偏見や差別はなぜ起こる?
心理メカニズムの解明と現象の分析
北村 英哉 唐沢 穣
まるで教科書のような本だった。
もっとはっきり言うと、つまらない。国籍、障害、見た目、性別、性嗜好、年齢などいろんな分野の差別・偏見の問題を網羅的に取り扱ってはいるのだが、網羅的すぎて引っかかりがないというか……。
教科書を読んでいるみたいだった。
うん、そうだった。教科書ってつまらなかった。ひととおり過不足なく書いてるんだけど、その過不足のなさがつまらなかった。おもしろいのは〝過剰〟な部分だからね。
これは常々おもっている。
「自分は差別をしていない」「これは差別とおもわれたら困るんだけど」みたいなことを言う人間こそが差別丸出しの発言をする。
差別であることを責められても「誤解を招いたのであれば申し訳ない」と謝罪にならない謝罪で切り抜ける。
人は差別や偏見からは逃れられないのだとおもう。なぜならそれこそが知恵だから。
「集団Aのメンバーが悪いことをした。集団Aのまた別のメンバーも悪いことをした。集団Aは悪いやつらだ」
と判断することで、人間は生きぬいてきたのだから。
偏見を持たない人間は生きられなかった。「先月あそこに行ったやつが死んだ。先月べつのやつが行って死んだ。でもまあおれは大丈夫だろう」と考える人間は命を落とす確率が高くて子孫を残せなかった。
偏見を持つ人間の子孫が我々なのだから、偏見を持たないわけがない。
ぼくもリベラリストを気取ってはいるが内心では××や△△をバカにしまくってるし。
偏見を持たないのはバカだけだ(これこそ偏見かもしれないが)。
必然的に差別もなくならない。
そもそも差別だって合理的な理由をつけられる場合がほとんどだからね。「高齢者は身体的能力も知的吸収力も衰えるので採用しません」ってのは年齢差別だけどほとんどの人はそこに一定の合理性を感じるだろう。
だから「差別をなくそう」ではなく、「差別感情がなるべく実害につながりにくい世の中にしよう」ぐらいの目標を立てたほうがいいよね。
以前、『差別かそうじゃないかを線引きするたったひとつの基準』という文章を書いた。
世の中には「許されない差別」と「許される区別」がある。
たとえば「女性だから採用しません」は、力仕事とかでないかぎりは言ってはいけないことになっている。
「〇〇地域の人は採用しません」もダメだ。
でも「三十代までしか採用しません」は原則ダメだがほとんどの会社がやっている。
「応募資格:大卒以上」は堂々と掲げられている。
大卒以上がよくて男性のみがダメな理由を論理的に説明できる人はいないだろう。なぜならそこに論理的な違いはなく、「今まで慣例的におこなわれてきた線引きかどうか」だけで判断しているからだ。
『偏見や差別はなぜ起こる?』では、差別が起こる理由として「システム正当化理論」が紹介されている。
この説明はすごくしっくりくる。
そうなのだ。
我々は絶対的な正/悪の基準を持っているような気になっているが、そんなものはない。
「今あるものは正しい。今認めらていないものは悪い」で判断しているだけだ。
だから「男子校・女子校はOK。でも血液型A型しか入れないA型校は差別」とおもってしまうのだ。本質的な違いはないのに。
この姿勢は政治や政策に対する議論でもよく見られるよね。
今のシステムを最良のものとみなして、それにそぐわない案は(たとえ改善案であっても)すべて否定する姿勢。
日本政府を批判すると「そんなに日本が嫌なら日本から出ていけ!」という人たち。
日本が好きだからより良くしたいのに……という正論はそういう人には通じない。なぜなら彼らにとっては常に「今が最良」なのだから。
偏見・差別に関する議論よりも、この「システム正当化理論」についてもっと深掘りしてほしかったな。
システム正当化理論に関する本を探してるんだけどなかなか見つからないんだよな……。
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