想像ラジオ
いとう せいこう
ぼくの中でいとうせいこう氏は「みうらじゅんといっしょにザ・スライドショーをやってた人」というイメージだ(ザ・スライドショーのDVD-BOXも持っている)。あと『虎の門』というテレビ番組もときどき観ていたので、「何をやっているのかわからない文化人」というカテゴリの人だ。
じっさい、日本のラップ界の開祖のようなラッパーだったり、編集者だったり、知れば知るほど「やっぱり何をやっているのかわからない人」だ。
そんないとうせいこう氏の小説が芥川賞候補になったと聞いて興味を持っていたのだが、刊行から七年を経てようやく手に取ってみた。
うまく説明できる自信がないけれど、いい小説だったなあ。
ああ、こういうことを書くのは小説という媒体がうってつけだよなあ、むしろこういうことを書くために小説があるのかもしれない。そんな気になった。
(ネタバレ含みます)
一言でいうと「鎮魂」。
ある日、たくさんの人の耳にラジオ放送が聞こえてくる。DJアークによる生放送。受信機がなくても聞こえてくるし、決まった放送時間もないし流れる曲は聴く人によってちがう。
で、どうやらDJアークは既に死んでいるのだとわかる。東日本大震災の津波に押し流されて命を落とし、高い樹の上に引っかかったままになっているらしい。
そしてこの「想像ラジオ」を聴くことのできるリスナーもまた死んでいるらしい。しかし生きている人にも聴こえる場合がある……。
とまあ、一応わかるのはこんなとこ。
明確な説明はないので「どうやら」「らしい」というしかないのだが。
要するにですね。わけがわからないわけですよ。
なぜこんなことが起こっているのか。いやほんとに起こっていることなのか。聴こえる人と聴こえない人の違いはなんなのか。なんにもわからない。わからないものをわからないまま書いている。いや、作者の中では明確な答えはあるのかもしれないけど、作中で明示されることはない。
これは、我々「死ななかった者」が「死んだ者」について考えるときと同じなんだよね。
なんにもわからないわけ。どれだけの人が死んだのか。死んだ人はいつ死んだのか。死んだ人は何を考えたのか。流されていったあの人はほんとに死んだのか。死んでいった彼らは何を望んでいるのか。なぜ彼らは命を落として我々は生きているのか。なんにもわからない。
東日本大震災によって、いろんな「わからない」がつきつけられた。死者の近くにいた人はもちろんだし、たとえば遠く離れた地で知人が誰も被災しなかったぼくのような人間ですら「わからない」をつきつけられた。
地震が起きたあの日、ぼくはたまたま仕事が休みだったので家でぼんやりテレビを観ていたら、人や家や車が次々に濁流に呑まれるものすごい映像が目に飛びこんできた。
それからしばらく、なんとかしなきゃ、こうしていていいのか、という妙な焦燥感がずっとあった。
日本中が自然と自粛ムードになったけど、やっぱりあの映像を目にしたら「被災者のためになんかしなきゃ」「笑ってていいのか」って気になっちゃうよね。
地震にかぎらず毎日たくさんの人が理不尽に命を落としてるわけだけど、人間の想像力なんて限りがあるからふだんは見ないように蓋をしている。いちいちどこかの誰かのために胸を痛めていたら自分が生きていけない。
でも、大地震のショッキングな映像なんかで蓋が開いてしまうと、ずっと心が痛い。
長く生きていても、ぼくらは「理不尽な死」を克服することはできないんじゃないだろうか。ただ目をそらすことしかできないのかもしれない。
この小説には「理不尽な死」を乗りこえるヒントは書かれていない。
小説の中でちょっとだけ展開はあるけど、基本的に何も解決しない。というか何が問題で、どうなったら解決なのかも判然としない。
ただ、あの震災で直接的ではないけど傷を受けて、その処理をどうしたらいいかわからないままとりあえず蓋をしている人が自分だけじゃないことだけはわかる。
震災への向き合い方は、それがすべてなのかもしれない。
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