2022年9月29日木曜日

【読書感想文】マシュー・O・ジャクソン『ヒューマン・ネットワーク ~人づきあいの経済学~』 / ネットワークが戦争をなくす

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ヒューマン・ネットワーク

人づきあいの経済学

マシュー・O・ジャクソン(著)  依田 光江(訳)

内容(e-honより)
会社のゆくえ、個人の収入、恋愛、健康、学力…私たちの将来を見通す「スタンフォード流」ネットワークの経済学!


「ネットワーク」が我々の社会にいかに大きな影響を与えているか、を経済学の立場から読み解いた本。

 ネットワークといっても人付き合いだけの話ではない。15世紀のフィレンツェでメディチ家が力を持ったのも、金融危機が起こるのも、伝染病が広まるのも、地域によって失業率が異なるのも、ネットワークによって読み解くことができる。

 20世紀半ば以降に国家間の戦争が急減しているのも、貿易手段が発達して国家間のネットワークが強固になったからだという説もあるらしい。どの国の経済も海外貿易に大きく依存しているため、戦争を仕掛けて貿易ができなくなると困るから、ということらしい。まさに今、戦争を仕掛けているロシアは経済的に窮地に追い込まれているし。案外、北朝鮮に対しても経済制裁をするよりも積極的に貿易をしたほうが安全な国になってくれるかもしれない。


 ちなみに原著の刊行は新型コロナウイルス流行直前の2019年だが、伝染病の感染拡大やワクチン接種効果について書かれた箇所もあり、まるで予見したかのようにタイムリーな内容になっている。




「フレンドシップ・パラドクス」という概念がある。

 あなたは「自分には、周囲の人間よりも多くの友だちがいる」とおもうだろうか?

 おそらく、ほとんどの人の答えはノーだ。なぜなら、友だちのネットワークは不均衡だから。数人しか友だちがいない人もいれば、数十人、数百人の友だちがいる人もいる。後者を仮に〝人気者〟と呼ぶとする。

 あなたが〝人気者〟である可能性は低いが、あなたが〝人気者〟と友だちである可能性は高い。なにしろ〝人気者〟には友だちがたくさんいるのだから、その中のひとりがあなたであってもふしぎではない。

 フレンドシップ・パラドクスはわかりやすい。人気のある(友だちが多い)人は多くの人の友だちリストに現れ、友だちの少ない人は友だちリストにあまり出てこない。多くの友だちがいる人は、集団の人数に占める割合よりも何倍も多く友だちリストに登場し、強い存在感を放つ。友だちが一〇人いる人は、友だちが五人の人より、二倍多くの人から友だちとして数えられるわけだ。
 フレンドシップ・パラドクスは数学的にはたいして深い概念ではない(そもそもパラドクスに深いものはほとんどない)が、ほとんどの人の人間関係にかかわりがある。親にしろ、子どもにしろ、「学校ではみんなもってるのに……」とか、「友だちはみんな親が認めてくれているのに……」の言いまわしを聞いたり言ったりしたことがあるだろう。この種の言い方はだいたい真実ではなく、当人の周りの少数の人しか反映していない。人気のある生徒は子どもの友だちとしてよく出現するため、とくに人気のある生徒たちが何か共通の流行を追っていたなら、他の子どもたちの目にはみんながそうしていると映る。人気のある人のふるまいによって、感じ方や挙動の基準が一般の人よりも強く決定づけられてしまうのだ。

 これはSNSによってより視覚化されやすくなった。

 かつては「あの人はどうやら友だちが多そうだ」「彼は顔が広い」ぐらいの漠然としたものだったが、FacebookやTwitterでは友だちの数やフォロワーの数がはっきり見てわかる。

 SNS上であなたがフォローしているのが100人いるとすると、その中には数万人ものフォロワーを持つ人もいるだろう。あなたがよく目にするのはきっとそういうアカウントだ。逆に、数人しかフォロワーのいない人を目にする機会は少ない。なぜならそういう人はあまり他人と交流しないし、あなたもきっとフォローしていないだろうから。


 こうして、じっさいには「フォロワー数の少ないアカウント」のほうが圧倒的に多いのに、「フォロワー数の多いアカウント」ばかりを見て「私が見ている人たちはみんなフォロワーがいっぱいいていいなあ」という現象が発生する。

 そして、「フォロワー数の多いアカウント」というのは当然ながら「著名である」「おもしろい投稿をする」「一芸に秀でている」人であるため、まるで自分以外のみんなが自分より優れているように感じてしまう。

「SNS疲れ」が話題になったが、「フレンドシップ・パラドクス」によって疲れてしまった人も多いのだろう。自分が集団の中で劣っていると突きつけられる(じっさいは必ずしもそうではないのだが)のは、そりゃあしんどい。




「フレンドシップ・パラドクス」は、人気があるかどうかだけでなく、悪影響を与えることもある。

 一般学生の認識は、パーティーや催しでの経験だけではなく、身近にいる友だちの言動からも影響を受ける。ここでもフレンドシップ・パラドクスが作用する。もし、人気者がより多くタバコを喫い、より多く酒を飲むのなら、これは一般学生の判断をゆがませる。実際、ある調査では、中学校では、友だち関係が増えるたびに、生徒が喫煙しはじめる可能性が五パーセント上昇すると推計している。同様の推計はアルコールについても見られ、自分を友だちだと言ってくれる生徒が五人増えると、中学生が試しに酒を飲んでみる確率が三〇パーセントあがるという。
 社交的な学生の飲酒や喫煙量を増やす要因はいくつかある。そうした嗜好品を楽しむこと自体が社会活動の一環であることもそのひとつだ。他者との交流に費やす時間が増えるほど、アルコールを消費する理由が増えていく。逆向きの作用もある。アルコール好きの学生は、むしろ飲める機会を増やすために、同じ傾向にある知人を探そうとする。とくに、親の監視が少ない学生ほど仲間の学生とつきあう時間が長くなり、タバコや酒、ドラッグに触れる機会も増える。そうした性質に基づく社会活動にはフィードバックがあり、仲間が飲んでいる姿を見れば、自分も飲もうという気になる。当人の飲酒レベルがあがれば、仲間の飲酒レベルもあがる。こうしてフィードバックの環が回りつづけるのだ。

 たしかになあ。中高生ってタバコを吸いがちだけど(今はどうだか知らないけど)、あれは周囲がやってるから始めるんだもんな。「友だちは誰ひとり吸ってないけど俺は吸うぜ」って人間はまずいない。

 そういえばぼくの周りでも大学生のときは喫煙者と非喫煙者が半々ぐらいだったけど、喫煙者のうち何人かが禁煙すると、それにつられるように他の連中もタバコをやめ、今ではぼくの身近な友人に喫煙者はひとりもいなくなった。

 ひとりで吸いつづけるのはむずかしいようだ。


 喫煙者や日常的に酒を飲む人の数がどんどん減ってきているという。

 もちろん社会の変化もあるけど、いちばんの原因は「周りが吸わないから吸わない」「周りが飲まないから飲まない」じゃなかろうか。

 影響力のある人がやめる → その周囲の人たちもやめる → そのまた周囲もやめる

という感じで、どんどん減っているのだろう。

 お酒を好きな人はけっこういるけど、「家でひとりでも飲む」人は(依存症以外では)そんなに多くないもんな。




 以前読んだ中室牧子 『「学力」の経済学』に、「学力の高い友だちの中にいると、自分の学力にもプラスの影響がある」と書かれていた(ただし優秀な子からプラスの影響を受けるのはもともと優秀な子だけで、そうでない子は自信をなくしてマイナスの影響を受けるそうだ)。

 また、飲酒、喫煙、暴力、カンニングなど反社会的な行為は特に友人からの影響を受けやすいという。

 多くの親は子どもを進学校に行かせたがるけど、進学校のいいところは教師やカリキュラムよりも「悪影響を与える友人に出会う可能性が低い」ことなんだろう。

 ぼくが通っていた高校は、難関大に進む生徒から、はなから進学する気のない生徒までいろんな学力の生徒がいたけど、自然と友人関係は学力別になっていた。勉強のできる生徒と、まったく勉強をしない生徒が友人関係にあるというケースは、ぼくが見たかぎりほとんどなかった。

 あれは「学力が近いものがつるむ」ことでもあり、逆に「ふだんからつるんでいるから学力が近くなる」効果もあったんだろうな。




 アメリカのシリコンバレーには世界的に成功しているハイテク企業が多数存在している。シリコンバレーにハイテク企業が林立しているのはもちろん偶然ではない。

 高い教育を受けた人が集まったから多くの成功企業が誕生し、多くの企業が成功したから高い教育を受けた人や意欲の高い人が集まった。

 ハイテク企業と高いスキルをもった技術者が同じ場所に集まる理由は情報の豊かな流れだけでなく、もっと強い共生関係があるからだ。サーチクワント社というスタートアップを創業したクリス・ザハリアスは、創業前にネットスケープ社やエフィシェントフロンティア社、オムニチュア、ヤフー、トリジットで働いた経験をもつ。彼のような履歴書はさほどめずらしくはない。現代の企業は、とくにハイテク企業は、あっというまに生まれ、消えていく。こうした企業が世界に事業を展開していくのなら、数年ごとに引っ越ししなければならない従業員が出てくる。これは当人にとっても、ひいては企業にとっても、大きなコストがかかる。だが、シリコンバレーに住めば、会社が消えそうになっても、自宅から数キロしか離れていない別の会社への転職を決めてさっさと移ることができる。技術者も企業もシリコンバレーに群がり、似たバックグラウンドをもつ人が集まることでさらに多くの人と企業が呼ばれるので、ハイテクのキャリアを積みたい人にとってはほかの場所に住むことが考えられなくなる。

 金融業界がニューヨークや東京に集まるのや、映画産業がハリウッドに集まるのも、同じことだ。

 どれだけ通信手段が発達しても「距離的に近い」ことは大きなアドバンテージとなる。遠くの親戚よりも近くの他人。

 きっと今後も都市部への一極集中の流れは止まることがないだろう。




 ネットワークには長短両面があるが、うまく使えば努力の何倍もの結果を生む。

 そのためには、ネットワーク間でのヒトや情報の移動が自由であることが必要だ。

 だが現実には、移動が制限されているネットワークも多く存在する。むしろそっちのほうが多いかもしれない。

 非移動性は、人が自分の生まれた社会環境にとらわれてしまうことから生じる。閉じこめられたネットワークのなかでは、成功するために必要となる情報や機会を得られない。
 非移動性が問題になるのは、機会を得られない人が気の毒という感情論からだけでなく、社会の効率がよくないからだ。本来なら大きな生産性を発揮できたであろう人が非生産的な役割に閉じこめられ、社会全体の生産性を落としてしまう。何人のピカソが鉱山で働いて生涯を過ごしたことだろう。生まれた場所がスラムでさえなければ、ガンの治療法を発見した人だっていたかもしれない。非移動性は国の成長率にも大きな影響を及ぼしかねないのだ。

 医者の子どもしか医者になれないとか、親が政治家じゃないと政治家になれないとか。

 インドのカースト制度はそういう制度だし、そこまでいかなくても日本にもそういう傾向はある。

 これは社会にとって大きな損失である。凡庸な三世議員より、何のコネもないけど優秀で意欲のある人間が総理大臣になったほうがいいに決まっている。

『国家はなぜ衰退するのか』によると、自由な競争が推奨されて能力にふさわしい対価が得られる国は発展し、収奪的な政治的・経済的制度を持つ国は成長が進まないそうだ。わかりやすいのが、韓国と北朝鮮の例で、地理的にも民族もほぼ同じ国なのに、経済成長率には天地ほどの差がついている。それは北朝鮮が「一部の権力者にとっては、国全体を豊かにすることよりも、他人の成長を妨害するほうが自分の富が増える国」だからだ。

 日本もそうなりつつあるのかもしれない(日本だけでなく多くの国が)。




 我々の行動はネットワークによって強く支配されているので、それを断ち切って動くのはむずかしい。

 自分の行動を友だちの行動と連携させたいと思うと、それによっていくつかのことが派生して起こる可能性があり、ときにそれはかなり安定した状態になる。これは、ゲーム理論の専門家が言う「複数均衡」というものだ。相互に強化する作用が働くと、一人ひとりが本来もつ性質を強くすることがある。連携したために、本来なら最適ではない行動から抜けだせなくなる例はいくらでもある。私たちは最適とは言いがたい文字配列のキーボードを使っている。なぜなら、自宅や職場や出張先など多くの場所でキーボードを使う必要があり、また、自分用にカスタマイズするよりみなと同じキーボードを買って使うほうが安価だからだ。私たちは不必要なまでに複雑で例外規則に満ちた言語を話す。なぜなら、周りにいる人たちと話したいならそうするしかないからだ。車が道のどちら側を走るべきかは国によって異なり、注意力が散漫だったり時差ぼけだったりする観光客は、道を横断するときにヒヤリとさせられる。フィードバック効果や連携の強い動機があるせいでよりょい代替手段がとられないということは、そうした不合理なふるまいを変えることがほぼ不可能ということである。代替手段のほうが本当は優れているとわかったあとでも。

 たしかにね。

 ぼくもいっとき、「親指シフト」というキーボード入力を練習していたことがある。日本語入力に向いているという触れこみの入力方法だ。が、やめてしまった。理由のひとつは、職場のパソコンではこれまで通りローマ字入力を使う必要があったこと。結局、多数派にあわせるしかないのだ(まあ親指シフトがそこまで便利ではないことも理由にあるが)。

 エスペラント語が普及しなかった理由もそれだよね。エスペラント語というのは人工的につくられた言語で、世界中の人が使うことを目的として考案された。不規則動詞がまったくなく、シンプルでおぼえやすい。これを世界中の人がおぼえれば、誰もが世界中の人と話せるようになるはず……という理念はすばらしかったが、考案されてから百年以上たった今でもほとんど使われていない。日本語や英語のように例外だらけの(新たに学ぶには)不便な言語を使い続けている。

 理由はひとつ、「みんなが今使っているのが不規則だらけの言語だから」。既存のネットワークを離れて、新たなネットワークを構築するのはすごくたいへんだから。


 ということで、人間の行動がネットワークにいかにコントロールされているかがわかる本。マーケティングとかにも役立ちそう。ネットワークビジネス(マルチ商法)には役立たないとおもいますよ。


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