2020年9月25日金曜日

【読書感想文】犯罪をさせる場所 / 小宮 信夫 『子どもは「この場所」で襲われる』

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子どもは「この場所」で襲われる

小宮 信夫

内容(e-honより)
暗い夜道は危ない―子どもにこう教えている親は多いが、これを鵜呑みにすると明るい道で油断してしまう。犯罪者は自分好みの子を探すために明るい場所を好むのだ。親の間違った防犯常識や油断によって、子どもが犯罪に巻き込まれる危険性は高まる。本書は、本当に知っておくべき「危険な場所」を見分ける方法をわかりやすく解説する。近所の公園、通学路、ショッピングセンター…子どもの行動範囲の中で、どこが危ないのかが一目瞭然になる。

娘が小学生になり、防犯を考えることが増えた。

今まではほぼずっと親がそばにいるか保育園に預けているかのどっちかだったので、娘が誰かに連れ去られるかもしれない……と心配することはほとんどなかった。

だが小学生になるとそうも言っていられなくなる。
平日は基本的に学校または学童保育にいるが、学童保育は「来た子は預かる」というスタンスなので仮に子どもが来なくても連絡してくれない。預かってくれる時間も保育園より短い。
習い事の日はひとりでピアノ教室まで行かなくてはならないこともある。
これから先は子どもだけで遊びに行く機会も増えるだろう。

いやがおうでも「子どもを狙った犯罪」に巻きこまれないよう心配することになる。

……ということで『子どもは「この場所」で襲われる』を読んでみた。
著者は海外で犯罪学を学び、警察庁や文科省でも指導する立場にあるという犯罪学者。




「知らない人についていっちゃだめ」「暗い道には気を付けて」と言いがちだが(ぼくも言っていた)、あまり効果はないそうだ。
それどころか逆効果になることもあるという。

 しかし、そもそも周囲に住居がない場所では、通りが明るくなっても人の目は届かず、逆に、街灯を設置することで犯罪者がターゲットを見定めやすくなってしまいます。
 シンシナティ大学で刑事司法を教えるジョン・エック教授は、「照明は、ある場所では効果があるが、ほかの場所では効果がなく、さらにほかの状況では逆効果を招く」と指摘しています。照明をつけるのが有効かどうかは、その場所の状況次第ということです。
 街灯の効果は、夜の景色を昼間の景色に近づけることです。それ以上でも、それ以下でもありません。つまり、街灯の防犯効果は、街灯によって戻った「昼間の景色」次第なのです。昼間安全な場所に街灯を設置すれば、夜間も安全になりますが、昼間危険な場所に街灯を設定しても、夜だけ安全になることはあり得ません。
「暗い道は危ない」と子どもに教えると、「明るい昼間は安全」「街灯がある道は安全」という二重の危険に子どもを追い込むことになります。子どもの事件は、夜間よりも昼間のほうが多く、街灯のない道より街灯のある道のほうが多いことを忘れないでください。

子どもが犯罪被害に遭うのは暗い道より明るい道のほうが多い、子どもを狙った性犯罪者はまず子どもと接触して顔見知りになることがある、といったのデータが紹介されている。

「知らない人に気をつけて」「暗い道に気を付けて」と言うことは「何度か話したことのある人なら大丈夫」「明るい道なら気を付けなくていい」というメッセージを伝えてしまうことになりかねない。

だから「怪しい人に注意」のような〝人〟に目を向ける防犯ではなく、〝場所〟に注目することが重要だと著者は説く。

危険な場所を見分ける力をつけさせることが重要だという。
子どもが被害に遭いやすい場所とは、「入りやすい」場所と「見えにくい」場所。
たとえばガードレールのない歩道は車で連れ去りやすいので「入りやすい」場所、高い塀にはさまれた道は「見えにくい」場所。

この本を読んで、ぼくも道を歩きながら意識するようになった。
娘の送り迎えをしながら
「ここは歩道がないので入りやすいな」
「この道は人通りもないので見えにくい場所だな」
と考えるようになった。




特に共感したのは、犯罪機会論という考え方。

 このように「人」ではなく、「場所」に注目するアプローチの方法を「犯罪機会論」と言います。犯罪を起こす機会(チャンス)をなくしていくことで犯罪を防ぐという考え方です。犯罪機会論では、犯罪の動機を抱えた人がいても犯罪の機会が目の前になければ、犯罪は実行されないと考えます。人は犯罪の機会を得てはじめて実行に移すと言い換えてもいいでしょう。
 これに対して、犯罪を行う「人(=犯罪者)」に注目するアプローチの方法を「犯罪原因論」と言います。人が罪を犯すのは、その人自身に原因があるという考え方です。犯罪者は動機があってこそ罪を犯すということです。
 日本ではこれまで、防犯については「犯罪原因論」で語られることが常でした。つまり、人が罪を犯すのは動機があってこそなのだから、それをなくすことが犯罪の撲滅につながるのだという考えです。
 もちろん、犯罪者には動機というものは存在します。動機というのは、銃でいうと弾丸のようなものです。動機という弾丸が込められているからこそ、犯罪が起こるのですが、一方で、引き金が引かれなければ弾丸は発射されません。弾丸が込められたところに、引き金として、犯罪を誘発する、あるいは助長するという意味での環境(機会)が重なり、この2つが揃ってはじめて犯罪が行われます。ただ、この弾丸は、程度の差こそあれ、誰でも持っているというのが私の考えです。

大いに納得できる。

部外者からすると、「人」のせいにするほうが楽なんだよね。

「機会」が原因だとすると、絶えず自分や家族や友人が犯罪者にならないかと気を付けなければならない。
自分を戒め、周囲の人を警戒しながら生きていくのはしんどい。
でも「人」のせいなら深く考えなくて済む。
あいつらは生まれもって犯罪者の素質があったんだ、自分とは違う人種だ、絶対に許せない、ああいうやつに近づいてはいけない。はい終わり。

でも、どんな状況におかれても犯罪者にならない人はいないとおもう。

ぼくが(今のところ)犯罪者として生きていないのは、運がよかったからだ。
「あのとき、あいつから誘われてたらたぶんあっちに行ってたな」というタイミングがいくつもある。
書けないけど、「あれがばれてたらヤバかったな」ってこともある。
今ぼくが刑務所にいないのはたまたまめぐり合わせがよかっただけだ。

逆に、犯罪に手を染めてしまった人も、タイミングがずれていたらまっとうな人生を歩んでいた可能性が高い。

教師が児童に対してわいせつ行為をしたニュースに対して、「教員免許を剥奪しろ」という人がいる。
感情的でよくない意見だ。
でも「現場復帰させない」こと自体は悪くない案だとおもう。
教員に対する罰のためではない。むしろ救済措置として。

児童に性犯罪をしてしまう教師って、たぶんほとんどは学校にいなかったらやってなかったとおもうんだよ。
そもそも子どもに欲情しなかったり、したとしてもエロコンテンツで満足してたんじゃないだろうか。
でも学校で働いていて、「子どもが眼の前にいて」「人目にふれずに手を出せる機会がある」からやっちゃったんじゃないだろうか。
もし彼らが子どもとふれあう機会がほとんどないぜんぜんべつの仕事をしていたら、やらずに済んでいたはず。

だから、ただ教員免許を剥奪して放りだすのではなく、教育委員会とかで子どもと直接関わらない仕事につくチャンスをあげたらいいんじゃないかな。
本人だって「欲情してしまう職場」よりもそうでない職場のほうが働きやすいだろうし(それでも「欲情してしまう職場」を選ぶやつは放りだしたらいい)。


わざわざ人の家に入って一万円を盗まない人でも、道端に一万円が落ちていて誰も見ていなければネコババしてしまうかもしれない。
その人は「窃盗癖がある」わけではなく、機会があったから罪を犯した。
なくせる犯罪機会は少しでもなくしておいたほうがいい。
(だからといって「痴漢されるのは、痴漢したくなるような恰好をしている女のほうが悪い!」というのは暴論だけどね)

ぼくは車の運転に自身がない。
何年か乗ったことで多少技術は向上したけど「いつか事故を起こして死ぬか殺すかするんじゃないだろうか」という不安は少しも消えなかった。
だから、仕事で車に乗らなくて済むようになったのを機に、運転をやめた。車も手放した。今後もたぶん車を買うことはないだろう。仕事も家も「車を運転しなくていいこと」を条件に選ぶ。
ぼくという「人」はなかなか変わらないので、人を轢いてしまう可能性のある「機会」のほうを変えたのだ。

「人」ではなく「機会」を改善するという考え方は、防犯以外でもいろいろ使えるかもしれないな。

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