スプートニクの恋人
村上 春樹
村上春樹の小説を読むたびにおもう。よくわかんねえな、と。
でも文章は魅力的だし、断片的にではあるが印象的なエピソードも挿入されていて強く記憶に残るし、なんだかわかんないけど「良さそうなものを読んだ、ような気がする」という気持ちにはなれる。でもどんな話だったのか、うまく説明できない。当分、村上春樹はいいや。
でも数年たつと「今なら理解できるかも」という気になって、また読んでしまう。そしてやっぱり「よくわかんねえな」とおもいながらページを閉じる。
中学生のときからずっとそれをくりかえしている。
これは好みの問題なんだろうけど、ぼくは「解釈の余地が大きすぎるもの」が好きじゃないんだよね。絵画とかもよくわかんねえし。言いたいことがあるなら言葉ではっきり説明してくれなきゃわかんねえよ。こっちはおかあさんじゃないんだからあんたの深層意識まですくいあげようとしてあげませんよ。
そんなわけでぼくにとって四年ぶり十作目ぐらいの村上春樹作品である『スプートニクの恋人』を読んだわけだが、これがまあザ・村上春樹。
とにかく気取ったしゃらくさい文章の導入からはじまり、主人公はモテるための努力もしないのになぜか女に不自由せず、不思議な出来事をきっかけに旅に出て、いくつかの残酷で印象的な挿話が披露され、奇妙な体験をして、明確な解釈や結末もないままぼんやりと終わる。
いつもの村上春樹だ。そう、ちょうど村上春樹が村上春樹であることから逃げられないように。やれやれ。
こんなことを書くとぼくが村上春樹を小ばかにしているようだが、そんなことはない。ただ肌に合わないとおもっているだけだ。ノーベル賞の季節になると湧いて出るハルキストのことは心の底から侮蔑してるがね。
それでもぼくが村上春樹作品を数年に一度手に取りたくなってしまうのは、断片的にではあるが気に入る描写や言い回しが見つかるからだ。
これこそ村上春樹の作品をよく言い表している言葉かもしれない。
わからないものをわからないままにすることがどんどん許されなくなっているからこそ、余計に。ほんと「わかりませんでした」が作品に対する批判だとおもっている人が多いからね。それは自分の知性の欠如か懐の狭さの吐露でしかないのにさ(もちろんぼくが村上春樹作品をわからないと書くことも同じだ)。
今作でもっとも気に入った言い回しはこちら。
そうねえ。ぼくの場合は16歳~17歳頃に「人生で今がいちばん楽しい!」と唐突に気付き、「今後これを超えるような日々はきっともう来ないだろう」という諦観も同時に得てしまった。
はたして、その後の人生において、瞬間的に楽しさや喜びを感じることはもちろんあるが、あの頃のように「何をしていても、していなくても、24時間ずっと愉しい」日々は訪れていない。
それはそれで悪いことではなく、その〝ささやかな炎〟があるからこそ今を生きていける面もある。それに、我が子を見ると「この子たちにとって人生のピークはきっとこれから訪れるんだろう」とおもえて、これもまたわくわくさせてくれるんだよな。
その他の読書感想文はこちら
0 件のコメント:
コメントを投稿