2024年2月28日水曜日

【読書感想文】マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』 / やればできるは呪いの言葉

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実力も運のうち

能力主義は正義か?

マイケル・サンデル(著)  鬼澤 忍(訳)

内容(e-honより)
努力して高い能力を身につけた者が、社会的成功とその報酬を手にする。こうした「能力主義(メリトクラシー)」は一見、平等に思える。だが、本当にそうだろうか?ハーバード大学の学生の3分の2は、所得分布で上位5分の1にあたる家庭の出身だ―。「やればできる」という言葉に覆い隠される深刻な格差を明るみに出し、現代における「正義」と「人間の尊厳」を根本から問う、サンデル教授の新たなる主著。

 世界中で広まる「能力主義」の背景や問題点を問う本。

「能力主義」とは、かんたんにいうと、高い能力を持っているものが大きな報酬を手にすべきとする考え方だ。これだけなら「あたりまえじゃないの?」とおもう人も多いだろう。

 そう、たいていの人は能力主義の考え方を持っている。能力主義の反対にあるのは、(極端な)共産主義、年功序列主義、貴族制度など、一般に悪しきものとされている考え方だ。

 がんばってより高い能力を身につけた者が、それに見合った対価を獲得する。これだけならちっとも悪いこととはおもえないかもしれない。だからこそ能力主義の考え方はどんどん広がっている。疑問すら持たない人も多い。

 だが、能力主義は様々な弊害も生みだしていると著者は指摘する。




 能力主義の欠点のひとつは、それがはびこることによって、成功を収めた人が自分の成功はすべて能力と努力によるものだと考えてしまうことだ。

 競争の激しい能力主義社会で努力と才能によって勝利を収める人びとは、さまざまな恩恵を被っているにもかかわらず、競争のせいでそれを忘れてしまいがちだ。能力主義が高じると、奮闘努力するうちに我を忘れ、与えられる恩恵など目に入らなくなってしまう。こうして、不正も、贈収賄も、富裕層向けの特権もない公正な能力主義社会においてさえ、間違った印象が植え付けられることになる――われわれは自分一人の力で成功したのだと。名門大学の志願者に求められる数年に及ぶ多大な努力のせいで、彼らはほとんど否応なくこう信じ込むようになる。成功は自分自身の手柄であり、もし失敗すれば、その責めを負うのは自分だけなのだと。
 これは、若者にとって重荷であるだけでなく、市民感情をむしばむものでもある。われわれは自分自身を自力でつくりあげるのだし、自分のことは自分でできるという考え方が強くなればなるほど、感謝の気持ちや謙虚さを身につけるのはますます難しくなるからだ。こういった感情を抜きにして、共通善に配慮するのは難しい。

 あたりまえだが、成功はすべて努力によるものではない。経済的に恵まれた国に生まれたこと、健康に成長したこと、飢えずに大人になれたこと、戦争や天災や事故で命を落とさなかったこと、良い教育を受けられたこと、どれひとつとっても己の努力によるものではない。ひとことでいえば「運が良かった」ことに尽きる。

 また、現在の成功とは基本的に「たくさん金を儲けること」だ。ふつう「成功者」と言われて思い描くのはCEOだとか経営者だとかトッププロスポーツ選手とかのお金持ちだろう。貧しい国で多くの命を救った医師とか、人命救助のスペシャリストとかではなく。

 つまり能力主義のいう〝能力〟とはたまたま時代や環境のめぐりあわせがよくて株でもうけたり、他人を出し抜く力に長けていたり、別の金持ちに取り入るのが上手だったりとかの金儲けに直結する能力であって、掃除がうまいとか介護をがんばれるとかの能力ではない。とすると、はたして〝能力〟にめぐまれたからといって多くの富を一手に集める権利があるかというとはなはだ怪しい。


 少し前に〝親ガチャ〟という言葉が流行った。あの言葉自体はあまり好きではないのだが(広く使われすぎたせいで)、一片の真実も含んでいる。実際、どんな親のもとに生まれて育つかは運でしかない。そして親の経済状況や性格や教育方針によって、子どもの成功確率は大きく変わる。過酷な環境から成功する人もいるが、「やってできた人もいる」と「やればできる」はまったくちがう。それなのに「やればできる」「成功したのは努力したから」だと欺瞞を口にする人は後を絶たない。




 ま、おもう分には勝手にしたらいい。「自分が成功できたのは努力したからだ」「自分が成功できていないのは努力が足りないからだ。もっとがんばろう」と考えるのは自由だ。

 問題は、それを他人に押しつけて「やればできるはずだからもっとがんばれ!」「おまえの境遇が悲惨なのは努力が足りないからだ!」と言う輩が多いことだ。

 政治家が神聖な真理を飽き飽きするほど繰り返し語るとき、それはもはや真実ではないのではという疑いが生じるのはもっともなことだ。これは出世のレトリックについても言える。不平等が人のやる気を失わせるほど大きくなりつつあったときに、出世のレトリックがひどく鼻についたのは偶然ではない。最も裕福な一%の人びとが、人口の下位半分の合計を超える収入を得ているとき、所得の中央値が四〇年のあいだ停滞したままでいるとき、努力や勤勉によってずっと先まで行けるなどと言われても、空々しく聞こえるようになってくる。
 こうした空々しさは二種類の不満を生む。一つは、社会システムがその能力主義的約束を実現できないとき、つまり、懸命に働き、ルールに従って行動している人びとが前進できないときに生じる失望。もう一つは、能力主義の約束はすでに果たされているのに、自分たちは大損したと人びとが思っているときに生じる落胆だ。後者のほうがより自信を失わせるのは、取り残された人びとにとって、彼らの失敗は彼らの責任ということになるからである。

 著者は、ふたつの階層社会を例に挙げている。ひとつは身分制による階層社会。もうひとつは能力主義による階層社会。どちらも貧富の差は大きく、ひとにぎりの上層部が富を独占している。後者は今のアメリカのような国だ。

 前者は階層が出自によって決定するので、低い階層の人がどんなに努力しても上位階層に行くことはできない。後者の社会ではごくまれにではあるが、低い階層から上位階層に昇りつめることのできる者もいる。少ないとはいえ上昇のチャンスがある分、後者のほうがまだマシだとおもうかもしれない。

 自分が最下層にいたらどちらがつらいだろうか。もちろん前者はつらい。決して上昇のチャンスがないのだから。だが「自分の境遇が悪いのは自分のせいではない。また金持ちのやつらも、彼らがそれに見合う能力や実績を持っているから金持ちになっているのではない」とおもえる。

 一方、後者の階層社会では「おまえが貧しいのはおまえの努力が足りないからだ。見ろ、貧しい階級から努力して金持ちになった連中もいるではないか。おまえが貧しいのはおまえがダメだからだ」と言われるのだ。そんなことを言われる世の中で「貧しくたって楽しく生きられるさ」とおもえるだろうか。




 だが、その強い魅力にもかかわらず、能力主義が完全に実現しさえすれば、その社会は正義にかなうという主張はいささか疑わしい。まず第一に、能力主義の理想にとって重要なのは流動性であり、平等ではないことに注意すべきである。金持ちと貧乏人のあいだの大きな格差が悪いとは言っていないのだ。金持ちの子供と貧乏人の子供は、時を経るにつれ、各人の能力に基づいて立場を入れ替えることが可能でなければ―――つまり、努力と才能の帰結として出世したり没落したりしなければ―――おかしいと主張しているにすぎない。誰であれ、偏見や特権のせいで、底辺に留め置かれたり頂点に祭り上げられたりすべきではないのである。
 能力主義社会にとって重要なのは、成功のはしごを上る平等な機会を誰もが手にしていることだ。はしごの踏み板の間隔がどれくらいであるべきかについては、何も言わない。能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ。

「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ」

 つまりはこういうことなんだよね。能力主義ってのはべつに公正な分配方法ではなく、(富を多く持つ者の側が)不平等を正当化するための理屈なんだよね。

 でも「やればできる!」「貧しい者でも努力によって成功を勝ち取れる!」ってのは耳当たりのいい言葉だから広まってしまい、持てる者からすれば「おれの成功はおれ自身のおかげ」と再分配を拒むための言い訳になり、持たざる者にとっては「自分が成功していないのは自分の努力が足りないから」という呪いの言葉になってしまった。


 著者は「機会の平等は、不正義を正すために道徳的で必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。」と書いている。

 まったくの同感だ。少なくとも経済競争の勝者の側がふりかざしていい理論ではないよね。




 これはぼくの勝手な想像だけど、能力主義の蔓延は世の中が平穏だから、ってのも要因のひとつなんじゃないだろうか。

 たとえば戦争や大震災なんかで周囲の人がたくさん亡くなっていたら「自分が成功したのはひとえに自分が努力したからだ」なんて考えには至りにくいんじゃなかろうか。

 まじめで誰からも愛されるいいやつだったけど、流れ弾に当たって死んでしまった。すごく頭が良くて何をやらせても上手にできるやつだったけど、地震で死んでしまった。すぐ近くにいた自分はたまたま居た場所がよかったおかげで助かった。

 そんな経験をしていたら、とても「おれの成功はおれの努力のおかげだから報酬を独占する権利がある」なんてならないのでは(なる人もいるだろうけど)。


 ぼくの場合も、幼なじみのSという男の死がその後の考え方に影響を与えた。Sはサッカーがうまくて、運動神経抜群で、勉強もできて、努力家で、さわやかで人当たりがよくて、女の子からとにかくモテて、でも男からも好かれていて、誰もが口をそろえて言う「いいやつ」だった。いい大学に行き、そこでも友だちに恵まれていた。誰もがSは順風満帆な人生を送るのだろうとおもっていた。

 しかしSは二十代半ばで病気で死んでしまった。「いいやつほど早く死ぬ」なんて言葉をぼくは信じてはいないけど、それでもそう言いたくなるほどあっけなく。

 それ以来、諦観というほどではないけど、「人生がうまくいくかなんて運次第」という考えがぼくの中で強くなった。能力に恵まれて努力家でいいやつだったSが早く死んだのだから。才能や努力は成功に貢献する一要素ではあるけれど、そんなに大きなものではない。


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