2019年10月10日木曜日

【読書感想文】記憶は記録ではない / 越智 啓太『つくられる偽りの記憶』

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つくられる偽りの記憶

あなたの思い出は本物か?

越智 啓太

内容(e-honより)
自分がもっている思い出は間違いのないものと考えるのがふつうだが、近年の認知心理学の研究で、それほど確実なものではないということが明らかになってきている。事件の目撃者の記憶は、ちょっとしたきっかけで書き換えられる。さらに、前世の記憶、エイリアンに誘拐された記憶といった、実際には体験していない出来事を思い出すこともある。このような、にわかには信じられない現象が発生するのはなぜか。私たちの記憶をめぐる不思議を、最新の知見に基づきながら解き明かす。

自我が揺らぐぐらいおもしろい本だった。
この著者(本業は犯罪心理学者らしい)の『美人の正体』もおもしろかったが、こっちもいい本。
自分の専門分野ではないから、かえって素人にもわかりやすく説明できるんだろうね。

「虚偽記憶」という言葉を知っているだろうか。
その名の通り、嘘の記憶。実際に体験していないにもかかわらず実体験として記憶に残っていることがら。

かつてアメリカで、多くの人が次々に自分の親に対して「かつて性的虐待を受けた」として訴訟を起こしはじめた。
訴えられた親たちは戸惑った。なぜならまったく心当たりがなかったから。どうして成人した子どもたちが今になってそんなことを言いだすのか。
しかし多くの人々は自称被害者たちの言うことを信じた。なぜなら、わざわざ嘘をついて実の親を性犯罪の加害者にしようなんてふつうはおもわないから。嘘をつくメリットがない(というよりデメリットのほうが大きい)からほんとだろう、という理屈だ。

訴えた"自称"被害者たちは、ジュディス・ハーマンという精神科医の患者だった。ハーマンから「記憶回復療法」を受け、抑圧されていた記憶を取り戻したと主張していた。
その後、様々な検証がおこなわれた結果、今では彼らの「取り戻した記憶」はほとんど「記憶回復療法」によって植えつけられた偽りのものだったとされている……。

というなんとも後味の悪い話だ(想像だけど、ハーマン自身も悪意があってやっていたわけではなく誤った信念に基づいていただけで善意でやっていたんじゃないかなあ)。

そこまでいかなくても、嘘の記憶が発生することはある。
ぼくにも「今おもうとあれは虚偽記憶だったんだろうな」という記憶がいくつかある。

子どもの頃寝ていたら泥棒が寝室に入ってきてタンスをあさっていたこととか(家族は全員否定している)、

小学三年生ぐらいのときに断崖絶壁から落ちそうになったけど木にしがみついてなんとかよじのぼった記憶とか(たぶんこれは実際に起きたことが自分の中で誇張されてる。山の急坂からすべり落ちそうになったぐらいだとおもう)。

関連記事: 捏造記憶



第3章~第5章の『生まれた瞬間の記憶は本物か?』『前世の記憶は本物か?』『エイリアンに誘拐された記憶は本物か?』は、正直少し退屈だった。なぜならぼくが「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とおもっているから。

しかし著者は、「エイリアンに誘拐されたなんて嘘に決まってるだろ」というスタンスはとらず、エイリアンに誘拐されたと証言する人の共通点や時代による変化など、「なぜエイリアンに誘拐されたと信じるにいたったのか」を丁寧に検証している。
また「彼らの証言は疑わしく見えるものの、エイリアンに誘拐された人などいないという証拠が挙げられない以上、否定することはできない」とあくまで科学的謙虚さをくずさない。
このスタンスが立派だ。なかなかできることではない。
「どうせそんなものウソに決まってるだろ」とハナから決めつけていた自分を反省した。


『ムー』的なものが好きでない人には第3章~第5章は退屈かもしれないが、その他の章はきっとおもしろいはず。
記憶に対する考え方が変わる。



SFだと記憶を植えつける装置なんてものが登場するが、じっさいにはそんなものを使わなくてももっとたやすく人の記憶は改竄できるそうだ。

こんな実験が紹介されている(ここに出てくロフタスという人は、ジュディス・ハーマンの虚偽記憶に対して反証した人だ)。
 たとえば、ロフタスは次のような実験を行っています。
 まず、目撃者役の実験参加者には、車が事故を起こす動画を見せます。その後、この事故について、目撃者からいろいろな情報を聞き取っていくわけですが、その中にその車のスピードを尋ねる質問があります。「その車がぶつかったときにどのくらいのスピードが出ていましたか?」という質問です。ただ、彼女はそのときの質問をいくつかのバリエーションで聞いることにしました。具体的には、「ぶつかった」の部分をニュアンスの異なったさまざまな語に変えて聞いてみたのです。
 興味深いことに、ここで使用される単語によって、実験参加者の回答は大きく変わってくることがわかったのです。たとえば、「その車が接触した(contacted)とき」と質問した場合には、実験参加者は自動車のスピードを時速三一・八マイル(時速五一・二キロメートル)と推定しましたが、「その車が激突した(smashed)とき」と質問すると、推定された測度は、時速四○・三マイル(時速六五・六キロメートル)になっていました。彼らが実際に見たのは同じ映像ですから、質問の仕方がその記憶の内容に影響してしまったのだということがわかります。
(中略)
 ロフタスは、この現象を示すために次のような実験を行いました。この実験で使われた動画では、じつは車が激突したとき、そのフロントガラスは割れていませんでした。ところが、スピードについて推定させたあとで、「車のフロントガラスは割れていましたか」と聞くと、「ぶつかった(hit)とき」と聞いた群の実験参加者は八六%が「割れていなかった」と正しく答えたのに対し(車のスピードについて質問しなかった群では、八八%)、「激突(smashed)」で質問した群の実験参加者は、「割れていなかった」と答えた人は、六八%に大きく減り、三二%が実際には割れていなかったフロントガラスを「割れた」と答えてしまったのです。

質問するときに使う単語のニュアンスだけで、同じ映像を見てもこれだけ記憶が変わるのだ。
まして、質問をする側に「事故加害者の罪を重くしてやろう」という意図があったりしたら、さらに記憶は大きくゆがめられることだろう。


じっさいには体験していない人に「子どもの頃に迷子になっておじいさんが助けてくれたことをおぼえていますか?」とくりかえし質問をするという実験の結果が紹介されている。
はじめは「おぼえていない」と語っていた被験者は(体験していないんだからおぼえていないのがあたりまえだ)、「たしかに経験しているはず」と何度も言われるうちにありもしない記憶を「おもいだした」そうだ。
 家族としばらく一緒にいたあとに、おもちゃ屋に行って迷子になったと思う。それであわててみんなを探し回ったんだけど、もう家族には会えないかもって思った。本当に困ったことになったなあと思ったんだ。とっても怖かった。そうしたら、おじいさんが近づいてきたんだ。青いフランネルのシャツを着ていたと思う。すごい年寄りというわけではないけど頭のてっぺんは少し禿げていて灰色の毛がまるくなっていて、めがねをかけていた。
また、ニーアンが、その記憶がどのくらいはっきり思い出せるかを一~一一までの段階で判断するようにクリスに求めたところ、「八」と答えました。
(中略)
いろいろな手がかりを頭の中で探すと、おそらく関連がありそうないろいろな記憶の断片が思い出されてきます。ユーアンの実験でいえば、ショッピングモールに行った記憶や、どこか(たぶんショッピングモール以外の場所)で迷子になった記憶、お母さんが見当たらなくて不安になった記憶や、見知らぬ男性と話した記憶などです。しかし、それらの記憶自体は、あくまで断片であり、いつどこでの体験なのかはあまりはっきりしないかもしれません。第1章でも述べたように、記憶の内容自体と、それがいつ、どこでの記憶(ソースメモリー)なのかを判断するのは、異なったメカニズムであるからです。
 しかし、本人はこのようにして想起された記憶の断片をそのとき」の記憶が蘇ってきたと考えてしまうのです(ソースモニタリングエラーです)。すると、ヒントとして呈示されたストーリーに従ってそれらの記憶がパッチワークのように貼り合わされていき、次第に現実感のある記憶が完成されていきます。さらに、頭の中でこれらのイメージを反芻するに従って、記憶はより鮮明で一貫した構造を獲得していきます。そして最終的には、リアルな偽の体験の記憶が形成されてしまうわけです。つまり、体験しなかった出来事でも一生懸命考えることによって、フォールスメモリーが完成してしまうのです。

会話をくりかえすだけであっさりと偽の記憶がつくられてしまうのだ。
しかも一度形成されてしまった偽の記憶は強固なものになり、「あれは実験のためにやったことでほんとはあなたはそんな体験していないんですよ」と説明しても「いやたしかに体験したことだ」と納得しなくなるそうだ。

ぞっとする話だ。

ぼくには六歳の娘がいるが、子ども同士の喧嘩を見ているとつい数分前の記憶があっさり書き換えられることがよくあることに気づく。

たとえばAちゃんがBちゃんを叩き、それをきっかけに喧嘩になる。
だがAちゃんは「Bちゃんが先に叩いてきた!」と主張する。涙ながらに一生懸命訴える。
「一部始終を見てたけど先に手を出したのはAちゃんだったよ」と伝えても、一歩も引かない。
このとき、たぶんAちゃんには嘘をついているという自覚はない。「Bちゃんが先に叩いてきた!」と言っているうちに、自分の中で偽の記憶が形成されてしまい、それを本気で信じているのだ。

よくある虚言癖の子どもというのも、たいていこういう経緯をたどって嘘をついているんんじゃないだろうか。
「嘘ばかりつく子」というより「想像や発言によって記憶がすぐに書き換えられてしまう子」なんだとおもう。


こうなると、私の記憶は本物か? という問いが当然生じる。
ぼくらはふつう、自分の記憶は正しいとおもっている。「私の記憶が真実であることは、少なくとも私自身は知っている」と思いこんでいる。起きたことを忘れることはあっても、起きていないことをおぼえていることはありえないとおもっている。
でもそれは誤りかもしれない。

って考えると自我が揺らいでくる。
自分の記憶がほんとかうそかわからないなら、何を信じて生きていけばいいんだろう……と。



しかし記憶が不確かであること、容易に改変されることは必ずしもマイナスであるとはいえないと著者は見解を述べている。
  これらの現象は病理的な現象のように思われますが、もっと広い観点から見てみると、このような記憶の改変は、じつは私たちの記憶システムがもっている正常なメカニズムのひとつではないかとも考えることができます。上記のような一見異常な記憶の想起でも、想起によって自らのアイデンティティを確認したり、自らの精神的な不調の原因を納得させようとする動機が含まれていましたし、いまの自分が昔の自分よりも優れていると思うために過去の自分の記憶を悪い方向に改変したり、また、高齢者になると自分の人生をよきものとして受け入れるために逆に過去の記憶を美化して書き換える傾向は、もっと頻繁に起こっていることがわかりました。記憶は過去の出来事をそのままの形で大切にとっておく貯蔵庫であるという考え方自体かそもそも間違っているかもしれないのです。
なるほどねー。

そういえば、地下鉄サリン事件で有名になった毒物のサリンには「記憶を強化する」という効果があると聞いたことがある。
記憶力が良くなるんならいいじゃないかとおもってしまうが、嫌な思い出(地下鉄でサリン事件に遭ったこととか)も薄れずに残ってしまうためPTSDなどに悩まされやすくなるのだとか。
すぐに忘れてしまうのも問題だが、忘れられないのもよくないのだ。

記憶があいまいなおかげで「自分は昔より成長している」とおもえたり、「私の人生は悪いものではなかった」とおもえるのなら、それはそれでいいことだ。

だから、重要なのは「記憶とは記録だ」という認識がまちがいだと気づくことだね。
記憶はすぐに改変される、だから自分の記憶も信用ならない、という認識を持っておくのが「記憶との正しい付き合い方」なのかもしれないね。


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