目の見えない人は世界をどう見ているのか
伊藤 亜紗
目が見えない人はどうやって世界を認識しているのか。
学術的にではなく、福祉の視点からでもなく、「おもしろがる」という視点で解説した本。
なるほど、たしかにおもしろい。
著者の「おもしろがる」視点が伝わってくる。
いい本だった。
目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。
舗装された道を歩いているときは気づかないけれど、山道を歩くときは足から入ってくる情報が多いことに気づかされる。
障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。
でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。
それはこんな文章にも表れている。
すごいよね、この文章。
……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
中度の近視や乱視の人って、今の日本だったら多少の不便はあってもほとんど視力の良い人と同じ生活をできる。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。
「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
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目が見えない人のほうが物事を正確にとらえている場合もある、という話。
見える人は、富士山を思い浮かべるとき「台形のような形」、月を思い浮かべるときは「円」を思い浮かべることが多い。ぼくもそうだ。
ところが見えない人の中には、富士山を「円錐台(円錐の上部が欠けた形)」、月を「球」でイメージする人がいるそうだ。
言うまでもなく、実態に近いのは後者のイメージだ。
見えないからこそ視点にとらわれず正確なイメージを描くことができるのだ。
ふうむ。
見えるがゆえに、見える部分にとらわれてしまって全体を正確に理解できない。
たしかにそうかもしれない。
矛盾しているようだけど、見えるからこそ見えないこともある。
目が見えないと、他の感覚が鋭敏になる。
と聞くと、ふつうは「耳が良くなるのだな」「手で触ってみるのだな」とおもうけれど、必ずしもそれだけではない。
ふだんは意識しないけれど、足は触覚器官なのだ。
ぼくが登山をするときは底の厚い登山靴を履いているけれど、それでも足の裏からいろんな情報が入ってくる。
石が多い、落ち葉が多い、濡れているからすべりやすい、土がやわらかくて崩れやすい、道が少し平坦になった。歩くだけで地面の情報が伝わる。
白杖をついた人がぐんぐん進んでいくのに驚かされるけれど、あれも足で「見て」いるんだろうな。
障害者について語るとき、ついつい同情的になってしまう。
「かわいそうな人に手を差しのべる」「少しでも失礼があってはいけない」という意識がはたらいてしまう。身近に障害者がいない人ほどそうなる。
でも、著者はもっと中立的に考えている。
日本人とブルガリア人が接して「へえー。そっちの国ではそんな風習があるんだ。おもしろいねー」と語りあうように、「目が見えない人の世界」をおもしろがっている。
それはこんな文章にも表れている。
すごいよね、この文章。
「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」
ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。
たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
ふだんは意識せずに使う比喩表現だが、 これを読んでおもわずぎょっとした。
「視覚障害者の話をするときにこの表現は不適切では」 と一瞬躊躇してしまった。
たぶん著者は意識的にこういう表現を使っているんだろう。
「えっ、それって不適切では」 とおもわせるために。
そして「あっ、べつに不適切じゃないのか」と気づかせるために。
「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。
言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。
「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
「片手落ち」という表現は差別的だ! と言っている人がいるそうだ。
両腕がない人への差別だ、というのだ。
「片手落ち」は「片」+「手落ち」なのでその指摘は見当はずれなのだが、仮に本当に身体障害者に由来する言葉だったとしても、それを使うのが差別だとはぼくには思えない。
言葉狩りをすることで障害者が生きやすくなるとは思えないからだ(「言葉狩り」も口のきけない人への差別とされるかもしれない)。
「好奇の目を向けあう」「自分の盲目さ」「そうした視点」といった言葉を取り締まることで視覚障害者が生きやすくなるのなら、喜んで協力する。
でもそれは取り締まる人を満足させることにしかつながらないのかもしれない。
「なんだか障害者の話をすると『不謹慎だ』とか『配慮が足りない』とか言われてめんどくさいから話題にしないようにしよう」
と、むしろ「見えない人」を「見える人」から遠ざけるだけなんじゃないか。
……ってことが言いたくて著者はあえてこういった表現を使ったんじゃないかな。
いいエピソードだ。
「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。
「配慮」は相手のためではなく自己満足のための行為なのかもしれない。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』を読んでいると、
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。
「目が見えないことって必ずしもマイナスとはいえないんじゃないか」とおもうようになった。
世界には、視力が弱い動物がいっぱいいる。
例えばコウモリは視力が弱い。
じゃあコウモリは他の動物よりも劣っているかというと、そんなことはない。
他の感覚器官を研ぎ澄ませて生きている。
光が消えて他の動物が滅びてもコウモリだけは生き残っているかもしれない。
コウモリに「目が見えなくて不自由してますか?」と訊いても、たぶん「いやぜんぜん不便じゃないっすよ」と答えるだろう。
ぼくらが超音波を感じ取れなくてもべつに不自由を感じないように。
でも現実問題として、人間は目が見えるほうが生活しやすい。
それは、見える人が多数派で、見えることを前提に社会が設計されているからだ。
なるほど……。
いやたしかにそうだよな。
でも、もしもメガネやコンタクトレンズがなければ視覚障害者だ。
「階段を昇れない」という人がいたとする。数十年前であれば、ひとりでは出歩けない要介護者だった。
でも今の日本だったら、エレベーター、エスカレーター、スロープの整備がだいぶ進んでいるので、たいていのところにはひとりで行ける。
テクノロジーや都市の設計が、障害者を障害者でなくするのだ。
高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。
高齢化が進んで寿命が伸びれば身体障害を抱える人は今後どんどん増えるだろう。
一方でスマートスピーカーや読み上げソフトなど、テクノロジーによって障害をリカバリーできる範囲は増えつつある。
今後、どんどん健常者と障害者の垣根がゆるやかなものになっていくのかもしれないなあ。
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