2020年10月21日水曜日

【読書感想文】書かなくてもいいことを書く場がインターネット / 堀井 憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』

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やさしさをまとった殲滅の時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
90年代末、そこにはまだアマゾンもiPodもグーグルもウィキペディアもなかった―00年代、人知れず進んだ大変革の正体!『若者殺しの時代』続編!

2000年代論(2000~2999年じゃなくて2000~2009年。ややこしいね)。
論っていうか、堀井さんが個人的に「00年代にはこんなふうに変わった」とおもうことを書いたエッセイ。

個々の話にはそれなりに共感できるが、最後まで読んでもタイトルである「やさしさをまとった殲滅」が何を指すのかよくわからない。
とりとめなく思い出話をつづっているだけにおもえる。



00年代に大きく変わったのは、なんといっても情報分野だ。

2000年にもインターネットはあったがまだ一部の人のものだった。携帯電話を持っていない大人もたくさんいた。
2009年にはほとんどの人がインターネットにつながるようになった。携帯電話を持っていない人は希少な存在になった。
有史以来、たったの十年でこんなに普及したものは他にない。

 インターネットや、電子メールが画期的だったのは、「お遊び」分野での連絡が飛躍的に簡単に取れるようになった、ということである。情報も同じことである。もちろん「仕事」分野でも同じく飛躍的に便利になったのだけれど、仕事は仕事である。つまらなくても、面倒でも、それなりの手続きを踏んで粛々とこなしていくしかない。それは奈良時代の役人がやっていたことと、べつだん、変わりはないわけである。やらないと、なにかが止まってしまう。みんな、粛々とこなす。
 ところが「遊び」の分野は、かつては、もっとゆるやかにルーズに進んでいた。
 連絡の取れないやつは、どうやったって取れない。集まれるやつだけで、何とかするしかない。それでべつにかまわない。それが、21世紀に入ると、あっという間に変わっていった。みごとな風景の変貌である。

たしかに。
インターネット以前と以後で比べて、仕事の進め方は本質的には変わっていない(ぼくはインターネット以前はまだ学生だったのでよく知らないけど)。
連絡をとるべき人にはとる。
電話やFAXや手紙だったものがメールやチャットになったけど、やるべきことは変わっていない。
もしある日突然インターネットが使えなくなっても、あわてて電話やFAXで連絡をとることでなんとか同じ業務を遂行しようとするだろう(ぼくがやっているインターネット広告業なんかはまったく立ちいかなくなるけど)。

でも遊びの分野はそうじゃない。
メールやLINEができなくなったら「あいつ誘おうかとおもってたけどやっぱいいや」となる可能性が高い。
電話や手紙もくだらない用途で使われていたけど、あくまでメインは「重要なことを伝えるためのもの」だった。
どうでもいい用事で長電話をしていたら「くだらないこと電話を使うな」と言われたものだ。電話は「くだらなくないもの」のための道具だったのだ。

でもインターネットではそこが逆転した。
今でこそビジネスにも使われるが金儲けがメインではなく、ひまつぶしのためのものだ。特に00年代初頭はそうだった。

個人ホームページ、ブログ、mixi、Facebook、Twitter、LINE……。
個人がひまつぶしをする場は変わったが本質は変わっていない。

言わなくてもいいこと、書かなくてもいいことを書く場がインターネットなのだ。
だからこうしてぼくも一円にもならない文章を書いている。




70年代論や80年代論はよく見るが、00年代論はあまり目にしない。
00年代が終わって十年。もう総括できる時期にきているはずなのに。

00年代があまり語られないのは、十把ひとからげにして世代論を語りにくくなったからだとおもう。

「なんだかわからないけれど街で流行っているもの」というものが見えなくなった。もちろんいまでもそういうものはあるが、人の欲望があまりに細分化され、どこにつながればいいのか、わかりにくくなった。
 街がそういう発信をする意欲をなくし、若い男性は意味なく趣味を合わせていくことをやめた。世間が消え、情報誌が休刊となった。
 おそらく「男子も参加したほうがいい大きな世間」が見当たらなくなってしまい、「世間を巻き込む意味のよくわからない流行」というものを必要としなくなったのだ。もちろんそれがなくなるわけではないが、質が違ってきた。可視化されみなで共有できる分野ではなくなった。「その分野のことを知らないとまずいのではないか」という気分が、00年代に入って、きれいになくなっていった。(それとおたくの増加はきれいにリンクしている。おたくには世間はない。)

特に「男子」が参加する大きな世間がなくなったと堀井さんは説く。

そうかもしれない。
同じテレビを観て、同じ音楽を聴いて、同じような価値観を持っていた時代は終わった。

ぼくらが中学生のときは「昨日(『ダウンタウンのごっつええ感じ』)観た?」「(『行け! 稲中卓球部』の)新刊買った?」という会話ができたし、小室ファミリーやハロープロジェクトを嫌いな人でも trf やモーニング娘の代表曲は歌えた。
好き嫌い関係なく、ふつうに生きているだけで叩きこまれるのだ。

今の中高生の生態はぜんぜん知らないが、今でもそういうのあるのだろうか。
うちの七歳の娘の周りでは、少し前は『おしりたんてい』が爆発的に流行っていたし、今は『鬼滅の刃』が共通語のようになっている。
小学校低学年であれば今も「世代の共通語」があるが、もっと選択的に情報を得られるような年代になれば「世代の共通語」はなくなってゆくのだろう。

どんどん趣味嗜好が細分化していってしかもお互いにまったく交わらなくなっているのは、古い人間からするとちょっと寂しい気もするけど、でもまあいいことだ。
ぼくだって trf やモーニング娘を聴きたくて聴いてたわけじゃないし。情報収集のチャンネルは多いほうがいい。
観たいドラマがプロ野球中継延長のせいで中止になっていた時代に比べれば、まちがいなく今のほうがいい。


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