2018年11月2日金曜日

【読書感想文】おかあさんは爆発だ / 末井 昭『素敵なダイナマイトスキャンダル』

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『素敵なダイナマイトスキャンダル』

末井 昭

内容(e-honより)
実母のダイナマイト心中を体験した末井少年が、町工場への集団就職ののち上京、キャバレーの看板描き、イラストレーターを経て、伝説のエロ本編集長として活躍するまでの、波乱にとんだ身辺記。登場するおかしな人物たちへのフェアかつ鋭く、しかし暖かな観察眼と、力の抜け切った語り口が描く山盛りの仰天エピソードで、多くの読者を魅了した幻の名著。

1982年に刊行された本だが、なぜか近年になってちくま文庫で復刊。2018年3月には映画化もされた。
エロ雑誌やパチンコ雑誌の編集者を経験し、今は高年者バンド"ペーソス"のテナーサックス担当でもある末井昭氏の半生記。

前半はすごくおもしろい。
特に冒頭でおかあさんが爆死するエピソードはおもしろい。おもしろがっちゃ悪いけど、しかし本人が悲壮感を出してないんだから気の毒がるのも違うような気もする。おもしろがっとこう。

いやしかし「おかあさんが若い男とダイナマイト心中した」って強烈だなあ。この本の中でダイナマイト心中に触れているのは全体の2パーセントぐらいしかないけど、強烈なインパクトがある。
ぼくの知人にも母親を自殺で亡くした人がいるけど、とても他人が触れられる話題ではない。親が子より先に死ぬのは自然の摂理だからしかたないとしても、自殺ってのはやはり「止められたのでは」とか「置いていかれた」とか思ってしまうからなかなか割り切れるものではないだろう(置いていかれるのもイヤだが道連れにされるのはもっとイヤだけどね)。

しかし、ダイナマイトという字面がそういう重苦しさをボカンと吹きとばしてしまう。ダイナマイトだけに。
末井さんが育ったのは鉱山の町だったので、わりと手軽にダイナマイトが手に入ったそうだ。日常的にダイナマイトがあれば、自殺のときにそれを使うのもわかる。かんたんだし、確実に死ねるし、苦しくなさそうだし。
しかし大半の現代人にとってはダイナマイトって漫画にしか出てこないものだから(シリアスな小説や映画にだってめったに出てこない)、「ダイナマイトで爆死」ってなんか冗談みたいな響きがあるんだよね。「1トンハンマーでぶんなぐって月までぶっとばす」みたいな非現実感。

道徳的にはおもしろがっちゃいかんのかもしれないけど、「芸術は爆発だったりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」なんて書かれたら笑うしかない。



末井さんの書くものは、生い立ちのせいか、何をしていてもどこか醒めている。
たいへん、つらい、わくわくする、といった感情が伝わってこない。どんな境遇に置かれていても、今いる場所を楽しむ方法を知っている。
どこか悟りを開いたような文体だ。

戦地で死線をくぐった水木しげるさんや、やはり幼いころにおかあさんと生き別れた爪切男さんの書く文章にも似ている。
なにかしら共通するところがあるのかもしれない。

 最初、なんでもいいから描きたいものを描いていいということでスタートした雑誌の仕事だったのだが、なんでもいいと言われると逆にすごく困っていた。あれほど自分の中に表現したいものがあると思っていたのに、それがうまく具体化できないのだ。そのことにイライラして、アパートや喫茶店で考え込んでしまっていた。
 でも、それだけ考え込んで描いたものを持って行っても、編集者は「こんなもんでいいんじゃない」という感じで見ている。僕は、なんだかむなしい気持になっていた。そして、表現したいものやオリジナリティなんて本当はなくて、自分を表現したいという欲求があるだけなのだ、ということがおぼろげながら分ってきた。
こんな短い文章だけど、ここに若者の十年分の苦悩がぎゅっと凝縮されている。

すごくわかる。ぼくも若いころは「なにか表現したい」という気持ちを抱えて生きていた。今でも完全になくなったわけではないけど。

でもその「なにか」はなんでもないのだ。ほんとに表現したいものなんてない。
「自分でもわからないけどぼくのいいところを誰か見つけてよ」とずっと叫んでいるだけ。
当然ながら世の中の人はそんなにひまじゃない。ぼくに興味なんてない。

そういうことがわかって、「表現したいのなら表現しなくてはならない」というあたりまえのことにようやく気付いた。それだけのことに気づくのにどれだけの時間かかってるんだ。

そしてこうして誰が見ているのかもわからないブログを書いて心の平穏を保っている。
「すごいものを表現したい」という気持ちを抱えているよりも「たいしたことないものだけど表現している」のほうがずっと健全だと思う。



エロ雑誌編集者が語る、エロ本のテクニックについて。
 エロ本のテクニックは、いかにうまく予告篇を作るかなのであって、ガバッは反則なのだ。このウラ本と呼ばれているガバッには、精神的余裕というものがまったくありません。むかしのエロ本の自信と寛容さなんて、あるわけがありません。あるのはお金と、警察にビクビクする目だけです。
 でも、ガバッが出てきたというのも、時代のせいなのだろう。女の人は穴ボコの中に”愛”なんてあるわけないと、最初っから知っているのです。だって、自分たちの持物なのですから。それが人の持物であっても、男の股間に”愛”が二つぶら下がっているワ、とは思いません。女の人向けのエロ本が絶対作れないのはこのためです。
そうそう、そうなんだよね。
ぼくも人並みにエロには興味を持っているけど、あれは性器そのものに昂奮しているわけじゃないんだよね。
「本来見えてはいけないものを自分だけが見ている」とか「見られて恥ずかしがっている相手のしぐさ」とかに昂奮しているわけで、だから「ほら見ていいよ」とばーんと出されてしまったら、そこにエロスはないわけ。一応見るけど。

十八歳のときに、留学していた友人がカナダで買ってきた無修正のエロ本をはじめて見た(なにしに留学しとんねん)。
すごくドキドキしながら見たんだけど、ああこんなもんか、という感じで期待していたほどの悦びはなかったのをおぼえている。
やっぱりアレは布ごしに想像するもので、まじまじと眺めるもんじゃないね。

能の世阿弥が「秘すれば花なり」という言葉を残しているけど、これって女性器について語った言葉だよね?

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