2022年2月28日月曜日

1~3歳が好きな絵本

 次女(現・3歳)が1~3歳のときに好きだった絵本。


もいもい

 幼児教育の研究者が実験をおこなった結果、もっとも多くの赤ちゃんを引き付けたという触れ込みの絵本。長女のために買ったのだが長女はあまり食いつかなかった。が、次女が1歳ぐらいのときは大好きだった。誰にでもウケるわけではないようだ。そりゃそうか。

「もーい、もい」「もももい、もい」「もいもい まいまい むいむい」といった意味のない音が並んでいるだけだが、読むたびに次女はにこにこ笑っていた。よく長女が次女のために読んであげていた。


ノンタンシリーズ

 1976年に第1作が発表されてから、今なお日本中の子どもたちに愛される大人気シリーズ。正直、後半の話は微妙なものが多いが(→ 【読書感想文】ノンタンシリーズ最大の異色作 / キヨノサチコ『ノンタン テッテケむしむし』)、初期の作品は子ども受けがいい。

 次女が特に好きだったのは『ノンタンおやすみなさい』。はじめて何度も読んでくれとせがんできたのはこの絵本だった。はじめは図書館で借りたのだが、あまりに気に入ったので購入。毎日毎日くりかえし読まされ、次女は文章をおぼえてまだろくにしゃべれないのに「やーめたやめた、かくれんぼやーめた」といっしょに言っていた。

 さすがロングセラー絵本。何十年たっても子どもを引きつける。ちなみにぼくも子どもの頃この絵本を好きだったらしい。


わにわにシリーズ

 これは大人が読んでもおもしろい。
 何作かあるが、基本的に登場人物はわにわにただひとり(『わにわにとあかわに』だけはもうひとり出てくるが)。わにわにが風呂に入ったり、けがをしたり、お祭りに行ったりするだけである。当然ながら会話もない。ひとりで風呂で歌うぐらいだ。

 しゃれたセリフもなければ、奇をてらった行動もない。なのに妙にユーモラス。ふしぎな味わいだ。わにわにがひとりでの生活を満喫するだけなのだが。『孤独のグルメ』にもちょっと似ている。


たいこ

 きもかわいいキャラクターが次々に出てきて、ただたいこを叩くだけ。説明もなければ、台詞もほぼない。擬音語と叫び声しか出てこない。なのにちゃんと起承転結がある。

 これはたぶんほとんどの子どもがおもしろがるんじゃないかな。大人でも楽しい。


あきらがあけてあげるから

 21世紀の大人気絵本作家・ヨシタケシンスケさんの作品。この人の絵本は抽象的な概念を扱ったりするのでちょっと大きい子向けのものが多いが、次女は妙にこの絵本が大好き。

 三歳児が読むにはちょっと内容がむずかしいとおもうのだが、毎晩「『あきらがあけてあげるから』よんでー」と持ってくる。
 毎回あきらが包み紙を開けられなくて暴れるところで笑い、家を開けるところで「ねてたのにー。トイレ行ってたのにー」と喜び、地球を開けるところで「うちゅう!」と叫ぶ。

 ヨシタケシンスケさんの絵本は何冊か持っているが、この人はお話を広げるのがほんとにうまい。些細なこと(この本だと「チョコの包み紙を開けられない」)からだんだん発想を飛躍していって、最終的には家を開けたり地球を開けたりする。だがエスカレートさせるだけでは終わらず、いったんクールダウンしてから最後にほのぼのするオチを持ってくる。話の運びがうまい。上質な落語を聴いているよう。

『なつみはなんにでもなれる』もおもしろい。次女はどちらも大好きだ。

 大人が読んでもおもしろいんだけど、『あきらがあけてあげるから』に出てくる「ぜんぶひとりであけられるようになったら、もうおとうさんはいらなくなっちゃうかもしれないだろ?」は読むたびに切なくなってしまう。



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2022年2月25日金曜日

いちぶんがく その11

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。




女は、その暗がりのなかで、暗がりよりももっと暗かった。

(安部 公房『砂の女』より)





テレビという生き物が、死ぬ音が聞こえた。

(朝井 リョウ『世にも奇妙な君物語』より)





彼女の横に並んだとたん、私もあの中学男達と同様に、腐ったジャガイモになるのだ。

(さくらももこ『たいのおかしら』より)





「俺はおまえら日本人のことを、時々どいつもこいつもぶっ殺してやりたくなるよ」

(金城 一紀『GO』より)





噴火のごとく怒り、噴石のごとく吼えている。

(横山 秀夫『ノースライト』より)





「恥の出所まで答えなきゃならないんですか?」

(湊 かなえ『花の鎖』より)





姉は鼻が大きいせいか、生乾きや嫌な匂いにとても敏感です。

 (阿佐ヶ谷姉妹『阿佐ヶ谷姉妹の のほほんふたり暮らし』より)





絶滅の危機に瀕している本が私に集められるのを待っているのだ。

(鹿島 茂『子供より古書が大事と思いたい』より)





「俺は、殺人そのものにしか興味はない」

(今野 敏『ST 警視庁科学特捜班』より)





『現実世界なんかバカだ』とディジエントは宣言した。

(テッド チャン『息吹』より)




 その他のいちぶんがく


2022年2月24日木曜日

【ボードゲームレビュー】海底探検

海底探検

【かんたんなルール】

  • プレイヤーは潜水艦の乗組員。サイコロ(1~3の目しかない)を2個振って深海に潜り、財宝を持ち帰るのが目的。
  • 酸素があるうちに戻ってくれば財宝を獲得。戻ってくる前に酸素が尽きれば財宝を失う。
  • 酸素は有限、さらに全プレイヤーで酸素を共有しているので、酸素がなくなれば潜水艦に戻っていないプレイヤーは全員オダブツ。
  • 失った財宝は再び深海に沈む
  • 深く潜るほど財宝に書かれた得点が大きくなる。
  • 財宝を手にするごとに酸素の減りが早くなる。
  • 3ゲームおこない、合計得点が多いプレイヤーが勝利。


 さほどむずかしくないので、8歳の娘でも一度やってみるだけでルールを理解できた。ただしルールは理解できても、「どこで引き返すか」という判断ができるようになるには何度かプレイしてみないとむずかしい(これは大人でも同じ)。


 このゲームの醍醐味は、なんといっても「限られた酸素を全プレイヤーで共有している」ところだろう。
 財宝を手に入れなければ酸素は減らないので、かなり深いところまで潜っていける。だが誰かひとりが欲張って財宝を手にすると、どんどん酸素が減っていく。
 だから誰かひとりが欲張って財宝を手にすると、他のプレイヤーも「だったら私もとろう」「おれも」となる。そして酸素の減りが加速する。

 ゲーム理論の「しっぺ返し戦略」のようなものだ。「やられたらやりかえす」が最適解となるので、「誰が最初に仕掛けるか」の駆け引きがおもしろい。


 また、海底探検がゲームとしてうまくできているのが、逆転のチャンスが大きいこと。

 3ゲームプレイするのだが、回を重ねるごとにマス(=財宝)が減っていくので、1回目より2回目、2回目よりも3回目のほうが早く深海に潜れるようになる。また財宝を手にしながら戻ってこれなかったプレイヤーがいた場合、その財宝はまとめて沈んでいるのでそれを手にすれば一挙に高得点を稼げる。

 1ゲーム目はせいぜい20点ぐらいしかとれないが、3ゲーム目では40点ぐらい稼げることもある。序盤で大勢が決してしまうとつまらないが、後になるほど高得点を稼げるので最後まで盛り上がりを失わなくていい。


 箱には、プレイ人数は2~6人とあったが、3人ぐらいでやるのがよさそう。5人でやったところ、酸素がものすごいスピードで減っていってほとんどのプレイヤーが財宝を手にできなかった(引き返すタイミングが悪かったのもあるけど)。6人でやったら深いところの財宝なんてぜんぜん手にできないんじゃないだろうか。

  何人でプレイしても「酸素の総量が25」なのが良くないんだよな。そのへんは自分で勝手に調整して、「6人のときは酸素の総量を50にする」とかにしたほうがおもしろくなりそう。


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2022年2月22日火曜日

【読書感想文】奥山 真司『地政学 サクッとわかるビジネス教養』

地政学

サクッとわかるビジネス教養

奥山 真司

内容(e-honより)
新型コロナウイルス後、中国がより台頭する!?イギリスにとってEU離脱がチャンスな理由。アメリカにとって超重要な沖縄基地。本当の世界情勢がわかる!防衛のプロへも指南、地政学の第一人者が伝授!


 これまでに何冊か地政学の本を読んだことがあったので、この本に書いてあることはほとんど過去に読んだことのあるものだった。

 図解多めで、文章少なくて、入門の入門といったところ。一冊でも地政学の本を読んだことのある人には読むところが少ないだろう。

 しかも中盤以降は地政学あんまり関係なく、現在の世界情勢を浅ーく説明しただけ。

「サクッとわかる」というより「ザックリとしかわからない」のほうが近い。


 地政学ってすごくおもしろい学問だとはおもうけど、なーんか後付け感が拭えないんだよね。
 何冊か本を読んだけど「〇〇も〇〇も〇〇も地理的要因によるものです。地政学で全部説明できるんです」と解説されると「なるほど」とおもうのだが、同時に「後からなんとでも言えるよな」ともおもう。「リーマンショックも東日本大震災も私には前々からわかっていました」って言う教祖様とおんなじでさ。

 全部説明できるんなら、これから起こることを全部説明してくれよ。

 ジョージ・フリードマン『100年予測』は、地政学を使って果敢にも未来予測に挑戦していた。全部説明できるというのであれば、そんな勇気を見せてほしい(フリードマンの予測は今のとこあたってないけど)。




 新たになるほど、とおもったのは、

「新型コロナウイルスの流行により、グローバリズムの流れにストップがかかるので、すると、シーパワー(海洋の力が強い)国家は大きなダメージを受け、ランドパワーの国であり国内経済規模も大きい中国が有利になる」

「日本と韓国がそこそこ良好な関係を築いている現在は例外的な時代」

といったことぐらい。

「地政学って何? ぼ、ぼ、ぼくにはよくわからないんだなあ」という人以外にはあんまりおすすめしない本でした。


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【読書感想文】茂木 誠 『世界史で学べ! 地政学』

【読書感想文】 ジョージ・フリードマン『続・100年予測』



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2022年2月21日月曜日

【読書感想文】橘 玲『不愉快なことには理由がある』

不愉快なことには理由がある

橘 玲

内容(e-honより)
科学が急速に発展した今、残っているのは問題解決が新たな問題を生む、やっかいなことばかり。民主主義、愛国心、お金、家族や恋愛…。これらの“不愉快な出来事”を、「現代の進化論」をもとに読み解こうと思い立った著者。AKB48で政治を考え、『ONE PIECE』でフランス革命を論じる―意外な物事と結びつけ世の中を斬る。「週刊プレイボーイ」の好評連載をまとめたスリリングな社会批評集。


 某レビューサイトでこの本のレビューを見たところ、
「すごい! 目からウロコだ! マスコミが伝えない『不都合な真実』を教えてくれる!」的なレビューを書いている人がいた。心配だ。

 いやいや、この本に書かれてることは与太話ですよ。たぶん著者ですら本気で信じてるわけじゃないですよ。

 もちろんパーツパーツで見れば書いてあることほとんど正しいんだけど(というかいろんな本からのつまみ食い)、論理的にはずいぶん飛躍がある。

「行動生物学で見ると人間には〇〇のときには××をしがちな習性がある」が正しくても、「××が起こったのは〇〇によるものだ」が真実とは限りませんよ。

 著者はすごく賢い人だから、その論旨が乱暴なことは百も承知だろう。でも、言い切った方がおもしろいから言い切っている。この事象の原因は〇〇だ、と。
 そこをわかった上で「はっはっは。おもろい意見ですなあ」と話半分に受け取るのが、この本の正しい読み方だ。落語家の過激な意見と同じ。

 与太話なんだから、「目からウロコだ!」的な読み方をしちゃだめだよ。




 論旨は乱暴だけど、いや乱暴だから、話はおもしろい。おもしろすぎる話には要注意だ。すっと腑に落ちる話はたいていうそだ。

 いろんな本のおいしいところどりをしてくれているので、てっとりばやくいろんな研究や学説を知れて楽しい。

 私たちの抱える生きづらさを、進化心理学は、石器時代の脳が現代文明に適応できないからだと説明します。
 石器時代のひとびとが幸福だったかどうかはわかりませんが、アフリカのマサイ族の人生の満足度を調べると、城のような豪邸やプライベートジェットなど、望むものすべてを手に入れたアメリカの大富豪とほとんど変わらないことがわかっています。
 石器時代人は狩猟と採集で食料を得ながら、家族(血族)を中心とする数十人のグループ(共同体)で暮らしていました。彼らにとっては共同体に帰属していることが生き術で、仲間から排除されれば死が待っているだけです。このような環境が400万年もつづけば、利己的な遺伝子のプログラムは、家族や仲間と共にいることで幸福を感じ、共同体から排除されることを恐れるように進化していくはずです。
 それに対して、古代エジプトやメソポタミアに文明が発祥して貨幣が使われるようになってから、まだわずか5000年しか経っていません。私たちはもともと、貨幣の多寡と幸福感が直結するようにはできていないのです。

 金持ちになっても人間はあまり幸福にはなれない。これはほんとそうだとおもう。

 ただ、それが〝遺伝子のプログラム〟によるものかというと眉唾だ。だって「貨幣を使うようになってからの歴史が浅いから」と言いだすのなら、じゃあなんで人は必死に金儲けをするのか、ときには他人をだましたり殺したりしてでも貨幣を求めるのか、とか説明できなくない? 都合のいいところだけ〝遺伝子のプログラム〟のせいにしちゃうのはずるいなあ。

「貨幣を使うようになってからの歴史が浅いことが、貨幣を貯めても幸福になれない原因だ」がほんとうなら、「穀物や肉をたっぷり蓄えたら幸福になれる」ってことになるよね? 人類は誕生してからずっと食物を求めてきたんだから。
 でもたぶん、食物を蓄えるだけでも幸福にはなれない。

 つまり著者のこの説明はたぶんウソだ。

「金持ちになったからといって必ずしも幸福にはなれない(A)」は真実だし「人類が貨幣を使うようになってからの歴史はまだ浅い(B)」も真実だが、「(A)の理由は(B)だ」はウソだ。




 多数決の話。 

 ここで、典型的な農耕社会を考えてみましょう。私の土地の隣にはあなたの土地があり、この物理的な位置関係は(戦争や内乱がないかぎり)未来永劫変わりません。あなたは生まれたときから私の隣人で、二人が死んだ後も、私の子孫とあなたの子孫は隣人同士です。
 農村では、灌漑や稲刈り、祭りなど、村人が共同で行なうことがたくさんあります。そんなとき、一部のひとだけが損失を被るような「決断」をすると、それ以降、彼らはいっさいの協力を拒むでしょう。これでは、村が壊れてしまいます。
 このことから、土地にしばりつけられた社会では、「全員一致」以外の意思決定は不可能だということがわかります。もちろんときには、誰かに泣いてもらわなければならないこともあるでしょうが、そんなときは、村長(長老)が、この借りは必ず返すと約束することで納得させたのです。

(中略)

 それでは、多数決による決断はどのようなときに可能になるのでしょうか。
 もっとも重要なのは、意に沿わない決定を下された少数派が自由に退出できることです。農耕(ムラ)社会では土地を失えば死ぬしかありませんから、そもそもこの選択肢が存在しません。
 古代ギリシアは、地中海沿岸の地形が複雑で、共同体(ポリス)は山や海で分断され、ひとびとは交易で暮らしを立てていました。ポリスを移動することも比較的自由で、文化や習慣、言語が異なるひとたちとの交流も当たり前でした。弁論によって相手を説得し、最後は多数決で決断するきわめて特殊な文化は、このような環境から生まれたので す。

 そうだよなあ。多数決って、少数派を多数派が数の力でねじふせるってことだから根本的に「恨みを残す」制度だ。おまけに決断者がいないので無責任な制度でもある。

 だから重要なことを決めるのに多数決はなじまない。「今日の昼めしどうする?」レベルの話なら遺恨は残さないだろうが、「新居をどこに建てる?」「甲子園予選の先発投手誰にする?」みたいな重要なことを多数決で決める家族やチームはないだろう。あれば、きっとすぐに離脱者が出て組織は崩壊する。

 もう一度書くが、多数決は重要なことを決めるのに適当な手段ではない。

 じゃあなぜ国政選挙や生徒会選挙で多数決が使われるかというと「てっとりばやい手段」だからだ。
 多数決はぜんぜん公平でもないし民主主義的でもないし遺恨は残すし責任の所在があいまいになるし悪いことだらけだけど、「有限の時間でてっとりばやく決められる」という理由があるから便宜的に採用されているだけだ。じゃんけんやあみだくじで決めるのと大差はない。
 満場一致になるまで全国民が話し合ってたら寿命が何年あっても足りないから多数決をとっているにすぎない。

 それはそれでしかたないんだけど、問題は、多数決はとりあえず採用している欠陥だらけの方法だということを忘れて「多数決で決めたんだから文句言うな」なんてことを言いだす輩が現れることだ。

 そんなに多数決がいいとおもうのなら、「自分が誤認逮捕されたとして、裁判員の多数決だけで有罪になったら納得いくか」を想像してみたらいい。わかったか、二度と「選挙の結果に文句言うな」なんて口にするんじゃねえぞ。「選挙をやりなおせ」は乱暴だが「選挙結果は民意の反映ではない」はれっきとした事実だ。




 アメリカの企業経営者(CEO)の大多数が白人男性であることはよく知られていますが、じつは彼らの多くは長身でもあります。アメリカ人男性の平均身長は175センチですが、大手企業の男性CEOの平均身長を調べると182センチでした。さらに、188センチ以上の男性はアメリカ全体で3.9%しかいないのに、CEOでは3分の1近かったのです。
 直感力はとても役に立ちますが、有効な領域は限られています。だからこそ私たちは、しばしば見栄えのいい愚か者をリーダーに選んでヒドい目にあっているのです。

 日本でも見た目がいいだけの政治家がたくさん票を集めて当選したりしているので、この傾向は万国共通だろう。

 人間のこういう性向は知っておいた方がいいね。自分たちがいかに見る目がないかを。面接や投票のときに、自分では理性的に判断を下しているようで、実は直感的な好悪で判断しているだけだということを。

 

「見栄えのいい愚か者」を信じちゃだめですよ。あと「わかりやすくておもしろすぎる話」もね。特に行動生物学を引き合いに出して社会現象を読み解くような。

 残念ながら世の中はそんなにシンプルにできてないんで。


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【読書感想文】おもしろすぎるので警戒が必要な本 / 橘 玲『もっと言ってはいけない』



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2022年2月18日金曜日

【カードゲームレビュー】ヒットマンガ

ヒットマンガ

 ルールはいたってかんたん。遊び方はかるたと同じ。読み手が札を読み、他のプレイヤーがそれを取る。

 ただ、かるたと違うのは読み札には絵(マンガのひとコマ)しか描かれていないこと。読み手は、「そのキャラクターが言いそうな一言」を考えて声に出し、他の人はその台詞から絵を逆算するのだ。

 言ってみれば、読み手は大喜利の「写真で一言」をおこない、他のプレイヤーはその回答から「お題」をあてるわけだ。


 自分が読み上げた札を誰にも取ってもらえなかった場合、読み手にペナルティがあるので、なるべく伝わりやすいセリフを考えないといけない。

 これが意外とむずかしい。というのも、似たシチュエーションの絵が何枚かあるのだ。本当のマンガだと「おまえは誰だ!」みたいな短いセリフが多いが、それだとなかなか絞れない。

 そこで、絶妙なセリフを考えることが必要になるわけだが、それだけでなく演技力も必要となる。言い方ひとつで、女性らしさ/悪役らしさ/コミカル/シリアス/哀愁などを感じさせないといけないわけだ。

 ぼくは人より羞恥心が少ない人間なので全力で「あたしはプリティーアイドル♪ みんな応援してね♡」みたいなセリフでも言えるが、これは自意識過剰な中学生ぐらいだときつそうだ。逆に、自分の殻を破るトレーニングにもなるかもしれない。表現力や想像力が鍛えられそうだ。

 なによりいいのは、ルールがめちゃくちゃかんたんなこと。誰でも20秒ぐらいでルールを理解できる。子どもでもすんなりわかる。


 ただ、マンガを読みなれていない人にはむずかしいかもしれない。

 お正月に妻の実家でやったのだが、ほとんどマンガを読まない義父はぜんぜん札をとれなかったし、読むのも下手だった(他の人に伝わらない)。

 またうちの八歳の娘も、読んでいる漫画の幅が狭い(藤子不二雄とちびまる子ちゃんとコナンぐらい)ので、〝漫画の文法〟をいまいち理解していない。この表情はこの感情を表す、この効果線はこういう状況に使われる、といった〝漫画の文法〟を知らないとむずかしいんだよね。

 とんでもなくシンプルなルールでありながら意外と奥が深い。


 直感的なルールでわいわい盛り上がれるので、初対面の人とでも楽しめそう。初対面の人とカードゲームやるってどんな状況だよ。

 欠点としては、絵が有限個しかないので同じメンバーで何度もやるゲームではないということ。
 絵を変えた続編を出してほしいな(「リニューアル版」もあるが、これは単に枚数を減らしただけらしい)。


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2022年2月17日木曜日

ツイートまとめ 2021年10月



小室ファミリー

ワクチン

出木杉

揖保と損保

小難しい本

おれだったら

ワールドカップ

夢の森

昔話

今の人は

古本屋

最高の子孝行

プロは意外と雑に取り扱ってます

仮にも

空似

クイズ

街頭演説

リリック

小選挙区制

2022年2月16日水曜日

【読書感想文】早坂 隆『幻の甲子園 ~昭和十七年の夏 戦時下の球児たち~』

幻の甲子園

昭和十七年の夏 戦時下の球児たち

早坂 隆

内容(e-honより)
昭和十七年夏の甲子園大会は、朝日主催から文部省主催に変更。さらに、戦意高揚のため特異な戦時ルールが適用され、「選手」としてではなく「選士」として出場することを余儀なくされた。そして、大会後は「兵士」として戦場へ向かった多くの球児たちの引き裂かれた青春の虚実を描くノンフィクション大作。

 高校野球選手権大会(いわゆる「夏の甲子園」)が昭和十六~二十年の間は「戦争のため中止」となっていたことは有名な話だ。
 だが、昭和十七年に朝日新聞社主催ではなく、文部省主催で甲子園で野球の大会がおこなわれたことはあまり知られていない。ぼくはいっとき高校野球の本や雑誌を買い集めていた高校野球フリークだったが、昭和十七年大会のことは知らなかった。高校野球選手権大会ではないため、公式の記録には残っていないのだ。

 昭和十六年大会は戦火拡大のため中止(選抜大会は開催)。翌十七年大会も中止となるかとおもわれたが、「大日本学徒体育振興大会」という名前の大会がおこなわれることになり、その中の一種目として甲子園球場で野球大会が開催されることになったのだ。

 戦前からの中等野球、戦後の高校野球という長い歴史の中で、この昭和十七年の大会だけが「国」による主催である。正式名称は、本来、名乗るべき「第二十八回大会」ではなく、「第一回全国中等学校体育大会野球大会」と銘打たれた。朝日新聞社の記録は今も「昭和十六~二十年 戦争で中止」となっている。
 昭和十七年の大会が「幻の甲子園」と呼ばれる所以である。




 戦時下、さらには国の主催ということでそれまでの選手権大会とは異なる部分もあったという。

 大会前には、主催者側から「選士注意事項」なる書類が各校に配られた。それによると、打者は投手の投球をよけてはならない」とある。「突撃精神に反することはいけない」ということであった。
 さらに、選手交代も認められないとされた。ルールとして違反者への罰則規定があるわけではなかったが、先発メンバー同士が相互に守備位置を入れ替わることは認められても、ベンチの控え選手と交代することは、原則として禁ずるという制約であった。例外として、立つことができないほどの怪我をした場合は認められるが、そうでない限り、選手交代は禁止だというのである。「選手は最後まで死力を尽くして戦え」ということであった。このような規則はもちろん、従来の大会には存在しなかった「新ルール」である。

 戦時中ならではのルールだ。死力を尽くして戦え。

 この交代禁止ルールのせいで、二回戦の仙台一中ー広島商では両チームあわせて四十四の四死球、十対二十八というひどい試合になっている。気の毒に。投げている方も、守っている方も、観ている方もうんざりだっただろう。誰も得しない。

 さらに準決勝の第二試合が雨天中止になったせいで(死力尽くさないとあかんのに雨降ったら試合やめるんかい)、翌日の午前中に準決勝の再試合、勝ったチームがその日の午後に決勝戦というむちゃくちゃな日程になっている。片方だけダブルヘッダー、しかもそのチームのエースは肩を負傷したまま投げている。

 こんな無謀なことやってるんだもん、そりゃ戦争にも負けるわ。

 また、ユニフォームの英語表記なども禁止されたという。

 ちなみに、「戦時中は『ストライク』は『よし』、『ボール』は『だめ』と言いかえた」という話が教科書にも載っているのでよく知られているが、あれは職業野球(プロ野球)の話で、この昭和十七年大会ではふつうにストライク、ボールといった言葉を使っていたそうだ。




  戦争中なので、当然ながら選手たちもその周囲の人たちも野球に専念できたわけではない。

 昭和十七年、エースの離脱という危機に直面しながらも、福岡工業は地方予選を勝ち進んだ。しかし、大事な地区予選の決勝戦の前には、さらなる衝撃がチームを襲った。監督の中島のもとに、召集令状が届いたのである。
「決勝戦の時、監督は頭を丸刈りにして、大きな鞄を持ってベンチ入りしていました。決勝戦を見届けてから、そのまま入隊の準備のために故郷に帰るということでした」

 このため福岡工業は、大会本番では監督不在で戦うことになったそうだ。容赦ない。

 また、甲子園球場に来ていた観客が場内放送で徴兵されたことを告げられ、周囲の観客が拍手で見送るシーンがあったこともこの本で書かれている。




 高校野球ファンなら、戦前の甲子園には満州や朝鮮や台湾からも代表校が参加していたことを知っているだろう。
 幻の十七年大会にも台湾代表が出場していた。台湾代表・台北工。 彼らは台湾大会を勝ち抜いたが、甲子園大会に出場するかどうか、つまり本土に行くかどうかでひと悶着あったという。

 昭和十七年、東シナ海や台湾海峡、沖縄近海といった水域には、すでに米軍の潜水艦が出没している。「内台航路」も、紛れもない戦場と言えた。
 米軍は軍艦だけでなく、民間の船でも容赦なく攻撃していた。そういった状況を受けて、学校側からは、
「出場を取りやめた方がいいのではないか」
という声が上がった。校長の二瓶醇も、生徒たちから犠牲者を出すわけにはいかず、躊躇せざるを得なかった。しかし、野球部としては、容易に呑める話ではない。
「死んでも本望だ」
 部員たちは口々にそう話し合ったという。
 そこで学校側は、甲子園メンバーの十四名に対し「親の承諾書」の提出を求めることにした。万が一の時の責任の所在を、学校側から各家族へと転嫁させるためであった。学校側としても、生徒たちの思いを実現させたいという気持ちは十分にあり、そんな中で下したギリギリの判断だったと言える。

 大げさでもなんでもなく、まさに命がけの参加だ。

 しかし、「死んでも本望だ」という言葉にはむなしさを感じてしまう。もちろん選手たちは本心からそうおもっていたのだろう。死ぬ危険があっても甲子園に行きたい、と。

 2020年の選手権大会もコロナ禍のため中止になったが、あのときの選手だってほぼ全員が「感染したとしてもやりたい」とおもっただろう。

 部外者からすると「命のほうが大事だろ」とおもうけど、十代の若者からしたら「全人生を投げうってでも出場したい」なんだろう。どちらが正しいとはいえない。

 ただ、「甲子園に出られるなら死んでも本望だ」も、「特攻隊で命を捨てる」も、その気持ちはほとんど変わらないようにおもう。

 若者が「死んでも本望だ」という気持ちを持つのはしかたないが、やっぱり全力で止めるのが周囲の大人の責務じゃないかとおもう。どれだけ恨まれても。

 この本には「親の承諾書」の提出を拒んだ父親がひとりだけいたことが書かれているが、その父親こそほんとに思慮深くて勇気のある人だとおもう(まあその人も周囲に説得されて結局承諾書にサインしてしまうんだけど)。




 この本には「幻の甲子園」の後の選手たちの人生も書かれている。その後の運命はばらばらだ。出征して命を落とした人、シベリア抑留された人、無事に生還してプロ野球選手になった人。出征したおかげで命を落とした人もいれば、出征したおかげで被爆を免れた広島商の選手も出てくる。

 彼らの命運を分けたのは、才能でも努力でも意志でもない。運、それだけだ。誕生日が数日遅かった、徴兵検査のときに野球ファンだった人が便宜を図ってくれた。そんな些細なことで命を救われている。


 まさに死と隣り合わせ。そんな時代だったにもかかわらず、いや、そんな時代だったからこそ、人々は野球に打ちこんでいた。いつ死ぬかわからない。死を回避する方法などない。そういう時代にこそ娯楽は必要なのだろう。選手だけでなく観客にとっても。

 戦争と比べられるようなものではないが、コロナ禍の今の状況も当時と似ている部分がある。誰が感染するかわからない、もはや努力だけでは防ぎきれない、感染対策を理由に様々な娯楽イベントが中止になっている。

 子どもたちを観ていると、気の毒になあとおもう。
 うちの長女は小学校に入ったときからコロナ禍だったので、各種イベントは中止または縮小があたりまえ。友人宅との行き来もない。こないだ、『ちびまる子ちゃん』の家庭訪問のエピソードを観て「家庭訪問なんかあるんや」とつぶやいていた。存在すら知らないのだ。

 知らなければまだいいが、中高生や大学生はかわいそうだ。数々の楽しいイベントが中止。

 学校は勉強をする場だが、勉強だけする場ではない。命を守るのは重要だが、それと同じくらい楽しいことも大事だとおもう。

 今は「学生は我慢を強いられるのもしかたない、経済活動はストップさせるな」になっているが、本当は逆にすべきじゃないかね。「命の危険があっても遊びたい」人はいっぱいいても、「命の危険があっても仕事をしたい」人はそんなに多くないんだから。




 いい本だったけど、個人的にいらないとおもったのは試合展開の詳細。

 選手交代ができないせいでこんなプレーが生まれた、みたいな「戦時中の大会ならでは」のエピソードはおもしろいんだけど、何回にどっちの高校が送りバントで二塁までランナーを進めるも無得点に終わった、なんていう八十年前の野球の試合の内容はどうでもいいです。試合内容自体は戦時中だろうと平和な時代だろうとあんまり変わらないからね。

 「戦時中におこなわれた幻の甲子園の舞台裏」というコンセプトはすごくおもしろかったし、丁寧な取材をしていることも伝わってくるんだけどね。


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若い人ほど損をする国/NHKスペシャル取材班 『僕は少年ゲリラ兵だった』

生きる昭和史/ 小熊 英二 『生きて帰ってきた男』【読書感想】



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2022年2月14日月曜日

【読書感想文】『ズッコケ時間漂流記』『花のズッコケ児童会長』『ズッコケ恐怖体験』

  中年にとってはなつかしいズッコケ三人組シリーズを今さら読み返した感想を書くシリーズ第四弾。

 今回は6・11・14作目の感想。

(1~3作目の感想はこちら、4・5・7作目の感想はこちら、8~10作目の感想はこちら


『ズッコケ時間漂流記』(1982年)

 今回の舞台は、過去。子ども向けの物語の舞台として定番だね。音楽準備室の鏡が過去とつながるトンネルになっており、三人は江戸時代にタイムスリップしてしまう。そこで出会ったのは平賀源内。三人は源内に未来から来たことを証明するが……。

 江戸の風俗などよく調べて書かれているなという気にはなるが、物語としてはややこぢんまりとしている。江戸にタイムスリップといっても二日だけだし、特に何をするわけでもなく戻る方法を探してうろうろしていただけ。
 ピンチを脱出したのも自分たちの活躍ではなく、ただ助けてもらっただけ。せっかくのSFなのに地に足がつきすぎているきらいがある。

 とはいえゴム飛行機を作って江戸の空に飛ばすところは痛快。きっと誰しも「過去に行ったら現代の知識でちやほやされるにちがいない」と考えるだろうが、いざ江戸時代に行っても困ってしまうだろう。現代人の持つスキルや知識なんて、現代の道具がなければほとんど何の役にも立たないわけで。

 三人もその問題に直面する。テレビやコンピュータの存在を知っているが、それを作ることはもちろん、原理を説明することすらできない。ゴム飛行機を作れただけでも上出来だろう(もっともハカセが三輪車の絵を描いて平賀源内をうならせているが、大八車もあった時代の人が三輪車の絵を見ただけでそこまで感心するだろうか?)。

 今作の主人公はなんといってもハカセ。関ヶ原の合戦の年号ぐらいは歴史に詳しい子なら覚えているかもしれないが、田沼意次の功績とか鎖国が解かれた年とかを(いくら前日に歴史の本を読んだからといって)記憶しているのはすごい。
 歴史好きの小学生はけっこういるけど、たいていは戦国武将とか新撰組とかで、天下泰平の江戸時代に詳しい子はめずらしい。ぼくが小学生のときなんか、水戸黄門と遠山の金さんしか知らなかったぜ。

 この物語の中で、平賀源内が殺人を犯してしまうのだが、史実でも平賀源内は殺人を犯して投獄→獄中死してるんだそうだ。小学生のときは知らなかったけど、このへんはちゃんと史実に基づいてるんだなあ。虚実交えたストーリーテリング、見事。

 ところで、この物語のキーパーソンである若林先生は「原子爆弾で死に絶えた若林家の血を後世に残すために江戸時代から二十世紀に行く」という設定だが、ズッコケシリーズで原子爆弾が出てくる作品は実はほとんどない。

『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』、『あやうしズッコケ探検隊』、『ズッコケ財宝調査隊』などでは戦争の影が描かれるのだが、原子爆弾については触れられない。
 三人組が住むミドリ市のモデルは広島市らしいので、原爆についての話題があまり出てこないのはちょっと意外な気がする。
 被爆経験者でもあった那須正幹氏にとって、原爆は小説の題材にするにはあまりに生々しかったのだろうか、と考えてしまう。
 まあそこまでたいそうなものではなく、原爆を出してしまうと「ミドリ市」が架空の町にならなくなるからってだけかもしれない。



『花のズッコケ児童会長』(1985年)

  津久田少年に喧嘩で負けたハチベエが、児童会長選挙で復讐を誓う
→ クラスの荒井陽子をかつぎだして後援会を結成。順調にメンバーを増やす
→ 後援会の選挙違反が明るみに出て陽子が出馬を辞退。メンバーが離れる
→ ハチベエが出馬を決意。はたして結果は……

と、起承転結がはっきりした作品。

 ブレイク・スナイダー『SAVE THE CAT の法則』という本( → 感想 )に、成功する脚本の構成パターンが紹介されている。
 悩み→ターニングポイント→お楽しみ→迫り来る悪い奴ら→すべてを失って→第二ターニングポイント→フィナーレ といったストーリーの定型が紹介されているのだが、『花のズッコケ児童会長』はまさにその王道パターン。


 ひさしぶりに読んで、改めておもう。名作だなあ。

 ぼくが小説を読んではじめて涙を流したのはこの作品じゃないかな。今回は娘に読んであげたのでさすがに泣かなかったけど、やっぱり涙を流しそうになった。

 今作のキーパーソンはふたり。スポーツ万能、特に柔道が強く、背も高くて顔もかっこいい、勉強もよくできる津久田少年。そして、運動が苦手で、引っ込み思案で、口下手な皆本少年。
 津久田少年には、皆本少年の気持ちがわからない。津久田少年だって何もせずに柔道ができるようになったわけじゃない。努力に努力を重ねて柔道が強くなったのだ。その自信があるからこそ、努力をしないやつが許せない。

 今でいうネオリベラリズムといったほうがいいだろうか。自由な競争を尊重し、公的機関による市場介入は最小限にする。極端にいえば、「負けたやつは努力が足りなかったのだからそいつが悪い」である。

 学校現場でもどっちかというとその考えが主流かもしれない。「がんばればなんでもできる」と教えることは、そのまま「失敗したやつはがんばりが足りなかったのだ」につながる。学校ではあまり「がんばってもどうにもならないこともある。生まれつき決まっていることも多い」とは教えない。

 だが、モーちゃんやハカセは津久田少年のネオリベラリズムに疑問を呈する。

「ぼく、モーちゃんのいいたいこと、すこしわかるな。つまり、モーちゃんは、児童会長になるひとは、勉強のできるひともできないひとも、力の強いひとも弱いひとも、みんなの気持ちがよくわかるひとがいいって、いってるんだと思うんだ。これは、ようするに、民主主義の問題だと思うよ。」
「民主主義? モーちゃん、いつから、そんな高級なこと考えるようになったんだ?」
 ハチベエが、目玉をむいた。
「べつにとくべつなことじゃないさ。民主主義って、みんなの意見をよくきいて、それにしたがうっていうことなんだから。」
「それが児童会長と、なんの関係があるんだ。」
「児童会長も、おなじことだよ。学校の子どもたち、みんなの意見を、じっくりきいて、それにしたがってくれなきゃあ。それも、とくに弱い立場のひとの意見をね。津久田くんは、正義館の子の意見や、スポーツの好きな子の意見は尊重するかもしれないけど、それいがいの子の意見を、ちゃんときいてくれるかなあ。」
(中略)
「問題は、心だよ。あの子は、たしかにたくましい花山っ子だよね。だから、たくましくない子や、たくましくなろうとしても、なれない子や、そんなにたくましくなろうと思わない子のことなんて、てんで相手にしないんじゃないかな。」

 この感覚、わからない人には一生わからないだろう。一億総活躍社会、なんていう人間には理解できないだろうな。活躍できない人や、活躍したくない人の心情は。

 そういう政治家がいたっていいとはおもうけど、あまりにも多すぎる。政治家になるのって99.9%は成功者なんだよね。家が金持ちで、勉強ができて、学歴が高くて、仕事で成功した人。努力できる人。だからそうでない人にはなかなか寄り添ってくれない。

 いっそ裁判員制度みたいに全国民から無作為に選んだほうがよっぽどマシになるかもしれない。

 話がそれた。そんなわけで、弱者として描かれる皆本くんにとって、いじめられているところを助けにきたハチベエは正義のヒーローである。だが、べつにハチベエはいいことをしたわけじゃない。ムカついたから喧嘩を売りにいっただけで、皆本くんを助けようなんて気はさらさらなかった。

 これがいい。ハチベエが人助けをしたりしたら、嘘くさいもの。己の欲望のままに行動したら、結果的に救われた子がいた。それでいい。「誰かのためにたたかう」なんて偽善だよ。


「ハチベエの児童会長選出馬」以外にも見どころの多い作品だ。

 ひとつは、女子との交流。放課後や休日に男子も女子も集まって、児童会長選挙に向けての作戦を練っている。こういうシーンはこれまでのズッコケシリーズではほとんど見られなかった(例外は『それいけズッコケ三人組』の『立石山城探検記』ぐらい)。
『探偵団』や『事件記者』でも女子は出てくるが、そこでの女子はあくまで〝敵〟だった。

 そう、昔の男子小学生にとって女子は〝別世界の住人〟もしくは〝敵〟だった。ぼくも、小学生のときに女子と協力して何かをした記憶がほとんどない。でも、だからこそたまに女子といっしょに何かをするときはテンション上がったものだ。劇の練習とか誰かの誕生日会とかで休みの日に女子と集まったときはわくわくしたなあ。

 ズッコケ三人組が女子と(一時的にではあるが)手を組むようになったのは、時代の変化のせいかな。あるいは女子の読者が増えたから、というもっと直接的な理由かもしれない。この作品以後、『株式会社』や『文化祭事件』など女子が味方になる作品が出てくる。

 しかし「陽子はかわい子ちゃんだから票が集まるはず」とか「かわいければ男子からの票が入るかもしれないが、あの顔では無理だろう」といった、今の時代の児童文学なら完全アウトな発言が随所に出てくるのは昭和だなあ。


 他にも、ハカセがアメリカ大統領選挙にも精通しているところを披露したり、事前運動を回避するために後援会を組織するといった本物の政治家さながらの悪知恵をはたらかせたり、組織が大きくなるにつれて末端が腐敗していってコントロールが効かなくなる様子を描いていたり、細部まで手を抜いていない。

 長いお話だとどうしても中だるみの部分が生まれる。それはズッコケシリーズも例外ではない。だけどこの作品に関してはどこをとってもおもしろい。めまぐるしく話が動くので退屈する暇がない。

 大人になって読んでも、子どものときとまったく同じように楽しめた。本当にすばらしい児童文学ってこういうもんだよな。



『ズッコケ恐怖体験』(1986年)

 ハカセのおじいちゃんの家に遊びに行った三人。ハチベエは不気味な老婆から「おたかの亡霊を呼び寄せた」と告げられ、さらに肝試しで道に迷った際に奇妙なな体験をする。
 町の人々は急に三人に対してよそよそしくなり、追いかえされるようにして家に帰ることに。だが家に帰った後も奇妙な現象は続き……。


 小学生向け物語の定番ジャンル「怪談」。書店の児童書コーナーを見ると、けっこうなスペースが怪談本に割かれている。

 ズッコケシリーズでも既に『ズッコケ心霊学入門』という作品があるが、あれは心霊写真という入口ではあったが、結果的には心理学や超能力の領域の話になり、しかも三人組がいない間に事件が解決してしまうという、怪談話を期待していた読者には肩透かしを食らわせる展開だった。

 その反省を踏まえてか、『ズッコケ恐怖体験』ではきちんと幽霊を登場させている。

 とはいえ、単に「はい幽霊出ましたよーこわいですねー」としないところが、さすがは那須正幹先生。冒頭からあやしい人物を登場させるなど周到に雰囲気づくりをおこない(まあその人は優しいおじさんなんだけど)、幽霊の正体を細かく設定し、幕末の長州征討の話にからめるなど虚実まじえて見事にもっともらしいほら話をつくりあげている。大人が読んでも、なるほどとおもわせる話運びで、子どもだましにしないところがいい。

 小学生のときにも読んだはずだが、細かい設定はほとんどおぼえていない。幕末の説明のあたりは読み飛ばしていたんだろうな。

 話としてはよく練られているが、怖いかというとあまり怖くはない。これは、幽霊の正体であるおたかさんという人物、死に至った背景、おたかさんの心残り、他の誰でもなくハチベエが憑りつかれた理由などがきちんと説明されているからだろう。結局、怖いという感情は「わからない」と表裏一体なのだ。わかってしまえば怖くない。その証拠に、幽霊嫌いの娘(八歳)も怖がらずに聞いていた。

 怪談としては失敗かもしれないが、幕末の悲劇として読めばよくできている。いわゆる子ども向けの怪談というより、落語や講談に出てくる怪談話に近い。

 ただ、児童文学として読むとはっきりいってつまらない。自然に憑りつかれて自然に解決してしまったのだから、三人組の活躍といえるようなものは皆無。『ズッコケ心霊学入門』と同じだ。

 もっと知恵や勇気や行動で困難を打開していく話が読みたいな。


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2022年2月10日木曜日

【コント】不動産屋

「いらっしゃいませ」

「あの、物件探してほしいんですけど。急ぎで」

「承知しました。ではまずご希望の条件をお伺いできますか」

「トイレのある部屋!」

「はっはっは。今はたいていの部屋にトイレがついてますよ。逆に共用トイレの部屋を探すほうがむずかしいぐらいで。ほかに条件は」

「いや特には」

「場所はどのあたりをご希望でしょうか」

「なるべく近くがいいです」

「駅からですか」

「いや、ここから」

「ここから? お勤め先がこの近くとかですか」

「いやそういうわけじゃないんですけど。ねえ、早く紹介してもらえませんか」

「他に条件は……」

「ないです。とにかくトイレのある部屋ならどこでもいいんで!」

「そう言われても、条件がゆるすぎて逆に見つからないんですよね……」

「ああ! 早く! 早く!」

「あのー。もしかしてですけど、お客様」

「なに?」

「ひょっとして、今トイレを我慢されてるんでしょうか」

「そうですよ! だから早くトイレのある部屋を探してって言ってるんです!」

「やっぱり……。あのお客様、でしたら物件探しではなく、『トイレ貸して』とおっしゃっていただければ事務所のお手洗いをお貸しできますんで」

「え? そうなの!? もっと早く言ってよ! あっ、あっ、あっ……」

「えっ」

「……」

「ひょっとしてお客様……」

「あの……。やっぱり、トイレとお風呂のある部屋探してもらえますか……

「やっぱりもらしてるじゃないですか!」



2022年2月9日水曜日

子どものアンガーマネジメント

 長女はかんしゃく持ちだ。怒ると手が付けられなくなる。

 長女が一歳のときに撮った動画がある。
 積み木をふたつ重ねて押す娘。押すうちに、上に乗せた積み木がぽろりと落ちる。すると娘は「ぎゃー!」と泣いて床につっぷす。
 しばらくするとまた挑戦する。ふたつ重ねた積み木を押す。上に乗せた積み木が落ちる。また泣き叫ぶ。

 そのときは「ああおもうようにいかなくて怒ってるのか。かわいいな」とおもっていた。のんきに動画撮影をしていた。


 長女が二歳になった。世間一般にいう〝イヤイヤ期〟突入である。うわさには聞いていたが、すごかった。

 とにかく何をするのもイヤ、歩くのもイヤ、だっこされるのもイヤ、ベビーカーに乗るのもイヤ、置いていかれるのもイヤ、その場にいるのもイヤ、どないせいっちゅうねんとおもうが、イヤイヤ期とはそういうものらしい。機嫌を損ねると座りこんで泣きわめき、どうすることもできない。腹が減っているから怒るのだろうと食べ物やジュースで釣っても動こうとしない。怒ること火のごとし、動かざること山のごとしである。

 まあイヤイヤ期だからな、とおもっていたが、三歳になっても四歳になってもかんしゃくを起こす。さすがに回数は減ったが、それでも一度怒りだすと、何を言っても耳を貸さなくなる。怒りが怒りを呼んで、どんどん燃え盛る。
 他人を叩いたりものを壊したりといったことはほとんどないのが救いだが、一度機嫌を損ねると手が付けられなくなる。

 この頃にようやく気付いた。「あれ、他の子はここまでひどくないぞ」と。

 もちろん他の子も怒ることはあるが、うちの娘ほど長時間引きずらない。家の中ではどうだか知らないが、少なくとも外で遊んでいるときはほどほどのところで怒りを鎮めている。うちの娘だけが持続的な怒りを持っている。SDGsな怒りだ。
 しかも回数が多い。他の子の三倍ぐらい怒っている。


 小学生になっても、怒って怒ってすべてを台無しにしてしまうことがある。

 一年生のとき。登校前に「鍵盤ハーモニカを持って行かなきゃいけないのにちょうどいいかばんがない!」と怒りだした。
 こちらが「ちょっとはみだすけどこのかばんでいいじゃない」「紙袋ならあるけど」「袋に入れずにそのまま持っていけば」「それも嫌ならもう持って行かなきゃいいじゃない」とあれこれ案を出すも、すべて却下される。
 〝この鍵盤ハーモニカがぴったし入る布製のかばん〟を用意するまでこの怒りは鎮まらないのだ。むりー。
 たまたまリモートワークだったこともあって「だったら好きにしたら」と放っておいたら、まんまと学校に遅刻した。

 二年生になっても同じようなことがあった。登校直前になって「宿題のプリントがない」と言いだした。家を出る時間がせまっていたので「今日は忘れましたって先生に言って、明日持っていきなよ」と言っても聞く耳持たず。強引に家から連れ出そうとしたがてこでも動かず。結局、妻が仕事を休むことにし、一日家にいることになった。

 冷静に考えたら「鍵盤ハーモニカを忘れることと、学校に遅刻すること」「宿題のプリントを忘れることとと、学校をさぼること」のどっちがマシかは明らかだ。でも怒りだすとそういう判断ができなくなってしまう。


 娘が怒りだしたとき、ぼくは妥協しない。「怒ると要求が通る」とおもわせたくないからだ。
 だから娘が怒りだすと、譲歩するどころか逆にこちらの要求を吊り上げる。

 たとえば「本を読んで」という娘と、「今日はもう遅いから明日」のぼくが対立する。娘が怒鳴る。ぼくは「じゃあ明後日」と言う。娘はもっと怒って叫ぶ。ぼくは「じゃあ三日後」と言う。

 これを何度かやっていたら怒らなくなるかとおもったが、娘はぜんぜん学ばない。怒れば怒るほど不利になるのに、それでも怒る。なんてアホなんだ。犬のほうが賢いぞ。


 まあ子どもだからな、とおもっていたのだが、次女の姿を見ているうちに心配になってきた。次女は長女とちがって怒りが長期化しないのだ。
 もちろんかんしゃくを起こすことはあるが、数分で収まる。怒りだすと一切の譲歩を拒絶する長女と違い、次女は怒りながらも損得の計算をしているようで「ジュース飲む?」と訊くとあっさり譲歩してくれる。「Aは叶わなかったけど同等以上のBが手に入ったから良しとする」という判断をしてくれるのだ。長女はそれができない。


 おいおいどうなってるんだ。八歳の長女よりも三歳の次女の方がよっぽど感情のコントロールができてるぞ。

 子どもなんで怒りのコントロールができないのは当然かとおもっていたが(ぼくもかんしゃくを起こしやすい子どもだったので)、次女と比べると長女は感情のコントロールがへたすぎる。怒りをぶちまけたっていいことなんてひとつもない。うまくコントロールさせてやらなきゃあ。


 というわけで、名越康文氏監修の『もうふりまわされない! 怒り・イライラ』という本を買った。
 以前、名越康文さんの人の対談を聴きに行ったことがある。落ち着いたしゃべりかたをする精神科医だ。いかにも感情のコントロールがうまそうな人だった。

 この本は、子ども向けに「怒りとはなんなのか。なぜ人は怒るのか。怒りを落ち着かせるにはどうしたらいいか」を説明してくれている。アンガーマネジメントというやつだ。大人が読んでも「なるほどね」とおもう箇所もいくつか。

 特にシンプルですぐ実践できそうだったのが「腹が立ったら6秒かけてゆっくり深呼吸をする。深く吸って、ゆっくり吐く。爆発的な怒りは6秒までしか持続しないので、6秒立つと気持ちが落ち着いて冷静に話せるようになる」というものだ。

 これはいいとおもい、さっそく長女といっしょにこの本を読み、
「(長女)が怒ってるなーとおもったらおとうさんが『6秒深呼吸して』と言うから、そしたらゆっくり深呼吸して」
と伝えて練習をした。

 さあこれで大丈夫。


 数日後、長女が「丸付けして」と持ってきた漢字のプリントを採点していたら、「なんで×なん。あってるやんか!」と怒りだした。
 いよいよアンガーマネジメント術を使うべきときだとおもい「あっ、6秒深呼吸して」と言った。

 すると長女は「怒ってない! 怒ってないのになんで深呼吸すんのよ!」とますます怒りだした。

 えええ……。怒ってますやん……。

「まあまあ。まず深呼吸して。それから話そう」

「いやだ! 深呼吸の前に話す!」


ということで結局、6秒深呼吸術を使ってくれませんでした。

 アンガーマネジメントを使うためにはまず怒りを鎮める必要があるな……。


2022年2月8日火曜日

夜の学校

 たいへんまじめな高校生だったので、在学中に酒を飲んだことは二度しかなかった。なんてまじめなんだ。

 今の高校生はどうだか知らないが、ぼくが高校生だった二十数年前はまだまだ未成年の飲酒に対して社会全体がゆるく、コンビニでも年齢確認なしで酒が買えた時代だ。そりゃ飲むだろう。

「文化祭の打ち上げで○○先輩がファミレスでビールを飲んだのがばれて停学になった」という話も聞いた。近所のファミレスで飲むほうも飲むほうだし、明らかな高校生集団にビールを提供する店も店だ。まあとにかくそういう時代だったのだ。なのに二度しか飲まなかったというのは、えらいというほかない。あっぱれ。


 一度目は三年生の夏休み。友人三人と、夜中の小学校に忍びこんで缶チューハイをほんの少しだけ飲んだ。

(そのときの顛末は以前にも書いた。→ 死体遺棄気分の夏 )


 二度目は三年生の大晦日。ホームセンターでどきどきしながら缶チューハイを買い、高台にある小学校にしのびこんだ。テラスで寒さにふるえながら年を越した。寒すぎてまったく酔わなかった。

 酒を飲んだのは二度とも小学校だ。人が来ないので見つかりにくい、金がなくても行ける、少々大きな声を出しても大丈夫、という条件を満たしてくれるのは夜の学校ぐらいしかないのだ。

 これはぼくらだけではない。同級生の女の子は夜の中学校のプールで泳いでいて警察に怒られたと言っていたし、やはり別の友人は夜の高校の体育館で煌々と灯りをつけてバスケットボールをやっていたら警察に追い回されて走って逃げて転んだところを捕まった。

 田舎の高校生が人目を忍んで行くところといえば学校ぐらいしかないのだ。この支配から卒業するために行く場所が学校しかないというのは、なんとも皮肉なものだ。きっと尾崎豊が夜の校舎で窓ガラスを壊してまわったのも、教育制度に対する反抗心と言うよりは「他に行くところがなかった」が近いんじゃないだろうか。


2022年2月7日月曜日

【読書感想文】斎藤 美奈子『モダンガール論』

モダンガール論

斎藤 美奈子

内容(e-honより)
女の子には出世の道が二つある!社長になるか社長夫人になるか、キャリアウーマンか専業主婦か―。職業的な達成と家庭的な幸福の間で揺れ動いた明治・大正・昭和の「モダンガール」たちは、20世紀の百年をどう生きたのか。近代女性の生き方を欲望史観で読み解き、21世紀に向けた女の子の生き方を探る。

 原書は2000年刊行。

『モダンガール論』とあるが大正時代に限定した話ではなく、「明治以降の女たちはどういった生き方を目指し、どういった生き方を選択した(あるいは強制された)のか」を読み解いた本だ。


 ご存じの通り、女の生き方はここ百年で大きく変わった。就学も就職も結婚も自由にできなかった時代から、それらすべてほぼ自由にできるようになった時代へと。男の生き方も変わったが、もっと大きく変わったのが女の生き方だった。

 ではどのような経緯で女の生き方は変わっていったのか。




 転機の一つは「良妻賢母」だと著者は書く。

 そこで話はもとへもどる。一八九九(明治三二)年、女子教育の流れを決める大きな決定が下された。この年は、不平等条約の改正を受け、改正条約が実施された年でもあるのだが、日本が国際的な法権を回復したその年に、文部省は、女子教育に関する初の法令を発令した。「高等女学校令」、すなわち女学校を中学校と同じ正式な学校(高等普通教育機関)として認定する法令である。
 女学生数を急増させた「なにか」とはこれのことにほかならない。女子の教育目的として、そこには力強い一文が含まれていた。「賢母良妻たらしむるの素養を為す」
 この規定は、二〇世紀の望ましい女性像=女の子の出世の道をはじめて明らかにするものだった、といっていい。二〇世紀の望ましい女性像とは何だったか。行をかえて強調しちゃおう。
 良妻賢母!
 ええええっ、りょーさいけんぼお? とあなたは眉をしかめるだろう。そんなもんのどこが二〇世紀的だっていうのよお、と。封建的。前近代的。後進的。儒教道徳的。なんでもいいが、良妻賢母ということばには、カビのはえた男尊女卑の匂いがする。
 しかし、これ、ほんとはそんなに古い概念じゃないのである。前近代的どころか、良妻賢母は近代の発明品。しかも、びっくり仰天、こいつは男女平等の新思想だった。

 現代の感覚では信じられないが、「良妻賢母」こそが女性の地位向上に貢献した思想だというのだ。

 それまでは「女に教育なんて必要ない!」が一般的だったのが、「良い妻、賢い母となるにはきちんと教育を受けねばなりません。妻が家計を管理して家族の健康を支え、母親が子どもに質の高い教育を施すには、女にも教育を受けさせる必要があるのです」という口実を得て女性の進学率が向上した。

 さらに、やはり良妻賢母となるには社会経験も積んだ方がいい、ということで就職率の向上にも貢献した。もっともここでいう就職とは会社や百貨店や役所や学校に務めるホワイトカラー層のことで、農業や工場での労働をせざるをえなかった層のことではない(その層の人たちに働かないという選択肢はなかった)。


 男女等しく教育を受けることがあたりまえになっている現代の感覚のままだと見失ってしまいそうになるが、「良妻賢母」とは近代になって生まれた新しい思想だったのだ。「女は夫や家長に意見するな」が当然だった時代からすると、「良妻賢母」は飛躍的な進歩である。

 差別の解消や人権の確立って、まるで〝正解〟があっていっぺんにそれが叶えられたような気になってしまうけど(まあ戦後日本の場合は連合国支配時代に一気に改革が進んだから余計に)、ほんとは一歩一歩少しずつ変わっていくもんなんだよな。
「良妻賢母」は女性の立場の漸進的な変革において、重要なステップだった。「改革」「維新」といったドラスティックな言葉が好きな人にはなかなか理解できないかもしれないが。




 また、昭和に入ってから女性の社会進出に大きく貢献したのは「戦争」だったと著者は語る。

 日中開戦を機に、女学校の教育内容も心身一体の皇国民を育てるという方向に軌道修正された。それによって女学校は、中途半端な花嫁学校ではなくなった、といってもよい。
 女学校に課せられたのは、母性教育の強化と、目的意識のはっきりした奉仕活動である。(中略)戦地に送る慰問文や慰問袋の作成、戦没遺族の訪問、陸軍病院の慰問、街頭での募金活動、献金……。学校外での活動は、刺激的であり、誇らしくもあっただろう。ましてそんな活動が、新聞雑誌で派手に紹介でもされてごらんなさい。お嬢さん、いやな気がするでしょうか。
 女学生のボランティア活動のうち、特筆すべきは「勤労奉仕」というやつだ。男性労働力を失った農村におもむき、田植えや草刈り、子守り、炊事洗濯などを手伝う。あるいは工場で機械工や旋盤工のまねごとをする。いまから思えば「そんな農村婦人や労働婦人みたいなこと、よくやる気になったわねえ」だが、なにせ非常時。女学生という身分のままで働けるなら、たまにやる肉体労働も悪くない。「勤労奉仕」はすべての未婚女性に期待されたから、女学校を出て花嫁修業(結婚浪人)中だったお嬢さんの多くも、これに飛びついた。

 朝ドラなんかだと、「庶民(特に女)は、望みもしない戦争に国が突入したことで苦労を強いられた」という悲劇のヒロイン的な描かれ方をするが、そんなことはない。男も女も軍人も民間人も、喜んで戦争に協力したのだ。特に初期の頃は。

 そして実際、戦争は女性の社会進出に貢献した。労働力が足りなくなり、「女が働くなんて」から「働く女性が国を支える」になった。国家における女の重要性が増す。

「社会から求めらる」こんなうれしいことはない。

 良妻賢母と戦争、これこそが敗戦までの日本において女の社会進出に貢献したキーワードだった。




 戦前にも「育児と職業の両立」に関する議論はあった。だが、それはあくまで特権階級に限った話だった。

 母性保護論争で注目したいのは「育児と職業の両立」という今日的なテーマが大正中期の時点でもう議論されていたってことだ。というか、職場の待遇差別から主婦の自立論まで、現代の私たちが直面しているような問題は、戦前に、ほとんどすべて先取りされていたのである。当時の女学生や職業婦人や主婦の不満や要望は、いまのそれとかわりがない。しかし、彼女らの悩みは、個別には論じられても、大きな社会問題にまでは発展しなかった。なぜだったのか。
 最大の理由は、やはり階級(階層)の問題である。なんのかんのいっても、女学生や暗業婦人の愚痴などは、「ブルジョア婦人のぜいたくな悩み」でしかなかった。性差別よりも、階級的な矛盾のほうが、当時ははるかに深刻だったのである。貧しい農村から身売りしてきて重労働にあえぐ女工や女中や芸娼妓、あるいは農村婦人の惨状にくらべたら、女学校がつまらんとか職場で雑用をさせられるとかは、「プチプルねえちゃんのワガママ」と思われてもしかたがない。

 女は学問をするべきか、仕事をするべきか、仕事をするとしたらいつまで続けるべきか。そんなことで悩めたのは、アッパークラスの女性だけである。

 この本には農村の女性の暮らしぶりも書かれているが、

「出産後も横になっていられるのは、たった一日」

「農村婦人の死亡率は、出産子育て期にあたる二五~四四歳で特に高かった」

「決定権は一切なく、口答えもできず、舅や姑や夫の監視下で、早朝から深夜まで働きづめ」

といった暮らしが書かれている。しかもそっちが多数派である。こんな時代に、お嬢様の「女でも学問をしたいし仕事をしたいわ」が社会的な議論になるはずはないのである。




 さて。

 戦争も終わり、日本は豊かになった。女の進学率は飛躍的に向上し、就職する女性もめずらしくなくなった。現実的にはまだ男女の間に格差はあるが、少なくともタテマエ上は男女雇用機会均等が成立した。

 では、女は生きやすくなったのか。

 著者はこんなふうに書く。

「新しい女」も「リブ」も、運動という以前に「個人の生き方」を示す語だと本人たちは自覚していた。「じゃあ、どういう風になりたいわけ?」とは、女性解放論者にいつも投げかけられる質問だが、彼女ら自身も「わからない。でも、いまのままはイヤ」が本音だったのではなかろうか。
 このころの女の人たちは、もう「OL」にも「主婦」にも飽き飽きしていた。花の0Lも、夢にまでみた主婦の座も、いざ手にしてみたら、思っていたほど楽しくなかった。いや、もともとべつに楽しくなかったのかもしれないが、それが「選ばれた少数派のステイタス」であるうちは我慢もできた。しかし、いまや、世の中じゅうがOLだらけ、主婦だらけ。気がつけば、それは「ただのOL」「ただの主婦」と呼ばれる平凡の代名に成り下がっていた。
 敗戦から三〇年。おりしも七三年の石油ショックを機に日本経済は低成長期に入る。働きづめだった祖母や母の仇は、もう十分すぎるほど討った。というか、このころの娘たちにとって、母親はすでに生まれたときから専業主婦であるのが当たり前の人だった。
 娘はいつも母の生き方に反発する。ママみたいな平凡で退屈な人生、あたしはいや!
 それが幸せへの道と信じて主婦になった母たちも、娘に刺激されて考えはじめた。夫や子どものためにご飯を作りつづけるあたしって、なんなのかしら……。
 彼女たちは新しい目標をみいだした。「脱OL」「脫専業主婦」である。

 そうなのだ。

 ぼくは女の人生を送ったことがないけど「この道を選べば幸せ」なんてないことはわかる。専業主婦になっても兼業主婦になっても共働きで子育てをしてもDINKs(共働きで子どもを持たない夫婦)になっても結婚しなくても、不満は残る。仮に「男は女にかしづく奴隷になる」となったとしても、それはそれで不満が出てくるだろう。退屈だ、とかいって。

 結局、性別に関係なく、すべての人が満足のいく働き方なんてないのだ。


 昔は「こうなりたい」というビジョンがもっと明確にあったんじゃないだろうか。学校に行きたい。主婦になりたい。ばりばり働きたい。達成できるかどうかはさておき、今よりは明確な〝夢〟があったんじゃないだろうか。

 で、それらの〝夢〟はがんばれば手の届くところまできた。進学だって専業主婦だって正社員だって社長だって、「夢みたいなこと言ってんじゃないよ」ではなくなった。

 でも、どの道を選んでも、楽で、安定していて、刺激があって、達成感を得られるわけじゃない。ああ、人生はつらい。


 なんで女の働き方がことさら問題になるかというと、選択肢があるからじゃないかな。
 フルタイム労働者、専業主婦、パート兼業主婦。どれを選んでも「選ばなかった道」がちらつくから、余計に納得いかないんじゃないだろうか。

 男のほうは選択肢がないに等しい。そりゃあ専業主夫とか親の金で一生遊んで暮らすとかの道もあるにはあるが、99%の男はそんな道は選択肢にすら入らない。「働くか、働かないか」で迷うことはないのだ。それはつらいことでもあるけど、楽でもある。煩悩は選択肢によって生まれるのだから。

 自由は必ずしも人間を幸せにはしてくれないんだなあ。


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2022年2月4日金曜日

【読書感想文】朝井 リョウ『どうしても生きてる』

どうしても生きてる

朝井 リョウ

内容(e-honより)
死んでしまいたい、と思うとき、そこに明確な理由はない。心は答え合わせなどできない。(『健やかな論理』)。家庭、仕事、夢、過去、現在、未来。どこに向かって立てば、生きることに対して後ろめたくなくいられるのだろう。(『流転』)。あなたが見下してバカにしているものが、私の命を引き延ばしている。(『七分二十四秒めへ』)。社会は変わるべきだけど、今の生活は変えられない。だから考えることをやめました。(『風が吹いたとて』)。尊敬する上司のSM動画が流出した。本当の痛みの在り処が映されているような気がした。(『そんなの痛いに決まってる』)。性別、容姿、家庭環境。生まれたときに引かされる籤は、どんな枝にも結べない。(『籤』)。現代の声なき声を掬いとり、ほのかな光を灯す至高の傑作。


 深刻なトラブルや悩みに直面した人たちを描いた短篇集。

『健やかな論理』の主人公は自殺や事故死をした人のSNSアカウントを調べて最後の「まったく予兆を感じさせないツイート」を集めている。

『風が吹いたとて』では、大した罪の意識を感じることなく不正に手を染める人と、上からの命令で不正に手を染めることの罪悪感に押しつぶされそうになる人の姿が描かれる。

『そんなの痛いに決まってる』ではマニアックな性癖を満たすために不倫に走る男や、SM動画が流出してしまった仕事では頼られる上司の苦悩がつづられる。

『籤』の主人公の女性は、出生前診断で生まれてくる子どもの先天性疾患がわかったとたん夫から堕胎を勧められる。

 どれもみなヘビーだ。
 たやすく「考えすぎだよ」「忘れちゃいなよ」とは言えないような重たい悩み。誰にでもふりかかりうる、そして解決方法のないトラブル。


 若いうちは、己の才覚と努力で何でも解決できるとおもっていた。正しく、そして一生懸命生きていれば道は切り開けるのだと。

 しかし長く生きてきておもう。しょせんは運だと。自分が健康に生まれたのも、それなりの教育を受けられたのも、刑務所に入っていないのも、今のところ食うに困っていないのも、子どもが健やかに育っているのも、天災で命を落としていないのも、すべては運だと。才能や努力のおかげじゃない。たまたまだ。

 犯罪学では、ある地域にある期間にどれぐらいの犯罪が起きるかをほぼ正確に予想できるのだという。個人が犯罪に手を染めるかどうかは最終的には当人の意思に左右されるものだが、その〝意思〟を形成するものは時代や場所や環境で決まってしまうのだ。ミクロで見れば犯罪に手を染めるかどうかは当人の意思でも、マクロで見れば一定数が犯罪をすることは決まっている。
 いってみれば「犯罪者」「貧困」「事故死」が何本か入ったクジを引くようなものだ。努力によって多少はずれクジを引く確率は下げられないけど、はずれクジの総数は変わらない。誰かがそのクジを引かなくてはならない。


 特にそれを感じたのは、子どもが生まれるときだ。どんな子が生まれるか、生まれるまでわからない。天使のようにかわいい子もいれば、ものすごく手のかかる子もいる。重い障害や難病を抱えて生まれてきたら、これまでの生活も仕事も趣味も手放さないといけないかもしれない。
 はっきり言ってクジだ。しかも引いたのがどんなクジでも、取り換えはきかない。親が大金持ちだろうが、天才だろうが、一流アスリートだろうが、望んだとおりの子どもが生まれてくることはない。

 少し前に「親ガチャ」という言葉が流行語になったが、どんな親のもとに生まれてくるか、どんな子が生まれてくるかは、まさに運次第。
「親ガチャ」を好んで使う人もいるし「親ガチャ」なんて言葉に眉をひそめる人もいるが、何をいまさら。人間は何千年も前からガチャを引いてきたじゃないか。




 いちばん身に染みた短篇が『流転』だった。

 ストーリー担当と作画担当のコンビで漫画家デビューを目指していたふたり。見事連載を勝ち取ったものの、まもなく連載は終わり低迷期に入る。作画担当者はイラストの仕事に精を出すが、ストーリー担当だった主人公は恋人の妊娠を期に漫画を捨てサラリーマンになる。「自分に正直に生きる」をやめたはずの主人公の前に再び転機が訪れるが……。

 ぼくもいろいろ諦めて生きてきた人間だ。才気あふれる文章で食っていきたいとか、サラリーマンでない生き方をしたいとかおもったこともある。でも、今はしがないサラリーマン。自分の天井も見えてきた。ぼくがこの先、有名アーティストや皆があこがれるクリエイターや年収1000万円プレイヤーになることはほぼないだろう。

 でもまあ、住むところや食うものに困らず、愛する家族がいて、つつましくも平凡な暮らしも悪くないとおもって生きている。その気持ちは嘘じゃない。でも別の生き方が選べるとしたら? それでも今の生活を選ぶか? と訊かれると、即答はできない。

 どの生き方がいいかなんかわからない。「悪い生き方」はあるけど、「最良の生き方」はない。「睡眠時間や余暇を犠牲にして、そこそこのポジションの漫画家になる」と「サラリーマンになってそこそこ安泰の生活を送る」のどっちがいいかなんてわからない。たぶんどっちを選んでも後悔は残るのだろう。正解なんてないことはわかっている。でも、「やっぱりあっちが正解だったのかも」とも考えてしまう。


 すごいのは「夢破れて、いろんなものに妥協して生きている男」の悩みをこれでもかと克明に書いているのが、朝井リョウという作家だということだ。

 朝井リョウ氏は大学在学中に小説家デビューを果たし、以来作家として一線でやってきている。直木賞も受賞した。

 はたからみれば間違いなく「自分の信じる道を貫いて成功した人」だ。もちろん内面には様々な苦労があっただろうし、挫折や妥協もあっただろう。それでも、誰が見たって〝成し遂げた〟側の人間だろう。

 にもかかわらず〝成し遂げられなかった〟人の苦悩を残酷なほど克明に書いている。こういうことができるのが本物の作家というやつなのだろう。物語の中で別の人生を送れる人。

 そういや朝井リョウ『何者』も、就活で心へし折られたぼくとしてはすごく身につまされる話だったけど、朝井さんは在学中にデビューしているからたぶん就活もあんまりしてないんじゃないかな。それであれが書けるのか。すげえなあ。




 ばかばかしいネット動画に救われる『七分二十四秒めへ』も好きだった。

 若いときにこの短篇を読んでいたら、さっぱりわからなかっただろう。でも三十代後半になったらわかる。

 この物語には、バカなことばかりするYouTuber(作中にはYouTubeとは書かれてないけど)に救いを求める女性が出てくる。

 彼らは毎日、地元の豊橋で遊んでいた。ファミレスで全品頼んで結局食べきれなかったり、ジャンケンで負けたメンバーが吐くまで嫌いなものを食べてみたり、手作りのイカダで極寒の季節に川下りを試みて失敗したり、くじ引きで決めた怪しい服装で出歩いて誰が最後まで職質されないか競ってみたり、生きていくうえで必要のないことばかりに全力を注いでいた。その動画を観ている間、依里子は、何の感情も動かなかった。何の学びも得なかったし、ただただ時間を浪費し目を疲れさせているという感覚しかなかった。脳が溶け、音を立てて偏差値が落ちていく気がした。
 だけど、それでよかった。
 いつしか依里子は、毎日正午にアップされる動画を心待ちにするようになっていた。集中力が持続しない若い視聴者に向けて整えられた、たった七、八分の動画。何のためにもならない動画。だけど、それを観られる昼休憩の時間が、自分の命を二十四時間ずつ必死に延ばしてくれる、最後のてのひらのような気がした。

 ぼくはネット動画はあまり観ないけど、テレビでたまに『かわいい動物大集合。びっくり映像100連発!!』みたいな番組を観る。

 昔は、そんな番組ぜったいに観なかった。何も得られない、何の学びもない。作り手の知性などみじんも感じられない。時間の無駄だとおもっていた。

 でも最近は考え方が変わった。たしかに時間の無駄だ。けど、それでいいじゃないか。むしろ有用な情報などテレビに求めていない。学びたければ本を読む。ニュースが見たければネット上にもっとスピーディーで余計な演出が施されていない情報が見つかる。テレビは毒にも薬にもならない暇つぶしでいい。

 何も得られないもの、何も成長させてくれないもの、一円の得にもならないもの。そうしたものが必要な時間も、人生にはある。おっさんおばさんになると余計に。




 ぼくが朝井リョウの小説を好きなのは、文章から底意地の悪さが見え隠れするところだ。視点が意地悪なのだ。

 世志乃がちらりと腕時計を気にする。もう少しで、第一幕が終わる時間だ。そろそろ、と声を掛けかけたとき、
「年齢重ねた男の演出家って、どうしてこう、太宰治っぽい感じのもの創りたがるんですかね」
 世志乃はそう言った。
 太宰治。
 その言葉が、みのりの鼓膜を突き破った。
「人間は、男はこんなにも醜くてどうしようもないんだって曝け出してる風でいて、どこかで、だから仕方ないよね許してね、ここまで曝け出したっていう勇気のほうを評価してねって開き直ってる感じが嫌なんですよ、私」

 ぼくも性格が悪い人間なので、こういう嫌らしい表現は大好きだ。言わなくてもいいことを指摘してしまうところ。たまんないね。


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2022年2月2日水曜日

絶好の死のタイミング

  少し前に、母親から電話があり、祖母が倒れたと聞かされた。

「もうおばあちゃんも歳も歳だしね。お医者さんが言うにはかなり危ないらしいから、覚悟しといてね」

と言われた。

 それから一週間ほどしてまた母から電話があり「意識が戻って今はリハビリをしている。お医者さんも驚くほどの快復ぶりを見せている」とのことだった。

 ぼくは、おばあちゃんには申し訳ないが「医療よ、そんなにがんばらなくていいのに」とおもった。




 たいへん薄情な孫で申し訳ない。だが「もう死なせてやれよ」がぼくの偽らざる実感だ。

 ことわっておくが、ぼくは祖母を嫌いなわけではない。むしろ好きだ。いや、好きだったといったほうがいい。

 というのは、祖母は十数年ほど前から認知症を患っており、もはやぼくのことなどまったくおぼえていないのだ。
 認知症になりたての頃はまだかろうじてぼくのことをおぼえていて、ときどき電話をかけてきては「犬犬くん? 犬犬くんなの?」などと自分からかけてきたくせに驚いていた。だが祖母から出てくる話といえば、「長男が冷たい。嫁も冷たい。娘たちも冷たい」といった愚痴ばかりで、親身になって認知症介護をしている伯父や伯母の苦労を知っているぼくとしては(もうそんな話やめてくれよ……)とうんざりしたものだ。

 しかしそんな電話もめったにかかってこなくなり、たまにかかってきても無言だったりして(たぶん携帯電話の操作を誤ってかけてしまっただけだろう)、もうすっかり祖母にとってぼくは忘却の彼方の人となってしまったようだ。娘のことすら忘れてしまったらしいから孫のことなどおぼえているはずがない。
 祖母にとってぼくの存在が消えたのと同じように、ぼくにとっても祖母は「おもしろくて優しかったおばあちゃん」という過去フォルダの中の人になってしまった。

 そんなわけで、たぶん今祖母が死んでもぼくはちっとも悲しくない。むしろ、献身的に世話をしている伯父や伯母の苦労を知っているから、「やっと死んでくれたか」と安堵するだけだ。


 祖母は九十八歳。認知症で子どもの名前すらおぼえていない。ここで死んでも、誰も「もっと長生きしてほしかった」とはおもわない。満場一致で「もう十分生きた」だ。いや、「十分」をはるか昔に通り越してしまった。

 それでも、目の前で老人が倒れたら通報しないわけにはいかないし、通報されたら救急隊員は駆けつけないわけにはいかないし、搬送されてきたら病院は治療しないわけにはいかない。
 労力と金をかけて医療を施し、残るのは家族の「ああ……助かったの……よかったね……」というなんとも微妙な言葉だけ。誰も口には出さないけど「あのまま逝ってもよかったのに……」と心の中でおもっている。

 これって誰のための医療なんだろう。医療費を負担させられる赤の他人や、介護にあたっている家族はもちろん、当人のためにすらなってないんじゃなかろうか。

 もし祖母が十数年前に亡くなっていたら、親戚一同心の底から悲しんで見送っていた。それと、長生きした結果「はあ、やっと逝ってくれたか」と安堵のため息をつかれること、どっちがいいのだろう。
 他人の幸せなんて推し量れないけど、少なくとも今のぼくなら、惜しまれながら死んでいきたいとおもう。




 自らの死について考える機会が増えた。この二年は新型コロナウイルスの流行もあったので、余計に。

 若い頃も死を想像したが、それはあくまで〝自分にとっての死〟だった。
 だが今ぼくが想像する死は〝娘にとっての父の死〟だ。

 娘は今八歳と三歳。彼女たちのことを考えると「まだまだ死ねないな」という気になる。

 生命保険には入ってるし、妻も仕事をしているし、それなりに貯金もあるので、まあぼくが死んでも経済的にはなんとかなるだろう。
 だけど娘のこれからを考えたら「まだお父さんがいたほうがいいだろうな」とおもう。うぬぼれだと言われるかもしれないが、娘たちはまだまだお父さん大好きな年頃なのだ。なにしろ八歳の娘はいまだに寝るときは「おとうさん手つないで」と言ってくるのだ。

 娘のためにはまだまだ死ねない。
 だったら、いつになったら死んでもいいのだろうか。

 世間一般に言われるのは
「子どもが成人するまでは死ねない」
「孫の顔を見るまでは」
「孫の結婚式を見るまでは」
といったところだろう。

 人間の欲望は際限がないので、その後も「ひ孫の顔を見るまでは」「玄孫(孫の孫)の顔を見るまでは」……と永遠に続いていくのかもしれないが、ぼくとしては「孫が十歳ぐらいになるまでは」だとおもっている。

 孫が子どもの頃は、じいちゃんとしてやれることもいろいろある。
 ぼくの父母も、孫と遊んでくれたり、ぼくと妻が忙しいときは預かってくれたり、お年玉や誕生日プレゼントをくれたりする。

 しかし孫が大きくなれば、当人の世界も広がってくる。祖父母の存在は相対的に小さなものになってくる。

 そのあたりで「孫に死に様を見せる」ことこそが、じじいとばばあに残された最後の役割じゃないだろうか。
「孫が十歳ぐらいになったあたり」が理想的な死のタイミングじゃないかと、今のぼくはおもう。もっと歳をとったら「やっぱもっと長生きしたいわ」と延長しそうな気もするが。




 ところで、我が両親も「孫が十歳ぐらいになったあたり」に近づきつつある。初孫(ぼくの姪)は十一歳だ。今こそ理想的な死のタイミングといってもいい(あくまでぼくにとっての理想だけど)。

 そっちもそろそろ覚悟しとかないとな。
 もしも父母が倒れて意識不明になったら……。殺せとは言わないけど、無理な延命はしなくてもいいとおもう。

 父はどうだか知らないけど、母は常々「あたしが倒れても無理な延命はしないでね。子や孫に迷惑かけながら生きながらえるなんて絶対にイヤだから」と口にしている。認知症になった実母の姿を見ているからこそ、余計にそうおもうのだろう。
 だから母が倒れて意識不明になったとして、その場にいるのがぼくだけだったとしたら、あえて救急車は呼ばない……とはできないな、やっぱり。呼んじゃう。おかあさんだもん。


 臓器提供カードみたいに、「延命拒否カード」があればいいのにとおもう。そのカードを持っている人が意識不明になったら、一切の医療行為を断つの。
 尊厳死とまではいかなくても、それぐらいの死に対する決定権はあってもいいのになあ。


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2022年2月1日火曜日

臨時休校ばかのきわみ

 娘の小学校から「新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします」とメールが来た。

 これで三回目だ。

 それはいい。しかたない。

 ただ問題は、三回目だというのに学校の対応が何も改善されていない点だ。

 はじめての臨時休校のことは以前に書いた。

 臨時休校てんやわんや


  • 平日の昼間に、保護者にメールを送って必ず見てもらえるとおもっている。
  • 平日の昼間に突然「三時間以内に迎えに来い」という要求をして、全員応えられるとおもってる
  • 極力接触を避けなきゃならないのに保護者を学校に呼び寄せて接触機会がを増やす

と、問題があれこれあった。
「でもまあはじめてのことだし仕方ないよな」とおもっていた。

 だが、三回目になってもまったく同じやりかたをしている。

 ばかなのか? ばかなのね? ああそうですか。やっぱり。


 そりゃあ帰れる子は帰したらいいけど。

 でも「臨時休校にして保護者を学校に集める」って愚の骨頂でしょ、どう考えても。
 登校前に「今日は来ないでください」ならまだわかるけど、もう来てるのに「早めに帰らせます」って、それどれほどの意味があるの? 感染リスクよりもふだんとちがう行動とらせて事故にまきこまれるリスクのほうが高いんじゃないの?


 で、臨時休校したくせにその日の夕方メールが来て「明日は通常通り授業やります」とか言ってきてんの。
 翌日も授業やるんだったら、数時間早く下校させたことに何の意味があるんだよ?

 そんで、翌日になってまた昼頃メール来て「また新型コロナウイルス陽性者が出たので一斉休校にします。お迎えにきてください」とか言ってんの。
 何がしたいんだ。「感染拡大を防ぐ」という目的を完全に見失ってる。


 もう、ほんと、極み。ばかの極み。