2020年11月4日水曜日

【読書感想文】殺人犯予備軍として生きていく / 河合 幹雄『日本の殺人』

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日本の殺人

河合 幹雄 

内容(e-honより)
人殺しのニュースが報じられない日はない。残忍な殺人鬼が、いつ自分や自分の愛する人に牙を剥くか。治安の回復は急務である、とする声がある。しかし、数々の事件を仔細に検証すると、一般に叫ばれる事態とは異なる犯罪者の実像が浮かび上がる。では、理解不能な凶悪な事件を抑止するために、国はどのような対策を講じているか。そして日本の安全神話はどうして崩壊してしまったのか。さらに、刑罰と出所後の生活、死刑の是非、裁判員制度の意義まで。

2009年刊行とちょっと古いが(裁判員制度導入のタイミングで出版されたようだ)、じつに読みごたえがあった。
新書でここまで重厚なものは他にちょっとない。いい本だった。

ぼくらは「殺人」についてよく知っているような気になっている。
殺人事件はニュースでも大きく扱われるし、小説や映画の題材にもなりやすい。詐欺や窃盗よりもよっぽど多く耳にするテーマだ。

だが、ニュースや小説になる殺人事件はごく一部だけ。
連続殺人事件とか、残虐非道な犯人とか、センセーショナルな事件だけだ。

暴力をふるう夫に追い詰められた妻が、夫が寝ているすきに首を絞めて殺害したもののすぐに我に返って警察に通報……みたいなケースはニュースにもならないし小説の題材にもならない。

だが、日本で起こっている殺人事件の大半はそのような「ごくふつうの市民による家庭内の殺人」なのだそうだ。

 確かに考えてみれば、人など殺したくないのが当たり前である。たとえ合法でも、進んで死刑執行をやろうという人はまずいないであろう。「殺してやろうか」と思うことと実際に「殺しきる」ことの間には、大きな溝がある。「殺しきる」には、よほどの強い動機が必要であり、それがあるのは家族間の関係なのであろう。私も、殴ってやりたい人はいなくもないとしても、殺すのは御免である。嫌な人がいれば、付き合わなければいいのである。殺す必要があるのは血のつながりがあるか、恋愛がらみで、「別れたいのに別れてくれない」か、「別れたくないのに別れようとされる」かといったケースであろう。嫉妬に駆られての事件や、不倫がらみの事件も、統計の名目上家族間ではないが、実質的には家族問題とすれば、ますます家族がからまない殺しの数は少なくなる。
 家族は、人の命を生み育てるところであるとともに、命を奪う可能性っているということであろう。

なるほど。
フィクションだと「積年の恨みを晴らすために殺す」というケースが多いが、じっさいはそんな事件はほとんどない。
心の底から憎らしい人物がいれば、ふつうは「近づかない」「法的な手段に訴える」「殺害以外の手段で攻撃する」などの行動をとる。
たとえば会社の上司が憎くても、殺すぐらいならふつうは会社を辞めるし、エネルギーのある人なら裁判に訴えるかもしれない。あるいは「ぶん殴る」という手もある。殴るのはよくないが、殺すよりはマシだ。

そもそも、憎い相手に一泡吹かせたいとおもったら、殺したってつまらないよね。
こっちは生きたまま苦しむ姿を見たいんだからさ。げっへっへ。

というわけで、殺したいほど憎くて、今後もつきあっていかなきゃいけない相手というと、これはもうほとんど家族に限られる。
親が自分の人生を束縛しようとするとか、配偶者と別れたいけど相手が別れてくれないとか、年老いた親の介護が苦しすぎるとか、「こいつが死ぬか、自分の人生を捨てるか」の二択になってやむなく殺す……というパターンが多いようだ。

もちろん殺人は悪いことだが、彼らが殺人に追い込まれるには「被害者にも問題があった」「助けてくれる家族がいなかった」「行政の手が届かなかった」などの事情があることが多く、加害者自身も反省していることが多いのでニュースとしては(言い方が悪いけど)おもしろみがない。
みんな「極悪非道の殺人鬼が捕まりました。よかったね。被害者かわいそうだね」みたいなスカッと話が聞きたいのであって、「ちょっとめぐり合わせが悪かったら殺人を犯していたのはあなただったかもしれません」みたいな講釈は聞きたくないんだよね。


フィクションだと「金銭目当ての殺人」もあるが、これも現実にはほぼないそうだ。
そりゃそうだよね。
殺すぐらいなら泥棒をするほうがずっと確実だもん。捕まったときの罪も軽いし。
被害者側だって「金を出せ」と包丁を突きつけられたらふつうは金を出す。殺されたら金持っててもしかたないし。
強盗殺人なんて、殺す側にとっても殺される側にとっても割に合わない犯罪だ。
仮に強盗殺人で首尾よく金を奪っても、その金をこっそり使うのもまたむずかしいだろうしね。

殺すことが割に合わない強盗とは違い、保険金殺人は「殺さなくては金が入らない」犯罪だ。
保険金殺人には、殺すだけの正当な(倫理的にではなく論理的に)理由がある。

 保険金殺人については、刑事司法関係者や犯罪学者に聞くよりも、生命保険会社の調査員が詳しい。殺された者が第一被害者であるが、保険会社もまた被害者である。死体の検分は警察の仕事であるが、そこから保険の状況はわからない。はっきりいって、保険金殺人の捜査は、保険会社の調査員が不審に感じることが端緒である。

なるほどー。
保険金殺人を調査するのは保険会社の人なんだな。
ミステリ小説を書くなら、保険会社の調査員を主人公にしてもいいかもしれないね。私立探偵とちがって調査する理由が明確だし、刑事よりも自由に動けそうだし。




「殺人はありとあらゆる殺人の中で最も凶悪な部類。だから当然罪も重いはず」とおもっていたが、意外とそうでもないことをこの本で知った。

たとえば介護疲れから姑を殺してしまった主婦の事件。

 さて、このような殺人者に、いかほどの量刑が適切であろうか。これまでに犯歴もなく、高齢で体調不良の主婦に、ほかの一般人を傷つけるおそれは全くないと言ってよいであろう。治安を守る観点からは、彼女たちを刑務所に入れる必要があるとは到底思えない。ところが、起訴猶予にするか執行猶予判決を出して、釈放すれば、それは彼女たちにとって、よい選択であろうか。彼女たちは、人を殺してしまったという強い罪の意識を持っている。それに対して、罰を与えないで自宅に帰してしまうとどうだろうか。帰宅したそこは、しばしば、犯行現場でもある。自宅に帰った彼女たちが、その場で自殺を遂げるという危険性がかなりの程度存在する。誰か世話してくれる人がいればまかせればいいが、その人がいないから事件が起きているわけで、そのような可能性は低い。したがって、釈放はまずいのである。
 これらのことは、検察も意識していると思われる。短期の実刑を求刑し、裁判官も、その八掛けぐらいの短期懲役刑を宣告する。自首などが伴えば、一年ということさえある。
 自殺防止ということなら、刑務所内ほど適した環境はない。また、ある程度罰を受けた形にしたほうが納得する。時間がたてば落ち着くという効果もある。早いとこ落ち着いたとみれば、刑期の三分の一を越えれば仮釈放可能である。罪の意識はあるが、凶悪な殺人事件とは認識していないので、長期間刑に服さないことに対しては、違和感はないであろう。一つの目安として被害者の一年後の命日は区切りになるであろう。事件後、即日逮捕、全面自供でとんとん進んでも、判決まで何か月かかかるので、刑務所入所後、短期間で最初の命日を迎えることになる。

たしかに。
介護疲れから殺してしまった人は、要介護者が死んでしまった以上、たぶんもう罪を犯さない。殺人にいたった直接的な原因がなくなったのだから。

だが、釈放してしまえば今度は自分を責めて自殺してしまう可能性もある。だから一年ほど刑務所に入れて、自殺をできないようにしながら過剰な罪の意識を癒してやる。

「刑務所=懲罰の場」というイメージだったが、救済の場でもあるわけだ。


そして、人を殺しても刑務所に入らないケースもけっこうあるのだという。

  ここ数年の殺人事件の量刑をみておこう。参考資料は、もちろん『犯罪白書』である。事件数は年間一四〇〇件ぐらい、ほぼ全て解決事件である。そのうち、刑務所に入所するのは、最近増えたが、それでも六〇〇人余りである。殺人事件を起こしても刑務所に入らないほうが多いとは驚きであろう。執行猶予付き有罪が一三〇から一四〇ある。残りは裁判にかけられていない。その最大は、「その他」の理由で不起訴処分になっている。このうち多くは、被疑者死亡と考えられる。無理心中で後追いから、逮捕後自殺まで死亡の仕方は多様である。数えようがないが最大二〇〇ぐらいであろうか。ほかに、その他に含まれる不起訴理由があれば、それだけ減るが思いつかない。ついで心神喪失で不起訴が一〇〇件足らず(二〇〇一年は八七件)。起訴猶予が数十件たらず(二〇〇四年は六四件)、嫌疑不十分で不起訴も何十件かはある。このほか、被疑者が少年の場合、家庭裁判所に送致され、少年院に入所する。その者、約数十人である。

やはり家族間の殺人であれば、再犯の可能性はきわめて低い。
「社会の秩序を乱す者を塀の中に閉じこめて更生させる」という刑務所の目的からすれば、追いつめられて家族を殺してしまった人は収監の必要がないわけだ。

「人を殺してしまった」という結果は重大でも、「殺すか人生捨てるかの状態まで追いつめられたらから殺してしまった」という人は、決して凶悪な人間ではないのだ。

むしろ、振り込め詐欺とか窃盗常習犯のほうが「他人に被害を与えるとわかっていて犯罪に手を染める人間」なので、よっぽど凶悪かもしれない。


バラバラ殺人というのも、その猟奇的なイメージとは逆に、弱い人物による事件が大半だという。

 これには、社会的な条件も加わる。バラバラ事件の多くは、家族内で発生する。飲み屋でのケンカ殺人は、現行犯逮捕されるなど、遺体を隠すことにつながらないし、計画的な殺人は、どこかに連れ出して実行されている。さらに、体力が弱い、つまり女性が犯人であることが多いとすれば、家庭内の事件にほかならない。家のなかに、遺体を放置すれば臭いが耐えられないし、事件発覚につながる。遺体をなんとかしなければならないが、もし、家が一戸建てであれば、庭に埋めるか、床下に埋めるかという選択肢がある。マンション住まいになれば、このような解決策はない。マンション暮らしの女性が、自宅で殺人をやってしまったら、もっとも単純に考え付くのが遺体を切り分けて捨てることである。 つまり、バラバラ事件となる。被害者が、自分の家族であることは、遺体に対する恐怖心を和らげ、それを切断することにも抵抗をあまり感じないでできてしまうであろう。

そういや桐野夏生『OUT』でも、とっさに夫を殺してしまった妻たちが死体をバラバラにして処分するシーンがあった。

読んでいるときは異常な光景だとおもったが、あれは意外とリアリティのある描写だったんだなあ。




『日本の殺人』を読んでいておもうのは、快楽殺人や強盗殺人や強姦殺人のような、我々がふつうイメージする「凶悪な殺人犯」というのは殺人犯の中でも例外的な存在で、大半は平凡な市民がちょっとめぐりあわせが悪かったせいで人を殺してしまっただけなんだということ。

つまり、ぼくやあなたもちょっと状況が変わっていれば人を殺していたかもしれないってこと。
存外、殺人犯予備軍という自覚を持って生きていくことが、殺人から遠ざかる一番の方法かもしれないよ。


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