2024年3月22日金曜日

【読書感想文】ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』 / 科学と宗教は紙一重

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禍いの科学

正義が愚行に変わるとき

ポール・A・オフィット(著)  関谷冬華(訳)

内容(e-honより)
科学の革新は常に進歩を意味するわけではない。パンドラが伝説の箱を開けたときに放たれた凶悪な禍いのように、時に致命的な害悪をもたらすこともあるのだ。科学者であり医師でもある著者ポール・オフィットは、人類に破滅的な禍いをもたらした7つの発明について語る。私たちの社会が将来このような過ちを避けるためには、どうすればよいか。これらの物語から教訓を導き出し、今日注目を集めている健康問題(ワクチン接種、電子タバコ、がん検診プログラム、遺伝子組み換え作物)についての主張を検証し、科学が人間の健康と進歩に本当に貢献するための視点を提示する。


 良かれとおもって生み出された科学技術が、多くの人の命や健康を奪った例を集めて紹介する本。

 目次は以下の通り。
「第1章 神の薬アヘン」
「第2章 マーガリンの大誤算」
「第3章 化学肥料から始まった悲劇」
「第4章 人権を蹂躙した優生学」
「第5章 心を壊すロボトミー手術」
「第6章 『沈黙の春』の功罪」
「第7章 ノーベル賞受賞者の蹉跌」
「第8章 過去に学ぶ教訓」




 たとえばアヘン。誰でも知っているいおそろしい麻薬だが、人をダメにするために生みだされたわけではなく、当初は鎮静剤だったそうだ。「ぐずる子供をおとなしくさせるため」などにも使われていたという。

 だが中毒性の高さや健康に及ぼす悪影響が明らかになり、中国のように社会全体にまで深刻な被害を及ぼすようになった(それがアヘン戦争につながったのは世界史で習った通り)。

 アヘンから中毒性をなくし鎮静効果だけを取り出そうとして作られたのがモルヒネやヘロイン、オキシコドンなど。しかしどれも期待していたような結果にはつながらず、中毒性、副作用があることが後に判明する。

 麻薬って「悪いやつが悪いことのために作っている」というイメージがあったけど、少なくとも最初は「人々の役に立つように」とおもって作られているんだね。結局は悪いやつに悪い目的で使われてしまうんだけど。




 また、バターのヘルシーな代用品としてつくられたマーガリンが後に心臓病リスクを高めることがわかったり(最近は心臓病のリスクを高めるトランス脂肪酸の少ないマーガリンも作られているらしい)、空気中の窒素からアンモニアを大量生産できるハーバー・ボッシュ法によって農産物の収穫量が飛躍的にはねあがった一方、土壌から流出した窒素が河川や海を汚したりと、一見いいものとおもわれていたものが後に深刻な被害をもたらす例がいくつも紹介されている。

 知らないうちにトランス脂肪酸を含む不飽和脂肪酸を推進していた消費者団体は、自分たちの活動を悔いた。2004年にCSPIの事務局長はこう述べている。「20年前、私を含めた科学者たちはトランス脂肪酸に害はないと考えていた。後から、そうではなかったことがわかってきた」。1年後、ハーバード大学医学部教授でハーバード大学公衆衛生学部の栄養学科長を務めるウォルター・ウィレットは、『ニューヨーク・タイムズ』紙にこう語った。「多くの人々が専門家の立場からバターの代わりにマーガリンを食べるように勧めてきたし、1980年代に内科医だった私も人々にそうするように告げていた。不幸にも早すぎる死に彼らを追いやってしまったことも少なからずあったはずだ」。

 また、ノーベル化学賞とノーベル平和賞を受賞したライナス・ポーリング(異なる分野のノーベル賞をひとりで受賞したのは現在までこの人ただ一人)はビタミンの大量摂取が健康に良いと唱え、それがむしろ身体に悪いことを示す様々なデータが出た後でもビタミン大量摂取健康法(メガビタミン健康法というそうだ)を主張しつづけた。

 一度「これは健康にいい(or 悪い)」と信じてしまうと、なかなか考えを転向させるのはむずかしいのだ。たとえノーベル賞を二度も受賞するほど賢い人でも。

 いや、賢い人だからこそかもしれない。

 ターリ・シャーロット『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』によると、認知能力が優れている人ほど情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなるそうだ。賢い人は自分が賢いことを知っており、「自分はまちがっていない。なぜなら~」と過去の判断を正当化するのがうまいんだそうだ。

 ノーベル賞を二度も受賞したら、なかなか「自分はまちがってて他の連中の言うことのほうが正しいのだ」とは認められないだろうね。




 著者は「どんなものにも代償はある」と書いている。すべてのものには良い面もあり、悪い面もある。多くの生命にとって欠かせない水ですら悪い面はある。

「〇〇はいいことずくめ!」という言説を見たら、嘘つきか無知のどっちかだとおもったほうがいいかもしれない。

 もっとも、この本はこの本で、「〇〇はいいと言われていたけど悪かった!」と逆の方向に振れすぎている(いい面を無視しすぎている)きらいがあるけど。




 いちばん興味深かったのは「第6章 『沈黙の春』の功罪」の章。

 1962年にレイチェル・カーソンによって著された『沈黙の春』は世界中でベストセラーになった。農薬の大量使用に警鐘を鳴らしたこの本は環境問題を語る上では避けて通れない一冊となっていて、たしかぼくの学生時代の教科書にも載っていた。

 この本に書かれている内容は(現代科学から見ると誤っているところがあるにせよ)大きな問題があるわけではない。問題は、この本の影響が大きくなりすぎて、「農薬=悪」という単純な考えをする人が増えてしまったことにある。

 その結果、数多くの殺虫剤や農薬の使用が制限された。中でもマラリア予防に効果的だったDDTの使用が世界中で制限された。

 発疹チフスも命にかかわる怖い病気だが、これまでどんな病気よりも数多くの人々の命を奪い、これからも奪い続けようとしている感染症――マラリアとは比べものにならない。ハマダラカに刺され、マラリア原虫が肝臓や血液中に侵入することで感染するマラリアは、高熱、強い悪寒、出血、見当識障害を引き起こし、やがて死に至る。レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を出版した1962年の時点で、マラリアを抑え込むための最大の武器はキニーネやクロロキンなどの治療薬でも、蚊よけ網(蚊帳の類い)や沼池の水抜きなどの環境対策でもなかった。マラリアと戦うための、最も効果が高く、最も安上がりな最高の武器は、何といってもDDTだった。散布計画が実施されると、南アフリカのマラリアの患者数は1945年の1177人から1951年には61人に激減し、1940年代半ばに100万人以上の患者がいた台湾は1969年には患者がわずか9人になり、1946年に7万5000人がマラリアに罹患していたイタリアのサルデーニャも1951年には患者が5人になった。
(中略)
 1955年、世界保健総会は、世界保健機関(WHO)にDDTを使用した世界マラリア根絶計画に着手するよう指示した。根絶計画が実行に移された1959年の時点で、すでに300万人以上がDDTにより命を救われていた。1960年までに、マラリアは11カ国で根絶された。マラリアの罹患率が下がるにつれ、平均余命が延び、作物の生産量が増え、土地の価格も上昇して、人々は相対的に豊かになっていった。おそらくWHOの計画によって最も大きな恩恵を享受したのは、1960年に散布が開始されたネパールだろう。当時のネパールでは、200万人以上がマラリアに罹患し、主な患者は子供たちだった。1968年には、患者数は2500人まで減った。マラリア対策が開始される前のネパールの平均寿命は28才だったが、1970年には42才になった。
 蚊が媒介する病気はマラリアばかりではない。DDTにより、黄熱やデング熱の発生も大幅に減少した。さらにDDTは、ネズミに寄生して発疹熱を媒介したり、プレーリードッグやジリスに寄生してペストを媒介したりするノミにも効果があった。これらすべての病気が多くの国で事実上根絶できたことを踏まえて、米国科学アカデミーが1970年に行った試算によれば、DDTは5億人の命を救ったと推定された。DDTは、歴史上のどんな化学薬品よりもたくさんの命を救ったといっても過言ではないだろう。

 『沈黙の春』では、DDTの使用をすべてやめろと主張していたわけではない。過度の使用が生物濃縮や耐性を持つ蚊を誕生させるという警鐘を鳴らしただけだ。

 だが単純な人たちにはそんなことはわからない。「DDTは悪い! 一切使うな!」という声は高まり、DDTは使用が禁止されてしまった。

 環境保護庁が米国でDDTを禁止した1972年以降、5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは、5才未満の子供たちだった。『沈黙の春』の影響は、枚挙にいとまがない。
 インドでは、1952年から1962年の間に行われたDDT散布により、年間のマラリア発生件数は1億件から6万件に減少した。しかし、DDTが使用できなくなった1970年代後半には600万件に増加した。
 スリランカでは、DDTを使用する前は280万人がマラリアに罹患していた。散布をやめた1964年には、マラリアにかかった患者はわずか17人だった。その後、DDTを使用できなくなった1968年から1970年の間に、スリランカではマラリアの大流行が発生し、150万人がマラリアに感染した。
 1997年にDDTの使用が禁止された南アフリカでは、マラリア患者は8500人から4万2000人に、マラリアによる死者は22人から320人に増加した。

(レイチェル・カーソンが意図したものではなかったが)結果だけ見れば『沈黙の春』が多くの命を奪うことになってしまった(マラリア患者が増えたのは『沈黙の春』で指摘された通りにDDT耐性を持つ蚊が増えたからだとする説もあるらしい)。




 科学の話に限らず、物事を単純化しようとする人は多い。「〇〇は悪だ!」「△△にすればうまくいく!」「今の状況が悪いのは××のせいだ!」という言説があふれかえっている。

 残念ながら世の中はそんなに単純ではない。物事にはいい面もあれば悪い面もある。人にも組織にも国にも悪い面もあれば悪い面もある。

 でも「〇〇はいいところもあるし悪いところもある。人によってはいい人に映るし、そうとらえない人もいる。正しいこともしたし間違えることもあった」という言説はウケない。


 これを書いている今、大谷翔平選手の通訳が違法ギャンブルに手を染めていて、その資金が大谷選手の口座から送金されていたことが大きなニュースになっている。

 大谷選手が通訳の違法ギャンブルを知っていたのか知らなかったのか、口座から送金したのは誰なのか、大谷選手も罪に問われるのか、そのへんのことは現在(2024/3/22現在)明らかになっていない。とにかく不明瞭だ。

 そんな中「真実はこんなことじゃないかと推測する」とSNSに長文を書いている人がいた。そこまでは別にいい。ぼくが怖いとおもったのは、それに対して「わかりやすい解説だ!」というコメントがたくさんついていたことだ。

 いや、わかりやすいもなにも、それって単なる憶測なんだけど……。

 当人にしか(ひょっとしたら当人にすら)わからないことに対しての“推測”を“わかりやすい解説”だとおもってしまう人がいるのだ。算数の問題じゃないんだから「これがいちばんわかりやすい解説!」があるわけないのに……。

 その“わかりやすい解説”に飛びついてしまう人たちは、わからないものをわからないままにしておくことができないのだ。わからないままにするのって知的に負担のかかることだから。「たったひとつのシンプルな真相」があることにするほうがずっと楽だから。

「真相はわからないから保留」にするのはたいへんだ。脳にストレスがかかる。「応援している大谷選手が犯罪に手を染めていた」という望ましくない可能性も残しておかなくてはならない。それに耐えられない人は「これこそがわかりやすい真相だ!」に飛びついてしまう。正しいかどうかはどうでもいい。


 環境問題も、原発問題も、基地問題も、人権も、平等も、政治も、教育も、すべての人にとって最良な答えがあるわけがない。どの道にもいい面もあれば悪い面もある。

 それぞれを比較して「こっちのほうがより多くの人にとってちょっとだけマシな結果になるようにおもえる。でもその判断も誤っていることが将来的に明らかになる可能性があるから軌道修正する余地を残しておかなくてはならない」とするのが科学的な態度だ。

 はっきりいって、すごくめんどくさい。「未来永劫変わらない普遍的な唯一解」があると信じるほうが楽だ。

 でもそれは科学じゃなくて宗教だ。

 科学と宗教ってぜんぜん違うようで、実はすごく近くにあるものかもね。間違えるのが科学、間違えないのが宗教。「こっちを選べばまちがいない!」なものは科学じゃないです。


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