超・反知性主義入門
小田嶋 隆
いっとき「反知性主義」って言葉流行ったね。
ぼくは「本ばっかり読んでても何も身につかない。会って話すことが重要だ!」「東大生は頭でっかちで社会では何の役にも立たないぜ。経験こそがすべてだ!」みたいな、「先人の知恵を否定する態度」みたいな意味かと思ってたんだけど、どうもそうではないみたいね(そういう面もあるみたいだけど)。
既存の権威主義的な論理体系に対するカウンターというか、当然のこととして受け入れられているものに疑問を投げて再定義しなおそうとする、むしろ科学的なアプローチだったりが本来の意味らしい。
ところが「反知性主義」という言葉が独り歩きしてしまい、単なる「バカ」「自分の考えを理解できないやつら」ぐらいの意味になってしまった。
まあ字面からはそう読み取れてしまうよね。
小田嶋さんの『超・反知性主義入門』は本来の意味での反知性主義に近い。
ばかなやつらを啓蒙しようという感じではなく、「みんな同じようなこと言ってるけど、おれはこっちの面から見てみたらこんなふうに見えたよ」ってなぐらいの温度感。
とはいえ世の中には「違う考えの人間がいることが許せない」人たちがけっこういるから、日経ビジネスオンライン連載時はずいぶん炎上したみたい。
そんなに過激なことを言っているようには読めないんだけどなあ。
「おれはこう思うよ?」ぐらいなんだけど。
これぐらいの意見でも多くの批判がぶつけられるなんて、職業的に物を書く人にはやりづらい世の中になったねえ。同情する。
謝罪会見について。
ふうむ。
云われてみれば、謝罪って理性的な話し合いとはもっとも遠いところにあるコミュニケーションかもしれない。
きちんと事実経緯を述べて、原因究明と再発防止策を講じて、被害に遭った人に対して相応の賠償をしたとしても、謝罪する人間が偉そうにふんぞりかえって鼻くそをほじっていたらきっと許してもらえない。
逆に、終始しどろもどろで「すみません、すみません」の一点張りであっても額に汗かいて深く頭を下げていたら「誠意がある」ということでその場は流してもらえたりする。
ぼくも客商売をしていたときに謝罪をする機会がよくあったけど、こちらに全面的な非があるときはむしろ楽だった。
すみません、すみません、と一方的に謝罪しつづければそのうち相手は怒りの矛を収めてくれる。
こちらも誠心誠意謝ることができる。
たいへんなのは、クレームをつけている側に落ち度があるときだ。
店側は、どうしても「納得してもらおう」と説得を試みてしまう。
そうすると相手の怒りは静まらないどころかどんどんヒートアップする。
これも、謝罪を要求している側が求めているのは理屈ではないからなんだろう。
政治には関心があるが選挙は嫌いだという小田嶋さんの主張はおもしろかった。
いわれてみれば、たしかに選挙ってクソダサいよなあ。
スマートなイメージで売っている人でも、選挙では拡声器持って大声を張りあげて、選挙カーの中から身を乗りだして必死に手を振って、握手したりバンザイしたりとぜんぜんスマートじゃない。
雨の中傘もささずに立って演説したり、真夏の選挙では真っ黒に日焼けしたり、ド根性主義が跋扈している。
うん、クソダサい。
ぼくはほとんど選挙公報を読むだけで誰に投票するかを決めているから、拡声器も選挙カーも握手もバンザイもずぶ濡れも日焼けもまったくもって「どうでもいいこと」なんだけど(というよりマイナス要因でしかない)、世の中には「意味のない努力」を重視して投票する人もいるんだろうね。
「あのセンセイは毎日立って演説しているからがんばっとる」「あの人は演説の時、日陰に入っとったから気に入らん」みたいな人が。
「高校野球は炎天下に汗水たらして全力疾走している姿が感動を呼ぶ」タイプの人が。
たぶん個人レベルではいわゆるドブ板選挙に反対している人もいるんでしょうが、きっと党本部が許さんのでしょうね。
「んまー、〇期当選の〇〇先生でも毎日演説やってらっしゃるのに新人のあなたが演説しないんですって!?」みたいな圧力がかかるんでしょう。
そういや堀江貴文さんが「自分が出馬したとき、かけずりまわるドブ板選挙なんてぜったいやるものかと思っていたのに、終盤戦になったら声をからして叫んだり応援にきてくれる人たちに頭を下げて握手したりしている自分がいた」ってなことをどこかに書いていた。
あれはお祭りなんだろうね。お祭りの熱狂が人をおかしくさせるんだろう。
だって尋常じゃないもの。声をからして叫んでるやつに理性的な判断ができるとはとうてい思えないもの。それでもやらずにはいられないんだろうね。
まあお祭りだからそれでもいいのかもしれないけど、合理性を捨てた選挙で勝ち上がった政治家が合理的で効率追求型の政治をできるかっていったら、まあ無理だよね。
選挙のやり方をもっとスマートにすれば、政治ももうちょい見栄えのするものになるんじゃないかとわりと真剣に思う。まあべつに見栄えを良くする必要もないけど。
小田嶋隆氏の文章って、その内容に同意できないことはあっても、論旨の組み立て方にはいつも感心させられる。内田樹氏もそうだけど。
難解な言葉を使わずに、軽やかな飛躍もまじえながら、論理的に文章を組み立てている。
だから結論には同意できなくても「ふむ。その考え方はよくわかる」と毎回思う。
世の中には弁の立つ人が多いけど、こういう語り方をできる人ってすごく少ないよね。
世の中を敵味方に分けて相手を言い負かすことを考えている人ばかりだ。
必要なのは、敵を攻撃することや、味方の同意を得ることではなく、「立場や思想の異なる人に優しく語りかけてほんの少しだけでも自分の考えを知ってもらう」ことだよねえ。
オダジマさんの語りにはそういう姿勢を感じる。
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