2020年5月25日月曜日

【読書感想文】現生人類は劣っている / 更科 功『絶滅の人類史』

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絶滅の人類史

なぜ「私たち」が生き延びたのか

更科 功

内容(e-honより)
700万年に及ぶ人類史は、ホモ・サピエンス以外のすべての人類にとって絶滅の歴史に他ならない。彼らは決して「優れていなかった」わけではない。むしろ「弱者」たる私たちが、彼らのいいとこ取りをしながら生き延びたのだ。常識を覆す人類史研究の最前線を、エキサイティングに描き出した一冊。
人類700万年(サヘラントロプス・チャデンシス~ホモ・サピエンス)の歴史を駆け足で走り抜ける一冊。
ものすごくわかりやすくまとめられていて、かつ随所に挟まるトピックスもおもしろい。
人類史の入門書としてこれ以上ない(といっても他の本をほとんど知らないけど)本だ。


ぼくも学生時代に歴史の授業の最初のほうで人類の歴史を習ったはずだが、ぜんぜんわかっていなかった。
アウストラロピテクスとかジャワ原人とかクロマニオン人とかネアンデルタール人とかの名前をおぼえていただけ。
恥ずかしい話、ぼくはネアンデルタール人がヒトになったんだとおもっていた。我々の直系の祖先なのだと。
でもそうではなかった。ネアンデルタール人とヒト(ホモ・サピエンス)は別の種だったのだ。同時代に生きていたが、ヒトはその後繁栄し、ネアンデルタール人は滅びた。いってみればライバルのような存在だったのだ。
人類史をやっている人からしたら常識なんだろうけど、そんなことすらわかっていなかった。



「万物の霊長」という言葉が表すように、ぼくらは今のヒトがあらゆる生物の中でいちばん優れている、いちばん賢い存在だと考えてしまう。
賢かったからこうして地球上で繁栄しているのだと。優れているから今こうして快適な暮らしを送っているのだと。

ところが人類の歴史を見てみると、その考えが誤りだということがわかる。
 現在の日本でも、クマが山から人里へ下りてくることがある。でもそれは、クマが希望にあふれて、人里で美味しいものをたくさん食べようと思って、下りてきたわけではない。きっと山の食料が少なくなり、空腹でたまらなくなったのだ。それで仕方なく人里まで下りてきたのだ。ふつう動物は、食べるものがたくさんあって住みやすい場所があれば、その場所を捨てたりしない。いつまでも、そこにいようとするはずだ。今までいた場所を捨てて、他の場所へ移動するときは、そこにいられなくなった理由があるのだ。
 初期の人類が直立二足歩行を始めたときも、同じような状況だったかもしれない。そのころのアフリカは、乾燥化が進んで森林が減少していた時代だった。類人猿の中にも、木登りが上手い個体と下手な個体がいただろう。エサがたくさんあれば、少しぐらい木登りが下手でも困らない。しかし、森林が減ってくると、そうはいかない。木登りが上手い個体がエサを食べてしまうので、木登りが下手な個体は腹が空いて仕方がない。そうなると、木登りが下手な個体は、森林から出ていくしかない。そして、疎林や草原に追い出された個体のほとんどは、死んでしまったことだろう。でも、その中で、なんとか生き残ったものがいた。それが人類だ。
 草原で肉食獣に襲われたら逃げ場がない。でも疎林なら、なんとか木のあるところまで逃げられれば、木に登って助かるかもしれない。森林を追い出された人類は、生き延びるために疎林を中心とした生活を始めたと考えられる。
初期の人類は猿の中で劣った存在だったのだ。
劣っていたから競争に負けて森林から出ていかざるをえなかった。
ところが走るのも遅く、強い武器も持っていなかった人類は、森林を追いだされたらとても生きていけない。

だから群れて暮らす必要があった。
群れれば敵に気づきやすくなるし、襲われたときも食べられる可能性が減る。
そうやって群れて暮らすうちにコミュニケーション能力が発達した。

また外敵や厳しい環境から身を守るために道具をつくる必要も生まれた。
もしも人類が強かったら、今頃まだ森の中で暮らしていたことだろう。



ヒトは人類以外の動物より劣っていただけでなく、他の人類よりも劣っていた。
 ネアンデルタール人は私たちよりも骨格が頑丈で、がっしりした体格だった。その大きな体を維持するには、たくさんのエネルギーが必要だったはずである。ある研究では、ネアンデルタール人の基礎代謝量は、ホモ・サピエンスの1.2倍と見積もられている。基礎代謝量というのは、生きていくために最低限必要なエネルギー量のことで、だいたい寝ているときのエネルギーと考えればよい。つまりネアンデルタール人は、何もしないでゴロゴロしているだけで、ホモ・サピエンスの1.2倍の食料が必要なのだ。もしも狩猟の効率が両者で同じだとしたら、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより、1.2倍も長く狩りをしなくてはならない。

(中略)

 昔は、よかったのかもしれない。狩猟技術が未熟なころは、力の強いネアンデルタール人の方が、獲物を仕留めることが多かったのかもしれない。行動範囲の狭さを、力の強さで補って、ホモ・サピエンスと互角の成績をあげていたかもしれないのだ。
 しかし、槍などの武器が発達して、力の強弱があまり狩猟の成績に影響しなくなってくると、状況は変わった。力は弱くても、長く歩けるホモ・サピエンスの方が、有利になったのだ。その上、もしも狩猟技術自体もホモ・サピエンスの方が優れていたとしたら、両者の差は広がるばかりだ。力は強くても、長く歩けず、狩猟技術の劣るネアンデルタール人は、いつもお腹を空かせていたのではないだろうか。
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより体格が良かったらしい。しかも脳の大きさもネアンデルタール人のほうが大きかった(ただし脳が大きいから賢いとは言い切れないが)。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より劣っていたからこそ、よりよい道具を作ることが求められた。
そうして道具を生みだし、またホモ・サピエンス間のコミュニケーションによって道具の作り方を伝えていった人類は、総合力の差でネアンデルタール人を追いぬいた。

またネアンデルタール人は体格が良かったからこそ、その大きな身体を維持するのにより多くのエネルギーを必要とした。
食糧が豊富にあるときはいいが、飢餓期には身体が小さいほうが有利だった。

 それにしても、昔の人類の脳は大きかった。いや、大き過ぎたのかもしれない。ネアンデルタール人の脳は約1550ccで、1万年ぐらい前までのホモ・サピエンスの脳は約1450ccだ。ちなみに現在のホモ・サピエンスは約1350ccである。時代とともに食料事情はよくなっているだろうから、私たちホモ・サピエンスの脳が小さくなった理由は、脳に与えられるエネルギーが少なくなったからではない。おそらく、こんなに大きな脳は、いらなくなったのだろう。
 文字が発明されたおかげで、脳の外に情報を出すことができるようになり、脳の中に記憶しなければならない量が減ったのだろうか。数学のような論理が発展して、少ないステップで答えに辿り着けるようになり、脳の中の思考が節約できたのだろうか。それとも、昔の人類がしていた別のタイプの思考を、私たちは失ってしまい、そのぶん脳が小さくなったのだろうか。
 ただ想像することしかできないが、今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。それが何なのかはわからない。ネアンデルタール人は何を考えていたのだろう。その瞳に輝いていた知性は、きっと私たちとは違うタイブの知性だったのだろう。もしかしたら、話せば理解し合えたのかもしれない。でも、ネアンデルタール人と話す機会は、もう永遠に失われてしまったのである。
われわれの脳はネアンデルタール人より小さいばかりでなく、昔のホモ・サピエンスと比べても小さくなっているのだそうだ。

ここに紹介されているのはあくまでひとつの説だが、文字という記録装置が生みだされたことで大きな脳を必要としなくなったという説はおもしろい。
だとしたら、この先どんどん脳は小さくなっていくのではないだろうか。
ここ百年間で計算機やコンピュータなど外部のOSやメモリが次々に生まれたのだから。


我々は有史以来もっとも優れた生物だとおもっているが、とんでもない。
もしかしたら史上まれにみるほど、生物として劣った存在なのかもしれない(なにしろ餌をとらなくても敵から逃げなくても生きていける生物なんて他にいないのだから)。

今の人間はたしかに地球上で支配的なポジションにいる。
でもそれは我々が優れているからではなく、たまたま環境に適応できた、運がよかっただけなのだ。

もしも地球上がもっと過ごしやすい環境だったら、覇権を握っていたのはホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だったかもしれない。
いやそれどころか恐竜が跋扈していて哺乳類自体が生態系ピラミッドの下のほうでひっそりと生きていた(あるいは絶滅していた)かもしれないね。


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