気休め程度なんじゃないかとにらんでいる(くりかえしになるけど、ちゃんと調べたわけじゃないからね)。

ベルマーク集めや甲子園の応援と同じで、「結果ではなく取り組んだという姿勢こそが大事なのだ」というパフォーマンスなんじゃないのか。



ぼくが「レジ袋削減・ストロー削減」の効果に対して懐疑的なのは、もっと無駄だとおもうことがあるからだ。

たとえばコンビニだとペットボトル一本でもビニール袋に入れられるし(いりますかと訊いてくる店員もいるが)、パックの飲み物を買うと頼んでもないのにストローをつけてくる。
1000mlの牛乳パックを買っても長いストローがついてくる。あれに長いストロー刺して直接飲む人がそんなに多いとはおもえないのだが。

ほんとにレジ袋やストローが環境に良くないのであれば、もっとコンビニ大手に対して圧力をかけなきゃいけないんじゃなかろうか。
それがおこなわれていないのは、じつはたいした影響がないからなんじゃないだろうか。


あと、スーパーの傘袋も甚だ疑問だ。

近所のスーパーでは、レジ袋の代金として一枚二円をとるくせに、雨の日には入口に傘袋を吊るしている。
客はそれに傘を入れ、店を出るときにはぽいっと捨てる。
すごく無駄だ。
レジ袋はさまざまな用途に再利用されるが、傘袋は再利用されているようにはみえない(ぼくが知らないだけかもしれないけど)。

や、必要性はわかるんだけど。
店内が汚れたら清掃コストがかかるし、フロアが濡れて客が滑って怪我でもしたら店の責任も問われるかもしれないし。

でもなあ。
一分で出ていくような客でも傘袋を使うし。
かとおもうと傘袋を使おうとせずにびしょ濡れの傘で店内を濡らしまくる迷惑な客もいるし。
九割の客が傘袋を使っても、一割が使わなければあんまり意味がない。

レジ袋より先に傘袋減らせよ、とおもうんだよね。
とはいえ傘袋を有料にしたら誰も使わなくて店内がびちょびちょになっちゃうから、ああやって無料で置いとくしかないんだろうけど。
にしても無駄の多い仕組みだ。


店側がナイロンの傘袋でもつくって、再利用可にするとかどうでしょう。
店名をでっかく書いておけば持ってかえる人も少ないだろうし。
それでも持ちだして、そのへんに捨てるやつはけっこういるかな。

なにしろ日本人の約半数は民度が平均以下だからな(この「約半数は平均以下」はほぼなんにでもあてはまるので便利な言い回しだ)。


2019年6月17日月曜日

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

山女日記

湊 かなえ 

内容(Amazonより)
こんなはずでなかった結婚。捨て去れない華やいだ過去。拭いきれない姉への劣等感。夫から切り出された別離。いつの間にか心が離れた恋人。…真面目に、正直に、懸命に生きてきた。なのに、なぜ?誰にも言えない思いを抱え、山を登る彼女たちは、やがて自分なりの小さな光を見いだしていく。新しい景色が背中を押してくれる、感動の連作長篇。

登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。

上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。

どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
 姉と二人で歩いた時は、私は姉に独身でいることや経済的に不安定な生活を送っていることを責められるのではないかとモヤモヤした気分を抱えていたし、姉は自身の離婚問題について深く悩んでいた。それぞれの答えを探すような思いで急坂ばかりが続く山道を歩いていたのだ。大雨の中を。
 山は考え事をするのにちょうどいい。同行者がいても、一列で黙って歩いていると、自分の世界に入り込む。そこで自然と頭の中に浮き上がってくるのは、その時に心の大半を占めている問題だ。自分の足で一歩一歩進んでいると、人生だって、自分の足で進んでいかなければならないものだと、日常生活の中では目を逸らしていた問題についても、まっすぐ向き合わなければならないような気がしてくる。頂上までこの足で辿り着けたら、胸の内にも光は差してくるのではないかという期待が背中を押してくれる。そうやって、己と向き合いながら歩くのが登山だと思っていた。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。

友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。

とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。



そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。

中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。

ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。


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2019年6月14日金曜日

コンニチハ! スシ! テンプラ!


海外に行くとわりと経験することだとおもうが、日本人と知るとカタコトの日本語で話しかけてくる人がいる(おっさんが多い)。

ぼくも何度か経験したことがある。
中国の道端でおっさんに「どっから来た?」と訊かれ(もちろん中国語で)、日本人だと答えると
コンニチハ! スシ! テンプラ!
と笑顔で言われる。

めんどくせえなあ、伝えたいことがないなら無理してしゃべらなくていいんだよ、ほとんど日本語知らないくせに……。

とおもいながらもむやみに国際摩擦を引き起こしたくもないので
「あ、ああ。こんにちは。はは……」
みたいな愛想笑いでお茶を濁す。



話は変わって、こないだ道端で外国人のおばちゃんに英語で話しかけられた。

旅行パンフレットを見せられ、
「このホテルにはどうやって行くんですか?」
と訊かれた(英語に自信はないが、たぶんそんなことを言ってた)。

地図アプリで検索をしたら、歩いて五分ぐらいの場所にあるとわかった。
時間もあったので歩いて案内してあげることにした。
(わざわざ連れていってあげたのは親切だったからではなく英語で道を説明する自信がなかったからだ)

スーツケースを引きずったおばちゃんと並んで歩く。
流れる沈黙。
気まずい。

なにか話さないと。
なにしろ、この瞬間、このおばちゃんにとってはぼくが全日本人代表なのだ。
「日本人って不愛想で感じ悪いわね」とおもわれないよう、せいいっぱいおもてなししないと。

「Where are you from?」

持てる英語知識を総動員して、やっと絞りだした。

おばちゃんは答える。
「Thailand」

タイランド。
あー、タイね。はいはい、もちろん知ってるよ。

この後が続かない。タイって何があったっけ

仏教国だよね。でも初対面で宗教の話って危険すぎるよね。

何年か前にクーデターがあったってニュースで観たな。
でも戦争の話もまずい。悲しませたり怒らせたりするかもしれない。

アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけ、って聞いたことあるけどそれを伝える英語力がない。
伝えたとて、だからなんだって話だしな。

タイの有名人って誰かいたっけ。ガンジーはインドだよね。

だめだ、ストリートファイターⅡのサガットしか出てこねえ。

タイを代表する人物

ぼくの頭の中にある「タイ」というラベルのついた引き出しを全力で探すのだが、いかんせん使える知識が出てこない。

引き出しの奥を探したら、あった! トムヤムクン

そうだそうだ、トムヤムクンだ。
タイを代表する料理。世界三大スープのひとつ。

「トムヤムクン!」
と口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。

これはあれだ。
日本人と知ったら「スシ! テンプラ!」と言ってくる外国のおっさんといっしょだ。

これをタイ人に言っても、得られるのは苦笑いだけだ。


そうかー。
日本人に「スシ! テンプラ!」と話しかけてくるおっさんってこういう気持ちなのかー。

乏しい知識の中でなんとか共通の話題をさがそうというホスピタリティから出ていた発言だったんだなー。

うっとうしいおっさんの気持ちが理解できた。

2019年6月13日木曜日

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

シャレのち曇り

立川 談四楼

内容(e-honより)
落語家になるため弟子入り志願した若者(のちの談四楼)に、憧れの立川談志が告げたのは「やめとけ」の一言だった。―なんとか入門を許されるも、「俺と仕事とどっちが大事だ!」と無理難題に振り回される談四楼。恋に悩み、売れないことに焦燥し、好敵手と切磋琢磨する中で、ついに真打昇進試験が…。しかしそれは、落語界を震撼させる一大事件の始まりに過ぎなかった。師弟の情を笑いと涙で描く傑作小説。

立川談志氏の弟子であった立川談四楼氏による自伝的小説。

おもしろく読めたが、時系列がばらばらで読みにくいこと甚だしい。
いきなり時代が飛んだりさかのぼったりするので、読んでいて「えっ、あの話はどうなったの?」と混乱する。
発表時期がばらばらだったかららしいけど、一冊の本にするときになんとかできなかったものか。これはちょっとひどいぜ。編集者仕事しろ。

話にまとまりがないのは落語的といえるかもしれないけどね。ストーリーに一貫性のない噺ってけっこう多いし。
上方落語の噺だけど、『こぶ弁慶』なんかその典型だよね。前半と後半でまったく別の噺になるからね。登場人物も入れ替わっちゃう。



個々のエピソードは読みごたえがあった。
特に立川談志一門の落語協会脱退のくだりはおもしろい。

上方落語派のぼくにとって立川談志という噺家は
「偉そうにふんぞりかえっていてなんか嫌い(『M-1グランプリ2002』の審査員の印象がひどすぎて)」「落語はすごいらしい」
というぐらいのイメージしかなかった。
一度CDを聴いたことがあるが、江戸っ子訛りがどうも聞きづらく途中でやめてしまった。

しかしこの本に出てくる立川談志は、人間性の良し悪しはべつにして、ずいぶん弟子思いのいい師匠である。
「何だとゥ、独演会ィ?」
 寸志がその見幕に思わず謝ろうとするよりも早く、談志は一気に続けた。
「やれやれィ、やらなきゃしゃあねェ。独演会が打てる、つまり客が呼べる芸人だけが一人前というこった。それが俺の認識だ。前座だろうが二ツ目だろうが構うこたねェ、遠慮は要らねえから派手にやれ。だいたいなあ、俺の他に独演会を打てる落語家が何人いるってんだ、いやしねえだろ。何にも行動を起こさねえで、ただ居心地がいいというだけで寄席に安住してやがる。こんなに客が減ったのもみんなそいつらのせいなんだ。やれやれ、どんどんやれ。ただ、ひとつだけ言っておく。ネタだけはキッチリしたものをやれよ、前座噺で逃げようなんて思うな。で、いつやるんだ、木戸銭はいくらだ、客は何人呼ぶつもりだ、ゲストは誰なんだ、俺が要るのか要らねえのか……」と、それはもう矢継早に言った。
「お願いします、是非出て下さい。十月の三十一日です」
 寸志がやっとの思いで伝えると、「よし、事務所へ電話してみろ。空いてたら行ってやる」
「ハイ、その日は何もありません。空いてます」
「そうか、そこまで調べがついてるんじゃ仕方がねえな。じゃ、行ってやる。おめえの会に俺が出るなんてもったいねえぐらいのもんだ」
弟子の書いたものだから美化されている部分はあるだろうが、それにしても気風がいい。
落語協会を飛びだしたのも「弟子が真打昇進試験に落とされたことに納得できず」だというのがかっこいい。
事あるごとに「おまえらはおれの弟子なんだから腕はある」と口にするところ、ここぞという局面では現状に甘んじている弟子を厳しく叱りつける姿など、いやいい師匠だなと感心するばかり。
金に汚いところは江戸っ子っぽくないが、独自流派を立ち上げて弟子たちを食わせていかなければならないというプレッシャーがあっただろうことを考えると、それもやむなしとおもえる。
ビートたけし、高田文夫、横山ノック、上岡龍太郎など著名人を弟子として高座に上げて客寄せに利用したところなど、ずいぶん商才もあったんだなと感心する。

この本を読んで、「傲慢な天才」という談志のイメージは大きく変わった。
繊細で、周囲の人間をよく見ていた人だったのだろう。
考えてみれば当然の話で、人間観察に長けているからこそ噺家として大成したんだろうね。



印象に残るのは、真田家六の輔のエピソード。
真田家六の輔という名前の落語家は存在しないので著者が創作した人物なのだが、そのエピソードがあまりに生々しいのできっとモデルとなる人物がいたのだろうと想像する。

苦労人である師匠をもった六の輔。師匠は芸はうまいが気が弱く、そのせいで落語協会の中でも不遇の扱いを受けていた。
だが真打昇進試験で落とされた談四楼の師匠(談志)が落語協会を飛びだしたのとは対照的に、六の輔の師匠は「こらえろ」という。協会に対しての不満は多いはずなのにそれをひた隠し、弟子にまで不遇を強いる師匠に絶望する六の輔は、自由に見える談志一門の談四楼がうらやましくてたまらない。
だが不満や嫉妬を表には出さない六の輔はやがて酒におぼれてゆき、身体を壊すまでに……。

長くないエピソードだが、落語家という商売の業がぎゅっと凝縮されたような話だ。
ひょうきん、お気楽、自由闊達であることを求められながら、一方で伝統、師弟制度、閉鎖された組織という環境に身を置かなければならない落語家。
不満を感じながらも、表には出せない。ずいぶん因果な商売だ。

噺家という人種は自由に見えて、何よりも不自由な職業なのかもしれないな。


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2019年6月11日火曜日

無一文の経験


小学校一年生のとき、お祭りに行った。
近所のスーパーの駐車場でやっている小さなお祭りだ。小さなお祭りとはいえ小学一年生にとっては小さくない。
夜店をまわり、あれこれ食べてゲームをして、めいっぱい楽しんだ。

そろそろ帰ろうか、最後にあと一軒ぐらいまわろうか、という段になって気がついた。
財布がない。

母や友だちのおかあさんといっしょにさがしたが見つからない。

ぼくは号泣した。
財布には三百円ぐらい入っていた。

母や友だちのおかあさんは「まあしょうがないね」という反応だった。そりゃそうだろう。大人にとって三百円なんてそんなもんだ。ちょっとさがして、見つからなければ諦める。五分もすれば忘れてしまう。それぐらいの金額だ。

でも一年生のぼくにとって三百円を失うというのは、絶望的な出来事だった。
なにしろそのときのぼくの全財産だったのだから。


全財産を失ったことはあるだろうか。
無一文、すっからかん、すってんてん、すかんぴん、一文無し、オケラ(日本語ってやたら無一文に関する表現が多いな)。

ぼくは小学一年生にして無一文を経験した。
それはもう、絶望的な気分だった。これから先どうやって生きていけばいいんだよ……と地面に両手をついておいおい泣きたい気分だった。




今にしておもうと、いい経験だったとおもう。

無一文の気分なんてなかなか味わえるものではない。
ぼくは今三十代だが、今無一文になったら冗談にならない。誇張でもなんでもなく生きていけない。

小学一年生にして無一文の絶望感を知ったぼくは、お金に細かくなった。
お年玉にも半分ぐらいしか手をつけない。何かを買うときはじっくり検討してからにする。見栄のために金を使わない。借金はしない。ギャンブルもしない。リボ払いもしない。
財布を落としていないかも執拗に確認するようになったので、あの日以来一度も財布をなくしたことがない。
一度身についた倹約の精神は大人になっても残っている。


我が娘にも、大人になってから散財することがないよう、ぜひダメージの少ないうちに無一文の恐怖を知っておいてもらいたい。

こっそり娘の財布を隠して……ってそれはさすがにひどいか。


2019年6月10日月曜日

ニュースはいらない


ニュースを見るのをやめた。


新聞はもう十年ほど前からとっていない。
新聞を読むのは好きなのだが、
・廃品回収に出すのがたいへん
・新聞はその日のうちに読まないといけないので、読みたい本が後回しになってしまう
というのが新聞購読をやめた理由だ。

それでも社会人としてニュースは知っておかなければ、とおもって
・朝のテレビニュース
・夜のNHKニュース
・新聞社のオンライン記事
をみるようにしていたのだが、どれもやめた。

胸糞悪いニュース(政治の腐敗とか身勝手な犯罪とか痛ましい事件とか)を観るのがいやになったのと、
どうでもいいニュース(芸能人のスキャンダルとか地方のお祭りとかパンダの成長とか同じ話題を延々やるのとか)を観るのがいやになったのが理由だ。

ぼくは事実だけを淡々と伝えてほしいのに、やたら情緒に訴えかけようとしてくるのにうんざりしたのだ。

くだらないニュースは、ほんとになんとかならんのか。
NHKですら芸能ニュースとかやるし。
こっちは憤慨したり感動したりしたくてニュース観てるんじゃねえよ。だったらバラエティ番組観るほうがマシだわ。



そんなわけでニュースを観るのはやめた。
テレビのニュースも新聞のニュースも観ない。ネットニュースは目に入ってくることはあるが、見出ししか見ない。

朝はEテレを観ている。
これが実にいい。
気持ちの良い一日のスタートを切れるようになった。
夜は読書やパズルにあてる。

そしてわかった。
ニュースを観なくなっても一切困らない。
もう二ヶ月ぐらい観ていないけど、そのせいで困ったことなんかひとつもない。

「ニュースぐらいみとかなきゃな」とおもってがんばってみていたけど、害悪でしかないものだったのだ。
気分は悪くならないし、読書のペースは上がるし、静かに過ごせるし、いいことずくめ。


ニュースを観るなとは言わないけど、「ニュースぐらいみとかなきゃな」って気持ちで観てる人は、いっぺんやめてみるといい。
たぶん何も困らないから。
有意義に過ごせる時間が増えるから。

2019年6月7日金曜日

【読書感想文】ただのおじいちゃんの愚痴 / 柳田 邦男『「気づき」の力』

「気づき」の力

生き方を変え、国を変える

柳田 邦男

内容(Amazonより)
「孤独な時間」はなぜ大切か。人は孤独な時こそ悩み、苦しみ、寂寥感にとらわれ、それらを乗り越えるために懸命に考える。孤独なしに、考えるという「心の習慣」は身につかない。ネットの便利さやコンピュータが作る疑似体験に浮かれて、自己の内面と向き合う静かな時間や、現場体験によって自ら気づくことの意義を見失う現代人に、「目を覚ませ」と呼びかける警世の書。

ひさしぶりにどうしようもない本を読んだ。

そもそも、民俗学者の柳田國男氏の本だとおもって手に取ってしまった。
読んでいるうちに「あれ? 柳田國男さんってこんなに最近の人だったっけ? 明治とかじゃなかったっけ?」とおもって著者経歴を見てやっとまちがいに気がついた。

國男じゃねえのかよ! 誰だよ邦男って! まぎらわしい名前名乗りやがって!(本名なんだろうけど)



まあ、勘違いから出会った本が案外すばらしい本だったりして……とおもって読みすすめていたのだが、これがとにかくひどかった。

たとえば冒頭。
看護学生のエッセイを紹介し、その瑞々しい感性を絶賛する。そしてこう書く。
 佐藤さんは、自分の「気づき」をこう整理している。学生って、ひたむきだなあと、私は思った。「最近の若者は」などと、若者を一絡げにして批判するのは間違いだろう。いや、若者は捨てたものではない、希望をもてるぞ、と私は感じるのだ。
 高尾さんも佐藤さんも、進行したがん患者を担当するという厳しい試練を受けた中で、生涯の生き方にまで影響が及ぶような重要な「気づき」を経験している。とくに高尾さんは、患者の死というショッキングで悲しい体験をしている。そのことは若者にとっていかに現場体験が心の成長・成熟のために重要かを示している。これは看護学生だけの問題ではなかろう。
 このことは、広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られないということを示している。
は? なんで?

ことわっておくが、紹介されている看護学生のエッセイには、インターネットのイの字も出てこない。
実習を通して知り合った老人との交流と死別をつづったものだ。

それがなぜ「広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られない」になるんだ?
たぶんエッセイを書いた看護学生だってインターネットは使ってるだろうに(エッセイが投稿されたのは2007年だそうなので使っていないはずがない)。

どうしたの、おじいちゃん。
どうして、顔を合わせた交流だけが心の成長につながる体験で、ネットを通したらそうならないという短絡的思考なの? ゲームのやりすぎ?


この邦男おじいちゃんはその後も、手を変え品を変え「昔はよかった」をくりかえす。
「自分の頭の中にある美化された過去のイメージ」と「脳内でつくりあげた現代のかわいそうな境遇におかれた子ども」を対比しているのだから、前者のほうがいいのは当然だ。

そして、やたらとインターネットや携帯電話を目の敵にしている。
その攻撃材料がまた、「心が伝わらない」だの「忙しくて心のゆとりがない」だの「インターネットの便利さに漬かった若者は思考が浅い」だの、ことごとくうすっぺらい。もちろんなんのデータも示していない。
「よくわかんないけどおれが子どものときはなかったものをみんなやってるのが気に入らねぇ」なのがまるわかりだ。

きっとこういう人はいつの時代にもいたんだろう。
二十年前だったら「今の子どもたちはテレビゲームばっかりで……」と言ってただろうし、四十年前には「テレビばっかり……」と言ってたんだろう。そして六十年前は「今の子どもは漫画ばっかり読んで……」でそれより前は「小説ばっかり読んでるから……」だったんだろうな。
 私は、英文のこの絵本を持ち帰って、ゆっくりと再読すると、アメリカ人の作家と画家が、今という時代にこの絵本を創作して何を伝えようとしたのか、その意図がしっかりと私の心の中に浸み渡ってきた。そして、《これは日本の子どもたちはもとより大人たちにも、ぜひ読んでほしい絵本だ》という思いがこみあげてきた。
 ケータイ、ネット、ゲーム、勉強、競争主義といった一刻の余裕もない環境に取り巻かれ、何事につけ親から「はやく、はやく!」と急かされる今の子どもたちの状況に対し、何を取り戻さなければならないか、この絵本は、大事なキーワードを提示している。

昔の人は苦労していた。金や時間よりも大切なものを知っていた。それにひきかえ効率主義と拝金主義に洗脳された現代人は……。
こんな愚痴がひたすら並べられている。
いやいや、昔の人だってラクをできる方法があればぜったいそっち選んでたって! 昔の人は好きで苦労してたとおもってんのかよ、このおじいちゃんは。


まあ年寄りの愚痴に対していちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうが、驚くべきはこのおじいちゃんがノンフィクション作家を名乗っていることだ。おまけに「私はノンフィクション作家として論理的な思考ばかりを重視していたが、もっと人の心を見つめなければならない」的なことも書いている。

……。
論理的っていったいなんなんでしょう。



ことごとくゴミみたいな本だった(後半の河合隼雄氏の言葉を紹介しているところは興味深かったが、だったら河合隼雄氏の本を読めばいいことだ)。

この本から得られたものはただひとつ。

自分はこういう年寄りにならないようにしよう、という戒めだけだ。

ほんと、気を付けないとね。
五十年後に
「昔は連絡するためにはわざわざ携帯電話を使っていた。ものを調べるためにはパソコンやインターネットを使って一生懸命調べていた。たしかに面倒だったがその過程で得られるものも多かった。苦労していたからこそ、情報の裏にある人の心に気づくこともできた。それにひきかえ今は……」
とか言っちゃわないように。


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2019年6月6日木曜日

かぎりなくスパムに近いメール


2001年頃のお話。

当時、インターネットはあったものの主流はまだまだ「個人のホームページ」「趣味の掲示板」程度だった。

その頃ぼくは携帯電話を手に入れて(電話とメールと電卓ぐらいしか機能がないやつだ)、当時みんながそうだったようにメールに夢中になっていた。

もちろん必要事項の連絡にもつかっていたけど、それより情報発信の手段としてよくつかっていた。

おもしろい(と自分ではおもう)ことをおもいついたら、それをメールにして友人たちに送りつけるのだ。
「おもろいな」とか「またしょうもないことやってるな」とか返信があることもあれば、スルーされることもある。
それでもぼくは、コントやばかばかしいクイズを思いつくたびに、それを友人たちに送りつけていた。


そして2019年。

今もぼくはくだらないことをおもいつくたびに、パソコンや携帯電話で発信している。

変わったのは、送り先が友人ではなく、ブログやTwitterになったことだ。


すばらしい変化だ。

なぜなら、友人たちはぼくが書いたしょうもないことを読まなくてもよくなったのだから。

見たいときだけ読みにくればいいし、見たからといって気を遣ってコメントを返す必要もない。
ずっと見たくないならミュートにすればいい。

ぼくの友人たちは、もっとSNSに感謝したほうがいい。


2019年6月5日水曜日

【読書感想文】褒めるのがはばかられるおもしろ小説 / 池上 永一『シャングリ・ラ』

シャングリ・ラ

池上 永一

内容(e-honより)
加速する地球温暖化を阻止するため、都市を超高層建造物アトラスへ移して地上を森林化する東京。しかし、そこに生まれたのは理想郷ではなかった!CO2を削減するために、世界は炭素経済へ移行。炭素を吸収削減することで利益を生み出すようになった。一方で、森林化により東京は難民が続出。政府に対する不満が噴き出していた。少年院から戻った反政府ゲリラの総統・北条國子は、格差社会の打破のために立ち上がった。

大きな声では言えないけどおもしろかった。
スケールがすごい。
炭素の排出量を基準にした経済が世界の中心となり、実質炭素と経済炭素という概念が生まれる。
東京は地面を捨ててアトラスという巨大な人工台地をつくり、アトラスに暮らす特権的な人間と地面に生きるゲリラとに分かれる。
よくこんな設定おもいついたなと感心するばかり。

じゃあなぜ「大きな声では言えないけど」なのかというと、あまりにばかばかしい小説だからだ。
「ブーメランで敵をなぎ倒すゲリラの総統」「世界の炭素市場を荒らすシステムを開発した天才少女」「嘘をついた人間を殺す能力者」「外観を自由に変えることのできる装甲を持った軍隊」「人工地盤建設のための人柱」「炭素が生みだす新素材」「遺伝子操作によって種を飛ばして攻撃してくるようになった植物」など、設定が良くも悪くもマンガ的なのだ。
昨日の敵は今日の友、なストーリーも少年マンガっぽい。終盤の『ムー』感満載な展開も、中学生にウケそうな感じだ。
いい大人が読むもんじゃないなって感じの小説だ。いいおっさんが読んでおもしろかったんだけど。

それに登場人物がみんな超人すぎる。
なんなのこれ。脇役はばったばったと死んでゆくのに、主要な人物は何回殺されても死なない。肉体が滅びたのに甦るやつまでいる。ひでえ。
世界一速く走れて世界一バイオリンがうまくて世界一歌がうまくて世界一バレエがうまくて東大医学部を卒業して超絶美しい上に超強くてハーレーに乗って戦い、何度殺されても死なないお嬢様とか、このキャラ設定なんなの。
めちゃくちゃだ。

あとオカマで笑いをとろうとするのがすごく痛々しい。
安易にステレオタイプなオカマを出せばおもしろいんでしょ、という感覚は残念ながら今の時代にはあわなくなってしまった。すごく古くさく感じてしまう。
それが通用したのは平成中期までだね。

登場人物もストーリーもむちゃくちゃだけど、おもしろかった。

リアリティもへったくれもない小説なので、品性を疑われそうで手放しに褒めるのはなんだか気恥ずかしい。

これはあれだな、小説で読むもんじゃないな。漫画とかアニメ向きだな(じっさい漫画化もアニメ化もされたらしい)。



空中都市アトラス、炭素経済といった奇抜な概念もおもしろかった。
難民をほっといて、目先のイメージアップのためにオリンピック開催する政府とか。ぜんぜん非現実的じゃないか。

戦争を合法化するってアイデアもおもしろい。
 核と同じく環境を汚染する化学兵器は國子たちの生まれるずっと前に根絶したはずだった。今や戦争も国際法に則って行わなければ、厳しいペナルティが課せられる。国際社会は戦争を人間活動のひとつとして受け入れる代わりに、大量破壊兵器の所有を完全に放棄させた。戦争法は相手の降伏を待たずして勝敗が決まる。戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる。この戦争法の導入によって、奇しくも戦争は長期化することがなくなった。それはゲリラ戦にも適用される。千人の兵隊のうち三百三十四人が死亡すると、國子たちは戦争に負けたとみなされる。これを無視して戦闘を継続すると、国連が黙ってはいない。革命政府を樹立しても無効とされ、正当性を剥奪されてしまう。國子は出撃するとき、国連のサイトに戦争法に則って闘うことにサインした。相手国には非公開だが、国連のコンピュータはこの戦争をモニターしている。戦争は監視され制御を受けることで合法的な活動となった。ただし勝敗は国連が裁定する。國子たちが最後のひとりまで闘って勝利したとしても無効だ。それがわかっているから、迂闊にガスの中に兵を送り出せないのだ。

なるほどねえ。泥沼化を防げて、案外人道的かもね。
ただし「戦力の三分の一か、国民の八バーセントが失われたとき、無条件降伏をしたものとみなされる」このルールだと、奇襲をかけて無警戒の市民八パーセントを一気に殺してしまうのがいちばん賢い戦略になってしまうので、そのへんは改良の余地ありだな。


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2019年6月4日火曜日

訓示語呂合わせ


えー、新年の訓示というとえらそうですが、今日はみなさんが仕事に取り組むうえでの心構えについて話したいとおもいます。

昔からこんなことわざがあります。

「いい国つくろう鎌倉幕府」

このことわざはですね、鎌倉幕府のような難しい事業でも、みんなで力を合わせればいいものができるよ、という意味ですね。
諸君にも、ぜひ「いい国つくろう」の精神で取り組んでもらいたい。

昨今はですね、個人主義といいますか、自分さえよければよいという考え方が蔓延しているようにおもいます。
けれど、仕事というのはそういうものではないと私はおもうんですね。
自分のため、会社のため、それだけではいけません。
チームのため、お客様のため、ひいては社会のため。こういう考え方を持っていない会社は長続きしないと私はおもうんです。

「人並みにおごれや」

これはマザー・テレサの言葉ですが、やはり博愛の精神を忘れてはいい仕事はできません。

自分だけよければいい、「水兵リーベぼくの船!」というような独善的な考え方は捨ててください。

そうすれば必ず、「なんと見事な平城京」と呼ばれるような立派な功績を残すことができるはずです。

また、過去の成功に溺れてはいけません。

昔から、「白紙に戻そう遣唐使」といいますよね。

遣唐使のように一世を風靡したものでも、時がたてば時代遅れになってしまう。
こうした時流の変化に取り残されないために、常に自己研鑽を怠ってはいけません。

せいいっぱいひたむきに努力する、「しゃかりきコロンブス」じゃなかった、「意欲に燃えるコロンブス」の精神で励んでください。

それでは、今年も4649お願いします。

2019年6月3日月曜日

刺青お断り


多くの銭湯や銭湯には「刺青お断り」の貼り紙がある。

ぼくは刺青もタトゥーも入れていないからべつにかまわないんだけど、ふと「刺青お断り」はなぜ許されるんだろうか、と疑問におもった。


「刺青の人お断り」は、「タオルを湯船につけてください」や「身体をよく洗いながしてから湯船につかってください」とはちがう。

なぜなら、刺青はそれ自体が他人に迷惑をかけるものではないから。

「いやわたしは刺青を見るだけでも不快だ。だから迷惑だ」という人もいるだろうが、それは禁止の理由にならない。
たとえばぼくは刺青を入れてようが入れてまいが、他の男の裸を見るのが不快だ。
太ったおじさんのケツなんか見たくない。でもそんなことを言いだしたら公衆浴場自体が成り立たなくなる。
個人の好き嫌いをもって入場制限をすべきではない。


「刺青お断り」というのは要するに「ヤクザお断り」だ。

でも「ヤクザお断り」と書いたって「おれはヤクザじゃない」と言われてしまえばそれまでなので、わかりやすい外見的特徴である刺青を「ヤクザを表す記号」として入場禁止のシグナルにしているわけだ。

でも刺青はヤクザは一対一で対応するものではない。
刺青を入れていないヤクザもいるし、ヤクザじゃないけど刺青を入れている人もいる。
「刺青を入れている人はヤクザであることが多いだろう」というあやふやな根拠で、一律に入場を制限してもよいものだろうか。

ある属性に多い特徴を持って一律に禁止する。
ずいぶん乱暴な話だ。
これが差別でなくてなんだろう。
「〇〇村出身者は犯罪者が多いので〇〇村出身の人間は雇いません」と同じではないだろうか。

「スーツを着ている人は男性が多いので、この女性用トイレはスーツの人禁止です」としてもよいだろうか。だめに決まってる。


ふうむ。
考えれば考えるほど「公衆浴場は刺青禁止」と「女性用トイレはスーツ禁止」が別物とは言えなくなってきた。

考えてみれば、トイレだって自己申告だ。
入るときに戸籍の提示も求められないし、パンツを脱いで見せるわけでもない。
「女っぽければ女性用トイレに入っていいし、男っぽければだめ」というあやふやなルールでやっている。

だったら公衆浴場も自己申告でよしとするのがスジじゃないだろうか。
「ヤクザお断り」と書いておく。それだけ。

どうせヤクザの入場を防げないんだからそれでいいんじゃないかな。
こっちとしても、「刺青丸出しのわかりやすいヤクザ」よりも「どこにでもいるふつうのおじさんだとおもっていたら実はヤクザだった」のほうがぞっとするし。


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