2021年1月20日水曜日

【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

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原発労働記

堀江 邦夫

内容(e-honより)
「これでは事故が起きないほうが不思議だ」。放射能を浴びながらテイケン(定期点検)に従事する下請け労働者たちの間では、このような会話がよく交わされていた―。美浜、福島第一、敦賀の三つの原子力発電所で、自ら下請けとなって働いた貴重な記録、『原発ジプシー』に加筆修正し27年ぶりに緊急復刊。


 いい本だった。ものすごく読みごたえがある。これぞプロレタリア文学、という読後感。

 著者は1978年から1979年にかけて美浜原発(福井県)→福島第一原発(福島県)→敦賀原発で働き、その体験記を『原発ジプシー』として発表。絶版になっていたが、2011年の福島第一原発事故を受けて内容の一部を削除して再刊したのがこの本だ。


 2011年3月の東日本大震災の影響で福島第一原発で事故が起こったことはみんな知っているだろう。
 ぼくは「想定を超える大きな地震と津波が起きたせいで事故が起こった」とおもっていた。だが『原発労働記』を読んでその認識は変わった。たしかに地震と津波は事故の引き金になったが、もし地震が起きていなくてもいつか必ず事故は起きていただろう。




 実際に現場で働く労働者から見た『原発労働記』を読むと、その安全管理の杜撰さに驚かされる。

 作業は、線量の関係でもう従事できないと言われていた「雑固体焼却助勢」。計画線量が当初の一〇ミリレムから、三倍の三〇ミリレムに引き上げられたという。実際に浴びた線量が計画線量をオーバーしかけると、その労働者を作業から外すのではなく、逆に、計画線量のほうを上げてしまう……。所詮、「計画線量」とは、この程度のものでしかないのだろう。
 木村さんが「IHI」(石川島播磨重工)の下請労働者として福島原発で働いていたときのことだ。そこの労働者たちは、現場に着くとポケット線量計やアラーム・メーターなどをゴム手袋に詰め、それをバリア(木製の箱)の下に隠してから作業にとりかかっていた。五〇ミリレムのアラーム・メーターが一〇分で〝パンク〟するような高線量エリアで、一時間から二時間の作業。が、ポケット線量計の値は、二〇~五〇ミリレム程度。彼らはその値を一日の被ばく量としてそのまま報告していたという。
「最初はオレだって、そんなことやらなかったよ。でも、みんなやってるんだし……。会社の者もなにも言わんしねえ」

(注:100ミリレムは1ミリシーベルト)

 こんな話ばかり出てくる。
 電力会社は「厳しい基準で運用されているのでぜったいに事故が起こることはありません」と主張している。たしかに厳しい基準はある。だが、問題は現実にその基準が守られていないということだ。

「一定以上の被曝をした労働者は働けない」というルールを作ったって、
「あと五分だから」「せっかく来てもらったのに追い返すわけにはいかないから」「人手が足りないから」となんのかんのと理由をつけて破られる。
『原発労働記』には、

「検査の結果、基準値を上回ったから何度も検査を受けなおさせる。基準値を下回るまで再検査をする」

「放射能測定器が壊れていたから基準をオーバーする放射能を被曝してしまったが、そのまま報告すると始末書を提出しないといけないので嘘の数値を書くように指示された」

「息苦しくて作業にならないので全員規定のマスクを取って作業している」

「急に汚染水があふれたから防護服を着ないままあわてて水をかきだした」

といったエピソードがくりかえし語られる。
 めちゃくちゃ杜撰だ。これでよく「原発は安全です」なんて言えたものだ。


 原発に限らず、どんなルールもどんどんゆるくなるのは世の習わしだ。当初に作ったルールが何十年も厳密に守られることなんてない。まして現場を知らない人間が作ったルールなんて。

 今の新型コロナウイルス対策だってどんどん基準がゆるくなっている。当初は「〇人以上の新規感染者が出たらレッドゾーン」みたいなことが言われていたのに、感染者数が増える一方だからその基準はどんどんゆるくなり、とうとう最近では国や都道府県は明確な数字を言わなくなった。やっていることは四十年前とまったく変わっていない。




 そもそも、ルールをばか正直に守るメリットがまったくないんだよね。
 厳密に基準を守っていたら、人手が足りなくて原発が運用できなくなる。労働者も、働けないと給料がもらえない。
 働かせる側も働く側も、嘘をつくほうがメリットがある。これでルールを守るはずがない。

 そして、どんどん環境が悪くなっていく。

  過酷かつ危険な仕事をしているので、原発労働者の体調が悪くなる
→ 働き手が減る
→ 人手が足りないから無理して働かせる
→ 事故や健康被害が増える
→ さらに働き手が減る
→ 労働者が集まらないからいろんなところに声をかける
→ 仲介会社が入ることで労働者の給料が減る
→ ますます働き手が減る

という悪循環。

 病院にむかう車のなかで、安全責任者は「治療費の件だけど……」と、つぎのようなことを話しはじめた。
「労災扱いにすると、労働基準監督署の立入調査があるでしょ。そうすると東電に事故のあったことがバレてしまうんですよ。ちょっとマズイんだよ。それで、まあ、治療費は全額会社で負担するし、休養中の日当も面倒みます。……だから、それで勘弁してもらいたいんだけど、ねえ」
 そして彼は、二、三年ほど前に福島原発内で酸欠事故が発生し、「そのときには新聞にジャンジャン書き立てられて、そりゃあ大変でしたよ」とつけ加えた。
 なぜ彼がこの例を引き合いに出したのか、その理由は明らかだ。もしあんたが労災でなければいやだと言い張ったなら、事故が公になり、東電に迷惑をかけることになる。そうなれば会社に仕事がまわってこなくなり、最終的には、あんた自身が仕事にアブレることになるんだぜ」ということを暗にほのめかしているのだ。事を荒立てるな、そっとしておけ、そうすれば八方丸く収まるではないか……。ここに原発の「閉鎖性」が生まれてくる土壌があるようだ。

 ここに書かれている原発の実態は、ごまかしと隠蔽ばかりだ。
 原発内で事故があっても救急車を呼ばない。付近の住民やマスコミに知られて「やっぱり原発は危険だ」とおもわれたくないから。原発構内でゴミを燃やすと煙が上がって近隣住民に嫌がられるので、外に持っていってこっそり燃やす。

 安全や生命よりイメージ操作に腐心している。「原発は安全だ」という嘘のイメージを守るために、安全性を犠牲にしている。本末転倒だ。


 原発労働者は常に危険にさらされている。

 昼休み。いよいよ原発内で働くことになりそうだ、と、私をこの職場に紹介してくれた石川さんに話す。彼は開口一番、「そりゃ、良かったなあ」と言い、その直後に、「でも、良かったって言えないかもしれんなあ……」と、つぎのようなことを話してくれた。
「管理区域内には、キャビティと呼ばれる大きなプールがある。燃料棒を入れとく所だ。定検が始まると、そこの水を抜き、壁面を掃除する仕事があるんだが、これが実にシンドイ。潜水夫みたいに、空気を送るホースのついたマスク――エア・ラインというんだけど――をつけ、上から水が滝のように落ちてくるなかで、壁面をウエスで掃除するんだ。まあ、人間ワイパーみたいなもんさ。
 けど、堀江さんもこの仕事やるかもしれんから言っとくけど、気いつけんならんのは、エア・ホースから空気が来なくなることがあるんよ。ホースが折れたり踏まれたりでね。これがこわい。じゃあどうするか。まずは、エア・ホースを思い切って引っぱって、プールの上にいる者に合図することだ。それでもダメな場合は、マスクを脱いじゃうことだな。放射能を吸い込んじゃうって? その通りさ。……でも、だよ。空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。なっ、そうだろ」
 石川さんは、そのあと私に、いかにして素早くマスクを脱ぐか、そのためにはマスクはどのようにつけたら良いか、といったことを具体的に教えてくれた。〝少しでも長く生きる〟ためのギリギリの生存方法を――。

 こんなふうに「どっちも危険だけどどっちがまだマシか」という選択を常に迫られている。
「酸欠でぶったおれるほうがマシか、マスクをはずして放射能を浴びるほうがマシか」とか。


 そして当然ながら筆者たちも身体を壊している。白血球数が減少した、歯ぐきから血が出た、目まいがする……。
 身体を壊した労働者に対する電力会社からの補償は、ない。




 この本を読んでよくわかった。そもそも原発は無理があったのだ。最初から。
 地震が起きなくても、いつかは必ず大事故を起こしていた。

 メルトダウンまでいかなくても、小さな事故はしょっちゅう起こっている。
 そのとき、実際に対応する現場の人間はほとんど正しい知識を持っていない。

「そのサイクルなんとかいうのは、どんなテストなんだい」と、別の男の声。
「いや、ただね、そう新聞に書いてあったんよ。まあ……、運転前のいろんなテストじゃないのかなあ……」
 なんとも頼りない答えに、今度はバスの前の方から、「そうだよな、わしらが詳しいことを知ってたら、こんな仕事してないもんな」という声が飛んだ。
 このやりとりに、それまで静かだった車内が大爆笑となった。しかし、車内がふたたび元の静けさにもどったとき、「わしらが詳しいことを知ってたら……」のひとことが、なぜか妙に私の心に引っかかってきた。
 三日前、初めて「高圧給水加熱器」のピン・ホール検査をやったとき、この装置がどのような働きをするものなのかという疑問に、先輩の西野さんや、四年間も発の作業をしてきた石川さんでさえ、「わからん」と口を濁してしまっていた。
 近代科学の粋を集めたといわれている原発だから、それなりの高度で複雑な構造をもっていることはわかる。だが、自分たちがなにをやっているのかもわからぬままで仕事をしていることほど、「おもしろみ」のない労働もない。こんな疎外された労働、だからこそ、石田さんがグチをもらすのではないかと、ふと思った。


 この本を読んでまだ「日本に原発は必要なんだ」と言える人がいるだろうか。


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