障害者差別を問いなおす
荒井 裕樹
少し前に、ある車椅子ユーザーのブログ記事がちょっとした話題になった。話題というか、どっちかというと「炎上」だ。
経緯はこうだ。
数年前ならぼくも「車椅子での移動を駅員に手伝ってもらいたいなら事前に言っておけよ! 特別な対応を望むなら極力駅員に迷惑がかからないようにしたほうがいいんじゃない?」っておもってただろう。
でも、昨年読んだ伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』のこの文章を読んで、身体障害に対するぼくのとらえ方は少し変わった。。
車椅子に乗らないといけないことが障害ではなく、「車椅子だと他人に手伝ってもらわないと移動できない」ことが障害だとする考え方だ。
眼鏡やコンタクトレンズがあれば近視の人が障害者でないのと同じように、エレベーターやスロープがどこにでもあって車椅子での移動にほとんど不自由を感じない社会になれば「車椅子に乗らないといけない人」は障害者ではなくなる、という考えだ。
この考え方を知っていたから「これは脊髄反射的に是非を判断してはいけない問題だぞ」とおもった。
「駅員の手を煩わせた」という一点だけを見れば、たしかにI氏の行為は批判されるべきものだ。だがその行為を批判すべき前に「なぜI氏は駅員の手を煩わせる必要があったのか」を知るべきだ。
ということで『障害者差別を問いなおす』を手に取った。
とても勉強になった。
そして、いかに我々健常者の認識が進歩していないかを。
I氏の一件に対して「この人はクレームを言うのが目的だろ」という指摘がたくさんついていた。
「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」という立場だ。ぼくもかつてはこの立場だった。
だが『障害者差別を問いなおす』を読んでわかった。I氏をはじめとする障害者が批判しているのは、まさにおためごかしに「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」という人たちなのだ。
この本は『障害者差別を問いなおす』というタイトルではあるが、書かれているのは障害者差別全般の話ではなく、主に「〝青い芝の会〟の運動の歴史」である。
「青い芝の会」とは、脳性マヒの人たちによる障碍者団体。特に「神奈川青い芝の会」は激しい社会運動により1970年前後には多くの話題を集めた。
「青い芝の会」の行動綱領を読むと、その主張の激しさに驚かされる。
彼らが目指したのは「健常者に居場所を与えてもらう障害者」ではなかった。障害者だからといって不自由を感じることがあってはならない、たとえ車椅子に乗っていても歩ける人と同じ暮らしができる世の中をつくるために闘うことだった。
そのための活動のひとつが、1977~1978年におこなわれた「川崎バス闘争」だ。車椅子利用者が乗車するときには「介護人の付き添い」「車椅子を畳んで座席に座ること」を求めたのに対し、青い芝の会は「ひとりでも乗れるようにすること」「座り慣れた車椅子のまま乗車できるようにすること」を要求し、強引にバスに乗車したり、バス会社と揉めた結果バスの窓ガラスを割るなどしてバスの運行をストップさせたりした事件だ。
これを読むと、前述のI氏の一件や、2017年に起きたバニラ・エア騒動(車椅子利用者がバニラ・エアの航空機を利用する際に車椅子に乗ったままの搭乗を拒否されたことに対して抗議した)などはなんと穏便なことだろうと感じる。
「車椅子での乗車を拒否されたから力づくでバスの運行を妨害する」と聞いて、どう感じるだろう。
ほとんどの人は「もっと紳士的なやりかたがあるだろうに」と感じるだろう。ぼくもやはりそうおもった。「いくらなんでもそれは無茶だよ」と。
だが「青い芝の会」が痛烈に批判したのは、まさにそういう人なのだ。
「むやみに敵を作っても賛同者は集まらない。もっとスマートなやりかたがあるだろ」の人たちは一見障害者に対して理解があるようでじつは完全に障害者を下に見ている。その自覚すらない。
それは「健常者からかわいがられる障害者になりなさい。そしたら我々が持っている権利の一部を障害者にも分け与えてあげよう」という立場なのだ。
「女の子はにこにこしてたほうがいいんだよ。愛嬌のある子のほうがみんなから好かれるよ」
というのと同じで、対等なものとは見ていない。言葉は悪いが、ペットと同じ扱いだ。
この「川崎バス闘争」を読んで、ぼくは高校生のときに英語の教科書で読んだモンゴメリー・バス・ボイコット事件を思いだした。
白人と黒人で座席が分かれていたアメリカで、ローザ・パークスという黒人女性が黒人優先席に座っていた。運転手から白人のために席を空けるように指示されたパークスが拒否し、警察に逮捕された。これに抗議するためにキング牧師がバスのボイコットを呼びかけ、さらには人種隔離政策に対する違憲判決につながった。
「川崎バス闘争」はまさに「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」と同じだとぼくはおもう。
今、多くのバスでノンステップ型が採用され、車椅子やベビーカーのまま乗れるのがあたりまえになっている。ぼくも子どもが小さかったときはベビーカーを押して移動したからお世話になった。これは「青い芝の会」をはじめとする先人たちの闘いがあったからこそ享受できている利便性ではないだろうか。
アメリカでは黒人が奴隷扱いを受けていた。だが多くの人の闘争により、奴隷から解放された。
もしも黒人たちがずっと「白人のご主人様に立ち向かってたら、嫌われるだけだよ。嫌われないようにもっとうまくやらなくちゃ」というスタンスだったなら、きっと今でも「昔よりは若干待遇のよくなった奴隷」のままだっただろう。
人権が制限されるかもしれない状況というのは、いってみれば「生きるか死ぬかの瀬戸際」だ。どんなことをしてでも人権を守らなければならない。たとえ暴力を使ってでも。
暴漢に喉元にナイフをつきつけられている人に「暴力で抵抗するのは良くない。もっとスマートなやりかたをとるべきだ」と言えるだろうか。人権が制限されている人の闘争に「もっとスマートなやりかたを」というのは、それと同じことだ。
先述のI氏も、バニラ・エア事件を引き起こした車椅子男性も、バスの運行を妨害した「青い芝の会」も、おそらくわざと事を荒立てたのだろう。
あえてトラブルになるような方法を選んで。
だが、これを「クレーマー」の一言で片づけてはいけない。事を荒立てないと、一部の人の人権を制限し、制限していることにすら気づかない社会にこそ問題があるのだ。
そう、こういう人がいなければぼくらの多くは自分が差別者であることにすら気が付かない。
「すべての駅を車椅子に乗ったまま利用できるようにすると金がかかるから、車椅子ユーザーは前日までに何時に駅に着くので介助よろしくと伝えなければならないのはしょうがないよね」
という差別発言を、それが差別だということに気が付かずに口にしてしまうのだ。
……とはいえ日本にひとりしかいない病気の人でも快適に暮らせるようにするためのシステムをすべての施設に設置すべきかというとさすがにそれは無理なのでどこかで線引きをする必要はあるんだろうけど……。
この本を読んでつくづくわかる。
自分はずっと差別をしているのだと。そしてそのことにまったく無自覚であると。
「気が向いたときにふらっと電車に乗れる人と前日までに細かい日時を指定しないと電車に乗れない人がいる」ことを、なんともおもっていなかったことに気づかされる。
恥ずかしながら、ぼくもこのブログで「○○は社会の問題だ」「国が救わなくてはならない」なんてものの言い方をしていた。
そこにはまったく当事者意識がなかった。無意識に「ぼく以外の誰かがなんとかしてくれ」とおもっていた。
そのことにも気づかず、自分は他人を思いやることのできる想像力豊かな人間だとおもっていた。とんでもない。いちばん無責任なのはぼくじゃないか。
かつてぼくは「障害を持った児童は基本的に特別支援学校に入れたほうがいい」とおもっていた。もちろん自分の子どもに障害があれば、特別支援学校に入れるつもりだった。
そちらのほうがよい教育を受けられるとおもったから。
だが、この文章を読んで自信がなくなった。
ふうむ。
少なくとも「ぜったいに特別支援学校のほうがいい」とは言えないかもしれない。だからといって青い芝の会のように「ぜったいに特別支援学校がダメ」とも言えないとはおもうけど。
中学生ぐらいだったら自分で決めたらいいんだろうけど。でも六歳児には決められないよなあ。どっちがいいんだろう。ぼくの中でまだ答えは出ない。
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