2020年8月6日木曜日

【読書感想文】障害は個人ではなく社会の問題 / 伊藤 亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

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目の見えない人は世界をどう見ているのか

伊藤 亜紗

内容(e-honより)
私たちは日々、五感―視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚―からたくさんの情報を得て生きている。なかでも視覚は特権的な位置を占め、人間が外界から得る情報の八~九割は視覚に由来すると言われている。では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか―?美学と現代アートを専門とする著者が、視覚障害者の空間認識、感覚の使い方、体の使い方、コミュニケーションの仕方、生きるための戦略としてのユーモアなどを分析。目の見えない人の「見方」に迫りながら、「見る」ことそのものを問い直す。

目が見えない人はどうやって世界を認識しているのか。
学術的にではなく、福祉の視点からでもなく、「おもしろがる」という視点で解説した本。

なるほど、たしかにおもしろい。
著者の「おもしろがる」視点が伝わってくる。
いい本だった。



目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。

見える人は、富士山を思い浮かべるとき「台形のような形」、月を思い浮かべるときは「円」を思い浮かべることが多い。ぼくもそうだ。

ところが見えない人の中には、富士山を「円錐台(円錐の上部が欠けた形)」、月を「球」でイメージする人がいるそうだ。

言うまでもなく、実態に近いのは後者のイメージだ。
見えないからこそ視点にとらわれず正確なイメージを描くことができるのだ。
 決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。
 すべての面、すべての点を等価に感じるというのは、視点にとらわれてしまう見える人にとってはなかなか難しいことで、見えない人との比較を通じて、いかに視覚を通して理解された空間や立体物が平面化されたものであるかも分かってきました。もちろん、情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリットと考えることもできます。
ふうむ。
見えるがゆえに、見える部分にとらわれてしまって全体を正確に理解できない。
たしかにそうかもしれない。
矛盾しているようだけど、見えるからこそ見えないこともある。



目が見えないと、他の感覚が鋭敏になる。
と聞くと、ふつうは「耳が良くなるのだな」「手で触ってみるのだな」とおもうけれど、必ずしもそれだけではない。
 見える世界に生きていると、足は歩いたり走ったりするもの、つまりもっぱら運動器官ととらえがちです。しかしいったん視覚を遮断すると、それが目や耳と同じように感覚器官でもあることがわかる。足は、運動と感覚の両方の機能を持っているのです。地面の状況を触覚的に知覚しながら体重を支え、さらに全身を前や後ろに運ぶものである足。暗闇の経験は、「さぐる」「支える」「進む」といったマルチな役割を足が果たしていることに気づかせてくれます。
 そう、見えない体の使い方を解く最初の鍵は、「足」です。「触覚=手」のイメージを持っていると、見えない人が足を使っているというのは意外かもしれません。しかし言うまでもなく、触覚は全身に分布しています。
ふだんは意識しないけれど、足は触覚器官なのだ。

舗装された道を歩いているときは気づかないけれど、山道を歩くときは足から入ってくる情報が多いことに気づかされる。
ぼくが登山をするときは底の厚い登山靴を履いているけれど、それでも足の裏からいろんな情報が入ってくる。
石が多い、落ち葉が多い、濡れているからすべりやすい、土がやわらかくて崩れやすい、道が少し平坦になった。歩くだけで地面の情報が伝わる。

白杖をついた人がぐんぐん進んでいくのに驚かされるけれど、あれも足で「見て」いるんだろうな。



障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。

でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。

それはこんな文章にも表れている。
 見えない体に変身したいなどと言うと、何を不謹慎な、と叱られるかもしれません。もちろん見えない人の苦労や苦しみを軽んじるつもりはありません。
 でも見える人と見えない人が、お互いにきちんと好奇の目を向け合うことは、自分の盲目さを発見することにもつながります。美学的な関心から視覚障害者について研究するとは、まさにそのような「好奇の目」を向けることです。後に述べるように、そうした視点は障害者福祉のあり方にも一石を投じるものであると信じています。
すごいよね、この文章。

「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」

ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。

たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
そして「あっ、べつに不適切じゃないのか」と気づかせるために。

「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。

言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。


「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
でもそれは取り締まる人を満足させることにしかつながらないのかもしれない。

「なんだか障害者の話をすると『不謹慎だ』とか『配慮が足りない』とか言われてめんどくさいから話題にしないようにしよう」
と、むしろ「見えない人」を「見える人」から遠ざけるだけなんじゃないか。


……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
 象徴的な話があります。それは、「障害者」という言葉の表記についてです。「障害者」という表記に含まれる「害」の字がよろしくないということで、最近は「障碍者」「障がい者」など別の表記が好まれるようになってきました。
 ところが、見えない人がテキストを読むときは、たいていは音声読み上げソフトを使います。すると、音声読み上げソフトの種類によっては、「障がい者」という表記が認識できないらしい。「さわるがいしゃ」という読みになってしまうそうです。つまり、誤った単語になってしまう。
 もちろん「さわるがいしゃ」と誤読されても、というか誤読されて初めて、見えない人は執筆者の配慮に気づくことができます。だからこの失敗は、配慮を必要とする障害者にとっては成功なのかもしれません。
 けれども、それが差別のない中立的な表現という意味での「ポリティカル・コレクトネス」に抵触しないがための単なる「武装」であるのだとしたら、むしろそれは逆効果でしょう。障害の定義を考慮に入れるなら、むしろ「障害者」という表記の方が正しい可能性もある。
いいエピソードだ。

「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。



『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んでいると、
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。

世界には、視力が弱い動物がいっぱいいる。
例えばコウモリは視力が弱い。
じゃあコウモリは他の動物よりも劣っているかというと、そんなことはない。
他の感覚器官を研ぎ澄ませて生きている。
光が消えて他の動物が滅びてもコウモリだけは生き残っているかもしれない。

コウモリに「目が見えなくて不自由してますか?」と訊いても、たぶん「いやぜんぜん不便じゃないっすよ」と答えるだろう。
ぼくらが超音波を感じ取れなくてもべつに不自由を感じないように。


でも現実問題として、人間は目が見えるほうが生活しやすい。
それは、見える人が多数派で、見えることを前提に社会が設計されているからだ。
 そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。
 従来の考え方では、障害は個人に属していました。ところが、新しい考えでは、障害の原因は社会の側にあるとされた。見えないことが障害なのではなく、見えないから何かができなくなる、そのことが障害だと言うわけです。障害学の言葉でいえば、「個人モデル」から「社会モデル」の転換が起こったのです。
「足が不自由である」ことが障害なのではなく、「足が不自由だからひとりで旅行にいけない」ことや「足が不自由なために望んだ職を得られず、経済的に余裕がない」ことが障害なのです。

なるほど……。
いやたしかにそうだよな。

中度の近視や乱視の人って、今の日本だったら多少の不便はあってもほとんど視力の良い人と同じ生活をできる。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。

「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
でも今の日本だったら、エレベーター、エスカレーター、スロープの整備がだいぶ進んでいるので、たいていのところにはひとりで行ける。

テクノロジーや都市の設計が、障害者を障害者でなくするのだ。

高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。

今後、どんどん健常者と障害者の垣根がゆるやかなものになっていくのかもしれないなあ。

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