事実はなぜ人の意見を変えられないのか
説得力と影響力の科学
ターリ・シャーロット(著) 上原直子(訳)
デモを見るたびにおもう。
あれを見て「これまで反対意見だったけどデモを聞いて考え方が変わった!」という人がこれまでひとりでもいたのだろうか。
いや、ちょっとぐらいはいるか。一万人にひとりぐらいは。
でも「うっせえんだよ」と反感を持つ人はその百倍以上いるとおもう。
ネット上で議論をしている人がよくいる。一応議論なのかもしれないけど、傍から見ていると喧嘩にしか見えない。なぜなら、いっこうに議論が深まらないから。
ネット上の議論で、どちらかが「私の誤解でした。あなたのご指摘の通り。勉強になりました」となっているのをほぼ見たことがない。議論の結果、双方の溝は埋まるどころか深まるばかりだ。
世の中には「他人の意見を変えようとする人」がたくさんいる。それもストレートに。その試みはことごとく失敗している。誰しも「他人の意見を変えようとする人」の意見など聴きたくないのだ。
『事実はなぜ人の意見を変えられないのか』の著者ターリ・シャーロットは、2015年のアメリカ共和党候補者討論会で、ワクチン接種についての医師のベン・カーソンの主張よりも、医学にはド素人のトランプの主張に強く心を動かされたことを例に挙げ、人を動かすのは事実や正確さでないと述べる。
そして多くの論文や実験を挙げて「どのようなときに人は動かされ、どのようなときに動かないのか」を説明する。
情報をたくさん知っている人ほど正しい判断ができるとおもってしまう。
でもそれはまちがいみたいだ。
いろんな立場の意見を読んでも、人が信じるのはもともとの自分の考えに合致しているものだけ。耳に痛い意見は切り捨てる。
「エコーチェンバー効果」という言葉を最近よく耳にする。
SNSで考え方の近い人だけフォローしてた極端な思想に染まってしまうよ、というやつだ。そのとおりだが、だったらいろんな人をフォローをしていたら極端な思想に染まらないかというと、そんなことはない。結局自分が持っている説を裏付ける言説をしてくれる人だけをピックアップして信じるのだから。
情報を知れば知るほど、元々の意見に固執してしまう。なぜなら持論を裏づけるデータが得られるから。
だったらどうしたらいいんだろうね。賛成派の意見だけ聞いてもだめ。反対派の意見を聞いてもだめ。かといってよく知ろうとしないのもだめ。どないせいっちゅうねん。
極端に偏らないためには、せいぜい「自分の考えは歪んでいる」と認識することぐらいかな。「自分は中立公正にものを見ている」と感じたらもうあぶない。
大統領や首相や府知事といった人のもとには、たくさんの情報が入ってくるはずだ。一般の人とは比べ物にならないぐらいの。
だけど、彼らがいつも正しい判断を下しているようには見えない。むしろ誤ってばかり。
「なんでいくつも選択肢がある中で、よりにもよってその手を選ぶかね」と言いたくなるようなヘボ将棋を指すことも多い。
それは、情報が集まりすぎるからなんだろうね(おまけに側近が機嫌をとるような情報ばかりを選ぶから)。情報が多いからこそ、正しい判断を下せない。
さらに気を付けなくてはならないのは「多くの情報から偏った意見を選びだしてしまうのはバカのやることだ」とおもってしまう。
なんと、現実は逆なのだ。
驚いた。頭のいい人ほど自己正当化がうまいのだ。
なるほどね。
政治家とか官僚とか、頭がいいはずなのに「どうしてこんな賢い人があんなバカな意見に固執してるんだろう」と疑問におもうことがあった。なるほど、こういうわけか。
「頭がいいのに」ではなく「頭がいいから」意固地になってしまうのだ。
ぼくも気をつけなくちゃなあ。頭いい(と自分ではおもっている)からなあ。
この本に紹介されている実験。
いくつかの絵が出てくる。「あらかじめ指定された絵が写ったときにボタンを押せば一ドルもらえる」というゲームと「指定された絵が写ったときにボタンを押さなければ一ドルとられる」というゲームをする。
やることはまったく同じだ。報酬も同じ。うまくいけば、うまくいかなかったときより一ドル得する。
だが、結果には差が生じた。「ボタンを押さないと一ドルとられる」ルールのときのほうが失敗しやすく、ボタンを押すのも遅かったそうだ。
人間は、ムチよりもアメに釣られやすいのだ。
「勉強しないとテストで悪い点とることになるよ」よりも
「勉強したらテストでいい点とれるよ」というほうが効果的なのだ。ほんのちょっとしたことだけど。
ムチを振るうよりもアメをちらつかせるほうが人は動く。
またべつの実験。
映画を観た後、映画の内容に関するいくつかの質問が出される。「映画に出ていた女性は何色の服を着ていたか」など。
数日後、また同じクイズに挑戦する。ただし今度は、答える前に他の人の回答が表示される。そのうちいくつかは嘘で、わざとまちがった答えである。
すると、前は正解できていた問題をまちがってしまう。前回は「赤」と答えたのに、他の人たちの「白」という答えを見ると、自分も「白」と答えてしまう。
ここまではすんなり納得できるだろう。自分はAとおもっていても、みんながBと答えたらBのような気がしてしまうものだ。
昔観た『高校生クイズ』のことを思いだす。一問目は○×クイズ。多くの参加者をふるいにかけるため、かなりの難問だった。たぶんほとんどの高校生は答えがわからなかったとおもう。
だが、回答には差がついた。○×いずれかの場所に移動するのだが、九割の高校生は○に移動したのだ。しかし答えは×。一問目にして参加者の九割が脱落する事態となった。○×クイズなので勘で答えても半数は正解するはずなのに。
まちがえた高校生たちのほとんどは、「みんなが○に移動しているから」という理由で○を選んだのだろう。誰かが○を選び、他の人もつられる。すると自信のない人たちもみな多数派である○を選び、結果的にみんなでまちがえたのだ。
種明かしをされた後でも、他人の答えにつられたままなのだ。しかもつられたことに自分でも気が付かない。
赤信号みんなで渡ればこわくない。おまけに一度みんなで渡った後は、ずっとこわくなくなるのだ。
その他、「人はついつい一票の価値は平等だとおもってしまうのでたった一人の専門家の意見よりも十人のド素人の意見を重要視してしまう」とか「コントロール感を得られるときのほうが積極的にイヤなことでも引き受けやすい。『自分なら税金をどう使うか』と考えただけで脱税しにくくなる」とか、人の意思決定に関する興味深い話がたくさん。
これを読むと「人を動かすにはどうしたらいいか」に対するヒントが得られるはず。
いい本だった。
参考文献も豊富だし、慎重な物言いも個人的には評価する。
「今わかっていること」を挙げるが、「だから○○は××だ!」と乱暴な持論に結びつけたりもしない。
事実に対して謙虚な姿勢を忘れない。
だけど。いや、だからこそ。
事実よりも「一部の人だけが知っている単純でわかりやすい真実」に飛びついてしまう人の行動を、この本は変えることはできないだろうな。なぜなら人を動かすのは事実ではないから。
そもそも、わかりやすい真実に飛びつく人はこの本を手に取らないだろうな。
「人は自分の都合のよい解釈をしてしまうから事実をそのまま受け止めることが難しい。人間は必ず間違える。だが人間の思考の傾向を知ることで誤った判断を少しは減らすことができる」
というメッセージは、「自分は間違えない」「世の中には間違えない人がいる」と信じている人には届かない。かなしいけど。
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