2017年12月18日月曜日

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】

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『パレード』

吉田 修一

内容(e-honより)
都内の2LDKマンションに暮らは男女四人の若者達。「上辺だけの付き合い?私にはそれくらいが丁度いい」。それぞれが不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで優しく怠惰に続く共同生活。そこに男娼をするサトルが加わり、徐々に小さな波紋が広がり始め…。発売直後から各紙誌の絶賛を浴びた、第15回山本周五郎賞受賞作。

吉田修一氏の小説を読むのは『元職員』『怒り』に次いで三作目。
公金を使いこんだ男の逃げ場のない焦燥感がにじむ『元職員』、隣人が殺人犯かもしれないと思い疑心暗鬼になって不幸になっていく人々が描かれる『怒り』、どっちも嫌な小説だった(褒め言葉ね)。
だから吉田修一といえば嫌な小説を書く人というイメージだったんだけど、こんな「四人の若者が共同生活を通して少しずつ変わっていく」みたいな青春ストーリーも書けるのかー。

……と思いながら読んでいたら。
おおっと。後半で思わぬ展開に。
やっぱり "嫌な小説" だった。前半が青春ぬくぬく小説、みたいな感じだったから余計に後半の醜悪さが際立っている。
こういう裏切り、ぼくは好きなんだけど、嫌な人はとことん嫌だろうね。

以下ネタバレ。



『パレード』では、共同生活を送る住人のひとりが通り魔をやっている。それを隠して、同居人に対しては明るく楽しく接している。会社ではまじめに仕事をしている。信頼も厚い。
彼にとっては、友人や同僚の前で見せる面倒見のいいすてきなおにいさんも真実の姿だし、夜道で女性を殴りたくなるのも彼の本当の姿。
怖い。怖いんだけど、でもわかる。
ぼくは通り魔はやらないけど、人に言えない秘密は持っている。家族に見せる顔と友人に見せる顔と仕事の顔と知らない人向けの顔はそれぞれ少しずつ違う。
だから「親しい人の前では気のいいにいちゃんが、じつは通り魔」というシチュエーションは共感はできないけど理解できる。
もしぼくが通り魔だったとしても、24時間通り魔らしいふるまいをしたりはしない。人に親切にすることもあるだろうし、近所の人にはあいそよくふるまうだろう。

『パレード』でぼくが怖いと感じたのは「同居人たちも実は彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というとこ。
あえて口をつぐんでいる理由も、同居人が通り魔だと知った後の心境も書かれていない。だから何もわからない。わからないから怖い。



自分の家族や親しい友人が「どうも犯罪者らしい」と気づいてしまったら、ぼくならどうするだろう。
「問いただす」「自首を促す」「本人が自首しないなら警察に通報する」
法治国家の市民としてそれが適切な対応だとわかっているけど、でもいざそういう状況になったときに正しく行動できるか自信はない。
よほど決定的な証拠を見つけてしまわないかぎりは、見て見ぬふりをしてしまうのではないだろうか。ごまかせるものならうやむやにしてしまいたい、と願うのではないだろうか。

以前、自宅の一室に少女を十年近くも監禁していた男が逮捕される、という事件があった(新潟少女監禁事件)。
犯人の男は母親と同居しており、当時「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない。母親も共犯だったのでは」と問題になった。でも結局、母親の関与はなかったとされて立件はされていない。
ふつうに考えれば「家族が自宅に人を十年監禁していたら気づかないわけがない」だろう。ぼくもそう思う。でも、「気づかないことにしてしまうかもしれない」とも思う。

家族が殺人罪で逮捕したら、ぼくは家族の無実を信じると思う。
でもそれは愛情からくる美しい信頼ではなく、「めんどくさいことになってほしくない」という身勝手な願望から信じるだけだ。嫌な事実を受けとめる強さがないから、ありえなさそうだけどあってほしい都合のいい嘘を信じる。新潟少女監禁事件の犯人の母親がたぶんそうだったように。

「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない」というのはまっとうな言い分だが、みんながみんな強く正しく行動できるわけではないと思う。ぼくも自信がない。

『パレード』は、そんな己の身勝手さ、弱さを眼前につきつけてくるような小説だった。


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