吉田 修一 『怒り』
吉田修一の小説を読むのは『元職員』に次いで2作目。
『元職員』の感想として、こんなことを書いた。
『怒り』もまた、そういう小説だった。ずっと喉元に短剣をつきつけられているような気分。
「指名手配をされる悪夢」をよく見るぼくは、「自分だったらどう逃げるか」って考えながら読んでいた。追われるようなことは(今のところ)していないんだけどね。
『怒り』には、4人の「正体不明の人物」が出てくる。漁港に現れた無口な青年、ゲイのサラリーマンの部屋に転がり込んできた男、沖縄の離島にやってきたバックパッカー、そして殺人事件の犯人を追う刑事の恋人の女性。
女性は明らかに犯人じゃないから除外して、3人の男はそれぞれが殺人事件の犯人の特徴を持っていて、3人ともときおり怪しい言動を見せる。
ぼくもいろんなミステリ小説を読んできたので、いろいろと勘ぐりながら読んだ。
「こいつが犯人っぽく書かれてるけどまだ中盤だからミスリードだろうな」
「3人の中に犯人がいない、という可能性もあるな」
「実は『×××(ネタバレのために伏字)』のトリックみたいに時系列がばらばらで、3人とも犯人なのかもしれないな」
「いやいや、時系列トリックと叙述トリックが組み合わさっていて、怪しい青年と出会ったこの男性こそがもしかしたら犯人の未来の姿だったりして……」
とかね。
「これはミステリじゃないんだ」とわかっていても、ついつい推理してしまうね。
ぼくの持論として、いいミステリ小説の条件として、「いい謎解きがある」ってのは必要条件であって十分条件ではない、と思っている。
いいミステリであるための必要十分条件は「いい謎がある」だ。
極端に言うと、謎解きがなされなくても、いい謎を提示していればそれはいいミステリだ。じっさい、芥川龍之介『藪の中』のように真相が明らかにならないミステリはけっこうある。東野圭吾もそれに近いことをチャレンジしてたね。
『怒り』は、まさに「真相が明らかにならない」タイプの小説だ。ミステリ小説じゃないけど「いいミステリ」といっていいと思う。
「これ、最後まで犯人が明らかにならないという展開もあるな」と思いながら読んでいたんだけど、さすがにそれはなかった(個人的にはそれでもよかったと思う)。
ぼくらの 生きる世界はいたって不明瞭だ。
電車で隣に座っている人が殺人犯かもしれない。
友人や会社の同僚が、本当に名乗っているとおりの人物なのかわからない。
家族ですら、彼らが自分と出会う前は何をやっていて、どんな内面を隠し持っているのかは知るすべもない(自分の親が過去に人を殺していなかったと言えるだろうか?)
周囲の人物が凶悪犯ではないだろうという "前提" で生活している。
「置いている財布からお金を抜くぐらいのことはするかもしれない」けど、「こいつと2人っきりになったら殺される」とまでは思っていない。
それは「信じる」というほど積極的な信頼ではなくて、「疑うことを放棄する」ってぐらいのもの。
もしも。その "前提" が揺らいだとき、正しくふるまえるだろうか。
仲のいい友人や家族に対して「殺人犯かもしれない」という疑念が沸いたとき、
- 直接問いただす
- 返答に納得がいかない場合は警察に通報する
- あるいはとことん信じぬく
問いただしたら関係が壊れてしまいそうで、親しい間柄であればあるほど、訊けないような気がする。
かといって信じぬくこともできない。
きっと「疑念を抱えたままなんとなく付き合う」っていう、うやむやな対応をとっちゃうような気がする。不誠実だけど。
逆に、自分が人を殺してまだばれていない場合。
妻から「あなたがやったの?」って単刀直入に訊かれたら、ちょっとイヤだなあ。
「ぼくを疑うのか!?」って怒っちゃうかも。犯人のくせに。
やっぱり、古畑任三郎みたいにカマをかけたり罠をしかけたりして、じわじわと外堀を埋められていく感じがいいな。
で、最後は「自首……していただけますね?」って言われてがっくりうなだれる、みたいな感じがいいなあ。
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