村上 龍 『五分後の世界』
なぜか「まだ太平洋戦争が終わっていない世界」に迷いこんでしまった男。その世界では日本領土はアメリカと中国とイギリスとロシアに引き裂かれ、ゲリラ戦が横行する世界だった――。
なんというか「すごい小説だな」というばかみたいな感想しか出てこなかった。
「もしあのとき〇〇していたら歴史はどうなっていたか」という仮定世界は、SFでも歴史書でもわりとよくある設定だ。
「日本がポツダム宣言を受諾していなかったら、南方からアメリカが、北方からロシアが上陸してきて、朝鮮やドイツやベトナムのように分割統治されて代理戦争に使われていただろう」というのが『五分後の世界』の舞台だが、似たような話はこれまでにも聞いたことがある。さほど目新しい設定じゃない。
細かい設定はよく練りこまれているけど、ストーリーとしては起伏が少なくて退屈な部類に入るし、「主人公が別世界に迷いこんだ理由」も「なぜ別世界では時計が五分進んでいるのか」も「無事に元の世界に戻れたのか」も最後までわからない。小説としてはかなり不親切だ。
それでもこの小説をすごいと感じたのは、文章から伝わってくる圧倒的な熱感というか気迫みたいなものが尋常ではなかったからだ。
特に何十ページにもわたる戦闘の描写。ストーリー展開として、この部分はまったく必要ない。小説巧者である村上龍にそれがわかっていないはずがない。
それでも、しつこいほど丁寧に、戦闘の様子が描写される。
ただ戦闘が書きたかった、いや書かずにはいられなかったのだろう。
あとがきで村上龍はこう書いている。
作中でも登場人物に同様のことを語らせている。
読んだ身としては、さもありなんと思う。これほどの鬼気迫る文章を計算で書けるとは思えない。
筆力がすごすぎて、ただただ圧倒されるばかり。おかげでストーリーがうまく頭に入ってこない。熱すぎるステーキを口に放りこまれて味がまったくわからないような感じ。熱がありすぎるのも考えものだ。
村上龍の体験には遠く及ばないだろうけど、この「書くことが降りてくる」体験というのはぼくでもわかる気がする。こうしてブログを書いていても、ときどき自分でもまったく思っていなかった方向に筆が進んでいくことがある。書くことが次々に湧いてきて、書き手の仕事は「それを表すための適切な表現を探す」ことだけとなる。ある程度の量を書いていると、ときどき体験できる感覚だ。
昔は、表現活動というものは個人の仕事だと思っていた。表現者がゼロから生みだすものだと。
でも最近になってそうではないと思うようになった。表現者は「つくりだす」というよりも「介する」に近いのではないだろうか。表現するものはすでに存在していて、クリエイターの仕事というのはそれらに形を与えてやるだけ。
ぬか床にキュウリやナスを入れておくと、ぬか漬けができあがる。人がやることは「漬ける」「取りだす」ことだけで、ぬか漬けを「つくる」のは乳酸菌や酵母などだ。
創作もこういう行為なんじゃないかな。
インプットが多いほどたくさん取りだせるし、長年やっている人ほどぬか床も成熟して味わい深いものができる。腐らせにくくする方法も知っている。だけど最終的にどんな味のぬか漬けができるかは人智の及ぶところではない。
ブンガクにかぎらずあらゆる表現活動は、個人の創意工夫が発揮されるところはじつはすごく少なくて、もっと社会や時代に影響されてしまう公的な活動なのではないだろうか。
作中で描かれる "ポツダム宣言を受け入れた世界" に生きる日本人は、ものすごく美しく描かれている。
一方で戦うことを辞めて生きる日本人は「非国民」と呼ばれ、"退化した人間" として醜悪に描かれている。
こういう価値観は、戦後平和教育にどっぷり漬かって育ったぼく個人の考えとはあまり合わないのだけれど、でも今の日本のありかたが正しいのかと言われるとそれもまた疑問に感じる。
最近、堀井憲一郎『落語の国からのぞいてみれば』という本を読んだのだけれど(⇒ 感想)、つくづく日本人の価値観って近代以前と以後でまったく違うものだなあという印象を受けた。
転機のひとつは明治維新。もうひとつは第二次世界大戦での敗戦。
どちらも西洋の文化を急速にとりいれていて、だけど近代以前の価値観も残っているわけだから、木に竹を接いだようにひずみが生じている。
個性を大事にしなさいよと言いつつ自分のことは卑下するのが美徳とされるとか、
経済成長が大事だよと言いつつ倹約や清貧が高く評価されるとか、
効率が大事とか仕事だけが人生じゃないと言いつつもまじめにこつこつ働きなさいと言われるとか、
男女平等だと言いながらも男は仕事を女は家事を期待されることとか。
まったくもって矛盾だらけだ。
そういう矛盾をいちいち真に受けていたら発狂してしまうからぼくらはどうにかこうにか折り合いをつけて生きているわけだけど、それってすごくめんどくさい。
『五分後の世界』に生きる日本人たちは、こうしためんどくささを抱えていないように見える。
「シンプルな枠組みの中で生きている人たち」としてかっちょよく描かれてるんだけど、それを美化してしまうのはちょっといただけないと思う。
今も一部の人が「教育勅語の時代を取り戻そう」「戦前のやり方を見なおそう」なんてラディカルなことを言っていて、単純明快なその主張は単純であるがゆえにそれなりの支持を集めている。
だけどそれは、わかりやすい論理の多くがそうであるように、あまりにも非現実的で楽観的なものの見方だ。
今の社会システムは矛盾だらけだから絶えず改善を繰り返していく必要があるけれど、今ある建物をぶっ壊して更地にしてしまって一からきれいな街並みをつくりましょう、と唱える人をぼくはまったく信用できない。
革新、刷新、維新、リノベーション。そういう言葉は耳ざわりはいいけど、実務家の発言ではない。
よくいるでしょう、組織の長に就任したとたんに「何か変えなくちゃ!」という観念に囚われて前任者のやり方をすべて否定して、さんざんシステムをめちゃくちゃにして責任をとらない人。他のメンバーがなんとかうまく立て直したら、いいところだけ取り上げて「私が思い切った改革を断行したおかげでつぶれかけた組織が立ち直した」と手柄だけ主張する人。
変えることが仕事だと思っている人。
ビジョンとして「理想の社会」を持つのはかまわないけど、為政者は今の社会を「0.1%だけマシにする方法」を積み重ねていかなければならない。
建物の場合は増築・改築をくりかえすよりもいっぺん更地にしてから建てなおすほうが早かったりするけれど、1秒たりとも途絶えてはならない教育や福祉や経済を扱う上では、そういうやり方は許されない。
許されるとしたら戦争や自然災害でシステムが致命的にダメージを負ったときだけで、だからラディカルな復古主義を提唱する人は心のどこかで戦争や大災害を望んでいるように見える。東日本大震災の後も「これを機に新しい都市計画を!」と、まるでこうなることを待ちわびていたかのように嬉々としてシステム一新を提唱する人がいっぱい湧いてたし。
子どもはいたって単純明快なルールの中に生きていて、世の中の矛盾を感じたり息苦しさを感じたりすることはほとんどない。
それはすごくうらやましいことだけど、大人もみんなそういう生き方をしましょうってのはあまりに思慮がなさすぎる。
おもいきった革新。力強くてシンプルな生き方。
それって傍目にはかっこいいけど、小説で味わうだけにしといてほしいなあと、ぼくはアメリカ人が食べるようなはちみつたっぷり激甘ヨーグルトを食べながら思う。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿