前川 ヤスタカ 『勉強できる子 卑屈化社会』
ああ、学生時代にこの本を読みたかったなあ……。
大人になると忘れてしまう、子どものころに感じていた理不尽を丁寧にすくいあげた本です。
ぼくは、この本で描かれているような、典型的な "勉強できる子" でした。
地方公立中学、地方公立高校に行っていて、塾に通いつめなくても成績は常にクラスでトップで……という学生時代を過ごしてきました。
だから、学生時代も、卒業してからも、この本の表紙に書かれているような
「勉強できたって将来役に立たないぞ」
「〇〇大学出てるのにそんなことも知らないのか」
「世の中には勉強より大事なことがある」
「勉強できるのと頭がいいのは違う」
という言葉を、何百回も浴びせられてきました。
そういうことを言うのは勉強のできなかった人。
その人が勉強できなかったのは勉強できる子のせいじゃないのに、勝手に恨みをぶつけられるわけです。
言われるたびに、
「たしかに勉強できるのと頭いいのって違いますよね。バッティングが上手なのと野球がうまいのがイコールじゃないように」
なんて嫌味のひとつも言い返したいけど、何を言っても自慢ととられるから我慢する。
そんな理不尽な思いをしてきました。「勉強さえできれば他のことはがんばらなくていいでしょ」って言ったわけでもないのに、どうして目の敵にされなくちゃいけないんだ?
勉強できるって、その子の美点じゃないですか?
それなのに、勉強できることを手放しで褒める大人は少ない。
褒められるどころか、冒頭のような「世の中には勉強より大事なことがある」みたいな説教につながったりするわけです。
心優しい子が「優しくたって社会に出たら役に立たないぞ」「優しさより大切なことなんていっぱいあるぞ」なんて言われることはないのに。
勉強できる子は、できることを隠さないとクラスの中で生きづらい。
むしろ、勉強できない子のほうが堂々としている。
聞いたことありますか?
運動神経悪い子が
「おれまた50メートル走いちばん遅かったよー」
「リフティングとかぜんぜんできねーし。リフティングなんて社会に出て何の役に立つの?」
と、大声で吹聴しているのを。
ないでしょう。
恥ずかしいから、運動できない子はそんなこと言いません。
なのに、勉強に関しては、できる人のほうが肩身を狭くして、できない人が
「おれぜんぜん勉強してねーよ」
「学生時代は遊んでばっかりで勉強してなかったなー」
と、自慢気に言うのです。
勉強できることって、他の才能や特技とは一線を引いて語られるんですよね。
前川さんは、こんな例も挙げています。
バレーボールやサッカーなどの集団競技では、運動神経の悪い子がチームの足を引っ張って厳しく糾弾されるのに、勉強に関してはそうでないと。
ぼくも小学校のとき、問題を早々に解き終えたので、先に次の章の問題を解いていたことがあります。
すると担任の教師から「みんなまだやってるでしょ。自分が終わったからって先に進まないで他の子を待ってあげなさい!」と怒られました。
「跳び箱4段跳べない子もいるでしょ。先に5段に挑戦しないの!」とは決して言わないにもかかわらず。
その教師が格別良くない教師だったということもあるでしょうが、やはり学校にはそういう雰囲気が蔓延しています。
前川さんは、"勉強できる子"に厳しくなっている原因のひとつは、「勉強は強制されてやるもの」という思い込みがあるのではないかと書いています。
そうなんですよね、勉強って「わりと楽しい」んですよ……。
わからなかったことがわかるようになる、世の中にこんなにおもしろいことはそうそうないですよ。
ゲームが上手な子がゲームに打ち込むことや、電車が好きな子がいろんな電車の名前を覚えるのと同じなんだけど、なぜか「勉強は苦役」と思っている人にはそれが理解できないんだよな……。
この本の最後に掲載されている、"勉強できる子"だった能町みね子さんへのインタビューの中で能町さんがこんなふうに言っています。
そうなんですよ、身もふたもない話ですけど、"勉強できる"って、"絵がうまい"とかと同じで、才能の占める割合も多いわけです。
そのへんは、橘玲さんの『言ってはいけない』や、中室牧子さんの『教育の経済学』に詳しいので、よかったらご参考を。
それから、おそらくこれも「高学歴あるある」だと思うのですが、おっさんから
「おれもちゃんと勉強やって東大とか行っときゃよかったなあ」
と言われることがよくあります。
そのたびに、おまえはまじめに勉強やってても行けねえよ、と思います(ほんとは言ってやりたい)。
それって「おれだってちっちゃいころからまじめに陸上やってればウサイン・ボルトぐらい速く走れた」みたいなことなわけですよ。
勉強できることもひとつの生まれもった才能ですから、誰もができることではありません。
スポーツや音楽の能力に関しては「生まれつきの才」をみんなある程度認めているのに、なぜか勉強だけは「誰でもやればできる」と思っているわけです。
もちろん努力でなんとかなる部分はありますけど、小さい頃から努力さえすれば誰でも東大理Ⅲに入れる、というものではないのに。
『ビリギャル』なんて『クール・ランニング』みたいな話ですからね。
奇跡だから物語になるわけです。読んでないけど。
「勉強できるかどうかは才能に由来するところが大きい」という事実を認めてしまえば、"勉強できる子"も、"がんばってるのに勉強できない子"も楽になるのにねえ。
そんな「勉強できる子あるある」がたくさん並んでいて、「わかるわかる」とずっとうなずきっぱなしでした。
これだけでも、「ああ自分だけじゃなかったんだ」と、少し救われたような気になります。
前川さんは「あるある」を並べ立てるだけでなく、「卑屈化社会」の原因を、テレビなどのメディアや、学校教育の歴史に見いだそうとしています。
結局、浅薄な思いこみがはびこっているからなんですよね。
「勉強できる子は人間味がない」
「勉強ばかりしていて、他の楽しいことを知らずに育った」
「庶民はエリートがやっつけられるところを見たいにちがいない」
という根拠のない思想が、多くの人の中に存在するのです。
いや、「こうあってほしい」という願望なのかもしれません。
「勉強できるやつは他に欠陥があってほしい」という願い。
たとえばぼくは体育もふつうぐらいにできました(10段階評価で6ぐらい)。
それなのに、勝手に運動音痴と決めつけられて、「勉強ばっかりできてもだめなんだよ。運動もしなきゃ」と言われて育ったわけです。
これなんかまさに、発言者の願望が投射されてるんでしょうね。
ちなみに、これはぼくがいろんな人を見てきて感じたことですけど、勉強できる人のほうがスポーツもできるように思います。
運動に費やす時間が同じなら、勉強できる人のほうが身体の動かし方を習得するのが早いから。もちろんプロ選手になろうと思ったら勉強に割く時間はないんだろうけど、アベレージでいうと学力と運動能力は比例するんじゃないかな。
これは勉強だけじゃなくて、幼少時から卓球ばかりやっていた人や、野球留学していたような人も「なにかしら人間性に問題があるはずだ」と思われがちですけどね。
ダルビッシュ有が高校時代に喫煙が見つかってもの大きな問題になったのも、
「あんなにかっこよくて野球もうまいやつ、どこかしらに問題があるはずだ」とみんなが思いたかったからなんでしょうね。
とかくなにかと、自慢しているとか喧嘩売ってるとか誤解されそうなタイトルの本ですけど、著者は「勉強できる子」とそうでない子の対立を描こうとしているわけではありません。
「勉強できる子」が卑屈さを感じないように、「サッカーが上手な子」と同じくらい胸を張れるようにするために、メディアは、親は、勉強できる子自身はどうしたらいいかを真剣に考えた本です。
だって多くの子どもが勉強を好きになってくれたほうが国家としては絶対にいいわけなんですから。
「勉強できる子」のしんどさに耐えかねて「ふつうぐらい」をめざしてしまう子どもが減ってほしい、という、いたってシンプルな話です。
前川さんは、1章を割いて『勉強できる子の処世術』を説いています。
これ、現在進行形で生きづらさを感じている"勉強できる子"にとってはかなり参考になる指針だと思います。
ほんと、日本人の学力を向上させたいと思ったら、教育課程改革よりも教師やメディア関係者の意識改革のほうがずっと有効なんでしょうね。
勉強できることが、サッカーできることと同じくらいかっこいいということになったら、学力はびっくりするぐらい向上するはずなんだけどな。
でも、「若いやつが自分より賢くなったら困る」って人が世の中にはいっぱいいるから難しいかな……。
その他の読書感想文はこちら
でも、「若いやつが自分より賢くなったら困る」って人が世の中にはいっぱいいるから難しいかな……。
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