2020年9月17日木曜日

【読書感想文】貧困家庭から金をむしりとる国 / 阿部 彩『子どもの貧困』

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子どもの貧困

日本の不公平を考える

阿部 彩 

内容(e-honより)
健康、学力、そして将来…。大人になっても続く、人生のスタートラインにおける「不利」。OECD諸国の中で第二位という日本の貧困の現実を前に、子どもの貧困の定義、測定方法、そして、さまざまな「不利」と貧困の関係を、豊富なデータをもとに検証する。貧困の世代間連鎖を断つために本当に必要な「子ども対策」とは何か。

「日本は一億総中流の国」だとおもっているなら、その認識は三十年以上前のものだから早く捨てたほうがいい。

日本は格差社会だ。
他の先進国と比べて、圧倒的に格差が大きい。

子どもも例外ではない。
貧困世帯を、全世帯の中央値未満の所得の世帯と定義した場合、日本の子どもの七人に一人は貧困世帯にいるそうだ。

『子どもの貧困』は2008年の刊行なのでデータはやや古いが、残念ながらその後も貧困率は改善していない。
むしろ日本全体が没落するにともなって格差はますます大きくなっている。

今は貧しくたって、将来のために金を使っていたらまだ希望がある。
だが日本政府は子どもに使う金をまっさきに削っている。

これじゃ没落するのもあたりまえ。おまけに希望もない。泣ける。



誰だって貧しいのはいやだが、特に子どもの貧困の問題は公的な支援を必要とするところだ。

なぜなら子どもの貧困はほぼ百パーセント本人の責任ではないし、貧困家庭に生まれ育った子どもが将来も貧困にあえぐ可能性は高い。

一発逆転、立身出世は、不可能ではないがたいへんむずかしい。

貧しくてもがんばればなんとかなる、という人もいるかもしれないが
「将来の成功のために目先の欲求をはねのけて努力する」
というのもまた、裕福な家庭のほうが育まれやすい能力なのだ。


親の学歴や職業など、生まれながらの「不利」を背負った子は、やはり「不利」な学歴や職業に就くことが多い。

いわば「不利」の再生産。
この傾向は近年ますます強くなっている。
 このような結果は、学歴だけではなく、職業階層の継承においても報告されている。佐藤俊樹東京大学准教授は、特に社会の上層の職業階層においては、親子間の継承の度合いが、「大正世代」「戦中派」「昭和ヒトケタ世代」と落ちていくが、その後の「団塊の世代」で反転して上昇していると分析する(佐藤2000)。学歴でみても、職業階層でみても、世代間継承は常に存在し、いったんはその関連性は弱まってきていたものの、また、近年、強くなってきているのである。

「生まれは関係なく本人の努力次第でなんとかなる」傾向にあったのははるか昔の話で、団塊の世代以降は「どの家に生まれるか」が本人の成功を大きく左右することになっている。

「不利」が再生産されるのにはいろんな要因がある。
遺伝、親の指導力不足、住居環境が悪い、健康状態が悪い、ストレスが大きい、地域の環境、付き合う友だちの問題……。

だが、その中でも最大の要因は単に「金がない」ことにありそうだ。

つまり、同じ地域において、たくさんの被験者を募り、その中から無作為に半数を選ぶ。そして、その対象グループには毎月〇〇ドルといった所得保障を行い、残りの半数のコントロール・グループには何も行わない。そして、数か月から数年後に二つのグループの子どもたちの成績、学歴達成などがどのように変化したかを見るのである。もし、対象グループの子どもたちだけが、成績が上がり、コントロール・グループでは上がらなければ、所得のみの影響、つまり所得効果が存在するということになる。
 このような手法を使った研究のほぼ一致した結果は、所得効果は存在するということである。たとえば、クラーク-カフマンらは、0歳から一五歳までの子どもを対象とした一四の実験プログラムの対象グループとコントロール・グループを比較している(Clark-Kauffman et al.2003)。プログラムは、単純な現金給付のものから、現金給付に加えて(親の)就労支援プログラムを行うもの、就労支援プログラムのみが提供されるものなど、さまざまである。その結果、潤沢な現金給付のプログラムであれば〇~五歳児の成長(プログラムに参加してから二年から五年の間に測定される学力テストや教師による評価)にプラスの影響を与えるものの、現金給付がないプログラム(サービスのみのプログラム)や現金給付が充分な額でないプログラムでは影響が見られなかったと報告している。つまり、所得の上昇だけによって、子どもの学力は向上したのである。

金さえ出せばある程度解決する。だったら出せばいい。

子どもに一時的な金を出すことで彼らが生涯にわたって貧困から抜けだせるのであれば、国全体の所得も増える。

海老で鯛を釣るようなものだ。ぜったいにやったほうがいい。
じっさい、多くの国ではやっている。

だが日本ではやらない。
未来の日本を支える子どもよりも老人に金をまわすほうを選ぶから。

 まず最初に、家族政策の総額の規模から見ていこう。国立社会保障・人口問題研究所によると、日本の「家族関連の社会支出」は、GDP(国内総生産)の〇・七五%であり、スウェーデン三・五四%、フランス三・〇二%、イギリス二・九三%などに比べると非常に少ない。ちなみに、ここで「家族関連の社会支出」として計上されているのは、児童手当、児童扶養手当、特別児童扶養手当(障がい児に月五万円ほどの給付がなされる制度)、健康保険などからの出産育児一時金、雇用保険からの育児休業給付、それに、保育所などの就学前保育制度、児童養護施設などの児童福祉サービスである(保育所については、二〇〇〇年より地方自治体の一般財源とされたため含まれない)。
 第7章にて詳しく説明するように、アメリカ、イギリスなど多くの国は、社会支出としてではなく、税制の一環として、給付を伴う優遇税制措置をとっているが、これらはこの統計には含まれていない。図3-1の中では、アメリカが唯一日本より比率が小さい国であるが、そのアメリカでさえも、税制からの給付を加えると、日本より高い比率の公費を「家族政策」に注ぎ込んでいると考えられる。
 次に、教育にかける支出についても国際比較してみよう。日本の教育への公的支出は、GDPの三・四%であり、ここでも日本は他の先進諸国に比べ少ない。スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国はGDPの五~七%を教育につぎ込んでおり、アメリカでさえも四・五%である。教育の部門別に見ても、日本は初等・中等教育でも最低の二・六%であり、高等教育においても〇・五%と、最低のレベルである。家族関連の支出と同様に、子どもの割合などを勘案して計算し直すと、この差は縮まるが、それでも日本は他の先進諸国に比べて少ない。

日本政府が子どもにかける金は、他の国に比べて圧倒的に少ない。

ちなみにこれは高齢者の比率が高いから、というわけでもない。
日本と同程度の高齢化率国でも、もっと多くの金を教育に投じている。

「米百俵」なんて言葉が力を持っていたのもはるか昔。

経済的に衰えただけでなく、品性まで貧しい国になってしまったのだ。悲しい。



まあ「日本政府は子どものいる貧困世帯を見捨てている」ぐらいならまだマシだよ(ぜんぜんよくないけど)。

現実はもっとひどい。

 図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。

わかります?

日本だけ、税金や社会保険を徴収・分配した後のほうが、子どもの貧困率が高くなっているのだ。

つまり、日本政府は子どものいる貧困家庭からむしりとって、そうでない世帯にお金を移しているのだ。

なんとグロテスクなグラフだ。
おっそろしい。

基本的に政府に対して不信感を持っているぼくでも、まさかここまで悪辣なことをやっているとはおもっていなかった。

なぜこんなことが起こるのかというと、

  • 所得税は高所得者のほうが多くとられるが、社会保険は逆累進的でむしろ低所得者のほうが所得に対して大きな割合でとられる
  • 社会保険を負担するのは現役世代で恩恵を受けるのは引退世代だが、子育て世帯はたいてい現役世帯なので取られるほうが大きい
  • 低所得者でも関係なくむしりとる消費税の負担が大きくなっている

ことなどが原因だ。

老人のために金を使い、そのために子どもに使うべき金をめいっぱい削っている。
絶望感しかないな。


日本政府の対応は、「貧困家庭、母子家庭はもっと働け」というスタンスだ。
就労支援をして所得を増やす……という方法もわからんでもないが、正直いって現実的でない。子育てをしたことない人間が政策をつくっているのだろうか。

うちには今七歳と一歳の子がいる。
子育て世代どまんなかだ。

子どもはしょっちゅう熱を出す。いろんな病気をもらってくる。ぐずる。目が離せない。じっとしてない。夜中も起きる。朝は起きない。

はっきりいって、仕事をしながら子育てをするのは超たいへんだ。
それでもうちは夫婦ともに残業がほぼなくてそこそこ休みをとれる職場だし、土日祝は休みだし、夜勤もないし、なにかあれば祖父母も来れないこともない距離だし、頼れる友人や親戚もいるので、まあまあなんとかなっている。
幸いにして子どもはふたりとも頑健なほうだし。

それでも「ギリギリなんとかなってる」って感じだ。
休みが少なかったり夜勤があったり頼れる親戚がいなかったり子どもが病気がちだったりしたら、あっという間にゆきづまってしまう。

だから「仕事を用意してやるからもっと働け」と言われてもムリだ。
残業がなくて急な休みを好きなだけとれて給料のいい仕事を用意してくれるならべつだが。


貧困にあえぐ子育て世帯に必要なのは就労支援ではなく、現金給付だ。

そして働ける高齢者に必要なのは仕事。
生きていくためには、金だけでなく「誰かの役に立ちたい」という欲求も満たす必要があるのだから(子育てをしていれば後者はいやというほど満たされる)。

でも今の政策は逆をやっている。
母子家庭は就労支援、高齢者は現金給付。

もちろん高齢者といってもひとくくりにはできないが、働きたい高齢者には金ではなく仕事を、貧困子育て世帯にはまず金を。

高齢者に金を使うなとは言わないが、優先順位がおかしいんだよね。
子どもは最優先だろう。
人道的な理由だけでなく、「それが長期的にはいちばん安くつく」から。
子どもに金を出せば、七十年後に「貧しい高齢者」が減ることになるのだから。



日本政府が子どものために金を使わないのは、政府だけの問題ではない。

「すべての子どもが最低限享受すべきとおもうのは何ですか?」と尋ねて「新品の靴」とか「誕生日を祝ってもらえること」とかの中からチェックしてもらうという意識調査をおこなったところ、日本人は他の国よりも「なくてもしかたない」と答える人が多かったという。

たとえば「少なくとも一足のお古でない靴」を「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべき」と答えたのは40.2%、「自転車(小学生以上)」は20.9%だ。

多くの日本人は「親が貧しければ子どもが不便を強いられるのはしかたない。周りの子どもがみんな持っているものをひとりだけ与えられなくても我慢しろ」と考えているのだ。

日本人は貧乏人に厳しい。

その理由を、筆者はこう分析する。

 筆者は、日本の人々がイギリスの人々に比べて子どもを大事にしていないわけはないと思う。しかし、このような結果が出るのは、日本人の心理の根底に、数々の「神話」があるからではないだろうか。「総中流神話」「機会の平等神話」、そして「貧しくても幸せな家庭神話」。
「総中流神話」は、たとえ子どもの現在の生活が多少充足されていなくても、他の子どもたちも似たり寄ったりであろうという錯覚を起こさせる。「機会の平等神話」は、どんな家庭状況の子でも、がんばってちゃんと勉強していれば、たとえ、公立の学校だけでも、将来的な教育の達成度や職業的な成功を得る機会は同じように与えられていると信じさせる。「貧しくても幸せな家庭神話」は、物的に恵まれなくても子どもは幸せに育つと説得する。
 もちろん、そうであるべきであるし、そうであると信じたい。しかし、第1章でみてきたように、実際には、子ども期の生活の充足と、学力、健康、成長、生活の質、そして将来のさまざまな達成(学歴、就労、所得、結婚など)には密接な関係がある。その関係について、日本人の多くは、鈍感なのではないだろうか。これが、「子どもの貧困」が長い間社会的問題とされず、国の対応も迫られてこなかった理由なのではないだろうか。

筆者が「神話」と呼んでいるように、これらは全部ウソだ。

データを見れば明らかだ。
日本は圧倒的に格差が大きい社会。
生まれた家の経済状況が成功を大きく左右するので本人の努力での逆転は困難。
貧しいことはさまざまな問題を引き起こす上に、一生ついてまわる。

残念ながらこれが日本の現実だ。


子どもの貧困を減らすために政治や行政が手を打つことも大事だけど、まずは我々が
「日本には貧しい子が多いし、貧しい子のために金を使う気はない国だ」
という現実を直視することが大事なのかもしれない。


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