悪いものが、来ませんように
芦沢 央
嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。
己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。
こういう些細なエピソードとか。
子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。
ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。
女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。
いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。
前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。
この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。
瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。
そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。
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