2018年10月23日火曜日

【読書感想文】クルマなしの快適な生活 / 藤井 聡『クルマを捨ててこそ地方は甦る』

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『クルマを捨ててこそ地方は甦る』

藤井 聡

内容(e-honより)
日本人のほとんどが、田舎ではクルマなしには生きていけないと考えている。ゆえに、日本の地方都市は「クルマ」が前提になってできあがっている。しかし、今地方が「疲弊」している最大の原因は、まさにこの、地方社会が「クルマに依存しきっている」という点にある、という「真実」は、ほとんど知られていない。本書では、そうした「クルマ依存」がもたらす弊害を理論的に明らかにした上で、富山市のLRT(ライト・レイル・トランジット)導入を中心とした「交通まちづくり」の例や、川越の歩行者天国、京都市の「歩くまち京都」の取り組み事例などを参考に、「脱クルマ」を通して地方を活性化していく驚くべき手法を紹介する。

ぼくは車を持っていない。
以前は仕事で使うために持っていたが、転職したことと、大阪市内に引っ越したことを機に売っぱらってしまった。
なんせうちの近くで駐車場を借りると月三万円もかかるのだ。おまけに市内だと駐車スペースのない店のほうが圧倒的に多い。自動車なんて郊外に出かけるとき以外は無用の長物なのだ。
ちなみに自転車もない。地下鉄・JR・私鉄の駅が徒歩五分圏内にあるし、スーパーもショッピングモールも百貨店も徒歩圏内にあるのだから不便を感じない。
どうしても必要なときはタクシーを利用する。それだって車を保有することに比べたら屁みたいな金額だ。

車を持たない生活はとても快適だ。
車の購入費も駐車場代もガソリン代もオイル交換も定期点検も車検も保険も反則金もタイヤ交換もいらないのだ。
仕事のために車を持っていたときは、給料のかなりの部分が車の購入費と維持費に消えるし、点検やオイル交換で時間もとられてたいへんだった。これでは仕事のために車を持っているのか車を持つために仕事をしているのかわからない。

なにより、ストレスがないのがいい。
ぼくは運転が嫌いだ。というより怖い。運転するときは「事故死したらどうしよう」「人をひいてしまったらどうしよう」と終始びくびくしている。
ドライブが趣味、なんて人の気が知れない。自分や他人の命をかんたんに奪えるものを扱うのが楽しいなんてサイコパスなのか。ぼくにとっては「包丁持って歩くのが好きなんですよね、ひひひ」っていってるのと変わらない。
通勤電車のストレスなんて、運転のストレスに比べたらどうってことない。ほどよい距離を歩くのはむしろストレス解消になる。なにより電車では本を読めるのがいい。

とはいえ郊外の町で生まれ育ったので「車がないと生活できない」人の気持ちもわかる。
ぼくの実家は駅から徒歩四十五分。バス停からでも徒歩十分。駅だって田舎の何もない駅だ。坂だらけだから体力がないと自転車で移動もできない。
ぼくの両親はどこへ行くにも車、駅に行くのも車、週末はより郊外のジャスコ(今はイオン)でお買い物、という生活をしていた(歳をとったので駅から近い家に引っ越したが)。

趣味で車に乗っている人はおいといて、「生活必需品だから車に乗っているけど無くてもすむのなら手放したい」と思っている人も多いはず。
そうはいっても、少し郊外のほうに行くと車なしでは生活できないのが現実だよなあ。
……というのが多くの日本人の認識だと思う。ぼくもそう思っていた。



『クルマを捨ててこそ地方は甦る』では、富山市や京都市でモーダルシフト(輸送方法の転換)に成功した事例を通して、脱・クルマ社会への導入を提言している。

京都市では、四条通(京都市のメイン通り)の車線数を減らし、歩道を拡張したことで観光客数の増加につながった。
京都市の場合、車線を減らしたことの混乱は一時的なもので、付近の他の道が渋滞するようなこともなく(むしろ他の道も交通量が減ったそうだ)、観光客が歩きやすい街になった。

ぼくもこないだ久しぶりに四条通を歩いて、ぐっと歩きやすくなっていたことに驚いた。
以前の四条通は人通りは多いのに道は狭いしタクシーやバスや自転車でごちゃごちゃしていて、とてもショッピングを楽しみながら歩けるような道じゃなかったもんなあ。

自家用車がいかに空間をとるか、ということがよくわかる図。

国土交通省資料『LRT導入の背景と必要性』より
http://www.mlit.go.jp/crd/tosiko/pdf/04section1.pdf
 そしてこの「モーダルシフト」は、街の中心部の渋滞緩和に極めて効果的なのである。
 写真11をご覧いただきたい。これは、「同じ人数を運ぶ場合の、クルマ、バス、LRTの道路占有イメージ」の写真だ。
 この写真を見ればいかにクルマという乗り物が、広大な道路空間を占拠しているのかをおわかりいただけよう。写真左に写された夥しい数のクルマで運んでいる人間は、バスならばたった3台で運ぶことができるのだ。LRT(ライト・レイル・トランジット)という新しいタイプの路面電車の場合には、たった1車両で運ぶことができる。

これを見ると、交通量の多い街で自家用車を走らすことがいかにマイナスか、ということがわかると思う。都市環境にとっても地球環境にとっても。

「歩くのがたいへんだから車」という人は多いだろうが、そもそも車にあわせた街づくりをしているせいで歩くのがたいへんになっているのかもしれない。
街から車を追いだせば、建物と建物の間は近くなり、信号も減り、今よりずっと歩きやすい街になるはずだ。



京都市はほっといても世界中から観光客が訪れる日本有数の観光都市だから同じやりかたが他で通用するかはちょっと怪しいが、富山市の事例は他の都市にも参考になるはずだ。

富山市では、LRT(次世代型路面電車システム)への投資をおこない、街のコンパクト化、公共交通機関の利用者増に成功した。
 さて、こうしたLRT投資の結果、「クルマをやめて公共交通を使う」という行動変化、モーダルシフトを多くの人々において誘発し、公共交通利用者数は着実に増えていった。
 富山港線(ポートラム)についていうなら、この路線はかつてJRが運営しているローカル線だったのだが、これを富山市が譲り受け、一部線路(1.1km区間)を追加投資しつつ、LRTとして甦らせたのであった。結果、LRT化されてから、利用者は平日で約2倍、休日に至っては約4倍に膨れあがった。
 そして、事後調査によれば、「かつてはクルマを使って移動していたが、LRTができたのでクルマをやめてLRTで移動するようになった」という人々は、この新しく増えた利用者たちの2割以上を占めていた。
この背景には北陸新幹線の開業という強い追い風があったわけだが、それだけではこの成功は語れない。

富山市(人口約40万人)のような中核市でも成功しているのだから、各県の県庁所在都市とか、かつて栄えた城下町や港町のようなある程度のインフラ基盤がある都市であればうまくいきそうだ。
タイトルは「地方は甦る」となっているけど、さすがにどんな田舎にでもあてはまる話ではないけどね。



筆者はクルマをなくせ、といっているわけではない。
必要以上のクルマ依存から脱却しよう、という主張だ。人も、街も。

脱クルマ社会の到来は自動車メーカーにとっては困るだろうが、人口減、高齢者の増加、通信機器の発達など、社会は確実に「クルマなしで生活できる社会」を求めている。
ただ残念ながら「クルマに乗ろう!」のほうが「クルマを捨てて歩こう!」より金になるから、「クルマに乗ろう!」の声のほうが世間的には大きくなってしまうけど。

高齢者の中には運転技術に不安を覚えている人も多いだろうし、先述のように車を持つコストは大きい。公共交通機関なら渋滞や駐車場探しで無駄な時間をとられることもないし、アルコールも飲める。

クルマなしで生活できる社会のほうがずっといいに決まっている。
それは、現にクルマなしで生活しているぼくがよく実感している。

この先、自家用車は大型バイクのように「一部の趣味人のもの」になっていくかもしれないね。そうなってほしい。

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