アルジャーノンに花束を
ダニエル・キイス (著) 小尾 芙佐 (訳)
知的障害者のチャーリイが、実験手術を受けた結果、知能が飛躍的に向上する。
平均的な知能になり、さらには常人をはるかに上回る知能を手に入れたチャーリイ。
だが彼の知能が向上するにつれて周囲の人々はよそよそしくなり、チャーリイ自身も失望や怒りを味わうことが増える……。
何度も映像化されている作品だからあらすじは知っていたのだが(鑑賞はしていない)、それでもやはり胸を打つ名作だった。
特にラストの一文の美しさは印象に残った。
物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。この一文にチャーリイの優しさや苦しみがすべて現れている。
まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。
最後の最後でこんなに感動したのは漫画『モンモンモン』の単行本版ラスト一コマ以来だ……(下品なギャグ漫画なのにラストはめちゃくちゃ泣けるんだよ)。
自分の知能が人並みになったことを喜ぶチャーリイだが、やがて周囲の人たちと衝突するようになる。
知能レベルが低かったときには気づかなかった周囲の不正や悪意に気づくようになるのだ。
周囲もまた、これまでは「取るに足らない相手」と見下していたチャーリイが一人前にものを言うことに反発するようになる。
チャーリイと、パン屋の同僚との会話。
ぼくには一歳と六歳の娘がいる。
どちらも楽しく過ごしている(と信じている)が、どっちがより楽しい日々を送っているかというと、一歳のほうだろう。
遊びたいときに遊んで、腹が減ったら泣けば食べ物を与えられ、眠くなったら寝て、嫌なことがあれば大声で泣き、楽しいときは満面の笑みを浮かべる。
楽しそうだ。
一方、六歳のほうは、嫉妬心とか虚栄心とか羞恥心とか自尊心とか複雑な感情にふりまわされて、怒ったり傷ついたりしている。
大人に比べたらよっぽど感情表現が素直だが、それでも「いろいろわかる」からこその苦しみからは逃れられない。
それが正常な発達だとはわかっていても、子どもの成長を見ていると
「成長って当人にとっては苦しいものだな」
と感じずにはいられない。
チャーリイの知能は常人を超え、誰も手の届かないレベルまで向上する。
以前、高学歴大学のほうが学生の自殺率が高いと聞いたことがある。
その話が事実かどうかは知らないが、さもありなんという気がする。
ぼくの大学のサークルの三年先輩に、Kという人がいた。
ぼくはKさんに会ったことがない。なぜならKさんは、ぼくが入学する直前に自殺したからだ。
会ったことはないが、他の先輩を通してKさんの話は何度か耳にした。
「ばつぐんに頭の切れる人だった。ユーモアのセンスもあった」
「あんな頭のいい人はほかに知らない」
日本各地から学生の集まってくる国立大学だったので、学生たちはみんな多かれ少なかれ自分の頭脳に自信を持っている。
そんな人たちが口をそろえて「頭のいい人だった」と言うのだ。
亡くなった人だから美化されていた部分もあるのだろうが、それを差し引いても相当の切れ者だったのだろう。
Kさんがなぜ自死を遂げたのかぼくは知らない。他の先輩たちも詳しくは知らないようだった。
きっと、頭のいい人にしかわからない悩みや孤独があったのだろう。
ウィリアム・ジェームズという人の言葉に
「Wisdom is learning what to overlook.(知恵とは、何に目をつぶるかを学ぶこと)」
なるものがある。
なんでも知っている、なんでも理解できることは必ずしも幸福にはつながらないのかもしれない。
チャーリイの戸惑いは、自分自身の知能が短期間で急成長したこと、そして急激にまた衰えたことに由来している。
これはチャーリイだけが味わっている苦悩ではない。
スパンはもっと長いが、ほとんどの人間が味わっていることではないだろうか。
幼いころ、親は絶対的な存在だった。
決してまちがわない。なんでも知っている。進むべき道を知っている。親の言うことは正しい。
やがて、その考えが正しくないことに気づく。
親も知らないことだらけで、しょっちゅうまちがえて、感情のおもうままに行動し、怠惰で、嫉妬深くて、愚かな、どこにでもいるひとりの人間だと。
思春期の頃に親の不完全さに気づき、その矛盾に憤りを感じる。
「えらそうなこと言ってるくせに自分はぜんぜんできていないじゃないか!」
と。
そこで親と決裂する人もいるだろうが、たいていの人はときどき親と衝突しながらも徐々に受け入れてゆく。
親だけでなく、友だちの親も、親戚のおじさんおばさんも、教師も、テレビでえらそうな顔をしてしゃべっている人たちも、有名スポーツ選手も、作家も、いいところもあれば悪いところもある人間なんだということが少しずつわかってくる。
人間だからいいところもあれば悪いところもあるよね、完璧な人間なんていないよね、と。
社会に対しての接し方も同様。
どんなに正しくまじめに生きていても理不尽な不幸に見舞われることがある。その一方で悪いやつがのさばっていて甘い汁を吸っている。
世の中の不条理さに憤りを感じながらも、たいていの人はほどほどのところで折り合いをつけてゆく。
若いころはぐんぐん成長していくから、成長を止めた大人を見ると怠惰に見えて仕方がない。
ぼくも高校生ぐらいのとき、学業に関しては明らかにぼくより劣っているのにえらそうにふるまう父親を軽蔑していた。
やがて自らも老いると、(少なくとも学習に関しては)成長するのが難しくなり、停滞、そしてゆるやかな下降へと遷移する。
そして認知症を発症すると急激に記憶が失われてゆく。
ぼくのおばあちゃんも認知症になった。
症状が進行した今ではおだやかな痴呆老人になったが、初期の「ときどき正気に戻ることがある」ぐらいのときは不安やいらだちを隠そうともせず、ずいぶん攻撃的になっていたらしい(らしい、というのはその期間はぼくとはあまり会おうとしなかったし母も会わせようとしなかったからだ)。
己の見分や思索が深まる
⇒ 周囲の矛盾や不正に気付く
⇒ 矛盾や不合理を徐々に受け入れる
⇒ 自身の衰えに気づく
⇒ 自身の衰えを受け入れる
この、ふつうの人間なら八十年ぐらいかけてゆっくり経験してゆくステップを、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイはわずか数ヶ月で味わうことになる。
そのショックたるや、どれほど大きなものだろう。
小説の中では、チャーリイの独白という形で丁寧に苦悩を表現している。
ぼくは知的障害者の気持ちも天才の気持ちも認知症患者の気持ちも知らないけど、この状況に置かれたらこう考えるだろうな、といった苦悩がつづられている。
なんたる説得力。
ぼくが小説に対してもっとも重きを置くのは「いかにもっともらしいホラを吹くか」なのだが、『アルジャーノンに花束を』はその点でも超一流のSF小説だ。
説得力十分だからいやおうなく小説の世界に引きずりこまれる。
チャーリイの体験をなぞることができる。
そう、人生八十年をチャーリイと同じく超スピードで駆け抜けることができるのだ。
人生の復習と予習をいっぺんにやったような読後感だった。
改めて書くけど、大傑作。
テーマ、アイデア、構成、人物描写、どれをとっても一級品。
特におそれいったのは文体。
知的障害者の文章から天才の文章まで、変幻自在という感じ。
このエッセンスを受け継いだまま絶妙な日本語にしてみせた翻訳も見事。
魂を揺さぶってくれる小説だった。
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