沈黙の町で
奥田 英朗
中学生の学校内での転落死、その中学生は同級生からのいじめに遭っていたらしい……というショッキングな事件をきっかけに、地方都市の中学生、保護者、教師、警察のそれぞれの思惑を描いた群像劇。
自分の中学生時代を思いだした。それぐらい、中学生の生態をうまく描いていた。
少し前に重松 清『十字架』という小説を読んだ。中学生がいじめを苦に自殺した後に残された者たちを書いた小説なので、テーマとしては『沈黙の町で』よく似ている。だが『十字架』は教科書のようだった。ありていにいえば現実感に欠けていた。
『十字架』のいじめは、一般的にイメージされるいじめだ。
たちの悪い不良が、気の弱い同級生をいじめる。暴力で脅して金銭を要求する。周りは気づいているけど見て見ぬふり。
いじめ自殺のニュースを見たときに多くの人が想像するのはこういういじめだろう。つまり、大人が「こうであってほしい」とおもういじめである。
「どこかにすごく悪いやつがいる」「そいつは自分とはまったく別の人種だ」と考えるのは楽だ。それ以上問題について考える必要がないから。
「ヒトラーがいたから大虐殺が起こった」「政治家が強欲だから政治が悪い」「公務員が怠けてるから財政が厳しい」と、一部の誰かを諸悪の根源と見なして善悪の間にはっきりと線を引いてしまえば、複雑に入り組んだ現実に目を向けなくて済む。
でも、多くの問題と同じようにいじめもそんなに単純な問題じゃない。
強いやつが弱いやつにいじめられることもある。いじめられっ子が悪人である場合もある。いじめっ子にやむにやまれぬ事情がある場合もある。またいじめる/いじめられるの関係も容易に逆転する。
『沈黙の町で』は、その複雑な構造を丁寧に書いている。
小説の序盤で見えてくるのは、「よくある中学生のいじめ」だ。身体が小さくて喧嘩の弱い子が、同級生からいじめられていた。背中をつねられたり、ジュースをたかられたり。
こういっちゃなんだが、「よくある話」だ。本人にとってはただごとでなくても。
だが、小説を読み進めるにつれて徐々に真相が浮かびあがる。
いじめの被害者は「気が弱くて立ち向かえないかわいそうな少年」ではなかったらしい。小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年だったことが明らかになってくる。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。
一方のいじめっ子の首謀者とされた少年たちにも別の顔が見えてくる。いじめられっ子が不良にからまれているのを助けたり、いじめられっ子の罪をかばってやったり。
彼らは積極的にいじめをはたらいていたのではなく、むしろいじめに引きずり込まれたのだ。
だが、いじめられっ子の少年が死ねばそんな事情はすべてなかったことになる。
「いじめられていたかわいそうな少年」と「いじめていたひどい少年」という単純な図式の中に置かれてしまう。
「AがBの背中をつねったことがある」と「Bが校舎の屋上から転落死した」というまったく別の出来事が、いともたやすくわかりやすい因果関係で結ばれてしまう。
ぼくが中学生のとき、休み時間に金を賭けてトランプをするのが流行っていた。といっても中学生なので賭け金は一回百円とかそういうレベルだ。
男子中学生の、大人ぶりたいとかスリルを味わいたいとかの気持ちを満たしてくれる遊びだ。ぼくも何度かやったことがある。やっていたのは不良グループではなく、ちょっと背伸びしたいだけのふつうの生徒だった。
あるとき何人かがトランプをしていると、Tという男が「おれも入れて」と言ってきたそうだ(ぼくはその場にいなかった)。Tはクラスでいちばん背が低く、運動も勉強も下の上といったところでみんなから軽んじられていた。
Tも加わり何ゲームかした。勝負に弱かったのか運が悪かったのか、Tは負けが続いて五百円か千円ほど負けた。
金を払うように言われたTは「今は持ってない」と言った。翌日、勝った生徒が「払えよ」と言うと「明日持ってくる」とTは言う。そんなことが何日か続いた。勝った生徒も、そうでない生徒も「早く払えよ」とTに言った。
するとTは担任教師に報告した。金を要求されているが払えなくて困っている、と。
もちろんゲームに参加していた生徒は全員怒られた。当然Tの借金はチャラ。
Tの告げ口によって叱られた生徒たちはおもしろくない。Tに参加を強制したわけでもない。Tが自分からやりたいと言ったのだ。イカサマをしてTだけを負けさせたわけでもない。
学校にトランプを持ってくるのは校則違反だし、金を賭けるのはもちろんダメだ。でもそんなことはみんなわかった上でやっている。もちろんTも。
もし自分が勝ったらだまって金をもらっていただろうに、負けたときだけ教師に告げ口するTは卑怯だ。
それ以来、クラスの男子はしばらくTと口を聞かなくなった。トランプに参加していなかったメンバーも含めて。ぼくも、その話を聞いて「Tはなんてずるいやつだ」と感じた。
また教師に告げ口されたら困るから殴ったり蹴ったりといった直接的な行動はなかったが、みんなでTを無視していたのだからこれもいじめといえばいじめだろう。
もしもこれでTが自殺でもしていたら、「中学生の陰湿ないじめ」と報道されていただろう。Tのずるさはまったく語られることがないまま。
いろんなケースがあるからいじめは一概に語ることはできない。
中には同情の余地もないぐらい一方的な加害がおこなわれるケースもあるだろう。
でも、たいていの場合、いじめる側も無作為に相手を選んでいるわけではない。
周囲に迷惑をかけたとか、嘘をついたとか、約束を破ったとか、過失があるものだ。
ぼくが中学生のとき、ちょっとヤンチャなやつらに囲まれてこづかれたことがある。きっかけは、「ぼくが友人の教科書だとおもって油性ペンで落書きをしたら、ヤンチャグループの一員の教科書だった」だ。完全にぼくが悪い。
まあそのときは長期的ないじめには発展しなかったが、人やタイミングによってはそこからいじめが続いていたかもしれない。
もちろん「いじめはあかん」は大前提として、きっかけとなった出来事自体は「いじめられる側が悪い」ことも多い。
ネットでの中傷なんかを見てもわかるけど、暴走しやすいのは悪意じゃなくて正義なんだよね。
誰かを集中攻撃する原因は、往々にして「あいつは悪いやつだ」だ。
悪意はそこまで暴走しない。たいていの人には良心があるから悪意にはブレーキがかかる。でも正義にはブレーキがかからない。制裁を下すとか正義の鉄槌を下すとかの大義名分があると、人はどこまでも攻撃的になる。
「外国を侵略しよう」で虐殺はできなくても、「愛する祖国を守るため」であれば見ず知らずの人たちを虐殺できるのが人間だ。
いじめ自殺事件があると、新聞やテレビの報道は「いじめられた子は純粋無垢で全面的にかわいそうな子」というスタンスになる。
死者に鞭打つわけにはいかないのもわかるが、「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこむのも危険だとおもう。
「いじめはあかん」と伝えることが大前提だし、いじめ自殺した子に鞭打つ必要はないけど、いじめた子を「同情の余地のない極悪非道な生徒」と扱うことは事実を覆い隠すことにつながる。
悪意だけでなく正義感のほうがいじめにつながりやすいんだよ、悪を悪ということがいじめになることもあるんだよ、と教えることもまた大事なんじゃないだろうか。
「どっかの悪人が悪いことをした」だけだったら「自分とは関係のないこと」になってしまう。そうじゃなくて「わたしやあなたと同じぐらいの優しさを持った子が、優しさのために行動してもいじめの加害者になる状況がある」と教えることのほうが大事だとおもうな。
とはいえ、それを自分が中学生のときに教えられて理解できたかというと……。
『沈黙の町で』では、死亡した中学生の遺族が「真相を知りたいだけ」という言葉をくりかえす。この気持ちは理解できる。
だが、調査する中で明るみに出るのは遺族にとって都合の悪い真実だ。
死亡した中学生は他の生徒から嫌われていた、女子には攻撃的にふるまうタイプだった、当初いじめの首謀者とおもわれていた生徒はむしろかばう側だった……。
結果、遺族は知りたかったはずの「真相」から顔をそむけてしまう。都合の悪い真相には耐えられない。
このあたりの心境、すごくよくわかる。
そうなんだよね。人間、真実なんて知りたくないんだよ。
知りたいのは「自分が望む真相」だけ。
「死んだ息子がかわいそうないじめられっ子だった」は受け入れられても、「死んだ息子はときに加害者であり嫌われ者だった」には耐えられない。
ぼくはこの遺族の愚かさを嗤うことができない。
たぶん自分も同じ状況に置かれたら目をそむけてしまう。信じたいことだけ信じてしまう。子どもを亡くしてつらいときならなおさらそう。現実なんて受け入れられない。
ミステリ小説は「真実を明らかにすること」が主目的だけど、現実はそうじゃないんだよね。
求められるのは真実ではなく、「こうあってほしい」ストーリーなのだ。
いじめの関係だけでなく、親同士の微妙な敵対関係、大人には意味不明な男子中学生の行動原理、教師の派閥争い、記者や検察や弁護士の見栄や欲、地方都市の人々の関心事など、細部にわたってリアリティがすごい小説だった。
まるで、ほんとうにあったことをそのまま書いたんじゃないかとおもうぐらいに。
奥田英朗さんの書いたものって、ユーモア小説や軽いエッセイしかほとんど読んだことがなかったけど、こんな重厚な小説も書けるのか……。
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