「気づき」の力
生き方を変え、国を変える
柳田 邦男
ひさしぶりにどうしようもない本を読んだ。
そもそも、民俗学者の柳田國男氏の本だとおもって手に取ってしまった。
読んでいるうちに「あれ? 柳田國男さんってこんなに最近の人だったっけ? 明治とかじゃなかったっけ?」とおもって著者経歴を見てやっとまちがいに気がついた。
國男じゃねえのかよ! 誰だよ邦男って! まぎらわしい名前名乗りやがって!(本名なんだろうけど)
まあ、勘違いから出会った本が案外すばらしい本だったりして……とおもって読みすすめていたのだが、これがとにかくひどかった。
たとえば冒頭。
看護学生のエッセイを紹介し、その瑞々しい感性を絶賛する。そしてこう書く。
は? なんで?
ことわっておくが、紹介されている看護学生のエッセイには、インターネットのイの字も出てこない。
実習を通して知り合った老人との交流と死別をつづったものだ。
それがなぜ「広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られない」になるんだ?
たぶんエッセイを書いた看護学生だってインターネットは使ってるだろうに(エッセイが投稿されたのは2007年だそうなので使っていないはずがない)。
どうしたの、おじいちゃん。
どうして、顔を合わせた交流だけが心の成長につながる体験で、ネットを通したらそうならないという短絡的思考なの? ゲームのやりすぎ?
この邦男おじいちゃんはその後も、手を変え品を変え「昔はよかった」をくりかえす。
「自分の頭の中にある美化された過去のイメージ」と「脳内でつくりあげた現代のかわいそうな境遇におかれた子ども」を対比しているのだから、前者のほうがいいのは当然だ。
そして、やたらとインターネットや携帯電話を目の敵にしている。
その攻撃材料がまた、「心が伝わらない」だの「忙しくて心のゆとりがない」だの「インターネットの便利さに漬かった若者は思考が浅い」だの、ことごとくうすっぺらい。もちろんなんのデータも示していない。
「よくわかんないけどおれが子どものときはなかったものをみんなやってるのが気に入らねぇ」なのがまるわかりだ。
きっとこういう人はいつの時代にもいたんだろう。
二十年前だったら「今の子どもたちはテレビゲームばっかりで……」と言ってただろうし、四十年前には「テレビばっかり……」と言ってたんだろう。そして六十年前は「今の子どもは漫画ばっかり読んで……」でそれより前は「小説ばっかり読んでるから……」だったんだろうな。
昔の人は苦労していた。金や時間よりも大切なものを知っていた。それにひきかえ効率主義と拝金主義に洗脳された現代人は……。
こんな愚痴がひたすら並べられている。
いやいや、昔の人だってラクをできる方法があればぜったいそっち選んでたって! 昔の人は好きで苦労してたとおもってんのかよ、このおじいちゃんは。
まあ年寄りの愚痴に対していちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうが、驚くべきはこのおじいちゃんがノンフィクション作家を名乗っていることだ。おまけに「私はノンフィクション作家として論理的な思考ばかりを重視していたが、もっと人の心を見つめなければならない」的なことも書いている。
……。
論理的っていったいなんなんでしょう。
ことごとくゴミみたいな本だった(後半の河合隼雄氏の言葉を紹介しているところは興味深かったが、だったら河合隼雄氏の本を読めばいいことだ)。
この本から得られたものはただひとつ。
自分はこういう年寄りにならないようにしよう、という戒めだけだ。
ほんと、気を付けないとね。
五十年後に
「昔は連絡するためにはわざわざ携帯電話を使っていた。ものを調べるためにはパソコンやインターネットを使って一生懸命調べていた。たしかに面倒だったがその過程で得られるものも多かった。苦労していたからこそ、情報の裏にある人の心に気づくこともできた。それにひきかえ今は……」
とか言っちゃわないように。
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