2020年9月7日月曜日

【読書感想文】ヒトは頂点じゃない / 立花 隆『サル学の現在』

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サル学の現在

立花 隆

内容(e-honより)
立花隆が霊長類学の権威たちと徹底的に対話し、それを立花流にわかりやすく構成している。立花隆にかかると政治から先端技術、生物学までこれほど面白く感じられるのはなぜなのだろうか。

文庫版の刊行が1996年なのでぜんぜん「現在」ではないのだが。

立花隆氏がサルの研究者たちから(当時の)最先端の知見を聞きだした本。

専門の研究者にとっては古い内容なんだろうけど、サルの専門家でないぼくにとっては新鮮でおもしろい。

たとえば
「ニホンザルは群れを作り、ボスザルを頂点としたヒエラルキーがある。厳然たる順位があり、ボスから順番に食べ物を食べていく」
なんて話を聞いたことがあるけど、あれは動物園のサル山のような人工的につくりだした群れだけで起きる現象なんだそうだ。
自然界のサルはもっとゆるやかなつながりで生きているんだとか。

なるほどねえ。そういうところもヒトと似てるね。
ふだん我々は友人やご近所さんとの間には「どちらが上」とか順位をつけずに暮らしている。
ところが会社とか学校とか軍隊とかの閉鎖的な環境では、すぐに順位をつけたがる。

もしかしたらヒトやサルにかぎらず、閉鎖的な環境に置いたらほとんどの哺乳類が順位をつけるのかもしれない。


研究内容には古さを感じないが、立花隆氏が堂々と女性研究者へセクハラ質問をしているとこには時代を感じる。

女性研究者に「フィールドワークをしているときトイレどうしてんの?」とか「サルの交尾を観察してたら妙な気持ちになってこない?」とか訊いてんの。
男性研究者には訊いてないんだから完全にセクハラだよね。
子育てしながらフィールドワークしている女性を「お転婆」と称したり。
時代だなあ。



「サル学」とひとくくりにしているが、紹介されている研究者のアプローチは様々だ。
野外に出てサルを観察している研究者だけでなく、サルの脳を調べたり、化石を調べたり、分子化学の面からサルとヒトの違いをさぐったり。

サルはおもしろい。

やっぱり他の動物とはちがう。
人間ではないが人間に近い。だからおもしろい。
赤ちゃんの行動が見ていて飽きないのにも似ている。


サルを研究することは、ヒトを知るためのとっかかりになる。

ヒトについて調べたい。できることならいろんな実験をしたい。
効果不明の薬を飲ませたり、脳に電極をつっこんだり、どんな影響が及ぶかわからない手術を施したりしたい。

でも人道的な理由でそれはできない。


サルの研究者には、純粋にサルに興味がある「サル屋」と、ヒトについて知りたくてそのためにサルを研究している「ヒト屋」がいるのだそうだ。

しかし、結局サルとヒトは同じではない。
『サル学の現在』を読んで、「サルをいくら研究しても永遠にヒトのことはわからないな」とおもった。

たしかにサルとヒトには似た部分もあるけど、それだけだ。
探せばヒトとゴキブリの間にも共通点はいくつも見つかるけど、ゴキブリをいくら研究してもヒトのことはわからない。
サルも同じだ。
サルはサル。ヒトはヒト。



「男と女の間の友情は成立するか」というのはよく語られるテーマだが、意外にもニホンザルの世界ではオスとメスの友情が成立しているらしい。

 ニホンザルには交尾期と非交尾期があって、その生活は全く違う。交尾期は、地方によってかなり違うが、おおむね、一〇月から四月くらいまでである。
 交尾期のあいだは、オスはメスの尻を追いかけて暮らす。しかし、交尾期をすぎるとオスもメスもたちまち性的関心を失い、性的活動は全く見られなくなる。非交尾期のあいだは、オスはオス、メスはメスの世界に閉じこもっているものとかつては考えられていた。しかしそのあいだに、特定のオスとメスのあいだに親和的関係がうまれ、しかも、その親和的関係にあるオスとメスは、次の交尾期にセックスを避けるという現象が発見されたのである。特定のオスとメスのあいだに、なぜそのような関係がうまれるのか、またなぜ彼らはセックスを避けるのか。

交尾期以外でも特定のオスとメスが仲良くする、しかもそのオスメスは交尾期になっても交尾を避ける。

友情成立してんじゃん……!

えらいなあ、ニホンザルは。
ヒトのオスよりよっぽど抑制きいてるね。

まあ特定のパートナーを持たずに乱交的な関係を築いているからこそ逆に「あえてこいつとはセックスを避けよう」という選択ができるのかもしれないけど。



ぼくも動物園にいるとサル山の前に三十分以上いるぐらいだから、サルを観察するおもしろさはよくわかる。

しぐさが人間的なので(というか人間がサル的なのかもしれないが)どうしても情念たっぷりのストーリーを感じてしまうんだよね。

それは研究者でも同じらしい。
たとえばこんな描写。
(「ミノ63」は63年生まれのミノという名前の個体、「ミノ63・69」はミノ63が69年に生んだ子、「ミノ63・69・74」はその子で74年生まれ)

「ミノの家系というのは、何というか気性の激しい血筋なんですね。七五年に、ミノが娘のミノ63に順位を逆転された話をしましたね。そのときすぐ、それに続いてミノ63とその娘、つまりミノの孫娘のミノ63・69との争いが始まりましてね、噛み合ったまま崖をころがり落ちていったんです。それはちょうど、ぼくが嵐山に入って研究を始めたばかりのときのことで、こんなこともあるのかと、びっくり仰天しました。
 そのとき、一時的には、孫娘が勝ったんですよ。しかし、それも三〇分間くらいでしたかね、形勢が逆転して、結局孫娘は腕を噛み裂かれて敗北しました。しかし、それから二年後に、ミノ63・69が母親のミノ63にリターンマッチを挑み、ついに噛み倒して池の中に落として溺死させてしまうんですよ。ミノ63・69の娘のミノ63・69・74が今のメスガシラですね。こういう栄枯盛衰の流れをたどっていくと、もうまるで平家物語ですよ」

ものすごくドラマチック。
でもこれはサルだから「まるで平家物語」と感じるわけで、クワガタムシだったらここまでのドラマ性を感じないよね、きっと。




ゴリラの音声コミュニケーションについて。
――そういう音声によるコミュニケーションが、いろいろあるんですか。
「ありますよ。たとえばウファファファーン』と馬のいななきに似た声は、<クエスチョン・バーク>といって、″お前に聞きたいことがある。″″お前は何をやってるんだ″を意味します。これをやってみると、必ず相手はこちらをふり向きます。それから、<チャックル・ヴォーカリゼーション>といって、″ボコボコボコ″とあぶくがわいてくるような音は、遊びたいときの誘いの声ですね。ぼくは一○種類ぐらいまねができますよ」
――そういう音声は、人間がまねをしても通じるんですか。
「完全に通じます。かなり発音がへたでも通じます。お前の発音はひどいなという顔でこちらを見ますが、通じることは通じます。これはゴリラのすごいところですね。ニホンザルの音声コミュニケーションもいろいろ知られていますが、いくらじょうずにまねしても、サルはめったに返事してくれません」
なんと。

ゴリラ同士が音声でコミュニケーションをとるだけでなく、ヒトが発した音声をゴリラが理解してくれるのだ。

ヒトとゴリラで会話できるんだ……。

人間の中には「おまえは何をやってるんだ」と訊いてんのに「何をやろうが私の勝手でしょう」みたいなずれた返事をする人もいるから、もしかしたら一部の人間よりゴリラのほうがよっぽど正確に意思疎通できるのかもしれない。



サルの行動を見ていても飽きないように、サルの話もすごくおもしろい。
読んでいて飽きない。

ただ、インタビューである立花氏自身がサルに肩入れしすぎているように見える。

―― ニホンザルにも、ケンカの仲裁行動がありますよね。
「あれは、ボスザルあるいは優位のサルが劣位のサルのケンカを止めるんですね。劣位のサルが優位のサルのケンカを止めに入るということは、絶対ありません。劣位のサルでも、ケンカしているどちらかに加勢するということはある。だいたい強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける。チンパンジーになると、単純に強弱を見るだけでなく、自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする。いずれにしても、自分の利益のために行動している。ケンカを止めること、それ自体を目的として、劣位の者が仲裁行動を起こすというのは、ゴリラ以外ありません」
―― これは、ずいぶん人間的な行動ですね。他のサルは自分の利害と無関係なところで起きているケンカは放っておくのに、ゴリラは自分と直接関係がなくても、身を挺して社会の平和を守ろうとする。かなり高級な精神作用ですね。

必要以上に「人間性」を感じている。この姿勢は好きじゃない。

文学ならこれでいいけど、サイエンスで「身を挺して社会の平和を守ろうとする」とか「高級な精神作用」なんて言っちゃダメだ。

勝手に人間の価値観をゴリラに押しつけちゃいかんよ。
ゴリラにはゴリラの計算があるんだろうから。


だいたい人間なんて、ニホンザルみたいに「強いほうに参加して、弱いほうをいっしょになってやっつける」タイプや、チンパンジーみたいに「自分が参加することで、力のバランスがどう変化するかを計算の上、加勢するほうをきめたりする」タイプがほとんどで、「身を挺して社会の平和を守ろうとする」ような人間はほとんどいないじゃん。

だからゴリラの行動はぜんぜん人間的じゃないよ。人間はそんなにえらくないもん。



あと読んでいて気になったのは、どうも立花氏は「ヒトは生物の進化の頂点」と思いこんでいるフシがあるんだよなあ。

「ヒトこそが生物の理想形で、サルはヒトへのなりそこない」
「サルはどうやったらヒトに近づくか」
みたいな意識がインタビューの節々から感じられる。


はっきり言って古い。考え方が。

ヒトはサルの頂点ではなく単なる一種族だ。

他のサルが進化してヒトになったわけではない。
現生人類は(今のところ)進化の頂点だけど、チンパンジーだって進化の頂点だし、ナメクジだって進化の頂点にいる。

生物として見たとき、ヒトは他の動物より優れているわけではない。
肉体的にはサルの中でも弱いほうだし、脳の大きさでもネアンデルタール人に負けている。

ヒトはたまたま今の地球環境では繁栄できているだけで、強いわけでも優れているわけでもない。

……ってのが今の常識なんだけど、立花氏は「適者生存」を理解していないんじゃないか。

だから必要以上にサルに「人間性」を感じて持ちあげてしまうんだろう。


生物が繁栄するために必要なのは、強いことでも賢いことでもなく、環境に適していること。

立花氏だって偉大な業績を残した人だけど、それは時代や環境にうまく適応できていたからで、あと数十年生まれてくるのがおそかったらセクハラで表舞台から消えていたかもしれないしね。


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