実力も運のうち
能力主義は正義か?
マイケル・サンデル(著) 鬼澤 忍(訳)
世界中で広まる「能力主義」の背景や問題点を問う本。
「能力主義」とは、かんたんにいうと、高い能力を持っているものが大きな報酬を手にすべきとする考え方だ。これだけなら「あたりまえじゃないの?」とおもう人も多いだろう。
そう、たいていの人は能力主義の考え方を持っている。能力主義の反対にあるのは、(極端な)共産主義、年功序列主義、貴族制度など、一般に悪しきものとされている考え方だ。
がんばってより高い能力を身につけた者が、それに見合った対価を獲得する。これだけならちっとも悪いこととはおもえないかもしれない。だからこそ能力主義の考え方はどんどん広がっている。疑問すら持たない人も多い。
だが、能力主義は様々な弊害も生みだしていると著者は指摘する。
能力主義の欠点のひとつは、それがはびこることによって、成功を収めた人が自分の成功はすべて能力と努力によるものだと考えてしまうことだ。
あたりまえだが、成功はすべて努力によるものではない。経済的に恵まれた国に生まれたこと、健康に成長したこと、飢えずに大人になれたこと、戦争や天災や事故で命を落とさなかったこと、良い教育を受けられたこと、どれひとつとっても己の努力によるものではない。ひとことでいえば「運が良かった」ことに尽きる。
また、現在の成功とは基本的に「たくさん金を儲けること」だ。ふつう「成功者」と言われて思い描くのはCEOだとか経営者だとかトッププロスポーツ選手とかのお金持ちだろう。貧しい国で多くの命を救った医師とか、人命救助のスペシャリストとかではなく。
つまり能力主義のいう〝能力〟とはたまたま時代や環境のめぐりあわせがよくて株でもうけたり、他人を出し抜く力に長けていたり、別の金持ちに取り入るのが上手だったりとかの金儲けに直結する能力であって、掃除がうまいとか介護をがんばれるとかの能力ではない。とすると、はたして〝能力〟にめぐまれたからといって多くの富を一手に集める権利があるかというとはなはだ怪しい。
少し前に〝親ガチャ〟という言葉が流行った。あの言葉自体はあまり好きではないのだが(広く使われすぎたせいで)、一片の真実も含んでいる。実際、どんな親のもとに生まれて育つかは運でしかない。そして親の経済状況や性格や教育方針によって、子どもの成功確率は大きく変わる。過酷な環境から成功する人もいるが、「やってできた人もいる」と「やればできる」はまったくちがう。それなのに「やればできる」「成功したのは努力したから」だと欺瞞を口にする人は後を絶たない。
ま、おもう分には勝手にしたらいい。「自分が成功できたのは努力したからだ」「自分が成功できていないのは努力が足りないからだ。もっとがんばろう」と考えるのは自由だ。
問題は、それを他人に押しつけて「やればできるはずだからもっとがんばれ!」「おまえの境遇が悲惨なのは努力が足りないからだ!」と言う輩が多いことだ。
著者は、ふたつの階層社会を例に挙げている。ひとつは身分制による階層社会。もうひとつは能力主義による階層社会。どちらも貧富の差は大きく、ひとにぎりの上層部が富を独占している。後者は今のアメリカのような国だ。
前者は階層が出自によって決定するので、低い階層の人がどんなに努力しても上位階層に行くことはできない。後者の社会ではごくまれにではあるが、低い階層から上位階層に昇りつめることのできる者もいる。少ないとはいえ上昇のチャンスがある分、後者のほうがまだマシだとおもうかもしれない。
自分が最下層にいたらどちらがつらいだろうか。もちろん前者はつらい。決して上昇のチャンスがないのだから。だが「自分の境遇が悪いのは自分のせいではない。また金持ちのやつらも、彼らがそれに見合う能力や実績を持っているから金持ちになっているのではない」とおもえる。
一方、後者の階層社会では「おまえが貧しいのはおまえの努力が足りないからだ。見ろ、貧しい階級から努力して金持ちになった連中もいるではないか。おまえが貧しいのはおまえがダメだからだ」と言われるのだ。そんなことを言われる世の中で「貧しくたって楽しく生きられるさ」とおもえるだろうか。
「能力主義の理想は不平等の解決ではない。不平等の正当化なのだ」
つまりはこういうことなんだよね。能力主義ってのはべつに公正な分配方法ではなく、(富を多く持つ者の側が)不平等を正当化するための理屈なんだよね。
でも「やればできる!」「貧しい者でも努力によって成功を勝ち取れる!」ってのは耳当たりのいい言葉だから広まってしまい、持てる者からすれば「おれの成功はおれ自身のおかげ」と再分配を拒むための言い訳になり、持たざる者にとっては「自分が成功していないのは自分の努力が足りないから」という呪いの言葉になってしまった。
著者は「機会の平等は、不正義を正すために道徳的で必要な手段である。とはいえ、それはあくまでも救済のための原則であり、善き社会にふさわしい理想ではない。」と書いている。
まったくの同感だ。少なくとも経済競争の勝者の側がふりかざしていい理論ではないよね。
これはぼくの勝手な想像だけど、能力主義の蔓延は世の中が平穏だから、ってのも要因のひとつなんじゃないだろうか。
たとえば戦争や大震災なんかで周囲の人がたくさん亡くなっていたら「自分が成功したのはひとえに自分が努力したからだ」なんて考えには至りにくいんじゃなかろうか。
まじめで誰からも愛されるいいやつだったけど、流れ弾に当たって死んでしまった。すごく頭が良くて何をやらせても上手にできるやつだったけど、地震で死んでしまった。すぐ近くにいた自分はたまたま居た場所がよかったおかげで助かった。
そんな経験をしていたら、とても「おれの成功はおれの努力のおかげだから報酬を独占する権利がある」なんてならないのでは(なる人もいるだろうけど)。
ぼくの場合も、幼なじみのSという男の死がその後の考え方に影響を与えた。Sはサッカーがうまくて、運動神経抜群で、勉強もできて、努力家で、さわやかで人当たりがよくて、女の子からとにかくモテて、でも男からも好かれていて、誰もが口をそろえて言う「いいやつ」だった。いい大学に行き、そこでも友だちに恵まれていた。誰もがSは順風満帆な人生を送るのだろうとおもっていた。
しかしSは二十代半ばで病気で死んでしまった。「いいやつほど早く死ぬ」なんて言葉をぼくは信じてはいないけど、それでもそう言いたくなるほどあっけなく。
それ以来、諦観というほどではないけど、「人生がうまくいくかなんて運次第」という考えがぼくの中で強くなった。能力に恵まれて努力家でいいやつだったSが早く死んだのだから。才能や努力は成功に貢献する一要素ではあるけれど、そんなに大きなものではない。
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