放課後の音符(キイノート)
山田 詠美
二十代前半で山田詠美さんの『ぼくは勉強ができない』を読んだときに
「ああ、これはすごくおもしろい小説だけど十代のときに読みたかったなあ」
とおもったものだ。
それから十数年。
『放課後の音符』を読む。
うん、これは三十代のおっさんが読むもんじゃないわ。
三十代のおっさんになって、結婚して子どももいて、もう十年以上も恋愛のドキドキとは無縁の生活を送っている(妻とは八年交際して結婚したので恋愛初期のドキドキは長らく味わってない)身としては、『放課後の音符』で描かれている世界はもはや異次元。
文章の瑞々しさに目がくらんでまともに読めない。
すごくいい文章だとはおもうけど、これを受け止めるにはぼくの感受性が鈍磨しすぎている。ぼくのツルツルのミットではこの切れ味鋭い変化球をキャッチできない。
読むのが遅すぎた。
もはや恋する少女にまったく共感することのできないおっさんが読んでいておもうのは、ほんと恋愛って人を狂わせるなってこと。
『放課後の音符』には、狂った人たちばかりが出てくる。
人を好きになるあまり、頭のおかしいことばかり言っている。
思春期なら共感して登場人物といっしょになって胸を痛めることができたんだけど、もうぼくにはできない。
昔はぼくも人を好きになってまともじゃない行動ばかりとっていたけどなあ。〇〇をプレゼントしたこととか、□□って言ったこととか。
おもいだしたくもないのでもう忘れかけてるけど。
しかしあれだね。
少女の恋愛感情ってほんと理解不能だわ。
昔からわからなかったけど、いまはもっとわからんわ。
男はわかりやすいじゃない。
「セックスする」という明確なゴールがあって、そこに向かって最短距離(だと自分がおもっている経路)でつっぱしる。単純明快だ。動物そのもの。
でも少女ってそうじゃないでしょ。
つかずはなれずの関係性を楽しむほうが大事で、ゴールがないというか。
BLとか宝塚歌劇に入れ込むのとかまさにそう。
安野モヨコ『ハッピー・マニア』に「あたしは あたしのことスキな男なんて キライなのよっ」という台詞が出てくるが、少女の恋愛の本質をよく言い当てている。
少女の恋には「ここに到達したらハッピー」というゴールがない。ともすれば成就しないことを願っているようにも見える。
高校生のとき、仲の良かったMという女の子がいた。
彼女は陸上部の先輩に恋をしていた。
彼女は先輩に告白をし、めでたく二人は付きあうことになった。
少しして、Mと先輩は別れたと聞いた。Mさんから別れを告げたのだという。
「なんで別れたん?」
と訊くと、
「なんか手を握ってきたりして気持ち悪かったから」
という答えが返ってきた。
ぼくにはまったく理解不能だった。
だって好きな人なんでしょ? 好きな人に手を握られて気持ち悪いってどういうこと? セックスを強要されたならともかく、手を握られて気持ち悪い人となんで付きあうの? しかもMのほうから告白して付きあうことになったのに、手を握られたからフるってひどすぎない?
Mの心理がまったく理解できなかった。今でもわからない。
Mにフられた先輩も理解できなかったにちがいない(ほんとにかわいそうだ)。
でも、どうやらMのように残酷な心変わりをする女性はめずらしくないらしい。
他にも同じような話を聞いたことがある。
すごく好きだったのに、どうでもいい理由で百年の恋が冷めたとか。それも「虫が肩に止まっていたから」のような、まったく本人に責がないような理由で。
いまだにぼくは女心がわからない。
でも「永遠に理解できない」ということは理解している。その点が、女性の気持ちが理解できる日がくるものとおもっていた思春期の頃とはちがう。ソクラテスみたいなこと言うけど。
だから今、思春期に戻ったらもうちょっとうまくやれるとおもうんだよね。
あー! 戻りてー!!
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