2020年11月10日火曜日

【読書感想文】多数決のメリットは集計が楽なことだけ / 坂井 豊貴『多数決を疑う』

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多数決を疑う

社会的選択理論とは何か

坂井 豊貴

内容(e-honより)
選挙の仕組みに難点が見えてくるとき、統治の根幹が揺らぎはじめる。選挙制度の欠陥と綻びが露呈する現在の日本。多数決は本当に国民の意思を適切に反映しているのか?本書では社会的選択理論の視点から、人びとの意思をよりよく集約できる選び方について考える。多数決に代わるルールは、果たしてあるのだろうか。

集団内で何かを決めるときにいちばんよく使われるやり方、それが多数決。
ぼくらはあたりまえのように多数決を使っている。
クラスの委員を決めるのも多数決だし、数人で昼飯に何を食うか決めるときにも使うし、選挙だって多数決だ(比例代表は違うけど)。

そして多数決は強い。
多数決の結果に異を唱えるのはむずかしい。
「多数決で決まったんだから文句言うなよ」という空気が醸成されてしまう。
「自民党が与党なのはおかしい!」と言おうもんなら「公正な選挙で民主的に決まったことにいちゃもんつけるな!」と言われるだろう。


だが、ちょっと待ってほしい。
多数決ってほんとに公正なのか。ほんとに民主的な手段なのか。
そんな疑問がずっとあった。

『多数決を疑う』を読んではっきりわかった。
多数決は公正でも民主的でもない。何かを決めるにあたって、ぜんぜんいいやりかたじゃない。




たとえば X、Y、Zという候補者がいたとする。

10人中4人は X > Y > Z ……①
10人中3人は Y > Z > X ……②
10人中3人は Z > Y > X ……③

という順で候補者を支持している。
「XとYのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がYを選ぶ(②と③のグループ)。
「XとZのどちらを支持しますか?」という質問をされたら、10人中6人がZを選ぶ(②と③のグループ)。

XはYよりもZよりも支持されていないわけだ。
「三人の中で誰がいちばんイヤですか?」と尋ねたら、10人中6票を獲得してXが1位になる。
ところが、3人の候補者の中から1人選ぶ多数決だと、選ばれるのは4票を獲得したXになる。

いちばん嫌われているXが当選する。それが今の日本の選挙でも用いられる「多数決」なのだ。


こういう逆転現象を防ぐ基準を「ペア敗者基準」と呼ぶ。複数候補者からペアをとりだして比較したときに他のあらゆる選択肢に負けてしまう選択肢のことを「ペア敗者」と呼び、ペア敗者が勝利しないルールが「ペア敗者基準」だ。
多数決はペア敗者基準を満たさない。

ペア敗者基準を満たす投票ルールはいくつかあるが、その中のひとつは「ボルダルール」だ。
3人が立候補した場合、1位に2点、2位に1点、3位に0点をつける方式だ。
これだとペア敗者が勝利することはありえない。

この本では他にも「コンドルセ・ヤングの最尤法」「決選投票付き多数決」「繰り返し最下位消去ルール」などが紹介されているが、個人的には「ボルダルール」がもっともすぐれているようにおもう(理由はいちいち書かないのでこの本を読んでほしい)。
わかりやすいし、多数決に比べればずいぶん公平だし。姑息な企てにも強いし。




『多数決を疑う』ではいろんな方式が紹介されているが、いろいろ読んだ上でおもうのは「ベストな方法なんてない」ということだ。

万人が納得する方法など「満場一致になるまで全員で徹底的に話しあう」しかないが、もちろんこんなことは現実的に不可能だ。
またシンプルかつ公正なやりかたを追求していけば、独裁制につきあたる。独裁制は1/1の満場一致で決めるのだからきわめて公正だ。だがもちろんこれがいいやりかただとおもう人は少ないだろう。

ベストな方法などない。
でも、「まだマシな方法」はある。
多数決は欠点だらけで、「まだマシな方法」ですらない。

多数決のメリットは「とにかくシンプル」であることぐらいだ。
集計が楽、バカでも仕組みがわかる。ほとんどそれだけだ(「危険防止性」とか「中立性」もあるけど)。

だから幼稚園児がお遊戯会の主役を決めるときには向いているし、集計手段や通信や交通の制約の多かった時代に多数決制を採用することにも、いたしかたのない面はあった。

しかし、これだけ計算機も情報伝達手段も発達した今、公正に代表を選ぶべき選挙で多数決を使いつづける理由はまったくないと言ってもいい。

以前「汚い手で選挙に勝つ方法」という記事を書いたが、こういう手が通用するのも多数決だからだ。ボルダルールならこの手は使えない(むしろ逆効果になる)。

結局、今でも多数決が使われているのは「集計が楽」「小学校のときから使っているから」という集計側の都合でしかない。
民意のことを少しでも考えれば多数決にはならない。




そもそもさ。

ごく一部の層だけから熱狂的に支持されている候補者と、大半の有権者が「こいつなら悪くないとおもわれている候補者、どっちがいい政治をできるだろうか。
正解はないが、ぼくは後者だとおもう。

三割から熱狂的に支持されていて七割から蛇蝎のごとく嫌われている候補者/政党が、全国民のためにいい政治をするとおもう? ぜったいしないでしょ。どう考えたって支持母体に利益誘導するだけでしょ。
でも多数決制度だとそういう候補者が当選しちゃうんだよね。

 どの集約ルールを使うかで結果がすべて変わるわけだ。「民意」という言葉はよく使われるが、この反例を見るとそんなものが本当にあるのか疑わしく思えてくる。結局のところ存在するのは民意というより集約ルールが与えた結果にほかならない。選挙で勝った政治家のなかには、自分を「民意」の反映と位置付け自分の政策がすべて信任されたように振る舞う者もいる。だが選挙結果はあくまで選挙結果であり、必ずしも民意と呼ぶに相応しい何かであるというわけではない。そして選挙結果はどの集約ルールを使うかで大きく変わりうる。

今の日本の選挙はほとんどが多数決であり、多数決は民意を正確に反映しない。
すなわち、今の首長や議員は民意によって選ばれたものではない。「自分が有利になるいびつなルールで勝ち上がった者」だ。

もちろんそれは政治家のせいではない。制度が悪いだけだ。
だから恥じる必要はない。
だが「民意によって選ばれた」などと思いあがってはいけない。
「集計が楽なだけの、民意を正確に反映しない多数決という制度」によって暫定的に立法権を受託されているだけなのだから。

わかってます?


しかしさあ。
そろそろ国民投票でもして、多数決に代わる選挙方法を決めようぜ。
もちろん、多数決以外のやりかたで!

 

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